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2026年2月 6日 (金)

大学生の頃を思い出したテレビドラマのこと

映画が封切られた時に、観に行こうかどうしようか迷っていたのですが、ちょうどその日に用事があって、日比谷まで出かけたもんで行ってみたんですね。そうすると映画館は私くらいの年齢の方々が、びっしり座っておられました。
約50年前に「俺たちの旅」というテレビドラマがあったんですが、その半世紀後の現在を描く映画です。
テレビ放送は、1975年の10月から約1年間、日曜の夜8時からでしたが、その時、私、大学生で、3年生から4年生にかけての頃で、落第しそうだったもので、仕方なくですが、珍しく冬にはわりと勉強してまして、ま、他にもいろいろあって下宿にいることが多くてですね、このテレビドラマは時々見てたんです。自分と同年代の大学生たちが主人公で、感情移入しやすかったこともありますけど。
鎌田敏夫さんという脚本家が、描こうとしていることが、時々こちらにフィットしたのかもしれません。連続ドラマなのだけど、これといってつながってるストーリーがあるわけではなく、たまに見るといつも同じようで、自分と同年代の若者が、これといったビジョンもなく、フラフラとその場しのぎに生きていて、その時その時に出会う人や出来事で、いさかいが起きたり、仲良くなったり、失恋したりと、毎回いろんなことになるわけですよ。

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この時期は、もうすぐ4年生に進級するんで、私の周りでは就活が始まっており、えらい就職難の年でしたし、なんだか重苦しい空気でした。勉強は苦手だったし、卒業して世の中に出たら、どんなふうに生きていくんだろうか、全くよく見えてなかったし、中には見えてる人もいたけど、個人的には、ただ漠然と日々を送っておりました。そうすると、このドラマの主人公たちも、日々そんなふうで、ああ、こういうのもありかなと思ったら、ちょっと楽な気分になったんですね。
ただ、そんなふうに無気力で刹那的なドラマかといえば、そういうことでもなく、ちゃんと元気が出る青春ドラマみたいなとこもあって、なんとなく自身と比べながら、中村雅俊さんをはじめとしたキャストたちを応援してるところもあったかもしれんです。そういうことで、その間、毎週真剣に観てたわけじゃないんだけど、なんかちょっと身近な存在にはなってたんですね。
映画になったからかもしれませんが、1975年に放送されていたこのドラマが、最近またBS日テレで再放送されていて、10年後の1985年と、20年後の1995年にスペシャルドラマも作られていたことも知りました。根強い支持のあるシリーズだったんですね。 
今回の映画は、50年後の現代に、彼らがどうなってるかみたいなお話です。
もう、そうなると映画の出来がどうこうということじゃなくて、あの若者たちが50年の時を経て、ここにどんなふうにいるのかということを確かめたくて、みんな映画館に集まって来てるようなところがありました。いずれにしてもなかなかないことではありますね、半世紀だし。

このドラマの記憶を探る時、まず浮かぶのはテーマ曲でして、オープニング曲もエンディング曲も、このドラマの気分に寄り添っていて名曲なんです。主演の中村さんが唄っていますが、作詞作曲は小椋佳さんです。
ますます古い話になって恐縮ですけど、高校生の時、音楽聴くのは、家にプレーヤーもアンプもがなかったから、ラジオとカセットテープでしたが、その頃、小椋佳という歌手は、地味に現れてきたんですね。自分で曲を書いてるみたいで、なんかいいなと思ってたんですけど、「彷徨」というアルバムがけっこう評判になって、少しずつ話題になっていきました。歌詞も曲も静かなんだけど、なんかはっきり作家性を感じる強さがあると思いました。そして、1975年に「シクラメンのかほり」という曲が大ヒットします。1976年には、資生堂のCMキャンペーンソングとして「揺れるまなざし」が、街中で流れていました。
だんだん頭角を現してくるこの人は、けっこう謎の人で、そのうち、実は銀行マンで、それも東大出のエリート行員だということがわかってきます。少し遡りますが、高校の時にラジオにこの方が出演されたことがあって、そのことを知ったんですけど、その時、とても感じのいい青年で、でもとてもかしこそうで、あの歌たちを書きそうな人で、声がめちゃ二枚目で、いっぺんに好きになりましたが、はたしてどんな顔した人だろうかと想像してたんですね。そして何年かしてテレビに出られた時に、勝手に思ってたのととてもギャップがあったのを覚えてます。
それからも、次々に曲を生み出し、ヒットも飛ばし、アルバムも売れ、着実な音楽活動をしながら、49歳までエリート行員の仕事も両立されたそうです。シンガーソングライターだけど、楽譜を書き起こせなくて、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にして、カセットに録音するという手法で、あれだけ名曲作っているのは驚きでしたが。

「俺たちの旅」

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夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく白い 長い壁
足跡も影も 残さないで
たどりつけない山の中へ
続いているものなのです

夢の夕陽は コバルト色の空と海
交わってただ 遠い果て
輝いたという 記憶だけで
ほんの小さな 一番星に
追われて消える ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
  ・
  ・
  ・

「ただお前がいい」

ただお前がいい
わずらわしさに なげた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎてきた
青春のかけらが 飛び跳ねて見えた

そのくり返しを
そのほほに写してた おまえ
また会う約束などすることもなく
それじゃまたなと別れるときの
お前がいい
  ・
  ・
  ・

 

2025年10月27日 (月)

70年も前の映画なんだが

Seven_samurai_2 「七人の侍」新4Kリマスター版 3週間限定上映というのがありましてですね。そりゃこうしちゃあいられねえってわけで、朝の9時から新宿の東宝まで行ってきました。

皆さんよくご存知の黒澤明監督の大作で、世界中が絶賛した名作なんですけど、私が生まれた年の公開ですから、もう70年も前の映画なんです。
そういうことなんで、もう何遍も観ていて、シーンによってはセリフも覚えてるくらいなんですが、そういえば、大きなスクリーンで3時間半、通しで観たのは遥か昔のことで、もう一回ちゃんと観ておきたいとは思っていたんですね。

最初に観たのはよく覚えてないんですけど、たぶん中学か高校の頃、映画館でリバイバルの上映だったか、もしかしたらテレビだったか忘れてますが、とにかくものすごく心を揺さぶられて、茫然自失になったことを覚えています。
なんだかよくわからないけど、観ているうちにあの世界に入っていって、侍と農民たちと一緒に、野武士軍団と闘っている自分がいるんですよね。そういう感覚になる映画ってそうはなくてですね、ずいぶん久しぶりに見ても、やっぱりそういうふうになるから不思議です。
監督もスタッフも俳優さん達も、もうあらかたいらっしゃらないんですけどね。
時代劇ではあるんですけど、出てくる人たちや風景に、妙にリアリティがあって、前からなんでだろうとは思っていたのですけど、それはもちろん技術的にすごく上手に作られてるんだろうが、ひょっとして、それってこの映画が封切られた時代にも関係あるのかなとも、思ったんですよ。
この物語はシナリオ上、どうしても生きるか死ぬかの戦いを描いており、一般人を巻き込んだ小さな戦争の中で、次々に人が死んでいくことになります。主人公の七人の侍も、残ったのは3人だし、野武士は全滅だし、村人達もずいぶん亡くなります。
この映画の持っているリアル感は、制作側の意図とかというより、あの敗戦からまだ9年しか経っていない、あの時代の空気が映っているような気がしたんですね。私が生まれたばかりのあの頃、世相は色濃く戦争を記憶してたと思うんです。

ずいぶん長尺の映画なんで、多少忘れてる場面があったり、シーンの順番が思ってたのと逆だったりすることはあるものの、その世界感がしっかりと記憶と結びついている映画であることは間違いないですね。
先日亡くなったうちの父は、映画好きで、私がずいぶん小さな時から、自分が見たい映画には、かまわず連れて行く人でして、私も機嫌よく黙ってずっと観てる子だったようで、洋画も邦画もたくさん見せてもらったんですけど、子供心にクロサワカントクという人のことはおのずとインプットされたようでして、やがて少し大きくなって、この名作に出会ったと記憶しています。
すごく個人的なことなんですが、何年も前に自分たちで作った小さな会社の代表を務めることになった時に、あんまり覚悟ができてなくて、どんなリーダーを目指すのが良いのだろうかと思って、いろんな人のことを巡り浮かべた時に、この「七人の侍」で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のことを思い出したんです。実際にそこから何かを参考にしたわけじゃ無いんですけど、気持ちのどこかに島田官兵衛という人を覚えているようにはしようと思ったんですね。

自分が生まれた年に封切られた映画なのに、何度観ても、同じ読後感だなあと思いながら映画館の出口の方へ歩いていたら、後ろからポンと肩を叩いた満面笑顔の人がいて、よく見たら何十年もお世話になっている、新宿の老舗居酒屋「池林房」の店主のトクちゃんでした。
やっぱ、この年代の人は、この映画を何遍でも観に来るんだなと思ったんですね。

2025年1月10日 (金)

ある日の映画館で沁みた荒木一郎

昨年の12月に、映画を一本観に行ったんですね。それは、うちの会社で制作しているTVCMに出てくださり、お世話になっている女優さんが出演されてる作品だったからでして、何となく渋谷に出かけて、なんの予備知識も無く観たんですが、これがすごくいい映画で、気が付けば、終盤のあたりで泣けたりしたんです。
どんな風によかったのかと云えば、説明するのがむつかしいのですけれど、普通の日本の現代劇でして、その女優さんのまわりにいろんな人が出てきて、ひとつの悲しい事故が起きるところから、いくつもいろんなエピソードがあるんですが、ここに出てくる人たちが、どの人もほんとにいい人ばっかりなんですね。
そういうような設定って、最近の映画とかドラマとかにあんまり無くて、普段あんまり見かけないタイプの映画なんですが、なんだか終わりが近づくほどにハラハラと涙が出てきたのですよ。
それで、エンドロールの時に流れてる歌を、この女優さんが唄ってらっしゃるんですが、これが実にじんわりと胸に沁みたんですね。この方は、普段あんまり歌とかを唄われている印象がなかったのですが、この歌は詞がこの映画の文脈にも沿っており、彼女の歌声もこの曲にすごくマッチしていてとても素敵な歌でした。
そしてクレジットタイトル読みながらその歌を聴いていたら、ふと
「この歌、知ってるな、オレ」と思ったんですね。
そしたら、エンドロールに曲名と作詞作曲が誰かが、記されていました。

「夜明けのマイウェイ」作詞作曲・荒木一郎

まったく個人的な話ですが、この人が作って唄う曲が昔から好きだったんですね。たぶん私が中学生くらいの頃にけっこう売れた人で、その頃、自分で作った歌を自分で唄う、いわゆるシンガーソングライターという人はまだあまりいなくて、今はそういうのが当たり前ですが、当時は、他には、加山雄三さんがそうだったくらいだったと思います。
加山さんは荒木さんより少し年上でしたが、歌手デビューは同じ頃だったと思います。もともとは映画俳優で、作曲も演奏もできてスポーツ万能で絵も上手で、慶應ボーイで、すごく人気者でした。たくさん名曲があります。同じ茅ヶ崎出身の桑田佳祐さんは、加山さんのことを、ほんとにリスペクトして育ったそうです。世代としては私も桑田さんと同じあたりです。
荒木さんも音楽活動のかたわら、俳優として映画やテレビに出演なさったり、小説を書かれたり、多岐にわたって活躍します。
同時期に音楽活動をして、たくさんのヒット曲を作った二人ですが、加山さんが太陽なら、荒木さんは夜空に浮かぶ儚い月のような印象がありますね。どうも荒木さんは基本的に不良っぽくて、そこが魅力でもありました。
何と云っても、荒木さんのデビュー曲の「空に星があるように」は、詩もメロディも声も忘れられぬ名曲です。この歌に代表されるような、この人の繊細でナイーブなトーンは、そのあと、数々の荒木一郎節を生んで行きます。私は多感な時期に、折に触れてそれらを聴いてたように思います。
ともかくその女優さんのおかげで、年末の渋谷で、ちょっといい映画に出会えて、そして沁みて、奇しくも久しぶりの荒木一郎さんにも会えて、なんだか懐かしい心持ちになったのでした。

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(歌詞)
悲しみをいくつかのりこえてみました
ふり返るわたしの背中に
まだ雨が光ってます
走っている途中でときおりつらくなって
ふりかえりあなたの姿を
追いかけてみもしました
でも夜はもうじき明けてゆきます
今迄と違う朝が ガラスのような
まぶしい朝が 芽生え始めています

悲しみをいくつかのりこえてきました
ふり返るわたしの後ろに
ほら虹がゆれてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

もう昨日は昨日 明日は明日
今迄のことは忘れ
花びら色のさわやかな日を
迎え始めています

悲しみをいくつかのりこえて来ました
ふり返る 私の向こうに
青空が見えてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

2024年11月17日 (日)

1958 長編アニメ映画「白蛇伝」

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今年も、そろそろ来年の干支はなんだっけと思う時分になりまして、で、来年は巳年(へびどし)なのですね。
そんなことを考えてるうちに、「白蛇伝」というアニメ映画を思い出しました。
昭和33年の秋に公開されたようで、その時に観たことはよく覚えてるんですけど、どんな映画だったかは上手く説明できなくてですね、ところどころ印象には残ってるんですけど、私4歳児でしたもんで。
そこで、調べてみたんですが、1958年10月の公開、オールカラーの79分で、中国の民話の「白蛇伝」が題材になっています。
日本初の長編カラーアニメ映画、当然ながら、長編アニメ制作のシステムは確立されておらず、他国のアニメの研究から始まり、アニメーターの養成や撮影機材の開発にも着手し、2年がかりの仕事であったとあります。
ありがたいことに、今はこういう作品をネットとかで観ることができるので、あらためて鑑賞いたしましたが、なかなかによく出来ておりまして、この年、芸術祭参加作品で、海外で賞を獲ったりもしています。何より、今までに観たこともなかったアニメーションの魅力が満載で、その完成度も高くて、とても大きな反響があったんだろうなと思います。

そして、この作品の制作に携わったスタッフは、その後のアニメ界を牽引する役割を担っていったといわれています。公開時、高校3年生で受験生だった宮崎駿氏は、この映画に感動してアニメーションに関心を持つ大きなきっかけになったそうです。
そして、そこから長編のアニメ映画は定期的に制作されるようになりました。その映画が公開される度に映画館に駆けつける子供時代だったんですね、ぼくらは。
「白蛇伝」1958年に始まり、「少年猿飛佐助」1959年、「西遊記」1960年、「安寿と逗子王丸」1961年、「シンドバッドの冒険」1962年、「わんわん忠臣蔵」1963年、などなど、でも、どれも名作でした、よく覚えております。

我々の世代は、子供時代に漫画という文化が、勢いを持って広がり続けておりまして、その大きな流れを作ることになる、週刊少年漫画雑誌の「少年マガジン」「少年サンデー」は、1959年に創刊されて、子どもたちをすでに魅了しており、当時あまりに子供たちが漫画に夢中になるので、勉強もしないし本も読まないし、このままではろくな大人にならないと思われていたようで、大人たちはそれを禁止したりもしましたが、その流れはなかなか止まりませんでした。
やがて人気連載漫画は、テレビでアニメ化されるようになり、1963年、最初は「鉄腕アトム」でしたが、「鉄人28号」「エイトマン」「狼少年ケン」なども続きます。
考えてみれば、物心ついた時には、漫画雑誌とアニメ映画とテレビアニメは普通のことだったわけで、それ以外にも、王道としてのディズニーアニメもあったわけです。

個人的には、大人になって広告の映像を作る仕事をするようになってから、アニメーションという手法はずいぶんと使わせていただいているんですけど、今の最先端の技術は、コンピュータを含めてものすごいところまで進化しておりまして、これは本当に長い時間をかけて試行錯誤を重ねてたどり着いている技術ですけど、常に変化している領域でもあります。
そんなことで、アニメーションの世界は長く見てきたつもりですけど、1958年に初めてトライされた「白蛇伝」というアニメ映画は、たしかに昔の技術ではあるけれど、なんとも言えぬこの時にしか出せなかった手触りのようなものが感じられます。4才の時の記憶が妙に鮮明だったのはそのようなことがあったんでしょうか。
昔の映画や小説が今も色褪せない魅力があるのと同じことなんでしょうかね。
現代の子どもたちが、やはりアニメに夢中になっている風景を見るに付け、これはすでに我々の民族性と呼べるものなのかもしれんですな。

2024年5月29日 (水)

ついに黒部に立ったのだ

5月の中頃に家族で旅行したんですけど、これが一泊二日の黒部渓谷、黒部ダムを巡る旅でして、なかなか盛り沢山で、そしてなかなか感動だったのです。少し前に奥さんが申し込んだツアーで娘と私も参加して3人の予定だったのですが、最近急に大阪から東京に転勤になった息子も来ることになり、久しぶりに家族4人で旅することになりました。それはそれで良かったんですけど、朝7時に八重洲口集合みたいな弾丸ツアーの趣もあり、初日はトロッコ列車で新緑の黒部渓谷を満喫し、宇奈月温泉一泊、翌日立山アルペンルートを一気に縦走し、黒四ダムへという一連の流れなのですが、このスケジューリングが実によく出来ており、さすが手馴れたプロの仕事で、元制作部をやっておった私から見ても、よく出来た香盤表でありました。
というような2日間のコンパクトな体験でしたが、この黒部という場所には個人的にちょっと特別な感慨があったのですね。昔も書いたことあるんですけど、私が中学一年生の時に「黒部の太陽」という映画が公開されて、大ヒットしたんですが、これが難攻不落の黒部渓谷に巨大ダムを建設するための、世紀の難工事を描いた人間ドラマでして、背景には戦後復興をかけたこの国の電力問題を解決するという悲願がありました。
当時13歳の少年であった私は、最もわかりやすく感動し、影響を受けてしまい、将来は土木技師になることを胸に誓ってしまったわけです。一応高校を出ると上京して大学の工学部の土木工学科というところに入るのではありますが、ま、いろいろありまして卒業してから土木技師になる事もなく、今の仕事についてしまうわけです。
土木の仕事に就くことは、自身の適性も含め無理だったということはわかっているので、諦めはついているのですが、ことあるごとに、いろんな人に、いかに私がこの映画に影響を受け、黒部という場所にいかにこだわりを抱いているかということを、ある時は酔っぱらったりしてくどくどと語るわけですよ。なので親しい人たちは、そのことはよくご存知ではあるんですね。
そこで、先日、結婚して30年以上経つうちの奥さんから、
「ところで、今までいろんなところに行ってるみたいだけど、黒部には、行ったことあるの?」
と聞かれまして、
「いえ、一度も行ったことないです。近くまで行ったことはありますが」
と申しましたら、心底あきれておりました。少年期のいきさつからも、とっくに訪ねておかねばならぬところでしたのに、、、ということで、家族のおかげで想いを果たせたわけです。
黒三ダムに向かうトロッコ列車は、能登震災の影響で最後まで行けませんでしたが、十分に黒部渓谷の新緑の木漏れ日を浴びることができて素晴らしかった、そして、翌日標高475mの立山駅からケーブルカーと高原バスで急峻な斜面を登り続け、標高2450mの雪の大谷で雪原を堪能し、ここからはトンネルトロリーバスと急降下のロープーウェイとケーブルカーで、標高差約1000mを下って黒四ダムに着きます。
見事なダムです。ああ、これが、黒部ダムなのですね。小雨混じりの曇天に現れた大土木建造物、しばらく眺めておりました。なんていうか、この大自然の中に、人間が叡智を尽くし、7年の歳月と1000万人の手によって造られた創作物なんですよね。
さすがに、奥さんも娘も息子も、えらく感動しておりました。
それにしても、ダムの上から真下の谷底を見ましたら、完全に足がすくみ上がりまして、ああ、この場所を職場にすることは絶対に無理であったなと、あらためて確認したようなことでした。

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2023年10月18日 (水)

「PERFECT DAYS」という映画

まあ、昔から映画が好きで、常になんやかやといろんな映画を観てるんですが、コロナもあってこのところ本数は減っております。ただ根が好きなもんでわりと観てはいるんですけど、見渡してると、映画界には国内も国外も新しい才能が次々出てくるし、技術の進歩も目覚ましく、映画館へ行けば常に新しい何かを見せてくれます。
ただ、古今東西の多くの映画を観てきて、その表現のさまざまな手の内も知っていたり、そもそもこっちも歳をとってきて、感受性が鈍くなってきていることもあり、最近、その作品そのものが、深くこちらの内側に入ってくることがあんまりなくてですね。ただ読後感として、面白かったとか、いい映画だったとかいうことはあるんだけど、なんだか若い時の、観た後に忘れられない映画みたいな経験は、このところなかったんですね。

それで、この春に観た映画の話なんですけど、「PERFECT DAYS」という映画でありまして、なんだか久しぶりに響いたんですね。
東京で公共トイレの清掃員をしている、ある物静かな男の日常を、カメラはただ見ているのですが、映画はその仕事ぶり、暮らしぶりをドキュメントのように淡々と描きます。ただ、観客としての自分は、なぜかそこから目を離すことができません。気がつくと自分は、主人公の平山という男のすぐ隣にずっといて、ゆっくりその世界に引き込まれて行きます。
男は下町の安アパートに一人で暮らし、暗いうちに起きて、清掃の仕事の装備をした自分の車で都心へと向かいます。トイレ掃除が終わると、下町に戻り、銭湯に入って、立ち飲みで一杯、アパートに帰って静かに本を読む暮らしです。一人の部屋には、大量の本とカセットテープが整然と並んでいるのです。
そこからはラストに向かって少しずつ、まわりの人とのかかわりの中、映画としての様相を呈していきます。そして、この映画全体に、木漏れ日の映像が大切な役割を果たしており、音的には、車の中にカセットテープで流れる60年代〜70年代のロックが重要な脇役になっています。ある意味、音楽映画とも言えるくらいに。
この映画は12月に公開される予定で、東京国際映画祭のオープニングを飾ることになっていて、すでに世界中から高い評価を受けています。

