2024年8月28日 (水)

炎熱・甲子園

言わずと知れたこの夏は、例年にもまして凄まじい酷暑なんですが、そんな7月の30日に、甲子園の阪神✖️巨人戦をアルプススタンドのほぼ最上段の59段から見物してきたんです。

阪神は去年珍しく優勝したし、この夏には是非、甲子園で阪神戦を観戦しましょうという事で、今回一緒に行ったオジサンたち4人で、早くから決めて計画し、シーズンが始まる前から楽しみにしておったようなことです。
今回、引率してくれたのは、長い友人で大阪で生まれたフジヤンという人で、物書きの仕事をしていて関西文化には造詣の深い人なんですね。もちろん阪神タイガースファンという事でも筋金入りでして、そこんところは痛く気が合っております。
この日は、甲子園ができてちょうど100年というスペシャルな記念日のカードで、一番人気の巨人3連戦でもあり、スタジアムはとっくに完売の超満員、ただでさえ暑いところに大熱戦で、球場はヒートアップ、汗は吹き出し、ビールは売れます。
あの地鳴りのような大歓声も味わいながら、ゲームも5−1で快勝、エース才木の9勝に、大山と森下のホームランも出て、この夏1番のナイター見物になったわけです。まあ、その日は半日、甲子園の異様な熱気に包まれた疲れで、ホテルの近くのバーで一杯ひっかけたら、即バタンキューでしたが。
せっかくの関西旅行でもあるし、次の日は有馬温泉でも行こうかということになっていて、フジヤンお薦めの老舗旅館に投宿しました。かつて谷崎潤一郎さんが執筆もされたという宿の湯につかりますと、なんだかこちらまで文学的な人になったかのような気になりましたが、それはそれとして、夜は夜で、甲子園の阪神・巨人戦をテレビ観戦しまして、またしても盛り上がってしまったというわけです。
次の日は、昼前まで旅館でゴロゴロして、バスで神戸の街に出て、これもフジヤンお薦めの元町駅近くの美味しい老舗中華屋さんで、紹興酒で乾杯でもして解散しようかという事でした。
ただ、昼食前に小一時間程、時間が余ることもあり、私が子供の頃住んでいた神戸の街へ4人で行ってみようかということになりまして、暑いし、駅でタクシーに乗り込んで行ってみたんですね。
これは他の3人にとっては単なる神戸の坂道なんだけど、私にとっては小学校から中学にかけての、生活路、通学路でして、そこに立ってみると、ブワーっといろんなことが蘇るんです。周りの風景は全く私の知らないことになっているんですけど、ただ目の前のその道だけは、自分が立ったことのある実感がしっかりあるんですね。
なにせ1960年代の大昔に住んでいた街で、それから1995年の阪神大震災で、一度、街ごと壊れてしまいましたから、景色が変わっているのは当たり前ではあるんですけども、ただ、歩いてると、ここには何があったかとか、ここはこんなだったなとか、ぶつぶつと記憶が蘇ってきたりします。
通ってた小学校にも行ってみて、もう学校名も変わって、校舎も建て替わってるんですけど、昔、玄関横の池に立っていた二宮金次郎の像が、校門脇に移設されていたりして。ちょうど夏休み中に登校してきた先生が、学校の中に入れてくれて、いろいろ最近の学校の様子などを教えてくださったりしました、一応卒業生だし。この先生、どう考えても私の息子の年齢くらいでしたけど。
ちょっと急にあまりにも多くのことを思い出して、混乱もしたので、皆んなと昼食を食べた後も、暑い中一人で少し歩いてみたんですね。姿は変わってしまったけど、この街に暮らしていたことは、はっきりと思い出せました。なつかしいこの地に、ずいぶん長い間訪ねてこなかったのは、この地を思い出すときに、どうしても避けられないつらい記憶があるからだったと思います。
私が中学生になった年に、私たちの家族は8才になった弟を病気で亡くしたのですね。今思い出しても、そのことはあまりにも大きなダメージで、深い傷を残しました。その時の記憶は今でも空洞のままになっています。
結局、彼を失ったその夏、4人から3人になったうちの家族は、この街を離れました。
子供から少年期にさしかかる頃に過ごしたこの街のことは大好きだったんだけど、なつかしさと背中合わせに、その記憶に向き合うことがちょっとしんどくて、あまりここに来なかったかもしれません、古い話なんですけど。
さて、夏の盛りに巨人に3連勝した絶好調の我がタイガースは、その後、好調を維持しているとは云い難いのですが、今も優勝連覇を目指して戦い続けております。
そして一夏、高校球児たちに明け渡した甲子園にいよいよ帰ってくるのです。
佳境を迎えるプロ野球ペナントレースに、どんなドラマを観せてくれるのでしょうか。
悲喜交交(ひきこもごも)の夏の仕上げであります。

