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2017年3月30日 (木)

学芸大のBAR「一路」のこと

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東横線の学芸大学駅から2~3分のところに、「一路」という名前のカウンター7席程の小さなバーがあります。ここのマスターが良川さんと云いまして、かつて六本木の伝説のBAR「BALCON」のマスターだった方なんですね。

いつ頃のことかと云えば、1970年代の途中から、2004年の春まで、約30年続いたBARでして、私も70年代の終わり頃から店を閉めるまでお世話になりました。まあ、お世話になったというか何というか、私の場合、このBARに棲んでるんじゃないかみたいな頃がありまして、携帯電話もない時代、

「あいつなら、たいてい夜中にBALCONにいるよ」

と云われてて、ここに伝言残しとくと私がつかまるので、よく電話がかかった時期がありました。

六本木通りの明治屋の裏あたりだったんですけど、優に30人は入れるBARで、夕暮れから翌朝近くまで、毎晩、大いににぎわっておりました。

このBARは、有名なインテリアデザイナーの内田繁氏の作品であり、開店当初はデザイン界のお客さんが多かったようですが、そのうちに我々広告業界の人達が増えていったようです。ともかくいろんな意味ですごく居心地のいいBARで、私達は本当にお世話になったんですね。

そんなこともあり、良川さんとは個人的にも長いお付き合いをさせていただきまして、たまに店を抜け出して近所に飲みに連れてってもらったり、土曜日の朝に店閉めた後、一緒に海に行ってカワハギ釣りして、当時湯河原にあった良川さんの家で、釣った魚さばいて宴会やったり、ほんとによく面倒見てもらいました。

そのBALCONが、2004年の春に突然閉めてしまったいきさつは、このブログにも書いたんですが、当時ほんとに驚いたんです。そのあと、頼まれて六本木でBARをやったりされたんですが、しばらくしてから学芸大の今のBARを始められたんですね。それが多分10年位前のことだったですが、思えば30歳でBALCONを始めて30数年、良川さんも60代になられておりました。

私も気が付けば50代、酒の量も前よりは減って、ちょっと生活圏から離れた学芸大のお店には、しばらく足が遠のいておりました。

ここ数年のことですが、BALCONでさんざん一緒に飲んで、よく仕事した人達が、次々に60歳を超えて節目を迎え始めまして、その度にあのBALCONの話が出るようになったんですね。そこで、良川さんが作ってくれた、あの懐かしいサイドカーやドライマティーニやハーパーやジンやウォッカやなんだかんだ飲みながら、良川さんに会いたいねという話になって、学芸大に電話したんですが、この数年連絡が取れなくなってたんです。

そのことが、このところずっと気になってたことの一つだったんですけど、今年2月になってから、良川さんが店を開けてるみたいだよという情報が入ります。友人のNヤマサチコさんからのメールでしたが、今年になって「一路」で飲んだという、どなたかのブログを、仕事仲間が見つけてくれたみたいで、そのブログには良川さんの写真も載っていて、あのBALCONのことも書いてありました。まさに朗報であります。

すぐに電話して行ってみました。まず私の仕事の後輩達と6人で、もちろんあの頃お世話になった奴達です。そして、あの頃なにかと云えばBALCONに溜まって飲んでたレギュラーメンバーにも知らせました。皆、当時30代40代でバリバリにCMの仕事してまして、時代も最盛期で、それぞれにいつも大仕事を抱えてた人達でした。

重たい仕事かかえながら、いつも明るく飲んでましたね。たまに暗いこともあったけど。

よく飲んだけど、結構まじめに働くことは働いて、みなさん、名の知れたクリエーターにおなりになりました。そして、今やバリバリの60代です。すごいメンバーが揃って、6人が「一路」のカウンターに並びますと、なかなか壮観でありました。

ほんとはあと一人大物が加わって7席を埋めるはずでしたが、急な用事でかなわず、また近いうちに集まることになりそうです。いずれにしても、ちょっと恒例化しそうな会ではあります。

それにしても、良川さん、73歳におなりになっても、あのキリッとしていながら泰然自若のバーテンダーのキャラクターはなんにも変わっておりませず、マティーニもサイドカーもまったくあの頃のままの旨さでして、お見事でした。

2017年1月19日 (木)

2017酉年 あけました

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また、新しい年が明けました。

個人的には60歳を超えて2年が経ちまして、そのスピードは、ますます加速してきております。還暦を過ぎれば、おまけで生かしていただいてるようなところもあり、1年1年1日1日を大事に有意義に時間を使わねばなあと、肝に銘じておったのですが、性格が迂闊なもので、ついついうっかり、今までと同じように時を過ごしております。

ただ、なんとか無事に1年を過ごして、また新しい年が明けることは、ありがたくめでたいことではあります。

今年は酉年ということで、昨年の暮れに自分の年賀状作る打ち合わせしてたら、いつも頼んでる仕事仲間のデザイナーが、なんか鳥の絵とかあるといいなというので、ちょっと思い浮かんだのが、手塚治虫の「火の鳥」だったんですね。

「火の鳥」という作品は、手塚先生が漫画家として活動を始めた初期の頃から晩年まで手掛けられ、氏のライフワークとなった壮大なストーリーで、古代からはるか未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質を描く大作なのです。かつて全巻持ってたけどなあ、あれどうしちゃったかなあ。

酉年の初めに、鳥にもいろいろあるけれど、この超大作のシンボルである火の鳥は、なかなかふさわしいかなとも思いました。また、その物語は、火の鳥と関わる多くの主人公たちが、悩んだり、苦しんだりしながら、もがき闘い、運命に翻弄されてゆくお話でして、なんだか先行きが見えにくく、少し不安な今年の世相を予感させるようでもあります。そして、そんな杞憂を払拭して蘇り、大きく羽ばたいて飛翔するイメージが強くあるのも、この火の鳥なのです。

そんなことで、2017年の酉年も無事明けたわけですが、実は昨年末で、このブログページに書いてきた雑文の本数がちょうど100本になりまして、数的には一区切りということになりました。考えてみると、2004年頃に何の気なしに始めたことが、こんなに長く続くことになろうとは、その時はまったく思ってもいませんでした。ちょうど会社のホームページと連動する形で、個人のブログというのもやってみようということで、なんか書いてみようかと思ったのがきっかけだった気がします。