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どうして、こんなに魅力的な映画が出来上がったのか。それはいろいろあるんですが、やはり、監督・脚本のヴィム・ヴェンダース氏によるところ大ではあります。
1984年「パリ、テキサス」
1987年「ベルリン・天使の詩」
1999年「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
2011年「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」等
現代映画における最も重要な一人とされるドイツの名匠。
これらの作品は映画ファンであれば誰もが観ていると思います。
ヴェンダース氏は、この物語の中に住む平山という清掃員を紡ぎ出しました。この映画にとって最も重要な存在。そのキャストは彼がずっとリスペクトしてやまない俳優、役所広司です。
映画を観て、このキャスティングなしに、この作品はあり得ないと思えます。カンヌ国際映画祭で、最優秀主演男優賞を受賞したのも、納得できます。まったく、この国が世界に誇れる俳優といえます。
それと、ヴィム・ヴェンダースという映像作家が、長い歴史の中で、ずっと日本を、東京を注視し続けていることは、この映画が生まれる背景として非常に重要なことであります。よく知られていることですが、彼は映画監督の小津安二郎を大変敬愛していて、1985年に小津映画の中にある失われたユートピアを求めて東京を彷徨い、「東京画」というドキュメント映画の名作を作っていますが、これも今回の映画につながる何かを感じずにはおれません。
映画を観終わった時に、すごく揺さぶられたのだけど、今までに観た映画には全く感じなかった、何か別な新しいものに出会った気がしたのは確かで、この作家にはいつもそういうところがあるのですが。今回、共同脚本とプロデュースを担当したクリエーターの高崎さんが云われてたんですけど、シナリオ作りの途中で、この映画のテーマは何かとヴェンダースさんに聞いたとき、監督は、それが言えるなら映画をつくる必要はないよと、微笑んだそうです。
なんだかモノをつくる時の姿勢というのでしょうか、深い仕事ですよね。
 
この度ちょっと自慢したかったことが、この素晴らしい映画の製作プロダクションを私共の _spoon.inc が担当したことでして、いえ、私は全く何もしていないのですが、うちの会社の頼りになる後継者たちが、プロデューサーとして、若いスタッフとして、みっちりお手伝いさせていただいたんですね。映画界の世界的な巨匠、スタッフ、キャストたちと、この仕事を達成させることは、これから大変な勲章となると思います。
しかしながら、実際の制作・撮影の現場は、無茶苦茶えらいことだったと聞きました。監督は、ドイツが誇るインテリでアーティストで優れた教養の持ち主なのに、常に謙虚で誰からも尊敬される本物の紳士なのですが、撮影が始まると、ただの我儘なじいさんだと、皆が親しみを込めて言っています。そうじゃなきゃあんな映画は撮れないとも思いますが。

これは映画とは関係のない話ですが、ヴェンダースさんのチャーミングなエピソードをひとつ。
そもそも、ヴィム・ヴェンダースさんとは、カメラマンでもある彼と彼の奥様が日本で写真展をおやりになった時に、その写真展のセッティングを弊社でやらせていただいたことがあったんですが、2006年に表参道ヒルズの開業にあわせてのイベントでしたから随分前ではあります。それから何年かして、夏にご夫妻が来日されたことがあって、ちょうど神宮の花火大会の頃で、うちの会社からよく見えるもんで、是非どうぞとご招待したんです。この時200人くらいはお客さんが来ていたと思いますが、私、屋台じゃないですけど、鉄板で広島風お好み焼きを焼いておりまして、多分70枚くらいは焼いたと思うんですけど、そしたら、そこに長蛇の列ができちゃって人が溢れてたんですよ。そうすると、列の一番後ろに、背の高い長髪の紳士が、ちゃんと紙皿と割り箸持って並んでるんですね、世界のヴィム・ヴェンダースが。で、まわりの奴らもまさかそんな大変な人がいるとは思ってないから、まあ、ほったらかしにされてるんですね。本人もなんだかニコニコして機嫌良さそうなんですけど。で、私あわてまして、
「ヴェンダースさーん、あなたはスペシャルゲストだから、一番前に、ここにきてくださーい。」
て、よくわからない英語で叫んだんですね。
そしたら、ニコニコしながら、まわりの人にスイマセン、スイマセンと言いながらやって来まして、私が焼いたお好み焼きをオイシイ、オイシイと言って食べてくださいまして、、
昔から憧れて大ファンだった映画監督に、私の焼いたお好み焼きを食べてもらったという、ただの自慢話ですけど。

2023年1月30日 (月)

わが街映画館との長い付き合い

この何年か、コロナの影響で、映画館で映画を観るということが極端に減っていますが、先日その合間に、必ず観ようと決めていた「スラムダンク」を、大きなスクリーンで鑑賞することができたんです。で、家に帰って家族に話していたら、なんかもう一回観たくなって、数日後、私としては珍しく、奥さんと娘と三人で、休日のドルビーステレオ大画面のプレミアムシートで観てしまいまして、原作・脚本・監督の井上雄彦さんの全く妥協のない姿勢に改めて感動しつつ、我が家は3人とも大満足して帰ってきたんですね。
そこで、昔の映画館とは勝手が違ってきてはいるけど、やっぱり映画館で映画見るのは良いもんだなと、つくづく思ったんです。考えてみると、この場所は大げさに言えば、私の人生の節目節目にいろんな指針を与えてくれた場所でもあります。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、ハラハラしたり、セイセイしたり、ポロポロ涙したり、ムラムラと怒りを覚えたり、誰かに憧れたり、誰かを思ったり、過去を振り返ったり、未来を空想したり、異国の風景や文化に触れたり、この闇の中で実にさまざまなことを教えてもらってきました。
この空間が、この先どのように進化して行くのかわからないですが、個人的には物心ついてからここまでは、長い付き合いになります。
子供の頃、街を歩いていれば、あちこちに映画のポスターが貼ってあり、どの街にもいろんな映画館があって、遠くからでもわかるような大きな看板が掲げてありました。その場所に一人で入るようになったのは、15歳くらいからでしょうか、その頃は広島に住んでいましたが、邦画も洋画も、実にたくさんの映画館が、まだありましたね。

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高校の時は、あんまり勉強もしないで部活もしないで、放課後はわりと1人で映画館にいることが多かった気がします。ロードショウは料金も高くてしょっちゅうはいけないんですが、いわゆる封切館じゃなくて二番館もあって、いつだったかちょっと前にアメリカで大ヒットした「卒業」が掛かっていて、その併映が、「ウエストサイドストーリー」だったりして、地方ならではの不思議な贅沢を味わえたりしてました。片や低予算の佳作でニューシネマと云われた新感覚の話題作、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスとアン・バンクロフトの三人で持たせてる映画、片や1961年に公開され、語り継がれたミュージカルの超大作は、この時点でも全く古びていない名作でした。いやこの二本立てには痺れましたね。
それからしばらくして、東京に出てくるんですけど、驚いたのは映画館がやっぱりデカくて立派なことで、どの繁華街にもそれなりの規模の映写環境が充実しておりました。それに加えて、いわゆる名画座が実にたくさんあって、これは嬉しかったです。ちょうどその頃、雑誌「ぴあ」が創刊されたんで、東京中の映画館に掛かっている映画は、これ見れば全てわかったんですね。レンタルビデオ屋も何もない頃、たくさんの映画を観れることに関して、やはりこの街は1番でした。
久しぶりに大きなスクリーンで映画鑑賞して思いましたが、やっぱり良い映画は映画館でみなきゃダメですよね。うっかりつまらないのを観てしまって失敗することもあるけど、すんばらしい映画をビデオや配信で観ちゃった時には、あーこれは映画館で観りゃよかったなあー、などと嘆くこともあります。
ともかく「スラムダンク」には、私、すっかり参ってしまったわけでして、これは必ず映画館で見るべき映画です。
井上雄彦さんが原作者として素晴らしい作家であることは、よおくわかっていることではあるのですが、今回、映画監督としての井上さんは、歴代の名監督たちに比べても全く引けを取らぬ、黒澤さんやスピルバークさんに匹敵する仕事されたと思いました。
映画監督としてやるべき仕事は本当に山のようにありますが、脚本の構成からカット割り、キャスティング、演技指導、撮影のアングル設定、キャメラオペレーション、照明、編集、効果音、音楽制作、録音、膨大なスタッフへの仕事の割り振りと指示、そういう何もかもをディレクションと云いますが、そのどれをとっても、ものすごい集中力を感じる映画でした。
今回、プレミアムシートは初めての経験でして、確かにプレミアムで快適だったんですが、「スラムダンク」はしっかり泣ける映画でもありまして、泣けた時には隣と仕切りがあるので、しみじみ泣けるのもありがたかったですわ。

2022年9月 4日 (日)

アナログとデジタルと照明の佐野さん

この前、Facebookを見ていたら、知り合いの音楽プロデューサーが、昔のアナログの音楽録音のことを書いていて、実は音質的にはかなりアナログの音が良かったという話で、読んでいて、たしかにそうだったなあと思ったんですね。この人は私よりちょっと年下なんですけど、同じ時代にTV-CMを作る仕事をしてきて、ずっと尊敬してるワタナベさんというプロデューサーです。
我々が仕事を始めた頃、1970年代の終わりから80年代にかけては、まさに音も映像もアナログからデジタルへ移行し始めた時期でした。大雑把にいうとレコードはCDに、ビデオテープはハードディスクにみたいな事でして、結果的に今は完全にデジタルの時代になっており、その事で、かつてアナログではできなかったたくさんの事が実現でき、聞けなかった音や見れなかった映像を体験できることになりました。たとえばコンピュータが作った音があったり、CGで作られたキャラクターが、私たちが暮らす実景の中に存在できたり、いろいろなんです。その延長線上に、ネット上のさまざまのコンテンツを選び出して体感できる現在の視聴環境があるんですね。
かなり大雑把な説明になってますが、すいません。
ともかく、デジタルという技術革新がなければ、現在の便利さも感動も享受できてないんだけど、アナログの時代に仕事を覚え始めた人としては、その方式で作られた音や画の、何とも云えぬ質感や味は、忘れ難いものがあるんですね。
あの頃、楽器も肉声も含め、すべての音素材は6m/mの磁気テープに記録され、そのそれぞれの音質やバランスを整音しながら最終のダビングという作業を経て、やはり1本の6m/mテープに完成されました。レコード録音から始まったこのアナログ方式は、長い時間の中で様々な機材を進化させながら、試行錯誤を繰り返し、歴史を作ってきたんです。
私がこの業界に入った頃には、どこの録音スタジオにもそういった筋金入りのミキサーの方たちがたくさんいらしたんです。それは今だってデジタル機材を使いこなす優れた技術者の方がたくさんいらっしゃいますが、このアナログで作った頃の音を、時々思い起こして欲しいなと、そのワタナベプロデューサーは云っておられたんでして、私もそう思ったんですね。
映像の方はと云えば、その頃そもそもフィルムで撮影して現像液につけてたわけですからアナログ中のアナログです。CMは、35m/mのFilmで撮影して、それにスーパーインポーズで文字や画を合成して、最終的には16m/mのFilmでテレビ局に納品して放送されてたので、デジタルのかけらもなかったわけです。
今では撮影された映像はデジタルの信号としてハードディスクに収録され、編集室でコンピュータに取込まれて加工されて完成しますから、初めから終わりまで、全て映像記録はデジタルなのですね。ただ、Filmからデジタル映像へ移行する過程では、なかなかFilmの質感や色や奥行きが出ないと言われていたんです。その後デジタルも4K、8Kと容量も上がって行く中で技術も進化して、Filmが長い時間をかけて築いた領域に近づいて来たとも云えます。
しかし、思えばFilm撮影の現場というのは、本当にアナログな職場でして、35m/mのバカ重いキャメラをかついで設置し、移動車に載せクレーンに載せ、美術の大道具、小道具に、衣装に、メイクと、世界を作って、そこに光をあててキャメラのモーターを回すのですが、そこには、それこそ筋金入りのアナログ職人の親方たちがたくさんいらっしゃったわけです。思い起こせば、皆さん本当にハイレベルな技術をお持ちの、実に個性的な方々でしたが、その中でも、長きにわたり大変お世話になった恩人に、照明の佐野さんがいらっしゃいます。
佐野さんは、「影武者」以後の黒澤作品のすべての照明を担当されるなど、60年の照明歴を持ち、照明の神様などとも云われてますけど、そういった偉ぶったところの全くない人です。現場ではいつも普通にさばけた感じでいらして、付かず離れずいる数名の佐野組の助手さんたちに指示を出し、彼らは実にキビキビと無駄なく動いて、光を作っていきます。この助手さんたちの中から、のちに立派な照明技師になられた方が何人もおられます。そして翌日その撮影したラッシュを映写すると、それはいつも見事な仕上がりで、その画には、ある意味何らかの感動があるんですね。
佐野さんは前に、キャメラマンが画角を決めたら、その真っ黒なキャンバスに色をつけていくのが自分の仕事なんだと云われてましたけど、まさにそういう絵描きのような仕事をいつも見せていただいてました。
この方の仕事がどういう具合に素晴らしいのか、説明しても分かりにくいですが、分かりやすい話がひとつありまして、それは、黒澤明監督が映画「影武者」の照明技師を佐野さんに決めた経緯なんですね。その少し前に黒澤さんがあるウイスキーのCMに出演なさったんですが、その時の照明が佐野さんで、その仕事ぶりを高く評価したのがきっかけだったようです。その頃、佐野さんはCMを中心に仕事をされていて、たくさんの名作がありました。世界のクロサワさんがそこを決め手にしたことは、かけだしのCM制作進行だった私にも、えらく誇りに思えました。
1930年京都市生まれ、18才の時、松竹京都撮影所に入って、1957年には照明技師になられ、1964年に松竹京都が閉所になった後も、フリーランスとしてたくさんの映画とCMの照明を手掛けられました。
私が初めてお会いした70年代の終わり頃には、照明技師として既に有名な存在でしたが、いつもラジオの競馬中継を聞きながら仕事してる、そこら辺のおじさんの風情で、僕ら現場の若造は死ぬほど尊敬してましたけど、なんでも相談できる親方でもありました。「影武者」のクランクインが決まって、世間を騒がせていたのもその頃です。
それから長きにわたって、たくさん仕事をさせていただきました。佐野さんにお願いするのは、いつもいろんな意味で高難度の仕事が多く、無理をお願いすることもありましたが、いつも「ええよ」と言って、淡々とやってくださいました。そして、その度に、その仕事ぶりと出来上がった作品の完成度に感動していました。
照明という仕事は光をあてたり、光を切って影を作ったり、フィルターで色をつけたりしながら、人の眼をたよりに絵を描いていくような、極めてアナログな作業ですよね。
いつだったか、佐野さんがまだ若かった時に京都で時代劇を撮っていた時の話をしてくださいました。照明のセッティングができて、セットに、大スターの長谷川一夫さんが入ってこられ、その渡り廊下を移動しながらの殺陣のリハーサルが始まり、動きが決まったら手鏡を持ってご自分の顔を見ながら再度テストをされたそうです。
それで、本番と同じ動きをしながら鏡に映った顔を見ては、たまに立ち止まり、
「照明さん、ここんとこ、ライト足りまへんな。」と、、また歩きながら、
「あ、照明さん、ここも足しといて。」などと、照明チェックをされて、
照明部は、その都度ライトを直したそうです。すげえアナログな話ですよね。
佐野さんは、そんなにおしゃべりな方ではないのですけど、この手の貴重な話を、時々面白おかしくしてくださいました。味のあるいい話でしたね。
残念なことに、10年ほど前にお亡くなりになりましたが、長きにわたっていろんなことを教えていただきました。撮影の仕事における、あるべき姿勢であるとか、大切なことを、さりげなくご自分の背中で教えてくださっていたように思えます。
音とか映像とかのコンテンツを作る仕事には、手仕事のようなアナログの技術も、最先端デジタル技術も混在していて、それは両方とも使いこなさなきゃなりませんが、そんなことを考えていたら、ふと照明の神様を思い出したんですね。
佐野さんの中には、間違いなく経験で蓄積された照明技術のデータがデジタル化されて内蔵されていたと思われますが、
それを使いこなす時のアナログ的な勘はかなり鋭かったんじゃないかとお見受け致しましたが、、

素人が恐縮です。

Sanosan

2022年4月21日 (木)

SIXTH SENSEという映画を思い出した

この前、ハリウッドスターのブルース・ウィリスが失語症になって、映画の出演ができなくなリ、俳優を引退したというニュースに驚いたんですが、調べたら、この人が私と同い年だったもんで、わりとショックを受けたんですね。
ブルース・ウィリスをスターダムに押し上げたのは、1989年に公開された「ダイハード」でしたが、これが娯楽アクション映画として、非常によくできていて、世界的に大ヒットしました。「ダイハード」はシリーズ化もされ、その後コンスタントに彼の主演映画はたくさん作られ、とても全部は観れてませんが、個人的には「パルプ・フィクション」とか、好きな映画もいろいろあったんです。アクション映画のタフガイのイメージで、日本でもずっと人気のある人で、思えば色々なCMにも出演していて、それはごく最近まで続いていました。
そんな中で、1999年の映画「シックス・センス」は、彼の映画にしては、あんまりアクションのないシーンとした作品だったんですが、これはなかなかの名作でして、ずいぶん話題にもなりヒットしました。「シックス・センス」とは、直訳すると第六感ということになるのですが、人間の五感に次ぐ感覚で、映画の中では霊感を指しています。

Sixthsense



ブルース・ウィリス演じる、小児精神科医のマルコムの前に現れた少年コールは(これを演じている天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントがまた上手いんですけど)、死者が見えてしまう自身の第六感のことで悩んでいます。当初は幽霊の存在に懐疑的だったマルコムも、やがてコールの言葉を受け入れるようになり、死者がコールの前に現れる理由を共に探り始めます。この物語にはいくつかの展開の後、観客の予想しない意外な結末が待っているんですが、映画として実によくできていて最後まで引き込まれます。
監督のM・ナイト・シャマランの脚本も演出も見事で、この手の映画にありがちな観客を派手に怖がらせたり驚かせたりといった技法はほとんど使っていないんですけど、なんだかジワーっと静かに恐怖が忍び寄る映画になっているわけです。
この映画は、会社帰りに渋谷の映画館で、その日の最終回を観たんですが、自転車通勤で出社してた日で、映画が終わった後の寒い夜に、誰もいない真っ暗な世田谷・杉並あたりの裏道を自転車で走って帰るのが、えらく怖かったのを覚えています。
この映画は、たくさんあるブルース・ウィリスの仕事の中でも、記憶に残る名演だと思います。

シックス・センス(第六感)とは、ヒトに備わる、視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚という五感の次の感覚で、異様な直感力の意味で使われます。人にはそれぞれ、その人にしか感じられないこのような感覚があるのかもしれません。これらの感覚にはすごく個人差もあるし、時と場合によっても敏感だったり鈍感だったりしますが、いずれにしても生まれつき与えられた機能なんですね。
最近ではコロナウイルスの後遺症で味覚や臭覚に異常をきたす現象も起きましたが、感覚やその機能は、何らかの要因で強くなったり弱くなったり、また、失ったり再生したりします。ある感覚が弱まると、別の感覚が補うように鋭くなることもありますね。
そんなこと思いながら、ブルース・ウィリスという役者が、言葉を発するという能力を無くしてしまったということには、不思議な哀しさがありますが、なにか新しい感覚が目覚めるように、その機能が再生することに、期待しないわけにはいきません。

2021年12月 6日 (月)

続・7歳のボクを揺さぶった映画の話

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はじめて、山﨑努さんにお会いすることになったのは、「天国と地獄」公開から22年後の1985年でした。この年に黒澤明監督の期待の大作「乱」が公開されるのですが、それに先立って「これが黒澤明の『乱』だ」という、テレビの1時間特別番組を作ることになりました。この番組は、普段広告を作っているコピーライター、アートディレクター、CMプランナーたちによって制作されることになり、私はそのスタッフの中に入って、プロデューサー補という役割をいただき、番組に使われる全ての編集素材を管理する係になります。素材のほとんどは、映画が制作されている間に、ただただ記録され続けたドキュメントのVTRです。その目も眩む膨大な素材と何日も寝ずに格闘した末に、ようやくほぼ編集を終え、あとはナレーションを入れて完成させることになるんですが、そのナレーターを山﨑努さんにお願いできると良いねということになりまして、お願いしたんですね。そのナレーションは惚れ惚れするほど素晴らしく、本当に山﨑さんにやっていただいてよかったというものになり、完成します。先日、30数年ぶりに改めて見直したんですけど、なかなか良い番組の出来でした。

その頃、その仕事と前後して、私が関わっている別のコマーシャルの企画が進んでいて、その広告のメインキャラクターの人選も始まっていたんですね。その仕事の企画をされていたのは、業界でちょっと有名な面白い方だったんですけど、ある時キャスティングの話になって、「好きな俳優さんいますか。」と聞いて下さったので、迷わず「山﨑努さんです。」と答えたんですね。そのせいでもないんでしょうが、その後、わりと長いこと別の仕事で海外に行って帰ってきたら、企画も決まって、出演者も山﨑さんになっていました。ある製薬会社ののど飴タイプの薬品の広告で、とても面白い企画で斬新なCMができそうでワクワクしたのを覚えています。

