司馬先生の受け売りですけど 後篇
この前は明治国家が誕生したとこまででしたが、この時期、多分日本中の人々が、一部の知識層を除いて、自分達が日本国民であるということを認識してなかったですね。
それまでは、自分は百姓であったり、漁師であったり、商人だったり、○○藩の侍だったりはありますが、外国のことをあまり意識することもなかったし、日本であるとか国民であるとか、あんまり思ってなかったと思います。でも、明治になってからは、そのあたりのことが、それぞれの人々の人生とかに、大きくかかわってくるんです。
まず藩というものがなくなり、そこに仕えていたお侍たちは職を失い、中央政府に雇われた役人以外は仕事がなくなりました。士農工商という身分も解体されまして、もともと武士が起こした革命だったはずが、新しい世の中には武士の居場所がなくなっちゃったんですね。
かたや新政府は、新しい秩序を作るべく、1871年には、先進国へ向け岩倉使節団を派遣します。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら、総勢107名です。その期間は2年近くに及び、それから富岡製糸工場開業、徴兵令発布と、着々と富国強兵を急ぎます。
しかしながら、中央政府に置き去りにされた感のある武士たちの不満はつのり、その魂の行き場所は、すでに鹿児島に下野していた西郷隆盛のもとへということになりました。1874年佐賀の乱、1876年神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を経て、1877年明治十年二月に西南戦争が勃発します。旧武士軍と、新政府の徴兵制によって新たに集められた軍隊との戦いになりましたが、その年の九月、西郷は自刃し乱は平定されます。そして、皮肉にも新政府を率いて薩摩西郷軍と敵対することになった大久保利通は、翌年、刺客によって暗殺されてしまいます。
そんな中で、明治という国家の土台は作られ始めるのですが、極東の小さな島国には、当時の国際環境というものが徐々にのしかかってくるんですね。地理的には、大陸から日本の喉元に突き出ている朝鮮半島において、清国との間に摩擦が生まれ、1894年に日清戦争が起こります。
日清戦争といっても、原因は朝鮮半島にあったわけで、実戦場はほとんど朝鮮半島でした。国の大きさからしても、日本は不利のようですが、徴兵令以降ドイツ式に変更された陸軍とイギリス式となった海軍など、貪欲に軍の強化に努めていた日本軍は約8カ月でこの戦争に勝利します。
この戦勝で、大陸での足場を固め始めた日本ですが、清国には欧米各国の思惑が渦巻いておりました。特に南下政策を推し進めるロシアは部隊を増強し満州に留めています。日本は朝鮮半島を防衛の生命線と考えていたので、そこにロシアの影響力が強まっていくことは、この上なく恐怖だったんです。近代化を始めて間のないアジアの小国は、遼東半島を巡って、徐々に大国ロシアと敵対することになっていきます。
そして、1904年、痛々しいほどの覚悟で開戦を決意することになります。
この時、日本の政府も軍も、この戦争に対しては完全に弱者の論理で挑んでいます。つまり、あのロシアに完璧に勝つということはあり得ないわけですから、せめて四分六分で有利に持ち込めそうになったら、すかさず国際的に仲裁に入ってもらえるよう、アメリカに根回しをしていたほどなんですね。
日本として戦勝の形に持ち込むためには、ロシアが要塞化した旅順を攻略し、その後、遠くロシア本国からやって来るであろうバルチック艦隊を殲滅することだったんですが、これは実に大変なことだったんです。
当初、陸軍は満州平野における決戦に勝てば、旅順の要塞は立ち腐れてしまうと考えていました。ところがバルチック艦隊が来るという話を聞いて海軍が慌てました。旅順はロシアの租借地ですから、ここにバルチック艦隊が逃げ込んだらどうにもなりません。そこで旅順は陸から落とすことになり、陸軍に、旅順を攻撃するだけの使命を持った第三軍が出来上がります。乃木希典大将が軍司令官になり、参謀長は伊地知幸介少将です。
凄惨な肉弾攻撃の戦いが始まりました。無謀な肉弾攻撃でした。
海軍は旅順港を攻撃してくれと言った時に第三軍にひとつの提案をしました。三等巡洋艦を一つ裸にして、大砲を全部提供し砲術士官も派遣しますと。しかし、ノーと言われました。どう考えても陸軍の縄張り意識からでした。この提案を受け入れていれば、旅順の攻略は早かっただろうと、司馬さんは分析しています。
かつて明治陸軍を教育したドイツ陸軍は、近代要塞というものがいかに難攻不落であるかということを説きましたが、この教育は生かされませんでした。乃木さんもドイツに留学しているし、伊地知さんもドイツに留学しています。しかも伊地知さんは大砲が専門でした。そんな人たちが海軍の大砲にノーと言い、歩兵の突撃を繰り返し、何万という兵隊が死にました。無益の殺生という声まで出ました。乃木さんの二人の息子さんも戦死しています。
