芝居 Feed

2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

Kinglear_2


このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

Karasan_tsukasan_2


私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

Kanjincho


今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年1月22日 (火)

初台の太郎ちゃんのこと

昨年の大晦日は、お葬式で暮れました。

亡くなったのはしばらく会ってなかったけれど、古い友達でした。クリスマスの25日に亡くなり、告別式が12月31日だったんですが、彼が病院で意識を失くしたという連絡が、23日にありまして、それは、一人暮らしのその友人がお世話になっていた大家さんからの電話でした。友人の携帯電話の連絡先や通信記録などから、私の電話番号を知り、その電話機から連絡を下さったようです。

そうやっていろいろな知り合いに連絡を取って、お葬式の段取りも、みなやって下さったようで、一人で暮らしていたけど、このように親切にしてくださる方が傍にいて良かったと思いました。

この大家さんが、お葬式の時に、

「これ、太郎ちゃんが好きだったお菓子ですから」と云って、みなさんに菓子袋を配っておられまして、そんなふうに親しくお付き合い下さった方なんだなと、少しホッとしたんですね。

 

そうなんです。その友達はみんなに太郎ちゃんと呼ばれていました。

Taro

私が20代の頃、同じ会社に勤めていた友人夫婦が初台に住んでいて、その家の近くに太郎が一人でやってる飲み屋があったんですね。店の名前も太郎だったかなあ。10人かそこら入ったら一杯になるようなカウンターだけの店で、ツマミもあんまりなくて、安い酒ばっかり置いてあったから、貧しい私たちが夜中に飲みに行くぶんには、ちょうど良い店でした。よく仲間と行ってたんです。

この太郎ちゃんという人は、飲み屋の店主以外に一つ仕事があって、それは売れない役者だったんですけど、言われるまで知らないくらい、ほとんど役者として認識したことはなかったんです。ただキャリアだけはあったみたいで、役者の仲間や友達が客としてよく飲みに来てたんですね。

それで、どんな仕事してるのかを聞くと、あんまり知ってるものはなくて、どっちかというと、ピンク系とか日活ロマンポルノ系のちょっとした役で、そういうことで、日活の女優さんとか、ピンクでちょっと有名な男優さんなんかも飲んでたこともありましたし、たまに普通に有名な俳優さんもいらしたりしたんですね。ただ、この太郎ちゃんが役者として優れていたのかどうかは、よくわからなかったんですけど。

まあ映画って云っても、出てきてすぐにいなくなるような役が多かったんじゃないかと思いますよ。そういう人でして、人気者でしたけど、わかりやすく云うといじられキャラですから、みんなにいじられてて、僕らもそこで飲んでる間じゅう太郎を肴にして、好き放題を言って、飽きると歌を唄わせたりして、思えば傍若無人な振る舞いをしておりました。

そんな関係が出来あがった頃に、

「ところで、太郎って、歳いくつなのよ」って聞いたんですが、なんと私たちより六つも年上だったのですね。ただ、そのことがわかったからといって、今さらこちらの態度を変えるわけにはもう行かず、それ以後も、

「この野郎、太郎!」という関係は続いたのでした。そもそも、その店に最初に行き始めたそのサトルという友達は、やたらとでかくて威圧的な奴だったし、私も口だけは達者な奴でしたから、まあ、そこでは威張っていたわけです。

そんなある夏の日に、なぜか太郎ちゃんと私と仲間たちで、伊豆に旅行に行ったことがあったんですが、ちっちゃい車に5人でぎゅうぎゅう詰めで、エアコンは壊れてて効かなくて、おまけに夏休みで道は大渋滞、真鶴道路のトンネルの中に3時間もいたんですね。

そんな過酷な状況下で、何かのはずみだったと思うんですけど、なぜか太郎ちゃんの身の上話をみんなで聞くことになったんです。それは、太郎が育った岩手の猛吹雪の風景と、それにまつわる苦労話でして、うだるような暑さの中で、極寒の話を聞くわけです。そして、太郎が東京に出てきてからのあれこれ、これまた苦労話の超大作が続きました。この長い道中で、私たちは太郎のこれまでの人生を味わい尽くし、やっと海が見えて、太郎がヨットを見つけた時に、