Koushien_2

2024年7月19日 (金)

古希の夏

そろそろ梅雨も明けまして、今年も半端ない暑さとのことですが、一年中で最も暑いこの時期になりますと、決まって私の誕生日が来ます。毎年のことだし、取り立てて何をするということでもないのですが、よりによってずいぶん暑い時に生まれたもんだなと思います。
それに、今回は、70回目ということで、どうも自身のこととも思えない年齢になってまいりました。
若い頃には、自分がその歳まで存在しているのかもわからないわけでして、ともかくこうして、どうにか元気でおることには、感謝するしかありません。
昔、70才という歳を見上げていた時のイメージは、いろいろなことをやり終えた人生の達人という風情で、モノの道理を知り、何に対してもジタバタしないで、常に頼りになるような、なんとなくリスペクトされるような存在になればよいのだろうか、などとと思っておりました。
が、今、自分の中にそういう自覚は生まれてきません。なんだかずっと、あるところからの延長線上におるようでして、成長もせず煩悩も消えず、いまだに意味もなくジタバタしているようなことです。
ただ、体力というのは確実に落ちてまいりますので、気持ちはあっても電池切れみたいなことで、行動力というのは衰退してまいります。
この歳になったら、多少なりとも、人に安心感を与えるような、かっこいい大人の人格になれるとよいのにとは思うのですが、相変わらず、落ち着きより面白味を求めてしまうもので、これは、ずっとそうなんだから仕様がないんですが。
ということなので、70にはなりますが、あまり変わり映えのしないいつもの夏です。

そういえば70歳のお祝いは、古希の祝いと云われておりまして、調べてみると、お祝いは数えの70歳、満69歳の時にするのが正式らしいです。ということは私の場合は去年だったようですが、まあどちらでもよいようなことが書いてあります。
それと、70歳は厄年なので、周囲からお祝いをされても厄払いにならないため、古希祝いはしないほうがいいとも言われているそうです。むしろ厄年には厄払いとして本人が周囲にご馳走を振る舞う習慣があるので、これまでよくしていただいたお礼に、今年は私の方から、お世話になった皆さんにご馳走しようかとも思います。

だいぶ前になりますが、昔私が所属しておった会社でえらく世話になった先輩から、年賀状をいただきまして、
「私、今年、古希になってしまいます。もうすっかり身体が硬くなって、コキッ!」
と書いておられて、爆笑したんですけど、上手いこと言うなと思ったんですね。
確かに、最近、身体がめちゃ硬いのは、実感しておりまして、コキッ!

Koki

2024年6月29日 (土)

歳月ということ

6月の中頃に、偶然3日続けてちょっとしたパーティーがありました。
1日目の会は、長いこと公私共にお付き合いいただいてる4人の先輩たちが、不定期に集まるrednoseの会というワインを飲む会でして、その都度テーマを決めてワインを飲んでいます。たぶん始まってから40年くらいは続いているのですが、「君も来なさい」と言われて私が加わってからも、もう10年以上経っております。今回は焼肉とワインというテーマでしたが、この先輩方の探究心には驚くばかりで、この日のお店も、持ち込んだワインもカンペキでありました。なんと云っても、一緒にいるだけで楽しい方たちでして、この日もすっかり酔っ払ってしまったようなことです。
2日目の会は、これも40年はお世話になりました、私たちの業界の大先輩のKさんの80歳のお祝いで、傘寿のお祝いとも言いますが、後輩たちが10名程集まって、サプライズのお誕生会をやったんですね。とある有名なフレンチレストランの個室でのランチだったのですが、ずいぶん前から計画しておられた幹事さんの手腕で素晴らしいお誕生日になったんです。
Kさんにお会いしたのは、私が業界の右も左も分からなかった頃でして、すでにアートディレクターとしてたくさんの有名な仕事をされていたこの方は、雲の上の存在でした。その後もその広告会社の要職を歴任され、私も含めこの会のメンバーは長いこと大変お世話になりました。退職されてからも、いつも気軽にお付き合いくださり、よくお会いして遊んでもいただきまして、皆から慕われている方ですから、80歳をお祝いしましょうということで集ったわけです。何だかふわっと幸せな会でしたね。
そして、3日目は、新宿デラシネ45周年パーティーという会でして、私が20代の頃から散々お世話になった新宿三丁目のスナックが45周年を迎えたという祝宴です。
しかし、45年の歴史というのは大変なもので、ずいぶん広い会場にギッシリと、このお店に関わった人たちが集まっておりまして、当然ながらたいていは、おじいさんやおばあさん達なのですが、よおく顔を見ていると、わかる人はわかるわけで、あっという間に何10年も前に連れ戻されます。ほんとに、お元気で何よりとはこの事なのです。

