漂う Feed

2026年3月19日 (木)

だるまのはなし

昨年の12月から今年の2月まで約3ヶ月間、横浜の放送ライブラリーというところで、「山田太一上映展示会」というのをやっているよ、と教えてくれた人が二人おりまして、私を含めてこの人たちは、この脚本家の大ファンで、以前からたまに何人かで「山田太一を語る会」という飲み会をやったり、先生がご存命の頃は講演会や座談会を聴きに行ったりしてたんですが、さすがのアンテナというべきか、今回の催しのことを察知して教えてくださったんです。
展示会の期間も終わりかけた頃に急いで行ったんですが、たくさん名作を残された方でしたから、かなりきちんと整理された大量の展示物があって、あらためてこの方が積み重ねられた足跡に、ため息の出る思いがしました。
よく知ってる作品も、あまりなじみのなかった作品も、どれもこの作家の背骨が一本通っている気がします。どの資料も時間を忘れて読んでおりましたが、山田さんがいろんな方とやり取りをした手紙のコーナーがあって、それは特に興味深いものでした。
大学時代からの親友であった寺山修司さんの存在であったり、八千草薫さんの手紙は、文面もインクの色までも可愛らしさが溢れていたり、大原麗子さんは見事な達筆で、ものすごくきちんとした文章を書かれておられたり、、いろいろに発見がありました。
その中に山田さんのお父さんからの手紙もありました。エッセイなどを読んでいると、このお父さんは、戦中戦後の大変な時代を、苦労を重ねて家族を養ってきた人で、息子の山田さんに対しても、語る機会あれば、人が生きていくことの厳しさを教えるような父として描かれていたんですが、多分この手紙が書かれたのは1966年頃で、ご自身が老齢にさしかかった時分に、成長した息子を嬉しく見つめる視線を感じます。山田さんがテレビドラマの脚本を書いた初期の頃の作品を、テレビで観て褒めていまして、その最後の方に、「ところで、だるまを送ってくれてありがとう」という一文があります。
「だるま」というのは、僕らが子供のころに大人たちが、サントリーオールドのことをそう呼んでいたんですね。ウイスキーなんですが、あの丸っこくてずんぐりしたボトルのフォルムからきてるニックネームだと思います。私が物心ついた頃にはすでにそうでして、そして、今よりもずっと格が上のウイスキーだった気がします。山田さんは頑張ってお父さんにちょっと高級なウイスキーをプレゼントしたんですね。
あの頃、流れていたサントリーオールドのCMで、覚えているのは、セピア調のナイトシーンで世界中の大人の男たちがオールドを飲んでいて、不思議な歌が流れてました。これは名曲でしたが、調べてみると、1968年に最初に放送されたバージョンは、かつて壽屋宣伝部の開高健が考えたキャッチコピー「人間みな兄弟」からのインスピレーションで小林亜星が作曲したもので、ギターの伴奏による男性のスキャットでした。
まだウイスキーを飲む大人の世界はよくわからなかったけど、なんだか早く酒を飲む世界に入ってみたい気分があって、たぶんあのCMのせいじゃないかと思うのですね。
それから、だんだんに大人に近づいていくんですけど、その頃も、サントリーのウイスキーのCMというのは、お酒というものの世界を魅力的に描いていました。未成年でしたけど、東京に出てきてウイスキーを飲む仲間入りを始めるんですが、オールドは高価だし、とても手が出なかったです。
成人して社会に出てからも、酒は飲んでましたが、安酒ばかり飲んでいました。大人の男たちは、会社帰りに最寄りのBARで飲んで行くんだけど、そういう時、ボトルキープされているのは、この「だるま」であることが多かったと思いますね。たまにご馳走になると、うまかったなこれが。
「だるま」は大人の男の酒で、格のある最もポピュラーなウイスキーだったですね。

今オールドは、あの頃よりもずっと気楽なランクのウイスキーになっていますから、たまに買ってきて飲んでますが、そばに置いてその変わらないボトルの形状を眺めていると、あの不思議な旋律のスキャットが聞こえる気がします。

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「夜が来る」
🎵

Lon Bon Di-Don 

Shu Bi Da Den Ba
O-de e e eoh
Hi Za
Dan Zan Di-Don
Shu Bi Da Den Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Bon
Shu-Bi Da Dou Ba
La-Li Ho Ra Re
Hey Za
Don Zan Dig Zag
Shu-Bi Da Don Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Don
Shu-Bi Da Den Ba
Li-ro I-ro Re
Hey A
Don Zon Zi Da Ba
Shu-Bi Da Ban A
A Dan Zan Ju-Bi Da Den Ba

A Zan Dan Ju-Bi Da Ze

2026年2月 6日 (金)

大学生の頃を思い出したテレビドラマのこと

映画が封切られた時に、観に行こうかどうしようか迷っていたのですが、ちょうどその日に用事があって、日比谷まで出かけたもんで行ってみたんですね。そうすると映画館は私くらいの年齢の方々が、びっしり座っておられました。
約50年前に「俺たちの旅」というテレビドラマがあったんですが、その半世紀後の現在を描く映画です。
テレビ放送は、1975年の10月から約1年間、日曜の夜8時からでしたが、その時、私、大学生で、3年生から4年生にかけての頃で、落第しそうだったもので、仕方なくですが、珍しく冬にはわりと勉強してまして、ま、他にもいろいろあって下宿にいることが多くてですね、このテレビドラマは時々見てたんです。自分と同年代の大学生たちが主人公で、感情移入しやすかったこともありますけど。
鎌田敏夫さんという脚本家が、描こうとしていることが、時々こちらにフィットしたのかもしれません。連続ドラマなのだけど、これといってつながってるストーリーがあるわけではなく、たまに見るといつも同じようで、自分と同年代の若者が、これといったビジョンもなく、フラフラとその場しのぎに生きていて、その時その時に出会う人や出来事で、いさかいが起きたり、仲良くなったり、失恋したりと、毎回いろんなことになるわけですよ。

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この時期は、もうすぐ4年生に進級するんで、私の周りでは就活が始まっており、えらい就職難の年でしたし、なんだか重苦しい空気でした。勉強は苦手だったし、卒業して世の中に出たら、どんなふうに生きていくんだろうか、全くよく見えてなかったし、中には見えてる人もいたけど、個人的には、ただ漠然と日々を送っておりました。そうすると、このドラマの主人公たちも、日々そんなふうで、ああ、こういうのもありかなと思ったら、ちょっと楽な気分になったんですね。
ただ、そんなふうに無気力で刹那的なドラマかといえば、そういうことでもなく、ちゃんと元気が出る青春ドラマみたいなとこもあって、なんとなく自身と比べながら、中村雅俊さんをはじめとしたキャストたちを応援してるところもあったかもしれんです。そういうことで、その間、毎週真剣に観てたわけじゃないんだけど、なんかちょっと身近な存在にはなってたんですね。
映画になったからかもしれませんが、1975年に放送されていたこのドラマが、最近またBS日テレで再放送されていて、10年後の1985年と、20年後の1995年にスペシャルドラマも作られていたことも知りました。根強い支持のあるシリーズだったんですね。 
今回の映画は、50年後の現代に、彼らがどうなってるかみたいなお話です。
もう、そうなると映画の出来がどうこうということじゃなくて、あの若者たちが50年の時を経て、ここにどんなふうにいるのかということを確かめたくて、みんな映画館に集まって来てるようなところがありました。いずれにしてもなかなかないことではありますね、半世紀だし。

このドラマの記憶を探る時、まず浮かぶのはテーマ曲でして、オープニング曲もエンディング曲も、このドラマの気分に寄り添っていて名曲なんです。主演の中村さんが唄っていますが、作詞作曲は小椋佳さんです。
ますます古い話になって恐縮ですけど、高校生の時、音楽聴くのは、家にプレーヤーもアンプもがなかったから、ラジオとカセットテープでしたが、その頃、小椋佳という歌手は、地味に現れてきたんですね。自分で曲を書いてるみたいで、なんかいいなと思ってたんですけど、「彷徨」というアルバムがけっこう評判になって、少しずつ話題になっていきました。歌詞も曲も静かなんだけど、なんかはっきり作家性を感じる強さがあると思いました。そして、1975年に「シクラメンのかほり」という曲が大ヒットします。1976年には、資生堂のCMキャンペーンソングとして「揺れるまなざし」が、街中で流れていました。
だんだん頭角を現してくるこの人は、けっこう謎の人で、そのうち、実は銀行マンで、それも東大出のエリート行員だということがわかってきます。少し遡りますが、高校の時にラジオにこの方が出演されたことがあって、そのことを知ったんですけど、その時、とても感じのいい青年で、でもとてもかしこそうで、あの歌たちを書きそうな人で、声がめちゃ二枚目で、いっぺんに好きになりましたが、はたしてどんな顔した人だろうかと想像してたんですね。そして何年かしてテレビに出られた時に、勝手に思ってたのととてもギャップがあったのを覚えてます。
それからも、次々に曲を生み出し、ヒットも飛ばし、アルバムも売れ、着実な音楽活動をしながら、49歳までエリート行員の仕事も両立されたそうです。シンガーソングライターだけど、楽譜を書き起こせなくて、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にして、カセットに録音するという手法で、あれだけ名曲作っているのは驚きでしたが。

「俺たちの旅」

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夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく白い 長い壁
足跡も影も 残さないで
たどりつけない山の中へ
続いているものなのです

夢の夕陽は コバルト色の空と海
交わってただ 遠い果て
輝いたという 記憶だけで
ほんの小さな 一番星に
追われて消える ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
  ・
  ・
  ・

「ただお前がいい」

ただお前がいい
わずらわしさに なげた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎてきた
青春のかけらが 飛び跳ねて見えた

そのくり返しを
そのほほに写してた おまえ
また会う約束などすることもなく
それじゃまたなと別れるときの
お前がいい
  ・
  ・
  ・

 

2026年1月16日 (金)

母を失くすこと

前回の、うんと、えんと、おんの話を少し続けますが、
人の運を左右する縁というものの中には、親子の縁や夫婦の縁というのもあり、夫婦の縁はやがて新たな親子の縁も生みます。
かって私に、奥さんとの夫婦の縁ができ、私が家族というものを持てたきっかけは、うちの母の情熱と暴走ともいえるその行動が大きな要因になっておりまして、それに関して母には、恩があります。

その母が、昨年末の12月29日に亡くなりました。
クリスマスイブの日に会いに行った時にだいぶ弱っていたので、覚悟せざるを得ない状況ではありましたが、やはり年を越すことはできませんでした。夏に父が逝き、その4ヶ月後に、二人とも96歳で生涯を閉じたのですが、仲が良かったせいか揃って旅立ちまして、大往生とは云え、こちらとしてはポカンと大きな穴が空いたような心地であります。
12/29というタイミングで、こういうことになりますと、大急ぎで家族4人が東京から広島に向かう交通手段を、すぐに確保せねばならぬのですが、なかなか苦戦しまして、多少時刻はバラけましたが、どうにか30日には母に対面することはできました。最期には間に合いませんでしたけれど、眠ったような安らかなお顔でありました。

そしてお葬式です。1月の1日2日は、世の中の葬送の仕組みは止まっており、どうにか2日の夜のお通夜と、3日の11時の葬儀をお寺さんにお願いできて、4日の初七日まで含めて、どうにか一通りの流れにはなったわけです。
ただ、世間では普段通りの年末年始が続いており、テレビでは紅白歌合戦もやっているし、元旦の朝は初日の出の中継もやっております。年が明けたら世の中おめでとう一色で、なんとも不思議なお見送りとなりましたが、母は孫たちに会えるにぎやかなお正月が好きだったなと、思い返しました。
そして正月三ヶ日にもかかわらず、母が生前親しくしていただいた皆さまがたくさん来てくださり、決して寂しいお葬式にはなりませんでした。
母は本当に朗らかな人で、社交的で人気者でしたから、慕ってくださる方も多かったと思います。わりと長いことお茶の先生をしておりまして、お茶席を通じてお弟子さんも含め、たくさんの方々との交流が続いておったと思います。この数年、少し認知症が進みましたので、あまりお茶席はできませんでしたが、いろいろな方達がお見舞いに来てくださってたんですね。
母と父は1歳ちがいで二人とも戦時中に広島で育ちました。子供の時分も青春時代も、最後に原爆が投下されるまで、暗い時代と思います。ただ、二人は同じ町内に住んでいて、父は一中に、母は県立女学校に汽車通学で通っており、どうもその車中で父は母を見初めたようで、ちょっと素敵な恋をしたようです。
二人とも私にその話をしたことはないんですが、親戚のおばちゃんに教えてもらいました。父が学校を出たらすぐに結婚したようですから、幸福な結婚だったんだと思います。
でもそこからは、「禍福は糾える縄の如し」であります。
父が胸を病んで療養所に入院したり、母が流産をしたり、そのうちに私と弟が生まれたり、それからもいろんなことがあったんですけど、弟が8歳の時に病気で突然亡くなってしまったことは、何もかも無くしてしまったような、時が止まってしまったような出来事でした。
母は物干し場でしゃがみ込んで動かなくなるまでずっと泣いていたし、中1だった私は、母がこのまま後を追っていってしまうんじゃないかと、それが怖かったし、父はそんな母の状態を気にかけて、とにかく平静を保って普通にしていましたが、夜中に遺影の前で一人嗚咽していました。
その夏の終わりに、父と母の故郷である広島に3人で帰って暮らすことになります。父は新しい就職先を見つけて、私も何度目かの転校をしました。母は何かのきっかけを探すように、熱心にお茶の勉強を始めました。それからしばらくして、裏千家のお免状をいただいたんだと思います。
この時ほど、親の子供に対する愛情というものを強く感じたことはありませんでした。親とはありがたいものだと。
ただ、その思いを、そののち、母に伝えることはありませんでした。なんとなく母の気持ちを分かっていながら、態度はそこから離れてしまい、憎まれ口をたたき、おまけに高校を出てからは東京に出ていってしまって、好き勝手にフラフラ暮らして音信も途絶えがちになります。親孝行というものからますます離れていってしまった。

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遠くにいて、いつも気にかけてくれ、私と家族の幸福を祈り続けてくれていた母に、感謝を伝えることがずっとできませんでした。私の場合、これが一種のマザコンの現象かもしれませんが、いつかあやまりたいと思っていました。でも結局、今頃になって手を合わせとるようなことで、情けないです。

何十年も、仲の良かったお母さんとお父さんが、この数年はそれぞれに身体の不調で、なかなか会えなくなっていたから、これで、久しぶりにゆっくり会えたのかもしれません。
こっちは、しばらく喪失感ですけど。

2025年12月30日 (火)

うんと、えんと、おんと、、

なんだか、語呂合わせみたいなお題なんですけど、この前ふと思ったことでして、
運と、縁と、恩と、ということなんですが、
70年も生きてしまうと、多少いろんなことを振り返ってみることもあって、まあ、人生っていうのは、自分の居場所や、その周りの人たちとのかかわりの上に、成り立っておるんですが、そのあたりいろいろに思うところがあります。

運ということから云えば、ずいぶん前に会社の後輩くんたちに、ちょっと長めの手紙を書いたことがあって、それは、これまでの自分の仕事の経験談みたいなことだったんですけど、ウダウダ語ったのちに、最後にこんなこと書いたんです。
まあいろんなことがあるんですけど、自分がここまでやってこれたのは、運が良かったからかなと思います。何故そう思うかと云えば、つくづく自分一人の力なんて知れたもので、自分の足らないところは、他者に救われたり、もっと大きな力が働いたりするもんだなあと感じるからです。
長い話に付き合って、最後はそれかよと思うかもしれませんが、これってわりと大事なことなんですね。
じゃあ、どうすれば運が良くなるのかと聞かれても、わからないんですけど、たぶんどういう佇まい(たたずまい)でいるといいのかみたいなことはある気がします。

このことは理屈じゃなくていろんな場面で感じることなんです。自身の力でどうにかできることではないのだけど、たまに神社で柏手を打って、何かを祈ったりするのも運にかかわることだし、日々の暮らしの中で、身の回りを何事か大ごとが通り過ぎていって、なんとなく無事だった時なども、そういう力を感じます。
「運」にまつわる言葉としては、運が向く、強運、悪運、運の尽き、運に見放される等、いろいろありますが、いずれにしてもこいつとは付き合っていくしかないんですね。

そして「縁」というのも、生きてく局面で、時に強く感じることです。これは、人と人や、物事の、めぐりあわせやつながりを意味します。長い時間の中で振り返った時、その縁のチカラを思うことがあリます。縁に触れてそれが良縁であれば大切に育み、悪縁であれば断ち切るというのが教訓なのでしょうか。ただ、その判断はそう単純なものではないかもしれません。

この何とも捉えどころのない運とか縁とかの中にいて、時折、他者からの恩ということを不思議に感じることがあります。
あることのために、あるいは私ごときのために、どうしてあれほど深い気遣いをしてくださったのであろうか、あれほど骨を折ってくださったのであろうか、そして、たいていの場合、こちらはその事で、ものすごく救われていたりするのですね。
そしてこの歳になっても、その多くの恩には、ほとんどが恩返しをできてない状態であります。

日々の暮らしの中で、人は運に左右されて、何かの縁に救われたりして、忘れてはならぬ恩を刻むことになります。
こんなことを書いているのは、ついこの前、高校時代の親友が亡くなりまして、この人のことを思っていたんですね。
15歳の時に知り合い、なんだかすぐに仲良くなり、その後、高校の時も卒業してからもずっと長く付き合ってくれた数少ない友だちでした。
彼は地方の国立の大学へ行って、郷里の市役所に就職して働き、最近勤め上げました。こっちは東京へ行ったきりになってたんですが、たまに帰郷した時にはいつも会ってくれたんですね。なんだか、ほんとに優しくていい奴でした。私は居場所も定まらずいつもフラフラしていて、長く会えないことも多くて、友だちも少ない奴だから、彼がいつも気にかけてくれたことは嬉しかったんです。たまに会った時に近況を報告し合うだけでしたが、お互いのことはよく理解しあっていました。今回、彼を奪って行った病魔に侵されるまでは、彼らしい幸せな時間を過ごせていたと思うんですね。
本当に切なくて悔しい別れでした。

Sasie

ただ、ここに至るまで、さまざまな運や縁や恩に出逢いながら、お互い、いろんな分かれ道を選択しながら、生きて来たんだと思いました。
人は目に見えぬ何かの力によって、導かれることがあります。
うれしいこともあれば、やなこともあって、お互いジジイになったとこで、柄じゃないけど、彼とちょっとだけ人生の話でもしてみたかったんです。

2025年10月27日 (月)

70年も前の映画なんだが

Seven_samurai_2 「七人の侍」新4Kリマスター版 3週間限定上映というのがありましてですね。そりゃこうしちゃあいられねえってわけで、朝の9時から新宿の東宝まで行ってきました。

皆さんよくご存知の黒澤明監督の大作で、世界中が絶賛した名作なんですけど、私が生まれた年の公開ですから、もう70年も前の映画なんです。
そういうことなんで、もう何遍も観ていて、シーンによってはセリフも覚えてるくらいなんですが、そういえば、大きなスクリーンで3時間半、通しで観たのは遥か昔のことで、もう一回ちゃんと観ておきたいとは思っていたんですね。

最初に観たのはよく覚えてないんですけど、たぶん中学か高校の頃、映画館でリバイバルの上映だったか、もしかしたらテレビだったか忘れてますが、とにかくものすごく心を揺さぶられて、茫然自失になったことを覚えています。
なんだかよくわからないけど、観ているうちにあの世界に入っていって、侍と農民たちと一緒に、野武士軍団と闘っている自分がいるんですよね。そういう感覚になる映画ってそうはなくてですね、ずいぶん久しぶりに見ても、やっぱりそういうふうになるから不思議です。
監督もスタッフも俳優さん達も、もうあらかたいらっしゃらないんですけどね。
時代劇ではあるんですけど、出てくる人たちや風景に、妙にリアリティがあって、前からなんでだろうとは思っていたのですけど、それはもちろん技術的にすごく上手に作られてるんだろうが、ひょっとして、それってこの映画が封切られた時代にも関係あるのかなとも、思ったんですよ。
この物語はシナリオ上、どうしても生きるか死ぬかの戦いを描いており、一般人を巻き込んだ小さな戦争の中で、次々に人が死んでいくことになります。主人公の七人の侍も、残ったのは3人だし、野武士は全滅だし、村人達もずいぶん亡くなります。
この映画の持っているリアル感は、制作側の意図とかというより、あの敗戦からまだ9年しか経っていない、あの時代の空気が映っているような気がしたんですね。私が生まれたばかりのあの頃、世相は色濃く戦争を記憶してたと思うんです。

ずいぶん長尺の映画なんで、多少忘れてる場面があったり、シーンの順番が思ってたのと逆だったりすることはあるものの、その世界感がしっかりと記憶と結びついている映画であることは間違いないですね。
先日亡くなったうちの父は、映画好きで、私がずいぶん小さな時から、自分が見たい映画には、かまわず連れて行く人でして、私も機嫌よく黙ってずっと観てる子だったようで、洋画も邦画もたくさん見せてもらったんですけど、子供心にクロサワカントクという人のことはおのずとインプットされたようでして、やがて少し大きくなって、この名作に出会ったと記憶しています。
すごく個人的なことなんですが、何年も前に自分たちで作った小さな会社の代表を務めることになった時に、あんまり覚悟ができてなくて、どんなリーダーを目指すのが良いのだろうかと思って、いろんな人のことを巡り浮かべた時に、この「七人の侍」で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のことを思い出したんです。実際にそこから何かを参考にしたわけじゃ無いんですけど、気持ちのどこかに島田官兵衛という人を覚えているようにはしようと思ったんですね。

自分が生まれた年に封切られた映画なのに、何度観ても、同じ読後感だなあと思いながら映画館の出口の方へ歩いていたら、後ろからポンと肩を叩いた満面笑顔の人がいて、よく見たら何十年もお世話になっている、新宿の老舗居酒屋「池林房」の店主のトクちゃんでした。
やっぱ、この年代の人は、この映画を何遍でも観に来るんだなと思ったんですね。

2025年9月29日 (月)

父との別れ

8月の26日に、父が身罷りました。
当日の朝早くに、お世話になっている施設の看護師さんから電話があって、呼吸が浅くなっているとの知らせをいただき、急いで広島に向かいましたが、その臨終には間に合いませんでした。
主治医から、すでに老衰の状態であるということを聞いてはおりましたが、最後は眠るように安らかであったとのことで、その表情はしごく穏やかでありました。
ここしばらくは、会っていても、話をするのも難しくなっており、本人も自分の身体のあちこちがなるようにならず、何かとしんどかったと思います。この何年かは本当によく頑張ったんだなと、思い返しました。目を閉じたその表情は、少しホッとしたようにも見えたんですね。

