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2023年1月12日 (木)

2023年のお正月

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2023年も、明けましておめでとうございます。
今年は、なんだかゆっくりと年が明けたような気がしましたが、それは多分、個人的な印象と思いますけど。
コロナのせいでもありますが、年末年始も、ほとんどどこにも出かけず、ずっとうちでゴロゴロしてましたし、主婦である妻は忙しくしておりましたが、私に手伝えることは限られており、まあ、窓ガラスを拭くことと、うちのおせちの定番の牛肉焼きと卵だし巻きを、焼くくらいでして、大阪で暮らしている息子も帰ってきて、久しぶりに家族4人で寝正月を決め込んでおりましたもんですから、暮れから正月にかけては、ずいぶんのんびりと過ごせたんです。
かつて年末といえば、実家に帰省するのが常でしたから、混み混みの新幹線に家族でのりこんで慌ただしく移動していたもので、それも今や懐かしい思い出です。
それに、12月といえば忘年会、1月といえば新年会と、何かと人が集まったもんですが、コロナ以降、それもずいぶんなくなりました。なんとなく、そういうことも含めて、世の中が少し静かになっているわけで、それもただ悪いことじゃないけど、そもそも機会を見つけて、久方ぶりにお会いしたい人もいますよね。
そんな三ヶ日も過ぎた頃に、広尾に住んでらっしゃる先輩のお宅に、大好きな先輩たちが集まって鰤しゃぶするから来ないかと誘っていただき、そりゃ大喜びで向かったわけです。ご時世でもあり多少人数は抑えめでしたが、それはやはり心躍る集いではあります。
そこで、ルンルンと広尾のお宅に向かったんですが、その日は、例の渋谷の山手線ホームが大工事の日でして、電車が止まっていたんですね。まあそれはわかってたんですが、うちの娘が渋谷から恵比寿くらいなら歩けばいいじゃんと云いましたし、確かにそうだなと思って、ついでに渋谷駅と駅の周りを少し歩いて眺めてみるとですね、ちょっと見ぬ間に、いやずいぶんと変わってしまったなあ渋谷駅と、つくづく思ったんですわ。まあ今さらなんですが、ここしばらく通勤でもあんまり通ってなかったこともあったんですけど、毎日刻々と変化している街なのですね、ここは。
考えてみると、初めてこの街にやってきたのは、私が18歳でしたから、50年前ということになりまして、、えっ! 50年。
確かに思い起こしてみると、今とはずいぶん違った風景です。当時、東京で暮らし始めた頃、一番近くにあった大きな繁華街はこの街でしたから、映画見るのも、何か買い物するのも、安酒飲むのも、パチンコ屋も場外馬券売り場もあったし、何かと言えばウロウロしてたわけで、そもそもほとんどお金も持ってなかったから、ただの暇つぶしも含めて何かといえばここにいることは多かったんですね。どっか遠くの町に行くときにも、この駅が乗り換え基地でしたし、あの頃の渋谷駅の風景は、私の記憶に染み込んでいます。
そこから現在までの50年間、渋谷駅は、刻々と風景も機能も変化してきたわけです。
ただ、最も最近の大きな変貌には、あんまりついていけてなかった気がしたのですね、駅の周辺をひと回りしてみて。
恵比寿まで歩きながら、軽い浦島太郎状態になり、ちょっと眩暈してショック受けましたが、日比谷線に一駅乗って広尾について、この街はあんまり変わってなくて、その後のブリシャブに救われたお正月の一日だったのです。

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2022年11月 1日 (火)

ラーメンといえば最寄りのたんたん亭

前回に続いて食べもの屋さんの話です。これも、どの街にもと云うか、人の住んでるところには、探せば必ずあるのが、ラーメン屋さんでして、この国の人たちはほんとにラーメン好きです。
子供の頃から、この食べ物はいつも身の回りにあったし、東京でも、覚えてる限り何度もラーメンブームというのがあって、その都度、店の数も増えていったと思います。
昔は、よく夜中まで飲んだくれていて、最後にラーメンで腹ごしらえして仕上げというパターンで、毎晩どっかの飲み屋街の片隅や、屋台で、ズルズルワシワシいただいておりました。これは昼に食べることもあって、いったい今まで何杯のラーメン食べたんだろうかと思います。
僕らの若い頃は、九州に行けばあたり前だった豚骨味が一気に全国区になって、トンコツコッテリラーメンはかなり主流になりましたが、札幌を基点にした北海道系、みそ味、塩味、しょうゆ味も、全国にファンを増やしております。まあ、いずれにしても、そのお店によっていろんなタイプの味があって、それを支持するファたちが、そのラーメン屋をささえていると云う構造になってるんですね。
そんな中、若い時は、こってりスタミナ系を深夜に食していたんですけど、年齢を重ねて来ますと、あんまりくどいのは敬遠しがちになりまして、コロナ禍以降、夜中の繁華街にもあまり行かないこともあり、最近は、もっぱら最寄りの駅前にある「支那そばたんたん亭」と云う、ジャンルで云えば東京風ラーメンなんでしょうか、ともかくラーメンといえば、ここさえあれば満足という状態です。
ラーメンを語りますと、もちろん十人十色ですし、人によって好みも背景も違うんですけど、私、こちらのラーメンは個人的に東京一押しであります。付き合いも長くてですね、この街に越してきた1989年からですから、30年以上になります。当時、この街に住み始めたという話を、仕事の先輩のAZさんにしていたら、彼が急に座り直して、
「その駅を降りて右に行くとすぐに、たんたん亭という名の店がありますが、これは至極正しいラーメン店です。」と言われたんですね。
AZさんのおっしゃることは、日頃から食べ物に限らず何かにつけて信頼しておりますので、わりとすぐに行ってみたわけです。
いわゆる奇をてらったところのないオーソドックスなラーメンで、軽くちぢれた真っ直ぐ麺に、なんとも云えぬ深みのある醤油出汁スープに、シナチクと叉焼ときざみネギとのり一枚というシンプルさなんだが、それが非常にバランスのとれた一品となっておるのですね。この基本型にワンタンを載せたワンタンメンは人気のメニューのようで、それを頼んでる人がわりといます。ワンタンは、肉ワンタンとエビワンタンがあり、その両方が入っているミックスワンタンメンというのが、この店のちょっとした贅沢な喜びのようです。
チャーシューメンにそのミックスワンタンを載せた、チャーシューミックスワンタンメンというのが、このお店でできる最も豪華なメニューで、私はまだやってませんが、いつだったか隣の席で近くに住む編集者の石川次郎さんが食べておられるのを横から見たことがあります。
メニューといえば、それ以外は煮たまごと餃子とビールくらいなものです。席はカウンターだけで10席くらいのものですから、店の前によく人が並んでいますが、ここも長居する人はいませんから、ちょっと待ってればすぐにありつけます。
そういえば、初めてこの店に来た時に、ラーメン作ってる職人さんから、来月でこの店は閉めるんだと言われて、すごくうまかった分、かなり残念がってたんですけど、その2人の職人さんは、1人は目黒で、1人は調布で、ほぼ同じメニューの店を始められて、そのどちらの店にも後になって行ってますが、結局原点である浜田山「たんたん亭」は、閉店することなくクオリティを保ちながら、今も存在してまして、ほんとに助かっております。
ともかく、このラーメンという食べ物は、長い歴史の中で多くの人たちの手で多くの人たちに食べる楽しみを送り続けて、どの土地にも街にも根付いていまして、若い頃は旅の途中に全国の港、港でいろんな出会いがありましたが、今、自分にとっての故郷みたいなラーメンというのは、たんたん亭のこの味なんだなと思う、今日この頃なんです。

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2022年10月 7日 (金)