子供の時からファンだった山﨑努さんと仕事をできることは嬉しかったけど、そもそも最初は黒澤映画の凶悪犯役としてインプットされているし、私の周りには面白がっていろんなことを云う人たちがいまして、
「見た目といっしょで、かなり怖い人らしいぞ。」とか、
「けっこう難しい人らしいぞ。」とか、とか、有る事無い事云うわけです。
考えてみると、確かに見た目は怖いし、屈託なく爽やかに、ただ単純明快にいい人なわけないですよね。そういう、ちょっと複雑で屈折したとこのある、いわゆる大人の男を表現できるのが魅力な俳優さんなわけですから。
その頃、30歳を過ぎたばかりの社会人としても男としても、まだ駆け出しのペーペーの私が憧れていて、大人の男として一番かっこいい役者といえば、山﨑さんだろなと思ってましたから。
多分、この方は、自身が演じると決めた役は、徹底的に読み解いて、突き詰めて、時間をかけて肉体化するという、独自の哲学のようなものを持たれてるんだろうなとも感じていました。
黒澤監督の「赤ひげ」も「影武者」も、伊丹十三さんの「お葬式」も「タンポポ」も「マルサの女」も、山田太一さんの「早春スケッチブック」も、向田邦子さんの「幸福」も、和田勉さんの「ザ・商社」も「けものみち」も、滝田洋二郎さんの「おくりびと」も、「必殺仕置人」の念仏の鉄も、そうやってひとつひとつ役が作り込まれています。多くの優れた作家や演出家からオファーが絶えないのはそういうことがあるんだと思います。
CMの仕事も含め、なかなか簡単にオファーを受けていただけないことは、以前からよく聞いておったことでしたので 、まず出演をOKしていただいたことへのお礼の挨拶を兼ねて、企画の説明にうかがうことになりました。
広告会社の担当部長とプランナーと数人で、その夜、山﨑さんのパルコ劇場での舞台出演の後に、近くのレストランの個室でお会いしたんですが、その日の舞台でキャストの1人が、つまらないアドリブで観客の笑いを取りにいった行為に、かなりお怒りになってまして、終始ご機嫌斜めで、はなっから結構おっかなかったんですけども、ともかく、このあと3年に及ぶこの仕事がスタートいたしました。
それまでは、映画やテレビの俳優・山﨑努さんの、単なる一ファンだったのですが、仕事をご一緒することになって、いろんなことがわかりました。ご自身が出演を決められた仕事は、その役をどう造形するか、どう命を吹き込むか、その作品がどうやって観客に届くかということなど、本当に真剣に考えておられ、それはたとえCMであっても同じ姿勢で、出演をお願いする立場としては、ありがたいことでありました。
このコマーシャルフィルムの舞台設定を、大雑把に説明しますとですね、時代は戦前の昭和初期あたりか、主人公は、なんだか国費留学することになった学者か研究者で、ヨーロッパ航路の大型客船に一人乗り込み異国を目指します。船の長旅には、喉の痛みや咳はつきものでして、そこで旅のお供に商品ののど飴が登場するわけです。
古い大型客船のセットを作って、3タイプほどのCMを撮影しましたが、山﨑さんはそれぞれのシチュエーションに、綿密な演技のプランを考えてきてくださいました。そのことでこのCM作品は、厚みを増していくことになるんですが、撮影の当日には、結構細やかなスタッフとのやりとりが行われます。
演技のこともそうですけども、CMに使われる言葉に関しても、山﨑さんは繰り返し確認検討されます。それはCMですから、商品に関する広告コピーだったりもするんですが、徹底的にチェックされるんですね。
俳優の仕事として、常に言葉というものを大切にされていて、台本を読む姿勢にもそれが現れています。かなりの読書家で、いつも身の回りに何冊も本があり、ご自身で本を執筆されることもあります。「俳優ノート」「柔らかな犀の角」という本が出版されていますが、どちらも名著です。
その山﨑さんが船旅をするのど飴のCMは、大変好評のうちに放送されまして、そのうち映画館の大画面にもかかったりして、感動的だったんですが、その翌年に、コマーシャルの続編制作の話が起きます。前出のプランニングチームは、張り切ってその後のストーリーを考え、やはり船旅の後には、目的地につかなきゃいけないねということになり、なんだかヨーロッパロケの相談が始まったんですね。
やっぱり、ヨーロッパだと撮影しやすいのはパリかなとなって、企画チームと演出家と制作部で準備も始まりました。当然、山﨑さんにもロケのスケジュールを打診して承諾していただき、ロケ隊は、5月のパリを目指すことになるんです。
しかし、この年、1986年の4月に、あのチェルノブイリの事故が起こります。ニュースは連日、事故のその後を報道していましたが、ヨーロッパ全土にどんな影響があるのか、ようとしてわかりません。CM制作に関しては、完成までのスケジュールは決まっていますし、中止するというのもいかがなものかという状況の中、重々検討相談の結果、予定通りロケを決行することになりました。
私は現地のコーディンネーターとスタンバイを始めるため先乗りして、パリの様子を確かめ、監督はじめ日本からのスタッフは、順番にフランス入りすることになりました。
全体にスケジュールが詰まっていたのと、カット数の多いコンテでしたから、連日、ロケハン、交渉、オーディション等で、てんてこ舞いで、最後に山﨑さんがマネージャーとパリに到着された時には、空港に出迎えにもうかがえず、その日の夜にホテルの部屋にご挨拶に行きましたが、そこで、かなりしっかりと叱られることになりました。
そのお怒りの中身というのは、
そもそも、君たちはロケハンやオーディションなどの準備が大変であると云うが、俳優である私との詰めが全くされていないではないか。企画コンテは見たが、具体的にこの主人公にどのようにしてほしいのか、その狙いは何か、そのあたりのことがまず固められてから、背景や共演者のことを考えるべきなんじゃないか、君がやっていることはあべこべじゃないか。のようなことを、こんこんと言われました。おそらく、仕事の進行を見ながら、自身に対する相談もオーダーもないままここに至っていることに、考えれば考えるほど怒りが込み上げてこられたんだと思いました。
いや、全くその通りでして、物事を前に進める制作部の役割がきちんとされてなかった事、反省させられました。
不手際をお詫びして、軌道修正のお約束をして、最後に、
「この部屋のコンディションはいかがでしょうか。」とお尋ねしたところ、
「この部屋か、、、暗い、狭い、寒い。」と云われ、
「申し訳ありませんでした。すぐにチェンジします。」と申しましたところ、
「もう、、慣れた。」と云われました。

そこから約1週間、パリ市内のあちこちでロケが行われまして、CM3タイプの素材を撮りためてまいりますが、商品カット以外は、山﨑さんは出ずっぱりで、なかなかタフな仕事になりました。
いよいよ明日の早朝に行われる某有名レストランでの撮影が最後のシーンとなり、それ以外のすべてのロケを終えたその夜、スタッフ全員で日本料理屋で食事をしたんですね。
その時、居酒屋風の小さなテーブルで、山﨑さんの正面に私が座ってたんですけど、これだけは是非、山﨑さんに伝えておきたかったことがあって言いました。
「ボク、『天国と地獄』を、小学2年生の時に映画館で観ました。」
「へえ、で、どうだった」
「そん時から、ずうっと忘れられない映画です。ラストシーンで犯人の山﨑さんが刑務所の面会室の金網に、突然つかみかかるじゃないですか、その時、私、恐怖で映画館の椅子の背もたれに、めり込みましたから。」と。
このシーンは、映画「天国と地獄」のラストシーンなんですね。この映画で描かれている誘拐事件で、多額の身代金を支払った被害者である三船敏郎さんが、犯人である山﨑さんから呼ばれて、刑務所で面会するところなんですが、そのシーンの最後に、犯人が二人を隔てる金網につかみかかるんです。
山﨑さんが、ちょっと遠くを見る顔になって云われたのは、
「あの時、つかみかかったら、金網がものすごく熱くなっていて、ジューって指を火傷したんだよ。あのつかみかかる芝居は、監督の指示じゃなくって、自分の考えでやった芝居だったんだ。」
黒澤さんの映画ではありがちですが、画面の手前の三船さんにも奥にいる山﨑さんにもカメラのピントが合っていまして、いわゆるパンフォーカスなんですが、それに、おまけにレンズは望遠レンズなんですね。これどういうことかといえば、ものすごい光量が必要になり、尋常じゃない数のライトがセットに当てられてるわけですよ。それでセットの金網は、焼肉屋の網のようになってたんですね。
ふと、私は、今すげえ話を聞かせていただいてるんだなと、気付き緊張しました。そしたら、山﨑さんの話は続き、
「元々のシナリオでは、ラストシーンはあのシーンじゃなかったんだ。事件が解決した後に、三船さんと仲代さんが並んで、犯人が住んでたあたりのドブ川の横を歩く後ろ姿のシーンだったんだけど、黒沢さんはそのシーンをボツにしたんだそうだ。」
確かに、刑務所のシーンで終わった方が、観終わった印象は強く斬新ですね。山﨑さんの芝居を見て切り替えた黒澤さんは見事です。
またしても、すごい話を聞いてしまったわけですよ。

食事会の後、ほろ酔いでホテルに向かって歩いてたら、コーディネーターのコバヤシヨシオの車が横に止まったんですね。そしたら助手席の窓が開いて山﨑さんが顔出して、「もうちょっと飲もうか。」と云われたんです。
そのあと、山﨑さんとコバヤシさんと、なんだか気持ちよく盛り上がってしまいまして、明日の朝ロケだというのに、夜遅くまで宴は続きました。コバヤシヨシオさんという人はフランスという国を実に深く知っている人でして、この仕事で本当に頼りになって助けられました。もともとはフランスの海洋学者のクストーに惹かれてパリに来たと云われてたと思います。
ロケの日程を終え、現像も済ませて、オフの日にヨシオさんがフォンテンブローにピクニックに連れて行ってくれました。フランス人の奥さんも子供たちも一緒で、すごい楽しかったんですが、張り合ったわけじゃないんですけど、その時、私が伊豆の下田に仲間で借りているあばら家がある話をしたら、山﨑さんがその家に行ってみたいと云われて慌てたんですね。ところが、その数ヶ月後に、ヨシオさんがたまたま東京に来た時に、ホントにそのあばら家にご一緒することになりまして、それはそれで楽しくて素敵な伊豆一泊旅行で、良い思い出になっております。
この仕事のおかげさまで、当時31歳そこそこの若輩者の私が、本物のアーチストの姿勢を見せていただきました。おまけに本当に得難い話をたくさん聞かせていただき、ただただ一方的に教えていただくことだけでありました。
という、ちょっと長い話になりましたが、子供の時に観て、揺さぶられた映画の忘れられないキャラクターに、ずっと念じていたらば、ほんとに会えたという話でした

2021年10月29日 (金)

7歳の僕を揺さぶった映画のはなし

私たちの世代は、日本の映画産業最盛期の頃に生まれておりまして、昭和30年前後ですが。
昭和33年(1958年)に、年間映画動員人数はピークを迎え、11億人を突破しております。
映画館数も7000館を超えたようでして、そんなことなので、小さい子供の頃から映画館は身近だったんですが、当然一人で入っていけるもんでもなく、当時観た映画というのは、大抵オヤジに連れていかれてました。それ以外の当時の名作は、ずっと後になって、リバイバルや名画座やビデオなんかで見たものです。ただ、うちのオヤジはかなり映画が好きだったようで、他に娯楽もなかったんだろうけど、私はけっこう映画館にお供してます。たくさん見た映画の中には、洋画で字幕の読めないものや、子供には難解なものも含まれてたんですが、映画に行くのはとにかく好きで、おとなしくしてたから、よく連れてってくれたんだと思います。
その中で、とにかく一番強烈に記憶に残っているのが、小学一年の時に観た「用心棒」と「椿三十郎」、小学二年の時に観た「天国と地獄」。いずれも絶頂期の黒澤明監督の映画でして、何度見直しても、その完成度の高さと、作品にに込められたスタッフキャストの熱量、そして、監督の表現における斬新な試みに、目を見張ります。

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大人でも、固唾を飲んだり、息止まったりしそうなシーンが満載で、最初から最後まで一気にたたみかけられますから、子供はなおさらです。多分、この3本は大袈裟に言うと、私のその後の人生に大きく影響したんじゃないかと思うんですね。ビデオもDVDもなかったころ、これらの映画は、その後ある程度大人になるまで、ずっと覚えてましたから。
いつだったか父に、
「親父が一年生の子供に、あんな映画を見せたのがもとで、こんな仕事することになったんで、そうじゃなきゃもうちょっと堅い仕事して生きてたと思うよ。」と、妙な言い訳したことありましたが。
ちょうどこの頃の黒澤さんは、すでに常に注目される大監督として油が乗り切っていて、これらの作品は黒澤プロダクションの制作ということで勝負かけてましたし、結果興業的にも大ヒットしています。これらの映画は、人間の諍いや確執や裏切りや策略、殺人や犯罪に麻薬など描かれており、大人向けの映画なんですが、観客が小さな子供でも、いきなり巻き込んでしまうパワーがあったんだと思います。

これらの映画がどう面白いのか、それは見ればすぐにわかることだから、語っても仕方ないんですが、ちょっとだけ語りますね。
ストーリーは、いろんな小説等に着想は得ているようですが、意外性に溢れたドラマに、展開を読めぬテンポの速い物語は、精度の高い脚本が練りに練られています。黒澤さんは脚本を完成させる過程で、信頼できる優秀な脚本家とチームを構成して、徹底的に本を仕上げます。
そして、様々な役が作られ、キャスティングがなされ、登場人物が造形されて行きます。このキャラクターは実に深くて魅力的です。
「用心棒」で登場する三十郎という素浪人を演じる三船敏郎は、1948年の「酔いどれ天使」から続く、黒澤組のメインキャラクターで、この役を水を得た魚のように生き生きと演じております。
そして観客の期待通りに続編も制作され、その「椿三十郎」は翌年公開されました。ここで一言申しますと、同じ主人公の続編と云えど全くタッチの違う映画になっており、この2作目もかなりの名作です。いずれにしてもこの主人公は三船さんを想定して書かれていますよね。
そして、満を持して黒澤映画に登場するのが、仲代達矢でして、「用心棒」の卯之助も「椿三十郎」の室戸半兵衛も、お話の中では完全なヒールなんですけど、その造形は実に見事です。このキャスティングも絶妙なんですね。
そして、その脇を固める役者さんたちの見事さです。この頃の日本の俳優陣と言うのは、相当に層が厚かったと思いますね。色々と絶賛したい配役があって説明したいのですが、これ書き出すとキリがないのでやめます。
そのキャストの渾身の芝居を受け止めているのが、有名な黒澤組の技術スタッフ達でして、どのパートもちょっとどうかしてるプロフェッショナルなわけです。見直してると、ところどころでついついため息が出るほどです。
そして「椿三十郎」の翌年、小学二年生の私は、「天国と地獄」で、また息を呑むことになります。こちらはまた打って変わって現代劇、子供の誘拐事件を描く超力作で、これも大ヒットしました。主人公はこの事件を通しての被害者で製靴会社の重役、権藤氏で三船さんが演じてます。事件解決に奔走する捜査本部の中心、戸倉警部役に仲代さん。仲代さんは時代劇の悪役から反転します。このお話の背景には格差社会の構造的な問題があり、その辺り鋭ク描かれていて、ポン・ジュノの「パラサイト 半地下の家族」は、多分この映画が参考になってるんだろうと思いますね。ポン・ジュノさんは、黒澤さんの映画全部見てそうですし。
この事件の憎むべき犯罪者・竹内銀次郎にキャスティングされたのが、当時新人で、この役を演じて一躍注目を浴びた山﨑努さんです。子供心に、この犯人は怖くて、その存在も映像も相当にインパクトがありまして、かなりしっかりと記憶に刻み込まれました。
その後、年を重ね、TVや映画に山崎さんが出演されてるといつも見ていて、気がつけばファンになってました。それからしばらくして、私も大人になり、30歳になった時に、なんと、ある仕事でその山崎さんとお会いすることになります。
ここまで長くなりましたので、この後の話は、また次の機会とします。
ちなみに、1963年の「天国と地獄」公開時、
黒澤さん53歳、三船さん42歳、仲代さん30歳、山崎さん26歳、、、、、私8歳です。

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2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

Seichosan



そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2020年5月28日 (木)

ワイルダー先生

いつも年が明けてバタバタしているうちに、1月は行ってしまい、2月は逃げてしまいまして、気がつけば桜が咲いているんだよね、などと云ってたんですが、例年どおり、きれいに桜は咲いたものの、お花見は出来ず、それどころか新緑のゴールデンウイークになっても、外にも出られないことになりました。

新型コロナウイルスの猛威は、地球規模の厄災になって人類に大きな試練を与えております。そのような状況下、医療にかかわるプロの方々は、それこそ命がけの仕事に追われていますが、それ以外の我々一般の人間ができることと云えば、ただ感染せぬよう、なるべく出歩かず自宅におることのようで、何の役にも立たず申し訳ないのですが、今までに経験したことのない在宅時間を過ごしております。そんなことで私の勤める会社も、ごく数名が番をしているだけで、他は全員在宅、家で出来る仕事を、いわゆるリモートで働いているわけです。

本来なら4月の初めから出社するはずの新入社員たちは、一度も出社することなく、おうちで社員研修を受けてますが、弊社は映像を作るのが仕事なので、新人たちに先輩社員からオススメ映像を選んでプレゼントしようという企画が起こりまして、連日いろんな人たちから上がってきた映像をみんなでネットで観ることになったんです。

みんな家にいて時間もあるし、映像好きたちの渾身のチョイスなので、これが面白くて個人的にも楽しんでいたんですが、そのうち自分の順番が回ってきて、さて何にしようかなとなった時に、ふと思ったのが、ビリー・ワイルダーだったんですね。

この人は、1906年生まれで2002年に亡くなってます。

若い人はあんまり知らないでしょうし、私にしたところで、今回オススメした「アパートの鍵貸します」は1960年の公開ですから私6才の時でして同時代感はありません。たとえば、ワイルダーさんの同時代の日本の映画監督は、小津安二郎さんとか、黒澤明さんでして、ちょうど私の祖父の世代です。

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ただいつだったか忘れたけど、どっちにしてもずいぶん若い頃に、この映画を観て、なんかすごく心に残ったんですね。考えてみると1960年頃のニューヨークなんて、何の接点もないし、その街に住むうだつの上がらないサラリーマンにも、そのビルで働くちょっと可愛いエレベーターガールにも、普通だと興味わかないと思うんだが、映画観てるうちに、なんだかジャック・レモンにも、シャーリー・マクレーンにも、すっかり感情移入してしまって、忘れ難い出会いになってるわけです。その時は、1960年にこの映画がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を取っていることも知りませんでしたが、

考えてみると、歴史的な名画だったわけです。

その後、知らず知らずにワイルダー作品を観ることになり、なんとなくハリウッドの大監督という認識だったんですけど、作品を観るごとにビリー・ワイルダーという映画作家の名が、ちょっと特別になっていきました。

自分はいわゆる映画全盛期に生まれた世代でもあり、いろんな映画観ながら育ちましたけど、この映像業界に就職してみると、ワイルダー先生を熱く語る先輩たちがたくさんおられまして、やはり大変な方なんだなと認識を新たにするわけです。

1906年、オーストリア生まれ、若くして新聞記者の仕事を始めドイツに移り、21歳で映画の脚本を書き始めます。どうにか評価され始めた頃、1933年、ナチスの台頭で、ユダヤ系のワイルダーはフランスに亡命、その後監督デビューして、1934年コロンビア映画の招きでアメリカに渡るが、英語は喋れなかったそうです。それから苦労するも少しずつ脚本の仕事ができ、1942年にハリウッドでの監督デビュー、1944年「深夜の告白」は最初の大ヒット映画となり、1945年失敗作と思われた「失われた週末」は、アカデミー賞を受賞する。

その後「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」「麗しのサブリナ」「七年目の浮気」「情婦」「昼下がりの情事」「翼よ!あれが巴里の灯だ」「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」等々、ヒット作が続くわけです。

有り難いことに、これらの名作は、現在のネット環境でかなりたくさん観ることができ、今回、あらかた観直してみましたが、やはり並外れた脚本力と演出力もさることながら、他の作家にはないこの人独特の個性と癖が滲みでていて、作品に深みを与えていることが良くわかります。

それと、この人のすごさは、このたくさんの名作の脚本の全部を自分で書いていて、1951年以降は、すべての製作にもかかわっていることです。まさに全盛期のハリウッドの映画作家なのですね。

もう一つ言えば、ワイルダー先生は「アパートの鍵貸します」に代表される、いわゆるコメディの名手として知られています。これは一般に云えることですが、コメディって難しいんですよね。人を泣かせるよりも、笑わせるのはハードルが高いですね。明らかに笑わせようとする芝居に人はのって来ません、ただまじめにやってることがおかしいかどうかなんで、これは深いです。ワイルダーさんが、ジャック・レモンに会ってからコンビを組み続けたのは、自分の笑いの表現に絶対必要だったからなんでしょうね。

 

自分にとっては、おじいさんの世代の作品だけど、今観てもその瑞々しい表現が伝わるのが、映画というメディアの魅力なんでしょう、不思議だけど。

それからまた2世代ほど離れたうちの新人君たちが、どう感じたのかは、ちょっと聞いてみたいけどね。

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2020年1月28日 (火)

ただならぬ韓国映画

スターウォーズも完結するし、寅さんも帰って来るし、年末年始の映画街もいろいろとにぎやかですが、

韓国映画界の鬼才、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が、カンヌでパルム・ドールを獲り、アカデミー賞の呼び声も高く、もしアカデミー賞獲ったらアジア初だそうで、ともかく大評判です。

いや、よくできてました。たしかに唸ってしまう完成度の映画であり、連日映画館は満員だし、その勢いはしばらくおさまりそうもなく、間違いなく大ヒットになりそうです。

社会の底辺からどうやっても這い上がることのできない家族と、かたや成功者を絵に描いたようなIT会社の社長の一家という対比があり、その両者が接点を持つところからお話は始まるんですが、そもそも脚本としてこの状況を思いついたことは勝利なんでしょうが、物語の設定は、実に厳密に仕組まれており、それに加えて、登場してくるこの二家族の人物像は、かなりこと細かく造形してあって、その辺りはちょっとため息が出るくらいうまいわけです。

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この出演者たちが、監督が仕組んだ動線に沿って動き始め、徐徐に物語は進行します。もう観ている方としては、ただただ映画の中に引っ張り込まれてしまうわけですが、これはよくできた映画が必ず持っている観客を巻き込んでゆく力なんですね。

ストーリーはあるテンポで、たんたんと進んで行きますが、そこには絶妙の緩急のリズムがあって、それは心地よくさえあり目が離せません。

映画が始まってしばらくすると、この映画が持っている、ただならぬ顔つきに気付かされ、間違いなく掘り出し物に当たった確信が生まれます。それは、次々と現れる人物の登場の仕方だったり、その場に流れている空気感であったりするんですが、それを支えているのは、撮影という手続きにおけるすべての技術です。

そんなにたくさんの韓国映画や、韓国ドラマを観ているわけではなく、あんまり詳しくもないんですが、韓国には本当に良い俳優が多い気がします。もちろんうまいということなんですが、それだけじゃなく、その映画を作品として観客に届けるために、その役の人物になりきる力というか、出演者としてその映画をより深いモノにするための力量とでもいうのでしょうか。

そして、そういった人材というのは、当然、映画を作る現場のレベルが高くないと育たないわけです。脚本や監督であったり、撮影であったり、照明であったり、美術も録音もそうです、ちょっとそういうバックグラウンドを強く感じるんですね。

前にどなたかから聞いた話ですが、かつて日韓共同FIFAワールドカップを成功させた時に、かの国は、その時出た利益をすべてエンターテインメント産業に投資したんだといううんですね。その中には当然映画産業も入っているわけです。それだけのことが理由じゃないだろうけど、韓国という国の映画に対する情熱のようなものは、いつも感じているわけなんです。

アジアの一角の、映画が大好きなこの国から、まさに世に問う問題作が、世界に向けて発信されたということでしょうか。

 

そして、映画の後半は、ジェットコースターに乗せられたような激しさでラストに向かって行きます。

個人的には、終盤、ちょっと惜しいなと感じることがないではないんですけど、

映画の終息のさせ方というのは、ある意味、監督からのメッセージなので、観客の一人一人が受け取って感じるべきことですし、ネタばれにもなるので触れられないですが、

なんせ一見の価値のある、まだ観てない方には是非観てほしい、映画というものの面白さを満載した映画ではあります。

観た人と話をしたくなる映画というのは、まあ名作なんでしょうね。

2019年10月18日 (金)

「JOKER」は満席なわけで

前回に続いて、また映画の話になるのですが、「JOKER」が封切られて、ずいぶん世の中を騒がせているようです。私も観に行こうとは思ってたんですが、すでに大ヒットの呼び声も高く、SNSもリアクションが大きくて、すごく話題になっています。