そこからは、急に忙しく葬儀を執り行うことになります。感慨に浸ってる暇はありません。
父は広島のこの地が生まれ故郷であり、長く暮らしましたので、地元の親戚や友人も多かったのですが、96歳となりますと、その多くの方々もほとんどいらっしゃらなくなっておりまして、家族葬という形になりました。長い時間の中で、何度か覚悟したことでしたが、やはり切ないものではありました。
父は昭和3年の生まれですので、その成長期はまさに戦時中です。昭和6年の満州事変から、日本は大陸で常に戦争状態で、昭和16年には太平洋戦争が始まり、4年後の敗戦までこの国の戦時体制は終わることなく、その最後に、父は広島で被爆することにもなります。
子供の頃から、いつも国が戦争をしていたという大変な時代を生きた世代でして、戦後に生まれた我々からはちょっと想像がつかない時代です。
世の中がガラリと変わって戦後が始まった頃に、父は大人になるのですが、子供の頃から勉強ができる人だったようで、京都大学の法学部に進みます。そこから大手造船会社に就職して、わりとすぐに母と結婚し、もう戦後は終わったと云われるようになった頃、私が生まれます。やがて弟も生まれ、転勤があったり、入院があったり、いろいろあったんですが、何ごとにも一生懸命な頼りになる父でした。
サラリーマンで、ずっと勤め人として働いた人で、おそらくいいことばかりじゃなかったことも、息子なりに多少感じたりもしましたが、仕事のことで愚痴をこぼしたのを聞いた覚えはありませんでした。
それからしばらくして、私が中学に入ってから、うちの家族にはショックな出来事がありまして、弟を病気で亡くしたんですね。その直後に父は会社を辞め、故郷に帰って再就職をします。一人減って三人になったうちの家族は、広島に転居することになりました。
そのような事で、私は中学の途中から高校までを広島で過ごし、のちのち父と母の期待に応えて生きようと思っておりましたが、なんとなく東京の方へ出て行って、その後、将来へ向けてのきちんとしたビジョンもないまま、フラフラしており、心配ばかりをかけて申し訳なく思っておった次第です。
ただ、父は、私のちょっといい加減な進路の選択には、必ず理解を示してくれ応援してくれました。そのことは励みになりましたし、感謝をしています。それから私は結局ずっと東京で暮らしておりましたので、実家には戻らぬままでしたが、父も母もいつも気にかけてくれていたことは、よくわかっておりました。ちゃんとした礼も言わぬままでしたが。
親孝行などということは、何もできておりませんが、二人の孫が生まれたことはひどく喜んでくれました。
そういえばずいぶん前、まだ元気な頃に一度、うちの会社で作ったビールのテレビCMに父と母が出たことがあって、二人ともビールが好きでしたから、それはうまそうに飲んでいて、地元の人たちの間でずいぶんと話題になったんですけど、その時は、照れながらも少し嬉しそうにはしておりましたね。

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葬儀が終わり、父がお世話になっていた施設にご挨拶に行った時に、担当してくださった若い介護士の方々から、生前の父のことを聞かせていただきました。シャイなところはあったけれど、とても気持ちの伝わる人で、笑い顔がチャーミングだったと。何かしてあげると、必ず「ありがとう」を云ってくれていたと聞き、ちょっと身内としては嬉しかったんですね。
やがて訪れることになる別れでしたが、96歳まで長生きしてくれて、この何年かはしんどい事も多かったけど、70年も親子でいれて、感謝です。
生きてるうちに、ちゃんと言っとけばよかったです、ありがとうございました、と。

2025年7月25日 (金)

壊す力

わりと長く生きておりますと、いろんなことを思うんですが、
人は自分なりに何かを作り上げるために、生きて暮らして、それを人生の目的としたりしております、多くの場合。
それはひとつの家のことだったり、家族であったり、仕事であったり、あるいはその成果物であったり、また、そういった様々の人たちが、ある目標のために集まることによって起こる組織であったり、会社であったり、そのために必要となる建物があったり、そして色んななりわいが共存する街ができ、都市ができ、そしてその自治体を、それを取りまとめた国を運営していくために行政があり、そのおおもとに政治があるんですね。
何を長々と書いているかといえば、最近選挙があったりしたもので、あー、こういったことを、ずいぶんと長い間繰り返して、今に至っているのだなと思ったんです。私が見てるだけでも半世紀になるんですけど、政治というものもいったい進歩しているのか、前よりも良くなったりしているのか。なんだかよくわからないもんではあります。
それと同じようにということでもないんですけど、世の中のいろいろな団体や会社組織というのも、それと似たようなところがあって、これまで長い時間をかけて、手間をかけて、積み上げてきた実績やノウハウが、今に生かされているのかどうか、ということがあります。
仕事でも仕組みでも、長い間同じことを繰り返しておりますと、マンネリに陥るということがあり、新鮮味を失ったり、過去の失敗からリスクを恐れて自分たちで新たなルールを作ってがんじがらめにしてしまうこともあります。
人がやることなんでいろいろだけど、語弊を恐れずに云うとですね、ひとつのことを続けていると、なんとなく、それそのものは後退はしないまでも、新しい変化が起きにくくなることはよくあるんですね。
私のいる業界も、モノを作ったり、何らかのサービスを提供したりする仕事なんですが、この問題は何かと見え隠れしております。そう言う空気を感じた時、「少しずつ改善しましょう」とか、「徐々に変えて行きましょう」みたいな話になりがちですが、ひとつの形を守りながら、うまいこと変えてみようと云うのはだいたい解決策になりにくいです。
そこで、そういう時に大事なのは、スクラップアンドビルドじゃないですけど、今までに積み重ねてきたものを、一回全部ぶっ壊してチャラにすることだったりするんですね。ゴジラが通ったあとのように何もない状態にするということですが、そこで必要になるのは、それを断行できる胆力だけです。
でも、これがなかなか難しいことではあります。それを決断すればその結果に責任を持たねばならないし、当然ギャンブル性も高くなります。いずれにしても乱暴な選択ではあるんです。
古来、その手の話の例は、大なり小なりいろいろありますが、それで何もかもうまく行くわけでもなく、失敗もあれば、成功もあり、そのどちらでもない場合もあるようです。

それと、何かをぶち壊す役目というのは、だいたいにおいて、昔から男の仕事だったように思います。まあ普通に考えてみれば、何かをぶち壊すという行為は、女性には向かない、むしろ女性はモノを壊すより作る方に適性があるという固定観念もあります。ただよく考えてみると、昨今ではわりと壊すことに適性のある女子もいらっしゃる気もするんですけどね。

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だいたいゴジラって男なんでしょうか、女なんでしょうか。

2025年7月 5日 (土)

先生の画集

5月の20日頃に、いくつかの用事があって故郷へ向かったのですが、そのうちの一つに、高校時代の何人かの友人たちと3年生のときの担任の先生にお会いする集まりというのがありました。
倉岡先生と云います。私にとっての学校の先生の中で、唯一今でも年賀状を出している恩師ですが、今年の1月に、その倉岡先生が地元の新聞社から取材を受けて、その記事が掲載されたんですね。
どういうことかというとですね。先生は60歳で退職されたあと、奥さんと一緒に世界遺産を巡る旅を始めました。それで、35カ国の訪問先でスケッチを重ね、水彩画の作品200点を仕上げられたそうなんですね。その画を基に世界遺産105ヶ所を紹介するDVD(1時間36分)が完成して、そのニュースが新聞に載ったということで、現在おん年84歳ですが、とてもお元気でして、みんなでビールで乾杯してお祝いしようということになったんです。
そういえば、もう何年も先生からいただく年賀状には、いつも世界中の色々な風景が描かれていて、それがとてもいい絵でした。その集大成が完成したのだなということは、察しがついたのですが、DVDを見せていただくと、その積み重ねられた時間と気力と好奇心に感動を覚えます。
こんなふうに紹介しますと、この先生は美術の先生かなと思われるかもしれませんが、実は体育の先生でして、母校でもいくつかの高校でもサッカー部の監督を務められ、ご自身も大学時代は教育大のゴールキーパーとして活躍されていました。
当時の記憶で強く残っているのは、なわとび運動を深く研究されていたことで、全生徒、かなりきちんと指導を受けました。今回、その「なわとび運動」を解説した本を全員にくださいましたが、その中にあるイラストは全部先生が自分で描かれていて、さすがでした。
あの頃、僕らは16歳か17歳で、先生は14歳年上でしたから、すごく大人に見えましたが、思えば30歳過ぎの厳しさの中に優しさのあるとてもいい先生でした。
高校3年生というのは、始まるとすぐに受験の話になるし、進路も分かれてくるのでなんだかまとまりにくい学年なんですけど、倉岡先生とこのクラスは結構仲が良かった気がしますね。学園祭で8m/m映画を作ったりして、盛り上がったりしたし、50年も経つのにその話でまた盛り上がってましたからね。なんか受験の季節にしては笑いも多かった気もします。
ただ、結局思ったとおり、あんまり勉強もしないで、それは自分のせいだけど行く大学がなくて、ああ浪人かと思っていた時に、先生に勧めてもらった東京の学校に合格できて同じクラスの仲良しのキムラくんと一緒に上京することになります。

考えてみると、あのときの先生の一言から、いろいろあったけど、今の自分につながっているわけですよ。不思議ですね。
それはともかく、あのまだ10代の後半だった少年少女たちが、70歳となり先生は84歳で、でもこうやってお会いできたことに、驚きつつも感謝です。
あの頃年齢的には、先生は僕らの倍くらいだったけど、こちらももう古希になれば、14歳の差は追いつけそうな勢いです。それくらい先生は若いです。多分そういう生き方をされてきたからだと思います。僕らも老け込んでる場合ではありませんよお。

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2025年5月13日 (火)

誰かに手紙を書くということ

このブログのようなものを書き始めたのは、ちょうど50歳になった頃でしたので、約20年前ですけど、世の中にブログと云うものが多少浸透し始めておりまして、試しに何か書いてみようかと思ったのがきっかけでしたが、その時なんていうか、どういうつもりで書くのがいいのかな、と考えたんですね。
特に誰かに向けて書くわけでもなく、自分ごとを日記的に書くのだけど、ブログは仕組み上、誰でも読めるものでもあります。そこで、相手は特定できないけれど、そこにいる誰かとちょっと酒でも飲みながら話すような気持ちで、自分に向けた独り言のような手紙を書いてみようかと思ったんです。
そういう気分なんで、パソコンのキーボードにいきなり打ち込むんじゃなく、一度、万年筆で紙に書いてみることにしてみました。私の尊敬している高名な俳優の方が葉書をくださる際、万年筆のとても個性的で素敵な筆跡でして、それがカッコ良くてですね、そういうところがミーハーなんですけど。
これは固有名詞と漢字の復活学習にもなるし、そうやってみると意外にスラスラ書けたんですね。それに、手紙を書く技量みたいなものが、少し訓練されると良いかなとも思ったんです。

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世の中には、いい手紙というものを書く方がいらっしゃいます。それはこの仕事をしていると、時々、出会うことがあるんですね。ラブレターみたいな個人的なものではなくて、どちらかといえば仕事上の手紙だったりするのですが。僕らの業界には、いわゆる言葉とか文章とかを書くことを生業(なりわい)としている達人がいらして、そういう方から手紙をいただいたりすると、わりと痺れることがあるんですね。
テレビのCMのような、広告の映像ツールを作る仕事を長くやってますと、この仕事は、それを見てくれる誰かに向けて、個人的に手紙を書いているようなところがあると思うんです。
どういうことかと云うと、広告と云うのは、その中身がただ正しく間違いなく伝えられたとしても、受け取った人がそれに関心を持ったり、気にかかったりしなければ、あんまり効力がなくてですね、受け手が興味とか感動のようなものを覚えるような文脈や仕掛けを潜ませられるかを考えるわけですが、そのあたりが、相手のことを想いうかべながら書く手紙と似通っているような気がします。
このところ、仕事上の伝達ツールの主役は、電話からメールへと移行する傾向にあって、このメールというのもある意味 手紙でありまして、いかに相手に的確にこちらの意図や気持ちが伝わるかというのは、その書き方によって大きく違ってきたりします。
まあ、昨今のみなさんはスマホも含め十分にメールとかLINE等を使いこなしてる世代ですから、用件をいかに速やかに正確に伝えるかという技術は、私の世代の比ではないかもしれませんが。
考えてみれば、私などが仕事を始めた頃は、メールというものは全く存在すらしてなかったわけで、faxもなくて、石器時代のようなもんですが、逆にその頃誰かに書いた手紙は、数少ないですけど、渾身の筆圧で書いたもんでした。 
仕事上、書く手紙もいろんな手紙があって、それは、ご挨拶、お礼、お詫び、頼み事、報告、相談、等々、様々です。基本的に対面すべきところを、都合がつかずに取り急ぎ、というケースが多いですが、逆に敢えて手紙を書くという選択をすることもあります。
たとえば、かなりハードルの高い難問を抱えた時とか、わりとそういうことの多い仕事ではあるんですが、自分なりに考えたことを手紙にして、肝心な人に読んでもらって、予めキャッチボールをしておいたりします。その課題を、ちょっと角度を変えてみて、間を作ってみたり。時間をかけて何かを練り込んでゆく時には、手紙のやり取りが功を奏することがあります。
それに面と向かっては言いにくいことも、手紙だと言えたりというのもありますしね。
 
手紙を書くのって、やはり一度立ち止まって、じっくり相手のことを考えるし、また自分が送るメッセージをきちんと整理できるメリットもあります。
face to face で人が接すれば、その場でいろんな化学反応も起きて面白いし、瞬時の判断で何かが生まれたり、物事を前に進めていくときの基本スタイルなんですけど、そこにいい手紙という要素が加わると、その強度が増します。
手紙には、全く別の時間軸で何かを醸成していく力があるかもしれません。

2025年4月12日 (土)

クレイメーションの達人が、、

この前、アニメーションのことを少し書いたんですけど、このアニメーションという技術は、ある部分において私どもの仕事のかなり近いところにありまして、いろんな機会に接することも多いんですね。若い頃にアニメーションのCMの仕事で、すごく世話になって、いろんな事を教えてもらったアニメーターで、森まさあきさんと云う方が、急に先月、病気でお亡くなりになりました。享年69歳という事でして、ずいぶん驚いて、お別れの会に行ったんですけれども、本当にもっと話を聞いておけばよかった人でした。
そもそも彼と出会ったのは、お互い30歳くらいの頃でしたが、私はその頃、売れっ子CMディレクターの岩下俊夫さんと一緒に、PARCOのバザールのCMをいろいろ作ってまして、今度は立体アニメーションの映像でやりましょうか、などという話をしておりました。
時代的には、海外のミュージックアーチストのプロモーションビデオが、たくさん出て来た頃で、かなり斬新で刺激的で、ずいぶん影響を受けておりました。当時、私はイギリスのアーチストのピーター・ガブリエルの”Sledgehummer”という曲のPVをビデオに録画して、よく持ち歩いたりしておったんですね。
その映像は、このアーチストが唄っている顔の周りに、いろんな素材の立体アニメーションが動き続けており、それは硬質の素材だったり、野菜だったり、フルーツだったり、魚だったりして、彼の顔も、やがて立体アニメーション化して行き、それはクレイアニメーションになったりして、そのすべての動きが音楽とシンクロして、かなり独創的な仕上がりになっていました。
ともかく楽しくて、こんな気分の15秒CMが作れないかなあと思っていたんですけど、そんな時にディレクターの岩下さんから、クレイアニメーションで次々に姿を変えてゆくオブジェが主役の企画コンテが上がって来たんですね。
やりたいイメージはいろいろに浮かんでくるんですけど、さて、実際にどうやってクレイを動かして撮影するのか、クレイを変形させながらコマ撮り撮影するとして、粘土の選択から造形と動かしまで、そういったプロはどこにいるのか、実はあんまり時間もない。その時、アニメーション会社のプロデューサーが連れて来てくれたのが森さんだったんですね。この時、初対面のこの人の印象は、なんだか近所にいる明るいおばさんていう感じの人でして、おまけに、仕事上必要なのか、いつもエプロンをかけてらっしゃいました。
彼は同世代ですけど、本当によくアニメーションのことを知っていて、同じくらい特撮技術のこともよくわかっていて、そのころ毎日クレイでいろんな造形物を作っていたので、同時にクレイ作家でもありました。やりたかったことに、この人が来てくれたら、まさに鬼に金棒です。
当時としてはかなりユニークなCMの映像ができ、それに音楽は鈴木慶一さんが作ってくださって、バザールの告知なんでオンエア期間は短いんですけど、なかなかに目立ったキャンペーンになりました。
そこで、これは続けて作りましょうということにもなり、今度は粘土じゃなくて、例えば電子機器の部品とか、様々な物質でオブジェを作って、それがなおかつ変身していくみたいなシリーズになって、何本か作った時に、広告の賞を頂いたりもしました。当然ながら、そのコマ撮り撮影のアニメーターは、全部、森さんがやってくれたんですね。
その後、彼はアニメーターとしてどんどん忙しい人になって行き、クレイキャラクターの作家としても、有名な人になって行きました。特に、フジテレビの「とんねるずのみなさんのおかげです」の番組オープニング「ガラガラヘビがやってくる」は、企画演出、キャラクターデザイン、アニメーションまでやって、代表作になりました。

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彼はキャラクター造形やア二メーションをやりながら、東京造形大学の専任教授となって、学生へのアニメーションの教育指導にも励みました。昔のようによく会うことは無くなったんですけど、うちの会社でやるパーティーなどにはよく来てくれて、いろんな話を聞かせてくれました。この人はアニメだけじゃなく、映画とか映像全般にわたって博学でして、会うと私の知らない事を教えてくれました。

コロナなんかもあって、なかなか会えなくなっていて、でも今年も彼の作ったキャラクターの年賀状もいただいていて、そういえば今年はヘビ年で、相変わらずお元気そうだなと思っていた矢先でした。
お別れの会には、そんな事で、あわてて集まって来た仕事仲間たちがたくさんいて、それもみんな懐かしい顔で、いろんなこと思い出しながら、いろんな話をしたんだけど、そこに主役はおらず、彼が作った作品がモニターから次々に流れていました。
なんだか久しぶりに、あの頃に森さんと作ったCMを、ただ眺めておったようなことでした。

だが、上手いんだな、これが。

2025年1月22日 (水)

阿修羅再来

正月休みの終わり頃に、家でゴロゴロしてたんですけど、ほんとに今どきのテレビ番組はつまらなくてですね、ついついNetflixの新作「阿修羅のごとく」を見始めたら、たまたま家でゴロゴロしていた妻と娘も一緒になって、全7話一気に観てしまいまして、これが、実に見応えのある7時間だったんですね。
向田邦子さんの昭和の名作ドラマのリバイバルですが、是枝監督の丁寧な仕事のもと、改めて十分に堪能できる完成度でありました。
この作品は、もちろん向田さんの代表作でもありますが、いつ頃の放送かと云えば、パートⅠの3話が1979年1月、パートⅡの4話が1980年の1月でして、NHKの和田勉さんが見事な演出をしておられました。配役されている俳優陣も素晴らしく、そう云えば音楽も強烈で、当時大変話題になったドラマでした。
その頃、私は働き始めて2〜3年目の頃で、テレビCM制作現場で、1番下っ端でかなり過酷な職場でしたから、普通の時間にテレビドラマを観たりできなかったんですが、その後、わりとすぐにシナリオが出版されて読んだのと、何度か再放送もあって、ずいぶん経ってから、とりあえず全部観たんだと思います。
いずれにしても、いまだに何かといえば、語り継がれているテレビドラマの名作であり、問題作でもありました。1981年の夏、向田さんは台湾旅行中に飛行機が墜落して亡くなってしまわれたので、その印象は尚更のことであります。
この作品の後に、名作「あ・うん」や「幸福」なども書いておられますし、この頃には有名なエッセイや小説も集中して発表されており、1980年上半期の直木賞も受賞されました。まるで追い立てられ、生き急ぐように仕事をされていた感があります。その突然のご逝去は、本当に惜しまれており、個人的にもかなりショックを受けたと記憶しています。
この“阿修羅のごとく”と云うドラマは、昭和54年頃の、60代後半の老夫婦とその4人の娘たち、だいたい40代から20代の設定だけど、その4姉妹の夫や交際相手を含めたそれぞれの家族の、男と女の物語なのですが、いわゆる昭和のその頃のごく普通の家庭の風景の中で起こる、いろんな人間模様が描かれていて、そこが向田さんのドラマのすごいとこで、またたく間の7時間になっております。
まだご覧でない方は、観ていただくしかないのですが、そこには大人の女と男の話、その時代の女の居場所、男の立ち位置、当時のそれぞれの価値観において、生きていく姿などが垣間見えます。そこには、意外性も驚きもスリルもいろいろあって、それは楽しいということとは違い、つきあってると、むしろ気が滅入ることの方が多い話ですね。でもその先が気になって引っ張り込まれる。最近では、こういうドラマにあんまりお目にかかれません。
それぞれみんな、辛かったり悩んだり諦めたりもしながら、誰かをののしったりもして、励ましたり誤魔化したりして、時にお互いを笑い合ったり、たまにホッとしたりして、なんだか人って愚かで切ないもんだけど、ちょっと愛しいとこもあんな、みたいな気持ちになるんですね。
このドラマを観ながら、昔のシナリオを読んでみると、向田さんの脚本はかなり忠実に生かされていて、それは是枝さんの考えと思いますが、そうであれば、この本を令和の現代に持ってくるのはちょっと難しくて、やはり昭和54年の設定で作られたんだと思いました。
やはり、何より40何年も経てば、この社会における女の人の考え方も存在感も、男の人の佇まいも、ずいぶんに変わったんだと感じました。
ただ、パートⅠのラストのシーンでのセリフ
「女は阿修羅だよ」
「勝目はないよ。男は」
この科白に、この長いドラマのテーマは集約されていまして、普遍的なテーマではあります。

