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2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

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「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

Terayamayamada

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

Okada_3

 

2023年8月 9日 (水)

薄情のすすめ その2

この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。

Shinsengumi



思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。

やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。

Toshizo

2023年7月14日 (金)

薄情のすすめ

“厚情必ずしも人情ニ非ズ
 薄情の道、忘るる勿れ    坂本龍馬手帳より“
 
かつて作家の司馬遼太郎さんが、ある編集者に贈った色紙に、この文言が書かれていたそうで、普通に考えると龍馬語録の中にこのフレーズがあるのは意外な気もしますが。
私が「竜馬がゆく」を読んだのは、20代の終わりか30代になった頃でして、だいぶ前のことで、ある意味危険を含んだこの文言のことは、あんまり覚えてないんですが、このことに関しては、司馬さん自身がこの小説のあとがきに書いておられまして、
「竜馬はふしぎな青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかったが、暮夜ひそかにその手帳におそるべきことを書いている」と。
「竜馬がゆく」は、1966年に刊行された、ご存知の不朽の名作でして、当時それほど知られていなかった坂本龍馬という歴史上の人物を、一気に超メジャーにしました。
司馬さんは、この幕末の風雲期に突如現れ、その役割を終えるとともに天に召されたこの人物にいたく興味を抱き、おそらくその周辺資料をものすごい勢いで読み尽くし、その魅力を小説にされたと思いますが、
「いずれにしても、坂本龍馬のおもしろさは、この語録をもちつつ、ああいう一種単純軽快な風姿をもって行動しきったところである。この複雑と単純のおもしろさが、私をしてかれの伝記風小説を書かしめるにいたったように思われる」と、おっしゃってます。
と、前置きが長くなりましたが、この「薄情の道、忘るる勿れ」という言葉は、ちょっと奥が深いなと思うのですね。
人は、公的にも私的にも何か目的を達成しようとする時、ある意味非情な判断をすることがあって、場合によってはそれも是であるということなのか、いやいや、ま、そんなにわかりやすい話でもないでしょうね。
人の世は、何かと情で繋がっていて、情に厚いということは大事であるけれど、情に流されるということもあり、その辺りの兼ね合いの難しさがあります。
これは人間社会で生きていく上で永遠のテーマかもしれません。

竜馬が生きた幕末は、欧米列強の外圧から、この国がイデオロギーの嵐の中で大混乱していた時代で、そんな時どこからともなく現れたこの男は、どの組織にも属さぬ素浪人の立場で、いくつかの時代のスイッチを押して、向かうべき方向性を示して、またたく間に一気に駆け抜けて行ったわけです。
司馬さんが描いた、この竜馬という主人公は、ただの好青年ということでもなく、自己実現のために我儘で頑固でもあり、人たらしで強引だったりもして、やたら女性にモテたりもするんですけど、ある爽やかな余韻を残して、歴史の舞台から忽然と姿を消してしまいます。
作者はこの人物に関する文献を読めば読むほどに、ある引力のようなものを感じたでしょうか。その中で、「薄情の道、忘るる勿れ」というフレーズは、ある大きな意味を持っているのかもしれません。
坂本龍馬が亡くなったのが31歳ですから、この小説は青春小説でもあります。だいぶ前ですけど、仕事で四万十川を辿って四国山地のてっぺんまで行って泊まったことがあったんですが、この山脈は千数百メートル級の山々が連なっておりまして、けっこう深いんです。山道を歩きながら、その時ふと、龍馬はこの急峻な山を越えて土佐藩を脱藩したのだな、その時26歳かあ、などと思ったんですね。まさに青春です。
それで思い出したわけでもないんですけど、個人的にも、
なんか、この青春小説を読んだ後、34の時、前の会社辞めて独立したんだったなあ。

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2022年5月24日 (火)

スケートの世界決戦は、川中島なのだ

ちょっと前の話になりますが、今年北京で開かれた冬季オリンピックのフィギアスケートで、あの羽生結弦君が、オリンピック3連覇はできなかったんだけど、負傷しながら4回転アクセルにトライして4位となり、その高難度の技に挑戦する姿勢は、多くの観客を魅了しました。
この人は1994年の生まれですから、うちの息子と同い年なんですけど、中学生の時に世界ジュニアチャンピオンになって以来、ずっとトップのアスリートで居続けて、オリンピックも2連覇し、その年齢にしてその道を極めた人ですよね。ただ、常にその位置にいることが、どれくらい大変なことであるのかは、凡人は想像するしかないのですが、えらいことだと思います。
彼が今回のフリーの演技のために選んだ楽曲が、とても格調の高いドラマチックで重厚な曲だったんですけど、その題名が「天と地と」とクレジットされていて、作曲が冨田勲さんとなっていたんですね。それで思い出したんですけど、この曲、私が中学生の時にやっていたNHKの大河ドラマのテーマ曲だったんです。なんでそんな古い曲を羽生くんは知ってるんだろうと思いながら、そうか羽生くんは上杉謙信のことをリスペクトしてるんだ、そういえばこの人、謙信とイメージかぶるとこあるか、そういえば衣装もそんな感じするし、もっとも、そんなことは、羽生くんのファンであればとっくにご存知のことなんでしょうね、などと思いながら、その大河ドラマの記憶を辿ってみたんですね。
1969年でしたか、大阪万博の前年ですね。NHKで日曜日の夜8時から毎週放送されていた「天と地と」は、一年間続く大河ドラマで、上杉謙信の生涯を描き評判になっていました。その前作、前々作は、ちょうど明治維新から100年という節目だったので、「三姉妹」・「竜馬が行く」と、幕末ものが続いたのですが、視聴率がもうひとつだったので、NHKが満を持して戦国ものをということになり、海音寺潮五郎・原作の「天と地と」の制作に踏み切ったんだと、何かに書いてありました。
その頃の日曜日の夜8時、我が家のTVのチャンネルは、わりとNHKに合わされていたと思いますが、全部の回を見てたわけじゃなくて、1969年といえば、私が応援していた阪神タイガースの江夏豊はまだ20歳でしたが、15勝7完封とエース並みの活躍をしており、わりと自分の部屋でラジオの野球中継を聞いていることも多かった気もします。
ただこのドラマは、時々見てはいて、だんだん面白くなってきたんですね。上杉謙信を演じていたのは、まだ若い石坂浩二さんでしたが、当時の中学生から見ると、とてもストイックな天才軍略家と言ったイメージで、滅法いくさに強い智将といった印象でかっこよかったですね。
その強力なライバルとして武田信玄がいるんですが、その両雄が雌雄を決する物語でもあります。
ただ、覚えてはいても、かなり大雑把で曖昧な記憶でもあるので、今回、小説の原作を読んでみたわけですが、上・中・下巻とありまして、なるほど大河ドラマです。
主人公の上杉謙信の出自とその成長が描かれ、やがて宿命のライバルである武田信玄が現れ、そして、その長い対立から雌雄を決する川中島の戦いまで、さまざまな背景を含めて、その歴史が語られています。昭和35年から3年間、週刊朝日で連載されたこの原作は、かなり話題になったようであります。
海音寺潮五郎氏が、本のあとがきに書いておられますが、謙信と信玄は、同時代に存在した好敵手だが、天が作為したかの如く正反対のキャラクターだったようで、小説の題材としてうってつけだったようです。
二人とも、この時代に生まれた人としては、相当深い学問的教養があったようですが、その存在の仕方は、極めて対照的でありました。
信玄は戦術を決定するに、決して一人ではせず、部下たちと意見を戦わせて最後に決すると、それを演習させて、一糸乱れず闘ったと言われます。対して、謙信は一切自分で戦術を決めます。春日山城の毘沙門堂に何日もこもり、思念を凝らして工夫し、決定すると、部下を集めて発表したとあります。片や、よく努力し勉強する秀才的武将と、独断専横の天才的武将の姿が浮かびます。
信玄は、基本的に領土欲のために戦い、その都度、組織を強化して国を治めようとします。
謙信は、精神的理想を実現するために戦い、失われた秩序を回復するために、遠くまで従軍することの多かった武将です。
信玄には多くの側室がおり、従って子も多いですが、謙信は生涯独身だったと云われています。
武田軍は一つずつ確実に陣地を広げていくやりかたで、領地を増やしていきます。上杉軍はどちらかといえば風のように戦場を駆け抜けては勝ち戦を続けると言った形ですが、戦争が終われば去って行くわけです。
武田信玄は、欲望の強い有能な政治家でもあり、奪った領地はよく治めたと言われています。
上杉謙信は、軍人として戦勝にこだわり、常に自身の信念とスタイルを貫いた人かもしれません。領地を広げていく政治家としての執念は、そんなに強くなかったかもしれないですね。
この長編小説を読んでみて、あの羽生君の謙信に対するリスペクトを、確かに感じました。
彼にとっての競技は、謙信にとってのいくさのようなものなのでしょうかねえ。
じゃなきゃ、自分が生まれる前に放送されていたドラマのテーマ曲を知ってたりしないですよね。
なんかよくわかった気がしました。

Kenshin

2022年3月13日 (日)

手書きの手紙

この前、年賀状のことを書いていて、ふと思ったんですけど、そういえば今は、昔に比べて手紙という手段をわりと使うようになっているわけで、まあ多くは、メールとかLINEとかのことなんですけど。
私たちが若かった頃はそういうものはなくてですね、何かを伝えたい時には、ともかく電話の時代でした。そんですべてが固定電話ですから、お互いが居る場所にかける、居なければ伝言を残してかけ直してもらったり、留守番電話に吹き込んだりしてましたが、それでも、いつ手元に届くかわからない葉書や手紙よりは、確実に用件が伝わっていたわけです。途中でFAXというものが登場して、これがなかなか便利だったんですけど、これに関しては、用件が相手に届いたかどうかが確認できないという弱点がありまして、まあ、電話の場合も、言った言わないということもあるんですけどね。
私、若い時にやっていた仕事が、テレビコマーシャルの制作進行でしたから、毎回かなりの数のスタッフに、たくさんのことを相談したり、連絡をしたりしなければならなくて、基本的には大人数のスタッフを一箇所に集めて打ち合わせするんですけど、そこでこぼれる話は、個々に会ったり、電話してフォローするんですね。そういうことを繰り返してますから、スキルとしては、ともかく相手を捕まえる能力と、話をする能力が鍛えられます。先方にこちらの意図を、ある精度でいかに短時間で伝えられるかを、いつも試されているわけです。
そういうことなんで、キャラとしては、なんだか妙にしゃべくり上手な芸風になっていくんですね。
ただ、この業界は、忙しい人はメチャクチャ忙しくて、そういう方とは、なかなかゆっくり打ち合わせもできないみたいな側面もありまして、お会いしたり電話する前に、あらかじめ伝えたいことを手紙にして届けておくということをするようになります。この手紙は、文面のわかりやすさと文字の読みやすさも大事な要素になり、これの良し悪しが、その後の打合せの精度に影響したりします。これは、こちらの頭をあらかじめ整理しておく意味でも有効なわけです。
手紙というのは、こちらが伝えたいことを、ある程度落ち着いて受け取ってもらえるツールだし、いろいろなニュアンスを織り込むこともできます。面と向かって熱く語りながら、早急にものごとを前に進めてゆくのも良いのですが、手紙を託したり、受け取ったりしながら意図を伝え合うのも、悪くないコミニュケーションではあります。
もっとも、ご存知のように今の時代、伝達のとっかかりはメールとかLINEとかですよね。まず話すんじゃなく、何らかの文を読んでもらうことからやりとりが始まる。全員スマホを持っていて、いつでも直接本人に電話はつながるんだけど、相手がすぐに話せる状況かどうかもわからないから、まずメールして要件を伝えることが多いですよね。急いでる時は、いきなり電話することもありだけど、まあいろいろコミュニケーションの選択肢も増えているわけです。隣の席なのにメールしてる人もいますよね。


それはそれとして、仕事に限らずですけど、たまに手書きの手紙をいただくと、なんだか嬉しい心持ちになりますね。例えば、尊敬する目上の方などから、達筆のていねいなお手紙いただいたりすると、ほんとに感激します。その方の筆跡に、それを書いておられる時の、空気感すら読み取れる気がするのですね。
そんなふうに感じているものですから、自分でも、何か気持ちを伝えたい時とかには、なるべく手書きの手紙を書くようにしておりまして、しかしながら、昔から字を書くのは下手くそで、なかなかの悪筆なものですから、多分、パソコンで打って印刷した方が、よほど体裁も良いのですけどね。

