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2022年11月28日 (月)

神戸っ子

神戸という街には、昔住んでいたことがありまして、いつ頃かというと、生まれてから物心のつく5歳までと、8歳から12歳までの小学生時代で、ここには遠い記憶がたくさん詰まっております。なので、どこの育ちかと問われれば“神戸っ子です“と言えるくらいではあるんですね。
ウチの先祖は広島の海沿いの町の出で、牡蠣と船の仕事をしておりまして、どうも明治期に神戸で牡蠣を食べさせる店を始めたようで、そのせいか、祖父と叔父が神戸の中山手通というところで、かき料理店をやってたんです。父は神戸にある造船会社のサラリーマンをしており、途中東京に転勤したりしましたが、私は中学に入るくらいまでは、この街で育ったんですね。
住んでいたのは、異人館通りで有名な北野町をちょっと下った山本通というところで、一軒家を親戚の一家とうちの家族で借りておりました。そういう土地柄なので、まわりには結構外国の人たちが住んでいて、ヨーロッパの人、アメリカの人、インド、チャイナ、コーリアと、いろんな国の人が暮らしているところでした。うちの家の前は、かつて台湾人の成功者が建てた豪邸でしたが、何故かラブホテルになってしまいました。
神戸は東西に細長い街で、南北の道は海から山に向かってる坂道が何本もあって、坂を登って振り返るといろんなふうに港や船が見えます。この街で暮らしていると、いつも坂道と港があって、それは、なかなかに魅力的な風景でした。
遠い記憶を辿ると、そういった景色がいくつも浮かびます。住んでいた家も学校も、祖父の店も、みんな坂道の途中にありました。祖父のやっていた料理屋というのが、牡蠣の専門店で、あの当時、冷蔵技術も低くて、夏には牡蠣を食べませんでしたから、この店は夏は閉めてしまいまして、毎年10月から翌年の3月までだけ開店します。そのかわり、その間は正月三ヶ日以外は一切休まないんですね。いつも大忙しで、結構たくさんの板前さんや中居さんがフルに働いていました。もともと広島から出てきた店なので、広島から季節労働で泊まり込みで来ている人たちも多くて、うちの母も含めて親戚の人たちもたくさん働いていて、店は広島の言葉と神戸の言葉が入り乱れて、不思議な活気に溢れていました。身内ですから、その頃さんざん牡蠣を食べさせられまして、特にカキフライですが、まあそれは1番の人気メニューでもあり、おいしいんですけど、食べ過ぎてその後あんまり好きじゃなくなった時期がありました。今はまた大好きなんですけどね。
そういうことで、神戸のことを思い出すと、子供の頃、可愛がってくれた祖父や祖母やオジサンやオバサン、お店の人たちと、冬中忙しかったあの店と、坂道の景色が浮かびます。
そのあと、中学からは広島に引っ越してしまったんですが、神戸の街は変わらずでした。
そして、長い時間のうちに、祖父母も亡くなり、1995年にあの阪神大震災が起きます。街は傷みつけられ、あの懐かしい風景は一度壊れてしまいました。あのお店は、震災の前年に長く続けた商いを終えて、店を畳んでいたので関係者に怪我などはなかったんですが、神戸でお世話になった人たちは、色々とダメージを受けました。とても大きな災害でしたから。
それからまた随分と時間が経ちました。あの頃、私と同じように子供だった身内が同じような年齢になって暮らしていますが、新神戸の駅は何度も通過しましたが、なかなか降りることはありません。
街の形は変わっても、坂道と港の風景は、今もあるんでしょうね。
今度、行ってみようかと、思っています。

Kobe

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