長くなって恐縮ですが、もうちょっと書きます。
このドラマのシナリオを探したら、1985年に発行された文庫版しか出てこなかったんですが、それのあとがきに、演出の和田勉さんの文章があって、それが面白かったんです。
向田さんと和田さんがこの仕事を始めた時、向田さんがテレビのホームドラマから、いまぬけおちているのは何だろうと言い、ホームドラマも小津さんのところまでいきたいと言ったら、小津さんは冠婚葬祭ね、それはセックスねという話になったそうです。冠婚葬祭のようにとりつくろいつつも心の中身は、それにまつわるセックスは、荒れ狂う人間喜劇、、、シュラバ
向田さんは白紙の原稿用紙に、この文字を書いてみてくれと言いました。
阿修羅のごとく。と
もうひとつ興味深い話があって、このドラマのパートⅠと1年後のパートⅡは、家族の顔ぶれは誰ひとり変わってないのに、次女の夫役の緒形拳さんだけキャスティングが変わっています。
スケジュールのこともあったようですが、和田さん云く、向田さんの脚本というのは、男が「男として」在るためには、ちょっと耐えがたいホンであるのだ、ということで、父親役の硬骨の役者・佐分利信が、その役のあまりの「硬骨からのはずれっぷり」に立腹して、リハーサル中に台本を捨てて帰ろうとした話もあります。
男は、みなだらしなく、女たちの前でこそこそと生きているようにしか、書かれていない。その分、女たちの側に扮した役者は、阿修羅のごとく男を血祭りにあげて、快哉を叫ぶことができる。視聴者も、男は見るのがたまらなくて、女は「わが身のように」見てしまう。
ドラマの中で、「女から見た男」というのはあっても、「男から見た女」というのは、本当の意味では、向田ドラマには皆無なのだ。と。

にしても、
この果てしなく深いドラマを支え、そして向田さんに踊らされる、俳優陣のキャスティングは見事と云えます。
それは、1979・1980年版も2025年版もしかりで、
主なキャスト

Ashura



竹沢恒太郎(68)佐分利信   國村隼
竹沢ふじ(65)大路三千緒   松坂慶子
三田村綱子(45)加藤治子   宮沢りえ
里見巻子(41)八千草薫    尾野真千子
里見鷹男(43)緒方健・露口茂 本木雅弘
竹沢滝子(30)いしだあゆみ  蒼井優
勝又静雄(32)宇崎竜童    松田龍平
竹沢咲子(25)風吹ジュン   広瀬ずず
陣内英光(26)深水三章    藤原季節
枡川貞治(55)菅原謙次    内野聖陽
枡川豊子(53)三條美紀    夏川結衣
土屋友子(40)八木昌子    戸田菜穂

2025年1月10日 (金)

ある日の映画館で沁みた荒木一郎

昨年の12月に、映画を一本観に行ったんですね。それは、うちの会社で制作しているTVCMに出てくださり、お世話になっている女優さんが出演されてる作品だったからでして、何となく渋谷に出かけて、なんの予備知識も無く観たんですが、これがすごくいい映画で、気が付けば、終盤のあたりで泣けたりしたんです。
どんな風によかったのかと云えば、説明するのがむつかしいのですけれど、普通の日本の現代劇でして、その女優さんのまわりにいろんな人が出てきて、ひとつの悲しい事故が起きるところから、いくつもいろんなエピソードがあるんですが、ここに出てくる人たちが、どの人もほんとにいい人ばっかりなんですね。
そういうような設定って、最近の映画とかドラマとかにあんまり無くて、普段あんまり見かけないタイプの映画なんですが、なんだか終わりが近づくほどにハラハラと涙が出てきたのですよ。
それで、エンドロールの時に流れてる歌を、この女優さんが唄ってらっしゃるんですが、これが実にじんわりと胸に沁みたんですね。この方は、普段あんまり歌とかを唄われている印象がなかったのですが、この歌は詞がこの映画の文脈にも沿っており、彼女の歌声もこの曲にすごくマッチしていてとても素敵な歌でした。
そしてクレジットタイトル読みながらその歌を聴いていたら、ふと
「この歌、知ってるな、オレ」と思ったんですね。
そしたら、エンドロールに曲名と作詞作曲が誰かが、記されていました。

「夜明けのマイウェイ」作詞作曲・荒木一郎

まったく個人的な話ですが、この人が作って唄う曲が昔から好きだったんですね。たぶん私が中学生くらいの頃にけっこう売れた人で、その頃、自分で作った歌を自分で唄う、いわゆるシンガーソングライターという人はまだあまりいなくて、今はそういうのが当たり前ですが、当時は、他には、加山雄三さんがそうだったくらいだったと思います。
加山さんは荒木さんより少し年上でしたが、歌手デビューは同じ頃だったと思います。もともとは映画俳優で、作曲も演奏もできてスポーツ万能で絵も上手で、慶應ボーイで、すごく人気者でした。たくさん名曲があります。同じ茅ヶ崎出身の桑田佳祐さんは、加山さんのことを、ほんとにリスペクトして育ったそうです。世代としては私も桑田さんと同じあたりです。
荒木さんも音楽活動のかたわら、俳優として映画やテレビに出演なさったり、小説を書かれたり、多岐にわたって活躍します。
同時期に音楽活動をして、たくさんのヒット曲を作った二人ですが、加山さんが太陽なら、荒木さんは夜空に浮かぶ儚い月のような印象がありますね。どうも荒木さんは基本的に不良っぽくて、そこが魅力でもありました。
何と云っても、荒木さんのデビュー曲の「空に星があるように」は、詩もメロディも声も忘れられぬ名曲です。この歌に代表されるような、この人の繊細でナイーブなトーンは、そのあと、数々の荒木一郎節を生んで行きます。私は多感な時期に、折に触れてそれらを聴いてたように思います。
ともかくその女優さんのおかげで、年末の渋谷で、ちょっといい映画に出会えて、そして沁みて、奇しくも久しぶりの荒木一郎さんにも会えて、なんだか懐かしい心持ちになったのでした。

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(歌詞)
悲しみをいくつかのりこえてみました
ふり返るわたしの背中に
まだ雨が光ってます
走っている途中でときおりつらくなって
ふりかえりあなたの姿を
追いかけてみもしました
でも夜はもうじき明けてゆきます
今迄と違う朝が ガラスのような
まぶしい朝が 芽生え始めています

悲しみをいくつかのりこえてきました
ふり返るわたしの後ろに
ほら虹がゆれてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

もう昨日は昨日 明日は明日
今迄のことは忘れ
花びら色のさわやかな日を
迎え始めています

悲しみをいくつかのりこえて来ました
ふり返る 私の向こうに
青空が見えてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

2024年10月28日 (月)

アベさんへ、かつてお世話になった若造より

私が22歳の時に初めて勤めた会社の上司で、その会社の創業者でもあり、TVCMプロデューサーとしての大先輩でもあった、アベさんが、この夏に亡くなっておられたということを、このまえ、知りました。
アベさんは昭和8年の生まれで高齢で、どこかの施設に入っておられるようだという噂は聞いていたのですが、詳しく知っている人がおらず、この数年は連絡もつかず、ご無沙汰しておったようなことです。
その会社は、CMなどの広告映像を制作するプロダクションで、私が入った頃はできて10年目くらいで、社員が30人ちょっとだったと思いますが、アベさんはその中で最年長で、専務取締役で43歳で、少し年下の井堀社長と並んで、ここの親分的な存在でした。
当然ながら私は一番下っ端で、見習いのADみたいな仕事をしていて、21才年上のアベさんとはあんまり接点もなかったのですが、それから一年くらいして、アベさんが始めた「小学一年生」という雑誌のTV-CMで、“ピッカピカの一年生”という仕事に制作部としてつくことになりまして、ロケハンとかロケとかご一緒することもあるようになります。
この仕事は日本全国の小学一年生を紹介する企画なので、スタッフは全国津々浦々を訪ねて歩くわけで、地方の旅館や民宿によく泊まるのですが、そういう時にアベさんは夜になると、いつも座敷の真ん中であぐらかいて一升瓶抱えて飲んどられて、お相手するようにもなり、モノづくりとはみたいな話で、お説教くらったり、そのうちこっちも言いたいこと言ったりして、だんだんに距離も縮まっていきました。
その後、このキャンペーンはずいぶん長く続きまして、私もディレクターやプロデューサーをやるようにもなり、それこそ日本中いろいろなところへ行ったもんです。アベさんの出身地である福島の猪苗代にも一緒に行きましたが、その時は毎晩どこかで同窓会やっておられました。
とってもこの猪苗代に対する郷土愛の強い人でして、方言も抜けないで、いつも会津弁でしたから、みんながアベさんのモノマネする時は、おかしな東北弁になっていました。
毎年、今年はどこにロケにいくか、場所を決めるための会議があったんですけど、アベさんは絶対に山口県は選ばないと言い張っていて、よく聞いたら、会津人は幕末の長州をまだ許していないということだったようでした。明治はそんなに遠くないわけです。こういう話をしていると、さすがに20年の差があると、ジェネレーションギャップというのはあるんだなと思うんですね。
この人は、昭和の1桁に雪深い福島猪苗代に生まれ、阿部正吉(マサキチ)と名付けられました。それからのことは、一升瓶抱えながらいろいろうかがったんですけど、飲みながらだったもので記憶は曖昧なんですが、小中学校の頃は秀才と言われてたそうで、役場にはいるんですけど、その後、地元にやってきた映画のロケ隊の手伝いをしたのがきっかけで、上京して、その後、映画やテレビの脚本を書いたり、いろいろあってテレビコマーシャルの演出やプロデュースをやるようになって会社作ったみたいなことで、戦後復興期の 映像産業界を駆け抜けたような話でした。
いつだったか、尊敬してた映画監督の鈴木清順さんと仕事をした時に、アベさんとはお友達ですと言われて、すごいなあと思ったりしたんですね。
そんなふうないろんな経験から、この人がよく言ってたのが、
「オレたちの仕事は、映像をつくる最先端の技術も、古典的な表現の技術も、両方のことをきちんと勉強しとかないといけない」という話で、これは今も肝に銘じております。

そんなことで個人的には、22才から34才までその会社にお世話になり、その間ほんとによく働いたし、いい仕事もさせていただいたとも思います。だんだん生意気なことを言うようにもなりましたが、アベさんには、長い時間の中でいろいろに気にかけていただきました。
そして、それから同じ会社にいた先輩や仲間たちと自分たちの会社を作って独立をして、アベさんとは、袂を分つことになります。

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その時、私が34才でアベさんは55才でしたが、それからも、また、ものすごい時間が流れてしまいました。でも、その間、アベさんとはわりとよくお会いしてたと思います。そんなに広くない業界だし、アベさんはその中で有名な人だったし、いろんな集まりでよく会いました。それと、私や私の会社の活動を、わりと遠くからよく見てくださって、褒めていただいたりもしました。電話もメールもよくもらって、相談したいことも気兼ねなく話しましたし、その度にまた飲みました。一升瓶抱えてじゃないですけど。
なんてことない用事で、またどっかで気軽にお会いして、昔話でもして一杯やりたかったです。
でも、元の会社も、新たに作った会社も、後輩たちが活躍していて、元気に存在していることは嬉しいことですよね、アベさん。

お墓の場所が分かりましたので、アベさんの会社での後輩のみなさん、コバちゃん、クマちゃん、シナちゃん、ホシヤン、ソガちゃん、スギヤン、ヤマちゃん、ナベちゃん、カミちゃんたちと来月お参りさせて頂きますね。全員、結構いい歳ですが。

2024年8月28日 (水)

炎熱・甲子園

言わずと知れたこの夏は、例年にもまして凄まじい酷暑なんですが、そんな7月の30日に、甲子園の阪神✖️巨人戦をアルプススタンドのほぼ最上段の59段から見物してきたんです。

阪神は去年珍しく優勝したし、この夏には是非、甲子園で阪神戦を観戦しましょうという事で、今回一緒に行ったオジサンたち4人で、早くから決めて計画し、シーズンが始まる前から楽しみにしておったようなことです。
今回、引率してくれたのは、長い友人で大阪で生まれたフジヤンという人で、物書きの仕事をしていて関西文化には造詣の深い人なんですね。もちろん阪神タイガースファンという事でも筋金入りでして、そこんところは痛く気が合っております。
この日は、甲子園ができてちょうど100年というスペシャルな記念日のカードで、一番人気の巨人3連戦でもあり、スタジアムはとっくに完売の超満員、ただでさえ暑いところに大熱戦で、球場はヒートアップ、汗は吹き出し、ビールは売れます。
あの地鳴りのような大歓声も味わいながら、ゲームも5−1で快勝、エース才木の9勝に、大山と森下のホームランも出て、この夏1番のナイター見物になったわけです。まあ、その日は半日、甲子園の異様な熱気に包まれた疲れで、ホテルの近くのバーで一杯ひっかけたら、即バタンキューでしたが。
せっかくの関西旅行でもあるし、次の日は有馬温泉でも行こうかということになっていて、フジヤンお薦めの老舗旅館に投宿しました。かつて谷崎潤一郎さんが執筆もされたという宿の湯につかりますと、なんだかこちらまで文学的な人になったかのような気になりましたが、それはそれとして、夜は夜で、甲子園の阪神・巨人戦をテレビ観戦しまして、またしても盛り上がってしまったというわけです。
次の日は、昼前まで旅館でゴロゴロして、バスで神戸の街に出て、これもフジヤンお薦めの元町駅近くの美味しい老舗中華屋さんで、紹興酒で乾杯でもして解散しようかという事でした。
ただ、昼食前に小一時間程、時間が余ることもあり、私が子供の頃住んでいた神戸の街へ4人で行ってみようかということになりまして、暑いし、駅でタクシーに乗り込んで行ってみたんですね。
これは他の3人にとっては単なる神戸の坂道なんだけど、私にとっては小学校から中学にかけての、生活路、通学路でして、そこに立ってみると、ブワーっといろんなことが蘇るんです。周りの風景は全く私の知らないことになっているんですけど、ただ目の前のその道だけは、自分が立ったことのある実感がしっかりあるんですね。
なにせ1960年代の大昔に住んでいた街で、それから1995年の阪神大震災で、一度、街ごと壊れてしまいましたから、景色が変わっているのは当たり前ではあるんですけども、ただ、歩いてると、ここには何があったかとか、ここはこんなだったなとか、ぶつぶつと記憶が蘇ってきたりします。
通ってた小学校にも行ってみて、もう学校名も変わって、校舎も建て替わってるんですけど、昔、玄関横の池に立っていた二宮金次郎の像が、校門脇に移設されていたりして。ちょうど夏休み中に登校してきた先生が、学校の中に入れてくれて、いろいろ最近の学校の様子などを教えてくださったりしました、一応卒業生だし。この先生、どう考えても私の息子の年齢くらいでしたけど。
ちょっと急にあまりにも多くのことを思い出して、混乱もしたので、皆んなと昼食を食べた後も、暑い中一人で少し歩いてみたんですね。姿は変わってしまったけど、この街に暮らしていたことは、はっきりと思い出せました。なつかしいこの地に、ずいぶん長い間訪ねてこなかったのは、この地を思い出すときに、どうしても避けられないつらい記憶があるからだったと思います。
私が中学生になった年に、私たちの家族は8才になった弟を病気で亡くしたのですね。今思い出しても、そのことはあまりにも大きなダメージで、深い傷を残しました。その時の記憶は今でも空洞のままになっています。
結局、彼を失ったその夏、4人から3人になったうちの家族は、この街を離れました。
子供から少年期にさしかかる頃に過ごしたこの街のことは大好きだったんだけど、なつかしさと背中合わせに、その記憶に向き合うことがちょっとしんどくて、あまりここに来なかったかもしれません、古い話なんですけど。
さて、夏の盛りに巨人に3連勝した絶好調の我がタイガースは、その後、好調を維持しているとは云い難いのですが、今も優勝連覇を目指して戦い続けております。
そして一夏、高校球児たちに明け渡した甲子園にいよいよ帰ってくるのです。
佳境を迎えるプロ野球ペナントレースに、どんなドラマを観せてくれるのでしょうか。
悲喜交交(ひきこもごも)の夏の仕上げであります。

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2024年7月19日 (金)

古希の夏

そろそろ梅雨も明けまして、今年も半端ない暑さとのことですが、一年中で最も暑いこの時期になりますと、決まって私の誕生日が来ます。毎年のことだし、取り立てて何をするということでもないのですが、よりによってずいぶん暑い時に生まれたもんだなと思います。
それに、今回は、70回目ということで、どうも自身のこととも思えない年齢になってまいりました。
若い頃には、自分がその歳まで存在しているのかもわからないわけでして、ともかくこうして、どうにか元気でおることには、感謝するしかありません。
昔、70才という歳を見上げていた時のイメージは、いろいろなことをやり終えた人生の達人という風情で、モノの道理を知り、何に対してもジタバタしないで、常に頼りになるような、なんとなくリスペクトされるような存在になればよいのだろうか、などとと思っておりました。
が、今、自分の中にそういう自覚は生まれてきません。なんだかずっと、あるところからの延長線上におるようでして、成長もせず煩悩も消えず、いまだに意味もなくジタバタしているようなことです。
ただ、体力というのは確実に落ちてまいりますので、気持ちはあっても電池切れみたいなことで、行動力というのは衰退してまいります。
この歳になったら、多少なりとも、人に安心感を与えるような、かっこいい大人の人格になれるとよいのにとは思うのですが、相変わらず、落ち着きより面白味を求めてしまうもので、これは、ずっとそうなんだから仕様がないんですが。
ということなので、70にはなりますが、あまり変わり映えのしないいつもの夏です。

そういえば70歳のお祝いは、古希の祝いと云われておりまして、調べてみると、お祝いは数えの70歳、満69歳の時にするのが正式らしいです。ということは私の場合は去年だったようですが、まあどちらでもよいようなことが書いてあります。
それと、70歳は厄年なので、周囲からお祝いをされても厄払いにならないため、古希祝いはしないほうがいいとも言われているそうです。むしろ厄年には厄払いとして本人が周囲にご馳走を振る舞う習慣があるので、これまでよくしていただいたお礼に、今年は私の方から、お世話になった皆さんにご馳走しようかとも思います。

だいぶ前になりますが、昔私が所属しておった会社でえらく世話になった先輩から、年賀状をいただきまして、
「私、今年、古希になってしまいます。もうすっかり身体が硬くなって、コキッ!」
と書いておられて、爆笑したんですけど、上手いこと言うなと思ったんですね。
確かに、最近、身体がめちゃ硬いのは、実感しておりまして、コキッ!

Koki

2024年6月29日 (土)

歳月ということ

6月の中頃に、偶然3日続けてちょっとしたパーティーがありました。
1日目の会は、長いこと公私共にお付き合いいただいてる4人の先輩たちが、不定期に集まるrednoseの会というワインを飲む会でして、その都度テーマを決めてワインを飲んでいます。たぶん始まってから40年くらいは続いているのですが、「君も来なさい」と言われて私が加わってからも、もう10年以上経っております。今回は焼肉とワインというテーマでしたが、この先輩方の探究心には驚くばかりで、この日のお店も、持ち込んだワインもカンペキでありました。なんと云っても、一緒にいるだけで楽しい方たちでして、この日もすっかり酔っ払ってしまったようなことです。
2日目の会は、これも40年はお世話になりました、私たちの業界の大先輩のKさんの80歳のお祝いで、傘寿のお祝いとも言いますが、後輩たちが10名程集まって、サプライズのお誕生会をやったんですね。とある有名なフレンチレストランの個室でのランチだったのですが、ずいぶん前から計画しておられた幹事さんの手腕で素晴らしいお誕生日になったんです。
Kさんにお会いしたのは、私が業界の右も左も分からなかった頃でして、すでにアートディレクターとしてたくさんの有名な仕事をされていたこの方は、雲の上の存在でした。その後もその広告会社の要職を歴任され、私も含めこの会のメンバーは長いこと大変お世話になりました。退職されてからも、いつも気軽にお付き合いくださり、よくお会いして遊んでもいただきまして、皆から慕われている方ですから、80歳をお祝いしましょうということで集ったわけです。何だかふわっと幸せな会でしたね。
そして、3日目は、新宿デラシネ45周年パーティーという会でして、私が20代の頃から散々お世話になった新宿三丁目のスナックが45周年を迎えたという祝宴です。
しかし、45年の歴史というのは大変なもので、ずいぶん広い会場にギッシリと、このお店に関わった人たちが集まっておりまして、当然ながらたいていは、おじいさんやおばあさん達なのですが、よおく顔を見ていると、わかる人はわかるわけで、あっという間に何10年も前に連れ戻されます。ほんとに、お元気で何よりとはこの事なのです。

Sakatasan



そんなことをしていると、急にママのフミエさんから、何かしゃべれと云われて、マイク持ってしゃべったのですが、要は、私はこのお店が45年前に開店パーティーをやった時に、20代の末席の若造でしたが、すでにそこにおりまして、先輩達がカウンターにこぼした酒を拭いたり灰皿交換したりしてました、その頃は金もないのにずいぶん飲ましていただきありがとうございました、45年経ってこうやっていいジジイになりましたが、みたいな話で間をつなぎました。
いずれにしても、新宿の片隅の地下にある小さな飲み屋に、いろんな人が出たり入ったりしながら、45年もの月日が流れ、その人たちが、またこうして逢えたというのも、めでたいことだなとつくづく思ったんですね。
宴も酣(たけなわ)となったころ、お店の常連でジャズサクソフォーン奏者の坂田明さんが、見事な演奏をしてくださいました。「見上げてごらん夜の星を」と「太陽がいっぱい」は、胸に沁みわたり、そして、たっぷりと聴かせていただきながら、過ぎていってしまった時間を反芻したのでした。

にしても、偶然3日間続いた3つの集いは、歳月というものをつくづく考える時間になりました。それも半世紀近いものすごく長い時間です。今回お会いしたみなさんの初めて会った頃の顔が浮かんだりしました。若いです。
そして、どの会も、元気であればたぶん顔を出されたであろう、今はもう会うことのできない顔が、いくつか浮かびました。歳月というのは、そう云った意味では切ない側面もあります。
次またいつお会い出来るのか、やや心細くもなってくる年齢ではありますが、またどこかでお会いしたいものです。

2024年5月29日 (水)

