作家 Feed

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

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私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

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「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

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2023年10月18日 (水)

「PERFECT DAYS」という映画

まあ、昔から映画が好きで、常になんやかやといろんな映画を観てるんですが、コロナもあってこのところ本数は減っております。ただ根が好きなもんでわりと観てはいるんですけど、見渡してると、映画界には国内も国外も新しい才能が次々出てくるし、技術の進歩も目覚ましく、映画館へ行けば常に新しい何かを見せてくれます。
ただ、古今東西の多くの映画を観てきて、その表現のさまざまな手の内も知っていたり、そもそもこっちも歳をとってきて、感受性が鈍くなってきていることもあり、最近、その作品そのものが、深くこちらの内側に入ってくることがあんまりなくてですね。ただ読後感として、面白かったとか、いい映画だったとかいうことはあるんだけど、なんだか若い時の、観た後に忘れられない映画みたいな経験は、このところなかったんですね。

それで、この春に観た映画の話なんですけど、「PERFECT DAYS」という映画でありまして、なんだか久しぶりに響いたんですね。
東京で公共トイレの清掃員をしている、ある物静かな男の日常を、カメラはただ見ているのですが、映画はその仕事ぶり、暮らしぶりをドキュメントのように淡々と描きます。ただ、観客としての自分は、なぜかそこから目を離すことができません。気がつくと自分は、主人公の平山という男のすぐ隣にずっといて、ゆっくりその世界に引き込まれて行きます。
男は下町の安アパートに一人で暮らし、暗いうちに起きて、清掃の仕事の装備をした自分の車で都心へと向かいます。トイレ掃除が終わると、下町に戻り、銭湯に入って、立ち飲みで一杯、アパートに帰って静かに本を読む暮らしです。一人の部屋には、大量の本とカセットテープが整然と並んでいるのです。
そこからはラストに向かって少しずつ、まわりの人とのかかわりの中、映画としての様相を呈していきます。そして、この映画全体に、木漏れ日の映像が大切な役割を果たしており、音的には、車の中にカセットテープで流れる60年代〜70年代のロックが重要な脇役になっています。ある意味、音楽映画とも言えるくらいに。
この映画は12月に公開される予定で、東京国際映画祭のオープニングを飾ることになっていて、すでに世界中から高い評価を受けています。

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どうして、こんなに魅力的な映画が出来上がったのか。それはいろいろあるんですが、やはり、監督・脚本のヴィム・ヴェンダース氏によるところ大ではあります。
1984年「パリ、テキサス」
1987年「ベルリン・天使の詩」
1999年「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
2011年「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」等
現代映画における最も重要な一人とされるドイツの名匠。
これらの作品は映画ファンであれば誰もが観ていると思います。
ヴェンダース氏は、この物語の中に住む平山という清掃員を紡ぎ出しました。この映画にとって最も重要な存在。そのキャストは彼がずっとリスペクトしてやまない俳優、役所広司です。
映画を観て、このキャスティングなしに、この作品はあり得ないと思えます。カンヌ国際映画祭で、最優秀主演男優賞を受賞したのも、納得できます。まったく、この国が世界に誇れる俳優といえます。
それと、ヴィム・ヴェンダースという映像作家が、長い歴史の中で、ずっと日本を、東京を注視し続けていることは、この映画が生まれる背景として非常に重要なことであります。よく知られていることですが、彼は映画監督の小津安二郎を大変敬愛していて、1985年に小津映画の中にある失われたユートピアを求めて東京を彷徨い、「東京画」というドキュメント映画の名作を作っていますが、これも今回の映画につながる何かを感じずにはおれません。
映画を観終わった時に、すごく揺さぶられたのだけど、今までに観た映画には全く感じなかった、何か別な新しいものに出会った気がしたのは確かで、この作家にはいつもそういうところがあるのですが。今回、共同脚本とプロデュースを担当したクリエーターの高崎さんが云われてたんですけど、シナリオ作りの途中で、この映画のテーマは何かとヴェンダースさんに聞いたとき、監督は、それが言えるなら映画をつくる必要はないよと、微笑んだそうです。
なんだかモノをつくる時の姿勢というのでしょうか、深い仕事ですよね。
 
この度ちょっと自慢したかったことが、この素晴らしい映画の製作プロダクションを私共の _spoon.inc が担当したことでして、いえ、私は全く何もしていないのですが、うちの会社の頼りになる後継者たちが、プロデューサーとして、若いスタッフとして、みっちりお手伝いさせていただいたんですね。映画界の世界的な巨匠、スタッフ、キャストたちと、この仕事を達成させることは、これから大変な勲章となると思います。
しかしながら、実際の制作・撮影の現場は、無茶苦茶えらいことだったと聞きました。監督は、ドイツが誇るインテリでアーティストで優れた教養の持ち主なのに、常に謙虚で誰からも尊敬される本物の紳士なのですが、撮影が始まると、ただの我儘なじいさんだと、皆が親しみを込めて言っています。そうじゃなきゃあんな映画は撮れないとも思いますが。

これは映画とは関係のない話ですが、ヴェンダースさんのチャーミングなエピソードをひとつ。
そもそも、ヴィム・ヴェンダースさんとは、カメラマンでもある彼と彼の奥様が日本で写真展をおやりになった時に、その写真展のセッティングを弊社でやらせていただいたことがあったんですが、2006年に表参道ヒルズの開業にあわせてのイベントでしたから随分前ではあります。それから何年かして、夏にご夫妻が来日されたことがあって、ちょうど神宮の花火大会の頃で、うちの会社からよく見えるもんで、是非どうぞとご招待したんです。この時200人くらいはお客さんが来ていたと思いますが、私、屋台じゃないですけど、鉄板で広島風お好み焼きを焼いておりまして、多分70枚くらいは焼いたと思うんですけど、そしたら、そこに長蛇の列ができちゃって人が溢れてたんですよ。そうすると、列の一番後ろに、背の高い長髪の紳士が、ちゃんと紙皿と割り箸持って並んでるんですね、世界のヴィム・ヴェンダースが。で、まわりの奴らもまさかそんな大変な人がいるとは思ってないから、まあ、ほったらかしにされてるんですね。本人もなんだかニコニコして機嫌良さそうなんですけど。で、私あわてまして、
「ヴェンダースさーん、あなたはスペシャルゲストだから、一番前に、ここにきてくださーい。」
て、よくわからない英語で叫んだんですね。
そしたら、ニコニコしながら、まわりの人にスイマセン、スイマセンと言いながらやって来まして、私が焼いたお好み焼きをオイシイ、オイシイと言って食べてくださいまして、、
昔から憧れて大ファンだった映画監督に、私の焼いたお好み焼きを食べてもらったという、ただの自慢話ですけど。

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年8月 9日 (水)

薄情のすすめ その2

この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。

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思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。

やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。

Toshizo

2023年7月14日 (金)

薄情のすすめ

“厚情必ずしも人情ニ非ズ
 薄情の道、忘るる勿れ    坂本龍馬手帳より“
 
かつて作家の司馬遼太郎さんが、ある編集者に贈った色紙に、この文言が書かれていたそうで、普通に考えると龍馬語録の中にこのフレーズがあるのは意外な気もしますが。
私が「竜馬がゆく」を読んだのは、20代の終わりか30代になった頃でして、だいぶ前のことで、ある意味危険を含んだこの文言のことは、あんまり覚えてないんですが、このことに関しては、司馬さん自身がこの小説のあとがきに書いておられまして、
「竜馬はふしぎな青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかったが、暮夜ひそかにその手帳におそるべきことを書いている」と。
「竜馬がゆく」は、1966年に刊行された、ご存知の不朽の名作でして、当時それほど知られていなかった坂本龍馬という歴史上の人物を、一気に超メジャーにしました。
司馬さんは、この幕末の風雲期に突如現れ、その役割を終えるとともに天に召されたこの人物にいたく興味を抱き、おそらくその周辺資料をものすごい勢いで読み尽くし、その魅力を小説にされたと思いますが、
「いずれにしても、坂本龍馬のおもしろさは、この語録をもちつつ、ああいう一種単純軽快な風姿をもって行動しきったところである。この複雑と単純のおもしろさが、私をしてかれの伝記風小説を書かしめるにいたったように思われる」と、おっしゃってます。
と、前置きが長くなりましたが、この「薄情の道、忘るる勿れ」という言葉は、ちょっと奥が深いなと思うのですね。
人は、公的にも私的にも何か目的を達成しようとする時、ある意味非情な判断をすることがあって、場合によってはそれも是であるということなのか、いやいや、ま、そんなにわかりやすい話でもないでしょうね。
人の世は、何かと情で繋がっていて、情に厚いということは大事であるけれど、情に流されるということもあり、その辺りの兼ね合いの難しさがあります。
これは人間社会で生きていく上で永遠のテーマかもしれません。

竜馬が生きた幕末は、欧米列強の外圧から、この国がイデオロギーの嵐の中で大混乱していた時代で、そんな時どこからともなく現れたこの男は、どの組織にも属さぬ素浪人の立場で、いくつかの時代のスイッチを押して、向かうべき方向性を示して、またたく間に一気に駆け抜けて行ったわけです。
司馬さんが描いた、この竜馬という主人公は、ただの好青年ということでもなく、自己実現のために我儘で頑固でもあり、人たらしで強引だったりもして、やたら女性にモテたりもするんですけど、ある爽やかな余韻を残して、歴史の舞台から忽然と姿を消してしまいます。
作者はこの人物に関する文献を読めば読むほどに、ある引力のようなものを感じたでしょうか。その中で、「薄情の道、忘るる勿れ」というフレーズは、ある大きな意味を持っているのかもしれません。
坂本龍馬が亡くなったのが31歳ですから、この小説は青春小説でもあります。だいぶ前ですけど、仕事で四万十川を辿って四国山地のてっぺんまで行って泊まったことがあったんですが、この山脈は千数百メートル級の山々が連なっておりまして、けっこう深いんです。山道を歩きながら、その時ふと、龍馬はこの急峻な山を越えて土佐藩を脱藩したのだな、その時26歳かあ、などと思ったんですね。まさに青春です。
それで思い出したわけでもないんですけど、個人的にも、
なんか、この青春小説を読んだ後、34の時、前の会社辞めて独立したんだったなあ。

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2023年1月30日 (月)

わが街映画館との長い付き合い

この何年か、コロナの影響で、映画館で映画を観るということが極端に減っていますが、先日その合間に、必ず観ようと決めていた「スラムダンク」を、大きなスクリーンで鑑賞することができたんです。で、家に帰って家族に話していたら、なんかもう一回観たくなって、数日後、私としては珍しく、奥さんと娘と三人で、休日のドルビーステレオ大画面のプレミアムシートで観てしまいまして、原作・脚本・監督の井上雄彦さんの全く妥協のない姿勢に改めて感動しつつ、我が家は3人とも大満足して帰ってきたんですね。
そこで、昔の映画館とは勝手が違ってきてはいるけど、やっぱり映画館で映画見るのは良いもんだなと、つくづく思ったんです。考えてみると、この場所は大げさに言えば、私の人生の節目節目にいろんな指針を与えてくれた場所でもあります。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、ハラハラしたり、セイセイしたり、ポロポロ涙したり、ムラムラと怒りを覚えたり、誰かに憧れたり、誰かを思ったり、過去を振り返ったり、未来を空想したり、異国の風景や文化に触れたり、この闇の中で実にさまざまなことを教えてもらってきました。
この空間が、この先どのように進化して行くのかわからないですが、個人的には物心ついてからここまでは、長い付き合いになります。
子供の頃、街を歩いていれば、あちこちに映画のポスターが貼ってあり、どの街にもいろんな映画館があって、遠くからでもわかるような大きな看板が掲げてありました。その場所に一人で入るようになったのは、15歳くらいからでしょうか、その頃は広島に住んでいましたが、邦画も洋画も、実にたくさんの映画館が、まだありましたね。

