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2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

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このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2023年3月27日 (月)

WBC春の快挙と遠い日の草野球

今年の春はなんてったってWBCで、ちょっとものすごい盛り上がりを見せております。昨年のサッカーワールドカップは、SAMURAI BLUEが、世界の強豪チームと互角に闘う大活躍で、世の中サッカー一色になり、野球への関心はかなりかすみ、WBCってなんだっけみたくなってたんですが、今年の春の開催に向けて、大谷とダルビッシュの出場が決まったあたりから、俄然注目度が増します。
いざ試合が始まってみると、これが強いこと強いこと、侍ジャパンの中心にいるのは大谷翔平くん、164km/hのストレートを投げたかと思えば、打てば150m級のホームラン。まあ大リーグでもベーブ・ルース以来の大スターですから、この人を主役に日本中を、いや世界中を巻き込んだ歴史的な大会にしていると言っても過言ではないわけであります。
そしてつい先日、軒並みメジャーリーガーを揃えたチームメキシコを逆転サヨナラで破り、その勢いのまま、メジャー最強軍団アメリカチームを撃破して世界一になってしまいまして、こいつあ春から縁起がいいやと、日本中大騒ぎ、久しぶりに野球見て泣いた。そうこうしているうちに選抜高校野球も始まりまして、そのうちプロ野球も開幕しますから、今まさに球春まっさかりとなっております。
私たちの世代は、子供の頃から、ちゃんとしたグローブもバットもなくても、集まって野球をして遊んだ人たちでして、このゲームを知らない奴はいません。だからみんな何らかの形で野球をやった経験があります。今の子供達にはいろんな選択肢があるんでしょうが、我々はなんだかまず野球でしたね。その中には、当然上手い奴もいれば下手な奴もいるんですが、ともかくみんなでやるわけで、その頃テレビで観れるスポーツ中継は、野球と相撲くらいでしたし、人気のスポーツといえば野球という時代です。
そんな時代だったもんで、働き始めた会社にも、草野球だけど野球部というのがあって、時々早朝の神宮外苑絵画館前の草野球場で試合があったりしたんですね。まあなんだか忙しくて小さい会社だし、試合だと頭数を揃えなくちゃいけないわけで、若いというだけで、朝から呼び出されたりしていました。中学以来キャッチボールくらいしかやってないのと、基本ヘタクソな上に、いつも二日酔いでしたから、ただ立ってるだけみたいなもんでしたが。
この会社はテレビのCMを制作してましたが、皆さんけっこう激しく働き、また、けっこう激しく酒を飲む人たちでもありました。仕事にもそうですが、野球にも妙に情熱的なとこがあって、チームを強くしようと、たまに合宿なんかもやっていましたね。
働き始めて何ヶ月かした頃、制作部長で野球部の監督でもあったオカダさんが、若者を一人スカウトして連れてきまして、このマンちゃんという若者は元高校球児ということで、野球部的には期待の新人だったんですね。彼の仕事は制作部の一番下っぱで、すでにいた私と一緒に働き始めまして、こっちの方が何ヶ月か先に入ってましたから、仕事を教えてあげたりして、多少先輩風も吹かしてました。
それからしばらくして、早朝野球に彼がやってきたんですけど、その日は試合じゃなくて練習で、シートバッティングをやってました。順番に打席に入って球打って、打ち終えたら自分の守備位置に行って守るみたいな流れでやる練習でして、そのとき期待のマンちゃんがマウンドに上がってピッチングを開始したんですが、明らかにレベルが違ってるのがわかりました。私の順番が来て打席に立ったんですけど、球が見えなくてミットに入った音だけ聞こえました、マジ、速えわ。

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それもそのはず、マンちゃんは本物の野球小僧で、高校3年の時には、夏の甲子園大会の富山地区予選決勝戦を戦い、最後に敗れたんだそうです。彼は外野手で控えの投手でもあり、5番打者だったそうで、試合の最後に相手チームが放ったサヨナラヒットが、頭上を超えていった時に、マンちゃんの夏は終わったそうで、その時の夏の入道雲をバックに消えていった白球の映像を忘れていないと、まるで沢木耕太郎のスポーツドキュメントのようなコメントを、後々どこかの居酒屋で聞くことになります。
いろいろな補強が功を奏し、野球部は強くなってきて、CM制作会社連盟の大会でも優勝を争うようなチームになります。だんだん野球経験の豊富な新人社員も入ってきて、その中でもマンちゃんは中心選手でチームの強化には欠かせない存在であり、野球の応援に来ていたマンちゃんの彼女は、やがて奥さんになり、その結婚披露宴の司会をやらせていただいたりしましたが、野球の方では私は必要とされなくなり、ま、立ってるだけですから、自然と戦力外になっていきました。
しかしマンちゃんとは、よくよく縁が深かったと言わざるを得ません。この人と私は会社でも数少ない同じ年の生まれですが、彼は早生まれなんで一学年上です。なんで会った時に私よりちょっと後輩になったかと云えば、大学に2年多めに行ったせいで、余分の大学生活送ってる時にバーテンやっていて、そこのバーで岡田さんにスカウトされておんなじ職場になったようなことです。
それ以来ずっと今まで同じ職場にいるもんで、前に演出のセキヤさんから、
「君たちは、どっちが先輩なの?」と聞かれたことがあって、
「僕の方が数ヶ月だけ先です。」と云ったら、
「ああ、この業界は15分でも先の方が先輩だからね。」と云われましたが。
ただ、早い時期から、どう見ても私より兄貴キャラのマンちゃんが、私をさん付けで呼ぶのは、どうも居住いが悪かったんですね。同じ一番下っぱで苦労してて仲良くなった頃に、彼が高い洋酒を奢ってくれたことがあって、二人で意気投合してボトル空けて、けっこうベロベロに酔って別れた次の日の朝、会社で会ったら私はちゃん付けで呼ばれてて、ちょっと楽になって、そのまま今に至ってるわけです。
それから10年くらいして、30代になって、一緒に新しい会社作って独立したんですけど、これはこれで大冒険でいろいろありましたが、この時もマンちゃんは大活躍で、新会社もどうにか軌道に乗りました。
なんだか、WBCの世界最高峰の野球に感動しながら、いつかの神宮外苑の二日酔いの早朝草野球を想い出してたんですね。

2022年7月26日 (火)

私的 東京・多摩川論

最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると きいた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 火をともす

何も思わずに 電車に飛び乗り
君の東京へと東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました

東京へはもう何度も 行きましたね
君の住む 美し都
東京へはもう何度も 行きましたね
君が咲く 花の都・・・・

「東京」という唄の一節なんですが、あんまり覚えてないんですけど、私が高校出て東京に出てきた時分に流行っていた曲で、その頃の、いわゆる地方から東京を見ている気分がわりと出てる曲と思います。調べてみると1974年のリリースで累計100万枚というから、けっこうヒットしたんですね。
この唄の記憶が色濃くあるのは、むしろそれから何年かあとに、仕事で知り合って仲良くなって深く付き合った友達が、カラオケでよく歌っていたからで、彼も私と同じ頃に東京に出てきた人で、札幌から上京した地方人でした。大学を出て、劇団の演出部に行ったけど、少しあとに出版社の宣伝部に入って、その時に知り合いました。大切な得難い友でしたが、それからしばらくして30代の半ばに不慮の事故で他界してしまいました。この唄を聴くと、なんだか彼のことを思い出すんですね。
今もそういうところがありますが、日本中の若者が、いろんな意味で東京を目指すという構図があった頃で、東京は当時の若者にとってかなり特別な場所でした。
個人的なことを云えば、広島の高校生だった自分は、地元の国立の大学を受験したんですが落ちて、たまたま国立大の合否発表の後に受験できる私立の大学が東京にあって、そこに受かったわけです。東京には子供の時に3年くらい住んでたことがあったけど、なんだかあんまりいい思い出がなくて、東京に行くことにはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、他に行く学校もなく、これも何かの縁だと思って出てきたんですね。地元の大学に行っていれば、学費も下宿代も余分にかからなかったから、親には迷惑をかけたんだけど、そういうことになったわけです。
しかし、考えてみると、それから今までの約50年間、ずっと東京で暮らすことになってしまって、子供時代の3年間を加えても、人生の8割方、東京の住人であることになります。
でも、あなたの出身地はどこですかと問われると、東京ですとは答えられないんですね。子供の頃住んでた神戸や広島がそうかもしれないけど、わりと定期的に転校していたし、一番長く住んでるのは東京ではあるんだけど、東京という地名に対しては、郷愁とかなくて、なんだかよくわからないけど一種の緊張感があります。
けっこう長い間、そういう感覚があったんですけど、たとえば西の方から新幹線に乗って帰ってくる時、多摩川を渡る時、さあここから東京だという時、心なしか緊張している自分がいます。この街に帰ってくるというより、入って行くということなのかも知れないけど、この街の風景が持っているスケールとか、底の見えない奥深さとか、いわゆる大都会の顔つきのせいでしょうか。
さすがにこれだけ長くここに住んでいれば、少し慣れたところもあって親しみもありますが、たぶん東京出身の友人とは、ちょっと違うところがあって、それは10代の終わり頃に、どこかの川を渡ってこの街にやってきたことじゃないかと思うんです。私の場合、多摩川なんですけど。
それで最初に住んだのが、多摩川の土手が見える場所でしたからよけいそうだと思うんです。そこから一番近い多摩川にかかってる橋は、丸子橋という橋で、近くに巨人軍のグランドがあったりしました。その橋と並んで東海道新幹線が走ってましたから、新幹線からも丸子橋はよく見えるんです。
そこで暮らし始めた年の秋から、「それぞれの秋」というテレビドラマの放送が始まったんですけど、そのタイトルバックの風景がまさにその丸子橋だったりして、個人的には馴染みの深い橋だったり川だったりしたんですね。
このドラマの脚本は山田太一さんでしたが、非常に新しくて面白いドラマでした。山田さんのドラマはこの界隈を舞台にされてることが多くて、そののち、1977年には「岸辺のアルバム」が放送されますが、多摩川が決壊して、主人公一家のマイホームが川に流されてしまうシーンは、ドラマ史に残る有名なシーンです。
それから、1983年に放送された「ふぞろいの林檎たち」は、多摩川堤の私が通っていた名も無い私立工業大学がドラマの舞台になっておりまして、テレビを見ると母校でロケがされていたので、間違いなくそうなんですが、脚本を買って読むとまさに私の大学がモデルになってることがよくわかりました。その学校に通う若者たちが主人公の群像劇で、彼らの挫折や鬱屈や友情や成長が描かれています。このドラマはその後シリーズ化もされた名作ですが、個人的には、不思議と自分の多摩川の青春とダブるのですね。

さて、今はどんなことなんでしょうか。
東京はいっときとして同じ姿をしていませんが、この街の大都会ならではの魅力は変わらず、その豊かさも華やかさも、片やその胡散臭さも含めて人を惹きつけますよね。
今もまた、多くの若者が、どこかの川を渡ってやって来てるのでしょうかね。

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2022年2月18日 (金)

年賀状という習慣

2022年という年も明けましたが、すでに2年にも及ぶ厄災は未だ収まらず、ウイルスはさらなる進化を続けているようです。我々としては、ともかく、感染のリスクを避け、あまり出歩かず、うちに籠る暮らしですね。
一月になって、年賀のご挨拶に出かけるでもなく、いただいた年賀状を見返したりして過ごしておりましたが、このところ長くお会いしていない方も多く、なんとなく年賀状で安否を確かめてるようなところもあります。
そういえば、年賀状の習慣ていつごろからなんでしょうか。自分が子供の頃から、大人たちは年の瀬になるとせっせと書いていましたし、正月の郵便受けには、束で届いているのが風物詩でした。個人的には、自分から進んで書くような若者でもなかったですが、社会に出て、お世話になっている目上の方や、しばらく会えていない友達などに、書くようになってくるんですね。その頃、年始の挨拶や年賀状の習慣は、今よりもずっと一般的でしたし。
そうこうしているうちに、人の付き合いは増えていきますので、気がつくとかなりの枚数を出してた時期もありましたが、だんだん疎遠になって途切れる方もいらっしゃいます。そもそもこの慣習にあまり積極的じゃなくなってきた世の中の風潮もあります。新年という節目にあんまり特別感を抱かなくなっていたり、わざわざ年賀ハガキを買って、宛名を書いて送らなくても、メールでもLINEでも、お年賀の挨拶できますもんね。
ただ、お正月の郵便受けに年賀状が束で入っていると、なんだかやっぱり嬉しいのは、長年の習性からでしょうか。その束を抱えて炬燵に座って(今はわりと炬燵はないですけど)一枚ずつながめて、いただいた方の顔を浮かべると、なんともいえない安らぎがやってきます。
そういうこともあって、長年、賀状のやりとりさせて頂いてる方にも、近年にお付き合いの始まった方にも、基本的には賀状をお出ししております。毎年、先方に元日に届くよう年末のうちにきちんと発送しておく性格でもなく、いつもちょっと遅れめではあるのですが。
枚数は徐々に減少傾向にありますが、やはりどうも、これをキッパリやめにしてしまうのもためらわれます。私どもの年代では、本年をもちまして年賀状のご挨拶は終了させていただきますと、記載される方もあり、それもすごく納得できますし、できればそうしたいくらいでもありますが。
そもそも若い人にはその習慣はあんまりないようですし、ゆくゆくは世の中からなくなってしまうのかもしれませんね。この先のスマホの普及率を考えれば、新年の挨拶はそれで十分で、手間もかかりません、絵文字でアケオメとか云って。お正月のお年賀の意味もちょっと変わってくるんでしょうか。
ただ初詣には、みんなわりとちゃんと行くんだけどね。雑煮も食べるし。

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2021年5月21日 (金)

オーベルジュ・トシオ

こうなってくると、日々の暮らし方としては、ともかく用もないのに出かけないこと、できるだけ家にじっとしていること、なるべく人に会わずにですね、会食をしたり、酒盛りをしたりは、もってのほか、この厄災が去って行くのをひたすらに待つことなんですね。
要は、余計なことは思いつかないようにして、家でおとなしくしてろと。
ただ、こう長くなってくると、たとえば感染リスクを避けながら、違う環境に自分の身を置けないものかと、多少ジタバタしてまいります。
そんな時、ときたまお世話になって、気分転換ができてありがたいのが、私が秘かに「オーベルジュ・トシオ」と呼んでる信州の山小屋なんですが、これ、ある友達の別荘なんですね。
この人は、基本的に東京で生活してるんですけど、この山小屋の季節季節の管理は自分でやっていて、ちょくちょく山にこもっていろいろ仕事してるんですが、今回のコロナ禍が始まった頃、東京から避難する意味もあって、ひとり山小屋に籠ったんです。普段から全くそんなふうには見えないんですけど、どうも体質的に疾患があって身体が弱いということで、やはり避難なんだそうです。そういうことならば、退屈しのぎにでもなればと、たまにごく少人数で寄せていただいておるわけです。
場所は八ヶ岳の麓の原村、信州の四季を満喫できる素晴らしいところでして、この友人は、さしずめこの山小屋のオヤジといった役回りなんです。それで、このオヤジが出してくれる食べ物が、街で人気の居酒屋のレベルでして、仕入れも作る手際も、ちょっと驚きの研究開発がされております。彼そのものが、昔から酒飲みで、うまいものが大好きでしたし、食材や調理法にも、好奇心が強くて勉強熱心でしたから、我々はオヤジが長年試行錯誤して完成させた成功作を振る舞ってもらってるわけです。