そんならともかく行ってみようかと、先日劇場に足を運んだんですが、けっこう大きなスクリーンが、いやはや満席状態なんですね。客層はわりと若い人が多かったかなあ。

で、どうだったかと云うと、これはものすごい精度の、非常によくできた映画で、すばらしかったんですけど、話はとっても暗いんです。有名なアメコミの悪役が生まれるまでのストーリーを追ったピカレスクロマンなどというものではとてもなくて、社会の底辺の恵まれない孤独な青年が、救われることもなく、次々に周りから人格を壊される不幸に見舞われ、その結果、悪の権化と化して行くお話でして、いやその辺りが、すごくよくできている分、とても重たくて、気は滅入ります。

正直、観た後でこんなに落ち込む映画が、本当に大ヒットするんだろうか。しかし、すでに劇場は満員です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリという情報が後押ししていることもありますが、かつてそれだけではヒットしなかった映画もたくさんありましたし、だいたい暗い話には、客足が鈍るんですけどね。

もともとアメコミのキャラクターの話なのに、こんなにもリアルに身につまされるのも不思議と云えば不思議です。

いままでにも、ジョーカーはスクリーンに何度も登場しているし、かつていろんな名作があるし、今回も映画館に来てみたけど、なんだかこんなにつらい映画だったのかと思う人もいるかもしれないけど、この映画は、口コミで観客数は伸びる気がするんですね。

それは、この映画が持っている表現そのものの力とでもいうんでしょうか。

脚本の深さもそうですし、演出の斬新さだったり、音の使い方も素晴らしいし、ロケーションもカメラも、いろいろあるのですが。

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なんと云っても、主役を演じる ホアキン・フェニックスという役者がすごいんですね。

彼が造形するアーサー・フレックからジョーカーへと変貌していく主人公には、計り知れない奥行きがあり、この映画をただならぬものにしています。映画が始まってから終わるまで、観客は常にこの役者から漂う、弱者に無関心な社会に見捨てられた男の内面を見つめ続けることになります。

初めて語られることになったジョーカーというキャラクターの成り立ちを、この役者と監督はどうやって作っていったのか。ちょっと想像を超えるエネルギーが使われたと思われます。

この映画のベースに、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」を感じることも確かですが、そこで主役を演じたロバート・デ・ニーロが、ここで重要な役柄を演じていることも大きな意味を持っておりますね。

とりあえずこの作品、いろんな意味で救われない話ではあるし、キャラクターに共感のしようもないと云えばないし、ただアメコミの有名な悪漢をネタにした映画ではあるんですが、そういうことを超越した、何かを、観た者に残す気がします。

多分、のちのち名作と呼ばれるのは間違いなさそうではあります。

 

2019年9月12日 (木)

「存在のない子供たち」という映画の力

映像の監督で、脚本家でもある友人がおりまして、その人からこのレバノン映画を薦められたので、すぐに観てきました。私にしては珍しいことなんですが、いま周りの人に、この映画をぜひ観るように薦めております。

「存在のない子供たち」というこの映画には、それこそ子供たちがたくさん出てきますが、ちょっと何とも言えないリアリティがありまして、これはドキュメント映画じゃないかと錯覚させるような世界観があります。

ベイルートの貧民街で暮らす人々、学校に行けず路上で日銭を稼ぐ子供、移民難民の不法労働者、児童婚、人身売買など、目を覆いたくなるような貧困と不幸が、次々に描かれます。主人公の子供たちの多くは、両親が出生届を出していないため、証明書を持たない。また親が不法移民であれば、法的に存在しない。

映画は、そういった背景の中で、ゼインという12歳の少年を追います。

朝から晩まで、両親に劣悪な労働を強いられ、唯一の支えだった妹のサハルは、形式的な結婚という形を取り、中年男性に売られてしまいます。怒りと悲しみから、家出したゼインは、エチオピアからの不法移民労働者の女性ラヒルと知り合うが、ラヒルは逮捕され、彼女が残した赤ん坊の面倒をみることになります。子供だけでの生活が続く中、ゼインは、妹が妊娠し死んだことを知ります・・・

この映画の監督は、レバノンのナディーン・ラバキー、40代の女性で、俳優でもあり、この映画に弁護士役で少し出ています。美人ですよ。

彼女は、脚本に3年をかけ、長いリサーチの中で実際に出会った人々や、体験を観察し、ディティールを大事にしたそうです。ゼインをはじめとするキャストのほとんどは、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々です。

撮影は、脚本があるからと決め込まず、彼ら自身の経験を物語に寄せていったと云います。主人公のゼインを演じた、同名のゼイン・アル=ラフィーアは、シリア難民として家族でレバノンへ逃れたものの、貧しい生活を送り、学校になじめず、10歳からアルバイトで家計を助けていた少年なのですね。

このような映画製作に対する姿勢が、この作品のリアリティにつながっていると考えられます。そして、表現物から伝わってくるのは、本当につらい現実です。出口の見えないこの街の状況に息が詰まる思いですが、この映像がこちらに語りかけてくるのは、そんな中でも人が生きて行くエネルギーであったり、大変な確率で生を受けた命であれば、いつか祝福されることを祈らずにはいられない気持ちなど、ただネガティブな世界を見たということではなく、かすかな希望を感じずにはいられない読後感がありました。

この映画の持っている子供たちのリアリティの賜物かもしれません。

帰り道に、この映画で知った様々な現実に打ちのめされながら、希望を込めて、多くの人に、この映画を見てほしいものだと思ったんですね。

本来、映画というものが持っている力とでも云うのでしょうか。そういう体験でした。

後日、ネットでこの映画に関する解説を読んでいたら、「存在のない子供たち」が国際的な映画祭で注目を集め、様々な国で劇場公開が決まり、映画が世に出たことで、出演者たちに良い変化がもたらされたことが書いてありました。

監督談

「例えば、ゼインは国連難民高等弁務官の助けによって、いまは家族でノルウエ―で暮らし、これまでとは違う人生を送っています。ケニアの女の子ヨナスは、幼稚園に通うようになり、路上でガムを売っていたシドラは、いまは学校に通い、この作品に参加した影響か、映画作家になりたいと云っています。私たちも基金を立ち上げ、彼らを助けたいと思っているし、少しずつ彼らが独立して生活できるように、そんな未来になるように力添えをしたいと思います。道は長いですが。」

Zain

 

2019年5月20日 (月)

前略ショーケン様

この3月に、ショーケンこと萩原健一さんが亡くなりました。厳密には4歳上ですが、自分と同世代の有名芸能人で、こっちが物心ついたころから有名な方でしたから、なんだかちょっとしんみりしたとこがありまして、特にお会いしたこととかはなかったんですが、不思議な喪失感がありました。このごろでは68才って、まだ若いですしね。

1967年といいますと、私は中学1年生でしたが、彼は、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、デビューしたんですね。

このころ日本中で、グループサウンズブームというのがありまして、たくさんいろんなグループがあったんですけど、テンプターズは、その中でもかなり人気上位にいて、若い女の子たちがキャーキャー云ってました。このブームは明らかに若い女子をターゲットにしたものでして、バンドのメンバーはみんな長髪で、衣装もどっちかといえば、可愛らしい系でして、今で云えばジャニーズのアイドルたちがバンドやってるようなもんでしたね。ショーケンとか、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二さんとかは、その中でも、1、2を争うアイドルだったわけです。

萩原さんは、その頃アイドルとして騒がれたり、追っかけられたりすることは、ほんとは、いやだったと、のちに話しています。そんなことで、当時男子中学生だった私も、あんまり関心はなかったんですけど。

それから1970年頃には、早くもグループサウンズブームは去り、テンプターズも解散します。すごい人気だったけど、わりと短かったんですね。その後ショーケンは音楽も続けますが、仕事を俳優の方にシフトしていきます。1972年に岸惠子さんと共演した映画が高評価を得て、TVドラマの「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」で、その人気を確立するんですね。

 

4月に、脚本家の倉本聰さんが、新聞に「萩原健一さんを悼む」という文を書いておられました。

倉本さんがショーケンと初めて仕事したのが、1974年の大河ドラマ「勝海舟」だったそうですが、その時、岡田以蔵役をやった彼が、

「坂本龍馬に惚れてるゲイの感じでやってみたい。」と提案してきて、

以蔵が龍馬の着物を繕うシーンで、縫い針を髪の毛の中にちょいちょい入れて髪の脂をつけるしぐさをして見せた。龍馬への愛をこんなアクションで表現するのかと、驚いたそうです。

それから、1975年のTVドラマ「前略おふくろ様」は、ショーケンからの指名で脚本を担当することになったそうです。ショーケンが演じる若い板前が、調理場の後片付けでふきんを絞ってパーンと広げて干すといった何げない一連の所作が実にうまく、普通の人にはない観察眼を持っていて、生活感をつかむのがとても巧みだと感じたそうです。それを直感的に演じるひらめきは天才的で、勝新太郎によく似ていたと。

本読みでも、彼はいろいろアイデアを出してくるけど、それが大体正しい。人の意見も素直に受け止めるし、本当に面白かったと印象を語っています。

ただ一方で、彼には飽きっぽいというか、欲望に忠実に行動してしまう一面があり、現場で様々なトラブルもあったようです。

彼が亡くなって、桃井かおりさんがショーケンを

「可愛くて、いけない魅力的生き者」だと追悼するコメントを出しましたが、まさにその通りで、役者としては天才的だけど、人としてはいろいろよくないと。

そして、70年代に出てきた、ショーケン、かおり、優作ら同世代のギラギラした若い役者たちには、明らかに上の世代とは違った「はみ出し者」の輝きがあり、役者としての力がある彼らを、受け止める力量を持った制作側の人間もだんだんいなくなった。芝居がわかっている者は一握り、タレントばかりになってしまった。ショーケンの死は、そんな時代を象徴しているように感じます。と、結んでおられます。

 

そういえば、この人は出演した作品で、いつも独特な存在感を示し、話題を提供し常に注目されていました。でも、薬物の不祥事などで問題を起こす人でもあり、時々トラブルがあって、世の中から姿を消してしまうこともありました。結婚も何度かされています。倉本さんの新聞記事を読んで、そういえば何年か前に、この人自身が出した自伝があったなと思い、本棚を探したら、2008年に、まさに「ショーケン」という自伝が出ていました。10年ぶりに読んでみましたが、あらためて激しい人生だなと。

いつも表現者としての居場所を求め、成功があり、トラブルがあり、世間の目に晒され、ずっとその存在を感じさせ続けた同世代のスターだったんですね。思えば50年余り、彼はものすごい数の作品を残しているわけです。そのうちのどれくらいの本数を見たのか、すでによくわからないですけど、多くの人の記憶にいろいろな形でその姿を刻みつけていることは確かです。

その中で、個人的にもっとも強く残っているのは、倉本さんの話にあったTVドラマの「前略おふくろ様」です。私はちょうど大学生でしたが、毎週できるだけ欠かさずに見ておりました。主人公のサブちゃんは、自分と同年代の設定でもあり、やけに感情移入していたし、共演のキャストも実にみな魅力的でした。田舎から出てきた若い板前の成長物語が丹念に描かれており、そのドラマの背景に故郷で働くおふくろ様がいて、そのおふくろ様には認知症が始まっているという、忘れることのない名作でした。そして、主人公の片島三郎の役は、ショーケン以外は考えられません。

表現者として多くの作品に関わり、観る者に何かを残し、いろいろ問題もあった人だったけど、やはり、失ってみると惜しい人だったなと、思ったんですね。

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2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

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映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2017年6月20日 (火)

MANCHESTER BY THE SEA

先週、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という映画を観たんですけど、久しぶりに何かが心に残ってしまう映画だったんですね。いい映画みたいですよという周辺の評判を聞いてから行ったんですけど、最近なかなか自分から映画館に行ってみようと思うことが少なくなっており、それは、自分の年齢と、世の中の映画の配給が合ってなくなってるせいもあるんでしょうが、昔のように、ちょっと思いつきで観てみようかということに、消極的になっているところがあります。東京で公開されてる映画の本数は決して少なくはないから、実はいい映画を見落としているかもしれないですけどね。

古い友人で脚本を書いているF田さんに、この映画を観たことを云ったら、

「見ました、見ました。近頃の映画の中ではマトモな方だと思います。『ラ・ラ・ランド』なんかも、ア・ラ・ラ・ランドやもんねえ。映画も文学も世界的に幼稚になってしまいました。」

などと、厳しいことをおっしゃってましたけど、たしかに、想像の範囲を越えてこちらに踏み込んでくるような映画体験というのは減っているのかもしれんですねえ。まあ、おっさん達は、長いことさんざん映画観てきてますから。

この「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という題名は何だろうかと思ったら、地名なんですね。ボストンの近郊の海に面した町で、ボストンの裕福な人のリゾート地であり、ブルーカラーの人々が多く働いている町なんだそうで、なので、この題名は日本で例えると、「横須賀ストーリー」とか「鎌倉物語」みたいなことかもしれません。

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物語は、ボストン郊外でアパートの便利屋として働きながら、たった一人で暮らしている主人公のリー・チャンドラーと云う男が、生まれ故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに帰ってくるところから始まります。彼の兄のジョー・チャンドラーが病気で倒れ、リーが到着する1時間前に息を引き取るんですが、、ジョーが残した遺言には、ジョーの息子の、リーにとっては甥にあたる16歳のパトリックの後見人にリーを指名してあったんです。兄は弟をこの街に戻したい意図があるんですが、リーは、この街に本当につらくて重い過去があり、ここに戻ることはできなくて、甥を連れてボストンに帰ろうとします。

一方、パトリックの方は、この街で友達にも恵まれ、バンド活動やホッケーをしながら、二人の女の子を二股にかけたりして高校生活を楽しんでおり、また、父が残した船を維持しながら、この街で暮らすことを考えています。

映画は、このかみ合わない二人を追いながら、つらい過去のことや、周辺の人々も描きながら進んでいきます。この映画の脚本は本当によく練られていて、その精度が実に素晴らしいんですね。主演のケーシー・アフレックが、

「物語や場面、登場人物の関連性に矛盾点がまったくない素晴らしい脚本があったから、僕は迷わずに信頼して進むだけだった。」と云ってます。

脚本を手掛けたのは、ケネス・ロナーガン。そもそも、この映画はプロデュース・監督・主演を、あのマット・デイモンが務める予定でした。そこで、彼が脚本家として絶大な信頼を寄せるケネス・ロナーガンに脚本を依頼したんだけれど、デイモンのスケジュールが合わなくなって、結果的には監督もこの人がやることになり、主演は、デイモンの親友のベン・アフレックの弟であるケーシー・アフレックということになります。いろんな偶然が良い化学反応を生んだこともあったかもしれないけど、マット・デイモンは「力ある役者と脚本、そしてケニーの演出によって、この映画は忘れられないものになった。」と語っています。脚本も、演出も、そして、主人公リーの孤独と悲しみを体現したケーシー・アフレックの渾身の演技も、見事に実を結んでいます。

加えて言えば、パトリック役のルーカス・ヘッジズも、リーの元妻役のランディを演じたミッシェル・ウイリアムズも、様々な役者やその設定も、この映画にとって、みなプラスに働いていたと思えます。

 

ただ、この映画は、観る者を、救いや解決に向かわせることをしません。主人公がつらい気持ちから解放されたり、再出発したり成長したりするわけではなく、ある意味何も変えられない。本当に大事な何かを失ってしまった時、その悲しみから逃れることはできないし、人は出口を見失います。そんなことを思わざるを得ない映画なんだけど、でもなぜか観る者を孤独にはしないんですね。

だから観終わって元気が出るわけじゃないんだけど、ちょっとだけしみじみ祈るような不思議な気持ちになる。でも、いい映画だったのです、なんか。

2017年4月19日 (水)

「牯嶺街少年殺人事件」という映画

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この前、会社で集まって飲んでたんですけど、その時のメンバーが、普段忙しくてなかなか集まれないクリエーターの人達でして、実に面白い話が続いたんですけど、その中で、最近Tさんが観たある台湾映画の話になりまして、これがともかくすごい映画らしくて、Tさんの話を聞いていると、これ絶対にみんな見とかなくちゃということになったんですね。

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」と云うこの映画は、1991年にエドワード・ヤン監督によって発表され、マーティン・スコセッシやウォン・カーウァイらが絶賛し、映画史上に残る傑作として評価されたんですが、版権の問題だったのか、日本では初上映以来25年間DVD化もされず、その間、全く見る機会を失っておりました。私などは、この映画でデビューした主役の少年が、今やアジア映画の大スターであるチャン・チェンであったことすら知らなかったほどです。

しかし、この度、エドワード・ヤン監督没後10年にあたり、4Kレストア・デジタルマスター版となり、又、本作完成時のバージョンである3時間56分版として、日本で上映出来ることになったんだそうです。

そこで、ちょっとあわてて観に行きました。東京都区内での上映は2館、それほど大きくない映画館ですが、知っている人は知っていて、ほぼ満席です。そして、さすがと云えばさすが、これは期待にたがわぬ傑作でありました。ただ、今までに観てきた名作映画ともすこし違っていて、それはちょっと新しい映画体験でありました。

3時間56分という長さは、かなり長い映画の部類になります。ちょっと思い出しても、長い映画と云えば、「アラビアのロレンス」3時間27分、「七人の侍」3時間27分、「ジャイアンツ」3時間21分、「風と共に去りぬ」3時間51分、「黒部の太陽」3時間16分、「ラストエンペラー」3時間39分、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」3時間25分とかとかあります。ただ、今回のこの映画は、長いということの意味が、ちょっと違うような気もします。

長い映画には、出演者が多いという傾向があります。そのたくさんの登場人物たちが、たくさんのエピソードを作って、それがストーリー全体をダイナミックに動かしていくという、いわゆる大河ドラマ的スタイルになってるんですね。

この「クーリンチェ少年殺人事件」も、そういうところがないわけじゃないのですが、そのたくさんのエピソードが、直接ストーリーを動かしているというよりは、この映画全体の背景の空気を作っているところがあるんですね。そういうことだから、ひとつひとつの場面を全部おぼえておかなくても、ストーリーを追う上であんまり大きな影響はないんです。

監督は、自ら少年時代に過ごした台湾社会の空気の息苦しさをを再現し、この映画にリアリティを持たせるため、100に及ぶ人物キャラクターを設定し、そのすべてに来歴と、物語が終わって以降どうなるかについての、膨大なバックストーリーを制作して、300話分のTVシリーズができるくらいの物語素材を開発したそうです。

そのことが、登場人物達の不思議なリアリティと、長い時間見ているうちに物語の中にぐいぐいと引っ張りこまれていく、この映画の力になってるのだと思いますね、間違いなく。

映画としての設計図の企みはできたとしても、実際に映像として定着させる上で大きな壁だったのは、出演者たちの多くが未経験に近い少年少女たちであり、彼らの演技指導に一年以上費やさねばならなかったこと、また、スタッフの60%以上、キャストの75%がこの映画でデビューを飾るという現実は、製作に3年を要するということになっていきます。

エドワード・ヤンという監督が、この映画に注いだエネルギーというのは、冷静に想像するに、ちょっと計り知れないところがあります。 

映画は、主人公の小四(シャオス―)一家と、ヒロインの小明(シャオミン)を中心に、多くの登場人物と出来事を折り込みながら、むしろ淡々と進みますが、観客は気が付くと、この映画の中に徐々に入り込み、様々な記憶を共有してゆきます。そして、やがて、主人公たちと共に、最後の事件に遭遇することになるんですね。

たしかに長い映画ではあるんですけど、見終わったあとで、この映画のあらゆるシーンは、すべて必要であり、この長さには意味があるんだなと感じさせられます。

そして、自らやり遂げると決めた仕事を、妥協せずに最後までやりきった、今は亡き 

エドワード・ヤンという映画監督に敬意を表したいと思いました。

 

ともかく、遅ればせながら、観ておけて良かった映画でありました。

2016年11月22日 (火)

引越しのあとで

少し前に、テレビで 「となりのトトロ」 をやっていて、またしても見てしまったんですけど、これほど何度も見た映画もなかなかなくてですね。1988年に公開されて以降、幾度となく放送されているし、家にビデオもありますから、子供が小さかった頃にも、何度も一緒に見ておりました。そんなことですから、見ながらにして、次のセリフも言えてしまうし、いい歳して、必ず同じところで泣いてしまったりもするわけです。そして、その度に、これは名作だなと唸るんですね。まあ、映画というのは、リピートに耐えることが、名作の条件だったりするところがあります。

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この物語の冒頭は、主人公の父娘3人がこの土地にやって来る引越しの場面なんですけど、これがなかなかいいシーンでして、このあとの様々なドラマの展開の起点になっているんですね。確かに引っ越しって、新しい何かに出会う期待と不安があって、物語の始まりとしては、うってつけの設定なのです。

ちょうど私も、会社の中で6年ぶりに席を替わる大引越しの最中でして、6年間に溜まりに溜まった本の山に囲まれて、かたずけに追い立てられておりまして、ちょっと古本屋で店番してるオヤジのような風情になっております。

そこで、ふと、これまでずいぶんと引越しをしてきたなあと思ったんですね。

子供の頃は、父親の仕事の都合で、幼稚園も小学校も中学校も転校を繰り返しておりまして、そのあと大学は上京してきましたので、この時は一人の引っ越しでしたし、一人になって何年かは落ち着いたんですが、そのうち働き始めてから、住んでたアパートが取り壊しになることが二度ありまして、まあ老朽アパートだったんですけど、その都度、住み家を変えます。

やがて結婚することになって、また別の街に越しますが、今度はその街の中で3度引越して今に至ります。勤め先が変わったり、またその場所が変わったり、こちらも大小の引っ越しが数々ありまして、考えてみると、好むと好まざるとにかかわらず、ずいぶんと引越しの多い人生じゃないかと思いますね。

子供の頃はともかく、大人になってからの引越しは、回を重ねるごとに、だんだんと大ごとになります。若い頃はお金もないし、荷物の大半はゴミだから、捨てればあらかた片づいて、軽トラック一台借りてくれば済んじゃうんで、わりと苦にならなくて、気分転換にもなるから、むしろいろんな場所に住んでみたいななどと思っていました。

でも、年齢を重ねると、いろんなことが身軽じゃなくなってくるんですね。家族もできたり、家財道具や荷物も増えてきて、これは、歳とともに人間関係やしがらみが多くなってくるのと似ております。

思うに、引越しというものは、「さよなら」と「こんにちは」で出来ておりまして、それは、街だったり、物だったり、人に対してだったりしますが、そこには、若干の寂しさと、いくばくかの期待と、何ともいえぬ不安などがありまして、いろいろな気持ちを抱えながら、新しい場所に移ってゆくんですね。

引越しには、ある意味リセット効果などもあって、まあ悪いことばかりでもなかったかなと思いますが、自分の性格にちょっと薄情なところがあるのは、引越しが多かったせいかなと思ったりするところがあります。これは自分じゃわからないんですが、ちょっと別れということに対して淡白で、わりと早めに諦めてしまうような、そこは転校生にありがちなところかもしれませんけど。

