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2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

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私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

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「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

Terayamayamada

2023年6月23日 (金)

日本全国に新一年生は200万人いたのだ

この前、書いたテレビの番組のことなんですが、その番組を見ていて、なんとなく自分も昔これと似たような仕事をしていたなと思ったのですね。それはテレビのCMの仕事だったんですが、「小学一年生」という学習雑誌のコマーシャルで、“ピッカピカの一年生”と云えば、覚えてる方もいるかもしれません。
1978年に始まって、ずいぶん続いた広告キャンペーンでして、私はかけだしのADの時から約10年、途中からディレクターもやって、プロデューサーもやって、その仕事に長く関わりました。
今もそうですけど、毎年4月には日本中の6歳児が一斉に小学校に入学するわけで、それはそれは世の中じゅう祝福ムードになるんですけど、その春に向けて、その子たちにテレビでメッセージを言ってもらいましょう、という企画です。
その頃、今度小学校に入学する子供達は、全国に200万人もいたんですが、私たちは北は北海道から南は沖縄まで、毎年、秋から春にかけて日本中走り回って、本物の新一年生を取材しておりました。
当時テレビのCMというのは、商品や出演者などをいかに美しくクオリティーの高い映像で撮るかということが最重要であり、必ず35m/mの映画用のフィルムで撮影しておりまして、1カット1カット、用意、スタート、アクション、はいカット、はいもう一回、みたいな撮り方をしてたんですね。でも、この一年生の仕事は、えんえんとビデオ回して収録するやり方で、画もテレビのニュースのような画質だし、多分にドキュメント的なタッチで、明らかに他のCMとは違ったCMになってました。
というようなことで、このコマーシャルで最も大事なことは、登場する子供達の嘘臭くない本物のリアルな存在感ということでした。ただ、云うのは簡単だけど、実際にどうやって撮影したら良いのだろうか、というところからこの仕事はスタートするんですね。このキャンペーンを企画したのは、この出版社の宣伝部の若い人、広告会社の若い人たちで、あんまり6歳児をわかってる人がいなかったんです。もちろん、私もそうでしたし。
あの時代、いろいろなモノの作り方も、今と違ってかなりアナログではありまして、このコマーシャルも、まずどのあたりに暮らしてる子供を撮りたいかを決めたら、まずそこに行ってみてウロウロしてみる。全国の小学校の名前と所在地と児童数が載っているリストがあって、それを見ながら、どの町や村にどんな学校があるか探ってみる。たとえばこの小学校に来年入学する子どもたちはどこにいるか。たいてい、そのあたりの保育園か幼稚園にいるはずだから、そこを訪ねて行ってみる。そこで今度一年生になる子に会わせてもらって、いろいろ接してみる。それを何ヶ所も繰り返して1週間くらい、場合によっってはもうちょいとかかることもあるけど、そうやって集めた小学校と子供達の写真を見ながら、今回の収録をどちらの学校と、そこに行くどの子供達でさせていただくかを決めて、お願いに上がり、それから何日か後に、実際にVTRとカメラとスタッフを連れて行って撮影をするわけです。
たいていの場合、今度入学する小学校の前で、カメラに向かって一人一人コメントを言ってもらうのだけれど、6歳の子供が入学に向けて自分で考えた気の利いた一言とか言えるわけもなく、そもそも、15秒のコマーシャルで4秒の商品カットがあり、3.5秒のサウンドロゴもあって、約7秒で収まるちょうど良いコメントとか、なかなか難しいんです。
そこで、前もってたくさんの言葉を考えておきます。
「こんど〇〇小学校に行く、〇〇〇〇です。よろしく!」
「学校行ったら、給食いっぱい食べるぞお。」
「一年生になっても、〇〇ちゃん仲良くしてね。」     
「おばあちゃん、ランドセルありがとう。」
「体育がんばるぞお、鉄棒がんばるぞお!」
「〇〇小学校の校長先生、よろしくお願いします。」
とかとかいろいろですけど、そこでテレビに向かって何を言うのかを一人一人と相談して決めていきます。できるだけその子の喋り方で、方言とかもあらかじめ調べておいたりして、その子が言いたいことを、できるだけ自然に収録できるようにトライするんです。
ただ、相手は役者さんやタレントさんとかじゃなくて、普通にどこにでもいる子供達なんで、やってるうちに飽きちゃったり、忘れちゃったり、眠くなったり、妙に興奮しちゃったり、いわゆるアクシデントもあって、どうにかこうにかいろんなタイプのテイクを拾っていくわけです。
そうやって回し続けたVTRを東京に持ち帰り、15秒サイズのCMに編集したものを何タイプか作って、試写をやって放送するタイプを決めていきます。
このコマーシャルは、この学習雑誌の発売日の告知CMでしたから、それほど出稿量が多いわけではなかったのですが、入学の時期が近づくとテレビで流れることになる、ある意味お馴染みのCMで、何かと話題になることが多いコマーシャルでしたので、子供達からすれば自分たちが関わったものが、ある時期テレビから流れるというのも、なんとも不思議な体験だったでしょうし、少なからず彼らの暮らしにも何らかの影響を与えたと思います。良い影響であればよかったですが。
なんだか、ある日突然、自分たちのエリアに、普段見かけないオジサンたちが、遠くの街からカメラかなんか持ってやって来て、一日付き合ってあげて面白かったけど、なんか人騒がせな人たちだったな、みたいなこと思ってるんじゃないだろうか。
当時、自分にとってあの子供たちというのは、まさに宇宙人みたいな存在で、すごくいろんなことを感じさせてくれ、想像してなかった多くのこと、教えてもらいました。今となっては、あの10年、ほんとにいろんな場所に行って、そこでたくさんの人たちに出会った、とても懐かしい仕事です。
ただ、今の時代、あんな風に思いついた時に、突然訪ねて行ったところで、急に取材させてもらって、撮影に来るような仕事のやり方は、今は絶対に無理だと思いますけど。

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2023年4月25日 (火)

ちょっと気になったテレビの番組のこと

この数年というもの、いろんな理由で家にいる時間が増えておりまして、ほとんど家にいなかった昔のことを思えば、格段の在宅時間になっております。
そんなことで、ただ意味もなくついているテレビを見てる時間もあって、初めて見る番組とかCMなんかも、よく見かけるんですが、つくづくテレビというものは、つまらなくなったなと思うんですね。ただこれは総論というよりは、極めて個人的な感想でして、日々一所懸命にテレビの仕事をされてる方に、とやかく云うつもりもなく、テレビが始まった頃の、あの何やっても面白かった時代とはもちろん違いますし、あくまで私自身の尺度でしかありませんが。
たいていのテレビのコンテンツに既視感があるというか、何見ても、これ見たことあるなという感覚ですね。考えてみると、この国でテレビの放送が始まった頃に生まれて、何10年もテレビ観てきましたから、当然といえば当然なんですけどね。
そんな中で、たまたま偶然見ていて、見始めるとついつい最後まで見入ってしまう番組があったんですね。正確な放送時間なんかも、よく知らなかったりするんですけど、わりとこの時期、偶然何本かを見たんです。
番組名は、NHKの「ドキュメント72時間」と云います。
たぶん何年も前から続いている番組なんでしょうけど、日本中のいろんな場所にカメラを置いて、72時間。そこに現れる人々や風景を撮り続けて、30分に繋いだドキュメントです。そう言ってしまえば、それだけなんだけど、その30分についつい引き込まれてしまう力があるんです。
場所は、その都度さまざまで、たとえば、どこかのラーメンの屋台とか、街道の24時間営業のドライブイン、北海道のはずれの雪に埋もれたコンビニ、高速バスターミナル、資格試験の予備校、真冬の山小屋、奄美のFMラジオ局、この前は国内だけじゃなく、アフガニスタンのとある食堂、等々なんですけど、そこに現れる人たちを実にていねいに撮ってるんです。

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そういった場所の3日間なんですが、そこにいる人にとっては日常なんだけど、それぞれ聞いてみると、一人一人、全く別々の背景や事情があって、ついつい聞き入ってしまうようにできてるんですね。
テレビ見てる方としては、通りすがりのいろんな人の話をふんふんと聞いてる感じなんだけど、元気のいい人もいれば、静かな人もいるし、面白い話もあれば、けっこう切ない話もあって、なるほどなということも、しみじみしたり、しんみりしたりすることもあって、ついつい30分がすぐに過ぎてしまうのですね。
考えてみると、こういう番組作るのって、NHKさんは昔から得意なんですよね。全国各地に支局があるし、各地方に向けた地元のドキュメント番組とか、よく制作されていますから。見てるとディレクターの取材の仕方とかも上手だし、技術スタッフも手際がよくて、うまいなと思います。
それに、民放の番組みたいに、視聴率がどうしたこうしたみたいな、面倒くさいこともあんまりなさそうな番組のようにも思います。
大体それほど肩に力入ってなくて、たんたんとしたタッチだけど、話されてるどうってことない一言一言には、妙にリアリティがあって、なんだか人生って、こういう小さなかけらの積み重ねかなって思ったりするんですね。こっちも年取ったせいかもしれんけど。
いずれにしても、WBCやワールドカップ以外で、あんまりちゃんと見ることのなくなっていたテレビで、ちょっと気に掛かった番組ではありました。
ちゃんとオンエア時間をチェックして、次も観なくちゃ。

2022年12月18日 (日)

2022 今年の漢字は“戦“だそうで

毎年この時期になると、今年の漢字というのが発表され、京都の清水寺で偉いお坊さまが書き出されるところが放送されます。一年を振り返るひとつの行事ですが、令和4年の漢字は「戦」なのだそうでして、そういえば今年の春に始まったロシアのウクライナ侵攻は収束の気配もみせず、世界中に暗い影を落としたままです。
改めて地球上を見渡すと、戦(いくさ)の火種はあちらこちらにあり、台湾海峡をはじめ、アジアから中東、アフリカ、ヨーロッパと、ニュース映像は最新兵器のオンパレードで、よくぞこれほど揃えたものだと、ただ呆れるばかりです。
それらの破壊兵器を得るために、支払われた対価の虚しさと、それらによって奪われた貴重な生命と財産を思うに、人間が歴史の中で繰り返し重ねた甚大な負の遺産に愕然とするのみです。
この行為がいかに愚かで無意味なことか、人は歴史から学ぶことさえできていないということなのです。
今年のもう一つの「戦」は、カタール・サッカーワールドカップなのですが、こちらの方 は4年に一度開かれるサッカーの世界大戦でありまして、サッカーファンのみならず、世界中の人々が熱狂しています。
私も典型的な、俄ファンでして、普段それほどサッカー中継とか観てないんですけど、ワールドカップが近づくにつれ、試合を観たり記事読んだりしています。。そういうレベルですので、テレビ観戦しても、ボールを追っかけるのが精一杯で、あんまりサッカーの深いところはわかってないのですけど、素人なりにいろいろ観ておれば、世界的にトップレベルの強豪国チームの選手たちのプレーは、スピードも正確性の精度も格段に違うなということくらいはわかってきます。
そんな中、今年、我が国の SAMURAI BLUEが、グループE予選で、FIFAランキング11位のドイツと、7位のスペインから勝ち星を奪い、予選を1位通過したのは特筆ものの活躍でありまして、夜中にあちこちで、歓喜の絶叫をする人たちが溢れたんですね。
そこからベスト16に進み、前回準優勝チームのクロアチアと対戦します。ここも善戦し同点延長で引き分けになりますが、PKで敗れ初の8強には手が届きませんでした。ただ、4年後の次の大会には、大きな期待を抱かせる結末と言えます。
サッカー日本代表が、W杯予選に初めて参加したのは、1954年のスイス大会の時とあります。これ私が生まれた年ですが、そこから予選突破の長い挑戦が始まったわけです。そして、日本が初めて本大会に出場できたのが、1998年のフランス大会でした。その間、1960年代、70年代、私が子供から大人になっていく頃、サッカーは決してマイナーなスポーツではなくて、中学高校には強豪チームがひしめき、実業団のリーグ戦は人気もあって、よい選手も育ち着実に地力がついていたんだと思います。1980年代の後半からプロ化への動きが始まり、1991年にはついにJリーグが創立しました。そして1993年にあの有名なドーハの悲劇があって、いや、あの記憶は鮮烈ですけど、1998年、ようやく初出場を果たすんです。
それから、外国人の監督の時代もいろいろあって今に至るんですが、今回のSAMURAI BLUEのメンバーのうち、海外クラブでプレーする選手は20人、初出場の時は1人もいなかったこ とを思えば、隔世の感があります。勝負は時の運というけれど、それだけじゃドイツやスペインに逆転勝利する快挙は生まれないわけですよね。
いずれにしても、4年に一度、たった一つの国のチームだけが勝ち残るために、すべてのチームが全身全霊を賭けて戦うこの大会には、たくさんの可能性があり、未来を思うことができます。
それに引き換え、本気で現代科学の粋を集めて、国家の威信をかけて行う戦争という行為の果てには、絶望の悲しみと怒りしかなく、人として最も恥ずべき選択であります。
人間には、多分戦うという本能が備わっているし、それは避けて通れないこととしても、どんなことがあっても戦争という手は封印して、許してはならないんです。もしも、争いが生じたら必ず他の方法を選択して、解決に向かっててゆくことを肝に銘じねばなりません。
サッカーには、そもそも手を使えないという、あらかじめのシバリがありますが、そのことは何かを暗示している気もします。

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2022年9月 4日 (日)

