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2023年10月18日 (水)

「PERFECT DAYS」という映画

まあ、昔から映画が好きで、常になんやかやといろんな映画を観てるんですが、コロナもあってこのところ本数は減っております。ただ根が好きなもんでわりと観てはいるんですけど、見渡してると、映画界には国内も国外も新しい才能が次々出てくるし、技術の進歩も目覚ましく、映画館へ行けば常に新しい何かを見せてくれます。
ただ、古今東西の多くの映画を観てきて、その表現のさまざまな手の内も知っていたり、そもそもこっちも歳をとってきて、感受性が鈍くなってきていることもあり、最近、その作品そのものが、深くこちらの内側に入ってくることがあんまりなくてですね。ただ読後感として、面白かったとか、いい映画だったとかいうことはあるんだけど、なんだか若い時の、観た後に忘れられない映画みたいな経験は、このところなかったんですね。

それで、この春に観た映画の話なんですけど、「PERFECT DAYS」という映画でありまして、なんだか久しぶりに響いたんですね。
東京で公共トイレの清掃員をしている、ある物静かな男の日常を、カメラはただ見ているのですが、映画はその仕事ぶり、暮らしぶりをドキュメントのように淡々と描きます。ただ、観客としての自分は、なぜかそこから目を離すことができません。気がつくと自分は、主人公の平山という男のすぐ隣にずっといて、ゆっくりその世界に引き込まれて行きます。
男は下町の安アパートに一人で暮らし、暗いうちに起きて、清掃の仕事の装備をした自分の車で都心へと向かいます。トイレ掃除が終わると、下町に戻り、銭湯に入って、立ち飲みで一杯、アパートに帰って静かに本を読む暮らしです。一人の部屋には、大量の本とカセットテープが整然と並んでいるのです。
そこからはラストに向かって少しずつ、まわりの人とのかかわりの中、映画としての様相を呈していきます。そして、この映画全体に、木漏れ日の映像が大切な役割を果たしており、音的には、車の中にカセットテープで流れる60年代〜70年代のロックが重要な脇役になっています。ある意味、音楽映画とも言えるくらいに。
この映画は12月に公開される予定で、東京国際映画祭のオープニングを飾ることになっていて、すでに世界中から高い評価を受けています。

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どうして、こんなに魅力的な映画が出来上がったのか。それはいろいろあるんですが、やはり、監督・脚本のヴィム・ヴェンダース氏によるところ大ではあります。
1984年「パリ、テキサス」
1987年「ベルリン・天使の詩」
1999年「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
2011年「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」等
現代映画における最も重要な一人とされるドイツの名匠。
これらの作品は映画ファンであれば誰もが観ていると思います。
ヴェンダース氏は、この物語の中に住む平山という清掃員を紡ぎ出しました。この映画にとって最も重要な存在。そのキャストは彼がずっとリスペクトしてやまない俳優、役所広司です。
映画を観て、このキャスティングなしに、この作品はあり得ないと思えます。カンヌ国際映画祭で、最優秀主演男優賞を受賞したのも、納得できます。まったく、この国が世界に誇れる俳優といえます。
それと、ヴィム・ヴェンダースという映像作家が、長い歴史の中で、ずっと日本を、東京を注視し続けていることは、この映画が生まれる背景として非常に重要なことであります。よく知られていることですが、彼は映画監督の小津安二郎を大変敬愛していて、1985年に小津映画の中にある失われたユートピアを求めて東京を彷徨い、「東京画」というドキュメント映画の名作を作っていますが、これも今回の映画につながる何かを感じずにはおれません。
映画を観終わった時に、すごく揺さぶられたのだけど、今までに観た映画には全く感じなかった、何か別な新しいものに出会った気がしたのは確かで、この作家にはいつもそういうところがあるのですが。今回、共同脚本とプロデュースを担当したクリエーターの高崎さんが云われてたんですけど、シナリオ作りの途中で、この映画のテーマは何かとヴェンダースさんに聞いたとき、監督は、それが言えるなら映画をつくる必要はないよと、微笑んだそうです。
なんだかモノをつくる時の姿勢というのでしょうか、深い仕事ですよね。
 
この度ちょっと自慢したかったことが、この素晴らしい映画の製作プロダクションを私共の _spoon.inc が担当したことでして、いえ、私は全く何もしていないのですが、うちの会社の頼りになる後継者たちが、プロデューサーとして、若いスタッフとして、みっちりお手伝いさせていただいたんですね。映画界の世界的な巨匠、スタッフ、キャストたちと、この仕事を達成させることは、これから大変な勲章となると思います。
しかしながら、実際の制作・撮影の現場は、無茶苦茶えらいことだったと聞きました。監督は、ドイツが誇るインテリでアーティストで優れた教養の持ち主なのに、常に謙虚で誰からも尊敬される本物の紳士なのですが、撮影が始まると、ただの我儘なじいさんだと、皆が親しみを込めて言っています。そうじゃなきゃあんな映画は撮れないとも思いますが。

