言葉 Feed

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

Karasan_tsukasan_2


私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2024年1月16日 (火)

2024の年頭に思いますこと

Nengajo2024_2


昨年は、一年中 ヨーロッパや中東での戦禍が伝えられ、日に日に戦況は過熱して、一向に和平への道が見えぬ暗い年になってしまいました。せめて来年は明るい良い年になってほしいと願い、かような呑気な年賀状を書いて、明けた2024年のお正月でしたが、元旦から北陸では大地震が起きて、その方面では本当に気の毒な状況に陥っています。北陸にいる友人知人には安否の確認をし、無事と判りましたが、これから極寒の時節に、いろいろに大変なことと思われます。犠牲になられた方々も多く、やりきれない気持ちです。お正月から神も仏もないものかと。

そのような新年に、私、気が付いてみれば、この世に生を受けて70回目の正月を迎えたわけで、ちょっとびっくりしているようなことなんですね。まあ、いろいろあったにせよ、ここまでたどり着いたことはありがたいことです。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから、家族や友人で祝ったそうで、そういう意味でもおめでとうと云うことみたいですが。
ただ、一休禅師の言葉に、こういうのがあります、有名ですけど。
「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
正月はめでたいけど、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無情をあえて正月に説いたのです。無情を知ることは命のはかなさを知ること、そして日々を大切に生きる者になると。この歳になると、そういう言葉がなんだかじわっと身近になります。

振り返ってみると、歳というのは10才ごとに節目を迎えるところがあります。まず10才になる時は、まだ子供だし、思ったこととかあんまり覚えてませんが、
20才の時は、大人になるんだぞみたいな事を、やたらとまわりからも云われ、自らも、嬉しいような嬉しくもないような、まあ10代後半からは、酒もタバコもやってたんだから、それなりに自覚してたんでしょうか。成人式とかもあるし。私、出なかったですけど。
30才というのは、もう自立はしていて、仕事も人並みにはやっていて、ちょっと生意気にもなりかけているけど、まだ青臭いところもあり、20代の時には、わりと早くに30才にはなりたいようなところがありましたかね。
30才から40才の時は、なんだかいろんなことが起こる時期で、肉体的にも、精神的にも、20代とはまた違った激しい変化がありましたね。ある意味面白いとも言えますが、わりとタフですよね。ということで、ハッと気がつくと40才になっちゃってた感じですか。気がつくと結婚もしていて二人目の子供が生まれたりしていました。そんなことで、あんまり感慨が無いというか、あっちゅうまに通り過ぎたみたいなことです。40才って。
ただ、よくわからないけど50才になることは、ずいぶんと嫌だったんですね、先輩たちもけっこう嫌がっていて、自分が50才になる時になって、その意味や気持ちがわかったんです。自分の大事な何かを失うような、どうしてもその線を越えたくないような、妙に往生際悪くジタバタしてましたね。そういう意味では一番節目を感じたのかもしれませんが。
60才はですね、逆にもう諦めついた気分でしたわ。周りからは還暦とかいろいろ云われるんですけど、あんまり気にもせず、それほど気にもされず、わりと我関せずでしたか、ちゃっかりお祝いなんかは遠慮しませんでしたし、まあ、たんたんとなっちゃったみたいなことでした。
そして、いよいよ70才ということなんですが、完全に未知の領域というか、若い頃から60才までは一応想像がついていたとこがあったんですけど、もちろん生きていればの話として、70才の自分というのがどんなことになってるのか全くイメージがなかったんですね。
60代というのは、なんとなく自覚なく過ぎていきまして、うっかり油断してたら70才を迎えるところに来てしまいました。ここから先は日々想像を超えていくわけで、一日一日を大切にせねばと、殊勝な気持ちになっております。
これからますます経年劣化もしてまいりますし、より強いハートで、のびのび童心に帰って、愛されるジジイを目指そうかという所存です。

本年も、先輩のみなさま、後輩の方々、
今までにも増して、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

Tatsu

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

Arikitari_2

「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

Terayamayamada

2023年7月14日 (金)

薄情のすすめ

“厚情必ずしも人情ニ非ズ
 薄情の道、忘るる勿れ    坂本龍馬手帳より“
 
かつて作家の司馬遼太郎さんが、ある編集者に贈った色紙に、この文言が書かれていたそうで、普通に考えると龍馬語録の中にこのフレーズがあるのは意外な気もしますが。
私が「竜馬がゆく」を読んだのは、20代の終わりか30代になった頃でして、だいぶ前のことで、ある意味危険を含んだこの文言のことは、あんまり覚えてないんですが、このことに関しては、司馬さん自身がこの小説のあとがきに書いておられまして、
「竜馬はふしぎな青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかったが、暮夜ひそかにその手帳におそるべきことを書いている」と。
「竜馬がゆく」は、1966年に刊行された、ご存知の不朽の名作でして、当時それほど知られていなかった坂本龍馬という歴史上の人物を、一気に超メジャーにしました。
司馬さんは、この幕末の風雲期に突如現れ、その役割を終えるとともに天に召されたこの人物にいたく興味を抱き、おそらくその周辺資料をものすごい勢いで読み尽くし、その魅力を小説にされたと思いますが、
「いずれにしても、坂本龍馬のおもしろさは、この語録をもちつつ、ああいう一種単純軽快な風姿をもって行動しきったところである。この複雑と単純のおもしろさが、私をしてかれの伝記風小説を書かしめるにいたったように思われる」と、おっしゃってます。
と、前置きが長くなりましたが、この「薄情の道、忘るる勿れ」という言葉は、ちょっと奥が深いなと思うのですね。
人は、公的にも私的にも何か目的を達成しようとする時、ある意味非情な判断をすることがあって、場合によってはそれも是であるということなのか、いやいや、ま、そんなにわかりやすい話でもないでしょうね。
人の世は、何かと情で繋がっていて、情に厚いということは大事であるけれど、情に流されるということもあり、その辺りの兼ね合いの難しさがあります。
これは人間社会で生きていく上で永遠のテーマかもしれません。

竜馬が生きた幕末は、欧米列強の外圧から、この国がイデオロギーの嵐の中で大混乱していた時代で、そんな時どこからともなく現れたこの男は、どの組織にも属さぬ素浪人の立場で、いくつかの時代のスイッチを押して、向かうべき方向性を示して、またたく間に一気に駆け抜けて行ったわけです。
司馬さんが描いた、この竜馬という主人公は、ただの好青年ということでもなく、自己実現のために我儘で頑固でもあり、人たらしで強引だったりもして、やたら女性にモテたりもするんですけど、ある爽やかな余韻を残して、歴史の舞台から忽然と姿を消してしまいます。
作者はこの人物に関する文献を読めば読むほどに、ある引力のようなものを感じたでしょうか。その中で、「薄情の道、忘るる勿れ」というフレーズは、ある大きな意味を持っているのかもしれません。
坂本龍馬が亡くなったのが31歳ですから、この小説は青春小説でもあります。だいぶ前ですけど、仕事で四万十川を辿って四国山地のてっぺんまで行って泊まったことがあったんですが、この山脈は千数百メートル級の山々が連なっておりまして、けっこう深いんです。山道を歩きながら、その時ふと、龍馬はこの急峻な山を越えて土佐藩を脱藩したのだな、その時26歳かあ、などと思ったんですね。まさに青春です。
それで思い出したわけでもないんですけど、個人的にも、
なんか、この青春小説を読んだ後、34の時、前の会社辞めて独立したんだったなあ。

Ryoma_4

2021年12月 6日 (月)

