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2023年1月12日 (木)

2023年のお正月

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2023年も、明けましておめでとうございます。
今年は、なんだかゆっくりと年が明けたような気がしましたが、それは多分、個人的な印象と思いますけど。
コロナのせいでもありますが、年末年始も、ほとんどどこにも出かけず、ずっとうちでゴロゴロしてましたし、主婦である妻は忙しくしておりましたが、私に手伝えることは限られており、まあ、窓ガラスを拭くことと、うちのおせちの定番の牛肉焼きと卵だし巻きを、焼くくらいでして、大阪で暮らしている息子も帰ってきて、久しぶりに家族4人で寝正月を決め込んでおりましたもんですから、暮れから正月にかけては、ずいぶんのんびりと過ごせたんです。
かつて年末といえば、実家に帰省するのが常でしたから、混み混みの新幹線に家族でのりこんで慌ただしく移動していたもので、それも今や懐かしい思い出です。
それに、12月といえば忘年会、1月といえば新年会と、何かと人が集まったもんですが、コロナ以降、それもずいぶんなくなりました。なんとなく、そういうことも含めて、世の中が少し静かになっているわけで、それもただ悪いことじゃないけど、そもそも機会を見つけて、久方ぶりにお会いしたい人もいますよね。
そんな三ヶ日も過ぎた頃に、広尾に住んでらっしゃる先輩のお宅に、大好きな先輩たちが集まって鰤しゃぶするから来ないかと誘っていただき、そりゃ大喜びで向かったわけです。ご時世でもあり多少人数は抑えめでしたが、それはやはり心躍る集いではあります。
そこで、ルンルンと広尾のお宅に向かったんですが、その日は、例の渋谷の山手線ホームが大工事の日でして、電車が止まっていたんですね。まあそれはわかってたんですが、うちの娘が渋谷から恵比寿くらいなら歩けばいいじゃんと云いましたし、確かにそうだなと思って、ついでに渋谷駅と駅の周りを少し歩いて眺めてみるとですね、ちょっと見ぬ間に、いやずいぶんと変わってしまったなあ渋谷駅と、つくづく思ったんですわ。まあ今さらなんですが、ここしばらく通勤でもあんまり通ってなかったこともあったんですけど、毎日刻々と変化している街なのですね、ここは。
考えてみると、初めてこの街にやってきたのは、私が18歳でしたから、50年前ということになりまして、、えっ! 50年。
確かに思い起こしてみると、今とはずいぶん違った風景です。当時、東京で暮らし始めた頃、一番近くにあった大きな繁華街はこの街でしたから、映画見るのも、何か買い物するのも、安酒飲むのも、パチンコ屋も場外馬券売り場もあったし、何かと言えばウロウロしてたわけで、そもそもほとんどお金も持ってなかったから、ただの暇つぶしも含めて何かといえばここにいることは多かったんですね。どっか遠くの町に行くときにも、この駅が乗り換え基地でしたし、あの頃の渋谷駅の風景は、私の記憶に染み込んでいます。
そこから現在までの50年間、渋谷駅は、刻々と風景も機能も変化してきたわけです。
ただ、最も最近の大きな変貌には、あんまりついていけてなかった気がしたのですね、駅の周辺をひと回りしてみて。
恵比寿まで歩きながら、軽い浦島太郎状態になり、ちょっと眩暈してショック受けましたが、日比谷線に一駅乗って広尾について、この街はあんまり変わってなくて、その後のブリシャブに救われたお正月の一日だったのです。

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2021年6月16日 (水)

一人遊び力

なるべく人に会わずにいること、と云うことは、基本的に一人でいて、間(ま)が持つ能力が問われているということです。
一昨年、こいう事態になった時に、わりと近くに住んでおられる、敬愛するAZ先輩と話していて、
「こうなって来ると、しばらくお会いできないということですかね。」と申した時、先輩は、
「僕はもともと一人っ子だし、昔から一人遊びは得意だから、特に問題ないけど」
と言われました。
そういえば、この方は、いつまで飲んでいてもずっと味わい深く、飽きることのない方ではありますが、逆に一人にしておいても、いつまでも一人で遊んでることができる人でもあります。
精巧なオモチャの銃を組み立てたり、分解したり、ニボシの内臓を取り出したり、自分で作った燃料コンロの炎をじっと見てたり、何か焼いたり、一人用キャンピング軽自動車で地の果てまで出かけたり、ま、いろいろですが、全く一人で飽きるということがありません。
確かにこれは才能ですね。
それでふと思ったのは、自分も一人っ子だし、中学の時に広島に転校してからは、高校まで部活もやらなかったし、あの頃、わりと一人遊びは得意だったなと。何してたわけじゃないけど、放課後は、街をブラついて映画見てることが多かったし、でなければ、自分の原付船で海に出てるか、五右衛門風呂沸かすのが役目だったから、薪割りと火付け番やったり、ラジオ聴いたり本読んだり、タバコ吸ったり、わりと毎日飽きないでいたかなと。
世の中がこういうふうになる前は、なんだかんだ毎日のように、いろんな人と会って飲んだりするのが生業(なりはひ)でもありましたが、今みたいなことになると、そうも云ってられないわけでして、その一人遊びが得意な性分が生かせないかと思ったんですね。で、やってみると、コロナに感染しないように一人でいる時間を組み立てることは、わりとできるもので、そんなに退屈もしないです。
前はやってなくて、最近やるようになったのは、朝起きてからの簡易ヨガと、週に2回くらいの10キロランニング。これは年齢のせいでもあるけど、動かないことで身体が硬くなってることへの対策と、ただ飲んで食ってることで無法状態になっている体重の調整の意味がありますが、これやってみると奥は深いんですね。
それと、このところトライしてるのが、毎晩飲んでいた酒を二日に一回にすることで、これは個人的には画期的なことなんですけど、やってみると意外にできてまして、ほら、酒って誰かと盛り上がるんでつい飲んじゃうんで、一人ではそんなに飲まないでも済むもんだということが最近わかったんですね。うちは奥さんも娘も飲まない人だし。ただ、まる一日飲まない日ができると、その翌日の酒が妙においしいわけで、ついつい二日分飲んじゃったりして、量的にはあんまり意味ない気もします。
そういうこと以外は、まあ、思いついたことをやってるわけでして、何かに追い立てられてるんじゃないんですけど、やることはいろいろあります。このブログに書いてるようなことも多いんですが、基本的に物事をじっくり観察してると、いろんなことを思いついたり、気になったりすることも多くて、そういうことを順番に確認したり、調べたりすることになるんですね。考えてみると、この性分は昔から変わってないところもありますけど。
ただ、会いたい人はいろいろいて、やはり会いたいものでして、そこがしんどいところであります。たまに人に会えることがあると、この上なく嬉しいものです。