これは映画とは関係のない話ですが、ヴェンダースさんのチャーミングなエピソードをひとつ。
そもそも、ヴィム・ヴェンダースさんとは、カメラマンでもある彼と彼の奥様が日本で写真展をおやりになった時に、その写真展のセッティングを弊社でやらせていただいたことがあったんですが、2006年に表参道ヒルズの開業にあわせてのイベントでしたから随分前ではあります。それから何年かして、夏にご夫妻が来日されたことがあって、ちょうど神宮の花火大会の頃で、うちの会社からよく見えるもんで、是非どうぞとご招待したんです。この時200人くらいはお客さんが来ていたと思いますが、私、屋台じゃないですけど、鉄板で広島風お好み焼きを焼いておりまして、多分70枚くらいは焼いたと思うんですけど、そしたら、そこに長蛇の列ができちゃって人が溢れてたんですよ。そうすると、列の一番後ろに、背の高い長髪の紳士が、ちゃんと紙皿と割り箸持って並んでるんですね、世界のヴィム・ヴェンダースが。で、まわりの奴らもまさかそんな大変な人がいるとは思ってないから、まあ、ほったらかしにされてるんですね。本人もなんだかニコニコして機嫌良さそうなんですけど。で、私あわてまして、
「ヴェンダースさーん、あなたはスペシャルゲストだから、一番前に、ここにきてくださーい。」
て、よくわからない英語で叫んだんですね。
そしたら、ニコニコしながら、まわりの人にスイマセン、スイマセンと言いながらやって来まして、私が焼いたお好み焼きをオイシイ、オイシイと言って食べてくださいまして、、
昔から憧れて大ファンだった映画監督に、私の焼いたお好み焼きを食べてもらったという、ただの自慢話ですけど。

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2022年9月 4日 (日)