この、Kネコ トシオさんという人がどういう友人かというと、お互い20代の前半には出会っておりまして、私がTVCM制作会社の駆け出しの制作部だった頃、よく現像済みのフィルムを現像所に取りに行っていたんですけど、その現像所のカウンターで上がったフィルムを渡してくれるのが、短パンにランニング姿のトシオさんだったわけです。現像が込み入ってる時には、いつまで経ってもフィルムが上がってこなくて、ずいぶん待たされるんですが、カウンター越しにこの人に、
「まだですかー!」と怒鳴れば、
「まだだよおー。」みたいなことで、
顔はよく知っていて、年齢も近かったけども、特に仲が良いということでもなかったですね。
その頃、テレビのコマーシャルは、いわゆるテレビカメラで撮影するんじゃなくて、全部35mmのフィルムで映画用のカメラで撮って、最後の納品もフィルムでしたから、当然フィルムの現像も、スーパーを入れたりする加工も、全部現像所でやっており、それを制作している私たちもテレビのコマーシャルを作っているテレビ屋さんというよりは、フィルム屋さんと云った風情だったわけです。
そのうちトシオさんも、その会社でCM業務の営業担当になって、こちらも制作部として多少仕事がわかるようになってきて、いろんな局面で仕事の協力をしていただく用になりまして、時々酒飲んだりして、仲良くなってくるんですね。
この人はもともと職人気質な人で、実に現像に関するケミカルな知識や情報も豊富だし、いろいろ仕事が難しいことになっても、決して諦めずにしぶとくやってくれる人で頼りになりました。
そんなこんだで、私達が立ち上げた映像制作の会社も、彼の会社と強い信頼関係ができて、その後、CM映像の世界はケミカルからデジタルハイビジョンになってもいきますが、気がつくと、ずいぶん長い仕事のお付き合いになってたんです。

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仕事としてはそういうことなんですけど、この人はおいしいものを食べて、おいしい酒を飲むということには、まあ実に貪欲で、手加減しない人なんですね。それでもって、根が職人肌だから、なんか美味いもんを食べると、自分で作ってみるわけでして、そういうデータが積りに積もってますから、原村高級居酒屋「オーベルジュ・トシオ」となってるわけです。
正直、この人が会社を退職したら、居酒屋とか開いちゃうかもとか思ってたんですけど、それに関しては、彼の賢い妻が、それだけは絶対にうまくいかないと予言したそうで、確かにこの人が店やると、仕入れとか段取りとか、えらくこだわって頑固そうだし、客の好き嫌いもはっきりしてそうだし、料理は美味しそうだけど商売はなかなか大変だから、確かに奥さん正しいかもね。
山小屋の方は、この調子でこの人が細かくコツコツとメンテナンスしてるので、実に快適な状態で、行く度ごとに季節の違う風景を見ることのできる、得難い場所が出来上がっています。
多分、性格的にも私にはこういうことはできないだろうけど、気がつくとなにかと自分の家のように寄せていただいてまして、昨今の世の中で、大変助けられてる次第です。
この建物は、彼と彼のお兄さんが若かった時に、この土地にやってきて一から作ったんだそうです。実は、そのお兄さんは、私にとって同業他社の先輩でありまして、ご縁があって昔よくお世話になっていましたから、この山小屋の話はよくお兄さんから聞いていたという経緯もありました。そのお兄さんは、残念ながらしばらく前に亡くなってしまいましたが、不思議なご縁も感じます。
そう云ったことのおかげで、今、きれいな空気の自然の中で、おいしいものを食べて飲んで、よく寝て、、、ありがたいことです。

持つべきものは、職人肌の料理好きな飲んべえの、山小屋持ってる友達だね。

という話なんですけど、

ま、探して見つかるもんじゃないということは、わかります。

2020年12月21日 (月)

さよならAzzurra 、お世話になりました

私たちの会社が、六本木から、ここ神宮前3丁目に越して来たのは、かれこれ17年ほど前なのですが、新参者の我々が、ご近所ですぐに仲良くしてもらったのが、3軒隣のビルの地下にある「アズーラ」というイタリアンレストランです。おいしいのはもちろんで、青い壁のお洒落なレストラン(Azzurraはイタリア語で青い)なんだけど、当時流行り始めていた、わりと気取ったイタリアンじゃなくて、すごくさばけた感じで、云ってみればちょっとイタリアの裏町の居酒屋っぽくて、私たちと合いそうな気がして、勝手に、ここを社員食堂と呼ぼうなどと、言いたいことを言っておりました。
お店は、サイトウさんご夫婦と、アシスタントスタッフ二人で切りまわしておられ、厨房はご主人が、フロアは美人の奥さんが担当で、いつも気持ちの良い仕切りで料理が出てきます。僕らが越してくるだいぶ前から、ここにお店があったみたいで、すでにファンの沢山いる評判の良いレストランでした。
ご夫婦は、とても気さくで面白い人たちで、すぐに友達のように親しくさせていただき、ご主人は僕より少し年上で、マスターとかシェフと呼び、奥さんは同年代なのでキョウコちゃんなどと呼んでおります。

すぐ近くにみんなのお気に入りのレストランが出来たので、仕事の仲間たちとも、お客さんとも、いろんなメンバーでなにかと盛り上がる場所になります。前菜からパスタからピザから、肉や魚料理など、レストランのメニューはかなり豊富なんですけど、私はほぼ全部食べてると思います。そして、どれもみな美味しいです。私の肝心な友達や身内は、全員来たことがあるんじゃなかろうか。
だいたいいつも閉店まで飲んでるんですけど、お店のスタッフが片付けを始める頃には、マスターがワインボトルを片手にやって来ます。そこから結構盛り上がることも多々あり、それもパターンとなっております。カラオケ行ったこともあったな。
お二人ともゴルフ大好きなんで、定休日の火曜日にご一緒することもあります。それで、うちの会社のゴルフコンペを火曜日にした時期もありましたね。
我が社の忘年会は、毎年全員参加でAzzurraでやることに決まっていて、年末のかき入れ期に申し訳ないんだけど、一晩貸し切りにさせていただいてもおります。
というようなことで、うちの会社がすぐ近所に越してきたことが、良かったのか悪かったのか、ともかくすっかりご縁ができて、会社丸ごとお世話になってるこの17年なのであります。

それから、この春からのコロナ騒ぎになるんですけど、このことが各飲食業に与えたダメージは計り知れません。こちらも自宅待機の日々が続き、Azzurraのことが気にかかっていたのですが、なかなか様子もわからず気を揉んでおりました。しばらくして、昼間にお店を覗いたらスタッフの方が仕込みをされてて、聞けばなかなか厳しい状況とのことでしたが、ただ、店はしぶとく開け続けておられるようで、もともと地力も歴史もある御贔屓の多いレストランでありますから、なんとか健闘を祈っておりました。
そんな中で、うちの会社の人たちから、どうもAzzurraが、今年いっぱいで店を閉めるようだという情報が入りました。でもそれは、コロナ禍が直接の原因ではなくて、ビルの取り壊しが決まったからだそうです。そういえば、このビルに入っている他のお店からも、その知らせが入ってきました。この数年、その噂は時々耳にしてたんですけど、ついに現実になったということです。
考えてみると、このビルって神宮前3丁目にずうっと昔からあって、多分私が東京に出てきた頃にはあった気がしますもんね。それ45年前くらいのことですが。そう思えば立て直すのも道理かもしれません。
12月になってすぐ、Azzurraに顔を出しました。去年の年末以来ですから、こんなに長いことご無沙汰したのは初めてです。サイトウさんご夫婦に今後のAzzurraのことなど、聞いてみたんですけど、これを機会に、長くやってきたこのお店を閉めることにしたそうです。多くのお客さんが閉店の話を知ったせいもあるのでしょうが、レストランは満席状態で、Azzurraという店を閉めるのはもったいないなと思いました。しかし、考えてみるとマスターも70歳を超えて、会社であれば定年してる歳だし、ここからまたどこかで新しく店を開けるのも大変でしょうか。
もう、ここで飲み食いができないとなると、なんとも云えず未練がつのります。
イタリアンビールから始め、フリットに好物のトリッパ、マッシュルームのカルパッチョ、ほうれん草のソテーに、ムール貝に牡蠣に、まあ色々つついて、ワインは白から赤にいって、鰯のピザほおばったら、蟹のパスタにリゾット、仕上げは肉料理各種、魚もイキのいいのが揃っていて、最後はグラッパまでいただいて、余力があったらデザートも。Azzurraのこれができなくなるわけであります、ざ、残念。

でも、ご夫婦は変わらず千駄ヶ谷の鳩森神社の近くに住んでらっしゃいますし、お友達の末席にも置いていただけたので、これからもどこかで、料理を作っていただくこともできるんじゃないかと思って期待してます。

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年内はなかなか予約が取れないくらい忙しい状態みたいですから、年始はゆっくり休んでください。
当分大好きなイタリアへ旅行へ行くのも無理みたいだし、陽気がよくなったら、とりあえずゴルフにでも行きたいですね。

絵が下手で、似てなくてごめん。ほんとはもっと男前と美人です。

2020年12月10日 (木)

「屋根の上のおばあちゃん」という本

本日は、最近出版された新刊本を一冊、ご紹介いたします。
河出書房新社より10月29日に発売になりました「屋根の上のおばあちゃん」という本です。
これは、この春に第一回京都文学賞の優秀賞を受賞した小説でして、京都の太秦(うずまさ)を舞台にした、あるおばあちゃんの半生が描かれております。そのストーリーには、活動写真や弁士やフィルムやその現像の話などが、大事な要素として関わりあっておりまして、涙あり笑いありちょっと考えさせられるところありの、ハートウォーミングな物語となっております。

そこで、この本がどのような経緯で世に出たかについて、ちょっと解説しますね。
まず、小説の著者の藤田芳康さんという方は、長年にわたり私たちの仕事におけるパートナーであり、友人でありまして、かれこれ30年にも及ぶお付き合いになります。
私たちが映像制作会社を立ち上げたその頃、彼は30歳くらいで、ある食品企業の宣伝部員でコピーライターでCMプランナーでありました。ひょんな事から私たちと出会い、そこからいきなり飲料のCMをたくさん制作することになります。我が社の担当プロデューサーは万ちゃんPです。それからしばらくして、藤田さんは企画だけでなく演出も手がけるようになり、いろいろな傑作CMを演出家として一緒に作ることになっていきます。
この人が突然に演出という仕事ができたのには、それなりの理由があるんですが、まず広告の仕事をしながら、実に多くの映像作品を研究していたことがあります。映画も、ものすごい本数を観ているし、鈴木尚之さんという有名な映画脚本家のお弟子でもあり、シナリオを書く勉強を長く続けていました。
そんな中、1998年、彼が執筆した「ピーピー兄弟」という脚本がサンダンス国際映像作家賞を受賞するんですね。やがて2001年、機会を得て藤田芳康監督・脚本の映画「ピーピー兄弟」は制作公開されました。当然の如く、私たちもお手伝いすることになります。
それから後も、彼は広告の仕事をしながら、脚本を書き続けていました。時々読ませてもらってましたが、そのシナリオには独特な世界観があり、ものによっては小説にしてみたらどうかと話したりもしてたんですね。そんな中に「太秦ー恋がたき」という話がありました。
彼はCMディレクターとして、長くその企業の日本茶の商品を担当していて、その企画の舞台はすべて京都だったんですね。彼は大阪の出身ですが、そんなことで京都のことはかなり研究していました。そこに、大好きな映画の話を絡め、自身のおばあちゃんのエピソードを交えて、「太秦ー恋がたき」というお話ができていったようです。
昨年の秋頃に、この小説の原型を読ませてもらい、最近新設された京都文学賞という賞に、この小説を応募したいと聞いた時に、これはひょっとすると獲れるんじゃないかと思ったんですね。実際にはずいぶんたくさんの作品が応募されたようですが、今年の1月に最終候補の5作品に残ったというニュースは快挙でした。
それから今年のコロナ禍の中、小説「太秦ー恋がたき」は京都文学賞・優秀賞に正式に受賞が決まり、4月に授賞式がありまして、河出書房新社が出版に手を挙げます。編集者との打ち合わせが続き、半年ほどして題名は「屋根の上のおばあちゃん」になりました。「太秦」では、読者が、地名とわからなかったり、読めなかったりすることも考えられるからだそうです。そんな流れで本として完成し、10月の末に書店に並んだわけです。そして、11月の28日に、この本が京都の丸善で1位になったとの朗報が入りました。
小説が一冊の本になるには、実に時間もかかり、いろんなプロセスがあるもんだなということがよくわかりました。

ともかく、なかなか良書なんで、是非読んでもらえたらと思います。

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2020年8月 6日 (木)

弔辞 吉江社長殿

この春からは、こんなことで、中々人に会うことが出来なくなっており、気が付くとずいぶんいろんな方とご無沙汰をしているんですが、そういえばしばらくお会いしてないなあと思っていた方の訃報が、突然届きました。
ちょっと体調を崩しておられるくらいのことを伺っていただけで、いつも元気で笑顔の人でしたから、にわかに信じられません。私が仕事を始めてすぐの頃には、すでに存じ上げてましたから、考えてみると長いお付き合いでした。
吉江一男さんは、よく知られたCM音楽プロデューサーで、ずいぶんたくさんの仕事をお願いしました。と云うか、この方はあの頃のCM音楽業界で、最も有名で忙しい人でありまして、数々の話題作を手掛け、中にはCMから楽曲としてヒットチャートを駆け上がった曲もいろいろありました。
結果的に、そのビジネスで会社を立ち上げて、青山に音楽スタジオのある自社ビルまでお建てになりましたから、言ってみれば大袈裟でなくCM音楽の一時代を作った方でした。
初めてお会いした頃、私は駆け出しのペーペーでしたが、彼は勤めていた音楽プロダクションから独立したばかりで、根津美術館の横の小さなアパートを事務所にしていました。その時に仕事で3.5秒のサウンドロゴをお願いしたんですが、吉江さんは自分でギターを弾いて自分で唄って、サンプル版を5タイプくらい作ってきたんですね。まあご自分で作曲もできる方だから、それはいいんですけど、ラジカセで録音されたそのカセットテープを聴いてみると、唄のバックに、バックコーラスのように、ミーンミーンと蝉の鳴き声がするんですね。
「吉江ちゃん、バックでセミが唄ってるね。」
と誰かが云って爆笑したんですけど、今思えばその時に採用になったサンプル版が、のちのち有名になった ♪ピッカピカの一年生♪ だったんです。

夏の根津美術館の森に、蝉はうなるほどおりましたのでね。
そんな吉江さんは、ともかくいつも明るくてカジュアルな人でした。その頃、私はアロハを着てることが多かったんですが、お得意さんのところへ行く時は、もうちょっとちゃんとした格好していけと、上司から言われておりましたが、その日もアロハだったわけでして、某築地の広告会社のエレベーターで、ばったり吉江さんに会うんですけど、
「よっ、暑いねえ、やっぱり、こういう日はアロハだよね。」
とおっしゃって、二人ともアロハなんですが、ただ、吉江さんはおまけに、短パンにビーチサンダルだったんですね。
そういう方でしたから、先輩なんですけど、仕事の相談などもしやすい方でした。ただ、いつも自分の直感で即決して、やりたい方向へ持ってっちゃって、わりと調子いいとこもあって、最後は自分のペースに巻き込むんですけど、音楽的なレベルは高くて、周りを満足させて、結果的には信頼されていました。
信頼といえば、彼が仕事を発注する、作家も演奏者も歌い手もエンジニアも、プロデューサーとして強い関係を築いていましたし、たまに自分で作曲することや演奏することもあって、ともかく音楽を作ることが大好きで、この仕事を愛している人でした。

彼が残した会社の名は、「ミスターミュージック」と云って、ミスター吉江の代名詞のようでもあります。
いつだったか、何故か二人で、ラッシュ時の満員の地下鉄で移動してたことがあって、なんでそんなことになったか忘れましたが、彼が急に、
「俺たちが作ってるCMのクライアントの会社の人たちは、いろいろ大変だよね、毎日。どんな業種でも楽な仕事はないよな。」みたいなこと云って、僕も何と無く頷いてたんですけど、
「そう考えると、俺たちが音楽作ったりしてる仕事は、遊んでるようなもんだよね。」
とおっしゃったことがあって、よく覚えてるんですね。
ただ、あれだけの仕事してビルまで建てた方で、業界の連盟の会長とかもされてたし、好きなことだけやってたとも思えないんですけどね。
たぶん、いろいろな権利を守ったり、スタッフを守ったり、いろんな揉め事を収めたり、時には似合わない凄みを利かせたりされたこともあったと思います。童顔で小柄な方ですから、そういう時はチビッコギャングだったかもしれません。
私に関して云えば、長い間いつも気にかけてもらって、仲良くしていただいて、難しい仕事の時も必ず全力で挑んでくださいました。息子さんの結婚式にも呼んでくださいましたね。