その何年か前からブログというのは存在してたんですが、わりとそのサービスが出そろったのは、この頃だったようです。ただ個人的には、なに書きゃいいんだろうという感じで、かつて日記というものをつけたこともなく、どうにか、月に1本書くか書かないかみたいないい加減なペースで始まりました。なんか適当な話っていうのが、なかなか思いつかないんですけど、そうは云ってもなんか書いてみようと、自分の周辺のことを少し掘ってみはじめると、それほど大したことではないのだけれど、それこそ酒飲んで人に話すような気持ちで文にしてみたら、それなりにちょっとずつ書けたんですね。それを続けてると、いろんなことを思いついたり、昔のことも思い出したりしてきて、酔っ払いの話が長くなっていくように、文もだんだんと長くなってきました。それと、チャカチャカといたずら書きなんですけど、ヘタな絵も一つ書くことに決めたら、それはそれで決まり事になってきたんですね。

そんなふうに始まりましたが、間違いなく自分のためのものでして、どなたかに読んで頂くとか、定期的に書くということでもなく、更新頻度もいい加減でしたから、12年も経って100本くらいのことなわけです。

偶然、50歳のときに始めて、そこから10年程の自分史となっておりますが、少し読み返してみると、大変興味深いですね。結構いろんなことがあったし、その間、世の中もいろいろ変わってますね。誰かに読んでもらおうと思って書いてはいなかったんですけど、たまに誰かが読んで下さったことは、励みになりました。自分のために書きながら、このブログというスタイルでなかったら、続かなかったことのように思えます。この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

なにぶん継続することが苦手な人でして、ひとつことを、ともかく100本まで続けることができたことには、意外な達成感がありました。

ちょっと読み返しつつ、こっからどうしようか考えてみます。

とりあえず。

 

 

2016年11月22日 (火)

引越しのあとで

少し前に、テレビで 「となりのトトロ」 をやっていて、またしても見てしまったんですけど、これほど何度も見た映画もなかなかなくてですね。1988年に公開されて以降、幾度となく放送されているし、家にビデオもありますから、子供が小さかった頃にも、何度も一緒に見ておりました。そんなことですから、見ながらにして、次のセリフも言えてしまうし、いい歳して、必ず同じところで泣いてしまったりもするわけです。そして、その度に、これは名作だなと唸るんですね。まあ、映画というのは、リピートに耐えることが、名作の条件だったりするところがあります。

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この物語の冒頭は、主人公の父娘3人がこの土地にやって来る引越しの場面なんですけど、これがなかなかいいシーンでして、このあとの様々なドラマの展開の起点になっているんですね。確かに引っ越しって、新しい何かに出会う期待と不安があって、物語の始まりとしては、うってつけの設定なのです。

ちょうど私も、会社の中で6年ぶりに席を替わる大引越しの最中でして、6年間に溜まりに溜まった本の山に囲まれて、かたずけに追い立てられておりまして、ちょっと古本屋で店番してるオヤジのような風情になっております。

そこで、ふと、これまでずいぶんと引越しをしてきたなあと思ったんですね。

子供の頃は、父親の仕事の都合で、幼稚園も小学校も中学校も転校を繰り返しておりまして、そのあと大学は上京してきましたので、この時は一人の引っ越しでしたし、一人になって何年かは落ち着いたんですが、そのうち働き始めてから、住んでたアパートが取り壊しになることが二度ありまして、まあ老朽アパートだったんですけど、その都度、住み家を変えます。

やがて結婚することになって、また別の街に越しますが、今度はその街の中で3度引越して今に至ります。勤め先が変わったり、またその場所が変わったり、こちらも大小の引っ越しが数々ありまして、考えてみると、好むと好まざるとにかかわらず、ずいぶんと引越しの多い人生じゃないかと思いますね。

子供の頃はともかく、大人になってからの引越しは、回を重ねるごとに、だんだんと大ごとになります。若い頃はお金もないし、荷物の大半はゴミだから、捨てればあらかた片づいて、軽トラック一台借りてくれば済んじゃうんで、わりと苦にならなくて、気分転換にもなるから、むしろいろんな場所に住んでみたいななどと思っていました。

でも、年齢を重ねると、いろんなことが身軽じゃなくなってくるんですね。家族もできたり、家財道具や荷物も増えてきて、これは、歳とともに人間関係やしがらみが多くなってくるのと似ております。

思うに、引越しというものは、「さよなら」と「こんにちは」で出来ておりまして、それは、街だったり、物だったり、人に対してだったりしますが、そこには、若干の寂しさと、いくばくかの期待と、何ともいえぬ不安などがありまして、いろいろな気持ちを抱えながら、新しい場所に移ってゆくんですね。

引越しには、ある意味リセット効果などもあって、まあ悪いことばかりでもなかったかなと思いますが、自分の性格にちょっと薄情なところがあるのは、引越しが多かったせいかなと思ったりするところがあります。これは自分じゃわからないんですが、ちょっと別れということに対して淡白で、わりと早めに諦めてしまうような、そこは転校生にありがちなところかもしれませんけど。

いずれにしても、人生は出会いと別れの繰り返しではあります。それがその人にとって、良いこともあれば、良くないこともあるんだけど、そういう中で新しい自分に折り合いをつけながら、みんな日々暮らしてるわけです。

だから、しんどいことがあったり、新しい何かに出会いたかったリ、自分にとってなんか変化が必要なときは、引越しをしてみるのは良いことかもしれませんね。 

なにもほんとに引っ越さなくても、自分のなかではっきりとポジショニングを変えてみるということなんですけど。

大きめの引越しでも、ちょっとした小さな引越しでもいいから、なんか新しい環境に自分をおいてみると、なんか今までと違ったことが起きることもあるかもしれません。

 

サツキとメイはトトロに会っちゃったわけだし。

 

2016年6月24日 (金)

永遠の嘘をついてくれという歌

ちょうど10年前、2006年のある日、録画したビデオを見ながら酒飲んでたんですね。それ何のビデオかと云うと、その年の9月にあった「つま恋2006」というコンサートで、主に吉田拓郎とかぐや姫が出ていて、8時間延々と歌ってるわけです。