「あっ、帆掛け船だ」と叫んで、オチがついたという旅でした。まあ、そんなようなことだったけど、みんな若かったし、楽しかったんです。

ちょっと変わった青春話もやがて終り、太郎の店は立ち退きになって、それからしばらくして、太郎は新宿三丁目のあたりで別の飲み屋を始めました。その店もやがてやめちゃうんですが、私たちも20代から30代になって、私もサトルも勤めてたその会社をそれぞれに辞めて、なんとなく、みんな疎遠になっていきました。

 

その後、太郎ちゃんとは忘れた頃に年賀状のやり取りをするくらいでした。相変らず、テレビや映画に出ていてもほんの一瞬だし、そういえばあの有名な「あまちゃん」にも役名付きで1回出たことあったけど、友達でさえわからないくらいの瞬間でしたもん。ほんのたまにそういうことあって、まあ元気なんだろうなというくらいのことでした。

人生長くなってくると、こっちもいろんなことがありまして、もうずいぶん前に友達のサトルは病気で他界してしまい、そのことを太郎に知らせようとしても、その時は連絡が取れませんでした。

それから、もう一つ、何年か前に判明したことがありまして、私が全く別のラインで長く仲良くしていただいてる友達の夫婦がいるんですが、同年代のこの二人がなんと初台の太郎の店の常連だったことがわかったんですね。あんな小さな店でそんなことがあるんだ、世の中は狭いなあということでびっくりして、ともかく是非みんなで会おうということになり、太郎に電話したんです。4人で新宿に集合して、飲みに行ったんですが、本当に久しぶりの再会でみんな嬉しくて、ずいぶん遅くまでハシゴしました。

ただ、その時に太郎ちゃんの身体の調子が万全ではなくて、定期的に人工透析の治療を続けていることを聞きました。でも、その日はずいぶん飲んで、今日は嬉しかったからいいんだと云っていたんですね。

それから、たまに連絡取ったり、私の会社に遊びに来りもしてたんですけど、このところちょっと音信がなかったんです。

去年の正月に、年賀状やり取りしたけど、そのままになっていて、そういえば秋口に、一度電話くれて、また近いうちにみんなで飲もうと云ったんだけど、なんか話があったんじゃないかな、あの時、こっちもちょっとバタバタしててそのままになっちゃったけど、そん時、会っとけばよかったんじゃないかと、つくづく思いました。

 

若い時にすれ違うように出会ったけど、長い間に要所要所で、なんだかすごく縁のあった人でした。

ともかく悪く云う人はひとりもいない、みんなから愛されてましたね。

今頃、あっちでサトルにも会ったでしょうか。

 

2012年9月 5日 (水)

オモダカヤッ!

市川亀治郎という歌舞伎役者を、はじめて見たのは、いつ頃だったか。まだ声変りもしていない子供だったし、この人は生まれが1975年なので、1980年代の前半だった気がします。

そのころ、マイブームというか、仕事仲間のNヤマユキオ、Nヤマサチコ夫妻や、先輩のY田さんたちといっしょに、市川猿之助の大ファンとなり、たしかNヤマサチコさんは「澤瀉会」(おもだかかい)にはいって、皆のチケットを取ってくれてた気がしますが、ともかく市川猿之助の歌舞伎公演は全部観ておりました。

いや、本当に面白かったのですよ。猿之助という人は、役者として、比べようもなくすばらしいのだけど、演出家としてもすぐれた人で、明治以後、疎まれた外連(けれん)を復活させたり、外連とは早替わりや宙乗りのことを云うのですが、他に古典劇を復活したり再創造したり、いわゆる当時の由緒正しい歌舞伎の世界では、ニューウェーブというか、アバンギャルドで、私達は大いに支持してたわけです。

