2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

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このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

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私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2024年2月13日 (火)

お伊勢参り

このところ、ずっと定期的に帰郷しているんですけど、ひとつには両親が90代の半ばということで、何かと気にかかることが多く、まず父と母と顔を合わせるため、また、いろいろに身体の機能が弱くなっていることで、日頃父母がお世話になっている方々へのご挨拶と聞き取りなど、それと、骨董品となった実家家屋の維持管理のことなど、いろいろあります。
ただこのペースで通っていると、慣れてきたこともありますが、かつて遠く感じていた故郷との距離は、ずいぶん短く感じるようになりました。現に品川ー広島間は、4時間を切っておりますし、なんなら日帰り出来そうなくらいです。初めて上京した時の寝台列車と比べれば、格段の進化と云えます。
格段の進化と云えば、その列車の乗り降りをする駅、ステーションも気が付けばものすごい形に変化しております。考えてみれば、どこも大きな街の大きな駅は、いつでも工事中で、徐々に日に日に巨大化しておったわけで、久しぶりに降り立ってみると、ホテルもデパートもいろんなものが内包されて、すっかりその姿を変えています。
使い慣れていないので、どちらを向いて歩いているのかわからなくなったりして、どうもどこの駅も同じような形とデカさで、なんだかその土地その土地の個性も無くなってきたかなと思うのは、こっちが時代遅れなのかもしれません。明らかにその機能は大きく進化していて、多分ものすごく便利になっているのですよね。端から端まで歩くとへとへとになりますけど。
このところ、地方の大きな駅に降りることが続きまして、東京も広島もそうなんですけど、京都、博多、名古屋、盛岡、大阪なども、皆よく似た巨大な駅になりつつあります。

先日も、家族で広島のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行く計画を立てたんですけど、ちょっとついでに名古屋のお墓と神社にお参りして、せっかくだからお伊勢さんにもご挨拶して行こうかということになり、旅程を1日追加してお伊勢参りもすることにしたんですね。_
若い時には何も関心がなかったのですが、そう云えばこの国には古くからお伊勢参りという習慣があって、昔からいろんなお話にお伊勢参りは登場します。これって年取ってくるとわりと身近になってきて、うちの奥さんもけっこう詳しいし、いろいろと身の回りの話題に出てくるようになります。何年か前にもいきましたし、忘れてたんですけど、私、小学校の修学旅行も1泊2日のお伊勢さんでしたもんね。
伊勢神宮は、名古屋の駅から近鉄に乗って約1時間でして、その指定席特急券も今やネットで予約できます。基本的に、外宮(げくう)と内宮(ないくう)があって、ひと通りお参りするとわりと時間もかかるのですが、やはり何やら時空を超えた厳かな佇まいの中、身も心も洗われたような心持ちであります。お参りを終えますと、お札など頂戴して、最後にその鳥居に一礼してその場を辞するのですが、内宮前には、おはらい町・おかげ横丁など、土産物屋や飲食店が軒を連ねており、赤福もちや、松坂牛や、伊勢うどんや、ビールなどをいただきつつ帰路に着きます。たぶん昔の人も、こうやってお伊勢参りしてたんでしょうね。
それにしても、この日も多くの方々が全国から列をなしてお参りしておられまして、やはりここは古くからの日本人の心のふるさとなんだなと感じたようなことです。
やや神妙な気持ちになって、なんだかいろんなことをお祈りしました。そもそも神様と交信する能力などはありませんが、ただ、霊験あらたかでありますようにと。

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2024年1月16日 (火)

2024の年頭に思いますこと

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昨年は、一年中 ヨーロッパや中東での戦禍が伝えられ、日に日に戦況は過熱して、一向に和平への道が見えぬ暗い年になってしまいました。せめて来年は明るい良い年になってほしいと願い、かような呑気な年賀状を書いて、明けた2024年のお正月でしたが、元旦から北陸では大地震が起きて、その方面では本当に気の毒な状況に陥っています。北陸にいる友人知人には安否の確認をし、無事と判りましたが、これから極寒の時節に、いろいろに大変なことと思われます。犠牲になられた方々も多く、やりきれない気持ちです。お正月から神も仏もないものかと。

