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2023年11月22日 (水)

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その2

タイガースは,38年前に日本一になってから,今回の優勝までに2度のリーグ優勝をしてるんですが,2度ともパ・リーグに敗れ日本一を逃しております。2003年のダイエー戦,この時は阪神が3勝2敗で王手をかけた第6戦,私,意を決して阪神ファンの友人と博多まで行ったですよ。しかしながら,その夜,早々に先発の伊良部は打たれ,逆王手をかけられてガックリ。モツ鍋を食べていたら,まわりのダイエーファンの人たちに、博多弁で慰められたりしまして,翌日は東京におりましたが,ダイエーの勢いそのままに敗れてしまいました。2005年は,このブログにも書きましたが,悪夢のロッテ戦は1勝もできずに散りました。
この2005年から18年経ち,巡ってきたチャンスではありますが,なんせパ・リーグの壁は厚く,まあ祈るような気持ちだったですよ。しかしながら,勝負事は蓋を開けてみなきゃわからないし,ともかく先に4つ勝てば良いという短期決戦なんで,選手も監督も悔いのない戦いをして欲しいっと。
戦前の予想,多くの野球評論家たち曰く,タイガースもオリックスも投手力の高い守りのチームであり,最後まで低い得点での接戦となるであろうとのことで,たしかに両チームの強力な投手陣はなかなか打ち崩せそうにありません。
ところが,始まってみると第1戦,今や球界のエースと云われ,間違いなく来季は大リーグで活躍しているであろうオリックスのエース,山本由伸が5回までに7点取られてしまうんですね。この阪神5回の攻撃で4点を挙げるきっかけになったのが,先頭打者佐藤のセンター前ヒットではあるんですが,この佐藤が次の打者の1球目に盗塁を決めるんです。岡田監督は盗塁のサインは出したけど,初球から行くとは思ってなかったと云ってますが、このプレイでピッチャーはちょっとリズムを狂わせ始めるんです。守っては村上投手絶好調で8−0のワンサイドで阪神が勝利します。
なんだか思いもかけぬ展開で先勝,でも,翌日はオリックスの二人目のエース宮城が立ちはだかり,後半も自慢の中継ぎ投手陣にかわされ,第2戦は0−8で阪神完敗です。
戦前の予想とは大違いの大差の1勝1敗から,舞台は京セラドームから目と鼻の先の甲子園へと移ります。
第3戦は,阪神伊藤とオリックス東の投げ合いで接戦,7回に5−1から5−4に追い上げた阪神は,オリックスの抑えの切り札,宇田川と平野に逃げ切られ惜敗。
第4戦は,先発オリックス山﨑福と阪神才木の投げ合いの接戦,その後両チームが繰り出す自慢の投手陣の守り合いで同点のまま9回へ,1アウトから近本が四球で歩きピッチャーのワゲスパックがバッター中野の時にワイルドピッチでランナー3塁となり、中野と森下は敬遠して満塁策,ここで4番大山がレフトへサヨナラヒット打つんですね,いや,家で見てたけど球場が揺れていました。この試合,実は阪神中継ぎ陣は7回8回にオリックスの猛攻を受け同点に追いつかれ,尚も逆転のピンチを迎えますが,ここで岡田監督は,なんと春先から不調でここまで一軍を外れていた湯浅投手をいきなり投入します。このアナウンスに球場はどよめきますが,湯浅はたった一球でセカンドフライに打ち取ってピンチを脱するんです。
これでシリーズは2勝2敗の対になりました。
第5戦は,甲子園での最終戦となります。この試合も阪神は押されます。というか,オリックス先発の田嶋を7回まで全く打てないんですね。田嶋は見ていて絶好調でした。阪神先発の大竹も好調で,ゴンザレスのソロホームランの1点だけに抑えていたんですが,7回に守備の痛いミスが出ます。セカンドに飛んだ打球を中野がエラーで逸らし,その球をライトの森下が後逸してしまい1塁ランナーがホームまで帰って1−0から2−0となってしまいます。このあとライトからベンチに帰ってくる時に森下は,観客席の方を見れなかったと後で語っています。
ところが,田嶋が7回でマウンドを降りて8回表を湯浅がビシッと三人で抑えると,流れは阪神にやってきます。オリックス自慢のセットアッパー山﨑颯一郎から、木浪,糸原連打,近本タイムリーヒットで1点返すと,さっきエラーした中野が送りバントを決め,ピッチャーは宇田川に変わります。ここで先程チョンボした森下がなんとタイムリースリーベースを放って逆点します。この時,多分、森下と岡田監督は泣いてました。この後も打線は止まらず打者一巡の6点,試合を決めます。
そして京セラドームに戻って第6戦,オリックスは2度目の大エース山本由伸を立ててきます。今度は,全く歯が立ちません。1−5,村上も悔し涙です。
さあ,泣いても笑っても第7戦,勝った方が日本一です。
オリックス先発は第2戦で手も足も出なかった宮城,阪神は青柳です。ここまでの流れを考えると,オリックスは前回宮城が万全の投球をしているし,青柳は本来のエースではあるけれど,今シーズンはもう一つ調子がよくありません。正直不安ではあり,多分、先取点を取られると苦しくなるだろうなと思いました。
そして,3回までどちらも引かない展開から,4回森下のヒットと大山の死球で1塁2塁,次のノイジーは宮城の速球に全くタイミングが合っていないように見えました。ところが,一球,裏をかくように投じられたチェンジアップを,見事レフトスタンドに放り込んだんですね,この人。3ランホームランです,宮城の落胆が手に取るようにわかりました。打線は次の5回にも追加点を奪い,青柳もよく頑張って5回の途中から伊藤が相手の反撃を断ち切ります。最後にマウンドにいたのはやはり岩崎,終わってみれば7−1,決着はついたのでした。
この9日間,連日,流れがどちらに転ぶかわからない好勝負でした。手に汗握り熱く応援してクタクタになりましたが,素直に両チームの選手たちに,ありがとうと言いたい気持ちです。
いい試合を見せてもらった。

オリックスも阪神も,それぞれのリーグで他チームを圧倒して来ただけの事はある,完成度の高いチームでした。オリックスは先発の一角にいた山下投手をケガで欠いたり,首位打者の頓宮が骨折して足に鉄板が入っていたり,杉本が足を痛めていたりで,ベストコンディションじゃないところもあったけど,やはり恐ろしく強いチームで,なんせリーグ3連覇ですから。あのちょっとひねくれたこと云う監督は,ちゃんと仕事してるよな。
阪神タイガースもここに至るまでは,なんせ長い道のりでした。金本監督も矢野監督も含めチーム作りに苦労はつきものでしたが,だんだんにチームは強くなって来ました。ともかく,38年前にセカンドを守り5番を打って日本一となリ、今年,全球団の最年長監督として悲願達成した岡田さんには,ちょっとお礼を云わんとね。