Mrmusic



今、世の中がこんな状態なので、お葬式は身内ですまされたそうです。本来なら、ずいぶんたくさんの方が集まったんだろうと思います。
いつの日か、出来るようになったら、息子さんは「偲ぶ会」をなさるつもりだそうです。
彼が残した名作を、うんと聴けるんだろうなと思うと、それはそれで楽しみではあるんですけど、そこにもう吉江さんがいないことが、なんだか信じられないですね。


2020年3月10日 (火)

ヤスヒコさんへ

たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。

私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。

なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。

その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。

いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。

それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。

この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。

私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。

それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。

その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。

その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。

そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。

その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、

「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、

「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。

企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。

山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。

なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。

監督という仕事に向いている人だった。

告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。

ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、

「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。

夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。

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2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

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今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年7月25日 (木)

なんでゴルフをやっているのかという話

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今年の梅雨は、いつになく梅雨らしい梅雨で、長期にわたって各地に雨を降らせてますが、このところ、わりと頻繁に予定されていた私のゴルフ行きは、ことごとく雨雲を避け、一度も雨合羽を着ることもなく、順調に進行しています。ゴルフというのは、その天候も含めた競技であると、硬派なゴルファーはおっしゃいますが、やっぱり、雨や風はなるべく穏やかな方がありがたいわけです、軟派ゴルファーとしては。

ただ、どうして梅雨の最中に、これだけ予定が入っているかというと、自分がなにかと積極的に人を誘っていることと、逆に誘われた時に、基本的によほどのことがなければ、けして断らないという姿勢にあります。

要は、下手だが好きだということなんです。

このゴルフという競技は、全部で何打、打ったかというスコアを競うんですけど、このスコアというのは、すべて自分のせいで出た結果であって、誰かのせいということは全くありません。うまく行かなかったことは、みな自己責任です。そして、だいたいにおいて色々なことは、うまく行かないんですね。ゴルフがかなり上手な人であっても、常にうまく行かないことは多くて、まして下手な人は、一日中そういうおもいをすることになります。

ということで、このゲームは終わったあとに爽やかな気持ちになるということは、あまりありません。だいたいにおいて、苦いおもいでゴルフ場を後にすることが多いのですが、翌週にまた誰かから誘いの連絡があると、1も2もなくスケジュールを開けようとしちゃうのですね、何故か。

この上手くならないゴルフというものと、どうして出会ったかという話なんですが、

たしか30歳くらいの頃、仕事でたまにアメリカに行くことがあって、その当時、わりと長い間行っていることが多くて、その時に、ゴルフの上手い現地のコーディネーターに誘われて、ろくに練習もしないで、いきなりグリフィス天文台の麓にあるパブリックのゴルフ場に行ったことがあったんですね。今考えると、よく行ったと思うんですが、第1打、いきなり続けて空振りしたら、後ろで待ってたアメリカ人に、

「ヘイ、ルック、アット、ボール!」と、野次られる始末で。

でも、考えてみると、相手は止まってるボールなんで、どうにかこうにか1ラウンドやったんですね。いったい何打打ったのかもわからん状態で、でも、ひどい目にあったんだけど、なんか楽しかったんですよ。

それから何度か、アメリカの辺鄙な場所に仕事に行ったんですが、そういうところにはたいてい近くにゴルフ場もあるんですね。いつだったか、カナダの国境あたりまでロケに行ったときに、その時のカメラマンが、今回の撮影は、早朝と夕方の射光でしか撮らないと云いまして、しばらく居たんですけど、昼間はやることがないわけです。ホテルの目の前は広大なゴルフ場なんですけど、シーズンオフなのかそこには鹿しかいないんですね。そうなるとゴルフしかやることないんです。そんなことどもがあって、なんだかゴルフって面白いじゃんみたいなことになっていったんです。

それまでの私はというと、大人がやってるゴルフという文化が大嫌いでして、あくまで印象の問題なんですけど。どっかのBARで酒飲みながら、あんなものは、いい大人も、いい若い者も、けしてやるもんじゃないと言い放っておったもんで、今さら、意外に面白いねとも言えなくなっておりました。

そうは云っても、ちょっと興味が出て来て、テレビで青木功やジャンボ尾崎なんかを見てると、それはそれでけっこう面白いし、それまで、駅のホームでゴルフスイングしてるオヤジとか、心の底からバカにしてたんだけど、なんか少しわかる気もしたりして、誰にも見つからないように、練習場にも行ってみたりしました。

そのことを、会社で仲良しだったヤマちゃん先輩と、同僚のマンちゃんにちょっと話したら、この人たちはすでにゴルフ好きでしたが、それは絶対にゴルフ始めるべきだと勧められまして、日本のゴルフ場にも連れてってもらうようになりました。

この人たちから、やたら筋がいい筋がいいと褒められまして、悪い気はしないからその気になってきたんですけど、まあ、あとで聞いたら、あいつは全くスポーツとは無縁で、やたら深酒するか、文庫本読むくらいしか趣味がないから、せめてゴルフくらいさせようと、二人して何かとおだてるようにしてたそうです。

そんなようなことで始まったゴルフなんですが、その後、あんまりやれなかった時期もあり、きちんと練習を積むということもなく、だらだらと下手なままなんですけど、いわゆるゴルフ歴だけは長く、かろうじて続いている趣味なわけであります。

ただ、時々、なんでゴルフやってるんだろうなとも思うんですね。

朝早く起きて、わりかし遠くまで行かなきゃいけないし、たまにわりとうまく行く日もあるけど、たいていがっかりするし、そうやって何年も同じレベルで、むしろ下手になってるんだけど、なんとか、一つ上のゴルファーになれないだろうかとは、いつも思っていて、わりといろんなこと試してみたり、例えば、誰かに聞いた練習をしてみたり、上手な人に教わったり、新しい道具とかボールを手に入れてみたり、なんかいろいろ本読んでみたりするわけですよ。

でも、見えてくる景色は、あんまり変わらないわけです。

200ヤードのドライバーショットも、数10センチのパッティングも、同じ1打で数えられ、その1打1打に一喜一憂し、出てくるスコアは、いつもほとんど似たようなものなわけです。そしてそのスコアは誰のせいでもなくすべて自分のせいであるところが、ゴルフのゴルフたるところです。

よく、ゴルフというゲームは、人生に似ているという人がいますが、たしかに、

「禍福(かふく)は、糾(あざな)える縄のごとし。」みたいなとこありますよね。

誰が思いついて始めたのか、なんだか無駄に深いところのあるゲームです。

イギリス人が作ったというのも、なんかわかる気がする。

 

2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

Deracine


お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

2019年1月22日 (火)

初台の太郎ちゃんのこと

昨年の大晦日は、お葬式で暮れました。

亡くなったのはしばらく会ってなかったけれど、古い友達でした。クリスマスの25日に亡くなり、告別式が12月31日だったんですが、彼が病院で意識を失くしたという連絡が、23日にありまして、それは、一人暮らしのその友人がお世話になっていた大家さんからの電話でした。友人の携帯電話の連絡先や通信記録などから、私の電話番号を知り、その電話機から連絡を下さったようです。

そうやっていろいろな知り合いに連絡を取って、お葬式の段取りも、みなやって下さったようで、一人で暮らしていたけど、このように親切にしてくださる方が傍にいて良かったと思いました。

この大家さんが、お葬式の時に、

「これ、太郎ちゃんが好きだったお菓子ですから」と云って、みなさんに菓子袋を配っておられまして、そんなふうに親しくお付き合い下さった方なんだなと、少しホッとしたんですね。

 

そうなんです。その友達はみんなに太郎ちゃんと呼ばれていました。

Taro

私が20代の頃、同じ会社に勤めていた友人夫婦が初台に住んでいて、その家の近くに太郎が一人でやってる飲み屋があったんですね。店の名前も太郎だったかなあ。10人かそこら入ったら一杯になるようなカウンターだけの店で、ツマミもあんまりなくて、安い酒ばっかり置いてあったから、貧しい私たちが夜中に飲みに行くぶんには、ちょうど良い店でした。よく仲間と行ってたんです。

この太郎ちゃんという人は、飲み屋の店主以外に一つ仕事があって、それは売れない役者だったんですけど、言われるまで知らないくらい、ほとんど役者として認識したことはなかったんです。ただキャリアだけはあったみたいで、役者の仲間や友達が客としてよく飲みに来てたんですね。

それで、どんな仕事してるのかを聞くと、あんまり知ってるものはなくて、どっちかというと、ピンク系とか日活ロマンポルノ系のちょっとした役で、そういうことで、日活の女優さんとか、ピンクでちょっと有名な男優さんなんかも飲んでたこともありましたし、たまに普通に有名な俳優さんもいらしたりしたんですね。ただ、この太郎ちゃんが役者として優れていたのかどうかは、よくわからなかったんですけど。

まあ映画って云っても、出てきてすぐにいなくなるような役が多かったんじゃないかと思いますよ。そういう人でして、人気者でしたけど、わかりやすく云うといじられキャラですから、みんなにいじられてて、僕らもそこで飲んでる間じゅう太郎を肴にして、好き放題を言って、飽きると歌を唄わせたりして、思えば傍若無人な振る舞いをしておりました。

そんな関係が出来あがった頃に、

「ところで、太郎って、歳いくつなのよ」って聞いたんですが、なんと私たちより六つも年上だったのですね。ただ、そのことがわかったからといって、今さらこちらの態度を変えるわけにはもう行かず、それ以後も、

「この野郎、太郎!」という関係は続いたのでした。そもそも、その店に最初に行き始めたそのサトルという友達は、やたらとでかくて威圧的な奴だったし、私も口だけは達者な奴でしたから、まあ、そこでは威張っていたわけです。

そんなある夏の日に、なぜか太郎ちゃんと私と仲間たちで、伊豆に旅行に行ったことがあったんですが、ちっちゃい車に5人でぎゅうぎゅう詰めで、エアコンは壊れてて効かなくて、おまけに夏休みで道は大渋滞、真鶴道路のトンネルの中に3時間もいたんですね。

そんな過酷な状況下で、何かのはずみだったと思うんですけど、なぜか太郎ちゃんの身の上話をみんなで聞くことになったんです。それは、太郎が育った岩手の猛吹雪の風景と、それにまつわる苦労話でして、うだるような暑さの中で、極寒の話を聞くわけです。そして、太郎が東京に出てきてからのあれこれ、これまた苦労話の超大作が続きました。この長い道中で、私たちは太郎のこれまでの人生を味わい尽くし、やっと海が見えて、太郎がヨットを見つけた時に、

「あっ、帆掛け船だ」と叫んで、オチがついたという旅でした。まあ、そんなようなことだったけど、みんな若かったし、楽しかったんです。

ちょっと変わった青春話もやがて終り、太郎の店は立ち退きになって、それからしばらくして、太郎は新宿三丁目のあたりで別の飲み屋を始めました。その店もやがてやめちゃうんですが、私たちも20代から30代になって、私もサトルも勤めてたその会社をそれぞれに辞めて、なんとなく、みんな疎遠になっていきました。

 

その後、太郎ちゃんとは忘れた頃に年賀状のやり取りをするくらいでした。相変らず、テレビや映画に出ていてもほんの一瞬だし、そういえばあの有名な「あまちゃん」にも役名付きで1回出たことあったけど、友達でさえわからないくらいの瞬間でしたもん。ほんのたまにそういうことあって、まあ元気なんだろうなというくらいのことでした。

人生長くなってくると、こっちもいろんなことがありまして、もうずいぶん前に友達のサトルは病気で他界してしまい、そのことを太郎に知らせようとしても、その時は連絡が取れませんでした。

それから、もう一つ、何年か前に判明したことがありまして、私が全く別のラインで長く仲良くしていただいてる友達の夫婦がいるんですが、同年代のこの二人がなんと初台の太郎の店の常連だったことがわかったんですね。あんな小さな店でそんなことがあるんだ、世の中は狭いなあということでびっくりして、ともかく是非みんなで会おうということになり、太郎に電話したんです。4人で新宿に集合して、飲みに行ったんですが、本当に久しぶりの再会でみんな嬉しくて、ずいぶん遅くまでハシゴしました。

ただ、その時に太郎ちゃんの身体の調子が万全ではなくて、定期的に人工透析の治療を続けていることを聞きました。でも、その日はずいぶん飲んで、今日は嬉しかったからいいんだと云っていたんですね。

それから、たまに連絡取ったり、私の会社に遊びに来りもしてたんですけど、このところちょっと音信がなかったんです。

去年の正月に、年賀状やり取りしたけど、そのままになっていて、そういえば秋口に、一度電話くれて、また近いうちにみんなで飲もうと云ったんだけど、なんか話があったんじゃないかな、あの時、こっちもちょっとバタバタしててそのままになっちゃったけど、そん時、会っとけばよかったんじゃないかと、つくづく思いました。

 

若い時にすれ違うように出会ったけど、長い間に要所要所で、なんだかすごく縁のあった人でした。

ともかく悪く云う人はひとりもいない、みんなから愛されてましたね。

今頃、あっちでサトルにも会ったでしょうか。

 

2018年8月28日 (火)

祝・古稀

古来、「古稀」というお祝い事があります。

唐の詩人、杜甫の詩・曲江「酒債は尋常行く処に有り人生七十古来稀なり」に由来するそうで、70歳を祝うことなんです。

詩の意味は「酒代のつけは私が普通行くところにはどこにでもあるが、七十年生きる人は古くから稀である」ということらしいんですが、学がないんでなんだかよくわからないですけど、どっちにしろ酒飲みの詩人なんすかね。

それはともかく、私の周りには、このところ70歳になられる大先輩がわりとおられまして、こりゃ一回お祝いしようということになり、会が開かれることになったんです。

今年、御年70歳におなりになるのは、昭和23年頃のお生まれで、戦後ベビーブーマーと呼ばれる方々で、もともとこの国において人口比率の高いジェネレーション、いわゆる「団塊の世代」です。

昭和20年の終戦の直後に復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代と云われておりまして、昔から戦争の後には、たくさん子供が生まれて人口が増える傾向があるようなんですね。

ということなので、この年代の先輩たちはもともと人数が多いのと、大人数の中で生存競争をしてこられたので、皆さんシブトイ、じゃなく御丈夫でお強くあられます。

自分が社会に出ました時にも、業界のなかで上を見上げますと、6才程上のこの年齢の方々がびっしりと活躍されておりまして、しかも、皆さんほんとに優秀なもんで、なんだか当分は自分が上がってゆくのは難しいんじゃないかと思えました。このことは、たぶん私と同年代のどの業界の人達も感じたことだったんじゃないでしょうか。

ただ、仕事で云えば、彼らからすると、人数の少ない私たちの年代を育てないことにはどうしようもないわけで、わりと丁寧に親切に育てて下さったことも確かでして、実は大変お世話にもなってるわけであります。

 

たとえば、今回古稀の会に来ていただくのは、私が22才の時にこの仕事を始めて、わりと初めて仕事らしいことをやった時に、会社の上司でプロデューサーだったY田さんと、スポンサーの宣伝部の担当者だったN川さんと、担当コピーライター兼CMプランナーだったS山さんでして、思えば皆さんその時まだ20代でしたが、それからかれこれ40年くらいお付き合いをさせていただいてるわけであります。ただ当たり前ですが、40年間ずっと6才下の後輩という立場は変わっておりません。

それに加えて、皆さんとその頃からのお仲間で、今や世界的なアートディレクターのT田さんも来てくださり、又、同じくお友達のご夫婦で、湘南にお住まいでよくお世話になっているK村さんと奥さまのお二人にも来て頂き、皆さん丁度そのあたりのお生まれでありまして、なんと6名の古稀のお祝いとなったのであります。

お祝いをするのは、皆様のご家族と、私たち後輩有志です。

幸いなことに、本当に皆さんお元気でいらっしゃいまして、この日はおいしい肴を用意して、すっかり深酒でもいたしましょうかと思ってるわけです。

ただ深酒するというのも、いつもと変わらないので、何か記念になるものを作ろうかという話になりまして、皆さんに歌舞伎役者のような屋号を付けて、記念手拭いと、似顔絵イラスト付き幟(のぼり)を製作してプレゼントすることにしました。