アナログとデジタルと照明の佐野さん

この前、Facebookを見ていたら、知り合いの音楽プロデューサーが、昔のアナログの音楽録音のことを書いていて、実は音質的にはかなりアナログの音が良かったという話で、読んでいて、たしかにそうだったなあと思ったんですね。この人は私よりちょっと年下なんですけど、同じ時代にTV-CMを作る仕事をしてきて、ずっと尊敬してるワタナベさんというプロデューサーです。
我々が仕事を始めた頃、1970年代の終わりから80年代にかけては、まさに音も映像もアナログからデジタルへ移行し始めた時期でした。大雑把にいうとレコードはCDに、ビデオテープはハードディスクにみたいな事でして、結果的に今は完全にデジタルの時代になっており、その事で、かつてアナログではできなかったたくさんの事が実現でき、聞けなかった音や見れなかった映像を体験できることになりました。たとえばコンピュータが作った音があったり、CGで作られたキャラクターが、私たちが暮らす実景の中に存在できたり、いろいろなんです。その延長線上に、ネット上のさまざまのコンテンツを選び出して体感できる現在の視聴環境があるんですね。
かなり大雑把な説明になってますが、すいません。
ともかく、デジタルという技術革新がなければ、現在の便利さも感動も享受できてないんだけど、アナログの時代に仕事を覚え始めた人としては、その方式で作られた音や画の、何とも云えぬ質感や味は、忘れ難いものがあるんですね。
あの頃、楽器も肉声も含め、すべての音素材は6m/mの磁気テープに記録され、そのそれぞれの音質やバランスを整音しながら最終のダビングという作業を経て、やはり1本の6m/mテープに完成されました。レコード録音から始まったこのアナログ方式は、長い時間の中で様々な機材を進化させながら、試行錯誤を繰り返し、歴史を作ってきたんです。
私がこの業界に入った頃には、どこの録音スタジオにもそういった筋金入りのミキサーの方たちがたくさんいらしたんです。それは今だってデジタル機材を使いこなす優れた技術者の方がたくさんいらっしゃいますが、このアナログで作った頃の音を、時々思い起こして欲しいなと、そのワタナベプロデューサーは云っておられたんでして、私もそう思ったんですね。
映像の方はと云えば、その頃そもそもフィルムで撮影して現像液につけてたわけですからアナログ中のアナログです。CMは、35m/mのFilmで撮影して、それにスーパーインポーズで文字や画を合成して、最終的には16m/mのFilmでテレビ局に納品して放送されてたので、デジタルのかけらもなかったわけです。
今では撮影された映像はデジタルの信号としてハードディスクに収録され、編集室でコンピュータに取込まれて加工されて完成しますから、初めから終わりまで、全て映像記録はデジタルなのですね。ただ、Filmからデジタル映像へ移行する過程では、なかなかFilmの質感や色や奥行きが出ないと言われていたんです。その後デジタルも4K、8Kと容量も上がって行く中で技術も進化して、Filmが長い時間をかけて築いた領域に近づいて来たとも云えます。
しかし、思えばFilm撮影の現場というのは、本当にアナログな職場でして、35m/mのバカ重いキャメラをかついで設置し、移動車に載せクレーンに載せ、美術の大道具、小道具に、衣装に、メイクと、世界を作って、そこに光をあててキャメラのモーターを回すのですが、そこには、それこそ筋金入りのアナログ職人の親方たちがたくさんいらっしゃったわけです。思い起こせば、皆さん本当にハイレベルな技術をお持ちの、実に個性的な方々でしたが、その中でも、長きにわたり大変お世話になった恩人に、照明の佐野さんがいらっしゃいます。
佐野さんは、「影武者」以後の黒澤作品のすべての照明を担当されるなど、60年の照明歴を持ち、照明の神様などとも云われてますけど、そういった偉ぶったところの全くない人です。現場ではいつも普通にさばけた感じでいらして、付かず離れずいる数名の佐野組の助手さんたちに指示を出し、彼らは実にキビキビと無駄なく動いて、光を作っていきます。この助手さんたちの中から、のちに立派な照明技師になられた方が何人もおられます。そして翌日その撮影したラッシュを映写すると、それはいつも見事な仕上がりで、その画には、ある意味何らかの感動があるんですね。
佐野さんは前に、キャメラマンが画角を決めたら、その真っ黒なキャンバスに色をつけていくのが自分の仕事なんだと云われてましたけど、まさにそういう絵描きのような仕事をいつも見せていただいてました。
この方の仕事がどういう具合に素晴らしいのか、説明しても分かりにくいですが、分かりやすい話がひとつありまして、それは、黒澤明監督が映画「影武者」の照明技師を佐野さんに決めた経緯なんですね。その少し前に黒澤さんがあるウイスキーのCMに出演なさったんですが、その時の照明が佐野さんで、その仕事ぶりを高く評価したのがきっかけだったようです。その頃、佐野さんはCMを中心に仕事をされていて、たくさんの名作がありました。世界のクロサワさんがそこを決め手にしたことは、かけだしのCM制作進行だった私にも、えらく誇りに思えました。
1930年京都市生まれ、18才の時、松竹京都撮影所に入って、1957年には照明技師になられ、1964年に松竹京都が閉所になった後も、フリーランスとしてたくさんの映画とCMの照明を手掛けられました。
私が初めてお会いした70年代の終わり頃には、照明技師として既に有名な存在でしたが、いつもラジオの競馬中継を聞きながら仕事してる、そこら辺のおじさんの風情で、僕ら現場の若造は死ぬほど尊敬してましたけど、なんでも相談できる親方でもありました。「影武者」のクランクインが決まって、世間を騒がせていたのもその頃です。
それから長きにわたって、たくさん仕事をさせていただきました。佐野さんにお願いするのは、いつもいろんな意味で高難度の仕事が多く、無理をお願いすることもありましたが、いつも「ええよ」と言って、淡々とやってくださいました。そして、その度に、その仕事ぶりと出来上がった作品の完成度に感動していました。
照明という仕事は光をあてたり、光を切って影を作ったり、フィルターで色をつけたりしながら、人の眼をたよりに絵を描いていくような、極めてアナログな作業ですよね。
いつだったか、佐野さんがまだ若かった時に京都で時代劇を撮っていた時の話をしてくださいました。照明のセッティングができて、セットに、大スターの長谷川一夫さんが入ってこられ、その渡り廊下を移動しながらの殺陣のリハーサルが始まり、動きが決まったら手鏡を持ってご自分の顔を見ながら再度テストをされたそうです。
それで、本番と同じ動きをしながら鏡に映った顔を見ては、たまに立ち止まり、
「照明さん、ここんとこ、ライト足りまへんな。」と、、また歩きながら、
「あ、照明さん、ここも足しといて。」などと、照明チェックをされて、
照明部は、その都度ライトを直したそうです。すげえアナログな話ですよね。
佐野さんは、そんなにおしゃべりな方ではないのですけど、この手の貴重な話を、時々面白おかしくしてくださいました。味のあるいい話でしたね。
残念なことに、10年ほど前にお亡くなりになりましたが、長きにわたっていろんなことを教えていただきました。撮影の仕事における、あるべき姿勢であるとか、大切なことを、さりげなくご自分の背中で教えてくださっていたように思えます。
音とか映像とかのコンテンツを作る仕事には、手仕事のようなアナログの技術も、最先端デジタル技術も混在していて、それは両方とも使いこなさなきゃなりませんが、そんなことを考えていたら、ふと照明の神様を思い出したんですね。
佐野さんの中には、間違いなく経験で蓄積された照明技術のデータがデジタル化されて内蔵されていたと思われますが、
それを使いこなす時のアナログ的な勘はかなり鋭かったんじゃないかとお見受け致しましたが、、

素人が恐縮です。

Sanosan

2022年7月26日 (火)

私的 東京・多摩川論

最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると きいた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 火をともす

何も思わずに 電車に飛び乗り
君の東京へと東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました

東京へはもう何度も 行きましたね
君の住む 美し都
東京へはもう何度も 行きましたね
君が咲く 花の都・・・・

「東京」という唄の一節なんですが、あんまり覚えてないんですけど、私が高校出て東京に出てきた時分に流行っていた曲で、その頃の、いわゆる地方から東京を見ている気分がわりと出てる曲と思います。調べてみると1974年のリリースで累計100万枚というから、けっこうヒットしたんですね。
この唄の記憶が色濃くあるのは、むしろそれから何年かあとに、仕事で知り合って仲良くなって深く付き合った友達が、カラオケでよく歌っていたからで、彼も私と同じ頃に東京に出てきた人で、札幌から上京した地方人でした。大学を出て、劇団の演出部に行ったけど、少しあとに出版社の宣伝部に入って、その時に知り合いました。大切な得難い友でしたが、それからしばらくして30代の半ばに不慮の事故で他界してしまいました。この唄を聴くと、なんだか彼のことを思い出すんですね。
今もそういうところがありますが、日本中の若者が、いろんな意味で東京を目指すという構図があった頃で、東京は当時の若者にとってかなり特別な場所でした。
個人的なことを云えば、広島の高校生だった自分は、地元の国立の大学を受験したんですが落ちて、たまたま国立大の合否発表の後に受験できる私立の大学が東京にあって、そこに受かったわけです。東京には子供の時に3年くらい住んでたことがあったけど、なんだかあんまりいい思い出がなくて、東京に行くことにはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、他に行く学校もなく、これも何かの縁だと思って出てきたんですね。地元の大学に行っていれば、学費も下宿代も余分にかからなかったから、親には迷惑をかけたんだけど、そういうことになったわけです。
しかし、考えてみると、それから今までの約50年間、ずっと東京で暮らすことになってしまって、子供時代の3年間を加えても、人生の8割方、東京の住人であることになります。
でも、あなたの出身地はどこですかと問われると、東京ですとは答えられないんですね。子供の頃住んでた神戸や広島がそうかもしれないけど、わりと定期的に転校していたし、一番長く住んでるのは東京ではあるんだけど、東京という地名に対しては、郷愁とかなくて、なんだかよくわからないけど一種の緊張感があります。
けっこう長い間、そういう感覚があったんですけど、たとえば西の方から新幹線に乗って帰ってくる時、多摩川を渡る時、さあここから東京だという時、心なしか緊張している自分がいます。この街に帰ってくるというより、入って行くということなのかも知れないけど、この街の風景が持っているスケールとか、底の見えない奥深さとか、いわゆる大都会の顔つきのせいでしょうか。
さすがにこれだけ長くここに住んでいれば、少し慣れたところもあって親しみもありますが、たぶん東京出身の友人とは、ちょっと違うところがあって、それは10代の終わり頃に、どこかの川を渡ってこの街にやってきたことじゃないかと思うんです。私の場合、多摩川なんですけど。
それで最初に住んだのが、多摩川の土手が見える場所でしたからよけいそうだと思うんです。そこから一番近い多摩川にかかってる橋は、丸子橋という橋で、近くに巨人軍のグランドがあったりしました。その橋と並んで東海道新幹線が走ってましたから、新幹線からも丸子橋はよく見えるんです。
そこで暮らし始めた年の秋から、「それぞれの秋」というテレビドラマの放送が始まったんですけど、そのタイトルバックの風景がまさにその丸子橋だったりして、個人的には馴染みの深い橋だったり川だったりしたんですね。
このドラマの脚本は山田太一さんでしたが、非常に新しくて面白いドラマでした。山田さんのドラマはこの界隈を舞台にされてることが多くて、そののち、1977年には「岸辺のアルバム」が放送されますが、多摩川が決壊して、主人公一家のマイホームが川に流されてしまうシーンは、ドラマ史に残る有名なシーンです。
それから、1983年に放送された「ふぞろいの林檎たち」は、多摩川堤の私が通っていた名も無い私立工業大学がドラマの舞台になっておりまして、テレビを見ると母校でロケがされていたので、間違いなくそうなんですが、脚本を買って読むとまさに私の大学がモデルになってることがよくわかりました。その学校に通う若者たちが主人公の群像劇で、彼らの挫折や鬱屈や友情や成長が描かれています。このドラマはその後シリーズ化もされた名作ですが、個人的には、不思議と自分の多摩川の青春とダブるのですね。

さて、今はどんなことなんでしょうか。
東京はいっときとして同じ姿をしていませんが、この街の大都会ならではの魅力は変わらず、その豊かさも華やかさも、片やその胡散臭さも含めて人を惹きつけますよね。
今もまた、多くの若者が、どこかの川を渡ってやって来てるのでしょうかね。

Shinkansen_2

2022年5月24日 (火)

スケートの世界決戦は、川中島なのだ

ちょっと前の話になりますが、今年北京で開かれた冬季オリンピックのフィギアスケートで、あの羽生結弦君が、オリンピック3連覇はできなかったんだけど、負傷しながら4回転アクセルにトライして4位となり、その高難度の技に挑戦する姿勢は、多くの観客を魅了しました。
この人は1994年の生まれですから、うちの息子と同い年なんですけど、中学生の時に世界ジュニアチャンピオンになって以来、ずっとトップのアスリートで居続けて、オリンピックも2連覇し、その年齢にしてその道を極めた人ですよね。ただ、常にその位置にいることが、どれくらい大変なことであるのかは、凡人は想像するしかないのですが、えらいことだと思います。
彼が今回のフリーの演技のために選んだ楽曲が、とても格調の高いドラマチックで重厚な曲だったんですけど、その題名が「天と地と」とクレジットされていて、作曲が冨田勲さんとなっていたんですね。それで思い出したんですけど、この曲、私が中学生の時にやっていたNHKの大河ドラマのテーマ曲だったんです。なんでそんな古い曲を羽生くんは知ってるんだろうと思いながら、そうか羽生くんは上杉謙信のことをリスペクトしてるんだ、そういえばこの人、謙信とイメージかぶるとこあるか、そういえば衣装もそんな感じするし、もっとも、そんなことは、羽生くんのファンであればとっくにご存知のことなんでしょうね、などと思いながら、その大河ドラマの記憶を辿ってみたんですね。
1969年でしたか、大阪万博の前年ですね。NHKで日曜日の夜8時から毎週放送されていた「天と地と」は、一年間続く大河ドラマで、上杉謙信の生涯を描き評判になっていました。その前作、前々作は、ちょうど明治維新から100年という節目だったので、「三姉妹」・「竜馬が行く」と、幕末ものが続いたのですが、視聴率がもうひとつだったので、NHKが満を持して戦国ものをということになり、海音寺潮五郎・原作の「天と地と」の制作に踏み切ったんだと、何かに書いてありました。
その頃の日曜日の夜8時、我が家のTVのチャンネルは、わりとNHKに合わされていたと思いますが、全部の回を見てたわけじゃなくて、1969年といえば、私が応援していた阪神タイガースの江夏豊はまだ20歳でしたが、15勝7完封とエース並みの活躍をしており、わりと自分の部屋でラジオの野球中継を聞いていることも多かった気もします。
ただこのドラマは、時々見てはいて、だんだん面白くなってきたんですね。上杉謙信を演じていたのは、まだ若い石坂浩二さんでしたが、当時の中学生から見ると、とてもストイックな天才軍略家と言ったイメージで、滅法いくさに強い智将といった印象でかっこよかったですね。
その強力なライバルとして武田信玄がいるんですが、その両雄が雌雄を決する物語でもあります。
ただ、覚えてはいても、かなり大雑把で曖昧な記憶でもあるので、今回、小説の原作を読んでみたわけですが、上・中・下巻とありまして、なるほど大河ドラマです。
主人公の上杉謙信の出自とその成長が描かれ、やがて宿命のライバルである武田信玄が現れ、そして、その長い対立から雌雄を決する川中島の戦いまで、さまざまな背景を含めて、その歴史が語られています。昭和35年から3年間、週刊朝日で連載されたこの原作は、かなり話題になったようであります。
海音寺潮五郎氏が、本のあとがきに書いておられますが、謙信と信玄は、同時代に存在した好敵手だが、天が作為したかの如く正反対のキャラクターだったようで、小説の題材としてうってつけだったようです。
二人とも、この時代に生まれた人としては、相当深い学問的教養があったようですが、その存在の仕方は、極めて対照的でありました。
信玄は戦術を決定するに、決して一人ではせず、部下たちと意見を戦わせて最後に決すると、それを演習させて、一糸乱れず闘ったと言われます。対して、謙信は一切自分で戦術を決めます。春日山城の毘沙門堂に何日もこもり、思念を凝らして工夫し、決定すると、部下を集めて発表したとあります。片や、よく努力し勉強する秀才的武将と、独断専横の天才的武将の姿が浮かびます。
信玄は、基本的に領土欲のために戦い、その都度、組織を強化して国を治めようとします。
謙信は、精神的理想を実現するために戦い、失われた秩序を回復するために、遠くまで従軍することの多かった武将です。
信玄には多くの側室がおり、従って子も多いですが、謙信は生涯独身だったと云われています。
武田軍は一つずつ確実に陣地を広げていくやりかたで、領地を増やしていきます。上杉軍はどちらかといえば風のように戦場を駆け抜けては勝ち戦を続けると言った形ですが、戦争が終われば去って行くわけです。
武田信玄は、欲望の強い有能な政治家でもあり、奪った領地はよく治めたと言われています。
上杉謙信は、軍人として戦勝にこだわり、常に自身の信念とスタイルを貫いた人かもしれません。領地を広げていく政治家としての執念は、そんなに強くなかったかもしれないですね。
この長編小説を読んでみて、あの羽生君の謙信に対するリスペクトを、確かに感じました。
彼にとっての競技は、謙信にとってのいくさのようなものなのでしょうかねえ。
じゃなきゃ、自分が生まれる前に放送されていたドラマのテーマ曲を知ってたりしないですよね。
なんかよくわかった気がしました。

Kenshin

2022年3月29日 (火)

21世紀の悪魔

このスペースに、あんまり難しいことも書きたくないし、あんまり難しいことを書く能力もないのですけど、このところ東ヨーロッパで起きている事件と、その報道に対しては、本当に毎日憂鬱で、その首謀者の顔が浮かぶたびに、怒りが込み上げます。いずれにしても、極東のアジアに暮らす一老人としては、なんのなす術もなく、その無力さに打ちのめされています。