どうしてこれを録画しようと思ったかと云うと、僕らの世代にはこの2006年のつま恋に繫がる1975年のつま恋の記憶というのがあってですね、31年前の8月に「吉田拓郎・かぐや姫コンサートインつま恋」というのが2日間にわたって行われたんですが、何だか覚えているのは、静岡県のつま恋に5万人もの人が集まって、相当大変なことになったことがあったんです。そんなこともあり、同世代としては懐かしさもあって見てみようと思ったんですね。

1975年に話を戻しますと、この時、吉田拓郎29歳。この人は1960年代からフォークソングの世界で台頭し始め、その後シンガーソングライターとして数々の曲を生み、多くのファンの支持を集めます。1972年には「結婚しようよ」が大ヒット。フジカラーのCM音楽も話題になり、1974年には「襟裳岬」がレコード大賞を獲りました。ちょっとメジャーになりすぎて、フォークの世界の方々からは軟弱だと批判や攻撃を受けたりしましたが、ともかくこの頃には、アーチストとしての地位を確立しておりました。

また、1969年にアメリカで「ウッドストックフェスティバル」という大野外コンサートが4日間も続けて行われて、「ウッドストック」という記録映画も評判になっていて、拓郎さんはそれ的なことやりたかったようです。

ただ、いくらなんでも一人だと、時間的にも体力的にも持たないので、仲間でもあり後輩でもあるかぐや姫を呼んだんですけど、実はかぐや姫はその4か月前に解散してまして、でも、なかば強引に連れてきちゃったみたいですね。

ただ、かぐや姫の「神田川」が大ヒットしたのが、1973年でしたから、解散したとはいっても、この頃のこの人たちは、全盛期と云ってよいと思いますが。

1975年て、私は21歳でして、つま恋には行ってませんけど、この方たちの曲はラジオやレコードでよく聴いております。

吉田拓郎さんがフォークの活動を始めたのは、地元の広島の大学生の時で、その頃私は中学高校と広島の子でしたから、ちょっと親近感もありました。フォークソングとは、みたいなことを語り始めると長くなりそうだし、よくわからないんですが、フォークの人たちは基本的に自作自演です。その前は、自分で曲作る歌手は加山雄三さんくらいでしたから、吉田拓郎は、フォークの世界から出てきて、シンガーソングライターと云うジャンルを作った草分け的な人でした。この人の歌にはいつもあるメッセージがありますが、それまでのプロテストのにおいがしたり、背景に学生運動を感じるフォークソングに比べると、それは自身の生き方だったり、恋愛的なものが含まれていたりしました。いつの間にかこの人のことをフォーク歌手とは云わなくなっていたと思います。

そんなことを思いながら、懐かしい吉田拓郎の歌を聴いてたんですけど、ある曲の途中で、突然、舞台の下手からスペシャルゲストの中島みゆきが登場してきます。会場も盛り上がりまして、吉田拓郎と二人でこの歌を歌い始めたんです。私、この時初めてこの曲を聞いたんですが、ある意味ものすごく二人の歌が胸に刺さったんですね。中島みゆき作詞作曲「永遠の嘘をついてくれ」という歌です。ただこれ中島さんが作った曲だとは思わなかったんです。なんか字あまりな感じとか、詩の中身も、見事に拓郎節になっており、ゲストの中島みゆきが吉田拓郎作の歌を歌ってるように思えたんです。

でもこの歌には歴史があってですね、「永遠の嘘をついてくれ」は、1995年に中島さんが吉田拓郎へ贈った歌だったんですね。

1994年頃、泉谷しげるの呼びかけでニュ-ミュージックの大物が集まったチャリティコンサートがあって、吉田さんはそこで中島みゆきの名曲「ファイト!」を弾き語りで歌ったんだそうです。その時吉田さんは、自分が歌いたい歌はこんな歌なんだと強く思ったといいます。この時期、納得のいく歌が作れていなかったのかもしれません。吉田さんは、1995年のニューアルバムのレコーディングの直前に、中島さんに会って、

「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない。」と云って、

異例中の異例のことですが、曲を依頼します。

中島さんは、あの1975年にデビューしています。歳は6才年下で、ずっと吉田拓郎の大ファンであり、音楽的にも多大な影響を受けました。この時、吉田拓郎からの依頼を彼女はどんな思いで受け止めたんでしょうか。

そして、吉田さんがバハマにレコーディングに出発する直前に、中島さんからの渾身のデモテープが届いたのだそうです。

そういうことを知った上でこの歌を聴くと、かつての自分のヒーローに対する中島みゆきの想いが、メッセージが、強くこの曲に込められていることが、よくわかる気がします。拓郎の歌がなければ、中島みゆきもいなかったかもしれないという気持ちが、そこにはあったかもしれません。

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作詞・作曲 中島みゆき  永遠の嘘をついてくれ

 

ニューヨークは粉雪の中らしい

成田からの便は まだまにあうだろうか

片っぱしから友達に借りまくれば

けっして行けない場所でもないだろう ニューヨークぐらい

 

なのに永遠の嘘を聞きたくて 今日もまだこの街で酔っている

永遠の嘘を聞きたくて 今はまだ二人とも旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ

 

この国を見限ってやるのは俺のほうだと

追われながらほざいた友からの手紙には

上海の裏町で病んでいると

見知らぬ誰かの 下手な代筆文字 

 

なのに 永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

永遠の嘘をつきたくて 今はまだ僕たちは旅の途中だと

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 一度は夢を見せてくれた君じゃないか

 

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく

放っておいてくれと最後の力で嘘をつく

嘘をつけ永遠のさよならのかわりに

やりきれない事実のかわりに

 

たとえ くり返し何故と尋ねても 振り払え風のようにあざやかに

人はみな望む答えだけを 聞けるまで尋ね続けてしまうものだから 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

君よ 永遠の嘘をついてくれ いつまでもたねあかしをしないでくれ

永遠の嘘をついてくれ 出会わなければよかった人などないと笑ってくれ

 

「永遠の嘘をついてくれ つま恋2006 中島みゆき&吉田拓郎バージョン」9‘15“

は、その後ipodに入れて、ときどき走ったりする時とかに一人で聴いています。何だか励まされて元気出る気がするんですね。自分にとって重要な曲と云うのが、いくつかあるもんですけど、この歌もその一つになっています。

ただ、世の中には似たような人がいるもんで、何年かして、ある飲み会の時にわかったんですけど、あの放送を見て、同じようにあの曲が胸に刺さってた人がいたんですね。古い友人のM子さんと云う人なんですけど、やはり同世代であります。