デザインは、S山さんのお嬢さんが担当してくださいましたが、才能豊かなお嬢さんでして、相当良い出来になっております。そんなことで、当日はかなり盛り上がりそうで今から楽しみであります。

いずれにしましても、日頃よりお世話になっている先輩の節目のお祝いを、みんな元気にできることは、ありがたいことであります。

今年古希を迎える先輩は、特に元気なんじゃないかとも思えますが。

 

ちなみに、皆さんの屋号は、出身地、居住地、会社名、職種などより、いいかげんにつけております。

おめでとうございました。

Koki_2

2018年3月22日 (木)

二合句会

「二合会」という会があって、何年か前から参加しておりますが、要は5人ほどのオッサン達が集まって酒飲んでる会なんです。そもそもどうして始まったかと云えば、僕らの業界の、ある大先輩が広告の会社をリタイアされてしばらくした時に、同じようにリタイアした仕事仲間で、たまに集まって飲もうかと云うことが、きっかけだったようなんですね。

それを始めたお二人の大先輩が、これからはちゃんと健康にも留意して、しっかり歩いて集まって、酒量は二合と決めようというふうにおっしゃって、「二合会」というネーミングになったんです。そのお二人が自宅から歩いて丁度よい神楽坂の毘沙門天に夕方5時半に集合するのが慣わしとなり、まあ建前としては、二合飲んだらおしまいという会なわけなんですね。最近ではビールと焼酎は別だとかいう話になったりしてますが。

私は厳密に云えばまだリタイアしてないのですが、まあお前も仲間に入れたるから来いということで、酒好きの特権で参加させていただいとるんです。そんな私を含め、今のところ基本5人のメンバーなんですが、現役時代は、あまり気軽にご一緒するのも憚られる大先輩方でしたから、この会で少しは慣れ慣れしくお近づきになれ、それはそれで嬉しくはあるんですけれども。

集まるタイミングは、これも特に決まってはいないのですが、なんとなく季節の変わり目にやるのが習慣になっております。

この会にちょっとした変化があったのが、一昨年の夏だったんですけど、ある時いつものように飲んでいたら、なんか俳句の話になったんですね。それは、「二合会」の中心メンバーのT先輩が、いくつかの句会に入っておられて、俳句の活動をされており、その話をうかがっておったところ、同じく中心メンバーであられるK先輩が、

「次の会から、俺たちもやろう!」と鶴の一声が出まして。

ちなみに、T先輩は元コピーライターで、K先輩は元アートディレクターなんすけど。

まあ、このお二人が決められたことには、ほかの3人は逆らいませんので、とにかくやってみようということになったんです。

もちろん、日本人ですから今までに俳句というものを読んだことはあるんですけど、自分で詠んでみようという気はサラサラなかったのですね。

ただ、それ以降、「二合会」は「二合句会」と名を改めることになりました。まあそれほど大げさなことではなく、いつもの飲み会の初めの小一時間ほどが、句会になっただけなんですが。

どんなふうにやるか簡単に説明しますとですね。

まず、このT先輩に師匠になっていただき、師匠の俳号は「三味先生」といいますが、我々も皆、俳号を決め、句会ではその名で呼び合いますね。そして、春夏秋冬に一回ずつ会を開きまして、その会の約一月半くらい前に、三味先生から兼題という形で季語の提案があります。その兼題を詠みこんだ句も、自由に詠んだ句も含めて1人が3句、句会の一週間前に先生に提出します。これはメールで送ることになっておりますが、そこで5名で15句が揃うわけです。句会の当日には、誰が詠んだのかわからない状態で、先生が15句を書き出して下さっています。会が始まりますと、一人一人がよいと思った句を自選はせず4句選んで投票し、その句を選んだ理由を述べます。つまり、20の票が15の句に投票されるわけです。それから、票を多く集めた句から順に詠み人が知らされ、作者はその句を詠んだ背景や心情などを述べます。

そのような小さな句会なんですけど、いざ俳句を詠もうとして考え始めると、意外や結構悩むもんでして、たった17文字に、いかに言葉を託するかやってみると、深いんですわ、これが。

そんなことなので、いざ票が入って、どなたかがこちらの意図を判って下さったりすれば、やはりちと嬉しいし、全く票が入らなければ、伝わんなかったんだと、ちとがっかりしたりして、なんつうか小さな一喜一優があるわけなんです。

この句会が7回、7季節続いてるんですが、じゃ、どんなもんを詠んどるんじゃと云われればですね。たとえば、この前の、私の春の二合句会の3句とその評価なんですけど、、

 

・夜気温み寄り道照らす朧月

これ、めずらしく4票いただけ満票だったのですが、師匠からは、「温み」と「朧月」が、季重なりであるとの指摘を受けました。そうかあ、未熟でした。

・出遅れて土手の名所は花吹雪

これは、1票だけいただきました。それともう1句は票が入りませんでしたが、

・吹き上がるトリプルサルコウ春一番

これは、ちょうど先生からの兼題に「春一番」が出題された時に、オリンピックのフィギアスケートを見て興奮してたもので、ちょっといいかなと思ったんだけど、空振りでした。

Toripurusaruko

 

この程度で、俳句やっておりますなどとは、とても申せぬお恥ずかしい限りなんですが、季節毎に一度、「二合句会」の日程が決まると、ちょっとやる気になったりしておるわけであります。

ちなみに、私、俳号は、師匠の「三味」先生より一字もらいうけ、「無味」と称します。はい。

2018年2月27日 (火)

50周年記念大同窓会みたいなパーティー

今月の初めに、なんだか500人も集まる盛大なパーティーがあって、呼んでいただいたんですけど、場所はお台場の某ヒルトンホテル宴会場で、老若男女500~600名ほどが、一堂に会してのおよそ3時間があれよあれよという間に過ぎ去った不思議なひとときだったのですが、これ何の集まりだったのかと云うと、ある会社の創立50周年パーティーでして、社員は350人くらいなんですが、50年間の元社員にも声がかけられていて、私もこの元社員なんすが、なんなら家族もどうぞということもあり、広い会場にぎっしりと人が詰まっておったのです。

この会社は映像コンテンツの制作会社で、テレビCMとかを作っておりまして、もちろん業界では大手と認識されております。私はこちらの会社ができて10年目くらいのときに、ひょんなことで紛れ込みまして、社員ナンバーが27番でしたから、当時はそれくらいの会社でした。その後この会社で仕事をおぼえて、けっこう忙しい10年ちょっとを過ごし、この会社の仲間3人と同業の会社を立ち上げたんですね。その会社も今年で30年になりますから、月日の経つのは早いもんであります。当然ながら、私は50周年のこの会社にとっては、ライバル会社の人なんですけど、そういう了見の狭いことは云わないで呼んで下さったわけであります。

私が会社を辞めた頃には、100人を超す社員数にはなってましたから、この会場にも知ってる人は相当数おりまして、入っていきますと、ほんとに懐かしい先輩や後輩が次々に現れるわけでして、当り前ですけど、どの人も同じ年数だけ年取ってるんだけど、錯覚なのか、変わってないんですね、みんな。

長い間には、すでに鬼籍に入られた方も多々おられますが、ここにいる人は、とりあえず元気な人たちなんです。

まあともかく、しみじみと過ぎ去った時間をかみしめたんですね。

そして、会社が50年続いて立派に存続するということは、実に大変なことだなあとも思いました。

私がこちらに在籍したのは、22歳から34歳までの11年ちょっと、まさに青春時代でしたが、徐々にメンバーも増え、仕事も増えていく勢いのある時代でした。今考えてみると、自分にとってこの会社は、最後に通った学校みたいなところがあります。仕事は大変なんだけど、面白かったし、なんだか時代も業界も混沌としていました。

5年くらいたって、少し仕事のことがわかってくると、かなりマイペースで調子に乗って仕事してて、けっこう生意気になってましたから、上司を本気で怒らせたりということも多々ありました。

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こんなこともありましたね。ある日いつものように、昼過ぎに出社してきたんですけど、会社に向かって歩いていると、会社から、総務部責任者のS田さんが走ってきたんですね。で、

「今、お前会社に入っちゃダメ。O田常務がカンカンに怒ってお前のこと探してるから、ちょっとここの喫茶店に隠れてろ。」とおっしゃって、私を止めたんです。

私も、生意気でしたから黙って怒られてるわけないから、それを避けて下さったわけで、S田さんには、私はいろんな意味で何度も救われておりました。

このO田常務以外に、社長と専務がいらしたんですけど、このお二人のことも、時に本気で怒らせていたと思いますね。

まあ、そんなことはよくあることで、たまには褒められることもあるんだけど、なんだかこんなふうに勢いがあって元気な会社だったと思います。この日会った私の後輩たちは、当時の私のことが本当に怖かったと言ってました。何だか鼻息荒かったのでしょうか。そうだったかなと思うけど、そうだったような気もします。でも、その後輩達も今は立派なプロデューサーとかになっていて、お互いゲラゲラ笑いながら酒飲んで昔話ができて、いつも助けてくれたS田先輩とも、あの時怒って私を探し回ってたO田常務とも、あ、O田さんは後で2代目の社長になられたんですけど、昔話で盛り上がって、やっぱり大事な時間を共有した場所だったんだなあと思えたんですね。

ま、ともかく、時間というものが人とか記憶とかを熟成させるということがよくわかった一日でした。

そして、次の日には、皆からその日の写真を、メールでいっぱい送ってもらいましたが、そこには昔よりもずいぶん丸くなった自分が写っておりました。いろんな意味で。

2017年11月28日 (火)

風が吹いても痛い病

この歳になって仲間が集まると、まず始めの30分から1時間くらいは、病気とその治療の話になるんですね。それほど深刻な話は出ないけど、まあ当然ながら、身体のあちこち弱ったり傷んだりしてくるわけで、経年劣化というか自然の流れなんです。

そんな中で、けっこうな痛みを伴うのに、あんまり人から同情されない病気というのがあって、いわゆる「痛風」なんですけど、これ同情されないどころか、ともすると失笑苦笑の対象になったりします。何故かと云うと、この病気の原因は、いわゆる暴飲暴食とか、不摂生とか云われていて、酒のみが好きな高価な食材をたくさん食べた時に起こる贅沢病であると、世間からは思いこまれているもんで、発病しても基本的には自業自得でしょと思われちゃうんですね。

その痛風持ちである私としては、ちょっとそれには異議を唱えたいところもあるんですけど、大まかには当たっておるわけなんです。

たとえば、身体丈夫であんまり病気したことなくて、ただ不摂生を繰り返すことで起きる病であれば、あんまり同情されないし、おまけに、「いたたたたたたあ」となると、むしろ滑稽にすら映るんですね。たしかに誰かが発病したという話を聞けば、同情する気持ちもあるけど、かなり興味本位に状況を知りたがるとこはあります。白状するとですね。

どういうふうに痛いかという話なんですけど、多くの場合、それは足首から先のどこか、親指の付け根とか、くるぶしとか、その時によって、その人によって、微妙に違うんですけど、足首の先のどこかに激痛が走るわけです。そして多くの場合、そこが腫れあがります。

それは、風が吹いても痛いというたとえで、この病名が付いたくらい痛いわけですよ。

私事で恐縮ですが、私はたしか40歳くらいの時に、東北の山奥で仕事でロケをしていたときに、初めてその症状が出たんですが、朝からだんだん痛み出した左のくるぶしが尋常でないことになってきまして、椅子から立ち上がれなくなったんですね。周りにいる人たちは撮影中なんで、みんな気が立ってますし、誰もそんなことに気付く人もなく、どうにか傍にあった照明用の機材の棒を杖にして、

「ちょっとひどく足くじいたみたいなんで、病院に行ってくるわ。」

みたいなこと言って、脂汗流しながら車までたどり着いて、幸い右足は痛くもなんともないので自分で車運転して、山の麓の診療所まで行ったんですね。そこのお医者さんは、ただ足首が腫れあがってるんで、捻挫だと思って、丁寧に湿布してくれたんですけど、どう考えても捻挫した憶えもないんですね。その後何日か山の中にいて、毎日酒も飲んでたんですけど、痛いには痛いんだけど、だんだんそのピークは過ぎたみたいで、帰る頃には腫れも少し退いてきたんですね。ただ気になったもんで、東京に帰ってから、年に一度の健康診断してもらっているお医者さんに電話して症状を話したら、

「ああっー、それ、痛風だな、ムカイさんの尿酸値の数値なら、間違いないですねえ。」と云われたわけです。

ここで解説しますと、この先生がおっしゃった尿酸値というのは、血中のある値で、この数値が危険域を超えると、血液中に結晶のようなものができて、これが鋭く尖ったコンペイトウみたいな形をしてまして、どうも足のあたりの血管の中で引っ掛かることによって、血管壁がダメージを受けて炎症を起こし、周囲の神経組織を刺激することで、激しく痛むということらしいのです。

この解説が、専門的に相当いい加減であることはご容赦いただくとして、まあそんな感じなわけです。

じゃなんで、この尿酸値が上がるのかというと、プリン体という成分が多く含まれた食物を多量に摂取すること。たとえば各種レバーとか、白子とか、アン肝とか、カツオ、イワシ、エビだとか、いかにも酒のみが好きそうなものたちを肴に深酒して不摂生してると、覿面と云われています。

そんな事なんで、酒ばっか飲んで、うまいもん食って、遊んでる奴がかかる贅沢病とか云われていて、世間からの同情が薄いんです。

ただ弁解を少しすれば、この病気の原因の一つには、遺伝の影響ということもあって、極めて体質的な病気とも言えるんですね。たとえば、女の人はどんな酒飲みでもかかりませんから。

で、私の周りを見渡すと、結構お仲間はいてですね、私が発病した時も、すぐに相談に乗って下さる先輩は、いろいろいらしたんですね。そして、この痛風にまつわるエピソードというのは、気の毒なんだけど、なんだか小さく笑ってしまうものでして、そういう話がいくつもあるんですが、ためしに一つ紹介しますと。

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ずいぶん昔の話なんですが、私の大先輩のY田プロデューサーと、クライアントで出版社のS社のN川さんの話なんですけど、当時、このN川さんはまだ20代であったにもかかわらず、痛風を患っておられ、その日は家で脂汗かいて寝てらしたんですね。そこに、札幌にいるY田さんから電話がかかるんです。携帯もない時代だから仕方ないんですけど、自宅にかかる電話ってかなり、緊急を要するもんではあって、N川さんはなんだろうと思い、2階で寝てたから、痛い足を引きずりながら死ぬ思いして、長い時間かけて階段下りていったそうなんですよ。そしたら、

「あ、どうも、仕事は問題なく進んでます。ところで、今、すすきの大通りにいるんですけど、先週N川さんとロケハンした時、一緒に行ったキャバレーなんですけど、あれ、どの角曲がるんでしたっけ?」

という明るい電話だったそうで、N川さんは静かに受話器を置いたそうです。

云ってみれば、N川さんにとってみれば、災難なんですけど、この話何回聞いても笑ってしまうんですね。

その後、Y田先輩も、見事発病され、私もそうなり、今は、3人で一緒にお酒飲んだりしてますが、どうもこの痛風にまつわる話は、笑える話が多いんですね、なんでなんですかね。

ただ、なめていると大きな病気につながってしまうこともありますよと、主治医からは云われておりまして、

皆さん、体質改善に節制をしなければならんのです、実は、、まじめに。

 

 

 

2017年3月30日 (木)

学芸大のBAR「一路」のこと

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東横線の学芸大学駅から2~3分のところに、「一路」という名前のカウンター7席程の小さなバーがあります。ここのマスターが良川さんと云いまして、かつて六本木の伝説のBAR「BALCON」のマスターだった方なんですね。

いつ頃のことかと云えば、1970年代の途中から、2004年の春まで、約30年続いたBARでして、私も70年代の終わり頃から店を閉めるまでお世話になりました。まあ、お世話になったというか何というか、私の場合、このBARに棲んでるんじゃないかみたいな頃がありまして、携帯電話もない時代、

「あいつなら、たいてい夜中にBALCONにいるよ」

と云われてて、ここに伝言残しとくと私がつかまるので、よく電話がかかった時期がありました。

六本木通りの明治屋の裏あたりだったんですけど、優に30人は入れるBARで、夕暮れから翌朝近くまで、毎晩、大いににぎわっておりました。

このBARは、有名なインテリアデザイナーの内田繁氏の作品であり、開店当初はデザイン界のお客さんが多かったようですが、そのうちに我々広告業界の人達が増えていったようです。ともかくいろんな意味ですごく居心地のいいBARで、私達は本当にお世話になったんですね。