アナログとデジタルと照明の佐野さん

この前、Facebookを見ていたら、知り合いの音楽プロデューサーが、昔のアナログの音楽録音のことを書いていて、実は音質的にはかなりアナログの音が良かったという話で、読んでいて、たしかにそうだったなあと思ったんですね。この人は私よりちょっと年下なんですけど、同じ時代にTV-CMを作る仕事をしてきて、ずっと尊敬してるワタナベさんというプロデューサーです。
我々が仕事を始めた頃、1970年代の終わりから80年代にかけては、まさに音も映像もアナログからデジタルへ移行し始めた時期でした。大雑把にいうとレコードはCDに、ビデオテープはハードディスクにみたいな事でして、結果的に今は完全にデジタルの時代になっており、その事で、かつてアナログではできなかったたくさんの事が実現でき、聞けなかった音や見れなかった映像を体験できることになりました。たとえばコンピュータが作った音があったり、CGで作られたキャラクターが、私たちが暮らす実景の中に存在できたり、いろいろなんです。その延長線上に、ネット上のさまざまのコンテンツを選び出して体感できる現在の視聴環境があるんですね。
かなり大雑把な説明になってますが、すいません。
ともかく、デジタルという技術革新がなければ、現在の便利さも感動も享受できてないんだけど、アナログの時代に仕事を覚え始めた人としては、その方式で作られた音や画の、何とも云えぬ質感や味は、忘れ難いものがあるんですね。
あの頃、楽器も肉声も含め、すべての音素材は6m/mの磁気テープに記録され、そのそれぞれの音質やバランスを整音しながら最終のダビングという作業を経て、やはり1本の6m/mテープに完成されました。レコード録音から始まったこのアナログ方式は、長い時間の中で様々な機材を進化させながら、試行錯誤を繰り返し、歴史を作ってきたんです。
私がこの業界に入った頃には、どこの録音スタジオにもそういった筋金入りのミキサーの方たちがたくさんいらしたんです。それは今だってデジタル機材を使いこなす優れた技術者の方がたくさんいらっしゃいますが、このアナログで作った頃の音を、時々思い起こして欲しいなと、そのワタナベプロデューサーは云っておられたんでして、私もそう思ったんですね。
映像の方はと云えば、その頃そもそもフィルムで撮影して現像液につけてたわけですからアナログ中のアナログです。CMは、35m/mのFilmで撮影して、それにスーパーインポーズで文字や画を合成して、最終的には16m/mのFilmでテレビ局に納品して放送されてたので、デジタルのかけらもなかったわけです。
今では撮影された映像はデジタルの信号としてハードディスクに収録され、編集室でコンピュータに取込まれて加工されて完成しますから、初めから終わりまで、全て映像記録はデジタルなのですね。ただ、Filmからデジタル映像へ移行する過程では、なかなかFilmの質感や色や奥行きが出ないと言われていたんです。その後デジタルも4K、8Kと容量も上がって行く中で技術も進化して、Filmが長い時間をかけて築いた領域に近づいて来たとも云えます。
しかし、思えばFilm撮影の現場というのは、本当にアナログな職場でして、35m/mのバカ重いキャメラをかついで設置し、移動車に載せクレーンに載せ、美術の大道具、小道具に、衣装に、メイクと、世界を作って、そこに光をあててキャメラのモーターを回すのですが、そこには、それこそ筋金入りのアナログ職人の親方たちがたくさんいらっしゃったわけです。思い起こせば、皆さん本当にハイレベルな技術をお持ちの、実に個性的な方々でしたが、その中でも、長きにわたり大変お世話になった恩人に、照明の佐野さんがいらっしゃいます。
佐野さんは、「影武者」以後の黒澤作品のすべての照明を担当されるなど、60年の照明歴を持ち、照明の神様などとも云われてますけど、そういった偉ぶったところの全くない人です。現場ではいつも普通にさばけた感じでいらして、付かず離れずいる数名の佐野組の助手さんたちに指示を出し、彼らは実にキビキビと無駄なく動いて、光を作っていきます。この助手さんたちの中から、のちに立派な照明技師になられた方が何人もおられます。そして翌日その撮影したラッシュを映写すると、それはいつも見事な仕上がりで、その画には、ある意味何らかの感動があるんですね。
佐野さんは前に、キャメラマンが画角を決めたら、その真っ黒なキャンバスに色をつけていくのが自分の仕事なんだと云われてましたけど、まさにそういう絵描きのような仕事をいつも見せていただいてました。
この方の仕事がどういう具合に素晴らしいのか、説明しても分かりにくいですが、分かりやすい話がひとつありまして、それは、黒澤明監督が映画「影武者」の照明技師を佐野さんに決めた経緯なんですね。その少し前に黒澤さんがあるウイスキーのCMに出演なさったんですが、その時の照明が佐野さんで、その仕事ぶりを高く評価したのがきっかけだったようです。その頃、佐野さんはCMを中心に仕事をされていて、たくさんの名作がありました。世界のクロサワさんがそこを決め手にしたことは、かけだしのCM制作進行だった私にも、えらく誇りに思えました。
1930年京都市生まれ、18才の時、松竹京都撮影所に入って、1957年には照明技師になられ、1964年に松竹京都が閉所になった後も、フリーランスとしてたくさんの映画とCMの照明を手掛けられました。
私が初めてお会いした70年代の終わり頃には、照明技師として既に有名な存在でしたが、いつもラジオの競馬中継を聞きながら仕事してる、そこら辺のおじさんの風情で、僕ら現場の若造は死ぬほど尊敬してましたけど、なんでも相談できる親方でもありました。「影武者」のクランクインが決まって、世間を騒がせていたのもその頃です。
それから長きにわたって、たくさん仕事をさせていただきました。佐野さんにお願いするのは、いつもいろんな意味で高難度の仕事が多く、無理をお願いすることもありましたが、いつも「ええよ」と言って、淡々とやってくださいました。そして、その度に、その仕事ぶりと出来上がった作品の完成度に感動していました。
照明という仕事は光をあてたり、光を切って影を作ったり、フィルターで色をつけたりしながら、人の眼をたよりに絵を描いていくような、極めてアナログな作業ですよね。
いつだったか、佐野さんがまだ若かった時に京都で時代劇を撮っていた時の話をしてくださいました。照明のセッティングができて、セットに、大スターの長谷川一夫さんが入ってこられ、その渡り廊下を移動しながらの殺陣のリハーサルが始まり、動きが決まったら手鏡を持ってご自分の顔を見ながら再度テストをされたそうです。
それで、本番と同じ動きをしながら鏡に映った顔を見ては、たまに立ち止まり、
「照明さん、ここんとこ、ライト足りまへんな。」と、、また歩きながら、
「あ、照明さん、ここも足しといて。」などと、照明チェックをされて、
照明部は、その都度ライトを直したそうです。すげえアナログな話ですよね。
佐野さんは、そんなにおしゃべりな方ではないのですけど、この手の貴重な話を、時々面白おかしくしてくださいました。味のあるいい話でしたね。
残念なことに、10年ほど前にお亡くなりになりましたが、長きにわたっていろんなことを教えていただきました。撮影の仕事における、あるべき姿勢であるとか、大切なことを、さりげなくご自分の背中で教えてくださっていたように思えます。
音とか映像とかのコンテンツを作る仕事には、手仕事のようなアナログの技術も、最先端デジタル技術も混在していて、それは両方とも使いこなさなきゃなりませんが、そんなことを考えていたら、ふと照明の神様を思い出したんですね。
佐野さんの中には、間違いなく経験で蓄積された照明技術のデータがデジタル化されて内蔵されていたと思われますが、
それを使いこなす時のアナログ的な勘はかなり鋭かったんじゃないかとお見受け致しましたが、、