いつになったら元の暮らし方に戻れるのかはわかりませんが、それと、全く元通りというのも無理かもしれないけど、なんか時間も気にせず、気心の知れた人と、取り止めのない話を、酒飲みながらできるようになりたいもんです。
ま、それまで、一人遊びが上手になるぶんにはいいんですけど。

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2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

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今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年7月25日 (木)

なんでゴルフをやっているのかという話

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今年の梅雨は、いつになく梅雨らしい梅雨で、長期にわたって各地に雨を降らせてますが、このところ、わりと頻繁に予定されていた私のゴルフ行きは、ことごとく雨雲を避け、一度も雨合羽を着ることもなく、順調に進行しています。ゴルフというのは、その天候も含めた競技であると、硬派なゴルファーはおっしゃいますが、やっぱり、雨や風はなるべく穏やかな方がありがたいわけです、軟派ゴルファーとしては。

ただ、どうして梅雨の最中に、これだけ予定が入っているかというと、自分がなにかと積極的に人を誘っていることと、逆に誘われた時に、基本的によほどのことがなければ、けして断らないという姿勢にあります。

要は、下手だが好きだということなんです。

このゴルフという競技は、全部で何打、打ったかというスコアを競うんですけど、このスコアというのは、すべて自分のせいで出た結果であって、誰かのせいということは全くありません。うまく行かなかったことは、みな自己責任です。そして、だいたいにおいて色々なことは、うまく行かないんですね。ゴルフがかなり上手な人であっても、常にうまく行かないことは多くて、まして下手な人は、一日中そういうおもいをすることになります。

ということで、このゲームは終わったあとに爽やかな気持ちになるということは、あまりありません。だいたいにおいて、苦いおもいでゴルフ場を後にすることが多いのですが、翌週にまた誰かから誘いの連絡があると、1も2もなくスケジュールを開けようとしちゃうのですね、何故か。

この上手くならないゴルフというものと、どうして出会ったかという話なんですが、

たしか30歳くらいの頃、仕事でたまにアメリカに行くことがあって、その当時、わりと長い間行っていることが多くて、その時に、ゴルフの上手い現地のコーディネーターに誘われて、ろくに練習もしないで、いきなりグリフィス天文台の麓にあるパブリックのゴルフ場に行ったことがあったんですね。今考えると、よく行ったと思うんですが、第1打、いきなり続けて空振りしたら、後ろで待ってたアメリカ人に、

「ヘイ、ルック、アット、ボール!」と、野次られる始末で。

でも、考えてみると、相手は止まってるボールなんで、どうにかこうにか1ラウンドやったんですね。いったい何打打ったのかもわからん状態で、でも、ひどい目にあったんだけど、なんか楽しかったんですよ。

それから何度か、アメリカの辺鄙な場所に仕事に行ったんですが、そういうところにはたいてい近くにゴルフ場もあるんですね。いつだったか、カナダの国境あたりまでロケに行ったときに、その時のカメラマンが、今回の撮影は、早朝と夕方の射光でしか撮らないと云いまして、しばらく居たんですけど、昼間はやることがないわけです。ホテルの目の前は広大なゴルフ場なんですけど、シーズンオフなのかそこには鹿しかいないんですね。そうなるとゴルフしかやることないんです。そんなことどもがあって、なんだかゴルフって面白いじゃんみたいなことになっていったんです。

それまでの私はというと、大人がやってるゴルフという文化が大嫌いでして、あくまで印象の問題なんですけど。どっかのBARで酒飲みながら、あんなものは、いい大人も、いい若い者も、けしてやるもんじゃないと言い放っておったもんで、今さら、意外に面白いねとも言えなくなっておりました。

そうは云っても、ちょっと興味が出て来て、テレビで青木功やジャンボ尾崎なんかを見てると、それはそれでけっこう面白いし、それまで、駅のホームでゴルフスイングしてるオヤジとか、心の底からバカにしてたんだけど、なんか少しわかる気もしたりして、誰にも見つからないように、練習場にも行ってみたりしました。

そのことを、会社で仲良しだったヤマちゃん先輩と、同僚のマンちゃんにちょっと話したら、この人たちはすでにゴルフ好きでしたが、それは絶対にゴルフ始めるべきだと勧められまして、日本のゴルフ場にも連れてってもらうようになりました。

この人たちから、やたら筋がいい筋がいいと褒められまして、悪い気はしないからその気になってきたんですけど、まあ、あとで聞いたら、あいつは全くスポーツとは無縁で、やたら深酒するか、文庫本読むくらいしか趣味がないから、せめてゴルフくらいさせようと、二人して何かとおだてるようにしてたそうです。

そんなようなことで始まったゴルフなんですが、その後、あんまりやれなかった時期もあり、きちんと練習を積むということもなく、だらだらと下手なままなんですけど、いわゆるゴルフ歴だけは長く、かろうじて続いている趣味なわけであります。

ただ、時々、なんでゴルフやってるんだろうなとも思うんですね。

朝早く起きて、わりかし遠くまで行かなきゃいけないし、たまにわりとうまく行く日もあるけど、たいていがっかりするし、そうやって何年も同じレベルで、むしろ下手になってるんだけど、なんとか、一つ上のゴルファーになれないだろうかとは、いつも思っていて、わりといろんなこと試してみたり、例えば、誰かに聞いた練習をしてみたり、上手な人に教わったり、新しい道具とかボールを手に入れてみたり、なんかいろいろ本読んでみたりするわけですよ。