Sotsugyo

高校の時は、あんまり勉強もしないで部活もしないで、放課後はわりと1人で映画館にいることが多かった気がします。ロードショウは料金も高くてしょっちゅうはいけないんですが、いわゆる封切館じゃなくて二番館もあって、いつだったかちょっと前にアメリカで大ヒットした「卒業」が掛かっていて、その併映が、「ウエストサイドストーリー」だったりして、地方ならではの不思議な贅沢を味わえたりしてました。片や低予算の佳作でニューシネマと云われた新感覚の話題作、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスとアン・バンクロフトの三人で持たせてる映画、片や1961年に公開され、語り継がれたミュージカルの超大作は、この時点でも全く古びていない名作でした。いやこの二本立てには痺れましたね。
それからしばらくして、東京に出てくるんですけど、驚いたのは映画館がやっぱりデカくて立派なことで、どの繁華街にもそれなりの規模の映写環境が充実しておりました。それに加えて、いわゆる名画座が実にたくさんあって、これは嬉しかったです。ちょうどその頃、雑誌「ぴあ」が創刊されたんで、東京中の映画館に掛かっている映画は、これ見れば全てわかったんですね。レンタルビデオ屋も何もない頃、たくさんの映画を観れることに関して、やはりこの街は1番でした。
久しぶりに大きなスクリーンで映画鑑賞して思いましたが、やっぱり良い映画は映画館でみなきゃダメですよね。うっかりつまらないのを観てしまって失敗することもあるけど、すんばらしい映画をビデオや配信で観ちゃった時には、あーこれは映画館で観りゃよかったなあー、などと嘆くこともあります。
ともかく「スラムダンク」には、私、すっかり参ってしまったわけでして、これは必ず映画館で見るべき映画です。
井上雄彦さんが原作者として素晴らしい作家であることは、よおくわかっていることではあるのですが、今回、映画監督としての井上さんは、歴代の名監督たちに比べても全く引けを取らぬ、黒澤さんやスピルバークさんに匹敵する仕事されたと思いました。
映画監督としてやるべき仕事は本当に山のようにありますが、脚本の構成からカット割り、キャスティング、演技指導、撮影のアングル設定、キャメラオペレーション、照明、編集、効果音、音楽制作、録音、膨大なスタッフへの仕事の割り振りと指示、そういう何もかもをディレクションと云いますが、そのどれをとっても、ものすごい集中力を感じる映画でした。
今回、プレミアムシートは初めての経験でして、確かにプレミアムで快適だったんですが、「スラムダンク」はしっかり泣ける映画でもありまして、泣けた時には隣と仕切りがあるので、しみじみ泣けるのもありがたかったですわ。

2022年9月 4日 (日)

アナログとデジタルと照明の佐野さん

この前、Facebookを見ていたら、知り合いの音楽プロデューサーが、昔のアナログの音楽録音のことを書いていて、実は音質的にはかなりアナログの音が良かったという話で、読んでいて、たしかにそうだったなあと思ったんですね。この人は私よりちょっと年下なんですけど、同じ時代にTV-CMを作る仕事をしてきて、ずっと尊敬してるワタナベさんというプロデューサーです。
我々が仕事を始めた頃、1970年代の終わりから80年代にかけては、まさに音も映像もアナログからデジタルへ移行し始めた時期でした。大雑把にいうとレコードはCDに、ビデオテープはハードディスクにみたいな事でして、結果的に今は完全にデジタルの時代になっており、その事で、かつてアナログではできなかったたくさんの事が実現でき、聞けなかった音や見れなかった映像を体験できることになりました。たとえばコンピュータが作った音があったり、CGで作られたキャラクターが、私たちが暮らす実景の中に存在できたり、いろいろなんです。その延長線上に、ネット上のさまざまのコンテンツを選び出して体感できる現在の視聴環境があるんですね。
かなり大雑把な説明になってますが、すいません。
ともかく、デジタルという技術革新がなければ、現在の便利さも感動も享受できてないんだけど、アナログの時代に仕事を覚え始めた人としては、その方式で作られた音や画の、何とも云えぬ質感や味は、忘れ難いものがあるんですね。
あの頃、楽器も肉声も含め、すべての音素材は6m/mの磁気テープに記録され、そのそれぞれの音質やバランスを整音しながら最終のダビングという作業を経て、やはり1本の6m/mテープに完成されました。レコード録音から始まったこのアナログ方式は、長い時間の中で様々な機材を進化させながら、試行錯誤を繰り返し、歴史を作ってきたんです。
私がこの業界に入った頃には、どこの録音スタジオにもそういった筋金入りのミキサーの方たちがたくさんいらしたんです。それは今だってデジタル機材を使いこなす優れた技術者の方がたくさんいらっしゃいますが、このアナログで作った頃の音を、時々思い起こして欲しいなと、そのワタナベプロデューサーは云っておられたんでして、私もそう思ったんですね。
映像の方はと云えば、その頃そもそもフィルムで撮影して現像液につけてたわけですからアナログ中のアナログです。CMは、35m/mのFilmで撮影して、それにスーパーインポーズで文字や画を合成して、最終的には16m/mのFilmでテレビ局に納品して放送されてたので、デジタルのかけらもなかったわけです。
今では撮影された映像はデジタルの信号としてハードディスクに収録され、編集室でコンピュータに取込まれて加工されて完成しますから、初めから終わりまで、全て映像記録はデジタルなのですね。ただ、Filmからデジタル映像へ移行する過程では、なかなかFilmの質感や色や奥行きが出ないと言われていたんです。その後デジタルも4K、8Kと容量も上がって行く中で技術も進化して、Filmが長い時間をかけて築いた領域に近づいて来たとも云えます。
しかし、思えばFilm撮影の現場というのは、本当にアナログな職場でして、35m/mのバカ重いキャメラをかついで設置し、移動車に載せクレーンに載せ、美術の大道具、小道具に、衣装に、メイクと、世界を作って、そこに光をあててキャメラのモーターを回すのですが、そこには、それこそ筋金入りのアナログ職人の親方たちがたくさんいらっしゃったわけです。思い起こせば、皆さん本当にハイレベルな技術をお持ちの、実に個性的な方々でしたが、その中でも、長きにわたり大変お世話になった恩人に、照明の佐野さんがいらっしゃいます。
佐野さんは、「影武者」以後の黒澤作品のすべての照明を担当されるなど、60年の照明歴を持ち、照明の神様などとも云われてますけど、そういった偉ぶったところの全くない人です。現場ではいつも普通にさばけた感じでいらして、付かず離れずいる数名の佐野組の助手さんたちに指示を出し、彼らは実にキビキビと無駄なく動いて、光を作っていきます。この助手さんたちの中から、のちに立派な照明技師になられた方が何人もおられます。そして翌日その撮影したラッシュを映写すると、それはいつも見事な仕上がりで、その画には、ある意味何らかの感動があるんですね。
佐野さんは前に、キャメラマンが画角を決めたら、その真っ黒なキャンバスに色をつけていくのが自分の仕事なんだと云われてましたけど、まさにそういう絵描きのような仕事をいつも見せていただいてました。
この方の仕事がどういう具合に素晴らしいのか、説明しても分かりにくいですが、分かりやすい話がひとつありまして、それは、黒澤明監督が映画「影武者」の照明技師を佐野さんに決めた経緯なんですね。その少し前に黒澤さんがあるウイスキーのCMに出演なさったんですが、その時の照明が佐野さんで、その仕事ぶりを高く評価したのがきっかけだったようです。その頃、佐野さんはCMを中心に仕事をされていて、たくさんの名作がありました。世界のクロサワさんがそこを決め手にしたことは、かけだしのCM制作進行だった私にも、えらく誇りに思えました。
1930年京都市生まれ、18才の時、松竹京都撮影所に入って、1957年には照明技師になられ、1964年に松竹京都が閉所になった後も、フリーランスとしてたくさんの映画とCMの照明を手掛けられました。
私が初めてお会いした70年代の終わり頃には、照明技師として既に有名な存在でしたが、いつもラジオの競馬中継を聞きながら仕事してる、そこら辺のおじさんの風情で、僕ら現場の若造は死ぬほど尊敬してましたけど、なんでも相談できる親方でもありました。「影武者」のクランクインが決まって、世間を騒がせていたのもその頃です。
それから長きにわたって、たくさん仕事をさせていただきました。佐野さんにお願いするのは、いつもいろんな意味で高難度の仕事が多く、無理をお願いすることもありましたが、いつも「ええよ」と言って、淡々とやってくださいました。そして、その度に、その仕事ぶりと出来上がった作品の完成度に感動していました。
照明という仕事は光をあてたり、光を切って影を作ったり、フィルターで色をつけたりしながら、人の眼をたよりに絵を描いていくような、極めてアナログな作業ですよね。
いつだったか、佐野さんがまだ若かった時に京都で時代劇を撮っていた時の話をしてくださいました。照明のセッティングができて、セットに、大スターの長谷川一夫さんが入ってこられ、その渡り廊下を移動しながらの殺陣のリハーサルが始まり、動きが決まったら手鏡を持ってご自分の顔を見ながら再度テストをされたそうです。
それで、本番と同じ動きをしながら鏡に映った顔を見ては、たまに立ち止まり、
「照明さん、ここんとこ、ライト足りまへんな。」と、、また歩きながら、
「あ、照明さん、ここも足しといて。」などと、照明チェックをされて、
照明部は、その都度ライトを直したそうです。すげえアナログな話ですよね。
佐野さんは、そんなにおしゃべりな方ではないのですけど、この手の貴重な話を、時々面白おかしくしてくださいました。味のあるいい話でしたね。
残念なことに、10年ほど前にお亡くなりになりましたが、長きにわたっていろんなことを教えていただきました。撮影の仕事における、あるべき姿勢であるとか、大切なことを、さりげなくご自分の背中で教えてくださっていたように思えます。
音とか映像とかのコンテンツを作る仕事には、手仕事のようなアナログの技術も、最先端デジタル技術も混在していて、それは両方とも使いこなさなきゃなりませんが、そんなことを考えていたら、ふと照明の神様を思い出したんですね。
佐野さんの中には、間違いなく経験で蓄積された照明技術のデータがデジタル化されて内蔵されていたと思われますが、
それを使いこなす時のアナログ的な勘はかなり鋭かったんじゃないかとお見受け致しましたが、、

素人が恐縮です。

Sanosan

2022年5月24日 (火)

スケートの世界決戦は、川中島なのだ

ちょっと前の話になりますが、今年北京で開かれた冬季オリンピックのフィギアスケートで、あの羽生結弦君が、オリンピック3連覇はできなかったんだけど、負傷しながら4回転アクセルにトライして4位となり、その高難度の技に挑戦する姿勢は、多くの観客を魅了しました。
この人は1994年の生まれですから、うちの息子と同い年なんですけど、中学生の時に世界ジュニアチャンピオンになって以来、ずっとトップのアスリートで居続けて、オリンピックも2連覇し、その年齢にしてその道を極めた人ですよね。ただ、常にその位置にいることが、どれくらい大変なことであるのかは、凡人は想像するしかないのですが、えらいことだと思います。
彼が今回のフリーの演技のために選んだ楽曲が、とても格調の高いドラマチックで重厚な曲だったんですけど、その題名が「天と地と」とクレジットされていて、作曲が冨田勲さんとなっていたんですね。それで思い出したんですけど、この曲、私が中学生の時にやっていたNHKの大河ドラマのテーマ曲だったんです。なんでそんな古い曲を羽生くんは知ってるんだろうと思いながら、そうか羽生くんは上杉謙信のことをリスペクトしてるんだ、そういえばこの人、謙信とイメージかぶるとこあるか、そういえば衣装もそんな感じするし、もっとも、そんなことは、羽生くんのファンであればとっくにご存知のことなんでしょうね、などと思いながら、その大河ドラマの記憶を辿ってみたんですね。
1969年でしたか、大阪万博の前年ですね。NHKで日曜日の夜8時から毎週放送されていた「天と地と」は、一年間続く大河ドラマで、上杉謙信の生涯を描き評判になっていました。その前作、前々作は、ちょうど明治維新から100年という節目だったので、「三姉妹」・「竜馬が行く」と、幕末ものが続いたのですが、視聴率がもうひとつだったので、NHKが満を持して戦国ものをということになり、海音寺潮五郎・原作の「天と地と」の制作に踏み切ったんだと、何かに書いてありました。
その頃の日曜日の夜8時、我が家のTVのチャンネルは、わりとNHKに合わされていたと思いますが、全部の回を見てたわけじゃなくて、1969年といえば、私が応援していた阪神タイガースの江夏豊はまだ20歳でしたが、15勝7完封とエース並みの活躍をしており、わりと自分の部屋でラジオの野球中継を聞いていることも多かった気もします。
ただこのドラマは、時々見てはいて、だんだん面白くなってきたんですね。上杉謙信を演じていたのは、まだ若い石坂浩二さんでしたが、当時の中学生から見ると、とてもストイックな天才軍略家と言ったイメージで、滅法いくさに強い智将といった印象でかっこよかったですね。
その強力なライバルとして武田信玄がいるんですが、その両雄が雌雄を決する物語でもあります。
ただ、覚えてはいても、かなり大雑把で曖昧な記憶でもあるので、今回、小説の原作を読んでみたわけですが、上・中・下巻とありまして、なるほど大河ドラマです。
主人公の上杉謙信の出自とその成長が描かれ、やがて宿命のライバルである武田信玄が現れ、そして、その長い対立から雌雄を決する川中島の戦いまで、さまざまな背景を含めて、その歴史が語られています。昭和35年から3年間、週刊朝日で連載されたこの原作は、かなり話題になったようであります。
海音寺潮五郎氏が、本のあとがきに書いておられますが、謙信と信玄は、同時代に存在した好敵手だが、天が作為したかの如く正反対のキャラクターだったようで、小説の題材としてうってつけだったようです。
二人とも、この時代に生まれた人としては、相当深い学問的教養があったようですが、その存在の仕方は、極めて対照的でありました。
信玄は戦術を決定するに、決して一人ではせず、部下たちと意見を戦わせて最後に決すると、それを演習させて、一糸乱れず闘ったと言われます。対して、謙信は一切自分で戦術を決めます。春日山城の毘沙門堂に何日もこもり、思念を凝らして工夫し、決定すると、部下を集めて発表したとあります。片や、よく努力し勉強する秀才的武将と、独断専横の天才的武将の姿が浮かびます。
信玄は、基本的に領土欲のために戦い、その都度、組織を強化して国を治めようとします。
謙信は、精神的理想を実現するために戦い、失われた秩序を回復するために、遠くまで従軍することの多かった武将です。
信玄には多くの側室がおり、従って子も多いですが、謙信は生涯独身だったと云われています。
武田軍は一つずつ確実に陣地を広げていくやりかたで、領地を増やしていきます。上杉軍はどちらかといえば風のように戦場を駆け抜けては勝ち戦を続けると言った形ですが、戦争が終われば去って行くわけです。
武田信玄は、欲望の強い有能な政治家でもあり、奪った領地はよく治めたと言われています。
上杉謙信は、軍人として戦勝にこだわり、常に自身の信念とスタイルを貫いた人かもしれません。領地を広げていく政治家としての執念は、そんなに強くなかったかもしれないですね。
この長編小説を読んでみて、あの羽生君の謙信に対するリスペクトを、確かに感じました。
彼にとっての競技は、謙信にとってのいくさのようなものなのでしょうかねえ。
じゃなきゃ、自分が生まれる前に放送されていたドラマのテーマ曲を知ってたりしないですよね。
なんかよくわかった気がしました。