素人が恐縮です。

Sanosan

2021年7月16日 (金)

寺内貫太郎一家と猫のカンタロウ

5月30日に、作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられていたという訃報を知りました。昭和7年生まれということで、ちょうど私の親たちと同年代の方でした。いつ頃からこの方のお名前を存じ上げていたのか、覚えてないんですが、自分が子供から成長していくにつれて、亜星さんという個性的な名前は、どんどんその存在感を増していったと思います。
最初は、小学生の頃のアニメソング、大好きだった「狼少年ケン」は、完璧にフルコーラス唄えました。ガッチャマンも、怪物くんも、ピンポンパン体操も、男子だけど、サリーちゃんも、アッコちゃんも、唄えたし、子供たちがすぐに覚えられて大好きになってしまう唄ばかりでした。
それと、CMソングです。当然、亜星さんが作られたことは、あとで知るんですが、レナウンの「ワンサカ娘」も「イエイエ」も、新しくって刺激的で、子供なりに大好きでカッコいいなと思ってました。エメロンシャンプー「ふりむかないで」、日立「この木なんの木」、日本生命「ニッセイのおばちゃん」、ブリヂストン「どこまでもゆこう」、サントリーオールド「夜がくる」等、今でもみんなが忘れられないCMソングは、枚挙にいとまがありません。
歌謡曲もたくさんあって、1976年のレコード大賞・都はるみさんの「北の宿から」は代表作です。
ただ、この方の仕事で特筆されるのは、私が子供の頃に放送が始まったテレビというメディアの、新しいジャンル、アニメソングやCMにものすごくたくさんの名作があることです。
私は1977年から、CMの制作現場で働き始めたので、その頃、CM音楽界で最も有名な作曲家であった彼の存在を知り、どんだけ多くの名曲を作った人であるかが、だんだんわかってきます。自分が付いてる仕事の音楽を亜星さんが作られることも希にありましたが、こちらは制作部の末席の助手の助手みたいな立場ですから、「おはようございます。」と挨拶したら、邪魔にならないスタジオの隅から、音楽が出来上がるのを、ただ見学してるようなものでした。
そのようなことが何度かありましたが、亜星さんはいつも、最初の打ち合わせをすると、後はディレクターに任せて、スタジオの隅の小さな椅子に大きな身体を乗せて、鼾を立てて寝てしまわれました。時々、スタッフから報告や相談があると、みなさん慣れていて平気で起こすんですが、終わるとまたすぐに寝てしまいます。当時、相当に忙しい方だったことは想像できましたけど、見事でしたね。

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それより、私がこの方にお会いできて、何に感激してたかと云えば、
「あ、やっぱり寺内貫太郎だ。」ということで、
ご存知の通り、1974年と1975年にTBSで放送された有名なテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主役の貫太郎は、小林亜星さんが演じておられたんですね。私は20歳前後の頃でして、毎週テレビで観ておりました。
今思えば、かなりよくできたホームドラマで、笑いあり涙ありだけど、それなりに毒や刺激もあって、テレビが持っているオーソドックスな面白さの上に、アバンギャルドな新しい試みを加えた、妙に完成度の高い番組でした。
これは、向田邦子さんが脚本を書かれ、久世光彦さんが演出をされている独特な世界観のドラマで、1970年に始まったドラマ「時間ですよ」から繋がっている流れでして、私は高校生から大学生の頃でしたから、かなり影響受けてたと思うんですね。
当時、TV界のヒットメーカーの向田・久世コンビが、満を持して作った「寺内貫太郎一家」でありましたから、その主役は誰なんだろうかと思っていたところ、小林亜星さんという巨体の作曲家だったわけです。
ドラマが始まったときには、やはりプロの役者さんじゃないし、なんとなく違和感もありましたし、そもそもこのキャスティングには、向田さんは反対されたと聞きましたが、この辺りがテレビというものをわかってる久世光彦ディレクターの天才たる所以なんでしょうか、続けて観てるうちにだんだん慣れてきて、それどころか気が付くと、貫太郎に感情移入できたりするようになってきました。そして続編も作られ、間違いなく名作ドラマとして後世に残ったわけです。
余談ですが、ちょうどその頃、大学の帰り道に、多摩川の河原を歩いていたら、トラネコの子猫が後をついてきたんで、アパートに連れて帰って一緒に暮らし始めたことがありまして、その猫に「カンタロウ」という名前を付けたんですね。そのカンタロウが半年くらいで、みるみるデカくなってきて、名前負けしなかったなあ、という思い出もあります。
ここに書き切れませんが、その前も後も小林亜星さんは素敵な音楽を作り続けられ、私の人生の要所要所で音楽というものが持っている可能性を教えてくださったなあと思います。
というような、ごく個人的な一方的な不思議なご縁なのですが、子供の頃から、知らず知らずずっとファンだった気がしました。
猫のカンタロウは、その後長生きできずに早世してしまったのですが、亡くなってしまった冬が明けた翌春に、近所を歩いていたら、一匹の母猫の後を子猫が5匹ほど歩いていて、陽春らしい良い風景だったんですけど、その中の一匹が、うちのカンタロウに生写しでして、これは間違いなくあいつの子だなと確信したことがあったんですね。そう云えば、お互いによく夜に出歩いてましたから、たまに数日帰ってこないこともあり、そういう時に子作りもしてたんだろうかなと思ったようなことでして、全くの余談の余談でした。