でも、見えてくる景色は、あんまり変わらないわけです。

200ヤードのドライバーショットも、数10センチのパッティングも、同じ1打で数えられ、その1打1打に一喜一憂し、出てくるスコアは、いつもほとんど似たようなものなわけです。そしてそのスコアは誰のせいでもなくすべて自分のせいであるところが、ゴルフのゴルフたるところです。

よく、ゴルフというゲームは、人生に似ているという人がいますが、たしかに、

「禍福(かふく)は、糾(あざな)える縄のごとし。」みたいなとこありますよね。

誰が思いついて始めたのか、なんだか無駄に深いところのあるゲームです。

イギリス人が作ったというのも、なんかわかる気がする。

 

2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

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お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2013年10月24日 (木)

ちょっとどうかしてる寿ビデオ

9月28日に、たぶん今年の我社にとっては、もっとも重要と思われるイベントが行われたんですね。何かっていうと、社員同士の結婚式だったんです。小さな会社ですから、誰かが結婚するだけでけっこうな騒ぎになるのだけど、適齢期の男女がたくさんいるわりには、このところ結婚話がなくて、久しぶりの結婚式だったし、加えて社内結婚ということで、否が応でも盛り上がり、もうこのことがわかってからは、ずっとそのこと中心に会社がまわっておりました。

まあそれだけ愛されてる二人なのですが、これがどういう二人かというと、新郎は社歴7年のT田くん、新婦は社歴9年のN田さん、ちょっと姉さん女房ですけど、T田くんは入社した時から美人の先輩のN田さんのことが、ずっと気になってたんだそうです。それで、皆まったく知らなかったんだけど、3年ほど前から二人は密かにお付き合いを始めたんだそうなんですよ、これが。よく3年間もマル秘を守ったものだと感心しましたが、少なくともオジサンたちは全く気がつきませんでした。

そして、9月28日という日取りが決まり、二人は夏ごろから徐々に社内に結婚の報告を始めます。

会社の中では、オジサン達が集まる役員会というのがあって、まずそこで正式な報告がありました。8人ほどの会議で、ほとんどの人がそこで初めて聞いたのですが、皆一様に驚き、その中でも代取で親分格のマンちゃんは、完全にしばらく絶句してます。

マンちゃんは、この新婦のN田さんのことは、同郷で富山ということもあり、気が合うみたいで、新入社員のころから可愛がってたんです。

「いや、それ、認めるわけにはいかないよ、それ。」と申します。

親じゃないんだからそういうこと言う権利ないと思うし、その上、N田さんがこれを機に寿退社するということを聞いた時には、

「それ、N田じゃなくてT田が辞めるわけにはいかないの?」などと、無茶苦茶なことを言ったりする始末です。

ともかく他のメンバーで説得しましたが、この人の場合、リアルに適齢期前の一人娘さんがいらっしゃるわけで、そのことを思うとため息が出ます。

 

さて、ここから当日に向かって怒涛の準備が始まります。本来の仕事のほうもけっこう忙しかったんですが、結婚パーティーの演奏や余興の練習、それと大作寿ビデオの制作など、仕事が終わった時間に、しかも本人たちに気付かれぬようにやるわけですから、

ずっと寝不足、本番の当日には、誰も寝ないで来ております。前にも申しましたが、この会社の人たちは、そういうことには絶対に手を抜かないのですね、まったく。

だいたい、パーティーで流される寿ビデオが2本もあります。連作とかタイプ別とかじゃありません。全く別なものが、まあどちらも渾身の力作です。しかも、全社員が出演します。笑えます。

この忙しい時に、いつの間にこんなものを作っとたのだろうか。感動しますが、あきれもします。

パーティーの後半で流れたビデオは、テーマが「挑戦」ということになってるんですが、どうなんでしょう、二人でこれからの人生に挑戦して下さいってことなんでしょうか。ビデオの中身は、社員たちが次々と自分自身の限界に挑戦していくシーンがつながっていきます。いろいろです、マラソン走ったり、鯛釣ったり、息止めたり、バンジーしたり、なかなか良くできてんですけど、そのラストを飾ったのが、なんと、あのマンちゃんのスカイダイビングだったのですね。・・・圧巻です。

僕の長い友達のマンちゃんが、空飛んでます。生まれて初めて、還暦直前に。

やってくれます。・・・笑った。

その後、会社では、寿退社したN田さんが来なくなり、ちょっとさみしいですが・・

一方、競馬麻雀好きのT田くんのことを、筋金ギャンブラーのマンちゃんは、可愛がりながら指導しています。義理の父と息子のように。

ま、今年一番の良いニュースだったことは確かです。またしてもエネルギー使い切ってますけど。

Skydiving

2013年8月26日 (月)

神宮外苑花火大会

毎年、夏になると8月のどこかで、神宮の花火大会があるのですけど、

これが、うちの会社の屋上から見ると、方角といい、距離といい、ものの見事にベストポジションなんです。

そのことは、約10年前にわかったんですけど、うちの会社が六本木から今の場所へ引っ越す少し前に、仲良しの音楽プロデューサーのWナベさんに、引っ越し先の場所の説明をしたら、Wナベさんが予言者のように、

「その場所は、夏の神宮の花火がすっばらしく見えるところです。」

と言い放ったのですね。ちなみに、その時は真冬だったんですけど。

この人が神宮花火大会に関して、相当詳しいマニアックな情報を持ってらしたことは、間違いないです。で、引っ越して来てみて最初の夏、弊社がほんとに見事な花火見物ポイントであることがわかりました。

そして、それから年々私たちも盛り上がり、評判が評判を呼び、このイベントは人数的にも内容的にもエスカレートしていきました。この数年、来て下さるお客様は300名近くを数えるようになり、けっこう大量に用意をする生ビールも、他酒類も、ソフトドリンクも、毎年テーマを決めて作るツマミ各種も、ものの見事になくなります、イナゴの大群が通り過ぎた後のようにです。仕掛ける側としては、イベントが盛り上がるのは大変うれしいことなのですが、3年ほど前に300人をはるかに超えたことがありまして、その時はちょっとあわてました。そういう時って、不思議と私たちが誰も知らない人が一緒に見物してたりしてるんですけど。