昔ながらの歌舞伎という文化に触れながら、この経験は、相当に楽しかったんですね。

その猿之助さんの弟が市川段四郎さんで、いつも重要な脇役をおやりになっていて、その息子さんが市川亀治郎なんです。子役の時からとても上手で、人気者でしたが、成長するに従ってどんどんうまくなるんですね。私達はそれが嬉しくて、彼のことを親しみをこめて、カメ、カメと呼び、当時30代だった私達は、

「カメの成長を、老後の楽しみにしよう。」などと話し合っておりました。

それから何年もの間、私達の猿之助熱は冷めず、追っかけは続くのですが、1986年には、彼の大事業となるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が発表され、この人のスケールの大きさにまた驚かされます。このあと結婚したばかりの私の妻も猿之助ツアーに加わり、古典もスーパー歌舞伎も逃さず観劇する勢いで、1993年の「八犬伝」くらいまでは観たと思いますが、その後少しずつ縁遠くなってゆきます。

ある意味、猿之助の役者としてのピークを見届け、少年から大人になってゆく亀治郎を見届け、私達の澤瀉屋歌舞伎三昧は、一段落します。

そのあと、2000年頃ご縁があって、猿之助さんと幼いころに離別された息子の香川照之さんと仕事をご一緒したことがあって、頭のいい人だなあと思って感慨深かったり、最近になって、大人になった亀治郎さんをテレビで見たりして、やっぱり澤瀉屋の顔だなあと感心したりしていました。

そして今年、あの亀治郎が、四代目市川猿之助を襲名するというニュース。そして、香川照之さんが、九代目市川中車を、香川さんの息子さんが五代目市川團子を襲名、6月7月に披露公演があるということ。

そうかあ、そういうことになったら、久しぶりに猿之助歌舞伎観たいなあ、と思っておりましたところ、うちの奥さんがインターネットで、7月の「ヤマトタケル」の桟敷席をゲットしてくれました。桟敷席かあ、懐かしいなあ、昔よく分不相応な桟敷席で酔っぱらいながら観劇したなあ、などと感激しておりました。

さて、四代目市川猿之助と九代目市川中車の口上にはじまり、私としては26年ぶりの「ヤマトタケル」のはじまり、はじまり。

Ennosuke
いや、驚きました。

舞台に現れたヤマトタケルの姿は、先代の市川猿之助がよみがえったかのごとくでした。

そうなんです、身体つき、身のこなし、声、顔形、完全に私の記憶の中にいるあの26年前の、市川猿之助です。ちょっと怖いほどなんです。

澤瀉屋という血のなせることなのでしょうが、一つの名跡を一族で守る梨園という社会だから起こることです。亀治郎という役者は、少年の時からずっと、この猿之助という役者を凝視して育ったんですね。そう思いました。

「ヤマトタケル」の原作者である梅原猛さんは、1986年の初演の時、一人の少年が楽屋の廊下で竹刀を振ってヤマトタケルの真似をしていたのを覚えています。少年が誰だったかは云うまでもありません。

今更ながら気づいたんですが、歌舞伎のファンには、こういったDNA的とでも云う楽しみ方があるんですね。歌舞伎の世界がどうして世襲制なのかよくわかりました。

「いやあ、先代と生き写し。」などと云って、しびれるわけです。

そこには、一方で、その名跡に足りているかどうかの、厳しい客の評価もあるのでしょうけど。

そういう意味では、四代目市川猿之助襲名は、多くの猿之助ファンをしびれさせました。私もなんだかとても嬉しかった。

そしてもう一つ、澤瀉屋ファンを絶叫させたのが、第三幕、子役の團子がワカタケルに扮して登場するシーンです。もちろん市川團子は、香川照之さんのご子息で、先代猿之助さんの直系のお孫さん、まあ一族のプリンスなのですが、この時の客席からの掛け声がすごかった。