まあ、この歳になれば、これから鍛錬しても急に上手になる気もしませんし、字面というのはある意味個性だという話もあるし、これも味ということで、、、などと自己弁護しております、はい。

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2022年2月18日 (金)

年賀状という習慣

2022年という年も明けましたが、すでに2年にも及ぶ厄災は未だ収まらず、ウイルスはさらなる進化を続けているようです。我々としては、ともかく、感染のリスクを避け、あまり出歩かず、うちに籠る暮らしですね。
一月になって、年賀のご挨拶に出かけるでもなく、いただいた年賀状を見返したりして過ごしておりましたが、このところ長くお会いしていない方も多く、なんとなく年賀状で安否を確かめてるようなところもあります。
そういえば、年賀状の習慣ていつごろからなんでしょうか。自分が子供の頃から、大人たちは年の瀬になるとせっせと書いていましたし、正月の郵便受けには、束で届いているのが風物詩でした。個人的には、自分から進んで書くような若者でもなかったですが、社会に出て、お世話になっている目上の方や、しばらく会えていない友達などに、書くようになってくるんですね。その頃、年始の挨拶や年賀状の習慣は、今よりもずっと一般的でしたし。
そうこうしているうちに、人の付き合いは増えていきますので、気がつくとかなりの枚数を出してた時期もありましたが、だんだん疎遠になって途切れる方もいらっしゃいます。そもそもこの慣習にあまり積極的じゃなくなってきた世の中の風潮もあります。新年という節目にあんまり特別感を抱かなくなっていたり、わざわざ年賀ハガキを買って、宛名を書いて送らなくても、メールでもLINEでも、お年賀の挨拶できますもんね。
ただ、お正月の郵便受けに年賀状が束で入っていると、なんだかやっぱり嬉しいのは、長年の習性からでしょうか。その束を抱えて炬燵に座って(今はわりと炬燵はないですけど)一枚ずつながめて、いただいた方の顔を浮かべると、なんともいえない安らぎがやってきます。
そういうこともあって、長年、賀状のやりとりさせて頂いてる方にも、近年にお付き合いの始まった方にも、基本的には賀状をお出ししております。毎年、先方に元日に届くよう年末のうちにきちんと発送しておく性格でもなく、いつもちょっと遅れめではあるのですが。
枚数は徐々に減少傾向にありますが、やはりどうも、これをキッパリやめにしてしまうのもためらわれます。私どもの年代では、本年をもちまして年賀状のご挨拶は終了させていただきますと、記載される方もあり、それもすごく納得できますし、できればそうしたいくらいでもありますが。
そもそも若い人にはその習慣はあんまりないようですし、ゆくゆくは世の中からなくなってしまうのかもしれませんね。この先のスマホの普及率を考えれば、新年の挨拶はそれで十分で、手間もかかりません、絵文字でアケオメとか云って。お正月のお年賀の意味もちょっと変わってくるんでしょうか。
ただ初詣には、みんなわりとちゃんと行くんだけどね。雑煮も食べるし。

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2021年9月10日 (金)

オダギリさんの本

先日、本を一冊いただきまして、その本にすごく重要なことが書かれていて、個人的に実に響きましたもので、その話です。
『小田桐昭の「幸福なCM」。日本のテレビとCMは、なぜつまらなくなったのか』
という本です。
この本を書かれたオダギリさんは、言わばこの国の広告業界の巨人でして、私がこの仕事を始めた頃、1977年くらいですが、この世界では誰でもその名前を知っている人でした。
1938年のお生まれですから、今年83才。1961年にこの仕事を始められています。その頃、テレビの広告は生まれたばかりでして、それからオダギリさんは、今でも多くの人達が覚えている有名なキャンペーンを、たくさん手がけられました。それらの仕事の経緯も、この本にいろいろ紹介されています。
テレビというメディアが出現し、広告を含めた民放という仕組みが活況を呈していく中で、様々なテレビ広告が生まれて、その全盛期が描かれてますが、それと同時に、現在につながる長い時間の中で、その時代が失ったものや、変容してしまったものが語られてもおります。
「なぜつまらなくなったのか」というのは、その辺りのことです。
テレビCMができたあたりから今日までの間、常に第一線におられ、今も現役で仕事をされている方の、貴重な体験談でもあります。
本の中に、「日本のCMを育てたのは誰でしょう」という話が出てきます。
答えは、「お茶の間の人たち」なんですが、CMやテレビのエネルギーというのは、当時の新しい情報や表現を、何でも吸収してしまうお茶の間の人たちの欲望が生んだという話なんです。
この国の住居の真ん中にはお茶の間があって、ある時そこにテレビがやってきました。私もまさにそのお茶の間で育ちましたからよくわかりますが、お茶の間のテレビに対する好奇心は凄まじく、テレビ側もお茶の間が面白がって望むものは、なんでもやってみようという背景がありました。60年代に始まったこの現象はますます勢いを増して、この本に書かれている、70年代80年代の幸福なCMの仕事につながるのです。私も個人的にはなんとかギリギリその時代の後半に間に合ったCM人の一人ということになりますが。
それから様々に変化する世の中で、この業界にもいろんな時代がやってきます。そして今に至れば、その風景もずいぶん違ったものになりました。それが具体的にどんな風に変わっていったのか、この本を読むとよくわかります。
ただ、私がこの仕事を続けてこられたのは、ある意味あの幸福な時代に仕事に出会えたからじゃないかとも思っています。

考えてみると、オダギリさんは、この幸福なCM時代を象徴する方でして、世の中を動かすようなたくさんの良質な広告を発信し、またそのレベルをクリエーターとしても、マネージメントとしても、ここに至るまで守り続けてこられました。そのことは、本当に多くのこの業界の人達、後輩達が認めるところで、誰も異論を唱える人はいません。

思えば、広告業界のことなど何も知らず、全くひょんなことからこの世界の片隅で働くことになった私も、オダギリさんのお名前はよく聞きましたし、たくさんの名作のことも存じておりました。ある意味伝説になっている部分もあり、いろんなエピソードも一人歩きしています。一体どんな人なんだろうと想像を巡らせていたのですね。
北海道の利尻島の出身で、柔道の黒帯ですごい腕力で、蟹が大好物だからどんな蟹でも甲羅を手掴みで割って食べる人だとか、いつも穏やかな笑顔の人だけど、その眼だけは笑っていないとか、いろいろと尾ひれのついた話を聞くことになります。
そしてそれから何年かして、実物のご本人にお会いすることができたんです。オダギリさんの部下で私と同年代のN山さんが会わせてくださったんですが、確か酒席だったと思います。
これが尊敬するオダギリさんだと思うと、緊張したのを覚えておりますが、そのお話が深くて鋭くて痛快で、またすごく面白くて楽しい時間で酒も美味しくて、やはりただもんじゃない人なんだなと思ったんですね。
ご縁ができて、それから時々お会いする機会ができ、長きにわたって仲良くしていただいてるんですが、個人的には、そのことは、ほんとに嬉しいことなんです。

本の中でも触れられていますが、90年代に入って広告を取り巻く環境に、大きな変化が起こります。情報と技術の均一化が進み、商品の均一化も進んで、あんまり商品に差異がなくなったんですね。そうなると商品を選ぶ基準は、その会社が「良い会社」かどうかということが重要になります。いわゆる「ブランド」をどう作るかなんですね。この「良い会社」というのは人に例えるとわかりやすくて、いわゆる「いい人」なんです。
でも、一言で「いい人」と言っても難しいですね。正しくて真面目であることは当然大事なんですけど、ただ正しい話って退屈だし魅力ないですよね。 昔、大滝秀治さんが「お前の話はつまらん!」と怒鳴るキンチョーのCMがありましたけど、そういうことなんです。
ブランドを人格化したとき、求められるのはどんな人かなと考えると、困ったことを解決したい時に、相談したくなるような人かなと思うんですね。誠実で熱心で真剣で、懐が深くて、しぶとくて強くて、賢くて大人で、ユーモアのレベルの高い人、ただ真面目じゃなく遊びも知ってる人、、
いろいろ考えると、オダギリさんみたいな人になるんですが、
そんなオダギリさんから、夏にこの本をいただきました。


「立派な本ではありません。むしろ恥しい本です。
 若い人に向って書きました。お節介ですけど。
 読んでいただけると嬉しいです。」
という小さな手紙がついていました。

ほんとに若い人に読んでほしいです。

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読んでいて、たくさん心当たりがあって、反省もあって、
でもこうすべきだなということがあって、
幸福な仕事に出会うためのヒントに溢れています。
いや、響きましたもんで。

良書です。

 

 

2021年2月 1日 (月)

100年という時間

緊急事態宣言下、人に会えない日々が続いております。こういう時は、体を動かすのも、考え事をするのも、なにかと自己に向き合うことになります。
それはそれで悪いことじゃないんですけど、
「久しぶりに、一杯やりますか。」というフレーズが封印されて、長くお会いできてない方の数が、どんどん増えております。
そんな中、長いこと仲良くしていただいているヤマちゃん先輩から、本を一冊いただきまして、先輩は昔から、急に何かをくださることがあって、それは本だったりいろいろなんですけど、ネットで買ったゴルフシューズがちょっときつかったからと、3足いっぺんにいただいたこともあり、そんなことはいいんですけど、この度いただいたのは、
「日本を決定した百年・吉田茂著」という文庫本でして、同じのをもう一冊持ってるからあげるということで、ありがたく頂戴いたしました。
他にたまってた本もあって、しばらく置いといたんですが、先日読み始めてみると、興味深い本でして、いろいろ考えさせられることがあり、なかなかに知的なプレゼントでありました。

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これ、どういう本かというと、戦後の名宰相といわれた吉田茂が、1966年にブリタニカ百科事典の巻頭掲載用として書いた論文でありまして、それまでの日本の100年の歴史を分析解説し、この国の将来に向けた考察を加えています。吉田さんは、この本が出版された1967年の10月に亡くなっていますので、奇しくも遺言のような意味合いもありますね。
この方は、1878年のお生まれですから、明治からの100年をほぼ一緒に生きた人で、政治家としてその歴史の意味を論じておられるわけです。この本を読んで、あらためて思ったことは、この国は、このたった100年の間に、あまりにも多くのことを経験しているのだなということです。
幕末の開国を機に倒幕運動に火がつき、江戸幕藩体制が瓦解し終焉します。1868年の明治維新からは、欧米の制度、文明を取り入れ、国を挙げての富国強兵が進み、明治の半ばには大陸における国際的な摩擦から、日清戦争・日露戦争が起こり、それには勝利しますが、大正期昭和期には、世界的な帝国主義、領土拡大の流れの中で、アジアにおける派遣を賭け、太平洋戦争、第二次世界大戦へと参戦、多くの人的、経済的犠牲の上に敗戦。そして、GHQによる占領、戦後社会への改革、新憲法の公布、サンフランシスコ平和条約締結、占領からの独立、経済復興、東京オリンピック。
これだけのことが、このおよそ100年の間に起きておるわけです。
その上で、百年の歴史から学ぶべきことを学び、この国が向かうべき方向を語った本と云えます。
明治11年に生まれた吉田は、外交官になり、駐英大使などを務めます。太平洋戦争前には開戦阻止を目指し、開戦後は和平工作に従事しますが、その活動が露見し、憲兵隊から拘束後、投獄。その後釈放され終戦を迎えます。
終戦直後の内閣で外務大臣、1946年5月、総理大臣となりますが、この時すでに67歳。1951年のサンフランシスコ平和条約締結の署名をした時は、72歳でした。

読後、考えさせられたことは多々ありますが、正直、最も強く感じたのは、100年という時間のなせるわざについてです。この時間が、果たして長いのか短いのか。100年という時間は、いずれにしても世の中を全く変えてしまいます。
ちなみに、私が生まれたのが昭和29年、戦後10年くらいですが、その100年前ということになると、1854年でして、この年はアメリカからやってきたペリーが幕府に開国を迫った年なのですね。これは教科書にも書いてある歴史の話なわけです。
最近、人生100年時代なんて云われていて、現に100年を生きる人は増えつつありますけど、もしも私が100まで生きたとして、生まれた時から見れば、それはそれで異次元の世界ですね。
どうも私たちが暮らすこの星は、この200〜300年の間に急激に変化しており、それがますます加速しているような気がします。何かで読みましたけど、地球規模で歴史が大きく変化し始めるのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命以後で、この辺りから社会の形が急速に変わってきたようですね。例えば、地球の人口でいえば、1802年に10億人だった人口は、現在80億人に近づいており、私が生まれた頃の世界人口の倍を超えております。
今、地球上で、人類がえらいことになっているコロナ禍も、その急激な変化のひとつなのかもしれません。そして、今からちょうど100年前に、やはり世界規模でスペイン風邪が蔓延しており、この時も人類は大きなダメージを受けました。これもまた100年という時間の不思議でしょうか。