Kenshin

2021年9月10日 (金)

オダギリさんの本

先日、本を一冊いただきまして、その本にすごく重要なことが書かれていて、個人的に実に響きましたもので、その話です。
『小田桐昭の「幸福なCM」。日本のテレビとCMは、なぜつまらなくなったのか』
という本です。
この本を書かれたオダギリさんは、言わばこの国の広告業界の巨人でして、私がこの仕事を始めた頃、1977年くらいですが、この世界では誰でもその名前を知っている人でした。
1938年のお生まれですから、今年83才。1961年にこの仕事を始められています。その頃、テレビの広告は生まれたばかりでして、それからオダギリさんは、今でも多くの人達が覚えている有名なキャンペーンを、たくさん手がけられました。それらの仕事の経緯も、この本にいろいろ紹介されています。
テレビというメディアが出現し、広告を含めた民放という仕組みが活況を呈していく中で、様々なテレビ広告が生まれて、その全盛期が描かれてますが、それと同時に、現在につながる長い時間の中で、その時代が失ったものや、変容してしまったものが語られてもおります。
「なぜつまらなくなったのか」というのは、その辺りのことです。
テレビCMができたあたりから今日までの間、常に第一線におられ、今も現役で仕事をされている方の、貴重な体験談でもあります。
本の中に、「日本のCMを育てたのは誰でしょう」という話が出てきます。
答えは、「お茶の間の人たち」なんですが、CMやテレビのエネルギーというのは、当時の新しい情報や表現を、何でも吸収してしまうお茶の間の人たちの欲望が生んだという話なんです。
この国の住居の真ん中にはお茶の間があって、ある時そこにテレビがやってきました。私もまさにそのお茶の間で育ちましたからよくわかりますが、お茶の間のテレビに対する好奇心は凄まじく、テレビ側もお茶の間が面白がって望むものは、なんでもやってみようという背景がありました。60年代に始まったこの現象はますます勢いを増して、この本に書かれている、70年代80年代の幸福なCMの仕事につながるのです。私も個人的にはなんとかギリギリその時代の後半に間に合ったCM人の一人ということになりますが。
それから様々に変化する世の中で、この業界にもいろんな時代がやってきます。そして今に至れば、その風景もずいぶん違ったものになりました。それが具体的にどんな風に変わっていったのか、この本を読むとよくわかります。
ただ、私がこの仕事を続けてこられたのは、ある意味あの幸福な時代に仕事に出会えたからじゃないかとも思っています。

考えてみると、オダギリさんは、この幸福なCM時代を象徴する方でして、世の中を動かすようなたくさんの良質な広告を発信し、またそのレベルをクリエーターとしても、マネージメントとしても、ここに至るまで守り続けてこられました。そのことは、本当に多くのこの業界の人達、後輩達が認めるところで、誰も異論を唱える人はいません。

思えば、広告業界のことなど何も知らず、全くひょんなことからこの世界の片隅で働くことになった私も、オダギリさんのお名前はよく聞きましたし、たくさんの名作のことも存じておりました。ある意味伝説になっている部分もあり、いろんなエピソードも一人歩きしています。一体どんな人なんだろうと想像を巡らせていたのですね。
北海道の利尻島の出身で、柔道の黒帯ですごい腕力で、蟹が大好物だからどんな蟹でも甲羅を手掴みで割って食べる人だとか、いつも穏やかな笑顔の人だけど、その眼だけは笑っていないとか、いろいろと尾ひれのついた話を聞くことになります。
そしてそれから何年かして、実物のご本人にお会いすることができたんです。オダギリさんの部下で私と同年代のN山さんが会わせてくださったんですが、確か酒席だったと思います。
これが尊敬するオダギリさんだと思うと、緊張したのを覚えておりますが、そのお話が深くて鋭くて痛快で、またすごく面白くて楽しい時間で酒も美味しくて、やはりただもんじゃない人なんだなと思ったんですね。
ご縁ができて、それから時々お会いする機会ができ、長きにわたって仲良くしていただいてるんですが、個人的には、そのことは、ほんとに嬉しいことなんです。

本の中でも触れられていますが、90年代に入って広告を取り巻く環境に、大きな変化が起こります。情報と技術の均一化が進み、商品の均一化も進んで、あんまり商品に差異がなくなったんですね。そうなると商品を選ぶ基準は、その会社が「良い会社」かどうかということが重要になります。いわゆる「ブランド」をどう作るかなんですね。この「良い会社」というのは人に例えるとわかりやすくて、いわゆる「いい人」なんです。
でも、一言で「いい人」と言っても難しいですね。正しくて真面目であることは当然大事なんですけど、ただ正しい話って退屈だし魅力ないですよね。 昔、大滝秀治さんが「お前の話はつまらん!」と怒鳴るキンチョーのCMがありましたけど、そういうことなんです。
ブランドを人格化したとき、求められるのはどんな人かなと考えると、困ったことを解決したい時に、相談したくなるような人かなと思うんですね。誠実で熱心で真剣で、懐が深くて、しぶとくて強くて、賢くて大人で、ユーモアのレベルの高い人、ただ真面目じゃなく遊びも知ってる人、、
いろいろ考えると、オダギリさんみたいな人になるんですが、
そんなオダギリさんから、夏にこの本をいただきました。


「立派な本ではありません。むしろ恥しい本です。
 若い人に向って書きました。お節介ですけど。
 読んでいただけると嬉しいです。」
という小さな手紙がついていました。

ほんとに若い人に読んでほしいです。

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読んでいて、たくさん心当たりがあって、反省もあって、
でもこうすべきだなということがあって、
幸福な仕事に出会うためのヒントに溢れています。
いや、響きましたもんで。

良書です。

 

 

2021年7月16日 (金)

寺内貫太郎一家と猫のカンタロウ

5月30日に、作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられていたという訃報を知りました。昭和7年生まれということで、ちょうど私の親たちと同年代の方でした。いつ頃からこの方のお名前を存じ上げていたのか、覚えてないんですが、自分が子供から成長していくにつれて、亜星さんという個性的な名前は、どんどんその存在感を増していったと思います。
最初は、小学生の頃のアニメソング、大好きだった「狼少年ケン」は、完璧にフルコーラス唄えました。ガッチャマンも、怪物くんも、ピンポンパン体操も、男子だけど、サリーちゃんも、アッコちゃんも、唄えたし、子供たちがすぐに覚えられて大好きになってしまう唄ばかりでした。
それと、CMソングです。当然、亜星さんが作られたことは、あとで知るんですが、レナウンの「ワンサカ娘」も「イエイエ」も、新しくって刺激的で、子供なりに大好きでカッコいいなと思ってました。エメロンシャンプー「ふりむかないで」、日立「この木なんの木」、日本生命「ニッセイのおばちゃん」、ブリヂストン「どこまでもゆこう」、サントリーオールド「夜がくる」等、今でもみんなが忘れられないCMソングは、枚挙にいとまがありません。
歌謡曲もたくさんあって、1976年のレコード大賞・都はるみさんの「北の宿から」は代表作です。
ただ、この方の仕事で特筆されるのは、私が子供の頃に放送が始まったテレビというメディアの、新しいジャンル、アニメソングやCMにものすごくたくさんの名作があることです。
私は1977年から、CMの制作現場で働き始めたので、その頃、CM音楽界で最も有名な作曲家であった彼の存在を知り、どんだけ多くの名曲を作った人であるかが、だんだんわかってきます。自分が付いてる仕事の音楽を亜星さんが作られることも希にありましたが、こちらは制作部の末席の助手の助手みたいな立場ですから、「おはようございます。」と挨拶したら、邪魔にならないスタジオの隅から、音楽が出来上がるのを、ただ見学してるようなものでした。
そのようなことが何度かありましたが、亜星さんはいつも、最初の打ち合わせをすると、後はディレクターに任せて、スタジオの隅の小さな椅子に大きな身体を乗せて、鼾を立てて寝てしまわれました。時々、スタッフから報告や相談があると、みなさん慣れていて平気で起こすんですが、終わるとまたすぐに寝てしまいます。当時、相当に忙しい方だったことは想像できましたけど、見事でしたね。

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それより、私がこの方にお会いできて、何に感激してたかと云えば、
「あ、やっぱり寺内貫太郎だ。」ということで、
ご存知の通り、1974年と1975年にTBSで放送された有名なテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主役の貫太郎は、小林亜星さんが演じておられたんですね。私は20歳前後の頃でして、毎週テレビで観ておりました。
今思えば、かなりよくできたホームドラマで、笑いあり涙ありだけど、それなりに毒や刺激もあって、テレビが持っているオーソドックスな面白さの上に、アバンギャルドな新しい試みを加えた、妙に完成度の高い番組でした。
これは、向田邦子さんが脚本を書かれ、久世光彦さんが演出をされている独特な世界観のドラマで、1970年に始まったドラマ「時間ですよ」から繋がっている流れでして、私は高校生から大学生の頃でしたから、かなり影響受けてたと思うんですね。
当時、TV界のヒットメーカーの向田・久世コンビが、満を持して作った「寺内貫太郎一家」でありましたから、その主役は誰なんだろうかと思っていたところ、小林亜星さんという巨体の作曲家だったわけです。
ドラマが始まったときには、やはりプロの役者さんじゃないし、なんとなく違和感もありましたし、そもそもこのキャスティングには、向田さんは反対されたと聞きましたが、この辺りがテレビというものをわかってる久世光彦ディレクターの天才たる所以なんでしょうか、続けて観てるうちにだんだん慣れてきて、それどころか気が付くと、貫太郎に感情移入できたりするようになってきました。そして続編も作られ、間違いなく名作ドラマとして後世に残ったわけです。
余談ですが、ちょうどその頃、大学の帰り道に、多摩川の河原を歩いていたら、トラネコの子猫が後をついてきたんで、アパートに連れて帰って一緒に暮らし始めたことがありまして、その猫に「カンタロウ」という名前を付けたんですね。そのカンタロウが半年くらいで、みるみるデカくなってきて、名前負けしなかったなあ、という思い出もあります。
ここに書き切れませんが、その前も後も小林亜星さんは素敵な音楽を作り続けられ、私の人生の要所要所で音楽というものが持っている可能性を教えてくださったなあと思います。
というような、ごく個人的な一方的な不思議なご縁なのですが、子供の頃から、知らず知らずずっとファンだった気がしました。
猫のカンタロウは、その後長生きできずに早世してしまったのですが、亡くなってしまった冬が明けた翌春に、近所を歩いていたら、一匹の母猫の後を子猫が5匹ほど歩いていて、陽春らしい良い風景だったんですけど、その中の一匹が、うちのカンタロウに生写しでして、これは間違いなくあいつの子だなと確信したことがあったんですね。そう云えば、お互いによく夜に出歩いてましたから、たまに数日帰ってこないこともあり、そういう時に子作りもしてたんだろうかなと思ったようなことでして、全くの余談の余談でした。

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2020年12月10日 (木)

「屋根の上のおばあちゃん」という本

本日は、最近出版された新刊本を一冊、ご紹介いたします。
河出書房新社より10月29日に発売になりました「屋根の上のおばあちゃん」という本です。
これは、この春に第一回京都文学賞の優秀賞を受賞した小説でして、京都の太秦(うずまさ)を舞台にした、あるおばあちゃんの半生が描かれております。そのストーリーには、活動写真や弁士やフィルムやその現像の話などが、大事な要素として関わりあっておりまして、涙あり笑いありちょっと考えさせられるところありの、ハートウォーミングな物語となっております。

