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2016年1月15日 (金)

海賊の血

前にも書いたかもしれませんが、私、船酔いと云うのをしたことがなくてですね。多分、今までで一度もないです。ついでに申しますと、ほかの乗り物酔いもしたことがないんですね。

体質としか言いようがないと思うんですが、よく船に乗るだに真っ青になって気持ち悪そうにしてる人がいますが、それがどんな具合なのかよくわからないんです。酒を飲みすぎて、気持ち悪くなって吐いたことは何度もありますから、あんなことなのかなとは思うんですが、どうなんでしょうか。

船には、苫小牧発・大型フェリーから井の頭公園のボートまで、いろんなのにさんざん乗っていますが、そんな中でもちょっとすごい経験があってですね、若い頃に仕事でロケに行ったんですけど、何を撮りに行ったかと云うと、荒れ狂う嵐の海の中を行く一艘のクルーザーヨットだったんです。低気圧が来て天候が荒れるのをを待って、相模湾のけっこう沖合でで撮影したんですけど、撮影スタッフは40名ほど、ヨットに乗る人や、ほかの船やボートからヨットを撮影する人といろいろいて、私は別の船から撮影スタッフやヨットクルーへ無線連絡する係でした。海はかなり荒れてましたから、船から振り落とされないように、皆いろんなところに掴まりながら、早朝から陽が落ちるまでの過酷な現場でした。この時、私以外の全員が吐いたんですね。吐いて立ち直る人もいたし、そのまま立ち上がれない人もいました。まあ、後にも先にも経験したことのないすさまじい撮影だったんですけど。

それくらい船酔いしないわけですよ、私。

それでいろいろ考えてみるにですね、この私の体質は、私のルーツに関わりがあるんじゃないかと思うわけですよ。

大学生の頃の夏休みに、当時まだ元気だった私の祖母から、ご先祖様の墓参りに行くから、運転手をするように云われて、二人で瀬戸内海に浮かぶある島まで行ったんですね。広島市内から約2時間くらいかかったと思いますが、瀬戸内の島って、けっこう橋でつながってるから、車で行ける最南端のあたりだったと思いますけど、まあすごく田舎なわけです。

墓石に刻まれた文字もほとんど見えなくなるほど風化しており、年月を感じる小さな墓がいくつも並んでいました。その一つ一つに、ばあちゃんが線香を上げてゆくわけです。

「これが、うちのご先祖さんなん?」と、聞くと、

「多分そうじゃろういうことが、最近わかったんよ。」と、ばあちゃんが云いました。

手を合わせて、振り返ると、陽が傾きかけたベタ凪の瀬戸内が、鏡のような水面を光らせています。手前にも奥にも美しい島々が配置されていて、ものすごくきれいで平和な風景です。温暖だし、魚もうまそうだし、うちのご先祖さんは、良いところで暮らしてたんだなあと思いました。どうも船大工をしていたらしいです。

帰り道に、車の中でばあちゃんがしてくれた話は、

「定かじゃあなあがね、昔、和歌山の方に、うちの名字と同じ名前の海賊の一団がおって、平清盛が神戸から西を治めていく時に、いっしょについて来たんじゃないかゆうことなんよ。そのあと、あの墓のあったあたりの場所に住みついて、そのうちに船大工になったんじゃないかゆうことみたいなんじゃ。」

そう云われてみると、もしも戦をしに来て、あの場所でさっきみたいなきれいな景色見たとしたら、面倒なことはやめて、ここに住んじゃおうかと思ったご先祖さんの気持ちが、ちょっとわかるような気がしたんですね。そう考えると、確かに、船酔いする海賊というのもなかなかいないだろうし、このルーツ論は腑に落ちるんですわ。

その後、詳しくはわからないけど、明治になるころ、今の広島の近くの矢野という海沿いの町に出て行って、いろいろ船を使った仕事を始めたようです。

私は、中学の途中から、大学進学で東京に出ていくまでの数年間をこの町で暮らしました。目の前には海が広がっていて、牡蠣の養殖いかだがびっしり並んでいる町でした。

私の家は、海に面していて、そのころ家には、12フィートのモーターボートがあったんですね。3.65メートルほどで、12馬力の船外機をつけてあり、バイクでいうと原付バイクみたいなもんですが、これでけっこう遠くまで行ってたんです。広島の街は何本もの川が広島湾にそそいでいて、川伝いにどこでも行けたし、湾の反対側には15kmほどのところに、有名な厳島神社があってよく行きましたね。魚も釣れたし、あの頃、暇さえあれば始終海にいました。何だか船に乗って海にいると落ち着くと云うか、これも私の血のせいだったのかもしれませんねえ。

もう時効だと思いますが、船の航行ルールのことや、エンジン回りのことは、ちゃんと勉強してて、海図も全部持っていたんですけど、いわゆる免許というものは持ってなかったんですね。18歳未満だったし。

ただ、ほんとに年に一回あるかないかなんですが、海上保安庁の船に呼びとめられることがあるんです。そういう時は逃げましたね。こっちは、島と島の間の細い水路とかも全部知ってるし、複雑な牡蠣の養殖いかだの間に入ってしまうと、どうにもなりません。それで目くじら立てるわけでもなく、40年前はけっこうのんびりしてました。まあ、いい訳にはなりませんが。

今もその町には、歳とった両親が住んでいて、ときどき家族で帰りますけど、海はすっかり変わりました、私がちっちゃいボートで走り回ってたあたりは、ほとんど埋め立てられて、学校や病院が建っているし、海をまたいで町どうしを大きな橋が繋げているし、牡蠣のいかだもずいぶんなくなりました。40年も経てば当たり前ですけど。

でも、ふと思ったんですが、あの時ばあちゃんと見た入江はどうなっているんだろうか。多分行き方もわかんなくなってるんですけど、今度行ってみたいなと思ったわけです。

平清盛さんの話はどうだかわかりませんが、この海で長いこと船と関わってきたご先祖さんだったことは確かかもしれませんよね。

この船酔いしない体質を考えると、やはり。

Kaizokusen

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