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2025年9月29日 (月)

父との別れ

8月の26日に、父が身罷りました。
当日の朝早くに、お世話になっている施設の看護師さんから電話があって、呼吸が浅くなっているとの知らせをいただき、急いで広島に向かいましたが、その臨終には間に合いませんでした。
主治医から、すでに老衰の状態であるということを聞いてはおりましたが、最後は眠るように安らかであったとのことで、その表情はしごく穏やかでありました。
ここしばらくは、会っていても、話をするのも難しくなっており、本人も自分の身体のあちこちがなるようにならず、何かとしんどかったと思います。この何年かは本当によく頑張ったんだなと、思い返しました。目を閉じたその表情は、少しホッとしたようにも見えたんですね。

そこからは、急に忙しく葬儀を執り行うことになります。感慨に浸ってる暇はありません。
父は広島のこの地が生まれ故郷であり、長く暮らしましたので、地元の親戚や友人も多かったのですが、96歳となりますと、その多くの方々もほとんどいらっしゃらなくなっておりまして、家族葬という形になりました。長い時間の中で、何度か覚悟したことでしたが、やはり切ないものではありました。
父は昭和3年の生まれですので、その成長期はまさに戦時中です。昭和6年の満州事変から、日本は大陸で常に戦争状態で、昭和16年には太平洋戦争が始まり、4年後の敗戦までこの国の戦時体制は終わることなく、その最後に、父は広島で被爆することにもなります。
子供の頃から、いつも国が戦争をしていたという大変な時代を生きた世代でして、戦後に生まれた我々からはちょっと想像がつかない時代です。
世の中がガラリと変わって戦後が始まった頃に、父は大人になるのですが、子供の頃から勉強ができる人だったようで、京都大学の法学部に進みます。そこから大手造船会社に就職して、わりとすぐに母と結婚し、もう戦後は終わったと云われるようになった頃、私が生まれます。やがて弟も生まれ、転勤があったり、入院があったり、いろいろあったんですが、何ごとにも一生懸命な頼りになる父でした。
サラリーマンで、ずっと勤め人として働いた人で、おそらくいいことばかりじゃなかったことも、息子なりに多少感じたりもしましたが、仕事のことで愚痴をこぼしたのを聞いた覚えはありませんでした。
それからしばらくして、私が中学に入ってから、うちの家族にはショックな出来事がありまして、弟を病気で亡くしたんですね。その直後に父は会社を辞め、故郷に帰って再就職をします。一人減って三人になったうちの家族は、広島に転居することになりました。
そのような事で、私は中学の途中から高校までを広島で過ごし、のちのち父と母の期待に応えて生きようと思っておりましたが、なんとなく東京の方へ出て行って、その後、将来へ向けてのきちんとしたビジョンもないまま、フラフラしており、心配ばかりをかけて申し訳なく思っておった次第です。
ただ、父は、私のちょっといい加減な進路の選択には、必ず理解を示してくれ応援してくれました。そのことは励みになりましたし、感謝をしています。それから私は結局ずっと東京で暮らしておりましたので、実家には戻らぬままでしたが、父も母もいつも気にかけてくれていたことは、よくわかっておりました。ちゃんとした礼も言わぬままでしたが。
親孝行などということは、何もできておりませんが、二人の孫が生まれたことはひどく喜んでくれました。
そういえばずいぶん前、まだ元気な頃に一度、うちの会社で作ったビールのテレビCMに父と母が出たことがあって、二人ともビールが好きでしたから、それはうまそうに飲んでいて、地元の人たちの間でずいぶんと話題になったんですけど、その時は、照れながらも少し嬉しそうにはしておりましたね。

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葬儀が終わり、父がお世話になっていた施設にご挨拶に行った時に、担当してくださった若い介護士の方々から、生前の父のことを聞かせていただきました。シャイなところはあったけれど、とても気持ちの伝わる人で、笑い顔がチャーミングだったと。何かしてあげると、必ず「ありがとう」を云ってくれていたと聞き、ちょっと身内としては嬉しかったんですね。
やがて訪れることになる別れでしたが、96歳まで長生きしてくれて、この何年かはしんどい事も多かったけど、70年も親子でいれて、感謝です。
生きてるうちに、ちゃんと言っとけばよかったです、ありがとうございました、と。

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