Neuse

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その1

はてさて,大接戦・大熱戦となりました,今年の日本シリーズもようやくその雌雄を決しましたが、甲子園と京セラドームというごく狭い地域での対決にもかかわらず,内容的には昨今稀に見る面白さで相当に盛り上がったわけです。
この阪神タイガース日本一という,今年の一連の顛末には極めて個人的な思いがございまして,ここにこれを書かぬわけにはまいりませず,多分,長々と語ることとなりますが,どうかご容赦いただきたく存じます。
そもそも,この日本シリーズとは,プロ野球の2リーグ制の始まった1950年から今日まで73回続いておるわけですが,その中で阪神が日本一を成し遂げたのは,1985年のたったの一度だけなのです。そういうことだから,これほどの騒ぎになっているとも云えますけれど,これだけ人気のあるチームの割には,セ・リーグ優勝もたった6度でして,たとえば,私が小学生の頃に応援し始めてから初めてリーグ優勝した時には私は31歳になっておりまして,その次がそこから18年ぶりの2003年でして,私ほぼ50男となっておりました。その2年後に岡田カントクとなって優勝するのですが,また,そこから18年間,優勝フラッグは遠ざかり今年に至るわけです。
考えてみると,何が悲しくてそんな弱いチームを何十年も贔屓にしているのだろうかとも思います。まあ,私の場合,なんか長年にわたる気長な趣味のようなところもあり,このところあんまり熱くもならず,付かず離れず見守ってるようなもんであります,盆栽かよ。テレビ中継などを見ておりますと,勝っていても負けていても,ものすごいテンションで応援されているトラキチの方々には,頭が下がることではありますが。
終わってみれば日本プロ野球界を制覇した今年は,桜咲く春先から秋の紅葉の頃まで,一年中目が離せず,実に嬉し楽しかったのですが,不慣れなもので,しばらくこうであって欲しいけど,そんなことは多分ないでしょうが,これが毎年続くとなるとちょっと大変なのかな,などと思います。
こちらも歳をとってきてますから,最近はそういった大人しめの落ち着いた感じのファンになってるところもありますが,前回の日本一の時は38年も前で,阪神ファンとしては31歳で初めての優勝でしたから,それは激しく応援していました。リーグ優勝は神宮のヤクルト戦で,しっかり球場で観戦しておりまして、確かゲームはもつれて,3−5で2点負けてたんだけど,9回に掛布がソロホームラン,岡田が2塁打打って佐野の犠牲フライで同点,そのまま中西がヤクルトの反撃を抑えて引き分けに持ち込みます。スタンドのファンは引き分けで優勝が決まるのかどうかよく分かってなかったんだけど、ラジオ聴いてる人とかがいて,だんだん引き分けでも胴上げだということが分ってきて、最後は大騒ぎみたいなことだったと思います,いやすごい騒ぎでしたね。
そして日本シリーズ,第1戦の西武球場にも行きましたね。敵は広岡西武,当時徹底した管理野球で築かれたライオンズ野球の評価は高く常勝球団となっており,戦前の予想は阪神不利とも囁かれておりました。しかし,このゲーム始まってみれば,先発池田のこれまでに見たこともないような好投でなんと完封,打っては8回,バースが工藤から3ランを放ち完勝でした。帰りの西武電車は阪神ファンで満員,全員が応援用のメガフォンで電車の天井叩きながら池袋に着くまで六甲おろしの大合唱,本当にどうかしてましたね。
その次の日から私は仕事で網走にロケに行かねばならず,その頃の日本シリーズの試合はすべてデーゲームでしたので,TV観戦も断念してたんですね。ところが,北海道網走地区は,連日雨で撮影はできずお休みとなります。そしてその間,甲子園球場も西武球場も日本晴れで毎日大熱戦。
私たちロケスタッフは,旅館のテレビやロケ車のテレビで大声援を送っていたようなことでした。
シリーズは阪神が2戦を先勝し,甲子園に移ってからは西武が巻き返して2勝,第5戦は掛布の3ランなどで阪神が勝って王手をかけます。第6戦は西武球場に戻っての決戦となりましたが,網走はこの日も雨で撮影は中止となります。そして晴天の所沢では,長崎の満塁,真弓のソロ,掛布2ランホームランと,ゲイルの完投勝利で,阪神タイガースは悲願の初日本一を達成しました。
いまだ網走で1カットも撮影ができていない私どもスタッフですが,その夜は,祝タイガース優勝の大宴会となりまして,私はオールスタッフに胴上げをして頂き,何度も旅館の天井に頭をぶつけて泣いておりました。不思議なことに,その翌日からオホーツク海に停滞していた前線と雨雲は消えてなくなりまして,撮影はつつがなく終了します。だいたいそんな無駄な仕事してスポンサーに叱られそうですが,でも胴上げの渦の中にスポンサーもおられましたので,はい。

それから38年の歳月は流れ,果たして2度目の日本一は達成できるのだろうか。リーグ優勝だって18年ぶりなわけで,けっこう苦労したのだけど,このところプロ野球はパ・リーグが圧倒的に強いじゃないですか。日本シリーズも,セ・リーグはこの10年だと一昨年ヤクルトが一回勝っただけだし,その前の10年だってセ・リーグは3回しか勝ってないわけです。そもそも今回の相手のオリックスは強いです。あの強豪パ・リーグ軍団で3連覇してるんですよ。  
つづく

Bass

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年3月27日 (月)

WBC春の快挙と遠い日の草野球

今年の春はなんてったってWBCで、ちょっとものすごい盛り上がりを見せております。昨年のサッカーワールドカップは、SAMURAI BLUEが、世界の強豪チームと互角に闘う大活躍で、世の中サッカー一色になり、野球への関心はかなりかすみ、WBCってなんだっけみたくなってたんですが、今年の春の開催に向けて、大谷とダルビッシュの出場が決まったあたりから、俄然注目度が増します。
いざ試合が始まってみると、これが強いこと強いこと、侍ジャパンの中心にいるのは大谷翔平くん、164km/hのストレートを投げたかと思えば、打てば150m級のホームラン。まあ大リーグでもベーブ・ルース以来の大スターですから、この人を主役に日本中を、いや世界中を巻き込んだ歴史的な大会にしていると言っても過言ではないわけであります。
そしてつい先日、軒並みメジャーリーガーを揃えたチームメキシコを逆転サヨナラで破り、その勢いのまま、メジャー最強軍団アメリカチームを撃破して世界一になってしまいまして、こいつあ春から縁起がいいやと、日本中大騒ぎ、久しぶりに野球見て泣いた。そうこうしているうちに選抜高校野球も始まりまして、そのうちプロ野球も開幕しますから、今まさに球春まっさかりとなっております。
私たちの世代は、子供の頃から、ちゃんとしたグローブもバットもなくても、集まって野球をして遊んだ人たちでして、このゲームを知らない奴はいません。だからみんな何らかの形で野球をやった経験があります。今の子供達にはいろんな選択肢があるんでしょうが、我々はなんだかまず野球でしたね。その中には、当然上手い奴もいれば下手な奴もいるんですが、ともかくみんなでやるわけで、その頃テレビで観れるスポーツ中継は、野球と相撲くらいでしたし、人気のスポーツといえば野球という時代です。
そんな時代だったもんで、働き始めた会社にも、草野球だけど野球部というのがあって、時々早朝の神宮外苑絵画館前の草野球場で試合があったりしたんですね。まあなんだか忙しくて小さい会社だし、試合だと頭数を揃えなくちゃいけないわけで、若いというだけで、朝から呼び出されたりしていました。中学以来キャッチボールくらいしかやってないのと、基本ヘタクソな上に、いつも二日酔いでしたから、ただ立ってるだけみたいなもんでしたが。
この会社はテレビのCMを制作してましたが、皆さんけっこう激しく働き、また、けっこう激しく酒を飲む人たちでもありました。仕事にもそうですが、野球にも妙に情熱的なとこがあって、チームを強くしようと、たまに合宿なんかもやっていましたね。
働き始めて何ヶ月かした頃、制作部長で野球部の監督でもあったオカダさんが、若者を一人スカウトして連れてきまして、このマンちゃんという若者は元高校球児ということで、野球部的には期待の新人だったんですね。彼の仕事は制作部の一番下っぱで、すでにいた私と一緒に働き始めまして、こっちの方が何ヶ月か先に入ってましたから、仕事を教えてあげたりして、多少先輩風も吹かしてました。
それからしばらくして、早朝野球に彼がやってきたんですけど、その日は試合じゃなくて練習で、シートバッティングをやってました。順番に打席に入って球打って、打ち終えたら自分の守備位置に行って守るみたいな流れでやる練習でして、そのとき期待のマンちゃんがマウンドに上がってピッチングを開始したんですが、明らかにレベルが違ってるのがわかりました。私の順番が来て打席に立ったんですけど、球が見えなくてミットに入った音だけ聞こえました、マジ、速えわ。

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それもそのはず、マンちゃんは本物の野球小僧で、高校3年の時には、夏の甲子園大会の富山地区予選決勝戦を戦い、最後に敗れたんだそうです。彼は外野手で控えの投手でもあり、5番打者だったそうで、試合の最後に相手チームが放ったサヨナラヒットが、頭上を超えていった時に、マンちゃんの夏は終わったそうで、その時の夏の入道雲をバックに消えていった白球の映像を忘れていないと、まるで沢木耕太郎のスポーツドキュメントのようなコメントを、後々どこかの居酒屋で聞くことになります。
いろいろな補強が功を奏し、野球部は強くなってきて、CM制作会社連盟の大会でも優勝を争うようなチームになります。だんだん野球経験の豊富な新人社員も入ってきて、その中でもマンちゃんは中心選手でチームの強化には欠かせない存在であり、野球の応援に来ていたマンちゃんの彼女は、やがて奥さんになり、その結婚披露宴の司会をやらせていただいたりしましたが、野球の方では私は必要とされなくなり、ま、立ってるだけですから、自然と戦力外になっていきました。
しかしマンちゃんとは、よくよく縁が深かったと言わざるを得ません。この人と私は会社でも数少ない同じ年の生まれですが、彼は早生まれなんで一学年上です。なんで会った時に私よりちょっと後輩になったかと云えば、大学に2年多めに行ったせいで、余分の大学生活送ってる時にバーテンやっていて、そこのバーで岡田さんにスカウトされておんなじ職場になったようなことです。
それ以来ずっと今まで同じ職場にいるもんで、前に演出のセキヤさんから、
「君たちは、どっちが先輩なの?」と聞かれたことがあって、
「僕の方が数ヶ月だけ先です。」と云ったら、
「ああ、この業界は15分でも先の方が先輩だからね。」と云われましたが。
ただ、早い時期から、どう見ても私より兄貴キャラのマンちゃんが、私をさん付けで呼ぶのは、どうも居住いが悪かったんですね。同じ一番下っぱで苦労してて仲良くなった頃に、彼が高い洋酒を奢ってくれたことがあって、二人で意気投合してボトル空けて、けっこうベロベロに酔って別れた次の日の朝、会社で会ったら私はちゃん付けで呼ばれてて、ちょっと楽になって、そのまま今に至ってるわけです。
それから10年くらいして、30代になって、一緒に新しい会社作って独立したんですけど、これはこれで大冒険でいろいろありましたが、この時もマンちゃんは大活躍で、新会社もどうにか軌道に乗りました。
なんだか、WBCの世界最高峰の野球に感動しながら、いつかの神宮外苑の二日酔いの早朝草野球を想い出してたんですね。