Putin



そもそも、ここに至っている国家間の国際的歴史的背景も、よくわかっていないのですが、一人の独裁者の独断で全てのことが起こっているであろうことは想像できます。
動機はともかく、あくまで一方的に始まった侵攻は、完全な破壊行為であり殺戮行為であります。であるのに、なぜ国内世論も含めた国際社会は、それをやめさせることができないのでしょうか。
国連の安全保障理事会で、さんざん顰蹙を買って世界から制裁を加えられても、NATOから総スカンを食らっても、自国でデモ隊が猛抗議しても、この独裁者はむしろ意固地になっているのか、眉ひとつ動かしません。あれほどの人の命を奪い、街を破壊し、この上、この人のこの頑なな態度は、果たしてなんなのでしょうか。
大国の最高権力者の間違った判断から、引くに引けなくなったプライドなんでしょうか。であれば、実に迷惑千万です。すでにミスが重なり、身動きが難しくなったことで、化学兵器や核兵器のことをちらつかせているそうですが、言語道断です。一刻も早くこの犯罪者の身柄を拘束して欲しいです。
ソ連崩壊の後、長きに渡り、この難しい大国の舵取りを無難にこなしてきたかどうか知りませんが、これまでの功績は、自らぶち壊したようなもんです。
第二次世界大戦中、レニングラード包囲戦でのドイツ軍による900日に及ぶ包囲によって、多くの市民が犠牲になり、自身の身内も失った恨みが根底にあって、それがトラウマになっていると何かで読みましたが、それであれば、今まさにキエフに対して、全く同じことをしようとしているわけで、完全に狂っているとしか思えません。
そして、他国への侵略を正当化するために、誰にでもわかる嘘の上に嘘を重ねています。世界中にネットが張り巡らされ、ここまで成熟した情報化社会に子供だましのようなフェイクニュースを通用させようとしているなら、ちょっと信じられません。
よく云われることですが、残念ながら歴史は繰り返されるようです。
大国のエゴイズムに端を発する侵略は、我々の歴史上、何度となく起こっています。
20世紀の初頭に起こった大戦は、領土問題や植民地の利権を巡り、世界中を巻き込んで第一次世界大戦になりました。その火種の消えぬ間に、ヨーロッパにはナチスドイツが出現し、戦火は拡大して第二次世界大戦が始まります。
そして、私たちの国も大きな過ちを犯します。中国大陸の東北地区に軍隊を派遣して戦争を起こし、満洲国を建国して傀儡政権を樹立させます。この建国に対して、当時の国際世論は真っ向から反対を唱えました。今まさに東ヨーロッパで、あの権力者が仕掛けていることに酷似していますね。
その後、遠いベトナムで起こった政変にも、大国は軍隊を投入しました。ベトナム戦争はやがて泥沼化し、現地にも遠い大国にも大きな犠牲を強いることになります。
どの場合も、それは、大国の指導者の決断で、軍事は導入されましたが、結果、多くの尊い人命を失い、国家財産を奪われます。歴史的に、決断を下した指導者が英雄になることはありません。むしろ、苦い不快な汚点になって人々の記憶に残るだけです。

以前引用しましたが、司馬遼太郎さんの講演録にあった文章を再記します。
軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。国家とは何か、そして軍事とは国家にとってなんなのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

20世紀に、人類は多くの失敗を重ね、多くを学習したはずですが、21世紀に、またしてもわけのわからん国家元首が現れて、同じことを繰り返しているわけです。間違いなく云えることですが、今毎日ニュースに出ているこの不快な独裁者は、世界中の人々の忘れてしまいたい記憶として、歴史上の汚点として、名前を残すことになるでしょう。

2021年12月 6日 (月)

続・7歳のボクを揺さぶった映画の話

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はじめて、山﨑努さんにお会いすることになったのは、「天国と地獄」公開から22年後の1985年でした。この年に黒澤明監督の期待の大作「乱」が公開されるのですが、それに先立って「これが黒澤明の『乱』だ」という、テレビの1時間特別番組を作ることになりました。この番組は、普段広告を作っているコピーライター、アートディレクター、CMプランナーたちによって制作されることになり、私はそのスタッフの中に入って、プロデューサー補という役割をいただき、番組に使われる全ての編集素材を管理する係になります。素材のほとんどは、映画が制作されている間に、ただただ記録され続けたドキュメントのVTRです。その目も眩む膨大な素材と何日も寝ずに格闘した末に、ようやくほぼ編集を終え、あとはナレーションを入れて完成させることになるんですが、そのナレーターを山﨑努さんにお願いできると良いねということになりまして、お願いしたんですね。そのナレーションは惚れ惚れするほど素晴らしく、本当に山﨑さんにやっていただいてよかったというものになり、完成します。先日、30数年ぶりに改めて見直したんですけど、なかなか良い番組の出来でした。

その頃、その仕事と前後して、私が関わっている別のコマーシャルの企画が進んでいて、その広告のメインキャラクターの人選も始まっていたんですね。その仕事の企画をされていたのは、業界でちょっと有名な面白い方だったんですけど、ある時キャスティングの話になって、「好きな俳優さんいますか。」と聞いて下さったので、迷わず「山﨑努さんです。」と答えたんですね。そのせいでもないんでしょうが、その後、わりと長いこと別の仕事で海外に行って帰ってきたら、企画も決まって、出演者も山﨑さんになっていました。ある製薬会社ののど飴タイプの薬品の広告で、とても面白い企画で斬新なCMができそうでワクワクしたのを覚えています。

子供の時からファンだった山﨑努さんと仕事をできることは嬉しかったけど、そもそも最初は黒澤映画の凶悪犯役としてインプットされているし、私の周りには面白がっていろんなことを云う人たちがいまして、
「見た目といっしょで、かなり怖い人らしいぞ。」とか、
「けっこう難しい人らしいぞ。」とか、とか、有る事無い事云うわけです。
考えてみると、確かに見た目は怖いし、屈託なく爽やかに、ただ単純明快にいい人なわけないですよね。そういう、ちょっと複雑で屈折したとこのある、いわゆる大人の男を表現できるのが魅力な俳優さんなわけですから。
その頃、30歳を過ぎたばかりの社会人としても男としても、まだ駆け出しのペーペーの私が憧れていて、大人の男として一番かっこいい役者といえば、山﨑さんだろなと思ってましたから。
多分、この方は、自身が演じると決めた役は、徹底的に読み解いて、突き詰めて、時間をかけて肉体化するという、独自の哲学のようなものを持たれてるんだろうなとも感じていました。
黒澤監督の「赤ひげ」も「影武者」も、伊丹十三さんの「お葬式」も「タンポポ」も「マルサの女」も、山田太一さんの「早春スケッチブック」も、向田邦子さんの「幸福」も、和田勉さんの「ザ・商社」も「けものみち」も、滝田洋二郎さんの「おくりびと」も、「必殺仕置人」の念仏の鉄も、そうやってひとつひとつ役が作り込まれています。多くの優れた作家や演出家からオファーが絶えないのはそういうことがあるんだと思います。
CMの仕事も含め、なかなか簡単にオファーを受けていただけないことは、以前からよく聞いておったことでしたので 、まず出演をOKしていただいたことへのお礼の挨拶を兼ねて、企画の説明にうかがうことになりました。
広告会社の担当部長とプランナーと数人で、その夜、山﨑さんのパルコ劇場での舞台出演の後に、近くのレストランの個室でお会いしたんですが、その日の舞台でキャストの1人が、つまらないアドリブで観客の笑いを取りにいった行為に、かなりお怒りになってまして、終始ご機嫌斜めで、はなっから結構おっかなかったんですけども、ともかく、このあと3年に及ぶこの仕事がスタートいたしました。
それまでは、映画やテレビの俳優・山﨑努さんの、単なる一ファンだったのですが、仕事をご一緒することになって、いろんなことがわかりました。ご自身が出演を決められた仕事は、その役をどう造形するか、どう命を吹き込むか、その作品がどうやって観客に届くかということなど、本当に真剣に考えておられ、それはたとえCMであっても同じ姿勢で、出演をお願いする立場としては、ありがたいことでありました。
このコマーシャルフィルムの舞台設定を、大雑把に説明しますとですね、時代は戦前の昭和初期あたりか、主人公は、なんだか国費留学することになった学者か研究者で、ヨーロッパ航路の大型客船に一人乗り込み異国を目指します。船の長旅には、喉の痛みや咳はつきものでして、そこで旅のお供に商品ののど飴が登場するわけです。
古い大型客船のセットを作って、3タイプほどのCMを撮影しましたが、山﨑さんはそれぞれのシチュエーションに、綿密な演技のプランを考えてきてくださいました。そのことでこのCM作品は、厚みを増していくことになるんですが、撮影の当日には、結構細やかなスタッフとのやりとりが行われます。
演技のこともそうですけども、CMに使われる言葉に関しても、山﨑さんは繰り返し確認検討されます。それはCMですから、商品に関する広告コピーだったりもするんですが、徹底的にチェックされるんですね。
俳優の仕事として、常に言葉というものを大切にされていて、台本を読む姿勢にもそれが現れています。かなりの読書家で、いつも身の回りに何冊も本があり、ご自身で本を執筆されることもあります。「俳優ノート」「柔らかな犀の角」という本が出版されていますが、どちらも名著です。
その山﨑さんが船旅をするのど飴のCMは、大変好評のうちに放送されまして、そのうち映画館の大画面にもかかったりして、感動的だったんですが、その翌年に、コマーシャルの続編制作の話が起きます。前出のプランニングチームは、張り切ってその後のストーリーを考え、やはり船旅の後には、目的地につかなきゃいけないねということになり、なんだかヨーロッパロケの相談が始まったんですね。
やっぱり、ヨーロッパだと撮影しやすいのはパリかなとなって、企画チームと演出家と制作部で準備も始まりました。当然、山﨑さんにもロケのスケジュールを打診して承諾していただき、ロケ隊は、5月のパリを目指すことになるんです。
しかし、この年、1986年の4月に、あのチェルノブイリの事故が起こります。ニュースは連日、事故のその後を報道していましたが、ヨーロッパ全土にどんな影響があるのか、ようとしてわかりません。CM制作に関しては、完成までのスケジュールは決まっていますし、中止するというのもいかがなものかという状況の中、重々検討相談の結果、予定通りロケを決行することになりました。
私は現地のコーディンネーターとスタンバイを始めるため先乗りして、パリの様子を確かめ、監督はじめ日本からのスタッフは、順番にフランス入りすることになりました。
全体にスケジュールが詰まっていたのと、カット数の多いコンテでしたから、連日、ロケハン、交渉、オーディション等で、てんてこ舞いで、最後に山﨑さんがマネージャーとパリに到着された時には、空港に出迎えにもうかがえず、その日の夜にホテルの部屋にご挨拶に行きましたが、そこで、かなりしっかりと叱られることになりました。
そのお怒りの中身というのは、
そもそも、君たちはロケハンやオーディションなどの準備が大変であると云うが、俳優である私との詰めが全くされていないではないか。企画コンテは見たが、具体的にこの主人公にどのようにしてほしいのか、その狙いは何か、そのあたりのことがまず固められてから、背景や共演者のことを考えるべきなんじゃないか、君がやっていることはあべこべじゃないか。のようなことを、こんこんと言われました。おそらく、仕事の進行を見ながら、自身に対する相談もオーダーもないままここに至っていることに、考えれば考えるほど怒りが込み上げてこられたんだと思いました。
いや、全くその通りでして、物事を前に進める制作部の役割がきちんとされてなかった事、反省させられました。
不手際をお詫びして、軌道修正のお約束をして、最後に、
「この部屋のコンディションはいかがでしょうか。」とお尋ねしたところ、
「この部屋か、、、暗い、狭い、寒い。」と云われ、
「申し訳ありませんでした。すぐにチェンジします。」と申しましたところ、
「もう、、慣れた。」と云われました。

そこから約1週間、パリ市内のあちこちでロケが行われまして、CM3タイプの素材を撮りためてまいりますが、商品カット以外は、山﨑さんは出ずっぱりで、なかなかタフな仕事になりました。
いよいよ明日の早朝に行われる某有名レストランでの撮影が最後のシーンとなり、それ以外のすべてのロケを終えたその夜、スタッフ全員で日本料理屋で食事をしたんですね。
その時、居酒屋風の小さなテーブルで、山﨑さんの正面に私が座ってたんですけど、これだけは是非、山﨑さんに伝えておきたかったことがあって言いました。
「ボク、『天国と地獄』を、小学2年生の時に映画館で観ました。」
「へえ、で、どうだった」
「そん時から、ずうっと忘れられない映画です。ラストシーンで犯人の山﨑さんが刑務所の面会室の金網に、突然つかみかかるじゃないですか、その時、私、恐怖で映画館の椅子の背もたれに、めり込みましたから。」と。
このシーンは、映画「天国と地獄」のラストシーンなんですね。この映画で描かれている誘拐事件で、多額の身代金を支払った被害者である三船敏郎さんが、犯人である山﨑さんから呼ばれて、刑務所で面会するところなんですが、そのシーンの最後に、犯人が二人を隔てる金網につかみかかるんです。
山﨑さんが、ちょっと遠くを見る顔になって云われたのは、
「あの時、つかみかかったら、金網がものすごく熱くなっていて、ジューって指を火傷したんだよ。あのつかみかかる芝居は、監督の指示じゃなくって、自分の考えでやった芝居だったんだ。」
黒澤さんの映画ではありがちですが、画面の手前の三船さんにも奥にいる山﨑さんにもカメラのピントが合っていまして、いわゆるパンフォーカスなんですが、それに、おまけにレンズは望遠レンズなんですね。これどういうことかといえば、ものすごい光量が必要になり、尋常じゃない数のライトがセットに当てられてるわけですよ。それでセットの金網は、焼肉屋の網のようになってたんですね。
ふと、私は、今すげえ話を聞かせていただいてるんだなと、気付き緊張しました。そしたら、山﨑さんの話は続き、
「元々のシナリオでは、ラストシーンはあのシーンじゃなかったんだ。事件が解決した後に、三船さんと仲代さんが並んで、犯人が住んでたあたりのドブ川の横を歩く後ろ姿のシーンだったんだけど、黒沢さんはそのシーンをボツにしたんだそうだ。」
確かに、刑務所のシーンで終わった方が、観終わった印象は強く斬新ですね。山﨑さんの芝居を見て切り替えた黒澤さんは見事です。
またしても、すごい話を聞いてしまったわけですよ。

食事会の後、ほろ酔いでホテルに向かって歩いてたら、コーディネーターのコバヤシヨシオの車が横に止まったんですね。そしたら助手席の窓が開いて山﨑さんが顔出して、「もうちょっと飲もうか。」と云われたんです。
そのあと、山﨑さんとコバヤシさんと、なんだか気持ちよく盛り上がってしまいまして、明日の朝ロケだというのに、夜遅くまで宴は続きました。コバヤシヨシオさんという人はフランスという国を実に深く知っている人でして、この仕事で本当に頼りになって助けられました。もともとはフランスの海洋学者のクストーに惹かれてパリに来たと云われてたと思います。
ロケの日程を終え、現像も済ませて、オフの日にヨシオさんがフォンテンブローにピクニックに連れて行ってくれました。フランス人の奥さんも子供たちも一緒で、すごい楽しかったんですが、張り合ったわけじゃないんですけど、その時、私が伊豆の下田に仲間で借りているあばら家がある話をしたら、山﨑さんがその家に行ってみたいと云われて慌てたんですね。ところが、その数ヶ月後に、ヨシオさんがたまたま東京に来た時に、ホントにそのあばら家にご一緒することになりまして、それはそれで楽しくて素敵な伊豆一泊旅行で、良い思い出になっております。
この仕事のおかげさまで、当時31歳そこそこの若輩者の私が、本物のアーチストの姿勢を見せていただきました。おまけに本当に得難い話をたくさん聞かせていただき、ただただ一方的に教えていただくことだけでありました。
という、ちょっと長い話になりましたが、子供の時に観て、揺さぶられた映画の忘れられないキャラクターに、ずっと念じていたらば、ほんとに会えたという話でした

2021年9月10日 (金)