Sakatasan



そんなことをしていると、急にママのフミエさんから、何かしゃべれと云われて、マイク持ってしゃべったのですが、要は、私はこのお店が45年前に開店パーティーをやった時に、20代の末席の若造でしたが、すでにそこにおりまして、先輩達がカウンターにこぼした酒を拭いたり灰皿交換したりしてました、その頃は金もないのにずいぶん飲ましていただきありがとうございました、45年経ってこうやっていいジジイになりましたが、みたいな話で間をつなぎました。
いずれにしても、新宿の片隅の地下にある小さな飲み屋に、いろんな人が出たり入ったりしながら、45年もの月日が流れ、その人たちが、またこうして逢えたというのも、めでたいことだなとつくづく思ったんですね。
宴も酣(たけなわ)となったころ、お店の常連でジャズサクソフォーン奏者の坂田明さんが、見事な演奏をしてくださいました。「見上げてごらん夜の星を」と「太陽がいっぱい」は、胸に沁みわたり、そして、たっぷりと聴かせていただきながら、過ぎていってしまった時間を反芻したのでした。

にしても、偶然3日間続いた3つの集いは、歳月というものをつくづく考える時間になりました。それも半世紀近いものすごく長い時間です。今回お会いしたみなさんの初めて会った頃の顔が浮かんだりしました。若いです。
そして、どの会も、元気であればたぶん顔を出されたであろう、今はもう会うことのできない顔が、いくつか浮かびました。歳月というのは、そう云った意味では切ない側面もあります。
次またいつお会い出来るのか、やや心細くもなってくる年齢ではありますが、またどこかでお会いしたいものです。

2024年5月29日 (水)