2020年11月30日 (月)

ホークス強かった

Senga


コロナ禍の中、春からいろんなことになってしまった今年のプロ野球も、先日の日本シリーズをもってシーズンを終了しました。無観客試合も含めかなり特別な年になりましたが、6月19日には開幕し、各リーグ120試合のペナントレースを戦い、11月21日に始まった選手権で日本一を決したわけです。結果はパ・リーグのソフトバンクホークスが、セ・リーグの読売ジャイアンツを敗りまして、今年の日本プロ野球の覇者となったのは、ご存知の通りです。
私、このところコロナ騒ぎで在宅時間が長いからというわけでもなく、今回の日本シリーズでのテレビ観戦は、結構楽しみにしておりまして、なぜなら、この2チームはペナントレースで圧倒的な強さを見せており、野球チームとしての完成度が高いので、個々の選手の活躍も含め接戦の好ゲームになるのではないかと、阪神ファンの私ではありますがそれは置いといて、この一週間はレベルの高い、手に汗握る日本シリーズを堪能できるのではないかと、期待しておったわけです。
それと、昨年の日本シリーズは、同じこの2チームの顔合わせでありましたが、あろうことかジャイアンツが4連敗で1勝もできずに終わったので、今年は、さぞやリベンジに燃え上がっておると思われ、ホークスもそうはさせじと立ち向かうはずですから、どう考えても歴史的死闘が繰り広げられるのではないかと、想像しておったです。
ところが、蓋を開けてみるとですね、今年もソフトバンクの4連勝で決してしまったんですね。セ・リーグ最強のジャイアンツのピッチャーがバッターが、しきりと首を傾げる中、連日ワンサイドゲームが続き、ジャイアンツファンも呆然とするうちにシリーズは終わってしまいました。
日頃のアンチジャイアンツの立場としては、この結果は悪くないのですが、ここまで一方的なことになると、むしろ気の毒な気さえしますし、第4戦はちょっと最後まで見られませんでした。そして、これは1シーズンジャイアンツに負け続けた阪神はじめセ・リーグのチームからすると、ソフトバンクは実力的には雲の上ということになるわけです。ボクシングなら3階級くらいの差でしょうか、これはセ・リーグとしても大問題という事です。
4連敗が2年も続いたわけですから、これは単に短期決戦にはこういうこともあるよねとは言ってられないですよね。そう言えば、この10年でセ・リーグが日本シリーズに勝ったのは1回だけだし、交流戦も、今年はなかったけど、ことごとく負け越してますよね。そもそも第7戦までもつれるドラマチックなシリーズも昔はあったけど、最近はそういうこともない気がします。
本当にセ・リーグとパ・リーグの実力の差は顕著なのでしょうか。確かに、日本シリーズを見た印象では、素人目にもソフトバンクのピッチャーの球は明らかな球威を感じるし、バッターのスイングの振りがやたら鋭く感じられたのは気のせいだろうか。まあ勝負事として、ここまで結果が出てるのだから、多分なんらかの要因はあるのでしょうね。
分析する人はいろいろいるようですけど、お互い選ばれたプロが競う中で、個々の選手の鍛錬の仕方や、プレーに対する取り組み方考え方、指導者の執念や姿勢、球団の方針、まあ言い出せばいろいろありそうです。
ソフトバンクの選手のことで、これはすごいなと思ったのは、第1戦先発の千賀投手と、第2戦先発の石川投手が、球団の育成選手から1軍の先発ローテーション入りしたピッチャーで、この二人の先発の球のキレが素晴らしく、ジャイアンツがほとんど歯が立たなかったことです。これで巨人軍は流れを失います。ついでに云えば、この二人のキャッチングを含め全試合にキャッチャーとして出場し、2本のホームランを放った甲斐捕手も、育成選手だったんです。
なんというか、チームを強くするための体制がきちんとしていて、フロントの方針もかなりしっかりできてる気がしますね。
これでホークスはシリーズ4連覇、向かうところ敵無しの様相を呈しています。ちょっとしばらくソフトバンクホークスの時代になりそうです。
昔から球団のオーナーの情熱がチームを強くして黄金期を築くところがありまして、巨人の正力さん、西武の堤さん、ソフトバンクの孫さん、みんなそうです。この方達に共通してるのは、チームを強くしたいが、金は出すけど口は出さないところで、孫さんの場合は、オーナーの意向を、球団会長として、世界の王さんが、きちんと形にしてるとこが強いところじゃないでしょうか。

Gita


セ・リーグの各球団の方々、ボオーっとしてる場合じゃありませんぞ、ほんとに。
ストーブリーグは、毎年、FAや外人の話でで大騒ぎしてますけど、もっとちゃんとやることやって結果出してくださいな、ほんとに。

2016年9月20日 (火)

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」のこと

プロ野球シーズンも終盤に差し掛かりまして、半年かけたペナントレースで優勝するというのは、それでなくても盛り上がるもんですけど、今年の広島カープの優勝に特にスペシャルな嬉しさがあるのは、それが25年ぶりであるということでして。25年前と云えば、1番-田中広輔、2番-菊池涼介、3番-丸佳浩の同い年俊足トリオが全員2歳だったりするわけですから、ずいぶんとためがあるんです。

だいたいこのチーム、1975年の初優勝の時も球団創設から25年かかっておるんですが、ただ、1975年から1991年までの16年間には6回優勝しているんだから、この頃は結構強かったわけです。そのあと25年間優勝できなかったのは、やはり資金を持たないチームの辛さでして、ちょうど1993年から導入されたFAシステムの影響で、主力選手が他チームへ移ってしまったり、かといってFAでの補強もできず、また、その頃ドラフトに逆指名制度が導入されたのも、このチームにとっては逆風になりました。チーム力低下に伴い、順位も下がり、観客動員も減り続け、球場の老朽化などもあって、しばらく冬の時代が続いておったわけです。

ただ、このアゲンストの時代、球団は手をこまねいていたわけではありません。もともとこのチームは資金がない分、新戦力を探してくるスカウト陣には定評があり、全国のアマチュア、海外の選手などを発掘し続けます。そして、その原石を磨きに磨くわけです。ともかく、カープの普段からの練習量は半端じゃなくて、昔、金本さんがカープから阪神に移籍した時に、そのタイガースの練習量の少なさに驚愕したと云います。

そして、一定の強化を続けるうちに、2007年に発覚した複数球団の裏金問題で、逆指名制は廃止となり、このあたりから逆襲に転じる契機となります。

球団も色々とファンサービスを工夫しまして、徐々に球場に観客を呼び戻し始めました。資金のこともあり、ドーム球場はできなかったけど、本場のボールパークのような魅力的なマツダスタジアムを完成させ、そこにアイデアあふれる観客席も作りました。

そんな苦労が少しずつ報われ、このところ少しずつ順位も上げて、何年か前からカープ女子などと呼ばれるおねえちゃん達も現れて、なんか盛り上がってきたところです。ちょっと前の東京ドームで行われた巨人×広島戦などは、満員の客席のほぼ半分は真っ赤で、東京にこんなにカープファンがいたのかと思えるほどの社会現象となっております。

そして、この数年少しずつ膨らんできた優勝への機運を一気に盛り上げ、その選手たちやファンの精神的支柱となったのが、黒田博樹投手です。さんざん語られていることですが、2007年に大リーグへ渡ったこの人が、一昨年、何10億と云われる大リーグのオファーを断り、広島と推定4億で契約して帰ってきたことは、ずいぶん大きな出来事でした。

彼は1997年に入団し、2007年までに103勝してチームのエースとなりますが、その間チームは低迷します。FA権を取得して2年目、悩む黒田が大リーグ挑戦を決めた後の囲み取材で、