焼き鳥といえば渋谷森本

物心が付いてからというもの、ずっと呑兵衛(のんべえ)でありまして、閑さえあればどっかで飲んでるような人で、どなたかから「ちょっと行く?」などと誘われてお断りしたこともなく、そりゃあこちらからお誘いすることも多々ありまして、また、お相手がいなきゃ、一人は一人でもいいもんで、その都度、酒を飲ませてくれる店を探して入っていくわけです。
そういう時、どの街でもすぐに見つかるのが焼き鳥屋です。縄暖簾かなんかをくぐって入ると、たいていカウンター席とちょっとしたテーブル席があって、カウンターの向こう側では、炭火かガス台でもうもうと煙を上げて焼き鳥が焼かれているわけです。その臭いは換気扇で店の外にあふれ、また新たな客を呼び込んでいるんですね。
それと、若い頃はなおさらなんですが、あんまり懐中(ふところ)の心配をしなくて良く、たまに高級店なんかもあるんですが、鮨屋ほどじゃないし、串1本いくらって書いてありますから、飲みながらでもだいたい勘定の見当もつくわけですよ。
そうしてみると、今までどんくらいの数の焼き鳥屋に行ったんだろうか、串は何本食べたんだろうか、その時に飲んだビールや日本酒やチューハイやなんやかや、どんくらい飲んだんだろうかなどと思うんですが、あんまり考えてもしょうがないことではあります。
ここ何年かコロナのこともあり、あんまり街をぶらぶら歩いて飲み歩くことがなくなりましたが、時々、無性にその店の焼き鳥が食べたくなるのが「渋谷森本」なんですね。
ここに行き始めたのがいつだったか、昔すぎて忘れましたが、20代の頃、誰かに連れて行かれたか、偶然入ったか、とにかくうまい焼き鳥だなと思ったのは確かで、そのうち私が働いていた新橋の会社の近くに森本の支店ができた時期があって、そこにもよく行ったんですね。
つくね、ひな皮、ゴンボ、砂きも、血きも、はつ、若鶏ねぎま、相鴨、うずら、笹身、なんこつ、しそ巻、東京軍鶏、手羽先、どれも一級品でその味は全く変わっていません。新橋店は、そのうちになくなったんですけど、渋谷はずっと健在でいつも満席です。井の頭線の渋谷駅のホームからもすぐ下に見えるわかりやすい場所にあって、ここは昭和47年からだそうですが、渋谷での創業は昭和23年と云います。
営業時間は日曜祭日を除く、16:00〜22:00で、昔17:00からのこともありましたが、ともかく開店すれば、夕方早くから、森本ファンたちで店はすぐにいっぱいになります。たいして広くないし、そういう店なんで、まず大勢で行くことはしませんで、せいぜい2人か3人、むしろ1人で行くことが多いですね。たいてい渋谷で映画や芝居を観る前とかに立ち寄ることも多かったです。それと、たとえ満席でも、座ってる客の後ろの壁に張り付いて待っていると、そのうちに空いた席に入れてもらえます。だいたいこの店には長居する客がいませんね。焼き鳥とか、そう何十本も食べられるもんでもないし、注文した分を食べ終わって追加注文がなければ、すぐに店員が勘定しにやって来ます。
酒だけダラダラ飲んで用も無いのに長っ尻で居座るような奴は、この店の客にはおりません。食って飲んだら、とっとと去って行くのが客の流儀なんですね。そういうスピードで店が用意したネタはどんどん売れて行くので、ちょっと遅い時間になれば、売り切れるネタもあり、だから、この店に夜遅くに寄るなどということはしないのですね。
こういう世の中になってから、呑兵衛オヤジのヤキトリナイトもままならないですけど、渋谷で芝居を観たり、夕方その辺りにいることがあると、ついついお邪魔します。そこでおとなしく串の5〜6本も頂戴して、レモンサワーの2杯もいただけば、とっとと失礼いたしておるわけです。
いずれにしても、私が若い頃からずっと、そのハイクオリティな味を保ちつづけている驚くべき焼き鳥屋さんなんですね。
やはり、個人的ランキングでは東京一なわけですが、やがて世の中が落ち着いて元の状態に戻っていけば、またインバウンドでたくさんの外国の方が訪れるようになりますね。外国の方達はことのほか焼き鳥が好きですから。それはいいんですけど、まあ、これからも、時々、オジサンが機嫌よく至福の小一時間を過ごさせていただくことができれば、それで十分であります。

Morimoto

2021年5月21日 (金)

オーベルジュ・トシオ

こうなってくると、日々の暮らし方としては、ともかく用もないのに出かけないこと、できるだけ家にじっとしていること、なるべく人に会わずにですね、会食をしたり、酒盛りをしたりは、もってのほか、この厄災が去って行くのをひたすらに待つことなんですね。
要は、余計なことは思いつかないようにして、家でおとなしくしてろと。
ただ、こう長くなってくると、たとえば感染リスクを避けながら、違う環境に自分の身を置けないものかと、多少ジタバタしてまいります。
そんな時、ときたまお世話になって、気分転換ができてありがたいのが、私が秘かに「オーベルジュ・トシオ」と呼んでる信州の山小屋なんですが、これ、ある友達の別荘なんですね。
この人は、基本的に東京で生活してるんですけど、この山小屋の季節季節の管理は自分でやっていて、ちょくちょく山にこもっていろいろ仕事してるんですが、今回のコロナ禍が始まった頃、東京から避難する意味もあって、ひとり山小屋に籠ったんです。普段から全くそんなふうには見えないんですけど、どうも体質的に疾患があって身体が弱いということで、やはり避難なんだそうです。そういうことならば、退屈しのぎにでもなればと、たまにごく少人数で寄せていただいておるわけです。
場所は八ヶ岳の麓の原村、信州の四季を満喫できる素晴らしいところでして、この友人は、さしずめこの山小屋のオヤジといった役回りなんです。それで、このオヤジが出してくれる食べ物が、街で人気の居酒屋のレベルでして、仕入れも作る手際も、ちょっと驚きの研究開発がされております。彼そのものが、昔から酒飲みで、うまいものが大好きでしたし、食材や調理法にも、好奇心が強くて勉強熱心でしたから、我々はオヤジが長年試行錯誤して完成させた成功作を振る舞ってもらってるわけです。

この、Kネコ トシオさんという人がどういう友人かというと、お互い20代の前半には出会っておりまして、私がTVCM制作会社の駆け出しの制作部だった頃、よく現像済みのフィルムを現像所に取りに行っていたんですけど、その現像所のカウンターで上がったフィルムを渡してくれるのが、短パンにランニング姿のトシオさんだったわけです。現像が込み入ってる時には、いつまで経ってもフィルムが上がってこなくて、ずいぶん待たされるんですが、カウンター越しにこの人に、
「まだですかー!」と怒鳴れば、
「まだだよおー。」みたいなことで、
顔はよく知っていて、年齢も近かったけども、特に仲が良いということでもなかったですね。
その頃、テレビのコマーシャルは、いわゆるテレビカメラで撮影するんじゃなくて、全部35mmのフィルムで映画用のカメラで撮って、最後の納品もフィルムでしたから、当然フィルムの現像も、スーパーを入れたりする加工も、全部現像所でやっており、それを制作している私たちもテレビのコマーシャルを作っているテレビ屋さんというよりは、フィルム屋さんと云った風情だったわけです。
そのうちトシオさんも、その会社でCM業務の営業担当になって、こちらも制作部として多少仕事がわかるようになってきて、いろんな局面で仕事の協力をしていただく用になりまして、時々酒飲んだりして、仲良くなってくるんですね。
この人はもともと職人気質な人で、実に現像に関するケミカルな知識や情報も豊富だし、いろいろ仕事が難しいことになっても、決して諦めずにしぶとくやってくれる人で頼りになりました。
そんなこんだで、私達が立ち上げた映像制作の会社も、彼の会社と強い信頼関係ができて、その後、CM映像の世界はケミカルからデジタルハイビジョンになってもいきますが、気がつくと、ずいぶん長い仕事のお付き合いになってたんです。

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仕事としてはそういうことなんですけど、この人はおいしいものを食べて、おいしい酒を飲むということには、まあ実に貪欲で、手加減しない人なんですね。それでもって、根が職人肌だから、なんか美味いもんを食べると、自分で作ってみるわけでして、そういうデータが積りに積もってますから、原村高級居酒屋「オーベルジュ・トシオ」となってるわけです。
正直、この人が会社を退職したら、居酒屋とか開いちゃうかもとか思ってたんですけど、それに関しては、彼の賢い妻が、それだけは絶対にうまくいかないと予言したそうで、確かにこの人が店やると、仕入れとか段取りとか、えらくこだわって頑固そうだし、客の好き嫌いもはっきりしてそうだし、料理は美味しそうだけど商売はなかなか大変だから、確かに奥さん正しいかもね。
山小屋の方は、この調子でこの人が細かくコツコツとメンテナンスしてるので、実に快適な状態で、行く度ごとに季節の違う風景を見ることのできる、得難い場所が出来上がっています。
多分、性格的にも私にはこういうことはできないだろうけど、気がつくとなにかと自分の家のように寄せていただいてまして、昨今の世の中で、大変助けられてる次第です。
この建物は、彼と彼のお兄さんが若かった時に、この土地にやってきて一から作ったんだそうです。実は、そのお兄さんは、私にとって同業他社の先輩でありまして、ご縁があって昔よくお世話になっていましたから、この山小屋の話はよくお兄さんから聞いていたという経緯もありました。そのお兄さんは、残念ながらしばらく前に亡くなってしまいましたが、不思議なご縁も感じます。
そう云ったことのおかげで、今、きれいな空気の自然の中で、おいしいものを食べて飲んで、よく寝て、、、ありがたいことです。

持つべきものは、職人肌の料理好きな飲んべえの、山小屋持ってる友達だね。

という話なんですけど、

ま、探して見つかるもんじゃないということは、わかります。

2020年12月21日 (月)