ついに黒部に立ったのだ

5月の中頃に家族で旅行したんですけど、これが一泊二日の黒部渓谷、黒部ダムを巡る旅でして、なかなか盛り沢山で、そしてなかなか感動だったのです。少し前に奥さんが申し込んだツアーで娘と私も参加して3人の予定だったのですが、最近急に大阪から東京に転勤になった息子も来ることになり、久しぶりに家族4人で旅することになりました。それはそれで良かったんですけど、朝7時に八重洲口集合みたいな弾丸ツアーの趣もあり、初日はトロッコ列車で新緑の黒部渓谷を満喫し、宇奈月温泉一泊、翌日立山アルペンルートを一気に縦走し、黒四ダムへという一連の流れなのですが、このスケジューリングが実によく出来ており、さすが手馴れたプロの仕事で、元制作部をやっておった私から見ても、よく出来た香盤表でありました。
というような2日間のコンパクトな体験でしたが、この黒部という場所には個人的にちょっと特別な感慨があったのですね。昔も書いたことあるんですけど、私が中学一年生の時に「黒部の太陽」という映画が公開されて、大ヒットしたんですが、これが難攻不落の黒部渓谷に巨大ダムを建設するための、世紀の難工事を描いた人間ドラマでして、背景には戦後復興をかけたこの国の電力問題を解決するという悲願がありました。
当時13歳の少年であった私は、最もわかりやすく感動し、影響を受けてしまい、将来は土木技師になることを胸に誓ってしまったわけです。一応高校を出ると上京して大学の工学部の土木工学科というところに入るのではありますが、ま、いろいろありまして卒業してから土木技師になる事もなく、今の仕事についてしまうわけです。
土木の仕事に就くことは、自身の適性も含め無理だったということはわかっているので、諦めはついているのですが、ことあるごとに、いろんな人に、いかに私がこの映画に影響を受け、黒部という場所にいかにこだわりを抱いているかということを、ある時は酔っぱらったりしてくどくどと語るわけですよ。なので親しい人たちは、そのことはよくご存知ではあるんですね。
そこで、先日、結婚して30年以上経つうちの奥さんから、
「ところで、今までいろんなところに行ってるみたいだけど、黒部には、行ったことあるの?」
と聞かれまして、
「いえ、一度も行ったことないです。近くまで行ったことはありますが」
と申しましたら、心底あきれておりました。少年期のいきさつからも、とっくに訪ねておかねばならぬところでしたのに、、、ということで、家族のおかげで想いを果たせたわけです。
黒三ダムに向かうトロッコ列車は、能登震災の影響で最後まで行けませんでしたが、十分に黒部渓谷の新緑の木漏れ日を浴びることができて素晴らしかった、そして、翌日標高475mの立山駅からケーブルカーと高原バスで急峻な斜面を登り続け、標高2450mの雪の大谷で雪原を堪能し、ここからはトンネルトロリーバスと急降下のロープーウェイとケーブルカーで、標高差約1000mを下って黒四ダムに着きます。
見事なダムです。ああ、これが、黒部ダムなのですね。小雨混じりの曇天に現れた大土木建造物、しばらく眺めておりました。なんていうか、この大自然の中に、人間が叡智を尽くし、7年の歳月と1000万人の手によって造られた創作物なんですよね。
さすがに、奥さんも娘も息子も、えらく感動しておりました。
それにしても、ダムの上から真下の谷底を見ましたら、完全に足がすくみ上がりまして、ああ、この場所を職場にすることは絶対に無理であったなと、あらためて確認したようなことでした。

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2024年5月 9日 (木)

不思議の露天風呂

私が時たま寄せて頂き、お世話になっている信州のトシオさんの山小屋の近くには、温泉がたくさんあって、それも楽しませていただいております。その中でも比較的よく行くところに、「尖石温泉 縄文の湯」(とがりいしおんせん じょうもんのゆ)と云うのがありまして、近くに縄文遺跡があるのでこういう呼び名なのですが、湯量も多くてとても快適で、露天風呂も設けてあります。これがどの季節もなかなかに気持ち良くてですね、行けば露天で長湯いたしております。
先月のある日も、トシオさんとヤマちゃん先輩と3人で機嫌良く浸かっておったのですが、人気のお風呂だし、夕方でまあまあ混んではいたものの、それほどツメツメでもなく、まあゆったりと露天風呂にいたのは7〜8人ほどでした。
すると、その中の一人の知らないおじさんが、と云っても、こちらもよくわからないおじさんではあるのですが、こちらの方をじっと見ておられまして、ついに視線が合います。
「うん?」と思っていると、「ムカイさん?」と、私の名をお呼びになる。
「あっ、イマムラさん?」と、申しましたらば、両方で、
「ハイッ、ハイッ、ハイッ!」となりまして、
そうなんです、この方 イマムラさんという有名な映像ディレクターでして、私とは同年代で、かつて何度か仕事でお世話になっておりました。このところ何年もお会いしてなかったけれど、年賀状などのご挨拶は続いていた方です。そう言えば、この近くのリゾート地の森の中に居場所を移してみますというお知らせはちょっと前にいただいていたんですが、まさか、よりによってこの露天風呂に一緒に浸かっていたとは。いや、お互い驚いて、しばらく風呂の中で4人で盛り上がったようなことです。今回は無理だったのですが、必ずや近いうちにこの森で再会して呑みましょうと約束を交わして別れましたが、それにしても、この時にこの場所で出会う確率というのは、どれくらいのもんだろうかと思ったのですね。
この温泉にはよく来ると言っても、たぶん年に2、3回だし、露天に浸かっている時間は、せいぜい30分40分くらいのものです。そもそもその人がこんなところにいるとは、夢にも思ってないわけですから。
それで、この露天風呂には別の話があって、また思い出したんですが、私3年前の秋に、全く同じ場所、縄文の湯・露天風呂の中で、高校時代の友人に会ってるんです。この人とは、さすがに高校時代以来とかではなく、その少し前に東京で10人くらいの同窓会をやった時に再会はしてたんですが、まさか温泉風呂で会うとは夢にも思っちゃないわけです。
その時も、この人がじっと私を見ているのに気付きます。あちらは4、5人でこちらは3人でしたが、なぜかこの人が私をじっと見ている。で、
「ムカイ?」「コガ?」と、お互い確認し合うまでは、まさかの半信半疑なわけです。見たことある顔だけど、そんなこたあないという気持ちの方が勝つんでしょうか。
私は例によってトシオさんの家に世話になってたんですが、この友人は結構大きな会社の社長をやっていて、部下たちと信州の休日を楽しんでいたようでした。
しかし、びっくりしました。これも確率ということで云えば、ほぼ起こり得ない話ですものね。
こんなことってあるんですねと云うことが、同じ露天風呂で3年間に2回起きたわけで、帰り道にトシオさんが、
「これもう一回あるかもよ。二度あることは三度あるっていうからね」と云いましたけど、
まさかね。でもちょっと、今度は誰かなと期待したりして。

