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2015年7月 8日 (水)

司馬先生の受け売りですけど 前篇

この春ごろ、ちくま文庫から「幕末維新のこと」と「明治国家のこと」という本が出てですね。どういう本かと云うと、司馬遼太郎さんが幕末から日露戦争までのことを、ずいぶんと小説に書いておられ、またそれに関して語られたことも山のように本になっているのですが、それらに載らなかったエッセイや講演や対談録を、丁寧に集めておられた筑摩書房の編集者の方がおられまして、それを、作家の関川夏央さんが改めて編集構成された本なんですね。

いろんな時期に、司馬さんが語られたことがまとめてあるんですが、やはりさすがに先生のおっしゃることはぶれてなくてですね、それらは大変興味深く、かつて読んだその小説たちのことを思い起こさせます。

 

ちょっと小説のことを、ざっくり歴史の順番に整理しますとですね。まず、

「世に棲む日々」(1971)

幕末に突如、倒幕へと暴走した長州藩。その原点に立つ吉田松陰と高杉晋作を中心に、変革期の人物群を描く長編。

「竜馬がゆく」(1963-66)

勝海舟は言った。「薩長連合、大政奉還、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ。」

今でこそ幕末維新史上の奇蹟といわれる坂本竜馬は、この小説ではじめて有名になった。

「燃えよ剣」(1964)

竜馬とほぼ同じ年に生まれた土方歳三は、勤皇の志士の敵役であり、最強組織新撰組副長である。剣に生き、剣に死んだその生涯。

「花神」(1972)

緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、長州の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死を遂げた日本近代兵制の創始者、大村益次郎の波乱の生涯。

「峠」(1968)

幕末、雪深い越後長岡藩から、勉学の旅に出、歴史や物事の原理を知ろうとした河井継之助は、その後、藩を率い、維新史上 最も壮烈な北陸戦争に散った。

「最後の将軍 徳川慶喜」(1967)

その英傑ぶりを謳われながらも、幕府を終焉させねばならなかった十五代将軍の数奇な運命を描いた名著。

「翔ぶが如く」(1975-76)

西郷隆盛と大久保利通は薩摩の同じ町内に生まれ、薩摩藩を倒幕の中心的役割に巻き込みながら、絶妙のコンビネーションで維新を達成する。しかし、新政府の内外には深刻な問題を抱え、絶えず分裂の危機を孕んでいた。明治6年に起こった征韓論を巡る衝突は、二人を対立させ、やがて西南戦争に発展して行く。

「歳月」(1969)

明治維新の激動期を、司法卿として敏腕をふるった江藤新平は、征韓論争に敗れて下野し、佐賀の地から明治中央政府への反乱を企てる。

「殉死」(1967)

明治を一身に表徴する将軍乃木希典。ひたすらに死に場所を求めて、ついに帝に殉じた武人の心の屈折と詩魂の高揚を模索した名篇。

「坂の上の雲」(1969-1972)

松山出身の歌人正岡子規と軍人の秋山好古・真之兄弟の三人を軸に、維新から日露戦争の勝利に至る明治日本を描く大河小説。

他に、この時代を題材にした短編集も多く、「人斬り以蔵」(1969)「新選組血風録」(1964)「幕末」(1963)「アームストロング砲」(1988)「酔って候」(1965)等々あります。

 

いわゆる幕末というのは、1853年のぺりー黒船来航が起点とされていますが、そのしばらく前から日本近海には大国の船団が出没し始めておりました。そのころヨーロッパでは、18世紀半ばから始まった産業革命により、大型汽船が次々に造られていた背景があり、アジア各地では植民地化が進んでおります。ペリーにも、自国アメリカの捕鯨船の基地として、日本の港を開港させる目的がありました。

長州の思想家吉田松陰は、その何年も前から全国に情報を集め、識者を訪ね、当時の国際情勢を調べ、帝国主義の植民地化から日本を救うには、大国の文明を吸収するしかないと考え、アメリカの旗艦ポーハタン号に密航しようとして捕らえられます。その後、萩に戻され、謹慎中に松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、伊藤博文、山縣有朋ら、その後明治維新を実現していく人材を育成します。

しかしながら、松陰自身は安政の大獄で29歳の若さで斬首されてしまいます。

翌1860年にはその弾圧を敢行した大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その2年後の文久二年、坂本竜馬は土佐を脱藩、その翌年には新選組の元となる浪士組が結成されています。当時、西郷隆盛は薩摩藩内の事情もあって沖永良部島に遠島になっていますが、このあたりから倒幕に向けて、一気に時代は動きだしていきます。

1864年(元治元年)池田屋事件

                   禁門の変

                   第一次長州征伐

1865年(慶応元年)高杉晋作長州藩の実権を握る

                   第二次長州征伐

                  武市半平太処刑

1866年(慶応二年)薩長同盟締結

                   徳川慶喜第十五代将軍就任

                   孝明天皇長州征伐休戦勅命

                   孝明天皇崩御

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1867年(慶応三年)大政奉還

                   慶喜将軍職返上

                   高杉晋作病死

                   坂本竜馬暗殺

                   王政復古の大号令

1868年(慶応四年・明治元年)

                   鳥羽伏見の戦い

                   勝海舟・西郷隆盛会談

                   江戸城無血開城

                   近藤勇斬首

                   彰義隊敗退

                   明治に改元

                   会津藩降伏

1869年(明治二年)五稜郭総攻撃

                   土方歳三戦死

                   大村益次郎襲撃され没

 

こうしてみると、黒船が来てから約15年ほどの間に、これだけのことが起こり、全く違う世の中になってしまったことがわかります。

もしもこの時期、日本が清国や李氏朝鮮のような中央集権制の国家であったなら、欧米勢力によって植民地にされていたかもしれません。幕藩体制における各藩は、実は自立した存在で、農業や商業など各産業も競争原理に則って、強化され鍛えられておりましたので、それぞれにそれなりの力を持っていました。外国からこの国を見た時に、中央政府を押さえれば支配下における国であるとは、とても思えなかったはずです。

実際に明治維新を成し遂げた諸藩は、それぞれ独自の考えでこの革命にかかわりました。

個々に複雑な事情もあったのです。

長州藩では松陰の弟子たちが、欧米の脅威からの危機意識ゆえに、藩内の闘争を制して実権を握り、この藩を倒幕の方向へと傾けてゆきます。薩摩藩は西郷と大久保が岩倉具視らとの朝廷工作を通して、藩全体を倒幕に導いて行きますが、このあたりの事情を藩主の島津久光は全く知りませんでした。そして、この長州と薩摩がひとつの力にならなければ、幕府とのパワーバランスとして維新の実現はありません。この薩長同盟の斡旋をしたのが土佐の坂本竜馬だったわけです。

勝海舟は欧米のアジア侵略を防ぐには、中国、朝鮮、日本の三国が締盟しなければならないという考えの人でしたが、後に明治政府で征韓論が起きた時に、いずれ朝鮮にも日本のような新しい勢力が起こってくるから、その時にその者と手を握ればよいと云います。つまり、この国際情勢下であれば、西郷のような人が出てきて革命が起こるはずだから、その新政府と握ればよいということだったのですが、結局、勝の存命中にも、そのあとにも、それは起こりませんでした。    

明治維新というのは、江戸時代の幕藩体制、もとをただせば専制国家ではない競争原理の上に成り立った国のかたちであったことが、それを実現させたということが云えるかもしれません。   

明治という国家が産声を上げたところではありますが、ここまでの話がずいぶん長くなってしまいましたので、この先は次回ということにいたします。

以上、先生の受け売りでした。

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