生命体としての地球の時間で言えば、100年て、まばたきくらいの長さだといいますけど。

2020年12月10日 (木)

「屋根の上のおばあちゃん」という本

本日は、最近出版された新刊本を一冊、ご紹介いたします。
河出書房新社より10月29日に発売になりました「屋根の上のおばあちゃん」という本です。
これは、この春に第一回京都文学賞の優秀賞を受賞した小説でして、京都の太秦(うずまさ)を舞台にした、あるおばあちゃんの半生が描かれております。そのストーリーには、活動写真や弁士やフィルムやその現像の話などが、大事な要素として関わりあっておりまして、涙あり笑いありちょっと考えさせられるところありの、ハートウォーミングな物語となっております。

そこで、この本がどのような経緯で世に出たかについて、ちょっと解説しますね。
まず、小説の著者の藤田芳康さんという方は、長年にわたり私たちの仕事におけるパートナーであり、友人でありまして、かれこれ30年にも及ぶお付き合いになります。
私たちが映像制作会社を立ち上げたその頃、彼は30歳くらいで、ある食品企業の宣伝部員でコピーライターでCMプランナーでありました。ひょんな事から私たちと出会い、そこからいきなり飲料のCMをたくさん制作することになります。我が社の担当プロデューサーは万ちゃんPです。それからしばらくして、藤田さんは企画だけでなく演出も手がけるようになり、いろいろな傑作CMを演出家として一緒に作ることになっていきます。
この人が突然に演出という仕事ができたのには、それなりの理由があるんですが、まず広告の仕事をしながら、実に多くの映像作品を研究していたことがあります。映画も、ものすごい本数を観ているし、鈴木尚之さんという有名な映画脚本家のお弟子でもあり、シナリオを書く勉強を長く続けていました。
そんな中、1998年、彼が執筆した「ピーピー兄弟」という脚本がサンダンス国際映像作家賞を受賞するんですね。やがて2001年、機会を得て藤田芳康監督・脚本の映画「ピーピー兄弟」は制作公開されました。当然の如く、私たちもお手伝いすることになります。
それから後も、彼は広告の仕事をしながら、脚本を書き続けていました。時々読ませてもらってましたが、そのシナリオには独特な世界観があり、ものによっては小説にしてみたらどうかと話したりもしてたんですね。そんな中に「太秦ー恋がたき」という話がありました。
彼はCMディレクターとして、長くその企業の日本茶の商品を担当していて、その企画の舞台はすべて京都だったんですね。彼は大阪の出身ですが、そんなことで京都のことはかなり研究していました。そこに、大好きな映画の話を絡め、自身のおばあちゃんのエピソードを交えて、「太秦ー恋がたき」というお話ができていったようです。
昨年の秋頃に、この小説の原型を読ませてもらい、最近新設された京都文学賞という賞に、この小説を応募したいと聞いた時に、これはひょっとすると獲れるんじゃないかと思ったんですね。実際にはずいぶんたくさんの作品が応募されたようですが、今年の1月に最終候補の5作品に残ったというニュースは快挙でした。
それから今年のコロナ禍の中、小説「太秦ー恋がたき」は京都文学賞・優秀賞に正式に受賞が決まり、4月に授賞式がありまして、河出書房新社が出版に手を挙げます。編集者との打ち合わせが続き、半年ほどして題名は「屋根の上のおばあちゃん」になりました。「太秦」では、読者が、地名とわからなかったり、読めなかったりすることも考えられるからだそうです。そんな流れで本として完成し、10月の末に書店に並んだわけです。そして、11月の28日に、この本が京都の丸善で1位になったとの朗報が入りました。
小説が一冊の本になるには、実に時間もかかり、いろんなプロセスがあるもんだなということがよくわかりました。

ともかく、なかなか良書なんで、是非読んでもらえたらと思います。

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2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

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そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2018年11月 7日 (水)

創立30周年記念作品集

私事でなんなんですが、と云っても、ブログなんだからもともと私事なんですが、私の勤める会社が、今年の10月で創立30周年を迎えまして、私も最初からいたんで、会社が出来てから、30年経ったてことなんですけど、ちょっとあらためて、その膨大な時間に唖然としたわけです。そりゃ無事に存在できたことは、目出度いし、祝うべきことなんでしょうが、なんだかその実感というのが伴わないんですね。

ちょうど30年前というのは、1988年、思えば昭和の最後の年でしたが、仲間6人で、六本木の小さな一軒家で仕事を始めました。仕事はTVCMなどの映像制作で、会社の名前は、なんだか偉そうじゃないのがいいねということで、「spoon」としました。

そこからここまで、、まあ冷静に考えてみれば、たしかにいろいろあったわけで、創立当時40才だった社長は、今や名誉会長になり、今年古稀を迎えておられます。私だって34才でしたから、今は足す30ですからね。

ともかく、年月というのは、容赦なく分け隔てなく、流れていくもんです。

 

現在、社員は50人ほどおりまして、1年くらい前から、30周年には何か記念になることをしようという話になり、その一つとして、創立30周年記念作品集をつくることにしたんですね。まあこれは作品集なんで、毎年一冊作ってるんですけど、今年は一昨年から作品集の題名にしている「たべること、つくること」をテーマにして、ちょっと豪華版をつくることになったんです。

うちの会社は、映像など、モノをつくることが仕事で、そのあたりのことはプロとして当然詳しいわけですけど、なんだか、たべることにもすごく関心が高いんですね。

こっちの方は仕事ではないので、わりと趣味的に楽しんでるところはあるんですけど、なんかすごいプロ仕様のキッチンがあったりするわけです。

そういう流れの中で、この5年くらい、ある食の達人に加わっていただいて、週に一回「水曜食堂」という名のランチタイムを開いており、今回の記念作品集は、これを特集して取り上げようということになりました。最強のクリエイティブディレクターと、一流の編集者やデザイナーやイラストレーターやカメラマンに手伝っていただいて、一冊の作品集という名の冊子をつくることになったんです。

自画自賛となりますが、みんなの熱意で、これがなかなか良い本が出来上がりまして、創立記念日の10月4日には、お世話になった皆様に約800冊を発送いたしました。

その本の中に、私なりに30年を振り返って、文を載せました。

以下

 “私たちの流儀”

30周年というのは、なんだか他人事のような気もするんですけど、よく考えてみますと、ここまで歩いてきたspoonの時間というのは、たしかに存在するわけであります。

なにか環境を変えて、新しいことにトライしたいという思いで、小さな船を漕ぎだしたのが、30年前でした。現実はなかなか厳しかったですが、本当に多くの方々に支えていただきながら、少しずつ自分たちなりの存在感を作れてきたかとも思います。

たくさんの得難い仲間もできました。いろいろな理由で、袂を分かっていった人達もいます。会社というものは、一時として同じ形をしていることは無いのだな、ということもよくわかりました。ただ、しだいに、spoonの個性のようなものは少しずつ定着してきたと思います。

そんな中で、いつの頃からか「たべること」というのは、私たちにとって大切なことになってきたんです。厳密には、食べること、飲むこと、食べものを自分たちで作ること、そして、それを通じて人と触れ合うことなんですが。

誰かに何かを食べてもらうプロセスは、日頃私たちが仕事としている、映像を作って誰かに届けるプロセスと、非常に似通っています。まあ、言ってみれば、本業も趣味も同じようなことをしている人たちということなのです。

食べもののことも、映像のことも、ここの人たちは本当に好きで、そのことであれば、いつまででも話をしています。この環境は、意図してそうしたというより、いつのまにか自然とそうなっていました。気がつくと、ちょっとびっくりするような燻製窯や焜炉台が屋上にできていたりするんですね。

つくづくそういう人たちが集まってるんだなと思いながら、spoonにも、同じ釜の飯を食いながら、人が育ってゆくフィールドのようなものが少しずつできてきたのかなという気がします。

モノを作る場所には、人が集まってきて、そこで人が育ってゆくのですが、spoonにとって「たべること」という要素は、そこに大きく関係しているのかもしれません。

何年か前に見つけた「たべること、つくること」というフレーズには、実に我々らしい深みのある意味合いが込められています。

それは、ひょっとして、大げさに云うと、僕らの“流儀”のようなものかもしれません。

長くこの仕事をやってきて思うのは、この仕事は面白いけど決して簡単な仕事ではないということです。いつも難問が待ち構えているし、ハードルは毎回高くなっていきます。それだけに乗り越えた時の喜びも大きいのだけれど、悩みも深く孤独な局面に出くわすことも多々あります。そんな時、僕らのモノを作る時の“流儀”に返ってみることは、解決のきっかけになるかもしれません。

さて、考えてみると、30年という時間は、大変な時間ですね。赤ちゃんが生まれて30才になってるわけですから。

それに、世の中的には、30年続いた会社は、けっこう珍しいのだそうです。

じゃあ、30年で会社は何を残すのか。僕らの会社の場合、映像の原版というのがあります。ものすごい数ですが、これは歳月でいずれ破棄され風化します。お金が貯まったか。それほどでもないし、なんかあればなくなります。所詮天下の回りものですし。

人材はいます。でも、これも時間とともに、入れ換わります。

そう考えてみると、さっきの“流儀”みたいなものは残るかもしれませんね。

これはある意味“イズム”みたいなもんですからね。

30年目、私たちが掲げているのは、「たべること、つくること」

これ、意外に持つかもしれません。大事にしましょ。

Tatsujin

 

 

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

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2018年3月22日 (木)

二合句会

「二合会」という会があって、何年か前から参加しておりますが、要は5人ほどのオッサン達が集まって酒飲んでる会なんです。そもそもどうして始まったかと云えば、僕らの業界の、ある大先輩が広告の会社をリタイアされてしばらくした時に、同じようにリタイアした仕事仲間で、たまに集まって飲もうかと云うことが、きっかけだったようなんですね。

それを始めたお二人の大先輩が、これからはちゃんと健康にも留意して、しっかり歩いて集まって、酒量は二合と決めようというふうにおっしゃって、「二合会」というネーミングになったんです。そのお二人が自宅から歩いて丁度よい神楽坂の毘沙門天に夕方5時半に集合するのが慣わしとなり、まあ建前としては、二合飲んだらおしまいという会なわけなんですね。最近ではビールと焼酎は別だとかいう話になったりしてますが。

私は厳密に云えばまだリタイアしてないのですが、まあお前も仲間に入れたるから来いということで、酒好きの特権で参加させていただいとるんです。そんな私を含め、今のところ基本5人のメンバーなんですが、現役時代は、あまり気軽にご一緒するのも憚られる大先輩方でしたから、この会で少しは慣れ慣れしくお近づきになれ、それはそれで嬉しくはあるんですけれども。

集まるタイミングは、これも特に決まってはいないのですが、なんとなく季節の変わり目にやるのが習慣になっております。

この会にちょっとした変化があったのが、一昨年の夏だったんですけど、ある時いつものように飲んでいたら、なんか俳句の話になったんですね。それは、「二合会」の中心メンバーのT先輩が、いくつかの句会に入っておられて、俳句の活動をされており、その話をうかがっておったところ、同じく中心メンバーであられるK先輩が、

「次の会から、俺たちもやろう!」と鶴の一声が出まして。

ちなみに、T先輩は元コピーライターで、K先輩は元アートディレクターなんすけど。

まあ、このお二人が決められたことには、ほかの3人は逆らいませんので、とにかくやってみようということになったんです。

もちろん、日本人ですから今までに俳句というものを読んだことはあるんですけど、自分で詠んでみようという気はサラサラなかったのですね。

ただ、それ以降、「二合会」は「二合句会」と名を改めることになりました。まあそれほど大げさなことではなく、いつもの飲み会の初めの小一時間ほどが、句会になっただけなんですが。