さよならAzzurra 、お世話になりました

私たちの会社が、六本木から、ここ神宮前3丁目に越して来たのは、かれこれ17年ほど前なのですが、新参者の我々が、ご近所ですぐに仲良くしてもらったのが、3軒隣のビルの地下にある「アズーラ」というイタリアンレストランです。おいしいのはもちろんで、青い壁のお洒落なレストラン(Azzurraはイタリア語で青い)なんだけど、当時流行り始めていた、わりと気取ったイタリアンじゃなくて、すごくさばけた感じで、云ってみればちょっとイタリアの裏町の居酒屋っぽくて、私たちと合いそうな気がして、勝手に、ここを社員食堂と呼ぼうなどと、言いたいことを言っておりました。
お店は、サイトウさんご夫婦と、アシスタントスタッフ二人で切りまわしておられ、厨房はご主人が、フロアは美人の奥さんが担当で、いつも気持ちの良い仕切りで料理が出てきます。僕らが越してくるだいぶ前から、ここにお店があったみたいで、すでにファンの沢山いる評判の良いレストランでした。
ご夫婦は、とても気さくで面白い人たちで、すぐに友達のように親しくさせていただき、ご主人は僕より少し年上で、マスターとかシェフと呼び、奥さんは同年代なのでキョウコちゃんなどと呼んでおります。

すぐ近くにみんなのお気に入りのレストランが出来たので、仕事の仲間たちとも、お客さんとも、いろんなメンバーでなにかと盛り上がる場所になります。前菜からパスタからピザから、肉や魚料理など、レストランのメニューはかなり豊富なんですけど、私はほぼ全部食べてると思います。そして、どれもみな美味しいです。私の肝心な友達や身内は、全員来たことがあるんじゃなかろうか。
だいたいいつも閉店まで飲んでるんですけど、お店のスタッフが片付けを始める頃には、マスターがワインボトルを片手にやって来ます。そこから結構盛り上がることも多々あり、それもパターンとなっております。カラオケ行ったこともあったな。
お二人ともゴルフ大好きなんで、定休日の火曜日にご一緒することもあります。それで、うちの会社のゴルフコンペを火曜日にした時期もありましたね。
我が社の忘年会は、毎年全員参加でAzzurraでやることに決まっていて、年末のかき入れ期に申し訳ないんだけど、一晩貸し切りにさせていただいてもおります。
というようなことで、うちの会社がすぐ近所に越してきたことが、良かったのか悪かったのか、ともかくすっかりご縁ができて、会社丸ごとお世話になってるこの17年なのであります。

それから、この春からのコロナ騒ぎになるんですけど、このことが各飲食業に与えたダメージは計り知れません。こちらも自宅待機の日々が続き、Azzurraのことが気にかかっていたのですが、なかなか様子もわからず気を揉んでおりました。しばらくして、昼間にお店を覗いたらスタッフの方が仕込みをされてて、聞けばなかなか厳しい状況とのことでしたが、ただ、店はしぶとく開け続けておられるようで、もともと地力も歴史もある御贔屓の多いレストランでありますから、なんとか健闘を祈っておりました。
そんな中で、うちの会社の人たちから、どうもAzzurraが、今年いっぱいで店を閉めるようだという情報が入りました。でもそれは、コロナ禍が直接の原因ではなくて、ビルの取り壊しが決まったからだそうです。そういえば、このビルに入っている他のお店からも、その知らせが入ってきました。この数年、その噂は時々耳にしてたんですけど、ついに現実になったということです。
考えてみると、このビルって神宮前3丁目にずうっと昔からあって、多分私が東京に出てきた頃にはあった気がしますもんね。それ45年前くらいのことですが。そう思えば立て直すのも道理かもしれません。
12月になってすぐ、Azzurraに顔を出しました。去年の年末以来ですから、こんなに長いことご無沙汰したのは初めてです。サイトウさんご夫婦に今後のAzzurraのことなど、聞いてみたんですけど、これを機会に、長くやってきたこのお店を閉めることにしたそうです。多くのお客さんが閉店の話を知ったせいもあるのでしょうが、レストランは満席状態で、Azzurraという店を閉めるのはもったいないなと思いました。しかし、考えてみるとマスターも70歳を超えて、会社であれば定年してる歳だし、ここからまたどこかで新しく店を開けるのも大変でしょうか。
もう、ここで飲み食いができないとなると、なんとも云えず未練がつのります。
イタリアンビールから始め、フリットに好物のトリッパ、マッシュルームのカルパッチョ、ほうれん草のソテーに、ムール貝に牡蠣に、まあ色々つついて、ワインは白から赤にいって、鰯のピザほおばったら、蟹のパスタにリゾット、仕上げは肉料理各種、魚もイキのいいのが揃っていて、最後はグラッパまでいただいて、余力があったらデザートも。Azzurraのこれができなくなるわけであります、ざ、残念。

でも、ご夫婦は変わらず千駄ヶ谷の鳩森神社の近くに住んでらっしゃいますし、お友達の末席にも置いていただけたので、これからもどこかで、料理を作っていただくこともできるんじゃないかと思って期待してます。

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年内はなかなか予約が取れないくらい忙しい状態みたいですから、年始はゆっくり休んでください。
当分大好きなイタリアへ旅行へ行くのも無理みたいだし、陽気がよくなったら、とりあえずゴルフにでも行きたいですね。

絵が下手で、似てなくてごめん。ほんとはもっと男前と美人です。

2018年11月 7日 (水)

創立30周年記念作品集

私事でなんなんですが、と云っても、ブログなんだからもともと私事なんですが、私の勤める会社が、今年の10月で創立30周年を迎えまして、私も最初からいたんで、会社が出来てから、30年経ったてことなんですけど、ちょっとあらためて、その膨大な時間に唖然としたわけです。そりゃ無事に存在できたことは、目出度いし、祝うべきことなんでしょうが、なんだかその実感というのが伴わないんですね。

ちょうど30年前というのは、1988年、思えば昭和の最後の年でしたが、仲間6人で、六本木の小さな一軒家で仕事を始めました。仕事はTVCMなどの映像制作で、会社の名前は、なんだか偉そうじゃないのがいいねということで、「spoon」としました。

そこからここまで、、まあ冷静に考えてみれば、たしかにいろいろあったわけで、創立当時40才だった社長は、今や名誉会長になり、今年古稀を迎えておられます。私だって34才でしたから、今は足す30ですからね。

ともかく、年月というのは、容赦なく分け隔てなく、流れていくもんです。

 

現在、社員は50人ほどおりまして、1年くらい前から、30周年には何か記念になることをしようという話になり、その一つとして、創立30周年記念作品集をつくることにしたんですね。まあこれは作品集なんで、毎年一冊作ってるんですけど、今年は一昨年から作品集の題名にしている「たべること、つくること」をテーマにして、ちょっと豪華版をつくることになったんです。

うちの会社は、映像など、モノをつくることが仕事で、そのあたりのことはプロとして当然詳しいわけですけど、なんだか、たべることにもすごく関心が高いんですね。

こっちの方は仕事ではないので、わりと趣味的に楽しんでるところはあるんですけど、なんかすごいプロ仕様のキッチンがあったりするわけです。

そういう流れの中で、この5年くらい、ある食の達人に加わっていただいて、週に一回「水曜食堂」という名のランチタイムを開いており、今回の記念作品集は、これを特集して取り上げようということになりました。最強のクリエイティブディレクターと、一流の編集者やデザイナーやイラストレーターやカメラマンに手伝っていただいて、一冊の作品集という名の冊子をつくることになったんです。

自画自賛となりますが、みんなの熱意で、これがなかなか良い本が出来上がりまして、創立記念日の10月4日には、お世話になった皆様に約800冊を発送いたしました。

その本の中に、私なりに30年を振り返って、文を載せました。

以下

 “私たちの流儀”

30周年というのは、なんだか他人事のような気もするんですけど、よく考えてみますと、ここまで歩いてきたspoonの時間というのは、たしかに存在するわけであります。

なにか環境を変えて、新しいことにトライしたいという思いで、小さな船を漕ぎだしたのが、30年前でした。現実はなかなか厳しかったですが、本当に多くの方々に支えていただきながら、少しずつ自分たちなりの存在感を作れてきたかとも思います。

たくさんの得難い仲間もできました。いろいろな理由で、袂を分かっていった人達もいます。会社というものは、一時として同じ形をしていることは無いのだな、ということもよくわかりました。ただ、しだいに、spoonの個性のようなものは少しずつ定着してきたと思います。

そんな中で、いつの頃からか「たべること」というのは、私たちにとって大切なことになってきたんです。厳密には、食べること、飲むこと、食べものを自分たちで作ること、そして、それを通じて人と触れ合うことなんですが。

誰かに何かを食べてもらうプロセスは、日頃私たちが仕事としている、映像を作って誰かに届けるプロセスと、非常に似通っています。まあ、言ってみれば、本業も趣味も同じようなことをしている人たちということなのです。

食べもののことも、映像のことも、ここの人たちは本当に好きで、そのことであれば、いつまででも話をしています。この環境は、意図してそうしたというより、いつのまにか自然とそうなっていました。気がつくと、ちょっとびっくりするような燻製窯や焜炉台が屋上にできていたりするんですね。