そのような新年に、私、気が付いてみれば、この世に生を受けて70回目の正月を迎えたわけで、ちょっとびっくりしているようなことなんですね。まあ、いろいろあったにせよ、ここまでたどり着いたことはありがたいことです。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから、家族や友人で祝ったそうで、そういう意味でもおめでとうと云うことみたいですが。
ただ、一休禅師の言葉に、こういうのがあります、有名ですけど。
「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
正月はめでたいけど、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無情をあえて正月に説いたのです。無情を知ることは命のはかなさを知ること、そして日々を大切に生きる者になると。この歳になると、そういう言葉がなんだかじわっと身近になります。

振り返ってみると、歳というのは10才ごとに節目を迎えるところがあります。まず10才になる時は、まだ子供だし、思ったこととかあんまり覚えてませんが、
20才の時は、大人になるんだぞみたいな事を、やたらとまわりからも云われ、自らも、嬉しいような嬉しくもないような、まあ10代後半からは、酒もタバコもやってたんだから、それなりに自覚してたんでしょうか。成人式とかもあるし。私、出なかったですけど。
30才というのは、もう自立はしていて、仕事も人並みにはやっていて、ちょっと生意気にもなりかけているけど、まだ青臭いところもあり、20代の時には、わりと早くに30才にはなりたいようなところがありましたかね。
30才から40才の時は、なんだかいろんなことが起こる時期で、肉体的にも、精神的にも、20代とはまた違った激しい変化がありましたね。ある意味面白いとも言えますが、わりとタフですよね。ということで、ハッと気がつくと40才になっちゃってた感じですか。気がつくと結婚もしていて二人目の子供が生まれたりしていました。そんなことで、あんまり感慨が無いというか、あっちゅうまに通り過ぎたみたいなことです。40才って。
ただ、よくわからないけど50才になることは、ずいぶんと嫌だったんですね、先輩たちもけっこう嫌がっていて、自分が50才になる時になって、その意味や気持ちがわかったんです。自分の大事な何かを失うような、どうしてもその線を越えたくないような、妙に往生際悪くジタバタしてましたね。そういう意味では一番節目を感じたのかもしれませんが。
60才はですね、逆にもう諦めついた気分でしたわ。周りからは還暦とかいろいろ云われるんですけど、あんまり気にもせず、それほど気にもされず、わりと我関せずでしたか、ちゃっかりお祝いなんかは遠慮しませんでしたし、まあ、たんたんとなっちゃったみたいなことでした。
そして、いよいよ70才ということなんですが、完全に未知の領域というか、若い頃から60才までは一応想像がついていたとこがあったんですけど、もちろん生きていればの話として、70才の自分というのがどんなことになってるのか全くイメージがなかったんですね。
60代というのは、なんとなく自覚なく過ぎていきまして、うっかり油断してたら70才を迎えるところに来てしまいました。ここから先は日々想像を超えていくわけで、一日一日を大切にせねばと、殊勝な気持ちになっております。
これからますます経年劣化もしてまいりますし、より強いハートで、のびのび童心に帰って、愛されるジジイを目指そうかという所存です。

本年も、先輩のみなさま、後輩の方々、
今までにも増して、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

Tatsu

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

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「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

Terayamayamada

2023年11月22日 (水)