どんなふうにやるか簡単に説明しますとですね。

まず、このT先輩に師匠になっていただき、師匠の俳号は「三味先生」といいますが、我々も皆、俳号を決め、句会ではその名で呼び合いますね。そして、春夏秋冬に一回ずつ会を開きまして、その会の約一月半くらい前に、三味先生から兼題という形で季語の提案があります。その兼題を詠みこんだ句も、自由に詠んだ句も含めて1人が3句、句会の一週間前に先生に提出します。これはメールで送ることになっておりますが、そこで5名で15句が揃うわけです。句会の当日には、誰が詠んだのかわからない状態で、先生が15句を書き出して下さっています。会が始まりますと、一人一人がよいと思った句を自選はせず4句選んで投票し、その句を選んだ理由を述べます。つまり、20の票が15の句に投票されるわけです。それから、票を多く集めた句から順に詠み人が知らされ、作者はその句を詠んだ背景や心情などを述べます。

そのような小さな句会なんですけど、いざ俳句を詠もうとして考え始めると、意外や結構悩むもんでして、たった17文字に、いかに言葉を託するかやってみると、深いんですわ、これが。

そんなことなので、いざ票が入って、どなたかがこちらの意図を判って下さったりすれば、やはりちと嬉しいし、全く票が入らなければ、伝わんなかったんだと、ちとがっかりしたりして、なんつうか小さな一喜一優があるわけなんです。

この句会が7回、7季節続いてるんですが、じゃ、どんなもんを詠んどるんじゃと云われればですね。たとえば、この前の、私の春の二合句会の3句とその評価なんですけど、、

 

・夜気温み寄り道照らす朧月

これ、めずらしく4票いただけ満票だったのですが、師匠からは、「温み」と「朧月」が、季重なりであるとの指摘を受けました。そうかあ、未熟でした。

・出遅れて土手の名所は花吹雪

これは、1票だけいただきました。それともう1句は票が入りませんでしたが、

・吹き上がるトリプルサルコウ春一番

これは、ちょうど先生からの兼題に「春一番」が出題された時に、オリンピックのフィギアスケートを見て興奮してたもので、ちょっといいかなと思ったんだけど、空振りでした。

Toripurusaruko

 

この程度で、俳句やっておりますなどとは、とても申せぬお恥ずかしい限りなんですが、季節毎に一度、「二合句会」の日程が決まると、ちょっとやる気になったりしておるわけであります。

ちなみに、私、俳号は、師匠の「三味」先生より一字もらいうけ、「無味」と称します。はい。

2017年2月24日 (金)

開脚ストレッチ大作戦

わたくしこと、身体が硬いということにおいては、人後に落ちない人でして、このことには自信すら持っておりますが、何の自慢にもなりませず、むしろ引け目と申した方が正しいかと思います。

これはずいぶんと昔からでして、体育の時間に柔軟体操などをしておりますと、よく

「ふざけてないで、真面目にやりなさい!」

などと、注意されたのですが、本人はいたって真面目にやっているわけです。

たまに、旅館などに泊まった時に、マッサージの方に来て頂くことがありますが、必ずといってよいほど、

「からだ、かたいですね。」と云われます。

いわゆるギックリ腰というやつも、30代半ばでやってまして、これはそこまでに積み重ねた不摂生も起因してるんですけど、身体の硬さも大きいと思われます。

もっとも、もともと硬いうえに暴飲暴食暴喫煙に睡眠不足を重ね、その硬さに磨きをかけてしまったふしもあり、何度目かにギックリやった時にかかった鍼灸治療師のトーゴーさんには、その後長いことお世話になることになるんですが、この人からは、

「おまえの背中には、鉄板入ってるのか?」と云われました。

それからギックリ腰に対する恐怖は少し教訓になったので、多少の運動とストレッチのようなことはやるようにしてるのですが、基本的なこの体質は、きちんと改善されることは無いままです。

そんな去年の秋ごろ、今や私の大切なお友達のAZ先輩から、

「『ベターッと開脚』できるようになる本を知ってますか?」

と云われ、全く知らなかったんですけど、

「その本、今度会う時に一冊あげるから、一緒にやってみよう、開脚!」と誘われ、

あ、そうそう、このAZさんも、ものすごく身体が硬いんですね。

ともかく、一緒にやってみることにしたわけです。

聞くところによると、この本は、すでに何百万部か売れてる大ヒット本で、気が付けば、大きな本屋さんの目立つところにドカンと平積みしてあります。

この本書いた人は、大阪のヨガインストラクターのちょっとスタイルのいいわりかし美人のおばちゃんで、その後ときどきテレビで見かけるようになります。

すごいのは、この本に書いてある指導に従って、開脚してベターッと胸を床に付けれるようになった人が続出していることなんですね。ま、そう書いてあるし、そういう人たちの写真も載ってるわけです。

それと、もう一つすごいのは、そこに書かれてるやんなきゃいけないストレッチが、一日5分くらいの実に簡単なことだということで、これは、AZさんも力説しとられます。

「これなら、僕にもできるかな。」と思ったんですね。

そこで次の朝から始めました。カミさんのヨガマット借りて、あとはタオルが一本必要なだけで、全くたいしたことではないんです。当然やってる間はちょっとあちこち痛かったりしますが、あんまり痛くすると逆効果だと書いてあるし無理はしない、だいたい5分かそこらですしね。やってると犬が寄ってきて邪魔するんですけど、その間は廊下から閉め出しとけばよいわけです。こんなことで、ほんとに開脚できるようになるんじゃろかと思いつつ、だまされたと思ってやってみたわけです。

 

それで、結果から申しますと、全く開脚できるようにはなりませんね。私の場合、やっぱり筋金入りに身体が硬いようです。1300円の本で開くようにはならないんですね、やっぱり。

ただ、負け惜しみじゃないんですけど、これ何だか身体には良いように思います。ちょっと身体のあちこちがシャキッとする気がするし、ランニングで痛めてた膝もちょっと良くなった気がするし、とりあえず、まだ続けてはおります。まあ5分かそこらですし。

それからしばらくして、AZさんと飲んだときに、

「開脚できるようになりましたか?」と尋ねたんですけど、

AZさんも、やっぱり開かないようで、この方もやはり筋金入りだったみたいで、またしてもお互いに仲間意識を強めたようなことでした。そして、

「脚は開かないんだけど、これやってると、身体になんかシンが入るような気がして、続けてはいるんですよ。」と、私と同じようなことを、遠くを見るように申されました。

 

その後、あらためてこの本見て思ったんですけど、この本に載ってる開脚できるようになった成功者の写真は、みんな、おばさんかおばあさんなんですよ。

このストレッチっておばさん向けってことないかなあ。どうなんですかねえ。

おじさんとしては。

 

Stretch_2

 

 

2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2015年7月30日 (木)

司馬先生の受け売りですけど 後篇

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この前は明治国家が誕生したとこまででしたが、この時期、多分日本中の人々が、一部の知識層を除いて、自分達が日本国民であるということを認識してなかったですね。

それまでは、自分は百姓であったり、漁師であったり、商人だったり、○○藩の侍だったりはありますが、外国のことをあまり意識することもなかったし、日本であるとか国民であるとか、あんまり思ってなかったと思います。でも、明治になってからは、そのあたりのことが、それぞれの人々の人生とかに、大きくかかわってくるんです。

まず藩というものがなくなり、そこに仕えていたお侍たちは職を失い、中央政府に雇われた役人以外は仕事がなくなりました。士農工商という身分も解体されまして、もともと武士が起こした革命だったはずが、新しい世の中には武士の居場所がなくなっちゃったんですね。

かたや新政府は、新しい秩序を作るべく、1871年には、先進国へ向け岩倉使節団を派遣します。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名です。その期間は2年近くに及び、それから富岡製糸工場開業、徴兵令発布と、着々と富国強兵を急ぎます。

しかしながら、中央政府に置き去りにされた感のある武士たちの不満はつのり、その魂の行き場所は、すでに鹿児島に下野していた西郷隆盛のもとへということになりました。1874年佐賀の乱、1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て、1877年明治十年二月に西南戦争が勃発します。旧武士軍と、新政府の徴兵制によって新たに集められた軍隊との戦いになりましたが、その年の九月、西郷は自刃し乱は平定されます。そして、皮肉にも新政府を率いて薩摩西郷軍と敵対することになった大久保利通は、翌年、刺客によって暗殺されてしまいます。

そんな中で、明治という国家の土台は作られ始めるのですが、極東の小さな島国には、当時の国際環境というものが徐々にのしかかってくるんですね。地理的には、大陸から日本の喉元に突き出ている朝鮮半島において、清国との間に摩擦が生まれ、1894年に日清戦争が起こります。

日清戦争といっても、原因は朝鮮半島にあったわけで、実戦場はほとんど朝鮮半島でした。国の大きさからしても、日本は不利のようですが、徴兵令以降ドイツ式に変更された陸軍とイギリス式となった海軍など、貪欲に軍の強化に努めていた日本軍は約8カ月でこの戦争に勝利します。

この戦勝で、大陸での足場を固め始めた日本ですが、清国には欧米各国の思惑が渦巻いておりました。特に南下政策を推し進めるロシアは部隊を増強し満州に留めています。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていたので、そこにロシアの影響力が強まっていくことは、この上なく恐怖だったんです。近代化を始めて間のないアジアの小国は、遼東半島を巡って、徐々に大国ロシアと敵対することになっていきます。

そして、1904年、痛々しいほどの覚悟で開戦を決意することになります。

この時、日本の政府も軍も、この戦争に対しては完全に弱者の論理で挑んでいます。つまり、あのロシアに完璧に勝つということはあり得ないわけですから、せめて四分六分で有利に持ち込めそうになったら、すかさず国際的に仲裁に入ってもらえるよう、アメリカに根回しをしていたほどなんですね。

日本として戦勝の形に持ち込むためには、ロシアが要塞化した旅順を攻略し、その後、遠くロシア本国からやって来るであろうバルチック艦隊を殲滅することだったんですが、これは実に大変なことだったんです。

当初、陸軍は満州平野における決戦に勝てば、旅順の要塞は立ち腐れてしまうと考えていました。ところがバルチック艦隊が来るという話を聞いて海軍が慌てました。旅順はロシアの租借地ですから、ここにバルチック艦隊が逃げ込んだらどうにもなりません。そこで旅順は陸から落とすことになり、陸軍に、旅順を攻撃するだけの使命を持った第三軍が出来上がります。乃木希典大将が軍司令官になり、参謀長は伊地知幸介少将です。

凄惨な肉弾攻撃の戦いが始まりました。無謀な肉弾攻撃でした。

海軍は旅順港を攻撃してくれと言った時に第三軍にひとつの提案をしました。三等巡洋艦を一つ裸にして、大砲を全部提供し砲術士官も派遣しますと。しかし、ノーと言われました。どう考えても陸軍の縄張り意識からでした。この提案を受け入れていれば、旅順の攻略は早かっただろうと、司馬さんは分析しています。

かつて明治陸軍を教育したドイツ陸軍は、近代要塞というものがいかに難攻不落であるかということを説きましたが、この教育は生かされませんでした。乃木さんもドイツに留学しているし、伊地知さんもドイツに留学しています。しかも伊地知さんは大砲が専門でした。そんな人たちが海軍の大砲にノーと言い、歩兵の突撃を繰り返し、何万という兵隊が死にました。無益の殺生という声まで出ました。乃木さんの二人の息子さんも戦死しています。

結局、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、自ら旅順に行くことになります。汽車が旅順に近づくと、汽車の窓から新しい墓が累々と見えたそうです。日本兵の墓です。児玉は怒りました。本土から新しく補充されてくる兵士は、皆この汽車に乗ってこの墓地を見るわけです。第三軍はそんなことも気がつかないのかと怒りました。

旅順に着いた児玉は乃木と二人で話し合います。児玉と乃木は同じ長州ですから、腹を割って話すことができます。談合であります。統帥上はやってはいけないことでしたが、児玉は乃木の持つ指揮権を預かることになります。

児玉という人は士官学校も何も出ていません。乃木とは違ってたたきあげの人です。この人は大砲のことなんか何も知らないのに、要塞砲に興味を持ちます。当時、横須賀の観音崎にあった大砲が旅順に送られてきてたのですが、なにしろ大きなもので、移動困難と思われ、第三軍では無視されていました。児玉はこれを使えと云いだしました。それは無理ですと、専門家たちは文句を云いましたが、児玉は強引に要塞砲を移動させます。二〇三高地の麓に据え付け、それらが活動を始めてから旅順は落ちました。音ばかり大きい要塞砲が鳴り響き、ロシアは降伏しました。

