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2024年2月13日 (火)

お伊勢参り

このところ、ずっと定期的に帰郷しているんですけど、ひとつには両親が90代の半ばということで、何かと気にかかることが多く、まず父と母と顔を合わせるため、また、いろいろに身体の機能が弱くなっていることで、日頃父母がお世話になっている方々へのご挨拶と聞き取りなど、それと、骨董品となった実家家屋の維持管理のことなど、いろいろあります。
ただこのペースで通っていると、慣れてきたこともありますが、かつて遠く感じていた故郷との距離は、ずいぶん短く感じるようになりました。現に品川ー広島間は、4時間を切っておりますし、なんなら日帰り出来そうなくらいです。初めて上京した時の寝台列車と比べれば、格段の進化と云えます。
格段の進化と云えば、その列車の乗り降りをする駅、ステーションも気が付けばものすごい形に変化しております。考えてみれば、どこも大きな街の大きな駅は、いつでも工事中で、徐々に日に日に巨大化しておったわけで、久しぶりに降り立ってみると、ホテルもデパートもいろんなものが内包されて、すっかりその姿を変えています。
使い慣れていないので、どちらを向いて歩いているのかわからなくなったりして、どうもどこの駅も同じような形とデカさで、なんだかその土地その土地の個性も無くなってきたかなと思うのは、こっちが時代遅れなのかもしれません。明らかにその機能は大きく進化していて、多分ものすごく便利になっているのですよね。端から端まで歩くとへとへとになりますけど。
このところ、地方の大きな駅に降りることが続きまして、東京も広島もそうなんですけど、京都、博多、名古屋、盛岡、大阪なども、皆よく似た巨大な駅になりつつあります。

先日も、家族で広島のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行く計画を立てたんですけど、ちょっとついでに名古屋のお墓と神社にお参りして、せっかくだからお伊勢さんにもご挨拶して行こうかということになり、旅程を1日追加してお伊勢参りもすることにしたんですね。_
若い時には何も関心がなかったのですが、そう云えばこの国には古くからお伊勢参りという習慣があって、昔からいろんなお話にお伊勢参りは登場します。これって年取ってくるとわりと身近になってきて、うちの奥さんもけっこう詳しいし、いろいろと身の回りの話題に出てくるようになります。何年か前にもいきましたし、忘れてたんですけど、私、小学校の修学旅行も1泊2日のお伊勢さんでしたもんね。
伊勢神宮は、名古屋の駅から近鉄に乗って約1時間でして、その指定席特急券も今やネットで予約できます。基本的に、外宮(げくう)と内宮(ないくう)があって、ひと通りお参りするとわりと時間もかかるのですが、やはり何やら時空を超えた厳かな佇まいの中、身も心も洗われたような心持ちであります。お参りを終えますと、お札など頂戴して、最後にその鳥居に一礼してその場を辞するのですが、内宮前には、おはらい町・おかげ横丁など、土産物屋や飲食店が軒を連ねており、赤福もちや、松坂牛や、伊勢うどんや、ビールなどをいただきつつ帰路に着きます。たぶん昔の人も、こうやってお伊勢参りしてたんでしょうね。
それにしても、この日も多くの方々が全国から列をなしてお参りしておられまして、やはりここは古くからの日本人の心のふるさとなんだなと感じたようなことです。
やや神妙な気持ちになって、なんだかいろんなことをお祈りしました。そもそも神様と交信する能力などはありませんが、ただ、霊験あらたかでありますようにと。

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2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年7月14日 (金)

薄情のすすめ

“厚情必ずしも人情ニ非ズ
 薄情の道、忘るる勿れ    坂本龍馬手帳より“
 
かつて作家の司馬遼太郎さんが、ある編集者に贈った色紙に、この文言が書かれていたそうで、普通に考えると龍馬語録の中にこのフレーズがあるのは意外な気もしますが。
私が「竜馬がゆく」を読んだのは、20代の終わりか30代になった頃でして、だいぶ前のことで、ある意味危険を含んだこの文言のことは、あんまり覚えてないんですが、このことに関しては、司馬さん自身がこの小説のあとがきに書いておられまして、
「竜馬はふしぎな青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかったが、暮夜ひそかにその手帳におそるべきことを書いている」と。
「竜馬がゆく」は、1966年に刊行された、ご存知の不朽の名作でして、当時それほど知られていなかった坂本龍馬という歴史上の人物を、一気に超メジャーにしました。
司馬さんは、この幕末の風雲期に突如現れ、その役割を終えるとともに天に召されたこの人物にいたく興味を抱き、おそらくその周辺資料をものすごい勢いで読み尽くし、その魅力を小説にされたと思いますが、
「いずれにしても、坂本龍馬のおもしろさは、この語録をもちつつ、ああいう一種単純軽快な風姿をもって行動しきったところである。この複雑と単純のおもしろさが、私をしてかれの伝記風小説を書かしめるにいたったように思われる」と、おっしゃってます。
と、前置きが長くなりましたが、この「薄情の道、忘るる勿れ」という言葉は、ちょっと奥が深いなと思うのですね。
人は、公的にも私的にも何か目的を達成しようとする時、ある意味非情な判断をすることがあって、場合によってはそれも是であるということなのか、いやいや、ま、そんなにわかりやすい話でもないでしょうね。
人の世は、何かと情で繋がっていて、情に厚いということは大事であるけれど、情に流されるということもあり、その辺りの兼ね合いの難しさがあります。
これは人間社会で生きていく上で永遠のテーマかもしれません。

竜馬が生きた幕末は、欧米列強の外圧から、この国がイデオロギーの嵐の中で大混乱していた時代で、そんな時どこからともなく現れたこの男は、どの組織にも属さぬ素浪人の立場で、いくつかの時代のスイッチを押して、向かうべき方向性を示して、またたく間に一気に駆け抜けて行ったわけです。
司馬さんが描いた、この竜馬という主人公は、ただの好青年ということでもなく、自己実現のために我儘で頑固でもあり、人たらしで強引だったりもして、やたら女性にモテたりもするんですけど、ある爽やかな余韻を残して、歴史の舞台から忽然と姿を消してしまいます。
作者はこの人物に関する文献を読めば読むほどに、ある引力のようなものを感じたでしょうか。その中で、「薄情の道、忘るる勿れ」というフレーズは、ある大きな意味を持っているのかもしれません。
坂本龍馬が亡くなったのが31歳ですから、この小説は青春小説でもあります。だいぶ前ですけど、仕事で四万十川を辿って四国山地のてっぺんまで行って泊まったことがあったんですが、この山脈は千数百メートル級の山々が連なっておりまして、けっこう深いんです。山道を歩きながら、その時ふと、龍馬はこの急峻な山を越えて土佐藩を脱藩したのだな、その時26歳かあ、などと思ったんですね。まさに青春です。
それで思い出したわけでもないんですけど、個人的にも、
なんか、この青春小説を読んだ後、34の時、前の会社辞めて独立したんだったなあ。

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2023年6月23日 (金)

日本全国に新一年生は200万人いたのだ

この前、書いたテレビの番組のことなんですが、その番組を見ていて、なんとなく自分も昔これと似たような仕事をしていたなと思ったのですね。それはテレビのCMの仕事だったんですが、「小学一年生」という学習雑誌のコマーシャルで、“ピッカピカの一年生”と云えば、覚えてる方もいるかもしれません。
1978年に始まって、ずいぶん続いた広告キャンペーンでして、私はかけだしのADの時から約10年、途中からディレクターもやって、プロデューサーもやって、その仕事に長く関わりました。
今もそうですけど、毎年4月には日本中の6歳児が一斉に小学校に入学するわけで、それはそれは世の中じゅう祝福ムードになるんですけど、その春に向けて、その子たちにテレビでメッセージを言ってもらいましょう、という企画です。
その頃、今度小学校に入学する子供達は、全国に200万人もいたんですが、私たちは北は北海道から南は沖縄まで、毎年、秋から春にかけて日本中走り回って、本物の新一年生を取材しておりました。
当時テレビのCMというのは、商品や出演者などをいかに美しくクオリティーの高い映像で撮るかということが最重要であり、必ず35m/mの映画用のフィルムで撮影しておりまして、1カット1カット、用意、スタート、アクション、はいカット、はいもう一回、みたいな撮り方をしてたんですね。でも、この一年生の仕事は、えんえんとビデオ回して収録するやり方で、画もテレビのニュースのような画質だし、多分にドキュメント的なタッチで、明らかに他のCMとは違ったCMになってました。
というようなことで、このコマーシャルで最も大事なことは、登場する子供達の嘘臭くない本物のリアルな存在感ということでした。ただ、云うのは簡単だけど、実際にどうやって撮影したら良いのだろうか、というところからこの仕事はスタートするんですね。このキャンペーンを企画したのは、この出版社の宣伝部の若い人、広告会社の若い人たちで、あんまり6歳児をわかってる人がいなかったんです。もちろん、私もそうでしたし。
あの時代、いろいろなモノの作り方も、今と違ってかなりアナログではありまして、このコマーシャルも、まずどのあたりに暮らしてる子供を撮りたいかを決めたら、まずそこに行ってみてウロウロしてみる。全国の小学校の名前と所在地と児童数が載っているリストがあって、それを見ながら、どの町や村にどんな学校があるか探ってみる。たとえばこの小学校に来年入学する子どもたちはどこにいるか。たいてい、そのあたりの保育園か幼稚園にいるはずだから、そこを訪ねて行ってみる。そこで今度一年生になる子に会わせてもらって、いろいろ接してみる。それを何ヶ所も繰り返して1週間くらい、場合によっってはもうちょいとかかることもあるけど、そうやって集めた小学校と子供達の写真を見ながら、今回の収録をどちらの学校と、そこに行くどの子供達でさせていただくかを決めて、お願いに上がり、それから何日か後に、実際にVTRとカメラとスタッフを連れて行って撮影をするわけです。
たいていの場合、今度入学する小学校の前で、カメラに向かって一人一人コメントを言ってもらうのだけれど、6歳の子供が入学に向けて自分で考えた気の利いた一言とか言えるわけもなく、そもそも、15秒のコマーシャルで4秒の商品カットがあり、3.5秒のサウンドロゴもあって、約7秒で収まるちょうど良いコメントとか、なかなか難しいんです。
そこで、前もってたくさんの言葉を考えておきます。
「こんど〇〇小学校に行く、〇〇〇〇です。よろしく!」
「学校行ったら、給食いっぱい食べるぞお。」
「一年生になっても、〇〇ちゃん仲良くしてね。」     
「おばあちゃん、ランドセルありがとう。」
「体育がんばるぞお、鉄棒がんばるぞお!」
「〇〇小学校の校長先生、よろしくお願いします。」
とかとかいろいろですけど、そこでテレビに向かって何を言うのかを一人一人と相談して決めていきます。できるだけその子の喋り方で、方言とかもあらかじめ調べておいたりして、その子が言いたいことを、できるだけ自然に収録できるようにトライするんです。
ただ、相手は役者さんやタレントさんとかじゃなくて、普通にどこにでもいる子供達なんで、やってるうちに飽きちゃったり、忘れちゃったり、眠くなったり、妙に興奮しちゃったり、いわゆるアクシデントもあって、どうにかこうにかいろんなタイプのテイクを拾っていくわけです。
そうやって回し続けたVTRを東京に持ち帰り、15秒サイズのCMに編集したものを何タイプか作って、試写をやって放送するタイプを決めていきます。
このコマーシャルは、この学習雑誌の発売日の告知CMでしたから、それほど出稿量が多いわけではなかったのですが、入学の時期が近づくとテレビで流れることになる、ある意味お馴染みのCMで、何かと話題になることが多いコマーシャルでしたので、子供達からすれば自分たちが関わったものが、ある時期テレビから流れるというのも、なんとも不思議な体験だったでしょうし、少なからず彼らの暮らしにも何らかの影響を与えたと思います。良い影響であればよかったですが。
なんだか、ある日突然、自分たちのエリアに、普段見かけないオジサンたちが、遠くの街からカメラかなんか持ってやって来て、一日付き合ってあげて面白かったけど、なんか人騒がせな人たちだったな、みたいなこと思ってるんじゃないだろうか。
当時、自分にとってあの子供たちというのは、まさに宇宙人みたいな存在で、すごくいろんなことを感じさせてくれ、想像してなかった多くのこと、教えてもらいました。今となっては、あの10年、ほんとにいろんな場所に行って、そこでたくさんの人たちに出会った、とても懐かしい仕事です。
ただ、今の時代、あんな風に思いついた時に、突然訪ねて行ったところで、急に取材させてもらって、撮影に来るような仕事のやり方は、今は絶対に無理だと思いますけど。