「よお、オモダカヤ!」「オモダカヤ!!」「オモダカヤ!!!」

これはもう、一夜の夢などではなく、はっきりと見え始めた澤瀉屋の未来なのです。

 昔、「成長した亀次郎を、老後の楽しみにしようね。」と語ったことが、

正直、その通りになってきました。そして、その先の未来もたのしみです。

長生きしなくちゃだわ。

 

 

 

2011年1月20日 (木)

「大人は、かく戦えり」という芝居

今、新国立劇場の小劇場でやっている「大人は、かく戦えり」という芝居のことです。

おもしろいです。よくできてます。それに、役者がいい。

観客は、爆笑の連続、息をのんだり、ハラハラしたり、ライブの芝居の醍醐味がたっぷりと味わえます。若い人向けというよりは、ちょっと大人向けですけど。

この戯曲は、ヤスミナ・レザというフランスの女性作家によって2006年に書かれ、すぐに評判を呼び、世界各国で次々に上演された話題作です。日本では、これが待望の初演ということになります。

登場人物は、二組の夫婦。

ウリエ夫妻とレイユ夫妻が、ウリエ家の居間で話し合いをしています。

レイユ家の息子がウリエ家の息子に怪我を負わせてしまったのです。

二組とも、地位も教養もあるブルジョアジー夫婦だけに、冷静で友好的にみえる態度で、子供の喧嘩の後始末に折り合いをつけようとしているのですが、ぎこちない会話にホンネが見えかくれし始め、徐々に互いの本性があらわになってきます。やがて壮絶な罵倒合戦になり、さらには、日頃それぞれの夫婦間に鬱積していた不満も爆発してしまいます。そして、舞台は収拾のつかない混乱へと向かうのです。

この芝居の成否は、キャスティングにかかっていたと思います。

というか、それぞれの役者の力量にかかっていたと云うべきでしょうか。

ともかく、ウリエ夫妻、大竹しのぶ、段田安則と、

レイユ夫妻、秋山菜津子、高橋克実の配役は最強でした。

一人一人の登場人物が、各俳優によって相当細かく造形されています。それによってその人格が伝わり、笑いにもつながります。客席が引っ張り込まれていくのは、そうしたリアリティの上に構築されたお話です。

観客は、休む間もなく、どこに行きつくともわからぬ4人を追いかけながら、この芝居の持っているひとつのテーマが、夫婦というものであるということに気付かされます。

先にこの芝居を観た、会社のFさんは私に、

「とても面白い芝居でしたが、ご夫婦では観られないほうがよいと思います。」

と言いました。ちなみに彼女は独身ですけど。

確かに、夫婦で気持ちよく笑って終わる芝居ではありませんね。後味がほろ苦いというかなんというか。もともとは他人の一組の男女(まれに男女じゃない場合もあるが)で構成された夫婦という形は、暮らしていくうちに、様々なズレやシコリがたまり、ある局面で、それが一気に表面化したりしますよね。

そのあたり、舞台ということもあって、誇張して描かれていたりしますが、本当にセリフも演技プランもよく練れていて、実感を込めてお見事と云わざるをえません。

ちょっと子供にはわからない、おとなの芝居とでも云うのでしょうが、昔、向田邦子さんが書いたTVドラマにも、こういう世界がよくあったように思います。

一緒に暮らす夫婦や家族が、あることをきっかけに、相手がかくしていた感情を知ることになり、ちょっと大きめの波風が起きるような話です。若かったころ、まだガキだった自分は、向田さんのドラマを観て、大人の世界を垣間見ていた気がします。

そのころ、一度も結婚をしたことのない向田さんが、何故あんなに見事に夫婦というものが描けるのか不思議だという話が、よく聞かれましたけど。その後、向田さんはエッセイや小説をお書きになり、そのあたりにどんどん磨きがかかり、多くの名作が生まれました。

そう考えてみると、かつてテレビには、もっと大人の鑑賞に耐えうるものが沢山あった気がしますね。

ちょっと話がそれちゃいましたけど・・・

 Otonahakakutatakaeri