児玉は実に見事な人です。戦後は決して自分の手柄話をせず、乃木は偉いと云うばかりでした。そんなに教養のある人でもない、学問したわけでもない、ジェネラル(将軍)、アドミラル(提督)の才能というのは、長い歴史の中で何人もいないものです。児玉源太郎にはそれが宿っていました。そういった意味では、幕末の大村益次郎もそういう人かもしれません。

さて、バルチック艦隊です。海軍の秋山真之は若くして作戦立案者として海軍首脳から期待されていた人で、海軍戦略を学ぶためアメリカに勉強に行ったりしました。真之に課せられた命題は重いもので、ロシアのすべての艦隊を沈めなくてはなりません。一隻だけでも残したら、その船が日本の通商を破壊しますから。そんなパーフェクト・ゲームは不可能なんですが、そこを戦略・戦術で何とかしろと云われていました。結局、真之は、能島流水軍兵法書という戦国時代以前の海賊の戦法が書かれたものから、戦術の基本を作ります。ある人から何を古ぼけた本を読んでるんだと云われた時、

「白砂糖は、黒砂糖から精製されるものなんだ。」と言ったそうです。

そして、この人の一生のエネルギーのほとんどをこの作戦に注入しました。

東郷平八郎率いる連合艦隊は、パーフェクトゲームを達成し、日本海海戦は勝利します。

その頃、満州大陸に於いて日本陸軍は、疲労しきっており、そのことを誰よりも軍の指導者がよく知っていました。彼らは戦争という大がかりなものをしているつもりはなく、つまり、ロシアを滅ぼすなどという妄想は1ミリも持たず、極東の局地戦における判定勝ちを望んでいただけでした。ロシアがその極端な南下策をやめてくれることだけを、日本の指導部は望んでいたのです。

日本海海戦の勝利は、まさにその判定勝ちを上げるチャンスでした。小村寿太郎外務大臣は、ポーツマスにて、アメリカの仲裁による講和会議に出席し、ポーツマス条約に調印します。

しかしながら、多くの日本国民が、この条約に納得しませんでした。大きな犠牲を払ったことから、その戦利品に満足できなかったのです。

このあたりまでで、よき明治は終わり、この国の青春期も終わり、それ以降の日本人は大きく変わっていきます。大国ロシアに勝ったという事実だけが残り、軍事における分析を怠り、根拠のない自信だけが軍部を覆います。そして大きな敗戦を経験し、いまに至ります。

以下、司馬先生の講演録より。

ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争もないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要は、そんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。

軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。

国家とは何か、そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

 

またしても先生の受け売りでしたが、安全保障関連法案が世間を騒がせている昨今、声の甲高い、滑舌の悪い、総理の演説に不安を覚えながら、もしも司馬先生が御存命であったなら、何と言われていたのか、深く考えずにはいられませんでした。

2015年7月 8日 (水)

司馬先生の受け売りですけど 前篇

この春ごろ、ちくま文庫から「幕末維新のこと」と「明治国家のこと」という本が出てですね。どういう本かと云うと、司馬遼太郎さんが幕末から日露戦争までのことを、ずいぶんと小説に書いておられ、またそれに関して語られたことも山のように本になっているのですが、それらに載らなかったエッセイや講演や対談録を、丁寧に集めておられた筑摩書房の編集者の方がおられまして、それを、作家の関川夏央さんが改めて編集構成された本なんですね。

いろんな時期に、司馬さんが語られたことがまとめてあるんですが、やはりさすがに先生のおっしゃることはぶれてなくてですね、それらは大変興味深く、かつて読んだその小説たちのことを思い起こさせます。

 

ちょっと小説のことを、ざっくり歴史の順番に整理しますとですね。まず、

「世に棲む日々」(1971)

幕末に突如、倒幕へと暴走した長州藩。その原点に立つ吉田松陰と高杉晋作を中心に、変革期の人物群を描く長編。

「竜馬がゆく」(1963-66)

勝海舟は言った。「薩長連合、大政奉還、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ。」

今でこそ幕末維新史上の奇蹟といわれる坂本竜馬は、この小説ではじめて有名になった。

「燃えよ剣」(1964)

竜馬とほぼ同じ年に生まれた土方歳三は、勤皇の志士の敵役であり、最強組織新撰組副長である。剣に生き、剣に死んだその生涯。

「花神」(1972)

緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、長州の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死を遂げた日本近代兵制の創始者、大村益次郎の波乱の生涯。

「峠」(1968)

幕末、雪深い越後長岡藩から、勉学の旅に出、歴史や物事の原理を知ろうとした河井継之助は、その後、藩を率い、維新史上 最も壮烈な北陸戦争に散った。

「最後の将軍 徳川慶喜」(1967)

その英傑ぶりを謳われながらも、幕府を終焉させねばならなかった十五代将軍の数奇な運命を描いた名著。

「翔ぶが如く」(1975-76)

西郷隆盛と大久保利通は薩摩の同じ町内に生まれ、薩摩藩を倒幕の中心的役割に巻き込みながら、絶妙のコンビネーションで維新を達成する。しかし、新政府の内外には深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治6年に起こった征韓論を巡る衝突は、二人を対立させ、やがて西南戦争に発展して行く。

「歳月」(1969)

明治維新の激動期を、司法卿として敏腕をふるった江藤新平は、征韓論争に敗れて下野し、佐賀の地から明治中央政府への反乱を企てる。

「殉死」(1967)

明治を一身に表徴する将軍乃木希典。ひたすらに死に場所を求めて、ついに帝に殉じた武人の心の屈折と詩魂の高揚を模索した名篇。

「坂の上の雲」(1969-1972)

松山出身の歌人正岡子規と軍人の秋山好古・真之兄弟の三人を軸に、維新から日露戦争の勝利に至る明治日本を描く大河小説。

他に、この時代を題材にした短編集も多く、「人斬り以蔵」(1969)「新選組血風録」(1964)「幕末」(1963)「アームストロング砲」(1988)「酔って候」(1965)等々あります。

 

いわゆる幕末というのは、1853年のぺりー黒船来航が起点とされていますが、そのしばらく前から日本近海には大国の船団が出没し始めておりました。そのころヨーロッパでは、18世紀半ばから始まった産業革命により、大型汽船が次々に造られていた背景があり、アジア各地では植民地化が進んでおります。ペリーにも、自国アメリカの捕鯨船の基地として、日本の港を開港させる目的がありました。

長州の思想家吉田松陰は、その何年も前から全国に情報を集め、識者を訪ね、当時の国際情勢を調べ、帝国主義の植民地化から日本を救うには、大国の文明を吸収するしかないと考え、アメリカの旗艦ポーハタン号に密航しようとして捕らえられます。その後、萩に戻され、謹慎中に松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋ら、その後明治維新を実現していく人材を育成します。

しかしながら、松陰自身は安政の大獄で29歳の若さで斬首されてしまいます。

翌1860年にはその弾圧を敢行した大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その2年後の文久二年、坂本竜馬は土佐を脱藩、その翌年には新選組の元となる浪士組が結成されています。当時、西郷隆盛は薩摩藩内の事情もあって沖永良部島に遠島になっていますが、このあたりから倒幕に向けて、一気に時代は動きだしていきます。

1864年(元治元年)池田屋事件

                   禁門の変

                   第一次長州征伐

1865年(慶応元年)高杉晋作長州藩の実権を握る

                   第二次長州征伐

                  武市半平太処刑

1866年(慶応二年)薩長同盟締結

                   徳川慶喜第十五代将軍就任

                   孝明天皇長州征伐休戦勅命

                   孝明天皇崩御

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1867年(慶応三年)大政奉還

                   慶喜将軍職返上

                   高杉晋作病死

                   坂本竜馬暗殺

                   王政復古の大号令

1868年(慶応四年・明治元年)

                   鳥羽伏見の戦い

                   勝海舟・西郷隆盛会談

                   江戸城無血開城

                   近藤勇斬首

                   彰義隊敗退

                   明治に改元

                   会津藩降伏

1869年(明治二年)五稜郭総攻撃

                   土方歳三戦死

                   大村益次郎襲撃され没

 

こうしてみると、黒船が来てから約15年ほどの間に、これだけのことが起こり、全く違う世の中になってしまったことがわかります。

もしもこの時期、日本が清国や李氏朝鮮のような中央集権制の国家であったなら、欧米勢力によって植民地にされていたかもしれません。幕藩体制における各藩は、実は自立した存在で、農業や商業など各産業も競争原理に則って、強化され鍛えられておりましたので、それぞれにそれなりの力を持っていました。外国からこの国を見た時に、中央政府を押さえれば支配下における国であるとは、とても思えなかったはずです。

実際に明治維新を成し遂げた諸藩は、それぞれ独自の考えでこの革命にかかわりました。

個々に複雑な事情もあったのです。

長州藩では松陰の弟子たちが、欧米の脅威からの危機意識ゆえに、藩内の闘争を制して実権を握り、この藩を倒幕の方向へと傾けてゆきます。薩摩藩は西郷と大久保が岩倉具視らとの朝廷工作を通して、藩全体を倒幕に導いて行きますが、このあたりの事情を藩主の島津久光は全く知りませんでした。そして、この長州と薩摩がひとつの力にならなければ、幕府とのパワーバランスとして維新の実現はありません。この薩長同盟の斡旋をしたのが土佐の坂本竜馬だったわけです。

勝海舟は欧米のアジア侵略を防ぐには、中国、朝鮮、日本の三国が締盟しなければならないという考えの人でしたが、後に明治政府で征韓論が起きた時に、いずれ朝鮮にも日本のような新しい勢力が起こってくるから、その時にその者と手を握ればよいと云います。つまり、この国際情勢下であれば、西郷のような人が出てきて革命が起こるはずだから、その新政府と握ればよいということだったのですが、結局、勝の存命中にも、そのあとにも、それは起こりませんでした。    

明治維新というのは、江戸時代の幕藩体制、もとをただせば専制国家ではない競争原理の上に成り立った国のかたちであったことが、それを実現させたということが云えるかもしれません。   

明治という国家が産声を上げたところではありますが、ここまでの話がずいぶん長くなってしまいましたので、この先は次回ということにいたします。

以上、先生の受け売りでした。

2015年6月 5日 (金)

情報機器昨今

“スマフォ”というものが、ここまで世の中に浸透してしまうと、電車に乗ってる人がほぼ全員スマフォを覗き込んでる風景も、だんだんと慣れてくるようなもんですが、

でも、ちょっと冷静に考えてみると、相当異常な風景ではあります。

私も持っておりますが、あのちっちゃい中に、電話機能からメールから住所録にインターネット、地図にカメラにスケジュール表に、ゲームやら音楽まで入っており、それに私なんぞは、その機能の10分の1すら使ってない人ですから、スマフォ好きな人が四六時中離れられなくなる理屈も分からなくはないんですけど。

それだけの機能をポケットに携帯できていれば、便利といえば便利なんだろけど、それがイコール快適なのかというと、果たしてどうなんだろかと思うわけですね。

だいたいあのメールというのは、便利なもんで、いつでもどこでも世界中の相手に届くんですよね。LINEなんかは、先方が開けたら、そこで既読ということが分かるし、まあ多くの場合、送ったとたん伝えたいことが相手に届いたということになる訳です。でも受け取る方は、この話聞かなかったことにしたいなと思うこともある訳だし、うん聞かなかったことにしようみたいなこともある訳です。

電車の中でメール読んだり打ったりしてる人たちが皆、この情報が今受け取れて本当によかったと思っているのか、だいたい、まあいつでもいいような話がほとんどなんじゃないかと思っている私は、ひねくれ者なのでしょうか。

仕事の話であれば、職場に着いてから順番にお返事すればよいし、遊びの話ならもっとそうだし。だいたいいつでもどこでも伝わっちゃうから、歩きながらメールして、人にぶつかってる奴がいたりするんじゃないでしょうか。

 

昔の話になって恐縮なのですが、私達が世の中で働き始めた時には、携帯電話もなく、FAXすらなく、かろうじて電卓が普及したばかりの頃で、昭和ですけど。通信手段は、卓上電話と公衆電話と郵便でした。

電話で話したい相手が、その電話のそばにいるとも限らず、その場合は相手の居場所を突き止めて、そこに電話をするか、折り返しの電話を待つかなんですけど、こちらもあっちこっち飛び回ってることもあり、間が悪いとすれ違い続けたりしてました。