だよねだよねだよねえ、みたいなことになり、行きましたね、酔った勢いでカラオケ。

私が拓郎パート、彼女が中島みゆきで、唄ったわけです。

で、わかったことは、聴くのとやるのは全く違うことだということでして、

あたりまえのことですけど。

 

2016年6月 1日 (水)

CM出演いろいろ

テレビのCM制作と云うのを仕事にしていると、当たり前ですけど、一年中、身の回りでCMの撮影というものが行われておりまして、それはロケであったり、スタジオ撮影だったり、ものすごく遠くの国まで行ったり、ついそのあたりの会社の横の路地だったりするんですけど、多かった時は自分が担当している仕事だけでも、年間何10本も撮影したりしました。

被写体はというと、それはありとあらゆるものでして、CMですから世の中の商品と呼ばれるものは何でもですし、それを使用する人、摂取する人、語る人、等々。又、あらゆる風景、自然現象、動植物、創作物、等。ともかくカメラを向けて映るものであればすべてです。

撮影方法にも色々あって、基本的には三脚にカメラを固定して撮るのですが、相手が動けば、上下左右に振り回したり、カメラをレールの上に載せて移動したり、クレーンに載せたり、自動車やヘリに載せたりします。ハイスピード撮影というのは、撮った画がスローモーションになりますし、逆に微速度撮影というのは、何時間もかけて動く、たとえば花が咲くところなどを、何秒かのスピードに再生して観ることができます。

とかとか、一言で撮影と云っても、実にいろんなことをやっているわけです。

そんな中、様々なカットを撮っていく上で、その画の中に自分が出てしまうことがあります。わりと多いのは、手元カットというもので、何かを使っている時の手のアップ、何かを押す指のアップとか、まあ手に限らず、足だったり、身体の一部だったりするんですが、そういう場合はカメラの周りにいる誰かで間に合わせることがよくあります。相当その形に意味があったり、美しくなければならない場合は、ちゃんとした手タレさん足タレさんなどに来て頂くんですけど、それほどじゃないことも多いんですよ。

ただ、それを動かすには、けっこう上手い下手がありまして、だいたいスタッフは慣れているからうまい人が多いんですが、被写体としてフレームの中でカメラマンや監督がどう動いてほしいのかを理解して、そのように動けることが大事なわけです。

それと出演ということで、よくあるのが、群衆だったり通行人だったり、いわゆる背景とかに入ってくる複数の人々というものなんですね。これはエキストラと呼ばれる専門の方たちにお願いするんですが、その中に私たちスタッフが紛れ込むこともよくありまして、その場合は監督の狙い通りに背景の人々が動くように誘導を手伝ったりするんですけど、当然ながら、よおく見ると画面に映ってることはままあります。ただ、映っていると云っても、点のように小さかったり、大きくても一瞬だけで通り過ぎて行ったり、たいていの場合、完成したフィルムを見て、それが誰だかわかるような映り方はまずしないんです。

私、以前一本の30秒CMの中に、全部違う格好で4回出たことがあってですね、これはある街の朝の様々な風景を積み重ねたもので、たくさん人が出てくるんですけど、その中で私がやったのは、ラーメン屋の親父と花の市場で働く人とバスを待つサラリーマンと釣り人なんですが、誰が見ても同じ人間が4回も出てるとは思わないんですね。ただ、これを仲間や家族が見ると、私だと気づいて大笑いになるんです。これは、その監督に完全に遊ばれてるんですが、それくらい私達裏方がお手伝いで出演する時は誰だかわからないように撮られてるわけです。

まあ、たいていの場合がそういうことなんですが、稀に誰だかわかるように出てしまうことがあるんですね。

それは出演者として何らかのキャラクターを探している時に、全く無名な人でそういう雰囲気の人みたいな探し方になる事があり、なまじ芝居の経験がある人より、いっそ素人という選択肢になる事があります。そういう時、なんとなく候補になって、そのうち成り行きで出演者に決まっちゃうことがあるんです。私達裏方スタッフというのは、演技者としては完全に素人なんですが、撮影現場ということに関して云えば、非常に慣れていてですね、ヘタだけど上がらずにできるというメリットがあります。はなからあきらめてるから、変に上手にやろうとも思いませんし、そのあたりが適度な素人感が出てちょうど良いこともあるんですね。

世の中の演出家と呼ばれる人は、実に普段から身の回りの人のことをすごく観察してまして、それはその仕事の習性でもあるのですけれど。で、キャスティングに困ったりした時、急に思いもかけない人のことを思い出したりしてですね、これが意外となじんだりするから不思議なんですね。

何年か前に、突然ある監督からそのようなことで呼ばれたことがありまして、この方は現在たくさんいらっしゃるCMディレクターの中で、私が最も尊敬している大先輩でもあり、当然ながら二つ返事でやらせていただいたんです。

それはよかったんですが、これがものすごく目立つ役でして、お医者さんの役なんですけど、構成上、本物のお医者さんが出ちゃったみたいな素人っぽさが欲しかったんだと思うんですね。

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カメラマンもよく知っている方で、そのせいでもないんでしょうが、すごく大きな顔で映してくださり、しかもセリフありの長台詞でして、いっしょに出てる有名女優さんや有名男優さんよりもセリフが多かったりしたんですね。

参ったなあと思っていたら、完成したDVDをプロデューサーの方が持ってきてくださって、見せていただくと、恐ろしく私、目立っているわけです。しばらくして、テレビで放送が始まると、こういう時にかぎって、けっこうすごい放送量でして、たいていの人が見てしまうなと思われました。

