家族 Feed

2024年2月13日 (火)

お伊勢参り

このところ、ずっと定期的に帰郷しているんですけど、ひとつには両親が90代の半ばということで、何かと気にかかることが多く、まず父と母と顔を合わせるため、また、いろいろに身体の機能が弱くなっていることで、日頃父母がお世話になっている方々へのご挨拶と聞き取りなど、それと、骨董品となった実家家屋の維持管理のことなど、いろいろあります。
ただこのペースで通っていると、慣れてきたこともありますが、かつて遠く感じていた故郷との距離は、ずいぶん短く感じるようになりました。現に品川ー広島間は、4時間を切っておりますし、なんなら日帰り出来そうなくらいです。初めて上京した時の寝台列車と比べれば、格段の進化と云えます。
格段の進化と云えば、その列車の乗り降りをする駅、ステーションも気が付けばものすごい形に変化しております。考えてみれば、どこも大きな街の大きな駅は、いつでも工事中で、徐々に日に日に巨大化しておったわけで、久しぶりに降り立ってみると、ホテルもデパートもいろんなものが内包されて、すっかりその姿を変えています。
使い慣れていないので、どちらを向いて歩いているのかわからなくなったりして、どうもどこの駅も同じような形とデカさで、なんだかその土地その土地の個性も無くなってきたかなと思うのは、こっちが時代遅れなのかもしれません。明らかにその機能は大きく進化していて、多分ものすごく便利になっているのですよね。端から端まで歩くとへとへとになりますけど。
このところ、地方の大きな駅に降りることが続きまして、東京も広島もそうなんですけど、京都、博多、名古屋、盛岡、大阪なども、皆よく似た巨大な駅になりつつあります。

先日も、家族で広島のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行く計画を立てたんですけど、ちょっとついでに名古屋のお墓と神社にお参りして、せっかくだからお伊勢さんにもご挨拶して行こうかということになり、旅程を1日追加してお伊勢参りもすることにしたんですね。_
若い時には何も関心がなかったのですが、そう云えばこの国には古くからお伊勢参りという習慣があって、昔からいろんなお話にお伊勢参りは登場します。これって年取ってくるとわりと身近になってきて、うちの奥さんもけっこう詳しいし、いろいろと身の回りの話題に出てくるようになります。何年か前にもいきましたし、忘れてたんですけど、私、小学校の修学旅行も1泊2日のお伊勢さんでしたもんね。
伊勢神宮は、名古屋の駅から近鉄に乗って約1時間でして、その指定席特急券も今やネットで予約できます。基本的に、外宮(げくう)と内宮(ないくう)があって、ひと通りお参りするとわりと時間もかかるのですが、やはり何やら時空を超えた厳かな佇まいの中、身も心も洗われたような心持ちであります。お参りを終えますと、お札など頂戴して、最後にその鳥居に一礼してその場を辞するのですが、内宮前には、おはらい町・おかげ横丁など、土産物屋や飲食店が軒を連ねており、赤福もちや、松坂牛や、伊勢うどんや、ビールなどをいただきつつ帰路に着きます。たぶん昔の人も、こうやってお伊勢参りしてたんでしょうね。
それにしても、この日も多くの方々が全国から列をなしてお参りしておられまして、やはりここは古くからの日本人の心のふるさとなんだなと感じたようなことです。
やや神妙な気持ちになって、なんだかいろんなことをお祈りしました。そもそも神様と交信する能力などはありませんが、ただ、霊験あらたかでありますようにと。

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2023年3月12日 (日)

早春の宮島へ

ちょうど3年前の春から始まったコロナ禍も、やや収束の気配を見せ始め、油断はできないのですが、数字的にも収まっていく方向のようです。今年は、桜の開花宣言が出れば、各地で以前のようなお花見ができそうであります。
思えば、3年前の春、中学や高校に入学した生徒たちは、ずっとマスクをした友達の顔しか知らなかったわけで、これはほんとにえらいことでしたね。
厳しい真冬の寒気が少し緩むにつれ、だんだんとマスクを外す機会が増えてくれば、長く会えなかった人たちとも、徐々に再会できてくるわけで、それはほんとに待ち遠しかったことであります。このところ、そろりそろりと少人数で酒飲んだりもし始めたのですが、まだまだほんの一部で、長きに渡ってご無沙汰している方がたくさんいらっしゃいます。
そんなことで、春の匂いがかすかにし始める2月の終わりに、家族4人で、私の父と母に会いに、広島まで行ってきました。父も母も90代半ばの高齢なので、いろいろと身体の機能を損なっておりまして、それぞれにケアしてくださる施設に入っています。ずいぶん長く直接会えていなかったんですが、二人とも私たち家族の顔を見れて喜んでくれまして、会いに行けてよかったです。
今回の旅のもっとも大きな目的は、この訪問だったのですが、他に、名古屋と広島で墓参りをしたり、実家のご近所に挨拶をしたり、税金の手続きをお願いしている税理士さんに会ったりと、細かい用事もいろいろある2泊3日の旅程でした。

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その時間割の中で、半日だけ余裕ができて、ちょうど良いから宮島にでも行ってみようかということになりました。この厳島神社というのは、平清盛さんが今の社殿の形に整えたと云いますから、長い歴史があり、世界遺産にも登録されてます。
言ってみれば有名な観光地なんですけど、広島の地元の人には馴染みの深い場所で、子供の頃から何かというとここには来てるんですね。広島の街中からも意外に近くて、電車に30分も乗れば宮島口、そこから宮島港までは渡し船に15分くらい乗ってれば到着します。ですから、遠くから広島を訪れる人は、平和公園と宮島は、がんばれば1日で見て回ることができますし、広島はこの2か所さえ見ておけば良いんじゃないかというとこもあります。
その日は、2月の最後の天気のいい日曜日で、まだ海の風は冷たかったですが、明らかに春はそこまできている気配がしました。同じように感じた人が多かったのか、かなりな人出で、外国からの観光客もたくさんきている光景は、コロナは去って春が来た、という感じがしました。
考えてみると、ここに来たのもずいぶん久しぶりで、なつかしくもあり、長かったコロナの冬が終わり、戦争も終わり、健やかな春が来ることを、神社にお祈りし、拍手を打って、参道でかきフライともみじ饅頭食べて帰りました。
なんだか、東京に戻ったら、長らくご無沙汰している方たちに、お会いするための準備でも始めようかなと、思いましたです。

2023年1月30日 (月)

わが街映画館との長い付き合い

この何年か、コロナの影響で、映画館で映画を観るということが極端に減っていますが、先日その合間に、必ず観ようと決めていた「スラムダンク」を、大きなスクリーンで鑑賞することができたんです。で、家に帰って家族に話していたら、なんかもう一回観たくなって、数日後、私としては珍しく、奥さんと娘と三人で、休日のドルビーステレオ大画面のプレミアムシートで観てしまいまして、原作・脚本・監督の井上雄彦さんの全く妥協のない姿勢に改めて感動しつつ、我が家は3人とも大満足して帰ってきたんですね。
そこで、昔の映画館とは勝手が違ってきてはいるけど、やっぱり映画館で映画見るのは良いもんだなと、つくづく思ったんです。考えてみると、この場所は大げさに言えば、私の人生の節目節目にいろんな指針を与えてくれた場所でもあります。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、ハラハラしたり、セイセイしたり、ポロポロ涙したり、ムラムラと怒りを覚えたり、誰かに憧れたり、誰かを思ったり、過去を振り返ったり、未来を空想したり、異国の風景や文化に触れたり、この闇の中で実にさまざまなことを教えてもらってきました。
この空間が、この先どのように進化して行くのかわからないですが、個人的には物心ついてからここまでは、長い付き合いになります。
子供の頃、街を歩いていれば、あちこちに映画のポスターが貼ってあり、どの街にもいろんな映画館があって、遠くからでもわかるような大きな看板が掲げてありました。その場所に一人で入るようになったのは、15歳くらいからでしょうか、その頃は広島に住んでいましたが、邦画も洋画も、実にたくさんの映画館が、まだありましたね。