Rotenburo

2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

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このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

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私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。


 

2024年2月13日 (火)

お伊勢参り

このところ、ずっと定期的に帰郷しているんですけど、ひとつには両親が90代の半ばということで、何かと気にかかることが多く、まず父と母と顔を合わせるため、また、いろいろに身体の機能が弱くなっていることで、日頃父母がお世話になっている方々へのご挨拶と聞き取りなど、それと、骨董品となった実家家屋の維持管理のことなど、いろいろあります。
ただこのペースで通っていると、慣れてきたこともありますが、かつて遠く感じていた故郷との距離は、ずいぶん短く感じるようになりました。現に品川ー広島間は、4時間を切っておりますし、なんなら日帰り出来そうなくらいです。初めて上京した時の寝台列車と比べれば、格段の進化と云えます。
格段の進化と云えば、その列車の乗り降りをする駅、ステーションも気が付けばものすごい形に変化しております。考えてみれば、どこも大きな街の大きな駅は、いつでも工事中で、徐々に日に日に巨大化しておったわけで、久しぶりに降り立ってみると、ホテルもデパートもいろんなものが内包されて、すっかりその姿を変えています。
使い慣れていないので、どちらを向いて歩いているのかわからなくなったりして、どうもどこの駅も同じような形とデカさで、なんだかその土地その土地の個性も無くなってきたかなと思うのは、こっちが時代遅れなのかもしれません。明らかにその機能は大きく進化していて、多分ものすごく便利になっているのですよね。端から端まで歩くとへとへとになりますけど。
このところ、地方の大きな駅に降りることが続きまして、東京も広島もそうなんですけど、京都、博多、名古屋、盛岡、大阪なども、皆よく似た巨大な駅になりつつあります。

先日も、家族で広島のおじいちゃんおばあちゃんに会いに行く計画を立てたんですけど、ちょっとついでに名古屋のお墓と神社にお参りして、せっかくだからお伊勢さんにもご挨拶して行こうかということになり、旅程を1日追加してお伊勢参りもすることにしたんですね。_
若い時には何も関心がなかったのですが、そう云えばこの国には古くからお伊勢参りという習慣があって、昔からいろんなお話にお伊勢参りは登場します。これって年取ってくるとわりと身近になってきて、うちの奥さんもけっこう詳しいし、いろいろと身の回りの話題に出てくるようになります。何年か前にもいきましたし、忘れてたんですけど、私、小学校の修学旅行も1泊2日のお伊勢さんでしたもんね。
伊勢神宮は、名古屋の駅から近鉄に乗って約1時間でして、その指定席特急券も今やネットで予約できます。基本的に、外宮(げくう)と内宮(ないくう)があって、ひと通りお参りするとわりと時間もかかるのですが、やはり何やら時空を超えた厳かな佇まいの中、身も心も洗われたような心持ちであります。お参りを終えますと、お札など頂戴して、最後にその鳥居に一礼してその場を辞するのですが、内宮前には、おはらい町・おかげ横丁など、土産物屋や飲食店が軒を連ねており、赤福もちや、松坂牛や、伊勢うどんや、ビールなどをいただきつつ帰路に着きます。たぶん昔の人も、こうやってお伊勢参りしてたんでしょうね。
それにしても、この日も多くの方々が全国から列をなしてお参りしておられまして、やはりここは古くからの日本人の心のふるさとなんだなと感じたようなことです。
やや神妙な気持ちになって、なんだかいろんなことをお祈りしました。そもそも神様と交信する能力などはありませんが、ただ、霊験あらたかでありますようにと。