恐れていることは、その通りになります。

マンションの郵便受けで新聞取ろうとしてたら、後ろから来た同じマンションのご主人が、この人、本物のお医者さんなんですけど、

「テレビ出てますよね。医者で。」と云われました。

当然、私が医者でないことはよくご存知です。

電話もメールもジャンジャン来ます。会社の近所の昼ご飯食べに行くところなどでも、かならず、

「見ましたよお。」などと云われ、

家族からはほんとに恥ずかしいと云って抗議を受けます。カミさんは、私が医者だと思い込んだ近所の方々に、いちいち言い訳するのが億劫だったようです。

私がときどき酒を買いに行く酒屋さんに、カミさんが買い物に行ったら、

「あ、そういえばこの前、先生が犬連れてみえましたよ。」と、おじさんに云われ、

『先生?あちゃあ。』

昔から我が家の自転車を一手にお世話して頂いてる自転車屋さんでは、

「そういえば息子さんそろそろ受験ですよね、やっぱり医学部ですか?」と聞かれ、

ああ、この方たちはあのCM見て完全に間違ってるとわかり、往生しておりました。

言わずと知れた名監督ですので、見事に本当の医者にみえるように完成されたわけです。お見事でした。

こういう仕事してると、習慣もあって気軽にフレームの中に出てしまいますが、時に大ごとになる事もあります。

それからまたしばらくして、近所の鮨屋に行ったら、やはりそのことを云われましてですね、、オヤジがいうには、その数日前に近所で私と仲良しの本物の役者が来たらしく、この人とは古い付き合いで、当然私の正体を知ってるんですが、

「なんだかんだ言って、あの人、出るの好きなんだよな。」と云って笑ってたそうです。

そうでもないんだけどなあ。そういうとこもあるかあ。 

2016年4月28日 (木)

火がある、酒がある、膝が笑う。

ちょうど2年前に、ここに書いたと思うんですが、会社の新入社員研修キャンプというのに連れていかれて、かなりきつい登山をさせられて往生した話だったんですが、このキャンプ、4月のこの時期に毎年やっているのですね、我社。

去年も誘われまして、ちょうど別の用件と重なっていて、行かなかったんですが、正直に云えば一年前の辛い記憶もあって、出来たら行きたくないなというのが本音だったんです。だらしないといえばそうなんですけど、でも、どっかでさぼっちゃったなというまじめな気持ちもあってですね、で、今年もそのキャンプがやってきたわけですよ。今年は別件もなく、俺、山登りしんどいから行きたくないとは、ちょっと言えない空気もありまして。

だいたいこのキャンプを取り仕切ってるボーイスカウト出身のO桑君と、転覆隊出身のW辺君にとっては、スキップで登れるほどの山だし、この合宿には外すことのできぬメニューなわけです。

「どうだろうか、皆が山から下りてきたところで、温泉で合流というのは?」

などと申してみましたが、二人とも一笑に伏せるだけでした。ま、ありえないですね。

目指す日向山(ひなたやま)は、標高1650m、キャンプ地からは登りっぱなしの約3時間です。登山隊構成員は、新入社員6名に、有志社員7名、車輛部の若者1名、私とゲスト隊員として加わったコピーライターのH川女史、その隊列の前後をW辺キャプテンとO桑キャプテンが固めるという布陣です。

きつい坂を登っていくとですね、だんだんと前方に若者たちがかたまってきて、なにやら楽しそうな笑い声が途切れない状態なんですが、私とH川さんは少しずつ離されていくんですね。これをO桑キャプテンが、シープドックのように私達が群れからはぐれないように、見張りながら行くわけです。登り始めた時は、私もH川さんも無駄口叩いて冗談飛ばしたりしてたんですが、ものの30分くらいで全く無口な人と化しておりました。

「ひなたやま」なんて可愛らしい名前だし、このあたりでは小学生が遠足で登る初心者向け登山だと、キャプテンたちは云うですが、初心者だろがなんだろが、つらいもんはつらいですよね。当然ですが、2年前より2歳年とってるわけだし、おまけに2年前は途中まで車で上がったけど、今回は下からだし、この今回増えた行程が特にきつくてですね。膝が笑うと云いますが、よく云ったものだと思いましたね。その一週間前に、宮古島ゴルフ合宿というのに行って、3日で4ラウンドというバカなことしてきたせいもあるんですが、ほんとに膝が大笑いしておりました。いや、きつかった。

ただ、頂上をとらえた時の達成感というのが、登山というものの醍醐味なんでしょうね。この頂上からの景観がほんとに素晴らしいのですよ。全員で記念撮影しまして、そのまま私は地べたに突っ伏して倒れました。これも2年前と同じだったと思います。

しかし、若さというのは果てしないですね、突っ伏した私の横で、新入社員たちは何度も何度もジャンプしながら山バックの写真を撮り続けております。何なのだ、あのパワーは、と思いながら、考えてみますと、私より40才年下なんですから当たり前といえば当たり前ではあります。年齢差40って江戸時代なら孫ですよ。

このあと膝は笑いっぱなしで、私は風林火山の山本勘助のような歩き方で、山道を降ります。どうにかこうにか温泉に着いて、ふやけるほど湯につかり、疲れ切った身体にゴクゴクと生ビールを入れたあたりから、おじさんは徐々に蘇りますね。やがて、薪に火がつけられキャンプが始まりました。そおなんです、このカラカラ、クタクタ、スカスカの状態に、酒と肉を注入するのです。酒池肉林です。オリャーー。

私は、このためにやってきたのだぞ。そして、あのつらい山登りもそのためだったのだ。俄然、元気が出てきます。そのあたりは、山では無口だったH川女史も、私と同じ考えだったようです。すでに焚火を囲んで、持参した酒を皆にふるまってニコニコ元気におなりになってます。

私達がいつもキャンプしてるこの場所は、薪で焚火ができる今や数少ないキャンプ場でして、O桑君は薪で肉を焼かせると天才だし、私はこの焚火を見ながら呑んでいればいつまででもそうしていられるくらい焚火のことは好きなんですね。昔から、焚火見ているとなんか安らかな気持ちになるというか、落ち着くんですよね。原始人のDNAなんでしょうか。

そういうことで、30代とか40代の頃に、自分でキャンプできるような人になれるといいなと思って、いろいろ本買って勉強してわりと詳しくはなったんですけど、ようく考えてみると、あれだけのことを労苦をいとわず一人でやりきる勤勉さはないかなということに気付きまして、それからはキャンプも別荘ライフも、もっぱらどなたかのところに寄せていただくというパターンになっております。それなので、この場所でずっと焚火を見ていられるこのキャンプは大好きなのですが、あの日向山とセットというところが、やや躊躇するとこではあるんです。

