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2011年12月12日 (月)

優勝請負監督と優勝請負ストッパー

Enatsutonishimoto
秋深いこの季節が好きな理由には、プロ野球日本シリーズの記憶があります。いつの頃までか、かつて日本シリーズは、必ずデーゲームでした。もちろんドーム球場など一つもないころのことです。少し肌寒くなり、太陽の位置が明らかに低くなった美しい斜光の中、日本一をかけて、セ・リーグとパ・リーグの優勝チームが雌雄を決します。そして数々の名勝負が、この季節の記憶として刻まれています。

今年もその季節が終わり、もうすぐに冬が訪れるころに、かつて日本シリーズを8回戦った名監督がこの世を去りました。

西本幸雄さん。1943年に大学野球から学徒出陣し、中国で終戦を迎え復員ののち、社会人野球での優勝を経て、1950年に毎日オリオンズに入団します。この時すでに30歳で、選手としてのピークは過ぎていましたが、その後優勝に貢献し、コーチ、二軍監督を経て、1960年に監督に就任、一年目にしてチームをリーグ優勝に導きますが、日本シリーズには勝てず、オーナーと対立して辞任します。

このあたりまでのことは、私もまったく知らないことですが、1963年から弱少だった阪急ブレーブスの監督に就任し、チームを鍛えに鍛え上げて、1967年にリーグ優勝し、常勝阪急の監督となった西本さんのことは、よく覚えています。

チームは、1967年、1968年、1969年、1971年、1972年とパ・リーグを制覇しています。しかしながら、1965年~1973年は、巨人が9連覇をした、いわゆる巨人黄金時代で、西本さんが阪急ブレーブスを率いて戦った日本シリーズは、巨人を苦しめたものの、すべてV9巨人に敗れております。

1973年に、阪急の監督を勇退した翌年には、やはりお荷物球団と云われていた近鉄バッファローズの監督に就任します。ここでもまた、チームを、選手を、鍛えに鍛えます。チームの強化と、見込んだ選手の育成のためには、あえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さず、選手からは恐れられたが、本当の意味で信頼され、愛されていたそうです。

近鉄バッファローズを強力チームに育て上げ、初めてリーグ制覇した1979年は、西本さんが悲願の日本一に最も近づいた年だったかもしれません。

ここで西本監督の日本シリーズ初優勝を阻んだのが、広島東洋カープ、そして、当時広島の抑えの切り札と云われていた、江夏豊でした。

近鉄2連勝のあと、広島3連勝、ここで大阪球場に戻り、近鉄が逆王手をかけ3勝3敗の五分に。

そして第7戦、4-3と広島がリードした7回、広島はリリーフエースの江夏を投入します。1点差のまま9回、ここで江夏が先頭打者にヒットを許し、代走の藤瀬は盗塁を試みます。捕手水沼の送球は大きく逸れ、無死3塁、バッテリーは、同点を覚悟せざるを得ません。警戒するバッテリーを徐々に攻めて、近鉄は無死満塁のチャンスを得ます。一球一球息づまる展開、一打出れば、逆転サヨナラゲーム、近鉄の優勝となります。

のちに山際淳司が、9回の江夏のすべての投球を分析した「江夏の21球」という有名なスポーツノンフィクションのクライマックスです。

バッターは代打・佐々木恭介、ベンチの指示は「強攻」でしたが、江夏はこれを三振に抑えます。次の石渡茂の打席で、初球のストライクを見逃したのを見て、西本監督は作戦をスクイズに切り換えます。江夏の19球目、3塁走者藤瀬がスタート、石渡がスクイズの構えに入る瞬間、後に語りぐさとなりますが、江夏はカーブの握りのまま、立ち上がった水沼にスクイズを外した球を投げます。 石渡のバットは空を切り、ランナータッチアウトで2アウト。20球目ファール。21球目、空振り三振3アウト。西本近鉄は、日本一を逃しました。

私は、この江夏豊というピッチャーがデビューした年からこの人のファンになり、真剣にプロ野球中継を見るようになり、阪神ファンになり、この人がトレードに出されたときは晩飯が食えず、その後、血行障害と闘いながら、リリーフ投手としてよみがえってからもずっと応援していました。

江夏が阪神に入団した時に小学生だった私も、この試合が行われたときは、すでに働いておりました。日本シリーズ第7戦はTV観戦したかったですが、この時私は瀬戸内海の小島にロケハンに行くために、新幹線に乗っていました。関西は曇りでやや小雨模様、今頃やってるなあなどと思っておりましたところ、岡山も近づいたところで急に車内放送がありました。

以下記憶をたどりつつ、

ピンポンポンポーーーン

「車掌の○○と申します。おくつろぎのところ恐縮ですが、ただいま大阪球場で行われておりますプロ野球日本シリーズの情報が入りましたのでお知らせします。4-3と広島リードで迎えました9回裏、近鉄がノーアウト満塁と攻めたてましたが、ここからピッチャー江夏がふんばり、三振の後、スクイズを見破るなどしてこれを抑え、広島が4勝3敗で日本シリーズを制しました。以上です。」

そして車内は、歓声に包まれました。

セパ2リーグ分立初年の1950年には、ダントツの最下位だったこの両チームの日本シリーズは、好ゲームの連続、接戦でものすごく盛り上がり、その翌年もたしか広島-近鉄の顔合わせで第7戦までもつれ、やはり最後は江夏に締められて、西本近鉄は敗れます。

 

西本さんの訃報に触れ、江夏談。

「勝利に対する執念をすごく感じた。会うたびにあの時(江夏の21球)のことで、『この野郎』と言われ、『執念深いおじいちゃんやね』と返していた。同じチームで選手、監督としてやったことはないけど、一度は一緒にやりたいと感じさせる人で、個人的にも大好きな方だった。寂しいよな、やっぱり。」

 

 

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