とにかく込み入った話のときには特に、会って話すのが基本でしたね。なかなかうまく会えない時は、あらかじめ手紙を書いて相手に届けておいてから、電話で話すこともよくありました。

夜になると事務所も閉まって、お互いの居場所もだんだんわからなくなってくるので、私が最後に立ち寄ることになっていた「バルコン」というバーでは、何件かの私への伝言と連絡先がコースターの裏側に書いてあったりしました。

ともかく、相手に情報を伝えるには、今よりある程度時間的な間があったわけですね。

そうこうしてるうちに、いつの頃だったか、FAXが登場します。

これはなかなか強力な新兵器でして、文字や画がそのまま、解像度はともかく、届くわけです。ただ、普及し始めの頃は、送り手が送ったつもりになっていても、きちんと受け取られてなかったり、よく読めなかったりと、完全なツールになっておらず、返ってコミュニケーションの齟齬をきたすこともありました。

これに関しては、送った側が送っただけで完全に意思が伝わったと思いこんでしまうところが問題なわけで、言いたいことはこれで全部送ったかんねみたいな。このあたりは今のメールにもそういうところがあります。

 

思えば、すぐに相手につながらなくてイライラしたこともあったけど、すぐにつながるということが当たり前のことではなかったから、どうせそんなもんだと思ってたところもあって、伝える中身をもう一度考えてみたり、整理してみたりして、少し余裕ができたり、悪いことばかりでもなかったかなと。

だいたい早く伝わってうれしいことはあると思うけど、情報というのは、知ってしまえば面倒なことも多いわけで、ほんとは少し間のようなものがあった方が楽なんじゃないかと思います。

それに本当のおおごとと云うのは、なんだかものすごいスピードで伝わるもんですよね。経験的に云うとです。まあこういうこと云うと身も蓋もないんですけど。

しかし、こういう高度な情報機能を持った世の中で、ビジネスマンやったり、恋人同士やったりするのも、考えようによっては大変なわけで、ハイ伝えましたよ。ハイすぐに対応してね。が、当たり前になってるわけですよね。なんか、昔は行方くらましたり、音信不通になったりするのも芸のうちみたいなとこもあって、まあ、ある意味問題を先送りするだけなんだけど、でも、先送りしながら、その問題とだんだんに向き合ってたとこがあります。今はそのあたりがなかなか難しいですよね。

ただ、色々見てると、それでも、なんだかんだ問題を先送りしたり、煙に巻いたりしながら、物事をすすめていく術を持ってる人は、やはりいるわけで、これはいつの時代も追っかけっこなのかなとも思いますが。

 

でも、初めて使った携帯電話って、1980年代の終わり頃だったけど、でかくて重くて、ホントつながらなかったなあ。街中を歩きながら話してて、角曲がると切れちゃったりしてましたね、いま思えば。

Keitaidenwa

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年5月14日 (水)

本の題名

このまえ「トイレの話をしよう」という本を読んだんですが、これが実にいろいろなことを考えさせられる本だったんです。副題に「世界65億人が抱える大問題」とあります。

少なくとも日本のそれも都市部に暮らしている私たちには、にわかにピンとこないことではありますが、世界中には、トイレとそれを処理する下水処理設備が備わっている地区は、ごく一部しかなく、トイレがあっても、きちんとした処理がされぬままに、下水が飲料水源に流れ込んでいる場所がたくさんあります。さらに、トイレという形すら持たぬ人々が地球上に26億人もいるそうです。そのような環境下で、糞便によって汚染された飲料水や食物によって引き起こされた下痢が原因で、途上国では、15秒に1人の子供が死亡しています。

衛生問題を語るとき、清潔な水の問題はよく語られますが、その根幹にある排泄物やトイレに関することは、あまり声高に語られることが少ないですね。でもこの本には、世界のトイレ事情がリポートされつくされていて、このことに関して、あまりにも知らなすぎたことを、思い知らされます。

下水設備の整ったこの国での暮らしが、いかに恵まれたものかを再確認し、世界にはトイレを持たず、夜中に人目を忍んで茂みに排泄に行く女性たちがいることや、排泄物を素手で処理する仕事に就かざるを得ない人がいることを知り、そうした人々にトイレを提供するために努力し、あるいは、不衛生な暮らしに慣れてしまった人々の衛生行動を変えるために、試行錯誤を繰り返している人々がいることも知りました。

この本をどういう人が書いているかというと、ローズ・ジョージという名前のロンドン在住のジャーナリストで、この人がまさに世界中のトイレというトイレを、さまざまな街の下水道の中を、そしてトイレのないスラム街等を取材しつくして本にしています。そして、驚いたことに女性なんですね、この人。しかも美人です。

この本のことを知ったのは、ある新聞の読書欄で、椎名誠さんがこの本のことを紹介されてたからなんですが、その中で、世界中のトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊と評価されており、おまけに著者が女性で、しかも美人であることを付け加えておられました。そのことは余計なことですがともいわれてましたが。

まあ、その椎名さんの文章を読んですぐに購入したわけです。

椎名さんという方は、昔から本というものに対して、深い洞察と愛情にあふれていて、よく書評も拝読しておりました。この人が本を出され始めたのは、私が社会に出た頃で、次々に話題作になり、特に若者の人気を得ました。初期の作品はたいてい読んでますが、彼が自身の青春期を振り返った「哀愁の町に霧が降るのだ」や「新橋烏森口青春篇」は、自分がその頃新橋烏森口の小さな会社で働いていて臨場感があり、個人的には同じ時代を生きてるような親しみがありました。

その後この方は、本当にたくさんの本を書き続けておられ、小説、エッセイ、紀行、評論など多岐にわたり、240冊くらいの本を出しておられます。そのうちの何冊くらいを読んだかわかりませんが、ここしばらくはちょっとご無沙汰しておりました。

ついこの前、本屋を歩いていて、椎名さんの新しい本を見つけ、題名を見てすぐ買ってしまいました。題名は「殺したい蕎麦屋」。読んでみたくなる題名です。殺したい蕎麦屋のことが書いてあるのはほんの一部で、でもなるほどフムフムという感じで、ほかも変わらぬ椎名節で、なかなか良い本でした。

でも、昔から、題名のツカミが強いんですよね、椎名さん。

Siinasann

2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

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日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2012年3月26日 (月)

かつて、CMにチャンネルをあわせた日

Toshisugiyama1「CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代」という本があります。1978年の12月に第1刷が発行されています。私は1977年からCMの制作会社で働いており、この本は出てすぐに買った気がします。当時CMの業界で、杉山登志という名を知らない人は、誰一人いなかったと思いますし、彼のことをCM界の黒澤明と言う方もいました。

けれど、私は一度もお会いしたこともなく、お見かけしたこともありません。この本は、1973年の12月に37歳で自死された杉山登志さんを追悼する意味で、その5年後に出版された本だったんです。1973年に私は上京して大学生になっていましたが、この年の暮れに広告業界を震撼させた杉山さんの事件のことは、曖昧な記憶しかありませんでした。

そしてこの世界で働き始めて、杉山登志という人が、CMとその業界の人々に、どれだけ影響を与えた人であったかということを、おもいきり知らされることになります。彼が、1961年~1973年の短い期間に作ったCMが、CMというものの価値すら変えてしまったことが、当時、限りなく素人に近かった私にもよくわかりました。

この本は、PARCO出版から刊行され、アートディレクターの石岡瑛子さんが編集にかかわっておられます。本の中には、彼の数々のヒットCMのカットが、カラー写真でちりばめられ、それは私が子供のころからテレビでみていた印象深いCMたちでした。その写真を見ているだけで、この人がどれほどの達人であったかがわかります。そして、その仕事を一緒にしていたスタッフの方や、彼とかかわりのあった同業者の方たちが、たくさん追悼の文を載せておられます。あらためてその方たちの名前を見渡しますと、本当にこの道の一流の方たちです。

私がこの方たちと、同じ業界で働いているのだと云う認識が宿るのは、ずいぶんと後になってからのことで、その頃は制作現場の末端をただ駆けずり回っているだけでした。でも、少しだけ仕事というものが面白くなり始めた頃でもあり、この本は熟読しました。

若造の理解力には限界がありましたが、読み返すほどに、この人が、いかに凄まじいエネルギーを発した天才であったかと云うことが感じられました。

その後、かつて杉山登志さんとかかわりのあった方々と、次々に知り合うことになり、いろいろなことを教えていただきました。残念ながら、直接存知あげなかったけれど、僕らはずっと、間接的に影響を受けていたと思います。

ついこの間、「伝説のCM作家 杉山登志」と云う標題の本が出版されました。彼の残した仕事や、その時代、その死の謎などが、すでに半世紀前のこととしてあつかわれている興味深い本です。この本を読みながら、かつての「CMにチャンネルをあわせた日」をもう一度読み直したいと思ったんです。

ただちょっと問題があって、本は私の手元にあるんですけど、かなり破損してしまって、読めない箇所がかなりあるんです。

どうしてそういうことになったか、若干説明がいるんですけど。

あの本を買った頃、私の部屋は本が増え続けており、ほんとに本の置き場所に困ってたんです。その後、六畳一間のわりには眺めのいい広いベランダがついた部屋に越した時、ダンボールに詰めた本をベランダに山積みにして、撮影用のビニールシートでグルグル巻きにして置いといたんです。それからしばらくして、仕事で2週間くらい海外に行ってたときに、留守中に台風が来たらしく、帰ってみたら、グルグル巻きのビニールの下の部分が完全に水に浸かり、でかい金魚鉢のようになっていました。運悪く一番下の箱が写真集関係になっており、私の大切な「CMにチャンネルをあわせた日」は水中に没してしまったんです。本の中の、写真の印画紙の部分は紙が張りついてしまって剥がれず、無理に剥がすと破れてしまいました。完全にアウトです。

最近になって、Amazonで古い本が探せるようになって、何度か検索したんですが、見つからずそれも諦めていました。ところがこの前、会社のO君と話していたら、「日本の古本屋」というサイトがあって、これがかなりすぐれものだと云うんです。O君は、なんだかこの前から自分のルーツを探っていて、それに関して相当重要な古文書を見つけたと言ってます。不思議な人なんですよね。

で、すぐに見つかったんです、「CMにチャンネルをあわせた日」。大泉の方にある古本屋さんだったんですけど、丁寧に梱包して送ってくださいました。いや、嬉しかったですね。

いま読み返してますが、この本は私にとって、この仕事とは、みたいなことを、はじめて語りかけてくれた本だったと思います。御存命であれば、長嶋茂雄さんと同年になられた杉山登志さん、緊張するけど、お会いしてみたかった方です。

でも、お会いできてたら、この本とは会えていなかったということなんでしょうか。

 

 

 

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2011年3月10日 (木)

僕の尊敬する植木さん

会社で席替えがあって、荷物を整理していたら、そん中に何年か前に取ってあった新聞の記事が出てきました。なんだっけと思って読んでいたら、だんだん思い出しました。これ、読んで泣いたやつだ。ついつい手を休めてまた読んでしまいました。なかなか片付けがはかどらないのはこういうことしてるからなんですが。

それは、コメディアンの小松政夫さんが、師匠である植木等さんの思い出を語った記事でした。

植木等さんといえば、私が小学校3年生の時に、授業で『私が尊敬する人』という作文を書いた時に、迷うことなく選んだ人でした。

思い出すだに、当時のクレージーキャッツの人気はものすごくて、それこそ、TVに映画にCMにレコードに大活躍。コメディアンとして相当に面白かったんだけど、ちゃんとしたジャズバンドとしても成立しているというところもなんとなくかっこよくて、大人にも子供にも人気があって、日曜日の夕方6:30から始まる「シャボン玉ホリデー」は、どんなことがあっても必ず見る番組でした。

そのクレージーキャッツのメンバーは7人いて、みんなそれぞれに個性があって面白かったんですが、グループを代表するスターは、やはり植木等さんでした。

この人が繰り出す数々のギャグも、映画の中の無責任男のキャラクターも、

そして、彼が歌う唄の歌詞も、大好きでした。

こんな感じです。

 

♪ ぜにのない奴ぁ 俺んとこへこい

  俺もないけど 心配すんなUeki-san2

  みろよ青い空 白い雲

  そのうちなんとかなるだろう ♪ とか

 

♪ 人生で大事なことは

  タイミングに C調に 無責任

  とかくこの世は 無責任

  コツコツやる奴ぁ

  ごくろうさん  ♪  など

 