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2023年3月12日 (日)

早春の宮島へ

ちょうど3年前の春から始まったコロナ禍も、やや収束の気配を見せ始め、油断はできないのですが、数字的にも収まっていく方向のようです。今年は、桜の開花宣言が出れば、各地で以前のようなお花見ができそうであります。
思えば、3年前の春、中学や高校に入学した生徒たちは、ずっとマスクをした友達の顔しか知らなかったわけで、これはほんとにえらいことでしたね。
厳しい真冬の寒気が少し緩むにつれ、だんだんとマスクを外す機会が増えてくれば、長く会えなかった人たちとも、徐々に再会できてくるわけで、それはほんとに待ち遠しかったことであります。このところ、そろりそろりと少人数で酒飲んだりもし始めたのですが、まだまだほんの一部で、長きに渡ってご無沙汰している方がたくさんいらっしゃいます。
そんなことで、春の匂いがかすかにし始める2月の終わりに、家族4人で、私の父と母に会いに、広島まで行ってきました。父も母も90代半ばの高齢なので、いろいろと身体の機能を損なっておりまして、それぞれにケアしてくださる施設に入っています。ずいぶん長く直接会えていなかったんですが、二人とも私たち家族の顔を見れて喜んでくれまして、会いに行けてよかったです。
今回の旅のもっとも大きな目的は、この訪問だったのですが、他に、名古屋と広島で墓参りをしたり、実家のご近所に挨拶をしたり、税金の手続きをお願いしている税理士さんに会ったりと、細かい用事もいろいろある2泊3日の旅程でした。

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その時間割の中で、半日だけ余裕ができて、ちょうど良いから宮島にでも行ってみようかということになりました。この厳島神社というのは、平清盛さんが今の社殿の形に整えたと云いますから、長い歴史があり、世界遺産にも登録されてます。
言ってみれば有名な観光地なんですけど、広島の地元の人には馴染みの深い場所で、子供の頃から何かというとここには来てるんですね。広島の街中からも意外に近くて、電車に30分も乗れば宮島口、そこから宮島港までは渡し船に15分くらい乗ってれば到着します。ですから、遠くから広島を訪れる人は、平和公園と宮島は、がんばれば1日で見て回ることができますし、広島はこの2か所さえ見ておけば良いんじゃないかというとこもあります。
その日は、2月の最後の天気のいい日曜日で、まだ海の風は冷たかったですが、明らかに春はそこまできている気配がしました。同じように感じた人が多かったのか、かなりな人出で、外国からの観光客もたくさんきている光景は、コロナは去って春が来た、という感じがしました。
考えてみると、ここに来たのもずいぶん久しぶりで、なつかしくもあり、長かったコロナの冬が終わり、戦争も終わり、健やかな春が来ることを、神社にお祈りし、拍手を打って、参道でかきフライともみじ饅頭食べて帰りました。
なんだか、東京に戻ったら、長らくご無沙汰している方たちに、お会いするための準備でも始めようかなと、思いましたです。

2022年7月26日 (火)

私的 東京・多摩川論

最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると きいた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 火をともす

何も思わずに 電車に飛び乗り
君の東京へと東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました

東京へはもう何度も 行きましたね
君の住む 美し都
東京へはもう何度も 行きましたね
君が咲く 花の都・・・・

「東京」という唄の一節なんですが、あんまり覚えてないんですけど、私が高校出て東京に出てきた時分に流行っていた曲で、その頃の、いわゆる地方から東京を見ている気分がわりと出てる曲と思います。調べてみると1974年のリリースで累計100万枚というから、けっこうヒットしたんですね。
この唄の記憶が色濃くあるのは、むしろそれから何年かあとに、仕事で知り合って仲良くなって深く付き合った友達が、カラオケでよく歌っていたからで、彼も私と同じ頃に東京に出てきた人で、札幌から上京した地方人でした。大学を出て、劇団の演出部に行ったけど、少しあとに出版社の宣伝部に入って、その時に知り合いました。大切な得難い友でしたが、それからしばらくして30代の半ばに不慮の事故で他界してしまいました。この唄を聴くと、なんだか彼のことを思い出すんですね。
今もそういうところがありますが、日本中の若者が、いろんな意味で東京を目指すという構図があった頃で、東京は当時の若者にとってかなり特別な場所でした。
個人的なことを云えば、広島の高校生だった自分は、地元の国立の大学を受験したんですが落ちて、たまたま国立大の合否発表の後に受験できる私立の大学が東京にあって、そこに受かったわけです。東京には子供の時に3年くらい住んでたことがあったけど、なんだかあんまりいい思い出がなくて、東京に行くことにはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、他に行く学校もなく、これも何かの縁だと思って出てきたんですね。地元の大学に行っていれば、学費も下宿代も余分にかからなかったから、親には迷惑をかけたんだけど、そういうことになったわけです。
しかし、考えてみると、それから今までの約50年間、ずっと東京で暮らすことになってしまって、子供時代の3年間を加えても、人生の8割方、東京の住人であることになります。
でも、あなたの出身地はどこですかと問われると、東京ですとは答えられないんですね。子供の頃住んでた神戸や広島がそうかもしれないけど、わりと定期的に転校していたし、一番長く住んでるのは東京ではあるんだけど、東京という地名に対しては、郷愁とかなくて、なんだかよくわからないけど一種の緊張感があります。
けっこう長い間、そういう感覚があったんですけど、たとえば西の方から新幹線に乗って帰ってくる時、多摩川を渡る時、さあここから東京だという時、心なしか緊張している自分がいます。この街に帰ってくるというより、入って行くということなのかも知れないけど、この街の風景が持っているスケールとか、底の見えない奥深さとか、いわゆる大都会の顔つきのせいでしょうか。
さすがにこれだけ長くここに住んでいれば、少し慣れたところもあって親しみもありますが、たぶん東京出身の友人とは、ちょっと違うところがあって、それは10代の終わり頃に、どこかの川を渡ってこの街にやってきたことじゃないかと思うんです。私の場合、多摩川なんですけど。
それで最初に住んだのが、多摩川の土手が見える場所でしたからよけいそうだと思うんです。そこから一番近い多摩川にかかってる橋は、丸子橋という橋で、近くに巨人軍のグランドがあったりしました。その橋と並んで東海道新幹線が走ってましたから、新幹線からも丸子橋はよく見えるんです。
そこで暮らし始めた年の秋から、「それぞれの秋」というテレビドラマの放送が始まったんですけど、そのタイトルバックの風景がまさにその丸子橋だったりして、個人的には馴染みの深い橋だったり川だったりしたんですね。
このドラマの脚本は山田太一さんでしたが、非常に新しくて面白いドラマでした。山田さんのドラマはこの界隈を舞台にされてることが多くて、そののち、1977年には「岸辺のアルバム」が放送されますが、多摩川が決壊して、主人公一家のマイホームが川に流されてしまうシーンは、ドラマ史に残る有名なシーンです。
それから、1983年に放送された「ふぞろいの林檎たち」は、多摩川堤の私が通っていた名も無い私立工業大学がドラマの舞台になっておりまして、テレビを見ると母校でロケがされていたので、間違いなくそうなんですが、脚本を買って読むとまさに私の大学がモデルになってることがよくわかりました。その学校に通う若者たちが主人公の群像劇で、彼らの挫折や鬱屈や友情や成長が描かれています。このドラマはその後シリーズ化もされた名作ですが、個人的には、不思議と自分の多摩川の青春とダブるのですね。

さて、今はどんなことなんでしょうか。
東京はいっときとして同じ姿をしていませんが、この街の大都会ならではの魅力は変わらず、その豊かさも華やかさも、片やその胡散臭さも含めて人を惹きつけますよね。
今もまた、多くの若者が、どこかの川を渡ってやって来てるのでしょうかね。

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2021年12月 6日 (月)

続・7歳のボクを揺さぶった映画の話

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はじめて、山﨑努さんにお会いすることになったのは、「天国と地獄」公開から22年後の1985年でした。この年に黒澤明監督の期待の大作「乱」が公開されるのですが、それに先立って「これが黒澤明の『乱』だ」という、テレビの1時間特別番組を作ることになりました。この番組は、普段広告を作っているコピーライター、アートディレクター、CMプランナーたちによって制作されることになり、私はそのスタッフの中に入って、プロデューサー補という役割をいただき、番組に使われる全ての編集素材を管理する係になります。素材のほとんどは、映画が制作されている間に、ただただ記録され続けたドキュメントのVTRです。その目も眩む膨大な素材と何日も寝ずに格闘した末に、ようやくほぼ編集を終え、あとはナレーションを入れて完成させることになるんですが、そのナレーターを山﨑努さんにお願いできると良いねということになりまして、お願いしたんですね。そのナレーションは惚れ惚れするほど素晴らしく、本当に山﨑さんにやっていただいてよかったというものになり、完成します。先日、30数年ぶりに改めて見直したんですけど、なかなか良い番組の出来でした。

その頃、その仕事と前後して、私が関わっている別のコマーシャルの企画が進んでいて、その広告のメインキャラクターの人選も始まっていたんですね。その仕事の企画をされていたのは、業界でちょっと有名な面白い方だったんですけど、ある時キャスティングの話になって、「好きな俳優さんいますか。」と聞いて下さったので、迷わず「山﨑努さんです。」と答えたんですね。そのせいでもないんでしょうが、その後、わりと長いこと別の仕事で海外に行って帰ってきたら、企画も決まって、出演者も山﨑さんになっていました。ある製薬会社ののど飴タイプの薬品の広告で、とても面白い企画で斬新なCMができそうでワクワクしたのを覚えています。