結局、満州軍総参謀長の児玉源太郎が、自ら旅順に行くことになります。汽車が旅順に近づくと、汽車の窓から新しい墓が累々と見えたそうです。日本兵の墓です。児玉は怒りました。本土から新しく補充されてくる兵士は、皆この汽車に乗ってこの墓地を見るわけです。第三軍はそんなことも気がつかないのかと怒りました。
旅順に着いた児玉は乃木と二人で話し合います。児玉と乃木は同じ長州ですから、腹を割って話すことができます。談合であります。統帥上はやってはいけないことでしたが、児玉は乃木の持つ指揮権を預かることになります。
児玉という人は士官学校も何も出ていません。乃木とは違ってたたきあげの人です。この人は大砲のことなんか何も知らないのに、要塞砲に興味を持ちます。当時、横須賀の観音崎にあった大砲が旅順に送られてきてたのですが、なにしろ大きなもので、移動困難と思われ、第三軍では無視されていました。児玉はこれを使えと云いだしました。それは無理ですと、専門家たちは文句を云いましたが、児玉は強引に要塞砲を移動させます。二〇三高地の麓に据え付け、それらが活動を始めてから旅順は落ちました。音ばかり大きい要塞砲が鳴り響き、ロシアは降伏しました。
児玉は実に見事な人です。戦後は決して自分の手柄話をせず、乃木は偉いと云うばかりでした。そんなに教養のある人でもない、学問したわけでもない、ジェネラル(将軍)、アドミラル(提督)の才能というのは、長い歴史の中で何人もいないものです。児玉源太郎にはそれが宿っていました。そういった意味では、幕末の大村益次郎もそういう人かもしれません。
さて、バルチック艦隊です。海軍の秋山真之は若くして作戦立案者として海軍首脳から期待されていた人で、海軍戦略を学ぶためアメリカに勉強に行ったりしました。真之に課せられた命題は重いもので、ロシアのすべての艦隊を沈めなくてはなりません。一隻だけでも残したら、その船が日本の通商を破壊しますから。そんなパーフェクト・ゲームは不可能なんですが、そこを戦略・戦術で何とかしろと云われていました。結局、真之は、能島流水軍兵法書という戦国時代以前の海賊の戦法が書かれたものから、戦術の基本を作ります。ある人から何を古ぼけた本を読んでるんだと云われた時、
「白砂糖は、黒砂糖から精製されるものなんだ。」と言ったそうです。
そして、この人の一生のエネルギーのほとんどをこの作戦に注入しました。
東郷平八郎率いる連合艦隊は、パーフェクトゲームを達成し、日本海海戦は勝利します。
その頃、満州大陸に於いて日本陸軍は、疲労しきっており、そのことを誰よりも軍の指導者がよく知っていました。彼らは戦争という大がかりなものをしているつもりはなく、つまり、ロシアを滅ぼすなどという妄想は1ミリも持たず、極東の局地戦における判定勝ちを望んでいただけでした。ロシアがその極端な南下策をやめてくれることだけを、日本の指導部は望んでいたのです。
日本海海戦の勝利は、まさにその判定勝ちを上げるチャンスでした。小村寿太郎外務大臣は、ポーツマスにて、アメリカの仲裁による講和会議に出席し、ポーツマス条約に調印します。
しかしながら、多くの日本国民が、この条約に納得しませんでした。大きな犠牲を払ったことから、その戦利品に満足できなかったのです。
このあたりまでで、よき明治は終わり、この国の青春期も終わり、それ以降の日本人は大きく変わっていきます。大国ロシアに勝ったという事実だけが残り、軍事における分析を怠り、根拠のない自信だけが軍部を覆います。そして大きな敗戦を経験し、いまに至ります。
以下、司馬先生の講演録より。
ロシアという大きな国に勝ったということで、国民がおかしくなってしまいました。世界の戦史で日露戦争ほど、いろいろな角度から見てうまくいった戦争もないかもしれません。うまくいった戦争という表現は変な表現ですが、要は、そんなに戦争を上手に遂行した国でもおかしくなった。
軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。
国家とは何か、そして軍事とは国家にとって何なのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。
またしても先生の受け売りでしたが、安全保障関連法案が世間を騒がせている昨今、声の甲高い、滑舌の悪い、総理の演説に不安を覚えながら、もしも司馬先生が御存命であったなら、何と言われていたのか、深く考えずにはいられませんでした。
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