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高校の時は、あんまり勉強もしないで部活もしないで、放課後はわりと1人で映画館にいることが多かった気がします。ロードショウは料金も高くてしょっちゅうはいけないんですが、いわゆる封切館じゃなくて二番館もあって、いつだったかちょっと前にアメリカで大ヒットした「卒業」が掛かっていて、その併映が、「ウエストサイドストーリー」だったりして、地方ならではの不思議な贅沢を味わえたりしてました。片や低予算の佳作でニューシネマと云われた新感覚の話題作、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスとアン・バンクロフトの三人で持たせてる映画、片や1961年に公開され、語り継がれたミュージカルの超大作は、この時点でも全く古びていない名作でした。いやこの二本立てには痺れましたね。
それからしばらくして、東京に出てくるんですけど、驚いたのは映画館がやっぱりデカくて立派なことで、どの繁華街にもそれなりの規模の映写環境が充実しておりました。それに加えて、いわゆる名画座が実にたくさんあって、これは嬉しかったです。ちょうどその頃、雑誌「ぴあ」が創刊されたんで、東京中の映画館に掛かっている映画は、これ見れば全てわかったんですね。レンタルビデオ屋も何もない頃、たくさんの映画を観れることに関して、やはりこの街は1番でした。
久しぶりに大きなスクリーンで映画鑑賞して思いましたが、やっぱり良い映画は映画館でみなきゃダメですよね。うっかりつまらないのを観てしまって失敗することもあるけど、すんばらしい映画をビデオや配信で観ちゃった時には、あーこれは映画館で観りゃよかったなあー、などと嘆くこともあります。
ともかく「スラムダンク」には、私、すっかり参ってしまったわけでして、これは必ず映画館で見るべき映画です。
井上雄彦さんが原作者として素晴らしい作家であることは、よおくわかっていることではあるのですが、今回、映画監督としての井上さんは、歴代の名監督たちに比べても全く引けを取らぬ、黒澤さんやスピルバークさんに匹敵する仕事されたと思いました。
映画監督としてやるべき仕事は本当に山のようにありますが、脚本の構成からカット割り、キャスティング、演技指導、撮影のアングル設定、キャメラオペレーション、照明、編集、効果音、音楽制作、録音、膨大なスタッフへの仕事の割り振りと指示、そういう何もかもをディレクションと云いますが、そのどれをとっても、ものすごい集中力を感じる映画でした。
今回、プレミアムシートは初めての経験でして、確かにプレミアムで快適だったんですが、「スラムダンク」はしっかり泣ける映画でもありまして、泣けた時には隣と仕切りがあるので、しみじみ泣けるのもありがたかったですわ。

2023年1月12日 (木)

2023年のお正月

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2023年も、明けましておめでとうございます。
今年は、なんだかゆっくりと年が明けたような気がしましたが、それは多分、個人的な印象と思いますけど。
コロナのせいでもありますが、年末年始も、ほとんどどこにも出かけず、ずっとうちでゴロゴロしてましたし、主婦である妻は忙しくしておりましたが、私に手伝えることは限られており、まあ、窓ガラスを拭くことと、うちのおせちの定番の牛肉焼きと卵だし巻きを、焼くくらいでして、大阪で暮らしている息子も帰ってきて、久しぶりに家族4人で寝正月を決め込んでおりましたもんですから、暮れから正月にかけては、ずいぶんのんびりと過ごせたんです。
かつて年末といえば、実家に帰省するのが常でしたから、混み混みの新幹線に家族でのりこんで慌ただしく移動していたもので、それも今や懐かしい思い出です。
それに、12月といえば忘年会、1月といえば新年会と、何かと人が集まったもんですが、コロナ以降、それもずいぶんなくなりました。なんとなく、そういうことも含めて、世の中が少し静かになっているわけで、それもただ悪いことじゃないけど、そもそも機会を見つけて、久方ぶりにお会いしたい人もいますよね。
そんな三ヶ日も過ぎた頃に、広尾に住んでらっしゃる先輩のお宅に、大好きな先輩たちが集まって鰤しゃぶするから来ないかと誘っていただき、そりゃ大喜びで向かったわけです。ご時世でもあり多少人数は抑えめでしたが、それはやはり心躍る集いではあります。
そこで、ルンルンと広尾のお宅に向かったんですが、その日は、例の渋谷の山手線ホームが大工事の日でして、電車が止まっていたんですね。まあそれはわかってたんですが、うちの娘が渋谷から恵比寿くらいなら歩けばいいじゃんと云いましたし、確かにそうだなと思って、ついでに渋谷駅と駅の周りを少し歩いて眺めてみるとですね、ちょっと見ぬ間に、いやずいぶんと変わってしまったなあ渋谷駅と、つくづく思ったんですわ。まあ今さらなんですが、ここしばらく通勤でもあんまり通ってなかったこともあったんですけど、毎日刻々と変化している街なのですね、ここは。
考えてみると、初めてこの街にやってきたのは、私が18歳でしたから、50年前ということになりまして、、えっ! 50年。
確かに思い起こしてみると、今とはずいぶん違った風景です。当時、東京で暮らし始めた頃、一番近くにあった大きな繁華街はこの街でしたから、映画見るのも、何か買い物するのも、安酒飲むのも、パチンコ屋も場外馬券売り場もあったし、何かと言えばウロウロしてたわけで、そもそもほとんどお金も持ってなかったから、ただの暇つぶしも含めて何かといえばここにいることは多かったんですね。どっか遠くの町に行くときにも、この駅が乗り換え基地でしたし、あの頃の渋谷駅の風景は、私の記憶に染み込んでいます。
そこから現在までの50年間、渋谷駅は、刻々と風景も機能も変化してきたわけです。
ただ、最も最近の大きな変貌には、あんまりついていけてなかった気がしたのですね、駅の周辺をひと回りしてみて。
恵比寿まで歩きながら、軽い浦島太郎状態になり、ちょっと眩暈してショック受けましたが、日比谷線に一駅乗って広尾について、この街はあんまり変わってなくて、その後のブリシャブに救われたお正月の一日だったのです。

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2022年11月28日 (月)

神戸っ子

神戸という街には、昔住んでいたことがありまして、いつ頃かというと、生まれてから物心のつく5歳までと、8歳から12歳までの小学生時代で、ここには遠い記憶がたくさん詰まっております。なので、どこの育ちかと問われれば“神戸っ子です“と言えるくらいではあるんですね。
ウチの先祖は広島の海沿いの町の出で、牡蠣と船の仕事をしておりまして、どうも明治期に神戸で牡蠣を食べさせる店を始めたようで、そのせいか、祖父と叔父が神戸の中山手通というところで、かき料理店をやってたんです。父は神戸にある造船会社のサラリーマンをしており、途中東京に転勤したりしましたが、私は中学に入るくらいまでは、この街で育ったんですね。
住んでいたのは、異人館通りで有名な北野町をちょっと下った山本通というところで、一軒家を親戚の一家とうちの家族で借りておりました。そういう土地柄なので、まわりには結構外国の人たちが住んでいて、ヨーロッパの人、アメリカの人、インド、チャイナ、コーリアと、いろんな国の人が暮らしているところでした。うちの家の前は、かつて台湾人の成功者が建てた豪邸でしたが、何故かラブホテルになってしまいました。
神戸は東西に細長い街で、南北の道は海から山に向かってる坂道が何本もあって、坂を登って振り返るといろんなふうに港や船が見えます。この街で暮らしていると、いつも坂道と港があって、それは、なかなかに魅力的な風景でした。
遠い記憶を辿ると、そういった景色がいくつも浮かびます。住んでいた家も学校も、祖父の店も、みんな坂道の途中にありました。祖父のやっていた料理屋というのが、牡蠣の専門店で、あの当時、冷蔵技術も低くて、夏には牡蠣を食べませんでしたから、この店は夏は閉めてしまいまして、毎年10月から翌年の3月までだけ開店します。そのかわり、その間は正月三ヶ日以外は一切休まないんですね。いつも大忙しで、結構たくさんの板前さんや中居さんがフルに働いていました。もともと広島から出てきた店なので、広島から季節労働で泊まり込みで来ている人たちも多くて、うちの母も含めて親戚の人たちもたくさん働いていて、店は広島の言葉と神戸の言葉が入り乱れて、不思議な活気に溢れていました。身内ですから、その頃さんざん牡蠣を食べさせられまして、特にカキフライですが、まあそれは1番の人気メニューでもあり、おいしいんですけど、食べ過ぎてその後あんまり好きじゃなくなった時期がありました。今はまた大好きなんですけどね。
そういうことで、神戸のことを思い出すと、子供の頃、可愛がってくれた祖父や祖母やオジサンやオバサン、お店の人たちと、冬中忙しかったあの店と、坂道の景色が浮かびます。
そのあと、中学からは広島に引っ越してしまったんですが、神戸の街は変わらずでした。
そして、長い時間のうちに、祖父母も亡くなり、1995年にあの阪神大震災が起きます。街は傷みつけられ、あの懐かしい風景は一度壊れてしまいました。あのお店は、震災の前年に長く続けた商いを終えて、店を畳んでいたので関係者に怪我などはなかったんですが、神戸でお世話になった人たちは、色々とダメージを受けました。とても大きな災害でしたから。
それからまた随分と時間が経ちました。あの頃、私と同じように子供だった身内が同じような年齢になって暮らしていますが、新神戸の駅は何度も通過しましたが、なかなか降りることはありません。
街の形は変わっても、坂道と港の風景は、今もあるんでしょうね。
今度、行ってみようかと、思っています。