毎回、究極に疲れきったところに酒が入ってきて、肉がジュージューいって、火に癒されるのが、決まり事ではあります。

この新人研修キャンプというのは誰が考えたか、よくできていて、2泊3日のキャンプを仕切るうえにおいて、人々の移動から考え、色んな道具をそろえ、食材を仕込み、酒を考え、薪も準備し、進行も考え、設営し、撤収し、自分達ですべて完成させるというのは、確かにいい勉強になるんだろうな、これからの仕事をやるうえで、と思いますね。

私が個人的に、この研修でいつも思いいたるのは、あの辛い辛い山登りの後、あの天国のような夜が来るという、人生、苦しいあとには、いいこともあるよという教訓のようなものなんですが。

でも、若者たちはあんまり登山はこたえてなかったから、しみじみそんなこと思ってるのは、私だけでしょうが。

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2016年3月17日 (木)

断酒・その後

報告ですが、2月1日から29日までの1ヶ月、何とか禁酒することに成功しました。

出来るかなあと思っておりましたが、途中で挫折することもなくです。終わってみると、へえ、意外とやれちゃうもんだなあと思いましたが、やっぱり1ヶ月は長かったですね。

ひと月ぶりに飲む酒は、確かにうまかったし、同志AZさんと健闘をたたえあった酒は10時間にも及びましたが、なんか特殊な暮しから、もとの暮らしに戻ったようなことで、意外と淡々としたものではありました。

やめてる間は、なるべく酒のことは考えぬようにして、夜、人と会食することは極力避け、酒が飲みたくなるような食べ物も極力避けて、過ごしておりました。

飲まないと、眠れなくなるんじゃないかという心配があったんですけど、それは杞憂でありまして、むしろよく寝れて身体も休まり、とりたてて禁断症状に苦しむということはなかったです。

ただ、日が暮れると酒呑みたくなるのは、長年の条件反射でして、それをあえて当り前のように飲まないでいるというのは、けっこう大変なことでしたね。なんかこう、間がもたないわけですよ。普段、いかに酒呑みが、酒呑んで時間をつぶしているのかがよくわかります。これにかわる新しい過ごし方がすぐに見つかるのでもなく、飲まなきゃ晩御飯もすぐに終わっちゃうし、急に夜の街を走るというのもなあ、この時期寒いしなあ。やはり月並みですけど、本を読んだり、映画を観たりということになるのかな、と思ったわけです。

そこでいろいろと、本屋を物色したり、アマゾンで注文したり、映画をipadに取り込んだりと、準備はしておりました。でも、映画観るのも、本読むのも、その気になればわりと早くできちゃうし、なんか、冬眠する時に食糧ため込むような気持ちになると、1ヶ月ってずいぶん長く感じるんですよね。

そんな時、ふと、そうだ「鬼平犯科帳」 24巻だ。と思ったわけです。まあいつかは読もうと思ってはいたんですけど、この小説は1967年から1989年まで連載されたもので、全135作ありまして、かなりの分量は分量だし、きっかけがないままだったんですが、この断酒1ヶ月にはうってつけだなと。

で、「鬼平犯科帳」ですが、おもしろいです。さすが、長きにわたって多くのファンを持つこのシリーズ、エンタテイメントとしてよくできてるんですよ。一話一話は文庫本が50ページくらいで完結してるんですけど、お話はいろんな要素が微妙につながっていて、ひとつの世界ができております。実に様々な登場人物が出てくるんですけど、それぞれにきちんとキャラクターが描かれており、何だか似たような話かなと思うと、全然違っていて、意外な展開が待っておりまして、池波正太郎先生、成るほど達人でいらっしゃいます。

あれよあれよという間に、10巻ほど読んでしまいまして、まだ14巻もあるのですから、これはなかなかに、良い思いつきだったんですが、ただ強いて言うと、ひとつ問題がありまして、ここに出てくる長谷川平蔵さんはじめ、この江戸の街の人たちが、けっこう酒好きなのですね。そして、実にうまそうに飲むんですよ。ストーリーの中で、よく張り込みをしたり、密会したり、待ち伏せをしたりするんですけど、そういう時、実に都合の良い場所に居酒屋や屋台や蕎麦屋があります。それと長谷川平蔵の役宅に人が訪ねてくると必ず酒を出しますねこの人。そういうシーンで、別段、贅沢なもんじゃないんですけど、ちょっとした肴をあてに飲む酒というのが本当にうまそうで、禁酒してる身にはこたえるわけで、その都度閉口しておりました。

そういうせいでもありますが、同志AZさんと、断酒明けはどこで何を飲もうかという話になった時に、

「昼間から蕎麦屋で、野沢菜に炙った鴨で、冷や酒。」

ということになりました。人の欲望は、わかりやすいです。

 

ただ、私的には1ヶ月の禁酒というのは、大変なことだったわけで、その成果というのが知りたくて、人間ドックを受けたクリニックに行って再度血液検査してもらったんですね。そしたら、禁酒した効果は確かに出ていますが、根本的な問題は解決されてないので、引き続き節制してくださいとのことでした。

考えてみると、そりゃそうだよな。この何10年にも及ぶ不節制に対して、たかが29日間酒やめたからって、物事が画期的に変わるということもないですよね。

そして、この1ヶ月の体験が何をもたらしたかというと、一応酒やめることは、いざとなればできるかなということと、とにかく、ただの習慣だけで毎日酒飲むのはやめたほうがいいなということだったでしょうか。

初めての経験ではありましたが、自分はやはり酒が好きなんだなということも、よくわかりました。ただ、いい歳なんだし、身体のことも考えて、これからは酒といい付き合いをしなきゃと、ちょっと殊勝なことを思ったり、少しそういうこと考えたわけですね。

 

しかし、長谷川平蔵は、歳のわりに飲みすぎとちゃうかなあ。

Onihei

2016年2月18日 (木)

断酒

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どういうわけか、2月の1ヶ月間、酒やめることになったんですね。

きっかけは、昨年末の人間ドックで、腸にポリープが見つかりまして、2月の初めに切除することになり、内視鏡でやるんですけど、そのあと自宅で1週間ほど大人しくしてなきゃいけなくて、まあ、その間酒飲んじゃいけないわけです。

ので、禁酒の予定は1週間だったんですが、そのまま1ヶ月酒を断ってみないかと、ある方からそそのかされたんですね。その人はAZさんと云って、今はリタイアされてるんですが、かつて広告を制作されていて、伝説のCMプランナーと云われた人なんですけど、私が昔から尊敬してる先輩で、今は酒飲み仲間なんです。

