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2021年2月24日 (水)

どこか遠くへ行きたい

世の中がこんなことになって、かれこれ一年が経とうとしてます。つい先日、実家がお世話になっている税理士さんに会わねばならなくなって、久しぶりに広島まで新幹線に乗りましたが、思えば、旅することがなくなって、ほぼ一年になります。
こうなると、なんだか無性に旅というものが恋しくなりますね。国内はともかく、今は国境を越えることすらできませんから。私のお友だちには、旅をこよなく愛する方が多くて、皆さんしばらく、鬱々とした日々を過ごしていらっしゃると思います。
私はもともとが出不精だし、自分から思いついて、どっかに出かけたりはしないんですけど、何かと旅をすることになりがちな人でして、旅慣れてはいるんですね。それは仕事と関係することが多かったりもするのですが、そうじゃなくても、何らかの用事ができたり、旅好きな方から一緒に行こうと誘ってもらったりと、わりと若い頃からずっとそうで、長いこと、旅する理由には事欠かない人だったんです。そんなことで、こんなに長いことどこにも旅しなかったのは、初めてじゃないですかね。
考えてみると、旅からは、いろんなことを教えてもらいましたね。旅せねば出会うことのなかった人や、街や、土地や、ものや、新しい価値観、いいことばかりじゃない違和感も含めて、他者から多くのことを受け取り、そこで自分と向き合うことも多かったと思います。
旅には、その風景や時間とともに、強い印象を残した記憶が刻み込まれているんですね。
これからは、自分が行きたいと思ったところへ、ふらっと旅してみたいなと、思っていたところだったんですけど、この状況下では、なかなか思うにまかせず、旅に焦がれ、空想の日々が続きます。

このまえ、伊丹十三さんの若い頃のエッセイを読んでいたら、沖永良部島(おきのえらぶじま)で食べた落花生がうまかったという話があって、久しぶりにこの地名に触れ、若い時にひょんなことで、この島を訪れたことを思い出しました。この島は鹿児島県ですが、東シナ海のかなり沖縄寄りに位置します。
私が学校出てすぐに働いていたCMの制作会社で、この島にロケに行く仕事が起こり、その仕事にお供させてもらうことになります。多分この時初めて飛行機というものに乗った気がしますが、1977年頃のことで、スタッフ全員の航空チケットを飯田橋の旅行代理店まで受け取りに行き、その時に持たされた現金90万円は、それまでの人生で見たことのない金額で、緊張したのを憶えています。
島は周囲50kmくらいで、車なら1時間で一周できるくらいの大きさです。九州本島からは550kmほどで、幕末に西郷隆盛が遠島にされていたというところです。我々がロケをするために向かったのは、沖永良部島にいくつかある小学校のひとつで、校庭にすごく大きなガジュマルの樹がある小学校で、大きな樹をビジュアルモチーフにしたある企業の広告を作るため、樹と学校の風景を撮影するのが目的でした。
見たこともない映画用のでかいカメラと共に、突然やってきた大勢の大人たちに、離島の子供たちは、初め戸惑いながら遠巻きにしていましたが、だんだん近付いてきました。
「おじさんたち、何しにきた?」と聞いた子がいて、多分、彼らと一番歳の近い私が、
「テレビのコマーシャルを撮りに来たんだよ。」と、答えたんですけど、
当時のこの島の多くの人たちは、コマーシャルというものを知らなかったんですね。要は、民放の放送がなくて、NHKしか放送されてないので、ここにはテレビコマーシャルというものはないわけです。
その時、仕事のために持っていたポラロイドカメラがあって、それ自体、当時珍しくて貴重なものだったんですが、フィルムが余っていたので、子供たちを撮って写真をあげたんですけど、その場でカラーの画が浮き出してくる写真に、みんな目が点になって、その後で歓声が上がりました。写真をちり紙に綺麗に包んで大事にランドセルにしまう女の子もいまして、コマーシャルってなんだかわからなかったけど、悪い人たちじゃなさそうだなみたいなことにはなりました。
仕事も終わり、帰りの飛行機を待っていたのは、空港ターミナルビルとは呼び難い、どこかのローカル線の小さな駅舎のような建物でして、鹿児島空港から飛んで来るYS-11が折り返し私たちを乗せて飛んで行くことになっていました。飛行機が着陸すると、空港にいた整備員がすぐに走って行って、やおらYS-11の屋根のランプのあたりに乗っかって、なんかやってるんですね。で、しばらくしてこっちの建物の方へ走って来て、何人かでなんか話してるんですけど、客の方へ向かって、
「皆さんの中で、どなたかガムテープをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と、おっしゃる。
ご存知じゃないかもしれませんが、撮影隊というのは、必ずガムテープを持っていて、当然、備品は一番下っ端の私が管理しているわけです。その整備の人にガムテープ2本くらいお渡ししたと思うんですけど、その人がYS-11の方へとって返したかと思うと、その機体に登ってまたがり、やおらガムテープを数カ所貼り始めたんですよ。
「えっ?」
それから、何事もなかったように搭乗手続きが始まるんですけど、それを知ってる人たちは結構不安なわけですよ。もともと飛行機のことをあんまり信用してなかったんですけど、初めて飛行機で旅した時のこの経験から、ますます飛行機嫌いになった気がします。

これが私の、沖永良部島・旅の思い出ということなのですが、どうもこの島にはご縁があったようで、それから2年くらいして、もう一度、また別の仕事で撮影に行くことになりまして、これがまた思い出深い旅になります。というか思い起こせば、その後の長きに渡る私のロケのキャリアにおいて、唯一最後まで晴れなかったロケだったんですね。
毎年、2月、3月あたり、鹿児島の南から沖縄の各島に渡って、いわゆる台湾坊主(東シナ海に発生する温帯低気圧)が停滞して、ずっと天気が悪いことは知られていますが、そうは言っても1日や2日晴れる日もあるし、だいたい俺たち晴れ男だしみたいな気合で挑んだロケでしたが。
この仕事がまた “ピッカピカの一年生”という児童雑誌の広告キャンペーンでして、文字通り晴れないわけにはいかないのであります。ところが、来る日も来る日も、雨、雨、良くて曇りなわけです。東京のこの仕事のクライアントからは、撮れるまで帰ってこなくてよいとのお達しがありましたので、ただ雲の切れ間を待っております。
ロケ隊は男10人ほどの所帯で、泊まってるのは、さほど大きくない観光ホテルなんですけど、シーズンオフで他に客もなくて、毎朝、海に面したレストランに集まるんですが、空にはびっしり鉛色の雲が幾重にもかかっておるわけでございます。
こうなれば粘るしかないんですが、この小さな島には娯楽もなく、毎晩、黒糖焼酎や泡盛飲むにしても昼間は天気が悪ければ行くところもないし、そこら辺にある雑誌は全部読んでしまって、ついには連絡船で届いた新刊本を港に買いに行く始末です。日々の会話も無くなり、朝ご飯済んだらそれぞれベッドに戻り、サナトリウムってこういう感じかなと云ったりしておりました。
そんな長期滞在の末、どうにか薄日で撮影を終え、ついに島を離れる時に、一年半の遠島から帰国できることになった西郷さんの心持ちにちょっとなったといえば大袈裟なんですが。

それからも、東シナ海をめぐる島々には、よく仕事で出かけましたが、その中で最初に行ったこの島のことは特に印象深いです。でも、あれ以来行ってないですから、今はどんなふうになっているのだろうか。ちょっと行ってみたい気もするけど、、

多分、なんもかんも違う景色で、完全に浦島太郎状態なんでしょうね。

Okinoerabu_3


 

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