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2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

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