いずれにしても、人生は出会いと別れの繰り返しではあります。それがその人にとって、良いこともあれば、良くないこともあるんだけど、そういう中で新しい自分に折り合いをつけながら、みんな日々暮らしてるわけです。

だから、しんどいことがあったり、新しい何かに出会いたかったリ、自分にとってなんか変化が必要なときは、引越しをしてみるのは良いことかもしれませんね。 

なにもほんとに引っ越さなくても、自分のなかではっきりとポジショニングを変えてみるということなんですけど。

大きめの引越しでも、ちょっとした小さな引越しでもいいから、なんか新しい環境に自分をおいてみると、なんか今までと違ったことが起きることもあるかもしれません。

 

サツキとメイはトトロに会っちゃったわけだし。

 

2015年5月 1日 (金)

社員研修と、尊敬するディレクターのはなし

4月は新学期でもあり、会社にも少し新人が入ってきて、なんかあらたまった気持ちになるもんですね。それに、この会社は、けっこう若い人の割合が多いので、みんなして一学年ずつ進級するみたいなとこもあります。会社の仕事は主に、広告の映像を作ることなんですけど、今年は、新人の研修は例年通り山登りに行くとして、2年目3年目の若手社員にも社内で研修やりましょうということになったんですね。

で、その講師には、自ら名乗り出た社歴9年の新人プロデューサーのミナミという女子があたることになりまして、この人、わりとちっちゃくてパッと見、子供っぽく見えるんですけど、仕事はけっこう厳しい人で、後輩達からは一目置かれているみたいです。この人が5月に第一子出産予定で、しばらく出産育児休暇に入るので、その前にひとつ、会社の若手たちに、是非言っておきたいことがあるということで、まさに身重の体で、休日の丸一日、8時間の渾身の研修をおやりになったそうなんです。

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この講習で使うためのテキストを、前もって彼女が作ったんですけど、これがなかなか良くできてるんですね。ほんとに同業他社に売りたいくらいのもので、これも渾身のテキストになっております。

このテキストを作る少し前から、彼女は社内でいろんな取材を始めまして、先輩から若い人たちに伝えたいことなんかをインタビューしたり、いろいろな形でテキストのネタを集めたんです。

私んとこにも、質問状が来て、これには真剣に答えなきゃと思い、まじめに考えました。項目は4つあって、1つ目は、2,3年の若者へというテーマでメッセージをということで、自分の若かった頃を、はるか昔ですが、思い出しながら書きました。2つ目は、自分の仕事のベスト3をということで、これも膨大な記憶の中からなんとか選んでみましたが、なかなか難しかったですね。3つ目は、絶対観ておいてほしい映画ベスト3ということで、これも大変でしたが、古典からがいいかと思いまして、1.東京物語2.七人の侍3.アパートの鍵貸します などと書きましたね。

それで、4つ目がまた難問だったんですけど、今まで仕事したディレクターの中で、1番好きな、もしくは尊敬している方、という質問でして、これはほんとに多くの方がいらっしゃるわけです。ちょっと思い出しても、どの方も表現に関して、それぞれにユニークな面白い考えを持ってらして、本当に優秀な人たちで、私なんかはものすごく影響受けてるわけです。なかなか1番は選べないんですね。

それでいろいろ考えてたんですけど、ある人を思い出しました。

駆け出しの頃、前にいた会社で、私が一番若い制作部だったんですけど、そこにCMディレクターになったばかりの6歳年上の先輩がいました。その会社で最も制作費の安い仕事をよく二人で作ってたんです。

この人からは、いろんなことを教えていただきましたし、

「おまえ、若いのにほんとにいろんな目に会ってて面白いな。」

などと云って、よく人の失敗話を聞いて笑ってくれました。

私は、彼のことをすごく尊敬していましたし、彼が優秀な演出家であることもわかっていました。三浦英一さんと云います。

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6年ほどして、私がプロデューサーの仕事を始めた時には、彼はすでに会社で最も忙しいディレクターになっていました。その後も、実にいろいろな仕事を一緒にしましたが、そのたびにレベルを上げていたと思います。それからしばらくして私はその会社を辞めましたが、いずれまた仕事をしましょうと云って別れました。

それが1988年の終わり頃でしたが、1992年に彼は突然亡くなりました。いい仕事をたくさんしていて、次々に依頼が殺到していて、どんな仕事も手を抜かない人でしたから、過労だったと思います。その時44歳でした。

20何年も前のことですが、あの事を思い出すと、何ともいえぬ悲しさと悔しさがにじみます。

その翌年だったと思うんですけど、私は初めて市川準さんと仕事をしました。その時はすでに超売れっ子ディレクターで、映画も何本か撮っていらっしゃいました。私は最初少し緊張しましたが、やがてすぐに打ち解けることができ、そして、だんだん仕事をしていくうちに、なんだか懐かしい感じがしたんですね。

市川さんは三浦さんに似てたんです。顔が似てるんじゃないんですけど、二人は同じ年に生まれていますし、異常に映画が好きですし、二人ともコンテを描くのがめちゃくちゃうまいです。ディレクターとしての成り立ち方が近いんだと思うんですね。市川さんとお酒を飲んだりしていると、私の一方的な感覚ですが、なんか不思議な気持ちがしておりました。それからはご縁があって、いろいろな形で長くお世話になりましたが、結局そのことをお話しすることもなく、市川さんも、2008年に59歳で突然亡くなってしまわれました。

いつだったか、市川さんがとても好きな映画だからと云われて、1970年のサム・ペキンパーの「砂漠の流れ者」のビデオを下さったことがあったんですが、三浦さんも1969年のサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」が大好きで、この映画の出演者たちを暇さえあれば絵に描いてたのを思い出しました。

二人とも、驚くべき本当に寝ない人で、亡くなる直前まで仕事をしていたことも、共通することでした。

 

CMディレクターの質問をされたことで、想いだしたことでしたけど、この話を若い人にしてみたいと思ったんですね、ちょっと。

 

2015年2月26日 (木)

高校3年の時につくった8mm映画

ちょっと前のことなんですけど、正月の3日に高校3年生の時の同窓会があったんですね。私、考えてみるとこれまで同窓会というものに出たことがなくてですね、中学までは転校が多かったもので、幼馴染とはだいたい音信が途絶えてるし、高校だけは消息のわかっている友達が何人かいるんですが、卒業してからずっと故郷を離れていて、同窓会の知らせを受けても、出席できたためしがありませんでした。今年はみんなして60歳になることだし、都合を合わせるから帰って来いと友達が云ってくれたので、そこに合わせて帰郷しました。地元にいる同級生は、たまに集まってるようなんですけど、私はほぼ40年ぶりで、いささか緊張しました。

この日集まったクラスメイトは、10名ちょっとで、ほとんどの人が卒業以来の再会です。一人一人じっと顔見て名前を名乗ってもらって、すぐに思い出す場合もあるし、なんかじわーっと思いだしてくる場合もあって、でも、最終的には全員思い出すことができました。まあみんな年取ってますし、60歳ですから、何だか不思議な体験です。

私以外のみなさんは、お互いたまに会っているようなので、自然と私が卒業してどうしていたかみたいな話をすることになるんですけど、そうはいっても40年間の話を一気にするわけにもいかず、ところどころということになります。

あとは、みんな高校生に戻って、あの頃どうしたこうしたという思い出話に花が咲くんですが、これも人によって、よく覚えている話とそうでもない話があったりして、なかなかかみ合わなかったりもします。40年経ってますから。

そもそも高校の3年生という時期は、受験があったりして忙しいのと、授業のカリキュラムも、理系と文系とかに分かれていたりで、なんかまとまりのいい時期じゃないんですよね。

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でも、なんだか色々に話してるうちに、共通に盛り上がる話題が出てきたんですね。それは、高3の夏前だったか秋口だったかに学園祭があったんですけど、うちのクラスは8mm映画作ったんです。けっこう大変だったし、全員参加で作ったんで、みんなそれぞれに思い出があるわけです。

誰かが、私が監督をやったんじゃないかと云ったんですけど、どうもそうではなくて、だんだんと思い出してみると、なんかオムニバスのような作りになっていて、いくつかの話をみんなで手分けして撮影したように思います。自分達で、出演して、撮影して、編集して、一本につないで、音つけて、たぶん音は音で、オープンリールのテープに入れて、上映は画と音をよーいドンでまわしたんだと思います。

撮影機材は、クラスメイトの誰かのお父さんが、8mmのカメラと映写機を持っていて、それを借りたらしく、音の方は、皆のオーディオ機材やレコードをかき集めてやったんだっけか。

だんだん思い出してきました。

そういう素人映画なんだけど、いざ一本の映画を完成させることになると、大変は大変なわけです。連日学校で夜中まで作業していて、進路指導の先生から、受験の大事な時に何考えてるんだと、説教されたこともあったようでした。わりと受験校だったし、なんとなく思い出してきましたが。

そんなことをワイワイ話してるうちに、少しずつ自分がやったことも蘇ってきました。私が映画を作ろうって言い始めたのかどうかは、わかんないんですが、どうも企画書のようなシノプシスのようなものを書いた記憶があるんですね。

で、テーマは「自殺」だったんです。

だけど、繊細でナイーブな思春期の高校生が、何か思いつめてこの題材をとらえたということではなく、茶化してるわけじゃないけど、相当そのことを軽くとらえていて、どっちかっていうとモンティ・パイソンみたいなことがしたかったように思います。

この年、1972年でしたが、

1970年11月には、有名な三島由紀夫氏割腹自殺があり、1972年4月には、川端康成氏のガス自殺もありました。はやりと云うには不謹慎ですが、そういった大事件に影響されたことはあったかもしれませんね。私、映画のなかで割腹シーンを演じたと思いますし、ナレーションもやった気がします。アサハカ。

 あの映画、その後どうなったんだろうねと云う話になりました。映写機とカメラを提供してくれた級友がまだ持ってるんじゃないかという話も出ましたが、正確には、42年と数カ月経ってますから、フィルムは酸化して風化してるんでしょうね。

もし残っていたら皆で見たいねと云う仲間たちですが、60歳のおじさんやおばさん達が集まって、時をかける少年少女になって、高校時代の8mm映画を見つめている姿は、ちょっと不気味ではあります。

でも、怖いもの見たさでちょっと観たい気もするかなあ。

 

2015年1月 5日 (月)

1996「トキワ荘の青春」

昨年11月に、目黒シネマという昔からある映画館で一週間ほど、「市川準監督特集」が、開催されました。

早いもので昨年の9月が、市川監督の7回忌にあたり、また、8月には市川組の名キャメラマンであった、小林達比古氏が亡くなられており、それは、お二人を追悼する上映会でありました。

お二人が作られた「病院で死ぬということ」と「トキワ荘の青春」を観ましたが、あらためて、どちらも名作でした。そして、最近では少なくなったフィルムでの上映であり、お二人が愛されたフィルム上映のしっとりした味がよく出ていました。

実は、この「トキワ荘の青春」という映画に、私は不思議な関わり方をしておりまして、1996年の公開以来18年ぶりに見せていただいたのですが、懐かしさとともに、いろいろ確認したいこともございました。なんというか私この映画に出演しておりまして、しかも、けっこう重要な役で、たくさんセリフもあったりしてですね。最初に市川さんから電話をいただいたときには、真顔で、「それは、無謀です。」と申し上げました。

だいたいどういう理屈か意味もわかりませんし、でも、思いとどまっていただこうと、いろいろ話してたら、市川さんが怒り始めて、

「そんなことはわかってる。だからさんざん考えた上で頼んでるんだ。」

とおっしゃいました。そういう空気になると、前々から尊敬している監督だし、意味わからないなりに、

「わかりました。」と云うしかなかったんですね。

市川監督とは、その少し前から、CMの仕事をご一緒してたんですが、市川さんは、すでにCM業界から才能を見出された映画監督として、有名になられておりました。

私は、その前年に市川さんが撮られた「東京兄妹」という映画の時に、その作品のなかに出てくる遺影の役で出させていただいたことがあって、遺影の役って言葉的に変ですけど、その時何枚か写真を撮っていただいて、映画のなかにその写真が出たことがあったんですが、映画の経験はそれしかありませんでした。

そうこうしてるうちに、映画「トキワ荘の青春」の撮影は、はじまりました。

この映画は、実話をもとにしていて、昭和30年代にトキワ荘というアパートに集った漫画家志望の若者たちを見つめながら、彼らのなかから、売れっ子の漫画家になっていった者や、漫画雑誌という新しいメディアのなかで、埋没していった者など、さまざまな青春模様を描いています。

時代考証がかなり厳密にされていて、美術も衣装もていねいに作られており、フィルムのタッチも流れている音楽も、まさにその時代が再現されています。この中で私がする役は、トキワ荘の若者たちと関わる雑誌編集者の一人なんですけど、かなり重要な役なんですね。ほんと、参ったんですけど。

ただ、こうなったら四の五の言ってる場合じゃないですから、まわりのスタッフや、いっしょに出てる役者さんに迷惑をかけないことを、肝に銘じてやるしかないわけです。まあ、これは映画ですから、最終的に出来上がったものは監督が責任取るわけですから、ハイ。と、開き直ったわけです。

自分のことは置いといて、18年ぶりに観た映画は、本当にいい映画でした。昭和30年代というあの懐かしい時代に、漫画家を目指した若者たちの静かな情熱が、たんたんと描かれています。そして、それはまるでドキュメンタリーのようでもあります。

主役の寺田ヒロオさんを演じた、本木雅弘さんの抑えの利いた演技がすごくよくて、でも当時有名な役者さんは本木さんだけで、ほかの漫画家たちは、藤本弘役の阿部サダヲも、森安直哉役の古田新太も、鈴木伸一役の生瀬勝久も、その頃の小劇場の若手の有望株でしたが、一般には知られていない無名な若者たちでした。大きな声で目立った芝居をする人も誰もいません。声が小さいのは、その頃の市川準監督の映画の特徴でもあります。

それと、ドキュメント的な作りなので、カットを割りません。だいたい引き画の1カットでシーンが構成されていて、これ、引いた画が多くて、役者は声小さくて、監督が同録の音にこだわる人でしたから、録音部は毎回死ぬ思いして音拾ってましたね。美術も衣装も照明も、一事が万事そういった細やかな作りで、ラッシュ見ると、くすんだいいタッチなんです。音のトーンも画のトーンも、そうやって丁寧に丁寧に抑えて作られていて、なんていうか見事な市川節になってるんですね。ほんとにしぶとい方でしたから。

たぶん監督は、この時代のトキワ荘で起きた出来事を風景のように撮りたかったのかもしれませんね。作り込んだドラマというよりは、そこで起きたことを、ただ客観的に見てきたように。

そう考えると、主役の本木さんはともかく、出てくる人たちはその頃の市井の人々の顔にしたかったのかもしれません。そういう方針のもとに作られたとしても、私が出していただいたことが、この映画の役に立っているのかどうかは、結局よくわかりませんでした。18年ぶりに確認してみようと思ったんですが。

もっとセリフもちゃんと言えて、適任者がいたのではないかとは思うのですが、すでにこういう形で完成してるのですから仕方ないですね。やっぱり開き直るしかないです。たとえ監督があのキャスティングだけは失敗だったなと思っていたとしてもです。

当時、恐ろしくてそんなこと聞けませんでしたし。

ただ、あの名作の出演者に名を連ねていることは、ともかく誇りであります・・・汗。

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2014年12月 6日 (土)

高倉さん 逝く

なにか書こうとすると、すでに亡くなった方の話になりがちなのは、自分が60歳という年齢であれば無理からぬことと思いますが、また、大きな訃報です。  

高倉健さんが、83歳で身罷られました。

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1931年は昭和6年の生まれですから、まさに私の親の世代です。大学を出たものの就職難の時代で、なかなか勤め先が決まらず、面接を受けた先で、偶然映画会社の人にスカウトされたのが映画俳優としてのスタートだそうです。うちの父も大学を出た時は、空前の就職難だったと云っていたので、同じ頃だったのでしょう。

映画スターとして頭角を現すのは、1963年頃からの任侠映画で、その後1965年からは人気シリーズ「網走番外地」が始まっています。その頃小学生だった私がそれらの映画を見ることはなく、この方はテレビに出ることもなかったので、もっぱら映画館の看板やポスターでお見かけするのみでした。

そのあと、70年安保をめぐる社会情勢下で、寡黙なアウトローが、数々の仕打ちに耐え、筋を通し、ついに堪忍袋の緒が切れて、復讐を果たす姿は、学生運動に身を投じる学生やサラリーマンなど、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にも立ち見が出た話は伝説でありました。その頃まだ私は大人の仲間入りをしてはおらず、それらの映画を観ることになるのはしばらく後のことです。

初めて映画館で、高倉さんの映画を観たのは、1975年の「新幹線大爆破」だったかもしれません。その頃彼が所属していた東映という映画会社は、完全に実録やくざ路線にシフトされていて、このままではやくざの役しかできなくなると考え、高倉さんは1976年に会社を辞めて独立します。45歳、まだ学生だった自分から見ると完全な大人の男でした。

映画産業は、すでに斜陽と云われていましたが、ファンを多く持つ高倉健さんに多くの映画関係者は期待をしました。独立後、彼の代表作となる作品が次々に制作されていきます。

1977年には、「八甲田山」と「幸せの黄色いハンカチ」があります。「八甲田山」はオールスター超大作、冬の八甲田山に極寒のロケを敢行した話題作で大ヒットしました。でも、私は働き始めた年でしたし、忙しくて金もなくて、封切りで観ることはありませんでした。何年か経って観たとき、なるほどすさまじい映画だと思いました。のちのちまで語り継がれる力作で、監督 森谷司郎、撮影 木村大作の代表作となります。

「幸せの黄色いハンカチ」は、なんとなく空いた時間に偶然映画館に入って観ました。何年か前にヒットしたアメリカのポップス「幸せの黄色いリボン」という唄の歌詞が元になった話だということは知ってましたが、予備知識はそれくらいでした。しかし、ちょっとどうしちゃったんだろうというくらい涙が出たんですね。この頃の私はわりと冷めた奴だったし、あんまり映画を観て泣くようなことはありませんでしたから、ちょっとあわてたほどです。たいていの人はラストシーンの黄色いハンカチがはためくところで泣くんでしょうけど、私は、そのしばらく前のシーンで、健さんが目的地の夕張を目指して車が走り出したときに、道路標識の夕張という文字が出ただけで泣いてしまっております。まあそれだけこの高倉さん演じる島勇作という人物に感情移入しちゃったんでしょうけど。山田洋次監督の、ていねいな脚本と演出と、健さんが精魂こめて演じた主人公が、この作品を映画史に残しました。もちろん倍賞さんも素晴らしいのですけど。

この3年後、監督山田組は、高倉さんと倍賞さんで、もう一本「遥かなる山の呼び声」という映画をつくります。私は迂闊にもその映画を見落としていて、その数年後にテレビで放映されたものをビデオで留守録画して観たのですが、2時間半の番組を2時間のテープで録ったので、最後の30分がありませんでした。これはどうしてもラストまで観たいのですが、その時まだこの作品はビデオ化もされておらず、とにかく、この2時間半をきちんと録画した人がいないか、必死で聞いて回りました。すると、一人きちんと3時間のテープを使って録画してる人がいました。この人は私の会社の後輩だったんですけど、当時からなにかと頼りになる人で、この映画の最後の30分を見ずして、この映画を観る意味はありませんよと、彼は云いました。そうですか、ありがとうございますと申して、うち帰って残りの30分を観ました。彼の言うとおりでした、このラストシーンには参った。声が出るほど泣きました。夜中に一人こたつに入って泣いたです。

なんかいかに泣いたかみたいな話ばかりになってしまいましたが、この時に、山田監督も、高倉さんも倍賞さんも、とんでもない人たちなんだという認識を新たにすることになります。

健さんは、この頃から、年に一本くらいのペースで、ていねいにていねいに映画を作るようになります。そして健さんは50代になり、日本映画界に不動の地位を築いていきます。

そして1989年には、あの「ブラック・レイン」に出演します。やがて60代になり、今まで以上に作品を選び、より丁寧に仕事に向き合い、映画を一本撮り終えると、燃え尽きたようになって、しばらく姿を隠しました。誰かを演じるということより、その主人公を自分のなかに取り込んでしまう、それも全身全霊だから、仕事が終わると抜けがらになってしまうんでしょうか。

どなたかおっしゃってましたが、高倉健さんは、どんな役をやっても高倉健さんになるんですというのは、本当だなと思います。他にいないですよ、こんな映画俳優はちょっと。やっぱりなんか特別の人なんですよ。

205本の出演作、そのうち60代の映画が3本、70代の映画が2本、80代の映画が1本、これが遺作となります。

 

NHKの追悼番組で、高倉さんがインタビューに答えてらして、ご自分の世代の話をされたときに、高倉さんが育った九州の炭鉱町では、事故があったり祭があったり、何かっていうと、そのあたりで死体を見るような時代でしたよとおっしゃいました。

僕たちの知らない親たちの時代の話でした。

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2014年10月15日 (水)

「寅さん」というプログラムピクチャー

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今さらですが、「男はつらいよ」という映画は、すごいなあと、この間しみじみ思ったんですね。そんなこたあ、お前に云われなくても、1969年の第1作から第48作まで26年間、大ヒットを続けていたわけだし、1995年にシリーズを終了した後も、その評価は変わることなく、ずっと絶大な支持を受けていたわけで、今頃になって何を寝ぼけたこと云ってやがる、などと云われそうで、まあ語りつくされてることではありますが、ちょっと語ってみたくなったのですね。

このところ、BSで毎週土曜日の夜に、ずっとこのシリーズを放送してたのは知っていて、たまに観てたんですが、それほど集中して観ていたわけでもなく、ときどきつまみ観をしてたんですね。何度か観てるうちに、ふと、この映画って、やっぱりちょっとすごいなと思ったんです。

なにかと云うと、この映画にはこの映画にしかない 間(ま)があるんですね。

映画を見始めると知らないうちに、こっちがストンとその間(ま)のなかに入ってしまいますね。山田洋次監督の間(ま)なんでしょうか。渥美清さんの独特の間(ま)なんでしょうか。このシリーズの出演者たちが作ったもんなんでしょうか。それは、映画として語られるお話の間(ま)だったり、登場する人と人との間(ま)だったり、セリフの間(ま)だったり、いろいろなんですけど、観る側は心地よくその間(ま)にのみ込まれてゆくんですね。

第1作が公開された頃、私は中学生でしたが、とくにこの映画を観ることもなく、高校生の時はわりと映画少年だったんですけど、このシリーズにあまり興味もなく、高校卒業するころになって、受験勉強さぼって初めて観たのが、第10作だったと思うんですね。でも、この映画けっこう笑ったんです。マドンナ役は八千草薫さんで可愛らしくて、喜劇映画としてよくできてるなあと思ったんです。