「広島が常勝軍団だったら、ことは違っていたのか?」という記者の質問に、目を真っ赤にして、

「・・・・・・。大リーグ行きはないと思います。」と答えました。

そして、もし日本に帰って来ることがあれば、必ずカープに帰って来ると云います。

そして、ドジャースとヤンキースで合わせて79勝して、本当に帰ってきたわけです。

いや、多くは語らないけど、かっこいいです。マスコミは男気黒田と云ってはしゃぎ、カープファンは痺れました。その1年目、黒田は11勝の奮闘をしましたが、ペナントレースの成績は4位に終わります。1975年生まれの、ちょうど40歳になっていました。その黒田が、来年もやると云いました。泣けるよなあ。そこで迎えたのが今シーズンだったんですね。ファンもナインも燃えます。

そして、もう一人、攻撃の中心となったベテランに新井貴浩選手がおります。この人もある意味結果的には、優勝への精神的支柱になるのですが、ちょっと黒田とは事情が違っているんですね。

この人は1999年に入団して、2007年までに987安打を放ちチームの中心打者となっていました。しかし、チームは低迷期であり、優勝できるチームで活躍したいと願い、黒田と同じ時にFA権を行使して阪神に移ります。この時の記者会見で、

「辛いです。カープが好きだから・・・」と云って、ポロポロと涙を流しました。

黒田が海を渡ったのに比べ、新井は同じセ・リーグの阪神に行きましたから、カープファンからは野次られたりもしました。そして阪神にいた7年間はヒットも打ちましたが、腰痛に悩まされたりもして、けして万全ではありませんでした。結局優勝もしてません。

2014年、新井阪神最後の年、成績は、176打数43安打3本塁打31打点、打率.244でした。大幅減俸通告を受けた新井は、球団に自由契約を申し入れます。

この時、右打ちの長距離打者が補強ポイントであった広島が、獲得に動きました。阪神が提示した年俸7000万を下回る2000万という広島の提示を、新井は即決で受け入れます。広島は生まれ故郷でもあり、自分を育ててくれたカープで最後はプレーしたいと思ったのでしょうか。この時38歳。そして、帰って来た新井をファンは黒田と同じように、お帰りと云って暖かく迎え入れます。

そこから今年にかけての大活躍は、すでにご存知の通りなんですけど、実はこの人が8年ぶりに帰って来た2015年2月の日南キャンプで、ベテランの石原を中心に後輩達が焼き肉屋で、新井さんのことを招待した飲み会があったんですね、。この会が、

「新井さん、どのツラ下げて帰って来たんですか会」という名前の会だったそうです。

かつて自分から出ていって、選手として盛りも過ぎて、結局優勝も経験せず、ノコノコ帰って来た負い目もあったかもしれないけど、新井はこの会ですごく楽になったみたいです。仲間のユーモアに救われたということでしょうか。そして、そっから死ぬ気で鍛えに鍛えて、復活を果たしました。

このチームの25年ぶりの優勝という大きなストーリーには、2007年に出ていって2015年に帰って来た、ややとうの立った二人のベテランの、それぞれのストーリーが、少なからず作用していたわけであります。

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私は阪神ファンで、新井選手が阪神で不調のときは、ヤジり倒しておりましたが、広島に帰ってからの別人のような活躍と優勝への貢献は、素直に嬉しかったし、胴上げで黒田が泣いた時は、オジサンも泣いたです。

そういえば、昔、阪神のエースであった天才江夏は、優勝せぬまま球団を追われ、4年後に広島でストッパーとして、初のリーグ優勝と日本一を成し遂げたのでした。又、2003年に18年ぶりに阪神が優勝できたのは、広島から金本選手が来てくれたおかげでした。

野球というスポーツを見て、得られる感動というのは、つくづく感情移入できる選手の活躍だなと思いますね。

このところの阪神には感情移入できる選手がなかなか少ないのですが、金本さんが監督で帰ってきてくれて、時間かかってもよいので、ちゃんとチームを作ってくれることを期待しています。今年はとりあえず最下位くさいけど、近い将来ということで。

 

 

2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年5月 2日 (金)

私的・阪神ファンの歴史

今年は、プロ野球が開幕してから、珍しくタイガースが調子よくて、わりとここ数年にはなかったことなので、久しぶりに書いとかないと、また書く機会を失うかもしれないので、ちょっと書いときますね。

2005年にリーグ優勝して、日本シリーズでロッテにコテンパンにやられて、1勝もできずに4連敗してから、現在に至るまでずっと不調で、これは今に始まったことではなく、私が覚えてる限り優勝したのは、1985年と2003年と2005年と、まあめったに優勝なんかはしないチームなわけです。

では何でこのチームを応援しているかというと、いつも肝心なところでは勝てないんだけれど、その中に肩入れしたくなる、強いチームに(まあ巨人のことなんだけど)立ち向かっていくヒーロー的な選手が、必ず一人いたからなんですね、昔から。

具体的には、最も強かったころの常勝巨人打線からほとんど点を取られなかった、村山実投手、江夏豊投手。この人たちは、巨人に対して異常な闘争心をむき出しにして、剛速球で挑み続けました。有名な話ですが、かつて天覧試合で巨人の長嶋選手から撃たれたサヨナラホームランを、村山はあれはファールであったと最後まで言い張っており、その後、自身の記録である1500奪三振も2000奪三振も、長嶋選手から狙って奪っております。後輩の江夏投手には、

「長嶋は俺がやる、王はお前がやれ。」と、言い放っており、

江夏は日本新記録となるシーズン354奪三振を、狙い澄まして王選手から奪っております。多分、私の年代で阪神ファンを名乗っている人は、少年時代に、この村山か江夏に影響を受けた人です。

チームは優勝とかできないんだけど、この役者たちは試合の中で、必ず痺れる見せ場を作るわけです。云ってみれば、ちょうど幕末に散っていった新撰組の近藤勇と土方歳三のような存在とでもいうのでしょうか。

村山投手が引退をして、その後江夏は球団を追われます。このあたりがこの球団の球団たるところなんですが、ちょっと生意気で扱いにくくて多少ピークを過ぎたと思われる選手は、すぐトレードに出しちゃうんですね。私は江夏の大ファンでしたから、数日間呆然としていました。阪神ファンを辞めようかとも思いましたが、江夏とバッテリーを組んでいた田淵幸一捕手は、見事な滞空時間の長いホームランを打つ選手で、ホームランアーチストと呼ばれ、1975年には、王選手の14年連続本塁打王を阻止し、名実ともにミスタータイガースとなって孤軍奮闘しておりましたので、思いとどまります。

ただ、それも長くは続かず、1978年のオフの深夜、突然トレードに出されます。

1969年からの数年間、江夏・田淵の黄金バッテリーでのセ・リーグ制覇を思い描いたファンの夢は、早くも終わりを告げました。結果的にはその後、二人ともリリーフエースとしてまた4番バッターとして移籍先の球団を優勝に導きます。全く、阪神の球団フロントは何をやっとるんじゃと、いまだに憤ってるわけです、個人的には。

ファンにとっては、ヒーローをすべて失ってしまったかに思われましたが、そのころ、1974年にあまり期待もされずドラフト6位で入団したあの掛布雅之が確実にポジションをつかみ始めます。江夏と田淵を順番に失っていく中で、この高卒ルーキーは成長を続け、本人いわく身長まで伸びるのですが、3年目には、27ホーマーを放ちます。阪神ファンたちの愛情は、すべてこのカケフ君に向かいます。

今もそういうところあるかと思うんですが、あの頃の阪神ファンというのは、ちょっとどうかしてたんですね。

1973年のペナントレース10/22最終戦に、巨人と阪神が優勝をかけて戦った歴史的な試合があったんですが、9-0で阪神は完敗します。その時、甲子園の阪神ファンたちは、なだれを打ってグランドに駆け下り、逃げる巨人の選手につかみかかります。胴上げどころじゃありません。さすがに後味悪かったですね。

まあ一事が万事そういうところがあって、情が深すぎるというか無茶苦茶なとこがあります。友人のK野さんという人は、高校卒業まで甲子園のすぐそばで育って、今ヤクルトファンなんですけど、何で阪神ファンにならなかったかと云うと、阪神ファンを見て育ったからだと言いました。

ヒーローが誰もいなくなったタイガースで、掛布はものすごく愛されたんですけど、不調になるとものすごいブーイングも浴びます。なんか気質として愛憎が激しいんですね。

そういう阪神ファンとは少し距離を置いてるつもりなんですけど、やはり阪神ファンなので、そういうとこありますね、ちょっと。最近掛布さんが本を出していて、当時を振り返ってますけど、好調時は天国、不調時は地獄だったと言ってます。でもあのファンの歪んだ偏愛が、あれだけのホームランを打たせたかもしれぬと言ってます。複雑です。