そこで、この本がどのような経緯で世に出たかについて、ちょっと解説しますね。
まず、小説の著者の藤田芳康さんという方は、長年にわたり私たちの仕事におけるパートナーであり、友人でありまして、かれこれ30年にも及ぶお付き合いになります。
私たちが映像制作会社を立ち上げたその頃、彼は30歳くらいで、ある食品企業の宣伝部員でコピーライターでCMプランナーでありました。ひょんな事から私たちと出会い、そこからいきなり飲料のCMをたくさん制作することになります。我が社の担当プロデューサーは万ちゃんPです。それからしばらくして、藤田さんは企画だけでなく演出も手がけるようになり、いろいろな傑作CMを演出家として一緒に作ることになっていきます。
この人が突然に演出という仕事ができたのには、それなりの理由があるんですが、まず広告の仕事をしながら、実に多くの映像作品を研究していたことがあります。映画も、ものすごい本数を観ているし、鈴木尚之さんという有名な映画脚本家のお弟子でもあり、シナリオを書く勉強を長く続けていました。
そんな中、1998年、彼が執筆した「ピーピー兄弟」という脚本がサンダンス国際映像作家賞を受賞するんですね。やがて2001年、機会を得て藤田芳康監督・脚本の映画「ピーピー兄弟」は制作公開されました。当然の如く、私たちもお手伝いすることになります。
それから後も、彼は広告の仕事をしながら、脚本を書き続けていました。時々読ませてもらってましたが、そのシナリオには独特な世界観があり、ものによっては小説にしてみたらどうかと話したりもしてたんですね。そんな中に「太秦ー恋がたき」という話がありました。
彼はCMディレクターとして、長くその企業の日本茶の商品を担当していて、その企画の舞台はすべて京都だったんですね。彼は大阪の出身ですが、そんなことで京都のことはかなり研究していました。そこに、大好きな映画の話を絡め、自身のおばあちゃんのエピソードを交えて、「太秦ー恋がたき」というお話ができていったようです。
昨年の秋頃に、この小説の原型を読ませてもらい、最近新設された京都文学賞という賞に、この小説を応募したいと聞いた時に、これはひょっとすると獲れるんじゃないかと思ったんですね。実際にはずいぶんたくさんの作品が応募されたようですが、今年の1月に最終候補の5作品に残ったというニュースは快挙でした。
それから今年のコロナ禍の中、小説「太秦ー恋がたき」は京都文学賞・優秀賞に正式に受賞が決まり、4月に授賞式がありまして、河出書房新社が出版に手を挙げます。編集者との打ち合わせが続き、半年ほどして題名は「屋根の上のおばあちゃん」になりました。「太秦」では、読者が、地名とわからなかったり、読めなかったりすることも考えられるからだそうです。そんな流れで本として完成し、10月の末に書店に並んだわけです。そして、11月の28日に、この本が京都の丸善で1位になったとの朗報が入りました。
小説が一冊の本になるには、実に時間もかかり、いろんなプロセスがあるもんだなということがよくわかりました。

ともかく、なかなか良書なんで、是非読んでもらえたらと思います。

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2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

Seichosan



そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2020年5月28日 (木)

ワイルダー先生

いつも年が明けてバタバタしているうちに、1月は行ってしまい、2月は逃げてしまいまして、気がつけば桜が咲いているんだよね、などと云ってたんですが、例年どおり、きれいに桜は咲いたものの、お花見は出来ず、それどころか新緑のゴールデンウイークになっても、外にも出られないことになりました。

新型コロナウイルスの猛威は、地球規模の厄災になって人類に大きな試練を与えております。そのような状況下、医療にかかわるプロの方々は、それこそ命がけの仕事に追われていますが、それ以外の我々一般の人間ができることと云えば、ただ感染せぬよう、なるべく出歩かず自宅におることのようで、何の役にも立たず申し訳ないのですが、今までに経験したことのない在宅時間を過ごしております。そんなことで私の勤める会社も、ごく数名が番をしているだけで、他は全員在宅、家で出来る仕事を、いわゆるリモートで働いているわけです。

本来なら4月の初めから出社するはずの新入社員たちは、一度も出社することなく、おうちで社員研修を受けてますが、弊社は映像を作るのが仕事なので、新人たちに先輩社員からオススメ映像を選んでプレゼントしようという企画が起こりまして、連日いろんな人たちから上がってきた映像をみんなでネットで観ることになったんです。

みんな家にいて時間もあるし、映像好きたちの渾身のチョイスなので、これが面白くて個人的にも楽しんでいたんですが、そのうち自分の順番が回ってきて、さて何にしようかなとなった時に、ふと思ったのが、ビリー・ワイルダーだったんですね。

この人は、1906年生まれで2002年に亡くなってます。

若い人はあんまり知らないでしょうし、私にしたところで、今回オススメした「アパートの鍵貸します」は1960年の公開ですから私6才の時でして同時代感はありません。たとえば、ワイルダーさんの同時代の日本の映画監督は、小津安二郎さんとか、黒澤明さんでして、ちょうど私の祖父の世代です。

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ただいつだったか忘れたけど、どっちにしてもずいぶん若い頃に、この映画を観て、なんかすごく心に残ったんですね。考えてみると1960年頃のニューヨークなんて、何の接点もないし、その街に住むうだつの上がらないサラリーマンにも、そのビルで働くちょっと可愛いエレベーターガールにも、普通だと興味わかないと思うんだが、映画観てるうちに、なんだかジャック・レモンにも、シャーリー・マクレーンにも、すっかり感情移入してしまって、忘れ難い出会いになってるわけです。その時は、1960年にこの映画がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を取っていることも知りませんでしたが、

考えてみると、歴史的な名画だったわけです。

その後、知らず知らずにワイルダー作品を観ることになり、なんとなくハリウッドの大監督という認識だったんですけど、作品を観るごとにビリー・ワイルダーという映画作家の名が、ちょっと特別になっていきました。

自分はいわゆる映画全盛期に生まれた世代でもあり、いろんな映画観ながら育ちましたけど、この映像業界に就職してみると、ワイルダー先生を熱く語る先輩たちがたくさんおられまして、やはり大変な方なんだなと認識を新たにするわけです。

1906年、オーストリア生まれ、若くして新聞記者の仕事を始めドイツに移り、21歳で映画の脚本を書き始めます。どうにか評価され始めた頃、1933年、ナチスの台頭で、ユダヤ系のワイルダーはフランスに亡命、その後監督デビューして、1934年コロンビア映画の招きでアメリカに渡るが、英語は喋れなかったそうです。それから苦労するも少しずつ脚本の仕事ができ、1942年にハリウッドでの監督デビュー、1944年「深夜の告白」は最初の大ヒット映画となり、1945年失敗作と思われた「失われた週末」は、アカデミー賞を受賞する。

その後「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」「麗しのサブリナ」「七年目の浮気」「情婦」「昼下がりの情事」「翼よ!あれが巴里の灯だ」「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」等々、ヒット作が続くわけです。

有り難いことに、これらの名作は、現在のネット環境でかなりたくさん観ることができ、今回、あらかた観直してみましたが、やはり並外れた脚本力と演出力もさることながら、他の作家にはないこの人独特の個性と癖が滲みでていて、作品に深みを与えていることが良くわかります。

それと、この人のすごさは、このたくさんの名作の脚本の全部を自分で書いていて、1951年以降は、すべての製作にもかかわっていることです。まさに全盛期のハリウッドの映画作家なのですね。

もう一つ言えば、ワイルダー先生は「アパートの鍵貸します」に代表される、いわゆるコメディの名手として知られています。これは一般に云えることですが、コメディって難しいんですよね。人を泣かせるよりも、笑わせるのはハードルが高いですね。明らかに笑わせようとする芝居に人はのって来ません、ただまじめにやってることがおかしいかどうかなんで、これは深いです。ワイルダーさんが、ジャック・レモンに会ってからコンビを組み続けたのは、自分の笑いの表現に絶対必要だったからなんでしょうね。

 

自分にとっては、おじいさんの世代の作品だけど、今観てもその瑞々しい表現が伝わるのが、映画というメディアの魅力なんでしょう、不思議だけど。

それからまた2世代ほど離れたうちの新人君たちが、どう感じたのかは、ちょっと聞いてみたいけどね。

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2020年3月10日 (火)

ヤスヒコさんへ

たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。

私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。

なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。

その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。

いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。

それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。

この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。

私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。

それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。

その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。

その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。

そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。

その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、

「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、

「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。

企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。

山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。

なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。

監督という仕事に向いている人だった。

告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。

ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、

「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。

夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。

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2020年1月28日 (火)

ただならぬ韓国映画

スターウォーズも完結するし、寅さんも帰って来るし、年末年始の映画街もいろいろとにぎやかですが、

韓国映画界の鬼才、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が、カンヌでパルム・ドールを獲り、アカデミー賞の呼び声も高く、もしアカデミー賞獲ったらアジア初だそうで、ともかく大評判です。

いや、よくできてました。たしかに唸ってしまう完成度の映画であり、連日映画館は満員だし、その勢いはしばらくおさまりそうもなく、間違いなく大ヒットになりそうです。

社会の底辺からどうやっても這い上がることのできない家族と、かたや成功者を絵に描いたようなIT会社の社長の一家という対比があり、その両者が接点を持つところからお話は始まるんですが、そもそも脚本としてこの状況を思いついたことは勝利なんでしょうが、物語の設定は、実に厳密に仕組まれており、それに加えて、登場してくるこの二家族の人物像は、かなりこと細かく造形してあって、その辺りはちょっとため息が出るくらいうまいわけです。

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この出演者たちが、監督が仕組んだ動線に沿って動き始め、徐徐に物語は進行します。もう観ている方としては、ただただ映画の中に引っ張り込まれてしまうわけですが、これはよくできた映画が必ず持っている観客を巻き込んでゆく力なんですね。

ストーリーはあるテンポで、たんたんと進んで行きますが、そこには絶妙の緩急のリズムがあって、それは心地よくさえあり目が離せません。

映画が始まってしばらくすると、この映画が持っている、ただならぬ顔つきに気付かされ、間違いなく掘り出し物に当たった確信が生まれます。それは、次々と現れる人物の登場の仕方だったり、その場に流れている空気感であったりするんですが、それを支えているのは、撮影という手続きにおけるすべての技術です。

そんなにたくさんの韓国映画や、韓国ドラマを観ているわけではなく、あんまり詳しくもないんですが、韓国には本当に良い俳優が多い気がします。もちろんうまいということなんですが、それだけじゃなく、その映画を作品として観客に届けるために、その役の人物になりきる力というか、出演者としてその映画をより深いモノにするための力量とでもいうのでしょうか。

そして、そういった人材というのは、当然、映画を作る現場のレベルが高くないと育たないわけです。脚本や監督であったり、撮影であったり、照明であったり、美術も録音もそうです、ちょっとそういうバックグラウンドを強く感じるんですね。

前にどなたかから聞いた話ですが、かつて日韓共同FIFAワールドカップを成功させた時に、かの国は、その時出た利益をすべてエンターテインメント産業に投資したんだといううんですね。その中には当然映画産業も入っているわけです。それだけのことが理由じゃないだろうけど、韓国という国の映画に対する情熱のようなものは、いつも感じているわけなんです。

アジアの一角の、映画が大好きなこの国から、まさに世に問う問題作が、世界に向けて発信されたということでしょうか。

 

そして、映画の後半は、ジェットコースターに乗せられたような激しさでラストに向かって行きます。

個人的には、終盤、ちょっと惜しいなと感じることがないではないんですけど、

映画の終息のさせ方というのは、ある意味、監督からのメッセージなので、観客の一人一人が受け取って感じるべきことですし、ネタばれにもなるので触れられないですが、

なんせ一見の価値のある、まだ観てない方には是非観てほしい、映画というものの面白さを満載した映画ではあります。

観た人と話をしたくなる映画というのは、まあ名作なんでしょうね。

2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

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お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

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2017年4月19日 (水)

「牯嶺街少年殺人事件」という映画

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この前、会社で集まって飲んでたんですけど、その時のメンバーが、普段忙しくてなかなか集まれないクリエーターの人達でして、実に面白い話が続いたんですけど、その中で、最近Tさんが観たある台湾映画の話になりまして、これがともかくすごい映画らしくて、Tさんの話を聞いていると、これ絶対にみんな見とかなくちゃということになったんですね。

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」と云うこの映画は、1991年にエドワード・ヤン監督によって発表され、マーティン・スコセッシやウォン・カーウァイらが絶賛し、映画史上に残る傑作として評価されたんですが、版権の問題だったのか、日本では初上映以来25年間DVD化もされず、その間、全く見る機会を失っておりました。私などは、この映画でデビューした主役の少年が、今やアジア映画の大スターであるチャン・チェンであったことすら知らなかったほどです。

しかし、この度、エドワード・ヤン監督没後10年にあたり、4Kレストア・デジタルマスター版となり、又、本作完成時のバージョンである3時間56分版として、日本で上映出来ることになったんだそうです。

そこで、ちょっとあわてて観に行きました。東京都区内での上映は2館、それほど大きくない映画館ですが、知っている人は知っていて、ほぼ満席です。そして、さすがと云えばさすが、これは期待にたがわぬ傑作でありました。ただ、今までに観てきた名作映画ともすこし違っていて、それはちょっと新しい映画体験でありました。

3時間56分という長さは、かなり長い映画の部類になります。ちょっと思い出しても、長い映画と云えば、「アラビアのロレンス」3時間27分、「七人の侍」3時間27分、「ジャイアンツ」3時間21分、「風と共に去りぬ」3時間51分、「黒部の太陽」3時間16分、「ラストエンペラー」3時間39分、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」3時間25分とかとかあります。ただ、今回のこの映画は、長いということの意味が、ちょっと違うような気もします。