花火は、19:30~20:30で、10000発が打ち上がりますが、その間、街は大混雑でして、みな、その後しばらく飲んで騒いでいかれます。

これは、恒例化している夏の大イベントです。会社としての大きなパーティーは、年に2回ありまして、一つはこの花火大会、一つは年末の忘年パーティーです。

どちらも、それなりの数のお客様が来られますが、その人数が収容できるのは、4階の屋上スペースがあるからなのです。それほど大きな建物ではありませんが、4階は半分が屋上、半分がペントハウスのようになっていて、けっこう大きめのキッチンが内包されています。このスペースがないと、いっぺんにたくさんのお客様を招くことはできないのですね。

なんで、こんなものが会社の中にあるのかというと、会社が神宮前に越してきた頃に話は戻ります。10年前、会社は六本木にあったんですが、長く暮らすうちに、少しずつ人も増えて、だんだん部屋を借り足していたら、6か所くらいに家賃払うことになってて、おまけに六本木は、六本木ヒルズの再開発で、街中取り壊されて、違う街になろうとしてました。そこで思い切って、みんなで一つの建物に入れる物件を探すことになったのです。そこで、不動産担当役員のマンちゃんが探し当てたのがこの物件でした。

実はこの時点でまだ建物は建っておらず、まさにこれから建築というところでしたが、3階建てのビルになる予定で、我々が求めていた面積に対してもちょうどよくて、一軒まるごと借りられればベストだなあということになって行きました。いろいろと賃貸契約の話をしていく中で、大家さんから、どうせなら使いやすいように、間仕切りとかの希望も言ってくださいと言われて、担当の建築家さんを連れてきてくださったんですね。

確かに、どうやって使うかを、あらかじめ自由に決めさせていただくとずいぶん助かります。

で、いろいろ相談してた時に、ふと、

「屋上はどのようになる予定でしょうか?」と聞いてみたんです。

六本木に借りてた事務所のうち、ほんとに小さな一軒家があって、それに6畳くらいの小さな屋上スペースがあって、たまにそこで詰め詰めの宴会すると楽しくて気持ちよかったので、なんか気持ちのいい屋上になったりするといいなと思ったんです。

聞いてみると、予定では、空調の室外機や、電気の変圧器とかが置かれた、普段は使うこともない何の変哲もない場所になるとのことでした。

「それ、たとえばですね、なんか夕方ちょっとビールとか飲んで、気持ちのいいスペースになったりしませんかね。」

まあ、何でも言うだけは言ってみようかと思って、などということを話してみたらですよ、すっごいこの建築家と話が盛り上がってですよ、いつの間にか、屋上は4階と呼び改められ、半分は気持ちのよい板張りの屋根なしスペースと、もう半分は屋根つきのペントハウスで、エレベーターは4階まで上がるという計画に書き換えられたんですね。

「いんですかね。」

「いいです。いいじゃないですか、これでつめていきましょう。」

みたいなことになっちゃいました。

ただ、完成した時、4階分の家賃が新たに追加されたのは当然のことでしたが、それはまあそうですよね。

そこから、4階スペースが今の状態になっていくには、何段階かがあるのですが、初めのころは、わりと普通に会議に使われてたんですね。まずだんだんに、台所の調理能力をものすご強化しました。これは、火力、冷蔵力、調理道具力、食器力、すべてです。そして、4階で料理する時の材料の仕入れは、その都度大変な量になってきました、酒もしかりで、発注の仕方もすでに玄人っぽくなってきています。仕事の流れの中でよくある、親睦の会とか、打ち上げとか、ふつうだとどこかのレストランを借りるようなことがあっても、そういう時は、まず4階で自分たちでやります。屋上の板の床は、使用頻度の多さに耐えかねて、抜けましたので補修もしております。

そして昨年、こうなったら徹底的にと開き直ったわけではないのですが、4階責任者のO桑君の発案のもと、私たちのマインドをすごくわかってくださっている、ある有名なデザイナーの方が、4階大改装をやってくださいました。4階すべての、壁、床、天井、照明、机、テーブル、家具、キッチンなどを、本当にただただ居心地よく楽しくなる形にしてくださり、おまけに、屋上部分には、これも嬉しい炭焼きコンロ台と、いっぺんに大量のベーコンを作ることのできる大型燻製窯を設置してくださいました。

もういつでも完璧に私たちの宴会ができる風景になっています。

どちらかというと、もうここであまりシビアな打ち合わせはできないかなとも思いますけど。

えらく大好評だし、まあいいかなと。

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2012年12月19日 (水)

ハトヤホテル社員旅行

3年ほど前に、社員旅行キャンプというのをやって、それ以来、社員旅行というものをしてなかったんですが、そろそろやろうかという話になり。

行ってきました3年ぶりの社員旅行。キャンプが2回続いていたので、ふつうに旅館に泊まる社員旅行は、実に6年ぶりで、今回が初めてという若い社員もけっこうおります。どうしてこんなに長く社員旅行ができなかったかというと、忙しかったこともあるんですが、だんだんに社員の数が増えたことによって、全員のスケジュール調整が難しくなり、何とか全員参加でやろうとするたびに、延期を繰り返してきたからでした。

そこで、今回は全員参加できなくても決行すること。遅れても後から参加できる関東近郊で、2泊の温泉旅行とすることにしました。

で、どうせならみんなで浴衣着て、昭和の典型的な、お座敷宴会社員旅行にしようということになったのです。

そこで幹事団が選んだ場所が、伊東温泉ハトヤホテルでした。うーん確かにコンセプトには、合っています。そして宴会の企画は、紅白歌合戦です。うーん確かにこれ以上ないベタな企画です。

でもこれが、盛り上がったんですねえ。長く行われなかった社員旅行というものに、皆飢えていたのでしょうか。仕事が忙しい中、歌の練習も振り付けも完璧です。こういうことになると、絶対手を抜かないんですね、この会社の人たち。