年表を見ると、このころから、このシリーズはお盆とお正月の書き入れ時の公開に定着していきます。確実に観客をつかみ始めたのかもしれません。松竹という映画会社を支えているのは「男はつらいよ」であると言われ始めたのもこのころでしょうか。

それから私は、進学して上京し、このあとも時々「寅さん」を観るようになりました。20代になり、少しは大人になっていったのでしょうか、この喜劇は、何だか少し悲しいなと思うようになります。いつも、地方の風景と、葛飾柴又の風景と、とらやの茶の間が舞台で、いつもの人たちがいつものように出たり入ったりする、これといって何も変わらない、でもおかしくて、なんだか悲しい映画。

特に、このころ観た、吉永小百合さんや浅丘ルリ子さんが出演したシリーズは、名作でした。そのあと社会に出て働き始めて、またあんまり観なくなったりして、でも、出張先の地方の映画館で、一人でフラッと観て、そういう時はやけにしみたりして。

そのうちビデオでも観れるようになり、この映画は、ずーっと何となく付かず離れず存在してたように思えます。

気がつくと、こちらも30代も半ばになった頃、1990年から「男はつらいよ」は、お正月映画として年に1回の公開になり、脚本的にも、この頃から寅さんの甥の満男の恋が描かれるサブストーリーが作成され始めました。これは後になって知りましたが、病気がちになった渥美さんの体力を考えてのことだったようです。

渥美さんは、車寅次郎を、41歳から67歳まで演じて幕を閉じました。

最終回のラストシーンは震災にあった神戸の街でしたから、1995年の年末でした。

このシリーズが終わってから、すでに20年ちかく経とうとしています。

この先も、これだけ続くプログラムピクチャーは、もう作れないでしょうね。

そして、これだけ続くには、続くだけの理由があったと思います。

あらかた笑った後で、ちょっと切なくなる気持ち。

切ないから、ともかく笑ってしまおうという気持ち。

監督の山田洋次さんは、インタビューで、終戦直後、引揚者として毎日つらかった少年時代に、大人たちがその中から笑いを見つけて、笑うことで元気を出して励ましあうのを見て、それが自分の笑いの、喜劇の原点かもしれないと言われていました。

考えてみると、喜劇ってそういうとこありますよね。

2014年9月12日 (金)

リバティ・バランスを射った男という映画

年とると、子供の頃の記憶がどんどん遠くになっていくんですけど、たとえば子供の時に見た映画のことを、どれくらい覚えているのかという興味がありまして、ちょっと考えてみたんですね。

なんせ私の幼少期というのが、映画産業最盛期でして、1950年代から1960年代初頭なんですけど、映画観客数が年間で10億人を超えてまして、人口が1億に満たない頃ですから、1人が1年間に10回以上映画館に通ったことになります。テレビが急激に普及するのが東京オリンピックの1964年頃ですから、その前は娯楽といえば映画だったわけです。その頃、映画館は7000館以上あって、私が住んでいた、当時は中央線のはずれの西荻窪にも、2軒の立派な映画館がありました。

そんな頃でしたから、子供もよく映画館に行ってたんですね。子供向けのアニメーションや怪獣映画も名作がいろいろあったんですが、うちのオヤジがかなりの映画好きだったもんで、自分が観たい映画に行くときに、やたらと私のこと連れていきまして、おまけに、こっちはようやくひらがなが読めるかどうかの時に、ほとんどが字幕の外国映画だったんです。でも、全然いやじゃなくて、非日常っていうか、ホント楽しかったんですよ。ほとんど忘れてると思うんですけど、不思議と断片的に記憶に残ってるシーンとかがあって、これ多分1959年に作られた「刑事」というイタリア映画なんですけど、ラストシーンで刑事と連行される犯人の車を、きれいな女の人が走って追いかけていて、ここでかかってる曲が“アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモレミーオ”って唄っていて、この曲、有名な「死ぬほど愛して」という曲らしいんですが、すごくそのシーンだけよく覚えてるんです。ミステリーだし他は意味わからなかったんでしょうけど。で、調べてたら、そのきれいな女の人は、あのクラウディア・カルディナーレで、デビュー作だったようですね。まあ、そんな映画が何本かあってごちゃごちゃに頭の中に入ってるんですね。

そうこうしているうちに、小学校にも上がり、映画鑑賞にも慣れてきたのか、映画に対して妙に理解力のあるガキになっていきます。相変らず字幕はあんまり読めないんですけど、慣れってあると思いますね。

 

その頃「リバティ・バランスを射った男」という映画がありまして、その映画のことすごくよく覚えてるんですね。そこで、その映画観てみようと思ってアマゾンで検索したらすぐあって1254円で簡単に手に入りました。そこで、自分の記憶がどれくらい確かなものか、試してみることにしました。半世紀ぶりですが。

これが、意外と間違ってないんですね。細かいこと云えばちゃんとわかってなかったとこも多々あるんですけど。大筋だいたい正しかったと思います。

これ、どういう話かというと、西部劇なんですが、主人公はランスという青年で、東部で法律を勉強して志に燃えて西部のとある町にやって来ます。しかし、この街は、法律も整備されておらず、たよりない保安官が一人いるだけの無法地帯なんです。この街に暮らす小さな牧場主のトムは、「自分の命は、自分の銃で守る。」という考えの西部の男で、ランスとは対照的なもう一人の主人公です。そして、この土地の無秩序を体現している無法者が、リバティ・バランスと云う男なんです。

物語は、上院議員として大成したランスが、かつて馬車でやってきたこの街に、鉄道で帰ってくるところから始まります。それは、トムの葬儀に出席するためでした。トムの晩年はちょっと寂しいもののようで、時が流れてしまったことを感じさせます。

かつてランスは、弁護士として、この街の法を整えようとしますが、ことごとくリバティ・バランスによって破壊されてしまいます。度重なる暴力の末に、ランスは銃を手に無法者と決闘することになります。とても勝ち目はありません。しかし、ランスはリバティ・バランスを打ち倒すんです。

でも、この時、実は物陰からリバティ・バランスを射ったのはトムだったんです。東部の男と西部の男はずっと相容れない対立軸にいましたが、西部の男は、西部の象徴である銃で東部の男の命を救い、東部の男は政治家として、西部の法治化を進めることになります。

ランスを演じているのは、ジェームス・スチュアートで、ヒッチコックの映画で、数々の重要な役を演じていて有名ですが、洗練されたインテリのイメージが強く、まさにこの役にピッタリです。そして、西部男を代表するトムが、ジョン・ウエインというのもこの上ないキャスティングです。この映画の時代背景は、鉄道の普及とともに西部が開発されて整備されていく時代であり、その時代に置いていかれる西部の男の哀愁のようなものが、ジョン・ウエインに漂っています。

リバティ・バランスを演った リー・マーヴィンもはまり役で、憎むべき悪役を見事に演じ切っています。主役の二人に比べると、年も15歳くらい若く無名でしたが、この役で、ジョン・フォードに認められてスターになるきっかけを掴んだみたいです。

調べてみると、この映画は西部劇の中でも名作と云われていて、名匠ジョン・フォードが、ジョン・ウエインと組んだ20本の映画の最後の作品であったようで、1962年の公開ですが、ジョン・フォード68歳、ジョン・ウエイン55歳、ジェームス・ステュアート54歳と、円熟期で、あらためて観るとよく練られた渋い映画であります。

小学2年生の私は、彼らの現役時代にギリギリ間に合った感がありますが、小学2年生にこの映画のどの部分が響いて、どう感動したのか、今となってはよくわかりません。

ただ、ずっと覚えていて、わりに正しく理解してたのは確かですが。

ちょっと思ったのは、私の中では、西部の男たちの哀愁みたいなものが強くて、たぶん時間が経つとともにそれが醸成してウエットな印象が残ってたかもしれませんが、実際観てみると、もうちょっとカラッとしたアメリカ映画だったわけで、そこは日本人のせいでしょうかね。

DVDを観ていてひとつ気がついたんですけど、リバティ・バランスの子分の一人が、ジョン・ウエインに一発でのされてフレームから消えちゃうんですが、この人が、あのリー・ヴァン・クリーフで、のちにマカロニウエスタンで大スターになって、サントリーのウイスキーのCMにも出てた人なんです。こういうの見つけると、なんか得した気持ちになりますよね。

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2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

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日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2014年1月17日 (金)

「無重力」という映画

去年の反省の一つとして、映画館で映画を観てないなあ、というのがあります。最近、会社の中で仕事してることが多くて、昔ほど外をほっつき歩いてないし、今なかなか飛び込みで映画館って入れないし、映画館でかからなくなっても、どっか他のメディアで観れるだろうという気持ちもあるし、なんとなく映画館入って映画を観る頻度は、減ってると思うんですよね。

ただ、いい映画を映画館で観ると、やっぱ映画は映画館で観なきゃと思うんですね。去年だと「レ・ミゼラブル」とか、やっぱりスクリーンで観るから伝わることっていうのはあるなあと。そもそも、映画って映画館でかかるってことを前提で作られてるんだから、そりゃそうなんですけどね。

そういう意味でこの映画こそは、映画館で観なくちゃだわと思ったのが、

“GRAVITY”でした。

「重力」まさに観客はこの映画を通して、ものすごい重力の体験をします。

俳優の演技も、それをとらえる光も、CGも、合成の技術も、そして3Dの効果も、音響も、すべてそのために駆使されたものです。

最先端の技術、ただそれは素晴らしいのだけど、この映画の本質はそこではありません。

もっとも適していると思われる映画の技術は、監督やキャメラマンやスタッフたちが選び開発したものです。今更ながら気づかされますが、技術は映画のメッセージを観客に伝える道具でしかありません。だからあんなにすごい技術なのに、それ自体が目立つことはなく、むしろその効果は、あたりまえのように自然に感じます。映画の意図を伝えるために研ぎ澄ました技術は、見事に抑制されているのです。

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この映画は、宇宙空間で働くクルーに、ある事故が起きて、たった一人の生存者となってしまった主人公が、絶望の淵から折れかけた自身を立て直し、地球に生還するまでのお話なのですが、非常にシンプルなストーリーながら、その無重力の世界を描く映像表現があまりに見事なため、観客は最後まで主人公から目を離すことができません。

私たちは、このヒロイン、サンドラ・ブロックが生還できることを切に願い、心から祈る気持ちです。その途中、その生還を託して消えていったジョージ・クルーニーも、実に良い芝居をしています。

さまざまの困難の果てに、サンドラ・ブロックが地球の重力で大地を踏みしめた時、私も映画館の床をおもいきり踏みしめていました。

私は、一応映像にかかわる仕事をしているので、この映画のプログラムの解説を読んだり、ウエブサイトのメイキング映像を見たりすると、どんなふうに撮影をしたのだろうかということが、多少想像できるのですけど、これはものすごい執念と、驚異的な粘りの上に、相当な時間をかけて撮影されたこと、出演者はほぼこの二人ですけど、ずっとライトボックスという箱に入れられて、いつも12本のワイヤーで吊られていたことが解ります。

インタヴューの中で、彼女が「二度とやりたくない撮影」といった意味がよくわかります。まさに絶望の淵にいる主人公の表情が、本当に絶望している表情に見えるのは、演技だけとは思えない、酷使された女優サンドラ・ブロックのリアルな顔なんじゃないかとも思えます。ともかく、この変態ともいえる監督アルフォンソ・キュアロンとキャメラマン エマニュエル・ルベツキの要求に耐えた俳優陣(二人ですけど)に拍手を送ります。

そして、この監督とキャメラマンとスタッフたちにも、

「いよっ、この変態!!」と声をかけて、賞賛の意を表したいです。

美女を箱の中に入れて、ひもで吊るし、宇宙服を着せたり脱がしたりして、リモコンのカメラで何日も覗き込む行為は、客観的に見ると変態ですよね。映像の仕事をしていると、このようなタイプの人は、周りにわりといらっしゃるんですけど、スペシャルな方がいらしたもんです。なんか嬉しいですね。

ここまで完成度の高い技術というのは、出来上がった映像をむしろ自然にしか感じさせないものだということがわかります。そして、映画館で観なければ全く意味がないということでもあります。

お見事でした。

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2013年11月27日 (水)

Ipadでみる ウォン・カーウァイ

あのAmazonが、映像配信を始めることになったそうで、すでにGyaoやTSUTAYA、また各テレビ局の参入も始まっており、何万本という映画や番組のコンテンツが、インターネット上を行きかうことになるのでしょうか。ちょっと選ぶ方は大変そうですが。

考えてみると最近あんまりレンタルビデオ屋さんに行ってないですね。まあ、わりと最近のたいていのものは、iTunes Storeでみつかるし、やはり特別のものはないのだけど、というか、そういう意味では肝心なものはなかったりするのだけど、だんだんにipadで観れる映画のラインナップは充実してきてる気がしますね。

レンタルビデオ屋をウロウロしてるうちに、意外な掘り出し物を見つけたりすることはなくなるけど、題名がわかれば探し出す手間はないし、出演者や監督の名前で検索かけるのは楽ですよね。

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先日も、ウォン・カーウァイで呼び出してみると、わりとズラッと出てきて、久しぶりに次々と観なおしました。前に検索した時には、見つからなかったので、最近そろったのだと思います。

1994年の「恋する惑星」は、香港の雑居ビルを舞台に若者たちを描き、クエンティ・タランティーノに絶賛されアメリカでの配給を決めた彼の出世作で、たしか私も、これを最初に映画館で観たと思います。この映画は2つのエピソードでできており、本来この映画で描かれるはずだった3つ目のエピソードが、次の「天使の涙」となり、これらの映画には映像作家としての彼の新しい試みがあふれています。そして忘れてはいけないのが撮影のクリストファー・ドイル。ほぼ全部の作品を担当していて、その映像が当時、相当斬新だったことを覚えています。

「欲望の翼」は、今回のラインナップには入っていませんが、1990年に公開されたデビュー2作目で、カーウァイ独特の映画スタイルを完成させたといわれています。1960年代の香港を舞台に恋愛模様を描いており、その続編といわれている2000年の「花様年華」も、これは今回のラインナップにはまだ入ってませんが、2004年の「2046」も続編とされており、このあたりは映画としてかなり見応えがあります。

この人の映画は、常に実験的で新しいという評価はもちろんあるのですが、その前に、映画としてかなりしっかりした骨太さがあります。それは、たとえば俳優が演じるキャラクターの存在感の強さだったりします。映画が俳優をどう捉えているかということに集約されるのですが、このあたりがどの映画を観ても非常に興味深いです。

「欲望の翼」の俳優たちは、当時、香港のアイドルのトップスターたちですが、映画俳優として確実にハイレベルに成立しています。監督は彼らとどのようにかかわったのか。

かつて日本でも、相米慎二監督がアイドルたちを次々にスクリーン上で映画俳優にしていったことを思い出します。

ウォン・カーウァイと関わった俳優は、多くが一流の映画俳優になっています。中国には、かつての日本もそうでしたが、映画俳優という職業が、専門職として間違いなく現存しているという背景がありますが、ウォン・カーウァイの映画における俳優には、観客をスクリーンに引っ張り込む、気のようなものがあります。

もう一つの大きな特徴は、それはもう音楽の使い方のうまさです。これは、映画を観るたびに思いますが、ものすごく生理的に音が浸みこんできます。これはたぶん多くの人が感じてることだと思います。

既成曲の使い方も見事で、「恋する惑星」の ママス&パパス(夢のカリフォルニア)とか、「花様年華」の ナット・キング・コールの3曲(アケージョス・オホス・ベルデス)(テ・キエロ・ディヒステ)(キサス・キサス・キサス)、「2046」の ディーン・マーチン(スウェイ)や コニー・フランシス(シボネー)など、60年代の曲がここぞというタイミングでかかります。しびれる。

昔、影響を受けた映画は、今見直してもやっぱりすごかったですね。

また、新たな発見もありました。「花様年華」で、トニー・レオンとマギー・チャンが密会するホテルのルームナンバーが、2046号室になってて、次回作の「2046」にちなんでたりしてます。

やってくれはります。

2012年10月17日 (水)

最強のふたりが、Like someone in loveで、北のカナリアたちだった

このところ、なかなか映画を観る時間がなくって、しばらく映画館に行かなかったと思ったら、ここにきて3本続けて観ることになり、これがまた、それぞれに種類は違うのだけれど、すごくよく出来た映画だったんです。

「最強のふたり」は、私のまわりで実によく映画を観ている友人がそろって、すでに今年のベストワンだと言うだけあって、久しぶりにとても良いフランス映画をみせていただきました。

この最強のふたりの人生には、それぞれすごく重いものを抱えているのだけど、最強のエスプリとユーモアでそれを乗り越えてしまう爽快感と、ただ気持ちがいいだけではない深さがあります。ふたりのキャスティングは実にすばらしく、これからもとても気になる俳優たちで、また、この話が実話であるということも、読後感をより深いものにしました。

当初それほど多くなかった上映館も、途中からどんどん増えていったようで、観客というものは正直で、いい映画がかかれば、口コミでどんどん映画館にやってくるものなんだなあと思いました。

私が観たのは、新宿の武蔵野館だったんですけど、そこで同時にかかっていたのが、

「Like someone in love」で、これは会社のF井さんに、絶対に観るべきだと強く薦められたので観たんですが、(この人に薦められるとわりと観てしまうんですけど)これはこれでとても面白かったのです。

監督脚本がイランの名監督アッバス・キアロスタミなんですけど、この人が日本で日本の俳優とスタッフを使って撮ったもので、ともかく驚くのが、本当に現代の日本をよく捉えていて、おまけにこれ、3人の日本人の会話劇でもあって、イランの人がよく脚本書いて演出してるなっていうところなんです。

観客は日本の日常の中をゆっくりとすすんでいくお話に、なんとなく付き合っているうちに、気がつくとこの監督が作りあげた世界にすっかり連れて行かれた感じがするんですね。この3人の出演者、おじいさんと、若い男と女なんですが、実に造形が見事でリアルなんです。ほんとにこの監督、外国人なんだろうか。だいたい加瀬亮とかにどうやって演出してるんだろうか。でも、俳優はものすごく理解してやってるように見えるし、映画という共通言語は、天才にかかると簡単に国境を越えてしまうのですね。びっくりしました。

それともう一本、これは邦画なんですが、11月に公開予定の「北のカナリアたち」の完成試写会で、できたての初号を見せていただきました。あまり予備知識もなく、油断してたわけではないのですが、ともかく号泣してしまった。後半からラストに向かって、もうどうしようもなく涙が止まりません。最近、歳とって涙もろくはなっているのですが、そういうことではなく、いや、泣きましたよ。ひさしぶりに。

スタッフもキャストも本当によい仕事をされてるんですが、順番に行きますね。

侮ってたわけじゃないんですけど、阪本順治監督はやはりいい監督さんです。この方にはたくさん名作があって、個人的には「どついたるねん」「顔」、昨年の原田芳雄さんの遺作となった「大鹿村騒動記」など好きなんですが、この「北のカナリアたち」も、きっと代表作になると思います。

映画の中で6人の若者たちと、彼らの子供時代の話が行ったり来たりするので、子供のシーンがたくさんあるんですけど、子役の使い方がうまい監督さんなんですね。自論ですけど、名監督って昔から子供のシーンがうまいんですね。





Moriyamamiraiそして、この6人の若者を演じた役者さんたちが皆よかったです。現代日本を代表する頼もしい俳優さんたちです。TVドラマもよいけど、これからは映画にたくさん出てほしいなと思ったのです、おじさんは。

登場順、森山未来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、以上。

そして忘れてはならないのが、主演女優のわれらがこの方、この方がいらしたからこの映画はつくられたわけですから。映画の中では、この6人の子供時代の小学校の先生の役で、40歳と20年後の60歳を演じておられます。かつてこの国を代表するアイドルであったこの方の実年齢を、私達観客は知っているだけに、その姿と演技には心打たれます。氷点下-30℃のロケ地での撮影。海を泳いだり、煙突のはしごを駈けのぼったり、本当にこの方はおいくつだったんだっけかと思いました、ほんとに。

キャメラマンの木村大作さんが初めて阪本監督と組んだことも、映画の完成度を上げました。木村さんの大自然の映像には定評があり、今回の雪・海・島の風景も見事です。余談ですけど、あの高倉健さんが雪の中で立っている風景はほとんど木村大作さんがお撮りになってます。それと、ご自身で監督をおやりになるほど映画を知り尽くした方なので、時間軸と人間関係が入り乱れたこの複雑なお話を、非常に分かりやすくしているのは、木村さんと阪本さんによるところが大きいと思われます。

いろんな意味で超大作ですし、情報過多の傾向はあり、つっこみ所がないわけじゃないんですけど、そんなことはどうでもよいほど、観てる方は引っ張り込まれ最後は鼻をすすることになります。お見事なんじゃないでしょうか。はい。

 

久しぶりに続けて映画館で観た3本は、つまり、あたりでした。

こういうことがあると、また映画館に足が向きますね。そういうもんです。

 


2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

2011年10月 7日 (金)

ipadでみる「仁義なき戦い」

夏にあったゴルフコンペで、珍しいことに準優勝して、賞品でipad2が当たりまして、どうしたものかと思いながら、どうにか使い始めてみたんですね。いまだにこのipadの機能の100分の1も使ってないと思いますけど。

そして、ある時これで映画が観れることがわかったんですね。iTunes Storeにラインナップされてる映画なら、1回レンタル200円くらいで1本48時間は見放題ということで、

ipad持ち歩きながら、好きな時に好きなだけ観れるというのも魅力で、何か観てみようと思い、前から観なおそうと思っていた「仁義なき戦いシリーズ」を観はじめてみたんです。

これがなかなか新しい映画体験で、画はけっこうきれいだし、自分の顔の前に置いたり、持ったりしながら観れるので、けっこう迫力あるし、音はイヤホンだから、飛行機で映画観ているような状態で、ほんとに観たい時に観たいだけ堪能できるのです。そして、この「仁義なき戦いシリーズ」がまた、よくできています。

封切りは確か1973年。大ヒットしてすぐにシリーズ化され、その年のうちに、「広島死闘篇」「代理戦争」が続いて作られ、翌年に「頂上作戦」と「完結篇」まで作られ、短期間に5本全シリーズが上映されました。考えてみると、この頃はものすごいスピードで映画って作られてたんですね。

ただ、この頃、すでに映画産業の斜陽化は進んでいて、1971年には、日活はロマンポルノに切り替えたりと、各社苦戦を強いられていたと思います。東映もかつて人気だった任侠路線がかげりをみせ、新しい企画に悩んでいた時、このシリーズは観客を劇場に呼び戻しました。これをきっかけに、東映はいわゆる実録路線をスタートさせ、実際の暴力団の抗争事件を台本化していきます。仁義なき戦いシリーズは、ある広島やくざの親分が、刑務所の中で書いた手記がきっかけになっており、それを基に脚本家が実際に起きた事件を調べ上げて、相当しっかりとしたシナリオに仕上げているので、広島抗争史として誠にリアルな映画となっております。