そんなこともあり、良川さんとは個人的にも長いお付き合いをさせていただきまして、たまに店を抜け出して近所に飲みに連れてってもらったり、土曜日の朝に店閉めた後、一緒に海に行ってカワハギ釣りして、当時湯河原にあった良川さんの家で、釣った魚さばいて宴会やったり、ほんとによく面倒見てもらいました。

そのBALCONが、2004年の春に突然閉めてしまったいきさつは、このブログにも書いたんですが、当時ほんとに驚いたんです。そのあと、頼まれて六本木でBARをやったりされたんですが、しばらくしてから学芸大の今のBARを始められたんですね。それが多分10年位前のことだったですが、思えば30歳でBALCONを始めて30数年、良川さんも60代になられておりました。

私も気が付けば50代、酒の量も前よりは減って、ちょっと生活圏から離れた学芸大のお店には、しばらく足が遠のいておりました。

ここ数年のことですが、BALCONでさんざん一緒に飲んで、よく仕事した人達が、次々に60歳を超えて節目を迎え始めまして、その度にあのBALCONの話が出るようになったんですね。そこで、良川さんが作ってくれた、あの懐かしいサイドカーやドライマティーニやハーパーやジンやウォッカやなんだかんだ飲みながら、良川さんに会いたいねという話になって、学芸大に電話したんですが、この数年連絡が取れなくなってたんです。

そのことが、このところずっと気になってたことの一つだったんですけど、今年2月になってから、良川さんが店を開けてるみたいだよという情報が入ります。友人のNヤマサチコさんからのメールでしたが、今年になって「一路」で飲んだという、どなたかのブログを、仕事仲間が見つけてくれたみたいで、そのブログには良川さんの写真も載っていて、あのBALCONのことも書いてありました。まさに朗報であります。

すぐに電話して行ってみました。まず私の仕事の後輩達と6人で、もちろんあの頃お世話になった奴達です。そして、あの頃なにかと云えばBALCONに溜まって飲んでたレギュラーメンバーにも知らせました。皆、当時30代40代でバリバリにCMの仕事してまして、時代も最盛期で、それぞれにいつも大仕事を抱えてた人達でした。

重たい仕事かかえながら、いつも明るく飲んでましたね。たまに暗いこともあったけど。

よく飲んだけど、結構まじめに働くことは働いて、みなさん、名の知れたクリエーターにおなりになりました。そして、今やバリバリの60代です。すごいメンバーが揃って、6人が「一路」のカウンターに並びますと、なかなか壮観でありました。

ほんとはあと一人大物が加わって7席を埋めるはずでしたが、急な用事でかなわず、また近いうちに集まることになりそうです。いずれにしても、ちょっと恒例化しそうな会ではあります。

それにしても、良川さん、73歳におなりになっても、あのキリッとしていながら泰然自若のバーテンダーのキャラクターはなんにも変わっておりませず、マティーニもサイドカーもまったくあの頃のままの旨さでして、お見事でした。

2017年2月24日 (金)

開脚ストレッチ大作戦

わたくしこと、身体が硬いということにおいては、人後に落ちない人でして、このことには自信すら持っておりますが、何の自慢にもなりませず、むしろ引け目と申した方が正しいかと思います。

これはずいぶんと昔からでして、体育の時間に柔軟体操などをしておりますと、よく

「ふざけてないで、真面目にやりなさい!」

などと、注意されたのですが、本人はいたって真面目にやっているわけです。

たまに、旅館などに泊まった時に、マッサージの方に来て頂くことがありますが、必ずといってよいほど、

「からだ、かたいですね。」と云われます。

いわゆるギックリ腰というやつも、30代半ばでやってまして、これはそこまでに積み重ねた不摂生も起因してるんですけど、身体の硬さも大きいと思われます。

もっとも、もともと硬いうえに暴飲暴食暴喫煙に睡眠不足を重ね、その硬さに磨きをかけてしまったふしもあり、何度目かにギックリやった時にかかった鍼灸治療師のトーゴーさんには、その後長いことお世話になることになるんですが、この人からは、

「おまえの背中には、鉄板入ってるのか?」と云われました。

それからギックリ腰に対する恐怖は少し教訓になったので、多少の運動とストレッチのようなことはやるようにしてるのですが、基本的なこの体質は、きちんと改善されることは無いままです。

そんな去年の秋ごろ、今や私の大切なお友達のAZ先輩から、

「『ベターッと開脚』できるようになる本を知ってますか?」

と云われ、全く知らなかったんですけど、

「その本、今度会う時に一冊あげるから、一緒にやってみよう、開脚!」と誘われ、

あ、そうそう、このAZさんも、ものすごく身体が硬いんですね。

ともかく、一緒にやってみることにしたわけです。

聞くところによると、この本は、すでに何百万部か売れてる大ヒット本で、気が付けば、大きな本屋さんの目立つところにドカンと平積みしてあります。

この本書いた人は、大阪のヨガインストラクターのちょっとスタイルのいいわりかし美人のおばちゃんで、その後ときどきテレビで見かけるようになります。

すごいのは、この本に書いてある指導に従って、開脚してベターッと胸を床に付けれるようになった人が続出していることなんですね。ま、そう書いてあるし、そういう人たちの写真も載ってるわけです。

それと、もう一つすごいのは、そこに書かれてるやんなきゃいけないストレッチが、一日5分くらいの実に簡単なことだということで、これは、AZさんも力説しとられます。

「これなら、僕にもできるかな。」と思ったんですね。

そこで次の朝から始めました。カミさんのヨガマット借りて、あとはタオルが一本必要なだけで、全くたいしたことではないんです。当然やってる間はちょっとあちこち痛かったりしますが、あんまり痛くすると逆効果だと書いてあるし無理はしない、だいたい5分かそこらですしね。やってると犬が寄ってきて邪魔するんですけど、その間は廊下から閉め出しとけばよいわけです。こんなことで、ほんとに開脚できるようになるんじゃろかと思いつつ、だまされたと思ってやってみたわけです。

 

それで、結果から申しますと、全く開脚できるようにはなりませんね。私の場合、やっぱり筋金入りに身体が硬いようです。1300円の本で開くようにはならないんですね、やっぱり。

ただ、負け惜しみじゃないんですけど、これ何だか身体には良いように思います。ちょっと身体のあちこちがシャキッとする気がするし、ランニングで痛めてた膝もちょっと良くなった気がするし、とりあえず、まだ続けてはおります。まあ5分かそこらですし。

それからしばらくして、AZさんと飲んだときに、

「開脚できるようになりましたか?」と尋ねたんですけど、

AZさんも、やっぱり開かないようで、この方もやはり筋金入りだったみたいで、またしてもお互いに仲間意識を強めたようなことでした。そして、

「脚は開かないんだけど、これやってると、身体になんかシンが入るような気がして、続けてはいるんですよ。」と、私と同じようなことを、遠くを見るように申されました。

 

その後、あらためてこの本見て思ったんですけど、この本に載ってる開脚できるようになった成功者の写真は、みんな、おばさんかおばあさんなんですよ。

このストレッチっておばさん向けってことないかなあ。どうなんですかねえ。

おじさんとしては。

 

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2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

Katinko

カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

Onihei

2016年2月18日 (木)

断酒

Danshu_3


どういうわけか、2月の1ヶ月間、酒やめることになったんですね。

きっかけは、昨年末の人間ドックで、腸にポリープが見つかりまして、2月の初めに切除することになり、内視鏡でやるんですけど、そのあと自宅で1週間ほど大人しくしてなきゃいけなくて、まあ、その間酒飲んじゃいけないわけです。

ので、禁酒の予定は1週間だったんですが、そのまま1ヶ月酒を断ってみないかと、ある方からそそのかされたんですね。その人はAZさんと云って、今はリタイアされてるんですが、かつて広告を制作されていて、伝説のCMプランナーと云われた人なんですけど、私が昔から尊敬してる先輩で、今は酒飲み仲間なんです。

AZさんは2月に酒抜くことにしたみたいで、どうしてそういうことしようと思ったのか聞いてみたんですが、この方、最近お医者さんのお友達が多くて、かなり人間の身体に関しての医学的知識を身に付けられてまして、まあ、もともと知識には貪欲な方なんですけど、こんなふうに云われるわけですよ。

「お互い60年以上生きてるわけで、その間、人間の内臓というのは、休みなく働き続けてるんだよね。寝てる間もです。そこに、毎日のように酒を飲み続けてきたのね。彼らにしてみたら、勘弁してほしいわけですよ。ここに来て1ヶ月くらい酒をやめてあげると、ずいぶん長年の疲れが取れるんじゃないかと思ったわけよ。」

「じゃ、なんで2月にしようと思ったわけですか。」

「それは、一年のうちで2月が一番日数が短いじゃない。」

「はあ」

「実際それやると、かなり内臓の機能は回復するみたいよ。」

と。

それで、もう一つ思い出したことがあって、1月にある人から年賀状が来たんですが、この人も業界の大先輩で、音楽プロデューサーのA田さんというんですけど、“ちょい”じゃない悪オヤジで、昔から、飲む打つ買うの三拍子の人なんですね。で、年賀状の文面ですが、

「元気でお過ごしですか。

私、昨年末にめずらしく体調を崩し緊急入院。

16日間の絶食と点滴生活・・・・・。

おかげで血圧と体重が正常値に戻った。

おまけに“有馬記念”も的中と大忙し。

現在リハビリの毎日です。

2016年 健康で平和な良い年であります様に。」

とありました。あまり反省は感じられないのですが、良かったです。そういえば、この人、今まで酒切らしたことなかったと思いますよ。

 

確かにそうです。習慣ということもありますけど、もうずいぶん長いこと酒飲み続けてますもんね。

ちなみに、貧乏であんまり飲めなかった学生時代を除いて、続けて酒を抜いたことがどれくらいあったろうかと、思い出してみたんですが、

昔、ソルトレイクってところで、CGの制作をしたときに、連日徹夜になったのと、この街の多くの人が入信している宗教の宗派が、酒飲んじゃいけなくて、どこに行っても酒が置いてなかったことがあって、この時、多分5日間ほど飲めなかったのが最長だったんじゃないかと思うんです。

そんな私がですよ、一カ月も酒を抜くことができるのだろうか。2月に入って、2週間ほどが過ぎましたが、私もAZさんも今のところ挫折してません。禁断症状とか出るとやだなと思ってたんですが、そう決めてしまうと意外と大丈夫で。まだ油断はできないですけど。

ともかく、それなりに長く生きてきて、何だってこんなに酒と切っても切れないことになってしまったのか。物心ついてから、どうして酒を飲み続けているのか。納得していただくに、有効な理屈はこれと云ってございません。

「酒呑みの自己弁護」という、山口瞳先生の名著がありますが、痛く共感したのを覚えております。

酒呑みというのは、「ちょっと一杯やるか。」という呼びかけに、無上の悦びを覚えます。ちょいと気の利いた肴でもあれば、この上ないです。そして、言ってみれば、いつまでも飲んでいられます。それが、気の合う仲間となら最高ですし、ある意味、たいていの場合、誰とでも、二人でも三人でも大勢でもいいし、一人でももちろん、かまいません。

酒には、嬉しかったり楽しかったりする気持ちを増幅する作用があり、盛り上がるとドンチャン騒ぎにもなります。ただ、不機嫌だったり、哀しかったり辛かったりする気持ちも増幅されますので、ちょっと良くない酔っ払いになる事もあるんですが。それに、適量を過ぎると、わりと、しばしば過ぎる傾向にあるんですが、迷走することもあります。

ということで、酒が人生にとって、どうしても必要かというと、そんなこともなく、プラスになる時もあればマイナスの時もあります。トータルで云えば、どっちもどっちと云うことでしょうか。でも、飲んでしまうんですね、習慣的に。

昔、この仕事を始めて、間がない頃、あこがれの鈴木清順監督があるビールのCMを作られたときに、制作進行で付かせてもらったことがあって、もう、そばにいれるだけで、ただ幸せだったんですけど、何だか心に沁みるいいCMだったんですね。

焼鳥屋のカウンターで、大人の男が一人(高橋悦史さんなんですけど)ビール飲んでるだけなんですが、その店の壁に女の人の絵があって、ふっとその絵を見るみたいな話で、そこにナレーションが入って、

「酒、煙草、女、ほかに憶えし事もなし・・・」 って云うと、

トク、トク、トク、とビールが注がれるわけです。

駆け出しの男としては、なんかいいよなあ、男だよなあとか思ったわけですよ。

つまり、この頃すでに、私の価値観には、男の人生には酒というものが組み込まれてるんですね。そして、ずっと組み込まれたままなんです。

煙草はやめれたんですけど、だから酒もやめられるんじゃないかと云うと、それとこれはちょっと違う気がしますね、やはり。

酒やめたら、もしかしたら、健康診断の数値が良くなって、健康になって長生きできるかもしれないけど、別の意味での健康を損なってしまうかもしれない。世の中には、酒を飲めない人も、酒が嫌いな人もいて、そういう人でとても仲良くしている人も結構いるんですけど、自分が酒と縁を切る事は出来ないんだろうなと思うわけです。

私なりの、なんの説得力もない自己弁護ではあります。

ということで、一ヶ月間、断酒できたとして、そのあと画期的に人生が変わるとは思えないのですが、ともかく、見たことのない景色を見てみようと云う、未踏域への冒険のような気持ちでいるわけです。

大げさですけど。

 

 

 

2015年10月14日 (水)

成城のおじさん

大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。

F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。

私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。

彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。

これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。

ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。

で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。

それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。

その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。

 

そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。

そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。

そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。

ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、

「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。

平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。

でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。

それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。

いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。

撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。

 

そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。

Set_2

まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。

ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。

それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。

そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。

亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。

しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。

たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。

これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。

何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。

 

先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。

ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。

Hiratasan

2015年5月 1日 (金)

社員研修と、尊敬するディレクターのはなし

4月は新学期でもあり、会社にも少し新人が入ってきて、なんかあらたまった気持ちになるもんですね。それに、この会社は、けっこう若い人の割合が多いので、みんなして一学年ずつ進級するみたいなとこもあります。会社の仕事は主に、広告の映像を作ることなんですけど、今年は、新人の研修は例年通り山登りに行くとして、2年目3年目の若手社員にも社内で研修やりましょうということになったんですね。

で、その講師には、自ら名乗り出た社歴9年の新人プロデューサーのミナミという女子があたることになりまして、この人、わりとちっちゃくてパッと見、子供っぽく見えるんですけど、仕事はけっこう厳しい人で、後輩達からは一目置かれているみたいです。この人が5月に第一子出産予定で、しばらく出産育児休暇に入るので、その前にひとつ、会社の若手たちに、是非言っておきたいことがあるということで、まさに身重の体で、休日の丸一日、8時間の渾身の研修をおやりになったそうなんです。

Minami2

この講習で使うためのテキストを、前もって彼女が作ったんですけど、これがなかなか良くできてるんですね。ほんとに同業他社に売りたいくらいのもので、これも渾身のテキストになっております。

このテキストを作る少し前から、彼女は社内でいろんな取材を始めまして、先輩から若い人たちに伝えたいことなんかをインタビューしたり、いろいろな形でテキストのネタを集めたんです。

私んとこにも、質問状が来て、これには真剣に答えなきゃと思い、まじめに考えました。項目は4つあって、1つ目は、2,3年の若者へというテーマでメッセージをということで、自分の若かった頃を、はるか昔ですが、思い出しながら書きました。2つ目は、自分の仕事のベスト3をということで、これも膨大な記憶の中からなんとか選んでみましたが、なかなか難しかったですね。3つ目は、絶対観ておいてほしい映画ベスト3ということで、これも大変でしたが、古典からがいいかと思いまして、1.東京物語2.七人の侍3.アパートの鍵貸します などと書きましたね。

