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2014年12月 6日 (土)

高倉さん 逝く

なにか書こうとすると、すでに亡くなった方の話になりがちなのは、自分が60歳という年齢であれば無理からぬことと思いますが、また、大きな訃報です。  

高倉健さんが、83歳で身罷られました。

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1931年は昭和6年の生まれですから、まさに私の親の世代です。大学を出たものの就職難の時代で、なかなか勤め先が決まらず、面接を受けた先で、偶然映画会社の人にスカウトされたのが映画俳優としてのスタートだそうです。うちの父も大学を出た時は、空前の就職難だったと云っていたので、同じ頃だったのでしょう。

映画スターとして頭角を現すのは、1963年頃からの任侠映画で、その後1965年からは人気シリーズ「網走番外地」が始まっています。その頃小学生だった私がそれらの映画を見ることはなく、この方はテレビに出ることもなかったので、もっぱら映画館の看板やポスターでお見かけするのみでした。

そのあと、70年安保をめぐる社会情勢下で、寡黙なアウトローが、数々の仕打ちに耐え、筋を通し、ついに堪忍袋の緒が切れて、復讐を果たす姿は、学生運動に身を投じる学生やサラリーマンなど、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にも立ち見が出た話は伝説でありました。その頃まだ私は大人の仲間入りをしてはおらず、それらの映画を観ることになるのはしばらく後のことです。

初めて映画館で、高倉さんの映画を観たのは、1975年の「新幹線大爆破」だったかもしれません。その頃彼が所属していた東映という映画会社は、完全に実録やくざ路線にシフトされていて、このままではやくざの役しかできなくなると考え、高倉さんは1976年に会社を辞めて独立します。45歳、まだ学生だった自分から見ると完全な大人の男でした。

映画産業は、すでに斜陽と云われていましたが、ファンを多く持つ高倉健さんに多くの映画関係者は期待をしました。独立後、彼の代表作となる作品が次々に制作されていきます。

1977年には、「八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」があります。「八甲田山」はオールスター超大作、冬の八甲田山に極寒のロケを敢行した話題作で大ヒットしました。でも、私は働き始めた年でしたし、忙しくて金もなくて、封切りで観ることはありませんでした。何年か経って観たとき、なるほどすさまじい映画だと思いました。のちのちまで語り継がれる力作で、監督 森谷司郎、撮影 木村大作の代表作となります。

「幸せの黄色いハンカチ」は、なんとなく空いた時間に偶然映画館に入って観ました。何年か前にヒットしたアメリカのポップス「幸せの黄色いリボン」という唄の歌詞が元になった話だということは知ってましたが、予備知識はそれくらいでした。しかし、ちょっとどうしちゃったんだろうというくらい涙が出たんですね。この頃の私はわりと冷めた奴だったし、あんまり映画を観て泣くようなことはありませんでしたから、ちょっとあわてたほどです。たいていの人はラストシーンの黄色いハンカチがはためくところで泣くんでしょうけど、私は、そのしばらく前のシーンで、健さんが目的地の夕張を目指して車が走り出したときに、道路標識の夕張という文字が出ただけで泣いてしまっております。まあそれだけこの高倉さん演じる島勇作という人物に感情移入しちゃったんでしょうけど。山田洋次監督の、ていねいな脚本と演出と、健さんが精魂こめて演じた主人公が、この作品を映画史に残しました。もちろん倍賞さんも素晴らしいのですけど。

この3年後、監督山田組は、高倉さんと倍賞さんで、もう一本「遥かなる山の呼び声」という映画をつくります。私は迂闊にもその映画を見落としていて、その数年後にテレビで放映されたものをビデオで留守録画して観たのですが、2時間半の番組を2時間のテープで録ったので、最後の30分がありませんでした。これはどうしてもラストまで観たいのですが、その時まだこの作品はビデオ化もされておらず、とにかく、この2時間半をきちんと録画した人がいないか、必死で聞いて回りました。すると、一人きちんと3時間のテープを使って録画してる人がいました。この人は私の会社の後輩だったんですけど、当時からなにかと頼りになる人で、この映画の最後の30分を見ずして、この映画を観る意味はありませんよと、彼は云いました。そうですか、ありがとうございますと申して、うち帰って残りの30分を観ました。彼の言うとおりでした、このラストシーンには参った。声が出るほど泣きました。夜中に一人こたつに入って泣いたです。

なんかいかに泣いたかみたいな話ばかりになってしまいましたが、この時に、山田監督も、高倉さんも倍賞さんも、とんでもない人たちなんだという認識を新たにすることになります。

健さんは、この頃から、年に一本くらいのペースで、ていねいにていねいに映画を作るようになります。そして健さんは50代になり、日本映画界に不動の地位を築いていきます。

そして1989年には、あの「ブラック・レイン」に出演します。やがて60代になり、今まで以上に作品を選び、より丁寧に仕事に向き合い、映画を一本撮り終えると、燃え尽きたようになって、しばらく姿を隠しました。誰かを演じるということより、その主人公を自分のなかに取り込んでしまう、それも全身全霊だから、仕事が終わると抜けがらになってしまうんでしょうか。

どなたかおっしゃってましたが、高倉健さんは、どんな役をやっても高倉健さんになるんですというのは、本当だなと思います。他にいないですよ、こんな映画俳優はちょっと。やっぱりなんか特別の人なんですよ。

205本の出演作、そのうち60代の映画が3本、70代の映画が2本、80代の映画が1本、これが遺作となります。

 

NHKの追悼番組で、高倉さんがインタビューに答えてらして、ご自分の世代の話をされたときに、高倉さんが育った九州の炭鉱町では、事故があったり祭があったり、何かっていうと、そのあたりで死体を見るような時代でしたよとおっしゃいました。

僕たちの知らない親たちの時代の話でした。

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