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2024年1月16日 (火)

2024の年頭に思いますこと

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昨年は、一年中 ヨーロッパや中東での戦禍が伝えられ、日に日に戦況は過熱して、一向に和平への道が見えぬ暗い年になってしまいました。せめて来年は明るい良い年になってほしいと願い、かような呑気な年賀状を書いて、明けた2024年のお正月でしたが、元旦から北陸では大地震が起きて、その方面では本当に気の毒な状況に陥っています。北陸にいる友人知人には安否の確認をし、無事と判りましたが、これから極寒の時節に、いろいろに大変なことと思われます。犠牲になられた方々も多く、やりきれない気持ちです。お正月から神も仏もないものかと。

そのような新年に、私、気が付いてみれば、この世に生を受けて70回目の正月を迎えたわけで、ちょっとびっくりしているようなことなんですね。まあ、いろいろあったにせよ、ここまでたどり着いたことはありがたいことです。
数え年で歳を数えた昔、正月には共に一つ歳をとることから、家族や友人で祝ったそうで、そういう意味でもおめでとうと云うことみたいですが。
ただ、一休禅師の言葉に、こういうのがあります、有名ですけど。
「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
正月はめでたいけど、歳をとるとは死が近づくことでもあると、世の無情をあえて正月に説いたのです。無情を知ることは命のはかなさを知ること、そして日々を大切に生きる者になると。この歳になると、そういう言葉がなんだかじわっと身近になります。

振り返ってみると、歳というのは10才ごとに節目を迎えるところがあります。まず10才になる時は、まだ子供だし、思ったこととかあんまり覚えてませんが、
20才の時は、大人になるんだぞみたいな事を、やたらとまわりからも云われ、自らも、嬉しいような嬉しくもないような、まあ10代後半からは、酒もタバコもやってたんだから、それなりに自覚してたんでしょうか。成人式とかもあるし。私、出なかったですけど。
30才というのは、もう自立はしていて、仕事も人並みにはやっていて、ちょっと生意気にもなりかけているけど、まだ青臭いところもあり、20代の時には、わりと早くに30才にはなりたいようなところがありましたかね。
30才から40才の時は、なんだかいろんなことが起こる時期で、肉体的にも、精神的にも、20代とはまた違った激しい変化がありましたね。ある意味面白いとも言えますが、わりとタフですよね。ということで、ハッと気がつくと40才になっちゃってた感じですか。気がつくと結婚もしていて二人目の子供が生まれたりしていました。そんなことで、あんまり感慨が無いというか、あっちゅうまに通り過ぎたみたいなことです。40才って。
ただ、よくわからないけど50才になることは、ずいぶんと嫌だったんですね、先輩たちもけっこう嫌がっていて、自分が50才になる時になって、その意味や気持ちがわかったんです。自分の大事な何かを失うような、どうしてもその線を越えたくないような、妙に往生際悪くジタバタしてましたね。そういう意味では一番節目を感じたのかもしれませんが。

Tatsu



60才はですね、逆にもう諦めついた気分でしたわ。周りからは還暦とかいろいろ云われるんですけど、あんまり気にもせず、それほど気にもされず、わりと我関せずでしたか、ちゃっかりお祝いなんかは遠慮しませんでしたし、まあ、たんたんとなっちゃったみたいなことでした。
そして、いよいよ70才ということなんですが、完全に未知の領域というか、若い頃から60才までは一応想像がついていたとこがあったんですけど、もちろん生きていればの話として、70才の自分というのがどんなことになってるのか全くイメージがなかったんですね。
60代というのは、なんとなく自覚なく過ぎていきまして、うっかり油断してたら70才を迎えるところに来てしまいました。ここから先は日々想像を超えていくわけで、一日一日を大切にせねばと、殊勝な気持ちになっております。
これからますます経年劣化もしてまいりますし、より強いハートで、のびのび童心に帰って、愛されるジジイを目指そうかという所存です。

本年も、先輩のみなさま、後輩の方々、
今までにも増して、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。

2023年12月25日 (月)