子供の時からファンだった山﨑努さんと仕事をできることは嬉しかったけど、そもそも最初は黒澤映画の凶悪犯役としてインプットされているし、私の周りには面白がっていろんなことを云う人たちがいまして、
「見た目といっしょで、かなり怖い人らしいぞ。」とか、
「けっこう難しい人らしいぞ。」とか、とか、有る事無い事云うわけです。
考えてみると、確かに見た目は怖いし、屈託なく爽やかに、ただ単純明快にいい人なわけないですよね。そういう、ちょっと複雑で屈折したとこのある、いわゆる大人の男を表現できるのが魅力な俳優さんなわけですから。
その頃、30歳を過ぎたばかりの社会人としても男としても、まだ駆け出しのペーペーの私が憧れていて、大人の男として一番かっこいい役者といえば、山﨑さんだろなと思ってましたから。
多分、この方は、自身が演じると決めた役は、徹底的に読み解いて、突き詰めて、時間をかけて肉体化するという、独自の哲学のようなものを持たれてるんだろうなとも感じていました。
黒澤監督の「赤ひげ」も「影武者」も、伊丹十三さんの「お葬式」も「タンポポ」も「マルサの女」も、山田太一さんの「早春スケッチブック」も、向田邦子さんの「幸福」も、和田勉さんの「ザ・商社」も「けものみち」も、滝田洋二郎さんの「おくりびと」も、「必殺仕置人」の念仏の鉄も、そうやってひとつひとつ役が作り込まれています。多くの優れた作家や演出家からオファーが絶えないのはそういうことがあるんだと思います。
CMの仕事も含め、なかなか簡単にオファーを受けていただけないことは、以前からよく聞いておったことでしたので 、まず出演をOKしていただいたことへのお礼の挨拶を兼ねて、企画の説明にうかがうことになりました。
広告会社の担当部長とプランナーと数人で、その夜、山﨑さんのパルコ劇場での舞台出演の後に、近くのレストランの個室でお会いしたんですが、その日の舞台でキャストの1人が、つまらないアドリブで観客の笑いを取りにいった行為に、かなりお怒りになってまして、終始ご機嫌斜めで、はなっから結構おっかなかったんですけども、ともかく、このあと3年に及ぶこの仕事がスタートいたしました。
それまでは、映画やテレビの俳優・山﨑努さんの、単なる一ファンだったのですが、仕事をご一緒することになって、いろんなことがわかりました。ご自身が出演を決められた仕事は、その役をどう造形するか、どう命を吹き込むか、その作品がどうやって観客に届くかということなど、本当に真剣に考えておられ、それはたとえCMであっても同じ姿勢で、出演をお願いする立場としては、ありがたいことでありました。
このコマーシャルフィルムの舞台設定を、大雑把に説明しますとですね、時代は戦前の昭和初期あたりか、主人公は、なんだか国費留学することになった学者か研究者で、ヨーロッパ航路の大型客船に一人乗り込み異国を目指します。船の長旅には、喉の痛みや咳はつきものでして、そこで旅のお供に商品ののど飴が登場するわけです。
古い大型客船のセットを作って、3タイプほどのCMを撮影しましたが、山﨑さんはそれぞれのシチュエーションに、綿密な演技のプランを考えてきてくださいました。そのことでこのCM作品は、厚みを増していくことになるんですが、撮影の当日には、結構細やかなスタッフとのやりとりが行われます。
演技のこともそうですけども、CMに使われる言葉に関しても、山﨑さんは繰り返し確認検討されます。それはCMですから、商品に関する広告コピーだったりもするんですが、徹底的にチェックされるんですね。
俳優の仕事として、常に言葉というものを大切にされていて、台本を読む姿勢にもそれが現れています。かなりの読書家で、いつも身の回りに何冊も本があり、ご自身で本を執筆されることもあります。「俳優ノート」「柔らかな犀の角」という本が出版されていますが、どちらも名著です。
その山﨑さんが船旅をするのど飴のCMは、大変好評のうちに放送されまして、そのうち映画館の大画面にもかかったりして、感動的だったんですが、その翌年に、コマーシャルの続編制作の話が起きます。前出のプランニングチームは、張り切ってその後のストーリーを考え、やはり船旅の後には、目的地につかなきゃいけないねということになり、なんだかヨーロッパロケの相談が始まったんですね。
やっぱり、ヨーロッパだと撮影しやすいのはパリかなとなって、企画チームと演出家と制作部で準備も始まりました。当然、山﨑さんにもロケのスケジュールを打診して承諾していただき、ロケ隊は、5月のパリを目指すことになるんです。
しかし、この年、1986年の4月に、あのチェルノブイリの事故が起こります。ニュースは連日、事故のその後を報道していましたが、ヨーロッパ全土にどんな影響があるのか、ようとしてわかりません。CM制作に関しては、完成までのスケジュールは決まっていますし、中止するというのもいかがなものかという状況の中、重々検討相談の結果、予定通りロケを決行することになりました。
私は現地のコーディンネーターとスタンバイを始めるため先乗りして、パリの様子を確かめ、監督はじめ日本からのスタッフは、順番にフランス入りすることになりました。
全体にスケジュールが詰まっていたのと、カット数の多いコンテでしたから、連日、ロケハン、交渉、オーディション等で、てんてこ舞いで、最後に山﨑さんがマネージャーとパリに到着された時には、空港に出迎えにもうかがえず、その日の夜にホテルの部屋にご挨拶に行きましたが、そこで、かなりしっかりと叱られることになりました。
そのお怒りの中身というのは、
そもそも、君たちはロケハンやオーディションなどの準備が大変であると云うが、俳優である私との詰めが全くされていないではないか。企画コンテは見たが、具体的にこの主人公にどのようにしてほしいのか、その狙いは何か、そのあたりのことがまず固められてから、背景や共演者のことを考えるべきなんじゃないか、君がやっていることはあべこべじゃないか。のようなことを、こんこんと言われました。おそらく、仕事の進行を見ながら、自身に対する相談もオーダーもないままここに至っていることに、考えれば考えるほど怒りが込み上げてこられたんだと思いました。
いや、全くその通りでして、物事を前に進める制作部の役割がきちんとされてなかった事、反省させられました。
不手際をお詫びして、軌道修正のお約束をして、最後に、
「この部屋のコンディションはいかがでしょうか。」とお尋ねしたところ、
「この部屋か、、、暗い、狭い、寒い。」と云われ、
「申し訳ありませんでした。すぐにチェンジします。」と申しましたところ、
「もう、、慣れた。」と云われました。

そこから約1週間、パリ市内のあちこちでロケが行われまして、CM3タイプの素材を撮りためてまいりますが、商品カット以外は、山﨑さんは出ずっぱりで、なかなかタフな仕事になりました。
いよいよ明日の早朝に行われる某有名レストランでの撮影が最後のシーンとなり、それ以外のすべてのロケを終えたその夜、スタッフ全員で日本料理屋で食事をしたんですね。
その時、居酒屋風の小さなテーブルで、山﨑さんの正面に私が座ってたんですけど、これだけは是非、山﨑さんに伝えておきたかったことがあって言いました。
「ボク、『天国と地獄』を、小学2年生の時に映画館で観ました。」
「へえ、で、どうだった」
「そん時から、ずうっと忘れられない映画です。ラストシーンで犯人の山﨑さんが刑務所の面会室の金網に、突然つかみかかるじゃないですか、その時、私、恐怖で映画館の椅子の背もたれに、めり込みましたから。」と。
このシーンは、映画「天国と地獄」のラストシーンなんですね。この映画で描かれている誘拐事件で、多額の身代金を支払った被害者である三船敏郎さんが、犯人である山﨑さんから呼ばれて、刑務所で面会するところなんですが、そのシーンの最後に、犯人が二人を隔てる金網につかみかかるんです。
山﨑さんが、ちょっと遠くを見る顔になって云われたのは、
「あの時、つかみかかったら、金網がものすごく熱くなっていて、ジューって指を火傷したんだよ。あのつかみかかる芝居は、監督の指示じゃなくって、自分の考えでやった芝居だったんだ。」
黒澤さんの映画ではありがちですが、画面の手前の三船さんにも奥にいる山﨑さんにもカメラのピントが合っていまして、いわゆるパンフォーカスなんですが、それに、おまけにレンズは望遠レンズなんですね。これどういうことかといえば、ものすごい光量が必要になり、尋常じゃない数のライトがセットに当てられてるわけですよ。それでセットの金網は、焼肉屋の網のようになってたんですね。
ふと、私は、今すげえ話を聞かせていただいてるんだなと、気付き緊張しました。そしたら、山﨑さんの話は続き、
「元々のシナリオでは、ラストシーンはあのシーンじゃなかったんだ。事件が解決した後に、三船さんと仲代さんが並んで、犯人が住んでたあたりのドブ川の横を歩く後ろ姿のシーンだったんだけど、黒沢さんはそのシーンをボツにしたんだそうだ。」
確かに、刑務所のシーンで終わった方が、観終わった印象は強く斬新ですね。山﨑さんの芝居を見て切り替えた黒澤さんは見事です。
またしても、すごい話を聞いてしまったわけですよ。

食事会の後、ほろ酔いでホテルに向かって歩いてたら、コーディネーターのコバヤシヨシオの車が横に止まったんですね。そしたら助手席の窓が開いて山﨑さんが顔出して、「もうちょっと飲もうか。」と云われたんです。
そのあと、山﨑さんとコバヤシさんと、なんだか気持ちよく盛り上がってしまいまして、明日の朝ロケだというのに、夜遅くまで宴は続きました。コバヤシヨシオさんという人はフランスという国を実に深く知っている人でして、この仕事で本当に頼りになって助けられました。もともとはフランスの海洋学者のクストーに惹かれてパリに来たと云われてたと思います。
ロケの日程を終え、現像も済ませて、オフの日にヨシオさんがフォンテンブローにピクニックに連れて行ってくれました。フランス人の奥さんも子供たちも一緒で、すごい楽しかったんですが、張り合ったわけじゃないんですけど、その時、私が伊豆の下田に仲間で借りているあばら家がある話をしたら、山﨑さんがその家に行ってみたいと云われて慌てたんですね。ところが、その数ヶ月後に、ヨシオさんがたまたま東京に来た時に、ホントにそのあばら家にご一緒することになりまして、それはそれで楽しくて素敵な伊豆一泊旅行で、良い思い出になっております。
この仕事のおかげさまで、当時31歳そこそこの若輩者の私が、本物のアーチストの姿勢を見せていただきました。おまけに本当に得難い話をたくさん聞かせていただき、ただただ一方的に教えていただくことだけでありました。
という、ちょっと長い話になりましたが、子供の時に観て、揺さぶられた映画の忘れられないキャラクターに、ずっと念じていたらば、ほんとに会えたという話でした

2021年5月21日 (金)

オーベルジュ・トシオ

こうなってくると、日々の暮らし方としては、ともかく用もないのに出かけないこと、できるだけ家にじっとしていること、なるべく人に会わずにですね、会食をしたり、酒盛りをしたりは、もってのほか、この厄災が去って行くのをひたすらに待つことなんですね。
要は、余計なことは思いつかないようにして、家でおとなしくしてろと。
ただ、こう長くなってくると、たとえば感染リスクを避けながら、違う環境に自分の身を置けないものかと、多少ジタバタしてまいります。
そんな時、ときたまお世話になって、気分転換ができてありがたいのが、私が秘かに「オーベルジュ・トシオ」と呼んでる信州の山小屋なんですが、これ、ある友達の別荘なんですね。
この人は、基本的に東京で生活してるんですけど、この山小屋の季節季節の管理は自分でやっていて、ちょくちょく山にこもっていろいろ仕事してるんですが、今回のコロナ禍が始まった頃、東京から避難する意味もあって、ひとり山小屋に籠ったんです。普段から全くそんなふうには見えないんですけど、どうも体質的に疾患があって身体が弱いということで、やはり避難なんだそうです。そういうことならば、退屈しのぎにでもなればと、たまにごく少人数で寄せていただいておるわけです。
場所は八ヶ岳の麓の原村、信州の四季を満喫できる素晴らしいところでして、この友人は、さしずめこの山小屋のオヤジといった役回りなんです。それで、このオヤジが出してくれる食べ物が、街で人気の居酒屋のレベルでして、仕入れも作る手際も、ちょっと驚きの研究開発がされております。彼そのものが、昔から酒飲みで、うまいものが大好きでしたし、食材や調理法にも、好奇心が強くて勉強熱心でしたから、我々はオヤジが長年試行錯誤して完成させた成功作を振る舞ってもらってるわけです。

この、Kネコ トシオさんという人がどういう友人かというと、お互い20代の前半には出会っておりまして、私がTVCM制作会社の駆け出しの制作部だった頃、よく現像済みのフィルムを現像所に取りに行っていたんですけど、その現像所のカウンターで上がったフィルムを渡してくれるのが、短パンにランニング姿のトシオさんだったわけです。現像が込み入ってる時には、いつまで経ってもフィルムが上がってこなくて、ずいぶん待たされるんですが、カウンター越しにこの人に、
「まだですかー!」と怒鳴れば、
「まだだよおー。」みたいなことで、
顔はよく知っていて、年齢も近かったけども、特に仲が良いということでもなかったですね。
その頃、テレビのコマーシャルは、いわゆるテレビカメラで撮影するんじゃなくて、全部35mmのフィルムで映画用のカメラで撮って、最後の納品もフィルムでしたから、当然フィルムの現像も、スーパーを入れたりする加工も、全部現像所でやっており、それを制作している私たちもテレビのコマーシャルを作っているテレビ屋さんというよりは、フィルム屋さんと云った風情だったわけです。
そのうちトシオさんも、その会社でCM業務の営業担当になって、こちらも制作部として多少仕事がわかるようになってきて、いろんな局面で仕事の協力をしていただく用になりまして、時々酒飲んだりして、仲良くなってくるんですね。
この人はもともと職人気質な人で、実に現像に関するケミカルな知識や情報も豊富だし、いろいろ仕事が難しいことになっても、決して諦めずにしぶとくやってくれる人で頼りになりました。
そんなこんだで、私達が立ち上げた映像制作の会社も、彼の会社と強い信頼関係ができて、その後、CM映像の世界はケミカルからデジタルハイビジョンになってもいきますが、気がつくと、ずいぶん長い仕事のお付き合いになってたんです。