続・7歳のボクを揺さぶった映画の話

Tyamazaki_4


はじめて、山﨑努さんにお会いすることになったのは、「天国と地獄」公開から22年後の1985年でした。この年に黒澤明監督の期待の大作「乱」が公開されるのですが、それに先立って「これが黒澤明の『乱』だ」という、テレビの1時間特別番組を作ることになりました。この番組は、普段広告を作っているコピーライター、アートディレクター、CMプランナーたちによって制作されることになり、私はそのスタッフの中に入って、プロデューサー補という役割をいただき、番組に使われる全ての編集素材を管理する係になります。素材のほとんどは、映画が制作されている間に、ただただ記録され続けたドキュメントのVTRです。その目も眩む膨大な素材と何日も寝ずに格闘した末に、ようやくほぼ編集を終え、あとはナレーションを入れて完成させることになるんですが、そのナレーターを山﨑努さんにお願いできると良いねということになりまして、お願いしたんですね。そのナレーションは惚れ惚れするほど素晴らしく、本当に山﨑さんにやっていただいてよかったというものになり、完成します。先日、30数年ぶりに改めて見直したんですけど、なかなか良い番組の出来でした。

その頃、その仕事と前後して、私が関わっている別のコマーシャルの企画が進んでいて、その広告のメインキャラクターの人選も始まっていたんですね。その仕事の企画をされていたのは、業界でちょっと有名な面白い方だったんですけど、ある時キャスティングの話になって、「好きな俳優さんいますか。」と聞いて下さったので、迷わず「山﨑努さんです。」と答えたんですね。そのせいでもないんでしょうが、その後、わりと長いこと別の仕事で海外に行って帰ってきたら、企画も決まって、出演者も山﨑さんになっていました。ある製薬会社ののど飴タイプの薬品の広告で、とても面白い企画で斬新なCMができそうでワクワクしたのを覚えています。

子供の時からファンだった山﨑努さんと仕事をできることは嬉しかったけど、そもそも最初は黒澤映画の凶悪犯役としてインプットされているし、私の周りには面白がっていろんなことを云う人たちがいまして、
「見た目といっしょで、かなり怖い人らしいぞ。」とか、
「けっこう難しい人らしいぞ。」とか、とか、有る事無い事云うわけです。
考えてみると、確かに見た目は怖いし、屈託なく爽やかに、ただ単純明快にいい人なわけないですよね。そういう、ちょっと複雑で屈折したとこのある、いわゆる大人の男を表現できるのが魅力な俳優さんなわけですから。
その頃、30歳を過ぎたばかりの社会人としても男としても、まだ駆け出しのペーペーの私が憧れていて、大人の男として一番かっこいい役者といえば、山﨑さんだろなと思ってましたから。
多分、この方は、自身が演じると決めた役は、徹底的に読み解いて、突き詰めて、時間をかけて肉体化するという、独自の哲学のようなものを持たれてるんだろうなとも感じていました。
黒澤監督の「赤ひげ」も「影武者」も、伊丹十三さんの「お葬式」も「タンポポ」も「マルサの女」も、山田太一さんの「早春スケッチブック」も、向田邦子さんの「幸福」も、和田勉さんの「ザ・商社」も「けものみち」も、滝田洋二郎さんの「おくりびと」も、「必殺仕置人」の念仏の鉄も、そうやってひとつひとつ役が作り込まれています。多くの優れた作家や演出家からオファーが絶えないのはそういうことがあるんだと思います。
CMの仕事も含め、なかなか簡単にオファーを受けていただけないことは、以前からよく聞いておったことでしたので 、まず出演をOKしていただいたことへのお礼の挨拶を兼ねて、企画の説明にうかがうことになりました。
広告会社の担当部長とプランナーと数人で、その夜、山﨑さんのパルコ劇場での舞台出演の後に、近くのレストランの個室でお会いしたんですが、その日の舞台でキャストの1人が、つまらないアドリブで観客の笑いを取りにいった行為に、かなりお怒りになってまして、終始ご機嫌斜めで、はなっから結構おっかなかったんですけども、ともかく、このあと3年に及ぶこの仕事がスタートいたしました。
それまでは、映画やテレビの俳優・山﨑努さんの、単なる一ファンだったのですが、仕事をご一緒することになって、いろんなことがわかりました。ご自身が出演を決められた仕事は、その役をどう造形するか、どう命を吹き込むか、その作品がどうやって観客に届くかということなど、本当に真剣に考えておられ、それはたとえCMであっても同じ姿勢で、出演をお願いする立場としては、ありがたいことでありました。
このコマーシャルフィルムの舞台設定を、大雑把に説明しますとですね、時代は戦前の昭和初期あたりか、主人公は、なんだか国費留学することになった学者か研究者で、ヨーロッパ航路の大型客船に一人乗り込み異国を目指します。船の長旅には、喉の痛みや咳はつきものでして、そこで旅のお供に商品ののど飴が登場するわけです。
古い大型客船のセットを作って、3タイプほどのCMを撮影しましたが、山﨑さんはそれぞれのシチュエーションに、綿密な演技のプランを考えてきてくださいました。そのことでこのCM作品は、厚みを増していくことになるんですが、撮影の当日には、結構細やかなスタッフとのやりとりが行われます。
演技のこともそうですけども、CMに使われる言葉に関しても、山﨑さんは繰り返し確認検討されます。それはCMですから、商品に関する広告コピーだったりもするんですが、徹底的にチェックされるんですね。
俳優の仕事として、常に言葉というものを大切にされていて、台本を読む姿勢にもそれが現れています。かなりの読書家で、いつも身の回りに何冊も本があり、ご自身で本を執筆されることもあります。「俳優ノート」「柔らかな犀の角」という本が出版されていますが、どちらも名著です。
その山﨑さんが船旅をするのど飴のCMは、大変好評のうちに放送されまして、そのうち映画館の大画面にもかかったりして、感動的だったんですが、その翌年に、コマーシャルの続編制作の話が起きます。前出のプランニングチームは、張り切ってその後のストーリーを考え、やはり船旅の後には、目的地につかなきゃいけないねということになり、なんだかヨーロッパロケの相談が始まったんですね。
やっぱり、ヨーロッパだと撮影しやすいのはパリかなとなって、企画チームと演出家と制作部で準備も始まりました。当然、山﨑さんにもロケのスケジュールを打診して承諾していただき、ロケ隊は、5月のパリを目指すことになるんです。
しかし、この年、1986年の4月に、あのチェルノブイリの事故が起こります。ニュースは連日、事故のその後を報道していましたが、ヨーロッパ全土にどんな影響があるのか、ようとしてわかりません。CM制作に関しては、完成までのスケジュールは決まっていますし、中止するというのもいかがなものかという状況の中、重々検討相談の結果、予定通りロケを決行することになりました。
私は現地のコーディンネーターとスタンバイを始めるため先乗りして、パリの様子を確かめ、監督はじめ日本からのスタッフは、順番にフランス入りすることになりました。
全体にスケジュールが詰まっていたのと、カット数の多いコンテでしたから、連日、ロケハン、交渉、オーディション等で、てんてこ舞いで、最後に山﨑さんがマネージャーとパリに到着された時には、空港に出迎えにもうかがえず、その日の夜にホテルの部屋にご挨拶に行きましたが、そこで、かなりしっかりと叱られることになりました。
そのお怒りの中身というのは、
そもそも、君たちはロケハンやオーディションなどの準備が大変であると云うが、俳優である私との詰めが全くされていないではないか。企画コンテは見たが、具体的にこの主人公にどのようにしてほしいのか、その狙いは何か、そのあたりのことがまず固められてから、背景や共演者のことを考えるべきなんじゃないか、君がやっていることはあべこべじゃないか。のようなことを、こんこんと言われました。おそらく、仕事の進行を見ながら、自身に対する相談もオーダーもないままここに至っていることに、考えれば考えるほど怒りが込み上げてこられたんだと思いました。
いや、全くその通りでして、物事を前に進める制作部の役割がきちんとされてなかった事、反省させられました。
不手際をお詫びして、軌道修正のお約束をして、最後に、
「この部屋のコンディションはいかがでしょうか。」とお尋ねしたところ、
「この部屋か、、、暗い、狭い、寒い。」と云われ、
「申し訳ありませんでした。すぐにチェンジします。」と申しましたところ、
「もう、、慣れた。」と云われました。