唄以外にも様々な芸が繰り出され、旅館の仲居さんたちにも大うけで、その勢いのままハトヤカラオケバーに移動して、歌と踊りが続きました。そのお店が閉店になった後は、部屋に戻って飲み、ギターで唄い、そこが落ち着くと、タクシーで夜の街のラーメン屋に向かう一団となり、少しずつ人数は減りますが、主力は朝までコースです。

Hatoyaなんというか、あきれるばかりのエネルギー。翌朝早めに出発したので、朝の各部屋をのぞきましたが、大半が死んだように寝ております。おおよそ慰労とか慰安とは、ほど遠い社員旅行と相成りました。

考えてみれば、自分が若かったころの昭和の社員旅行というのは、だいたいこういうパターンでしたが、最近こういった風景は、あまり見かけなくなりました。多分若い人にとってはけっこう新鮮で、たいていの人は初体験だったんではないでしょうか。

それに、このハトヤホテルというところが、昭和という時代のテーマパークのようなところなんですね。とにかく何でもサイズがデカくて、ロビーも宴会場も食堂も風呂場も脱衣場も卓球場もカラオケバーも廊下も客室も、子供が全力で走れる広さです。

おそらく昭和の高度成長のころ作られ、たくさんの社員旅行がここで行われ、そしてたくさんの家族がここを訪れたんだと思いました。そういえば、あの頃テレビでは、ふつうにハトヤホテルのTVCMが流れていて、コマソン今でも覚えてますものね。

♪伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よい風呂)♪

(野坂昭如 作詞 いずみたく作曲)

いや、今もご健在で何よりでした。

チェックアウトしてホテルを出ようとしたら、担当ホテルマンの方と、女性の事務員の方が駆け寄ってこられまして、この女性社員の方は、昨夜の宴会で仲居さんをしてくださり、うちの社員のしょうもない芸を見て転がって笑ってくださってたのですが、

「この度は、誠にありがとうございました。来年も是非皆様でお越しください。」

と、これ以上なくご丁寧なあいさつをいただき、ややたじろぎましたが、

みんなで、浴衣着て、温泉入って、宴会やって、こういうコミュニケーションもたまにはいいもんでありました。エネルギー使い切りますけど。

 

 

 

2012年9月 5日 (水)

オモダカヤッ!

市川亀治郎という歌舞伎役者を、はじめて見たのは、いつ頃だったか。まだ声変りもしていない子供だったし、この人は生まれが1975年なので、1980年代の前半だった気がします。

そのころ、マイブームというか、仕事仲間のNヤマユキオ、Nヤマサチコ夫妻や、先輩のY田さんたちといっしょに、市川猿之助の大ファンとなり、たしかNヤマサチコさんは「澤瀉会」(おもだかかい)にはいって、皆のチケットを取ってくれてた気がしますが、ともかく市川猿之助の歌舞伎公演は全部観ておりました。

いや、本当に面白かったのですよ。猿之助という人は、役者として、比べようもなくすばらしいのだけど、演出家としてもすぐれた人で、明治以後、疎まれた外連(けれん)を復活させたり、外連とは早替わりや宙乗りのことを云うのですが、他に古典劇を復活したり再創造したり、いわゆる当時の由緒正しい歌舞伎の世界では、ニューウェーブというか、アバンギャルドで、私達は大いに支持してたわけです。

昔ながらの歌舞伎という文化に触れながら、この経験は、相当に楽しかったんですね。

その猿之助さんの弟が市川段四郎さんで、いつも重要な脇役をおやりになっていて、その息子さんが市川亀治郎なんです。子役の時からとても上手で、人気者でしたが、成長するに従ってどんどんうまくなるんですね。私達はそれが嬉しくて、彼のことを親しみをこめて、カメ、カメと呼び、当時30代だった私達は、

「カメの成長を、老後の楽しみにしよう。」などと話し合っておりました。

それから何年もの間、私達の猿之助熱は冷めず、追っかけは続くのですが、1986年には、彼の大事業となるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が発表され、この人のスケールの大きさにまた驚かされます。このあと結婚したばかりの私の妻も猿之助ツアーに加わり、古典もスーパー歌舞伎も逃さず観劇する勢いで、1993年の「八犬伝」くらいまでは観たと思いますが、その後少しずつ縁遠くなってゆきます。

ある意味、猿之助の役者としてのピークを見届け、少年から大人になってゆく亀治郎を見届け、私達の澤瀉屋歌舞伎三昧は、一段落します。

そのあと、2000年頃ご縁があって、猿之助さんと幼いころに離別された息子の香川照之さんと仕事をご一緒したことがあって、頭のいい人だなあと思って感慨深かったり、最近になって、大人になった亀治郎さんをテレビで見たりして、やっぱり澤瀉屋の顔だなあと感心したりしていました。

そして今年、あの亀治郎が、四代目市川猿之助を襲名するというニュース。そして、香川照之さんが、九代目市川中車を、香川さんの息子さんが五代目市川團子を襲名、6月7月に披露公演があるということ。

そうかあ、そういうことになったら、久しぶりに猿之助歌舞伎観たいなあ、と思っておりましたところ、うちの奥さんがインターネットで、7月の「ヤマトタケル」の桟敷席をゲットしてくれました。桟敷席かあ、懐かしいなあ、昔よく分不相応な桟敷席で酔っぱらいながら観劇したなあ、などと感激しておりました。

さて、四代目市川猿之助と九代目市川中車の口上にはじまり、私としては26年ぶりの「ヤマトタケル」のはじまり、はじまり。

Ennosuke
いや、驚きました。

舞台に現れたヤマトタケルの姿は、先代の市川猿之助がよみがえったかのごとくでした。

そうなんです、身体つき、身のこなし、声、顔形、完全に私の記憶の中にいるあの26年前の、市川猿之助です。ちょっと怖いほどなんです。

澤瀉屋という血のなせることなのでしょうが、一つの名跡を一族で守る梨園という社会だから起こることです。亀治郎という役者は、少年の時からずっと、この猿之助という役者を凝視して育ったんですね。そう思いました。