長い映画には、出演者が多いという傾向があります。そのたくさんの登場人物たちが、たくさんのエピソードを作って、それがストーリー全体をダイナミックに動かしていくという、いわゆる大河ドラマ的スタイルになってるんですね。

この「クーリンチェ少年殺人事件」も、そういうところがないわけじゃないのですが、そのたくさんのエピソードが、直接ストーリーを動かしているというよりは、この映画全体の背景の空気を作っているところがあるんですね。そういうことだから、ひとつひとつの場面を全部おぼえておかなくても、ストーリーを追う上であんまり大きな影響はないんです。

監督は、自ら少年時代に過ごした台湾社会の空気の息苦しさをを再現し、この映画にリアリティを持たせるため、100に及ぶ人物キャラクターを設定し、そのすべてに来歴と、物語が終わって以降どうなるかについての、膨大なバックストーリーを制作して、300話分のTVシリーズができるくらいの物語素材を開発したそうです。

そのことが、登場人物達の不思議なリアリティと、長い時間見ているうちに物語の中にぐいぐいと引っ張りこまれていく、この映画の力になってるのだと思いますね、間違いなく。

映画としての設計図の企みはできたとしても、実際に映像として定着させる上で大きな壁だったのは、出演者たちの多くが未経験に近い少年少女たちであり、彼らの演技指導に一年以上費やさねばならなかったこと、また、スタッフの60%以上、キャストの75%がこの映画でデビューを飾るという現実は、製作に3年を要するということになっていきます。

エドワード・ヤンという監督が、この映画に注いだエネルギーというのは、冷静に想像するに、ちょっと計り知れないところがあります。 

映画は、主人公の小四(シャオス―)一家と、ヒロインの小明(シャオミン)を中心に、多くの登場人物と出来事を折り込みながら、むしろ淡々と進みますが、観客は気が付くと、この映画の中に徐々に入り込み、様々な記憶を共有してゆきます。そして、やがて、主人公たちと共に、最後の事件に遭遇することになるんですね。

たしかに長い映画ではあるんですけど、見終わったあとで、この映画のあらゆるシーンは、すべて必要であり、この長さには意味があるんだなと感じさせられます。

そして、自らやり遂げると決めた仕事を、妥協せずに最後までやりきった、今は亡き 

エドワード・ヤンという映画監督に敬意を表したいと思いました。

 

ともかく、遅ればせながら、観ておけて良かった映画でありました。

2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

Onihei

2015年7月30日 (木)

司馬先生の受け売りですけど 後篇

Akiyamasaneyuki


この前は明治国家が誕生したとこまででしたが、この時期、多分日本中の人々が、一部の知識層を除いて、自分達が日本国民であるということを認識してなかったですね。

それまでは、自分は百姓であったり、漁師であったり、商人だったり、○○藩の侍だったりはありますが、外国のことをあまり意識することもなかったし、日本であるとか国民であるとか、あんまり思ってなかったと思います。でも、明治になってからは、そのあたりのことが、それぞれの人々の人生とかに、大きくかかわってくるんです。

まず藩というものがなくなり、そこに仕えていたお侍たちは職を失い、中央政府に雇われた役人以外は仕事がなくなりました。士農工商という身分も解体されまして、もともと武士が起こした革命だったはずが、新しい世の中には武士の居場所がなくなっちゃったんですね。

かたや新政府は、新しい秩序を作るべく、1871年には、先進国へ向け岩倉使節団を派遣します。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名です。その期間は2年近くに及び、それから富岡製糸工場開業、徴兵令発布と、着々と富国強兵を急ぎます。

しかしながら、中央政府に置き去りにされた感のある武士たちの不満はつのり、その魂の行き場所は、すでに鹿児島に下野していた西郷隆盛のもとへということになりました。1874年佐賀の乱、1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て、1877年明治十年二月に西南戦争が勃発します。旧武士軍と、新政府の徴兵制によって新たに集められた軍隊との戦いになりましたが、その年の九月、西郷は自刃し乱は平定されます。そして、皮肉にも新政府を率いて薩摩西郷軍と敵対することになった大久保利通は、翌年、刺客によって暗殺されてしまいます。

そんな中で、明治という国家の土台は作られ始めるのですが、極東の小さな島国には、当時の国際環境というものが徐々にのしかかってくるんですね。地理的には、大陸から日本の喉元に突き出ている朝鮮半島において、清国との間に摩擦が生まれ、1894年に日清戦争が起こります。

日清戦争といっても、原因は朝鮮半島にあったわけで、実戦場はほとんど朝鮮半島でした。国の大きさからしても、日本は不利のようですが、徴兵令以降ドイツ式に変更された陸軍とイギリス式となった海軍など、貪欲に軍の強化に努めていた日本軍は約8カ月でこの戦争に勝利します。

この戦勝で、大陸での足場を固め始めた日本ですが、清国には欧米各国の思惑が渦巻いておりました。特に南下政策を推し進めるロシアは部隊を増強し満州に留めています。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていたので、そこにロシアの影響力が強まっていくことは、この上なく恐怖だったんです。近代化を始めて間のないアジアの小国は、遼東半島を巡って、徐々に大国ロシアと敵対することになっていきます。

そして、1904年、痛々しいほどの覚悟で開戦を決意することになります。

この時、日本の政府も軍も、この戦争に対しては完全に弱者の論理で挑んでいます。つまり、あのロシアに完璧に勝つということはあり得ないわけですから、せめて四分六分で有利に持ち込めそうになったら、すかさず国際的に仲裁に入ってもらえるよう、アメリカに根回しをしていたほどなんですね。

日本として戦勝の形に持ち込むためには、ロシアが要塞化した旅順を攻略し、その後、遠くロシア本国からやって来るであろうバルチック艦隊を殲滅することだったんですが、これは実に大変なことだったんです。

当初、陸軍は満州平野における決戦に勝てば、旅順の要塞は立ち腐れてしまうと考えていました。ところがバルチック艦隊が来るという話を聞いて海軍が慌てました。旅順はロシアの租借地ですから、ここにバルチック艦隊が逃げ込んだらどうにもなりません。そこで旅順は陸から落とすことになり、陸軍に、旅順を攻撃するだけの使命を持った第三軍が出来上がります。乃木希典大将が軍司令官になり、参謀長は伊地知幸介少将です。

凄惨な肉弾攻撃の戦いが始まりました。無謀な肉弾攻撃でした。

海軍は旅順港を攻撃してくれと言った時に第三軍にひとつの提案をしました。三等巡洋艦を一つ裸にして、大砲を全部提供し砲術士官も派遣しますと。しかし、ノーと言われました。どう考えても陸軍の縄張り意識からでした。この提案を受け入れていれば、旅順の攻略は早かっただろうと、司馬さんは分析しています。

かつて明治陸軍を教育したドイツ陸軍は、近代要塞というものがいかに難攻不落であるかということを説きましたが、この教育は生かされませんでした。乃木さんもドイツに留学しているし、伊地知さんもドイツに留学しています。しかも伊地知さんは大砲が専門でした。そんな人たちが海軍の大砲にノーと言い、歩兵の突撃を繰り返し、何万という兵隊が死にました。無益の殺生という声まで出ました。乃木さんの二人の息子さんも戦死しています。

結局、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、自ら旅順に行くことになります。汽車が旅順に近づくと、汽車の窓から新しい墓が累々と見えたそうです。日本兵の墓です。児玉は怒りました。本土から新しく補充されてくる兵士は、皆この汽車に乗ってこの墓地を見るわけです。第三軍はそんなことも気がつかないのかと怒りました。

旅順に着いた児玉は乃木と二人で話し合います。児玉と乃木は同じ長州ですから、腹を割って話すことができます。談合であります。統帥上はやってはいけないことでしたが、児玉は乃木の持つ指揮権を預かることになります。

児玉という人は士官学校も何も出ていません。乃木とは違ってたたきあげの人です。この人は大砲のことなんか何も知らないのに、要塞砲に興味を持ちます。当時、横須賀の観音崎にあった大砲が旅順に送られてきてたのですが、なにしろ大きなもので、移動困難と思われ、第三軍では無視されていました。児玉はこれを使えと云いだしました。それは無理ですと、専門家たちは文句を云いましたが、児玉は強引に要塞砲を移動させます。二〇三高地の麓に据え付け、それらが活動を始めてから旅順は落ちました。音ばかり大きい要塞砲が鳴り響き、ロシアは降伏しました。

児玉は実に見事な人です。戦後は決して自分の手柄話をせず、乃木は偉いと云うばかりでした。そんなに教養のある人でもない、学問したわけでもない、ジェネラル(将軍)、アドミラル(提督)の才能というのは、長い歴史の中で何人もいないものです。児玉源太郎にはそれが宿っていました。そういった意味では、幕末の大村益次郎もそういう人かもしれません。

さて、バルチック艦隊です。海軍の秋山真之は若くして作戦立案者として海軍首脳から期待されていた人で、海軍戦略を学ぶためアメリカに勉強に行ったりしました。真之に課せられた命題は重いもので、ロシアのすべての艦隊を沈めなくてはなりません。一隻だけでも残したら、その船が日本の通商を破壊しますから。そんなパーフェクト・ゲームは不可能なんですが、そこを戦略・戦術で何とかしろと云われていました。結局、真之は、能島流水軍兵法書という戦国時代以前の海賊の戦法が書かれたものから、戦術の基本を作ります。ある人から何を古ぼけた本を読んでるんだと云われた時、

「白砂糖は、黒砂糖から精製されるものなんだ。」と言ったそうです。

そして、この人の一生のエネルギーのほとんどをこの作戦に注入しました。

東郷平八郎率いる連合艦隊は、パーフェクトゲームを達成し、日本海海戦は勝利します。

その頃、満州大陸に於いて日本陸軍は、疲労しきっており、そのことを誰よりも軍の指導者がよく知っていました。彼らは戦争という大がかりなものをしているつもりはなく、つまり、ロシアを滅ぼすなどという妄想は1ミリも持たず、極東の局地戦における判定勝ちを望んでいただけでした。ロシアがその極端な南下策をやめてくれることだけを、日本の指導部は望んでいたのです。

日本海海戦の勝利は、まさにその判定勝ちを上げるチャンスでした。小村寿太郎外務大臣は、ポーツマスにて、アメリカの仲裁による講和会議に出席し、ポーツマス条約に調印します。

しかしながら、多くの日本国民が、この条約に納得しませんでした。大きな犠牲を払ったことから、その戦利品に満足できなかったのです。

このあたりまでで、よき明治は終わり、この国の青春期も終わり、それ以降の日本人は大きく変わっていきます。大国ロシアに勝ったという事実だけが残り、軍事における分析を怠り、根拠のない自信だけが軍部を覆います。そして大きな敗戦を経験し、いまに至ります。

以下、司馬先生の講演録より。

ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争もないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要は、そんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。

軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。

国家とは何か、そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

 

またしても先生の受け売りでしたが、安全保障関連法案が世間を騒がせている昨今、声の甲高い、滑舌の悪い、総理の演説に不安を覚えながら、もしも司馬先生が御存命であったなら、何と言われていたのか、深く考えずにはいられませんでした。

2015年7月 8日 (水)

司馬先生の受け売りですけど 前篇

この春ごろ、ちくま文庫から「幕末維新のこと」と「明治国家のこと」という本が出てですね。どういう本かと云うと、司馬遼太郎さんが幕末から日露戦争までのことを、ずいぶんと小説に書いておられ、またそれに関して語られたことも山のように本になっているのですが、それらに載らなかったエッセイや講演や対談録を、丁寧に集めておられた筑摩書房の編集者の方がおられまして、それを、作家の関川夏央さんが改めて編集構成された本なんですね。

いろんな時期に、司馬さんが語られたことがまとめてあるんですが、やはりさすがに先生のおっしゃることはぶれてなくてですね、それらは大変興味深く、かつて読んだその小説たちのことを思い起こさせます。

 

ちょっと小説のことを、ざっくり歴史の順番に整理しますとですね。まず、

「世に棲む日々」(1971)

幕末に突如、倒幕へと暴走した長州藩。その原点に立つ吉田松陰と高杉晋作を中心に、変革期の人物群を描く長編。

「竜馬がゆく」(1963-66)

勝海舟は言った。「薩長連合、大政奉還、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ。」

今でこそ幕末維新史上の奇蹟といわれる坂本竜馬は、この小説ではじめて有名になった。

「燃えよ剣」(1964)

竜馬とほぼ同じ年に生まれた土方歳三は、勤皇の志士の敵役であり、最強組織新撰組副長である。剣に生き、剣に死んだその生涯。

「花神」(1972)

緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、長州の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死を遂げた日本近代兵制の創始者、大村益次郎の波乱の生涯。

「峠」(1968)

幕末、雪深い越後長岡藩から、勉学の旅に出、歴史や物事の原理を知ろうとした河井継之助は、その後、藩を率い、維新史上 最も壮烈な北陸戦争に散った。

「最後の将軍 徳川慶喜」(1967)