オダギリさんの本

先日、本を一冊いただきまして、その本にすごく重要なことが書かれていて、個人的に実に響きましたもので、その話です。
『小田桐昭の「幸福なCM」。日本のテレビとCMは、なぜつまらなくなったのか』
という本です。
この本を書かれたオダギリさんは、言わばこの国の広告業界の巨人でして、私がこの仕事を始めた頃、1977年くらいですが、この世界では誰でもその名前を知っている人でした。
1938年のお生まれですから、今年83才。1961年にこの仕事を始められています。その頃、テレビの広告は生まれたばかりでして、それからオダギリさんは、今でも多くの人達が覚えている有名なキャンペーンを、たくさん手がけられました。それらの仕事の経緯も、この本にいろいろ紹介されています。
テレビというメディアが出現し、広告を含めた民放という仕組みが活況を呈していく中で、様々なテレビ広告が生まれて、その全盛期が描かれてますが、それと同時に、現在につながる長い時間の中で、その時代が失ったものや、変容してしまったものが語られてもおります。
「なぜつまらなくなったのか」というのは、その辺りのことです。
テレビCMができたあたりから今日までの間、常に第一線におられ、今も現役で仕事をされている方の、貴重な体験談でもあります。
本の中に、「日本のCMを育てたのは誰でしょう」という話が出てきます。
答えは、「お茶の間の人たち」なんですが、CMやテレビのエネルギーというのは、当時の新しい情報や表現を、何でも吸収してしまうお茶の間の人たちの欲望が生んだという話なんです。
この国の住居の真ん中にはお茶の間があって、ある時そこにテレビがやってきました。私もまさにそのお茶の間で育ちましたからよくわかりますが、お茶の間のテレビに対する好奇心は凄まじく、テレビ側もお茶の間が面白がって望むものは、なんでもやってみようという背景がありました。60年代に始まったこの現象はますます勢いを増して、この本に書かれている、70年代80年代の幸福なCMの仕事につながるのです。私も個人的にはなんとかギリギリその時代の後半に間に合ったCM人の一人ということになりますが。
それから様々に変化する世の中で、この業界にもいろんな時代がやってきます。そして今に至れば、その風景もずいぶん違ったものになりました。それが具体的にどんな風に変わっていったのか、この本を読むとよくわかります。
ただ、私がこの仕事を続けてこられたのは、ある意味あの幸福な時代に仕事に出会えたからじゃないかとも思っています。

考えてみると、オダギリさんは、この幸福なCM時代を象徴する方でして、世の中を動かすようなたくさんの良質な広告を発信し、またそのレベルをクリエーターとしても、マネージメントとしても、ここに至るまで守り続けてこられました。そのことは、本当に多くのこの業界の人達、後輩達が認めるところで、誰も異論を唱える人はいません。

思えば、広告業界のことなど何も知らず、全くひょんなことからこの世界の片隅で働くことになった私も、オダギリさんのお名前はよく聞きましたし、たくさんの名作のことも存じておりました。ある意味伝説になっている部分もあり、いろんなエピソードも一人歩きしています。一体どんな人なんだろうと想像を巡らせていたのですね。
北海道の利尻島の出身で、柔道の黒帯ですごい腕力で、蟹が大好物だからどんな蟹でも甲羅を手掴みで割って食べる人だとか、いつも穏やかな笑顔の人だけど、その眼だけは笑っていないとか、いろいろと尾ひれのついた話を聞くことになります。
そしてそれから何年かして、実物のご本人にお会いすることができたんです。オダギリさんの部下で私と同年代のN山さんが会わせてくださったんですが、確か酒席だったと思います。
これが尊敬するオダギリさんだと思うと、緊張したのを覚えておりますが、そのお話が深くて鋭くて痛快で、またすごく面白くて楽しい時間で酒も美味しくて、やはりただもんじゃない人なんだなと思ったんですね。
ご縁ができて、それから時々お会いする機会ができ、長きにわたって仲良くしていただいてるんですが、個人的には、そのことは、ほんとに嬉しいことなんです。

本の中でも触れられていますが、90年代に入って広告を取り巻く環境に、大きな変化が起こります。情報と技術の均一化が進み、商品の均一化も進んで、あんまり商品に差異がなくなったんですね。そうなると商品を選ぶ基準は、その会社が「良い会社」かどうかということが重要になります。いわゆる「ブランド」をどう作るかなんですね。この「良い会社」というのは人に例えるとわかりやすくて、いわゆる「いい人」なんです。
でも、一言で「いい人」と言っても難しいですね。正しくて真面目であることは当然大事なんですけど、ただ正しい話って退屈だし魅力ないですよね。 昔、大滝秀治さんが「お前の話はつまらん!」と怒鳴るキンチョーのCMがありましたけど、そういうことなんです。
ブランドを人格化したとき、求められるのはどんな人かなと考えると、困ったことを解決したい時に、相談したくなるような人かなと思うんですね。誠実で熱心で真剣で、懐が深くて、しぶとくて強くて、賢くて大人で、ユーモアのレベルの高い人、ただ真面目じゃなく遊びも知ってる人、、
いろいろ考えると、オダギリさんみたいな人になるんですが、
そんなオダギリさんから、夏にこの本をいただきました。


「立派な本ではありません。むしろ恥しい本です。
 若い人に向って書きました。お節介ですけど。
 読んでいただけると嬉しいです。」
という小さな手紙がついていました。

ほんとに若い人に読んでほしいです。

Odagirisan_4



読んでいて、たくさん心当たりがあって、反省もあって、
でもこうすべきだなということがあって、
幸福な仕事に出会うためのヒントに溢れています。
いや、響きましたもんで。

良書です。

 

 

2021年8月18日 (水)

2020(2021)TOKYO

そもそもこの時期にオリンピックを開催すべきだったのかどうかということは、後々まで語り継がれると思うのですが、ともかく開催都市東京の都民として、観戦に出かけるどころか外出も控えねばならぬ状況の中、不思議なオリンピックを経験したわけです。自国開催ということで、時差のないテレビ観戦はほとんどの競技が網羅されており、これと言ってやることもない国民としては、初めて見るような競技も含め、終日なんらかのテレビスポーツ観戦をしておったわけです。
このコロナ禍での自国開催という、いたって稀なケースでなければ、こんなにテレビの前に座ってスポーツを見続けることもありません。おまけにこの時代ですから、見ていてわからないことや、選手やその背景の情報なども、大抵のことはネットで調べながら見ることもできます。後にも先にも、ここまでじっくりとオリンピック観戦をしたことはまずないと思われますね。
その結果、日本選手団は史上最高のメダル数を獲得するという好成績で、開催国としての面目躍如を果たしたわけです。そこには当然、世界ナンバーワン、ツー、スリー、上位入賞の感動がありまして、それは、スポーツだけが持っている圧倒的な共感シーンです。これを体感するためにオリンピックは開かれていると言っても過言ではないのですね。

私もこれに異議を唱えるつもりなどさらさらなく、年取って涙もろくなってるところもありますが、やはりその感動に浸っていた一人であります。コロナ禍が拡大してゆく不安なニュースと、スポーツの感動シーンとがかわるがわる届いた開催期間中でした。
では、なぜオリンピックのメダルをめぐる物語には、感動がついてまわるのでしょう。
それは、どの競技にもその選手の肉体的な限界に挑んだ超人的なパフォーマンスがあって、その背景には、選手一人一人、そのチーム一つ一つ、それぞれのドラマがあり、その一瞬のために長い時間があったからなんだと思います。それは、実に地味な時間の積み重ねで、数々の失敗や挫折もあり、阻み続ける壁があり、希望もあればほろ苦い思いも詰まっています。そんな様々な背景を噛み締めながら、その成功や勝利の一瞬に立ち会うわけですから、感動は沁み渡るのですね。
そして、それは、数々の敗北の上に成り立っていて、その敗者にもたくさんの物語があります。
積み上げたパワーや技術が、どうしても目標に届かなかったということもあります。4年に一度というこのタイミングに、結果的にピークを持ってこれなかったというケースもあります。不測の事態が起こった場合もあります。圧倒的な事前の好評価をクリアできなかったケースもあり、事前の不利の予測を覆したケースもありました。
結果的には勝負事ですから、勝ち負けの光と影は、起きている事実に深みを与えるんですね。
この2週間、ここに書ききれないほどのアスリートたちの物語がありました。

・大橋ドン底からの快挙、メドレー二つの金メダル
・一二三、詩、兄妹で金、最強柔道チーム、井上監督の人徳
・梨紗子、友香子、姉妹でレスリング金
・中国の壁に挑んだ日本卓球団
・体操個人総合と鉄棒、橋本二つの金
・20歳の女子、ボクシング金
・10代スケボー日本、無類の強さ
・サッカー久保の号泣
・水泳池江、復活、泣けた
・稲見、粘りのプレーオフ銀
・1500m田中、毎回日本新記録
・負け知らず、侍ジャパン
・期待の桃田、大坂の無念
・陸上リレーの無念
・女子バスケットは、世界の壁アメリカに挑んだ
 怒涛のスリーポイントと町田のアシスト新記録
・村上、女子体操57年ぶりメダル
・ソフトボール、執念の金 
・大迫 42,195kmのシミュレーション

ちょっと思い出すだけでも、これくらい出てきます。

余談ですが、なんか刺激を受けまして、このところ酷暑でやめていたランニングに挑みまして、大迫をイメージしてスタートしたものの、ずっとうちでゴロゴロテレビ見てましたから身体はなまりきってました。いろいろ感動いただきましたが、現実はこういうことです。
これも余談ですが、ソフトボールの上野投手を見ていると、その投手としての在り方が、昭和のプロ野球の大投手・村田兆治選手(平成2年、40歳まで投げた)とイメージがダブるのは、私だけでしょうか。

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2021年7月16日 (金)

寺内貫太郎一家と猫のカンタロウ

5月30日に、作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられていたという訃報を知りました。昭和7年生まれということで、ちょうど私の親たちと同年代の方でした。いつ頃からこの方のお名前を存じ上げていたのか、覚えてないんですが、自分が子供から成長していくにつれて、亜星さんという個性的な名前は、どんどんその存在感を増していったと思います。
最初は、小学生の頃のアニメソング、大好きだった「狼少年ケン」は、完璧にフルコーラス唄えました。ガッチャマンも、怪物くんも、ピンポンパン体操も、男子だけど、サリーちゃんも、アッコちゃんも、唄えたし、子供たちがすぐに覚えられて大好きになってしまう唄ばかりでした。
それと、CMソングです。当然、亜星さんが作られたことは、あとで知るんですが、レナウンの「ワンサカ娘」も「イエイエ」も、新しくって刺激的で、子供なりに大好きでカッコいいなと思ってました。エメロンシャンプー「ふりむかないで」、日立「この木なんの木」、日本生命「ニッセイのおばちゃん」、ブリヂストン「どこまでもゆこう」、サントリーオールド「夜がくる」等、今でもみんなが忘れられないCMソングは、枚挙にいとまがありません。
歌謡曲もたくさんあって、1976年のレコード大賞・都はるみさんの「北の宿から」は代表作です。
ただ、この方の仕事で特筆されるのは、私が子供の頃に放送が始まったテレビというメディアの、新しいジャンル、アニメソングやCMにものすごくたくさんの名作があることです。
私は1977年から、CMの制作現場で働き始めたので、その頃、CM音楽界で最も有名な作曲家であった彼の存在を知り、どんだけ多くの名曲を作った人であるかが、だんだんわかってきます。自分が付いてる仕事の音楽を亜星さんが作られることも希にありましたが、こちらは制作部の末席の助手の助手みたいな立場ですから、「おはようございます。」と挨拶したら、邪魔にならないスタジオの隅から、音楽が出来上がるのを、ただ見学してるようなものでした。
そのようなことが何度かありましたが、亜星さんはいつも、最初の打ち合わせをすると、後はディレクターに任せて、スタジオの隅の小さな椅子に大きな身体を乗せて、鼾を立てて寝てしまわれました。時々、スタッフから報告や相談があると、みなさん慣れていて平気で起こすんですが、終わるとまたすぐに寝てしまいます。当時、相当に忙しい方だったことは想像できましたけど、見事でしたね。

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それより、私がこの方にお会いできて、何に感激してたかと云えば、
「あ、やっぱり寺内貫太郎だ。」ということで、
ご存知の通り、1974年と1975年にTBSで放送された有名なテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主役の貫太郎は、小林亜星さんが演じておられたんですね。私は20歳前後の頃でして、毎週テレビで観ておりました。
今思えば、かなりよくできたホームドラマで、笑いあり涙ありだけど、それなりに毒や刺激もあって、テレビが持っているオーソドックスな面白さの上に、アバンギャルドな新しい試みを加えた、妙に完成度の高い番組でした。
これは、向田邦子さんが脚本を書かれ、久世光彦さんが演出をされている独特な世界観のドラマで、1970年に始まったドラマ「時間ですよ」から繋がっている流れでして、私は高校生から大学生の頃でしたから、かなり影響受けてたと思うんですね。
当時、TV界のヒットメーカーの向田・久世コンビが、満を持して作った「寺内貫太郎一家」でありましたから、その主役は誰なんだろうかと思っていたところ、小林亜星さんという巨体の作曲家だったわけです。
ドラマが始まったときには、やはりプロの役者さんじゃないし、なんとなく違和感もありましたし、そもそもこのキャスティングには、向田さんは反対されたと聞きましたが、この辺りがテレビというものをわかってる久世光彦ディレクターの天才たる所以なんでしょうか、続けて観てるうちにだんだん慣れてきて、それどころか気が付くと、貫太郎に感情移入できたりするようになってきました。そして続編も作られ、間違いなく名作ドラマとして後世に残ったわけです。
余談ですが、ちょうどその頃、大学の帰り道に、多摩川の河原を歩いていたら、トラネコの子猫が後をついてきたんで、アパートに連れて帰って一緒に暮らし始めたことがありまして、その猫に「カンタロウ」という名前を付けたんですね。そのカンタロウが半年くらいで、みるみるデカくなってきて、名前負けしなかったなあ、という思い出もあります。
ここに書き切れませんが、その前も後も小林亜星さんは素敵な音楽を作り続けられ、私の人生の要所要所で音楽というものが持っている可能性を教えてくださったなあと思います。
というような、ごく個人的な一方的な不思議なご縁なのですが、子供の頃から、知らず知らずずっとファンだった気がしました。
猫のカンタロウは、その後長生きできずに早世してしまったのですが、亡くなってしまった冬が明けた翌春に、近所を歩いていたら、一匹の母猫の後を子猫が5匹ほど歩いていて、陽春らしい良い風景だったんですけど、その中の一匹が、うちのカンタロウに生写しでして、これは間違いなくあいつの子だなと確信したことがあったんですね。そう云えば、お互いによく夜に出歩いてましたから、たまに数日帰ってこないこともあり、そういう時に子作りもしてたんだろうかなと思ったようなことでして、全くの余談の余談でした。

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2020年11月30日 (月)