「ヤマトタケル」の原作者である梅原猛さんは、1986年の初演の時、一人の少年が楽屋の廊下で竹刀を振ってヤマトタケルの真似をしていたのを覚えています。少年が誰だったかは云うまでもありません。

今更ながら気づいたんですが、歌舞伎のファンには、こういったDNA的とでも云う楽しみ方があるんですね。歌舞伎の世界がどうして世襲制なのかよくわかりました。

「いやあ、先代と生き写し。」などと云って、しびれるわけです。

そこには、一方で、その名跡に足りているかどうかの、厳しい客の評価もあるのでしょうけど。

そういう意味では、四代目市川猿之助襲名は、多くの猿之助ファンをしびれさせました。私もなんだかとても嬉しかった。

そしてもう一つ、澤瀉屋ファンを絶叫させたのが、第三幕、子役の團子がワカタケルに扮して登場するシーンです。もちろん市川團子は、香川照之さんのご子息で、先代猿之助さんの直系のお孫さん、まあ一族のプリンスなのですが、この時の客席からの掛け声がすごかった。

「よお、オモダカヤ!」「オモダカヤ!!」「オモダカヤ!!!」

これはもう、一夜の夢などではなく、はっきりと見え始めた澤瀉屋の未来なのです。

 昔、「成長した亀次郎を、老後の楽しみにしようね。」と語ったことが、

正直、その通りになってきました。そして、その先の未来もたのしみです。

長生きしなくちゃだわ。

 

 

 

2011年10月 7日 (金)

ipadでみる「仁義なき戦い」

夏にあったゴルフコンペで、珍しいことに準優勝して、賞品でipad2が当たりまして、どうしたものかと思いながら、どうにか使い始めてみたんですね。いまだにこのipadの機能の100分の1も使ってないと思いますけど。

そして、ある時これで映画が観れることがわかったんですね。iTunes Storeにラインナップされてる映画なら、1回レンタル200円くらいで1本48時間は見放題ということで、

ipad持ち歩きながら、好きな時に好きなだけ観れるというのも魅力で、何か観てみようと思い、前から観なおそうと思っていた「仁義なき戦いシリーズ」を観はじめてみたんです。

これがなかなか新しい映画体験で、画はけっこうきれいだし、自分の顔の前に置いたり、持ったりしながら観れるので、けっこう迫力あるし、音はイヤホンだから、飛行機で映画観ているような状態で、ほんとに観たい時に観たいだけ堪能できるのです。そして、この「仁義なき戦いシリーズ」がまた、よくできています。

封切りは確か1973年。大ヒットしてすぐにシリーズ化され、その年のうちに、「広島死闘篇」「代理戦争」が続いて作られ、翌年に「頂上作戦」と「完結篇」まで作られ、短期間に5本全シリーズが上映されました。考えてみると、この頃はものすごいスピードで映画って作られてたんですね。

ただ、この頃、すでに映画産業の斜陽化は進んでいて、1971年には、日活はロマンポルノに切り替えたりと、各社苦戦を強いられていたと思います。東映もかつて人気だった任侠路線がかげりをみせ、新しい企画に悩んでいた時、このシリーズは観客を劇場に呼び戻しました。これをきっかけに、東映はいわゆる実録路線をスタートさせ、実際の暴力団の抗争事件を台本化していきます。仁義なき戦いシリーズは、ある広島やくざの親分が、刑務所の中で書いた手記がきっかけになっており、それを基に脚本家が実際に起きた事件を調べ上げて、相当しっかりとしたシナリオに仕上げているので、広島抗争史として誠にリアルな映画となっております。

実際、「完結篇」で描かれた第三次広島抗争の頃、私は広島市内の中学生でしたが、通学路が繁華街だったため、広島県警が、前夜に起きた抗争事件の現場検証をしているのを何度も見ました。パチンコ屋のガラス扉が粉々になっていたり、壁に弾がめり込んでたりいろいろですが、一般市民に流れ弾が当たったこともあり、絶対に夜の繁華街を歩かぬように云われていたと思います。

ある日うちに帰ったら、叔父さんが来ていて、喪服を着ていたので、

「お葬式?」と聞くと、Odoryaa

「おお、いま帰りじゃ。」

「誰が亡くなったん?」

「友達じゃ。」

「へえ、病気ねえ?」

「いいやあ、撃たれたんじゃあ、組のもんじゃったけえ。」

「えっ・・・・」

みたいな会話が、一般市民の普通の会話としてあったりします。

私の高校時代の友達で、街の中心部の酒屋の息子のK村君には、小さい時からいつもキャッチボールをしてくれた、隣の家のオジサンが、入浴中に拳銃で撃たれて亡くなった悲しい思い出があったり。

私が広島の中学に転校してきたその日に、私にけんかを売ってきたK君のお兄さんは、3学期になったころに、抗争で亡くなりました。

そんな背景もあり、普通の人より私の場合、臨場感強いかもしれませんけど、ともかく、映画はよくできております。

当時、40歳過ぎだった深作欣二監督は、まだヒット作はなかったけど、才能にあふれ、絶対にこの映画を当ててやろうとギラギラしていたし、シナリオも斬新、カメラワークも実験的でした。そして何より、当時は映画俳優という職業の人達が、大部屋も含めて非常に層が厚かったです。みなさん、スクリーンの中で、実在した人物を喜々として演じています。

主役の菅原文太さんはもとより、千葉真一さん、北大路欣也さん、松方弘樹さん、山城新伍さん、田中邦衛さん、梅宮辰夫さん、室田日出男さん、川谷拓三さん、成田三樹夫さん、渡瀬恒彦さん、加藤武さん、小林旭さん、そしてこの人も全シリーズに登場する重要な悪役・金子信雄さん等々。本当にいきいきと実録の人物が描かれております。また、広島弁がよく調べて研究されており、セリフに独特な世界観があります。 

金子さんの役を、一時、三国連太郎さんで考えられていたり、主役の菅原さんの役は、当初東映初主演の、渡哲也さんで進んでいたこともあり。また、あまりに題材が危ないので、1作で打ち切ろうという話になったり、いろいろな試行錯誤がありながら、公開された映画は空前のヒットとなり、全5篇のシリーズは完成します。