当時、まじめにこつこつ働いてた日本人も、高度経済成長に振り回されて少し参っていた日本人も、ほんとに励まされていたと思います。

 

植木さんが亡くなった2007年に、『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』という本が出ました。すぐに買って読みました。あんな大スターだったのに、評伝として出版された本はこれだけです。それまでに来た出版の企画は、すべて断っていたそうです。

これを読むと、ほんとに尊敬すべき素敵な人だったことがわかります。

演じるキャラクターとは違い、堅実な人であったこと。グループの中でみんなから愛され、まとめ役だったこと。売れに売れた頃、進むべき進路に悩んでいたこと。お酒は1滴も飲めず、質素な暮らしぶりだったこと。破天荒な生き方をしたお父さんを愛していたことなどが書かれています。

この本の中にも、当然 小松政夫さんが出てきます。弟子と師匠として関わった小松さんの話に、植木さんの人柄がにじみ出ています。

 

役者を志望して、19歳の時に福岡から上京した小松さんは、様々な仕事を経て車のセールスマンをしていました。ある時、植木等さんの運転手募集の記事を見つけ、600人の応募者の中から勝ちのこり、付き人兼運転手になりました。そして、小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが過労のためダウンして入院していた病室でした。

 

小松談

ものすごく二枚目でした。いつもテレビで見ていた時の声じゃなく、もっと低いキーで、

「植木です」 って言って、

「この世界に入るのに、何の抵抗もないの?」 というようなことを訊かれました。

しゃっちょこばっている僕を見て、

「俺のこと、何と呼ぶようにしようか」 って言った後、

「先生なんて呼んだら張り倒すよ」 って。

その時、「ああ、植木等なんだ」 って、やっと思ったんです。

緊張をほぐしてくれたんです。それから真面目な顔になって、

「君はお父さんを早く亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」 と言ったんです。

その時に思ったんです。ああ、この人についていこう、生涯ついていこうって。

 

それから半年ぐらいで、小松さんは小さな役をいろいろ貰うようになり、ハナ肇さんからも、チャンスをもらい始めました。

その頃に、植木さんの有名なギャグ「お呼びでない、こりゃ、また失礼いたしました」は、小松さんが植木さんの出番を間違えて生まれたというエピソードがありました。

 

小松談

うそなんですよ。植木の思いやりですよ。私がセールスマンだった時に、あのギャグはすでにやってました。

「出番じゃないとリラックスしていたら、小松がねえ、何やってんですか、とせっついた。飛び出したら、ハテナという顔をみんなしてるから、できたギャグ」と、どこでも言うんです。

「こいつは面白いよ、使ってやって」とも。

あの聡明な植木が、間違えるはずがない。私の手柄にしてやろうと思いついたに違いない。

後に、奥さんには、

「小松が育ったのが、誇りだったのよ」と言われました。

 

3年10カ月経って、植木さんの付き人を卒業した時の話が、またいいです。

 

小松談

そうです。車を運転していて、突然後ろから言われたんです。

「明日から、来なくていい」 って。

青天の霹靂でした。私の独立にむけて、給料もマネージャーも決めてあった。

「社長も大賛成だと言ってる。だから、明日からは俺の所に来なくていいんだ」 って。

涙で前が見えなくなり、車を止めさせてもらって、声を出して泣きました。

・・・・・

何分くらい泣いてたのかな。その間、ずっと黙って待っていてくれて、

しばらくして、

「別に急がないけど、そろそろ行くか」 って。

僕は我に返って、「はい」 って言って車を出したんです。

粋だったですね、やることが。

 

 

私が小学校3年生の時の作文で、、尊敬する人に、植木等さんを選んだことは、本当に間違ってなかったと思ったのでした。つくづく。

 

何でもいいから一度お会いしたかったです。

 

谷啓さんとは、一度仕事でお会いしました。音楽を作ってくださったんです。

これはホントに嬉しかったです。

録音中、得意の「おや?」というギャグをやってくださいました。しびれたなあ。

 

 

2010年11月 5日 (金)

「ノルウェイの森」見ました

きれいな映画でした。

ただ画がきれいだということじゃなく、いろいろな意味できれいだったなと。

見おわった後に感想を求められたら、そのように云うのでしょうか。

原作は、1987年に刊行された、あの村上春樹氏の不朽の名作。

当時、瞬く間に多くの読者の心をつかみ、その累計発行部数は1044万部を超え、現在も読み続けられています。また、その物語は、36言語に翻訳され、村上氏は、世界で最も知られた日本の作家になっています。

その小説が映画化されていると聞いた時、どんな話だったか思い出そうとしたんですが、どうしてもはっきり思い出せません。ぼんやりとした印象はあるものの、考えれば考えるほど、ほかの村上作品と混ざり合った記憶になってしまうのです。

村上さんの作品にはそういうところがあって、どの小説も、いってみれば彼の世界にスーッと引き込まれてしまうのですが、お話として覚えているというよりは、何か感覚的なひとつの印象として残っているようなところがあります。

そんなことで、持っていたはずの本もどこへ行ったか見つからず、やはり気になるので、文庫本を買ってもう一度読みました。

おもしろいです。また、スーッと引き込まれるように読んでしまいます。そうか、こういう話だったんだと。でも自分も歳をとったし、また新しい小説体験でもあります。

1969年にもうすぐ20歳になろうとする人たちが主人公のこの物語は、私には近い世代でもあり、二十歳になるということを想い出しながら、その時代に旅するようでもあります。

小説は、村上さんと同い年の主人公が、18年前を想い出すところから始まりますが、映画は、主人公が高校生のところから始まります。

大ベストセラーとなったこの小説の読者には、それぞれの頭の中に登場人物たちのイメージがあるわけですから、映画のキャスティングが相当重要だったことは云うまでもありません。そんな中で、松山ケンイチのワタナベは、多くの読者を納得させたのではないでしょうか。この人は、俳優が技術的に演技をしているというよりは、その役が彼に乗り移ったようになってしまうところがあります。

菊地凛子の直子は、女子高生こそ少し無理があるものの、その後壊れてゆく直子の演技には、本領を発揮します。新人の水原希子の緑は、トラン・アン・ユン監督によって、完全に造形されたと思われますが、いい仕上がりになっています。これが舞台とは違う映画のマジックというべきものでしょうか。

「ノルウェイの森」を映画化するにあたり、トラン・アン・ユン監督に依頼をしたということは、非常に興味深い選択だったと思います。以前からこの小説を映画化するのであれば、日本には適任の監督が思い浮かばず、外国の監督の方がよいのではないかとぼんやり思ってはいたのですが、外国の設定になってしまうと違うような気がしていました。実際にこの小説を日本人の出演者で、外国の監督が撮れるのかどうか。

トラン・アン・ユン監督は、そのハードルをかなりのレベルで、踏み越えたのではないでしょうか。

そして、この映画がどういう映画かというと、原作である小説のストーリーを追いかけると言うよりも、登場人物たちのさまざまな経験と心象を、理屈ではなく感覚として映像に残していこうとしている映画であり、監督はその作業を繰り返し、積み重ねながらこの映画を作っていったのではないでしょうか。

彼の画に対するこだわりは、長編第1作の「青いパパイヤの香り」などにもよくあらわれていて、その手腕は高く評価されています。そして、その監督のこの映画に対する姿勢を、最も支え実現しているのが、撮影のマーク・リー・ピンビンです。

この映画がきれいであるということ、その人達の心象が、その感情とともに、ある時は哀しく、ある時は切なく、映像として語りかけてくるのは、キャメラマンの仕事によるところと深く関係しています。

ちょうど東京国際映画祭で、彼を追ったドキュメンタリー作品「風に吹かれてーキャメラマン李屏賓の肖像」を六本木で上映していたので、見に行きました。台湾出身の撮影監督で、さまざまな優れた監督と名作を撮った人です。現在、世界中からオファーがあり、再来年までスケジュールが決まっているそうです。アジアが世界に誇れるキャメラマンです。ドキュメントを見て、宮川一夫さんを想い出しました。

彼は、撮影中、常に映像に想像の余白を残すことを意識していたと云い、文学のような想像性を持った空間作りを目指したと云っています。深い言葉だと思います。でも、映像を見ると少しそのことを感じるのではないでしょうか。

もうひとつ、映画に「ノルウェイの森」の音楽原版を使えることになったのは、快挙だし大変意味のあることでした。僕らの年代にとっては、この音を聞くだけで、瞬時にこの時代に旅立てるわけですから。Norwegian wood

2010年8月 4日 (水)

小説「告白」、映画「告白」

2年ほど前に、湊かなえさんの「告白」を読んだとき、その読後感が本当に不愉快で、こういうのもめずらしいなあと思い、昔ヒットした デヴィッド・フィンチャーの映画「セブン」をみた後にこういう気持ちになったなと思いだしたりしておりました。

と、同時に、この悪意の塊のような不快さを除けば、この小説には、読者を一気に引きこんでしまう力強さと、うまさが備わっていて、その後、本屋大賞を獲ったことを知った時も、ある意味なるほどなと納得するところがありました。

そのベストセラーが映画化されるとわかったのが去年。これはなかなかハードルが高そうだなあ、誰がやるんだろうか、と思っていたら、監督は何とあの中島哲也氏、おまけに彼は、「できるだけ原作に忠実に映画化します。」と言い放ちます。そして、すぐに、主演の森口先生役として、松たか子さんにオファーを出したのです。

Takako matsu2 悪意が悪意を呼ぶ徹底した救いのない世界。登場人物の心理も感情も常に変化し、小説はほぼすべて登場人物の主観で書かれています。

さて、このお話が、どんな映画になるのだろうか。否応なく期待は膨らみました。

6月の初めに封切られた映画「告白」の興行成績は、かなり好調のようでした。一度飛び込みで観ようとしたら、満席で入れないことがありました。

そうこうしているうちに、うちの大学生の娘が、観てきたというので、感想を聞いてみたところ、一言。

「不快だった。」と、

でも、そのわりにはインターネットの「告白」公式サイトを開けて熱心に読んでおります。

「何だよ、つまんなかったんじゃないの。」というと、

「そういうことでもない。」といいます。

けっこう後を引いているようでもあり、その娘の反応も面白く、数日後、映画館に行ってみました。

劇場は、若い人たちであふれていました。女の子も多かったです。

映画はどうだったか。

面白い。

観客は、この悪意に彩られたジェットコースターに乗せられ、疾走します。目を覆い、息をのみ、でもその映像は、きちんと観客を捉まえて放さず、感情移入させていきます。何故こんな世界を見せられているんだろうかという疑問などは、湧いてきません。

小説を読んだ時に、よくできた小説だと感じたように、よくできた映画だと思いました。

この映画は、監督が云うように原作に忠実に作られています。構成もセリフも極力生かされています。ただ、小説には小説の、映画には映画の、違った魅力がありました。

小説を読んでいるとき、読者の頭の中で、悪意の連鎖の中で、形を変えながら飛び跳ねるキャラクターたちは、映画になると、生身の俳優という具体的な形になり、映像を通してイメージが定着してきます。いってみれば、本の中では読者の想像力に任せとけばよいものがスクリーンの中で固まっていきます。

たとえば、松たか子という女優を、森口先生役に据えた監督の直感は見事だったと思います。もちろん演技も素晴らしいのだけれど、彼女自身が持っているキャラクター性は、演技とはまた別の部分で、この映画全体を支えていると感じました。

話題作と言われる原作を、忠実にきちんと映像化してなお成功している数少ない例かもしれません。

基本的にどっちも、読後感が、不快は不快ですけど。

 

2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

2009年5月 1日 (金)

「ありふれた奇跡」と「早春スケッチブック」

3月に、「ありふれた奇跡」というテレビドラマが終わりました。毎週1時間、11話完結でした。全部録画して、先日まとめてみたのですが、期待したとおり、いいドラマでした。

これといって派手なことは何も起こらないのに、常に次の回が気になってしまう展開で、完全にはまってしまいました。気がつくと最終回には泣いておりました。

なぜ、全部を録画したかというと、それが山田太一さんの脚本であったことと、山田さんが、これを最後にもう連続ドラマは書かないと宣言したと聞いたからです。山田さんは、僕らが高校生のころ、いわゆる70年代から、今まで、本当に数々のテレビドラマの名作を書いてこられた脚本家なのです。

