西荻のとっつあん
このまえ「恩人」ということを考えていて、もう一人私が若い時からずっと世話になった人のことを思い出しました。その人は、私が働き始めたCM制作会社の、車輛の仕事を全部取り仕切ってた人でした。厳密にはこの会社の人ではなくて、自分で車輛部の会社をやっていて、子分も2,3人いたんですね。撮影現場にはスタジオでもロケでも、必ずそこにいた人で、松園さんと云います。
私はその現場におけるすべてのヒエラルキーの最下層にいて、ありとあらゆる用事をいいつけられるんですが、わからないことは何でも松園さんに教えてもらいました。会社の先輩もいるんですけど、現場に出てしまうと、それぞれにやる事があって、ゆっくり教えてもらってる場合じゃないし、わかんないことは松園さんに聞くように言われてました。30人ほどのこの会社で、制作部の助手というのは、私ともう一人くらいしかいなかったので、この会社の撮影現場のほとんどには私がいて、必ず松園さんもいたんですね。当時私が22歳で、松園さんが40過ぎだったと思いますが、この人、何でも知っていました、ホントに。それで教育係も兼ねてくださってたんだと思います。
何でも教えてくれるし、仕事も手伝ってくれるんですが、こっちが油断してると、よく罠にかけられました。気を抜いてるといたずらされるんです。他愛無いことですけど、ちょっと大事なもの隠したり、嘘を云ったり、こっちがはまるとほんとに嬉しそうな顔するんですね。まあ、それは、僕ら若いもんが通っていく関門のようなもんなんですが。
ただそれは、面白くなくちゃならないという、この人の不文律がありました。
いたずらは、ほんとにいろんなことを思いつく人なんですよ。
たとえば、松っつあんと私と私の助手が3人で冬の北海道をロケハンしてる時にですね、助手のO君が道を教えてもらうために、どこかのお店に入っていくわけですね。そのあと車に帰って来るんですけど、O君が車に近づいてくると、だんだん車がO君から離れていきますね、当然運転してるのはあの人ですけど。O君がちょっと走ると、そのスピードに合わせて車はまた離れていきます。外は吹雪です。O君がむきになって走るとまたスピードを上げます。そしていよいよ吹雪の中で点のように小さくなっていくO君を、私がロケハン用ハンディカメラで撮影するわけです。そして雪だるまのようになったO君がようやく車に入れた時には、もう息が上がって何もしゃべれません。
そういう時、この人ホントに嬉しそうなんですね。そのビデオをその夜、旅館でごはん食べながらみると可笑しくてですね、男三人の殺風景なロケハンが実になごむんです。
松園さんは、ずっと西荻窪に住んでたんですが、私はこの人のそばに住んでいれば、必ず車で拾ってもらえるから、撮影に遅れることがないと云う理由で、いつしか西荻に住むようになります。制作部と云うのは、いつも車輛部と一緒に一番に出て行って、一番最後に帰ってきます。そんなことなので、ある時期この人と一緒にいる時間がほんとに長かったんですけど、そのうちに、この人は本当にプロだなあと云うことがわかってきました。一つの事に対して、常に何通りもの方法を考えているし、いつも不測の事態に備えています。一緒に仕事してるうちに、それがだんだん理解できるようになりました。人のことを、はめてやろうとばかり、考えてるわけじゃなかったんです。
右も左もわからない若造が、自分のテリトリーにころがりこんできたから、仕方なく面倒見てやってるうちに情が移ったのか、いつしか身内のように扱ってくれるようになります。何年かして、それなりに仕事もわかってきて、どうにか一人前になったかなと思った頃、松園さんは私のことをさん付けで呼ぶようになりました。何だか照れ臭かったんですけど、そういうけじめの人でした。鶴田浩二のファンだったし。
その頃私が担当していた「小学一年生」という雑誌のCM「ピッカピカの一年生」という仕事は、松園さんがいなかったら絶対にできない仕事でした。
どういうことかと云うと、毎年、秋から春にかけて日本全国の今度小学校に上がる子供たちを撮影するんですが、だいたい半年で7カ所を回ることになってまして、収録はすべて松園ワゴン車に装着されたVTR機材で、2吋のテープで行ないます。私は飛行機や新幹線などを使って全国を飛び回っていて、ロケの日程が決まると、たとえば何月何日の何時に、石垣島の港に来て下さいとか連絡するわけです。撮影は昨日まで短パン穿いてた南の島から3日後には雪の北海道へ移動したりします。もちろん移動可能な日程を組みますが、台風もくれば、大雪も降るし、事故渋滞もあるし、フェリーが欠航することもあります。この人はいつも陸路と海路を駆使して、何通りものルートを考えていて、何手先も読んでいました。早く着きすぎたら、あっちこっちの馴染みの店で時間つぶしたりもしていましたが、12年間この仕事やって、約束の時間に彼の車が現れなかったことは、ただの一度もありませんでした。
車がパンクしたり故障したりした場合のシミュレーションも、いつも完璧にできてました。北国に行くと、よく夜中にものすごいドカ雪が積もる事がありますけど、朝起きると撮影車の周りだけは、雪掻きがしてあるんですね、誰にも気づかれず。そういうとこも鶴田浩二な感じでしたね。そういえば酔っ払うと、よく鶴田さんの「傷だらけの人生」と「街のサンドイッチマン」を唄ってましたね。深く酔うといろいろスタッフつかまえて説教してましたよね。そういう時クライアントの偉い人とかもおかまいなしですから、往生するんですけど、でも、みんなから愛されてましたから。この仕事は松園さんがいないと始まらないと誰もが思ってました。
それからもずっと、私たちの仕事に、いつもあの年代物のハイエースのロングボディを蹴って駈けつけてくだすったし、私達が小さい会社を作ったら、まだそんなに仕事のないその会社の専属車輛部を引き受けてくれて、よその仕事やらなくなって心配もしたけど、何だか意気に感じてくだすったみたいでありがたかったです。
でも、それから何年かして、松園さんは肺ガンで逝ってしまいました。還暦のお祝いしたばっかりだったから、思えば今の私と同じ歳でしたが、ビールとハイライトが大好きで、何より医者がほんとに嫌いだったから、いくらなんでも早すぎたんですけど。
そういえば、子供の頃、小学一年生の頃ですが、3年ほど西荻窪に住んでたことがあったんですけど、あとで聞いたら、松園さんもその頃に結婚して西荻窪に住み始めたそうです。それが、絶対遭遇してたであろう至近距離で目と鼻の先でした。不思議なご縁だったなと思います。
この人が、この前に書いた平田さんとすごく仲良しで、絶妙なコンビで、何だか私の記憶の中では、いつも撮影現場で二人並んで座っていて、完全にセットなんですね。
よく二人していじられてたわけです。
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