実際、「完結篇」で描かれた第三次広島抗争の頃、私は広島市内の中学生でしたが、通学路が繁華街だったため、広島県警が、前夜に起きた抗争事件の現場検証をしているのを何度も見ました。パチンコ屋のガラス扉が粉々になっていたり、壁に弾がめり込んでたりいろいろですが、一般市民に流れ弾が当たったこともあり、絶対に夜の繁華街を歩かぬように云われていたと思います。

ある日うちに帰ったら、叔父さんが来ていて、喪服を着ていたので、

「お葬式?」と聞くと、Odoryaa

「おお、いま帰りじゃ。」

「誰が亡くなったん?」

「友達じゃ。」

「へえ、病気ねえ?」

「いいやあ、撃たれたんじゃあ、組のもんじゃったけえ。」

「えっ・・・・」

みたいな会話が、一般市民の普通の会話としてあったりします。

私の高校時代の友達で、街の中心部の酒屋の息子のK村君には、小さい時からいつもキャッチボールをしてくれた、隣の家のオジサンが、入浴中に拳銃で撃たれて亡くなった悲しい思い出があったり。

私が広島の中学に転校してきたその日に、私にけんかを売ってきたK君のお兄さんは、3学期になったころに、抗争で亡くなりました。

そんな背景もあり、普通の人より私の場合、臨場感強いかもしれませんけど、ともかく、映画はよくできております。

当時、40歳過ぎだった深作欣二監督は、まだヒット作はなかったけど、才能にあふれ、絶対にこの映画を当ててやろうとギラギラしていたし、シナリオも斬新、カメラワークも実験的でした。そして何より、当時は映画俳優という職業の人達が、大部屋も含めて非常に層が厚かったです。みなさん、スクリーンの中で、実在した人物を喜々として演じています。

主役の菅原文太さんはもとより、千葉真一さん、北大路欣也さん、松方弘樹さん、山城新伍さん、田中邦衛さん、梅宮辰夫さん、室田日出男さん、川谷拓三さん、成田三樹夫さん、渡瀬恒彦さん、加藤武さん、小林旭さん、そしてこの人も全シリーズに登場する重要な悪役・金子信雄さん等々。本当にいきいきと実録の人物が描かれております。また、広島弁がよく調べて研究されており、セリフに独特な世界観があります。 

金子さんの役を、一時、三国連太郎さんで考えられていたり、主役の菅原さんの役は、当初東映初主演の、渡哲也さんで進んでいたこともあり。また、あまりに題材が危ないので、1作で打ち切ろうという話になったり、いろいろな試行錯誤がありながら、公開された映画は空前のヒットとなり、全5篇のシリーズは完成します。

「仁義なき戦い」は、クエンティン・タランティーノや、ジョン・ウーはじめ、日本の多くの映画監督にも大きな影響を与えました。2009年に実施した「キネマ旬報」の日本映画史上ベストテンという企画では、、歴代第5位に選ばれています。

私が広島から上京した1973年から始まったこのシリーズは、5本とも宮益坂の下の渋谷東映で観たと思います。それ以来、今回ipadの画面で一気に鑑賞しましたけど、十分に当時の興奮をよみがえらせることができました。

この映画のスタッフや俳優さんたちが、短期間にものすごい集中力と情熱で作った作品だということも改めてよく伝わってきました。

いまは、おじいさんになられたり、すでに鬼籍に入られた映画俳優の方々、とにかく皆、脂が乗り切ってメチャメチャかっこえかったです。広島弁、あんまり上手じゃない方もおられましたけど、ご愛嬌ですかね。

 

2011年5月20日 (金)

映画「チコと鮫」 再会

Tiko and the shark

「チコと鮫」という映画があるんですけど、1962年の制作となってるので、日本で公開されたのがその翌年くらいで、私は9歳の時に見たことになります。少年だった私はこれ見てえらく感動してるんですね。せがんで2回見たような気がします。

何故そんなに感動したのか。なんとなくのストーリーといくつかの印象に残ったシーンは覚えているのですが、だんだんと記憶は遠ざかっていきます。大人になってからも、ほぼリバイバル上映はされてないし、ビデオとかDVDを探しても、これだけは見つかりません。インターネットの時代になって、何度も検索してみましたがやっぱりダメです。

いつしか飲み屋とかで、も一度見たい映画の話になるたびに、「チコと鮫」が、みたい みたい みたい、というのが癖になっておりました。まして、人間、見れないとわかったとたんに、どうしても見たくなるということもあり。

そして、去年、またある飲み屋で、その話になったと思います。その時いっしょに飲んでいたのは、Nヤマサチコさんという私の長い友達で、同世代でもあり、「チコと鮫」のこともよく知っていました。というか、この人は本当にいろんなことを、正しくよく知っている人でして、この人のブログを読んでるだけで、かなりためになったりするのです。

その翌日だったと思いますが、サチコさんからメールがきまして、「チコと鮫」の1シーンが、YouTubeで見れることと、そのアドレスを知らせてくださいました。

約50年ぶりのチコとの再会です。そのシーンは、主人公のチコと鮫が初めて出会うシーンでした。

この映画の舞台は、自然豊かなタヒチです。少年チコは、海岸に迷いこんできた人食い鮫の子供を助けてやり、育てます。やがて成長した鮫はチコの前から姿を消し、それから10年後、たくましい若者となったチコは、海底で5メートルにもなったその鮫と再会します。

しかし、チコと鮫の暮らすタヒチには、だんだんと文明の波が押しよせ、かつての暮らしが失われていく中、いろいろなことが起き、チコは美しく成長した幼なじみのディアーラと鮫を連れ、平和に暮らせる島を求めてタヒチの波間に消えていくのでした。

だいたいこんなお話だったなと、少しずつ思い出すにつれ、ますますその映画を見たくなりました。

それから約1ヶ月後のある日、Nヤマサチコさんより小包が届きます。開けてびっくり、なんとそれは、“Tiko and the SHARK”と書かれたDVDでした。やったあああ・・・・

急ぎサチコさんに感謝のメールを送り、ワクワクしながらDVDプレーヤーにDVDをセットしました。

でも、ところが、うんともすんとも云わんのですこれが。そうかあ、この映画はイタリアとアメリカの合作ということだから、イタリア製DVDだとPAL方式かもなと思いいたり、そのあたりに詳しそうなわが社の社員に相談しました。(わが社は一応映像関係の会社なので) そこで、しばらくいろいろやってみてくれたんですが、わが社の機材では全く太刀打ちできぬことが判明し、専門の業者さんに判定していただくことにしました。そうこうしておるうちに、あの大地震に見舞われ、みんなそれどころではなくなってしまいました。

それから2ヶ月ほどたった数日前、このことをちゃんと覚えていて下さったポスプロの方から、きちんと日本の方式に変換された「チコと鮫」が届きました。

ああ、やっと会うことができました。みなさんほんとにありがとう。

一人でじっくり見ました。子供のころの記憶というのはたいしたもので、シーンによってはかなり正しく覚えていたりしますが、まったく違っていることもあります。だいたい、思い出していた時の映像というのは、眩いばかりのタヒチの光がキラキラした総天然色でしたが、映画にその色はありませんでした。モノクロの画全体に、セピアのフィルターを掛けているようで、人の肌はカラーに見えますが、よく見ると海も空もセピア色でした。多分、私がそのあとに見たいろいろな映画や風景の色が、私の記憶の「チコと鮫」に着色したのでしょう。

音声の言葉はすべて英語でした。アフレコだと思います。9歳の私が見たときには、字幕が入ってたと思いますが、小さい時から字幕の映画には慣れていたので、当時でもかなりの部分は理解できたはずです。それに、すごく簡単なお話ですし。

このDVDを見ながら、9歳の私がこの映画の何に感動していたか、少しずつ分かってきました。この映画、水中撮影がすごく上手なんですね。当時まだろくに泳げなかった自分にとって、水中を鮫と一緒に飛ぶように泳ぐ同年代のチコに憧れたのと、そして見たこともなかった南の島の風景に触れたこと。そして、成長したチコのガールフレンドのディアーラが美人でタイプだったことなどです。

いやはや、約50年の時を経て、得難い体験をしました。

 

実は、もう一本どうしてもビデオやDVDで見ることのできぬ映画がありまして、それは、1968年に公開された「黒部の太陽」という映画です。

14歳の私がめちゃめちゃ感動した映画でして、これを見たばかりに土木工学科に進学してしまったという曰くまでついております。

「黒部の太陽」に主演し、制作も手掛けた石原裕次郎さんは、ことのほかこの映画に思い入れが強く、この映画を映画館以外でかけることを許しませんでした。つまりビデオ化はありえません。1987年に52歳の若さで亡くなった後も、その遺志は石原プロモーションの社員たちに継がれ、未だ、ビデオDVD化はされておりません。

というような事情で、これもかれこれ40数年間見れておりません。YouTubeで予告編だけは見れますが。

 

ところが先日、石原プロモーション社長の渡哲也氏退任のニュースの時、2年後の会社創立50周年に合わせて「黒部の太陽」のDVD化の検討が始まったという情報が得られました。

これは朗報でした。DVDを鑑賞してまた熱く語り合いたいものです。Nヤマサチコさんは、黒部ダムのこともめっぽうお詳しいのですよ。

 

 

 

2010年12月15日 (水)

窖(あなぐら)の、はなし

今年、深く記憶に残った出来事のひとつに、チリの鉱山落盤事故がありました。

地下700mに閉じ込められた33名の作業員が、全員無事に生還したあの事件です。

生存が確認されてから、救出されるまで、全世界が注目しました。私たちは徐々に中の状況を知ることになり、彼らの帰りを待つ、妻や愛人のことまでも知ることになりました。

彼らがわずかな食料と水で、69日間生き伸びたことも、その彼らを運び出したのがカプセルであったことも、驚きであったけれども、

全員で生還することを信じていた、その強靭な精神力と、それを支えていた彼らのチームワークと、そのリーダーの存在は、世界中の人々を感動させたのでした。

 

しかし、700メートル地下のあなぐらの中というのは、やはり怖いですよ。

私は、狭い、暗い、高いは、全部ダメな人なのですが、昔のある体験が忘れられません。

それは、大学4年生の時に所属していたゼミの、卒業研修旅行の時のことです。行き先は、その当時、まさに建設真っ最中であった、青函トンネルの工事現場の最先端部分、つまり津軽海峡の真下のあなぐらです。何故そんなところへ行くのかというと、このゼミは、工学部、土木工学科のゼミだったからです。

今となっては、不思議この上ないのですが、閉所、暗所、高所の三重苦恐怖症の私が、よりによって土木技術者を目指し、卒業旅行と称して、地底のトンネル工事現場に向かっていたのです。そういうことになった理由は単純で、中学生の時に見た映画「黒部の太陽」に、めちゃめちゃ感動したからでした。

この映画は、戦後の経済成長を支える上で、どうしても必要だった黒部第4ダム建設にあたり、その建設資材を運搬するための、北アルプス大町トンネル掘削工事を描いたものでした。

工事は、何度も何度もフォッサ・マグナ(大断層地帯)に沿った破砕帯に阻まれ、多くの犠牲者を出し、それでも技術者たちはくじけず、ついにトンネルを貫通させます。実話に基づいたこの映画を見た中学生の私は、男は土木だと静かに決意したのです。

その映画を見てから8年ほど経っていましたが、実は、そのころにはすでに熱は冷めていました。うすうすというか、はっきりと適性がないことに気付いていたのです。

全員参加のゼミ旅行に、私は仕方なく参加しましたが、他の10数名のゼミ仲間たちは皆はりきっていましたし、私と違って土木技師になることに燃えていました。

鉄道を乗り継いで、前夜に入った竜飛崎の近くの民宿の酒盛りも盛り上がっており、そこまでは私もよかったのですが、翌朝工事現場に入ったあたりからは、私だけすっかり無口になっていました。

まず、ものすごくでかいエレベーターに、ものすごく長く乗せられたと思います。ひたすら下へ下へ、ここが今、地下何メートルであるかとか何とか、建設会社の担当の方が教えて下さるのですが、聞きたくもありません。だんだん顔色が悪くなっていることが、自分でわかります。

エレベーターの扉が開くと、そこは地底基地の活気があり、仲間たちは歓声をあげました。ここからは延々とトロッコに乗ります。「黒部の太陽」で見た光景でした。走るトロッコの横に水柱が落ちてきていました。嫌な予感がして、ちょっと舐めてみると、これがしょっぱい・・・・・海水です。建設会社の人に、

「これって海水ですか。」と聞きました。黙っていると怖かったし、

「そりゃあ君、ここは海底の下だからさあ。カッカッカッカッ。」

みたいなリアクションでした。少し頭が痛くなりました。

それからしばらくして事件は起きました。トロッコが急に、ガッタアアンと停まってしまったかと思ったら、すべての灯が消えました。全部。正真正銘の真っ暗です。今まで経験したことのない闇です。視界はすべて黒に塗りつぶされました。

Kie--- わたしの緊張はピークを振りきり、絶叫していました。夜道で、若い女性が痴漢にあった時のような悲鳴だったと、あとで云われました。聞いたことあんのかと思いましたけど。

誰かがライターで火をつけます。完全に歯の根が合わなくなった私の顔が浮かび上がったようです。皆が励ましてくれました。

そのあとすぐに、電灯がつき、トロッコも動き出しました。聞けば、この現場では、ある意味ブレーカーが落ちるようにこういうことがよく起こるそうで、いってみればこれは日常茶飯事なのだとのことでした。どうしてそういう大事なことを先に言っといてくれないんだろうかと、現場の人を恨みましたが、ダメージを受けているのは私だけでした。でも、死ぬかと思ったわけで。

その夜は、どうしても元気になれない一人の仲間を、皆が元気づけてくれました。友達っていいもんだなあ、でも、この人たちとは、ここで袂を分つのかなと思っていました。

そんなことを想い出しながら、チリの人たちの69日間は、想像を絶することだったんだなと、あらためて考えたのでした。

 

 

 

2010年11月 5日 (金)

「ノルウェイの森」見ました

きれいな映画でした。

ただ画がきれいだということじゃなく、いろいろな意味できれいだったなと。

見おわった後に感想を求められたら、そのように云うのでしょうか。

原作は、1987年に刊行された、あの村上春樹氏の不朽の名作。

当時、瞬く間に多くの読者の心をつかみ、その累計発行部数は1044万部を超え、現在も読み続けられています。また、その物語は、36言語に翻訳され、村上氏は、世界で最も知られた日本の作家になっています。

その小説が映画化されていると聞いた時、どんな話だったか思い出そうとしたんですが、どうしてもはっきり思い出せません。ぼんやりとした印象はあるものの、考えれば考えるほど、ほかの村上作品と混ざり合った記憶になってしまうのです。

村上さんの作品にはそういうところがあって、どの小説も、いってみれば彼の世界にスーッと引き込まれてしまうのですが、お話として覚えているというよりは、何か感覚的なひとつの印象として残っているようなところがあります。

そんなことで、持っていたはずの本もどこへ行ったか見つからず、やはり気になるので、文庫本を買ってもう一度読みました。

おもしろいです。また、スーッと引き込まれるように読んでしまいます。そうか、こういう話だったんだと。でも自分も歳をとったし、また新しい小説体験でもあります。

1969年にもうすぐ20歳になろうとする人たちが主人公のこの物語は、私には近い世代でもあり、二十歳になるということを想い出しながら、その時代に旅するようでもあります。

小説は、村上さんと同い年の主人公が、18年前を想い出すところから始まりますが、映画は、主人公が高校生のところから始まります。

大ベストセラーとなったこの小説の読者には、それぞれの頭の中に登場人物たちのイメージがあるわけですから、映画のキャスティングが相当重要だったことは云うまでもありません。そんな中で、松山ケンイチのワタナベは、多くの読者を納得させたのではないでしょうか。この人は、俳優が技術的に演技をしているというよりは、その役が彼に乗り移ったようになってしまうところがあります。

菊地凛子の直子は、女子高生こそ少し無理があるものの、その後壊れてゆく直子の演技には、本領を発揮します。新人の水原希子の緑は、トラン・アン・ユン監督によって、完全に造形されたと思われますが、いい仕上がりになっています。これが舞台とは違う映画のマジックというべきものでしょうか。

「ノルウェイの森」を映画化するにあたり、トラン・アン・ユン監督に依頼をしたということは、非常に興味深い選択だったと思います。以前からこの小説を映画化するのであれば、日本には適任の監督が思い浮かばず、外国の監督の方がよいのではないかとぼんやり思ってはいたのですが、外国の設定になってしまうと違うような気がしていました。実際にこの小説を日本人の出演者で、外国の監督が撮れるのかどうか。

トラン・アン・ユン監督は、そのハードルをかなりのレベルで、踏み越えたのではないでしょうか。

そして、この映画がどういう映画かというと、原作である小説のストーリーを追いかけると言うよりも、登場人物たちのさまざまな経験と心象を、理屈ではなく感覚として映像に残していこうとしている映画であり、監督はその作業を繰り返し、積み重ねながらこの映画を作っていったのではないでしょうか。

彼の画に対するこだわりは、長編第1作の「青いパパイヤの香り」などにもよくあらわれていて、その手腕は高く評価されています。そして、その監督のこの映画に対する姿勢を、最も支え実現しているのが、撮影のマーク・リー・ピンビンです。

この映画がきれいであるということ、その人達の心象が、その感情とともに、ある時は哀しく、ある時は切なく、映像として語りかけてくるのは、キャメラマンの仕事によるところと深く関係しています。

ちょうど東京国際映画祭で、彼を追ったドキュメンタリー作品「風に吹かれてーキャメラマン李屏賓の肖像」を六本木で上映していたので、見に行きました。台湾出身の撮影監督で、さまざまな優れた監督と名作を撮った人です。現在、世界中からオファーがあり、再来年までスケジュールが決まっているそうです。アジアが世界に誇れるキャメラマンです。ドキュメントを見て、宮川一夫さんを想い出しました。

彼は、撮影中、常に映像に想像の余白を残すことを意識していたと云い、文学のような想像性を持った空間作りを目指したと云っています。深い言葉だと思います。でも、映像を見ると少しそのことを感じるのではないでしょうか。

もうひとつ、映画に「ノルウェイの森」の音楽原版を使えることになったのは、快挙だし大変意味のあることでした。僕らの年代にとっては、この音を聞くだけで、瞬時にこの時代に旅立てるわけですから。Norwegian wood

2010年8月 4日 (水)

小説「告白」、映画「告白」

2年ほど前に、湊かなえさんの「告白」を読んだとき、その読後感が本当に不愉快で、こういうのもめずらしいなあと思い、昔ヒットした デヴィッド・フィンチャーの映画「セブン」をみた後にこういう気持ちになったなと思いだしたりしておりました。

と、同時に、この悪意の塊のような不快さを除けば、この小説には、読者を一気に引きこんでしまう力強さと、うまさが備わっていて、その後、本屋大賞を獲ったことを知った時も、ある意味なるほどなと納得するところがありました。

そのベストセラーが映画化されるとわかったのが去年。これはなかなかハードルが高そうだなあ、誰がやるんだろうか、と思っていたら、監督は何とあの中島哲也氏、おまけに彼は、「できるだけ原作に忠実に映画化します。」と言い放ちます。そして、すぐに、主演の森口先生役として、松たか子さんにオファーを出したのです。

Takako matsu2 悪意が悪意を呼ぶ徹底した救いのない世界。登場人物の心理も感情も常に変化し、小説はほぼすべて登場人物の主観で書かれています。

さて、このお話が、どんな映画になるのだろうか。否応なく期待は膨らみました。

6月の初めに封切られた映画「告白」の興行成績は、かなり好調のようでした。一度飛び込みで観ようとしたら、満席で入れないことがありました。

そうこうしているうちに、うちの大学生の娘が、観てきたというので、感想を聞いてみたところ、一言。

「不快だった。」と、

でも、そのわりにはインターネットの「告白」公式サイトを開けて熱心に読んでおります。

「何だよ、つまんなかったんじゃないの。」というと、

「そういうことでもない。」といいます。

けっこう後を引いているようでもあり、その娘の反応も面白く、数日後、映画館に行ってみました。

劇場は、若い人たちであふれていました。女の子も多かったです。

映画はどうだったか。

面白い。

観客は、この悪意に彩られたジェットコースターに乗せられ、疾走します。目を覆い、息をのみ、でもその映像は、きちんと観客を捉まえて放さず、感情移入させていきます。何故こんな世界を見せられているんだろうかという疑問などは、湧いてきません。

小説を読んだ時に、よくできた小説だと感じたように、よくできた映画だと思いました。

この映画は、監督が云うように原作に忠実に作られています。構成もセリフも極力生かされています。ただ、小説には小説の、映画には映画の、違った魅力がありました。

小説を読んでいるとき、読者の頭の中で、悪意の連鎖の中で、形を変えながら飛び跳ねるキャラクターたちは、映画になると、生身の俳優という具体的な形になり、映像を通してイメージが定着してきます。いってみれば、本の中では読者の想像力に任せとけばよいものがスクリーンの中で固まっていきます。

たとえば、松たか子という女優を、森口先生役に据えた監督の直感は見事だったと思います。もちろん演技も素晴らしいのだけれど、彼女自身が持っているキャラクター性は、演技とはまた別の部分で、この映画全体を支えていると感じました。

話題作と言われる原作を、忠実にきちんと映像化してなお成功している数少ない例かもしれません。

基本的にどっちも、読後感が、不快は不快ですけど。

 

2010年4月20日 (火)

息もできないのだ Breathless

2月に、また先輩のKさんとYさんと、小さな旅に出かけました。旅の目的は、発酵食品の研究ということだったのですけど、そのこととは別に、目的地に向かう車中で、Kさんが最近、試写で見たある韓国映画の話をしてくれました。

その映画は凄まじく暴力を描いており、ある意味すごく重い映画だけど、とても心に残る映画だったと、また、監督は新鋭の若い人のようだけど、今迄にない新しい才能を感じたそうです。

そのストーリーの背景にあるのは、ここ数十年の韓国の社会環境であり、そのことを知ることにより、さまざまに考えさせられる映画でもあったそうです。

話は、そこから隣国である我が国のことへと及び、内田樹さんの書いた「日本辺境論」が、いかに的確で面白い本であったかという話で盛り上がったりしながら、新幹線の旅は続いたのでした。