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その2

タイガースは,38年前に日本一になってから,今回の優勝までに2度のリーグ優勝をしてるんですが,2度ともパ・リーグに敗れ日本一を逃しております。2003年のダイエー戦,この時は阪神が3勝2敗で王手をかけた第6戦,私,意を決して阪神ファンの友人と博多まで行ったですよ。しかしながら,その夜,早々に先発の伊良部は打たれ,逆王手をかけられてガックリ。モツ鍋を食べていたら,まわりのダイエーファンの人たちに、博多弁で慰められたりしまして,翌日は東京におりましたが,ダイエーの勢いそのままに敗れてしまいました。2005年は,このブログにも書きましたが,悪夢のロッテ戦は1勝もできずに散りました。
この2005年から18年経ち,巡ってきたチャンスではありますが,なんせパ・リーグの壁は厚く,まあ祈るような気持ちだったですよ。しかしながら,勝負事は蓋を開けてみなきゃわからないし,ともかく先に4つ勝てば良いという短期決戦なんで,選手も監督も悔いのない戦いをして欲しいっと。
戦前の予想,多くの野球評論家たち曰く,タイガースもオリックスも投手力の高い守りのチームであり,最後まで低い得点での接戦となるであろうとのことで,たしかに両チームの強力な投手陣はなかなか打ち崩せそうにありません。
ところが,始まってみると第1戦,今や球界のエースと云われ,間違いなく来季は大リーグで活躍しているであろうオリックスのエース,山本由伸が5回までに7点取られてしまうんですね。この阪神5回の攻撃で4点を挙げるきっかけになったのが,先頭打者佐藤のセンター前ヒットではあるんですが,この佐藤が次の打者の1球目に盗塁を決めるんです。岡田監督は盗塁のサインは出したけど,初球から行くとは思ってなかったと云ってますが、このプレイでピッチャーはちょっとリズムを狂わせ始めるんです。守っては村上投手絶好調で8−0のワンサイドで阪神が勝利します。
なんだか思いもかけぬ展開で先勝,でも,翌日はオリックスの二人目のエース宮城が立ちはだかり,後半も自慢の中継ぎ投手陣にかわされ,第2戦は0−8で阪神完敗です。
戦前の予想とは大違いの大差の1勝1敗から,舞台は京セラドームから目と鼻の先の甲子園へと移ります。
第3戦は,阪神伊藤とオリックス東の投げ合いで接戦,7回に5−1から5−4に追い上げた阪神は,オリックスの抑えの切り札,宇田川と平野に逃げ切られ惜敗。
第4戦は,先発オリックス山﨑福と阪神才木の投げ合いの接戦,その後両チームが繰り出す自慢の投手陣の守り合いで同点のまま9回へ,1アウトから近本が四球で歩きピッチャーのワゲスパックがバッター中野の時にワイルドピッチでランナー3塁となり、中野と森下は敬遠して満塁策,ここで4番大山がレフトへサヨナラヒット打つんですね,いや,家で見てたけど球場が揺れていました。この試合,実は阪神中継ぎ陣は7回8回にオリックスの猛攻を受け同点に追いつかれ,尚も逆転のピンチを迎えますが,ここで岡田監督は,なんと春先から不調でここまで一軍を外れていた湯浅投手をいきなり投入します。このアナウンスに球場はどよめきますが,湯浅はたった一球でセカンドフライに打ち取ってピンチを脱するんです。
これでシリーズは2勝2敗の対になりました。
第5戦は,甲子園での最終戦となります。この試合も阪神は押されます。というか,オリックス先発の田嶋を7回まで全く打てないんですね。田嶋は見ていて絶好調でした。阪神先発の大竹も好調で,ゴンザレスのソロホームランの1点だけに抑えていたんですが,7回に守備の痛いミスが出ます。セカンドに飛んだ打球を中野がエラーで逸らし,その球をライトの森下が後逸してしまい1塁ランナーがホームまで帰って1−0から2−0となってしまいます。このあとライトからベンチに帰ってくる時に森下は,観客席の方を見れなかったと後で語っています。
ところが,田嶋が7回でマウンドを降りて8回表を湯浅がビシッと三人で抑えると,流れは阪神にやってきます。オリックス自慢のセットアッパー山﨑颯一郎から、木浪,糸原連打,近本タイムリーヒットで1点返すと,さっきエラーした中野が送りバントを決め,ピッチャーは宇田川に変わります。ここで先程チョンボした森下がなんとタイムリースリーベースを放って逆点します。この時,多分、森下と岡田監督は泣いてました。この後も打線は止まらず打者一巡の6点,試合を決めます。
そして京セラドームに戻って第6戦,オリックスは2度目の大エース山本由伸を立ててきます。今度は,全く歯が立ちません。1−5,村上も悔し涙です。
さあ,泣いても笑っても第7戦,勝った方が日本一です。
オリックス先発は第2戦で手も足も出なかった宮城,阪神は青柳です。ここまでの流れを考えると,オリックスは前回宮城が万全の投球をしているし,青柳は本来のエースではあるけれど,今シーズンはもう一つ調子がよくありません。正直不安ではあり,多分、先取点を取られると苦しくなるだろうなと思いました。
そして,3回までどちらも引かない展開から,4回森下のヒットと大山の死球で1塁2塁,次のノイジーは宮城の速球に全くタイミングが合っていないように見えました。ところが,一球,裏をかくように投じられたチェンジアップを,見事レフトスタンドに放り込んだんですね,この人。3ランホームランです,宮城の落胆が手に取るようにわかりました。打線は次の5回にも追加点を奪い,青柳もよく頑張って5回の途中から伊藤が相手の反撃を断ち切ります。最後にマウンドにいたのはやはり岩崎,終わってみれば7−1,決着はついたのでした。
この9日間,連日,流れがどちらに転ぶかわからない好勝負でした。手に汗握り熱く応援してクタクタになりましたが,素直に両チームの選手たちに,ありがとうと言いたい気持ちです。
いい試合を見せてもらった。