そして、江夏がいても田淵がいてもまったく達成することのなかった優勝のチャンスが訪れます。

ちょうど、江夏と田淵が球界を去った1985年。4番打者は掛布(30歳)です。そして田淵との交換トレードでやってきた真弓明信(32歳)、1980年にドラフト1位で早稲田から入った岡田彰布(28歳)、そして海の向こうからタイガースを優勝させるためにやってきたランディ・バース(31歳)。この年、この私と同年代の選手たちが200発ものホームランを放ち、1964年以来のリーグ優勝、その勢いで、常勝広岡西武ライオンズを日本シリーズで破り、日本一を達成するのであります。

ただ、強かったのはこの年だけでした。そのあとまた2003年まで18年間優勝から遠ざかります。ま、強いんだか弱いんだか判らんチームなんです。たぶん弱いんですけど。

まあ、そういうチームなんで、自然とチームというより4番打者とか、エースの活躍に関心がいってしまうところがありまして、そういう選手がいない時は、ひたすらよい新人が育つのを待っているわけです。それなので、ファンは昔から二軍の選手のことをよく知っているし、毎年ストーブリーグ(ドラフトやトレードの話題)は大変盛り上がります。

そうこうするうちに、プロ野球界では、FA制度が始まり、4番打者やエースに他球団から来ていただくということが始まります。阪神も広島から金本さんに来て頂いて、優勝できました。思えば、この制度がなかったら1985年からいまだに優勝してなかったりするわけですから、これはこれでありがたいことなんですが。

ただ、掛布さんも書いていますが、やはり、そのチームの4番打者とエースは、そのチームが育てるのが理想だし、だからこそ盛り上がるんじゃないかということも、たしかに言えると思います。

まあ、昔からの阪神ファンとしてはですね。あの江夏や掛布のように、逆境を跳ね返して、胸のすくような勝ちゲームを見せてくれる、筋金入りのスラッガーやエースを待っているわけです。

そう考えるとですよ。今、やっぱ期待するのは、藤浪晋太郎君なわけです。たまたま今打線が調子よくて、マートンもゴメスも鳥谷までもよく打ちますけど、これ常識ですけど、打線は水物なんです。行き先を見失ったチームを救えるのは,やはりエースなんですね。あの村山や江夏のように。

藤浪君は、若いのにしゃべることもちゃんとしていて、賢くて大人だと思いますが、まわりを気にせずに、あの切れの良いストレートを磨いて、圧倒的なエースを目指してほしいです。そして、あの巨人打線からビシバシ三振を奪ってほしい。

思えばこれまで、いろんなことがあったわけですが、ファンとしては、ここんとこ、またちょっと盛り上がっております。

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2012年8月15日 (水)

真夏のスポーツ観戦記

この夏は、ロンドンオリンピックの年でもあり、例年にも増してスポーツ満載。

ヨーロッパ圏のオリンピックは、寝不足覚悟とはいえ、連日の熱戦にややばて気味ではあります。最近歳のせいか涙もろくもあり、日本選手の活躍に、真夜中に一人涙ぐんでいるのもどうかと思っておるうちに、はやくも閉会式。習慣で朝早くに起きてみると、この日は、全米プロゴルフ選手権の最終日でもあり、復活をかけたタイガー・ウッズが、新鋭のロリー・マキロイを追い、そこに石川遼も参戦の様子が伝えられています。

かと思えば、同じ時間大リーグでは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有が、デトロイト・タイガースのスラッガー、カブレラやフィルダ-を相手に、12勝目をかけて渾身の投球をしておりました。

そしてふと時計を見れば午前6時半、あと2時間もすれば、今度は夏の甲子園高校野球選手権大会の中継が始まります。こちらは大会6日目、今日も熱戦に次ぐ熱戦です。

思えば、この夏の私のスポーツ漬けは、この高校野球の東東京地区予選から始まりました。7月7日に開幕したこの大会に、うちの息子も出場しており、7月17日に優勝候補の強豪国士舘高校に6-0で敗れるまで、3試合を戦い、高校の野球生活を終了しました。この大会で敗れると3年生の部員は、そこで引退ということになるのが、夏のならわしのようです。全国3985校の球児たちは、たったの一校を除き、3984の敗戦を積み重ねてこの大会を終えることになります。トーナメント戦てそういうことなのだけれど。

息子たちのチームのこの3試合は全部観戦しました。平日には会社も休み、ものすごい猛暑の中、最後まで見届け、どうしちゃったんだというぐらい日焼けもしました。まさに夏の高校野球を満喫したんですね。

なんかこいつらの野球がこれで観戦できなくなると思うと、どうしても観ておきたかったんです。もちろん甲子園に行くずっと手前で負けてしまうだろうということも判ってるんですが。

彼らの学校は中高一貫校で、珍しく中学から硬式野球部があったので、彼らの学年の野球は、6年間見てきたことになります。まだ小学生に近い体型だった頃から見ていると、ずいぶんと身体も技術も成長したように思うのですが、勝負は相手あってのこと、突然見違えるように強いチームになることはありません。でも6年間、暇さえあれば、公式戦も練習試合も観に行きました。負けることの方が多いけど、皆少しずつうまくなってきます。今まで絶対に捕れなかった球が捕れたり、打てなかった球が打てたり、アウトにできたり、セーフにできたり、そういうのを見ているだけで飽きなくて。前より下手になることはあんまりないんです。硬式野球部ってどこもけっこう練習するもんなんですね。練習もきついし、監督もきついです、ものすごい勢いで身も蓋もなく怒られています、いつも。



Kokoyakyu何度も見に行くことで、一人一人の選手たちのキャラクターがわかってくるのも面白いことで、身体の成長も個々に違うし、それぞれ得手不得手があるし、性格も少しずつわかってきます。そういう中で、みんな泣いたり笑ったり、悩んだり調子乗ったりしながらやってきたわけです。残念ながら途中で退部してしまった仲間もいました。うちの息子も、何度かやめることになりそうなことがあったようだし、最後までやり通した連中というのは、それだけでほめてあげたいところがあります。

そして最後の夏、なかなかいい試合を観せてもらいました。だいたい得点力は低いのですが、いい守備をして、エースも踏ん張り、先手を打って逃げ切るパターンを彼らなりに作って頑張りました。最後に戦った国士舘高校は、さすがに優勝候補、格が上で手も足も出なかったけど、8回まで3-0で踏ん張り、エースも8回力尽きて6-0になって敗れたけど、コールドになってもおかしくない相手でしたから、よくやったと思います。

ただ、息子たちのチームがどれほど練習したと言ったところで、あの試合で初回にホームランを打った国士舘の3番バッターは、毎日の練習の後、10km走ることと1000回の素振りを欠かさないと、新聞に書いてありましたから、上には上がいるんです、果てしなく。

その国士舘高校は、東東京代表をかけた決勝戦に進み、大接戦の好ゲームの末、惜しくもサヨナラ負けを喫しました。もうこのあたりになると、どこが甲子園に行ってもおかしくないレベルなんでしょうが、勝負は時の運です。そして甲子園ではもうすぐ、この夏一度も敗れることのなかった一校が決まります。

 

息子の高校野球から、世界でたった一つの金メダルまで、ものすごくたくさんの勝ち負けを見届けては、そのたびに深いため息をつく夏なのです。

 

 

2011年12月12日 (月)

優勝請負監督と優勝請負ストッパー

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秋深いこの季節が好きな理由には、プロ野球日本シリーズの記憶があります。いつの頃までか、かつて日本シリーズは、必ずデーゲームでした。もちろんドーム球場など一つもないころのことです。少し肌寒くなり、太陽の位置が明らかに低くなった美しい斜光の中、日本一をかけて、セ・リーグとパ・リーグの優勝チームが雌雄を決します。そして数々の名勝負が、この季節の記憶として刻まれています。

今年もその季節が終わり、もうすぐに冬が訪れるころに、かつて日本シリーズを8回戦った名監督がこの世を去りました。

西本幸雄さん。1943年に大学野球から学徒出陣し、中国で終戦を迎え復員ののち、社会人野球での優勝を経て、1950年に毎日オリオンズに入団します。この時すでに30歳で、選手としてのピークは過ぎていましたが、その後優勝に貢献し、コーチ、二軍監督を経て、1960年に監督に就任、一年目にしてチームをリーグ優勝に導きますが、日本シリーズには勝てず、オーナーと対立して辞任します。

このあたりまでのことは、私もまったく知らないことですが、1963年から弱少だった阪急ブレーブスの監督に就任し、チームを鍛えに鍛え上げて、1967年にリーグ優勝し、常勝阪急の監督となった西本さんのことは、よく覚えています。

チームは、1967年、1968年、1969年、1971年、1972年とパ・リーグを制覇しています。しかしながら、1965年~1973年は、巨人が9連覇をした、いわゆる巨人黄金時代で、西本さんが阪急ブレーブスを率いて戦った日本シリーズは、巨人を苦しめたものの、すべてV9巨人に敗れております。