そこから約1週間、パリ市内のあちこちでロケが行われまして、CM3タイプの素材を撮りためてまいりますが、商品カット以外は、山﨑さんは出ずっぱりで、なかなかタフな仕事になりました。
いよいよ明日の早朝に行われる某有名レストランでの撮影が最後のシーンとなり、それ以外のすべてのロケを終えたその夜、スタッフ全員で日本料理屋で食事をしたんですね。
その時、居酒屋風の小さなテーブルで、山﨑さんの正面に私が座ってたんですけど、これだけは是非、山﨑さんに伝えておきたかったことがあって言いました。
「ボク、『天国と地獄』を、小学2年生の時に映画館で観ました。」
「へえ、で、どうだった」
「そん時から、ずうっと忘れられない映画です。ラストシーンで犯人の山﨑さんが刑務所の面会室の金網に、突然つかみかかるじゃないですか、その時、私、恐怖で映画館の椅子の背もたれに、めり込みましたから。」と。
このシーンは、映画「天国と地獄」のラストシーンなんですね。この映画で描かれている誘拐事件で、多額の身代金を支払った被害者である三船敏郎さんが、犯人である山﨑さんから呼ばれて、刑務所で面会するところなんですが、そのシーンの最後に、犯人が二人を隔てる金網につかみかかるんです。
山﨑さんが、ちょっと遠くを見る顔になって云われたのは、
「あの時、つかみかかったら、金網がものすごく熱くなっていて、ジューって指を火傷したんだよ。あのつかみかかる芝居は、監督の指示じゃなくって、自分の考えでやった芝居だったんだ。」
黒澤さんの映画ではありがちですが、画面の手前の三船さんにも奥にいる山﨑さんにもカメラのピントが合っていまして、いわゆるパンフォーカスなんですが、それに、おまけにレンズは望遠レンズなんですね。これどういうことかといえば、ものすごい光量が必要になり、尋常じゃない数のライトがセットに当てられてるわけですよ。それでセットの金網は、焼肉屋の網のようになってたんですね。
ふと、私は、今すげえ話を聞かせていただいてるんだなと、気付き緊張しました。そしたら、山﨑さんの話は続き、
「元々のシナリオでは、ラストシーンはあのシーンじゃなかったんだ。事件が解決した後に、三船さんと仲代さんが並んで、犯人が住んでたあたりのドブ川の横を歩く後ろ姿のシーンだったんだけど、黒沢さんはそのシーンをボツにしたんだそうだ。」
確かに、刑務所のシーンで終わった方が、観終わった印象は強く斬新ですね。山﨑さんの芝居を見て切り替えた黒澤さんは見事です。
またしても、すごい話を聞いてしまったわけですよ。

食事会の後、ほろ酔いでホテルに向かって歩いてたら、コーディネーターのコバヤシヨシオの車が横に止まったんですね。そしたら助手席の窓が開いて山﨑さんが顔出して、「もうちょっと飲もうか。」と云われたんです。
そのあと、山﨑さんとコバヤシさんと、なんだか気持ちよく盛り上がってしまいまして、明日の朝ロケだというのに、夜遅くまで宴は続きました。コバヤシヨシオさんという人はフランスという国を実に深く知っている人でして、この仕事で本当に頼りになって助けられました。もともとはフランスの海洋学者のクストーに惹かれてパリに来たと云われてたと思います。
ロケの日程を終え、現像も済ませて、オフの日にヨシオさんがフォンテンブローにピクニックに連れて行ってくれました。フランス人の奥さんも子供たちも一緒で、すごい楽しかったんですが、張り合ったわけじゃないんですけど、その時、私が伊豆の下田に仲間で借りているあばら家がある話をしたら、山﨑さんがその家に行ってみたいと云われて慌てたんですね。ところが、その数ヶ月後に、ヨシオさんがたまたま東京に来た時に、ホントにそのあばら家にご一緒することになりまして、それはそれで楽しくて素敵な伊豆一泊旅行で、良い思い出になっております。
この仕事のおかげさまで、当時31歳そこそこの若輩者の私が、本物のアーチストの姿勢を見せていただきました。おまけに本当に得難い話をたくさん聞かせていただき、ただただ一方的に教えていただくことだけでありました。
という、ちょっと長い話になりましたが、子供の時に観て、揺さぶられた映画の忘れられないキャラクターに、ずっと念じていたらば、ほんとに会えたという話でした

2019年4月18日 (木)

僕が働き始めた頃

桜の花が散って、新緑の木の芽が出始めるゴールデンウイーク前のこの頃、社会に出て来たばかりの新人君たちは、どんな気持ちでいるんだろうか。うちの会社にも4人ほどいるんですが、みんな元気そうにしてるけど、でもやっぱり基本的に緊張してはいるんでしょうね。

昔のこと過ぎて、自分のことはよく覚えてないんですが、だいたいにおいて硬くなってたように思います。

もっとも、私の場合、働き始めたと云ってもアルバイトで、ただ云われたことを云われたようにやる仕事で、主に届け物に行く事だった気がします。いろんなところの、いろんな人へ、いろんなモノを届けますが、そうやって、この仕事に関わるいろんな場所を覚えたり、空気を感じたりする意味もあったかと思いますね。

その会社はテレビコマーシャルを作っていたので、毎日午前中には、作ったCMを納品する仕事がありました。その当時の完成品は、16mmフィルムの15秒とか30秒のリールになっていて、それをいろんな会社に納めに行くんです。

それほど重くもないし、数と中身を確認して納品書といっしょに置いてくるんですけど、ある時、大手広告会社のある部署に届けに行ったら、他の会社の納品に来ていた人が、その部署のおじさんに思い切り怒られていて、どうも納品書に不備があるようなことを云ってるんですけど、全然たいしたことじゃないんですね。

「君の会社は、うちの会社をバカにしてるのかあ!」とか云っちゃって、

そもそも、その納品に来た人も、私と大して変わらないペーペーだし、そのオッサンだって、どう見ても年の割にはペーペーなわけですよ。

なんか世の中には、そうやって大きい会社を笠に着て、ただ威張りたい奴とかもいるんだなと思い、まあたしかにいろんなとこ行ってると、いろんな人がいるもんだなと思ったりしたわけです。これも社会勉強かなと。

あんまりこういう人とかかわり合いになりたくなかったんで、自分の番が来た時に、そのオッサンの前を通り過ぎて奥の方にいたもう少し偉そうな人に納品しました。背中の方でギャアギャア云っていたけど、しかとして、ガン飛ばして帰って来ましたよ。

Pmgenba_2

そんなこともありながら、会社はどんどん忙しくなってきて、仕事もいろんな雑用が増えていって、そのうち撮影現場へも行かされることになってきます。

撮影という仕事は、当然いろんなシミュレーションをやっておくんですが、予想してないことが次々に起こるもんで、2手3手、先を読んで、そうとう臨機応変に機敏に動かなくちゃならなくて、昨日今日入ってきた奴は、簡単に置いて行かれちゃうんですね。

なんとか一人前になって、親方や先輩たちから認めてもらいたくて頑張るんだけど、なかなかうまくいかないわけですよ。そうやって、むきになってやってるうちに、一年近く経っちゃいましてね。

もともと大学でやってたのは土木建築でしたから、そういう方面に就職しなきゃいけなかったんだけど、どうもその気になれず、卒業はしたものの、たいしたビジョンもなくて、しばらく社会観察でもするかといういい加減な考えでいたんですね。