つくづくそういう人たちが集まってるんだなと思いながら、spoonにも、同じ釜の飯を食いながら、人が育ってゆくフィールドのようなものが少しずつできてきたのかなという気がします。

モノを作る場所には、人が集まってきて、そこで人が育ってゆくのですが、spoonにとって「たべること」という要素は、そこに大きく関係しているのかもしれません。

何年か前に見つけた「たべること、つくること」というフレーズには、実に我々らしい深みのある意味合いが込められています。

それは、ひょっとして、大げさに云うと、僕らの“流儀”のようなものかもしれません。

長くこの仕事をやってきて思うのは、この仕事は面白いけど決して簡単な仕事ではないということです。いつも難問が待ち構えているし、ハードルは毎回高くなっていきます。それだけに乗り越えた時の喜びも大きいのだけれど、悩みも深く孤独な局面に出くわすことも多々あります。そんな時、僕らのモノを作る時の“流儀”に返ってみることは、解決のきっかけになるかもしれません。

さて、考えてみると、30年という時間は、大変な時間ですね。赤ちゃんが生まれて30才になってるわけですから。

それに、世の中的には、30年続いた会社は、けっこう珍しいのだそうです。

じゃあ、30年で会社は何を残すのか。僕らの会社の場合、映像の原版というのがあります。ものすごい数ですが、これは歳月でいずれ破棄され風化します。お金が貯まったか。それほどでもないし、なんかあればなくなります。所詮天下の回りものですし。

人材はいます。でも、これも時間とともに、入れ換わります。

そう考えてみると、さっきの“流儀”みたいなものは残るかもしれませんね。

これはある意味“イズム”みたいなもんですからね。

30年目、私たちが掲げているのは、「たべること、つくること」

これ、意外に持つかもしれません。大事にしましょ。

Tatsujin

 

 

2017年11月28日 (火)

風が吹いても痛い病

この歳になって仲間が集まると、まず始めの30分から1時間くらいは、病気とその治療の話になるんですね。それほど深刻な話は出ないけど、まあ当然ながら、身体のあちこち弱ったり傷んだりしてくるわけで、経年劣化というか自然の流れなんです。

そんな中で、けっこうな痛みを伴うのに、あんまり人から同情されない病気というのがあって、いわゆる「痛風」なんですけど、これ同情されないどころか、ともすると失笑苦笑の対象になったりします。何故かと云うと、この病気の原因は、いわゆる暴飲暴食とか、不摂生とか云われていて、酒のみが好きな高価な食材をたくさん食べた時に起こる贅沢病であると、世間からは思いこまれているもんで、発病しても基本的には自業自得でしょと思われちゃうんですね。

その痛風持ちである私としては、ちょっとそれには異議を唱えたいところもあるんですけど、大まかには当たっておるわけなんです。

たとえば、身体丈夫であんまり病気したことなくて、ただ不摂生を繰り返すことで起きる病であれば、あんまり同情されないし、おまけに、「いたたたたたたあ」となると、むしろ滑稽にすら映るんですね。たしかに誰かが発病したという話を聞けば、同情する気持ちもあるけど、かなり興味本位に状況を知りたがるとこはあります。白状するとですね。

どういうふうに痛いかという話なんですけど、多くの場合、それは足首から先のどこか、親指の付け根とか、くるぶしとか、その時によって、その人によって、微妙に違うんですけど、足首の先のどこかに激痛が走るわけです。そして多くの場合、そこが腫れあがります。

それは、風が吹いても痛いというたとえで、この病名が付いたくらい痛いわけですよ。

私事で恐縮ですが、私はたしか40歳くらいの時に、東北の山奥で仕事でロケをしていたときに、初めてその症状が出たんですが、朝からだんだん痛み出した左のくるぶしが尋常でないことになってきまして、椅子から立ち上がれなくなったんですね。周りにいる人たちは撮影中なんで、みんな気が立ってますし、誰もそんなことに気付く人もなく、どうにか傍にあった照明用の機材の棒を杖にして、

「ちょっとひどく足くじいたみたいなんで、病院に行ってくるわ。」

みたいなこと言って、脂汗流しながら車までたどり着いて、幸い右足は痛くもなんともないので自分で車運転して、山の麓の診療所まで行ったんですね。そこのお医者さんは、ただ足首が腫れあがってるんで、捻挫だと思って、丁寧に湿布してくれたんですけど、どう考えても捻挫した憶えもないんですね。その後何日か山の中にいて、毎日酒も飲んでたんですけど、痛いには痛いんだけど、だんだんそのピークは過ぎたみたいで、帰る頃には腫れも少し退いてきたんですね。ただ気になったもんで、東京に帰ってから、年に一度の健康診断してもらっているお医者さんに電話して症状を話したら、

「ああっー、それ、痛風だな、ムカイさんの尿酸値の数値なら、間違いないですねえ。」と云われたわけです。

ここで解説しますと、この先生がおっしゃった尿酸値というのは、血中のある値で、この数値が危険域を超えると、血液中に結晶のようなものができて、これが鋭く尖ったコンペイトウみたいな形をしてまして、どうも足のあたりの血管の中で引っ掛かることによって、血管壁がダメージを受けて炎症を起こし、周囲の神経組織を刺激することで、激しく痛むということらしいのです。

この解説が、専門的に相当いい加減であることはご容赦いただくとして、まあそんな感じなわけです。

じゃなんで、この尿酸値が上がるのかというと、プリン体という成分が多く含まれた食物を多量に摂取すること。たとえば各種レバーとか、白子とか、アン肝とか、カツオ、イワシ、エビだとか、いかにも酒のみが好きそうなものたちを肴に深酒して不摂生してると、覿面と云われています。

そんな事なんで、酒ばっか飲んで、うまいもん食って、遊んでる奴がかかる贅沢病とか云われていて、世間からの同情が薄いんです。

ただ弁解を少しすれば、この病気の原因の一つには、遺伝の影響ということもあって、極めて体質的な病気とも言えるんですね。たとえば、女の人はどんな酒飲みでもかかりませんから。

で、私の周りを見渡すと、結構お仲間はいてですね、私が発病した時も、すぐに相談に乗って下さる先輩は、いろいろいらしたんですね。そして、この痛風にまつわるエピソードというのは、気の毒なんだけど、なんだか小さく笑ってしまうものでして、そういう話がいくつもあるんですが、ためしに一つ紹介しますと。

Kaidan


ずいぶん昔の話なんですが、私の大先輩のY田プロデューサーと、クライアントで出版社のS社のN川さんの話なんですけど、当時、このN川さんはまだ20代であったにもかかわらず、痛風を患っておられ、その日は家で脂汗かいて寝てらしたんですね。そこに、札幌にいるY田さんから電話がかかるんです。携帯もない時代だから仕方ないんですけど、自宅にかかる電話ってかなり、緊急を要するもんではあって、N川さんはなんだろうと思い、2階で寝てたから、痛い足を引きずりながら死ぬ思いして、長い時間かけて階段下りていったそうなんですよ。そしたら、

「あ、どうも、仕事は問題なく進んでます。ところで、今、すすきの大通りにいるんですけど、先週N川さんとロケハンした時、一緒に行ったキャバレーなんですけど、あれ、どの角曲がるんでしたっけ?」

という明るい電話だったそうで、N川さんは静かに受話器を置いたそうです。

云ってみれば、N川さんにとってみれば、災難なんですけど、この話何回聞いても笑ってしまうんですね。

その後、Y田先輩も、見事発病され、私もそうなり、今は、3人で一緒にお酒飲んだりしてますが、どうもこの痛風にまつわる話は、笑える話が多いんですね、なんでなんですかね。

ただ、なめていると大きな病気につながってしまうこともありますよと、主治医からは云われておりまして、

皆さん、体質改善に節制をしなければならんのです、実は、、まじめに。

 

 

 

2017年3月30日 (木)

学芸大のBAR「一路」のこと

Ichiro


東横線の学芸大学駅から2~3分のところに、「一路」という名前のカウンター7席程の小さなバーがあります。ここのマスターが良川さんと云いまして、かつて六本木の伝説のBAR「BALCON」のマスターだった方なんですね。

いつ頃のことかと云えば、1970年代の途中から、2004年の春まで、約30年続いたBARでして、私も70年代の終わり頃から店を閉めるまでお世話になりました。まあ、お世話になったというか何というか、私の場合、このBARに棲んでるんじゃないかみたいな頃がありまして、携帯電話もない時代、

「あいつなら、たいてい夜中にBALCONにいるよ」

と云われてて、ここに伝言残しとくと私がつかまるので、よく電話がかかった時期がありました。

六本木通りの明治屋の裏あたりだったんですけど、優に30人は入れるBARで、夕暮れから翌朝近くまで、毎晩、大いににぎわっておりました。

このBARは、有名なインテリアデザイナーの内田繁氏の作品であり、開店当初はデザイン界のお客さんが多かったようですが、そのうちに我々広告業界の人達が増えていったようです。ともかくいろんな意味ですごく居心地のいいBARで、私達は本当にお世話になったんですね。