「仁義なき戦い」は、クエンティン・タランティーノや、ジョン・ウーはじめ、日本の多くの映画監督にも大きな影響を与えました。2009年に実施した「キネマ旬報」の日本映画史上ベストテンという企画では、、歴代第5位に選ばれています。

私が広島から上京した1973年から始まったこのシリーズは、5本とも宮益坂の下の渋谷東映で観たと思います。それ以来、今回ipadの画面で一気に鑑賞しましたけど、十分に当時の興奮をよみがえらせることができました。

この映画のスタッフや俳優さんたちが、短期間にものすごい集中力と情熱で作った作品だということも改めてよく伝わってきました。

いまは、おじいさんになられたり、すでに鬼籍に入られた映画俳優の方々、とにかく皆、脂が乗り切ってメチャメチャかっこえかったです。広島弁、あんまり上手じゃない方もおられましたけど、ご愛嬌ですかね。

 

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2011年8月 3日 (水)

Facebookのお誕生日

7月28日が、私誕生日なんですね。でも年齢も年齢だし、この何年も、特にこれといった何事もなく、近所に住んでる3歳違いの従妹の誕生日が1日違いなので、久しぶりにメールのやり取りするくらいで、ただ淡々と過ぎて行くんです。たいてい。

ちなみに、7月27日は、この従妹の旦那とその友達とでゴルフに行ったので、会社休んだんです。

で、その旦那と別れ際に、

「あ、奥さんに、誕生日おめでとうと言っといてね。」

とかいって、うちに帰って早くに寝ました。

次の朝、会社に来てみると、休み明けはいつものことなのだけど、メールがたくさん来ていて、この日はやけにfacebookからのメッセージが多く、これがみんな、お誕生日おめでとうという趣旨のものなんですね。

そおか、facebookの時代ってこういうことなのか。「ソーシャル・ネットワーク」っていう映画も観て面白かったし、いろんなところで、facebook話もいろいろ聞いたけど、実際どういうことになるのかは、あんまりわかってなかったんです。

 

2月頃だったか、一人の友達からfacebookへの招待が来たんですね。

「下河原さんからFacebookへの招待が届きました。Facebookに登録して、友達の近況や写真をチェックしたり、自分の最新ニュースを友達に知らせましょう。」

という文面でした。下河原さんも私も、その後それほど積極的に参加しているとは言い難いんですけど。

それから、徐々にさまざまな友人や知りあいから、

「○○さんから、Facebookの友達リクエストが届いています。」

というお知らせが来るようになりました。当然よく存じ上げている方が多く、中には存じ上げない方もいますが、たいていの場合は、友達リクエストやぶさかではないので、承認するわけです。そうこうしているうちに、私のfacebook友達は、現在72人ということになっております。

 

そんなことで、お祝いのメッセージをたくさんの方から頂戴し、ほうっておくのは失礼かとも思い、少しあわてもしたので、お昼前にお礼のメッセージを、私の方から出したんです、facebookに。そしたら午後からもいろんな方から、おめでとうメッセージが届き始めたんです。迂闊でした。私が大々的にお礼を云ったばかりに、それが催促になってしまったんだと思います。

要するに、私、この機能をよくわかってないし、使いこなせてないんですね。だいたい個人データの生年月日のところだって、月日だけ書いとけばよかったのに年まで入れるから、みんなに実年齢バレバレになっちゃってるし、男だからいいようなものの。

結局、7月28日が終わりに近づいた23:33までメッセージいただきました。スミマセン。

 

でも何だか、嬉しかったですね。

結果的には、何十人もの人からお祝いされたわけです。

子供のころから、7月28日って夏休みが始まったあたりで、学校の友達には会えないし、暑いし、あんまり誕生日ってやったことがなかったんです。1回だけ近所の子供集めてやったことがあったんですけど、誰かが持ってきてくれたおもちゃのボクシンググローブで、本気の殴り合いになって、友達が鼻血出して倒れちゃった記憶が強烈で、誕生日っていうとそのことばかり思い出したりしてましたから。だから、こんなにたくさんの人からいっせいにおめでとうと言われたのは初めての経験だと思うんですね。Facebookが知らせてくれたおかげであります。

今年、6月に誕生日を迎える友達のリストがfacebookから届いた時に、長く会ってない元仕事仲間の女性がいたので、懐かしい人集めて飲み会やったんですね。思ったとおり盛り上がりました。その時に、7月には私とそこにいたもう一人の友達が該当することがわかり、来月もやろうということになります。7月も7,8人集まって飲みました。また盛り上がります。そうすると不思議なもので、8月生まれの人がそこにいるのですね。そこで、そういえばあの人も8月だよね、そうだそうだということになります。これは確実に来月もやりますよ。

なんだかこの勢いでしばらく続きそうです、お誕生会。

 

友達の近況を知るのも、自分の最新ニュースを友達に知らせるのも、確かに楽しいです。誕生日を知らせるのはその最たる機能でしょう。何十年も音信が途絶えていた友人から、突然連絡があったのも嬉しかったです。これも、この仕組ならではのことです。

でも、先程も申しましたように、私的にはあんまり積極的に参加しているとはいえない状況です。Facebookを覗くと、実にいろいろな方からの、楽しい経験談や、新しいニュース、おもしろい写真などが溢れているのですが、どうも私には、こういう気のきいた情報を、サッサッと手早く送る才能がなさそうですし、だいたい身の回りのそういう出来事に気付く能力も低そうです。当分は、みなさんが発信した情報を受け手として楽しませていただくことになりそうです。

ただ、この機能のおかげで始まった「お誕生会」で、先頭きってはしゃいでいるのは私なんですけど。

やっぱり、人間がアナログなんでしょうか。

Happy birthday   

2007年8月29日 (水)