1973年に、阪急の監督を勇退した翌年には、やはりお荷物球団と云われていた近鉄バッファローズの監督に就任します。ここでもまた、チームを、選手を、鍛えに鍛えます。チームの強化と、見込んだ選手の育成のためには、あえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さず、選手からは恐れられたが、本当の意味で信頼され、愛されていたそうです。

近鉄バッファローズを強力チームに育て上げ、初めてリーグ制覇した1979年は、西本さんが悲願の日本一に最も近づいた年だったかもしれません。

ここで西本監督の日本シリーズ初優勝を阻んだのが、広島東洋カープ、そして、当時広島の抑えの切り札と云われていた、江夏豊でした。

近鉄2連勝のあと、広島3連勝、ここで大阪球場に戻り、近鉄が逆王手をかけ3勝3敗の五分に。

そして第7戦、4-3と広島がリードした7回、広島はリリーフエースの江夏を投入します。1点差のまま9回、ここで江夏が先頭打者にヒットを許し、代走の藤瀬は盗塁を試みます。捕手水沼の送球は大きく逸れ、無死3塁、バッテリーは、同点を覚悟せざるを得ません。警戒するバッテリーを徐々に攻めて、近鉄は無死満塁のチャンスを得ます。一球一球息づまる展開、一打出れば、逆転サヨナラゲーム、近鉄の優勝となります。

のちに山際淳司が、9回の江夏のすべての投球を分析した「江夏の21球」という有名なスポーツノンフィクションのクライマックスです。

バッターは代打・佐々木恭介、ベンチの指示は「強攻」でしたが、江夏はこれを三振に抑えます。次の石渡茂の打席で、初球のストライクを見逃したのを見て、西本監督は作戦をスクイズに切り換えます。江夏の19球目、3塁走者藤瀬がスタート、石渡がスクイズの構えに入る瞬間、後に語りぐさとなりますが、江夏はカーブの握りのまま、立ち上がった水沼にスクイズを外した球を投げます。 石渡のバットは空を切り、ランナータッチアウトで2アウト。20球目ファール。21球目、空振り三振3アウト。西本近鉄は、日本一を逃しました。

私は、この江夏豊というピッチャーがデビューした年からこの人のファンになり、真剣にプロ野球中継を見るようになり、阪神ファンになり、この人がトレードに出されたときは晩飯が食えず、その後、血行障害と闘いながら、リリーフ投手としてよみがえってからもずっと応援していました。

江夏が阪神に入団した時に小学生だった私も、この試合が行われたときは、すでに働いておりました。日本シリーズ第7戦はTV観戦したかったですが、この時私は瀬戸内海の小島にロケハンに行くために、新幹線に乗っていました。関西は曇りでやや小雨模様、今頃やってるなあなどと思っておりましたところ、岡山も近づいたところで急に車内放送がありました。

以下記憶をたどりつつ、

ピンポンポンポーーーン

「車掌の○○と申します。おくつろぎのところ恐縮ですが、ただいま大阪球場で行われておりますプロ野球日本シリーズの情報が入りましたのでお知らせします。4-3と広島リードで迎えました9回裏、近鉄がノーアウト満塁と攻めたてましたが、ここからピッチャー江夏がふんばり、三振の後、スクイズを見破るなどしてこれを抑え、広島が4勝3敗で日本シリーズを制しました。以上です。」

そして車内は、歓声に包まれました。

セパ2リーグ分立初年の1950年には、ダントツの最下位だったこの両チームの日本シリーズは、好ゲームの連続、接戦でものすごく盛り上がり、その翌年もたしか広島-近鉄の顔合わせで第7戦までもつれ、やはり最後は江夏に締められて、西本近鉄は敗れます。

 

西本さんの訃報に触れ、江夏談。

「勝利に対する執念をすごく感じた。会うたびにあの時(江夏の21球)のことで、『この野郎』と言われ、『執念深いおじいちゃんやね』と返していた。同じチームで選手、監督としてやったことはないけど、一度は一緒にやりたいと感じさせる人で、個人的にも大好きな方だった。寂しいよな、やっぱり。」

 

 

2011年1月28日 (金)

○○語録

最近ツイッターに少し参加し始めて、それはそれで面白いのですけど、ツラツラ読んでいると、時々いろんな名言とか語録が出てきて楽しめます。

確かに、これらは、文章の長さも内容も、けっこうツイッター向きで、つい読んでしまいます。

たまたま読んだ名言集は、古今東西の作家や学者から、松下幸之助・本田宗一郎はもとより、孟子・法然上人・マザーテレサから、大山倍達・ボビージョーンズ・千代の富士まで、ありとあらゆるジャンルから集められています。語録で出ていたのは、寅さん語録に長嶋語録、これもなかなかです。ついでに、語録といわれるものには、どのようなものがあるのかを、インターネットで調べてみますと。

あります、あります。ご存知、毛沢東語録から、坂本龍馬語録、山本五十六語録。イチロー語録に、アントニオ猪木語録、キングカズ語録、オシム語録、はたまた、松岡修造語録に、桃井かおり語録と・・・

ためになるもの、おもしろいもの、笑えるものと、いろいろですが、その中で最高に嬉しいのは、やはり長嶋茂雄語録でしょう。Nagashima2

 

この方は、プロ野球史上、もっとも有名な人です。選手時代はスーパースターで、日本中の誰もが彼を知っていました。そして、何よりも彼はファンから本当に愛されていました。彼の発言は、メディアを通していつも注目されていて、そのコメントはある意味、必ずファンの期待にこたえてくれました。それは、この人独特のサービス精神でもあったと思いますが。

そのコメントのひとつひとつを集めた人がいて、それを公開しているインターネット上のサイトがいくつもありました。名言の数々をご紹介します。

まず、いわゆるひとつの、英語ものというジャンルがあります。

「メイクドラマ」 「失敗は成功のマザー」 「ワーストはネクストのマザー」

肉離れを「ミートグッバイ」と表現したり、

不甲斐ないジョンソンに、「ユーは、マンだろ」と叱責し、

「アイム、失礼」など、

2000年の正月に、「んーーミレニアム、千年に一度あるかないかのビッグイヤー」

「松井君には、もっとオーロラを出してほしい」

「桑田君をスライディング登板させるつもりです」

「勝負はネバーギブアップしてはいけないということですね」

記者から、恋愛中の夫人のことを聞かれ、「僕にもデモクラシーってもんがあるんです」

さすがに、これほんとだろうかというのもあって、

立教大学時代の英語の追試で、

I live in Tokyo. を過去形にせよという問題に、I live in Edo. と答えたとか、

ドジャーズに視察に行った時、帰りのタクシーを呼んでほしくて、関係者に、

Please call me Taxi. と云って、翌日からドジャーズの選手たちから、

Hey Mr.Taxi. と呼ばれたという話もありました。

英語に限らず、

巨人の監督を辞めて、12年ぶりに再び監督に就任した時、

「僕は12年間、漏電してましたから」

また

「昨夜も午前2時に寝て、午前5時に起きましたから、5時間も寝れば十分です」

「今日、はじめての還暦を迎えまして、しかも年男ということで…」

他にも、これはある意味ていねいでもありますが、

「一年目のルーキー」 「今年初めての開幕戦」 「体験を経験」 「疲労からくる疲れ」

「バースデー誕生日」 「秋の秋季キャンプ」などというのもあります。

名前の呼び間違いシリーズもあって、

鈴木康友に、「ノブヨシ、調子はどうなんだ」

「ピッチャー阿波口」そのときブルペンには、阿波野と川口がいてあわててたそうです。

広澤代打時に、「代打、広岡」

娘の三奈さんに、「おい、三奈子」

最もすごかったのは、昔ご自身が担当した商品のラジオCMの録音で、

「こんにちは、長嶋茂雄です」というコメントを、何度も、

「こんにちは、長嶋シゲルです」と、読んで、スタッフが絶句したというのがありました。

 

この話を、長嶋さんの大ファンの友人に話したら、

「いや、長嶋さんは昔シゲルだったことがあるのだよ」

と云っていましたが。

 

なんだか嬉しくなる話ばかりですよね。

さらに、すでに有名ですけど、私が大好きなエピソードです。

巨人軍、ノーアウト1塁のチャンス、長嶋監督が代打を告げに出てきます。

「バッター、淡口!」甲高い声とともに、長嶋さんはバントのゼスチャーをしています。

 

もひとつ、

阪神タイガースの掛布雅之は、自分と同じ千葉出身の長嶋さんの大ファンで、大変尊敬していました。そのことは長嶋さんもよくご存知で、ある時、掛布が大スランプに陥った時のことです。

長嶋さんは東京から大阪にいる掛布に電話をかけました。たとえライバルチームの4番打者であっても、何とかスランプから救ってやろうという広い心の持ち主なのです長嶋さんは。

