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2010年2月26日 (金)

反骨のサイドスロー、逝く

Kobayashi
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月に小林繁さんが亡くなりました。その現役時代を40より若い人はすでに知らないかもしれません。178cm,68kg、痩せっぽちの投手でしたが、その身体を鞭のようにしならせたサイドスローからの豪球は、数々の名勝負を生み、野球ファンをうならせました。

今年から日本ハムの一軍ピッチングコーチを引き受けることになっていた矢先、この訃報がどれほど思いもかけないことであったかは、梨田監督のリアクションを見てもよくわかりました。それに加え、改めて驚いたのは、その年齢です。享年57歳、1952年生まれといえば、私より2歳年長なだけです。

1期の長嶋ジャイアンツが2度の優勝をしたとき、1976年も1977年も、彼は18勝を挙げたチームのエースでした。無名の高校を出て大丸の呉服売り場にいた痩せっぽちの投手を見出した巨人のスカウトも立派でしたが、このピッチャーなしに長嶋ジャイアンツの優勝はあり得ませんでした。比べるのもなんですが、1977年に社会に出たばかりの私は、その頃、毎日撮影スタジオの床を掃除していました。入ったばかりで当たり前なのですが、スタッフの中の一番下っ端です。どう考えても、自分と同年代とは思えぬ貫録を彼は備えていました。

江川卓という人は、私より1歳年下です。あの1978年のシーズンオフ、日本中が大騒ぎになった「空白の一日事件」の二人の主人公が、3歳しか年齢が違わなかったのは、やはり意外な気がします。

高校野球史上、最高の投手といわれた怪物江川は、ドラフトで意中の球団から指名されぬ運命にありました。阪急ブレーブスの指名を断って、六大学の法政に進み大学野球の数々の記録を作り、大学卒業時には、クラウンライターライオンズの誘いを退け、アメリカに野球留学してしまい、ついに、1978年のドラフトの前日、意中の球団読売ジャイアンツと、電撃的に契約してしまいます。

ただし、この契約を社会は認めませんでした。ドラフトの前日だけは、前年度の指名権は消滅するのでどの球団からも拘束を受けないという不思議な理屈を、あの巨人軍が主張したのですが、そんなことが認められたら、誰でもその日に契約してしまい、ドラフト制度も蜂の頭もなくなってしまうわけです。誰が見ても、プロ野球界をリードする紳士の球団といわれる巨人軍が、子供のように駄々をこねているようにしか見えませんでした。結局ドラフト会議で江川投手の交渉権は、宿敵阪神が獲得することになります。

しかしながら、これでも騒ぎは収まりません。巨人も他球団も後にはひかず、当時のプロ野球コミッショナーは、江川を阪神に入団させた後で、巨人と阪神とのトレードを要望し、事態を終息させようと試みます。

そうなったら、そうなったで、今度は阪神が、

「あっ、そういうことなら小林君ください。」

と言っちゃうわけなんです。

かつて大人たちが決めた球界のルールっていうのは、どうなっちゃたんだろうって感じですけど。

たしか、1979年の春のキャンプに向かう羽田空港から呼び戻された小林投手は、ものすごい記者団に取り囲まれて、トレード移籍の発表をしたと思います。その時の映像が、先日小林さんが亡くなった時に、何回もテレビで流されていました。その席で彼は、

「このことで同情はされたくない。野球が好きだから阪神のお世話になります。」

と語りました。

何とも釈然としない結末でありながら、一応の決着がつき、シーズンが始まりました。江川投手は、2ヶ月くらい公式戦に出れなかったように記憶してます。

当時阪神ファンだった私としては、(今も阪神ファンですけど、なんだか)

怪物江川の将来性は、たしかに測り知れないけれど、すでに巨人のエースとしてあれだけの実績のある小林投手を放出してまで、ほしい選手なのだろうか。ともかく、小林投手には、頑張ってほしい。江川なんかに負けるな。という気持ちでした。

かたや、プロ6年で沢村賞まで獲ったピッチャー。かたや、高校・大学で活躍したとはいえ、全くの新人。ぜんぜん格も違うし、年齢ももっと離れてると思ってました。

1979年、阪神のエースとなった小林は、ものすごい活躍をします。怒りから来るエネルギーだったのでしょう。

2291S 完投17 完封5 奪三振200 防御率2.89

シーズンを通して全力投球、特に巨人戦は鬼気迫るピッチングで8戦全勝でした。

彼の好調時の特徴とされる、マウンドで投げた瞬間に帽子が飛んでしまう映像を何度も目にしました。当時若手芸人だった明石家さんまは、小林投手の形態模写で人気を博し、投球フォームに入る前に、きちんと脱げないように帽子をかぶるポーズが受けていました。

いずれにしても、彼の気合は、そのまんま成績となって現れました。

ただ、事件の起きたこの年に、気持ちが集中しすぎてしまった感もあり、少し身体的にも無理をしてしまったようで、翌年以降も、エースとしての成績は残しつつも、その後、対巨人戦は515敗と大きく負け越しています。

一方、江川投手は、デビュー戦の阪神戦こそ3本のホームランを打たれ負け投手になり、阪神ファンを沸かせましたが、その後は阪神戦を得意とし、通算成績は3618敗でした。

小林投手は1979年のシーズンで、ある意味燃え尽きたかもしれません。1982年のオフに

「来年15勝できなかったら野球をやめる。」

と宣言し、翌年1314敗と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、31歳の若さで現役を引退してしまいます。当時同僚だった川藤幸三さんは、右手の指先に血が通わなくなり、勝負どころで皆に迷惑をかけるからと告げられたそうです。通算11年の惜しまれる引退でした。

江川投手も、198732歳の若さで引退しました。デビューが遅くなったので、通算9年、13572敗、目標にした小林投手の139勝には届きませんでした。ただ、初めて両者の直接対決が実現した1980年の阪神×巨人戦は、江川投手が自らタイムリーを放ち、勝利投手となりました。彼はのちに、一生のうちに絶対負けられない試合があるとすると、この試合だったと語っています。

無名の高校時代に、巨人に見出され、巨人でも阪神でもエースとして活躍し、両方で沢村賞を獲った投手。

高校時代から怪物と呼ばれ、常に注目され続け、そして走り続けた投手。

ともに8年連続2桁勝利をして球界を去った二人の天才は、様々な風景の中にいましたが、

プロ野球ファンが、小林繁を、江川卓を思い出すとき、真っ先にあの出来事が浮かびます。

あれ以来二人はずっとそのことに縛られていたかもしれません。

そう考えると、小林さんが亡くなる前に二人が会えたことは、よいことだったと思います。

二人が会えたのは、CMの撮影でしたね。いい企画でもありましたし、二人のとらえ方も、撮影の仕方も、編集の仕方も、素晴らしかったです。

小林談「ある意味では君のおかげだよ。江川卓がいなければ、あんなに熱くなれなかった。」

2007年の秋、謝ることができてよかったと今は思います。」

訃報を聞いた江川はしみじみと言ったそうです。

 

 

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