Kobe

2020年9月29日 (火)

続・犬の賢愚の法則

この夏に起こったことでつらかったのは、愛犬マリンが身まかったことでした。あと1ヶ月程で16歳でしたから長生きではあり、ちょっと弱ってはいたものの、性格的にもきちんとしたキャラで、多少我儘にはなってましたが、相変わらず賢い子でしたので、家族は全く覚悟しておりませんでした。具合が悪くなってから間もなく、最期は心不全だったようで、あっけなくて、主治医のところへ運んだ時には間に合いませんでした。

そういった突然のことでしたから、私ら家族の喪失感は想像を大きく超えたものでして、考えてみれば、そもそも十分に老犬でしたから、そういった可能性を理解してはいましたが、こればかりは応えたんですね。

私もカミさんも娘も、その晩はしみじみ泣きました。大阪に単身赴任している息子にも電話して伝えましたが、無口な人なもんで、普段はラインするくらいで電話で話すこともないんですけど、ずいぶん長い時間、そのことを話しました。

出来るだけ手厚く見送りたいねということで、調布に深大寺動物霊苑というところがあって、きちんとお葬式をしてくれるということを主治医から聞きまして、そちらに運んで荼毘に伏しましたが、ずいぶん丁寧にやっていただきました。

それが8月の初めのことでしたが、いまだにぽっかり穴があいたようなところがあり、考えてみると長いこと一緒に暮らした家族でしたもんでね。いや、ほんとに賢くてよいこでした。

さて、うちにはもう一名、愛犬がおり、マリンが4才の時に産んだ息子なんですが、この息子のことも心配だったんですね。まあなんて云ったらいいか、親一人子一人でしたから。といっても生まれて10年以上経ってるし、人間とは違うので、それほど親子のふれあい関係があったわけじゃないんですけど。

ただ、どこまで理解してるかどうかはわからないんですけど、やはり、しょげてるようで、元気ないんですね。母の死後は、しばらくソファの下に入り込んだまま、水を飲むくらいしか出てこなくなってしまい、ほとんど吠えなくなって、ごはんも食べなくなり、見たところやつれたようにも見えて、しばらくして、本気で心配になってきたんです。

ともかくなんか食べさせなきゃということで、食べ物も手を変え品を変え、いろいろ試すんですが、相変らず食欲がなく、元気ないわけです。

そんなことがどのくらい続いたでしょうか、そのうちどうにか人の手からだけは物を食べるようになり、それから好き嫌いはありながら、食欲も戻ってきて、ソファの下からも出てこれるようになりましたが、この人なりのダメージがあったのかなと思います。

今では、体重も戻ってきて、ワンワンよく吠えるし、元気になって来ましたが、なんか食べ物の好き嫌いが多くなったり、人を呼び付けるようになったり、前よりわがままになった気がしますね。

この件で、みんなが何かといたわるもんだから、ちょっとその気になって、ボクなりに淋しい思いをしてるんだから、ちゃんとかまってくれよなと思ってるのか。

いずれにしても、このところちょっと調子に乗ってるような気がするんですね、

このチップ君。

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賢い母犬がいなくなって、愚かな息子犬だけになって、少し賢くなるといいんだけど、あんまり変わらないようです。まあ、この人にはこの人の、良いところはあるんですけどね。

 

2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

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映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2018年12月11日 (火)

この年末に思うこと

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そろそろ2019年の年賀状をどうしようかなと考え始めて、猪の絵でも探そうかと思いまして、「もののけ姫」の老猪のことが浮かんだりしながら、はて、2018年はどんな年だったかなと思うとですね。

いろんな事があったけど、まさに今年は、私の父と母の介護が始まった年でした。

父が昭和3年、母が昭和4年の生まれですから、二人とも、かれこれほぼ90歳ということで、いろんなことになるのは当たり前なんですが。

まず、この春に、父の心臓のペースメーカーに不具合が生じまして、専門的なことはわからないのですが、それを取り外すのが意外に大変な手術になって、長期の入院になりました。それと、そのことだけでなく、ほかにもいくつかの病気が併発しておりまして、一度退院したんですが、すぐにまた別の近くの病院に再入院しました。

そのことがあって、たびたび帰郷を繰り返しておるうちに、このところ物忘れの症状がひどくなってきた母が、やはり認知症であると診断されまして、母一人を自宅で生活させることは、かなり心配な状況であるという判断がありました。

そのあたりで、あの暑い夏がやってきたんですが、いろんな意味で、身体の弱った年寄りには、今年の暑さはこたえるし、そうこうしてるうちに豪雨からの水害もあって、住んでる地域の交通などのインフラが一時麻痺することにもなりました。

いろいろ悩むうちに、父が入院している病院の担当医師のご厚意で、父の病室を二人部屋にして、母も一緒に入院させていただくことが出来て、とりあえず一安心ということにはなったんです。

その後、父は入院したままですが、長期入院で弱った足がますます使えなくなっており、母の方は自宅に戻りましたが、今は泊まり込みのヘルパーさんと、私たち夫婦と、近所の親戚にお願いしたりしながら、誰かが必ず家にいるような状態を保っております。

そんな年だったので、東京と広島の新幹線の往復は、春から10数回を数え、カミさんの回数を加えるとその倍くらいになります。学生のころからずっと東京に根を張った暮らしでしたから、ある意味予測できたことでもありますが、いつの間にか東京-広島間が4時間を切るスピードで移動できるようになっていて、考えてみると助かっています。

この歳になると、世の中の事情もありますが、介護の話というのは、すごく身近なことになります。みんな順番に年を取って行くのですから、これは自然なこととも言えますけど。

人は、老いてくれば、若い時に持っていた生きるための機能を、だんだんに失っていくということがよくわかります。それを補い、生きて行くことを手助けするのが介護という行為なんだと思います。これは、自分一人では生きていけない小さな子供を手助けする育児という行為と共通したところがあります。

かつて自分を育ててくれた親が、いろんな生きていく機能を失いつつある時に、今度はこちらが少しでも手助けを出来ることは、このところ少しずつ長くなってきた人生の時間に感謝するべきことかもしれません。ただ、育児というのは、その対象が日々いろいろな能力を獲得していくのに対し、介護というのは、それを失うことを少しでもくい止めるというようなことですから、未来感は弱いわけです。

人生を1日の時間に例えると、誕生が日の出であれば、今は日没に向かっていく黄昏時の中で、いろいろなことを感じる時間を過ごしているということなんでしょうか、切なくもありますけれど。

そんな気持ちになりがちなんですが、ただ、介護にかかわっておられるその仕事のプロの方たちは、どの方も、ものすごく前向きで元気でいらっしゃいまして、まったく頭が下がります。当人も家族も、明らかにその方たちに、支えていただいてることがよくわかりますね。

 

そうこうするうち、今年も暮れていき、また新しい年がやってきます。

過ぎていく時間の中で、それこそ時間ということを考えてしまう、今日この頃なのです。

2018年8月28日 (火)

祝・古稀

古来、「古稀」というお祝い事があります。

唐の詩人、杜甫の詩・曲江「酒債は尋常行く処に有り人生七十古来稀なり」に由来するそうで、70歳を祝うことなんです。

詩の意味は「酒代のつけは私が普通行くところにはどこにでもあるが、七十年生きる人は古くから稀である」ということらしいんですが、学がないんでなんだかよくわからないですけど、どっちにしろ酒飲みの詩人なんすかね。

