弔辞 吉江社長殿
この春からは、こんなことで、中々人に会うことが出来なくなっており、気が付くとずいぶんいろんな方とご無沙汰をしているんですが、そういえばしばらくお会いしてないなあと思っていた方の訃報が、突然届きました。
ちょっと体調を崩しておられるくらいのことを伺っていただけで、いつも元気で笑顔の人でしたから、にわかに信じられません。私が仕事を始めてすぐの頃には、すでに存じ上げてましたから、考えてみると長いお付き合いでした。
吉江一男さんは、よく知られたCM音楽プロデューサーで、ずいぶんたくさんの仕事をお願いしました。と云うか、この方はあの頃のCM音楽業界で、最も有名で忙しい人でありまして、数々の話題作を手掛け、中にはCMから楽曲としてヒットチャートを駆け上がった曲もいろいろありました。
結果的に、そのビジネスで会社を立ち上げて、青山に音楽スタジオのある自社ビルまでお建てになりましたから、言ってみれば大袈裟でなくCM音楽の一時代を作った方でした。
初めてお会いした頃、私は駆け出しのペーペーでしたが、彼は勤めていた音楽プロダクションから独立したばかりで、根津美術館の横の小さなアパートを事務所にしていました。その時に仕事で3.5秒のサウンドロゴをお願いしたんですが、吉江さんは自分でギターを弾いて自分で唄って、サンプル版を5タイプくらい作ってきたんですね。まあご自分で作曲もできる方だから、それはいいんですけど、ラジカセで録音されたそのカセットテープを聴いてみると、唄のバックに、バックコーラスのように、ミーンミーンと蝉の鳴き声がするんですね。
「吉江ちゃん、バックでセミが唄ってるね。」
と誰かが云って爆笑したんですけど、今思えばその時に採用になったサンプル版が、のちのち有名になった ♪ピッカピカの一年生♪ だったんです。
夏の根津美術館の森に、蝉はうなるほどおりましたのでね。
そんな吉江さんは、ともかくいつも明るくてカジュアルな人でした。その頃、私はアロハを着てることが多かったんですが、お得意さんのところへ行く時は、もうちょっとちゃんとした格好していけと、上司から言われておりましたが、その日もアロハだったわけでして、某築地の広告会社のエレベーターで、ばったり吉江さんに会うんですけど、
「よっ、暑いねえ、やっぱり、こういう日はアロハだよね。」
とおっしゃって、二人ともアロハなんですが、ただ、吉江さんはおまけに、短パンにビーチサンダルだったんですね。
そういう方でしたから、先輩なんですけど、仕事の相談などもしやすい方でした。ただ、いつも自分の直感で即決して、やりたい方向へ持ってっちゃって、わりと調子いいとこもあって、最後は自分のペースに巻き込むんですけど、音楽的なレベルは高くて、周りを満足させて、結果的には信頼されていました。
信頼といえば、彼が仕事を発注する、作家も演奏者も歌い手もエンジニアも、プロデューサーとして強い関係を築いていましたし、たまに自分で作曲することや演奏することもあって、ともかく音楽を作ることが大好きで、この仕事を愛している人でした。
彼が残した会社の名は、「ミスターミュージック」と云って、ミスター吉江の代名詞のようでもあります。
いつだったか、何故か二人で、ラッシュ時の満員の地下鉄で移動してたことがあって、なんでそんなことになったか忘れましたが、彼が急に、
「俺たちが作ってるCMのクライアントの会社の人たちは、いろいろ大変だよね、毎日。どんな業種でも楽な仕事はないよな。」みたいなこと云って、僕も何と無く頷いてたんですけど、
「そう考えると、俺たちが音楽作ったりしてる仕事は、遊んでるようなもんだよね。」
とおっしゃったことがあって、よく覚えてるんですね。
ただ、あれだけの仕事してビルまで建てた方で、業界の連盟の会長とかもされてたし、好きなことだけやってたとも思えないんですけどね。
たぶん、いろいろな権利を守ったり、スタッフを守ったり、いろんな揉め事を収めたり、時には似合わない凄みを利かせたりされたこともあったと思います。童顔で小柄な方ですから、そういう時はチビッコギャングだったかもしれません。
私に関して云えば、長い間いつも気にかけてもらって、仲良くしていただいて、難しい仕事の時も必ず全力で挑んでくださいました。息子さんの結婚式にも呼んでくださいましたね。
今、世の中がこんな状態なので、お葬式は身内ですまされたそうです。本来なら、ずいぶんたくさんの方が集まったんだろうと思います。
いつの日か、出来るようになったら、息子さんは「偲ぶ会」をなさるつもりだそうです。
彼が残した名作を、うんと聴けるんだろうなと思うと、それはそれで楽しみではあるんですけど、そこにもう吉江さんがいないことが、なんだか信じられないですね。
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