オリックスも阪神も,それぞれのリーグで他チームを圧倒して来ただけの事はある,完成度の高いチームでした。オリックスは先発の一角にいた山下投手をケガで欠いたり,首位打者の頓宮が骨折して足に鉄板が入っていたり,杉本が足を痛めていたりで,ベストコンディションじゃないところもあったけど,やはり恐ろしく強いチームで,なんせリーグ3連覇ですから。あのちょっとひねくれたこと云う監督は,ちゃんと仕事してるよな。
阪神タイガースもここに至るまでは,なんせ長い道のりでした。金本監督も矢野監督も含めチーム作りに苦労はつきものでしたが,だんだんにチームは強くなって来ました。ともかく,38年前にセカンドを守り5番を打って日本一となリ、今年,全球団の最年長監督として悲願達成した岡田さんには,ちょっとお礼を云わんとね。

Neuse

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その1

はてさて,大接戦・大熱戦となりました,今年の日本シリーズもようやくその雌雄を決しましたが、甲子園と京セラドームというごく狭い地域での対決にもかかわらず,内容的には昨今稀に見る面白さで相当に盛り上がったわけです。
この阪神タイガース日本一という,今年の一連の顛末には極めて個人的な思いがございまして,ここにこれを書かぬわけにはまいりませず,多分,長々と語ることとなりますが,どうかご容赦いただきたく存じます。
そもそも,この日本シリーズとは,プロ野球の2リーグ制の始まった1950年から今日まで73回続いておるわけですが,その中で阪神が日本一を成し遂げたのは,1985年のたったの一度だけなのです。そういうことだから,これほどの騒ぎになっているとも云えますけれど,これだけ人気のあるチームの割には,セ・リーグ優勝もたった6度でして,たとえば,私が小学生の頃に応援し始めてから初めてリーグ優勝した時には私は31歳になっておりまして,その次がそこから18年ぶりの2003年でして,私ほぼ50男となっておりました。その2年後に岡田カントクとなって優勝するのですが,また,そこから18年間,優勝フラッグは遠ざかり今年に至るわけです。
考えてみると,何が悲しくてそんな弱いチームを何十年も贔屓にしているのだろうかとも思います。まあ,私の場合,なんか長年にわたる気長な趣味のようなところもあり,このところあんまり熱くもならず,付かず離れず見守ってるようなもんであります,盆栽かよ。テレビ中継などを見ておりますと,勝っていても負けていても,ものすごいテンションで応援されているトラキチの方々には,頭が下がることではありますが。
終わってみれば日本プロ野球界を制覇した今年は,桜咲く春先から秋の紅葉の頃まで,一年中目が離せず,実に嬉し楽しかったのですが,不慣れなもので,しばらくこうであって欲しいけど,そんなことは多分ないでしょうが,これが毎年続くとなるとちょっと大変なのかな,などと思います。
こちらも歳をとってきてますから,最近はそういった大人しめの落ち着いた感じのファンになってるところもありますが,前回の日本一の時は38年も前で,阪神ファンとしては31歳で初めての優勝でしたから,それは激しく応援していました。リーグ優勝は神宮のヤクルト戦で,しっかり球場で観戦しておりまして、確かゲームはもつれて,3−5で2点負けてたんだけど,9回に掛布がソロホームラン,岡田が2塁打打って佐野の犠牲フライで同点,そのまま中西がヤクルトの反撃を抑えて引き分けに持ち込みます。スタンドのファンは引き分けで優勝が決まるのかどうかよく分かってなかったんだけど、ラジオ聴いてる人とかがいて,だんだん引き分けでも胴上げだということが分ってきて、最後は大騒ぎみたいなことだったと思います,いやすごい騒ぎでしたね。
そして日本シリーズ,第1戦の西武球場にも行きましたね。敵は広岡西武,当時徹底した管理野球で築かれたライオンズ野球の評価は高く常勝球団となっており,戦前の予想は阪神不利とも囁かれておりました。しかし,このゲーム始まってみれば,先発池田のこれまでに見たこともないような好投でなんと完封,打っては8回,バースが工藤から3ランを放ち完勝でした。帰りの西武電車は阪神ファンで満員,全員が応援用のメガフォンで電車の天井叩きながら池袋に着くまで六甲おろしの大合唱,本当にどうかしてましたね。
その次の日から私は仕事で網走にロケに行かねばならず,その頃の日本シリーズの試合はすべてデーゲームでしたので,TV観戦も断念してたんですね。ところが,北海道網走地区は,連日雨で撮影はできずお休みとなります。そしてその間,甲子園球場も西武球場も日本晴れで毎日大熱戦。
私たちロケスタッフは,旅館のテレビやロケ車のテレビで大声援を送っていたようなことでした。
シリーズは阪神が2戦を先勝し,甲子園に移ってからは西武が巻き返して2勝,第5戦は掛布の3ランなどで阪神が勝って王手をかけます。第6戦は西武球場に戻っての決戦となりましたが,網走はこの日も雨で撮影は中止となります。そして晴天の所沢では,長崎の満塁,真弓のソロ,掛布2ランホームランと,ゲイルの完投勝利で,阪神タイガースは悲願の初日本一を達成しました。
いまだ網走で1カットも撮影ができていない私どもスタッフですが,その夜は,祝タイガース優勝の大宴会となりまして,私はオールスタッフに胴上げをして頂き,何度も旅館の天井に頭をぶつけて泣いておりました。不思議なことに,その翌日からオホーツク海に停滞していた前線と雨雲は消えてなくなりまして,撮影はつつがなく終了します。だいたいそんな無駄な仕事してスポンサーに叱られそうですが,でも胴上げの渦の中にスポンサーもおられましたので,はい。