その英傑ぶりを謳われながらも、幕府を終焉させねばならなかった十五代将軍の数奇な運命を描いた名著。

「翔ぶが如く」(1975-76)

西郷隆盛と大久保利通は薩摩の同じ町内に生まれ、薩摩藩を倒幕の中心的役割に巻き込みながら、絶妙のコンビネーションで維新を達成する。しかし、新政府の内外には深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治6年に起こった征韓論を巡る衝突は、二人を対立させ、やがて西南戦争に発展して行く。

「歳月」(1969)

明治維新の激動期を、司法卿として敏腕をふるった江藤新平は、征韓論争に敗れて下野し、佐賀の地から明治中央政府への反乱を企てる。

「殉死」(1967)

明治を一身に表徴する将軍乃木希典。ひたすらに死に場所を求めて、ついに帝に殉じた武人の心の屈折と詩魂の高揚を模索した名篇。

「坂の上の雲」(1969-1972)

松山出身の歌人正岡子規と軍人の秋山好古・真之兄弟の三人を軸に、維新から日露戦争の勝利に至る明治日本を描く大河小説。

他に、この時代を題材にした短編集も多く、「人斬り以蔵」(1969)「新選組血風録」(1964)「幕末」(1963)「アームストロング砲」(1988)「酔って候」(1965)等々あります。

 

いわゆる幕末というのは、1853年のぺりー黒船来航が起点とされていますが、そのしばらく前から日本近海には大国の船団が出没し始めておりました。そのころヨーロッパでは、18世紀半ばから始まった産業革命により、大型汽船が次々に造られていた背景があり、アジア各地では植民地化が進んでおります。ペリーにも、自国アメリカの捕鯨船の基地として、日本の港を開港させる目的がありました。

長州の思想家吉田松陰は、その何年も前から全国に情報を集め、識者を訪ね、当時の国際情勢を調べ、帝国主義の植民地化から日本を救うには、大国の文明を吸収するしかないと考え、アメリカの旗艦ポーハタン号に密航しようとして捕らえられます。その後、萩に戻され、謹慎中に松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋ら、その後明治維新を実現していく人材を育成します。

しかしながら、松陰自身は安政の大獄で29歳の若さで斬首されてしまいます。

翌1860年にはその弾圧を敢行した大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その2年後の文久二年、坂本竜馬は土佐を脱藩、その翌年には新選組の元となる浪士組が結成されています。当時、西郷隆盛は薩摩藩内の事情もあって沖永良部島に遠島になっていますが、このあたりから倒幕に向けて、一気に時代は動きだしていきます。

1864年(元治元年)池田屋事件

                   禁門の変

                   第一次長州征伐

1865年(慶応元年)高杉晋作長州藩の実権を握る

                   第二次長州征伐

                  武市半平太処刑

1866年(慶応二年)薩長同盟締結

                   徳川慶喜第十五代将軍就任

                   孝明天皇長州征伐休戦勅命

                   孝明天皇崩御

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1867年(慶応三年)大政奉還

                   慶喜将軍職返上

                   高杉晋作病死

                   坂本竜馬暗殺

                   王政復古の大号令

1868年(慶応四年・明治元年)

                   鳥羽伏見の戦い

                   勝海舟・西郷隆盛会談

                   江戸城無血開城

                   近藤勇斬首

                   彰義隊敗退

                   明治に改元

                   会津藩降伏

1869年(明治二年)五稜郭総攻撃

                   土方歳三戦死

                   大村益次郎襲撃され没

 

こうしてみると、黒船が来てから約15年ほどの間に、これだけのことが起こり、全く違う世の中になってしまったことがわかります。

もしもこの時期、日本が清国や李氏朝鮮のような中央集権制の国家であったなら、欧米勢力によって植民地にされていたかもしれません。幕藩体制における各藩は、実は自立した存在で、農業や商業など各産業も競争原理に則って、強化され鍛えられておりましたので、それぞれにそれなりの力を持っていました。外国からこの国を見た時に、中央政府を押さえれば支配下における国であるとは、とても思えなかったはずです。

実際に明治維新を成し遂げた諸藩は、それぞれ独自の考えでこの革命にかかわりました。

個々に複雑な事情もあったのです。

長州藩では松陰の弟子たちが、欧米の脅威からの危機意識ゆえに、藩内の闘争を制して実権を握り、この藩を倒幕の方向へと傾けてゆきます。薩摩藩は西郷と大久保が岩倉具視らとの朝廷工作を通して、藩全体を倒幕に導いて行きますが、このあたりの事情を藩主の島津久光は全く知りませんでした。そして、この長州と薩摩がひとつの力にならなければ、幕府とのパワーバランスとして維新の実現はありません。この薩長同盟の斡旋をしたのが土佐の坂本竜馬だったわけです。

勝海舟は欧米のアジア侵略を防ぐには、中国、朝鮮、日本の三国が締盟しなければならないという考えの人でしたが、後に明治政府で征韓論が起きた時に、いずれ朝鮮にも日本のような新しい勢力が起こってくるから、その時にその者と手を握ればよいと云います。つまり、この国際情勢下であれば、西郷のような人が出てきて革命が起こるはずだから、その新政府と握ればよいということだったのですが、結局、勝の存命中にも、そのあとにも、それは起こりませんでした。    

明治維新というのは、江戸時代の幕藩体制、もとをただせば専制国家ではない競争原理の上に成り立った国のかたちであったことが、それを実現させたということが云えるかもしれません。   

明治という国家が産声を上げたところではありますが、ここまでの話がずいぶん長くなってしまいましたので、この先は次回ということにいたします。

以上、先生の受け売りでした。

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2014年10月15日 (水)

「寅さん」というプログラムピクチャー

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今さらですが、「男はつらいよ」という映画は、すごいなあと、この間しみじみ思ったんですね。そんなこたあ、お前に云われなくても、1969年の第1作から第48作まで26年間、大ヒットを続けていたわけだし、1995年にシリーズを終了した後も、その評価は変わることなく、ずっと絶大な支持を受けていたわけで、今頃になって何を寝ぼけたこと云ってやがる、などと云われそうで、まあ語りつくされてることではありますが、ちょっと語ってみたくなったのですね。

このところ、BSで毎週土曜日の夜に、ずっとこのシリーズを放送してたのは知っていて、たまに観てたんですが、それほど集中して観ていたわけでもなく、ときどきつまみ観をしてたんですね。何度か観てるうちに、ふと、この映画って、やっぱりちょっとすごいなと思ったんです。

なにかと云うと、この映画にはこの映画にしかない 間(ま)があるんですね。

映画を見始めると知らないうちに、こっちがストンとその間(ま)のなかに入ってしまいますね。山田洋次監督の間(ま)なんでしょうか。渥美清さんの独特の間(ま)なんでしょうか。このシリーズの出演者たちが作ったもんなんでしょうか。それは、映画として語られるお話の間(ま)だったり、登場する人と人との間(ま)だったり、セリフの間(ま)だったり、いろいろなんですけど、観る側は心地よくその間(ま)にのみ込まれてゆくんですね。

第1作が公開された頃、私は中学生でしたが、とくにこの映画を観ることもなく、高校生の時はわりと映画少年だったんですけど、このシリーズにあまり興味もなく、高校卒業するころになって、受験勉強さぼって初めて観たのが、第10作だったと思うんですね。でも、この映画けっこう笑ったんです。マドンナ役は八千草薫さんで可愛らしくて、喜劇映画としてよくできてるなあと思ったんです。

年表を見ると、このころから、このシリーズはお盆とお正月の書き入れ時の公開に定着していきます。確実に観客をつかみ始めたのかもしれません。松竹という映画会社を支えているのは「男はつらいよ」であると言われ始めたのもこのころでしょうか。

それから私は、進学して上京し、このあとも時々「寅さん」を観るようになりました。20代になり、少しは大人になっていったのでしょうか、この喜劇は、何だか少し悲しいなと思うようになります。いつも、地方の風景と、葛飾柴又の風景と、とらやの茶の間が舞台で、いつもの人たちがいつものように出たり入ったりする、これといって何も変わらない、でもおかしくて、なんだか悲しい映画。

特に、このころ観た、吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんが出演したシリーズは、名作でした。そのあと社会に出て働き始めて、またあんまり観なくなったりして、でも、出張先の地方の映画館で、一人でフラッと観て、そういう時はやけにしみたりして。

そのうちビデオでも観れるようになり、この映画は、ずーっと何となく付かず離れず存在してたように思えます。

気がつくと、こちらも30代も半ばになった頃、1990年から「男はつらいよ」は、お正月映画として年に1回の公開になり、脚本的にも、この頃から寅さんの甥の満男の恋が描かれるサブストーリーが作成され始めました。これは後になって知りましたが、病気がちになった渥美さんの体力を考えてのことだったようです。

渥美さんは、車寅次郎を、41歳から67歳まで演じて幕を閉じました。

最終回のラストシーンは震災にあった神戸の街でしたから、1995年の年末でした。

このシリーズが終わってから、すでに20年ちかく経とうとしています。

この先も、これだけ続くプログラムピクチャーは、もう作れないでしょうね。

そして、これだけ続くには、続くだけの理由があったと思います。

あらかた笑った後で、ちょっと切なくなる気持ち。

切ないから、ともかく笑ってしまおうという気持ち。

監督の山田洋次さんは、インタビューで、終戦直後、引揚者として毎日つらかった少年時代に、大人たちがその中から笑いを見つけて、笑うことで元気を出して励ましあうのを見て、それが自分の笑いの、喜劇の原点かもしれないと言われていました。

考えてみると、喜劇ってそういうとこありますよね。

2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年5月14日 (水)

本の題名

このまえ「トイレの話をしよう」という本を読んだんですが、これが実にいろいろなことを考えさせられる本だったんです。副題に「世界65億人が抱える大問題」とあります。

少なくとも日本のそれも都市部に暮らしている私たちには、にわかにピンとこないことではありますが、世界中には、トイレとそれを処理する下水処理設備が備わっている地区は、ごく一部しかなく、トイレがあっても、きちんとした処理がされぬままに、下水が飲料水源に流れ込んでいる場所がたくさんあります。さらに、トイレという形すら持たぬ人々が地球上に26億人もいるそうです。そのような環境下で、糞便によって汚染された飲料水や食物によって引き起こされた下痢が原因で、途上国では、15秒に1人の子供が死亡しています。

衛生問題を語るとき、清潔な水の問題はよく語られますが、その根幹にある排泄物やトイレに関することは、あまり声高に語られることが少ないですね。でもこの本には、世界のトイレ事情がリポートされつくされていて、このことに関して、あまりにも知らなすぎたことを、思い知らされます。

下水設備の整ったこの国での暮らしが、いかに恵まれたものかを再確認し、世界にはトイレを持たず、夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいることや、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるを得ない人がいることを知り、そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも知りました。

この本をどういう人が書いているかというと、ローズ・ジョージという名前のロンドン在住のジャーナリストで、この人がまさに世界中のトイレというトイレを、さまざまな街の下水道の中を、そしてトイレのないスラム街等を取材しつくして本にしています。そして、驚いたことに女性なんですね、この人。しかも美人です。

この本のことを知ったのは、ある新聞の読書欄で、椎名誠さんがこの本のことを紹介されてたからなんですが、その中で、世界中のトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊と評価されており、おまけに著者が女性で、しかも美人であることを付け加えておられました。そのことは余計なことですがともいわれてましたが。

まあ、その椎名さんの文章を読んですぐに購入したわけです。

椎名さんという方は、昔から本というものに対して、深い洞察と愛情にあふれていて、よく書評も拝読しておりました。この人が本を出され始めたのは、私が社会に出た頃で、次々に話題作になり、特に若者の人気を得ました。初期の作品はたいてい読んでますが、彼が自身の青春期を振り返った「哀愁の町に霧が降るのだ」や「新橋烏森口青春篇」は、自分がその頃新橋烏森口の小さな会社で働いていて臨場感があり、個人的には同じ時代を生きてるような親しみがありました。

その後この方は、本当にたくさんの本を書き続けておられ、小説、エッセイ、紀行、評論など多岐にわたり、240冊くらいの本を出しておられます。そのうちの何冊くらいを読んだかわかりませんが、ここしばらくはちょっとご無沙汰しておりました。

ついこの前、本屋を歩いていて、椎名さんの新しい本を見つけ、題名を見てすぐ買ってしまいました。題名は「殺したい蕎麦屋」。読んでみたくなる題名です。殺したい蕎麦屋のことが書いてあるのはほんの一部で、でもなるほどフムフムという感じで、ほかも変わらぬ椎名節で、なかなか良い本でした。

でも、昔から、題名のツカミが強いんですよね、椎名さん。

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2013年1月23日 (水)

「想い出づくり。」と「北の国から」と「幸福」というテレビドラマ

年末に会社のF井さんから、「お正月休みにどうぞ」と云われて、DVDのセットを貸していただいたんですが、これ、前から是非みたかったもので、1981年にTBSで毎週金曜の10:00から放送されておった「想い出づくり。」というドラマでして、当時大変評判になったものです。このF井さんという人は、こういう歴史的に重要なドラマなどのDVDを手に入れては貸して下さる、非常にありがたい方なんです。