ホークス強かった

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コロナ禍の中、春からいろんなことになってしまった今年のプロ野球も、先日の日本シリーズをもってシーズンを終了しました。無観客試合も含めかなり特別な年になりましたが、6月19日には開幕し、各リーグ120試合のペナントレースを戦い、11月21日に始まった選手権で日本一を決したわけです。結果はパ・リーグのソフトバンクホークスが、セ・リーグの読売ジャイアンツを敗りまして、今年の日本プロ野球の覇者となったのは、ご存知の通りです。
私、このところコロナ騒ぎで在宅時間が長いからというわけでもなく、今回の日本シリーズでのテレビ観戦は、結構楽しみにしておりまして、なぜなら、この2チームはペナントレースで圧倒的な強さを見せており、野球チームとしての完成度が高いので、個々の選手の活躍も含め接戦の好ゲームになるのではないかと、阪神ファンの私ではありますがそれは置いといて、この一週間はレベルの高い、手に汗握る日本シリーズを堪能できるのではないかと、期待しておったわけです。
それと、昨年の日本シリーズは、同じこの2チームの顔合わせでありましたが、あろうことかジャイアンツが4連敗で1勝もできずに終わったので、今年は、さぞやリベンジに燃え上がっておると思われ、ホークスもそうはさせじと立ち向かうはずですから、どう考えても歴史的死闘が繰り広げられるのではないかと、想像しておったです。
ところが、蓋を開けてみるとですね、今年もソフトバンクの4連勝で決してしまったんですね。セ・リーグ最強のジャイアンツのピッチャーがバッターが、しきりと首を傾げる中、連日ワンサイドゲームが続き、ジャイアンツファンも呆然とするうちにシリーズは終わってしまいました。
日頃のアンチジャイアンツの立場としては、この結果は悪くないのですが、ここまで一方的なことになると、むしろ気の毒な気さえしますし、第4戦はちょっと最後まで見られませんでした。そして、これは1シーズンジャイアンツに負け続けた阪神はじめセ・リーグのチームからすると、ソフトバンクは実力的には雲の上ということになるわけです。ボクシングなら3階級くらいの差でしょうか、これはセ・リーグとしても大問題という事です。
4連敗が2年も続いたわけですから、これは単に短期決戦にはこういうこともあるよねとは言ってられないですよね。そう言えば、この10年でセ・リーグが日本シリーズに勝ったのは1回だけだし、交流戦も、今年はなかったけど、ことごとく負け越してますよね。そもそも第7戦までもつれるドラマチックなシリーズも昔はあったけど、最近はそういうこともない気がします。
本当にセ・リーグとパ・リーグの実力の差は顕著なのでしょうか。確かに、日本シリーズを見た印象では、素人目にもソフトバンクのピッチャーの球は明らかな球威を感じるし、バッターのスイングの振りがやたら鋭く感じられたのは気のせいだろうか。まあ勝負事として、ここまで結果が出てるのだから、多分なんらかの要因はあるのでしょうね。
分析する人はいろいろいるようですけど、お互い選ばれたプロが競う中で、個々の選手の鍛錬の仕方や、プレーに対する取り組み方考え方、指導者の執念や姿勢、球団の方針、まあ言い出せばいろいろありそうです。
ソフトバンクの選手のことで、これはすごいなと思ったのは、第1戦先発の千賀投手と、第2戦先発の石川投手が、球団の育成選手から1軍の先発ローテーション入りしたピッチャーで、この二人の先発の球のキレが素晴らしく、ジャイアンツがほとんど歯が立たなかったことです。これで巨人軍は流れを失います。ついでに云えば、この二人のキャッチングを含め全試合にキャッチャーとして出場し、2本のホームランを放った甲斐捕手も、育成選手だったんです。
なんというか、チームを強くするための体制がきちんとしていて、フロントの方針もかなりしっかりできてる気がしますね。
これでホークスはシリーズ4連覇、向かうところ敵無しの様相を呈しています。ちょっとしばらくソフトバンクホークスの時代になりそうです。
昔から球団のオーナーの情熱がチームを強くして黄金期を築くところがありまして、巨人の正力さん、西武の堤さん、ソフトバンクの孫さん、みんなそうです。この方達に共通してるのは、チームを強くしたいが、金は出すけど口は出さないところで、孫さんの場合は、オーナーの意向を、球団会長として、世界の王さんが、きちんと形にしてるとこが強いところじゃないでしょうか。

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セ・リーグの各球団の方々、ボオーっとしてる場合じゃありませんぞ、ほんとに。
ストーブリーグは、毎年、FAや外人の話でで大騒ぎしてますけど、もっとちゃんとやることやって結果出してくださいな、ほんとに。

2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

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そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2019年8月 9日 (金)

二十歳の女の子がえらいことやってくれまして

Shibuno


この前、なんとなくゴルフのこと書いて間もない先週のこと、私とは何の関係もありませんが、ゴルフ界には42年ぶりというビッグニュースがありました。

このことは、多少ゴルフのことがわかる者にとっては、わりと大変なことで、かなり感動的な出来事だったんです。

先週行われた「全英女子オープン」は、世界中の女子プロゴルファーにとって、年間5試合しかないメジャー選手権であり、権威も賞金額も超一級で、各国のトップレベルのプロが集まる試合なのですが、その大会に勝ったのが日本の渋野日向子(しぶのひなこ)プロ(20才)であったわけであります。

日本勢のメジャー優勝は、男女を通じ1977年の「全米女子プロゴルフ選手権」を制した樋口久子プロ以来、42年ぶり2人目の快挙、またLPGAメジャー大会初出場初優勝は、史上2人目の、これも快挙でありました。

そして、何より驚くべきことは、彼女は1998年11月15日に岡山に生まれ、2018年にプロテストに合格しますが、それは去年のことです。それまでの中国地方での輝かしい戦歴は、中学生高校生であり、云ってみれば子供だったわけです。

2019年 今年になって、山陽放送と所属契約を結び、5月にJLPGAツアー公式戦の「サロンパスカップ」で、いきなり優勝し、6月の時点で、年間獲得賞金ランキングが3位に浮上して、8月の「全英女子オープン」への出場権を得ます。

デビューしてここまで、目を瞠る活躍ではありますが、強力な運の強さもあって、イギリスに行くことになるんですね。なんせ海外初試合が、「全英オープン」ということになり、当然ながら大会前の目標は、予選突破だったわけです。なんかくじに当たったような気持ちだったでしょうか。

しかし、初日、2日目は、なんと2位。まったく見たこともない、この前まで少女だったような日本の女の子は、完全にノーマークだったと思われます。ただ、やたらに明るい娘で、どんな時も常にニコニコ顔の彼女は、現地で「スマイリング・シンデレラ」とニックネームがつきます。

こうゆうことは、たまにあるよね、みたいな空気だったかもしれませんが、あろうことか、3日目は14アンダーで、単独首位で終えることになります。もともとメジャー大会でもあり、TV地上波では、夜中に生中継がされており、私としては、なんとか見届けようと、寝床の横のテレビをつけますが、途中から全く意識がなくなり、3日目首位の快挙は、翌朝知ることになります。

そして、さあ最終日。それはそれは、もし全英に勝つことがあればさぞ嬉しかろうと思いながら、反面、いや、渋野、ここまでよくやった、去年プロになったばかりの君が、最終日に、名だたる世界中の超一流のプロたちに、ここで捕まっても、むしろその方が普通のことかもしれんよ。などという気もしました。

そして、この日の夜中も、私は熟睡してしまったんですね。

ただ、何故か午前2時頃ふと眼を覚まして、胸騒ぎがしたんですね。祈りながらTVをつけました。すると、なんと1位に渋野とリゼット・サラス(アメリカ・30才)の表示、ともに17アンダー。マジか、首位だ。完全に眼が覚めます。

2組先でプレーするサラス、18番ミドルホールの第2打は見事ベタピン、このパットが入れば1打リードを許すことになります。しかし、サラスはこのパットをわずかに外しました。まだ運はあるか。

渋野は17番パー。最終ホールに向かいます。まったくプレッシャーを感じさせないニコニコドライバーショットは、見事フェアウエイをとらえました。そう、次の一打が勝負です。

バーディーなら勝ち、パーならプレイオフ、ボギーなら負け。行け、渾身の第二打。

ボールはピンから5メートルの位置に止まりました。微妙な距離ですが、当然、入れにいきます。

打った。ちょっと強いか、行け、入れえー。入ったあ。

カップをもし越えたなら、かなり遠くまで行ってしまったかもしれません、下りだし。そういう強さでした。

渋野は、試合後のインタビューで、その最終パットのことを聞かれ、

「入れるか。入らなければ、3パットと思って打ちました。ショートだけはしたくなかった。」みたいなことを云ってましたが、たいしたもんです。後半は全く緊張してなかったとも云ってましたが、たしかにそのように見えました。

この日、首位でスタートするも、3番ホールで4パットして3位に後退したところから巻き返したわけで、よく、開き直ると云いますが、なかなかベテランでもできることではないですよね。

二十歳恐るべし、知らない者の強みということではかたずけられないものがあります。技術も気力も素晴らしいんですけど、この勝負の流れを自らに引き寄せる運気をを持っていたということも云えるでしょう。

プロゴルファーという仕事を始めたと思ったら、いきなり頂点を極めてしまったわけで、これからも大変だと思いますけど、ま、ほとんどの人が見れない景色を見れちゃったんですから、ともかく祝福されることではあります。

以前、これと同じようなことがあったなと思ってみると、それは、

2011年の「なでしこジャパン・ワールドカップ優勝」でした。

この時も夜中にものすごい感動したんでした。

21世紀は、女の世紀であると、誰か云ってましたけど。

まったく、何かと女の人がやってくれますよね。

2019年5月20日 (月)

前略ショーケン様

この3月に、ショーケンこと萩原健一さんが亡くなりました。厳密には4歳上ですが、自分と同世代の有名芸能人で、こっちが物心ついたころから有名な方でしたから、なんだかちょっとしんみりしたとこがありまして、特にお会いしたこととかはなかったんですが、不思議な喪失感がありました。このごろでは68才って、まだ若いですしね。

1967年といいますと、私は中学1年生でしたが、彼は、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、デビューしたんですね。

このころ日本中で、グループサウンズブームというのがありまして、たくさんいろんなグループがあったんですけど、テンプターズは、その中でもかなり人気上位にいて、若い女の子たちがキャーキャー云ってました。このブームは明らかに若い女子をターゲットにしたものでして、バンドのメンバーはみんな長髪で、衣装もどっちかといえば、可愛らしい系でして、今で云えばジャニーズのアイドルたちがバンドやってるようなもんでしたね。ショーケンとか、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二さんとかは、その中でも、1、2を争うアイドルだったわけです。

萩原さんは、その頃アイドルとして騒がれたり、追っかけられたりすることは、ほんとは、いやだったと、のちに話しています。そんなことで、当時男子中学生だった私も、あんまり関心はなかったんですけど。

それから1970年頃には、早くもグループサウンズブームは去り、テンプターズも解散します。すごい人気だったけど、わりと短かったんですね。その後ショーケンは音楽も続けますが、仕事を俳優の方にシフトしていきます。1972年に岸惠子さんと共演した映画が高評価を得て、TVドラマの「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」で、その人気を確立するんですね。

 

4月に、脚本家の倉本聰さんが、新聞に「萩原健一さんを悼む」という文を書いておられました。

倉本さんがショーケンと初めて仕事したのが、1974年の大河ドラマ「勝海舟」だったそうですが、その時、岡田以蔵役をやった彼が、

「坂本龍馬に惚れてるゲイの感じでやってみたい。」と提案してきて、

以蔵が龍馬の着物を繕うシーンで、縫い針を髪の毛の中にちょいちょい入れて髪の脂をつけるしぐさをして見せた。龍馬への愛をこんなアクションで表現するのかと、驚いたそうです。

それから、1975年のTVドラマ「前略おふくろ様」は、ショーケンからの指名で脚本を担当することになったそうです。ショーケンが演じる若い板前が、調理場の後片付けでふきんを絞ってパーンと広げて干すといった何げない一連の所作が実にうまく、普通の人にはない観察眼を持っていて、生活感をつかむのがとても巧みだと感じたそうです。それを直感的に演じるひらめきは天才的で、勝新太郎によく似ていたと。

本読みでも、彼はいろいろアイデアを出してくるけど、それが大体正しい。人の意見も素直に受け止めるし、本当に面白かったと印象を語っています。

ただ一方で、彼には飽きっぽいというか、欲望に忠実に行動してしまう一面があり、現場で様々なトラブルもあったようです。

彼が亡くなって、桃井かおりさんがショーケンを

「可愛くて、いけない魅力的生き者」だと追悼するコメントを出しましたが、まさにその通りで、役者としては天才的だけど、人としてはいろいろよくないと。

そして、70年代に出てきた、ショーケン、かおり、優作ら同世代のギラギラした若い役者たちには、明らかに上の世代とは違った「はみ出し者」の輝きがあり、役者としての力がある彼らを、受け止める力量を持った制作側の人間もだんだんいなくなった。芝居がわかっている者は一握り、タレントばかりになってしまった。ショーケンの死は、そんな時代を象徴しているように感じます。と、結んでおられます。

 

そういえば、この人は出演した作品で、いつも独特な存在感を示し、話題を提供し常に注目されていました。でも、薬物の不祥事などで問題を起こす人でもあり、時々トラブルがあって、世の中から姿を消してしまうこともありました。結婚も何度かされています。倉本さんの新聞記事を読んで、そういえば何年か前に、この人自身が出した自伝があったなと思い、本棚を探したら、2008年に、まさに「ショーケン」という自伝が出ていました。10年ぶりに読んでみましたが、あらためて激しい人生だなと。

いつも表現者としての居場所を求め、成功があり、トラブルがあり、世間の目に晒され、ずっとその存在を感じさせ続けた同世代のスターだったんですね。思えば50年余り、彼はものすごい数の作品を残しているわけです。そのうちのどれくらいの本数を見たのか、すでによくわからないですけど、多くの人の記憶にいろいろな形でその姿を刻みつけていることは確かです。

その中で、個人的にもっとも強く残っているのは、倉本さんの話にあったTVドラマの「前略おふくろ様」です。私はちょうど大学生でしたが、毎週できるだけ欠かさずに見ておりました。主人公のサブちゃんは、自分と同年代の設定でもあり、やけに感情移入していたし、共演のキャストも実にみな魅力的でした。田舎から出てきた若い板前の成長物語が丹念に描かれており、そのドラマの背景に故郷で働くおふくろ様がいて、そのおふくろ様には認知症が始まっているという、忘れることのない名作でした。そして、主人公の片島三郎の役は、ショーケン以外は考えられません。

表現者として多くの作品に関わり、観る者に何かを残し、いろいろ問題もあった人だったけど、やはり、失ってみると惜しい人だったなと、思ったんですね。

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2019年4月18日 (木)

僕が働き始めた頃

桜の花が散って、新緑の木の芽が出始めるゴールデンウイーク前のこの頃、社会に出て来たばかりの新人君たちは、どんな気持ちでいるんだろうか。うちの会社にも4人ほどいるんですが、みんな元気そうにしてるけど、でもやっぱり基本的に緊張してはいるんでしょうね。

昔のこと過ぎて、自分のことはよく覚えてないんですが、だいたいにおいて硬くなってたように思います。

もっとも、私の場合、働き始めたと云ってもアルバイトで、ただ云われたことを云われたようにやる仕事で、主に届け物に行く事だった気がします。いろんなところの、いろんな人へ、いろんなモノを届けますが、そうやって、この仕事に関わるいろんな場所を覚えたり、空気を感じたりする意味もあったかと思いますね。

その会社はテレビコマーシャルを作っていたので、毎日午前中には、作ったCMを納品する仕事がありました。その当時の完成品は、16mmフィルムの15秒とか30秒のリールになっていて、それをいろんな会社に納めに行くんです。

それほど重くもないし、数と中身を確認して納品書といっしょに置いてくるんですけど、ある時、大手広告会社のある部署に届けに行ったら、他の会社の納品に来ていた人が、その部署のおじさんに思い切り怒られていて、どうも納品書に不備があるようなことを云ってるんですけど、全然たいしたことじゃないんですね。

「君の会社は、うちの会社をバカにしてるのかあ!」とか云っちゃって、

そもそも、その納品に来た人も、私と大して変わらないペーペーだし、そのオッサンだって、どう見ても年の割にはペーペーなわけですよ。

なんか世の中には、そうやって大きい会社を笠に着て、ただ威張りたい奴とかもいるんだなと思い、まあたしかにいろんなとこ行ってると、いろんな人がいるもんだなと思ったりしたわけです。これも社会勉強かなと。

あんまりこういう人とかかわり合いになりたくなかったんで、自分の番が来た時に、そのオッサンの前を通り過ぎて奥の方にいたもう少し偉そうな人に納品しました。背中の方でギャアギャア云っていたけど、しかとして、ガン飛ばして帰って来ましたよ。

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そんなこともありながら、会社はどんどん忙しくなってきて、仕事もいろんな雑用が増えていって、そのうち撮影現場へも行かされることになってきます。