ついに黒部に立ったのだ

5月の中頃に家族で旅行したんですけど、これが一泊二日の黒部渓谷、黒部ダムを巡る旅でして、なかなか盛り沢山で、そしてなかなか感動だったのです。少し前に奥さんが申し込んだツアーで娘と私も参加して3人の予定だったのですが、最近急に大阪から東京に転勤になった息子も来ることになり、久しぶりに家族4人で旅することになりました。それはそれで良かったんですけど、朝7時に八重洲口集合みたいな弾丸ツアーの趣もあり、初日はトロッコ列車で新緑の黒部渓谷を満喫し、宇奈月温泉一泊、翌日立山アルペンルートを一気に縦走し、黒四ダムへという一連の流れなのですが、このスケジューリングが実によく出来ており、さすが手馴れたプロの仕事で、元制作部をやっておった私から見ても、よく出来た香盤表でありました。
というような2日間のコンパクトな体験でしたが、この黒部という場所には個人的にちょっと特別な感慨があったのですね。昔も書いたことあるんですけど、私が中学一年生の時に「黒部の太陽」という映画が公開されて、大ヒットしたんですが、これが難攻不落の黒部渓谷に巨大ダムを建設するための、世紀の難工事を描いた人間ドラマでして、背景には戦後復興をかけたこの国の電力問題を解決するという悲願がありました。
当時13歳の少年であった私は、最もわかりやすく感動し、影響を受けてしまい、将来は土木技師になることを胸に誓ってしまったわけです。一応高校を出ると上京して大学の工学部の土木工学科というところに入るのではありますが、ま、いろいろありまして卒業してから土木技師になる事もなく、今の仕事についてしまうわけです。
土木の仕事に就くことは、自身の適性も含め無理だったということはわかっているので、諦めはついているのですが、ことあるごとに、いろんな人に、いかに私がこの映画に影響を受け、黒部という場所にいかにこだわりを抱いているかということを、ある時は酔っぱらったりしてくどくどと語るわけですよ。なので親しい人たちは、そのことはよくご存知ではあるんですね。
そこで、先日、結婚して30年以上経つうちの奥さんから、
「ところで、今までいろんなところに行ってるみたいだけど、黒部には、行ったことあるの?」
と聞かれまして、
「いえ、一度も行ったことないです。近くまで行ったことはありますが」
と申しましたら、心底あきれておりました。少年期のいきさつからも、とっくに訪ねておかねばならぬところでしたのに、、、ということで、家族のおかげで想いを果たせたわけです。
黒三ダムに向かうトロッコ列車は、能登震災の影響で最後まで行けませんでしたが、十分に黒部渓谷の新緑の木漏れ日を浴びることができて素晴らしかった、そして、翌日標高475mの立山駅からケーブルカーと高原バスで急峻な斜面を登り続け、標高2450mの雪の大谷で雪原を堪能し、ここからはトンネルトロリーバスと急降下のロープーウェイとケーブルカーで、標高差約1000mを下って黒四ダムに着きます。
見事なダムです。ああ、これが、黒部ダムなのですね。小雨混じりの曇天に現れた大土木建造物、しばらく眺めておりました。なんていうか、この大自然の中に、人間が叡智を尽くし、7年の歳月と1000万人の手によって造られた創作物なんですよね。
さすがに、奥さんも娘も息子も、えらく感動しておりました。
それにしても、ダムの上から真下の谷底を見ましたら、完全に足がすくみ上がりまして、ああ、この場所を職場にすることは絶対に無理であったなと、あらためて確認したようなことでした。

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2024年5月 9日 (木)

不思議の露天風呂

私が時たま寄せて頂き、お世話になっている信州のトシオさんの山小屋の近くには、温泉がたくさんあって、それも楽しませていただいております。その中でも比較的よく行くところに、「尖石温泉 縄文の湯」(とがりいしおんせん じょうもんのゆ)と云うのがありまして、近くに縄文遺跡があるのでこういう呼び名なのですが、湯量も多くてとても快適で、露天風呂も設けてあります。これがどの季節もなかなかに気持ち良くてですね、行けば露天で長湯いたしております。
先月のある日も、トシオさんとヤマちゃん先輩と3人で機嫌良く浸かっておったのですが、人気のお風呂だし、夕方でまあまあ混んではいたものの、それほどツメツメでもなく、まあゆったりと露天風呂にいたのは7〜8人ほどでした。
すると、その中の一人の知らないおじさんが、と云っても、こちらもよくわからないおじさんではあるのですが、こちらの方をじっと見ておられまして、ついに視線が合います。
「うん?」と思っていると、「ムカイさん?」と、私の名をお呼びになる。
「あっ、イマムラさん?」と、申しましたらば、両方で、
「ハイッ、ハイッ、ハイッ!」となりまして、
そうなんです、この方 イマムラさんという有名な映像ディレクターでして、私とは同年代で、かつて何度か仕事でお世話になっておりました。このところ何年もお会いしてなかったけれど、年賀状などのご挨拶は続いていた方です。そう言えば、この近くのリゾート地の森の中に居場所を移してみますというお知らせはちょっと前にいただいていたんですが、まさか、よりによってこの露天風呂に一緒に浸かっていたとは。いや、お互い驚いて、しばらく風呂の中で4人で盛り上がったようなことです。今回は無理だったのですが、必ずや近いうちにこの森で再会して呑みましょうと約束を交わして別れましたが、それにしても、この時にこの場所で出会う確率というのは、どれくらいのもんだろうかと思ったのですね。
この温泉にはよく来ると言っても、たぶん年に2、3回だし、露天に浸かっている時間は、せいぜい30分40分くらいのものです。そもそもその人がこんなところにいるとは、夢にも思ってないわけですから。
それで、この露天風呂には別の話があって、また思い出したんですが、私3年前の秋に、全く同じ場所、縄文の湯・露天風呂の中で、高校時代の友人に会ってるんです。この人とは、さすがに高校時代以来とかではなく、その少し前に東京で10人くらいの同窓会をやった時に再会はしてたんですが、まさか温泉風呂で会うとは夢にも思っちゃないわけです。
その時も、この人がじっと私を見ているのに気付きます。あちらは4、5人でこちらは3人でしたが、なぜかこの人が私をじっと見ている。で、
「ムカイ?」「コガ?」と、お互い確認し合うまでは、まさかの半信半疑なわけです。見たことある顔だけど、そんなこたあないという気持ちの方が勝つんでしょうか。
私は例によってトシオさんの家に世話になってたんですが、この友人は結構大きな会社の社長をやっていて、部下たちと信州の休日を楽しんでいたようでした。
しかし、びっくりしました。これも確率ということで云えば、ほぼ起こり得ない話ですものね。
こんなことってあるんですねと云うことが、同じ露天風呂で3年間に2回起きたわけで、帰り道にトシオさんが、
「これもう一回あるかもよ。二度あることは三度あるっていうからね」と云いましたけど、
まさかね。でもちょっと、今度は誰かなと期待したりして。

Rotenburo

2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

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このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2024年1月16日 (火)

2024の年頭に思いますこと

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昨年は、一年中 ヨーロッパや中東での戦禍が伝えられ、日に日に戦況は過熱して、一向に和平への道が見えぬ暗い年になってしまいました。せめて来年は明るい良い年になってほしいと願い、かような呑気な年賀状を書いて、明けた2024年のお正月でしたが、元旦から北陸では大地震が起きて、その方面では本当に気の毒な状況に陥っています。北陸にいる友人知人には安否の確認をし、無事と判りましたが、これから極寒の時節に、いろいろに大変なことと思われます。犠牲になられた方々も多く、やりきれない気持ちです。お正月から神も仏もないものかと。

そのような新年に、私、気が付いてみれば、この世に生を受けて70回目の正月を迎えたわけで、ちょっとびっくりしているようなことなんですね。まあ、いろいろあったにせよ、ここまでたどり着いたことはありがたいことです。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから、家族や友人で祝ったそうで、そういう意味でもおめでとうと云うことみたいですが。
ただ、一休禅師の言葉に、こういうのがあります、有名ですけど。
「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
正月はめでたいけど、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無情をあえて正月に説いたのです。無情を知ることは命のはかなさを知ること、そして日々を大切に生きる者になると。この歳になると、そういう言葉がなんだかじわっと身近になります。

振り返ってみると、歳というのは10才ごとに節目を迎えるところがあります。まず10才になる時は、まだ子供だし、思ったこととかあんまり覚えてませんが、
20才の時は、大人になるんだぞみたいな事を、やたらとまわりからも云われ、自らも、嬉しいような嬉しくもないような、まあ10代後半からは、酒もタバコもやってたんだから、それなりに自覚してたんでしょうか。成人式とかもあるし。私、出なかったですけど。
30才というのは、もう自立はしていて、仕事も人並みにはやっていて、ちょっと生意気にもなりかけているけど、まだ青臭いところもあり、20代の時には、わりと早くに30才にはなりたいようなところがありましたかね。
30才から40才の時は、なんだかいろんなことが起こる時期で、肉体的にも、精神的にも、20代とはまた違った激しい変化がありましたね。ある意味面白いとも言えますが、わりとタフですよね。ということで、ハッと気がつくと40才になっちゃってた感じですか。気がつくと結婚もしていて二人目の子供が生まれたりしていました。そんなことで、あんまり感慨が無いというか、あっちゅうまに通り過ぎたみたいなことです。40才って。
ただ、よくわからないけど50才になることは、ずいぶんと嫌だったんですね、先輩たちもけっこう嫌がっていて、自分が50才になる時になって、その意味や気持ちがわかったんです。自分の大事な何かを失うような、どうしてもその線を越えたくないような、妙に往生際悪くジタバタしてましたね。そういう意味では一番節目を感じたのかもしれませんが。

Tatsu



60才はですね、逆にもう諦めついた気分でしたわ。周りからは還暦とかいろいろ云われるんですけど、あんまり気にもせず、それほど気にもされず、わりと我関せずでしたか、ちゃっかりお祝いなんかは遠慮しませんでしたし、まあ、たんたんとなっちゃったみたいなことでした。
そして、いよいよ70才ということなんですが、完全に未知の領域というか、若い頃から60才までは一応想像がついていたとこがあったんですけど、もちろん生きていればの話として、70才の自分というのがどんなことになってるのか全くイメージがなかったんですね。
60代というのは、なんとなく自覚なく過ぎていきまして、うっかり油断してたら70才を迎えるところに来てしまいました。ここから先は日々想像を超えていくわけで、一日一日を大切にせねばと、殊勝な気持ちになっております。
これからますます経年劣化もしてまいりますし、より強いハートで、のびのび童心に帰って、愛されるジジイを目指そうかという所存です。

本年も、先輩のみなさま、後輩の方々、
今までにも増して、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

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「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

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お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年8月 9日 (水)

薄情のすすめ その2

この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。

Shinsengumi



思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。

やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。

Toshizo

2023年6月23日 (金)

日本全国に新一年生は200万人いたのだ

この前、書いたテレビの番組のことなんですが、その番組を見ていて、なんとなく自分も昔これと似たような仕事をしていたなと思ったのですね。それはテレビのCMの仕事だったんですが、「小学一年生」という学習雑誌のコマーシャルで、“ピッカピカの一年生”と云えば、覚えてる方もいるかもしれません。
1978年に始まって、ずいぶん続いた広告キャンペーンでして、私はかけだしのADの時から約10年、途中からディレクターもやって、プロデューサーもやって、その仕事に長く関わりました。
今もそうですけど、毎年4月には日本中の6歳児が一斉に小学校に入学するわけで、それはそれは世の中じゅう祝福ムードになるんですけど、その春に向けて、その子たちにテレビでメッセージを言ってもらいましょう、という企画です。
その頃、今度小学校に入学する子供達は、全国に200万人もいたんですが、私たちは北は北海道から南は沖縄まで、毎年、秋から春にかけて日本中走り回って、本物の新一年生を取材しておりました。
当時テレビのCMというのは、商品や出演者などをいかに美しくクオリティーの高い映像で撮るかということが最重要であり、必ず35m/mの映画用のフィルムで撮影しておりまして、1カット1カット、用意、スタート、アクション、はいカット、はいもう一回、みたいな撮り方をしてたんですね。でも、この一年生の仕事は、えんえんとビデオ回して収録するやり方で、画もテレビのニュースのような画質だし、多分にドキュメント的なタッチで、明らかに他のCMとは違ったCMになってました。
というようなことで、このコマーシャルで最も大事なことは、登場する子供達の嘘臭くない本物のリアルな存在感ということでした。ただ、云うのは簡単だけど、実際にどうやって撮影したら良いのだろうか、というところからこの仕事はスタートするんですね。このキャンペーンを企画したのは、この出版社の宣伝部の若い人、広告会社の若い人たちで、あんまり6歳児をわかってる人がいなかったんです。もちろん、私もそうでしたし。
あの時代、いろいろなモノの作り方も、今と違ってかなりアナログではありまして、このコマーシャルも、まずどのあたりに暮らしてる子供を撮りたいかを決めたら、まずそこに行ってみてウロウロしてみる。全国の小学校の名前と所在地と児童数が載っているリストがあって、それを見ながら、どの町や村にどんな学校があるか探ってみる。たとえばこの小学校に来年入学する子どもたちはどこにいるか。たいてい、そのあたりの保育園か幼稚園にいるはずだから、そこを訪ねて行ってみる。そこで今度一年生になる子に会わせてもらって、いろいろ接してみる。それを何ヶ所も繰り返して1週間くらい、場合によっってはもうちょいとかかることもあるけど、そうやって集めた小学校と子供達の写真を見ながら、今回の収録をどちらの学校と、そこに行くどの子供達でさせていただくかを決めて、お願いに上がり、それから何日か後に、実際にVTRとカメラとスタッフを連れて行って撮影をするわけです。
たいていの場合、今度入学する小学校の前で、カメラに向かって一人一人コメントを言ってもらうのだけれど、6歳の子供が入学に向けて自分で考えた気の利いた一言とか言えるわけもなく、そもそも、15秒のコマーシャルで4秒の商品カットがあり、3.5秒のサウンドロゴもあって、約7秒で収まるちょうど良いコメントとか、なかなか難しいんです。
そこで、前もってたくさんの言葉を考えておきます。
「こんど〇〇小学校に行く、〇〇〇〇です。よろしく!」
「学校行ったら、給食いっぱい食べるぞお。」
「一年生になっても、〇〇ちゃん仲良くしてね。」     
「おばあちゃん、ランドセルありがとう。」
「体育がんばるぞお、鉄棒がんばるぞお!」
「〇〇小学校の校長先生、よろしくお願いします。」
とかとかいろいろですけど、そこでテレビに向かって何を言うのかを一人一人と相談して決めていきます。できるだけその子の喋り方で、方言とかもあらかじめ調べておいたりして、その子が言いたいことを、できるだけ自然に収録できるようにトライするんです。
ただ、相手は役者さんやタレントさんとかじゃなくて、普通にどこにでもいる子供達なんで、やってるうちに飽きちゃったり、忘れちゃったり、眠くなったり、妙に興奮しちゃったり、いわゆるアクシデントもあって、どうにかこうにかいろんなタイプのテイクを拾っていくわけです。
そうやって回し続けたVTRを東京に持ち帰り、15秒サイズのCMに編集したものを何タイプか作って、試写をやって放送するタイプを決めていきます。
このコマーシャルは、この学習雑誌の発売日の告知CMでしたから、それほど出稿量が多いわけではなかったのですが、入学の時期が近づくとテレビで流れることになる、ある意味お馴染みのCMで、何かと話題になることが多いコマーシャルでしたので、子供達からすれば自分たちが関わったものが、ある時期テレビから流れるというのも、なんとも不思議な体験だったでしょうし、少なからず彼らの暮らしにも何らかの影響を与えたと思います。良い影響であればよかったですが。
なんだか、ある日突然、自分たちのエリアに、普段見かけないオジサンたちが、遠くの街からカメラかなんか持ってやって来て、一日付き合ってあげて面白かったけど、なんか人騒がせな人たちだったな、みたいなこと思ってるんじゃないだろうか。
当時、自分にとってあの子供たちというのは、まさに宇宙人みたいな存在で、すごくいろんなことを感じさせてくれ、想像してなかった多くのこと、教えてもらいました。今となっては、あの10年、ほんとにいろんな場所に行って、そこでたくさんの人たちに出会った、とても懐かしい仕事です。
ただ、今の時代、あんな風に思いついた時に、突然訪ねて行ったところで、急に取材させてもらって、撮影に来るような仕事のやり方は、今は絶対に無理だと思いますけど。

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2023年4月25日 (火)

ちょっと気になったテレビの番組のこと

この数年というもの、いろんな理由で家にいる時間が増えておりまして、ほとんど家にいなかった昔のことを思えば、格段の在宅時間になっております。
そんなことで、ただ意味もなくついているテレビを見てる時間もあって、初めて見る番組とかCMなんかも、よく見かけるんですが、つくづくテレビというものは、つまらなくなったなと思うんですね。ただこれは総論というよりは、極めて個人的な感想でして、日々一所懸命にテレビの仕事をされてる方に、とやかく云うつもりもなく、テレビが始まった頃の、あの何やっても面白かった時代とはもちろん違いますし、あくまで私自身の尺度でしかありませんが。
たいていのテレビのコンテンツに既視感があるというか、何見ても、これ見たことあるなという感覚ですね。考えてみると、この国でテレビの放送が始まった頃に生まれて、何10年もテレビ観てきましたから、当然といえば当然なんですけどね。
そんな中で、たまたま偶然見ていて、見始めるとついつい最後まで見入ってしまう番組があったんですね。正確な放送時間なんかも、よく知らなかったりするんですけど、わりとこの時期、偶然何本かを見たんです。
番組名は、NHKの「ドキュメント72時間」と云います。
たぶん何年も前から続いている番組なんでしょうけど、日本中のいろんな場所にカメラを置いて、72時間。そこに現れる人々や風景を撮り続けて、30分に繋いだドキュメントです。そう言ってしまえば、それだけなんだけど、その30分についつい引き込まれてしまう力があるんです。
場所は、その都度さまざまで、たとえば、どこかのラーメンの屋台とか、街道の24時間営業のドライブイン、北海道のはずれの雪に埋もれたコンビニ、高速バスターミナル、資格試験の予備校、真冬の山小屋、奄美のFMラジオ局、この前は国内だけじゃなく、アフガニスタンのとある食堂、等々なんですけど、そこに現れる人たちを実にていねいに撮ってるんです。

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そういった場所の3日間なんですが、そこにいる人にとっては日常なんだけど、それぞれ聞いてみると、一人一人、全く別々の背景や事情があって、ついつい聞き入ってしまうようにできてるんですね。
テレビ見てる方としては、通りすがりのいろんな人の話をふんふんと聞いてる感じなんだけど、元気のいい人もいれば、静かな人もいるし、面白い話もあれば、けっこう切ない話もあって、なるほどなということも、しみじみしたり、しんみりしたりすることもあって、ついつい30分がすぐに過ぎてしまうのですね。
考えてみると、こういう番組作るのって、NHKさんは昔から得意なんですよね。全国各地に支局があるし、各地方に向けた地元のドキュメント番組とか、よく制作されていますから。見てるとディレクターの取材の仕方とかも上手だし、技術スタッフも手際がよくて、うまいなと思います。
それに、民放の番組みたいに、視聴率がどうしたこうしたみたいな、面倒くさいこともあんまりなさそうな番組のようにも思います。
大体それほど肩に力入ってなくて、たんたんとしたタッチだけど、話されてるどうってことない一言一言には、妙にリアリティがあって、なんだか人生って、こういう小さなかけらの積み重ねかなって思ったりするんですね。こっちも年取ったせいかもしれんけど。
いずれにしても、WBCやワールドカップ以外で、あんまりちゃんと見ることのなくなっていたテレビで、ちょっと気に掛かった番組ではありました。
ちゃんとオンエア時間をチェックして、次も観なくちゃ。

2023年1月30日 (月)

わが街映画館との長い付き合い

この何年か、コロナの影響で、映画館で映画を観るということが極端に減っていますが、先日その合間に、必ず観ようと決めていた「スラムダンク」を、大きなスクリーンで鑑賞することができたんです。で、家に帰って家族に話していたら、なんかもう一回観たくなって、数日後、私としては珍しく、奥さんと娘と三人で、休日のドルビーステレオ大画面のプレミアムシートで観てしまいまして、原作・脚本・監督の井上雄彦さんの全く妥協のない姿勢に改めて感動しつつ、我が家は3人とも大満足して帰ってきたんですね。
そこで、昔の映画館とは勝手が違ってきてはいるけど、やっぱり映画館で映画見るのは良いもんだなと、つくづく思ったんです。考えてみると、この場所は大げさに言えば、私の人生の節目節目にいろんな指針を与えてくれた場所でもあります。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、ハラハラしたり、セイセイしたり、ポロポロ涙したり、ムラムラと怒りを覚えたり、誰かに憧れたり、誰かを思ったり、過去を振り返ったり、未来を空想したり、異国の風景や文化に触れたり、この闇の中で実にさまざまなことを教えてもらってきました。
この空間が、この先どのように進化して行くのかわからないですが、個人的には物心ついてからここまでは、長い付き合いになります。
子供の頃、街を歩いていれば、あちこちに映画のポスターが貼ってあり、どの街にもいろんな映画館があって、遠くからでもわかるような大きな看板が掲げてありました。その場所に一人で入るようになったのは、15歳くらいからでしょうか、その頃は広島に住んでいましたが、邦画も洋画も、実にたくさんの映画館が、まだありましたね。

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高校の時は、あんまり勉強もしないで部活もしないで、放課後はわりと1人で映画館にいることが多かった気がします。ロードショウは料金も高くてしょっちゅうはいけないんですが、いわゆる封切館じゃなくて二番館もあって、いつだったかちょっと前にアメリカで大ヒットした「卒業」が掛かっていて、その併映が、「ウエストサイドストーリー」だったりして、地方ならではの不思議な贅沢を味わえたりしてました。片や低予算の佳作でニューシネマと云われた新感覚の話題作、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスとアン・バンクロフトの三人で持たせてる映画、片や1961年に公開され、語り継がれたミュージカルの超大作は、この時点でも全く古びていない名作でした。いやこの二本立てには痺れましたね。
それからしばらくして、東京に出てくるんですけど、驚いたのは映画館がやっぱりデカくて立派なことで、どの繁華街にもそれなりの規模の映写環境が充実しておりました。それに加えて、いわゆる名画座が実にたくさんあって、これは嬉しかったです。ちょうどその頃、雑誌「ぴあ」が創刊されたんで、東京中の映画館に掛かっている映画は、これ見れば全てわかったんですね。レンタルビデオ屋も何もない頃、たくさんの映画を観れることに関して、やはりこの街は1番でした。
久しぶりに大きなスクリーンで映画鑑賞して思いましたが、やっぱり良い映画は映画館でみなきゃダメですよね。うっかりつまらないのを観てしまって失敗することもあるけど、すんばらしい映画をビデオや配信で観ちゃった時には、あーこれは映画館で観りゃよかったなあー、などと嘆くこともあります。
ともかく「スラムダンク」には、私、すっかり参ってしまったわけでして、これは必ず映画館で見るべき映画です。
井上雄彦さんが原作者として素晴らしい作家であることは、よおくわかっていることではあるのですが、今回、映画監督としての井上さんは、歴代の名監督たちに比べても全く引けを取らぬ、黒澤さんやスピルバークさんに匹敵する仕事されたと思いました。
映画監督としてやるべき仕事は本当に山のようにありますが、脚本の構成からカット割り、キャスティング、演技指導、撮影のアングル設定、キャメラオペレーション、照明、編集、効果音、音楽制作、録音、膨大なスタッフへの仕事の割り振りと指示、そういう何もかもをディレクションと云いますが、そのどれをとっても、ものすごい集中力を感じる映画でした。
今回、プレミアムシートは初めての経験でして、確かにプレミアムで快適だったんですが、「スラムダンク」はしっかり泣ける映画でもありまして、泣けた時には隣と仕切りがあるので、しみじみ泣けるのもありがたかったですわ。

2023年1月12日 (木)