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仕事としてはそういうことなんですけど、この人はおいしいものを食べて、おいしい酒を飲むということには、まあ実に貪欲で、手加減しない人なんですね。それでもって、根が職人肌だから、なんか美味いもんを食べると、自分で作ってみるわけでして、そういうデータが積りに積もってますから、原村高級居酒屋「オーベルジュ・トシオ」となってるわけです。
正直、この人が会社を退職したら、居酒屋とか開いちゃうかもとか思ってたんですけど、それに関しては、彼の賢い妻が、それだけは絶対にうまくいかないと予言したそうで、確かにこの人が店やると、仕入れとか段取りとか、えらくこだわって頑固そうだし、客の好き嫌いもはっきりしてそうだし、料理は美味しそうだけど商売はなかなか大変だから、確かに奥さん正しいかもね。
山小屋の方は、この調子でこの人が細かくコツコツとメンテナンスしてるので、実に快適な状態で、行く度ごとに季節の違う風景を見ることのできる、得難い場所が出来上がっています。
多分、性格的にも私にはこういうことはできないだろうけど、気がつくとなにかと自分の家のように寄せていただいてまして、昨今の世の中で、大変助けられてる次第です。
この建物は、彼と彼のお兄さんが若かった時に、この土地にやってきて一から作ったんだそうです。実は、そのお兄さんは、私にとって同業他社の先輩でありまして、ご縁があって昔よくお世話になっていましたから、この山小屋の話はよくお兄さんから聞いていたという経緯もありました。そのお兄さんは、残念ながらしばらく前に亡くなってしまいましたが、不思議なご縁も感じます。
そう云ったことのおかげで、今、きれいな空気の自然の中で、おいしいものを食べて飲んで、よく寝て、、、ありがたいことです。

持つべきものは、職人肌の料理好きな飲んべえの、山小屋持ってる友達だね。

という話なんですけど、

ま、探して見つかるもんじゃないということは、わかります。

2021年2月24日 (水)

どこか遠くへ行きたい

世の中がこんなことになって、かれこれ一年が経とうとしてます。つい先日、実家がお世話になっている税理士さんに会わねばならなくなって、久しぶりに広島まで新幹線に乗りましたが、思えば、旅することがなくなって、ほぼ一年になります。
こうなると、なんだか無性に旅というものが恋しくなりますね。国内はともかく、今は国境を越えることすらできませんから。私のお友だちには、旅をこよなく愛する方が多くて、皆さんしばらく、鬱々とした日々を過ごしていらっしゃると思います。
私はもともとが出不精だし、自分から思いついて、どっかに出かけたりはしないんですけど、何かと旅をすることになりがちな人でして、旅慣れてはいるんですね。それは仕事と関係することが多かったりもするのですが、そうじゃなくても、何らかの用事ができたり、旅好きな方から一緒に行こうと誘ってもらったりと、わりと若い頃からずっとそうで、長いこと、旅する理由には事欠かない人だったんです。そんなことで、こんなに長いことどこにも旅しなかったのは、初めてじゃないですかね。
考えてみると、旅からは、いろんなことを教えてもらいましたね。旅せねば出会うことのなかった人や、街や、土地や、ものや、新しい価値観、いいことばかりじゃない違和感も含めて、他者から多くのことを受け取り、そこで自分と向き合うことも多かったと思います。
旅には、その風景や時間とともに、強い印象を残した記憶が刻み込まれているんですね。
これからは、自分が行きたいと思ったところへ、ふらっと旅してみたいなと、思っていたところだったんですけど、この状況下では、なかなか思うにまかせず、旅に焦がれ、空想の日々が続きます。

このまえ、伊丹十三さんの若い頃のエッセイを読んでいたら、沖永良部島(おきのえらぶじま)で食べた落花生がうまかったという話があって、久しぶりにこの地名に触れ、若い時にひょんなことで、この島を訪れたことを思い出しました。この島は鹿児島県ですが、東シナ海のかなり沖縄寄りに位置します。
私が学校出てすぐに働いていたCMの制作会社で、この島にロケに行く仕事が起こり、その仕事にお供させてもらうことになります。多分この時初めて飛行機というものに乗った気がしますが、1977年頃のことで、スタッフ全員の航空チケットを飯田橋の旅行代理店まで受け取りに行き、その時に持たされた現金90万円は、それまでの人生で見たことのない金額で、緊張したのを憶えています。
島は周囲50kmくらいで、車なら1時間で一周できるくらいの大きさです。九州本島からは550kmほどで、幕末に西郷隆盛が遠島にされていたというところです。我々がロケをするために向かったのは、沖永良部島にいくつかある小学校のひとつで、校庭にすごく大きなガジュマルの樹がある小学校で、大きな樹をビジュアルモチーフにしたある企業の広告を作るため、樹と学校の風景を撮影するのが目的でした。
見たこともない映画用のでかいカメラと共に、突然やってきた大勢の大人たちに、離島の子供たちは、初め戸惑いながら遠巻きにしていましたが、だんだん近付いてきました。
「おじさんたち、何しにきた?」と聞いた子がいて、多分、彼らと一番歳の近い私が、
「テレビのコマーシャルを撮りに来たんだよ。」と、答えたんですけど、
当時のこの島の多くの人たちは、コマーシャルというものを知らなかったんですね。要は、民放の放送がなくて、NHKしか放送されてないので、ここにはテレビコマーシャルというものはないわけです。
その時、仕事のために持っていたポラロイドカメラがあって、それ自体、当時珍しくて貴重なものだったんですが、フィルムが余っていたので、子供たちを撮って写真をあげたんですけど、その場でカラーの画が浮き出してくる写真に、みんな目が点になって、その後で歓声が上がりました。写真をちり紙に綺麗に包んで大事にランドセルにしまう女の子もいまして、コマーシャルってなんだかわからなかったけど、悪い人たちじゃなさそうだなみたいなことにはなりました。
仕事も終わり、帰りの飛行機を待っていたのは、空港ターミナルビルとは呼び難い、どこかのローカル線の小さな駅舎のような建物でして、鹿児島空港から飛んで来るYS-11が折り返し私たちを乗せて飛んで行くことになっていました。飛行機が着陸すると、空港にいた整備員がすぐに走って行って、やおらYS-11の屋根のランプのあたりに乗っかって、なんかやってるんですね。で、しばらくしてこっちの建物の方へ走って来て、何人かでなんか話してるんですけど、客の方へ向かって、
「皆さんの中で、どなたかガムテープをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と、おっしゃる。
ご存知じゃないかもしれませんが、撮影隊というのは、必ずガムテープを持っていて、当然、備品は一番下っ端の私が管理しているわけです。その整備の人にガムテープ2本くらいお渡ししたと思うんですけど、その人がYS-11の方へとって返したかと思うと、その機体に登ってまたがり、やおらガムテープを数カ所貼り始めたんですよ。
「えっ?」
それから、何事もなかったように搭乗手続きが始まるんですけど、それを知ってる人たちは結構不安なわけですよ。もともと飛行機のことをあんまり信用してなかったんですけど、初めて飛行機で旅した時のこの経験から、ますます飛行機嫌いになった気がします。

これが私の、沖永良部島・旅の思い出ということなのですが、どうもこの島にはご縁があったようで、それから2年くらいして、もう一度、また別の仕事で撮影に行くことになりまして、これがまた思い出深い旅になります。というか思い起こせば、その後の長きに渡る私のロケのキャリアにおいて、唯一最後まで晴れなかったロケだったんですね。
毎年、2月、3月あたり、鹿児島の南から沖縄の各島に渡って、いわゆる台湾坊主(東シナ海に発生する温帯低気圧)が停滞して、ずっと天気が悪いことは知られていますが、そうは言っても1日や2日晴れる日もあるし、だいたい俺たち晴れ男だしみたいな気合で挑んだロケでしたが。
この仕事がまた “ピッカピカの一年生”という児童雑誌の広告キャンペーンでして、文字通り晴れないわけにはいかないのであります。ところが、来る日も来る日も、雨、雨、良くて曇りなわけです。東京のこの仕事のクライアントからは、撮れるまで帰ってこなくてよいとのお達しがありましたので、ただ雲の切れ間を待っております。
ロケ隊は男10人ほどの所帯で、泊まってるのは、さほど大きくない観光ホテルなんですけど、シーズンオフで他に客もなくて、毎朝、海に面したレストランに集まるんですが、空にはびっしり鉛色の雲が幾重にもかかっておるわけでございます。
こうなれば粘るしかないんですが、この小さな島には娯楽もなく、毎晩、黒糖焼酎や泡盛飲むにしても昼間は天気が悪ければ行くところもないし、そこら辺にある雑誌は全部読んでしまって、ついには連絡船で届いた新刊本を港に買いに行く始末です。日々の会話も無くなり、朝ご飯済んだらそれぞれベッドに戻り、サナトリウムってこういう感じかなと云ったりしておりました。
そんな長期滞在の末、どうにか薄日で撮影を終え、ついに島を離れる時に、一年半の遠島から帰国できることになった西郷さんの心持ちにちょっとなったといえば大袈裟なんですが。

それからも、東シナ海をめぐる島々には、よく仕事で出かけましたが、その中で最初に行ったこの島のことは特に印象深いです。でも、あれ以来行ってないですから、今はどんなふうになっているのだろうか。ちょっと行ってみたい気もするけど、、

多分、なんもかんも違う景色で、完全に浦島太郎状態なんでしょうね。

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2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

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今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

Hakobiya

映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2019年1月22日 (火)

初台の太郎ちゃんのこと

昨年の大晦日は、お葬式で暮れました。

亡くなったのはしばらく会ってなかったけれど、古い友達でした。クリスマスの25日に亡くなり、告別式が12月31日だったんですが、彼が病院で意識を失くしたという連絡が、23日にありまして、それは、一人暮らしのその友人がお世話になっていた大家さんからの電話でした。友人の携帯電話の連絡先や通信記録などから、私の電話番号を知り、その電話機から連絡を下さったようです。

そうやっていろいろな知り合いに連絡を取って、お葬式の段取りも、みなやって下さったようで、一人で暮らしていたけど、このように親切にしてくださる方が傍にいて良かったと思いました。

この大家さんが、お葬式の時に、

「これ、太郎ちゃんが好きだったお菓子ですから」と云って、みなさんに菓子袋を配っておられまして、そんなふうに親しくお付き合い下さった方なんだなと、少しホッとしたんですね。

 

そうなんです。その友達はみんなに太郎ちゃんと呼ばれていました。

Taro

私が20代の頃、同じ会社に勤めていた友人夫婦が初台に住んでいて、その家の近くに太郎が一人でやってる飲み屋があったんですね。店の名前も太郎だったかなあ。10人かそこら入ったら一杯になるようなカウンターだけの店で、ツマミもあんまりなくて、安い酒ばっかり置いてあったから、貧しい私たちが夜中に飲みに行くぶんには、ちょうど良い店でした。よく仲間と行ってたんです。

この太郎ちゃんという人は、飲み屋の店主以外に一つ仕事があって、それは売れない役者だったんですけど、言われるまで知らないくらい、ほとんど役者として認識したことはなかったんです。ただキャリアだけはあったみたいで、役者の仲間や友達が客としてよく飲みに来てたんですね。

それで、どんな仕事してるのかを聞くと、あんまり知ってるものはなくて、どっちかというと、ピンク系とか日活ロマンポルノ系のちょっとした役で、そういうことで、日活の女優さんとか、ピンクでちょっと有名な男優さんなんかも飲んでたこともありましたし、たまに普通に有名な俳優さんもいらしたりしたんですね。ただ、この太郎ちゃんが役者として優れていたのかどうかは、よくわからなかったんですけど。

まあ映画って云っても、出てきてすぐにいなくなるような役が多かったんじゃないかと思いますよ。そういう人でして、人気者でしたけど、わかりやすく云うといじられキャラですから、みんなにいじられてて、僕らもそこで飲んでる間じゅう太郎を肴にして、好き放題を言って、飽きると歌を唄わせたりして、思えば傍若無人な振る舞いをしておりました。