その映画のことは気になっていましたが、題名も知らず、いつ頃公開されるかも知りませんでした。

それからしばらくして、桜も咲いた春のある日、すでに公開されたその映画を観たという会社のMさんに話を聞くこととなりました。

「凄まじいです。すごいです。でも、いい映画です。」

このあたり、Kさんと言うことが似てます。

「それで、その話には、救いはあるわけ?」と聞いてみますと、

「そういう意味で、救いはないです。」とおっしゃる。

「ふーん・・・そおか」

「でも、観た方がいいです。」

Mさんは、昨夜、会社の先輩のFさんと一緒に観たのだそうです。

Fさんは以前、私に「泣きながら生きて」を観るよう真剣に薦めた人です。

またしても真剣な眼差しでFさんが言いました。

「絶対、観てください。急いで観てください。」

 

 

『息もできない』という映画でした。

始まりから不思議な顔つきをしたその映画には、たしかに随所に暴力シーンが入ってきます。

ただ、それは観客を怖がらせたり、驚かせたりするだけの、それとは違うことがだんだんわかってきます。それは内側にくる痛みとでも言うのか、心の深いところにズシンとくるものです。

さまざまな社会環境から圧迫を受け、逃げ場を失い、追い詰められて、壊れていく人たちが、自身のすみかを自ら壊していく暴力です。その多くは家族に向かいます。

主人公は、父親の暴力から、母と妹を失ったことで、少年期にすでに壊れており、暴力を生業とした借金の取り立て屋になっています。粗暴で、その口からはスラングばかりを発するようなその男は、サンフンと言い、刑務所から帰ってきた父にも暴力を振い続けています。

やはり、暴力によって母を亡くし、壊れてしまった父と暮らす女子高生のヨニと偶然出会ったことから、サンフンに少しずつ変化がおき、物語は動きはじめます。

製作・脚本・監督・主演は、ヤン・イクチュン。1975年生まれの彼が、32歳の時に作った映画です。この映画は数々の賞を受賞し、インタビューに答えた彼は、

「自分は家族との間に問題を抱えてきた。このもどかしさを抱いたままでは、この先、生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった。」と言っています。

きわめて個人的な切実な思いから脚本を書きはじめ、自分で資金を集めて製作にこぎつけたといいます。

自らが体験したこと、知人が、家族が体験したこと、彼自身が見つめてきた韓国の風景が映画になっていったということでしょうか。監督自身が演じるサンフンはじめ、それぞれの俳優が演じる登場人物たちが持つリアリティは、ただテクニックが優れているということとは違うことのように思われます。彼は、別に社会を描こうとしたわけではなく、自分が見てきたもの、知っているものを映画に投影させたら、そこから社会が見えてきたということなのでしょう。

映画は、本来の人間らしさを失ってしまったかにみえるサンフンが、やがて小さな希望を見つけかけ、ひょっとして、何かを取り戻せるのではないかというところで結末に向かいます。

この作家のきわめて個人的な叫びは、映画という言語を通して、強烈に私をとらえました。映画を見終わったあとで、何日もその残像が後を引いたのは久しぶりの体験でした。

隣国のある青年から発せられたメッセージは、確実に海峡を越えて響いている気がした桜の夜でした。

ヤン・イクチュンという人は、次に何を伝えてくれるのでしょうか。たのしみな映像作家が現れました。

まだ後を引いてます。

Sang-hoon  

 

 

2010年3月 8日 (月)

真夜中の「秋日和」

冬の真夜中、BSで小津安二郎監督の特集をやっていたようで、ある夜、遅く帰った時に、「秋日和」を見てしまいました。平日の夜中の2時でしたし、こんなもの見てしまったら大変だなと思い、適当に切り上げるつもりでしたが、見始めたら、つい最後まで見てしまいました。というか途中でやめられなくなりまして・・・そして、良かった、すごく。 

かなり前に、多分20年くらい前ですが、当時ビデオ化されてレンタルビデオ屋に並んでいた小津作品を端から一気に見てしまったことがあります。戦後の作品ばかりだったと思います。どの映画も、お話の設定も、出演者も、テンポも、世界観がよく似ており、記憶の中でどれがどの映画かわからなくなっておりました。そんなことで、この夜この映画を見ながら、ああ、あんな見方をするんじゃなかったと、後悔いたしました。それぞれの映画は、実際は何年もかかって少しずつ公開されたわけで、あんな見方をするべきではありませんでした。 

「秋日和」は1960年に公開された小津監督の最後から3番目の作品です。原節子さん演じるある未亡人を中心に、その一人娘の縁談を通して、周りの人々との触れ合いが描かれ、最後は、娘の結婚式を終え一人になった主人公が、アパートに戻って床に着いたところでラストシーンとなります。小津監督の数々の映画に出演した原節子さんは、「秋日和」の10年前には、「晩春」で老父を一人残して嫁いでゆく娘を演じてもいます。そして、なぜか小津監督が亡くなった1963年以降、映画界から身をひいてしまいました。 

初めて小津監督の映画を見たのは、「東京物語」でした。この映画は、私の生まれる前年1953年に公開されており、私は学生の頃TVで見たと思います。その時、ほかの映画では感じたことのない、静かな強い意志で何かを伝えられたような、強烈な印象が残りました。そのあとも、何度かビデオを見たり脚本を読んだりしてみましたが、何度見ても、胸の奥の深いところに何かが残ります。 

小津さんの映画には、ごく普通の人々のごくありふれた日常が描かれており、その人生の節目節目に訪れる、出会いや別れがたんたんと表現されております。そして、いつも同じある読後感に包まれます。このゆっくりとした独特のテンポの、起伏の少ないお話に、どうしてこんなに引き込まれるのか。そんなことを思いながら、今回もすっかり朝まで、お付き合いさせていただきました。 

もう一本、この数日後に朝までお付き合いしてしまった映画が、CSで夜中に放送されていたヴィム・ヴェンダース監督の「東京画」でした。「秋日和」で深く唸ってしまった直後ということもありましたが、あのたんたんとした映画を、またしても朝まで見てしまいました。

この映画は、1983年に小津安二郎を敬愛するヴィム・ヴェンダース監督が「東京物語」の舞台となった東京を訪れ、映画が製作された1953年の30年後のすっかり変わってしまった東京の日常を撮影したもので、その間、鎌倉の小津監督の墓を訪ねたり、主演の笠智衆や撮影の厚田雄春にインタビューをしたりしています。そして、この映画のトップには、「東京物語」のトップシーンが、ラストには、ラストシーンが盛り込まれています。

ヴィム・ヴェンダースがとらえる1983年の東京の風景も面白いのですが、興味深かったのはインタビューでした。笠智衆と厚田雄春。この二人が語る内容は非常に似通っています。そして、二人とも小津監督のことを先生と言います。

笠智衆さんは、1920年代の小津さんの映画にすでに出ている常連の役者さんですが、彼は、芝居はすべて先生の指示通りにやった、自分は無器用でなかなか先生の意図通りにできず、何度もテストをして指示通りにやったと繰り返し語ります。そして、先生は、映画の中の、すべてのことを小津安二郎にしてしまわれます。役者として先生から学んだことは、自分を忘れ白紙になるすべでした。役者としてまっ白になり、あとは先生の考えられた通りにするだけです。なにものでもなかった自分は、先生によって笠智衆になりました。先生が私を作った。先生と私の関係は、ただ教えられるだけの関係でしたと・・・

カメラマンの厚田雄春さんは、1929年から撮影助手としてかかわり、1937年以降の松竹の小津作品すべての撮影を担当した方ですが、撮影はすべて先生の指示通りにしました、撮影位置もアングルもそうです、私はカメラマンではなくカメラ番でしたといわれました。照明のアイデアなど懐かしく語りましたが、途中で泣き崩れてしまいインタビューは終わります。

小津組と言われる常連のスタッフ・俳優に、彼が尊敬され愛されていたこと、映画の撮影となると、完璧主義といっていいほど徹底的に細部まで演出する気難しい一面があったことが伝わってきます。

でも、その細部に対する監督の意図は、こうやって50年たった今でも、観客に届いていることがわかった真夜中でした。

もう一度、いま見ることのできる小津作品をあらためて見たいと思いました。しかし、今度はゆっくりと。

真夜中というのは、落ち着いてゆっくり映画を見ることがでる時間帯だということが、あらためてわかります。

特にじっくり効いてくる小津映画にはピッタリです。

Tokyo-monogatari  
   

2010年1月15日 (金)

泣きながら生きていくのだ

昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。

そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、

「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」

などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。

新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の1230から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。1230かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。

いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。

それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。

中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。

以下、お話に触れます。

 

1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。

この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(19661976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。

若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。

でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。

丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。

丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。

 

 日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。

1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。

努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。

ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。

「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」

父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。

あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。

一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。

「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」

 

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それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。

数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・

この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。

 

  

それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。

15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」

日本という国に対しても、

「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」

みたいなことを言われました。

中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。

 

そのことで思い出したことが一つ。

子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の23女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。

この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。

 

  

しかし、泣いた。

  

2009年8月19日 (水)

クリントと鶴田さん

ことしの春先のある夜、友人から留守番電話が入っておりました。

けっこう酔っ払った声で、

『君は「グラン・トリノ」をみたか? まだならば、是非みるべきである。』

というようなメッセージでした。

クリント・イーストウッド監督のその映画の上映が始まって間もない頃だったと思います。

クリント・イーストウッド監督の映画は、たしか全部みています。何故かいつも引き込まれるようにみてしまいます。どの映画も、ただ面白い楽しい映画ではありません。むしろどちらかといえば、つらい映画です。でも、このクリントというおじいさんに、映画という手法で語られてしまうと、たしかにつらい話だけど、ただそれだけじゃない人生の深さみたいなものを感じてしまいます。なんだか、この人生の達人のようなおじいさんの話は、やっぱ聞いとかなきゃみたいに思ってしまうのです。

Clint_7 この人のことを、少し身近に感じていることもあると思います。べつに知り合いではないのですが、僕が子供のころに「ローハイド」というTVドラマにずっと出ていて、その後、イタリアに行って、「荒野の用心棒」とかで、マカロニウエスタンのスターになって、ハリウッドに戻って、「ダーティーハリー」で成功して、ほんとの大スターになってからも、監督としてよい仕事をし続けている人です。青年時代からおじいさんになるまで、ずっと知っているせいかもしれません。

「グラン・トリノ」は、久しぶりに監督兼、主演でした。友人が云ったように、是非みるべき映画でした。映画が終わっても、ほとんどの人が席を立ちませんでした。クレジットが流れる中、すすり泣きも聞こえました。またしても、悲しくて深い映画だったのです。

しばらくして、この友人と他何人かで、「グラン・トリノ」を語る飲み会をやりました。良い映画を題材にするだけで、飲み会は、ちょっといい飲み会になります。

この席で、私はひとつこの友人に確認したいことがありました。

「クリント・イーストウッドが演ってたコワルスキーって人、吉岡司令補とダブらなかった?」

彼も思いあたっていたようで、「そうなんだよ、そうだよな。」と言いました。

この吉岡司令補というのは、昔、NHKの「男たちの旅路」というドラマで鶴田浩二さんが演じていた役名です。私もこの友人も、このドラマのファンだったし、何度となくそのことを語ってきたので、吉岡司令補といっただけで、お互いわかってしまうのです。

吉岡さんという人は、警備会社でガードマンをしていて司令補という役職なのですが、実は、特攻隊の生き残りで、過去の戦争体験を忘れることができず、死んでいった戦友のことを想い、戦後30年経った現代の若者のことが大嫌いな、すごく偏屈な中年として描かれています。

コワルスキーさんも、朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、ジェネレーションのちがう人のことを全く受け入れようとしない偏屈なジジイとして描かれています。

二人とも、あるきっかけで若い人とふれあい、お互い相容れないけれど、少しずつ理解し、一緒に現実の社会にかかわっていくあたりが、どちらの話も構造的に似ています。

クリント・イーストウッドは、監督としてはじめてこの脚本を読んだときに、瞬間的に自分がコワルスキーを演じることを決めたそうです。

30年前に放送された「男たちの旅路」は、山田太一さんのオリジナル脚本ですが、そもそも鶴田浩二さん主演のドラマをというNHKからの依頼がはじまりでした。

二人が始めて会った時に、鶴田さんが語った戦争体験や、戦後30年経った当時の世の中に対する彼のおもいなどをもとに、山田さんが書いたのがこの脚本だったのだそうです。

そして、クリントは、朝鮮戦争では、軍用機の事故で戦地には行かなかったものの、20歳で陸軍に召集されており、鶴田さんは、21歳のときに特攻隊で太平洋戦争の終結を迎えています。

Turutasan_2  30年の時差はありますが、何か成り立ちが似ている2本の作品です。

「男たちの旅路」が放送されたころ、私たちはまさに吉岡司令補が大嫌いな戦後の若者でした。その若者がおっさんになったころに、われらのクリントがこんな映画をみせてくれました。この飲み会で私の横にすわって語っていた若者は、30年前、ただの幼児でした。

この若者が、いま私の「男たちの旅路」DVD5巻をみているところです。

またいい飲み会ができそうです。

終戦記念日のニュースを見ながら、この二つの作品のことをおもいました。

直接戦争を描いているわけではありませんが、かつて戦争を体験した二人の男の物語です。

2009年2月19日 (木)

市川さんへ

Ichikawasan_4    市川さん、何と云ったらよいのか・・・

私は、市川さんが昨年9月に、すでにこの世からおさらばされたことが、

未だに信じられずにいます。

このところ、ご無沙汰していたこともありますが、

テレビには、相変わらず市川さんが作ったCMがたくさん流れていますし、

お見かけしないときは、また映画の撮影をしたり、編集をしたり、企画をしたり、

脚本を書いたりされているのだろうなと思っておりましたから、

なかなか実感がわかないのであります。

12月には、ものすごくたくさんの方がお集まりになって、

椿山荘で「お別れの会」が開かれましたが、

映画市川組のメインスタッフの方々が、ズラッと並んであいさつをされている風景は、

何か大きな映画の賞を受賞されたお祝いのパーティーと、錯覚してしまいそうでした。

市川さんの大好きなスイトピーに包まれた遺影は、良い顔をされてましたね。

盟友のカメラマン、広川さんが撮られた写真でした。さすがです。

そういえば、昔、市川さんの映画に、ある役の遺影で出演させていただいたことを思い出しました。今となっては、ただ懐かしい思い出です。

年末に、遺作となった「buy a suit スーツを買う」を観せていただく機会を得ました。

市川さんが逝ってしまわれたあと、仕上げの途中だった映画を完成させた助監督の方と、

主演女優さんと、市川さんの事務所の方と一緒に観ることができました。

そのあと、みんなで晩御飯を食べながら、ずっと市川さんの話をしていたら、

市川さんはほんとに、もういらっしゃらないんだなという気がしてきて、哀しかったです。

buy a suit スーツを買う」は、とてもよい映画でした。

映像表現に、今までにない新しい試みがあふれていました。

きわめて実験的だけど、それでいて市川さんの映画のトーンが、守られています。

心に残る映画でした。

新しい手法を発明して、それに手ごたえを感じながら、映画監督としてワクワクしながらこの映画を作ってたんだろうな。

皆さんの話を聞いていて、そのことがとてもよくわかりました。

新しい仕事に、CMでも映画でも、いつも貪欲で、寝る時間がなくなっても、

何より楽しそうにものを作る人でした。

勇気づけられました。たくさん助けてもらいました。教えてもらいました。

同じ時代に、同じ業界に、いられたこと、、

CMも映画も、市川さんの仕事に少しかかわれたこと、うれしかったです。

いつか、そちらでお会いできたら、また付き合ってくださいね。

市川準監督 追悼上映 3/21(土)~27(金) 渋谷ユーロスペース

http://d.hatena.ne.jp/ijoffice/

2008年1月25日 (金)

小学生のときに観た黒澤映画

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このところ、黒澤明監督の作品のリメイクが相次いでいます。現在上映中の「椿三十郎」、また今年の公開が決まっている「隠し砦の三悪人」。映画ではなくテレビでも、昨年「天国と地獄」と「生きる」が制作されました。「七人の侍」と「用心棒」は、とっくの昔に海外でリメイクされていますが、国内では、ここにきて一気にという感じがします。なにか連鎖反応のような気もします。かつて大ヒットした作品の魅力的なシナリオですし、いつかやりたいと思っていた関係者も多かったのでしょうか。

しかしながら、なんといっても、あの世界のクロサワが渾身をこめた、ものすごく完成度の高い映画をリメイクするのは、やはり勇気のいることだし、軽く決断できることでもなく、「赤信号、皆で渡ればこわくない。」みたいなところもあるのかもしれません。

映画のほうは、まだ観ておりませんが、テレビの方は、録画して観ました。やはり、本が良いので、しっかりしたドラマになっていました。公開された当時との時代のギャップは、うまく工夫されていたし、現代を代表する力のある役者さんたちがキャスティングされていて、なかなかに見ごたえがありました。そして、オリジナル作品に敬意を払った丁寧なつくりになっていると思いました。

ちなみに、オリジナル版の「天国と地獄」は、1963年の3月の公開です。私は小学2年生でした。ほんの子供でしたがものすごく興奮したのを覚えています。その後、何度もその映画を見ました。何回見ても、本当に面白くてよくできた映画です。

ここで、オリジナル版とリメイク版を比べてみても、意味のない事はよくわかります。でも、たとえ小学2年生であったとしても、その当時観客としてあの映画を観た者としては、どうしても比べてしまいます。そして、当時の黒澤映画にかけられたエネルギーが、いかに半端でなかったかを思い知るのです。

1963年からちょっとさかのぼりますと、195210月「生きる」、19544月「七人の侍」、195511月「生きものの記録」、19571月「蜘蛛巣城」、19579月「どん底」、195812月「隠し砦の三悪人」、19609月「悪い奴ほどよく眠る」、19614月「用心棒」、19621月「椿三十郎」となっています。ほぼ1年に1本のすごいラインナップです。

ともかく、黒澤さんは、脚本作りも、キャスティングも、ロケハンも、撮影も、映画に関するすべての仕事に対して、考えられるベストを尽くす監督です。いろんな逸話が残ってます。

「天国と地獄」では、物語の発端に重要な意味を持つ主人公の豪邸を、美術セットとしてつくっているのですが、同じ建物を、オープンに2箇所、スタジオに1箇所、合計3つ建てています。このことを知った上で映画を見ると、3つのセットが映画の中で完璧に機能していることがわかります。ほんの一例ですが、一事が万事こういう姿勢なのです。

「椿三十郎」のとき、私は小学1年生の観客でした。その時1回観たきりなのに、ずいぶん後に大人になってあらためて観た時、かなりの部分を正確に覚えていたことに驚きました。

40数年前、映画館は超満員。要所要所で、どよめきや爆笑が起こり、物語を、固唾を呑んで見守る観客たちがいました。そんな当時の空気も思い出しました。

リメイク版を御覧になった方も、御覧になってない方も、もしもオリジナル版を未だ観ていらっしゃらない方がございましたら、是非御覧いただきたい。

私がつべこべと申し上げていることが、わかっていただけるかと思います。

2007年7月 3日 (火)

1978年のスター・ウォーズ

Robot 「エピソード3 / シスの復讐」見てきましたよ。なんだかこれでシリーズも終わりだと思うと、すぐ見てしまうのももったいなく、でも早く見たいよな、やっぱり、などと躊躇しているうちに忙しくなってきたりして、気がつくと夏の終わり。映画館もわりとすいていて、いい席でじっくりと鑑賞して来ました。なるほど、相変わらずよくできております。おまけに今回は、この壮大なエンタテイメントの締めくくりで、第一作とつながる最も盛り上がる部分でもあります。なるほど、なるほど、そういうことだったわけね、ふむふむなどと言いつつ、そのディテールを堪能してきたのでした。

思えば最初の「スター・ウォーズ」が制作されたのが1977年、次の「帝国の逆襲」が1980年、「ジェダイの復讐」が1983年、しばらく間があって新シリーズが始まり、「エピソード1 ファントム・メナス」が1999年、「エピソード2 クローンの攻撃」が2002年、そして今回の「エピソード3」となります。かれこれ28年の月日が流れました。レイア姫のキャリー・フィッシャーも今年49歳ですもん。感慨深いものがありますよね。

第一作を見たときのことは、ものすごくよく覚えています。日本の公開は1978年だったと思います。私は当時、新橋のCMプロダクションに就職して2年目でした。世界中で大評判のこの映画の公開を、それはそれは楽しみに待っていました。封切後まもなく、職場の同年代の45人で会社を抜け出して見に行きました。映画館は銀座の「テアトル東京」、今はなくなってしまいましたが、いつも洋画の大作がかかっていた有名な映画館でした。この日は、平日の昼間だというのに満員、ギリギリに滑り込んだ私たちは、最前列に座ることになりました。実は、この「テアトル東京」という映画館のスクリーンは、当時多分東京で1,2を争うスケールで、おまけにスクリーンが平面でなく、大きく湾曲していて、最前列に座ると、スクリーンの左右の端が真横にある感じです。満員なのにこの席が空いていたのはそのせいで、まいったなと思いました。でも、その場所でこの映画を体験したことは、忘れられない思い出になりました。すごかった。ハン・ソロの操縦する宇宙船はぶつかるんじゃないかと思うほど目の前を横切ります。視界のすべてがスクリーンで、左右の端は首を振らねば見渡せません。戦闘機の主観は自分が乗っているようで、気持ち悪くなりそうだし、ルーク・スカイウォーカーが敵の戦闘機を打ち落とす有名なシーンは、彼が移動式の銃座ごと画面の端から端までものすごいスピードで移動するたびに、こっちは首が痛くなるわけです。今までに見たことのないまったく新しい映画でした。撮影も編集も本当に斬新で面白かった。後にレンタルビデオでこの映画と再会したときには、すべてのシーンをコマ送りで確認したほどです。私たち当時の若者は、興奮し完全に虜になり、帰りの地下鉄では、ずっとダースベーダーの息や、C-3POの声などの物真似をしていたと思います。映像制作のプロを目指していた私たちは、もろに影響を受けました。

後日談です。

それから7年ほど経った夏、私は新米のプロデューサーになっており、ロサンゼルスでCM撮影のためのロケハンとキャスティングをしておりました。CMの設定は、ハリウッドのSFXスタジオでの特撮スタッフたちのコーヒータイムというものでした。いくつかのロケ場所の候補の中に、あのスターウォーズの特撮監督のジョン・ダイクストラの所有するスタジオがありました。彼と会って握手をしただけで、もう充分に夢見心地になっていた私ですが、あろうことか、ジョンがこう云いました。

「僕でよかったらCMに出演してもいいよ。でも、僕がCMに出ていることは、発表しないでほしいんだけど。」

私の瞳は完全に星の形になってました。うれしかったなあ。

その秋からそのCMはオンエアされました。その画面の中心にいる結構かっこいいおじさんが、あのジョン・ダイクストラだということは、誰も知りません。云いたくて仕方なかったけど、男の約束です。ずっと我慢しました。私のひそかな自慢話です。

2005/9

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