ホシヤン
新緑のこの時期、世の中には新社会人が溢れ、あちこちで、ちょっと不慣れなリアクションなどで、爽やかな新米君たちに出会います。うちのような小さな会社にも、4月から4人の新人たちが名を連ねました。
その初日、何から始めるのかと見ていると、この日の夜は、新人歓迎会を会社の屋上でやるのだそうで、そこで出される食べ物の準備からやらされております。
うちの会社は、なにかというと、屋上とその横にある台所で、料理を作って食べたり飲んだりする習慣がありまして、その準備は全部自分達でやるんです。
とは言っても、今日入ってきたばかりの新人に料理ができるわけもなく、わが社の総料理長、私は花板と呼んでいますが、その花板のO桑君の指導のもと、まず炭を熾したり、野菜の皮むきをやらされたりしています。この会社の場合、こういった訓練がわりとバカにならなくて、こういうことさせられる頻度がわりかし多いんですね。普通の会社だとあんまりそういうこと無いんですけど、この屋上にお客様呼ぶことも多いし、まあ、社員旅行にキャンプに行っちゃったりする会社なもんで。
新人は炭ばかり熾してるわけじゃなくて、一応ちゃんとした仕事の教育も受けながら、4月の半ばには、代々木公園での夜桜見物にも参加して、忍者の恰好させられて、横走りとかしながら、だんだんに、この一団の一員になっていきます。
そんな風景を見ながら、自分にもそういう頃があったなと思ったわけです。
大学を出た私は、これといった指針もなく、就職活動もせず、ただブラブラしていたんですが、当面生活せねばならず、ひょんなことから、テレビCMを制作している会社で、アルバイトをすることになりました。1977年の桜の頃だったと思います。
会社は、新橋のちょっとはずれのモルタル2階建ての建物で、わかりにくいところにありました。アルバイトをするにあたって面接してくださったのは、制作部長をされてるO常務という方でした。なんて云うかあんまりしゃべらない人で、機嫌悪そうにハイライトを吸ってて、仕立てのいいスーツ着てて、たまにしゃべるとべらんめえで、強いて言うと天知茂に似てて、ちょっと何ていうか、インテリやくざな感じがしました。
とりあえず、明日から朝いちばんに来て、事務所の掃除からやるように云われたので、次の朝行ったんですね。
何故か入口の鍵は掛かってなくて、ビニールマットがめくれた階段を登ると、うなぎの寝床のような暗い廊下があって、突き当たりが事務所のドアになってました。
ここも鍵掛かってなくて、そおっと開けると、机があって、その横の床に裸足の足の裏が四つ見えました。毛布掛けておもいっきり深く眠ってらっしゃる男性二人。頭の方へ廻って顔みると、なんだか顔色がすごく悪くて、死んだように眠ってて、何かこの人達、注射とかされてんじゃないかと・・・
全く起きそうにないし、しかたなくドアの外に出て立ってたんですね。そして、しばらくすると、後ろの階段から誰か登ってくる靴音がしたんです。その人が、ホシヤンだったんですけど、どんなだったかと云うと、頭はカリカリに刈り込んだ坊主頭で、サングラスしてて、煙草くわえてチョビ髭です。ぱっとみ完全にそっち系の怖い人です。そういえば会社の名前も考えようによってはそんな感じもするし、昨日の人もなあ・・・
「君、なに?」
「あのお、今日からアルバイトで、朝、掃除するように云われてます。ハイ。」
で、事務所に入ると、寝ている二人を蹴りつつ、
「おりゃあ、いつまで寝とんじゃ。」
と、おっしゃいました。
いや、もう、ここまでの経緯で、私ここで完全に失礼しようと思ったわけです。昨日からなんとなく想像していたことが、朝からだんだん良くない方向で固まってきました。
ただ、逃げ出すわけにもいかず、様子見ながら掃除してると、普通の女子社員も来るし、総務のS田さんと云う人は、すごく親切で、とても怖い系の人とは思えませんでした。
私、しばらくこちらに置いていただくこととなりました。S田さんに渡されたタイムカードの通しナンバーが27番で、会社の人数がそれくらいなのだと云うこともわかりました。
結局、このあと、会社はものすごく忙しいことになっていき、だんだんに人も増え、私は11年とちょっと、この会社でお世話になることになります。
あの時、オシッコちびりそうに怖かったホシヤンに、その後いろいろと仕事を教えていただくことになりましたが、第一印象と違って、実は優しくて面倒見の良い人でした。
はじめの一年、ほとんど育てていただいたと思います。
サングラスの奥の目も、よく見るとつぶらでかわいかったし、
ホシヤン語録と云われるセリフは、ちょっとヤクザっぽく、
「この百姓があ~~!」とか、
「すべったころんだやってんじゃねえんだよお~」など、いろいろありますが、
東映の高倉健さんのことが大好きで、カラオケ行くと、必ず「唐獅子牡丹」と「網走番外地」を唄いました。完全になりきります。
仕事は細やかで、すごくよく気の付く人で、おまけに心配性です。私達後輩は、彼のことを、陰で“神経質やくざ”と呼んでいました。
この会社には、ホシヤンと同年代の当時30前の先輩が多くて、ほかに、ヤマチャン、スギチャン、ソガチャン、アリヤン、ヨウチャン、オキチャン、タッチャンなどがいて、(その頃なぜかこの業界、チャンとかヤンとかよく付くんですけども)
今考えると、この人たちが優秀で会社を支えてたように思います。会社のトップも迫力のある人たちで、前述のO常務にくわえ、A専務は幕末のいきさつから未だに長州藩のことを赦していない会津の人でしたし、かつて演出家であった、大阪弁のI社長と、強力なトロイカ経営陣でした。最年長のA専務が当時43歳ですから若くて元気のいい会社だったと思います。
あの頃、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、ここで救われたと思います。皆、作る事に対して厳しく、目指すところは高いけど、仕事にも仲間にも愛情を持っていて、会社は一枚岩でした。若い頃、この方たちから、よく本気で怒られましたが、今、ありがたいことだったと思います。
盤石の備えで社業は発展し、立派なビルが建ち、現在200名を超えて業界大手となったその会社で、ホシヤンは副社長をされており、たまに会うと、
「百姓があ、すべったころんだやってんじゃねえんだよお。」
などと、のたまわれております。
尊敬する先輩諸氏の敬称を略しましたことをお許しください。
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