二人のバッティング談議は、熱く続きました。話しつくして、ある間ができた時、長嶋さんが云ったそうです。

「掛布君、ちょっと構えてみてくれる?」

掛布は、少し考えてから、バットを持って構えたそうです。

 

いい話ですよねえ。

たぶん、こういう話が沢山あって、ファンたちがそれに尾ひれを付けたり、集めたりしているのは、この方の作為のないまっすぐなところが愛されてるからなんだと思います。

んーーん、いわゆるひとつの人徳なんでしょうか。 

私事ですが、数年前に亡くなった義父は元プロ野球のピッチャーで、現役時代、長嶋さんとよく対戦したそうです。長嶋さんがどんなバッターだったかを聞いたとき、

「まったくどの球を待っているのか、わからない人だった。」と云っていました。

その義父が年を取って、ある賞をいただいた時に、長嶋さんが色紙を送ってくださいました。今も大事に飾ってあります。

「野球とは、人生そのものだ。長嶋茂雄」

けだし名言です。

 

 

2010年2月26日 (金)

反骨のサイドスロー、逝く

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月に小林繁さんが亡くなりました。その現役時代を40より若い人はすでに知らないかもしれません。178cm,68kg、痩せっぽちの投手でしたが、その身体を鞭のようにしならせたサイドスローからの豪球は、数々の名勝負を生み、野球ファンをうならせました。

今年から日本ハムの一軍ピッチングコーチを引き受けることになっていた矢先、この訃報がどれほど思いもかけないことであったかは、梨田監督のリアクションを見てもよくわかりました。それに加え、改めて驚いたのは、その年齢です。享年57歳、1952年生まれといえば、私より2歳年長なだけです。

1期の長嶋ジャイアンツが2度の優勝をしたとき、1976年も1977年も、彼は18勝を挙げたチームのエースでした。無名の高校を出て大丸の呉服売り場にいた痩せっぽちの投手を見出した巨人のスカウトも立派でしたが、このピッチャーなしに長嶋ジャイアンツの優勝はあり得ませんでした。比べるのもなんですが、1977年に社会に出たばかりの私は、その頃、毎日撮影スタジオの床を掃除していました。入ったばかりで当たり前なのですが、スタッフの中の一番下っ端です。どう考えても、自分と同年代とは思えぬ貫録を彼は備えていました。

江川卓という人は、私より1歳年下です。あの1978年のシーズンオフ、日本中が大騒ぎになった「空白の一日事件」の二人の主人公が、3歳しか年齢が違わなかったのは、やはり意外な気がします。

高校野球史上、最高の投手といわれた怪物江川は、ドラフトで意中の球団から指名されぬ運命にありました。阪急ブレーブスの指名を断って、六大学の法政に進み大学野球の数々の記録を作り、大学卒業時には、クラウンライターライオンズの誘いを退け、アメリカに野球留学してしまい、ついに、1978年のドラフトの前日、意中の球団読売ジャイアンツと、電撃的に契約してしまいます。

ただし、この契約を社会は認めませんでした。ドラフトの前日だけは、前年度の指名権は消滅するのでどの球団からも拘束を受けないという不思議な理屈を、あの巨人軍が主張したのですが、そんなことが認められたら、誰でもその日に契約してしまい、ドラフト制度も蜂の頭もなくなってしまうわけです。誰が見ても、プロ野球界をリードする紳士の球団といわれる巨人軍が、子供のように駄々をこねているようにしか見えませんでした。結局ドラフト会議で江川投手の交渉権は、宿敵阪神が獲得することになります。

しかしながら、これでも騒ぎは収まりません。巨人も他球団も後にはひかず、当時のプロ野球コミッショナーは、江川を阪神に入団させた後で、巨人と阪神とのトレードを要望し、事態を終息させようと試みます。

そうなったら、そうなったで、今度は阪神が、

「あっ、そういうことなら小林君ください。」

と言っちゃうわけなんです。

かつて大人たちが決めた球界のルールっていうのは、どうなっちゃたんだろうって感じですけど。

たしか、1979年の春のキャンプに向かう羽田空港から呼び戻された小林投手は、ものすごい記者団に取り囲まれて、トレード移籍の発表をしたと思います。その時の映像が、先日小林さんが亡くなった時に、何回もテレビで流されていました。その席で彼は、

「このことで同情はされたくない。野球が好きだから阪神のお世話になります。」

と語りました。

何とも釈然としない結末でありながら、一応の決着がつき、シーズンが始まりました。江川投手は、2ヶ月くらい公式戦に出れなかったように記憶してます。

当時阪神ファンだった私としては、(今も阪神ファンですけど、なんだか)

怪物江川の将来性は、たしかに測り知れないけれど、すでに巨人のエースとしてあれだけの実績のある小林投手を放出してまで、ほしい選手なのだろうか。ともかく、小林投手には、頑張ってほしい。江川なんかに負けるな。という気持ちでした。

かたや、プロ6年で沢村賞まで獲ったピッチャー。かたや、高校・大学で活躍したとはいえ、全くの新人。ぜんぜん格も違うし、年齢ももっと離れてると思ってました。

1979年、阪神のエースとなった小林は、ものすごい活躍をします。怒りから来るエネルギーだったのでしょう。

2291S 完投17 完封5 奪三振200 防御率2.89

シーズンを通して全力投球、特に巨人戦は鬼気迫るピッチングで8戦全勝でした。

彼の好調時の特徴とされる、マウンドで投げた瞬間に帽子が飛んでしまう映像を何度も目にしました。当時若手芸人だった明石家さんまは、小林投手の形態模写で人気を博し、投球フォームに入る前に、きちんと脱げないように帽子をかぶるポーズが受けていました。

いずれにしても、彼の気合は、そのまんま成績となって現れました。

ただ、事件の起きたこの年に、気持ちが集中しすぎてしまった感もあり、少し身体的にも無理をしてしまったようで、翌年以降も、エースとしての成績は残しつつも、その後、対巨人戦は515敗と大きく負け越しています。

一方、江川投手は、デビュー戦の阪神戦こそ3本のホームランを打たれ負け投手になり、阪神ファンを沸かせましたが、その後は阪神戦を得意とし、通算成績は3618敗でした。

小林投手は1979年のシーズンで、ある意味燃え尽きたかもしれません。1982年のオフに

「来年15勝できなかったら野球をやめる。」

と宣言し、翌年1314敗と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、31歳の若さで現役を引退してしまいます。当時同僚だった川藤幸三さんは、右手の指先に血が通わなくなり、勝負どころで皆に迷惑をかけるからと告げられたそうです。通算11年の惜しまれる引退でした。

江川投手も、198732歳の若さで引退しました。デビューが遅くなったので、通算9年、13572敗、目標にした小林投手の139勝には届きませんでした。ただ、初めて両者の直接対決が実現した1980年の阪神×巨人戦は、江川投手が自らタイムリーを放ち、勝利投手となりました。彼はのちに、一生のうちに絶対負けられない試合があるとすると、この試合だったと語っています。

無名の高校時代に、巨人に見出され、巨人でも阪神でもエースとして活躍し、両方で沢村賞を獲った投手。

高校時代から怪物と呼ばれ、常に注目され続け、そして走り続けた投手。

ともに8年連続2桁勝利をして球界を去った二人の天才は、様々な風景の中にいましたが、

プロ野球ファンが、小林繁を、江川卓を思い出すとき、真っ先にあの出来事が浮かびます。

あれ以来二人はずっとそのことに縛られていたかもしれません。

そう考えると、小林さんが亡くなる前に二人が会えたことは、よいことだったと思います。

二人が会えたのは、CMの撮影でしたね。いい企画でもありましたし、二人のとらえ方も、撮影の仕方も、編集の仕方も、素晴らしかったです。

小林談「ある意味では君のおかげだよ。江川卓がいなければ、あんなに熱くなれなかった。」

2007年の秋、謝ることができてよかったと今は思います。」

訃報を聞いた江川はしみじみと言ったそうです。

 

 

2007年7月 3日 (火)

小さな大投手、逝く

この夏、7月の終わりに、義父が急逝しました。 Pitcher2_6

昭和5年の生まれでしたから、76歳でした。寿命といえばそれまでなのかもしれませんが、まだまだ生きていてほしかったです。

この人は妻のお父さんですので、私としては、結婚してからの18年間、お世話になったことになります。

元プロ野球選手で、ピッチャーをしていました。その後、コーチをして、監督をして、解説者もして、ずっとプロ野球界にいた人でした。

昭和25年、創設されたばかりの地方の小さな球団の入団テストを受けて採用され、その年に新人投手として15勝を挙げてから、長いプロ野球人生が始まりました。   

身長が166cmで、野球選手としてはかなり小柄でしたが、それから8年間2桁勝利を続け、その間、球団の勝ち星の4割以上を挙げました。弱小ゆえに解散の危機に立たされた球団を救い、昭和30年には、年間30勝を達成して、リーグを代表する投手になりました。