ちょうど大学卒業する頃、テレビで「俺たちの旅」っていうドラマをやっていて、鎌田敏夫さん脚本ですが、同年代の人は知ってると思うんですけど、どういう話かというと、俺たちくらいの年代の男が3人いて、社会に出て自立しなきゃいけない時期なんだけど、なんだかフラフラと自由に暮らしながら、少しずつ社会とかかわっていくみたいな話で、それ見ながら、ま、こういうのもしばらくありかなと、自己弁護してたようなとこがあったんですね。まあそういう意味では鎌田さんに感謝はしてるんですけど。

そんな時に、ひょんなことで始めたバイトでして、いま思えば、仕事は大変だけど面白くて、わりと皆いい人たちでした。あのころ、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、まあ云ってみれば面倒臭いやつだったんですけど、この職場にどうにか居場所を見つけて、社員になることになります。

1970年代のこの業界は、けっこう若くて、まだ先の見えない未来がありました。テレビも元気で、TV-CMはトイレタイムとか云われてもいたけど、新しくて面白くて勢いのあるモノもでき始めていました。どなたか忘れたんですけど、広告会社の方だったか、演出家の方だったかが、

「ムカイ君、俺たちは無駄なもん作ってんだから、無駄ということを知らなきゃいかんよ」なんてことをおっしゃっていました。

まだ先のわからない、いい時代だったとも言えますかね。

この前、うちの新人君たちと話す機会があったんですが、一応先輩として話したのは、

仕事は、まず最初からうまくはできないということ。

世の中は観察しているといろいろ面白いことがわかって来るから、よく観察してみるとよいということ。

などを、伝えました。

俺たちは、無駄なもん作ってるとは、さすがに云えませんでしたけど。

2019年2月20日 (水)

働き方改革のことを考えた

今回はちょっと真面目な話なんです。

このところ世の中では、「働き方改革」ということが云われて久しいですが、当然ながらうちの会社でも、なにかとその話が出ます。

私のいる業界は、広告映像の制作が主な仕事であり、そもそも世間が働き方改革を叫び始めるきっかけになった、労働時間に問題のある業界でして、かなり真剣に取り組む必要があるんです。

まあ昔から、徹夜は当たり前、納得いくまではやめるな、とことんやれみたいなところがありまして、長いこといると、わりとそういうのが普通になってるんですね。

確かにそれは、習慣的なことでもあり、無駄に時間使ってることもなくはなく、だいたい長い時間仕事を続けてると、集中力も低下してきて、返って効率悪くなるってこともありますよね。

自身の経験から言えば、この労働時間の短縮というのは、その仕事にとって、無意味な時間というのを極力削ってほしいということに尽きます。それには、仕組みを見直したり、新たにルールを作ったりして、改善の道を探ることが必要になってきます。

モノを作る仕事というのは、どこまでやっても終わりが来ないようなとこがあります。やればやっただけのことはあるということも云えますが、時間を長くかければ良いモノができるというものでもありません。そのあたりが仕事というものの面白いところなんですけど。

キャリアの少ない人の方が、どうしても仕事に時間がかかってしまう傾向もあります。それに要する時間は、ある意味訓練の時間として考えねばなりません。

要は、それらの時間を、ルールに則って、どう工夫していくかということです。

労働時間を、やみくもに区切って、ただ短縮してもあんまり意味はありません。チャップリンのモダンタイムスみたいに、コンベアで目の前に流れてくる作業を単純にこなしていくだけの仕事であればいいんですけど、そういうタイプの仕事ではないのでね。

かなり考えなきゃいけないのは確かです。

 

それと、働き方の問題なのかどうかは、よくわからないけれど、昨今よく世の中で話題になっていることに、パワハラ、セクハラというのがありますよね。

ちょっと話が長くなるんですけど、このまえ犬の散歩をしていたら、近所の児童公園でリニューアル工事をやってまして、なんか若い作業員がトラック運転してバックで公園に入ってきて、まあちょっと不慣れだったんでしょうけど、置いてあった工事用運搬一輪車(通称ネコ)に、おもいっきりぶつけたんですね。けっこう大きな音したんですけど、運転してたお兄ちゃんもちょっとびっくりしたみたいで、そばで仕事してた先輩と思われる作業員に、

「すいません、大丈夫ですか。」って聞いたんですね、そしたらその先輩が、

「大丈夫じゃねえよ。ふざけんな、もしもそこに人いたらどうすんだ、バカ野郎。」と、けっこうな勢いで、怒鳴ったんです。

それを、犬と見てて、「そうだよなあ、それぐらいの失敗だよなあ。」と呟いたんですが、

何を思ったかというと、自分が若い時、仕事でよくこんなふうに怒られたなあということなんです。私の新入り時代ですから、ずいぶん前の話なんですけど、そのころ現場に入ってきた新米は、いつ先輩や親方からどやされるか、ドキドキと緊張してたんですね。まあ、先輩たちも結構こわい人たちだったんですけど、ただ、そのどやされることの多くには、こいつをどうにか使えるようにしてやろうというような、愛情とまでは云わないけど、そういう気分が含まれてて、おっかなかったけど、いやじゃなかったかなというのがあります。

要は、現場っていうのは職人の世界だから、新米は先輩を見ながら仕事覚えていくわけで、先輩たちにも弟子を育てる仕組みが出来てたと思うんです。そりゃ、いろんな人がいましたけど、そういう仕組みの中で、育ててもらったり、勝手に育ったりしてたわけです。思い出してみると、先輩も後輩も相手のことよく観察してましたね。表現はぶっきらぼうだったりするんだけど、よく見てた気がします。ちょっと生意気になってくると、この先輩の仕事はいいな、かっこいいなとか、この先輩の仕事の仕方はよくわからないなとか、先輩の方もちょっと育ったなと思えば、褒めてやったり、これがまた褒められるとつけあがったり、まあそういうことで、3歩進んで2歩下がったりしてたわけです。

その頃、パワハラっていう言葉もなかったし、パワハラまがいのこともなかったとは云えないけど、なんかお互いのことに、もっと関心持っていて、思ったこと云い合って、その上で、どやしたり、叱ったり、諭したり、ちょっと褒めたりしてたんじゃないでしょうか。いつしか自分にも後輩が出来るようになっても、そういうことは続いてたように思います。

パワハラということが起こる背景には、基本的に相手の性格や力量がわかっていないということがあります。人と人が関係を作って行く上で、相手に対する興味や想像力が欠如していませんかね。いわゆるお互いの踏み込みが足りないということのような気がするんですね。その責任の多くは、先輩の方にありますが。

そうやって、世の中全体がパワハラという現象に妙に過敏になってきてますと、相手に云いにくいことはもっと云わなくなりますし、ますます踏み込みが浅くなるわけです。

セクハラに関しても、多分そういった傾向はあって、異性に対してのマナーというのは当然必要だけど、お互いにある程度遠慮しないで踏み込まないと、本当の仕事のパートナーにはなれないわけですよ。

かつて、職場に新人が入ってくると、みんなしていじって、ちょっと手荒い歓迎みたいなことしてましたが、それはそれで、関係作っていく上では、役に立ってたとこもあったんですね。

労働時間の短縮に関しても、仕事というのはしょせん人間がやることなんだから、同じ仕事をする者同士が、いかに人間関係を構築しておくかにかかってるんじゃないでしょうか。ひとつの仕事をやり終えるための時間を、そのチームでどうやって共有して、役割と作業を手分けするのか。メンバーそれぞれが、特にリーダーがどれほど的確にそのことをつかんでいるかにかかっています。そのことなしに、名案というのはなかなかないと思いますね。

働き方改革は、しなきゃならない局面に来ているのは確かだけど、昔から積み上げてきたことを全否定することではないですよね。なんとなく感じるのは、このところ世の中は、社会のルールやシステムの整備のことばかりになっていて、なんか一見スマートではあるんだけど、わりと泥臭く一人一人と向き合うことも大事なんじゃないかとも思うんですよ。

 

そういえば何年か前に読んで、深く頷いた山田太一さんの言葉です。

 