撮影という仕事は、当然いろんなシミュレーションをやっておくんですが、予想してないことが次々に起こるもんで、2手3手、先を読んで、そうとう臨機応変に機敏に動かなくちゃならなくて、昨日今日入ってきた奴は、簡単に置いて行かれちゃうんですね。

なんとか一人前になって、親方や先輩たちから認めてもらいたくて頑張るんだけど、なかなかうまくいかないわけですよ。そうやって、むきになってやってるうちに、一年近く経っちゃいましてね。

もともと大学でやってたのは土木建築でしたから、そういう方面に就職しなきゃいけなかったんだけど、どうもその気になれず、卒業はしたものの、たいしたビジョンもなくて、しばらく社会観察でもするかといういい加減な考えでいたんですね。

ちょうど大学卒業する頃、テレビで「俺たちの旅」っていうドラマをやっていて、鎌田敏夫さん脚本ですが、同年代の人は知ってると思うんですけど、どういう話かというと、俺たちくらいの年代の男が3人いて、社会に出て自立しなきゃいけない時期なんだけど、なんだかフラフラと自由に暮らしながら、少しずつ社会とかかわっていくみたいな話で、それ見ながら、ま、こういうのもしばらくありかなと、自己弁護してたようなとこがあったんですね。まあそういう意味では鎌田さんに感謝はしてるんですけど。

そんな時に、ひょんなことで始めたバイトでして、いま思えば、仕事は大変だけど面白くて、わりと皆いい人たちでした。あのころ、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、まあ云ってみれば面倒臭いやつだったんですけど、この職場にどうにか居場所を見つけて、社員になることになります。

1970年代のこの業界は、けっこう若くて、まだ先の見えない未来がありました。テレビも元気で、TV-CMはトイレタイムとか云われてもいたけど、新しくて面白くて勢いのあるモノもでき始めていました。どなたか忘れたんですけど、広告会社の方だったか、演出家の方だったかが、

「ムカイ君、俺たちは無駄なもん作ってんだから、無駄ということを知らなきゃいかんよ」なんてことをおっしゃっていました。

まだ先のわからない、いい時代だったとも言えますかね。

この前、うちの新人君たちと話す機会があったんですが、一応先輩として話したのは、

仕事は、まず最初からうまくはできないということ。

世の中は観察しているといろいろ面白いことがわかって来るから、よく観察してみるとよいということ。

などを、伝えました。

俺たちは、無駄なもん作ってるとは、さすがに云えませんでしたけど。

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

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2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

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カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2015年12月 3日 (木)

西荻のとっつあん

このまえ「恩人」ということを考えていて、もう一人私が若い時からずっと世話になった人のことを思い出しました。その人は、私が働き始めたCM制作会社の、車輛の仕事を全部取り仕切ってた人でした。厳密にはこの会社の人ではなくて、自分で車輛部の会社をやっていて、子分も2,3人いたんですね。撮影現場にはスタジオでもロケでも、必ずそこにいた人で、松園さんと云います。

私はその現場におけるすべてのヒエラルキーの最下層にいて、ありとあらゆる用事をいいつけられるんですが、わからないことは何でも松園さんに教えてもらいました。会社の先輩もいるんですけど、現場に出てしまうと、それぞれにやる事があって、ゆっくり教えてもらってる場合じゃないし、わかんないことは松園さんに聞くように言われてました。30人ほどのこの会社で、制作部の助手というのは、私ともう一人くらいしかいなかったので、この会社の撮影現場のほとんどには私がいて、必ず松園さんもいたんですね。当時私が22歳で、松園さんが40過ぎだったと思いますが、この人、何でも知っていました、ホントに。それで教育係も兼ねてくださってたんだと思います。

何でも教えてくれるし、仕事も手伝ってくれるんですが、こっちが油断してると、よく罠にかけられました。気を抜いてるといたずらされるんです。他愛無いことですけど、ちょっと大事なもの隠したり、嘘を云ったり、こっちがはまるとほんとに嬉しそうな顔するんですね。まあ、それは、僕ら若いもんが通っていく関門のようなもんなんですが。

ただそれは、面白くなくちゃならないという、この人の不文律がありました。

いたずらは、ほんとにいろんなことを思いつく人なんですよ。

たとえば、松っつあんと私と私の助手が3人で冬の北海道をロケハンしてる時にですね、助手のO君が道を教えてもらうために、どこかのお店に入っていくわけですね。そのあと車に帰って来るんですけど、O君が車に近づいてくると、だんだん車がO君から離れていきますね、当然運転してるのはあの人ですけど。O君がちょっと走ると、そのスピードに合わせて車はまた離れていきます。外は吹雪です。O君がむきになって走るとまたスピードを上げます。そしていよいよ吹雪の中で点のように小さくなっていくO君を、私がロケハン用ハンディカメラで撮影するわけです。そして雪だるまのようになったO君がようやく車に入れた時には、もう息が上がって何もしゃべれません。

そういう時、この人ホントに嬉しそうなんですね。そのビデオをその夜、旅館でごはん食べながらみると可笑しくてですね、男三人の殺風景なロケハンが実になごむんです。

松園さんは、ずっと西荻窪に住んでたんですが、私はこの人のそばに住んでいれば、必ず車で拾ってもらえるから、撮影に遅れることがないと云う理由で、いつしか西荻に住むようになります。制作部と云うのは、いつも車輛部と一緒に一番に出て行って、一番最後に帰ってきます。そんなことなので、ある時期この人と一緒にいる時間がほんとに長かったんですけど、そのうちに、この人は本当にプロだなあと云うことがわかってきました。一つの事に対して、常に何通りもの方法を考えているし、いつも不測の事態に備えています。一緒に仕事してるうちに、それがだんだん理解できるようになりました。人のことを、はめてやろうとばかり、考えてるわけじゃなかったんです。

右も左もわからない若造が、自分のテリトリーにころがりこんできたから、仕方なく面倒見てやってるうちに情が移ったのか、いつしか身内のように扱ってくれるようになります。何年かして、それなりに仕事もわかってきて、どうにか一人前になったかなと思った頃、松園さんは私のことをさん付けで呼ぶようになりました。何だか照れ臭かったんですけど、そういうけじめの人でした。鶴田浩二のファンだったし。

その頃私が担当していた「小学一年生」という雑誌のCM「ピッカピカの一年生」という仕事は、松園さんがいなかったら絶対にできない仕事でした。

どういうことかと云うと、毎年、秋から春にかけて日本全国の今度小学校に上がる子供たちを撮影するんですが、だいたい半年で7カ所を回ることになってまして、収録はすべて松園ワゴン車に装着されたVTR機材で、2吋のテープで行ないます。私は飛行機や新幹線などを使って全国を飛び回っていて、ロケの日程が決まると、たとえば何月何日の何時に、石垣島の港に来て下さいとか連絡するわけです。撮影は昨日まで短パン穿いてた南の島から3日後には雪の北海道へ移動したりします。もちろん移動可能な日程を組みますが、台風もくれば、大雪も降るし、事故渋滞もあるし、フェリーが欠航することもあります。この人はいつも陸路と海路を駆使して、何通りものルートを考えていて、何手先も読んでいました。早く着きすぎたら、あっちこっちの馴染みの店で時間つぶしたりもしていましたが、12年間この仕事やって、約束の時間に彼の車が現れなかったことは、ただの一度もありませんでした。

車がパンクしたり故障したりした場合のシミュレーションも、いつも完璧にできてました。北国に行くと、よく夜中にものすごいドカ雪が積もる事がありますけど、朝起きると撮影車の周りだけは、雪掻きがしてあるんですね、誰にも気づかれず。そういうとこも鶴田浩二な感じでしたね。そういえば酔っ払うと、よく鶴田さんの「傷だらけの人生」と「街のサンドイッチマン」を唄ってましたね。深く酔うといろいろスタッフつかまえて説教してましたよね。そういう時クライアントの偉い人とかもおかまいなしですから、往生するんですけど、でも、みんなから愛されてましたから。この仕事は松園さんがいないと始まらないと誰もが思ってました。

それからもずっと、私たちの仕事に、いつもあの年代物のハイエースのロングボディを蹴って駈けつけてくだすったし、私達が小さい会社を作ったら、まだそんなに仕事のないその会社の専属車輛部を引き受けてくれて、よその仕事やらなくなって心配もしたけど、何だか意気に感じてくだすったみたいでありがたかったです。

でも、それから何年かして、松園さんは肺ガンで逝ってしまいました。還暦のお祝いしたばっかりだったから、思えば今の私と同じ歳でしたが、ビールとハイライトが大好きで、何より医者がほんとに嫌いだったから、いくらなんでも早すぎたんですけど。

 

そういえば、子供の頃、小学一年生の頃ですが、3年ほど西荻窪に住んでたことがあったんですけど、あとで聞いたら、松園さんもその頃に結婚して西荻窪に住み始めたそうです。それが、絶対遭遇してたであろう至近距離で目と鼻の先でした。不思議なご縁だったなと思います。

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この人が、この前に書いた平田さんとすごく仲良しで、絶妙なコンビで、何だか私の記憶の中では、いつも撮影現場で二人並んで座っていて、完全にセットなんですね。

よく二人していじられてたわけです。

 

 

 

 

2015年10月14日 (水)

成城のおじさん

大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。

F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。

私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。

彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。

これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。

ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。

で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。

それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。

その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。

 

そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。

そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。

そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。

ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、

「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。

平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。

でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。

それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。

いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。

撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。

 

そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。

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まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。

ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。

それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。

そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。

亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。

しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。

たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。

これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。

何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。

 

先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。

ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。

Hiratasan

2013年1月23日 (水)

「想い出づくり。」と「北の国から」と「幸福」というテレビドラマ

年末に会社のF井さんから、「お正月休みにどうぞ」と云われて、DVDのセットを貸していただいたんですが、これ、前から是非みたかったもので、1981年にTBSで毎週金曜の10:00から放送されておった「想い出づくり。」というドラマでして、当時大変評判になったものです。このF井さんという人は、こういう歴史的に重要なドラマなどのDVDを手に入れては貸して下さる、非常にありがたい方なんです。

シナリオは山田太一さんが書かれていて、かなり昔に読んで、すごく面白かったのを覚えています。放送された当初も、山田さんはすでに「それぞれの秋」や「岸辺のアルバム」や「男たちの旅路」などを書かれた有名な脚本家であり、このドラマは放送開始から話題になっていたようです。

ただ当時、私はこのドラマを一度も観ていないんですね。それは、仕事が忙しかったこともあるんですが、金曜の10:00といえば、フジテレビの「北の国から」を観ていたからなんです。たいてい街はずれの飲み屋やラーメン屋のテレビで仲間と観てたと思いますが。

こちらのシナリオを書かれているのは倉本聰さんで、この方もすでに「2丁目3番地」や「前略おふくろ様」や「うちのホンカン」を書かれ、大河ドラマも書かれていて、いわゆる脂の乗り切った頃でした。



TV金曜10:00は、年齢も同じこの二人の売れっ子脚本家の対決となったのですね。ビデオ録画などできなかったこの頃、どちらを見るか迷った人も多かったと思います。調べてみると、「想い出づくり。」は1981年9月18日放送開始で、少しあとの10月9日から始まった「北の国から」は地味な作りでもあり苦戦していましたが、徐々に巻き返していきます。その後、「想い出づくり。」は1クールで先に最終回を迎えたこともあり、このあと2クール目に入った「北の国から」には、一気に火がつき、その後スペシャルドラマとなって、主人公の純と蛍の成長を追いながら21年間続く大ヒットシリーズとなります。

何となく覚えているのは、「北の国から」という作品は、長期ロケで制作費のかかる大作で、先行して盛り上げる意味もあって、脚本を先に出版してたと思うんですね。私はついつい先に脚本を買ってしまい、なんだか仕事で移動中の飛行機でシナリオ読んでたら、ちょうど別れたお母さん役のいしだあゆみの乗った機関車を、小学2年生の蛍が全力で追っかけるクライマックスで、こらえきれずにおいおい泣いてたら、スチュアーデスさんが、おしぼり持ってきてくれたことがありました。

そんなふうに、こっちにはまっていたので、当時「想い出づくり。」のことは、よく知らなかったんですけど、その後出版されたシナリオを読んで、やっぱり山田さんの脚本は面白いなあと思いました。キャスティングも興味深かったです。主役の3人は、森昌子、古手川祐子、田中裕子でした。脇役では佐藤慶と加藤健一も良かった。



Omoide1そもそも山田さんが何故この話を書こうと思ったかと云うと、その頃、桂文珍が落語で、女の人はクリスマスケーキと同じで、25過ぎると売れなくなるというのを枕で使って笑いを取っていて、ご自身に適齢期前の娘さんが二人いらしたこともあって、それをすごく不愉快に思ったことがきっかけだったそうです。

今と違って、当時の20代前半の女性にとって、将来の選択は平凡な結婚というのが常識的でした。そういう世の中の空気に反発して、結婚前の24歳の女性を主人公に、彼女たちのそれぞれの家族を含めた群像劇の中で、現実から一歩踏み出そうとする娘たちの物語を書きたかったんだそうです。そして、この全員主役の群像劇のスタイルは、その後「ふぞろいの林檎たち」へ踏襲されていきます。

これは山田さん本人が言われてるんですけど、テレビドラマの脚本て、かなり個人的な思いが強くないとだめなんじゃないか、合議制とかじゃなく、個人の気持ちから作られたものの中にしかほんとの名作はないんじゃないかと。

「北の国から」も、倉本さん一人の頭の中で起こった話です。ご自身で移り住まれた北海道での生活や体験も大きいですし、物語の骨格もキャストのイメージも一人の作家の中から紡ぎだされています。

企画会議とやらを重ねて、最近の流行りとか、視聴者の好みを探ったり、今当たっているコミックスの傾向を話し合ったり、なんならコミックスそのままドラマ化しようかとか、大勢で集まって揉んでみても新しいものは生まれません。やればやるほど中身は平均化して、ありきたりなものになっていきます。

表現というのは、誰か個人から発せられて、個人に届くから面白いわけで、よってたかって作るのはいいけど、基本的なアイデアはきわめて個人的なものでなければつまらないものです。例外はあるでしょうけど、多くの場合そういうものです。

この1981年の夏、あの向田邦子さんが飛行機事故で亡くなっています。51歳でした。その前年の1980年の夏から秋にかけて、金曜日の10:00TBSでは、向田さんの連続ドラマとしては最後の作品となった「幸福」が放送されていました。しばらくあとに再放送を観ましたが、本当によくできた向田さんならではの大人のドラマです。どう考えても、会議室で生まれたドラマではありませんでした。

こんなことを書いてたら、どうしてももう一度観たくなって、実は先日このDVDを入手してしまいました。

こういうことは癖になりますなあ。

 

2012年8月15日 (水)

真夏のスポーツ観戦記

この夏は、ロンドンオリンピックの年でもあり、例年にも増してスポーツ満載。

ヨーロッパ圏のオリンピックは、寝不足覚悟とはいえ、連日の熱戦にややばて気味ではあります。最近歳のせいか涙もろくもあり、日本選手の活躍に、真夜中に一人涙ぐんでいるのもどうかと思っておるうちに、はやくも閉会式。習慣で朝早くに起きてみると、この日は、全米プロゴルフ選手権の最終日でもあり、復活をかけたタイガー・ウッズが、新鋭のロリー・マキロイを追い、そこに石川遼も参戦の様子が伝えられています。

かと思えば、同じ時間大リーグでは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有が、デトロイト・タイガースのスラッガー、カブレラやフィルダ-を相手に、12勝目をかけて渾身の投球をしておりました。

そしてふと時計を見れば午前6時半、あと2時間もすれば、今度は夏の甲子園高校野球選手権大会の中継が始まります。こちらは大会6日目、今日も熱戦に次ぐ熱戦です。

思えば、この夏の私のスポーツ漬けは、この高校野球の東東京地区予選から始まりました。7月7日に開幕したこの大会に、うちの息子も出場しており、7月17日に優勝候補の強豪国士舘高校に6-0で敗れるまで、3試合を戦い、高校の野球生活を終了しました。この大会で敗れると3年生の部員は、そこで引退ということになるのが、夏のならわしのようです。全国3985校の球児たちは、たったの一校を除き、3984の敗戦を積み重ねてこの大会を終えることになります。トーナメント戦てそういうことなのだけれど。