2023年のお正月

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2023年も、明けましておめでとうございます。
今年は、なんだかゆっくりと年が明けたような気がしましたが、それは多分、個人的な印象と思いますけど。
コロナのせいでもありますが、年末年始も、ほとんどどこにも出かけず、ずっとうちでゴロゴロしてましたし、主婦である妻は忙しくしておりましたが、私に手伝えることは限られており、まあ、窓ガラスを拭くことと、うちのおせちの定番の牛肉焼きと卵だし巻きを、焼くくらいでして、大阪で暮らしている息子も帰ってきて、久しぶりに家族4人で寝正月を決め込んでおりましたもんですから、暮れから正月にかけては、ずいぶんのんびりと過ごせたんです。
かつて年末といえば、実家に帰省するのが常でしたから、混み混みの新幹線に家族でのりこんで慌ただしく移動していたもので、それも今や懐かしい思い出です。
それに、12月といえば忘年会、1月といえば新年会と、何かと人が集まったもんですが、コロナ以降、それもずいぶんなくなりました。なんとなく、そういうことも含めて、世の中が少し静かになっているわけで、それもただ悪いことじゃないけど、そもそも機会を見つけて、久方ぶりにお会いしたい人もいますよね。
そんな三ヶ日も過ぎた頃に、広尾に住んでらっしゃる先輩のお宅に、大好きな先輩たちが集まって鰤しゃぶするから来ないかと誘っていただき、そりゃ大喜びで向かったわけです。ご時世でもあり多少人数は抑えめでしたが、それはやはり心躍る集いではあります。
そこで、ルンルンと広尾のお宅に向かったんですが、その日は、例の渋谷の山手線ホームが大工事の日でして、電車が止まっていたんですね。まあそれはわかってたんですが、うちの娘が渋谷から恵比寿くらいなら歩けばいいじゃんと云いましたし、確かにそうだなと思って、ついでに渋谷駅と駅の周りを少し歩いて眺めてみるとですね、ちょっと見ぬ間に、いやずいぶんと変わってしまったなあ渋谷駅と、つくづく思ったんですわ。まあ今さらなんですが、ここしばらく通勤でもあんまり通ってなかったこともあったんですけど、毎日刻々と変化している街なのですね、ここは。
考えてみると、初めてこの街にやってきたのは、私が18歳でしたから、50年前ということになりまして、、えっ! 50年。
確かに思い起こしてみると、今とはずいぶん違った風景です。当時、東京で暮らし始めた頃、一番近くにあった大きな繁華街はこの街でしたから、映画見るのも、何か買い物するのも、安酒飲むのも、パチンコ屋も場外馬券売り場もあったし、何かと言えばウロウロしてたわけで、そもそもほとんどお金も持ってなかったから、ただの暇つぶしも含めて何かといえばここにいることは多かったんですね。どっか遠くの町に行くときにも、この駅が乗り換え基地でしたし、あの頃の渋谷駅の風景は、私の記憶に染み込んでいます。
そこから現在までの50年間、渋谷駅は、刻々と風景も機能も変化してきたわけです。
ただ、最も最近の大きな変貌には、あんまりついていけてなかった気がしたのですね、駅の周辺をひと回りしてみて。
恵比寿まで歩きながら、軽い浦島太郎状態になり、ちょっと眩暈してショック受けましたが、日比谷線に一駅乗って広尾について、この街はあんまり変わってなくて、その後のブリシャブに救われたお正月の一日だったのです。

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2022年11月28日 (月)

神戸っ子

神戸という街には、昔住んでいたことがありまして、いつ頃かというと、生まれてから物心のつく5歳までと、8歳から12歳までの小学生時代で、ここには遠い記憶がたくさん詰まっております。なので、どこの育ちかと問われれば“神戸っ子です“と言えるくらいではあるんですね。
ウチの先祖は広島の海沿いの町の出で、牡蠣と船の仕事をしておりまして、どうも明治期に神戸で牡蠣を食べさせる店を始めたようで、そのせいか、祖父と叔父が神戸の中山手通というところで、かき料理店をやってたんです。父は神戸にある造船会社のサラリーマンをしており、途中東京に転勤したりしましたが、私は中学に入るくらいまでは、この街で育ったんですね。
住んでいたのは、異人館通りで有名な北野町をちょっと下った山本通というところで、一軒家を親戚の一家とうちの家族で借りておりました。そういう土地柄なので、まわりには結構外国の人たちが住んでいて、ヨーロッパの人、アメリカの人、インド、チャイナ、コーリアと、いろんな国の人が暮らしているところでした。うちの家の前は、かつて台湾人の成功者が建てた豪邸でしたが、何故かラブホテルになってしまいました。
神戸は東西に細長い街で、南北の道は海から山に向かってる坂道が何本もあって、坂を登って振り返るといろんなふうに港や船が見えます。この街で暮らしていると、いつも坂道と港があって、それは、なかなかに魅力的な風景でした。
遠い記憶を辿ると、そういった景色がいくつも浮かびます。住んでいた家も学校も、祖父の店も、みんな坂道の途中にありました。祖父のやっていた料理屋というのが、牡蠣の専門店で、あの当時、冷蔵技術も低くて、夏には牡蠣を食べませんでしたから、この店は夏は閉めてしまいまして、毎年10月から翌年の3月までだけ開店します。そのかわり、その間は正月三ヶ日以外は一切休まないんですね。いつも大忙しで、結構たくさんの板前さんや中居さんがフルに働いていました。もともと広島から出てきた店なので、広島から季節労働で泊まり込みで来ている人たちも多くて、うちの母も含めて親戚の人たちもたくさん働いていて、店は広島の言葉と神戸の言葉が入り乱れて、不思議な活気に溢れていました。身内ですから、その頃さんざん牡蠣を食べさせられまして、特にカキフライですが、まあそれは1番の人気メニューでもあり、おいしいんですけど、食べ過ぎてその後あんまり好きじゃなくなった時期がありました。今はまた大好きなんですけどね。
そういうことで、神戸のことを思い出すと、子供の頃、可愛がってくれた祖父や祖母やオジサンやオバサン、お店の人たちと、冬中忙しかったあの店と、坂道の景色が浮かびます。
そのあと、中学からは広島に引っ越してしまったんですが、神戸の街は変わらずでした。
そして、長い時間のうちに、祖父母も亡くなり、1995年にあの阪神大震災が起きます。街は傷みつけられ、あの懐かしい風景は一度壊れてしまいました。あのお店は、震災の前年に長く続けた商いを終えて、店を畳んでいたので関係者に怪我などはなかったんですが、神戸でお世話になった人たちは、色々とダメージを受けました。とても大きな災害でしたから。
それからまた随分と時間が経ちました。あの頃、私と同じように子供だった身内が同じような年齢になって暮らしていますが、新神戸の駅は何度も通過しましたが、なかなか降りることはありません。
街の形は変わっても、坂道と港の風景は、今もあるんでしょうね。
今度、行ってみようかと、思っています。

Kobe

2022年11月 1日 (火)

ラーメンといえば最寄りのたんたん亭

前回に続いて食べもの屋さんの話です。これも、どの街にもと云うか、人の住んでるところには、探せば必ずあるのが、ラーメン屋さんでして、この国の人たちはほんとにラーメン好きです。
子供の頃から、この食べ物はいつも身の回りにあったし、東京でも、覚えてる限り何度もラーメンブームというのがあって、その都度、店の数も増えていったと思います。
昔は、よく夜中まで飲んだくれていて、最後にラーメンで腹ごしらえして仕上げというパターンで、毎晩どっかの飲み屋街の片隅や、屋台で、ズルズルワシワシいただいておりました。これは昼に食べることもあって、いったい今まで何杯のラーメン食べたんだろうかと思います。
僕らの若い頃は、九州に行けばあたり前だった豚骨味が一気に全国区になって、トンコツコッテリラーメンはかなり主流になりましたが、札幌を基点にした北海道系、みそ味、塩味、しょうゆ味も、全国にファンを増やしております。まあ、いずれにしても、そのお店によっていろんなタイプの味があって、それを支持するファたちが、そのラーメン屋をささえていると云う構造になってるんですね。
そんな中、若い時は、こってりスタミナ系を深夜に食していたんですけど、年齢を重ねて来ますと、あんまりくどいのは敬遠しがちになりまして、コロナ禍以降、夜中の繁華街にもあまり行かないこともあり、最近は、もっぱら最寄りの駅前にある「支那そばたんたん亭」と云う、ジャンルで云えば東京風ラーメンなんでしょうか、ともかくラーメンといえば、ここさえあれば満足という状態です。
ラーメンを語りますと、もちろん十人十色ですし、人によって好みも背景も違うんですけど、私、こちらのラーメンは個人的に東京一押しであります。付き合いも長くてですね、この街に越してきた1989年からですから、30年以上になります。当時、この街に住み始めたという話を、仕事の先輩のAZさんにしていたら、彼が急に座り直して、
「その駅を降りて右に行くとすぐに、たんたん亭という名の店がありますが、これは至極正しいラーメン店です。」と言われたんですね。
AZさんのおっしゃることは、日頃から食べ物に限らず何かにつけて信頼しておりますので、わりとすぐに行ってみたわけです。
いわゆる奇をてらったところのないオーソドックスなラーメンで、軽くちぢれた真っ直ぐ麺に、なんとも云えぬ深みのある醤油出汁スープに、シナチクと叉焼ときざみネギとのり一枚というシンプルさなんだが、それが非常にバランスのとれた一品となっておるのですね。この基本型にワンタンを載せたワンタンメンは人気のメニューのようで、それを頼んでる人がわりといます。ワンタンは、肉ワンタンとエビワンタンがあり、その両方が入っているミックスワンタンメンというのが、この店のちょっとした贅沢な喜びのようです。
チャーシューメンにそのミックスワンタンを載せた、チャーシューミックスワンタンメンというのが、このお店でできる最も豪華なメニューで、私はまだやってませんが、いつだったか隣の席で近くに住む編集者の石川次郎さんが食べておられるのを横から見たことがあります。
メニューといえば、それ以外は煮たまごと餃子とビールくらいなものです。席はカウンターだけで10席くらいのものですから、店の前によく人が並んでいますが、ここも長居する人はいませんから、ちょっと待ってればすぐにありつけます。
そういえば、初めてこの店に来た時に、ラーメン作ってる職人さんから、来月でこの店は閉めるんだと言われて、すごくうまかった分、かなり残念がってたんですけど、その2人の職人さんは、1人は目黒で、1人は調布で、ほぼ同じメニューの店を始められて、そのどちらの店にも後になって行ってますが、結局原点である浜田山「たんたん亭」は、閉店することなくクオリティを保ちながら、今も存在してまして、ほんとに助かっております。
ともかく、このラーメンという食べ物は、長い歴史の中で多くの人たちの手で多くの人たちに食べる楽しみを送り続けて、どの土地にも街にも根付いていまして、若い頃は旅の途中に全国の港、港でいろんな出会いがありましたが、今、自分にとっての故郷みたいなラーメンというのは、たんたん亭のこの味なんだなと思う、今日この頃なんです。

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2022年10月 7日 (金)

焼き鳥といえば渋谷森本

物心が付いてからというもの、ずっと呑兵衛(のんべえ)でありまして、閑さえあればどっかで飲んでるような人で、どなたかから「ちょっと行く?」などと誘われてお断りしたこともなく、そりゃあこちらからお誘いすることも多々ありまして、また、お相手がいなきゃ、一人は一人でもいいもんで、その都度、酒を飲ませてくれる店を探して入っていくわけです。
そういう時、どの街でもすぐに見つかるのが焼き鳥屋です。縄暖簾かなんかをくぐって入ると、たいていカウンター席とちょっとしたテーブル席があって、カウンターの向こう側では、炭火かガス台でもうもうと煙を上げて焼き鳥が焼かれているわけです。その臭いは換気扇で店の外にあふれ、また新たな客を呼び込んでいるんですね。
それと、若い頃はなおさらなんですが、あんまり懐中(ふところ)の心配をしなくて良く、たまに高級店なんかもあるんですが、鮨屋ほどじゃないし、串1本いくらって書いてありますから、飲みながらでもだいたい勘定の見当もつくわけですよ。
そうしてみると、今までどんくらいの数の焼き鳥屋に行ったんだろうか、串は何本食べたんだろうか、その時に飲んだビールや日本酒やチューハイやなんやかや、どんくらい飲んだんだろうかなどと思うんですが、あんまり考えてもしょうがないことではあります。
ここ何年かコロナのこともあり、あんまり街をぶらぶら歩いて飲み歩くことがなくなりましたが、時々、無性にその店の焼き鳥が食べたくなるのが「渋谷森本」なんですね。
ここに行き始めたのがいつだったか、昔すぎて忘れましたが、20代の頃、誰かに連れて行かれたか、偶然入ったか、とにかくうまい焼き鳥だなと思ったのは確かで、そのうち私が働いていた新橋の会社の近くに森本の支店ができた時期があって、そこにもよく行ったんですね。
つくね、ひな皮、ゴンボ、砂きも、血きも、はつ、若鶏ねぎま、相鴨、うずら、笹身、なんこつ、しそ巻、東京軍鶏、手羽先、どれも一級品でその味は全く変わっていません。新橋店は、そのうちになくなったんですけど、渋谷はずっと健在でいつも満席です。井の頭線の渋谷駅のホームからもすぐ下に見えるわかりやすい場所にあって、ここは昭和47年からだそうですが、渋谷での創業は昭和23年と云います。
営業時間は日曜祭日を除く、16:00〜22:00で、昔17:00からのこともありましたが、ともかく開店すれば、夕方早くから、森本ファンたちで店はすぐにいっぱいになります。たいして広くないし、そういう店なんで、まず大勢で行くことはしませんで、せいぜい2人か3人、むしろ1人で行くことが多いですね。たいてい渋谷で映画や芝居を観る前とかに立ち寄ることも多かったです。それと、たとえ満席でも、座ってる客の後ろの壁に張り付いて待っていると、そのうちに空いた席に入れてもらえます。だいたいこの店には長居する客がいませんね。焼き鳥とか、そう何十本も食べられるもんでもないし、注文した分を食べ終わって追加注文がなければ、すぐに店員が勘定しにやって来ます。
酒だけダラダラ飲んで用も無いのに長っ尻で居座るような奴は、この店の客にはおりません。食って飲んだら、とっとと去って行くのが客の流儀なんですね。そういうスピードで店が用意したネタはどんどん売れて行くので、ちょっと遅い時間になれば、売り切れるネタもあり、だから、この店に夜遅くに寄るなどということはしないのですね。
こういう世の中になってから、呑兵衛オヤジのヤキトリナイトもままならないですけど、渋谷で芝居を観たり、夕方その辺りにいることがあると、ついついお邪魔します。そこでおとなしく串の5〜6本も頂戴して、レモンサワーの2杯もいただけば、とっとと失礼いたしておるわけです。
いずれにしても、私が若い頃からずっと、そのハイクオリティな味を保ちつづけている驚くべき焼き鳥屋さんなんですね。
やはり、個人的ランキングでは東京一なわけですが、やがて世の中が落ち着いて元の状態に戻っていけば、またインバウンドでたくさんの外国の方が訪れるようになりますね。外国の方達はことのほか焼き鳥が好きですから。それはいいんですけど、まあ、これからも、時々、オジサンが機嫌よく至福の小一時間を過ごさせていただくことができれば、それで十分であります。

Morimoto

2022年7月26日 (火)

私的 東京・多摩川論

最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると きいた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 火をともす

何も思わずに 電車に飛び乗り
君の東京へと東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました

東京へはもう何度も 行きましたね
君の住む 美し都
東京へはもう何度も 行きましたね
君が咲く 花の都・・・・

「東京」という唄の一節なんですが、あんまり覚えてないんですけど、私が高校出て東京に出てきた時分に流行っていた曲で、その頃の、いわゆる地方から東京を見ている気分がわりと出てる曲と思います。調べてみると1974年のリリースで累計100万枚というから、けっこうヒットしたんですね。
この唄の記憶が色濃くあるのは、むしろそれから何年かあとに、仕事で知り合って仲良くなって深く付き合った友達が、カラオケでよく歌っていたからで、彼も私と同じ頃に東京に出てきた人で、札幌から上京した地方人でした。大学を出て、劇団の演出部に行ったけど、少しあとに出版社の宣伝部に入って、その時に知り合いました。大切な得難い友でしたが、それからしばらくして30代の半ばに不慮の事故で他界してしまいました。この唄を聴くと、なんだか彼のことを思い出すんですね。
今もそういうところがありますが、日本中の若者が、いろんな意味で東京を目指すという構図があった頃で、東京は当時の若者にとってかなり特別な場所でした。
個人的なことを云えば、広島の高校生だった自分は、地元の国立の大学を受験したんですが落ちて、たまたま国立大の合否発表の後に受験できる私立の大学が東京にあって、そこに受かったわけです。東京には子供の時に3年くらい住んでたことがあったけど、なんだかあんまりいい思い出がなくて、東京に行くことにはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、他に行く学校もなく、これも何かの縁だと思って出てきたんですね。地元の大学に行っていれば、学費も下宿代も余分にかからなかったから、親には迷惑をかけたんだけど、そういうことになったわけです。
しかし、考えてみると、それから今までの約50年間、ずっと東京で暮らすことになってしまって、子供時代の3年間を加えても、人生の8割方、東京の住人であることになります。
でも、あなたの出身地はどこですかと問われると、東京ですとは答えられないんですね。子供の頃住んでた神戸や広島がそうかもしれないけど、わりと定期的に転校していたし、一番長く住んでるのは東京ではあるんだけど、東京という地名に対しては、郷愁とかなくて、なんだかよくわからないけど一種の緊張感があります。
けっこう長い間、そういう感覚があったんですけど、たとえば西の方から新幹線に乗って帰ってくる時、多摩川を渡る時、さあここから東京だという時、心なしか緊張している自分がいます。この街に帰ってくるというより、入って行くということなのかも知れないけど、この街の風景が持っているスケールとか、底の見えない奥深さとか、いわゆる大都会の顔つきのせいでしょうか。
さすがにこれだけ長くここに住んでいれば、少し慣れたところもあって親しみもありますが、たぶん東京出身の友人とは、ちょっと違うところがあって、それは10代の終わり頃に、どこかの川を渡ってこの街にやってきたことじゃないかと思うんです。私の場合、多摩川なんですけど。
それで最初に住んだのが、多摩川の土手が見える場所でしたからよけいそうだと思うんです。そこから一番近い多摩川にかかってる橋は、丸子橋という橋で、近くに巨人軍のグランドがあったりしました。その橋と並んで東海道新幹線が走ってましたから、新幹線からも丸子橋はよく見えるんです。
そこで暮らし始めた年の秋から、「それぞれの秋」というテレビドラマの放送が始まったんですけど、そのタイトルバックの風景がまさにその丸子橋だったりして、個人的には馴染みの深い橋だったり川だったりしたんですね。
このドラマの脚本は山田太一さんでしたが、非常に新しくて面白いドラマでした。山田さんのドラマはこの界隈を舞台にされてることが多くて、そののち、1977年には「岸辺のアルバム」が放送されますが、多摩川が決壊して、主人公一家のマイホームが川に流されてしまうシーンは、ドラマ史に残る有名なシーンです。
それから、1983年に放送された「ふぞろいの林檎たち」は、多摩川堤の私が通っていた名も無い私立工業大学がドラマの舞台になっておりまして、テレビを見ると母校でロケがされていたので、間違いなくそうなんですが、脚本を買って読むとまさに私の大学がモデルになってることがよくわかりました。その学校に通う若者たちが主人公の群像劇で、彼らの挫折や鬱屈や友情や成長が描かれています。このドラマはその後シリーズ化もされた名作ですが、個人的には、不思議と自分の多摩川の青春とダブるのですね。

さて、今はどんなことなんでしょうか。
東京はいっときとして同じ姿をしていませんが、この街の大都会ならではの魅力は変わらず、その豊かさも華やかさも、片やその胡散臭さも含めて人を惹きつけますよね。
今もまた、多くの若者が、どこかの川を渡ってやって来てるのでしょうかね。

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2022年6月 2日 (木)