山田太一という人の存在

過日、脚本家の山田太一さんが亡くなりました。何年か前から体調を崩され、執筆をされていなかったことは存じてましたが、報道によれば11月29日に、老衰のため逝去とのことでした。
誠に残念です、ただご冥福をお祈りします。
山田さんが放送作家として残された仕事のリストをながめておりますと、実に多くの名作を、特にテレビドラマの中に見つけることができます。そして、長い時間の中で、その作品群には、かなり強く影響を受けました。なんだか自分の生きて来た大きな指針を失くしたような喪失感があります。
極めて個人的ではありますけれど、自分の時間軸に沿って、その作品を整理してみようと思ったんですね。
最初にこの作家の存在を知ったのは、1973年、私が高校出て上京した年の秋に始まった「それぞれの秋」というテレビドラマでした。タイトルバックに映っていた丸子橋という橋が、下宿のすぐ近くにあることに気づき、田舎もんとして感動しながら、このドラマが本当にいろんな意味でよく出来ていて、毎回、翌週の次の回を待ちきれませんでした。どういう人が書いているんだろうかと思った時、山田太一さんという人だということを知り、その時に、その名前は深く刻み込まれました。
そして1976年にNHKで「男たちの旅路」が始まります。このドラマは4部に分かれて、1979年まで不定期に放送され、当時大きな反響を呼んだ作品でした。主演は鶴田浩二さんで、彼が演じる警備会社の吉岡司令補という中年男性は、太平洋戦争の特攻隊の生き残りで、ドラマの中で今の若者と関わっていくのですが、その中で彼の口癖が、
「今の若い奴らのことを、俺は大嫌いだ。」というもので、
その台詞を聞くたびに、まさにその頃の若者であった自分のことを云われているように感じたものです。若者の役は、当時の水谷豊さんや桃井かおりさんなどの達者な俳優さんたちが演じていましたが、何かとても強くメッセージ性を感じるドラマでした。
1977年の6月には、あの「岸辺のアルバム」が始まります。とてもホームドラマとは言えない、当時の家族とか家庭をえぐる、後にあちこちで語り草となる問題作です。
ただ、私はこのドラマを放送時には観てないんです。1977年というのが私が働き始めた年でして、とても普通にテレビを見る時間に、家には帰ってこれない生活してましたから、山田太一さんの作品はぜひ観ようと決めてたのですが、とても無理でした。
このあたりから、山田さんの作品が次々と放送されるのですが、そんなことなので、たまにしかテレビの放送を見れないわけです。ホームビデオも持ってない頃ですし。でもその頃から有名な脚本家のシナリオは読み物としても面白いこともあり、書籍として出版されるようになっていて、テレビでは観れなくても、本として読めるものはいろいろ増えてきたんです。山田太一さんの作品は、ほとんど放送後になんらかの形で出版されていたので、必ず買って読みました。他にも良い脚本はだいたい本になっていて、向田邦子さんや倉本聰さん、早坂暁さんなどの脚本もずいぶん買いましたね。いまだに家の本棚にずらりと並んでます。
そのころの山田さんの作品、「高原へいらっしゃい」1976、「あめりか物語」1979、「獅子の時代」1980、「思い出づくり」1981、「早春スケッチブック」1983等、やはりどれもほとんど放送は一部しか観れていませんが、活字はすべて読みました。あえて申しますと、全部名作です。テレビで観れば、必ず見事に次の回が気になるように作られてますが、読んでる分には、すぐに続けて次回作を読めるので、ついつい徹夜で読破してしまったりしていました。
結局、最終的にはどの作品も、どうにかDVDなどを探し出して、ずいぶん経ってから観てたりするんですが。
それと、いつも思うのが、そのキャスティングの見事さです。その役者さんを想像しながらシナリオを読んでいると、科白がストンストンとはまっていきます。山田さんにお会い出来たら一度聞いてみたかったことは、どの段階でキャスティングを決められてるのかということなんですね。その都度、いろんな事情で出演者は決まると思うんですが、作者が物語を書きながら、早い段階で配役が決まっていくことも、山田さんの場合多いのではないかと。

