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2019年2月20日 (水)

働き方改革のことを考えた

今回はちょっと真面目な話なんです。

このところ世の中では、「働き方改革」ということが云われて久しいですが、当然ながらうちの会社でも、なにかとその話が出ます。

私のいる業界は、広告映像の制作が主な仕事であり、そもそも世間が働き方改革を叫び始めるきっかけになった、労働時間に問題のある業界でして、かなり真剣に取り組む必要があるんです。

まあ昔から、徹夜は当たり前、納得いくまではやめるな、とことんやれみたいなところがありまして、長いこといると、わりとそういうのが普通になってるんですね。

確かにそれは、習慣的なことでもあり、無駄に時間使ってることもなくはなく、だいたい長い時間仕事を続けてると、集中力も低下してきて、返って効率悪くなるってこともありますよね。

自身の経験から言えば、この労働時間の短縮というのは、その仕事にとって、無意味な時間というのを極力削ってほしいということに尽きます。それには、仕組みを見直したり、新たにルールを作ったりして、改善の道を探ることが必要になってきます。

モノを作る仕事というのは、どこまでやっても終わりが来ないようなとこがあります。やればやっただけのことはあるということも云えますが、時間を長くかければ良いモノができるというものでもありません。そのあたりが仕事というものの面白いところなんですけど。

キャリアの少ない人の方が、どうしても仕事に時間がかかってしまう傾向もあります。それに要する時間は、ある意味訓練の時間として考えねばなりません。

要は、それらの時間を、ルールに則って、どう工夫していくかということです。

労働時間を、やみくもに区切って、ただ短縮してもあんまり意味はありません。チャップリンのモダンタイムスみたいに、コンベアで目の前に流れてくる作業を単純にこなしていくだけの仕事であればいいんですけど、そういうタイプの仕事ではないのでね。

かなり考えなきゃいけないのは確かです。

 

それと、働き方の問題なのかどうかは、よくわからないけれど、昨今よく世の中で話題になっていることに、パワハラ、セクハラというのがありますよね。

ちょっと話が長くなるんですけど、このまえ犬の散歩をしていたら、近所の児童公園でリニューアル工事をやってまして、なんか若い作業員がトラック運転してバックで公園に入ってきて、まあちょっと不慣れだったんでしょうけど、置いてあった工事用運搬一輪車(通称ネコ)に、おもいっきりぶつけたんですね。けっこう大きな音したんですけど、運転してたお兄ちゃんもちょっとびっくりしたみたいで、そばで仕事してた先輩と思われる作業員に、

「すいません、大丈夫ですか。」って聞いたんですね、そしたらその先輩が、

「大丈夫じゃねえよ。ふざけんな、もしもそこに人いたらどうすんだ、バカ野郎。」と、けっこうな勢いで、怒鳴ったんです。

それを、犬と見てて、「そうだよなあ、それぐらいの失敗だよなあ。」と呟いたんですが、

何を思ったかというと、自分が若い時、仕事でよくこんなふうに怒られたなあということなんです。私の新入り時代ですから、ずいぶん前の話なんですけど、そのころ現場に入ってきた新米は、いつ先輩や親方からどやされるか、ドキドキと緊張してたんですね。まあ、先輩たちも結構こわい人たちだったんですけど、ただ、そのどやされることの多くには、こいつをどうにか使えるようにしてやろうというような、愛情とまでは云わないけど、そういう気分が含まれてて、おっかなかったけど、いやじゃなかったかなというのがあります。

要は、現場っていうのは職人の世界だから、新米は先輩を見ながら仕事覚えていくわけで、先輩たちにも弟子を育てる仕組みが出来てたと思うんです。そりゃ、いろんな人がいましたけど、そういう仕組みの中で、育ててもらったり、勝手に育ったりしてたわけです。思い出してみると、先輩も後輩も相手のことよく観察してましたね。表現はぶっきらぼうだったりするんだけど、よく見てた気がします。ちょっと生意気になってくると、この先輩の仕事はいいな、かっこいいなとか、この先輩の仕事の仕方はよくわからないなとか、先輩の方もちょっと育ったなと思えば、褒めてやったり、これがまた褒められるとつけあがったり、まあそういうことで、3歩進んで2歩下がったりしてたわけです。

その頃、パワハラっていう言葉もなかったし、パワハラまがいのこともなかったとは云えないけど、なんかお互いのことに、もっと関心持っていて、思ったこと云い合って、その上で、どやしたり、叱ったり、諭したり、ちょっと褒めたりしてたんじゃないでしょうか。いつしか自分にも後輩が出来るようになっても、そういうことは続いてたように思います。

パワハラということが起こる背景には、基本的に相手の性格や力量がわかっていないということがあります。人と人が関係を作って行く上で、相手に対する興味や想像力が欠如していませんかね。いわゆるお互いの踏み込みが足りないということのような気がするんですね。その責任の多くは、先輩の方にありますが。

そうやって、世の中全体がパワハラという現象に妙に過敏になってきてますと、相手に云いにくいことはもっと云わなくなりますし、ますます踏み込みが浅くなるわけです。

セクハラに関しても、多分そういった傾向はあって、異性に対してのマナーというのは当然必要だけど、お互いにある程度遠慮しないで踏み込まないと、本当の仕事のパートナーにはなれないわけですよ。

かつて、職場に新人が入ってくると、みんなしていじって、ちょっと手荒い歓迎みたいなことしてましたが、それはそれで、関係作っていく上では、役に立ってたとこもあったんですね。

労働時間の短縮に関しても、仕事というのはしょせん人間がやることなんだから、同じ仕事をする者同士が、いかに人間関係を構築しておくかにかかってるんじゃないでしょうか。ひとつの仕事をやり終えるための時間を、そのチームでどうやって共有して、役割と作業を手分けするのか。メンバーそれぞれが、特にリーダーがどれほど的確にそのことをつかんでいるかにかかっています。そのことなしに、名案というのはなかなかないと思いますね。

働き方改革は、しなきゃならない局面に来ているのは確かだけど、昔から積み上げてきたことを全否定することではないですよね。なんとなく感じるのは、このところ世の中は、社会のルールやシステムの整備のことばかりになっていて、なんか一見スマートではあるんだけど、わりと泥臭く一人一人と向き合うことも大事なんじゃないかとも思うんですよ。

 

そういえば何年か前に読んで、深く頷いた山田太一さんの言葉です。

 

「いまはみんな訳知りになって、人生を生きはじめる前に、

絶望もあきらめもインプットされてしまうところがあるから、

人間のいい部分を信じることが

非常に難しくなってきている気がします。

実際に誰かとの距離を詰めようとすると、

みっともない自分も見せることになる。

そういうのを避けようと思う。

それで孤独になっているところがある。

友達になろうと思って踏み出せば、

そして歳月を重ねれば、

ちょっと無視できないような関係ができていくんです。」

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働き方改革するうえで、大事な判断基準は、その職場に入ってきた新人がちゃんと一人前になっていける環境があるかどうかじゃないかと思います。

 

そうこうしてるうちに、桜の花の蕾も付き始め、

桜が咲く頃には、また新しい仲間が入って来る季節になります。

春を待つのはなんだかいいもんですよね。

 

 

 

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