もう、オカダさんには叱ってもらえないんだ

世の中には、もしもこの人に会ってなかったら、自分は今この場所にいないだろうなと思う人がいまして、22才の時に、世の中へ出て働き始めたその会社で、最初にお会いしたのが、その岡田高治さんでありました。
このところ体調を崩されてもおり、もう2年ほどお会いしておりませんでしたが、残念なことに、先日訃報が届きまして、お通夜に参りました。享年81歳とのことでした。
えらく世話になりましたが、なんの恩返しもしておらず、ちょっと、こたえております。
そもそもなんでその会社に行ったか、話せば長いんですが、私、大学4年の時に一切の就活をせずに、卒業が決まってしまい、春になって、さてどうしようかと思っていた時に、一緒に卒論をやってた仲間から、だいぶ上の大学の先輩でCMの音楽を作っている会社をやっている人がいるから会ってみろと云われて、わらにもすがる気で会いに行ったんですけど、その頃、なんのビジョンもないヒドイ若造でしたから、その先輩からこっぴどく叱られて、みっちり説教されて帰されたんですね。そんなことも忘れかけてた矢先、思えばその先輩は厳しいけどいい方でして、ちょっと会わせたい人がいるので、いついつ西新橋の「ガーコ」という喫茶店まで来い、という連絡をくださったのです。
新橋のビルの裏手のすごくゴチャゴチャした通りの、ものすごく小さな店でしたが、そこでハイライト吸いながら一言もしゃべらずに、その先輩の話を聞いていたのが、オカダさんでした。その先輩とオカダさんとは仕事仲間みたいでしたが、とにかく、ここにすわっている若造が、いかにダメな奴かという話を、ずっと先輩がしていたのを覚えてまして、最後に、
「で、コーちゃん、こいつに使い走りでも何でもいいから仕事させてみてくれる? ま、役に立たないと思うけど、ダメならすぐクビにしてもらっていいから」という話でした。
オカダさんが、おもむろに、天知茂みたいにハイライト消しながら、
「おまえ、徹夜したことはあるか?」と、聞かれたんで、
「大学の課題で、設計図面を書くのに3日3晩、寝なかったことがあります」
と、ちょっと自慢げに答えましたところ、初めてオカダさんは、かすかに笑って、
「3日か、図面を書くのはずっとすわってるだろ、俺たちの仕事は、ずっと走り回って3日くらい寝ないことは、しょっちゅうなんだよお。」と、一喝されました。
この会社は、社員30人弱の小さなCM制作会社でしたが、オカダさんは、上から3番目にえらい人で、常務取締役プロデューサーで制作部長でした。
考えてみると、当時私が22才だとすると、オカダさんは36才ということになるんですが、いや、もっと大人に見えましたね。ビシッとスーツ着てたし、ほぼ笑わなかったし、静かに話します。ちょっと怒った時は、少し声がデカくなりますが、その時は江戸っ子べらんめえになるんですね。
この高治さんという名はタカハルと読むんですけど、通り名はコージさんで、親しい人はコーちゃんと呼びました。もちろん、私は一度もそう呼んだことはないですが。
渾名(あだな)で「マムシのコージ」と、陰口をたたく人もいて、そこはかとなく毒があるという意味だったのでしょうか
この会社の人たちは、今思えば、皆さん優秀でしたし、新しく来た奴に対しては、こいつをどうにか使えるようにしてやろうという厳しさと優しさがあって、私はあまり役に立たないまま、どうにかここに居場所を見つけて働き始めました。3日3晩、寝ないで走り回る仕事というのも何回か経験しまして、いろいろ教えてもらいながら、徐々に仕事も覚えましたが、オカダさんはいつも厳しくて、時々小さな喫茶店に呼び出されて、シボられておりまして、今思えば教育的指導だったのでしょうが、これはなかなか苦手で、しばらく私にとって、天敵ではあったのですね。
そのうち、クビになりそうな失敗もしましたが、なんとなくずっとやってるうちに、仕事も面白くなってきて、気がつくと会社はものすごく忙しくなっていました。4年もすると後輩もできておりまして、ようやく周囲からもあてにされるようになってくるんですが、こうなってくると、人間が浅はかですから、生意気にもなってきて、またオカダさんを怒らせたりもするんですね。
ずっとそういう関係でしたけど、さすがに10年もすると慣れてきて、オカダさんがなんだか、ただ機嫌よかったりすると、調子出なかったりしていました。
ちょうどその頃、33才くらいの時ですが、個人的には大きな人生の転機がやってくるんですね。数人の仲間と小さな会社を作って独立することになったんですが、新しく会社を作るといっても、もといた会社とは同業の他社ですから、後々はライバル会社になるべく頑張るわけでして、いわゆる一緒にやってきた仲間とは袂を分つということなんです。
すでに30年も前のことになりますが、その会社は、おかげさまでどうにかここまで自分達のスタイルでやることができています。もといた会社は、その後、業界大手の大会社に成長して、オカダさんは社長になられ、やがて会長になられ引退されます。
やってみるとわかるのですが、会社をやるというのは、結構面倒くさいことも多くて、いろんな難問にぶち当たることがあって、中には経験者に相談したいこともあります。そういう時、つくづく図々しい奴と思うのですが、同業他社の大先輩のオカダさんに相談したりしちゃうのですね。
連絡して相談しますと、オカダさんはすぐに会ってくださいます。嫌味の一つも言わず、言ってみれば、昔、後ろ足で砂かけて出てった奴に、的確なアドバイスをしてくださるわけです。ちょっと驚いたんですが、私が用意した席に来ていただく時に、今日は奢ってもらうからと言って、手土産まで準備しておられ、その手土産が、かなり苦労しないと手に入らないような有名な菓子折りだったりするんですね。なんか、自分が大事にしている人に会う時には、こういう気遣いをするんだぞと、私に教えてくれてるなと感じるんですわ、どうしても。

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若い時、本当によく怒られたけど、こっちが年食ってからは、優しい人でした。どうして、あんなに気にかけてくれたのだろうと、今も思います。
初めて会った時は、おっかなくて、インテリヤクザみたいな、ものすごい大人に見えたけど、実は14才しか違わなかったオカダさんとは、ちょっと不思議な得難い出会いでした。
晩年に、もうちょっとお会いしておきたかったけど、そういうもんでしょうか。恩というのは返せないものです。悔しいですが。
年取ると、叱ってくれる人は、確実に減るものですね。

2022年4月21日 (木)

SIXTH SENSEという映画を思い出した

この前、ハリウッドスターのブルース・ウィリスが失語症になって、映画の出演ができなくなリ、俳優を引退したというニュースに驚いたんですが、調べたら、この人が私と同い年だったもんで、わりとショックを受けたんですね。
ブルース・ウィリスをスターダムに押し上げたのは、1989年に公開された「ダイハード」でしたが、これが娯楽アクション映画として、非常によくできていて、世界的に大ヒットしました。「ダイハード」はシリーズ化もされ、その後コンスタントに彼の主演映画はたくさん作られ、とても全部は観れてませんが、個人的には「パルプ・フィクション」とか、好きな映画もいろいろあったんです。アクション映画のタフガイのイメージで、日本でもずっと人気のある人で、思えば色々なCMにも出演していて、それはごく最近まで続いていました。
そんな中で、1999年の映画「シックス・センス」は、彼の映画にしては、あんまりアクションのないシーンとした作品だったんですが、これはなかなかの名作でして、ずいぶん話題にもなりヒットしました。「シックス・センス」とは、直訳すると第六感ということになるのですが、人間の五感に次ぐ感覚で、映画の中では霊感を指しています。

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ブルース・ウィリス演じる、小児精神科医のマルコムの前に現れた少年コールは(これを演じている天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントがまた上手いんですけど)、死者が見えてしまう自身の第六感のことで悩んでいます。当初は幽霊の存在に懐疑的だったマルコムも、やがてコールの言葉を受け入れるようになり、死者がコールの前に現れる理由を共に探り始めます。この物語にはいくつかの展開の後、観客の予想しない意外な結末が待っているんですが、映画として実によくできていて最後まで引き込まれます。
監督のM・ナイト・シャマランの脚本も演出も見事で、この手の映画にありがちな観客を派手に怖がらせたり驚かせたりといった技法はほとんど使っていないんですけど、なんだかジワーっと静かに恐怖が忍び寄る映画になっているわけです。
この映画は、会社帰りに渋谷の映画館で、その日の最終回を観たんですが、自転車通勤で出社してた日で、映画が終わった後の寒い夜に、誰もいない真っ暗な世田谷・杉並あたりの裏道を自転車で走って帰るのが、えらく怖かったのを覚えています。
この映画は、たくさんあるブルース・ウィリスの仕事の中でも、記憶に残る名演だと思います。

シックス・センス(第六感)とは、ヒトに備わる、視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚という五感の次の感覚で、異様な直感力の意味で使われます。人にはそれぞれ、その人にしか感じられないこのような感覚があるのかもしれません。これらの感覚にはすごく個人差もあるし、時と場合によっても敏感だったり鈍感だったりしますが、いずれにしても生まれつき与えられた機能なんですね。
最近ではコロナウイルスの後遺症で味覚や臭覚に異常をきたす現象も起きましたが、感覚やその機能は、何らかの要因で強くなったり弱くなったり、また、失ったり再生したりします。ある感覚が弱まると、別の感覚が補うように鋭くなることもありますね。
そんなこと思いながら、ブルース・ウィリスという役者が、言葉を発するという能力を無くしてしまったということには、不思議な哀しさがありますが、なにか新しい感覚が目覚めるように、その機能が再生することに、期待しないわけにはいきません。

2022年3月13日 (日)

手書きの手紙

この前、年賀状のことを書いていて、ふと思ったんですけど、そういえば今は、昔に比べて手紙という手段をわりと使うようになっているわけで、まあ多くは、メールとかLINEとかのことなんですけど。
私たちが若かった頃はそういうものはなくてですね、何かを伝えたい時には、ともかく電話の時代でした。そんですべてが固定電話ですから、お互いが居る場所にかける、居なければ伝言を残してかけ直してもらったり、留守番電話に吹き込んだりしてましたが、それでも、いつ手元に届くかわからない葉書や手紙よりは、確実に用件が伝わっていたわけです。途中でFAXというものが登場して、これがなかなか便利だったんですけど、これに関しては、用件が相手に届いたかどうかが確認できないという弱点がありまして、まあ、電話の場合も、言った言わないということもあるんですけどね。
私、若い時にやっていた仕事が、テレビコマーシャルの制作進行でしたから、毎回かなりの数のスタッフに、たくさんのことを相談したり、連絡をしたりしなければならなくて、基本的には大人数のスタッフを一箇所に集めて打ち合わせするんですけど、そこでこぼれる話は、個々に会ったり、電話してフォローするんですね。そういうことを繰り返してますから、スキルとしては、ともかく相手を捕まえる能力と、話をする能力が鍛えられます。先方にこちらの意図を、ある精度でいかに短時間で伝えられるかを、いつも試されているわけです。
そういうことなんで、キャラとしては、なんだか妙にしゃべくり上手な芸風になっていくんですね。
ただ、この業界は、忙しい人はメチャクチャ忙しくて、そういう方とは、なかなかゆっくり打ち合わせもできないみたいな側面もありまして、お会いしたり電話する前に、あらかじめ伝えたいことを手紙にして届けておくということをするようになります。この手紙は、文面のわかりやすさと文字の読みやすさも大事な要素になり、これの良し悪しが、その後の打合せの精度に影響したりします。これは、こちらの頭をあらかじめ整理しておく意味でも有効なわけです。
手紙というのは、こちらが伝えたいことを、ある程度落ち着いて受け取ってもらえるツールだし、いろいろなニュアンスを織り込むこともできます。面と向かって熱く語りながら、早急にものごとを前に進めてゆくのも良いのですが、手紙を託したり、受け取ったりしながら意図を伝え合うのも、悪くないコミニュケーションではあります。
もっとも、ご存知のように今の時代、伝達のとっかかりはメールとかLINEとかですよね。まず話すんじゃなく、何らかの文を読んでもらうことからやりとりが始まる。全員スマホを持っていて、いつでも直接本人に電話はつながるんだけど、相手がすぐに話せる状況かどうかもわからないから、まずメールして要件を伝えることが多いですよね。急いでる時は、いきなり電話することもありだけど、まあいろいろコミュニケーションの選択肢も増えているわけです。隣の席なのにメールしてる人もいますよね。


それはそれとして、仕事に限らずですけど、たまに手書きの手紙をいただくと、なんだか嬉しい心持ちになりますね。例えば、尊敬する目上の方などから、達筆のていねいなお手紙いただいたりすると、ほんとに感激します。その方の筆跡に、それを書いておられる時の、空気感すら読み取れる気がするのですね。
そんなふうに感じているものですから、自分でも、何か気持ちを伝えたい時とかには、なるべく手書きの手紙を書くようにしておりまして、しかしながら、昔から字を書くのは下手くそで、なかなかの悪筆なものですから、多分、パソコンで打って印刷した方が、よほど体裁も良いのですけどね。

まあ、この歳になれば、これから鍛錬しても急に上手になる気もしませんし、字面というのはある意味個性だという話もあるし、これも味ということで、、、などと自己弁護しております、はい。

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2021年9月10日 (金)

オダギリさんの本

先日、本を一冊いただきまして、その本にすごく重要なことが書かれていて、個人的に実に響きましたもので、その話です。
『小田桐昭の「幸福なCM」。日本のテレビとCMは、なぜつまらなくなったのか』
という本です。
この本を書かれたオダギリさんは、言わばこの国の広告業界の巨人でして、私がこの仕事を始めた頃、1977年くらいですが、この世界では誰でもその名前を知っている人でした。
1938年のお生まれですから、今年83才。1961年にこの仕事を始められています。その頃、テレビの広告は生まれたばかりでして、それからオダギリさんは、今でも多くの人達が覚えている有名なキャンペーンを、たくさん手がけられました。それらの仕事の経緯も、この本にいろいろ紹介されています。
テレビというメディアが出現し、広告を含めた民放という仕組みが活況を呈していく中で、様々なテレビ広告が生まれて、その全盛期が描かれてますが、それと同時に、現在につながる長い時間の中で、その時代が失ったものや、変容してしまったものが語られてもおります。
「なぜつまらなくなったのか」というのは、その辺りのことです。
テレビCMができたあたりから今日までの間、常に第一線におられ、今も現役で仕事をされている方の、貴重な体験談でもあります。
本の中に、「日本のCMを育てたのは誰でしょう」という話が出てきます。
答えは、「お茶の間の人たち」なんですが、CMやテレビのエネルギーというのは、当時の新しい情報や表現を、何でも吸収してしまうお茶の間の人たちの欲望が生んだという話なんです。
この国の住居の真ん中にはお茶の間があって、ある時そこにテレビがやってきました。私もまさにそのお茶の間で育ちましたからよくわかりますが、お茶の間のテレビに対する好奇心は凄まじく、テレビ側もお茶の間が面白がって望むものは、なんでもやってみようという背景がありました。60年代に始まったこの現象はますます勢いを増して、この本に書かれている、70年代80年代の幸福なCMの仕事につながるのです。私も個人的にはなんとかギリギリその時代の後半に間に合ったCM人の一人ということになりますが。
それから様々に変化する世の中で、この業界にもいろんな時代がやってきます。そして今に至れば、その風景もずいぶん違ったものになりました。それが具体的にどんな風に変わっていったのか、この本を読むとよくわかります。
ただ、私がこの仕事を続けてこられたのは、ある意味あの幸福な時代に仕事に出会えたからじゃないかとも思っています。

考えてみると、オダギリさんは、この幸福なCM時代を象徴する方でして、世の中を動かすようなたくさんの良質な広告を発信し、またそのレベルをクリエーターとしても、マネージメントとしても、ここに至るまで守り続けてこられました。そのことは、本当に多くのこの業界の人達、後輩達が認めるところで、誰も異論を唱える人はいません。

思えば、広告業界のことなど何も知らず、全くひょんなことからこの世界の片隅で働くことになった私も、オダギリさんのお名前はよく聞きましたし、たくさんの名作のことも存じておりました。ある意味伝説になっている部分もあり、いろんなエピソードも一人歩きしています。一体どんな人なんだろうと想像を巡らせていたのですね。
北海道の利尻島の出身で、柔道の黒帯ですごい腕力で、蟹が大好物だからどんな蟹でも甲羅を手掴みで割って食べる人だとか、いつも穏やかな笑顔の人だけど、その眼だけは笑っていないとか、いろいろと尾ひれのついた話を聞くことになります。
そしてそれから何年かして、実物のご本人にお会いすることができたんです。オダギリさんの部下で私と同年代のN山さんが会わせてくださったんですが、確か酒席だったと思います。
これが尊敬するオダギリさんだと思うと、緊張したのを覚えておりますが、そのお話が深くて鋭くて痛快で、またすごく面白くて楽しい時間で酒も美味しくて、やはりただもんじゃない人なんだなと思ったんですね。
ご縁ができて、それから時々お会いする機会ができ、長きにわたって仲良くしていただいてるんですが、個人的には、そのことは、ほんとに嬉しいことなんです。

本の中でも触れられていますが、90年代に入って広告を取り巻く環境に、大きな変化が起こります。情報と技術の均一化が進み、商品の均一化も進んで、あんまり商品に差異がなくなったんですね。そうなると商品を選ぶ基準は、その会社が「良い会社」かどうかということが重要になります。いわゆる「ブランド」をどう作るかなんですね。この「良い会社」というのは人に例えるとわかりやすくて、いわゆる「いい人」なんです。
でも、一言で「いい人」と言っても難しいですね。正しくて真面目であることは当然大事なんですけど、ただ正しい話って退屈だし魅力ないですよね。 昔、大滝秀治さんが「お前の話はつまらん!」と怒鳴るキンチョーのCMがありましたけど、そういうことなんです。
ブランドを人格化したとき、求められるのはどんな人かなと考えると、困ったことを解決したい時に、相談したくなるような人かなと思うんですね。誠実で熱心で真剣で、懐が深くて、しぶとくて強くて、賢くて大人で、ユーモアのレベルの高い人、ただ真面目じゃなく遊びも知ってる人、、
いろいろ考えると、オダギリさんみたいな人になるんですが、
そんなオダギリさんから、夏にこの本をいただきました。


「立派な本ではありません。むしろ恥しい本です。
 若い人に向って書きました。お節介ですけど。
 読んでいただけると嬉しいです。」
という小さな手紙がついていました。

ほんとに若い人に読んでほしいです。

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読んでいて、たくさん心当たりがあって、反省もあって、
でもこうすべきだなということがあって、
幸福な仕事に出会うためのヒントに溢れています。
いや、響きましたもんで。

良書です。

 

 

2021年6月16日 (水)

一人遊び力

なるべく人に会わずにいること、と云うことは、基本的に一人でいて、間(ま)が持つ能力が問われているということです。
一昨年、こいう事態になった時に、わりと近くに住んでおられる、敬愛するAZ先輩と話していて、
「こうなって来ると、しばらくお会いできないということですかね。」と申した時、先輩は、
「僕はもともと一人っ子だし、昔から一人遊びは得意だから、特に問題ないけど」
と言われました。
そういえば、この方は、いつまで飲んでいてもずっと味わい深く、飽きることのない方ではありますが、逆に一人にしておいても、いつまでも一人で遊んでることができる人でもあります。
精巧なオモチャの銃を組み立てたり、分解したり、ニボシの内臓を取り出したり、自分で作った燃料コンロの炎をじっと見てたり、何か焼いたり、一人用キャンピング軽自動車で地の果てまで出かけたり、ま、いろいろですが、全く一人で飽きるということがありません。
確かにこれは才能ですね。
それでふと思ったのは、自分も一人っ子だし、中学の時に広島に転校してからは、高校まで部活もやらなかったし、あの頃、わりと一人遊びは得意だったなと。何してたわけじゃないけど、放課後は、街をブラついて映画見てることが多かったし、でなければ、自分の原付船で海に出てるか、五右衛門風呂沸かすのが役目だったから、薪割りと火付け番やったり、ラジオ聴いたり本読んだり、タバコ吸ったり、わりと毎日飽きないでいたかなと。
世の中がこういうふうになる前は、なんだかんだ毎日のように、いろんな人と会って飲んだりするのが生業(なりはひ)でもありましたが、今みたいなことになると、そうも云ってられないわけでして、その一人遊びが得意な性分が生かせないかと思ったんですね。で、やってみると、コロナに感染しないように一人でいる時間を組み立てることは、わりとできるもので、そんなに退屈もしないです。
前はやってなくて、最近やるようになったのは、朝起きてからの簡易ヨガと、週に2回くらいの10キロランニング。これは年齢のせいでもあるけど、動かないことで身体が硬くなってることへの対策と、ただ飲んで食ってることで無法状態になっている体重の調整の意味がありますが、これやってみると奥は深いんですね。
それと、このところトライしてるのが、毎晩飲んでいた酒を二日に一回にすることで、これは個人的には画期的なことなんですけど、やってみると意外にできてまして、ほら、酒って誰かと盛り上がるんでつい飲んじゃうんで、一人ではそんなに飲まないでも済むもんだということが最近わかったんですね。うちは奥さんも娘も飲まない人だし。ただ、まる一日飲まない日ができると、その翌日の酒が妙においしいわけで、ついつい二日分飲んじゃったりして、量的にはあんまり意味ない気もします。
そういうこと以外は、まあ、思いついたことをやってるわけでして、何かに追い立てられてるんじゃないんですけど、やることはいろいろあります。このブログに書いてるようなことも多いんですが、基本的に物事をじっくり観察してると、いろんなことを思いついたり、気になったりすることも多くて、そういうことを順番に確認したり、調べたりすることになるんですね。考えてみると、この性分は昔から変わってないところもありますけど。
ただ、会いたい人はいろいろいて、やはり会いたいものでして、そこがしんどいところであります。たまに人に会えることがあると、この上なく嬉しいものです。

いつになったら元の暮らし方に戻れるのかはわかりませんが、それと、全く元通りというのも無理かもしれないけど、なんか時間も気にせず、気心の知れた人と、取り止めのない話を、酒飲みながらできるようになりたいもんです。
ま、それまで、一人遊びが上手になるぶんにはいいんですけど。

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2021年4月30日 (金)

配送業してた頃

コロナ禍によって、息苦しく暮らしにくい世の中になって、すでに2年目になり、終わりの見えない日々が続いています。自由に外出することもままならず、生活するための買い物も制限される中、助けられているのは、今の時代に細やかに張り巡らされている配送のシステムです。
大抵の物は、電話やネットでリクエストすれば、素早く届けていただけるわけでして、この状況下、全くもってありがたいですよね。
この時代が育てた現システムは、その精度をますます上げてきておりますが、この仕組みを支えているのは、間違いなく実際に物を届けてくださる配送員の方々でして、ウイルス感染のリスクの中、まさに家籠りの生活を助けていただいているわけです。
昔、配送の仕事をやったことがあるんですけど、これなかなか大変な仕事なんです。大学時代のアルバイトでしたが、お中元とお歳暮を配る真夏と真冬の約1ヶ月ずつ、デパートの配送センターから呼ばれて、毎日、荷物を配り歩いておりました。私が働いていたのは、港区・千代田区配送センターというところで、渋谷の東横線のガードの下にあって、結構大きな配送所でした。
だんだん思い出してきたけど、港区と千代田区の町名ごとに仕分けされた荷物が山積みになっていて、まずその日に担当する荷物を、自分に割り当てられたホロ付き軽トラックに積み込むんですが、この時、あらかじめ配る順番を決めて積みこんどかないと、後で配る時にわけわからなくなります。伝票も配送順に束ねて、軽トラに乗り込み、港区と千代田区の各地区に散っていくんですが、基本的にトラック1台につき1名で、雨の日も風の日も朝から日没まで配り歩きます。思えば、あの頃のお中元お歳暮の季節、荷物の量はかなりのもんでした。
行き先は地図が頼りです。この地図を読み込んで頭に叩き込んでおくこと、またその地図上の場所が実際の街のどこなのか、その辺りがあらかた描けてないと仕事になりません。ともかく必死で地図を読み込んで、あと、一方通行や目印なんかも赤ペンで地図に書き込むんですけど、そうやってあとは走りながら、風景ごと頭にインプットしていくわけです。
こうやっていろんな地区を担当しながら経験値を上げていきます。東京の街には実に様々な顔つきがあって、官庁から大中小企業やら町工場、各種宿舎、商店街、学校も病院もあるし、宗教関係、住居、集合住宅、等等。届け物がわりと集中する議員会館みたいなところもあれば、滅多に来ないところもあり、届け先は本当に多種多様です。若い時にあれだけの東京の風景を見て、中に入っていって、いろんな人に会ったことは、ずいぶん面白い経験をした気がします。
どんな仕事もそうですけど、始めのうちはなかなか苦戦するんですが、これらの体験を重ねていくことで、だんだん要領がわかってきます。仕事の勘みたいなものが良くなってくるんでしょうか。やり始めた頃は、1日頑張って100個とかがいいところでしたが、1年2年とやっていくうちに、200個とかは朝飯前になります。アルバイトとしては年に2回の大型収入となりまして、自分でも、はなから当てにするようになり、配送所の所長さんからも、シーズン前に必ず私のことを確保するための連絡が来ることになりました。