「いまはみんな訳知りになって、人生を生きはじめる前に、

絶望もあきらめもインプットされてしまうところがあるから、

人間のいい部分を信じることが

非常に難しくなってきている気がします。

実際に誰かとの距離を詰めようとすると、

みっともない自分も見せることになる。

そういうのを避けようと思う。

それで孤独になっているところがある。

友達になろうと思って踏み出せば、

そして歳月を重ねれば、

ちょっと無視できないような関係ができていくんです。」

Randoseru_4

 


働き方改革するうえで、大事な判断基準は、その職場に入ってきた新人がちゃんと一人前になっていける環境があるかどうかじゃないかと思います。

 

そうこうしてるうちに、桜の花の蕾も付き始め、

桜が咲く頃には、また新しい仲間が入って来る季節になります。

春を待つのはなんだかいいもんですよね。

 

 

 

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

Danshi2

 

2018年3月22日 (木)

二合句会

「二合会」という会があって、何年か前から参加しておりますが、要は5人ほどのオッサン達が集まって酒飲んでる会なんです。そもそもどうして始まったかと云えば、僕らの業界の、ある大先輩が広告の会社をリタイアされてしばらくした時に、同じようにリタイアした仕事仲間で、たまに集まって飲もうかと云うことが、きっかけだったようなんですね。

それを始めたお二人の大先輩が、これからはちゃんと健康にも留意して、しっかり歩いて集まって、酒量は二合と決めようというふうにおっしゃって、「二合会」というネーミングになったんです。そのお二人が自宅から歩いて丁度よい神楽坂の毘沙門天に夕方5時半に集合するのが慣わしとなり、まあ建前としては、二合飲んだらおしまいという会なわけなんですね。最近ではビールと焼酎は別だとかいう話になったりしてますが。

私は厳密に云えばまだリタイアしてないのですが、まあお前も仲間に入れたるから来いということで、酒好きの特権で参加させていただいとるんです。そんな私を含め、今のところ基本5人のメンバーなんですが、現役時代は、あまり気軽にご一緒するのも憚られる大先輩方でしたから、この会で少しは慣れ慣れしくお近づきになれ、それはそれで嬉しくはあるんですけれども。

集まるタイミングは、これも特に決まってはいないのですが、なんとなく季節の変わり目にやるのが習慣になっております。

この会にちょっとした変化があったのが、一昨年の夏だったんですけど、ある時いつものように飲んでいたら、なんか俳句の話になったんですね。それは、「二合会」の中心メンバーのT先輩が、いくつかの句会に入っておられて、俳句の活動をされており、その話をうかがっておったところ、同じく中心メンバーであられるK先輩が、

「次の会から、俺たちもやろう!」と鶴の一声が出まして。

ちなみに、T先輩は元コピーライターで、K先輩は元アートディレクターなんすけど。

まあ、このお二人が決められたことには、ほかの3人は逆らいませんので、とにかくやってみようということになったんです。

もちろん、日本人ですから今までに俳句というものを読んだことはあるんですけど、自分で詠んでみようという気はサラサラなかったのですね。

ただ、それ以降、「二合会」は「二合句会」と名を改めることになりました。まあそれほど大げさなことではなく、いつもの飲み会の初めの小一時間ほどが、句会になっただけなんですが。

どんなふうにやるか簡単に説明しますとですね。

まず、このT先輩に師匠になっていただき、師匠の俳号は「三味先生」といいますが、我々も皆、俳号を決め、句会ではその名で呼び合いますね。そして、春夏秋冬に一回ずつ会を開きまして、その会の約一月半くらい前に、三味先生から兼題という形で季語の提案があります。その兼題を詠みこんだ句も、自由に詠んだ句も含めて1人が3句、句会の一週間前に先生に提出します。これはメールで送ることになっておりますが、そこで5名で15句が揃うわけです。句会の当日には、誰が詠んだのかわからない状態で、先生が15句を書き出して下さっています。会が始まりますと、一人一人がよいと思った句を自選はせず4句選んで投票し、その句を選んだ理由を述べます。つまり、20の票が15の句に投票されるわけです。それから、票を多く集めた句から順に詠み人が知らされ、作者はその句を詠んだ背景や心情などを述べます。

そのような小さな句会なんですけど、いざ俳句を詠もうとして考え始めると、意外や結構悩むもんでして、たった17文字に、いかに言葉を託するかやってみると、深いんですわ、これが。

そんなことなので、いざ票が入って、どなたかがこちらの意図を判って下さったりすれば、やはりちと嬉しいし、全く票が入らなければ、伝わんなかったんだと、ちとがっかりしたりして、なんつうか小さな一喜一優があるわけなんです。

この句会が7回、7季節続いてるんですが、じゃ、どんなもんを詠んどるんじゃと云われればですね。たとえば、この前の、私の春の二合句会の3句とその評価なんですけど、、

 

・夜気温み寄り道照らす朧月

これ、めずらしく4票いただけ満票だったのですが、師匠からは、「温み」と「朧月」が、季重なりであるとの指摘を受けました。そうかあ、未熟でした。

・出遅れて土手の名所は花吹雪

これは、1票だけいただきました。それともう1句は票が入りませんでしたが、

・吹き上がるトリプルサルコウ春一番

これは、ちょうど先生からの兼題に「春一番」が出題された時に、オリンピックのフィギアスケートを見て興奮してたもので、ちょっといいかなと思ったんだけど、空振りでした。

Toripurusaruko

 

この程度で、俳句やっておりますなどとは、とても申せぬお恥ずかしい限りなんですが、季節毎に一度、「二合句会」の日程が決まると、ちょっとやる気になったりしておるわけであります。

ちなみに、私、俳号は、師匠の「三味」先生より一字もらいうけ、「無味」と称します。はい。

2016年9月20日 (火)

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」のこと

プロ野球シーズンも終盤に差し掛かりまして、半年かけたペナントレースで優勝するというのは、それでなくても盛り上がるもんですけど、今年の広島カープの優勝に特にスペシャルな嬉しさがあるのは、それが25年ぶりであるということでして。25年前と云えば、1番-田中広輔、2番-菊池涼介、3番-丸佳浩の同い年俊足トリオが全員2歳だったりするわけですから、ずいぶんとためがあるんです。

だいたいこのチーム、1975年の初優勝の時も球団創設から25年かかっておるんですが、ただ、1975年から1991年までの16年間には6回優勝しているんだから、この頃は結構強かったわけです。そのあと25年間優勝できなかったのは、やはり資金を持たないチームの辛さでして、ちょうど1993年から導入されたFAシステムの影響で、主力選手が他チームへ移ってしまったり、かといってFAでの補強もできず、また、その頃ドラフトに逆指名制度が導入されたのも、このチームにとっては逆風になりました。チーム力低下に伴い、順位も下がり、観客動員も減り続け、球場の老朽化などもあって、しばらく冬の時代が続いておったわけです。

ただ、このアゲンストの時代、球団は手をこまねいていたわけではありません。もともとこのチームは資金がない分、新戦力を探してくるスカウト陣には定評があり、全国のアマチュア、海外の選手などを発掘し続けます。そして、その原石を磨きに磨くわけです。ともかく、カープの普段からの練習量は半端じゃなくて、昔、金本さんがカープから阪神に移籍した時に、そのタイガースの練習量の少なさに驚愕したと云います。

そして、一定の強化を続けるうちに、2007年に発覚した複数球団の裏金問題で、逆指名制は廃止となり、このあたりから逆襲に転じる契機となります。

球団も色々とファンサービスを工夫しまして、徐々に球場に観客を呼び戻し始めました。資金のこともあり、ドーム球場はできなかったけど、本場のボールパークのような魅力的なマツダスタジアムを完成させ、そこにアイデアあふれる観客席も作りました。

そんな苦労が少しずつ報われ、このところ少しずつ順位も上げて、何年か前からカープ女子などと呼ばれるおねえちゃん達も現れて、なんか盛り上がってきたところです。ちょっと前の東京ドームで行われた巨人×広島戦などは、満員の客席のほぼ半分は真っ赤で、東京にこんなにカープファンがいたのかと思えるほどの社会現象となっております。