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2020年8月 6日 (木)

弔辞 吉江社長殿

この春からは、こんなことで、中々人に会うことが出来なくなっており、気が付くとずいぶんいろんな方とご無沙汰をしているんですが、そういえばしばらくお会いしてないなあと思っていた方の訃報が、突然届きました。
ちょっと体調を崩しておられるくらいのことを伺っていただけで、いつも元気で笑顔の人でしたから、にわかに信じられません。私が仕事を始めてすぐの頃には、すでに存じ上げてましたから、考えてみると長いお付き合いでした。
吉江一男さんは、よく知られたCM音楽プロデューサーで、ずいぶんたくさんの仕事をお願いしました。と云うか、この方はあの頃のCM音楽業界で、最も有名で忙しい人でありまして、数々の話題作を手掛け、中にはCMから楽曲としてヒットチャートを駆け上がった曲もいろいろありました。
結果的に、そのビジネスで会社を立ち上げて、青山に音楽スタジオのある自社ビルまでお建てになりましたから、言ってみれば大袈裟でなくCM音楽の一時代を作った方でした。
初めてお会いした頃、私は駆け出しのペーペーでしたが、彼は勤めていた音楽プロダクションから独立したばかりで、根津美術館の横の小さなアパートを事務所にしていました。その時に仕事で3.5秒のサウンドロゴをお願いしたんですが、吉江さんは自分でギターを弾いて自分で唄って、サンプル版を5タイプくらい作ってきたんですね。まあご自分で作曲もできる方だから、それはいいんですけど、ラジカセで録音されたそのカセットテープを聴いてみると、唄のバックに、バックコーラスのように、ミーンミーンと蝉の鳴き声がするんですね。
「吉江ちゃん、バックでセミが唄ってるね。」
と誰かが云って爆笑したんですけど、今思えばその時に採用になったサンプル版が、のちのち有名になった ♪ピッカピカの一年生♪ だったんです。

夏の根津美術館の森に、蝉はうなるほどおりましたのでね。
そんな吉江さんは、ともかくいつも明るくてカジュアルな人でした。その頃、私はアロハを着てることが多かったんですが、お得意さんのところへ行く時は、もうちょっとちゃんとした格好していけと、上司から言われておりましたが、その日もアロハだったわけでして、某築地の広告会社のエレベーターで、ばったり吉江さんに会うんですけど、
「よっ、暑いねえ、やっぱり、こういう日はアロハだよね。」
とおっしゃって、二人ともアロハなんですが、ただ、吉江さんはおまけに、短パンにビーチサンダルだったんですね。
そういう方でしたから、先輩なんですけど、仕事の相談などもしやすい方でした。ただ、いつも自分の直感で即決して、やりたい方向へ持ってっちゃって、わりと調子いいとこもあって、最後は自分のペースに巻き込むんですけど、音楽的なレベルは高くて、周りを満足させて、結果的には信頼されていました。
信頼といえば、彼が仕事を発注する、作家も演奏者も歌い手もエンジニアも、プロデューサーとして強い関係を築いていましたし、たまに自分で作曲することや演奏することもあって、ともかく音楽を作ることが大好きで、この仕事を愛している人でした。