シナリオは山田太一さんが書かれていて、かなり昔に読んで、すごく面白かったのを覚えています。放送された当初も、山田さんはすでに「それぞれの秋」や「岸辺のアルバム」や「男たちの旅路」などを書かれた有名な脚本家であり、このドラマは放送開始から話題になっていたようです。

ただ当時、私はこのドラマを一度も観ていないんですね。それは、仕事が忙しかったこともあるんですが、金曜の10:00といえば、フジテレビの「北の国から」を観ていたからなんです。たいてい街はずれの飲み屋やラーメン屋のテレビで仲間と観てたと思いますが。

こちらのシナリオを書かれているのは倉本聰さんで、この方もすでに「2丁目3番地」や「前略おふくろ様」や「うちのホンカン」を書かれ、大河ドラマも書かれていて、いわゆる脂の乗り切った頃でした。



TV金曜10:00は、年齢も同じこの二人の売れっ子脚本家の対決となったのですね。ビデオ録画などできなかったこの頃、どちらを見るか迷った人も多かったと思います。調べてみると、「想い出づくり。」は1981年9月18日放送開始で、少しあとの10月9日から始まった「北の国から」は地味な作りでもあり苦戦していましたが、徐々に巻き返していきます。その後、「想い出づくり。」は1クールで先に最終回を迎えたこともあり、このあと2クール目に入った「北の国から」には、一気に火がつき、その後スペシャルドラマとなって、主人公の純と蛍の成長を追いながら21年間続く大ヒットシリーズとなります。

何となく覚えているのは、「北の国から」という作品は、長期ロケで制作費のかかる大作で、先行して盛り上げる意味もあって、脚本を先に出版してたと思うんですね。私はついつい先に脚本を買ってしまい、なんだか仕事で移動中の飛行機でシナリオ読んでたら、ちょうど別れたお母さん役のいしだあゆみの乗った機関車を、小学2年生の蛍が全力で追っかけるクライマックスで、こらえきれずにおいおい泣いてたら、スチュアーデスさんが、おしぼり持ってきてくれたことがありました。

そんなふうに、こっちにはまっていたので、当時「想い出づくり。」のことは、よく知らなかったんですけど、その後出版されたシナリオを読んで、やっぱり山田さんの脚本は面白いなあと思いました。キャスティングも興味深かったです。主役の3人は、森昌子、古手川祐子、田中裕子でした。脇役では佐藤慶と加藤健一も良かった。



Omoide1そもそも山田さんが何故この話を書こうと思ったかと云うと、その頃、桂文珍が落語で、女の人はクリスマスケーキと同じで、25過ぎると売れなくなるというのを枕で使って笑いを取っていて、ご自身に適齢期前の娘さんが二人いらしたこともあって、それをすごく不愉快に思ったことがきっかけだったそうです。

今と違って、当時の20代前半の女性にとって、将来の選択は平凡な結婚というのが常識的でした。そういう世の中の空気に反発して、結婚前の24歳の女性を主人公に、彼女たちのそれぞれの家族を含めた群像劇の中で、現実から一歩踏み出そうとする娘たちの物語を書きたかったんだそうです。そして、この全員主役の群像劇のスタイルは、その後「ふぞろいの林檎たち」へ踏襲されていきます。

これは山田さん本人が言われてるんですけど、テレビドラマの脚本て、かなり個人的な思いが強くないとだめなんじゃないか、合議制とかじゃなく、個人の気持ちから作られたものの中にしかほんとの名作はないんじゃないかと。

「北の国から」も、倉本さん一人の頭の中で起こった話です。ご自身で移り住まれた北海道での生活や体験も大きいですし、物語の骨格もキャストのイメージも一人の作家の中から紡ぎだされています。

企画会議とやらを重ねて、最近の流行りとか、視聴者の好みを探ったり、今当たっているコミックスの傾向を話し合ったり、なんならコミックスそのままドラマ化しようかとか、大勢で集まって揉んでみても新しいものは生まれません。やればやるほど中身は平均化して、ありきたりなものになっていきます。

表現というのは、誰か個人から発せられて、個人に届くから面白いわけで、よってたかって作るのはいいけど、基本的なアイデアはきわめて個人的なものでなければつまらないものです。例外はあるでしょうけど、多くの場合そういうものです。

この1981年の夏、あの向田邦子さんが飛行機事故で亡くなっています。51歳でした。その前年の1980年の夏から秋にかけて、金曜日の10:00TBSでは、向田さんの連続ドラマとしては最後の作品となった「幸福」が放送されていました。しばらくあとに再放送を観ましたが、本当によくできた向田さんならではの大人のドラマです。どう考えても、会議室で生まれたドラマではありませんでした。

こんなことを書いてたら、どうしてももう一度観たくなって、実は先日このDVDを入手してしまいました。

こういうことは癖になりますなあ。

 

2012年3月26日 (月)

かつて、CMにチャンネルをあわせた日

Toshisugiyama1「CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代」という本があります。1978年の12月に第1刷が発行されています。私は1977年からCMの制作会社で働いており、この本は出てすぐに買った気がします。当時CMの業界で、杉山登志という名を知らない人は、誰一人いなかったと思いますし、彼のことをCM界の黒澤明と言う方もいました。

けれど、私は一度もお会いしたこともなく、お見かけしたこともありません。この本は、1973年の12月に37歳で自死された杉山登志さんを追悼する意味で、その5年後に出版された本だったんです。1973年に私は上京して大学生になっていましたが、この年の暮れに広告業界を震撼させた杉山さんの事件のことは、曖昧な記憶しかありませんでした。

そしてこの世界で働き始めて、杉山登志という人が、CMとその業界の人々に、どれだけ影響を与えた人であったかということを、おもいきり知らされることになります。彼が、1961年~1973年の短い期間に作ったCMが、CMというものの価値すら変えてしまったことが、当時、限りなく素人に近かった私にもよくわかりました。

この本は、PARCO出版から刊行され、アートディレクターの石岡瑛子さんが編集にかかわっておられます。本の中には、彼の数々のヒットCMのカットが、カラー写真でちりばめられ、それは私が子供のころからテレビでみていた印象深いCMたちでした。その写真を見ているだけで、この人がどれほどの達人であったかがわかります。そして、その仕事を一緒にしていたスタッフの方や、彼とかかわりのあった同業者の方たちが、たくさん追悼の文を載せておられます。あらためてその方たちの名前を見渡しますと、本当にこの道の一流の方たちです。

私がこの方たちと、同じ業界で働いているのだと云う認識が宿るのは、ずいぶんと後になってからのことで、その頃は制作現場の末端をただ駆けずり回っているだけでした。でも、少しだけ仕事というものが面白くなり始めた頃でもあり、この本は熟読しました。

若造の理解力には限界がありましたが、読み返すほどに、この人が、いかに凄まじいエネルギーを発した天才であったかと云うことが感じられました。

その後、かつて杉山登志さんとかかわりのあった方々と、次々に知り合うことになり、いろいろなことを教えていただきました。残念ながら、直接存知あげなかったけれど、僕らはずっと、間接的に影響を受けていたと思います。

ついこの間、「伝説のCM作家 杉山登志」と云う標題の本が出版されました。彼の残した仕事や、その時代、その死の謎などが、すでに半世紀前のこととしてあつかわれている興味深い本です。この本を読みながら、かつての「CMにチャンネルをあわせた日」をもう一度読み直したいと思ったんです。

ただちょっと問題があって、本は私の手元にあるんですけど、かなり破損してしまって、読めない箇所がかなりあるんです。

どうしてそういうことになったか、若干説明がいるんですけど。

あの本を買った頃、私の部屋は本が増え続けており、ほんとに本の置き場所に困ってたんです。その後、六畳一間のわりには眺めのいい広いベランダがついた部屋に越した時、ダンボールに詰めた本をベランダに山積みにして、撮影用のビニールシートでグルグル巻きにして置いといたんです。それからしばらくして、仕事で2週間くらい海外に行ってたときに、留守中に台風が来たらしく、帰ってみたら、グルグル巻きのビニールの下の部分が完全に水に浸かり、でかい金魚鉢のようになっていました。運悪く一番下の箱が写真集関係になっており、私の大切な「CMにチャンネルをあわせた日」は水中に没してしまったんです。本の中の、写真の印画紙の部分は紙が張りついてしまって剥がれず、無理に剥がすと破れてしまいました。完全にアウトです。

最近になって、Amazonで古い本が探せるようになって、何度か検索したんですが、見つからずそれも諦めていました。ところがこの前、会社のO君と話していたら、「日本の古本屋」というサイトがあって、これがかなりすぐれものだと云うんです。O君は、なんだかこの前から自分のルーツを探っていて、それに関して相当重要な古文書を見つけたと言ってます。不思議な人なんですよね。

で、すぐに見つかったんです、「CMにチャンネルをあわせた日」。大泉の方にある古本屋さんだったんですけど、丁寧に梱包して送ってくださいました。いや、嬉しかったですね。

いま読み返してますが、この本は私にとって、この仕事とは、みたいなことを、はじめて語りかけてくれた本だったと思います。御存命であれば、長嶋茂雄さんと同年になられた杉山登志さん、緊張するけど、お会いしてみたかった方です。

でも、お会いできてたら、この本とは会えていなかったということなんでしょうか。

 

 

 

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2011年1月20日 (木)

「大人は、かく戦えり」という芝居

今、新国立劇場の小劇場でやっている「大人は、かく戦えり」という芝居のことです。

おもしろいです。よくできてます。それに、役者がいい。

観客は、爆笑の連続、息をのんだり、ハラハラしたり、ライブの芝居の醍醐味がたっぷりと味わえます。若い人向けというよりは、ちょっと大人向けですけど。

この戯曲は、ヤスミナ・レザというフランスの女性作家によって2006年に書かれ、すぐに評判を呼び、世界各国で次々に上演された話題作です。日本では、これが待望の初演ということになります。

登場人物は、二組の夫婦。

ウリエ夫妻とレイユ夫妻が、ウリエ家の居間で話し合いをしています。

レイユ家の息子がウリエ家の息子に怪我を負わせてしまったのです。

二組とも、地位も教養もあるブルジョアジー夫婦だけに、冷静で友好的にみえる態度で、子供の喧嘩の後始末に折り合いをつけようとしているのですが、ぎこちない会話にホンネが見えかくれし始め、徐々に互いの本性があらわになってきます。やがて壮絶な罵倒合戦になり、さらには、日頃それぞれの夫婦間に鬱積していた不満も爆発してしまいます。そして、舞台は収拾のつかない混乱へと向かうのです。

この芝居の成否は、キャスティングにかかっていたと思います。

というか、それぞれの役者の力量にかかっていたと云うべきでしょうか。

ともかく、ウリエ夫妻、大竹しのぶ、段田安則と、

レイユ夫妻、秋山菜津子、高橋克実の配役は最強でした。

一人一人の登場人物が、各俳優によって相当細かく造形されています。それによってその人格が伝わり、笑いにもつながります。客席が引っ張り込まれていくのは、そうしたリアリティの上に構築されたお話です。

観客は、休む間もなく、どこに行きつくともわからぬ4人を追いかけながら、この芝居の持っているひとつのテーマが、夫婦というものであるということに気付かされます。

先にこの芝居を観た、会社のFさんは私に、

「とても面白い芝居でしたが、ご夫婦では観られないほうがよいと思います。」

と言いました。ちなみに彼女は独身ですけど。

確かに、夫婦で気持ちよく笑って終わる芝居ではありませんね。後味がほろ苦いというかなんというか。もともとは他人の一組の男女(まれに男女じゃない場合もあるが)で構成された夫婦という形は、暮らしていくうちに、様々なズレやシコリがたまり、ある局面で、それが一気に表面化したりしますよね。

そのあたり、舞台ということもあって、誇張して描かれていたりしますが、本当にセリフも演技プランもよく練れていて、実感を込めてお見事と云わざるをえません。

ちょっと子供にはわからない、おとなの芝居とでも云うのでしょうが、昔、向田邦子さんが書いたTVドラマにも、こういう世界がよくあったように思います。

一緒に暮らす夫婦や家族が、あることをきっかけに、相手がかくしていた感情を知ることになり、ちょっと大きめの波風が起きるような話です。若かったころ、まだガキだった自分は、向田さんのドラマを観て、大人の世界を垣間見ていた気がします。

そのころ、一度も結婚をしたことのない向田さんが、何故あんなに見事に夫婦というものが描けるのか不思議だという話が、よく聞かれましたけど。その後、向田さんはエッセイや小説をお書きになり、そのあたりにどんどん磨きがかかり、多くの名作が生まれました。

そう考えてみると、かつてテレビには、もっと大人の鑑賞に耐えうるものが沢山あった気がしますね。

ちょっと話がそれちゃいましたけど・・・

 Otonahakakutatakaeri

 

2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

2010年3月 8日 (月)

真夜中の「秋日和」

冬の真夜中、BSで小津安二郎監督の特集をやっていたようで、ある夜、遅く帰った時に、「秋日和」を見てしまいました。平日の夜中の2時でしたし、こんなもの見てしまったら大変だなと思い、適当に切り上げるつもりでしたが、見始めたら、つい最後まで見てしまいました。というか途中でやめられなくなりまして・・・そして、良かった、すごく。 