Arikitari_2

「岸辺のアルバム」の八千草薫さんとか、「思い出づくり」の田中裕子さんはどうだったんだろうか、「獅子の時代」の大竹しのぶさんも大原麗子さんも素晴らしかったです。もちろん、役者さんが良い脚本に出会ってから輝くということもあるんでしょうけれど、にしても、「早春スケッチブック」の沢田竜彦という役の配役は、はじめから山﨑努さんに決めてから書かれたと思います。
「お前らは、骨の髄までありきたりだ」
という科白を聞くたびに、そんな気がするんです。この作品は視聴率こそ低かったようですが、後々ずっと語られることの多いシナリオです。
この名作と同じ年に「ふぞろいの林檎たち」が始まります。ドラマはいつもサザンの曲が流れている青春ドラマで、結構ヒットしました。1983年にスタートし、1985年にⅡ、1991年にⅢ、1997年にⅣと続きます。山田さんは基本的に続編を書くことをしませんでしたが、この作品に関しては積極的でして、ついこの前に読みましたが、未発表のⅤまで書いておられました。おそらく青春群像劇として始めたこのお話に登場する若者たちと、その家族のその後を考えるうち、次々と繋がっていき続編となっていったのでしょうか。
物語が始まった時、主人公の3人の若者が通っている三流私立工業大学の設定が、どう考えても多摩川沿いの私の出身大学で、たぶん山田さんはかなり取材をなさっただろうし、脚本を読んでいるとリアルだなあと思いました。そんなこともあり、このシナリオは自分の時間と重なるところがあって他人事じゃないんですが、この方が、よくありがちなただ爽やかな青春ドラマを描かれるはずもなく、20代、30代、40代と、この物語の主人公たちは、コンプレックスや鬱屈や葛藤を抱えて、人生の泣き笑いをかみしめながら歩いてゆきます。
その頃には他にも、NHKで笠智衆さんの配役で書かれた、「ながらえば」1982、「冬構え」1985、「今朝の秋」1987、ラフカディオ・ハーンを主人公に描いた「日本の面影」1984、「真夜中の匂い」1984、「シャツの店」1986、「深夜にようこそ」1986、
その後も「チロルの挽歌」1992、「丘の上の向日葵」1993、「せつない春」1995、「春の惑星」1999、「小さな駅で降りる」2000、「ありふれた奇跡」2009、「キルトの家」2012、「ナイフの行方」2014、「五年目のひとり」2016、等
クレジットに山田さんの名を見つけると録画して必ず観るようにしていましたが、リストを見ていると、それでも見落としているものもわりとあって、この方が残された仕事の数に愕然とします。
それにしても思うことは、山田太一という人は、いつも生みの苦しみの中にいて、自ら発するもの以外は脚本として書かなかったんじゃないかということです。だからこそ、山田さんの作品には常に作家性を感じるわけで、その魅力に、ぜひドラマとして完成させたいというプロデューサーやディレクターが大勢いて、その登場人物を演じたいという日本中の力のある俳優さんたちが、その出番を待っていたんではないかと思います。私の周りにも、この人の作品に影響を受けたファンはたくさんいて、たまに有志で、山田太一を語る会を開いたりしておりました。
もう一つ記しておきたかったのが、山田さんが寺山修司さんと、早稲田の同級生で、何年にも渡って深い友人関係であったことです。寺山さんは、歌人で、劇作家で、映画監督で、小説家で、作詞家で、競馬評論家でと、時代の寵児でして、僕らの世代は大きな影響を受けた人です。
その二人の交わした書簡を、2015年に山田さんが本にされています、実に良書でした。私がずっと尊敬していた二人の表現者が強く関わっていたことを知り、あらためて感動したようなことでした。
そして、1983年、享年47歳で寺山さんは、肝硬変で亡くなります。
以下、葬儀に山田さんが読まれた弔辞からの抜粋です。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。
大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れて自分のアパートに帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるようなことをしました。
それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。
あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。
私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、
あなたは実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、ようやく改札口を出て、
はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。

Terayamayamada_2


お二人が、大学で初めて会われたのが、1954年で、私が生まれた年です。この方たちと同じ時代に存在できて、その作品に、言葉に、触れることができたことに、今となっては、ただただ感謝したい気持ちです。
今回は、長い時間の話となり、ずいぶん長い文になってしまいました。もしも最後まで読んでくださった方がいらしたら、一杯奢りたい気分です。

ところで、お二人は、今ごろ向こうの世界でお逢いになったでしょうか。
「ずいぶんと、遅かったじゃないか」
「ああ、すまん、さて話の続きでもしようか」
みたいなこと、おっしゃってるんですかね。

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