それはともかく、私の周りには、このところ70歳になられる大先輩がわりとおられまして、こりゃ一回お祝いしようということになり、会が開かれることになったんです。

今年、御年70歳におなりになるのは、昭和23年頃のお生まれで、戦後ベビーブーマーと呼ばれる方々で、もともとこの国において人口比率の高いジェネレーション、いわゆる「団塊の世代」です。

昭和20年の終戦の直後に復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代と云われておりまして、昔から戦争の後には、たくさん子供が生まれて人口が増える傾向があるようなんですね。

ということなので、この年代の先輩たちはもともと人数が多いのと、大人数の中で生存競争をしてこられたので、皆さんシブトイ、じゃなく御丈夫でお強くあられます。

自分が社会に出ました時にも、業界のなかで上を見上げますと、6才程上のこの年齢の方々がびっしりと活躍されておりまして、しかも、皆さんほんとに優秀なもんで、なんだか当分は自分が上がってゆくのは難しいんじゃないかと思えました。このことは、たぶん私と同年代のどの業界の人達も感じたことだったんじゃないでしょうか。

ただ、仕事で云えば、彼らからすると、人数の少ない私たちの年代を育てないことにはどうしようもないわけで、わりと丁寧に親切に育てて下さったことも確かでして、実は大変お世話にもなってるわけであります。

 

たとえば、今回古稀の会に来ていただくのは、私が22才の時にこの仕事を始めて、わりと初めて仕事らしいことをやった時に、会社の上司でプロデューサーだったY田さんと、スポンサーの宣伝部の担当者だったN川さんと、担当コピーライター兼CMプランナーだったS山さんでして、思えば皆さんその時まだ20代でしたが、それからかれこれ40年くらいお付き合いをさせていただいてるわけであります。ただ当たり前ですが、40年間ずっと6才下の後輩という立場は変わっておりません。

それに加えて、皆さんとその頃からのお仲間で、今や世界的なアートディレクターのT田さんも来てくださり、又、同じくお友達のご夫婦で、湘南にお住まいでよくお世話になっているK村さんと奥さまのお二人にも来て頂き、皆さん丁度そのあたりのお生まれでありまして、なんと6名の古稀のお祝いとなったのであります。

お祝いをするのは、皆様のご家族と、私たち後輩有志です。

幸いなことに、本当に皆さんお元気でいらっしゃいまして、この日はおいしい肴を用意して、すっかり深酒でもいたしましょうかと思ってるわけです。

ただ深酒するというのも、いつもと変わらないので、何か記念になるものを作ろうかという話になりまして、皆さんに歌舞伎役者のような屋号を付けて、記念手拭いと、似顔絵イラスト付き幟(のぼり)を製作してプレゼントすることにしました。

デザインは、S山さんのお嬢さんが担当してくださいましたが、才能豊かなお嬢さんでして、相当良い出来になっております。そんなことで、当日はかなり盛り上がりそうで今から楽しみであります。

いずれにしましても、日頃よりお世話になっている先輩の節目のお祝いを、みんな元気にできることは、ありがたいことであります。

今年古希を迎える先輩は、特に元気なんじゃないかとも思えますが。

 

ちなみに、皆さんの屋号は、出身地、居住地、会社名、職種などより、いいかげんにつけております。

おめでとうございました。

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2018年1月29日 (月)

息子の転勤

去年の暮れに、急に息子が大阪へ転勤になりまして、もっとも、昨年の春には学校を出て就職しておりましたから、その会社から勤務地として大阪に配属されたわけで、特にどうということもないんですけど、我家としては、家族が一人家を出て行くのは、初めてのことだったので、ちょっと、えっ、そうかあ、みたいな気分になったんですね。

ただ、出ていく本人は、初めての一人暮らしだし、知らない土地に対しての好奇心もあって、むしろ楽しんでいるようでもあるんですが。

もともと、小さい頃はともかく、若い男ですから、あんまり家にはいないし、息子というのはそういうもんかもしれませんが、あんまり家族としゃべらないし、別に反抗的ということでもないんですけど。だから大阪に行ってしまったからといって、家の中が急に静かになるというもんでもないんですね。これが、もし姉の方だったら、結構、家の中が淋しくなると思うんですよね。この人はかなり騒々しい人ですから。

いずれにしても、やはり、この状態に慣れないというか、ちょっと落ち着かない感じではあります。考えてみると、自分も昔は、ほとんど家にはいなかったけど、そのうちに帰って来るのが前提ではあったので、単身赴任してたわけじゃなかったですから、ちょっと意味が違いますよね。まあ、母親はちょっと淋しいみたいですが、音信が途絶えたわけでもなく、メールとかもつながりますから、だんだんに慣れてくんでしょうね。

個人的には、自分は子供の頃から転校とかが多くて、いろんな土地に暮らしたんですけど、息子の場合は、そういった意味では東京から出たことなくて、初めての違う土地に暮らすのが、あのコテコテの大阪というのも面白いのかもしれません。

私が一人暮らし始めたのは、18歳のときに上京した時でしたから、45年も前で、その頃と今では、世の中のいろんなことが全く変わってることに気付きます。半世紀だから当たり前なんですけど。

1973年当時、広島から東京へ出ていくには、岡山からの新幹線は1972年に開通してたんですけど、一番早い「ひかり」で東京まで4時間10分、広島から岡山までは在来特急で、優に2時間はかかってましたから、乗り換え含めて、ドアからドアまで8~9時間はかかってました。たしか初めて上京した時は、新幹線じゃなく寝台特急で行きましたね。熱海のあたりで朝ごはん食べるんですよね。

今息子が住んでるのは、心斎橋のはずれのあたりみたいですから、完全に日帰りできる距離です。

通信手段にしても、その当時は、電話なんか持てませんし、電話引いたのって就職してからでしたから。そうなんです、昔は電話引くって言ってたんですね。親からは、元気でいるかだけでも、たまには電話しろって云われてたから、たまに家に電話したんですけど、公衆電話で10円玉ジャカジャカ落としながらかけてましたね。両替はしておくんだけど、遠距離はすぐにコインなくなりました。母親から時々ハガキとかも来ましたけど、返事書くよな息子じゃないし、結構心配してたんだろなと、今になって思います。

今は、みんなスマホ持っていて、LINEとかにメッセージ入れとけば、すぐに返事なくても、読めば既読になるし、そういった意味での心配というのも、ずいぶん減ったかもしれませんよね。

Doutonbori_2

ずいぶんと、世の中の事情は変わったにせよ、気が付けば、子供はそれぞれの自分の道を行くようになってくわけですよね。それはそれで、良いことなんでしょうが、なんだかちょっと張合いがないというか、でも、こういうのが子離れの始まりなんでしょうか。そう考えれば、とっくにそれは始まってはいたんですけどね。

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

Katinko

カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2016年1月15日 (金)

海賊の血

前にも書いたかもしれませんが、私、船酔いと云うのをしたことがなくてですね。多分、今までで一度もないです。ついでに申しますと、ほかの乗り物酔いもしたことがないんですね。

体質としか言いようがないと思うんですが、よく船に乗るだに真っ青になって気持ち悪そうにしてる人がいますが、それがどんな具合なのかよくわからないんです。酒を飲みすぎて、気持ち悪くなって吐いたことは何度もありますから、あんなことなのかなとは思うんですが、どうなんでしょうか。

船には、苫小牧発・大型フェリーから井の頭公園のボートまで、いろんなのにさんざん乗っていますが、そんな中でもちょっとすごい経験があってですね、若い頃に仕事でロケに行ったんですけど、何を撮りに行ったかと云うと、荒れ狂う嵐の海の中を行く一艘のクルーザーヨットだったんです。低気圧が来て天候が荒れるのをを待って、相模湾のけっこう沖合でで撮影したんですけど、撮影スタッフは40名ほど、ヨットに乗る人や、ほかの船やボートからヨットを撮影する人といろいろいて、私は別の船から撮影スタッフやヨットクルーへ無線連絡する係でした。海はかなり荒れてましたから、船から振り落とされないように、皆いろんなところに掴まりながら、早朝から陽が落ちるまでの過酷な現場でした。この時、私以外の全員が吐いたんですね。吐いて立ち直る人もいたし、そのまま立ち上がれない人もいました。まあ、後にも先にも経験したことのないすさまじい撮影だったんですけど。