かなり前に、多分20年くらい前ですが、当時ビデオ化されてレンタルビデオ屋に並んでいた小津作品を端から一気に見てしまったことがあります。戦後の作品ばかりだったと思います。どの映画も、お話の設定も、出演者も、テンポも、世界観がよく似ており、記憶の中でどれがどの映画かわからなくなっておりました。そんなことで、この夜この映画を見ながら、ああ、あんな見方をするんじゃなかったと、後悔いたしました。それぞれの映画は、実際は何年もかかって少しずつ公開されたわけで、あんな見方をするべきではありませんでした。 

「秋日和」は1960年に公開された小津監督の最後から3番目の作品です。原節子さん演じるある未亡人を中心に、その一人娘の縁談を通して、周りの人々との触れ合いが描かれ、最後は、娘の結婚式を終え一人になった主人公が、アパートに戻って床に着いたところでラストシーンとなります。小津監督の数々の映画に出演した原節子さんは、「秋日和」の10年前には、「晩春」で老父を一人残して嫁いでゆく娘を演じてもいます。そして、なぜか小津監督が亡くなった1963年以降、映画界から身をひいてしまいました。 

初めて小津監督の映画を見たのは、「東京物語」でした。この映画は、私の生まれる前年1953年に公開されており、私は学生の頃TVで見たと思います。その時、ほかの映画では感じたことのない、静かな強い意志で何かを伝えられたような、強烈な印象が残りました。そのあとも、何度かビデオを見たり脚本を読んだりしてみましたが、何度見ても、胸の奥の深いところに何かが残ります。 

小津さんの映画には、ごく普通の人々のごくありふれた日常が描かれており、その人生の節目節目に訪れる、出会いや別れがたんたんと表現されております。そして、いつも同じある読後感に包まれます。このゆっくりとした独特のテンポの、起伏の少ないお話に、どうしてこんなに引き込まれるのか。そんなことを思いながら、今回もすっかり朝まで、お付き合いさせていただきました。 

もう一本、この数日後に朝までお付き合いしてしまった映画が、CSで夜中に放送されていたヴィム・ヴェンダース監督の「東京画」でした。「秋日和」で深く唸ってしまった直後ということもありましたが、あのたんたんとした映画を、またしても朝まで見てしまいました。

この映画は、1983年に小津安二郎を敬愛するヴィム・ヴェンダース監督が「東京物語」の舞台となった東京を訪れ、映画が製作された1953年の30年後のすっかり変わってしまった東京の日常を撮影したもので、その間、鎌倉の小津監督の墓を訪ねたり、主演の笠智衆や撮影の厚田雄春にインタビューをしたりしています。そして、この映画のトップには、「東京物語」のトップシーンが、ラストには、ラストシーンが盛り込まれています。

ヴィム・ヴェンダースがとらえる1983年の東京の風景も面白いのですが、興味深かったのはインタビューでした。笠智衆と厚田雄春。この二人が語る内容は非常に似通っています。そして、二人とも小津監督のことを先生と言います。

笠智衆さんは、1920年代の小津さんの映画にすでに出ている常連の役者さんですが、彼は、芝居はすべて先生の指示通りにやった、自分は無器用でなかなか先生の意図通りにできず、何度もテストをして指示通りにやったと繰り返し語ります。そして、先生は、映画の中の、すべてのことを小津安二郎にしてしまわれます。役者として先生から学んだことは、自分を忘れ白紙になるすべでした。役者としてまっ白になり、あとは先生の考えられた通りにするだけです。なにものでもなかった自分は、先生によって笠智衆になりました。先生が私を作った。先生と私の関係は、ただ教えられるだけの関係でしたと・・・

カメラマンの厚田雄春さんは、1929年から撮影助手としてかかわり、1937年以降の松竹の小津作品すべての撮影を担当した方ですが、撮影はすべて先生の指示通りにしました、撮影位置もアングルもそうです、私はカメラマンではなくカメラ番でしたといわれました。照明のアイデアなど懐かしく語りましたが、途中で泣き崩れてしまいインタビューは終わります。

小津組と言われる常連のスタッフ・俳優に、彼が尊敬され愛されていたこと、映画の撮影となると、完璧主義といっていいほど徹底的に細部まで演出する気難しい一面があったことが伝わってきます。

でも、その細部に対する監督の意図は、こうやって50年たった今でも、観客に届いていることがわかった真夜中でした。

もう一度、いま見ることのできる小津作品をあらためて見たいと思いました。しかし、今度はゆっくりと。

真夜中というのは、落ち着いてゆっくり映画を見ることがでる時間帯だということが、あらためてわかります。

特にじっくり効いてくる小津映画にはピッタリです。

Tokyo-monogatari  
   

2009年2月19日 (木)

市川さんへ

Ichikawasan_4    市川さん、何と云ったらよいのか・・・

私は、市川さんが昨年9月に、すでにこの世からおさらばされたことが、

未だに信じられずにいます。

このところ、ご無沙汰していたこともありますが、

テレビには、相変わらず市川さんが作ったCMがたくさん流れていますし、

お見かけしないときは、また映画の撮影をしたり、編集をしたり、企画をしたり、

脚本を書いたりされているのだろうなと思っておりましたから、

なかなか実感がわかないのであります。

12月には、ものすごくたくさんの方がお集まりになって、

椿山荘で「お別れの会」が開かれましたが、

映画市川組のメインスタッフの方々が、ズラッと並んであいさつをされている風景は、

何か大きな映画の賞を受賞されたお祝いのパーティーと、錯覚してしまいそうでした。

市川さんの大好きなスイトピーに包まれた遺影は、良い顔をされてましたね。

盟友のカメラマン、広川さんが撮られた写真でした。さすがです。

そういえば、昔、市川さんの映画に、ある役の遺影で出演させていただいたことを思い出しました。今となっては、ただ懐かしい思い出です。

年末に、遺作となった「buy a suit スーツを買う」を観せていただく機会を得ました。

市川さんが逝ってしまわれたあと、仕上げの途中だった映画を完成させた助監督の方と、

主演女優さんと、市川さんの事務所の方と一緒に観ることができました。

そのあと、みんなで晩御飯を食べながら、ずっと市川さんの話をしていたら、

市川さんはほんとに、もういらっしゃらないんだなという気がしてきて、哀しかったです。

buy a suit スーツを買う」は、とてもよい映画でした。

映像表現に、今までにない新しい試みがあふれていました。

きわめて実験的だけど、それでいて市川さんの映画のトーンが、守られています。

心に残る映画でした。

新しい手法を発明して、それに手ごたえを感じながら、映画監督としてワクワクしながらこの映画を作ってたんだろうな。

皆さんの話を聞いていて、そのことがとてもよくわかりました。

新しい仕事に、CMでも映画でも、いつも貪欲で、寝る時間がなくなっても、

何より楽しそうにものを作る人でした。

勇気づけられました。たくさん助けてもらいました。教えてもらいました。

同じ時代に、同じ業界に、いられたこと、、

CMも映画も、市川さんの仕事に少しかかわれたこと、うれしかったです。

いつか、そちらでお会いできたら、また付き合ってくださいね。

市川準監督 追悼上映 3/21(土)~27(金) 渋谷ユーロスペース

http://d.hatena.ne.jp/ijoffice/

2008年1月25日 (金)

小学生のときに観た黒澤映画

Kantoku2

このところ、黒澤明監督の作品のリメイクが相次いでいます。現在上映中の「椿三十郎」、また今年の公開が決まっている「隠し砦の三悪人」。映画ではなくテレビでも、昨年「天国と地獄」と「生きる」が制作されました。「七人の侍」と「用心棒」は、とっくの昔に海外でリメイクされていますが、国内では、ここにきて一気にという感じがします。なにか連鎖反応のような気もします。かつて大ヒットした作品の魅力的なシナリオですし、いつかやりたいと思っていた関係者も多かったのでしょうか。

しかしながら、なんといっても、あの世界のクロサワが渾身をこめた、ものすごく完成度の高い映画をリメイクするのは、やはり勇気のいることだし、軽く決断できることでもなく、「赤信号、皆で渡ればこわくない。」みたいなところもあるのかもしれません。

映画のほうは、まだ観ておりませんが、テレビの方は、録画して観ました。やはり、本が良いので、しっかりしたドラマになっていました。公開された当時との時代のギャップは、うまく工夫されていたし、現代を代表する力のある役者さんたちがキャスティングされていて、なかなかに見ごたえがありました。そして、オリジナル作品に敬意を払った丁寧なつくりになっていると思いました。

ちなみに、オリジナル版の「天国と地獄」は、1963年の3月の公開です。私は小学2年生でした。ほんの子供でしたがものすごく興奮したのを覚えています。その後、何度もその映画を見ました。何回見ても、本当に面白くてよくできた映画です。

ここで、オリジナル版とリメイク版を比べてみても、意味のない事はよくわかります。でも、たとえ小学2年生であったとしても、その当時観客としてあの映画を観た者としては、どうしても比べてしまいます。そして、当時の黒澤映画にかけられたエネルギーが、いかに半端でなかったかを思い知るのです。

1963年からちょっとさかのぼりますと、195210月「生きる」、19544月「七人の侍」、195511月「生きものの記録」、19571月「蜘蛛巣城」、19579月「どん底」、195812月「隠し砦の三悪人」、19609月「悪い奴ほどよく眠る」、19614月「用心棒」、19621月「椿三十郎」となっています。ほぼ1年に1本のすごいラインナップです。

ともかく、黒澤さんは、脚本作りも、キャスティングも、ロケハンも、撮影も、映画に関するすべての仕事に対して、考えられるベストを尽くす監督です。いろんな逸話が残ってます。

「天国と地獄」では、物語の発端に重要な意味を持つ主人公の豪邸を、美術セットとしてつくっているのですが、同じ建物を、オープンに2箇所、スタジオに1箇所、合計3つ建てています。このことを知った上で映画を見ると、3つのセットが映画の中で完璧に機能していることがわかります。ほんの一例ですが、一事が万事こういう姿勢なのです。

「椿三十郎」のとき、私は小学1年生の観客でした。その時1回観たきりなのに、ずいぶん後に大人になってあらためて観た時、かなりの部分を正確に覚えていたことに驚きました。

40数年前、映画館は超満員。要所要所で、どよめきや爆笑が起こり、物語を、固唾を呑んで見守る観客たちがいました。そんな当時の空気も思い出しました。

リメイク版を御覧になった方も、御覧になってない方も、もしもオリジナル版を未だ観ていらっしゃらない方がございましたら、是非御覧いただきたい。

私がつべこべと申し上げていることが、わかっていただけるかと思います。

2007年7月 3日 (火)

司馬遼太郎さんのこと

司馬遼太郎さんが亡くなってから、早9年経ちます。この人の書いた小説や紀行文やノンフィクシ ョンやエッセイなど、私はずいぶん読んでいるのですが、この人が存命中に書いた分量は計り知れず、読みきるということがないので、今でも時々文庫本などを買って読んでいます。

先日たまたま買ったのは、昭和48年(1973年)に司馬さんが自宅で語り下ろしたという本でした。その中にベトナムのことが語られていました。今年、ベトナム戦争終結30周年ですから、この取材がされたのは、まだベトナム戦争がおこなわれていた頃のことです。私事ですが、昭和48年は進学のため上京した年でした。その少し前、私は広島の高校生で、その頃、広島の街で知り合った岩国基地のアメリカ兵数人と友達になり、その後、その中の一人がベトナムで戦死したことがありました。そんな事があり、当時のベトナム戦争に関する報道記事には、比較的強い関心を持っておりました。その頃の記憶をたどりながら読んでいると、この人は、この時期、ベトナムに対してきわめて先見性のある見方をしていたことがわかりました。南ベトナムという国は、アメリカの資本が途絶えれば、直ちに国家として成り立たなくなることや、アメリカの関心が、その後中近東に向くであろう事なども予測しています。また、アジアの国々が国家を成立させるためには、資本主義というか消費文明を遮断して貧乏なら貧乏なりにやっていくしかないとも言っています。またしても、なかなかに、ふーむとうなってしまう本でした。

この人の本を、確か最初に読んだのは、土方歳三の話だったと思います。20代の後半だったでしょうか。本当に面白く、次々に、この人の世界にはまりました。物事に対する洞察力の深さとか、真実を知ろうとする執着心の強さとか、感心してしまうことは多いのですが、何故か不思議に元気が出るんです。この人の書いたものを読んでいると。

司馬さんは、兵隊として終戦を迎えました。そこから帰ってきたとき、どうしてこの国があんなわけのわからない戦争を起こしてしまったのか、どんなに考えてもまったくわからなかったそうです。日本中の人がそういう気持ちでがっくりしていたとき、それ以前のこの国の歴史と、そこにいたこの国の人々のことを調べていくうちに、司馬さんは日本人として、だんだん自信を取り戻してきたそうです。そんな気分が読者にも伝わっていったのかもしれません。Ryoma_4

あらためて思いました。惜しい人を亡くしたんだなと。

2005/5