そんな関係が出来あがった頃に、

「ところで、太郎って、歳いくつなのよ」って聞いたんですが、なんと私たちより六つも年上だったのですね。ただ、そのことがわかったからといって、今さらこちらの態度を変えるわけにはもう行かず、それ以後も、

「この野郎、太郎!」という関係は続いたのでした。そもそも、その店に最初に行き始めたそのサトルという友達は、やたらとでかくて威圧的な奴だったし、私も口だけは達者な奴でしたから、まあ、そこでは威張っていたわけです。

そんなある夏の日に、なぜか太郎ちゃんと私と仲間たちで、伊豆に旅行に行ったことがあったんですが、ちっちゃい車に5人でぎゅうぎゅう詰めで、エアコンは壊れてて効かなくて、おまけに夏休みで道は大渋滞、真鶴道路のトンネルの中に3時間もいたんですね。

そんな過酷な状況下で、何かのはずみだったと思うんですけど、なぜか太郎ちゃんの身の上話をみんなで聞くことになったんです。それは、太郎が育った岩手の猛吹雪の風景と、それにまつわる苦労話でして、うだるような暑さの中で、極寒の話を聞くわけです。そして、太郎が東京に出てきてからのあれこれ、これまた苦労話の超大作が続きました。この長い道中で、私たちは太郎のこれまでの人生を味わい尽くし、やっと海が見えて、太郎がヨットを見つけた時に、

「あっ、帆掛け船だ」と叫んで、オチがついたという旅でした。まあ、そんなようなことだったけど、みんな若かったし、楽しかったんです。

ちょっと変わった青春話もやがて終り、太郎の店は立ち退きになって、それからしばらくして、太郎は新宿三丁目のあたりで別の飲み屋を始めました。その店もやがてやめちゃうんですが、私たちも20代から30代になって、私もサトルも勤めてたその会社をそれぞれに辞めて、なんとなく、みんな疎遠になっていきました。

 

その後、太郎ちゃんとは忘れた頃に年賀状のやり取りをするくらいでした。相変らず、テレビや映画に出ていてもほんの一瞬だし、そういえばあの有名な「あまちゃん」にも役名付きで1回出たことあったけど、友達でさえわからないくらいの瞬間でしたもん。ほんのたまにそういうことあって、まあ元気なんだろうなというくらいのことでした。

人生長くなってくると、こっちもいろんなことがありまして、もうずいぶん前に友達のサトルは病気で他界してしまい、そのことを太郎に知らせようとしても、その時は連絡が取れませんでした。

それから、もう一つ、何年か前に判明したことがありまして、私が全く別のラインで長く仲良くしていただいてる友達の夫婦がいるんですが、同年代のこの二人がなんと初台の太郎の店の常連だったことがわかったんですね。あんな小さな店でそんなことがあるんだ、世の中は狭いなあということでびっくりして、ともかく是非みんなで会おうということになり、太郎に電話したんです。4人で新宿に集合して、飲みに行ったんですが、本当に久しぶりの再会でみんな嬉しくて、ずいぶん遅くまでハシゴしました。

ただ、その時に太郎ちゃんの身体の調子が万全ではなくて、定期的に人工透析の治療を続けていることを聞きました。でも、その日はずいぶん飲んで、今日は嬉しかったからいいんだと云っていたんですね。

それから、たまに連絡取ったり、私の会社に遊びに来りもしてたんですけど、このところちょっと音信がなかったんです。

去年の正月に、年賀状やり取りしたけど、そのままになっていて、そういえば秋口に、一度電話くれて、また近いうちにみんなで飲もうと云ったんだけど、なんか話があったんじゃないかな、あの時、こっちもちょっとバタバタしててそのままになっちゃったけど、そん時、会っとけばよかったんじゃないかと、つくづく思いました。

 

若い時にすれ違うように出会ったけど、長い間に要所要所で、なんだかすごく縁のあった人でした。

ともかく悪く云う人はひとりもいない、みんなから愛されてましたね。

今頃、あっちでサトルにも会ったでしょうか。

 

2018年1月29日 (月)

息子の転勤

去年の暮れに、急に息子が大阪へ転勤になりまして、もっとも、昨年の春には学校を出て就職しておりましたから、その会社から勤務地として大阪に配属されたわけで、特にどうということもないんですけど、我家としては、家族が一人家を出て行くのは、初めてのことだったので、ちょっと、えっ、そうかあ、みたいな気分になったんですね。

ただ、出ていく本人は、初めての一人暮らしだし、知らない土地に対しての好奇心もあって、むしろ楽しんでいるようでもあるんですが。

もともと、小さい頃はともかく、若い男ですから、あんまり家にはいないし、息子というのはそういうもんかもしれませんが、あんまり家族としゃべらないし、別に反抗的ということでもないんですけど。だから大阪に行ってしまったからといって、家の中が急に静かになるというもんでもないんですね。これが、もし姉の方だったら、結構、家の中が淋しくなると思うんですよね。この人はかなり騒々しい人ですから。

いずれにしても、やはり、この状態に慣れないというか、ちょっと落ち着かない感じではあります。考えてみると、自分も昔は、ほとんど家にはいなかったけど、そのうちに帰って来るのが前提ではあったので、単身赴任してたわけじゃなかったですから、ちょっと意味が違いますよね。まあ、母親はちょっと淋しいみたいですが、音信が途絶えたわけでもなく、メールとかもつながりますから、だんだんに慣れてくんでしょうね。

個人的には、自分は子供の頃から転校とかが多くて、いろんな土地に暮らしたんですけど、息子の場合は、そういった意味では東京から出たことなくて、初めての違う土地に暮らすのが、あのコテコテの大阪というのも面白いのかもしれません。

私が一人暮らし始めたのは、18歳のときに上京した時でしたから、45年も前で、その頃と今では、世の中のいろんなことが全く変わってることに気付きます。半世紀だから当たり前なんですけど。

1973年当時、広島から東京へ出ていくには、岡山からの新幹線は1972年に開通してたんですけど、一番早い「ひかり」で東京まで4時間10分、広島から岡山までは在来特急で、優に2時間はかかってましたから、乗り換え含めて、ドアからドアまで8~9時間はかかってました。たしか初めて上京した時は、新幹線じゃなく寝台特急で行きましたね。熱海のあたりで朝ごはん食べるんですよね。

今息子が住んでるのは、心斎橋のはずれのあたりみたいですから、完全に日帰りできる距離です。

通信手段にしても、その当時は、電話なんか持てませんし、電話引いたのって就職してからでしたから。そうなんです、昔は電話引くって言ってたんですね。親からは、元気でいるかだけでも、たまには電話しろって云われてたから、たまに家に電話したんですけど、公衆電話で10円玉ジャカジャカ落としながらかけてましたね。両替はしておくんだけど、遠距離はすぐにコインなくなりました。母親から時々ハガキとかも来ましたけど、返事書くよな息子じゃないし、結構心配してたんだろなと、今になって思います。

今は、みんなスマホ持っていて、LINEとかにメッセージ入れとけば、すぐに返事なくても、読めば既読になるし、そういった意味での心配というのも、ずいぶん減ったかもしれませんよね。

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ずいぶんと、世の中の事情は変わったにせよ、気が付けば、子供はそれぞれの自分の道を行くようになってくわけですよね。それはそれで、良いことなんでしょうが、なんだかちょっと張合いがないというか、でも、こういうのが子離れの始まりなんでしょうか。そう考えれば、とっくにそれは始まってはいたんですけどね。

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2014年7月 3日 (木)

カンヌ滞在記2014

このまえ、何年かぶりで、カンヌ広告祭に行ってきました。最近正式には、

カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル

(Cannes Lions International Festival of Creativity)  云います。

長いですが、今、こういう呼び名であります。

もともと1954年に創設され、はじめは劇場用のCM映像が審査の対象でしたが、その後、世の中の進化とともに広告のジャンルも増え、今ではたくさんの部門に分かれて審査が行われています。それに加えて、多方面のセミナーが連日開かれ、まさにインターナショナル、世界中からたくさんの人たちが、コートダジュールの小さな街に集まってきます。このイベントの一か月前に、有名なカンヌ映画祭が同じ会場で開かれており、高級リゾート地であるこの街そのものは、こういった催し物には慣れてるんですね。

毎年6月の後半に一週間の日程で開かれまして、私たちの会社は、ここ10年くらい、その期間、会場の近くに毎年同じアパートを借りています。広告とか映像にかかわる仕事なので、会社から行ける人が行って、まあ勉強したり、情報収集するといいかなということなんですね。

毎年行ける人数もまちまちだし、その年その年によっていろんなパターンで、云ってみれば視察してきますが、基本的にホテルではなくてアパートなので、自分たちで自炊しながら合宿のように過ごしてきます。今年はわりと人数が多くて、男子社員3名、女子社員3名、社外からコピーライター女性1名、ディレクター男性1名、来年この業界に就職する予定の大学生1名、総勢9名。いつもの部屋では入りきらず、近くに小さいアパート借り足しました。

このベースキャンプにしてる場所が会場から近いこともあり、毎日いろんな人が集まって来てくれます。このあたりは、ロゼのワインが安くておいしく、すぐ近くに毎朝市場がたつので食材も新鮮で、肉屋も魚屋もチーズ屋もあり、O桑シェフの指示のもと、そこらへんで買ってきたものを皆で適当に料理して、けっこう幸せな食卓になります。私は、ワインの栓を抜くだけでなんにもしませんけど。

そんなことなので、否が応でも、毎晩たくさんお客さんが来て盛り上がってしまいます。この盛り上がるところがよくてですね、つまり、日頃はどっぷりと語り合えないことを、同じ業界の身近な人たちと、異国の最新の広告などを肴にしながら、ゆっくり語り合うことは、東京ではなかなかできないことなんですね。

世界中のトップレベルの広告表現を見てくるのと、最新の情報収集をしてくるということもそうなんですけど、実は、そこで毎夜おこなわれる酒盛りこそ重要な時間となってくるわけです。今年は、なんだかすごく良い時間が過ごせましたね。心穏やかな面白くてすぐれた人たちが、たくさん良い話をしに来てくれました。

この旅が実に楽しかったのは、今回の視察団(?)のメンバーの構成によるところも大きくて、特にゲストのコピーライターのH女史と、ディレクターのI氏との旅は楽しく新鮮でした。この方たちとは普段からよく仕事をさせていただいてるんですけど、今回私たちの会社のホームページを一緒に作って下さったことから、一緒にカンヌに行きましょうということになり、超忙しい売れっ子の二人が何とかスケジュールを空けて同行できることになったんです。Hさんは、優秀ですごく忙しい人のわりに、いつもゆっくりしゃべる人で、しみじみと癒される方です。

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Iディレクターは愉快な人です。一言でいうと、落ち着きのない小学生がそのまま大人になったような人で、いつも、東京から持ってきたスケボーに乗って、カンヌの街中を滑走していました。スタイルは、成田からずっと、いつも短パンにTシャツにビーサンです。一緒にどこかに出かける時も、すぐにスケボーでいなくなってしまい、しばらく歩いてると、どこからともなく帰ってきます。飼ってる犬と、リード無しで散歩してるみたいです。

一度みんなで電車に乗って、隣町のアンティーブのピカソ美術館に行きましたが、その近くの魚屋がやってる食堂でみんなでワインを飲みすぎて、酔った勢いでカンヌまでスケボーで帰ることをすすめたら、乗りのよいことにそのまま席を立って行ってしまいました。結局、道を間違えて約20キロの道のりを、左脚をつりながら完走して帰ってきて、その後、みなからスケボー大王と呼ばれ、カンヌスケボー伝説をつくりました。すでに関係者の間では語り草となっています。

まあ、そんな風にやけに楽しい日々なわけですが、そんな中で、きわめつけが、最終日の前日。私たち視察団は、幸運にも、お昼から日没まで豪華クルーザーに載せてもらえることになりました。大はしゃぎで出航し、ワインもバンバン開け、小島の入り江に停泊し、プロヴァンスのお金持ちの暮らしを少し知りました。Iディレクターはその間、街の帽子屋で見つけたキャプテン帽をかぶり、真っ白なシャツを買い、みなからキャプテン大王と呼ばれました。途中、3名ほど船酔いして脱落しましたが、最後は地中海に沈む夕日に無口で涙し、スペシャルな一日を終えました。