ホールインワンという事故

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降ってわいた事故。まさにそういう出来事なんです。

ホールインワン保険というのもあるくらいですから。

ゴルフをやらない人でもホールインワンという言葉は知ってると思うのですが、いわゆる第1打を打ったらそのままカップに入っちゃうあれです。

その日、午後からの2ホール目、177ヤードのショートホール。最近中古クラブ屋で買った9番ウッドで打ったボールは、珍しくピンに向かってまっすぐ飛んで行きました。正しくは、少し左方向に打ち出したのですが、その時、左からのアゲンストの風がけっこう強く吹いていて、結果的にピンのすぐ横に落ちたのです。2バウンドほどしたでしょうか、次の瞬間、そこにいた5人は全員飛び跳ねていました。

Swing_9 何が起こったのか。そうなんです。ボールが162m先の直径10.8cmの穴に入ってしまったのです。テレビでは見たことがあります。でもナマで見たのは初めてでした。

本当に珍しいことが起きたのですが、その事が私に起きてしまったということは、大変な確率の出来事といわざるを得ません。

私が、技術的にどの程度のゴルファーかという話からせねばなりません。

たとえば、昨年の一年間で、私は14ラウンドゴルフをプレーしておりますが、平均ストロークは106.9打、平均パット数は37.1打、ショートホールは平均4.48打たたいています。

数えてみましたら、56回ショートホールに挑んだうち、1オンしたのは10回だけでした。

つまり、この人の場合、1ラウンドするうちに、ショートホールで1オンする確率は、せいぜい1回にも満たないということです。この人が今年6度目のラウンドでやってしまったわけです。

数字的な確率に、技術的な可能性を加味すると、けっこう大変なことだとよくわかります。

たとえて言うと、街を歩いていて、たまたま気が向いて、サマージャンボを1組買ったら、当たってしまったみたいな。

お話はこれで終わりではありません。しばらくの大騒ぎのあと、グリーンに行ってカップに入ったボールを確認すると、私の尊敬する大先輩でシングルプレイヤーの亀田さんが、

「キャディさんに御礼をして、ゴルフ場から証明書をもらわなきゃね。」

と、静かにおっしゃいました。

「あっ、そうなんですか。」

また、

「それと、向井君はホールインワン保険には入ってるの?」

と、にこやかにお尋ねになりました。

「あっ、どうだっけ。あれ、どうだっけ。」

完全に舞い上がっております。

この日のゴルフは、20人のコンペでした。プレイ終了後、居酒屋での大宴会。優勝したわけでもないのに、主役は私でした。夜に入っていた仕事もお願いしてキャンセルしてしまいまして、遅くまで飲み明かしました。しょうがない奴ですよね。

さて、ホールインワン保険のことです。

この国には、ホールインワンをすると、そのプレーの同伴者、コンペの場合は、コンペ参加者、他、ゴルフに関して日頃お世話になっている人達へ、御礼をする習慣があるのです。欧米ではどうなのでしょうか。聞いたことないのですが。

つまりそのための保険です。

私の場合なんですが、保険にはいってたんですね、これが。本人がよく覚えてないくらいだったのですが、ゴルフ中のケガなどの事故に備えて入っていた保険に、たまたま、ほんの少しだけホールインワンの補償がついていたのです。たぶんホールインワン保険と呼ばれるものの中では、最も低い補償額と思われるのですが。

本当にゴルフが上手で、いつこの事故にあっても不思議のない方は、もっと大きな額の保険に入っているそうです。その保険で、ホールインワン記念コンペというのを自ら主催する方もいらっしゃるそうです。当然すべて奢りです。すごいのになると、それをハワイでやってしまった人がいるそうです。いったい、いくらの保険なんだろうか。掛金も高いんだろうな。でも、そういう人の場合、やってしまったときは本当にうれしいのだろうな。こうなるとギャンブルですねこれは。

私の保険の額では、コンペに参加した皆さんの住所を調べて、つまらぬ記念品を贈らせていただき、仲の良い人に記念ボールを配ったところで終わってしまいました。

意外と大変なんですね、ホールインワンて。

何故私なのかなと、今でも思いますけど。

でも、なんとなくうれしい災難ではありましたね、ちょっと。

2007年7月 3日 (火)

野球のこと

3年前の春、プロ野球が開幕して初めて行われる巨人×阪神戦のときのことです。

幸いにも東京ドームの観戦チケットを2枚頂いたので、当時小学一年生だった息子を連れていきました。

そのころ息子は、野球のルールも巨人も阪神も知りません。

私の場合、小学生のころ江夏豊というピッチャーを知ってからずっと阪神ファンです。

はい。

息子が野球に興味を持って、阪神ファンになるといいな。などと淡い期待を抱いて水道橋に向かったのでした。

3年前の阪神は弱かったです。

その試合で覚えているのは、

3塁側内野席から見て真正面に芥子粒のように消えていった松井秀喜のホームランだけでした。

すごかったです。ほんとに。息子はしばらく固まってました。

結構長時間の試合でしたが、息子はきっちりと最後まで見とどけ、翌日からは毎日、新聞のスポーツ欄を見る子供になりました。

そして、バリバリの巨人ファンになってしまったのです。

失敗でした。

それからまもなくして、どちらからともなく近所の公園でキャッチボールをするようになりました。

そのうち野球友達もでき、その友達に誘われて息子は近所の少年野球チームに入りました。

土日祭日に練習をしたり、試合をしたりします。私もいけるときには手伝いに行きます。

面白いです。

子供は成長する生き物です。日に日に背も伸びるし、力も強くなります。

出来なかったこともだんだん出来るようになり、練習しただけどんどんうまくなります。

強い相手にコテンパンにされて泣くこともありますが、帰り道にはみんなケロッとしてます。

気がつくと土日のスケジュールは最優先でそこにいる自分がいます。

相変わらず巨人×阪神戦の日には親子でいがみ合っていますが、

3年前に野球を見に行ったことは、私たちにとって少しいいことだったように思えます。

そんな自分の環境からして、野球人気が下降気味だとか、

プロ野球の球団が合併して1リーグになるんだとか言われても、どうも実感がわきません。

野球の魅力や面白さは、昔と何もかわっていません。

いつかの松井秀喜のような打球を飛ばせる選手がこれからもどんどん出てきてほしいし、

それに影響されてたくさんの子供がグランドを駆け回ってほしいなとただただ思ってます。

2004/7

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