彼が残した会社の名は、「ミスターミュージック」と云って、ミスター吉江の代名詞のようでもあります。
いつだったか、何故か二人で、ラッシュ時の満員の地下鉄で移動してたことがあって、なんでそんなことになったか忘れましたが、彼が急に、
「俺たちが作ってるCMのクライアントの会社の人たちは、いろいろ大変だよね、毎日。どんな業種でも楽な仕事はないよな。」みたいなこと云って、僕も何と無く頷いてたんですけど、
「そう考えると、俺たちが音楽作ったりしてる仕事は、遊んでるようなもんだよね。」
とおっしゃったことがあって、よく覚えてるんですね。
ただ、あれだけの仕事してビルまで建てた方で、業界の連盟の会長とかもされてたし、好きなことだけやってたとも思えないんですけどね。
たぶん、いろいろな権利を守ったり、スタッフを守ったり、いろんな揉め事を収めたり、時には似合わない凄みを利かせたりされたこともあったと思います。童顔で小柄な方ですから、そういう時はチビッコギャングだったかもしれません。
私に関して云えば、長い間いつも気にかけてもらって、仲良くしていただいて、難しい仕事の時も必ず全力で挑んでくださいました。息子さんの結婚式にも呼んでくださいましたね。

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今、世の中がこんな状態なので、お葬式は身内ですまされたそうです。本来なら、ずいぶんたくさんの方が集まったんだろうと思います。
いつの日か、出来るようになったら、息子さんは「偲ぶ会」をなさるつもりだそうです。
彼が残した名作を、うんと聴けるんだろうなと思うと、それはそれで楽しみではあるんですけど、そこにもう吉江さんがいないことが、なんだか信じられないですね。


2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

Hakobiya

映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

Miyukitakuro_2

 

作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2013年2月 8日 (金)

冬景色

今年の冬は、のっけからすごい寒波で、1月には10何年ぶりの大雪が降ったかと思えば、たまに春のような日があったり、相変わらず東京の冬はいろいろな表情をします。いろいろな土地の冬を見てきましたが、やはり、長く暮らしている東京の冬が私にとっての冬です。

この自分にとっての東京の冬を、聴いたとたんに思い浮かべる曲があります。

これは、あくまで私の感じ方であって、誰でもということではないと思うのですけど。

1977年に出された荒井由実の4枚目のアルバムに入っている「さみしさのゆくえ」という唄です。

 

「さみしさのゆくえ」

さいはての国でくらす あなた帰って来たのは

おだやかな冬景色が なつかしかっただけなの?

どこかで会おうと言って 急に電話くれたのも

昔の仲間のゆくえ ききたかっただけなの?

悪ぶるわたししか知らず

あのとき 旅立って行った

お互い自分の淋しさを抱いて

それ以上は持てなかったの

こんなわたしでもいいと 言ってくれたひとこと

今も大切にしてる私を笑わないで

したいことをしてきたと 人は思っているけど

心の翳は誰にも わかるものじゃないから

悪ぶるわたししか知らず

あなたはまたすぐ行くけど

他人の淋しさなんて救えない

夕陽に翼を見送る

残った都会の光 見つめてたたずめば

そのときわたしの中で 何かが本当に終わる

 

Yuhi2_3 歌詞で冬のことを言っているのは、最初の2行だけなんですけど、この詩の背景になっている物語といい、メロディといい、編曲といい、聞くたびに東京の冬を想います。

ある女の子の、昔の恋人との再会と別れ、そして青春との決別。

というようなことなんですけど、そのあたりちょっと切なくて、浮かぶ風景はあくまで冬の東京です。

この曲が入ってるアルバムは、荒井由実さんが荒井さんとして出した最後の一枚で、1976年末には、結婚して松任谷さんになってるんですけど、このころ、22歳くらいなんですね。私もほとんどこの方と同い年なんですが、この当時、個人的にはあまり曲のこと知りませんでした。どちらかというと同世代の女性から圧倒的な支持をされてましたね。

それから今に至るまでの活躍は言うに及びませんが、荒井由実時代の3年間も、そのあと松任谷由実になってからも、このころ、いわゆるこの人の代表作が目白押しです。

20代の前半、結婚の前後、彼女はすでに天才の名をほしいままにしていました。

「さみしさのゆくえ」という曲は、10年くらい前にたまたま車でCD聴いてて出会ったんですけど、たぶん、荒井由実のたくさんの名曲の中では、それほど上位にはなかった曲かもしれません。しかし、詩も曲もこの人の作家性が溢れています。

あの頃、というと、この曲が作られ、荒井さんが松任谷さんになって新婚の頃ですけど、私はある仕事で、毎年真冬の北国に2週間くらい行っているのが習慣になっていました。10年ほど続いたと思います。

雪の中、磐梯山からの吹き下ろしで、飛ばされないように斜めになってこらえながら畦道を行く幼稚園児たちや、一晩に1メートルの積雪で、景色が一変してしまった富山の山間の村や、地吹雪で一瞬にして視界から消えた富良野の馬たちや。今までに見たこともない北国の風景のあとに、帰りついた東京の冬は、ほんとうにおだやかな冬景色でした。あの頃この曲を聴いてたら、もっと沁みたかもしれません。