そして、この数年少しずつ膨らんできた優勝への機運を一気に盛り上げ、その選手たちやファンの精神的支柱となったのが、黒田博樹投手です。さんざん語られていることですが、2007年に大リーグへ渡ったこの人が、一昨年、何10億と云われる大リーグのオファーを断り、広島と推定4億で契約して帰ってきたことは、ずいぶん大きな出来事でした。

彼は1997年に入団し、2007年までに103勝してチームのエースとなりますが、その間チームは低迷します。FA権を取得して2年目、悩む黒田が大リーグ挑戦を決めた後の囲み取材で、

「広島が常勝軍団だったら、ことは違っていたのか?」という記者の質問に、目を真っ赤にして、

「・・・・・・。大リーグ行きはないと思います。」と答えました。

そして、もし日本に帰って来ることがあれば、必ずカープに帰って来ると云います。

そして、ドジャースとヤンキースで合わせて79勝して、本当に帰ってきたわけです。

いや、多くは語らないけど、かっこいいです。マスコミは男気黒田と云ってはしゃぎ、カープファンは痺れました。その1年目、黒田は11勝の奮闘をしましたが、ペナントレースの成績は4位に終わります。1975年生まれの、ちょうど40歳になっていました。その黒田が、来年もやると云いました。泣けるよなあ。そこで迎えたのが今シーズンだったんですね。ファンもナインも燃えます。

そして、もう一人、攻撃の中心となったベテランに新井貴浩選手がおります。この人もある意味結果的には、優勝への精神的支柱になるのですが、ちょっと黒田とは事情が違っているんですね。

この人は1999年に入団して、2007年までに987安打を放ちチームの中心打者となっていました。しかし、チームは低迷期であり、優勝できるチームで活躍したいと願い、黒田と同じ時にFA権を行使して阪神に移ります。この時の記者会見で、

「辛いです。カープが好きだから・・・」と云って、ポロポロと涙を流しました。

黒田が海を渡ったのに比べ、新井は同じセ・リーグの阪神に行きましたから、カープファンからは野次られたりもしました。そして阪神にいた7年間はヒットも打ちましたが、腰痛に悩まされたりもして、けして万全ではありませんでした。結局優勝もしてません。

2014年、新井阪神最後の年、成績は、176打数43安打3本塁打31打点、打率.244でした。大幅減俸通告を受けた新井は、球団に自由契約を申し入れます。

この時、右打ちの長距離打者が補強ポイントであった広島が、獲得に動きました。阪神が提示した年俸7000万を下回る2000万という広島の提示を、新井は即決で受け入れます。広島は生まれ故郷でもあり、自分を育ててくれたカープで最後はプレーしたいと思ったのでしょうか。この時38歳。そして、帰って来た新井をファンは黒田と同じように、お帰りと云って暖かく迎え入れます。

そこから今年にかけての大活躍は、すでにご存知の通りなんですけど、実はこの人が8年ぶりに帰って来た2015年2月の日南キャンプで、ベテランの石原を中心に後輩達が焼き肉屋で、新井さんのことを招待した飲み会があったんですね、。この会が、

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」という名前の会だったそうです。

かつて自分から出ていって、選手として盛りも過ぎて、結局優勝も経験せず、ノコノコ帰って来た負い目もあったかもしれないけど、新井はこの会ですごく楽になったみたいです。仲間のユーモアに救われたということでしょうか。そして、そっから死ぬ気で鍛えに鍛えて、復活を果たしました。

このチームの25年ぶりの優勝という大きなストーリーには、2007年に出ていって2015年に帰って来た、ややとうの立った二人のベテランの、それぞれのストーリーが、少なからず作用していたわけであります。

Kurodaarai3

私は阪神ファンで、新井選手が阪神で不調のときは、ヤジり倒しておりましたが、広島に帰ってからの別人のような活躍と優勝への貢献は、素直に嬉しかったし、胴上げで黒田が泣いた時は、オジサンも泣いたです。

そういえば、昔、阪神のエースであった天才江夏は、優勝せぬまま球団を追われ、4年後に広島でストッパーとして、初のリーグ優勝と日本一を成し遂げたのでした。又、2003年に18年ぶりに阪神が優勝できたのは、広島から金本選手が来てくれたおかげでした。

野球というスポーツを見て、得られる感動というのは、つくづく感情移入できる選手の活躍だなと思いますね。

このところの阪神には感情移入できる選手がなかなか少ないのですが、金本さんが監督で帰ってきてくれて、時間かかってもよいので、ちゃんとチームを作ってくれることを期待しています。今年はとりあえず最下位くさいけど、近い将来ということで。

 

 

2013年12月17日 (火)

さて、還暦の年が明けます

この文章は、この前、会社の忘年パーティーにお呼びする皆さんへ書いたものなのですが、まさに私の実感なのですね。

 

みなさま

毎年、似たようなことを申しておりますが、

早いもので、今年も大詰めとなりました。

ついこの前、桜が咲いて、そのあと、今年の夏はスペシャルに暑いねえ、

などと云ってた気がしますが、もう、年末です。

歳を増すごとの、この加速度的な記憶の不確かさです。

最近では、開き直っておりますが…

さて、12月18日 うんぬんかんぬん・・・

 

そおなんですよね。時の流れに身をまかせているうちに、今年もあとわずか。近年そのスピードはますます上がっており、来年は、いよいよ私、還暦という年になってしまいました。

実は、何年か前、たぶん2007年の10月頃に、2014年のサッカーワールドカップがブラジルに決定した時、ドイツ大会の翌年、南アフリカ大会の3年前ですけど、

2014年って、もしかして俺60歳になるんじゃないかと気付いたわけです。私1954年生まれですから、これ当たり前なんですけど。そのあと、油断したわけじゃないんですけど、あれよあれよという間に、今日にいたるんですね。はじめのころは、

「ブラジルワールドカップの年には還暦ですから。」などというと、

へえとか言ってみんな感心してたんですけど、最近は、

「あ、そお。」みたいな、何の意外性もない反応です。年相応ということでしょうか。

このまえ、新聞を読んでたら、今年の12月12日が、小津安二郎監督の50回忌なのですが、この日が生誕110周年にもあたるのだそうです。つまり、小津監督は、お生まれになって、きっちり60年で生涯を終えられたわけです。あれだけの世界的偉業を成されたことを思うに、60年という歳月の重みを感じます。ちょうど自分が来年60歳を迎えるにあたり、比ぶるべきもないことですが、感慨深い記事でありました。

 

そういえば、今書いているこのブログのようなものも、(月に1本位のペースなのでブログと呼んでいいのかということもありますが)書き始めて10年近くになります。

最初は2004年の春に20年以上通ったなじみのBARが閉めることになって、そのことを書いたのがきっかけだったと思います。

ブログというのは、2003年のイラク戦争の時に、バグダット在住のイラク女性が発するブログが有名となり大きく広がりました。まだ、フェースブックもツイッターもない頃でしたね。

自分のを見返してみると、はじめは月に一回も書いてないですね。いまだにいたずら書きのようなもんですが、一応やめないで思いついた時に書くだけで、10年するとけっこうな量になってますね。積極的に人様にお見せするようなものでもなく、多分に自分に向けてですけど、何かいろんなこと思い出すきっかけにはなりますね。付けたことないんですけど、日記の作用ってこういうことと似てるんでしょうか。ただ、ブログは基本的に誰でも見ようと思えば見れる仕組みになってるんで、書いちゃだめなことはありますよね、秘密のこととか。日々暮らしてると、いろいろ面白い事っておきるんですけど、なかなか書いちゃだめなことの方が多いこともわかりますよね。

