配送業してた頃
コロナ禍によって、息苦しく暮らしにくい世の中になって、すでに2年目になり、終わりの見えない日々が続いています。自由に外出することもままならず、生活するための買い物も制限される中、助けられているのは、今の時代に細やかに張り巡らされている配送のシステムです。
大抵の物は、電話やネットでリクエストすれば、素早く届けていただけるわけでして、この状況下、全くもってありがたいですよね。
この時代が育てた現システムは、その精度をますます上げてきておりますが、この仕組みを支えているのは、間違いなく実際に物を届けてくださる配送員の方々でして、ウイルス感染のリスクの中、まさに家籠りの生活を助けていただいているわけです。
昔、配送の仕事をやったことがあるんですけど、これなかなか大変な仕事なんです。大学時代のアルバイトでしたが、お中元とお歳暮を配る真夏と真冬の約1ヶ月ずつ、デパートの配送センターから呼ばれて、毎日、荷物を配り歩いておりました。私が働いていたのは、港区・千代田区配送センターというところで、渋谷の東横線のガードの下にあって、結構大きな配送所でした。
だんだん思い出してきたけど、港区と千代田区の町名ごとに仕分けされた荷物が山積みになっていて、まずその日に担当する荷物を、自分に割り当てられたホロ付き軽トラックに積み込むんですが、この時、あらかじめ配る順番を決めて積みこんどかないと、後で配る時にわけわからなくなります。伝票も配送順に束ねて、軽トラに乗り込み、港区と千代田区の各地区に散っていくんですが、基本的にトラック1台につき1名で、雨の日も風の日も朝から日没まで配り歩きます。思えば、あの頃のお中元お歳暮の季節、荷物の量はかなりのもんでした。
行き先は地図が頼りです。この地図を読み込んで頭に叩き込んでおくこと、またその地図上の場所が実際の街のどこなのか、その辺りがあらかた描けてないと仕事になりません。ともかく必死で地図を読み込んで、あと、一方通行や目印なんかも赤ペンで地図に書き込むんですけど、そうやってあとは走りながら、風景ごと頭にインプットしていくわけです。
こうやっていろんな地区を担当しながら経験値を上げていきます。東京の街には実に様々な顔つきがあって、官庁から大中小企業やら町工場、各種宿舎、商店街、学校も病院もあるし、宗教関係、住居、集合住宅、等等。届け物がわりと集中する議員会館みたいなところもあれば、滅多に来ないところもあり、届け先は本当に多種多様です。若い時にあれだけの東京の風景を見て、中に入っていって、いろんな人に会ったことは、ずいぶん面白い経験をした気がします。
どんな仕事もそうですけど、始めのうちはなかなか苦戦するんですが、これらの体験を重ねていくことで、だんだん要領がわかってきます。仕事の勘みたいなものが良くなってくるんでしょうか。やり始めた頃は、1日頑張って100個とかがいいところでしたが、1年2年とやっていくうちに、200個とかは朝飯前になります。アルバイトとしては年に2回の大型収入となりまして、自分でも、はなから当てにするようになり、配送所の所長さんからも、シーズン前に必ず私のことを確保するための連絡が来ることになりました。
そんな中で、私は丸の内・大手町地区の担当からは外されてまして、それは当時、大企業のビルの集まるこの地区の警備が大変厳しくなっていたことがあります。ちょうど1974年に丸の内で三菱重工爆破事件というのがありましたから。私に思想的な問題があったわけじゃないんですが、見た目が問題ありでして、米軍払い下げのジャンパーに、Gパン・ボサボサの長髪・無精髭にサングラスでしたもんで、いく先々で職質受けて仕事にならんわけです。
まあ、そういったお兄ちゃんたちが、その頃のお中元お歳暮ビジネスのある部分を、支えておったんですね。
御中元の時期は、6月後半からピークが7月中旬で月末まで、ちょうど梅雨の頃で雨にもよくやられます。お歳暮の方は、まさに師走でして、めったに雪はないけど木枯らしの季節、それと道が死ぬほど混む時期です。幹道を避け、すいてる道を選びまして、基本急いでますので、コーナーはタイヤ鳴らしたりしてましたね。自分なりの順路を組み立ててシミュレーションして、その完成度が成否を分けます。
書きながらいろんなこと思い出して、まだ書ききれないことも多かったですが、なかなかに骨の折れる仕事でした。
ひとつ、この仕事やって良かったのは、荷物を届けた先方の人が、基本的に歓んでくれることでした。不機嫌になる人はまずいませんからね。
今は荷物を受け取る立場ですけど、届けていただいても、コロナだから玄関先に置いといてもらうので、ろくにお礼も言えず心苦しいんですが、道でお会いした時は、最敬礼するようにしております。
はい。
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