AZさんは2月に酒抜くことにしたみたいで、どうしてそういうことしようと思ったのか聞いてみたんですが、この方、最近お医者さんのお友達が多くて、かなり人間の身体に関しての医学的知識を身に付けられてまして、まあ、もともと知識には貪欲な方なんですけど、こんなふうに云われるわけですよ。

「お互い60年以上生きてるわけで、その間、人間の内臓というのは、休みなく働き続けてるんだよね。寝てる間もです。そこに、毎日のように酒を飲み続けてきたのね。彼らにしてみたら、勘弁してほしいわけですよ。ここに来て1ヶ月くらい酒をやめてあげると、ずいぶん長年の疲れが取れるんじゃないかと思ったわけよ。」

「じゃ、なんで2月にしようと思ったわけですか。」

「それは、一年のうちで2月が一番日数が短いじゃない。」

「はあ」

「実際それやると、かなり内臓の機能は回復するみたいよ。」

と。

それで、もう一つ思い出したことがあって、1月にある人から年賀状が来たんですが、この人も業界の大先輩で、音楽プロデューサーのA田さんというんですけど、“ちょい”じゃない悪オヤジで、昔から、飲む打つ買うの三拍子の人なんですね。で、年賀状の文面ですが、

「元気でお過ごしですか。

私、昨年末にめずらしく体調を崩し緊急入院。

16日間の絶食と点滴生活・・・・・。

おかげで血圧と体重が正常値に戻った。

おまけに“有馬記念”も的中と大忙し。

現在リハビリの毎日です。

2016年 健康で平和な良い年であります様に。」

とありました。あまり反省は感じられないのですが、良かったです。そういえば、この人、今まで酒切らしたことなかったと思いますよ。

 

確かにそうです。習慣ということもありますけど、もうずいぶん長いこと酒飲み続けてますもんね。

ちなみに、貧乏であんまり飲めなかった学生時代を除いて、続けて酒を抜いたことがどれくらいあったろうかと、思い出してみたんですが、

昔、ソルトレイクってところで、CGの制作をしたときに、連日徹夜になったのと、この街の多くの人が入信している宗教の宗派が、酒飲んじゃいけなくて、どこに行っても酒が置いてなかったことがあって、この時、多分5日間ほど飲めなかったのが最長だったんじゃないかと思うんです。

そんな私がですよ、一カ月も酒を抜くことができるのだろうか。2月に入って、2週間ほどが過ぎましたが、私もAZさんも今のところ挫折してません。禁断症状とか出るとやだなと思ってたんですが、そう決めてしまうと意外と大丈夫で。まだ油断はできないですけど。

ともかく、それなりに長く生きてきて、何だってこんなに酒と切っても切れないことになってしまったのか。物心ついてから、どうして酒を飲み続けているのか。納得していただくに、有効な理屈はこれと云ってございません。

「酒呑みの自己弁護」という、山口瞳先生の名著がありますが、痛く共感したのを覚えております。

酒呑みというのは、「ちょっと一杯やるか。」という呼びかけに、無上の悦びを覚えます。ちょいと気の利いた肴でもあれば、この上ないです。そして、言ってみれば、いつまでも飲んでいられます。それが、気の合う仲間となら最高ですし、ある意味、たいていの場合、誰とでも、二人でも三人でも大勢でもいいし、一人でももちろん、かまいません。

酒には、嬉しかったり楽しかったりする気持ちを増幅する作用があり、盛り上がるとドンチャン騒ぎにもなります。ただ、不機嫌だったり、哀しかったり辛かったりする気持ちも増幅されますので、ちょっと良くない酔っ払いになる事もあるんですが。それに、適量を過ぎると、わりと、しばしば過ぎる傾向にあるんですが、迷走することもあります。

ということで、酒が人生にとって、どうしても必要かというと、そんなこともなく、プラスになる時もあればマイナスの時もあります。トータルで云えば、どっちもどっちと云うことでしょうか。でも、飲んでしまうんですね、習慣的に。

昔、この仕事を始めて、間がない頃、あこがれの鈴木清順監督があるビールのCMを作られたときに、制作進行で付かせてもらったことがあって、もう、そばにいれるだけで、ただ幸せだったんですけど、何だか心に沁みるいいCMだったんですね。

焼鳥屋のカウンターで、大人の男が一人(高橋悦史さんなんですけど)ビール飲んでるだけなんですが、その店の壁に女の人の絵があって、ふっとその絵を見るみたいな話で、そこにナレーションが入って、

「酒、煙草、女、ほかに憶えし事もなし・・・」 って云うと、

トク、トク、トク、とビールが注がれるわけです。

駆け出しの男としては、なんかいいよなあ、男だよなあとか思ったわけですよ。

つまり、この頃すでに、私の価値観には、男の人生には酒というものが組み込まれてるんですね。そして、ずっと組み込まれたままなんです。

煙草はやめれたんですけど、だから酒もやめられるんじゃないかと云うと、それとこれはちょっと違う気がしますね、やはり。

酒やめたら、もしかしたら、健康診断の数値が良くなって、健康になって長生きできるかもしれないけど、別の意味での健康を損なってしまうかもしれない。世の中には、酒を飲めない人も、酒が嫌いな人もいて、そういう人でとても仲良くしている人も結構いるんですけど、自分が酒と縁を切る事は出来ないんだろうなと思うわけです。

私なりの、なんの説得力もない自己弁護ではあります。

ということで、一ヶ月間、断酒できたとして、そのあと画期的に人生が変わるとは思えないのですが、ともかく、見たことのない景色を見てみようと云う、未踏域への冒険のような気持ちでいるわけです。

大げさですけど。

 

 

 

2016年1月15日 (金)

海賊の血

前にも書いたかもしれませんが、私、船酔いと云うのをしたことがなくてですね。多分、今までで一度もないです。ついでに申しますと、ほかの乗り物酔いもしたことがないんですね。

体質としか言いようがないと思うんですが、よく船に乗るだに真っ青になって気持ち悪そうにしてる人がいますが、それがどんな具合なのかよくわからないんです。酒を飲みすぎて、気持ち悪くなって吐いたことは何度もありますから、あんなことなのかなとは思うんですが、どうなんでしょうか。