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そんな中で、私は丸の内・大手町地区の担当からは外されてまして、それは当時、大企業のビルの集まるこの地区の警備が大変厳しくなっていたことがあります。ちょうど1974年に丸の内で三菱重工爆破事件というのがありましたから。私に思想的な問題があったわけじゃないんですが、見た目が問題ありでして、米軍払い下げのジャンパーに、Gパン・ボサボサの長髪・無精髭にサングラスでしたもんで、いく先々で職質受けて仕事にならんわけです。
まあ、そういったお兄ちゃんたちが、その頃のお中元お歳暮ビジネスのある部分を、支えておったんですね。
御中元の時期は、6月後半からピークが7月中旬で月末まで、ちょうど梅雨の頃で雨にもよくやられます。お歳暮の方は、まさに師走でして、めったに雪はないけど木枯らしの季節、それと道が死ぬほど混む時期です。幹道を避け、すいてる道を選びまして、基本急いでますので、コーナーはタイヤ鳴らしたりしてましたね。自分なりの順路を組み立ててシミュレーションして、その完成度が成否を分けます。
書きながらいろんなこと思い出して、まだ書ききれないことも多かったですが、なかなかに骨の折れる仕事でした。
ひとつ、この仕事やって良かったのは、荷物を届けた先方の人が、基本的に歓んでくれることでした。不機嫌になる人はまずいませんからね。
今は荷物を受け取る立場ですけど、届けていただいても、コロナだから玄関先に置いといてもらうので、ろくにお礼も言えず心苦しいんですが、道でお会いした時は、最敬礼するようにしております。

はい。

2021年2月24日 (水)

どこか遠くへ行きたい

世の中がこんなことになって、かれこれ一年が経とうとしてます。つい先日、実家がお世話になっている税理士さんに会わねばならなくなって、久しぶりに広島まで新幹線に乗りましたが、思えば、旅することがなくなって、ほぼ一年になります。
こうなると、なんだか無性に旅というものが恋しくなりますね。国内はともかく、今は国境を越えることすらできませんから。私のお友だちには、旅をこよなく愛する方が多くて、皆さんしばらく、鬱々とした日々を過ごしていらっしゃると思います。
私はもともとが出不精だし、自分から思いついて、どっかに出かけたりはしないんですけど、何かと旅をすることになりがちな人でして、旅慣れてはいるんですね。それは仕事と関係することが多かったりもするのですが、そうじゃなくても、何らかの用事ができたり、旅好きな方から一緒に行こうと誘ってもらったりと、わりと若い頃からずっとそうで、長いこと、旅する理由には事欠かない人だったんです。そんなことで、こんなに長いことどこにも旅しなかったのは、初めてじゃないですかね。
考えてみると、旅からは、いろんなことを教えてもらいましたね。旅せねば出会うことのなかった人や、街や、土地や、ものや、新しい価値観、いいことばかりじゃない違和感も含めて、他者から多くのことを受け取り、そこで自分と向き合うことも多かったと思います。
旅には、その風景や時間とともに、強い印象を残した記憶が刻み込まれているんですね。
これからは、自分が行きたいと思ったところへ、ふらっと旅してみたいなと、思っていたところだったんですけど、この状況下では、なかなか思うにまかせず、旅に焦がれ、空想の日々が続きます。

このまえ、伊丹十三さんの若い頃のエッセイを読んでいたら、沖永良部島(おきのえらぶじま)で食べた落花生がうまかったという話があって、久しぶりにこの地名に触れ、若い時にひょんなことで、この島を訪れたことを思い出しました。この島は鹿児島県ですが、東シナ海のかなり沖縄寄りに位置します。
私が学校出てすぐに働いていたCMの制作会社で、この島にロケに行く仕事が起こり、その仕事にお供させてもらうことになります。多分この時初めて飛行機というものに乗った気がしますが、1977年頃のことで、スタッフ全員の航空チケットを飯田橋の旅行代理店まで受け取りに行き、その時に持たされた現金90万円は、それまでの人生で見たことのない金額で、緊張したのを憶えています。
島は周囲50kmくらいで、車なら1時間で一周できるくらいの大きさです。九州本島からは550kmほどで、幕末に西郷隆盛が遠島にされていたというところです。我々がロケをするために向かったのは、沖永良部島にいくつかある小学校のひとつで、校庭にすごく大きなガジュマルの樹がある小学校で、大きな樹をビジュアルモチーフにしたある企業の広告を作るため、樹と学校の風景を撮影するのが目的でした。
見たこともない映画用のでかいカメラと共に、突然やってきた大勢の大人たちに、離島の子供たちは、初め戸惑いながら遠巻きにしていましたが、だんだん近付いてきました。
「おじさんたち、何しにきた?」と聞いた子がいて、多分、彼らと一番歳の近い私が、
「テレビのコマーシャルを撮りに来たんだよ。」と、答えたんですけど、
当時のこの島の多くの人たちは、コマーシャルというものを知らなかったんですね。要は、民放の放送がなくて、NHKしか放送されてないので、ここにはテレビコマーシャルというものはないわけです。
その時、仕事のために持っていたポラロイドカメラがあって、それ自体、当時珍しくて貴重なものだったんですが、フィルムが余っていたので、子供たちを撮って写真をあげたんですけど、その場でカラーの画が浮き出してくる写真に、みんな目が点になって、その後で歓声が上がりました。写真をちり紙に綺麗に包んで大事にランドセルにしまう女の子もいまして、コマーシャルってなんだかわからなかったけど、悪い人たちじゃなさそうだなみたいなことにはなりました。
仕事も終わり、帰りの飛行機を待っていたのは、空港ターミナルビルとは呼び難い、どこかのローカル線の小さな駅舎のような建物でして、鹿児島空港から飛んで来るYS-11が折り返し私たちを乗せて飛んで行くことになっていました。飛行機が着陸すると、空港にいた整備員がすぐに走って行って、やおらYS-11の屋根のランプのあたりに乗っかって、なんかやってるんですね。で、しばらくしてこっちの建物の方へ走って来て、何人かでなんか話してるんですけど、客の方へ向かって、
「皆さんの中で、どなたかガムテープをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と、おっしゃる。
ご存知じゃないかもしれませんが、撮影隊というのは、必ずガムテープを持っていて、当然、備品は一番下っ端の私が管理しているわけです。その整備の人にガムテープ2本くらいお渡ししたと思うんですけど、その人がYS-11の方へとって返したかと思うと、その機体に登ってまたがり、やおらガムテープを数カ所貼り始めたんですよ。
「えっ?」
それから、何事もなかったように搭乗手続きが始まるんですけど、それを知ってる人たちは結構不安なわけですよ。もともと飛行機のことをあんまり信用してなかったんですけど、初めて飛行機で旅した時のこの経験から、ますます飛行機嫌いになった気がします。

これが私の、沖永良部島・旅の思い出ということなのですが、どうもこの島にはご縁があったようで、それから2年くらいして、もう一度、また別の仕事で撮影に行くことになりまして、これがまた思い出深い旅になります。というか思い起こせば、その後の長きに渡る私のロケのキャリアにおいて、唯一最後まで晴れなかったロケだったんですね。
毎年、2月、3月あたり、鹿児島の南から沖縄の各島に渡って、いわゆる台湾坊主(東シナ海に発生する温帯低気圧)が停滞して、ずっと天気が悪いことは知られていますが、そうは言っても1日や2日晴れる日もあるし、だいたい俺たち晴れ男だしみたいな気合で挑んだロケでしたが。
この仕事がまた “ピッカピカの一年生”という児童雑誌の広告キャンペーンでして、文字通り晴れないわけにはいかないのであります。ところが、来る日も来る日も、雨、雨、良くて曇りなわけです。東京のこの仕事のクライアントからは、撮れるまで帰ってこなくてよいとのお達しがありましたので、ただ雲の切れ間を待っております。
ロケ隊は男10人ほどの所帯で、泊まってるのは、さほど大きくない観光ホテルなんですけど、シーズンオフで他に客もなくて、毎朝、海に面したレストランに集まるんですが、空にはびっしり鉛色の雲が幾重にもかかっておるわけでございます。
こうなれば粘るしかないんですが、この小さな島には娯楽もなく、毎晩、黒糖焼酎や泡盛飲むにしても昼間は天気が悪ければ行くところもないし、そこら辺にある雑誌は全部読んでしまって、ついには連絡船で届いた新刊本を港に買いに行く始末です。日々の会話も無くなり、朝ご飯済んだらそれぞれベッドに戻り、サナトリウムってこういう感じかなと云ったりしておりました。
そんな長期滞在の末、どうにか薄日で撮影を終え、ついに島を離れる時に、一年半の遠島から帰国できることになった西郷さんの心持ちにちょっとなったといえば大袈裟なんですが。

それからも、東シナ海をめぐる島々には、よく仕事で出かけましたが、その中で最初に行ったこの島のことは特に印象深いです。でも、あれ以来行ってないですから、今はどんなふうになっているのだろうか。ちょっと行ってみたい気もするけど、、

多分、なんもかんも違う景色で、完全に浦島太郎状態なんでしょうね。

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2021年1月12日 (火)

2021年の新年は明けましたが

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さて、令和三年丑年となりました。

あけましておめでとうございます。
と、挨拶を交わす例年通りの年明けなのですが、世の中は今までに経験したことのない、不穏な空気で幕を開けることとなりました。
ついに昨年の大晦日には、コロナウイルスによる東京の感染者数は1300を超え、首相官邸は緊急事態宣言の発令を迫られました。いずれにしてもしばらくは、先の見えない不安な世相が続くことになりそうです。
この状況を食い止めて、今、世の中を支えているのは、間違いなく医療関係者の方々でして、命を落としかねない最前線で、日夜献身的な働きをしてくださっています。全くもって頭が下がるだけであります。
崩壊寸前のこの前線を守るために、自分が役に立つことは何ひとつなく、できるのはおのれが感染者にならぬことのみです。そのために、日々肝に命じるべきは、マスク手洗いは当たり前ですが、それに加え、いわゆる三密を避けるために、人と会って長い時間話をしないこと、それに付随して会食をしないこと、というのがあります。
実は、私、これが辛いんですね。
気心の知れた仲の良い人たち、久しぶりに会いたい人たちと、ちょいと気の利いた肴で一杯やる会が、わたし大好きなもので、そういう機会を作ることは熱心で、呼んでいただく場合も、よほどの事がなければ、まず断ることはありませんでした。そしてかれこれ一年程、その楽しみを封印されているようなものであります。

換気の良いところで、少人数で小時間で会食したことがなかったわけじゃありませんが、俺的に云えば、それもかなり手加減してますし、そもそも去年から、会いたい人を気軽に誘って良いもんだか、悪いもんだか悩むし、声かけるのも躊躇して、結局やめとこうかということになり、こちらもそうだけど、あちらもそうみたいなんですね。
ただ酒飲むのが好きなだけだったら、一人でしんみり飲んでりゃいいんでしょうけど、私の場合、全くそういうタイプじゃなくて、ほっとくといつまでだって飲んで喋ってる人ですから、このご時世には、最も向いていないタイプなわけです。
ただ、この難局を乗り切るためには、全員、耐えるべきは耐えねばなりません。そして、ともかく医療がきちんと機能できるように、考えられる対策は全てやらねばならないんだと思いますよ。命あっての物種ですから。

こういうことになってから、ネット時代ならではのリモートという仕組みができて、これは同じ空間にいる必要がなく、コロナ禍においては大変便利な文明の利器でした。多くの仕事におけるコミニュケーションが、これによってどうにか繋がり、前に進めることができたと思います。今回の災難が収束しても、このシステムは仕事をする上で有用になるでしょうし、多分仕事の仕方そのものが少し変わるかもしれませんね。
まあリモート以前の時代にも、どうしても会えない相手と、電話とFAXを駆使してどうにか打ち合わせしたりはしてましたから、追い詰められれば、どうにかなるんでしょうけど。
そんなことで、このリモートで飲み会をやろうかという話も時々出るんですが、とりあえず自分で酒持ってモニターの前に座れば、複数の人たちと確かに盛り上がることもできそうなんですけど、どうもそこまでしてという気にもならないんですね。要はどうもまだ慣れてないっていうことなんでしょうか。会議にしても、もうひとつ苦手なんですよね、あえて相手と距離を取るメリットを利用する手もあるかもしれんけど、なんかライブの芝居を中継映像で観てるような、物足りなさがあるかなあ。結局、前時代のアナログ人間ということなんでしょうか。

おそらく、この先々にも、忘れることのないこの灰色の時代が、早く通り過ぎることを祈りながら、ウイルスをやり過ごし、日々戦い、工夫をして生産活動を続けて、どうにか生き残ることが、この時代を共に生きる人たちの宿命ということかもしれません。
きっとこの厄災が収束した頃には、生きていく上での新しい選択肢も増え、今までとは違う仕事の仕方や楽しみも生まれるのかもしれんです。
それまで、ともかく助け合って頑張りましょう。
助け合うにしても、なかなか会えんのだけどね。
そういう時こそ、リモートでしょうか、やっぱり。

2020年3月10日 (火)

ヤスヒコさんへ

たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。

私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。

なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。

その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。

いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。

それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。

この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。

私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。

それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。

その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。

その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。

そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。

その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、

「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、

「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。

企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。

山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。

なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。

監督という仕事に向いている人だった。

告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。

ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、

「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。

夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。

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2019年10月18日 (金)

「JOKER」は満席なわけで

前回に続いて、また映画の話になるのですが、「JOKER」が封切られて、ずいぶん世の中を騒がせているようです。私も観に行こうとは思ってたんですが、すでに大ヒットの呼び声も高く、SNSもリアクションが大きくて、すごく話題になっています。

そんならともかく行ってみようかと、先日劇場に足を運んだんですが、けっこう大きなスクリーンが、いやはや満席状態なんですね。客層はわりと若い人が多かったかなあ。

で、どうだったかと云うと、これはものすごい精度の、非常によくできた映画で、すばらしかったんですけど、話はとっても暗いんです。有名なアメコミの悪役が生まれるまでのストーリーを追ったピカレスクロマンなどというものではとてもなくて、社会の底辺の恵まれない孤独な青年が、救われることもなく、次々に周りから人格を壊される不幸に見舞われ、その結果、悪の権化と化して行くお話でして、いやその辺りが、すごくよくできている分、とても重たくて、気は滅入ります。

正直、観た後でこんなに落ち込む映画が、本当に大ヒットするんだろうか。しかし、すでに劇場は満員です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリという情報が後押ししていることもありますが、かつてそれだけではヒットしなかった映画もたくさんありましたし、だいたい暗い話には、客足が鈍るんですけどね。

もともとアメコミのキャラクターの話なのに、こんなにもリアルに身につまされるのも不思議と云えば不思議です。

いままでにも、ジョーカーはスクリーンに何度も登場しているし、かつていろんな名作があるし、今回も映画館に来てみたけど、なんだかこんなにつらい映画だったのかと思う人もいるかもしれないけど、この映画は、口コミで観客数は伸びる気がするんですね。

それは、この映画が持っている表現そのものの力とでもいうんでしょうか。

脚本の深さもそうですし、演出の斬新さだったり、音の使い方も素晴らしいし、ロケーションもカメラも、いろいろあるのですが。

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なんと云っても、主役を演じる ホアキン・フェニックスという役者がすごいんですね。

彼が造形するアーサー・フレックからジョーカーへと変貌していく主人公には、計り知れない奥行きがあり、この映画をただならぬものにしています。映画が始まってから終わるまで、観客は常にこの役者から漂う、弱者に無関心な社会に見捨てられた男の内面を見つめ続けることになります。

初めて語られることになったジョーカーというキャラクターの成り立ちを、この役者と監督はどうやって作っていったのか。ちょっと想像を超えるエネルギーが使われたと思われます。

この映画のベースに、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」を感じることも確かですが、そこで主役を演じたロバート・デ・ニーロが、ここで重要な役柄を演じていることも大きな意味を持っておりますね。

とりあえずこの作品、いろんな意味で救われない話ではあるし、キャラクターに共感のしようもないと云えばないし、ただアメコミの有名な悪漢をネタにした映画ではあるんですが、そういうことを超越した、何かを、観た者に残す気がします。

多分、のちのち名作と呼ばれるのは間違いなさそうではあります。

 

2019年9月12日 (木)

「存在のない子供たち」という映画の力

映像の監督で、脚本家でもある友人がおりまして、その人からこのレバノン映画を薦められたので、すぐに観てきました。私にしては珍しいことなんですが、いま周りの人に、この映画をぜひ観るように薦めております。

「存在のない子供たち」というこの映画には、それこそ子供たちがたくさん出てきますが、ちょっと何とも言えないリアリティがありまして、これはドキュメント映画じゃないかと錯覚させるような世界観があります。

ベイルートの貧民街で暮らす人々、学校に行けず路上で日銭を稼ぐ子供、移民難民の不法労働者、児童婚、人身売買など、目を覆いたくなるような貧困と不幸が、次々に描かれます。主人公の子供たちの多くは、両親が出生届を出していないため、証明書を持たない。また親が不法移民であれば、法的に存在しない。

映画は、そういった背景の中で、ゼインという12歳の少年を追います。

朝から晩まで、両親に劣悪な労働を強いられ、唯一の支えだった妹のサハルは、形式的な結婚という形を取り、中年男性に売られてしまいます。怒りと悲しみから、家出したゼインは、エチオピアからの不法移民労働者の女性ラヒルと知り合うが、ラヒルは逮捕され、彼女が残した赤ん坊の面倒をみることになります。子供だけでの生活が続く中、ゼインは、妹が妊娠し死んだことを知ります・・・

この映画の監督は、レバノンのナディーン・ラバキー、40代の女性で、俳優でもあり、この映画に弁護士役で少し出ています。美人ですよ。

彼女は、脚本に3年をかけ、長いリサーチの中で実際に出会った人々や、体験を観察し、ディティールを大事にしたそうです。ゼインをはじめとするキャストのほとんどは、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々です。

撮影は、脚本があるからと決め込まず、彼ら自身の経験を物語に寄せていったと云います。主人公のゼインを演じた、同名のゼイン・アル=ラフィーアは、シリア難民として家族でレバノンへ逃れたものの、貧しい生活を送り、学校になじめず、10歳からアルバイトで家計を助けていた少年なのですね。

このような映画製作に対する姿勢が、この作品のリアリティにつながっていると考えられます。そして、表現物から伝わってくるのは、本当につらい現実です。出口の見えないこの街の状況に息が詰まる思いですが、この映像がこちらに語りかけてくるのは、そんな中でも人が生きて行くエネルギーであったり、大変な確率で生を受けた命であれば、いつか祝福されることを祈らずにはいられない気持ちなど、ただネガティブな世界を見たということではなく、かすかな希望を感じずにはいられない読後感がありました。

この映画の持っている子供たちのリアリティの賜物かもしれません。

帰り道に、この映画で知った様々な現実に打ちのめされながら、希望を込めて、多くの人に、この映画を見てほしいものだと思ったんですね。

本来、映画というものが持っている力とでも云うのでしょうか。そういう体験でした。

後日、ネットでこの映画に関する解説を読んでいたら、「存在のない子供たち」が国際的な映画祭で注目を集め、様々な国で劇場公開が決まり、映画が世に出たことで、出演者たちに良い変化がもたらされたことが書いてありました。

監督談

「例えば、ゼインは国連難民高等弁務官の助けによって、いまは家族でノルウエ―で暮らし、これまでとは違う人生を送っています。ケニアの女の子ヨナスは、幼稚園に通うようになり、路上でガムを売っていたシドラは、いまは学校に通い、この作品に参加した影響か、映画作家になりたいと云っています。私たちも基金を立ち上げ、彼らを助けたいと思っているし、少しずつ彼らが独立して生活できるように、そんな未来になるように力添えをしたいと思います。道は長いですが。」

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2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

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お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

2019年5月20日 (月)

前略ショーケン様

この3月に、ショーケンこと萩原健一さんが亡くなりました。厳密には4歳上ですが、自分と同世代の有名芸能人で、こっちが物心ついたころから有名な方でしたから、なんだかちょっとしんみりしたとこがありまして、特にお会いしたこととかはなかったんですが、不思議な喪失感がありました。このごろでは68才って、まだ若いですしね。

1967年といいますと、私は中学1年生でしたが、彼は、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、デビューしたんですね。

このころ日本中で、グループサウンズブームというのがありまして、たくさんいろんなグループがあったんですけど、テンプターズは、その中でもかなり人気上位にいて、若い女の子たちがキャーキャー云ってました。このブームは明らかに若い女子をターゲットにしたものでして、バンドのメンバーはみんな長髪で、衣装もどっちかといえば、可愛らしい系でして、今で云えばジャニーズのアイドルたちがバンドやってるようなもんでしたね。ショーケンとか、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二さんとかは、その中でも、1、2を争うアイドルだったわけです。

萩原さんは、その頃アイドルとして騒がれたり、追っかけられたりすることは、ほんとは、いやだったと、のちに話しています。そんなことで、当時男子中学生だった私も、あんまり関心はなかったんですけど。

それから1970年頃には、早くもグループサウンズブームは去り、テンプターズも解散します。すごい人気だったけど、わりと短かったんですね。その後ショーケンは音楽も続けますが、仕事を俳優の方にシフトしていきます。1972年に岸惠子さんと共演した映画が高評価を得て、TVドラマの「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」で、その人気を確立するんですね。

 

4月に、脚本家の倉本聰さんが、新聞に「萩原健一さんを悼む」という文を書いておられました。

倉本さんがショーケンと初めて仕事したのが、1974年の大河ドラマ「勝海舟」だったそうですが、その時、岡田以蔵役をやった彼が、

「坂本龍馬に惚れてるゲイの感じでやってみたい。」と提案してきて、

以蔵が龍馬の着物を繕うシーンで、縫い針を髪の毛の中にちょいちょい入れて髪の脂をつけるしぐさをして見せた。龍馬への愛をこんなアクションで表現するのかと、驚いたそうです。

それから、1975年のTVドラマ「前略おふくろ様」は、ショーケンからの指名で脚本を担当することになったそうです。ショーケンが演じる若い板前が、調理場の後片付けでふきんを絞ってパーンと広げて干すといった何げない一連の所作が実にうまく、普通の人にはない観察眼を持っていて、生活感をつかむのがとても巧みだと感じたそうです。それを直感的に演じるひらめきは天才的で、勝新太郎によく似ていたと。

本読みでも、彼はいろいろアイデアを出してくるけど、それが大体正しい。人の意見も素直に受け止めるし、本当に面白かったと印象を語っています。

ただ一方で、彼には飽きっぽいというか、欲望に忠実に行動してしまう一面があり、現場で様々なトラブルもあったようです。

彼が亡くなって、桃井かおりさんがショーケンを

「可愛くて、いけない魅力的生き者」だと追悼するコメントを出しましたが、まさにその通りで、役者としては天才的だけど、人としてはいろいろよくないと。

そして、70年代に出てきた、ショーケン、かおり、優作ら同世代のギラギラした若い役者たちには、明らかに上の世代とは違った「はみ出し者」の輝きがあり、役者としての力がある彼らを、受け止める力量を持った制作側の人間もだんだんいなくなった。芝居がわかっている者は一握り、タレントばかりになってしまった。ショーケンの死は、そんな時代を象徴しているように感じます。と、結んでおられます。