それで、4つ目がまた難問だったんですけど、今まで仕事したディレクターの中で、1番好きな、もしくは尊敬している方、という質問でして、これはほんとに多くの方がいらっしゃるわけです。ちょっと思い出しても、どの方も表現に関して、それぞれにユニークな面白い考えを持ってらして、本当に優秀な人たちで、私なんかはものすごく影響受けてるわけです。なかなか1番は選べないんですね。

それでいろいろ考えてたんですけど、ある人を思い出しました。

駆け出しの頃、前にいた会社で、私が一番若い制作部だったんですけど、そこにCMディレクターになったばかりの6歳年上の先輩がいました。その会社で最も制作費の安い仕事をよく二人で作ってたんです。

この人からは、いろんなことを教えていただきましたし、

「おまえ、若いのにほんとにいろんな目に会ってて面白いな。」

などと云って、よく人の失敗話を聞いて笑ってくれました。

私は、彼のことをすごく尊敬していましたし、彼が優秀な演出家であることもわかっていました。三浦英一さんと云います。

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6年ほどして、私がプロデューサーの仕事を始めた時には、彼はすでに会社で最も忙しいディレクターになっていました。その後も、実にいろいろな仕事を一緒にしましたが、そのたびにレベルを上げていたと思います。それからしばらくして私はその会社を辞めましたが、いずれまた仕事をしましょうと云って別れました。

それが1988年の終わり頃でしたが、1992年に彼は突然亡くなりました。いい仕事をたくさんしていて、次々に依頼が殺到していて、どんな仕事も手を抜かない人でしたから、過労だったと思います。その時44歳でした。

20何年も前のことですが、あの事を思い出すと、何ともいえぬ悲しさと悔しさがにじみます。

その翌年だったと思うんですけど、私は初めて市川準さんと仕事をしました。その時はすでに超売れっ子ディレクターで、映画も何本か撮っていらっしゃいました。私は最初少し緊張しましたが、やがてすぐに打ち解けることができ、そして、だんだん仕事をしていくうちに、なんだか懐かしい感じがしたんですね。

市川さんは三浦さんに似てたんです。顔が似てるんじゃないんですけど、二人は同じ年に生まれていますし、異常に映画が好きですし、二人ともコンテを描くのがめちゃくちゃうまいです。ディレクターとしての成り立ち方が近いんだと思うんですね。市川さんとお酒を飲んだりしていると、私の一方的な感覚ですが、なんか不思議な気持ちがしておりました。それからはご縁があって、いろいろな形で長くお世話になりましたが、結局そのことをお話しすることもなく、市川さんも、2008年に59歳で突然亡くなってしまわれました。

いつだったか、市川さんがとても好きな映画だからと云われて、1970年のサム・ペキンパーの「砂漠の流れ者」のビデオを下さったことがあったんですが、三浦さんも1969年のサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」が大好きで、この映画の出演者たちを暇さえあれば絵に描いてたのを思い出しました。

二人とも、驚くべき本当に寝ない人で、亡くなる直前まで仕事をしていたことも、共通することでした。

 

CMディレクターの質問をされたことで、想いだしたことでしたけど、この話を若い人にしてみたいと思ったんですね、ちょっと。

 

2015年2月26日 (木)

高校3年の時につくった8mm映画

ちょっと前のことなんですけど、正月の3日に高校3年生の時の同窓会があったんですね。私、考えてみるとこれまで同窓会というものに出たことがなくてですね、中学までは転校が多かったもので、幼馴染とはだいたい音信が途絶えてるし、高校だけは消息のわかっている友達が何人かいるんですが、卒業してからずっと故郷を離れていて、同窓会の知らせを受けても、出席できたためしがありませんでした。今年はみんなして60歳になることだし、都合を合わせるから帰って来いと友達が云ってくれたので、そこに合わせて帰郷しました。地元にいる同級生は、たまに集まってるようなんですけど、私はほぼ40年ぶりで、いささか緊張しました。

この日集まったクラスメイトは、10名ちょっとで、ほとんどの人が卒業以来の再会です。一人一人じっと顔見て名前を名乗ってもらって、すぐに思い出す場合もあるし、なんかじわーっと思いだしてくる場合もあって、でも、最終的には全員思い出すことができました。まあみんな年取ってますし、60歳ですから、何だか不思議な体験です。

私以外のみなさんは、お互いたまに会っているようなので、自然と私が卒業してどうしていたかみたいな話をすることになるんですけど、そうはいっても40年間の話を一気にするわけにもいかず、ところどころということになります。

あとは、みんな高校生に戻って、あの頃どうしたこうしたという思い出話に花が咲くんですが、これも人によって、よく覚えている話とそうでもない話があったりして、なかなかかみ合わなかったりもします。40年経ってますから。

そもそも高校の3年生という時期は、受験があったりして忙しいのと、授業のカリキュラムも、理系と文系とかに分かれていたりで、なんかまとまりのいい時期じゃないんですよね。

Eishaki

でも、なんだか色々に話してるうちに、共通に盛り上がる話題が出てきたんですね。それは、高3の夏前だったか秋口だったかに学園祭があったんですけど、うちのクラスは8mm映画作ったんです。けっこう大変だったし、全員参加で作ったんで、みんなそれぞれに思い出があるわけです。

誰かが、私が監督をやったんじゃないかと云ったんですけど、どうもそうではなくて、だんだんと思い出してみると、なんかオムニバスのような作りになっていて、いくつかの話をみんなで手分けして撮影したように思います。自分達で、出演して、撮影して、編集して、一本につないで、音つけて、たぶん音は音で、オープンリールのテープに入れて、上映は画と音をよーいドンでまわしたんだと思います。

撮影機材は、クラスメイトの誰かのお父さんが、8mmのカメラと映写機を持っていて、それを借りたらしく、音の方は、皆のオーディオ機材やレコードをかき集めてやったんだっけか。

だんだん思い出してきました。

そういう素人映画なんだけど、いざ一本の映画を完成させることになると、大変は大変なわけです。連日学校で夜中まで作業していて、進路指導の先生から、受験の大事な時に何考えてるんだと、説教されたこともあったようでした。わりと受験校だったし、なんとなく思い出してきましたが。

そんなことをワイワイ話してるうちに、少しずつ自分がやったことも蘇ってきました。私が映画を作ろうって言い始めたのかどうかは、わかんないんですが、どうも企画書のようなシノプシスのようなものを書いた記憶があるんですね。

で、テーマは「自殺」だったんです。

だけど、繊細でナイーブな思春期の高校生が、何か思いつめてこの題材をとらえたということではなく、茶化してるわけじゃないけど、相当そのことを軽くとらえていて、どっちかっていうとモンティ・パイソンみたいなことがしたかったように思います。

この年、1972年でしたが、

1970年11月には、有名な三島由紀夫氏割腹自殺があり、1972年4月には、川端康成氏のガス自殺もありました。はやりと云うには不謹慎ですが、そういった大事件に影響されたことはあったかもしれませんね。私、映画のなかで割腹シーンを演じたと思いますし、ナレーションもやった気がします。アサハカ。

 あの映画、その後どうなったんだろうねと云う話になりました。映写機とカメラを提供してくれた級友がまだ持ってるんじゃないかという話も出ましたが、正確には、42年と数カ月経ってますから、フィルムは酸化して風化してるんでしょうね。

もし残っていたら皆で見たいねと云う仲間たちですが、60歳のおじさんやおばさん達が集まって、時をかける少年少女になって、高校時代の8mm映画を見つめている姿は、ちょっと不気味ではあります。

でも、怖いもの見たさでちょっと観たい気もするかなあ。

 

2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

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日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2013年10月24日 (木)

ちょっとどうかしてる寿ビデオ

9月28日に、たぶん今年の我社にとっては、もっとも重要と思われるイベントが行われたんですね。何かっていうと、社員同士の結婚式だったんです。小さな会社ですから、誰かが結婚するだけでけっこうな騒ぎになるのだけど、適齢期の男女がたくさんいるわりには、このところ結婚話がなくて、久しぶりの結婚式だったし、加えて社内結婚ということで、否が応でも盛り上がり、もうこのことがわかってからは、ずっとそのこと中心に会社がまわっておりました。

まあそれだけ愛されてる二人なのですが、これがどういう二人かというと、新郎は社歴7年のT田くん、新婦は社歴9年のN田さん、ちょっと姉さん女房ですけど、T田くんは入社した時から美人の先輩のN田さんのことが、ずっと気になってたんだそうです。それで、皆まったく知らなかったんだけど、3年ほど前から二人は密かにお付き合いを始めたんだそうなんですよ、これが。よく3年間もマル秘を守ったものだと感心しましたが、少なくともオジサンたちは全く気がつきませんでした。

そして、9月28日という日取りが決まり、二人は夏ごろから徐々に社内に結婚の報告を始めます。

会社の中では、オジサン達が集まる役員会というのがあって、まずそこで正式な報告がありました。8人ほどの会議で、ほとんどの人がそこで初めて聞いたのですが、皆一様に驚き、その中でも代取で親分格のマンちゃんは、完全にしばらく絶句してます。

マンちゃんは、この新婦のN田さんのことは、同郷で富山ということもあり、気が合うみたいで、新入社員のころから可愛がってたんです。

「いや、それ、認めるわけにはいかないよ、それ。」と申します。

親じゃないんだからそういうこと言う権利ないと思うし、その上、N田さんがこれを機に寿退社するということを聞いた時には、

「それ、N田じゃなくてT田が辞めるわけにはいかないの?」などと、無茶苦茶なことを言ったりする始末です。

ともかく他のメンバーで説得しましたが、この人の場合、リアルに適齢期前の一人娘さんがいらっしゃるわけで、そのことを思うとため息が出ます。

 

さて、ここから当日に向かって怒涛の準備が始まります。本来の仕事のほうもけっこう忙しかったんですが、結婚パーティーの演奏や余興の練習、それと大作寿ビデオの制作など、仕事が終わった時間に、しかも本人たちに気付かれぬようにやるわけですから、

ずっと寝不足、本番の当日には、誰も寝ないで来ております。前にも申しましたが、この会社の人たちは、そういうことには絶対に手を抜かないのですね、まったく。

だいたい、パーティーで流される寿ビデオが2本もあります。連作とかタイプ別とかじゃありません。全く別なものが、まあどちらも渾身の力作です。しかも、全社員が出演します。笑えます。

この忙しい時に、いつの間にこんなものを作っとたのだろうか。感動しますが、あきれもします。

パーティーの後半で流れたビデオは、テーマが「挑戦」ということになってるんですが、どうなんでしょう、二人でこれからの人生に挑戦して下さいってことなんでしょうか。ビデオの中身は、社員たちが次々と自分自身の限界に挑戦していくシーンがつながっていきます。いろいろです、マラソン走ったり、鯛釣ったり、息止めたり、バンジーしたり、なかなか良くできてんですけど、そのラストを飾ったのが、なんと、あのマンちゃんのスカイダイビングだったのですね。・・・圧巻です。

僕の長い友達のマンちゃんが、空飛んでます。生まれて初めて、還暦直前に。

やってくれます。・・・笑った。

その後、会社では、寿退社したN田さんが来なくなり、ちょっとさみしいですが・・

一方、競馬麻雀好きのT田くんのことを、筋金ギャンブラーのマンちゃんは、可愛がりながら指導しています。義理の父と息子のように。

ま、今年一番の良いニュースだったことは確かです。またしてもエネルギー使い切ってますけど。

Skydiving

2012年11月29日 (木)

心が残るということ

人の縁とは不思議なもので、ある時深くかかわると思えば、疎遠になったり、また近づいたり、好きになったり嫌いになったり。そして、突然の別れがやってきたり。

先日、大切な友を失くしました。54歳でした。

知り合ったのは、30年も前、彼は四つ年下で、新入社員として私の働いていた会社に入ってきました。ちょっと面白い奴でしたが、数年して彼は会社を辞め、その後、私も会社を辞め、しばらく会っていなかったのですが、ひょんなことから、この数年付き合いが再開し、今度はすごい勢いで接近し、しょっちゅう一緒にいるようになりました。

彼も私も年相応に変わったかもしれないけど、昔とは関係がまた違って、なんだか気が合って、4歳違いの兄弟ができたようでした。

でもこの秋、思いもかけぬ別れがやってきました。急病で入院して、何をする間もなく、逝ってしまいました。まだ実感がありません。

こたえました。

運命とでもいうのか、何かの力が人を近づけたり離したり、突然連れ去ったりしているのでしょうか。悲しくていろいろなことを考えさせられて、まだどうやって気持ちの折り合いをつけていいのかわからぬままです。

昨夜、彼を偲ぶ会が行われて、私は司会をすることになり、彼に何かを語らねばと思い手紙を書きましたが、でも、その場で手紙を読むことはできませんでした。彼の二人の息子が、お父さんを語ったところから、私は涙で何もしゃべれなくなったんですね。弟分のヒロシは、清書した手紙を9分もかけてきちんと読んだのに…立派でした。

手紙は彼の奥さんにお渡ししました。

 

 

以下、ちょっと長い手紙です。

 

いまだに君の不在に、何の実感ももてず、受けいれることできずにいます。

いい年をして、いつまでもこんなことを言っている自分をどうしようもなく、そのような気持ちのまま、今夜は、君を偲ぶ会の司会をさせていただくことになりました。

君が大好きだったゴルフを、この数年間は、たぶん最も一緒にプレイしたと思われるので、・・・・・・・、私がやらせていただきます。

君のゴルフは筋金入りでしたね。時間をかけて、それこそきちんと鍛錬し研究して身につけたもので、本当にゴルフというものに対しての造詣が深かったし、全くほれぼれする球筋でした。

プレイのスタイルもファッションもかっこよかった。

何に対しても、興味があることにはきちんと向き合う人でしたよね。

何年か前に、ひょんなことから君とゴルフをやるようになった私はといえば、ゴルフというものに対していい加減で、どうやって取り組んだらよいのかも、分かってない人でした。

でも、君を通して知るゴルフは本当に面白くて、いつの間にか本気でやるようになり、君と君の先生でもあるヒロシプロの特訓を受けて、毎回、目からうろこが落ちる気がしたものです。

結局のところ、100のあたりを行ったり来たりで、君の大のゴルフ友達というにはちょっと恥ずかしくて、君にも悪い気がするのですが、ほんとによく一緒にゴルフをしました。

ただ、よく考えてみると、ゴルフは口実でもあり、私は君に会いたかったんだと思います。

君とゴルフをしながら、つまらない冗談を言って笑ったり、仕事や家族や友達の話をしたり、また次のゴルフの相談をしたりする時間が、私は大好きでした。

きっと君の人柄なんだと思います。

ゴルフの連絡は、いつもメールできましたが、そのたびに顔がゆるみました。君は酒が飲めないのに、一緒に飯食ってるとほんとに楽しかったし、いろいろ旅行にも行きました。君の仲間ともたくさん友達になれました。

本当に世話になりました。

 

ところで、君と初めて出会ったのは、間違ってなければ、1981年の春でした。君が初めて就職した会社に、すでに先輩として私がいたわけで、ずいぶん昔の話ですね。一緒に仕事もしたけれど、君は湘南のサーファーで、波のいい日には波に乗ってから出社するような奴で、私は、毎晩どこかのバーで突っ伏して寝てるような奴だったから、あんまり接点なかったし、そのうちに君は会社辞めて、湘南に帰って事業を始めたから、しばらくご無沙汰していました。

でも、縁というものはつながってて、私にとって、6歳年上の兄のような先輩が二人いるのですが、この二人が昔から仲良くて、15年ほど前に、湘南の君の家のすぐ近くに住み始めたんですね。コーちゃんと、ヤマちゃんですが。

そしてこの二人が、まさに君の10歳年上の双子の兄のような存在になりました。

ほんとに仲良しで、笑いが絶えなくて、わたしはたまに3人を見かけると、

「よっ、湘南三バカトリオ!」などと言っておりましたよ。

君も、「ほんとにしょうがない人たちですよね。」などとぼやきながら、

ほんとに兄さんのように思ってたと思います。

私も君のゴルフの弟子みたいになってからは、よく湘南にも行くようになって、四バカカルテットみたいになって、私、一人っ子だから男兄弟ができたみたいで嬉しかったんですね。

君は、仕事でも地元でもほんとに頼もしいリーダーだったから、気持ちのいい後輩たちがたくさん集まっていて、いつもにぎやかでした。

こんな時間がずっと続くことに、何の疑いもなかったですね。

 

急いで逝ってしまったから、心残りのことも多かったと思うけど、私でよかったらいつでも話しかけてほしい。

君からもらったものは、ずっと大切にしていきます。

ほんとに、いろいろありがとう。 Kazumi

 

 

 

 

 

2012年9月 5日 (水)

オモダカヤッ!