でも、最初に聞いてからずっと忘れない曲になりましたから、きっと私の記憶の何かにグサッと刺さったんだと思いますね。音楽と人の関係ってそういうとこありますよね。

 

2011年3月10日 (木)

僕の尊敬する植木さん

会社で席替えがあって、荷物を整理していたら、そん中に何年か前に取ってあった新聞の記事が出てきました。なんだっけと思って読んでいたら、だんだん思い出しました。これ、読んで泣いたやつだ。ついつい手を休めてまた読んでしまいました。なかなか片付けがはかどらないのはこういうことしてるからなんですが。

それは、コメディアンの小松政夫さんが、師匠である植木等さんの思い出を語った記事でした。

植木等さんといえば、私が小学校3年生の時に、授業で『私が尊敬する人』という作文を書いた時に、迷うことなく選んだ人でした。

思い出すだに、当時のクレージーキャッツの人気はものすごくて、それこそ、TVに映画にCMにレコードに大活躍。コメディアンとして相当に面白かったんだけど、ちゃんとしたジャズバンドとしても成立しているというところもなんとなくかっこよくて、大人にも子供にも人気があって、日曜日の夕方6:30から始まる「シャボン玉ホリデー」は、どんなことがあっても必ず見る番組でした。

そのクレージーキャッツのメンバーは7人いて、みんなそれぞれに個性があって面白かったんですが、グループを代表するスターは、やはり植木等さんでした。

この人が繰り出す数々のギャグも、映画の中の無責任男のキャラクターも、

そして、彼が歌う唄の歌詞も、大好きでした。

こんな感じです。

 

♪ ぜにのない奴ぁ 俺んとこへこい

  俺もないけど 心配すんなUeki-san2

  みろよ青い空 白い雲

  そのうちなんとかなるだろう ♪ とか

 

♪ 人生で大事なことは

  タイミングに C調に 無責任

  とかくこの世は 無責任

  コツコツやる奴ぁ

  ごくろうさん  ♪  など

 

当時、まじめにこつこつ働いてた日本人も、高度経済成長に振り回されて少し参っていた日本人も、ほんとに励まされていたと思います。

 

植木さんが亡くなった2007年に、『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』という本が出ました。すぐに買って読みました。あんな大スターだったのに、評伝として出版された本はこれだけです。それまでに来た出版の企画は、すべて断っていたそうです。

これを読むと、ほんとに尊敬すべき素敵な人だったことがわかります。

演じるキャラクターとは違い、堅実な人であったこと。グループの中でみんなから愛され、まとめ役だったこと。売れに売れた頃、進むべき進路に悩んでいたこと。お酒は1滴も飲めず、質素な暮らしぶりだったこと。破天荒な生き方をしたお父さんを愛していたことなどが書かれています。

この本の中にも、当然 小松政夫さんが出てきます。弟子と師匠として関わった小松さんの話に、植木さんの人柄がにじみ出ています。

 

役者を志望して、19歳の時に福岡から上京した小松さんは、様々な仕事を経て車のセールスマンをしていました。ある時、植木等さんの運転手募集の記事を見つけ、600人の応募者の中から勝ちのこり、付き人兼運転手になりました。そして、小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが過労のためダウンして入院していた病室でした。

 

小松談

ものすごく二枚目でした。いつもテレビで見ていた時の声じゃなく、もっと低いキーで、

「植木です」 って言って、

「この世界に入るのに、何の抵抗もないの?」 というようなことを訊かれました。

しゃっちょこばっている僕を見て、

「俺のこと、何と呼ぶようにしようか」 って言った後、

「先生なんて呼んだら張り倒すよ」 って。

その時、「ああ、植木等なんだ」 って、やっと思ったんです。

緊張をほぐしてくれたんです。それから真面目な顔になって、

「君はお父さんを早く亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」 と言ったんです。

その時に思ったんです。ああ、この人についていこう、生涯ついていこうって。

 

それから半年ぐらいで、小松さんは小さな役をいろいろ貰うようになり、ハナ肇さんからも、チャンスをもらい始めました。

その頃に、植木さんの有名なギャグ「お呼びでない、こりゃ、また失礼いたしました」は、小松さんが植木さんの出番を間違えて生まれたというエピソードがありました。

 

小松談

うそなんですよ。植木の思いやりですよ。私がセールスマンだった時に、あのギャグはすでにやってました。

「出番じゃないとリラックスしていたら、小松がねえ、何やってんですか、とせっついた。飛び出したら、ハテナという顔をみんなしてるから、できたギャグ」と、どこでも言うんです。