それくらい船酔いしないわけですよ、私。

それでいろいろ考えてみるにですね、この私の体質は、私のルーツに関わりがあるんじゃないかと思うわけですよ。

大学生の頃の夏休みに、当時まだ元気だった私の祖母から、ご先祖様の墓参りに行くから、運転手をするように云われて、二人で瀬戸内海に浮かぶある島まで行ったんですね。広島市内から約2時間くらいかかったと思いますが、瀬戸内の島って、けっこう橋でつながってるから、車で行ける最南端のあたりだったと思いますけど、まあすごく田舎なわけです。

墓石に刻まれた文字もほとんど見えなくなるほど風化しており、年月を感じる小さな墓がいくつも並んでいました。その一つ一つに、ばあちゃんが線香を上げてゆくわけです。

「これが、うちのご先祖さんなん?」と、聞くと、

「多分そうじゃろういうことが、最近わかったんよ。」と、ばあちゃんが云いました。

手を合わせて、振り返ると、陽が傾きかけたベタ凪の瀬戸内が、鏡のような水面を光らせています。手前にも奥にも美しい島々が配置されていて、ものすごくきれいで平和な風景です。温暖だし、魚もうまそうだし、うちのご先祖さんは、良いところで暮らしてたんだなあと思いました。どうも船大工をしていたらしいです。

帰り道に、車の中でばあちゃんがしてくれた話は、

「定かじゃあなあがね、昔、和歌山の方に、うちの名字と同じ名前の海賊の一団がおって、平清盛が神戸から西を治めていく時に、いっしょについて来たんじゃないかゆうことなんよ。そのあと、あの墓のあったあたりの場所に住みついて、そのうちに船大工になったんじゃないかゆうことみたいなんじゃ。」

そう云われてみると、もしも戦をしに来て、あの場所でさっきみたいなきれいな景色見たとしたら、面倒なことはやめて、ここに住んじゃおうかと思ったご先祖さんの気持ちが、ちょっとわかるような気がしたんですね。そう考えると、確かに、船酔いする海賊というのもなかなかいないだろうし、このルーツ論は腑に落ちるんですわ。

その後、詳しくはわからないけど、明治になるころ、今の広島の近くの矢野という海沿いの町に出て行って、いろいろ船を使った仕事を始めたようです。

私は、中学の途中から、大学進学で東京に出ていくまでの数年間をこの町で暮らしました。目の前には海が広がっていて、牡蠣の養殖いかだがびっしり並んでいる町でした。

私の家は、海に面していて、そのころ家には、12フィートのモーターボートがあったんですね。3.65メートルほどで、12馬力の船外機をつけてあり、バイクでいうと原付バイクみたいなもんですが、これでけっこう遠くまで行ってたんです。広島の街は何本もの川が広島湾にそそいでいて、川伝いにどこでも行けたし、湾の反対側には15kmほどのところに、有名な厳島神社があってよく行きましたね。魚も釣れたし、あの頃、暇さえあれば始終海にいました。何だか船に乗って海にいると落ち着くと云うか、これも私の血のせいだったのかもしれませんねえ。

もう時効だと思いますが、船の航行ルールのことや、エンジン回りのことは、ちゃんと勉強してて、海図も全部持っていたんですけど、いわゆる免許というものは持ってなかったんですね。18歳未満だったし。

ただ、ほんとに年に一回あるかないかなんですが、海上保安庁の船に呼びとめられることがあるんです。そういう時は逃げましたね。こっちは、島と島の間の細い水路とかも全部知ってるし、複雑な牡蠣の養殖いかだの間に入ってしまうと、どうにもなりません。それで目くじら立てるわけでもなく、40年前はけっこうのんびりしてました。まあ、いい訳にはなりませんが。

今もその町には、歳とった両親が住んでいて、ときどき家族で帰りますけど、海はすっかり変わりました、私がちっちゃいボートで走り回ってたあたりは、ほとんど埋め立てられて、学校や病院が建っているし、海をまたいで町どうしを大きな橋が繋げているし、牡蠣のいかだもずいぶんなくなりました。40年も経てば当たり前ですけど。

でも、ふと思ったんですが、あの時ばあちゃんと見た入江はどうなっているんだろうか。多分行き方もわかんなくなってるんですけど、今度行ってみたいなと思ったわけです。

平清盛さんの話はどうだかわかりませんが、この海で長いこと船と関わってきたご先祖さんだったことは確かかもしれませんよね。

この船酔いしない体質を考えると、やはり。

Kaizokusen

2015年8月27日 (木)

貯金と私

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この前、お金のことを考えることがあって、ふと思ったんですけど、今まで60年も生きてきて、なんか計画的に、自分の了見で貯金というのをしたことがないなあと思ったんですね。

貯金というのは、字のとおりお金を貯めることで、何か欲しいものを手に入れるためとか、何か夢をかなえるためとか、生きていく上で、困ったことがあったりした時のためとかに、普段の暮らしの中で意図的にお金を残しておくことなんですけど、そういうふうに思ったこともないというか、18の時から自活始めて、学生の時は親に仕送りもしてもらってましたけど、そんなに裕福な収入があったわけでもなく、お金とは成り行きで付き合ってきたというか、持ってるお金は衣食住でだいたいなくなるし、何かそれ以上必要が生じたときには、何らかの手段で借りるんですけど、そんな大金が必要になることも、そんななかったんですね。別に強がるわけじゃなく、あんまり高価なものに興味がいって、どうしても欲しくなるということもなく。

この仕事始めてからは、公私の境目がない状態で働いてたし、自分のお金の使い道をじっくり考える暇もなく、でも、気が付くと月々のお給料はいつもなくなってはいるんですね。食べるものは、働いてる時間には付いてくるし、特に値の張る衣装を着るような仕事でもないし、部屋は帰って寝れるだけのスペースがあればいいわけです。時間のかかる趣味は持てないし、お金のかかる女の人と付き合う甲斐性もないし、ギャンブルはとっくに才能のなさに気付いてやめてるし。

強いて言うと、人よりも使ったとしたら飲み代ですけど、そんなナポレオンとか高い酒飲むわけでもなく、量だけは人の倍くらい飲んでるけど、分相応な値段ですよ。だいたいツケだし、手酌ですしね。 

まあ大した収入じゃないんだけど、なんとなくあるだけはきれいに使ってしまう生活が何年も続いたわけです。大きな借金をする理由もないし、それができる信用もないし、たまにツケが残ったまんま行かなくなった飲み屋を踏み倒すくらいで、これもたいした額でもありません。

その頃働いていた会社では、給料もボーナスも現金でいただいてたんですけど、それを持って銀行に預けに行ったことはなく、もらうと借金返したりツケ払ったりして、そのまま給料袋や賞与袋から直接お金払ってるうちに、自然と無くなるわけです。まあそのくらいしかいただいてなかったということでもありますが。

ただ、漠然と、ずいぶん働いてるわりには、お金が貯まらないなとは思ってはいたんですね。で、会社の偉い人にそのことを云ったら、まあ好きでやってる仕事なんだからと云われ、それはそうかもしれないけど、それはまた違う話なんじゃないかと思ったんですね。

そうこうしてるうちに、その会社から独立して、自分達で新しい会社を始めることになったんですが、そうなると現金なもので、会社の将来のために、お金を貯めねばと考えますし、いたってまじめにそのことを考えるようになります。

それと、個人的には、会社を作るのと時を同じくして結婚したんですね、34歳でしたが。

で、それまで一人で住んでた6畳間に奥さんと住み始めて、ひと月ほどしたときに、まあ引っ越しもしなきゃいけないし、だいたい私に貯金というものが、いくらくらいあるかという話になったんですね。この話題は避けて通りたかったのですが、そうもいかず、

実は私の預金通帳に入っていたお金の金額は、マイナス16万円だったんです。マイナスというのは、当時20万円までは銀行が自動的に貸してくれるシステムになってまして、ま、そういうことだったわけです。