「ありふれた奇跡」には、ある男女が出会ってから結ばれるまでのお話と、並行してそれぞれの家族が描かれています。淡々と日常を追いかけているのですが、登場人物たちの設定のリアリティと、彼らが交わす台詞の力にぐいぐい引っ張りこまれてしまいます。

山田さんが最もシナリオを書いたであろう70年代から90年代にかけては、たくさんの名作が残されています。「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、テレビドラマの歴史を変えたといわれるようなものも、このころ書かれています。

そのころ、私はというと、若くて忙しいころでもあり、これらの作品が放送されたときに、テレビの前に座っていることは、ほとんどありませんでした。当時は、ビデオ機器も持っておらず、たいてい見過ごしておりました。

ただそのころ、テレビドラマの名作の脚本は、わりと本として出版されていたので、本屋さんに並んだものは、はしから買って読んでいました。山田さんだけでなく、向田さんや、倉本さんや、早坂さんの脚本もずいぶん出版されました。脚本には配役も全部載っていましたから、いろいろなシーンを映像として想像しながら読むのは、なかなか面白かったです。

それと同時に、何と言ったらよいか、この完成度の高い、ものすごい精度で書かれた設計図のようなシナリオを渡された、役者もスタッフも相当なプレッシャーを感じただろうなと思いました。

昨年、会社の後輩のプロデューサーが私に、

『山田太一さんの「早春スケッチブック」は、みましたか。』と聞くので、

『みてないけど、読んでる。あれは名作や。』と答えましたところ、彼女が、

DVD化されたので、全巻買ってみましたが、すばらしかったです。ご覧になりますか。』

といいました。

『君は、すばらしい人です。是非、貸してください、全部。』

みせていただきました、全部。

『早春スケッチブック』は、1983年に、フジテレビで放送されています。

登場人物は、郊外に住む4人家族、夫婦と高校生の息子と中学生の娘、それと、妻の昔の恋人と、彼を慕う女性が一人。ほとんどこの人たちだけで、13話も持ってしまうお話になっています。当時脚本を読んで、本当に強く印象に残っていて、機会があれば是非ドラマをみたいと思ってましたが、二十数年経ってみたドラマは、いろんな意味でほんとによくできていました。

配役も、それぞれ良いのです。

昔ちょっとわけありだけど、今は平凡な主婦に岩下志麻さん、信用金庫に勤める夫に河原崎長一郎さん、大学受験生の息子に鶴見辰吾さん、問題の、妻の元恋人に山崎努さん、山田さんは、この役は完全に山崎さんを想定して脚本を書いたといわれていたと思いますが、確かに、ほかに誰がこの役をできるのだろうかとも思います。その山崎さんを慕う若い女性に、新人時代の樋口可南子さん、これもいいです。

ただ、脚本が面白くなければ、いい役者も生きないし、ドラマも面白くなりようがないのは確かです。

うちの高校生の娘が、DVDを横でみていて、

『岩下志麻さんて、こういう主婦の役とかもやってたんだ。それにしてもうまいね。』

などと感心しておりました。極道の妻しか知らないのかもしれません。なさけない。

山田さんが、もう連続ドラマを描かないといった心情を語っておられます。

『もう連続ドラマは描かないと決めたのは、時代の変化を感じたからです。やはり連続ドラマにも時代の流れがあり、ある時ふと「自分は違うかな」と思った。1人の作家が、どの時代にも適応していくのは、むしろみっともないことのようにも思えたんです。流れから外れるからこそ作家であるという気持ちもありました。』

そうかもしれません。おっしゃっていることは本当に深いと思います。

でも、久しぶりに見せていただいた連続ドラマは、「早春スケッチブック」のころと変わらぬ作家としての姿勢を感じました。その姿勢に私たちは打たれていたと思います。その姿勢を感じる脚本家を他に知りません。どうかまた近いうちに、次の連続テレビドラマをみせていただきたいとつくづく思ったのでした。

Nakamakase_2

2007年7月 3日 (火)

方言あれこれ

Tokyotower_2 

年末に、リリー・フランキーさんの「東京タワー」を読みました。いい本でした。この人と、この人のお母さんの話です。彼が子供の頃から、最近お母さんが亡くなるまでの二人のことがつづられています。

男にとって母親というものは、何ともいえない大きな存在です。自分も含めて、男はみんなマザコンなのだなと思いました。母親と息子の会話がいいです。気にかけながら、面と向かうとぶっきらぼうになってしまう感じとか、二人の関係がわかります。

九州で暮らしていた母子が、息子の上京を機に離れて暮らし、やがて年老いた母が東京にやって来て、また二人で暮らし始めます。二人の会話が博多弁なのが、またいいです。何ともいえない体温を感じます。

地方出身者にとって、方言というのはなつかしいもんです。石川啄木の上野駅の歌じゃないですけど、ふるさとや身内を思うとき、お国訛りは胸にしみます。私の場合、広島の高校を卒業して上京したころ、当時東映で封切られたばかりの映画「仁義なき戦い」をよく見に行きました。広島弁満載ですから。

方言がコンプレックスになることもありました。子供の頃、父親の仕事の都合で、何度か転校しましたが、東京から神戸の小学校に変わったときは、神戸のガキどもに東京のしゃべり方を徹底的にからかわれました。昔から、関西には東京の言葉を嫌う風土がありますよね。このときは、前に神戸に住んでいたこともあり、約一週間で完全に関西イントネーションに戻したと思います。やればできるもんです。

何度か引越すうちに子供は切り替えが早くなります。その後、広島の中学に転校したときも、ほぼ一週間で広島弁になっていました。そんなわけで、方言に関してのヒアリングはちょっと自信があります。英語はまったくダメですけどね。

大人になって、CMの仕事について、「ピッカピカの一年生」という小学館のTVCMシリーズを11年間担当することになります。もうすぐ小学一年生になる日本中の子供たちが、テレビに出てきてご挨拶するあのCMです。これは、まさに日本中の方言を発掘する仕事でした。いろんなところへ行きました。夜、はじめて降りるローカル線の駅を降りると、まず、駅前のラーメン屋のおじちゃんや、スナック「さゆり」のママさんから、方言の指導を受けました。子供たちからもいろいろ教えてもらいました。ちょっとしたプチ方言評論家になってましたかねえ。

瀬戸内海の小島で、幼稚園の園長さんに取材したときの会話。

「この地方の方言を教えていただきたいんですけど、お時間いただけますか。」

「いやあ、ここらにゃ、いまごら、方言はありませんけん。」

「あ・・・・・、そんな感じで十分です。」

当時もテレビなどの影響で年々方言は減りつつありましたが、どこに行ってもこれくらいは十分残ってました。ていうか、お年寄りが本気で方言でしゃべるとまったくわからないことがよくあった気がします。

あの頃に比べると、日本中ずいぶんと標準語化しちゃった気がするけど、やっぱ方言は地方の個性だし、なくならないといいなと思いますね。

2006/1

この夏のいろいろ

今年の夏は、久しぶりのカンヌ行きに始まり、久しぶりの家族旅行にも行き、その間、久しぶりにタイガースが好調で、オールスター戦も見に行ったりして、いろいろと盛りだくさんです。そうこうしているうちに8月になりました。8月というのは、お盆ということもあり、終戦記念日があったり、原爆記念日があったりして、鎮魂の気持ちの深まる時期です。今年は、終戦60年の節目であり、また御巣鷹山の飛行機事故から20年というタイミングで、世間全般、例年に増してその気持ちが深いように感じられます。

50年も生きていると、自分のまわりの沢山の人達を亡くしていることがわかります。

今年初めてのお盆を迎えた御霊もあります。この世に生かされている私たちは、こうやって時々、亡くなった人達のことを偲び、なんとか気持ちの折り合いをつけながら生きてくんだなと思います。

8月11日の新聞に、御巣鷹山日航機墜落事故の、ある遺族の記事がありました。読んで泣きました。要約して紹介します。

以下記事より。

1985年の早春。1組の夫婦が埼玉の2DKのアパートで新婚生活を始めた。半年後、初めての里帰り。だが、妻は羽田をたったまま、神戸の実家に帰らなかった。妻の母は事故後、うつ病と診断される。そんな義母の姿を知り、夫の康治さんは一周忌後、骨つぼを抱き新幹線にとび乗った。「遺骨は返そう。お母さんが由美を守らなくちゃと思って生きてくれれば・・・」 納骨のあとの別れ際、儀父母は繰り返した。「まだ、康治君は若いんだから」 しばらくして、康治さんが手紙を書いても、神戸から返事が来なくなった。「家族だと思っているのに」切なかった。

会社では立ち直ったかのように、月230時間の残業をしたが、1人家に戻るとむなしくなる。時に、繁華街をさまよった。6年で4度引越した。事故から8年後、一つ年下の女性と再婚した。一緒に登った御巣鷹山の尾根を号泣しながら歩く姿に、新たな人生を歩もうと決意した。

今年、康治さんは部長に昇進した。ガリガリだった青年は、おなかの出っ張りを気にするようになった。「君は、若いんだから」あの時、由美さんの両親が繰り返した言葉をかみしめる。感謝と今の暮らしを伝えたくて、今年、遺族の文集「茜雲」に文章を寄せた。

『あの日命を落とした先妻の両親は、25歳という若かった私を再起させるために、自ら縁を絶つように音信を潜めました。時がたつにつれ、私はそれが究極的な愛情であることを、思い知るようになりました。前向きに生きて幸せになろうと決意を深めていきました』

思いは届いていた。「康治くん、再婚したって。よかったなあ。会社も勤続20年やって。」

御両親は、7月上旬「茜雲」を手にした。康治君と会うことはないだろう。それでも、心穏やかに、それぞれの生活を送ればいい。

1995年の阪神大震災。家がつぶれたが、朝食を作っていた義母は、テーブルの下に逃げて一命をとりとめた。墜落事故後に結婚した由美さんの兄夫婦の長女(19)に亡き娘の面影を見る。残された自分たち家族の幸せを、由美さんが支えてくれたように思う。20年前に帰ってくるはずだったふるさと神戸。夫婦は近く、市内の高台にお墓をつくろうかと考えている。

Sunflower_5

2005/8  

司馬遼太郎さんのこと

司馬遼太郎さんが亡くなってから、早9年経ちます。この人の書いた小説や紀行文やノンフィクシ ョンやエッセイなど、私はずいぶん読んでいるのですが、この人が存命中に書いた分量は計り知れず、読みきるということがないので、今でも時々文庫本などを買って読んでいます。

先日たまたま買ったのは、昭和48年(1973年)に司馬さんが自宅で語り下ろしたという本でした。その中にベトナムのことが語られていました。今年、ベトナム戦争終結30周年ですから、この取材がされたのは、まだベトナム戦争がおこなわれていた頃のことです。私事ですが、昭和48年は進学のため上京した年でした。その少し前、私は広島の高校生で、その頃、広島の街で知り合った岩国基地のアメリカ兵数人と友達になり、その後、その中の一人がベトナムで戦死したことがありました。そんな事があり、当時のベトナム戦争に関する報道記事には、比較的強い関心を持っておりました。その頃の記憶をたどりながら読んでいると、この人は、この時期、ベトナムに対してきわめて先見性のある見方をしていたことがわかりました。南ベトナムという国は、アメリカの資本が途絶えれば、直ちに国家として成り立たなくなることや、アメリカの関心が、その後中近東に向くであろう事なども予測しています。また、アジアの国々が国家を成立させるためには、資本主義というか消費文明を遮断して貧乏なら貧乏なりにやっていくしかないとも言っています。またしても、なかなかに、ふーむとうなってしまう本でした。

この人の本を、確か最初に読んだのは、土方歳三の話だったと思います。20代の後半だったでしょうか。本当に面白く、次々に、この人の世界にはまりました。物事に対する洞察力の深さとか、真実を知ろうとする執着心の強さとか、感心してしまうことは多いのですが、何故か不思議に元気が出るんです。この人の書いたものを読んでいると。

司馬さんは、兵隊として終戦を迎えました。そこから帰ってきたとき、どうしてこの国があんなわけのわからない戦争を起こしてしまったのか、どんなに考えてもまったくわからなかったそうです。日本中の人がそういう気持ちでがっくりしていたとき、それ以前のこの国の歴史と、そこにいたこの国の人々のことを調べていくうちに、司馬さんは日本人として、だんだん自信を取り戻してきたそうです。そんな気分が読者にも伝わっていったのかもしれません。Ryoma_4

あらためて思いました。惜しい人を亡くしたんだなと。

2005/5