そんなこんなで最終日、明日は飛行機早いし、一週間けっこう忙しく楽しかったから、おじさん、疲れたし、荷物パッキングして、パジャマ着てベッドに入りました。みんなは別のアパートに帰ったり、街に遊びに行っちゃったり、早めに帰国したりで、その時間は、私一人だったのですね。

そしたら、夜中にブザーが鳴って、H女史が帰ってきたんですけど、それから次々に、ラストナイトゲストがやって来たんです。この方たちは、日本からフィルム部門の審査をするために来た方とか、日本の広告会社を紹介するセミナーをされてた方とか、私と違って、このカンヌでまじめに働いてらした方々だったんですね。全部で6~7人いらしたんですけど、みなさん疲れ果てて、真剣にお腹空いてるらしいんです。忙しい仕事を終えて、食べるものも食べずに、顔を見せに来て下さったわけです。

ほんとに嬉しかったんですが、さあ困った。さっきだいたいあとかたずけして、みんなどっか行っちゃったし、もうビールとワインしかない。

そうだ、そうめんと学生君が持ってきてくれた秋田稲庭うどんがある、ネギもある、めんつゆ少し残ってたよな。そうだ、O桑シェフが作ったカレーが残ってた。シェフは東京に帰っちゃったけど。そうめんとカレーうどん作りました。

いや、みなさん、ホントによく食べられ、ほぼ完食されて満足そうに帰って行かれました。よかったよかった。

ワインの栓しか抜かなかった私が、最後にちょっと働いたわけです。

それぐらいしないと、毎晩酒盛りしてクルーザーに乗って帰ってきただけということになりますし。

2013年4月30日 (火)

歩くということ 登山編

新入社員研修キャンプというのをやったんですね、うちの会社らしいんですけど。たしかに山の中に行って、いろんな共同作業とかやると、キャラクターもわかるし、仲良くもなるし、お互いゆっくり観察したり、話をしたりするには、いい機会になるんですね。

新入社員は6名、新入社員以外は、仕事もあるし行ける人だけでやりましたが、キャプテンは、O桑君とW辺君です。この二人は山の中に行ったりキャンプするには不可欠な人なんですね、経験上。

今回は金曜日の朝に出発して、昼過ぎにはいつもの山梨のキャンプ場に到着しました。ここは、ほんとに何もないところなので、これからすべての設営が始まります。テント張って、火熾して、机や椅子出して、買い出しして、晩飯の下ごしらえして、いろいろやってるうちに日は暮れていきます。4月とはいえ、南アルプスの山の中は寒く、焚火と酒であったまります。他にやることもなく、ただ深酒するんですね。はじめ緊張気味だった新人君たちも、そこそこにほどけてきますね。初日は10名そこそこなので、いつもの社員旅行キャンプの騒々しさはなく、なかなか風情のあるキャンプらしい夜となります。

次の朝、ちょっと宿酔の頭で歯を磨いていると、だんだん後発のメンバー達が到着してきます。昨日は仕事していて、今朝東京を発った人たちです。

人数も増えて、盛り上がってきたところで、今回の企画の目玉でもある登山となります。日向山という標高1650mの山で、恒例の登山なんです。前回の社員旅行キャンプの時には、私、登山コースを選ばず、麓のサントリー白州蒸留所で一日中ウイスキーの試飲をするコースにいて、この登山が意外とハードだったという話は後で聞いてはいたのですが、実際のとこよくわかってなかったんですね。

ただ、キャプテンのW辺君いわく、                            

「今回はハイキングコースの入り口まで車で行きますから、そんなにきつくないですよ。前回は下から行きましたから。」みたいな話で、

確かに看板にはハイキングコースって書いてあるしで、油断してたんですが、これが登り始めると相当こたえたわけです。なんせ、ひたすらきっつい登りっぱなしで、ハイキングってこういうことだっけと。そう思ってるのはどうも私だけで、若い人たちは冗談言いながら和気あいあいと笑いながら登ってますし、二人のキャプテンは、もともとこういううことが大好きな人達ですから、私とは違います。

O桑君はニコニコしながら、

「まだ700mしか歩いてないですよ。」などと励ましてくれますが、

私からすると、7kmは歩いたんではないかと思えるのです。

「いや、自分にはかまわず、みんな先に行ってください、マイペースで追いかけるから、頂上で弁当食べてるとこに追いつくから。」

などと申して、最後尾を歩いてたんですが、相変わらず道はきつい登りっぱなしで、まだ行程の半分にも至っておりません。

ふと、回れ右したら楽になるなという誘惑と向き合い始めた時、気になって引き返してきたO桑君が呼びとめました、さわやかな笑顔で。・・行くしかないです。

なさけないですが、あごが上がるというのはこういうことだとわかりました。おかしいなあ、これでもかつては、仕事で屋久島の急勾配を縄文杉まで6時間かけて登ったのになあなどと思いましたが、考えてみれば、あれはもう10年前です。それから10年間自分を甘やかせ続けたむくいです。老化もありますが、ひどいもんです。

なんとか頂上に着きました。晴れわたった日向山山頂は、死ぬおもいして登った甲斐のある(おおげさですが)素晴らしい景観でした。でしたが私は、しばらくただ仰向けになって天を仰いでいました。涙目でした。塩のきいたお弁当、美味しかったです。Sanchou

みんなで記念撮影して、自分もここで一緒に写れてよかったなあと思っていた頃、

W辺キャプテンから下山の合図がありました。

「帰りは今来た道じゃなく、別の、もう少し険しい道をおります。ときどき鎖にぶら下がったりしながら下ります。頑張ろう。」

えっ、今来た道、じゅうぶん険しくないですか? しかし、こうなったら自棄です。

新人たちに背中を見せるわけにはいきません。さっき見せかけたけど。

帰り道は、私に言わせれば、道とは呼べませんでした。わかりやすくいえば、崖です。そこにもハイキングコースという表示が出てました。この辺、どうかしてます。

崖を転がるように降りた私たちは、キャンプ場近くの温泉につかりました。浸みました、生きててよかった(おおげさですが)。露天風呂に入っていたら、ポツポツと顔に雨があたり始めました。今夜のキャンプは雨です。

ただ、二人のキャプテンは全く動じません。まあ、あらゆるケースを経験してる人達です。むしろ新人たちにとっては、予期せぬこの状況は、よい研修になるとおっしゃってます。そうですね。そうかもしれませんね。

せまいけど屋根の付いた洗い場を利用して、その周りに何枚もターフを張って作られた会場で、雨の夜の大宴会が始まりました。参加の人数もうんと増え、キャンプファイアーは燃え盛り、いよいよ盛り上がってまいります。昼間の疲れから先に寝てしまうかと思いましたが、山登りとは違って酒宴には強いようなんですね、私。

しょうがないなあ。

 

 

 

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

2012年12月19日 (水)

ハトヤホテル社員旅行

3年ほど前に、社員旅行キャンプというのをやって、それ以来、社員旅行というものをしてなかったんですが、そろそろやろうかという話になり。

行ってきました3年ぶりの社員旅行。キャンプが2回続いていたので、ふつうに旅館に泊まる社員旅行は、実に6年ぶりで、今回が初めてという若い社員もけっこうおります。どうしてこんなに長く社員旅行ができなかったかというと、忙しかったこともあるんですが、だんだんに社員の数が増えたことによって、全員のスケジュール調整が難しくなり、何とか全員参加でやろうとするたびに、延期を繰り返してきたからでした。

そこで、今回は全員参加できなくても決行すること。遅れても後から参加できる関東近郊で、2泊の温泉旅行とすることにしました。

で、どうせならみんなで浴衣着て、昭和の典型的な、お座敷宴会社員旅行にしようということになったのです。

そこで幹事団が選んだ場所が、伊東温泉ハトヤホテルでした。うーん確かにコンセプトには、合っています。そして宴会の企画は、紅白歌合戦です。うーん確かにこれ以上ないベタな企画です。

でもこれが、盛り上がったんですねえ。長く行われなかった社員旅行というものに、皆飢えていたのでしょうか。仕事が忙しい中、歌の練習も振り付けも完璧です。こういうことになると、絶対手を抜かないんですね、この会社の人たち。

唄以外にも様々な芸が繰り出され、旅館の仲居さんたちにも大うけで、その勢いのままハトヤカラオケバーに移動して、歌と踊りが続きました。そのお店が閉店になった後は、部屋に戻って飲み、ギターで唄い、そこが落ち着くと、タクシーで夜の街のラーメン屋に向かう一団となり、少しずつ人数は減りますが、主力は朝までコースです。

Hatoyaなんというか、あきれるばかりのエネルギー。翌朝早めに出発したので、朝の各部屋をのぞきましたが、大半が死んだように寝ております。おおよそ慰労とか慰安とは、ほど遠い社員旅行と相成りました。

考えてみれば、自分が若かったころの昭和の社員旅行というのは、だいたいこういうパターンでしたが、最近こういった風景は、あまり見かけなくなりました。多分若い人にとってはけっこう新鮮で、たいていの人は初体験だったんではないでしょうか。

それに、このハトヤホテルというところが、昭和という時代のテーマパークのようなところなんですね。とにかく何でもサイズがデカくて、ロビーも宴会場も食堂も風呂場も脱衣場も卓球場もカラオケバーも廊下も客室も、子供が全力で走れる広さです。

おそらく昭和の高度成長のころ作られ、たくさんの社員旅行がここで行われ、そしてたくさんの家族がここを訪れたんだと思いました。そういえば、あの頃テレビでは、ふつうにハトヤホテルのTVCMが流れていて、コマソン今でも覚えてますものね。

♪伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よい風呂)♪

(野坂昭如 作詞 いずみたく作曲)

いや、今もご健在で何よりでした。

チェックアウトしてホテルを出ようとしたら、担当ホテルマンの方と、女性の事務員の方が駆け寄ってこられまして、この女性社員の方は、昨夜の宴会で仲居さんをしてくださり、うちの社員のしょうもない芸を見て転がって笑ってくださってたのですが、

「この度は、誠にありがとうございました。来年も是非皆様でお越しください。」

と、これ以上なくご丁寧なあいさつをいただき、ややたじろぎましたが、

みんなで、浴衣着て、温泉入って、宴会やって、こういうコミュニケーションもたまにはいいもんでありました。エネルギー使い切りますけど。

 

 

 

2012年6月22日 (金)

飛行機、こわい

Jetplane
元来、飛行機というものが苦手で、学歴を理系と文系というものに分けると、理系に属する私がこういうこと云うと恥ずかしいのですが、いまだに理解できないんですよね、何であの重ったいものが空飛ぶのか。

いや、何度も乗ってますよ、飛行機。つい先日もチューリッヒまで12時間、その後、国内便で1時間。

そこに行くべき用件があり、それに乗らねば、そこに行けなければ、それは覚悟決めるんですけど、どうしても納得してないんですよ、それに乗って空飛んでることに。

だから、今まで何べん乗っていても、それは仕事だったり、どうしてもそうしなければならない状況かどうかで、しかたなく乗ったというか、いつも、今回は仕方ないよなと、心の中でつぶやいているんですね。今まであれだけ飛行機乗ってて、自分のお金を払って乗ったこと2回しかないんです。なんていうか、自らのせいでそうなったんではなく、誰かのせいでそうなったんだということで、止むを得ずと思うことにしてるわけです。

何か、飛行機のこと好きな人がこういう文読んでると、イライラするというか、じゃ乗るなよお前とか、思うと思うんですけど、すいません。

国内の場合、どこかに行くことになった時に、すぐにどこに飛行場があるか調べる人いますけど、いや、そこに行くのはJRの方が便利なんじゃないかとか、飛行場までの時間や、飛行機飛ぶまで待ってる時間入れると、電車の方が早くない? などと、すぐにJRのまわし者のようになります。駅弁買ってビール飲みながら行こうよなどと言うのも、自分がリラックスできるからそう言ってるだけなんですね。

飛行機好きな人って、すごくいろんな航空会社のことよく知ってて、機内食なんかのいろんなサービスにも詳しくて感心します。自分が好きな会社や便があって、マイルがたまったら、それを利用してまた飛行機乗ったりしますよね。