そんなこともあり、良川さんとは個人的にも長いお付き合いをさせていただきまして、たまに店を抜け出して近所に飲みに連れてってもらったり、土曜日の朝に店閉めた後、一緒に海に行ってカワハギ釣りして、当時湯河原にあった良川さんの家で、釣った魚さばいて宴会やったり、ほんとによく面倒見てもらいました。

そのBALCONが、2004年の春に突然閉めてしまったいきさつは、このブログにも書いたんですが、当時ほんとに驚いたんです。そのあと、頼まれて六本木でBARをやったりされたんですが、しばらくしてから学芸大の今のBARを始められたんですね。それが多分10年位前のことだったですが、思えば30歳でBALCONを始めて30数年、良川さんも60代になられておりました。

私も気が付けば50代、酒の量も前よりは減って、ちょっと生活圏から離れた学芸大のお店には、しばらく足が遠のいておりました。

ここ数年のことですが、BALCONでさんざん一緒に飲んで、よく仕事した人達が、次々に60歳を超えて節目を迎え始めまして、その度にあのBALCONの話が出るようになったんですね。そこで、良川さんが作ってくれた、あの懐かしいサイドカーやドライマティーニやハーパーやジンやウォッカやなんだかんだ飲みながら、良川さんに会いたいねという話になって、学芸大に電話したんですが、この数年連絡が取れなくなってたんです。

そのことが、このところずっと気になってたことの一つだったんですけど、今年2月になってから、良川さんが店を開けてるみたいだよという情報が入ります。友人のNヤマサチコさんからのメールでしたが、今年になって「一路」で飲んだという、どなたかのブログを、仕事仲間が見つけてくれたみたいで、そのブログには良川さんの写真も載っていて、あのBALCONのことも書いてありました。まさに朗報であります。

すぐに電話して行ってみました。まず私の仕事の後輩達と6人で、もちろんあの頃お世話になった奴達です。そして、あの頃なにかと云えばBALCONに溜まって飲んでたレギュラーメンバーにも知らせました。皆、当時30代40代でバリバリにCMの仕事してまして、時代も最盛期で、それぞれにいつも大仕事を抱えてた人達でした。

重たい仕事かかえながら、いつも明るく飲んでましたね。たまに暗いこともあったけど。

よく飲んだけど、結構まじめに働くことは働いて、みなさん、名の知れたクリエーターにおなりになりました。そして、今やバリバリの60代です。すごいメンバーが揃って、6人が「一路」のカウンターに並びますと、なかなか壮観でありました。

ほんとはあと一人大物が加わって7席を埋めるはずでしたが、急な用事でかなわず、また近いうちに集まることになりそうです。いずれにしても、ちょっと恒例化しそうな会ではあります。

それにしても、良川さん、73歳におなりになっても、あのキリッとしていながら泰然自若のバーテンダーのキャラクターはなんにも変わっておりませず、マティーニもサイドカーもまったくあの頃のままの旨さでして、お見事でした。

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

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2016年2月18日 (木)

断酒

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どういうわけか、2月の1ヶ月間、酒やめることになったんですね。

きっかけは、昨年末の人間ドックで、腸にポリープが見つかりまして、2月の初めに切除することになり、内視鏡でやるんですけど、そのあと自宅で1週間ほど大人しくしてなきゃいけなくて、まあ、その間酒飲んじゃいけないわけです。

ので、禁酒の予定は1週間だったんですが、そのまま1ヶ月酒を断ってみないかと、ある方からそそのかされたんですね。その人はAZさんと云って、今はリタイアされてるんですが、かつて広告を制作されていて、伝説のCMプランナーと云われた人なんですけど、私が昔から尊敬してる先輩で、今は酒飲み仲間なんです。

AZさんは2月に酒抜くことにしたみたいで、どうしてそういうことしようと思ったのか聞いてみたんですが、この方、最近お医者さんのお友達が多くて、かなり人間の身体に関しての医学的知識を身に付けられてまして、まあ、もともと知識には貪欲な方なんですけど、こんなふうに云われるわけですよ。

「お互い60年以上生きてるわけで、その間、人間の内臓というのは、休みなく働き続けてるんだよね。寝てる間もです。そこに、毎日のように酒を飲み続けてきたのね。彼らにしてみたら、勘弁してほしいわけですよ。ここに来て1ヶ月くらい酒をやめてあげると、ずいぶん長年の疲れが取れるんじゃないかと思ったわけよ。」

「じゃ、なんで2月にしようと思ったわけですか。」

「それは、一年のうちで2月が一番日数が短いじゃない。」

「はあ」

「実際それやると、かなり内臓の機能は回復するみたいよ。」

と。

それで、もう一つ思い出したことがあって、1月にある人から年賀状が来たんですが、この人も業界の大先輩で、音楽プロデューサーのA田さんというんですけど、“ちょい”じゃない悪オヤジで、昔から、飲む打つ買うの三拍子の人なんですね。で、年賀状の文面ですが、

「元気でお過ごしですか。

私、昨年末にめずらしく体調を崩し緊急入院。

16日間の絶食と点滴生活・・・・・。

おかげで血圧と体重が正常値に戻った。

おまけに“有馬記念”も的中と大忙し。

現在リハビリの毎日です。

2016年 健康で平和な良い年であります様に。」

とありました。あまり反省は感じられないのですが、良かったです。そういえば、この人、今まで酒切らしたことなかったと思いますよ。

 

確かにそうです。習慣ということもありますけど、もうずいぶん長いこと酒飲み続けてますもんね。

ちなみに、貧乏であんまり飲めなかった学生時代を除いて、続けて酒を抜いたことがどれくらいあったろうかと、思い出してみたんですが、

昔、ソルトレイクってところで、CGの制作をしたときに、連日徹夜になったのと、この街の多くの人が入信している宗教の宗派が、酒飲んじゃいけなくて、どこに行っても酒が置いてなかったことがあって、この時、多分5日間ほど飲めなかったのが最長だったんじゃないかと思うんです。

そんな私がですよ、一カ月も酒を抜くことができるのだろうか。2月に入って、2週間ほどが過ぎましたが、私もAZさんも今のところ挫折してません。禁断症状とか出るとやだなと思ってたんですが、そう決めてしまうと意外と大丈夫で。まだ油断はできないですけど。

ともかく、それなりに長く生きてきて、何だってこんなに酒と切っても切れないことになってしまったのか。物心ついてから、どうして酒を飲み続けているのか。納得していただくに、有効な理屈はこれと云ってございません。

「酒呑みの自己弁護」という、山口瞳先生の名著がありますが、痛く共感したのを覚えております。

酒呑みというのは、「ちょっと一杯やるか。」という呼びかけに、無上の悦びを覚えます。ちょいと気の利いた肴でもあれば、この上ないです。そして、言ってみれば、いつまでも飲んでいられます。それが、気の合う仲間となら最高ですし、ある意味、たいていの場合、誰とでも、二人でも三人でも大勢でもいいし、一人でももちろん、かまいません。

酒には、嬉しかったり楽しかったりする気持ちを増幅する作用があり、盛り上がるとドンチャン騒ぎにもなります。ただ、不機嫌だったり、哀しかったり辛かったりする気持ちも増幅されますので、ちょっと良くない酔っ払いになる事もあるんですが。それに、適量を過ぎると、わりと、しばしば過ぎる傾向にあるんですが、迷走することもあります。

ということで、酒が人生にとって、どうしても必要かというと、そんなこともなく、プラスになる時もあればマイナスの時もあります。トータルで云えば、どっちもどっちと云うことでしょうか。でも、飲んでしまうんですね、習慣的に。

昔、この仕事を始めて、間がない頃、あこがれの鈴木清順監督があるビールのCMを作られたときに、制作進行で付かせてもらったことがあって、もう、そばにいれるだけで、ただ幸せだったんですけど、何だか心に沁みるいいCMだったんですね。

焼鳥屋のカウンターで、大人の男が一人(高橋悦史さんなんですけど)ビール飲んでるだけなんですが、その店の壁に女の人の絵があって、ふっとその絵を見るみたいな話で、そこにナレーションが入って、

「酒、煙草、女、ほかに憶えし事もなし・・・」 って云うと、

トク、トク、トク、とビールが注がれるわけです。

駆け出しの男としては、なんかいいよなあ、男だよなあとか思ったわけですよ。

つまり、この頃すでに、私の価値観には、男の人生には酒というものが組み込まれてるんですね。そして、ずっと組み込まれたままなんです。

煙草はやめれたんですけど、だから酒もやめられるんじゃないかと云うと、それとこれはちょっと違う気がしますね、やはり。

酒やめたら、もしかしたら、健康診断の数値が良くなって、健康になって長生きできるかもしれないけど、別の意味での健康を損なってしまうかもしれない。世の中には、酒を飲めない人も、酒が嫌いな人もいて、そういう人でとても仲良くしている人も結構いるんですけど、自分が酒と縁を切る事は出来ないんだろうなと思うわけです。