このことを知ったあと、うちの奥さんは、多分5分くらい床を叩きながら笑っておりましたですね。

云うまでもなく、新婚の我が家で私が経済を預かっていたのは、この1ヶ月間だけで、それ以後はずっと奥さんが経済を握っております。ちなみに、この時、奥さんの個人的な預金高がいくらくらいあるのかと質問をしたのですが、それは全く教える必要はないと言われました。それは確かにそうですが。

それから収入の中から、貯金ということをする習慣が始まったのですが、相変らず私は具体的なことは、ほとんどわかってない状態なので、自分で貯金しているという実感はないままです。

かれこれ25年ほど経ちますが、いずれにしても、貯金とか貯蓄というものに関しての才能と云うものは、ずっとないままの人間であることは、云えそうであります。

2015年3月27日 (金)

犬の賢愚の法則

やはり例年、お彼岸を過ぎると寒い日が少なくなってきて、ポカポカと暖かい日が増えてきますが、朝晩はまだ寒いことが多いですね。だからというわけではないのですが、私の寝床には毎晩犬が2匹寝ております。人間が寝床に入る時にはベッドの横の自分達の寝床で寝てるんですが、必ず夜中にベッドに上げろとワンワン云うのです。

仕方なくベッドに上げると、母犬の方は、羽毛の掛け布団の上で眠るのが好きで、私の腹のあたりに乗ることが多く、倅犬の方は何故か人の枕に乗り掛かったり、頭を乗せて横になります。こういう状況になると、私も寝返りなどの動きが制限されまして、顔のすぐ前に倅犬の尻があったり、夜中にうなされて起きると私の胸の上で爆睡している母犬がいたりして、やや窮屈なことになるのが秋から春にかけてのこととなります。まあ夏は暑いので、玄関の石の上が気持ちが良いらしく、寝室には入ってこないんですけどね。

この二匹というのが母と息子なんですが、母が10才、息子が6歳のグレーのトイプードルなんです。トイプードルと云うのはわりとちっちゃいんですけど、せまい家で一緒に暮らすと、これが、けっこうな存在感を示します。 

このブログにも書きましたけど、この母犬のマリンが、6年前に大騒ぎの出産をして、一匹だけ産んだ息子がこのチップでして、以来、我が家は人間4人と犬2匹の構成になっているわけです。

犬というのは、いっしょに暮らす人間にきちんと向き合って、じっと見つめて生きていくとこがあって、自分のことを、いつもかまってほしいというとこがあります。そこが可愛いんだけど、あんまり託されると荷が重いところもあります。距離感で云うと猫なんかの方が、お互い勝手に生きてる感じが楽な気もするんですけど、うちはカミさんが猫が苦手なので犬なんですけど、そういうとこがあって、うちは犬に、犬らしいしつけのようなことを一切しませんから、芸は何もできません。お座りもできんと思います。まあ ちっちゃい犬だからいいんでしょうけど、大きな犬だとしつけをしないと絶対に一緒に暮らすことはできませんからね。まあそういうふうに暮らしてるから、ベッドとかソファで無防備に寝てる姿が、ちょっと猫っぽいとこがあるんでしょうか、うちの犬たちは。

 

私の友人のNヤマサチコ女史曰く、動物を2匹飼っているたいていの場合、片方が賢いと、もう片方は愚かであるという法則があるそうなんです。女史は代々猫を飼っておられて、経験上あきらかにそういうことなんだとおっしゃる。彼女のブログには、頻繁にいっしょに暮らす猫の話が出てきて、読んでると確かにそういうところがあります。この話を聞いたときに、私も、はたと膝を打ちました。うちの場合も確かにその通りなのであります。

母犬のマリンは、子犬でうちに来た時から、礼儀正しくて、我慢をすることができるタイプで、まあ多少わがままなところもありますが、それは、なんかお嬢様育ちのわがままと云った感じで、いわゆる賢い子なんですね。妻は、

「この子は私に似たわ」と云ってます。

それに比べて、息子のチップの方は、我慢ということを知らない。何でもやりたいことはやる。そのくせ淋しがりで、いつもかまってかまってと云う。気が小さくて怖がりだから、舞い上がると吠えまくって、トイレなども失敗の連続。いわゆるおバカさんキャラなわけです。

たとえば、二匹を連れて散歩に行くとですね、母犬の方はきちんと私の斜め後ろを、まっすぐに私の速度に合わせて歩きますね。倅の方はと云うとですね、私の前後左右をジグザグに全く無軌道に歩きますね。紐もこんがらがるし、私もマリンもすごく迷惑なんです。それでチップは、一人だけそうやって余分に歩くもんだから、途中で必ず疲れ切ってしまい、そうすると自分のリードを噛んで引っ張って、抱っこしてくれと云うんですね。そこでマリンの方を見ると、スミマセンガ抱っこしてやっていただけますか。と、ちょっとすまなそうに眼で云うんです。散歩に行くといつもそうなります。

血の繋がった母子、母が自ら産んだ息子なのにこの違い。顔だけは似てるんですけど。

Nヤマサチコ女史の言われる、賢愚の法則が明らかに証明されております。

しかし、こうやって母犬が来て10年、愚か者が加わってからも6年となりますと、彼らがいる風景が普遍となります。

チップのことを、「この子はあんたに似たわね。」 と妻は言いますが。

Marinchip

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

2012年8月15日 (水)

真夏のスポーツ観戦記

この夏は、ロンドンオリンピックの年でもあり、例年にも増してスポーツ満載。

ヨーロッパ圏のオリンピックは、寝不足覚悟とはいえ、連日の熱戦にややばて気味ではあります。最近歳のせいか涙もろくもあり、日本選手の活躍に、真夜中に一人涙ぐんでいるのもどうかと思っておるうちに、はやくも閉会式。習慣で朝早くに起きてみると、この日は、全米プロゴルフ選手権の最終日でもあり、復活をかけたタイガー・ウッズが、新鋭のロリー・マキロイを追い、そこに石川遼も参戦の様子が伝えられています。

かと思えば、同じ時間大リーグでは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有が、デトロイト・タイガースのスラッガー、カブレラやフィルダ-を相手に、12勝目をかけて渾身の投球をしておりました。

そしてふと時計を見れば午前6時半、あと2時間もすれば、今度は夏の甲子園高校野球選手権大会の中継が始まります。こちらは大会6日目、今日も熱戦に次ぐ熱戦です。

思えば、この夏の私のスポーツ漬けは、この高校野球の東東京地区予選から始まりました。7月7日に開幕したこの大会に、うちの息子も出場しており、7月17日に優勝候補の強豪国士舘高校に6-0で敗れるまで、3試合を戦い、高校の野球生活を終了しました。この大会で敗れると3年生の部員は、そこで引退ということになるのが、夏のならわしのようです。全国3985校の球児たちは、たったの一校を除き、3984の敗戦を積み重ねてこの大会を終えることになります。トーナメント戦てそういうことなのだけれど。

息子たちのチームのこの3試合は全部観戦しました。平日には会社も休み、ものすごい猛暑の中、最後まで見届け、どうしちゃったんだというぐらい日焼けもしました。まさに夏の高校野球を満喫したんですね。

なんかこいつらの野球がこれで観戦できなくなると思うと、どうしても観ておきたかったんです。もちろん甲子園に行くずっと手前で負けてしまうだろうということも判ってるんですが。

彼らの学校は中高一貫校で、珍しく中学から硬式野球部があったので、彼らの学年の野球は、6年間見てきたことになります。まだ小学生に近い体型だった頃から見ていると、ずいぶんと身体も技術も成長したように思うのですが、勝負は相手あってのこと、突然見違えるように強いチームになることはありません。でも6年間、暇さえあれば、公式戦も練習試合も観に行きました。負けることの方が多いけど、皆少しずつうまくなってきます。今まで絶対に捕れなかった球が捕れたり、打てなかった球が打てたり、アウトにできたり、セーフにできたり、そういうのを見ているだけで飽きなくて。前より下手になることはあんまりないんです。硬式野球部ってどこもけっこう練習するもんなんですね。練習もきついし、監督もきついです、ものすごい勢いで身も蓋もなく怒られています、いつも。



Kokoyakyu何度も見に行くことで、一人一人の選手たちのキャラクターがわかってくるのも面白いことで、身体の成長も個々に違うし、それぞれ得手不得手があるし、性格も少しずつわかってきます。そういう中で、みんな泣いたり笑ったり、悩んだり調子乗ったりしながらやってきたわけです。残念ながら途中で退部してしまった仲間もいました。うちの息子も、何度かやめることになりそうなことがあったようだし、最後までやり通した連中というのは、それだけでほめてあげたいところがあります。

