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2017年6月20日 (火)

MANCHESTER BY THE SEA

先週、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という映画を観たんですけど、久しぶりに何かが心に残ってしまう映画だったんですね。いい映画みたいですよという周辺の評判を聞いてから行ったんですけど、最近なかなか自分から映画館に行ってみようと思うことが少なくなっており、それは、自分の年齢と、世の中の映画の配給が合ってなくなってるせいもあるんでしょうが、昔のように、ちょっと思いつきで観てみようかということに、消極的になっているところがあります。東京で公開されてる映画の本数は決して少なくはないから、実はいい映画を見落としているかもしれないですけどね。

古い友人で脚本を書いているF田さんに、この映画を観たことを云ったら、

「見ました、見ました。近頃の映画の中ではマトモな方だと思います。『ラ・ラ・ランド』なんかも、ア・ラ・ラ・ランドやもんねえ。映画も文学も世界的に幼稚になってしまいました。」

などと、厳しいことをおっしゃってましたけど、たしかに、想像の範囲を越えてこちらに踏み込んでくるような映画体験というのは減っているのかもしれんですねえ。まあ、おっさん達は、長いことさんざん映画観てきてますから。

この「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という題名は何だろうかと思ったら、地名なんですね。ボストンの近郊の海に面した町で、ボストンの裕福な人のリゾート地であり、ブルーカラーの人々が多く働いている町なんだそうで、なので、この題名は日本で例えると、「横須賀ストーリー」とか「鎌倉物語」みたいなことかもしれません。

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物語は、ボストン郊外でアパートの便利屋として働きながら、たった一人で暮らしている主人公のリー・チャンドラーと云う男が、生まれ故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ってくるところから始まります。彼の兄のジョー・チャンドラーが病気で倒れ、リーが到着する1時間前に息を引き取るんですが、、ジョーが残した遺言には、ジョーの息子の、リーにとっては甥にあたる16歳のパトリックの後見人にリーを指名してあったんです。兄は弟をこの街に戻したい意図があるんですが、リーは、この街に本当につらくて重い過去があり、ここに戻ることはできなくて、甥を連れてボストンに帰ろうとします。

一方、パトリックの方は、この街で友達にも恵まれ、バンド活動やホッケーをしながら、二人の女の子を二股にかけたりして高校生活を楽しんでおり、また、父が残した船を維持しながら、この街で暮らすことを考えています。

映画は、このかみ合わない二人を追いながら、つらい過去のことや、周辺の人々も描きながら進んでいきます。この映画の脚本は本当によく練られていて、その精度が実に素晴らしいんですね。主演のケーシー・アフレックが、

「物語や場面、登場人物の関連性に矛盾点がまったくない素晴らしい脚本があったから、僕は迷わずに信頼して進むだけだった。」と云ってます。

脚本を手掛けたのは、ケネス・ロナーガン。そもそも、この映画はプロデュース・監督・主演を、あのマット・デイモンが務める予定でした。そこで、彼が脚本家として絶大な信頼を寄せるケネス・ロナーガンに脚本を依頼したんだけれど、デイモンのスケジュールが合わなくなって、結果的には監督もこの人がやることになり、主演は、デイモンの親友のベン・アフレックの弟であるケーシー・アフレックということになります。いろんな偶然が良い化学反応を生んだこともあったかもしれないけど、マット・デイモンは「力ある役者と脚本、そしてケニーの演出によって、この映画は忘れられないものになった。」と語っています。脚本も、演出も、そして、主人公リーの孤独と悲しみを体現したケーシー・アフレックの渾身の演技も、見事に実を結んでいます。

加えて言えば、パトリック役のルーカス・ヘッジズも、リーの元妻役のランディを演じたミッシェル・ウイリアムズも、様々な役者やその設定も、この映画にとって、みなプラスに働いていたと思えます。

 

ただ、この映画は、観る者を、救いや解決に向かわせることをしません。主人公がつらい気持ちから解放されたり、再出発したり成長したりするわけではなく、ある意味何も変えられない。本当に大事な何かを失ってしまった時、その悲しみから逃れることはできないし、人は出口を見失います。そんなことを思わざるを得ない映画なんだけど、でもなぜか観る者を孤独にはしないんですね。

だから観終わって元気が出るわけじゃないんだけど、ちょっとだけしみじみ祈るような不思議な気持ちになる。でも、いい映画だったのです、なんか。

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