私なりの、なんの説得力もない自己弁護ではあります。

ということで、一ヶ月間、断酒できたとして、そのあと画期的に人生が変わるとは思えないのですが、ともかく、見たことのない景色を見てみようと云う、未踏域への冒険のような気持ちでいるわけです。

大げさですけど。

 

 

 

2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2013年8月26日 (月)

神宮外苑花火大会

毎年、夏になると8月のどこかで、神宮の花火大会があるのですけど、

これが、うちの会社の屋上から見ると、方角といい、距離といい、ものの見事にベストポジションなんです。

そのことは、約10年前にわかったんですけど、うちの会社が六本木から今の場所へ引っ越す少し前に、仲良しの音楽プロデューサーのWナベさんに、引っ越し先の場所の説明をしたら、Wナベさんが予言者のように、

「その場所は、夏の神宮の花火がすっばらしく見えるところです。」

と言い放ったのですね。ちなみに、その時は真冬だったんですけど。

この人が神宮花火大会に関して、相当詳しいマニアックな情報を持ってらしたことは、間違いないです。で、引っ越して来てみて最初の夏、弊社がほんとに見事な花火見物ポイントであることがわかりました。

そして、それから年々私たちも盛り上がり、評判が評判を呼び、このイベントは人数的にも内容的にもエスカレートしていきました。この数年、来て下さるお客様は300名近くを数えるようになり、けっこう大量に用意をする生ビールも、他酒類も、ソフトドリンクも、毎年テーマを決めて作るツマミ各種も、ものの見事になくなります、イナゴの大群が通り過ぎた後のようにです。仕掛ける側としては、イベントが盛り上がるのは大変うれしいことなのですが、3年ほど前に300人をはるかに超えたことがありまして、その時はちょっとあわてました。そういう時って、不思議と私たちが誰も知らない人が一緒に見物してたりしてるんですけど。

花火は、19:30~20:30で、10000発が打ち上がりますが、その間、街は大混雑でして、みな、その後しばらく飲んで騒いでいかれます。

これは、恒例化している夏の大イベントです。会社としての大きなパーティーは、年に2回ありまして、一つはこの花火大会、一つは年末の忘年パーティーです。

どちらも、それなりの数のお客様が来られますが、その人数が収容できるのは、4階の屋上スペースがあるからなのです。それほど大きな建物ではありませんが、4階は半分が屋上、半分がペントハウスのようになっていて、けっこう大きめのキッチンが内包されています。このスペースがないと、いっぺんにたくさんのお客様を招くことはできないのですね。

なんで、こんなものが会社の中にあるのかというと、会社が神宮前に越してきた頃に話は戻ります。10年前、会社は六本木にあったんですが、長く暮らすうちに、少しずつ人も増えて、だんだん部屋を借り足していたら、6か所くらいに家賃払うことになってて、おまけに六本木は、六本木ヒルズの再開発で、街中取り壊されて、違う街になろうとしてました。そこで思い切って、みんなで一つの建物に入れる物件を探すことになったのです。そこで、不動産担当役員のマンちゃんが探し当てたのがこの物件でした。

実はこの時点でまだ建物は建っておらず、まさにこれから建築というところでしたが、3階建てのビルになる予定で、我々が求めていた面積に対してもちょうどよくて、一軒まるごと借りられればベストだなあということになって行きました。いろいろと賃貸契約の話をしていく中で、大家さんから、どうせなら使いやすいように、間仕切りとかの希望も言ってくださいと言われて、担当の建築家さんを連れてきてくださったんですね。

確かに、どうやって使うかを、あらかじめ自由に決めさせていただくとずいぶん助かります。

で、いろいろ相談してた時に、ふと、

「屋上はどのようになる予定でしょうか?」と聞いてみたんです。

六本木に借りてた事務所のうち、ほんとに小さな一軒家があって、それに6畳くらいの小さな屋上スペースがあって、たまにそこで詰め詰めの宴会すると楽しくて気持ちよかったので、なんか気持ちのいい屋上になったりするといいなと思ったんです。

聞いてみると、予定では、空調の室外機や、電気の変圧器とかが置かれた、普段は使うこともない何の変哲もない場所になるとのことでした。

「それ、たとえばですね、なんか夕方ちょっとビールとか飲んで、気持ちのいいスペースになったりしませんかね。」

まあ、何でも言うだけは言ってみようかと思って、などということを話してみたらですよ、すっごいこの建築家と話が盛り上がってですよ、いつの間にか、屋上は4階と呼び改められ、半分は気持ちのよい板張りの屋根なしスペースと、もう半分は屋根つきのペントハウスで、エレベーターは4階まで上がるという計画に書き換えられたんですね。

「いんですかね。」

「いいです。いいじゃないですか、これでつめていきましょう。」

みたいなことになっちゃいました。

ただ、完成した時、4階分の家賃が新たに追加されたのは当然のことでしたが、それはまあそうですよね。

そこから、4階スペースが今の状態になっていくには、何段階かがあるのですが、初めのころは、わりと普通に会議に使われてたんですね。まずだんだんに、台所の調理能力をものすご強化しました。これは、火力、冷蔵力、調理道具力、食器力、すべてです。そして、4階で料理する時の材料の仕入れは、その都度大変な量になってきました、酒もしかりで、発注の仕方もすでに玄人っぽくなってきています。仕事の流れの中でよくある、親睦の会とか、打ち上げとか、ふつうだとどこかのレストランを借りるようなことがあっても、そういう時は、まず4階で自分たちでやります。屋上の板の床は、使用頻度の多さに耐えかねて、抜けましたので補修もしております。

そして昨年、こうなったら徹底的にと開き直ったわけではないのですが、4階責任者のO桑君の発案のもと、私たちのマインドをすごくわかってくださっている、ある有名なデザイナーの方が、4階大改装をやってくださいました。4階すべての、壁、床、天井、照明、机、テーブル、家具、キッチンなどを、本当にただただ居心地よく楽しくなる形にしてくださり、おまけに、屋上部分には、これも嬉しい炭焼きコンロ台と、いっぺんに大量のベーコンを作ることのできる大型燻製窯を設置してくださいました。

もういつでも完璧に私たちの宴会ができる風景になっています。

どちらかというと、もうここであまりシビアな打ち合わせはできないかなとも思いますけど。

えらく大好評だし、まあいいかなと。

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2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2010年8月27日 (金)

しっかし、暑い

あと何日かこの状態が続くと、連続なんとかの暑い新記録になるのだと、昨夜のニュースで云ってましたけど、そりゃそうでしょうね、こういうのはちょっと記憶にないですもの。

地球的規模で何かが変わって来ているのは確かなようですし、もうすでに東京のあたりは、亜熱帯と呼んでも差し支えないと思われます。

一年中で一番暑かろう7月の終わりごろに生まれた私としては、夏の暑さに対してわりと自信がありましたけど、今年はすっかり参ってしまいました。なるべく街を歩くのを避け、すぐに建物の中に入ろうとし、駅のエレベーターなどにもすぐ乗ってしまいます。歳のせいもありますが、やっぱりばてているのだと思います。

大好きなゴルフも、ちょっと勝手が違い、いつも大騒ぎでやかましいゴルフ仲間たちが、なんとなく日陰を探して、そこにたたずんでおとなしくしていたりします。基本的にあまり喋りたくないのです。この夏、最も元気良くゴルフしたのは、台風4号が日本海を通過した時でした。曇ってましたから。

暑いと何か考え事をするのも面倒になりますよね。途中で、まっいいか、みたいになりやすいです。私は普段からこの傾向が強く、個人差もあると思いますけど。でもわりと、暑いところからドストエフスキーみたいな人は出にくいですよね。

犬も弱ってます。いつも2匹して玄関の石の上でぐったりしていて、この前、名医の赤ひげ先生に診せたら、一目で、

「こりゃ熱が出た顔だなあ。」と言われました。

とにかくこの暑いのに毛皮着てるわけですから、可哀そうです。犬の散歩は夜なら10時以降だと言われました。夜でもアスファルト触ると熱いですから、確かに。

わたし的には、最近体重が増えていることも、絶対に良くないことです。去年からだんだんにですが、自分が大きくなってきていることが自覚できます。デブに暑さはこたえますし、周りの人をより暑くもしてしまいます。妻からは、

「あなたがいるだけで、部屋の温度が1度か2度上がる。」と云われています。

ひどくありません?