 

そういえば、この人は出演した作品で、いつも独特な存在感を示し、話題を提供し常に注目されていました。でも、薬物の不祥事などで問題を起こす人でもあり、時々トラブルがあって、世の中から姿を消してしまうこともありました。結婚も何度かされています。倉本さんの新聞記事を読んで、そういえば何年か前に、この人自身が出した自伝があったなと思い、本棚を探したら、2008年に、まさに「ショーケン」という自伝が出ていました。10年ぶりに読んでみましたが、あらためて激しい人生だなと。

いつも表現者としての居場所を求め、成功があり、トラブルがあり、世間の目に晒され、ずっとその存在を感じさせ続けた同世代のスターだったんですね。思えば50年余り、彼はものすごい数の作品を残しているわけです。そのうちのどれくらいの本数を見たのか、すでによくわからないですけど、多くの人の記憶にいろいろな形でその姿を刻みつけていることは確かです。

その中で、個人的にもっとも強く残っているのは、倉本さんの話にあったTVドラマの「前略おふくろ様」です。私はちょうど大学生でしたが、毎週できるだけ欠かさずに見ておりました。主人公のサブちゃんは、自分と同年代の設定でもあり、やけに感情移入していたし、共演のキャストも実にみな魅力的でした。田舎から出てきた若い板前の成長物語が丹念に描かれており、そのドラマの背景に故郷で働くおふくろ様がいて、そのおふくろ様には認知症が始まっているという、忘れることのない名作でした。そして、主人公の片島三郎の役は、ショーケン以外は考えられません。

表現者として多くの作品に関わり、観る者に何かを残し、いろいろ問題もあった人だったけど、やはり、失ってみると惜しい人だったなと、思ったんですね。

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2019年4月18日 (木)

僕が働き始めた頃

桜の花が散って、新緑の木の芽が出始めるゴールデンウイーク前のこの頃、社会に出て来たばかりの新人君たちは、どんな気持ちでいるんだろうか。うちの会社にも4人ほどいるんですが、みんな元気そうにしてるけど、でもやっぱり基本的に緊張してはいるんでしょうね。

昔のこと過ぎて、自分のことはよく覚えてないんですが、だいたいにおいて硬くなってたように思います。

もっとも、私の場合、働き始めたと云ってもアルバイトで、ただ云われたことを云われたようにやる仕事で、主に届け物に行く事だった気がします。いろんなところの、いろんな人へ、いろんなモノを届けますが、そうやって、この仕事に関わるいろんな場所を覚えたり、空気を感じたりする意味もあったかと思いますね。

その会社はテレビコマーシャルを作っていたので、毎日午前中には、作ったCMを納品する仕事がありました。その当時の完成品は、16mmフィルムの15秒とか30秒のリールになっていて、それをいろんな会社に納めに行くんです。

それほど重くもないし、数と中身を確認して納品書といっしょに置いてくるんですけど、ある時、大手広告会社のある部署に届けに行ったら、他の会社の納品に来ていた人が、その部署のおじさんに思い切り怒られていて、どうも納品書に不備があるようなことを云ってるんですけど、全然たいしたことじゃないんですね。

「君の会社は、うちの会社をバカにしてるのかあ!」とか云っちゃって、

そもそも、その納品に来た人も、私と大して変わらないペーペーだし、そのオッサンだって、どう見ても年の割にはペーペーなわけですよ。

なんか世の中には、そうやって大きい会社を笠に着て、ただ威張りたい奴とかもいるんだなと思い、まあたしかにいろんなとこ行ってると、いろんな人がいるもんだなと思ったりしたわけです。これも社会勉強かなと。

あんまりこういう人とかかわり合いになりたくなかったんで、自分の番が来た時に、そのオッサンの前を通り過ぎて奥の方にいたもう少し偉そうな人に納品しました。背中の方でギャアギャア云っていたけど、しかとして、ガン飛ばして帰って来ましたよ。

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そんなこともありながら、会社はどんどん忙しくなってきて、仕事もいろんな雑用が増えていって、そのうち撮影現場へも行かされることになってきます。

撮影という仕事は、当然いろんなシミュレーションをやっておくんですが、予想してないことが次々に起こるもんで、2手3手、先を読んで、そうとう臨機応変に機敏に動かなくちゃならなくて、昨日今日入ってきた奴は、簡単に置いて行かれちゃうんですね。

なんとか一人前になって、親方や先輩たちから認めてもらいたくて頑張るんだけど、なかなかうまくいかないわけですよ。そうやって、むきになってやってるうちに、一年近く経っちゃいましてね。

もともと大学でやってたのは土木建築でしたから、そういう方面に就職しなきゃいけなかったんだけど、どうもその気になれず、卒業はしたものの、たいしたビジョンもなくて、しばらく社会観察でもするかといういい加減な考えでいたんですね。

ちょうど大学卒業する頃、テレビで「俺たちの旅」っていうドラマをやっていて、鎌田敏夫さん脚本ですが、同年代の人は知ってると思うんですけど、どういう話かというと、俺たちくらいの年代の男が3人いて、社会に出て自立しなきゃいけない時期なんだけど、なんだかフラフラと自由に暮らしながら、少しずつ社会とかかわっていくみたいな話で、それ見ながら、ま、こういうのもしばらくありかなと、自己弁護してたようなとこがあったんですね。まあそういう意味では鎌田さんに感謝はしてるんですけど。

そんな時に、ひょんなことで始めたバイトでして、いま思えば、仕事は大変だけど面白くて、わりと皆いい人たちでした。あのころ、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、まあ云ってみれば面倒臭いやつだったんですけど、この職場にどうにか居場所を見つけて、社員になることになります。

1970年代のこの業界は、けっこう若くて、まだ先の見えない未来がありました。テレビも元気で、TV-CMはトイレタイムとか云われてもいたけど、新しくて面白くて勢いのあるモノもでき始めていました。どなたか忘れたんですけど、広告会社の方だったか、演出家の方だったかが、

「ムカイ君、俺たちは無駄なもん作ってんだから、無駄ということを知らなきゃいかんよ」なんてことをおっしゃっていました。

まだ先のわからない、いい時代だったとも言えますかね。

この前、うちの新人君たちと話す機会があったんですが、一応先輩として話したのは、

仕事は、まず最初からうまくはできないということ。

世の中は観察しているといろいろ面白いことがわかって来るから、よく観察してみるとよいということ。

などを、伝えました。

俺たちは、無駄なもん作ってるとは、さすがに云えませんでしたけど。

2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

Hakobiya

映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2019年1月22日 (火)

初台の太郎ちゃんのこと

昨年の大晦日は、お葬式で暮れました。

亡くなったのはしばらく会ってなかったけれど、古い友達でした。クリスマスの25日に亡くなり、告別式が12月31日だったんですが、彼が病院で意識を失くしたという連絡が、23日にありまして、それは、一人暮らしのその友人がお世話になっていた大家さんからの電話でした。友人の携帯電話の連絡先や通信記録などから、私の電話番号を知り、その電話機から連絡を下さったようです。

そうやっていろいろな知り合いに連絡を取って、お葬式の段取りも、みなやって下さったようで、一人で暮らしていたけど、このように親切にしてくださる方が傍にいて良かったと思いました。

この大家さんが、お葬式の時に、

「これ、太郎ちゃんが好きだったお菓子ですから」と云って、みなさんに菓子袋を配っておられまして、そんなふうに親しくお付き合い下さった方なんだなと、少しホッとしたんですね。

 

そうなんです。その友達はみんなに太郎ちゃんと呼ばれていました。

Taro

私が20代の頃、同じ会社に勤めていた友人夫婦が初台に住んでいて、その家の近くに太郎が一人でやってる飲み屋があったんですね。店の名前も太郎だったかなあ。10人かそこら入ったら一杯になるようなカウンターだけの店で、ツマミもあんまりなくて、安い酒ばっかり置いてあったから、貧しい私たちが夜中に飲みに行くぶんには、ちょうど良い店でした。よく仲間と行ってたんです。

この太郎ちゃんという人は、飲み屋の店主以外に一つ仕事があって、それは売れない役者だったんですけど、言われるまで知らないくらい、ほとんど役者として認識したことはなかったんです。ただキャリアだけはあったみたいで、役者の仲間や友達が客としてよく飲みに来てたんですね。

それで、どんな仕事してるのかを聞くと、あんまり知ってるものはなくて、どっちかというと、ピンク系とか日活ロマンポルノ系のちょっとした役で、そういうことで、日活の女優さんとか、ピンクでちょっと有名な男優さんなんかも飲んでたこともありましたし、たまに普通に有名な俳優さんもいらしたりしたんですね。ただ、この太郎ちゃんが役者として優れていたのかどうかは、よくわからなかったんですけど。

まあ映画って云っても、出てきてすぐにいなくなるような役が多かったんじゃないかと思いますよ。そういう人でして、人気者でしたけど、わかりやすく云うといじられキャラですから、みんなにいじられてて、僕らもそこで飲んでる間じゅう太郎を肴にして、好き放題を言って、飽きると歌を唄わせたりして、思えば傍若無人な振る舞いをしておりました。

そんな関係が出来あがった頃に、

「ところで、太郎って、歳いくつなのよ」って聞いたんですが、なんと私たちより六つも年上だったのですね。ただ、そのことがわかったからといって、今さらこちらの態度を変えるわけにはもう行かず、それ以後も、

「この野郎、太郎!」という関係は続いたのでした。そもそも、その店に最初に行き始めたそのサトルという友達は、やたらとでかくて威圧的な奴だったし、私も口だけは達者な奴でしたから、まあ、そこでは威張っていたわけです。

そんなある夏の日に、なぜか太郎ちゃんと私と仲間たちで、伊豆に旅行に行ったことがあったんですが、ちっちゃい車に5人でぎゅうぎゅう詰めで、エアコンは壊れてて効かなくて、おまけに夏休みで道は大渋滞、真鶴道路のトンネルの中に3時間もいたんですね。

そんな過酷な状況下で、何かのはずみだったと思うんですけど、なぜか太郎ちゃんの身の上話をみんなで聞くことになったんです。それは、太郎が育った岩手の猛吹雪の風景と、それにまつわる苦労話でして、うだるような暑さの中で、極寒の話を聞くわけです。そして、太郎が東京に出てきてからのあれこれ、これまた苦労話の超大作が続きました。この長い道中で、私たちは太郎のこれまでの人生を味わい尽くし、やっと海が見えて、太郎がヨットを見つけた時に、

「あっ、帆掛け船だ」と叫んで、オチがついたという旅でした。まあ、そんなようなことだったけど、みんな若かったし、楽しかったんです。

ちょっと変わった青春話もやがて終り、太郎の店は立ち退きになって、それからしばらくして、太郎は新宿三丁目のあたりで別の飲み屋を始めました。その店もやがてやめちゃうんですが、私たちも20代から30代になって、私もサトルも勤めてたその会社をそれぞれに辞めて、なんとなく、みんな疎遠になっていきました。

 

その後、太郎ちゃんとは忘れた頃に年賀状のやり取りをするくらいでした。相変らず、テレビや映画に出ていてもほんの一瞬だし、そういえばあの有名な「あまちゃん」にも役名付きで1回出たことあったけど、友達でさえわからないくらいの瞬間でしたもん。ほんのたまにそういうことあって、まあ元気なんだろうなというくらいのことでした。

人生長くなってくると、こっちもいろんなことがありまして、もうずいぶん前に友達のサトルは病気で他界してしまい、そのことを太郎に知らせようとしても、その時は連絡が取れませんでした。

それから、もう一つ、何年か前に判明したことがありまして、私が全く別のラインで長く仲良くしていただいてる友達の夫婦がいるんですが、同年代のこの二人がなんと初台の太郎の店の常連だったことがわかったんですね。あんな小さな店でそんなことがあるんだ、世の中は狭いなあということでびっくりして、ともかく是非みんなで会おうということになり、太郎に電話したんです。4人で新宿に集合して、飲みに行ったんですが、本当に久しぶりの再会でみんな嬉しくて、ずいぶん遅くまでハシゴしました。

ただ、その時に太郎ちゃんの身体の調子が万全ではなくて、定期的に人工透析の治療を続けていることを聞きました。でも、その日はずいぶん飲んで、今日は嬉しかったからいいんだと云っていたんですね。

それから、たまに連絡取ったり、私の会社に遊びに来りもしてたんですけど、このところちょっと音信がなかったんです。

去年の正月に、年賀状やり取りしたけど、そのままになっていて、そういえば秋口に、一度電話くれて、また近いうちにみんなで飲もうと云ったんだけど、なんか話があったんじゃないかな、あの時、こっちもちょっとバタバタしててそのままになっちゃったけど、そん時、会っとけばよかったんじゃないかと、つくづく思いました。

 

若い時にすれ違うように出会ったけど、長い間に要所要所で、なんだかすごく縁のあった人でした。

ともかく悪く云う人はひとりもいない、みんなから愛されてましたね。

今頃、あっちでサトルにも会ったでしょうか。

 

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

Danshi2

 

2017年9月 6日 (水)

バイトに学んだこととか

この春頃から、うちの会社の採用に応募してくれる学生さん向けに、会社のこととか、この業界で働くこととかについて、月2くらいで会社のFacebookにコラムみたいなもの書いてたんですけど、、自分の息子くらいの年齢の若者に何か書くにあたって、自分が若い頃のことを思い出したりしてたんですね。

ただ、考えてみると、私の場合、あの時期ほとんど就活ということをしてなくて、今の仕事に就いたのも、本当にひょんなことで、アルバイト始めたことがきっかけだったんですね。そういうことを思い出したんですけど、この仕事のアルバイト始める前にも、学生のときには、結構いろんなバイトやった気がします。

大学一年の夏休みに、どっかでバイトして金貯めようと思って、学生の夏休みのアルバイト紹介所みたいなところがあって行ってみたんですけど、北海道とか軽井沢とかで、ひと夏働くコースとかあって、なんかいいなと思ってたら、結局、炎天下の大森の工場で3週間ていうコースになってしまい、これが、いや、暑かったんですわ。

鉄工所の雑役工という仕事で、一日中、荷物運んだり、ハケで塗料を塗ったりヤスリかけたり、工場の中は一切冷房とかなくてサウナ状態。始めた頃はとにかくクタクタで、工場街の定食屋で食べる昼飯もどんぶりのメシ食えなくて残したりしてました。ただ、だんだん慣れてきて、多少仕事になってきたんですけど、それはただ要領が良くなっただけのことであって、工場の死角でさぼってるとこ見つかっては、どやされて追い立てられたりしながら、毎日どうにかこうにか定時まで働いたわけです。

この工場には当然プロの工員さんがちゃんといるんですが、その中には僕らよりぜんぜん年下の少年たちもたくさんいて、彼らは一年中働いてるわけで、僕たち学生さんは甘っちょろいなということも、痛感せざるを得ないんですね。でも、逃げ出したい気持ちを押さえながら、予定の日数が終わってバイト料もらってから帰郷したんですけど、なんか不思議な達成感はあったんですね。

それから、ここに書ききれないくらい、いろんなバイトやりましたね。家庭教師は柄じゃないからやんなかったけど、なんか、いずれ楽で効率の良いバイト探すんですが、そんな都合のいい話はなかなかなくてですね。働きに対して報酬はどれもまあ妥当なわけです。それより、働いてるといろいろ面白いこともあり、それなりのやりがいもあったりして、なんか楽してるわりに、ずいぶんお金もらった仕事もあったけど、そういうのはちょっと気持ち悪いわけですよ。やっぱ額に汗しなきゃ仕事じゃないんだよなみたいな、殊勝なこと思ったりするわけです。

多少割がいいのは、運転の仕事で結構やりました。車の免許でも、あればそれでちょっと有利だったりするんですね。おかげでずいぶん道は憶えましたしね。

食べ物屋もいろいろありまして、ある時期、友達とローテーション組んで、自由が丘で焼き鳥焼いてたことがあって、当時、私ガリガリに痩せていて、吉田拓郎の“結婚しようよ”のせいじゃないけど、髪の毛が肩より下まで伸びてて、髭も伸び放題で、ちょっと十字架のイエスさまな感じだったもんで、よく酔っ払いの客から、

「おい、キリスト、3本焼いてくれ。」とか、

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「キリスト、一杯おごるぞ、飲め。」とか、

「キリスト――!モツ焼いてくれい、モツ。」とか云われて、

「ちょっと、お店にキリスト関係の方いらしたら困るからやめて下さい。」とか云ってましたが。

あと、一番長くやったのが、デパートのお中元とお歳暮の配送なんですけど、夏と冬に約一カ月ずつなんですが、毎日軽トラに満載した100個~200個くらいの荷物をさばくわけです。私の担当地区は、一ツ橋、神田神保町、九段、富士見町界隈が主だったんですが、たまに丸の内の官庁や大企業のビル街とかに行くことがあって、ただ私の恰好は、一見すると、明らかに過激派学生なもんで、そこらじゅうで職務質問されて、全く仕事にならないんではずしてもらったこともありましたね。ただ、仕事って長くやってると上達するもんで、数年やったら、その配送所では私より仕事を早くこなせるバイトはいなくなって、新米の倍のスピードで仕事上げてましたね。だから稼ぎは良くてですね、半年間でできる借金は全部このバイトで返してましたから。自慢になりませんけど。

このバイトが良かったのは、荷物を届けた先の人が、個人でも会社でも必ず喜んでくれることで、贈り物がきていやな顔する人いませんしね。何か今でも覚えてるちょっと嬉しかったことが何件かありましたね。

そんなふうに、働いてお金稼ぐのは、どんな仕事でも大変なんだなということを教わったり、働いてると結構いろんな人に会って、東京にはほんとにいろんな人がいるんだなあというのも面白かったし、ためになった気がします。

アルバイトは、大人になって働く前の入り口の練習みたいなところがあるけど、仕事に楽なことはないし、簡単なものもないこともわかり、でも、やってると意外に楽しいこともあることも色々わかって、プロになるということを、ほんの少しだけ学習できる場かもしれんなと思ったわけです。

そんなこと思いながら、、これから社会に出て働く若者たちには、この先、仕事にまつわるいろいろな泣き笑いを経験しながら、いろんなプロになってくんだろなと、なんか応援したい気持ちになったんだなこれが。

 

2017年6月20日 (火)

MANCHESTER BY THE SEA

先週、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という映画を観たんですけど、久しぶりに何かが心に残ってしまう映画だったんですね。いい映画みたいですよという周辺の評判を聞いてから行ったんですけど、最近なかなか自分から映画館に行ってみようと思うことが少なくなっており、それは、自分の年齢と、世の中の映画の配給が合ってなくなってるせいもあるんでしょうが、昔のように、ちょっと思いつきで観てみようかということに、消極的になっているところがあります。東京で公開されてる映画の本数は決して少なくはないから、実はいい映画を見落としているかもしれないですけどね。

古い友人で脚本を書いているF田さんに、この映画を観たことを云ったら、

「見ました、見ました。近頃の映画の中ではマトモな方だと思います。『ラ・ラ・ランド』なんかも、ア・ラ・ラ・ランドやもんねえ。映画も文学も世界的に幼稚になってしまいました。」

などと、厳しいことをおっしゃってましたけど、たしかに、想像の範囲を越えてこちらに踏み込んでくるような映画体験というのは減っているのかもしれんですねえ。まあ、おっさん達は、長いことさんざん映画観てきてますから。

この「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という題名は何だろうかと思ったら、地名なんですね。ボストンの近郊の海に面した町で、ボストンの裕福な人のリゾート地であり、ブルーカラーの人々が多く働いている町なんだそうで、なので、この題名は日本で例えると、「横須賀ストーリー」とか「鎌倉物語」みたいなことかもしれません。

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物語は、ボストン郊外でアパートの便利屋として働きながら、たった一人で暮らしている主人公のリー・チャンドラーと云う男が、生まれ故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ってくるところから始まります。彼の兄のジョー・チャンドラーが病気で倒れ、リーが到着する1時間前に息を引き取るんですが、、ジョーが残した遺言には、ジョーの息子の、リーにとっては甥にあたる16歳のパトリックの後見人にリーを指名してあったんです。兄は弟をこの街に戻したい意図があるんですが、リーは、この街に本当につらくて重い過去があり、ここに戻ることはできなくて、甥を連れてボストンに帰ろうとします。

一方、パトリックの方は、この街で友達にも恵まれ、バンド活動やホッケーをしながら、二人の女の子を二股にかけたりして高校生活を楽しんでおり、また、父が残した船を維持しながら、この街で暮らすことを考えています。

映画は、このかみ合わない二人を追いながら、つらい過去のことや、周辺の人々も描きながら進んでいきます。この映画の脚本は本当によく練られていて、その精度が実に素晴らしいんですね。主演のケーシー・アフレックが、

「物語や場面、登場人物の関連性に矛盾点がまったくない素晴らしい脚本があったから、僕は迷わずに信頼して進むだけだった。」と云ってます。

脚本を手掛けたのは、ケネス・ロナーガン。そもそも、この映画はプロデュース・監督・主演を、あのマット・デイモンが務める予定でした。そこで、彼が脚本家として絶大な信頼を寄せるケネス・ロナーガンに脚本を依頼したんだけれど、デイモンのスケジュールが合わなくなって、結果的には監督もこの人がやることになり、主演は、デイモンの親友のベン・アフレックの弟であるケーシー・アフレックということになります。いろんな偶然が良い化学反応を生んだこともあったかもしれないけど、マット・デイモンは「力ある役者と脚本、そしてケニーの演出によって、この映画は忘れられないものになった。」と語っています。脚本も、演出も、そして、主人公リーの孤独と悲しみを体現したケーシー・アフレックの渾身の演技も、見事に実を結んでいます。

加えて言えば、パトリック役のルーカス・ヘッジズも、リーの元妻役のランディを演じたミッシェル・ウイリアムズも、様々な役者やその設定も、この映画にとって、みなプラスに働いていたと思えます。

 

ただ、この映画は、観る者を、救いや解決に向かわせることをしません。主人公がつらい気持ちから解放されたり、再出発したり成長したりするわけではなく、ある意味何も変えられない。本当に大事な何かを失ってしまった時、その悲しみから逃れることはできないし、人は出口を見失います。そんなことを思わざるを得ない映画なんだけど、でもなぜか観る者を孤独にはしないんですね。

だから観終わって元気が出るわけじゃないんだけど、ちょっとだけしみじみ祈るような不思議な気持ちになる。でも、いい映画だったのです、なんか。

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