市川亀治郎という歌舞伎役者を、はじめて見たのは、いつ頃だったか。まだ声変りもしていない子供だったし、この人は生まれが1975年なので、1980年代の前半だった気がします。

そのころ、マイブームというか、仕事仲間のNヤマユキオ、Nヤマサチコ夫妻や、先輩のY田さんたちといっしょに、市川猿之助の大ファンとなり、たしかNヤマサチコさんは「澤瀉会」(おもだかかい)にはいって、皆のチケットを取ってくれてた気がしますが、ともかく市川猿之助の歌舞伎公演は全部観ておりました。

いや、本当に面白かったのですよ。猿之助という人は、役者として、比べようもなくすばらしいのだけど、演出家としてもすぐれた人で、明治以後、疎まれた外連(けれん)を復活させたり、外連とは早替わりや宙乗りのことを云うのですが、他に古典劇を復活したり再創造したり、いわゆる当時の由緒正しい歌舞伎の世界では、ニューウェーブというか、アバンギャルドで、私達は大いに支持してたわけです。

昔ながらの歌舞伎という文化に触れながら、この経験は、相当に楽しかったんですね。

その猿之助さんの弟が市川段四郎さんで、いつも重要な脇役をおやりになっていて、その息子さんが市川亀治郎なんです。子役の時からとても上手で、人気者でしたが、成長するに従ってどんどんうまくなるんですね。私達はそれが嬉しくて、彼のことを親しみをこめて、カメ、カメと呼び、当時30代だった私達は、

「カメの成長を、老後の楽しみにしよう。」などと話し合っておりました。

それから何年もの間、私達の猿之助熱は冷めず、追っかけは続くのですが、1986年には、彼の大事業となるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が発表され、この人のスケールの大きさにまた驚かされます。このあと結婚したばかりの私の妻も猿之助ツアーに加わり、古典もスーパー歌舞伎も逃さず観劇する勢いで、1993年の「八犬伝」くらいまでは観たと思いますが、その後少しずつ縁遠くなってゆきます。

ある意味、猿之助の役者としてのピークを見届け、少年から大人になってゆく亀治郎を見届け、私達の澤瀉屋歌舞伎三昧は、一段落します。

そのあと、2000年頃ご縁があって、猿之助さんと幼いころに離別された息子の香川照之さんと仕事をご一緒したことがあって、頭のいい人だなあと思って感慨深かったり、最近になって、大人になった亀治郎さんをテレビで見たりして、やっぱり澤瀉屋の顔だなあと感心したりしていました。

そして今年、あの亀治郎が、四代目市川猿之助を襲名するというニュース。そして、香川照之さんが、九代目市川中車を、香川さんの息子さんが五代目市川團子を襲名、6月7月に披露公演があるということ。

そうかあ、そういうことになったら、久しぶりに猿之助歌舞伎観たいなあ、と思っておりましたところ、うちの奥さんがインターネットで、7月の「ヤマトタケル」の桟敷席をゲットしてくれました。桟敷席かあ、懐かしいなあ、昔よく分不相応な桟敷席で酔っぱらいながら観劇したなあ、などと感激しておりました。

さて、四代目市川猿之助と九代目市川中車の口上にはじまり、私としては26年ぶりの「ヤマトタケル」のはじまり、はじまり。

Ennosuke
いや、驚きました。

舞台に現れたヤマトタケルの姿は、先代の市川猿之助がよみがえったかのごとくでした。

そうなんです、身体つき、身のこなし、声、顔形、完全に私の記憶の中にいるあの26年前の、市川猿之助です。ちょっと怖いほどなんです。

澤瀉屋という血のなせることなのでしょうが、一つの名跡を一族で守る梨園という社会だから起こることです。亀治郎という役者は、少年の時からずっと、この猿之助という役者を凝視して育ったんですね。そう思いました。

「ヤマトタケル」の原作者である梅原猛さんは、1986年の初演の時、一人の少年が楽屋の廊下で竹刀を振ってヤマトタケルの真似をしていたのを覚えています。少年が誰だったかは云うまでもありません。

今更ながら気づいたんですが、歌舞伎のファンには、こういったDNA的とでも云う楽しみ方があるんですね。歌舞伎の世界がどうして世襲制なのかよくわかりました。

「いやあ、先代と生き写し。」などと云って、しびれるわけです。

そこには、一方で、その名跡に足りているかどうかの、厳しい客の評価もあるのでしょうけど。

そういう意味では、四代目市川猿之助襲名は、多くの猿之助ファンをしびれさせました。私もなんだかとても嬉しかった。

そしてもう一つ、澤瀉屋ファンを絶叫させたのが、第三幕、子役の團子がワカタケルに扮して登場するシーンです。もちろん市川團子は、香川照之さんのご子息で、先代猿之助さんの直系のお孫さん、まあ一族のプリンスなのですが、この時の客席からの掛け声がすごかった。

「よお、オモダカヤ!」「オモダカヤ!!」「オモダカヤ!!!」

これはもう、一夜の夢などではなく、はっきりと見え始めた澤瀉屋の未来なのです。

 昔、「成長した亀次郎を、老後の楽しみにしようね。」と語ったことが、

正直、その通りになってきました。そして、その先の未来もたのしみです。

長生きしなくちゃだわ。

 

 

 

2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2012年1月13日 (金)

走るということ

最近、「走る」ということに興味を持っている人が、私の会社のまわりにもいて、たとえば、転覆隊のW君や、キャンプ好きのO君だったりするんですが、今度の社員旅行は地方のマラソン大会に皆で行って出場しようなどと言っているわけです。そのO君が丸い目をまた丸くして、この本 面白いですと紹介してくれたのが、「BORN to RUN」という本で、これ、たしかに本としては面白そうで、これから読み始めるんですけど、でも少なくとも、わたし自ら、走るという行為に興味を持つことは、多分ないだろうと思うんですよ。今までの人生で、人から強制されることなく自分から走ったということはないわけで…

そんな話していたら、ふと、はるか昔、10代の頃、走ることを面白がっていた時期がちょっとあったことを思い出したんです。

高校生の時、私は何の部活にも入らず、やたら映画ばかり見ている奴だったんですけど、やっぱなんか身体がなまってるなあと感じていた時、友達がプールの下の体育会の余った部室にバーベルが積んであるのを見つけて、ちょっと仲間集めて、皆で筋肉モリモリになろうと云い始めたんです。でもまあ、筋肉モリモリっていうのも、あんまり興味ないし、バーベル上げながら、放課後の運動場で体育会の練習見てたら、みんなよく走ってるんですね。それで仕上げは、学校から少し離れた小高い山まで往復5km位のコースを走るんです。その中で、最も速く、最もきれいな形で走るのが、サッカー部のエースストライカーのI 田君でした。

彼とは同じ路線の汽車通学だったので、毎朝一緒に通学する仲の良い友達でした。いつもしょうもないいたずらばかり考えてる、ちょい悪系で、そのあたりが私と気が合ったのか、まあそうやってるぶんには、何の変哲もないそこらへんの高校生なんですが、サッカーやってるときと、走ってるときは、超カッコイイのですよ。

なんだか、I 田君の走る姿みて、俺も走ろうっ!と思ったわけです、急に。

そして、これが意外と楽しかったんですね。テニス部女子なんかも一緒に走ってるし、自分なりに、だんだん速くなっていくのも自覚できるんです。私、短距離はまるで駄目なんですが、そういえば中学の時、1500mとかってわりと速かったよな、などと、自信も出てきたりして、もっと速く走るにはどうしたらいいんだろうなどと、考えたりもしました。でも、通学中I 田君と、走ることに関して話をしたことは一度もありませんでした。

ていうか、彼はそのことに関して全く別次元の奴でしたから。校内マラソン大会は、いつもぶっちぎりの1位でしたし、サッカーでは校内でただ一人、国体に出場してたと思うし、彼と走ることを語るなんて、恐れ多かったんです。

それでも、最後の校内マラソン大会では、何百人かで60番に入って大満足。I 田君は、相変わらず、はるか前方を駆け抜けて行きました。もちろん1位で。いいフォームだったなあ。

そして、そのうち受験になって、それぞれ進学して、そんなこともあったよなという程度の記憶になってしまいましたが、

その後もI 田君は走り続けてました。地元のサッカーの大学リーグで得点王になり、全日本大学選抜に選ばれて、東京の合宿に来た時は、私は車を借りて、合宿所まで彼を送って行きました。大学を卒業した後は、サンフレッチェの前身である自動車会社のサッカー部に入り、FWで活躍しました。彼は、母校の誇りでしたし、あの力強い走りは、いまもはっきり覚えています。

その後、お互いに忙しく、時間が経って疎遠になり、年賀状を交わすくらいのことになっていましたが、昨年の秋に用事があって、故郷の高校時代の友達に電話したとき、I 田君が春に病気で亡くなったことを知らされました。あの強靭な人が・・・信じられませんでした。

いろいろ思い出します。私が小さな会社を始めた時、わざわざ訪ねてくれたことや、私が結婚して初めて帰郷した時、自分の奥さんと子供を連れて、会わせに来てくれたことやら。

書いてたら涙が出ます。

インターネットで、彼の名前を検索したら、もう何年も前から、自身の母校の大学のサッカー部の監督になっていたこと、2007年にはそのチームを率いて、初の天皇杯出場を決めたことなどがわかりました。それに、その記事には、その時彼が悪性のリンパ腫を患っていたことも書いてありました。

何にも知りませんでした。自分に腹が立ちました。

もっと歳とって、君の若い時の自慢話を聞きながら、酒を飲みたかった。どうやってあんなに速く走れたのか、もっと前に聞いとくんだった。

 

そんなこと思いながら、自分がいま走ったらどうなるんだろうかと考えました。

デブった体を支え切れず、ひざが壊れるな、たぶん。

Hashiru 

 

 

 

 

 

 

 

2011年11月 7日 (月)

東京オリンピックとクラス対抗リレー

人にはそれぞれ好きな季節というのがあると思いますが、私の場合、10月から11月にかけてって、好きなんですね。夏暑いのも、冬寒いのも、それぞれ良いのですけど、続くとやっぱりめげてしまいますし、春は世間の人が云うほど浮かれた気分になれないんです。昔から、木の芽どきっていうじゃないですか。あれあんまり得意じゃないんですね。

10月に入ってだんだん空気が乾いてきて、朝晩が過ごしやすくなって、たまにグッと冷え込んだりすると、なんだか気合も入るし、欧米のように秋が新学期だった方が、学校の成績もよかったんじゃないかと思ったりしてたわけです。

夏が去って行った寂しさはあるけど、その寂しさがちょっと良くて、春と夏にためられたエネルギーが、スッと拡散して、次のフェーズに移っていく感覚があります。

いろいろあったけど、まっ、新しい気持ちで出直そうかみたいなところがいいんでしょうか。

あと、気持ちがいいのは、空が高いこと。なんだかせいせいしませんか。

体育の日って10月10日じゃないですか。これって1964年に東京オリンピックの開会式が開かれた日なんですけど、時の政府は、過去の気象庁の記録の中から、もっとも快晴の多かった10月10日を開会式の日に選んだという話を聞いたことがあります。

当時の日本人はみんな、この日を待ちわびていました。1945年の敗戦から、約20年。

この日のために東海道新幹線の開通を間に合わせ、首都高速道路を完成させ、世界中にこの国の再建を知らせる日でもありました。やはり、どんなことがあっても絶対に晴れてほしい日だったと思います。

快晴の国立競技場に、古関裕而作曲のオリンピックマーチが響き渡り、355名の日本人選手団が登場した時の感動は、あの時を共有した人々にのみ分かることかもしれません。

みんな本当に感無量だったわけです。その後、市川昆監督によってつくられたドキュメント映画「東京オリンピック」を観ても、そのシーンで必ず涙が出ます。当時10歳でしたが、今までで唯一、自分が日本国民なのだと自覚した出来事でした。この話を感動とともに伝えようとすると、ちょっと気味悪そうにする若い人もいますが。

その日は国民の祭日となり、毎年この日がやってくると、東京オリンピックを想い出し、全国的に運動会の季節となります。

個人的ですけど、その運動会で、一つ忘れられない思い出があります。

小さいころから運動会ってあんまり好きじゃなかったんですね。なぜかというと、ともかくスポーツというものが苦手なわけです。幼稚園のころから、徒競争という競技でテープを切ったことがなく、油断すると自分の後ろに誰もいないということが、ままありました。それが憂鬱な理由だったんです。

ところが、東京オリンピックの数年後、小学校の運動会で妙なことになります。私は高学年になっており、恒例のクラス対抗リレーの選手の選抜が進んでおりましたが、なぜか私がその中の1名に選ばれてしまったのです。

古い話で、うろ覚えですが、クラスの数は5クラス、各クラス5名の選手を選ぶことになっていました。私のクラスには、学年で一番速いカガワ君がいたのはおぼえています。そして彼以外にもかなり足の速い奴らがそろっていて、上から4人はすぐに決まりました。多分、あとの20名ほどは大差なかったんだと思いますが、私が選ばれる理由はなに一つありません。あとの一人は誰でもよかったから、誰になってもほかの4人で勝てそうだからだったのでしょうか。たしかクラス皆で投票したのですが、5人目に私が選ばれてしまいました。スポーツとは全く別のことで目立つ奴であったことは確かですが、面白がられたふしはあります。

なにせ初めてのことなので、母親にも話しました。母親はよろこぶ前に絶句しました。そうなんです、よろこんでる場合じゃないんです。次の日から真剣に練習しました。バトンの受け渡しとか。でも練習しても急に走る速さが変わるもんではありません。思えば仲間の4人はいい奴らでした。よく練習に付き合ってくれました。そして作戦会議、です。主に走る順番を決めますが、カガワくんが何番目を走るかが最も大事なことです。私はともかく決まったところを死ぬ気で走るしかありません。4人は考えに考え、あろうことか私をアンカーにする作戦を立てます。私にバトンが渡される前に、完全にぶっちぎろうという作戦なのですが、各クラスのアンカーにはチーム最速の奴がきます、ふつうはそういうものでしょ、あーあ、どうにでもなれです。

このクラス対抗リレーは、クラス対抗リレー史上、最も盛り上がったクラス対抗リレーになりました。私にバトンが渡された時、すでに他のクラスは、半周以上離されておりましたが、ここからの1周が恐ろしく盛り上がったわけです。競馬で云えば、私の好きな展開、逃げ馬が直線で差し馬に差されそうになりながら、逃げ切れるかどうかという展開です。Relay

私はただ無我夢中でしたが、だんだんに周囲の歓声が、異常な音量になってきました。後ろを見る余裕はないです。必死でした。テープを切った時、私のまわりには、団子状になった他の4人のアンカーたちがいました。いわゆる鼻差、写真判定か。しかし、かろうじてテープを切ったのは私でした。4人の仲間が駆け寄ってきます、スローモーションでした。あとにも先にも運動会でテープを切ったのは、この時だけです。しばらく夢でうなされたりしました。

あれから、大好きなこの季節になると、よくあの事を思い出します。でも、勝って良かったです。負けてたらきっと嫌いな季節になってたような気がしますもんね。

2011年8月 3日 (水)

Facebookのお誕生日

7月28日が、私誕生日なんですね。でも年齢も年齢だし、この何年も、特にこれといった何事もなく、近所に住んでる3歳違いの従妹の誕生日が1日違いなので、久しぶりにメールのやり取りするくらいで、ただ淡々と過ぎて行くんです。たいてい。

ちなみに、7月27日は、この従妹の旦那とその友達とでゴルフに行ったので、会社休んだんです。

で、その旦那と別れ際に、

「あ、奥さんに、誕生日おめでとうと言っといてね。」

とかいって、うちに帰って早くに寝ました。

次の朝、会社に来てみると、休み明けはいつものことなのだけど、メールがたくさん来ていて、この日はやけにfacebookからのメッセージが多く、これがみんな、お誕生日おめでとうという趣旨のものなんですね。