そして、なぜか暑くても食欲は落ちないんですね。昔からどんな時でも、食欲は落ちないです。あんまり病気とかになったこともないし、多分、胃腸が相当に丈夫なんだと思うんです。ストレス感じると腹減ったりしますから。個人的には、身体がちょっと弱くて痩せて知的な人に憧れてるんですけど・・

そんなことで、冷たいビールはおいしいし、たくさん飲んで食べ、でも暑いのでほとんど動かず、そうするとまた大きくなってしまい、また暑い。と、負の連鎖になっております。

朝早起きして犬の散歩とかすればよいのですが、夜になると元気が出て夜更かしして、翌日は寝坊してしまい、これもうまくゆきません。

どこかで断ち切らねば、そのうち馬肥ゆる秋になってしまいます。何とかせねば・・・

しかし、暑い。Puha-

2009年12月11日 (金)

社員旅行キャンプ

Camp

私の勤めてる会社の話なんですが、ちょっと変わっていて、社員旅行に全員でキャンプをするんですね。昔はもうちょっと普通の社員旅行をやってたんですけど、海岸のロッジ風ホテルに泊まって、夜じゅう砂浜でキャンプやったりしたころから、だんだんその傾向が強くなってきたようで、最近では、去年も、この前も、約40名、南アルプスの渓谷で、まる2泊3日キャンプやって帰ってくるんですね。

何故そんなことになっているかというと、皆、存外これが好きだということもあるのですが、主にけん引している人が二人おります。うちの会社のリーダーというか、現場を束ねている中間管理職というか、普段からペースメーカー的存在である、仮にO君とW君とします。(別に匿名にすることもないんですけど、すぐわかるし)

O君は、少年時代から、バリバリのボーイスカウト出身で、いまでも世界中でキャンプをしていて、こういうことに関して大抵のことでは驚かない人で、アウトドアライフを本当に分かり、愛している人です。W君は、知る人ぞ知る転覆隊の隊員で・・・

転覆隊、若干の説明が必要ですが、サラリーマンたち(主に広告業界)で構成されたカヌーのクラブで、クラブという呼び方が適しているかどうかわからんのですが、普通のカヌー乗りが避けて通る激流ばかりにトライして、年中転覆ばかりを繰り返している隊なのです。ここの隊長という人が、私もよく知っている人なんですけど、転覆隊のことを本に書いたりしているのでご存知の方もあると思いますが、とてもかたぎとは思えないむちゃくちゃ向こう見ずな人なんです。この隊長に鍛えられているW君は、何というかけっこう野蛮なアウトドア派の人なのです。

この二人がリードするキャンプというのは、ある意味本格的でして、ある意味すごく面白いのですが、けっこうハードルが高いのです。

たとえば、2年続けて訪れている南アルプスのそのキャンプ場は、自然のままのとてもきれいなところですけど、私たち社員以外、誰もいません。洗い場と、トイレと、形ばかりのバンガローがあるのですが、それはそれは、何から何まで自分たちでやらねばなりません。キャンプなんだからそれはそうだろうと思うかもしれませんけど、キャンプにもいろいろなレベルがあって、あまり体験したことのない者にとっては、ものすごく新鮮な驚きがあります。いわゆる世間でいうところの社員旅行の、慰安とか、慰労とかいった意味あいは皆無です。全員、ひたすら、ただ働きます。楽しくはありますが。

現地に到着すると、テントを張り、椅子やテーブルを組み立て、屋根も付け、石で釜戸を作って、薪を運び、ある者は猪肉や鹿肉やキノコなど現地調達の食材を集めに走り、ある者は野菜の皮をむき刻み、食材の下ごしらえをし、ある者は火を起こして湯を沸かし見張り、やることは山のようにあります。準備ができたところでメインイベントのメシ作りです。何班にも分かれいろんなものを作りますが、40人分は結構時間がかかります。晩メシが出来上がったころには、心地よい疲労感漂う身体に酒が沁み渡ります。そしてこのメシが、異常にうまい。わけもなく楽しい。

さて、大宴会が始まりました。そこらへんで、すでに力尽きて倒れてしまった奴もいますが、気づくとまた蘇って飲んでおります。他に誰もいない谷あいに持ち込んだフル装備のオーディオ機器の大音響は、真夜中まで響き渡り、焚火の炎はえんえんと燃えさかって、いつまでも宴会は続きます。

やがて、つかの間の朝の静寂が訪れたかと思えば、どこからともなく朝飯の支度の火が起き始めます。皆、若く元気です。彼らの大半は、このあと弁当を持って、けっこうきつい山登りに出かけました。私はというと、何人かで、山をおりたところにあるサントリーのウイスキー蒸留所に出かけ、半日シングルモルトを飲んでおりました。

夕方、山登り組と近くの温泉で合流し、またキャンプ場に戻って、火をおこし、メシを作って、二晩目の大宴会が始まりました。その夜は、ぐっと冷え込み、火を大きくして、しこたま酒を飲みます。労働の後の酒は、またしても心地よくしみ渡っていきます。2日目は、その辺りで倒れている人数も増えております。昼間の激しい山登りを終えた社長は、早々にテントに沈みましたが、なおも大宴会は続くのです・・・朝まで。

しっかし、このエネルギーは何なんだろう。

私は、翌日早々に、この日東京で用事のある人たち数人を乗せて帰京しました。そして帰宅したあと、うちの犬たちと一緒に昼寝しました。爆睡でした。

一方、会社の若者たちは、あとかたずけをした後で、帰り道に富士急ハイランドによって、絶叫マシンに乗り倒し、絶叫しつくして帰ってきたそうです。

次の日が月曜日だというのに…

恐るべきエネルギー・・・・世の中の役に立てたいものです。

 

2009年10月 6日 (火)

舞阪の「シンコ」と気仙沼の「サンマ」

この夏に行った二つの小旅行の話です。一つは夏の初めにシンコを食べに静岡へ、一つは夏の終わりにサンマを食べに気仙沼へ。

メンバーは、私と、仕事の先輩であるKさんとYさんの3人。

ことの始まりは、いつだったかこの3人で飲んでいた時のことです。

私たちは、仕事柄、けっこういろいろなところを旅しているのですが、この国の中でも、まだまだ知らないところがあります。そこで、前々から気になっていて、まだ行ったことのない場所の話になりました。

その時、Kさんが熱く語ったのが、気仙沼でした。たしかに何かで読んだり、誰かから話を聞いたりしたことがありますが、3人とも行ったことがありません。いろいろ話していくうちに、だんだん盛り上がって、なんだか圧倒的に行ってみたくなりました。

よしっ、いつ行くか決めようということになり、話は一気にまとまり、夏の終わりに行くことになりました。こういうことをたくらんでいる時は、みな子供の顔になります。

Kさんは、ごきげんで演歌を口ずさんでいました。

♪港――ぉ、宮古、釜石―――ぃ、気仙沼――――っと。♪

森進一の港町ブルースでした。

後日、Kさんから気仙沼の資料を渡されました。この人はもともとが企画マンのせいか、いろんな資料がでてきます。いつからためていたのか雑誌などの記事がたくさんあります。三陸のリアス式海岸に位置する漁港の風景、海沿いの単線を走るディーゼル列車、そして、港に上がる海の幸の様々、ホヤ、緋衣エビ、カキ、フカヒレ、カツオ、キンキ、サンマ等々、ナマものあり、焼き物あり、なかでも「福よし」という老舗の居酒屋で、秘伝の炭火遠赤外線焼きのサンマの写真は絶品でありました。なるほど、よい資料です。

この資料のなかに、紛れ込むように入っていたのが、静岡の舞阪の「シンコ」の資料でした。Kさんに聞くと、

「これは別企画なんだよ。初夏の企画ね。」

などとニコニコおっしゃる。

これも、読むと面白いんですね。シンコとは、コハダの稚魚で、築地に来る寿司屋さんたちが、初夏に初物を心待ちにしているのが、浜名湖「舞浜のシンコ」なのだそうです。そんな中、地元でただ一人、舞阪のシンコにこだわっている寿司職人がいるというのです。シンコのにぎり寿司は、初水揚げのときは、まだ本当に小さくて、12枚から10枚づけでにぎるそうです。だんだん大きくなるにつれ、8枚、6枚、4枚となっていきます。何枚づけが食べられるのか、急いで電話をしてみました。6月のはじめでした。

「今年はまだ上がってませんね。漁師さんの話では、去年より少し遅くなりそうで、7月のはじめからですかね。」

と御主人。

かくして夏の小旅行企画は、いつの間にか夏の初めと終わりの2企画となりました。

ここから、地元と連絡を取りながら、スケジュールを立て、移動手段を決め、宿泊場所を選んで、どこで何を食べるかをセッティングするのは、私の仕事です。昔、3人で仕事をして、ロケハンやロケに行った時も、それは私の仕事でした。みんなしておっさんになっても、その役割は変わらないのです。相変わらず、私は最年少です。

やはり、たしかな企画をもとに、リサーチを徹底すると、すばらしい出会いが訪れます。

それぞれ、一泊と二泊の幸せな小旅行となりました。

晩夏の気仙沼を満喫した夜のスナック、3人で、あの「港町ブルース」を唄いました。一番から六番までを唄いながら、Kさんのこの企画は、まだまだ続くのだなと思いました。

一、背のびして見る海峡を

今日も汽笛が遠ざかる

あなたにあげた夜をかえして

港 港函館 通り雨

二、流す涙で割る酒は

だました男の味がする

あなたの影をひきずりながら

港 宮古 釜石 気仙沼

三、出船 入船 別れ船

あなた乗せない帰り船

うしろ姿も他人のそら似

港 三崎 焼津に 御前崎

四、別れりゃ三月待ちわびる

女心のやるせなさ

明日はいらない今夜がほしい

港 高知 高松 八幡浜 3nintabi_6

五、呼んでとどかぬ人の名を

こぼれた酒と指で書く

海に涙のああ愚痴ばかり

港 別府 長崎 枕崎

六、女心の残り火は

燃えて身をやく桜島

ここは鹿児島 旅路の果てか

港 港町ブルースよ

2008年8月20日 (水)