それから38年の歳月は流れ,果たして2度目の日本一は達成できるのだろうか。リーグ優勝だって18年ぶりなわけで,けっこう苦労したのだけど,このところプロ野球はパ・リーグが圧倒的に強いじゃないですか。日本シリーズも,セ・リーグはこの10年だと一昨年ヤクルトが一回勝っただけだし,その前の10年だってセ・リーグは3回しか勝ってないわけです。そもそも今回の相手のオリックスは強いです。あの強豪パ・リーグ軍団で3連覇してるんですよ。  
つづく

Bass

2023年10月18日 (水)

「PERFECT DAYS」という映画

まあ、昔から映画が好きで、常になんやかやといろんな映画を観てるんですが、コロナもあってこのところ本数は減っております。ただ根が好きなもんでわりと観てはいるんですけど、見渡してると、映画界には国内も国外も新しい才能が次々出てくるし、技術の進歩も目覚ましく、映画館へ行けば常に新しい何かを見せてくれます。
ただ、古今東西の多くの映画を観てきて、その表現のさまざまな手の内も知っていたり、そもそもこっちも歳をとってきて、感受性が鈍くなってきていることもあり、最近、その作品そのものが、深くこちらの内側に入ってくることがあんまりなくてですね。ただ読後感として、面白かったとか、いい映画だったとかいうことはあるんだけど、なんだか若い時の、観た後に忘れられない映画みたいな経験は、このところなかったんですね。

それで、この春に観た映画の話なんですけど、「PERFECT DAYS」という映画でありまして、なんだか久しぶりに響いたんですね。
東京で公共トイレの清掃員をしている、ある物静かな男の日常を、カメラはただ見ているのですが、映画はその仕事ぶり、暮らしぶりをドキュメントのように淡々と描きます。ただ、観客としての自分は、なぜかそこから目を離すことができません。気がつくと自分は、主人公の平山という男のすぐ隣にずっといて、ゆっくりその世界に引き込まれて行きます。
男は下町の安アパートに一人で暮らし、暗いうちに起きて、清掃の仕事の装備をした自分の車で都心へと向かいます。トイレ掃除が終わると、下町に戻り、銭湯に入って、立ち飲みで一杯、アパートに帰って静かに本を読む暮らしです。一人の部屋には、大量の本とカセットテープが整然と並んでいるのです。
そこからはラストに向かって少しずつ、まわりの人とのかかわりの中、映画としての様相を呈していきます。そして、この映画全体に、木漏れ日の映像が大切な役割を果たしており、音的には、車の中にカセットテープで流れる60年代〜70年代のロックが重要な脇役になっています。ある意味、音楽映画とも言えるくらいに。
この映画は12月に公開される予定で、東京国際映画祭のオープニングを飾ることになっていて、すでに世界中から高い評価を受けています。