そおか、facebookの時代ってこういうことなのか。「ソーシャル・ネットワーク」っていう映画も観て面白かったし、いろんなところで、facebook話もいろいろ聞いたけど、実際どういうことになるのかは、あんまりわかってなかったんです。

 

2月頃だったか、一人の友達からfacebookへの招待が来たんですね。

「下河原さんからFacebookへの招待が届きました。Facebookに登録して、友達の近況や写真をチェックしたり、自分の最新ニュースを友達に知らせましょう。」

という文面でした。下河原さんも私も、その後それほど積極的に参加しているとは言い難いんですけど。

それから、徐々にさまざまな友人や知りあいから、

「○○さんから、Facebookの友達リクエストが届いています。」

というお知らせが来るようになりました。当然よく存じ上げている方が多く、中には存じ上げない方もいますが、たいていの場合は、友達リクエストやぶさかではないので、承認するわけです。そうこうしているうちに、私のfacebook友達は、現在72人ということになっております。

 

そんなことで、お祝いのメッセージをたくさんの方から頂戴し、ほうっておくのは失礼かとも思い、少しあわてもしたので、お昼前にお礼のメッセージを、私の方から出したんです、facebookに。そしたら午後からもいろんな方から、おめでとうメッセージが届き始めたんです。迂闊でした。私が大々的にお礼を云ったばかりに、それが催促になってしまったんだと思います。

要するに、私、この機能をよくわかってないし、使いこなせてないんですね。だいたい個人データの生年月日のところだって、月日だけ書いとけばよかったのに年まで入れるから、みんなに実年齢バレバレになっちゃってるし、男だからいいようなものの。

結局、7月28日が終わりに近づいた23:33までメッセージいただきました。スミマセン。

 

でも何だか、嬉しかったですね。

結果的には、何十人もの人からお祝いされたわけです。

子供のころから、7月28日って夏休みが始まったあたりで、学校の友達には会えないし、暑いし、あんまり誕生日ってやったことがなかったんです。1回だけ近所の子供集めてやったことがあったんですけど、誰かが持ってきてくれたおもちゃのボクシンググローブで、本気の殴り合いになって、友達が鼻血出して倒れちゃった記憶が強烈で、誕生日っていうとそのことばかり思い出したりしてましたから。だから、こんなにたくさんの人からいっせいにおめでとうと言われたのは初めての経験だと思うんですね。Facebookが知らせてくれたおかげであります。

今年、6月に誕生日を迎える友達のリストがfacebookから届いた時に、長く会ってない元仕事仲間の女性がいたので、懐かしい人集めて飲み会やったんですね。思ったとおり盛り上がりました。その時に、7月には私とそこにいたもう一人の友達が該当することがわかり、来月もやろうということになります。7月も7,8人集まって飲みました。また盛り上がります。そうすると不思議なもので、8月生まれの人がそこにいるのですね。そこで、そういえばあの人も8月だよね、そうだそうだということになります。これは確実に来月もやりますよ。

なんだかこの勢いでしばらく続きそうです、お誕生会。

 

友達の近況を知るのも、自分の最新ニュースを友達に知らせるのも、確かに楽しいです。誕生日を知らせるのはその最たる機能でしょう。何十年も音信が途絶えていた友人から、突然連絡があったのも嬉しかったです。これも、この仕組ならではのことです。

でも、先程も申しましたように、私的にはあんまり積極的に参加しているとはいえない状況です。Facebookを覗くと、実にいろいろな方からの、楽しい経験談や、新しいニュース、おもしろい写真などが溢れているのですが、どうも私には、こういう気のきいた情報を、サッサッと手早く送る才能がなさそうですし、だいたい身の回りのそういう出来事に気付く能力も低そうです。当分は、みなさんが発信した情報を受け手として楽しませていただくことになりそうです。

ただ、この機能のおかげで始まった「お誕生会」で、先頭きってはしゃいでいるのは私なんですけど。

やっぱり、人間がアナログなんでしょうか。

Happy birthday   

2011年5月20日 (金)

映画「チコと鮫」 再会

Tiko and the shark

「チコと鮫」という映画があるんですけど、1962年の制作となってるので、日本で公開されたのがその翌年くらいで、私は9歳の時に見たことになります。少年だった私はこれ見てえらく感動してるんですね。せがんで2回見たような気がします。

何故そんなに感動したのか。なんとなくのストーリーといくつかの印象に残ったシーンは覚えているのですが、だんだんと記憶は遠ざかっていきます。大人になってからも、ほぼリバイバル上映はされてないし、ビデオとかDVDを探しても、これだけは見つかりません。インターネットの時代になって、何度も検索してみましたがやっぱりダメです。

いつしか飲み屋とかで、も一度見たい映画の話になるたびに、「チコと鮫」が、みたい みたい みたい、というのが癖になっておりました。まして、人間、見れないとわかったとたんに、どうしても見たくなるということもあり。

そして、去年、またある飲み屋で、その話になったと思います。その時いっしょに飲んでいたのは、Nヤマサチコさんという私の長い友達で、同世代でもあり、「チコと鮫」のこともよく知っていました。というか、この人は本当にいろんなことを、正しくよく知っている人でして、この人のブログを読んでるだけで、かなりためになったりするのです。

その翌日だったと思いますが、サチコさんからメールがきまして、「チコと鮫」の1シーンが、YouTubeで見れることと、そのアドレスを知らせてくださいました。

約50年ぶりのチコとの再会です。そのシーンは、主人公のチコと鮫が初めて出会うシーンでした。

この映画の舞台は、自然豊かなタヒチです。少年チコは、海岸に迷いこんできた人食い鮫の子供を助けてやり、育てます。やがて成長した鮫はチコの前から姿を消し、それから10年後、たくましい若者となったチコは、海底で5メートルにもなったその鮫と再会します。

しかし、チコと鮫の暮らすタヒチには、だんだんと文明の波が押しよせ、かつての暮らしが失われていく中、いろいろなことが起き、チコは美しく成長した幼なじみのディアーラと鮫を連れ、平和に暮らせる島を求めてタヒチの波間に消えていくのでした。

だいたいこんなお話だったなと、少しずつ思い出すにつれ、ますますその映画を見たくなりました。

それから約1ヶ月後のある日、Nヤマサチコさんより小包が届きます。開けてびっくり、なんとそれは、“Tiko and the SHARK”と書かれたDVDでした。やったあああ・・・・

急ぎサチコさんに感謝のメールを送り、ワクワクしながらDVDプレーヤーにDVDをセットしました。

でも、ところが、うんともすんとも云わんのですこれが。そうかあ、この映画はイタリアとアメリカの合作ということだから、イタリア製DVDだとPAL方式かもなと思いいたり、そのあたりに詳しそうなわが社の社員に相談しました。(わが社は一応映像関係の会社なので) そこで、しばらくいろいろやってみてくれたんですが、わが社の機材では全く太刀打ちできぬことが判明し、専門の業者さんに判定していただくことにしました。そうこうしておるうちに、あの大地震に見舞われ、みんなそれどころではなくなってしまいました。

それから2ヶ月ほどたった数日前、このことをちゃんと覚えていて下さったポスプロの方から、きちんと日本の方式に変換された「チコと鮫」が届きました。

ああ、やっと会うことができました。みなさんほんとにありがとう。

一人でじっくり見ました。子供のころの記憶というのはたいしたもので、シーンによってはかなり正しく覚えていたりしますが、まったく違っていることもあります。だいたい、思い出していた時の映像というのは、眩いばかりのタヒチの光がキラキラした総天然色でしたが、映画にその色はありませんでした。モノクロの画全体に、セピアのフィルターを掛けているようで、人の肌はカラーに見えますが、よく見ると海も空もセピア色でした。多分、私がそのあとに見たいろいろな映画や風景の色が、私の記憶の「チコと鮫」に着色したのでしょう。

音声の言葉はすべて英語でした。アフレコだと思います。9歳の私が見たときには、字幕が入ってたと思いますが、小さい時から字幕の映画には慣れていたので、当時でもかなりの部分は理解できたはずです。それに、すごく簡単なお話ですし。

このDVDを見ながら、9歳の私がこの映画の何に感動していたか、少しずつ分かってきました。この映画、水中撮影がすごく上手なんですね。当時まだろくに泳げなかった自分にとって、水中を鮫と一緒に飛ぶように泳ぐ同年代のチコに憧れたのと、そして見たこともなかった南の島の風景に触れたこと。そして、成長したチコのガールフレンドのディアーラが美人でタイプだったことなどです。

いやはや、約50年の時を経て、得難い体験をしました。

 

実は、もう一本どうしてもビデオやDVDで見ることのできぬ映画がありまして、それは、1968年に公開された「黒部の太陽」という映画です。

14歳の私がめちゃめちゃ感動した映画でして、これを見たばかりに土木工学科に進学してしまったという曰くまでついております。

「黒部の太陽」に主演し、制作も手掛けた石原裕次郎さんは、ことのほかこの映画に思い入れが強く、この映画を映画館以外でかけることを許しませんでした。つまりビデオ化はありえません。1987年に52歳の若さで亡くなった後も、その遺志は石原プロモーションの社員たちに継がれ、未だ、ビデオDVD化はされておりません。

というような事情で、これもかれこれ40数年間見れておりません。YouTubeで予告編だけは見れますが。

 

ところが先日、石原プロモーション社長の渡哲也氏退任のニュースの時、2年後の会社創立50周年に合わせて「黒部の太陽」のDVD化の検討が始まったという情報が得られました。

これは朗報でした。DVDを鑑賞してまた熱く語り合いたいものです。Nヤマサチコさんは、黒部ダムのこともめっぽうお詳しいのですよ。

 

 

 

2010年12月15日 (水)

窖(あなぐら)の、はなし

今年、深く記憶に残った出来事のひとつに、チリの鉱山落盤事故がありました。

地下700mに閉じ込められた33名の作業員が、全員無事に生還したあの事件です。

生存が確認されてから、救出されるまで、全世界が注目しました。私たちは徐々に中の状況を知ることになり、彼らの帰りを待つ、妻や愛人のことまでも知ることになりました。

彼らがわずかな食料と水で、69日間生き伸びたことも、その彼らを運び出したのがカプセルであったことも、驚きであったけれども、

全員で生還することを信じていた、その強靭な精神力と、それを支えていた彼らのチームワークと、そのリーダーの存在は、世界中の人々を感動させたのでした。

 

しかし、700メートル地下のあなぐらの中というのは、やはり怖いですよ。

私は、狭い、暗い、高いは、全部ダメな人なのですが、昔のある体験が忘れられません。

それは、大学4年生の時に所属していたゼミの、卒業研修旅行の時のことです。行き先は、その当時、まさに建設真っ最中であった、青函トンネルの工事現場の最先端部分、つまり津軽海峡の真下のあなぐらです。何故そんなところへ行くのかというと、このゼミは、工学部、土木工学科のゼミだったからです。

今となっては、不思議この上ないのですが、閉所、暗所、高所の三重苦恐怖症の私が、よりによって土木技術者を目指し、卒業旅行と称して、地底のトンネル工事現場に向かっていたのです。そういうことになった理由は単純で、中学生の時に見た映画「黒部の太陽」に、めちゃめちゃ感動したからでした。

この映画は、戦後の経済成長を支える上で、どうしても必要だった黒部第4ダム建設にあたり、その建設資材を運搬するための、北アルプス大町トンネル掘削工事を描いたものでした。

工事は、何度も何度もフォッサ・マグナ(大断層地帯)に沿った破砕帯に阻まれ、多くの犠牲者を出し、それでも技術者たちはくじけず、ついにトンネルを貫通させます。実話に基づいたこの映画を見た中学生の私は、男は土木だと静かに決意したのです。

その映画を見てから8年ほど経っていましたが、実は、そのころにはすでに熱は冷めていました。うすうすというか、はっきりと適性がないことに気付いていたのです。

全員参加のゼミ旅行に、私は仕方なく参加しましたが、他の10数名のゼミ仲間たちは皆はりきっていましたし、私と違って土木技師になることに燃えていました。

鉄道を乗り継いで、前夜に入った竜飛崎の近くの民宿の酒盛りも盛り上がっており、そこまでは私もよかったのですが、翌朝工事現場に入ったあたりからは、私だけすっかり無口になっていました。

まず、ものすごくでかいエレベーターに、ものすごく長く乗せられたと思います。ひたすら下へ下へ、ここが今、地下何メートルであるかとか何とか、建設会社の担当の方が教えて下さるのですが、聞きたくもありません。だんだん顔色が悪くなっていることが、自分でわかります。

エレベーターの扉が開くと、そこは地底基地の活気があり、仲間たちは歓声をあげました。ここからは延々とトロッコに乗ります。「黒部の太陽」で見た光景でした。走るトロッコの横に水柱が落ちてきていました。嫌な予感がして、ちょっと舐めてみると、これがしょっぱい・・・・・海水です。建設会社の人に、

「これって海水ですか。」と聞きました。黙っていると怖かったし、

「そりゃあ君、ここは海底の下だからさあ。カッカッカッカッ。」

みたいなリアクションでした。少し頭が痛くなりました。

それからしばらくして事件は起きました。トロッコが急に、ガッタアアンと停まってしまったかと思ったら、すべての灯が消えました。全部。正真正銘の真っ暗です。今まで経験したことのない闇です。視界はすべて黒に塗りつぶされました。

Kie--- わたしの緊張はピークを振りきり、絶叫していました。夜道で、若い女性が痴漢にあった時のような悲鳴だったと、あとで云われました。聞いたことあんのかと思いましたけど。

誰かがライターで火をつけます。完全に歯の根が合わなくなった私の顔が浮かび上がったようです。皆が励ましてくれました。

そのあとすぐに、電灯がつき、トロッコも動き出しました。聞けば、この現場では、ある意味ブレーカーが落ちるようにこういうことがよく起こるそうで、いってみればこれは日常茶飯事なのだとのことでした。どうしてそういう大事なことを先に言っといてくれないんだろうかと、現場の人を恨みましたが、ダメージを受けているのは私だけでした。でも、死ぬかと思ったわけで。

その夜は、どうしても元気になれない一人の仲間を、皆が元気づけてくれました。友達っていいもんだなあ、でも、この人たちとは、ここで袂を分つのかなと思っていました。

そんなことを想い出しながら、チリの人たちの69日間は、想像を絶することだったんだなと、あらためて考えたのでした。

 

 

 

2007年7月 3日 (火)

友達の死

なんだかどうにかなっちゃうんじゃないかっていうぐらい暑かった今年の夏も、いくつか台風が通り過ぎて行くうちにいつのまにか終わってしまいました。自分の周りでは時間の経つスピードがどんどん加速しています。どうして子供のころは今よりゆっくり時間が過ぎていたのでしょうか。それは、大人になるにしたがって記憶力が弱くなるので、ただ単に日々の出来事を忘れてしまい、時間が速く過ぎた気がするんだといった人がいました。

そうかもしれません。子供のころはほんの些細なこともいつまでもしつこく覚えていた気がします。夏も長かったもんなあ。私達は、どんどん増えて行く記憶を、仕舞い込んだり引っ張り出したり、失くしてしまったりしながら日々暮らしています。たくさんの記憶が溜まって溜まっていくうちに、大人は記憶力が弱くなってしまうのでしょうか。

Camp_5 この夏、学生時代の友達が一人亡くなりました。大人になる前の記憶をたくさん共有していました。でもそれを確認しあうこともありません。亡くなったことすら知りませんでした。最後に会ったのは彼の結婚式だったでしょうか。どこかでいつでも会えると思っているうちに、とんでもなく時間が経っていました。

亡くなってしばらく経った8月のある日に彼の自宅を訪ねました。道路公団の橋の設計の仕事をしていたこと、つくった橋が彼の誇りだったこと、その仕事のストレスから胃をやられてしまい仕事を失ったこと、そのことが最後の病気の遠因になってしまったこと。私の知らない彼の時間がそこにありました。こんなときに何の役にも立たなかった無力感と、記憶の一部をなくしてしまったような喪失感。こたえました。

このことで音信の途絶えている友達数人と電話で連絡をとりあいました。近いうちに会うことになるかもしれません。夏の終わりに時間ということを少し考えました。

2004/10