私も最近になって、周りの人から勧められて、マイルためるようになりましたが、何かこれがたまることによって、また別の飛行機に乗るようなはめになったらどうしようかと、なかばひやひやしていたりします。

見渡してみると身の回りには、私のように飛行機が苦手な人というのもわりといて、私の奥さんもそういう人です。たいていの趣味も性格もほぼ合わない夫婦なのですが、飛行機に関しては同じ気持ちになれます。したがって、うちは家族で飛行機に乗ったことは一度しかありません。たった一度家族でハワイに行ったときに乗りました、その時だけです。家族旅行は、圧倒的に新幹線か車です。

仕事仲間にも、すごく飛行機がダメな人がいます。

いつだったか金沢で撮影の仕事が終わって、3人でタクシー乗って小松空港に向かっていた時、誰からともなく、実は飛行機って苦手なんだよねっていう話になって、聞いてみると全員そうで、3人とも我が意を得たりになって、またこういう人たちに限って、飛行機事故の話にやたら詳しいんですね。そんなこと散々話してるうちに、誰かが運転手さんに言ったんです。

「JRの小松駅って、ここから遠いですか?」

結局、飛行機キャンセルして、電車で東京まで帰ったんですね。ビール飲んで駅弁食べながら、皆ご機嫌でしたね。4倍ほど時間かかりましたけど。

また、私の知ってる人の中でも相当飛行機に弱いカメラマンの方がいらっしゃいまして、二人でロケ地に向かう機内で打ち合わせをすることになった時、

「じゃ、打ち合わせしましょうか。」って声かけたら、

その時、その人が読んでた雑誌は上下逆でしたし、その時打ち合わせしたことは、現地についいたら全部忘れてました。

でもこの人、空撮になるとヘリコプターから身を乗り出して撮影したりするんですよね。

そういうのはいいらしくて、よくわかんないんですけど。

 

そんなことで、きれいで感じのよいキャビンアテンダントさんから、

「どうぞおくつろぎになって、快適な空の旅をお楽しみください。」

とか言われても、基本的に空飛んでるあいだは、緊張しているわけで、あまりよく眠れなかったりします。ただ、海外からの帰りの便では、仕事が済んでちょっとホッとしてたり、疲れてもいるので、寝ちゃうこともあり、むしろそういうときは積極的に寝てしまおうとするんですね。

でも、思い通りにならないこともたまにあり、これも旅の面白さですけど。

ロスから東京に帰る便で、私の席のまわりが、観光とかじゃなくてはじめて日本に行くことになった中国人の団体だったことがあって、たぶん20人くらいいたと思うけど、皆 興奮しててうるさいのと、何かと私に東京のことを聞いてくるわけです。私、あんまり英語できないからわかんないって云ってるのに、なるべく簡単な単語使って、身振り手振りで話しかけてくるんですね。でもまあいろいろ不安なんだろうし、極力役に立ってあげられればと、話してるうちに、何か仲良くなって着くまでしゃべりっぱなしで、

寝るどころかくたくたでした。

こういう人って、基本的に良い人で、初めて日本に行く人のことが多いです。

これもいつだったか、サンフランシスコから帰ってくるときに、やはり隣の席のご婦人が、生まれて初めてアメリカから海外に出る人で、その時、私、飛行機に乗る直前まで、仕事で三日三晩徹夜していて、完璧に成田まで寝て帰ろうと思ってたんですね。

このミセスが、すごくフレンドリーに話しかけてくださるんです。私、英語があんまり話せないんですいませんねって云うと、なんか中学生レベルの英語で私がわかるまで話しかけてくださるわけです。どうも娘さんが北京に留学しているとかで、はじめて母親である私が会いに行くんだと、興奮気味です。あーー北京は行ったことないんでよくわかんないです、すみませんって云うと、じゃ、アジアの話にしましょうって云うんですね。なんかすごくためになる英会話の家庭教師にレッスン受けてるようで、勉強にはなるんですけど、とにかく眠いわけです、こっちは。で、実は、アメリカでの仕事でずっと寝ていないということをやっと分っていただき、寝かせていただいたわけですけど、

彼女、全く悪気なく親切な人で、食事の時間になると、たたき起して下さるわけです。

すごくおいしそうよなどと、ニコニコされております。結局、成田に着くまで国際交流は続きました。眠かったけど。

 

こうやって、何かの縁で袖触れ合った人と、一期一会の時を楽しむのも、旅の醍醐味だし、飛行機ならではってとこもあるんだけど、やっぱなんかくつろげないんだよな。

 

 

2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2010年12月15日 (水)

窖(あなぐら)の、はなし

今年、深く記憶に残った出来事のひとつに、チリの鉱山落盤事故がありました。

地下700mに閉じ込められた33名の作業員が、全員無事に生還したあの事件です。

生存が確認されてから、救出されるまで、全世界が注目しました。私たちは徐々に中の状況を知ることになり、彼らの帰りを待つ、妻や愛人のことまでも知ることになりました。

彼らがわずかな食料と水で、69日間生き伸びたことも、その彼らを運び出したのがカプセルであったことも、驚きであったけれども、

全員で生還することを信じていた、その強靭な精神力と、それを支えていた彼らのチームワークと、そのリーダーの存在は、世界中の人々を感動させたのでした。

 

しかし、700メートル地下のあなぐらの中というのは、やはり怖いですよ。

私は、狭い、暗い、高いは、全部ダメな人なのですが、昔のある体験が忘れられません。

それは、大学4年生の時に所属していたゼミの、卒業研修旅行の時のことです。行き先は、その当時、まさに建設真っ最中であった、青函トンネルの工事現場の最先端部分、つまり津軽海峡の真下のあなぐらです。何故そんなところへ行くのかというと、このゼミは、工学部、土木工学科のゼミだったからです。

今となっては、不思議この上ないのですが、閉所、暗所、高所の三重苦恐怖症の私が、よりによって土木技術者を目指し、卒業旅行と称して、地底のトンネル工事現場に向かっていたのです。そういうことになった理由は単純で、中学生の時に見た映画「黒部の太陽」に、めちゃめちゃ感動したからでした。

この映画は、戦後の経済成長を支える上で、どうしても必要だった黒部第4ダム建設にあたり、その建設資材を運搬するための、北アルプス大町トンネル掘削工事を描いたものでした。

工事は、何度も何度もフォッサ・マグナ(大断層地帯)に沿った破砕帯に阻まれ、多くの犠牲者を出し、それでも技術者たちはくじけず、ついにトンネルを貫通させます。実話に基づいたこの映画を見た中学生の私は、男は土木だと静かに決意したのです。

その映画を見てから8年ほど経っていましたが、実は、そのころにはすでに熱は冷めていました。うすうすというか、はっきりと適性がないことに気付いていたのです。

全員参加のゼミ旅行に、私は仕方なく参加しましたが、他の10数名のゼミ仲間たちは皆はりきっていましたし、私と違って土木技師になることに燃えていました。

鉄道を乗り継いで、前夜に入った竜飛崎の近くの民宿の酒盛りも盛り上がっており、そこまでは私もよかったのですが、翌朝工事現場に入ったあたりからは、私だけすっかり無口になっていました。

まず、ものすごくでかいエレベーターに、ものすごく長く乗せられたと思います。ひたすら下へ下へ、ここが今、地下何メートルであるかとか何とか、建設会社の担当の方が教えて下さるのですが、聞きたくもありません。だんだん顔色が悪くなっていることが、自分でわかります。

エレベーターの扉が開くと、そこは地底基地の活気があり、仲間たちは歓声をあげました。ここからは延々とトロッコに乗ります。「黒部の太陽」で見た光景でした。走るトロッコの横に水柱が落ちてきていました。嫌な予感がして、ちょっと舐めてみると、これがしょっぱい・・・・・海水です。建設会社の人に、

「これって海水ですか。」と聞きました。黙っていると怖かったし、

「そりゃあ君、ここは海底の下だからさあ。カッカッカッカッ。」

みたいなリアクションでした。少し頭が痛くなりました。

それからしばらくして事件は起きました。トロッコが急に、ガッタアアンと停まってしまったかと思ったら、すべての灯が消えました。全部。正真正銘の真っ暗です。今まで経験したことのない闇です。視界はすべて黒に塗りつぶされました。

Kie--- わたしの緊張はピークを振りきり、絶叫していました。夜道で、若い女性が痴漢にあった時のような悲鳴だったと、あとで云われました。聞いたことあんのかと思いましたけど。

誰かがライターで火をつけます。完全に歯の根が合わなくなった私の顔が浮かび上がったようです。皆が励ましてくれました。

そのあとすぐに、電灯がつき、トロッコも動き出しました。聞けば、この現場では、ある意味ブレーカーが落ちるようにこういうことがよく起こるそうで、いってみればこれは日常茶飯事なのだとのことでした。どうしてそういう大事なことを先に言っといてくれないんだろうかと、現場の人を恨みましたが、ダメージを受けているのは私だけでした。でも、死ぬかと思ったわけで。

その夜は、どうしても元気になれない一人の仲間を、皆が元気づけてくれました。友達っていいもんだなあ、でも、この人たちとは、ここで袂を分つのかなと思っていました。

そんなことを想い出しながら、チリの人たちの69日間は、想像を絶することだったんだなと、あらためて考えたのでした。

 

 

 

2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

2009年12月11日 (金)

社員旅行キャンプ

Camp

私の勤めてる会社の話なんですが、ちょっと変わっていて、社員旅行に全員でキャンプをするんですね。昔はもうちょっと普通の社員旅行をやってたんですけど、海岸のロッジ風ホテルに泊まって、夜じゅう砂浜でキャンプやったりしたころから、だんだんその傾向が強くなってきたようで、最近では、去年も、この前も、約40名、南アルプスの渓谷で、まる2泊3日キャンプやって帰ってくるんですね。

何故そんなことになっているかというと、皆、存外これが好きだということもあるのですが、主にけん引している人が二人おります。うちの会社のリーダーというか、現場を束ねている中間管理職というか、普段からペースメーカー的存在である、仮にO君とW君とします。(別に匿名にすることもないんですけど、すぐわかるし)

O君は、少年時代から、バリバリのボーイスカウト出身で、いまでも世界中でキャンプをしていて、こういうことに関して大抵のことでは驚かない人で、アウトドアライフを本当に分かり、愛している人です。W君は、知る人ぞ知る転覆隊の隊員で・・・

転覆隊、若干の説明が必要ですが、サラリーマンたち(主に広告業界)で構成されたカヌーのクラブで、クラブという呼び方が適しているかどうかわからんのですが、普通のカヌー乗りが避けて通る激流ばかりにトライして、年中転覆ばかりを繰り返している隊なのです。ここの隊長という人が、私もよく知っている人なんですけど、転覆隊のことを本に書いたりしているのでご存知の方もあると思いますが、とてもかたぎとは思えないむちゃくちゃ向こう見ずな人なんです。この隊長に鍛えられているW君は、何というかけっこう野蛮なアウトドア派の人なのです。

この二人がリードするキャンプというのは、ある意味本格的でして、ある意味すごく面白いのですが、けっこうハードルが高いのです。

たとえば、2年続けて訪れている南アルプスのそのキャンプ場は、自然のままのとてもきれいなところですけど、私たち社員以外、誰もいません。洗い場と、トイレと、形ばかりのバンガローがあるのですが、それはそれは、何から何まで自分たちでやらねばなりません。キャンプなんだからそれはそうだろうと思うかもしれませんけど、キャンプにもいろいろなレベルがあって、あまり体験したことのない者にとっては、ものすごく新鮮な驚きがあります。いわゆる世間でいうところの社員旅行の、慰安とか、慰労とかいった意味あいは皆無です。全員、ひたすら、ただ働きます。楽しくはありますが。

現地に到着すると、テントを張り、椅子やテーブルを組み立て、屋根も付け、石で釜戸を作って、薪を運び、ある者は猪肉や鹿肉やキノコなど現地調達の食材を集めに走り、ある者は野菜の皮をむき刻み、食材の下ごしらえをし、ある者は火を起こして湯を沸かし見張り、やることは山のようにあります。準備ができたところでメインイベントのメシ作りです。何班にも分かれいろんなものを作りますが、40人分は結構時間がかかります。晩メシが出来上がったころには、心地よい疲労感漂う身体に酒が沁み渡ります。そしてこのメシが、異常にうまい。わけもなく楽しい。