「こいつは面白いよ、使ってやって」とも。

あの聡明な植木が、間違えるはずがない。私の手柄にしてやろうと思いついたに違いない。

後に、奥さんには、

「小松が育ったのが、誇りだったのよ」と言われました。

 

3年10カ月経って、植木さんの付き人を卒業した時の話が、またいいです。

 

小松談

そうです。車を運転していて、突然後ろから言われたんです。

「明日から、来なくていい」 って。

青天の霹靂でした。私の独立にむけて、給料もマネージャーも決めてあった。

「社長も大賛成だと言ってる。だから、明日からは俺の所に来なくていいんだ」 って。

涙で前が見えなくなり、車を止めさせてもらって、声を出して泣きました。

・・・・・

何分くらい泣いてたのかな。その間、ずっと黙って待っていてくれて、

しばらくして、

「別に急がないけど、そろそろ行くか」 って。

僕は我に返って、「はい」 って言って車を出したんです。

粋だったですね、やることが。

 

 

私が小学校3年生の時の作文で、、尊敬する人に、植木等さんを選んだことは、本当に間違ってなかったと思ったのでした。つくづく。

 

何でもいいから一度お会いしたかったです。

 

谷啓さんとは、一度仕事でお会いしました。音楽を作ってくださったんです。

これはホントに嬉しかったです。

録音中、得意の「おや?」というギャグをやってくださいました。しびれたなあ。

 

 

2008年6月18日 (水)

オーケストラは人をつくる ベネズエラのユース・オーケストラ

このあいだ、一緒に仕事をしているクリエイティブディレクターのAZさんと話していたら、「去年、BSですごくいい番組を観たのだけど、ぜひもういっぺん観たいのだけど、どうしたらよいだろか。」と相談されました。

そんなに良い番組なら、私も観て見たいし、調べてみましたところ、意外に簡単に手に入れることができました。さっそく皆で、観はじめたのですが、ほんとに良いのです、このドキュメントが。

どういうお話かというと、南米ベネズエラのオーケストラの話なんですね。

ベネズエラでは、1975年頃から、全国に青少年のオーケストラをつくり始めたんだそうです。現在全国に90の開発センターがあって、それぞれに3~4のオーケストラと合唱団があるそうです。こういってはなんですが、ベネズエラという国は、けっして豊かな国ではありません。むしろ、貧困と麻薬と犯罪のイメージが強くあります。果たしてクラシックのオーケストラを聴く習慣があるのだろうか?

でも、これは、ある団体が意図的に始めたことでした。

この番組の中で、「かつてこの国において、芸術は、ある限られた階級の少数の人々にのみ、与えられていた。少人数から少人数へのコミュニケートだった。」と語られます。

子供たちは、演奏するための椅子にすわっても、足が床に届かぬ頃からオーケストラの一員になります。子供たちが、はじめて生の音楽に接する場面は感動的です。まるで乾いた砂漠に、水がしみこんでゆくようです。そして、彼らは夢中になって音を出しはじめます。楽器は宝物となり、かたときも離せません。そうやって音楽と出会った彼らは、めきめき上達します。もちろん個人差はありますが、そうやってオーケストラの一画を担うようになっていくのです。もはや、ベネズエラのオーケストラ音楽は、少数から少数へ伝わる芸術ではありません。現在24万人が参加しています。

子供たちは、自分の技術を磨くことによって得られる感動を知り、オーケストラという大きなチームの中における自分の存在の意味を学びます。このことにより、努力によって得られる達成感と、社会の中で自分が果たせる責任を知ることになるといいます。オーケストラが人をつくり社会を作るという意味がわかってきます。貧困と麻薬に犯されていた社会は、少しずつ変化し始めました。

このシステムが育てた人材は、確実に成果を上げはじめています。すばらしい才能が育ち、彼らが作り上げたオーケストラは、世界の観客たちから、音楽の専門家たちから、絶賛されています。ある著名な指揮者は、「クラシック音楽の未来にとって、最も重要な活動が、今どこで行われているかとたずねられたら、私はベネズエラと答えるでしょう。」と語っています。

貧しい子供たちに楽器を提供し、組織をつくり、オーケストラを育てることは、簡単なことではなかったでしょう。世界中からの支援を取り付けたそうです。日本からも音楽教育の専門家たちがたくさん参加し、感謝されたそうです。このシステムを南米諸国に拡げていく試みも、すでに始まっているようです。Cello_5

しかしながら、この番組を観て最も感動したところは、子供たちとクラシック音楽との出会いでした。音楽は理屈ではなく、彼らの魂に直接働きかけ、あっという間に取り込んでしまいました。

この出会いを演出した人たちこそが、このお話の主人公なのです。