10年暮らせば10年分の出来事があるわけで、これが記憶となってたまっていくんですが、量が増えれば薄まっても行くわけです。特にこれからは思い出す力が落ちてくるようではありますが。

まあ、そうこうしているうちに、生まれて60年の年が明けようとしています。これといった偉業もなく、ただどうにかこうにかしているうちの60年ですが、無事にここに至ったことに感謝です。

この年が皆にとって良い年でありますよう、お祈りしております。

Nengajyo2014_3



 

 

 

 

2012年5月 2日 (水)

ホシヤン

新緑のこの時期、世の中には新社会人が溢れ、あちこちで、ちょっと不慣れなリアクションなどで、爽やかな新米君たちに出会います。うちのような小さな会社にも、4月から4人の新人たちが名を連ねました。

その初日、何から始めるのかと見ていると、この日の夜は、新人歓迎会を会社の屋上でやるのだそうで、そこで出される食べ物の準備からやらされております。

うちの会社は、なにかというと、屋上とその横にある台所で、料理を作って食べたり飲んだりする習慣がありまして、その準備は全部自分達でやるんです。

とは言っても、今日入ってきたばかりの新人に料理ができるわけもなく、わが社の総料理長、私は花板と呼んでいますが、その花板のO桑君の指導のもと、まず炭を熾したり、野菜の皮むきをやらされたりしています。この会社の場合、こういった訓練がわりとバカにならなくて、こういうことさせられる頻度がわりかし多いんですね。普通の会社だとあんまりそういうこと無いんですけど、この屋上にお客様呼ぶことも多いし、まあ、社員旅行にキャンプに行っちゃったりする会社なもんで。

新人は炭ばかり熾してるわけじゃなくて、一応ちゃんとした仕事の教育も受けながら、4月の半ばには、代々木公園での夜桜見物にも参加して、忍者の恰好させられて、横走りとかしながら、だんだんに、この一団の一員になっていきます。

 

そんな風景を見ながら、自分にもそういう頃があったなと思ったわけです。

大学を出た私は、これといった指針もなく、就職活動もせず、ただブラブラしていたんですが、当面生活せねばならず、ひょんなことから、テレビCMを制作している会社で、アルバイトをすることになりました。1977年の桜の頃だったと思います。

会社は、新橋のちょっとはずれのモルタル2階建ての建物で、わかりにくいところにありました。アルバイトをするにあたって面接してくださったのは、制作部長をされてるO常務という方でした。なんて云うかあんまりしゃべらない人で、機嫌悪そうにハイライトを吸ってて、仕立てのいいスーツ着てて、たまにしゃべるとべらんめえで、強いて言うと天知茂に似てて、ちょっと何ていうか、インテリやくざな感じがしました。

とりあえず、明日から朝いちばんに来て、事務所の掃除からやるように云われたので、次の朝行ったんですね。

何故か入口の鍵は掛かってなくて、ビニールマットがめくれた階段を登ると、うなぎの寝床のような暗い廊下があって、突き当たりが事務所のドアになってました。

ここも鍵掛かってなくて、そおっと開けると、机があって、その横の床に裸足の足の裏が四つ見えました。毛布掛けておもいっきり深く眠ってらっしゃる男性二人。頭の方へ廻って顔みると、なんだか顔色がすごく悪くて、死んだように眠ってて、何かこの人達、注射とかされてんじゃないかと・・・

全く起きそうにないし、しかたなくドアの外に出て立ってたんですね。そして、しばらくすると、後ろの階段から誰か登ってくる靴音がしたんです。その人が、ホシヤンだったんですけど、どんなだったかと云うと、頭はカリカリに刈り込んだ坊主頭で、サングラスしてて、煙草くわえてチョビ髭です。ぱっとみ完全にそっち系の怖い人です。そういえば会社の名前も考えようによってはそんな感じもするし、昨日の人もなあ・・・

「君、なに?」

「あのお、今日からアルバイトで、朝、掃除するように云われてます。ハイ。」

「あ、そお、じゃ中はいって。」Hoshiyan3

で、事務所に入ると、寝ている二人を蹴りつつ、

「おりゃあ、いつまで寝とんじゃ。」

と、おっしゃいました。

いや、もう、ここまでの経緯で、私ここで完全に失礼しようと思ったわけです。昨日からなんとなく想像していたことが、朝からだんだん良くない方向で固まってきました。

ただ、逃げ出すわけにもいかず、様子見ながら掃除してると、普通の女子社員も来るし、総務のS田さんと云う人は、すごく親切で、とても怖い系の人とは思えませんでした。

私、しばらくこちらに置いていただくこととなりました。S田さんに渡されたタイムカードの通しナンバーが27番で、会社の人数がそれくらいなのだと云うこともわかりました。

結局、このあと、会社はものすごく忙しいことになっていき、だんだんに人も増え、私は11年とちょっと、この会社でお世話になることになります。

あの時、オシッコちびりそうに怖かったホシヤンに、その後いろいろと仕事を教えていただくことになりましたが、第一印象と違って、実は優しくて面倒見の良い人でした。

はじめの一年、ほとんど育てていただいたと思います。

サングラスの奥の目も、よく見るとつぶらでかわいかったし、

ホシヤン語録と云われるセリフは、ちょっとヤクザっぽく、

「この百姓があ~~!」とか、

「すべったころんだやってんじゃねえんだよお~」など、いろいろありますが、

たいていの場合は独り言のことが多いです。Hoshiyan2

東映の高倉健さんのことが大好きで、カラオケ行くと、必ず「唐獅子牡丹」と「網走番外地」を唄いました。完全になりきります。

仕事は細やかで、すごくよく気の付く人で、おまけに心配性です。私達後輩は、彼のことを、陰で“神経質やくざ”と呼んでいました。

この会社には、ホシヤンと同年代の当時30前の先輩が多くて、ほかに、ヤマチャン、スギチャン、ソガチャン、アリヤン、ヨウチャン、オキチャン、タッチャンなどがいて、(その頃なぜかこの業界、チャンとかヤンとかよく付くんですけども)

今考えると、この人たちが優秀で会社を支えてたように思います。会社のトップも迫力のある人たちで、前述のO常務にくわえ、A専務は幕末のいきさつから未だに長州藩のことを赦していない会津の人でしたし、かつて演出家であった、大阪弁のI社長と、強力なトロイカ経営陣でした。最年長のA専務が当時43歳ですから若くて元気のいい会社だったと思います。

あの頃、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、ここで救われたと思います。皆、作る事に対して厳しく、目指すところは高いけど、仕事にも仲間にも愛情を持っていて、会社は一枚岩でした。若い頃、この方たちから、よく本気で怒られましたが、今、ありがたいことだったと思います。

盤石の備えで社業は発展し、立派なビルが建ち、現在200名を超えて業界大手となったその会社で、ホシヤンは副社長をされており、たまに会うと、

「百姓があ、すべったころんだやってんじゃねえんだよお。」

などと、のたまわれております。

 

尊敬する先輩諸氏の敬称を略しましたことをお許しください。

 

 

2011年1月28日 (金)

○○語録

最近ツイッターに少し参加し始めて、それはそれで面白いのですけど、ツラツラ読んでいると、時々いろんな名言とか語録が出てきて楽しめます。

確かに、これらは、文章の長さも内容も、けっこうツイッター向きで、つい読んでしまいます。

たまたま読んだ名言集は、古今東西の作家や学者から、松下幸之助・本田宗一郎はもとより、孟子・法然上人・マザーテレサから、大山倍達・ボビージョーンズ・千代の富士まで、ありとあらゆるジャンルから集められています。語録で出ていたのは、寅さん語録に長嶋語録、これもなかなかです。ついでに、語録といわれるものには、どのようなものがあるのかを、インターネットで調べてみますと。

あります、あります。ご存知、毛沢東語録から、坂本龍馬語録、山本五十六語録。イチロー語録に、アントニオ猪木語録、キングカズ語録、オシム語録、はたまた、松岡修造語録に、桃井かおり語録と・・・