さて、大宴会が始まりました。そこらへんで、すでに力尽きて倒れてしまった奴もいますが、気づくとまた蘇って飲んでおります。他に誰もいない谷あいに持ち込んだフル装備のオーディオ機器の大音響は、真夜中まで響き渡り、焚火の炎はえんえんと燃えさかって、いつまでも宴会は続きます。

やがて、つかの間の朝の静寂が訪れたかと思えば、どこからともなく朝飯の支度の火が起き始めます。皆、若く元気です。彼らの大半は、このあと弁当を持って、けっこうきつい山登りに出かけました。私はというと、何人かで、山をおりたところにあるサントリーのウイスキー蒸留所に出かけ、半日シングルモルトを飲んでおりました。

夕方、山登り組と近くの温泉で合流し、またキャンプ場に戻って、火をおこし、メシを作って、二晩目の大宴会が始まりました。その夜は、ぐっと冷え込み、火を大きくして、しこたま酒を飲みます。労働の後の酒は、またしても心地よくしみ渡っていきます。2日目は、その辺りで倒れている人数も増えております。昼間の激しい山登りを終えた社長は、早々にテントに沈みましたが、なおも大宴会は続くのです・・・朝まで。

しっかし、このエネルギーは何なんだろう。

私は、翌日早々に、この日東京で用事のある人たち数人を乗せて帰京しました。そして帰宅したあと、うちの犬たちと一緒に昼寝しました。爆睡でした。

一方、会社の若者たちは、あとかたずけをした後で、帰り道に富士急ハイランドによって、絶叫マシンに乗り倒し、絶叫しつくして帰ってきたそうです。

次の日が月曜日だというのに…

恐るべきエネルギー・・・・世の中の役に立てたいものです。

 

2009年10月 6日 (火)

舞阪の「シンコ」と気仙沼の「サンマ」

この夏に行った二つの小旅行の話です。一つは夏の初めにシンコを食べに静岡へ、一つは夏の終わりにサンマを食べに気仙沼へ。

メンバーは、私と、仕事の先輩であるKさんとYさんの3人。

ことの始まりは、いつだったかこの3人で飲んでいた時のことです。

私たちは、仕事柄、けっこういろいろなところを旅しているのですが、この国の中でも、まだまだ知らないところがあります。そこで、前々から気になっていて、まだ行ったことのない場所の話になりました。

その時、Kさんが熱く語ったのが、気仙沼でした。たしかに何かで読んだり、誰かから話を聞いたりしたことがありますが、3人とも行ったことがありません。いろいろ話していくうちに、だんだん盛り上がって、なんだか圧倒的に行ってみたくなりました。

よしっ、いつ行くか決めようということになり、話は一気にまとまり、夏の終わりに行くことになりました。こういうことをたくらんでいる時は、みな子供の顔になります。

Kさんは、ごきげんで演歌を口ずさんでいました。

♪港――ぉ、宮古、釜石―――ぃ、気仙沼――――っと。♪

森進一の港町ブルースでした。

後日、Kさんから気仙沼の資料を渡されました。この人はもともとが企画マンのせいか、いろんな資料がでてきます。いつからためていたのか雑誌などの記事がたくさんあります。三陸のリアス式海岸に位置する漁港の風景、海沿いの単線を走るディーゼル列車、そして、港に上がる海の幸の様々、ホヤ、緋衣エビ、カキ、フカヒレ、カツオ、キンキ、サンマ等々、ナマものあり、焼き物あり、なかでも「福よし」という老舗の居酒屋で、秘伝の炭火遠赤外線焼きのサンマの写真は絶品でありました。なるほど、よい資料です。

この資料のなかに、紛れ込むように入っていたのが、静岡の舞阪の「シンコ」の資料でした。Kさんに聞くと、

「これは別企画なんだよ。初夏の企画ね。」

などとニコニコおっしゃる。

これも、読むと面白いんですね。シンコとは、コハダの稚魚で、築地に来る寿司屋さんたちが、初夏に初物を心待ちにしているのが、浜名湖「舞浜のシンコ」なのだそうです。そんな中、地元でただ一人、舞阪のシンコにこだわっている寿司職人がいるというのです。シンコのにぎり寿司は、初水揚げのときは、まだ本当に小さくて、12枚から10枚づけでにぎるそうです。だんだん大きくなるにつれ、8枚、6枚、4枚となっていきます。何枚づけが食べられるのか、急いで電話をしてみました。6月のはじめでした。

「今年はまだ上がってませんね。漁師さんの話では、去年より少し遅くなりそうで、7月のはじめからですかね。」

と御主人。

かくして夏の小旅行企画は、いつの間にか夏の初めと終わりの2企画となりました。

ここから、地元と連絡を取りながら、スケジュールを立て、移動手段を決め、宿泊場所を選んで、どこで何を食べるかをセッティングするのは、私の仕事です。昔、3人で仕事をして、ロケハンやロケに行った時も、それは私の仕事でした。みんなしておっさんになっても、その役割は変わらないのです。相変わらず、私は最年少です。

やはり、たしかな企画をもとに、リサーチを徹底すると、すばらしい出会いが訪れます。

それぞれ、一泊と二泊の幸せな小旅行となりました。

晩夏の気仙沼を満喫した夜のスナック、3人で、あの「港町ブルース」を唄いました。一番から六番までを唄いながら、Kさんのこの企画は、まだまだ続くのだなと思いました。

一、背のびして見る海峡を

今日も汽笛が遠ざかる

あなたにあげた夜をかえして

港 港函館 通り雨

二、流す涙で割る酒は

だました男の味がする

あなたの影をひきずりながら

港 宮古 釜石 気仙沼

三、出船 入船 別れ船

あなた乗せない帰り船

うしろ姿も他人のそら似

港 三崎 焼津に 御前崎

四、別れりゃ三月待ちわびる

女心のやるせなさ

明日はいらない今夜がほしい

港 高知 高松 八幡浜 3nintabi_6

五、呼んでとどかぬ人の名を

こぼれた酒と指で書く

海に涙のああ愚痴ばかり

港 別府 長崎 枕崎

六、女心の残り火は

燃えて身をやく桜島

ここは鹿児島 旅路の果てか

港 港町ブルースよ

2007年7月11日 (水)

屋久島の思い出

Yakushima_2 

先日ある方が、屋久島に旅行をすることになり、ちょっとした情報提供を求められたので、久しぶりに屋久島の知人に電話をしました。4年前にロケに行ったときに、大変お世話になった方で、真津(まなつ)昭夫さんといいます。あいかわらず元気そうな明るい声が聞こえてきました。その日も、屋久島の山のてっぺんから帰ってきたばかりだったそうです。この人は、屋久島のネイチャーガイドの草分け的な人です。この島で行われるロケーションのほとんどのコーディネートをしていて、撮影の知識も豊富です。

4年前のその頃、私共は屋久島の3本の杉の巨木と、この島の自然を題材にして、30分のハイビジョン番組を3本作ることとなり、1週間のロケハンの後、10日間の撮影を敢行しました。真津さんには、その間、何から何まですっかりお世話になったわけです。何しろ本を何冊か読みかじっただけで現地入りし、90分の構成を考えながらのロケハンでしたから、この人なしにこの仕事は考えられませんでした。

真津さんは、本当に屋久島のすべてを知っている人でした。ちなみに、山頂近くの縄文杉までの道を1000往復以上歩いたとおっしゃっていました。縄文杉へ行くには、山道を片道6時間歩かねばなりません。私の場合,ロケハンの1往復で一生分の山歩きをした気持ちになりましたけど。

花崗岩が隆起してできたこの島は、周囲が130km程の面積にもかかわらず、標高1900mクラスの山が連なっています。屋久島の最高峰、宮浦岳は、九州で最も高い山でもあるのです。いかに急勾配な山に覆われた島であるかが、想像していただけると思います。この洋上アルプスと呼ばれる島に吹きあたる風は、海上の水蒸気を山に沿って吹き上げ、冷やされ、霧となり雲となり、大量の雨を降らせます。ひと月に35日雨が降るといわれるのはこうした理由です。

また、温帯と亜熱帯の境目に位置するこの島では、海岸にハイビスカスが咲き、ガジュマルが生い茂り、山の中腹までは、世界に誇る照葉樹林で覆われています。その上の層には、樹齢1000年クラスの屋久杉がいならび、山頂付近には、高山植物が生育しているのです。そんな植物の標本のようなところに、それだけの雨が降れば、どんな島ができるのか。世界でただ一箇所、何千年もかけて実験しているような場所なのです。

そんなことですから、ここの森は、ちょっとすごいですよ。

映画「もののけ姫」にでてくるシシ神の森のイメージは、まさに屋久島の森なのだそうです。この森には、何やら説明のつかぬ不思議な存在のようなものを、感じてしまうのです。

それまで、自然の森林や、山歩きなどとは、無縁のところで暮らしてきましたが、この島で見たものには、明らかに影響を受けました。うまく言えんのですが、自然のこととか、時間のこととか、日々の暮らしのこととか、何だかちょっと考えさせられたわけです。

ロケハンを終えた私たちは、一度東京に帰り、シナリオライター、ディレクター、カメラマンらと打ち合わせをしてから、再度、撮影のために屋久島に向かいました。

10日間の撮影も終盤にさしかかり、いよいよ片道6時間の縄文杉に出発する前日のこと。私は仕事の都合で先に帰京することになりました。あそこまでもう一度登ることに、ややひるんでいた私は、正直、ちょっとほっとしたのを覚えています。情けないことでした。

自然から何か教えを受けたようなつもりになっていても、いざとなると、やはり、大自然とは対極にいるちっぽけな奴でした。

2007/7

2007年7月 3日 (火)

教育とは 学校とはなんだ

固い話で恐縮です。

年が明けてまもなくのこと、大学の建築学科の先生から「変わりゆく教育と学校環境」というちょっとむつかしい講義を受けました。何故そういうことになったかという話からいたします。私の席の隣に学校教育を題材にしたTV番組を作ろうとしているプロデューサーがおります。この人がなかなか熱血パワフルな人で、重松清さんの『教育とはなんだ』という面白い本があるのですが、この本の中の学校建築の話にすばやく反応して、大学の建築の先生に会いに行ってしまいました。そこですっかり意気投合したらしく、またこの先生もけっこう熱血の人で、平日の昼間にもかかわらず弊社まで来てくださり、映像資料まで持参して私どもに対して2時間半に渡る熱い講義をしてくだすったのです。でも、なんだか新年からいろいろ考えさせられるいい話だったのですよ。なかなか手短にはお伝えできないんですが、どうも日頃私たちが常識だと思っている学校の建物の形というのは、この国の長い歴史の中で決まりごとになってしまったもののようです。現在の教育、これからの教育を考えるに、学校建築は今のままでよいのだろうか。世界に目を転じてみると、実にいろんな考え方の、いろんな形の学校があるのです。今さまざまな問題に直面している学校という現場には、新しい価値観が必要なんじゃないか。この先生はモデルスクールを立ち上げたりして、各所で改革を呼びかけられておりますが、新しい試みに対して世間はなかなか積極的ではないようです。この話はさまざまな教育制度の問題にもかかわっています。一筋縄ではいかない大変な話なのです。

20年も前に“ピッカピカの一年生”というTVCM の仕事をしていて、毎年冬から春にかけて日本中の小学校を訪ね歩いていた時期があります。その頃はまだ明治に建てられた小学校がたまに残っておりました。建物としては、すでにけっこうな年代物でしたが、なんだか建てた人たちのこころざしのようなものが伝わってきたのを覚えています。明治といえば、小学校を作ることじたい新しい試みだったはずですよね。学校という教育の現場には、常に新しい風が吹いていていいんじゃないか。なんかそんなこと思ったりしました。じゃあ新しい形ってたとえばどんな形なんじゃと問われてもここでは書ききれんので、そのあたりはうちの熱血プロデューサーが作る番組にゆずります。

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