王府の醋滷麺(スールーメン・ツールーメンともいうらしい)

世の中には、いつでも食べられると思っているものが、ある日突然食べられなくなってしまうということがあります。そして、それは、そういうものに限って、大好物だったりします。

私にとって、その一つに、醋滷麺(スールーメン)という料理があります。醋滷麺に出会ったのは、およそ30年前のこと。私が学校を出て働き始めた会社のすぐそばにあった中華レストランの定番メニューでした。そのお店は、王府(ワンフ)といいます。勤めていた会社から50メートルと離れていなかった王府の料理はほんとにおいしくて、昼も夜もよく食べました。その会社と王府はほとんど親戚づきあいをしておりました。

そういうことなので、このお店には、忘れられないメニューがいろいろあるのですが、一つ選ぶならやはり醋滷麺なのです。一言で言うと冷たいスープ麺です。お酢が効いていてすごくすっぱいのだけど、スープのだしと絶妙のバランスがとれていて、すごくおいしいのです。具は、茹でた蝦とひき肉と、ドッサリのニラだけです。シンプルだけど、これがなかなか癖になるのであります。

私がこの醋滷麺と、はなれられなかった理由がもう一つあります。それは、その頃、私がほぼ毎日、二日酔いだったことです。冷たくて絶妙にすっぱくて、他のものは食べられなくても、これだけは、残さずいただけて、不思議と二日酔いが醒めていきました。この会社に在籍した約12年間、ほんとによく二日酔いで食べた醋滷麺でした。会社を替わってからは、遠くなってしまったので、めったに王府にはいけなくなりましたが、たまに近くに行くことがあると、醋滷麺をいただきました。お店の人たちも懐かしがってくださり、デザートをサービスしてくれたりしました。家族ができると、子供を連れて行ったりもしました。そしたら、家族全員にデザートをサービスしてくれました。

二日酔いのたびに、醋滷麺食べたいなあと思いましたが、昔のようなわけにもいかず、でも、王府にいけば食べられるのだと思うと、それをまた楽しみにしていました。

ところが、何年か前のある日突然、王府は、なくなってしまいました。

相変わらず、いつもお客さんはいっぱいだったのですが、オーナーの方の都合で、お店を閉めることになったのだそうです。お店の人達もみんな、ばらばらになってしまうとのことでした。

醋滷麺も含め、食べられなくなってしまう料理たちが、頭をかけめぐりました。でも、お店がなくなってしまっては、手も足もでません。食べられないことが現実になると、ただただ思いがつのります。ちょっとした恋愛感情です。思い出すたびに、

「いま、醋滷麺、食わしてくれたら、5万円払ってもいい。」

などと、わけのわからぬことを言ったりします。

それから何年たったでしょうか。今年になって、ある朗報がもたらされました。前の会社の私の後輩が、偶然、御茶ノ水のホテルの中華レストランで、かつて王府のメニューにあった懐かしい料理をいくつか見つけたんだそうです。そこで、いろいろ調べてみると、あの時、王府を辞めたコックさんが一人、そのレストランで料理を作っていることがわかりました。そして、そのメニューにあったんです。醋滷麺が。

夏の初めに、なつかしい人たち何人かで、そのレストランに行ってみました。昔別れた恋人にでも会いに行くような、そんな気持ちだったと思います。おおげさに言うと。

器とか、雰囲気はちょっと違うのですが、細かいこと言うとちょっと違うのですが、間違いなくあの醋滷麺でした。お店の人は、スールーメンじゃなく、ツールーメンといいましたけど。いや、うれしかったなあ。

またしばらくして、大きくなったうちの子供たちをつれていきました。彼らも、大好物だった海老の料理を食べて、これだこれだと大喜びしておりました。そして、仕上げは、やっぱり醋滷麺です。Wanfu5

気も済んだし、しばらくお会いすることもなさそうですが、あそこに行けば食べられると思うだけで、心安らかです。ほんとに。

2007年7月 3日 (火)

ツバイヘルツェンという店

Tsubai_2初台の新国立劇場の近くに、“ツバイヘルツェン”という小さな洋食屋さんがあります。ドイツ語で、二つの心とでもいう意味のようです。この店に初めて行ったのは、もう20年位前になります。もちろん国立劇場もない頃、路地裏のほんとに小さな一軒家で、看板もドイツ語で読めないし、店なのか民家なのかわからない、不思議なたたずまいの店でした。当時私はたまたま初台に住んでいたのですが、偶然ともだちに連れて行かれたこの店は、ちょっとびっくりするほど、おいしかった。そして、ちょっとびっくりするほど、ユニークなマスターがいたのです。

ここの料理は別段かわったこともない洋食です。たとえば、オムライス、コーンコロッケ、ソーセージ、ビーフシチュー、マカロニグラタン、ネギピザ、カレーライス、ハヤシライスとかとか。でも、どの料理も普段食べているものと明らかにちがう完成度がありました。そして本当においしい。感動をあらわにしていると、カウンター越しにマスターが、どうだ、このやろう、まいったか、みたいな顔してこっちを見ているのに気付きます。やがて少し親しくなると、今度は、こっちが食べてる横から、どうだ、このやろう、うまいだろ、と話しかけてきます。そして、何故うまいかの解説が始まります。さんざん通った私は、それぞれの料理の解説をほぼ覚えてしまいました。要するに、どの料理も、この店では、出来合いの材料は使わず、素材からしかつくらないということ。そして、その作り方は、マスターが13年間ヨーロッパの一流ホテルで働いて身につけた技術であるということ。そして、このマスターにものすごく料理の才能があったこと。常々彼は料理は芸術であるといっております。まあいってみれば自画自賛なのですが、うまいのは確かなわけで、ごもっともなわけです。

このマスター、松永穂さんといいます。この人、何ていったらいいか、頑固で短気、酒飲みで生一本、融通ならきかない。知る人ぞ知る名物マスターなのです。この人は、初めての客にとにかく厳しい。(美人だと優しいんですけど。)うまいものを、ちゃんとうまいとわかる客かどうか、まずじっと見ております。少しでも気に入らないと、明らかに不機嫌になり、あげくに、出て行けこのやろうということになります。そういう時は、人間のできた奥さんがとりなして、何とかおさめるのが常ですが、せまい店内は、一瞬すごく気まずくなります。それに、この店は完全予約制です。どんなに暇でたとえ客が誰もいなくても、予約してない客は入れません。こういっちゃ何ですけど、完全予約制の店には見えません。偶然入ってきておもいっきり怒鳴られた客のほうがいい迷惑です。驚いて帰ろうとする客に、来るときは電話してから来いよとかいって、無愛想に店のカードを渡したりします。いつだったか、店閉めたあと酒飲んでいて、何故にここは完全予約制なのかを聞いてみたことがあります。酔っ払ったマスターがいうには、うちは、今日来る客のために、何時間も何日もかけて材料を用意する店なんだよ。ソースだってなんだって全部素材から作ってんだから。急にきて、ハイヨってわけにゃあいかねえんだよ。たとえばピザの生地だってうんぬんかんぬんと、いつもの長い話になってしまい、質問したことを後悔したものでした。でも、この人は、自分が好きな人に本当にうまいものを食わしてやりたいという愛情にあふれた人であることも確かです。ちょっとわかりにくいのですが、しばらく付き合うとよくわかります。

実は、マスターが昨年の春に病気で亡くなっていたことを、最近になって知りました。64歳だったそうです。ここ数年ご無沙汰していて何も知りませんでした。店のほうは、奥さんと息子さんで続けてらっしゃるとのことでした。電話をして奥さんに、遅ればせながらお悔やみを申し上げて、久しぶりに予約をしました。店の奥に小さな仏壇があって、機嫌のよさそうなマスターの小さな写真がおいてありました。その横に大学ノートが4冊あります。この店の客たちが1ページずつマスターに手紙を書いてました。みんな、怒られもしたけど、こうやっていなくなってみると、なつかしい人だよなあと、思っているみたいでした。私も書きました。料理のレシピは完璧に奥さんと息子さんに伝わっていました。本当によくできた奥さんです。マスターの作品ともいえる料理はちゃんと残り、家族が引き継ぎ、客たちにこんなに惜しまれて。悲しかったけど、ちょっとうらやましい人だよなと思いました。ホントにわがままだったんだから。

“ツバイヘルツェン”の意味する二つの心とは、料理をつくる人と食べる人の二つの心のことだと、いつか聞いたことを思い出しました。

2005/6