成城のおじさん
大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。
F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。
私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。
彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。
これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。
ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。
で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。
それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。
その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。
そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。
そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。
そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。
ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、
「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。
平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。
でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。
それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。
いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。
撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。
そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。
まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。
ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。
それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。
そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。
亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。
しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。
たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。
これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。
何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。
先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。
ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。
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