ためになるもの、おもしろいもの、笑えるものと、いろいろですが、その中で最高に嬉しいのは、やはり長嶋茂雄語録でしょう。Nagashima2

 

この方は、プロ野球史上、もっとも有名な人です。選手時代はスーパースターで、日本中の誰もが彼を知っていました。そして、何よりも彼はファンから本当に愛されていました。彼の発言は、メディアを通していつも注目されていて、そのコメントはある意味、必ずファンの期待にこたえてくれました。それは、この人独特のサービス精神でもあったと思いますが。

そのコメントのひとつひとつを集めた人がいて、それを公開しているインターネット上のサイトがいくつもありました。名言の数々をご紹介します。

まず、いわゆるひとつの、英語ものというジャンルがあります。

「メイクドラマ」 「失敗は成功のマザー」 「ワーストはネクストのマザー」

肉離れを「ミートグッバイ」と表現したり、

不甲斐ないジョンソンに、「ユーは、マンだろ」と叱責し、

「アイム、失礼」など、

2000年の正月に、「んーーミレニアム、千年に一度あるかないかのビッグイヤー」

「松井君には、もっとオーロラを出してほしい」

「桑田君をスライディング登板させるつもりです」

「勝負はネバーギブアップしてはいけないということですね」

記者から、恋愛中の夫人のことを聞かれ、「僕にもデモクラシーってもんがあるんです」

さすがに、これほんとだろうかというのもあって、

立教大学時代の英語の追試で、

I live in Tokyo. を過去形にせよという問題に、I live in Edo. と答えたとか、

ドジャーズに視察に行った時、帰りのタクシーを呼んでほしくて、関係者に、

Please call me Taxi. と云って、翌日からドジャーズの選手たちから、

Hey Mr.Taxi. と呼ばれたという話もありました。

英語に限らず、

巨人の監督を辞めて、12年ぶりに再び監督に就任した時、

「僕は12年間、漏電してましたから」

また

「昨夜も午前2時に寝て、午前5時に起きましたから、5時間も寝れば十分です」

「今日、はじめての還暦を迎えまして、しかも年男ということで…」

他にも、これはある意味ていねいでもありますが、

「一年目のルーキー」 「今年初めての開幕戦」 「体験を経験」 「疲労からくる疲れ」

「バースデー誕生日」 「秋の秋季キャンプ」などというのもあります。

名前の呼び間違いシリーズもあって、

鈴木康友に、「ノブヨシ、調子はどうなんだ」

「ピッチャー阿波口」そのときブルペンには、阿波野と川口がいてあわててたそうです。

広澤代打時に、「代打、広岡」

娘の三奈さんに、「おい、三奈子」

最もすごかったのは、昔ご自身が担当した商品のラジオCMの録音で、

「こんにちは、長嶋茂雄です」というコメントを、何度も、

「こんにちは、長嶋シゲルです」と、読んで、スタッフが絶句したというのがありました。

 

この話を、長嶋さんの大ファンの友人に話したら、

「いや、長嶋さんは昔シゲルだったことがあるのだよ」

と云っていましたが。

 

なんだか嬉しくなる話ばかりですよね。

さらに、すでに有名ですけど、私が大好きなエピソードです。

巨人軍、ノーアウト1塁のチャンス、長嶋監督が代打を告げに出てきます。

「バッター、淡口!」甲高い声とともに、長嶋さんはバントのゼスチャーをしています。

 

もひとつ、

阪神タイガースの掛布雅之は、自分と同じ千葉出身の長嶋さんの大ファンで、大変尊敬していました。そのことは長嶋さんもよくご存知で、ある時、掛布が大スランプに陥った時のことです。

長嶋さんは東京から大阪にいる掛布に電話をかけました。たとえライバルチームの4番打者であっても、何とかスランプから救ってやろうという広い心の持ち主なのです長嶋さんは。

二人のバッティング談議は、熱く続きました。話しつくして、ある間ができた時、長嶋さんが云ったそうです。

「掛布君、ちょっと構えてみてくれる?」

掛布は、少し考えてから、バットを持って構えたそうです。

 

いい話ですよねえ。

たぶん、こういう話が沢山あって、ファンたちがそれに尾ひれを付けたり、集めたりしているのは、この方の作為のないまっすぐなところが愛されてるからなんだと思います。

んーーん、いわゆるひとつの人徳なんでしょうか。 

私事ですが、数年前に亡くなった義父は元プロ野球のピッチャーで、現役時代、長嶋さんとよく対戦したそうです。長嶋さんがどんなバッターだったかを聞いたとき、

「まったくどの球を待っているのか、わからない人だった。」と云っていました。

その義父が年を取って、ある賞をいただいた時に、長嶋さんが色紙を送ってくださいました。今も大事に飾ってあります。

「野球とは、人生そのものだ。長嶋茂雄」

けだし名言です。

 

 

2007年7月 3日 (火)

方言あれこれ

Tokyotower_2 

年末に、リリー・フランキーさんの「東京タワー」を読みました。いい本でした。この人と、この人のお母さんの話です。彼が子供の頃から、最近お母さんが亡くなるまでの二人のことがつづられています。

男にとって母親というものは、何ともいえない大きな存在です。自分も含めて、男はみんなマザコンなのだなと思いました。母親と息子の会話がいいです。気にかけながら、面と向かうとぶっきらぼうになってしまう感じとか、二人の関係がわかります。

九州で暮らしていた母子が、息子の上京を機に離れて暮らし、やがて年老いた母が東京にやって来て、また二人で暮らし始めます。二人の会話が博多弁なのが、またいいです。何ともいえない体温を感じます。

地方出身者にとって、方言というのはなつかしいもんです。石川啄木の上野駅の歌じゃないですけど、ふるさとや身内を思うとき、お国訛りは胸にしみます。私の場合、広島の高校を卒業して上京したころ、当時東映で封切られたばかりの映画「仁義なき戦い」をよく見に行きました。広島弁満載ですから。

方言がコンプレックスになることもありました。子供の頃、父親の仕事の都合で、何度か転校しましたが、東京から神戸の小学校に変わったときは、神戸のガキどもに東京のしゃべり方を徹底的にからかわれました。昔から、関西には東京の言葉を嫌う風土がありますよね。このときは、前に神戸に住んでいたこともあり、約一週間で完全に関西イントネーションに戻したと思います。やればできるもんです。

何度か引越すうちに子供は切り替えが早くなります。その後、広島の中学に転校したときも、ほぼ一週間で広島弁になっていました。そんなわけで、方言に関してのヒアリングはちょっと自信があります。英語はまったくダメですけどね。

大人になって、CMの仕事について、「ピッカピカの一年生」という小学館のTVCMシリーズを11年間担当することになります。もうすぐ小学一年生になる日本中の子供たちが、テレビに出てきてご挨拶するあのCMです。これは、まさに日本中の方言を発掘する仕事でした。いろんなところへ行きました。夜、はじめて降りるローカル線の駅を降りると、まず、駅前のラーメン屋のおじちゃんや、スナック「さゆり」のママさんから、方言の指導を受けました。子供たちからもいろいろ教えてもらいました。ちょっとしたプチ方言評論家になってましたかねえ。

瀬戸内海の小島で、幼稚園の園長さんに取材したときの会話。

「この地方の方言を教えていただきたいんですけど、お時間いただけますか。」

「いやあ、ここらにゃ、いまごら、方言はありませんけん。」

「あ・・・・・、そんな感じで十分です。」

当時もテレビなどの影響で年々方言は減りつつありましたが、どこに行ってもこれくらいは十分残ってました。ていうか、お年寄りが本気で方言でしゃべるとまったくわからないことがよくあった気がします。

あの頃に比べると、日本中ずいぶんと標準語化しちゃった気がするけど、やっぱ方言は地方の個性だし、なくならないといいなと思いますね。

2006/1