Wim_2

どうして、こんなに魅力的な映画が出来上がったのか。それはいろいろあるんですが、やはり、監督・脚本のヴィム・ヴェンダース氏によるところ大ではあります。
1984年「パリ、テキサス」
1987年「ベルリン・天使の詩」
1999年「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
2011年「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」等
現代映画における最も重要な一人とされるドイツの名匠。
これらの作品は映画ファンであれば誰もが観ていると思います。
ヴェンダース氏は、この物語の中に住む平山という清掃員を紡ぎ出しました。この映画にとって最も重要な存在。そのキャストは彼がずっとリスペクトしてやまない俳優、役所広司です。
映画を観て、このキャスティングなしに、この作品はあり得ないと思えます。カンヌ国際映画祭で、最優秀主演男優賞を受賞したのも、納得できます。まったく、この国が世界に誇れる俳優といえます。
それと、ヴィム・ヴェンダースという映像作家が、長い歴史の中で、ずっと日本を、東京を注視し続けていることは、この映画が生まれる背景として非常に重要なことであります。よく知られていることですが、彼は映画監督の小津安二郎を大変敬愛していて、1985年に小津映画の中にある失われたユートピアを求めて東京を彷徨い、「東京画」というドキュメント映画の名作を作っていますが、これも今回の映画につながる何かを感じずにはおれません。
映画を観終わった時に、すごく揺さぶられたのだけど、今までに観た映画には全く感じなかった、何か別な新しいものに出会った気がしたのは確かで、この作家にはいつもそういうところがあるのですが。今回、共同脚本とプロデュースを担当したクリエーターの高崎さんが云われてたんですけど、シナリオ作りの途中で、この映画のテーマは何かとヴェンダースさんに聞いたとき、監督は、それが言えるなら映画をつくる必要はないよと、微笑んだそうです。
なんだかモノをつくる時の姿勢というのでしょうか、深い仕事ですよね。
 
この度ちょっと自慢したかったことが、この素晴らしい映画の製作プロダクションを私共の _spoon.inc が担当したことでして、いえ、私は全く何もしていないのですが、うちの会社の頼りになる後継者たちが、プロデューサーとして、若いスタッフとして、みっちりお手伝いさせていただいたんですね。映画界の世界的な巨匠、スタッフ、キャストたちと、この仕事を達成させることは、これから大変な勲章となると思います。
しかしながら、実際の制作・撮影の現場は、無茶苦茶えらいことだったと聞きました。監督は、ドイツが誇るインテリでアーティストで優れた教養の持ち主なのに、常に謙虚で誰からも尊敬される本物の紳士なのですが、撮影が始まると、ただの我儘なじいさんだと、皆が親しみを込めて言っています。そうじゃなきゃあんな映画は撮れないとも思いますが。

これは映画とは関係のない話ですが、ヴェンダースさんのチャーミングなエピソードをひとつ。
そもそも、ヴィム・ヴェンダースさんとは、カメラマンでもある彼と彼の奥様が日本で写真展をおやりになった時に、その写真展のセッティングを弊社でやらせていただいたことがあったんですが、2006年に表参道ヒルズの開業にあわせてのイベントでしたから随分前ではあります。それから何年かして、夏にご夫妻が来日されたことがあって、ちょうど神宮の花火大会の頃で、うちの会社からよく見えるもんで、是非どうぞとご招待したんです。この時200人くらいはお客さんが来ていたと思いますが、私、屋台じゃないですけど、鉄板で広島風お好み焼きを焼いておりまして、多分70枚くらいは焼いたと思うんですけど、そしたら、そこに長蛇の列ができちゃって人が溢れてたんですよ。そうすると、列の一番後ろに、背の高い長髪の紳士が、ちゃんと紙皿と割り箸持って並んでるんですね、世界のヴィム・ヴェンダースが。で、まわりの奴らもまさかそんな大変な人がいるとは思ってないから、まあ、ほったらかしにされてるんですね。本人もなんだかニコニコして機嫌良さそうなんですけど。で、私あわてまして、
「ヴェンダースさーん、あなたはスペシャルゲストだから、一番前に、ここにきてくださーい。」
て、よくわからない英語で叫んだんですね。
そしたら、ニコニコしながら、まわりの人にスイマセン、スイマセンと言いながらやって来まして、私が焼いたお好み焼きをオイシイ、オイシイと言って食べてくださいまして、、
昔から憧れて大ファンだった映画監督に、私の焼いたお好み焼きを食べてもらったという、ただの自慢話ですけど。

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年8月 9日 (水)

薄情のすすめ その2

この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。

Shinsengumi



思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。

やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。

Toshizo