« 歩くということ | メイン | 歩くということ 登山編 »

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

コメント

コメントを投稿