息子たちのチームのこの3試合は全部観戦しました。平日には会社も休み、ものすごい猛暑の中、最後まで見届け、どうしちゃったんだというぐらい日焼けもしました。まさに夏の高校野球を満喫したんですね。

なんかこいつらの野球がこれで観戦できなくなると思うと、どうしても観ておきたかったんです。もちろん甲子園に行くずっと手前で負けてしまうだろうということも判ってるんですが。

彼らの学校は中高一貫校で、珍しく中学から硬式野球部があったので、彼らの学年の野球は、6年間見てきたことになります。まだ小学生に近い体型だった頃から見ていると、ずいぶんと身体も技術も成長したように思うのですが、勝負は相手あってのこと、突然見違えるように強いチームになることはありません。でも6年間、暇さえあれば、公式戦も練習試合も観に行きました。負けることの方が多いけど、皆少しずつうまくなってきます。今まで絶対に捕れなかった球が捕れたり、打てなかった球が打てたり、アウトにできたり、セーフにできたり、そういうのを見ているだけで飽きなくて。前より下手になることはあんまりないんです。硬式野球部ってどこもけっこう練習するもんなんですね。練習もきついし、監督もきついです、ものすごい勢いで身も蓋もなく怒られています、いつも。



Kokoyakyu何度も見に行くことで、一人一人の選手たちのキャラクターがわかってくるのも面白いことで、身体の成長も個々に違うし、それぞれ得手不得手があるし、性格も少しずつわかってきます。そういう中で、みんな泣いたり笑ったり、悩んだり調子乗ったりしながらやってきたわけです。残念ながら途中で退部してしまった仲間もいました。うちの息子も、何度かやめることになりそうなことがあったようだし、最後までやり通した連中というのは、それだけでほめてあげたいところがあります。

そして最後の夏、なかなかいい試合を観せてもらいました。だいたい得点力は低いのですが、いい守備をして、エースも踏ん張り、先手を打って逃げ切るパターンを彼らなりに作って頑張りました。最後に戦った国士舘高校は、さすがに優勝候補、格が上で手も足も出なかったけど、8回まで3-0で踏ん張り、エースも8回力尽きて6-0になって敗れたけど、コールドになってもおかしくない相手でしたから、よくやったと思います。

ただ、息子たちのチームがどれほど練習したと言ったところで、あの試合で初回にホームランを打った国士舘の3番バッターは、毎日の練習の後、10km走ることと1000回の素振りを欠かさないと、新聞に書いてありましたから、上には上がいるんです、果てしなく。

その国士舘高校は、東東京代表をかけた決勝戦に進み、大接戦の好ゲームの末、惜しくもサヨナラ負けを喫しました。もうこのあたりになると、どこが甲子園に行ってもおかしくないレベルなんでしょうが、勝負は時の運です。そして甲子園ではもうすぐ、この夏一度も敗れることのなかった一校が決まります。

 

息子の高校野球から、世界でたった一つの金メダルまで、ものすごくたくさんの勝ち負けを見届けては、そのたびに深いため息をつく夏なのです。

 

 

2012年3月26日 (月)

かつて、CMにチャンネルをあわせた日

Toshisugiyama1「CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代」という本があります。1978年の12月に第1刷が発行されています。私は1977年からCMの制作会社で働いており、この本は出てすぐに買った気がします。当時CMの業界で、杉山登志という名を知らない人は、誰一人いなかったと思いますし、彼のことをCM界の黒澤明と言う方もいました。

けれど、私は一度もお会いしたこともなく、お見かけしたこともありません。この本は、1973年の12月に37歳で自死された杉山登志さんを追悼する意味で、その5年後に出版された本だったんです。1973年に私は上京して大学生になっていましたが、この年の暮れに広告業界を震撼させた杉山さんの事件のことは、曖昧な記憶しかありませんでした。

そしてこの世界で働き始めて、杉山登志という人が、CMとその業界の人々に、どれだけ影響を与えた人であったかということを、おもいきり知らされることになります。彼が、1961年~1973年の短い期間に作ったCMが、CMというものの価値すら変えてしまったことが、当時、限りなく素人に近かった私にもよくわかりました。

この本は、PARCO出版から刊行され、アートディレクターの石岡瑛子さんが編集にかかわっておられます。本の中には、彼の数々のヒットCMのカットが、カラー写真でちりばめられ、それは私が子供のころからテレビでみていた印象深いCMたちでした。その写真を見ているだけで、この人がどれほどの達人であったかがわかります。そして、その仕事を一緒にしていたスタッフの方や、彼とかかわりのあった同業者の方たちが、たくさん追悼の文を載せておられます。あらためてその方たちの名前を見渡しますと、本当にこの道の一流の方たちです。

私がこの方たちと、同じ業界で働いているのだと云う認識が宿るのは、ずいぶんと後になってからのことで、その頃は制作現場の末端をただ駆けずり回っているだけでした。でも、少しだけ仕事というものが面白くなり始めた頃でもあり、この本は熟読しました。

若造の理解力には限界がありましたが、読み返すほどに、この人が、いかに凄まじいエネルギーを発した天才であったかと云うことが感じられました。

その後、かつて杉山登志さんとかかわりのあった方々と、次々に知り合うことになり、いろいろなことを教えていただきました。残念ながら、直接存知あげなかったけれど、僕らはずっと、間接的に影響を受けていたと思います。

ついこの間、「伝説のCM作家 杉山登志」と云う標題の本が出版されました。彼の残した仕事や、その時代、その死の謎などが、すでに半世紀前のこととしてあつかわれている興味深い本です。この本を読みながら、かつての「CMにチャンネルをあわせた日」をもう一度読み直したいと思ったんです。

ただちょっと問題があって、本は私の手元にあるんですけど、かなり破損してしまって、読めない箇所がかなりあるんです。

どうしてそういうことになったか、若干説明がいるんですけど。

あの本を買った頃、私の部屋は本が増え続けており、ほんとに本の置き場所に困ってたんです。その後、六畳一間のわりには眺めのいい広いベランダがついた部屋に越した時、ダンボールに詰めた本をベランダに山積みにして、撮影用のビニールシートでグルグル巻きにして置いといたんです。それからしばらくして、仕事で2週間くらい海外に行ってたときに、留守中に台風が来たらしく、帰ってみたら、グルグル巻きのビニールの下の部分が完全に水に浸かり、でかい金魚鉢のようになっていました。運悪く一番下の箱が写真集関係になっており、私の大切な「CMにチャンネルをあわせた日」は水中に没してしまったんです。本の中の、写真の印画紙の部分は紙が張りついてしまって剥がれず、無理に剥がすと破れてしまいました。完全にアウトです。

最近になって、Amazonで古い本が探せるようになって、何度か検索したんですが、見つからずそれも諦めていました。ところがこの前、会社のO君と話していたら、「日本の古本屋」というサイトがあって、これがかなりすぐれものだと云うんです。O君は、なんだかこの前から自分のルーツを探っていて、それに関して相当重要な古文書を見つけたと言ってます。不思議な人なんですよね。

で、すぐに見つかったんです、「CMにチャンネルをあわせた日」。大泉の方にある古本屋さんだったんですけど、丁寧に梱包して送ってくださいました。いや、嬉しかったですね。

いま読み返してますが、この本は私にとって、この仕事とは、みたいなことを、はじめて語りかけてくれた本だったと思います。御存命であれば、長嶋茂雄さんと同年になられた杉山登志さん、緊張するけど、お会いしてみたかった方です。

でも、お会いできてたら、この本とは会えていなかったということなんでしょうか。

 

 

 

2011年3月10日 (木)

僕の尊敬する植木さん

会社で席替えがあって、荷物を整理していたら、そん中に何年か前に取ってあった新聞の記事が出てきました。なんだっけと思って読んでいたら、だんだん思い出しました。これ、読んで泣いたやつだ。ついつい手を休めてまた読んでしまいました。なかなか片付けがはかどらないのはこういうことしてるからなんですが。

それは、コメディアンの小松政夫さんが、師匠である植木等さんの思い出を語った記事でした。

植木等さんといえば、私が小学校3年生の時に、授業で『私が尊敬する人』という作文を書いた時に、迷うことなく選んだ人でした。

思い出すだに、当時のクレージーキャッツの人気はものすごくて、それこそ、TVに映画にCMにレコードに大活躍。コメディアンとして相当に面白かったんだけど、ちゃんとしたジャズバンドとしても成立しているというところもなんとなくかっこよくて、大人にも子供にも人気があって、日曜日の夕方6:30から始まる「シャボン玉ホリデー」は、どんなことがあっても必ず見る番組でした。

そのクレージーキャッツのメンバーは7人いて、みんなそれぞれに個性があって面白かったんですが、グループを代表するスターは、やはり植木等さんでした。

この人が繰り出す数々のギャグも、映画の中の無責任男のキャラクターも、

そして、彼が歌う唄の歌詞も、大好きでした。

こんな感じです。

 

♪ ぜにのない奴ぁ 俺んとこへこい

  俺もないけど 心配すんなUeki-san2

  みろよ青い空 白い雲

  そのうちなんとかなるだろう ♪ とか

 

♪ 人生で大事なことは

  タイミングに C調に 無責任

  とかくこの世は 無責任

  コツコツやる奴ぁ

  ごくろうさん  ♪  など

 

当時、まじめにこつこつ働いてた日本人も、高度経済成長に振り回されて少し参っていた日本人も、ほんとに励まされていたと思います。

 

植木さんが亡くなった2007年に、『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』という本が出ました。すぐに買って読みました。あんな大スターだったのに、評伝として出版された本はこれだけです。それまでに来た出版の企画は、すべて断っていたそうです。

これを読むと、ほんとに尊敬すべき素敵な人だったことがわかります。

演じるキャラクターとは違い、堅実な人であったこと。グループの中でみんなから愛され、まとめ役だったこと。売れに売れた頃、進むべき進路に悩んでいたこと。お酒は1滴も飲めず、質素な暮らしぶりだったこと。破天荒な生き方をしたお父さんを愛していたことなどが書かれています。

この本の中にも、当然 小松政夫さんが出てきます。弟子と師匠として関わった小松さんの話に、植木さんの人柄がにじみ出ています。

 

役者を志望して、19歳の時に福岡から上京した小松さんは、様々な仕事を経て車のセールスマンをしていました。ある時、植木等さんの運転手募集の記事を見つけ、600人の応募者の中から勝ちのこり、付き人兼運転手になりました。そして、小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが過労のためダウンして入院していた病室でした。

 

小松談

ものすごく二枚目でした。いつもテレビで見ていた時の声じゃなく、もっと低いキーで、

「植木です」 って言って、

「この世界に入るのに、何の抵抗もないの?」 というようなことを訊かれました。

しゃっちょこばっている僕を見て、

「俺のこと、何と呼ぶようにしようか」 って言った後、

「先生なんて呼んだら張り倒すよ」 って。

その時、「ああ、植木等なんだ」 って、やっと思ったんです。

緊張をほぐしてくれたんです。それから真面目な顔になって、

「君はお父さんを早く亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」 と言ったんです。

その時に思ったんです。ああ、この人についていこう、生涯ついていこうって。

 

それから半年ぐらいで、小松さんは小さな役をいろいろ貰うようになり、ハナ肇さんからも、チャンスをもらい始めました。

その頃に、植木さんの有名なギャグ「お呼びでない、こりゃ、また失礼いたしました」は、小松さんが植木さんの出番を間違えて生まれたというエピソードがありました。

 

小松談

うそなんですよ。植木の思いやりですよ。私がセールスマンだった時に、あのギャグはすでにやってました。

「出番じゃないとリラックスしていたら、小松がねえ、何やってんですか、とせっついた。飛び出したら、ハテナという顔をみんなしてるから、できたギャグ」と、どこでも言うんです。

「こいつは面白いよ、使ってやって」とも。

あの聡明な植木が、間違えるはずがない。私の手柄にしてやろうと思いついたに違いない。

後に、奥さんには、

「小松が育ったのが、誇りだったのよ」と言われました。

 

3年10カ月経って、植木さんの付き人を卒業した時の話が、またいいです。

 

小松談

そうです。車を運転していて、突然後ろから言われたんです。

「明日から、来なくていい」 って。

青天の霹靂でした。私の独立にむけて、給料もマネージャーも決めてあった。

「社長も大賛成だと言ってる。だから、明日からは俺の所に来なくていいんだ」 って。

涙で前が見えなくなり、車を止めさせてもらって、声を出して泣きました。

・・・・・

何分くらい泣いてたのかな。その間、ずっと黙って待っていてくれて、

しばらくして、

「別に急がないけど、そろそろ行くか」 って。

僕は我に返って、「はい」 って言って車を出したんです。

粋だったですね、やることが。

 

 

私が小学校3年生の時の作文で、、尊敬する人に、植木等さんを選んだことは、本当に間違ってなかったと思ったのでした。つくづく。

 

何でもいいから一度お会いしたかったです。

 

谷啓さんとは、一度仕事でお会いしました。音楽を作ってくださったんです。

これはホントに嬉しかったです。

録音中、得意の「おや?」というギャグをやってくださいました。しびれたなあ。

 

 

2011年1月20日 (木)

「大人は、かく戦えり」という芝居

今、新国立劇場の小劇場でやっている「大人は、かく戦えり」という芝居のことです。

おもしろいです。よくできてます。それに、役者がいい。

観客は、爆笑の連続、息をのんだり、ハラハラしたり、ライブの芝居の醍醐味がたっぷりと味わえます。若い人向けというよりは、ちょっと大人向けですけど。

この戯曲は、ヤスミナ・レザというフランスの女性作家によって2006年に書かれ、すぐに評判を呼び、世界各国で次々に上演された話題作です。日本では、これが待望の初演ということになります。

登場人物は、二組の夫婦。

ウリエ夫妻とレイユ夫妻が、ウリエ家の居間で話し合いをしています。

レイユ家の息子がウリエ家の息子に怪我を負わせてしまったのです。

二組とも、地位も教養もあるブルジョアジー夫婦だけに、冷静で友好的にみえる態度で、子供の喧嘩の後始末に折り合いをつけようとしているのですが、ぎこちない会話にホンネが見えかくれし始め、徐々に互いの本性があらわになってきます。やがて壮絶な罵倒合戦になり、さらには、日頃それぞれの夫婦間に鬱積していた不満も爆発してしまいます。そして、舞台は収拾のつかない混乱へと向かうのです。

この芝居の成否は、キャスティングにかかっていたと思います。

というか、それぞれの役者の力量にかかっていたと云うべきでしょうか。

ともかく、ウリエ夫妻、大竹しのぶ、段田安則と、

レイユ夫妻、秋山菜津子、高橋克実の配役は最強でした。

一人一人の登場人物が、各俳優によって相当細かく造形されています。それによってその人格が伝わり、笑いにもつながります。客席が引っ張り込まれていくのは、そうしたリアリティの上に構築されたお話です。

観客は、休む間もなく、どこに行きつくともわからぬ4人を追いかけながら、この芝居の持っているひとつのテーマが、夫婦というものであるということに気付かされます。

先にこの芝居を観た、会社のFさんは私に、

「とても面白い芝居でしたが、ご夫婦では観られないほうがよいと思います。」

と言いました。ちなみに彼女は独身ですけど。

確かに、夫婦で気持ちよく笑って終わる芝居ではありませんね。後味がほろ苦いというかなんというか。もともとは他人の一組の男女(まれに男女じゃない場合もあるが)で構成された夫婦という形は、暮らしていくうちに、様々なズレやシコリがたまり、ある局面で、それが一気に表面化したりしますよね。