そして最後の夏、なかなかいい試合を観せてもらいました。だいたい得点力は低いのですが、いい守備をして、エースも踏ん張り、先手を打って逃げ切るパターンを彼らなりに作って頑張りました。最後に戦った国士舘高校は、さすがに優勝候補、格が上で手も足も出なかったけど、8回まで3-0で踏ん張り、エースも8回力尽きて6-0になって敗れたけど、コールドになってもおかしくない相手でしたから、よくやったと思います。

ただ、息子たちのチームがどれほど練習したと言ったところで、あの試合で初回にホームランを打った国士舘の3番バッターは、毎日の練習の後、10km走ることと1000回の素振りを欠かさないと、新聞に書いてありましたから、上には上がいるんです、果てしなく。

その国士舘高校は、東東京代表をかけた決勝戦に進み、大接戦の好ゲームの末、惜しくもサヨナラ負けを喫しました。もうこのあたりになると、どこが甲子園に行ってもおかしくないレベルなんでしょうが、勝負は時の運です。そして甲子園ではもうすぐ、この夏一度も敗れることのなかった一校が決まります。

 

息子の高校野球から、世界でたった一つの金メダルまで、ものすごくたくさんの勝ち負けを見届けては、そのたびに深いため息をつく夏なのです。

 

 

2010年1月15日 (金)

泣きながら生きていくのだ

昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。

そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、

「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」

などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。

新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の1230から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。1230かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。

いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。

それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。

中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。

以下、お話に触れます。

 

1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。

この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(19661976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。

若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。

でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。

丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。

丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。

 

 日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。

1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。

努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。

ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。

「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」

父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。

あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。

一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。

「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」

 

Tei-family4

 

それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。

数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・

この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。

 

  

それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。

15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」

日本という国に対しても、

「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」

みたいなことを言われました。

中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。

 

そのことで思い出したことが一つ。

子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の23女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。

この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。

 

  

しかし、泣いた。

  

2008年12月19日 (金)

マリンの出産

暮れも押し迫って、何かとあわただしい12月のとある日、愛犬マリンに子が生まれました。

マリンは4歳のトイプードルです。男の子一匹を出産したのですが、これが大変でした。大変だったのはマリンなのですが、私たち人間も、家族全員で徹夜になりました。

というのも、思いの外の難産だったからです。犬印の腹帯は、安産の印で、犬はいつでも安産などという例え話は、大きな間違いだということがわかりました。犬を飼っている知り合い何人かにも聞きましたが、わりとみんな安産ではなかったといっていました。やはり、野山を走り回ってた頃の犬とは違い、都会のマンション暮らしのワンちゃんたちは、事情が違ってきてるのだろうと思います。運動不足なんですね、きっと。

数日前から、インターネットで、犬のお産の記事を読み、ブリーダーさんにも獣医さんにも相談して準備を始めました。家族の中でもっとも熱心なのは妻です。やはり唯一の出産経験者だからでしょうか。私などはつい数日前まで、「えっ、うちで産むんだ。」「産婦人科じゃないんだ。」とか言って、ひんしゅくを買っておりました。

その日はいわゆる予定日で、早めに帰宅しました。晩御飯を食べたあとあたりから、陣痛が始まりました。昼間より夜間出産することのほうが、圧倒的に多いそうです。はじめは、落ち着きがなくなって、家の中を歩き回りながら鳴くようになり、お産用のダンボール箱に入っている時間がだんだん長くなってきます。それからは、時々苦しそうにするので、さすってやります。そうこうしているうちに、夜中になったのですが、まだ産まれる気配はありません。予習した知識では、とっくに深めの陣痛がはじまってるころなのですが・・・・

夜中も3時を過ぎ、家族全員で不安になったので、担当獣医さんに電話をしました。留守番電話です。この獣医さん、この界隈ではちょっと有名な獣医さんで、なんて言ったらいいか、サービス業的なところがまったくないというか、診療所もきれいじゃないし、連絡もなかなかつかないし、基本的に愛想がないし、しゃべると横柄な感じだし、近所では「赤ひげ」とあだ名をつけられたりしてるんです。ただ、腕はいいんですね、これが。

まあ、案の定連絡が取れないんです、やっぱり。

相当不安になっていた午前4時頃、何の前触れもなく突然ピンポンがなって、赤ひげがあらわれました。陣痛が深くなって産まれやすくする処置をテキパキやってくれました。

「これで明け方までに産まれるといいがなあ、ガハハハハッ」とかいいながら赤ひげは去っていったのですが、確かにその後からマリンは深く苦しみ始めます。

でも、産まれないんです夜が明けても。

家族全員で励ましながら、かなり衰弱しているのがわかります。相当心配になって7時半頃また赤ひげに電話をしました。やっぱり留守番電話のままで連絡が取れません。しばらくいらいらした頃、突然、赤ひげから電話がかかりました。いつも突然なんだよなあと思いつつ、声を聞いたときは、地獄に仏でした。

「そうかあ、産まれないかあ。すぐ連れに行くから家の前で待っとくように。」

電話を切って、マリンを抱いて家の前に出たら、もう赤ひげの車は停まっていました。

まったくこの人、遅いんだか早いんだか。

私たち家族は、ただ、ただ、マリンの安否が心配でした。

徹夜明けのまま出社した私に、夕方妻から連絡があり、帝王切開で手術をおこなったこと、胎児が産道に引っかかってかなり危険だったこと、でも、母子ともに助かり、さっき赤ひげと帰ってきたこと、赤ひげが一部始終を、鼻の穴を膨らまして語ったことなどを、おしえてくれました。

帰宅すると、麻酔でぐったりしたマリンと、ティッシュの箱にホカロンといっしょに入れられた120gの息子がいました。

ここで聞いた話が、かなり心配な話でした。

つまり、帝王切開を受けた母犬は、自然分娩した犬に比べて、子供を産んだ実感をもてないことがあり、まして大手術で消耗しきっている上に、麻酔も残っているので、子供を近づけたときに、噛み付いたりすることがあるというのです。げんに病院で近づけたときには、払いのけたそうで、もしも噛み付いたりしたら、120gの命はひとたまりもありません。

それじゃ近づけなきゃいいのかというと、それもだめで、離したままにしとくと育児放棄につながるというのです。

この親子対面の儀式は、私がやることになりました。妻はいろいろあって疲れきっているし、子供はマリンを抑える自信がないし、だいたい子供二人とも期末テストの真っ最中で、昨日のお産の徹夜で、今日受けた教科は完全玉砕したとか言ってるので、はやく勉強しろっちゅう感じなのです。

緊張しました。4年間いっしょに暮らしたマリンは、疲れ切っていて今まで見たことのない顔つきになっており、全然別の人格(犬格)になってしまってます。

まず右手でマリンの口を押さえて、左手に120gをのせて近づけます。まったく母親のリアクションはありません。だんだん臭いを嗅ぐ仕草をしますが、すぐ関心を失ったかのようになります。ころあいを見計らって、口を押さえている右手をそっとはずしてみますが、なめようとはしません。だんだん顎の下に置く時間を長くします。1時間ほどしたときに、ちょっとなめました。ちょっとしてもう一度なめました。そして、ついに、自分の前足で抱いてペロペロペロペロ、なめたんです。なんだか昨夜からのことが走馬灯のようにめぐりました。涙がポロポロでました。おっさん久しぶりに泣いた。

「えらかったなあ、マリン。」  何度も言ってました。

それから母犬は、自分の体力の回復もそこそこに、かいがいしく子の世話を続けました。

その後、少し落ち着いたときに妻が言いました。

「マリンも、一人で産んで、一人で育ててるんだね。」

確かに、そこに父犬はいません。自らの子育てを思い出しているようでした。Marin_2

2007年7月 3日 (火)