それでも、14年間の現役時代、チームがAクラスになることは一度もありませんでした。

昭和38年シーズン終了後、引退。621試合に投げ、通算197勝208敗、1564奪三振、通算防御率2.65という数字は、やっぱりちょっと、ものすごい数字ではあります。

私も現役時代をほとんど知らないほど、昔の話です。当時は、今のような投手の分業制も無く、エースは完投が当たり前、勝てそうな試合がピンチになると、リリーフにも行ったそうです。

「もっと強いチームにいたら、もっと勝てたでしょうね。」

と、よく言われましたが、その度に、本人は真顔で否定していました。

「小身・弱小・貧乏を、逃げ場にしたくなかった。」

というのが、当時からの口癖で、本当に負けることの大嫌いな人でした。そのエネルギーで戦い続けた結果が、自分の記録だと言っていました。

あらためてこの数字を眺めてみると、ずいぶんしんどい試合が多かったことが想像できます。ピッチャーという役割からくる性格もあり、かなりワンマンで、わがままなエースでもあったようです。勝ちにこだわり続け、投げて、投げて、また投げて、それでも、負け数のほうが勝ち数を11個上回りました。

いつだったか二人で話していたときに、もう一度生まれ変わっても、やっぱりピッチャーを仕事にしたいと言ったことがありました。数字的には、負け数のほうが多かったけど、しんどくて悔しいこともあったけど、この仕事が本当に好きだったんだなと思いました。

よく、夜遅くまで野球の話を聞かせてもらいました。聞き手としては物足りなかったろうと思いますが、野球ファンとしては、本当に面白くてためになる話でありました。

かつて、勝負の鬼といわれた人も、晩年は穏やかな人でした。

義父が亡くなったちょうどその時、うちの息子は、小学生最後の少年野球大会に出場しており、ベスト8をかけ、三塁手として戦っていました。義父にとっては唯一の男子の孫が、野球をやっていることは、やはりうれしいことのようでした。もう少し先まで見せてあげたかったなと思うと切なかったです。

それからしばらくしてから、夏の甲子園が始まりました。

駒大苫小牧の田中君や、八重山商工の大嶺君や、早実の斉藤君を見てどう思ったか、ゆっくり話を聞いてみたかったです。

2006/9

プロ野球日本シリーズ・2005

Baseball1_5かれこれ40年も、タイガースファンをやっていると、たいがいの事ではめげないのですが、今回の日本シリーズは、ちょっとへこみましたね。

私が阪神のファンになってからのペナントレースでの優勝は、今年で3度目です。1度目が、1985年。21年ぶりの優勝。バース・掛布・岡田・真弓たちが、1シーズンに200ホーマーを放ち、その勢いのまま日本一になったあの年です。2度目が2003年。星野監督の大改革が功を奏して、18年ぶりに歓喜に沸いたあの優勝。セ・リーグには球団は6球団しかないのに、どうして我がチームは21年ぶりとか、18年ぶりにしか優勝できないんじゃろかと、いつもぼやいていたのですが、今年は2年ぶりにやってくれたのです。

もちろん、今年の胴上げも、やっぱりうれしかったです。ただ、1度目と2度目に比べると、やや冷静に受け止めることができました。そして、私たち多くの阪神ファンの関心は、すでに日本シリーズに向かっておりました。2年前の日本シリーズは、第7戦までもつれた末にダイエーホークスに敗れました。今年は、そのホークスがパ・リーグの代表権を、ほぼ手中にしていましたし、私たち阪神ファンは、雪辱を果たして、20年ぶりに日本一になるんだと、意気込んでおりました。その後、予想に反して、ロッテマリーンズがプレーオフを勝ち上がってきて、対戦相手に決まったのですが、私たちは、それはそれで、何するものぞという感じでした。確かにパ・リーグのプレーオフは壮絶で、ロッテの底力には脅威を覚えましたが、うーん、これはひょっとすると第7戦くらいまではもつれるかもな、くらいの受け止め方でしかありませんでした。何を根拠にかはわかりませんが、私たちには、不思議と妙な自信があったのです。私の友人のトラキチの万ちゃんは、

「向井、オレ、どうイメージしても岡田監督の胴上げのシーンは甲子園の風景しか浮かんでこないんだよ。つまり、第5戦までにタイガースの日本一は決まるな、これは。」

などと申しておりました。

ところがどっこい、確かに万ちゃんの云ったとおり、甲子園で胴上げは行われましたが、宙に舞っていたのは敵将でした。あろうことか、一回も勝てなかったうえに、長い日本シリーズの歴史上、記録に残る最悪のワンサイドシリーズとなってしまったのです。全4試合のマリーンズの挙げた総得点33点に対して、タイガースの挙げた得点は4点。得点差は29点です。チーム打率.190、チーム防御率8.63、いいとこなしです。5日間ただ茫然としているうちにシリーズは終わってしまいました。

そんなことはないと思うのですが、私たちファン同様に、監督やベンチ、選手たちに、何の根拠もない日本一のイメージがあったということは考えられないでしょうか。いや、どうもそんな気がしてきたなあ。岡田の顔みてると、どうもそんな気がするなあ。

冷静になって考えると、敵将バレンタインは、大リーグのワールドシリーズを戦ったこともある短期決戦のプロです。先日発売された”Number”によると、彼は、9月からロッテのスコアラーを総動員して、阪神の戦力分析を始めていたようです。それも全員が毎晩徹夜になるような激しさで。

こんなエピソードも載っていました。ロッテには、里崎と橋本というレギュラークラスの捕手が二人います。バレンタインは二人を競わせながら起用しているのですが、ある時、遠征先で2人で飲みに行って帰ってくると、バレンタインがこう云ったそうです。

「ライバルが仲良くしててどうするんですか。」

何だかいつもニコニコしていて陽気そうで、何だかわけのわからない日本語でリップサービスしているあのおっさんに、だまされた感もあります。敵は、思っていたよりずっとシビアだったようです。Baseball2_2

昔からタイガースというチームには、こうゆうところがあります。伝統的とでも云うのでしょうが、期待させておいて、思いっきり裏切ったり、どう考えても有利な試合なのに、なんとなく負けてしまったり。らしいといえばらしいのですが、久しぶりにやってくれました。油断してたわけじゃないんでしょうけどね。

こうして、今年の日本プロ野球のカードは、すべて終了しました。最後の最後まで贔屓のチームの応援ができたんだから、まあよしとしましょうか。

がっかりするのもこれ位にしとかないと、阪神ファンはやってられませんよ。

2005/11

野球のこと

3年前の春、プロ野球が開幕して初めて行われる巨人×阪神戦のときのことです。

幸いにも東京ドームの観戦チケットを2枚頂いたので、当時小学一年生だった息子を連れていきました。

そのころ息子は、野球のルールも巨人も阪神も知りません。

私の場合、小学生のころ江夏豊というピッチャーを知ってからずっと阪神ファンです。

はい。

息子が野球に興味を持って、阪神ファンになるといいな。などと淡い期待を抱いて水道橋に向かったのでした。

3年前の阪神は弱かったです。

その試合で覚えているのは、

3塁側内野席から見て真正面に芥子粒のように消えていった松井秀喜のホームランだけでした。

すごかったです。ほんとに。息子はしばらく固まってました。

結構長時間の試合でしたが、息子はきっちりと最後まで見とどけ、翌日からは毎日、新聞のスポーツ欄を見る子供になりました。

そして、バリバリの巨人ファンになってしまったのです。

失敗でした。

それからまもなくして、どちらからともなく近所の公園でキャッチボールをするようになりました。

そのうち野球友達もでき、その友達に誘われて息子は近所の少年野球チームに入りました。

土日祭日に練習をしたり、試合をしたりします。私もいけるときには手伝いに行きます。

面白いです。

子供は成長する生き物です。日に日に背も伸びるし、力も強くなります。

出来なかったこともだんだん出来るようになり、練習しただけどんどんうまくなります。

強い相手にコテンパンにされて泣くこともありますが、帰り道にはみんなケロッとしてます。

気がつくと土日のスケジュールは最優先でそこにいる自分がいます。

相変わらず巨人×阪神戦の日には親子でいがみ合っていますが、

3年前に野球を見に行ったことは、私たちにとって少しいいことだったように思えます。

そんな自分の環境からして、野球人気が下降気味だとか、

プロ野球の球団が合併して1リーグになるんだとか言われても、どうも実感がわきません。

野球の魅力や面白さは、昔と何もかわっていません。

いつかの松井秀喜のような打球を飛ばせる選手がこれからもどんどん出てきてほしいし、

それに影響されてたくさんの子供がグランドを駆け回ってほしいなとただただ思ってます。

2004/7

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