そのあたり、舞台ということもあって、誇張して描かれていたりしますが、本当にセリフも演技プランもよく練れていて、実感を込めてお見事と云わざるをえません。

ちょっと子供にはわからない、おとなの芝居とでも云うのでしょうが、昔、向田邦子さんが書いたTVドラマにも、こういう世界がよくあったように思います。

一緒に暮らす夫婦や家族が、あることをきっかけに、相手がかくしていた感情を知ることになり、ちょっと大きめの波風が起きるような話です。若かったころ、まだガキだった自分は、向田さんのドラマを観て、大人の世界を垣間見ていた気がします。

そのころ、一度も結婚をしたことのない向田さんが、何故あんなに見事に夫婦というものが描けるのか不思議だという話が、よく聞かれましたけど。その後、向田さんはエッセイや小説をお書きになり、そのあたりにどんどん磨きがかかり、多くの名作が生まれました。

そう考えてみると、かつてテレビには、もっと大人の鑑賞に耐えうるものが沢山あった気がしますね。

ちょっと話がそれちゃいましたけど・・・

 Otonahakakutatakaeri

 

2010年1月15日 (金)

泣きながら生きていくのだ

昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。

そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、

「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」

などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。

新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の1230から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。1230かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。

いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。

それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。

中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。

以下、お話に触れます。

 

1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。

この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(19661976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。

若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。

でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。

丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。

丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。

 

 日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。

1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。

努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。

ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。

「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」

父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。

あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。

一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。

「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」

 

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それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。

数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・

この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。

 

  

それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。

15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」

日本という国に対しても、

「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」

みたいなことを言われました。

中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。

 

そのことで思い出したことが一つ。

子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の23女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。

この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。

 

  

しかし、泣いた。

  

2009年8月19日 (水)

クリントと鶴田さん

ことしの春先のある夜、友人から留守番電話が入っておりました。

けっこう酔っ払った声で、

『君は「グラン・トリノ」をみたか? まだならば、是非みるべきである。』

というようなメッセージでした。

クリント・イーストウッド監督のその映画の上映が始まって間もない頃だったと思います。

クリント・イーストウッド監督の映画は、たしか全部みています。何故かいつも引き込まれるようにみてしまいます。どの映画も、ただ面白い楽しい映画ではありません。むしろどちらかといえば、つらい映画です。でも、このクリントというおじいさんに、映画という手法で語られてしまうと、たしかにつらい話だけど、ただそれだけじゃない人生の深さみたいなものを感じてしまいます。なんだか、この人生の達人のようなおじいさんの話は、やっぱ聞いとかなきゃみたいに思ってしまうのです。

Clint_7 この人のことを、少し身近に感じていることもあると思います。べつに知り合いではないのですが、僕が子供のころに「ローハイド」というTVドラマにずっと出ていて、その後、イタリアに行って、「荒野の用心棒」とかで、マカロニウエスタンのスターになって、ハリウッドに戻って、「ダーティーハリー」で成功して、ほんとの大スターになってからも、監督としてよい仕事をし続けている人です。青年時代からおじいさんになるまで、ずっと知っているせいかもしれません。

「グラン・トリノ」は、久しぶりに監督兼、主演でした。友人が云ったように、是非みるべき映画でした。映画が終わっても、ほとんどの人が席を立ちませんでした。クレジットが流れる中、すすり泣きも聞こえました。またしても、悲しくて深い映画だったのです。

しばらくして、この友人と他何人かで、「グラン・トリノ」を語る飲み会をやりました。良い映画を題材にするだけで、飲み会は、ちょっといい飲み会になります。

この席で、私はひとつこの友人に確認したいことがありました。

「クリント・イーストウッドが演ってたコワルスキーって人、吉岡司令補とダブらなかった?」

彼も思いあたっていたようで、「そうなんだよ、そうだよな。」と言いました。

この吉岡司令補というのは、昔、NHKの「男たちの旅路」というドラマで鶴田浩二さんが演じていた役名です。私もこの友人も、このドラマのファンだったし、何度となくそのことを語ってきたので、吉岡司令補といっただけで、お互いわかってしまうのです。

吉岡さんという人は、警備会社でガードマンをしていて司令補という役職なのですが、実は、特攻隊の生き残りで、過去の戦争体験を忘れることができず、死んでいった戦友のことを想い、戦後30年経った現代の若者のことが大嫌いな、すごく偏屈な中年として描かれています。

コワルスキーさんも、朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、ジェネレーションのちがう人のことを全く受け入れようとしない偏屈なジジイとして描かれています。

二人とも、あるきっかけで若い人とふれあい、お互い相容れないけれど、少しずつ理解し、一緒に現実の社会にかかわっていくあたりが、どちらの話も構造的に似ています。

クリント・イーストウッドは、監督としてはじめてこの脚本を読んだときに、瞬間的に自分がコワルスキーを演じることを決めたそうです。

30年前に放送された「男たちの旅路」は、山田太一さんのオリジナル脚本ですが、そもそも鶴田浩二さん主演のドラマをというNHKからの依頼がはじまりでした。

二人が始めて会った時に、鶴田さんが語った戦争体験や、戦後30年経った当時の世の中に対する彼のおもいなどをもとに、山田さんが書いたのがこの脚本だったのだそうです。

そして、クリントは、朝鮮戦争では、軍用機の事故で戦地には行かなかったものの、20歳で陸軍に召集されており、鶴田さんは、21歳のときに特攻隊で太平洋戦争の終結を迎えています。

Turutasan_2  30年の時差はありますが、何か成り立ちが似ている2本の作品です。

「男たちの旅路」が放送されたころ、私たちはまさに吉岡司令補が大嫌いな戦後の若者でした。その若者がおっさんになったころに、われらのクリントがこんな映画をみせてくれました。この飲み会で私の横にすわって語っていた若者は、30年前、ただの幼児でした。

この若者が、いま私の「男たちの旅路」DVD5巻をみているところです。

またいい飲み会ができそうです。

終戦記念日のニュースを見ながら、この二つの作品のことをおもいました。

直接戦争を描いているわけではありませんが、かつて戦争を体験した二人の男の物語です。

2009年5月 1日 (金)

「ありふれた奇跡」と「早春スケッチブック」

3月に、「ありふれた奇跡」というテレビドラマが終わりました。毎週1時間、11話完結でした。全部録画して、先日まとめてみたのですが、期待したとおり、いいドラマでした。

これといって派手なことは何も起こらないのに、常に次の回が気になってしまう展開で、完全にはまってしまいました。気がつくと最終回には泣いておりました。

なぜ、全部を録画したかというと、それが山田太一さんの脚本であったことと、山田さんが、これを最後にもう連続ドラマは書かないと宣言したと聞いたからです。山田さんは、僕らが高校生のころ、いわゆる70年代から、今まで、本当に数々のテレビドラマの名作を書いてこられた脚本家なのです。

「ありふれた奇跡」には、ある男女が出会ってから結ばれるまでのお話と、並行してそれぞれの家族が描かれています。淡々と日常を追いかけているのですが、登場人物たちの設定のリアリティと、彼らが交わす台詞の力にぐいぐい引っ張りこまれてしまいます。

山田さんが最もシナリオを書いたであろう70年代から90年代にかけては、たくさんの名作が残されています。「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、テレビドラマの歴史を変えたといわれるようなものも、このころ書かれています。

そのころ、私はというと、若くて忙しいころでもあり、これらの作品が放送されたときに、テレビの前に座っていることは、ほとんどありませんでした。当時は、ビデオ機器も持っておらず、たいてい見過ごしておりました。

ただそのころ、テレビドラマの名作の脚本は、わりと本として出版されていたので、本屋さんに並んだものは、はしから買って読んでいました。山田さんだけでなく、向田さんや、倉本さんや、早坂さんの脚本もずいぶん出版されました。脚本には配役も全部載っていましたから、いろいろなシーンを映像として想像しながら読むのは、なかなか面白かったです。

それと同時に、何と言ったらよいか、この完成度の高い、ものすごい精度で書かれた設計図のようなシナリオを渡された、役者もスタッフも相当なプレッシャーを感じただろうなと思いました。

昨年、会社の後輩のプロデューサーが私に、

『山田太一さんの「早春スケッチブック」は、みましたか。』と聞くので、

『みてないけど、読んでる。あれは名作や。』と答えましたところ、彼女が、

DVD化されたので、全巻買ってみましたが、すばらしかったです。ご覧になりますか。』

といいました。

『君は、すばらしい人です。是非、貸してください、全部。』

みせていただきました、全部。

『早春スケッチブック』は、1983年に、フジテレビで放送されています。

登場人物は、郊外に住む4人家族、夫婦と高校生の息子と中学生の娘、それと、妻の昔の恋人と、彼を慕う女性が一人。ほとんどこの人たちだけで、13話も持ってしまうお話になっています。当時脚本を読んで、本当に強く印象に残っていて、機会があれば是非ドラマをみたいと思ってましたが、二十数年経ってみたドラマは、いろんな意味でほんとによくできていました。

配役も、それぞれ良いのです。

昔ちょっとわけありだけど、今は平凡な主婦に岩下志麻さん、信用金庫に勤める夫に河原崎長一郎さん、大学受験生の息子に鶴見辰吾さん、問題の、妻の元恋人に山崎努さん、山田さんは、この役は完全に山崎さんを想定して脚本を書いたといわれていたと思いますが、確かに、ほかに誰がこの役をできるのだろうかとも思います。その山崎さんを慕う若い女性に、新人時代の樋口可南子さん、これもいいです。

ただ、脚本が面白くなければ、いい役者も生きないし、ドラマも面白くなりようがないのは確かです。

うちの高校生の娘が、DVDを横でみていて、

『岩下志麻さんて、こういう主婦の役とかもやってたんだ。それにしてもうまいね。』

などと感心しておりました。極道の妻しか知らないのかもしれません。なさけない。

山田さんが、もう連続ドラマを描かないといった心情を語っておられます。

『もう連続ドラマは描かないと決めたのは、時代の変化を感じたからです。やはり連続ドラマにも時代の流れがあり、ある時ふと「自分は違うかな」と思った。1人の作家が、どの時代にも適応していくのは、むしろみっともないことのようにも思えたんです。流れから外れるからこそ作家であるという気持ちもありました。』

そうかもしれません。おっしゃっていることは本当に深いと思います。

でも、久しぶりに見せていただいた連続ドラマは、「早春スケッチブック」のころと変わらぬ作家としての姿勢を感じました。その姿勢に私たちは打たれていたと思います。その姿勢を感じる脚本家を他に知りません。どうかまた近いうちに、次の連続テレビドラマをみせていただきたいとつくづく思ったのでした。

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2008年6月18日 (水)

オーケストラは人をつくる ベネズエラのユース・オーケストラ

このあいだ、一緒に仕事をしているクリエイティブディレクターのAZさんと話していたら、「去年、BSですごくいい番組を観たのだけど、ぜひもういっぺん観たいのだけど、どうしたらよいだろか。」と相談されました。

そんなに良い番組なら、私も観て見たいし、調べてみましたところ、意外に簡単に手に入れることができました。さっそく皆で、観はじめたのですが、ほんとに良いのです、このドキュメントが。

どういうお話かというと、南米ベネズエラのオーケストラの話なんですね。

ベネズエラでは、1975年頃から、全国に青少年のオーケストラをつくり始めたんだそうです。現在全国に90の開発センターがあって、それぞれに3~4のオーケストラと合唱団があるそうです。こういってはなんですが、ベネズエラという国は、けっして豊かな国ではありません。むしろ、貧困と麻薬と犯罪のイメージが強くあります。果たしてクラシックのオーケストラを聴く習慣があるのだろうか?

でも、これは、ある団体が意図的に始めたことでした。

この番組の中で、「かつてこの国において、芸術は、ある限られた階級の少数の人々にのみ、与えられていた。少人数から少人数へのコミュニケートだった。」と語られます。

子供たちは、演奏するための椅子にすわっても、足が床に届かぬ頃からオーケストラの一員になります。子供たちが、はじめて生の音楽に接する場面は感動的です。まるで乾いた砂漠に、水がしみこんでゆくようです。そして、彼らは夢中になって音を出しはじめます。楽器は宝物となり、かたときも離せません。そうやって音楽と出会った彼らは、めきめき上達します。もちろん個人差はありますが、そうやってオーケストラの一画を担うようになっていくのです。もはや、ベネズエラのオーケストラ音楽は、少数から少数へ伝わる芸術ではありません。現在24万人が参加しています。

子供たちは、自分の技術を磨くことによって得られる感動を知り、オーケストラという大きなチームの中における自分の存在の意味を学びます。このことにより、努力によって得られる達成感と、社会の中で自分が果たせる責任を知ることになるといいます。オーケストラが人をつくり社会を作るという意味がわかってきます。貧困と麻薬に犯されていた社会は、少しずつ変化し始めました。

このシステムが育てた人材は、確実に成果を上げはじめています。すばらしい才能が育ち、彼らが作り上げたオーケストラは、世界の観客たちから、音楽の専門家たちから、絶賛されています。ある著名な指揮者は、「クラシック音楽の未来にとって、最も重要な活動が、今どこで行われているかとたずねられたら、私はベネズエラと答えるでしょう。」と語っています。

貧しい子供たちに楽器を提供し、組織をつくり、オーケストラを育てることは、簡単なことではなかったでしょう。世界中からの支援を取り付けたそうです。日本からも音楽教育の専門家たちがたくさん参加し、感謝されたそうです。このシステムを南米諸国に拡げていく試みも、すでに始まっているようです。Cello_5

しかしながら、この番組を観て最も感動したところは、子供たちとクラシック音楽との出会いでした。音楽は理屈ではなく、彼らの魂に直接働きかけ、あっという間に取り込んでしまいました。

この出会いを演出した人たちこそが、このお話の主人公なのです。

2007年7月 3日 (火)

教育とは 学校とはなんだ

固い話で恐縮です。

年が明けてまもなくのこと、大学の建築学科の先生から「変わりゆく教育と学校環境」というちょっとむつかしい講義を受けました。何故そういうことになったかという話からいたします。私の席の隣に学校教育を題材にしたTV番組を作ろうとしているプロデューサーがおります。この人がなかなか熱血パワフルな人で、重松清さんの『教育とはなんだ』という面白い本があるのですが、この本の中の学校建築の話にすばやく反応して、大学の建築の先生に会いに行ってしまいました。そこですっかり意気投合したらしく、またこの先生もけっこう熱血の人で、平日の昼間にもかかわらず弊社まで来てくださり、映像資料まで持参して私どもに対して2時間半に渡る熱い講義をしてくだすったのです。でも、なんだか新年からいろいろ考えさせられるいい話だったのですよ。なかなか手短にはお伝えできないんですが、どうも日頃私たちが常識だと思っている学校の建物の形というのは、この国の長い歴史の中で決まりごとになってしまったもののようです。現在の教育、これからの教育を考えるに、学校建築は今のままでよいのだろうか。世界に目を転じてみると、実にいろんな考え方の、いろんな形の学校があるのです。今さまざまな問題に直面している学校という現場には、新しい価値観が必要なんじゃないか。この先生はモデルスクールを立ち上げたりして、各所で改革を呼びかけられておりますが、新しい試みに対して世間はなかなか積極的ではないようです。この話はさまざまな教育制度の問題にもかかわっています。一筋縄ではいかない大変な話なのです。

20年も前に“ピッカピカの一年生”というTVCM の仕事をしていて、毎年冬から春にかけて日本中の小学校を訪ね歩いていた時期があります。その頃はまだ明治に建てられた小学校がたまに残っておりました。建物としては、すでにけっこうな年代物でしたが、なんだか建てた人たちのこころざしのようなものが伝わってきたのを覚えています。明治といえば、小学校を作ることじたい新しい試みだったはずですよね。学校という教育の現場には、常に新しい風が吹いていていいんじゃないか。なんかそんなこと思ったりしました。じゃあ新しい形ってたとえばどんな形なんじゃと問われてもここでは書ききれんので、そのあたりはうちの熱血プロデューサーが作る番組にゆずります。

2005/1Gakkou_2