小さな大投手、逝く

この夏、7月の終わりに、義父が急逝しました。 Pitcher2_6

昭和5年の生まれでしたから、76歳でした。寿命といえばそれまでなのかもしれませんが、まだまだ生きていてほしかったです。

この人は妻のお父さんですので、私としては、結婚してからの18年間、お世話になったことになります。

元プロ野球選手で、ピッチャーをしていました。その後、コーチをして、監督をして、解説者もして、ずっとプロ野球界にいた人でした。

昭和25年、創設されたばかりの地方の小さな球団の入団テストを受けて採用され、その年に新人投手として15勝を挙げてから、長いプロ野球人生が始まりました。   

身長が166cmで、野球選手としてはかなり小柄でしたが、それから8年間2桁勝利を続け、その間、球団の勝ち星の4割以上を挙げました。弱小ゆえに解散の危機に立たされた球団を救い、昭和30年には、年間30勝を達成して、リーグを代表する投手になりました。

それでも、14年間の現役時代、チームがAクラスになることは一度もありませんでした。

昭和38年シーズン終了後、引退。621試合に投げ、通算197勝208敗、1564奪三振、通算防御率2.65という数字は、やっぱりちょっと、ものすごい数字ではあります。

私も現役時代をほとんど知らないほど、昔の話です。当時は、今のような投手の分業制も無く、エースは完投が当たり前、勝てそうな試合がピンチになると、リリーフにも行ったそうです。

「もっと強いチームにいたら、もっと勝てたでしょうね。」

と、よく言われましたが、その度に、本人は真顔で否定していました。

「小身・弱小・貧乏を、逃げ場にしたくなかった。」

というのが、当時からの口癖で、本当に負けることの大嫌いな人でした。そのエネルギーで戦い続けた結果が、自分の記録だと言っていました。

あらためてこの数字を眺めてみると、ずいぶんしんどい試合が多かったことが想像できます。ピッチャーという役割からくる性格もあり、かなりワンマンで、わがままなエースでもあったようです。勝ちにこだわり続け、投げて、投げて、また投げて、それでも、負け数のほうが勝ち数を11個上回りました。

いつだったか二人で話していたときに、もう一度生まれ変わっても、やっぱりピッチャーを仕事にしたいと言ったことがありました。数字的には、負け数のほうが多かったけど、しんどくて悔しいこともあったけど、この仕事が本当に好きだったんだなと思いました。

よく、夜遅くまで野球の話を聞かせてもらいました。聞き手としては物足りなかったろうと思いますが、野球ファンとしては、本当に面白くてためになる話でありました。

かつて、勝負の鬼といわれた人も、晩年は穏やかな人でした。

義父が亡くなったちょうどその時、うちの息子は、小学生最後の少年野球大会に出場しており、ベスト8をかけ、三塁手として戦っていました。義父にとっては唯一の男子の孫が、野球をやっていることは、やはりうれしいことのようでした。もう少し先まで見せてあげたかったなと思うと切なかったです。

それからしばらくしてから、夏の甲子園が始まりました。

駒大苫小牧の田中君や、八重山商工の大嶺君や、早実の斉藤君を見てどう思ったか、ゆっくり話を聞いてみたかったです。

2006/9

この夏のいろいろ

今年の夏は、久しぶりのカンヌ行きに始まり、久しぶりの家族旅行にも行き、その間、久しぶりにタイガースが好調で、オールスター戦も見に行ったりして、いろいろと盛りだくさんです。そうこうしているうちに8月になりました。8月というのは、お盆ということもあり、終戦記念日があったり、原爆記念日があったりして、鎮魂の気持ちの深まる時期です。今年は、終戦60年の節目であり、また御巣鷹山の飛行機事故から20年というタイミングで、世間全般、例年に増してその気持ちが深いように感じられます。

50年も生きていると、自分のまわりの沢山の人達を亡くしていることがわかります。

今年初めてのお盆を迎えた御霊もあります。この世に生かされている私たちは、こうやって時々、亡くなった人達のことを偲び、なんとか気持ちの折り合いをつけながら生きてくんだなと思います。

8月11日の新聞に、御巣鷹山日航機墜落事故の、ある遺族の記事がありました。読んで泣きました。要約して紹介します。

以下記事より。

1985年の早春。1組の夫婦が埼玉の2DKのアパートで新婚生活を始めた。半年後、初めての里帰り。だが、妻は羽田をたったまま、神戸の実家に帰らなかった。妻の母は事故後、うつ病と診断される。そんな義母の姿を知り、夫の康治さんは一周忌後、骨つぼを抱き新幹線にとび乗った。「遺骨は返そう。お母さんが由美を守らなくちゃと思って生きてくれれば・・・」 納骨のあとの別れ際、儀父母は繰り返した。「まだ、康治君は若いんだから」 しばらくして、康治さんが手紙を書いても、神戸から返事が来なくなった。「家族だと思っているのに」切なかった。

会社では立ち直ったかのように、月230時間の残業をしたが、1人家に戻るとむなしくなる。時に、繁華街をさまよった。6年で4度引越した。事故から8年後、一つ年下の女性と再婚した。一緒に登った御巣鷹山の尾根を号泣しながら歩く姿に、新たな人生を歩もうと決意した。

今年、康治さんは部長に昇進した。ガリガリだった青年は、おなかの出っ張りを気にするようになった。「君は、若いんだから」あの時、由美さんの両親が繰り返した言葉をかみしめる。感謝と今の暮らしを伝えたくて、今年、遺族の文集「茜雲」に文章を寄せた。

『あの日命を落とした先妻の両親は、25歳という若かった私を再起させるために、自ら縁を絶つように音信を潜めました。時がたつにつれ、私はそれが究極的な愛情であることを、思い知るようになりました。前向きに生きて幸せになろうと決意を深めていきました』

思いは届いていた。「康治くん、再婚したって。よかったなあ。会社も勤続20年やって。」

御両親は、7月上旬「茜雲」を手にした。康治君と会うことはないだろう。それでも、心穏やかに、それぞれの生活を送ればいい。

1995年の阪神大震災。家がつぶれたが、朝食を作っていた義母は、テーブルの下に逃げて一命をとりとめた。墜落事故後に結婚した由美さんの兄夫婦の長女(19)に亡き娘の面影を見る。残された自分たち家族の幸せを、由美さんが支えてくれたように思う。20年前に帰ってくるはずだったふるさと神戸。夫婦は近く、市内の高台にお墓をつくろうかと考えている。

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2005/8  

野球のこと

3年前の春、プロ野球が開幕して初めて行われる巨人×阪神戦のときのことです。

幸いにも東京ドームの観戦チケットを2枚頂いたので、当時小学一年生だった息子を連れていきました。

そのころ息子は、野球のルールも巨人も阪神も知りません。

私の場合、小学生のころ江夏豊というピッチャーを知ってからずっと阪神ファンです。

はい。

息子が野球に興味を持って、阪神ファンになるといいな。などと淡い期待を抱いて水道橋に向かったのでした。

3年前の阪神は弱かったです。

その試合で覚えているのは、

3塁側内野席から見て真正面に芥子粒のように消えていった松井秀喜のホームランだけでした。

すごかったです。ほんとに。息子はしばらく固まってました。

結構長時間の試合でしたが、息子はきっちりと最後まで見とどけ、翌日からは毎日、新聞のスポーツ欄を見る子供になりました。

そして、バリバリの巨人ファンになってしまったのです。

失敗でした。

それからまもなくして、どちらからともなく近所の公園でキャッチボールをするようになりました。

そのうち野球友達もでき、その友達に誘われて息子は近所の少年野球チームに入りました。

土日祭日に練習をしたり、試合をしたりします。私もいけるときには手伝いに行きます。

面白いです。

子供は成長する生き物です。日に日に背も伸びるし、力も強くなります。

出来なかったこともだんだん出来るようになり、練習しただけどんどんうまくなります。

強い相手にコテンパンにされて泣くこともありますが、帰り道にはみんなケロッとしてます。

気がつくと土日のスケジュールは最優先でそこにいる自分がいます。

相変わらず巨人×阪神戦の日には親子でいがみ合っていますが、

3年前に野球を見に行ったことは、私たちにとって少しいいことだったように思えます。

そんな自分の環境からして、野球人気が下降気味だとか、

プロ野球の球団が合併して1リーグになるんだとか言われても、どうも実感がわきません。

野球の魅力や面白さは、昔と何もかわっていません。

いつかの松井秀喜のような打球を飛ばせる選手がこれからもどんどん出てきてほしいし、

それに影響されてたくさんの子供がグランドを駆け回ってほしいなとただただ思ってます。

2004/7

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