船には、苫小牧発・大型フェリーから井の頭公園のボートまで、いろんなのにさんざん乗っていますが、そんな中でもちょっとすごい経験があってですね、若い頃に仕事でロケに行ったんですけど、何を撮りに行ったかと云うと、荒れ狂う嵐の海の中を行く一艘のクルーザーヨットだったんです。低気圧が来て天候が荒れるのをを待って、相模湾のけっこう沖合でで撮影したんですけど、撮影スタッフは40名ほど、ヨットに乗る人や、ほかの船やボートからヨットを撮影する人といろいろいて、私は別の船から撮影スタッフやヨットクルーへ無線連絡する係でした。海はかなり荒れてましたから、船から振り落とされないように、皆いろんなところに掴まりながら、早朝から陽が落ちるまでの過酷な現場でした。この時、私以外の全員が吐いたんですね。吐いて立ち直る人もいたし、そのまま立ち上がれない人もいました。まあ、後にも先にも経験したことのないすさまじい撮影だったんですけど。

それくらい船酔いしないわけですよ、私。

それでいろいろ考えてみるにですね、この私の体質は、私のルーツに関わりがあるんじゃないかと思うわけですよ。

大学生の頃の夏休みに、当時まだ元気だった私の祖母から、ご先祖様の墓参りに行くから、運転手をするように云われて、二人で瀬戸内海に浮かぶある島まで行ったんですね。広島市内から約2時間くらいかかったと思いますが、瀬戸内の島って、けっこう橋でつながってるから、車で行ける最南端のあたりだったと思いますけど、まあすごく田舎なわけです。

墓石に刻まれた文字もほとんど見えなくなるほど風化しており、年月を感じる小さな墓がいくつも並んでいました。その一つ一つに、ばあちゃんが線香を上げてゆくわけです。

「これが、うちのご先祖さんなん?」と、聞くと、

「多分そうじゃろういうことが、最近わかったんよ。」と、ばあちゃんが云いました。

手を合わせて、振り返ると、陽が傾きかけたベタ凪の瀬戸内が、鏡のような水面を光らせています。手前にも奥にも美しい島々が配置されていて、ものすごくきれいで平和な風景です。温暖だし、魚もうまそうだし、うちのご先祖さんは、良いところで暮らしてたんだなあと思いました。どうも船大工をしていたらしいです。

帰り道に、車の中でばあちゃんがしてくれた話は、

「定かじゃあなあがね、昔、和歌山の方に、うちの名字と同じ名前の海賊の一団がおって、平清盛が神戸から西を治めていく時に、いっしょについて来たんじゃないかゆうことなんよ。そのあと、あの墓のあったあたりの場所に住みついて、そのうちに船大工になったんじゃないかゆうことみたいなんじゃ。」

そう云われてみると、もしも戦をしに来て、あの場所でさっきみたいなきれいな景色見たとしたら、面倒なことはやめて、ここに住んじゃおうかと思ったご先祖さんの気持ちが、ちょっとわかるような気がしたんですね。そう考えると、確かに、船酔いする海賊というのもなかなかいないだろうし、このルーツ論は腑に落ちるんですわ。

その後、詳しくはわからないけど、明治になるころ、今の広島の近くの矢野という海沿いの町に出て行って、いろいろ船を使った仕事を始めたようです。

私は、中学の途中から、大学進学で東京に出ていくまでの数年間をこの町で暮らしました。目の前には海が広がっていて、牡蠣の養殖いかだがびっしり並んでいる町でした。

私の家は、海に面していて、そのころ家には、12フィートのモーターボートがあったんですね。3.65メートルほどで、12馬力の船外機をつけてあり、バイクでいうと原付バイクみたいなもんですが、これでけっこう遠くまで行ってたんです。広島の街は何本もの川が広島湾にそそいでいて、川伝いにどこでも行けたし、湾の反対側には15kmほどのところに、有名な厳島神社があってよく行きましたね。魚も釣れたし、あの頃、暇さえあれば始終海にいました。何だか船に乗って海にいると落ち着くと云うか、これも私の血のせいだったのかもしれませんねえ。

もう時効だと思いますが、船の航行ルールのことや、エンジン回りのことは、ちゃんと勉強してて、海図も全部持っていたんですけど、いわゆる免許というものは持ってなかったんですね。18歳未満だったし。

ただ、ほんとに年に一回あるかないかなんですが、海上保安庁の船に呼びとめられることがあるんです。そういう時は逃げましたね。こっちは、島と島の間の細い水路とかも全部知ってるし、複雑な牡蠣の養殖いかだの間に入ってしまうと、どうにもなりません。それで目くじら立てるわけでもなく、40年前はけっこうのんびりしてました。まあ、いい訳にはなりませんが。

今もその町には、歳とった両親が住んでいて、ときどき家族で帰りますけど、海はすっかり変わりました、私がちっちゃいボートで走り回ってたあたりは、ほとんど埋め立てられて、学校や病院が建っているし、海をまたいで町どうしを大きな橋が繋げているし、牡蠣のいかだもずいぶんなくなりました。40年も経てば当たり前ですけど。

でも、ふと思ったんですが、あの時ばあちゃんと見た入江はどうなっているんだろうか。多分行き方もわかんなくなってるんですけど、今度行ってみたいなと思ったわけです。

平清盛さんの話はどうだかわかりませんが、この海で長いこと船と関わってきたご先祖さんだったことは確かかもしれませんよね。

この船酔いしない体質を考えると、やはり。

Kaizokusen

2015年12月 3日 (木)

西荻のとっつあん

このまえ「恩人」ということを考えていて、もう一人私が若い時からずっと世話になった人のことを思い出しました。その人は、私が働き始めたCM制作会社の、車輛の仕事を全部取り仕切ってた人でした。厳密にはこの会社の人ではなくて、自分で車輛部の会社をやっていて、子分も2,3人いたんですね。撮影現場にはスタジオでもロケでも、必ずそこにいた人で、松園さんと云います。

私はその現場におけるすべてのヒエラルキーの最下層にいて、ありとあらゆる用事をいいつけられるんですが、わからないことは何でも松園さんに教えてもらいました。会社の先輩もいるんですけど、現場に出てしまうと、それぞれにやる事があって、ゆっくり教えてもらってる場合じゃないし、わかんないことは松園さんに聞くように言われてました。30人ほどのこの会社で、制作部の助手というのは、私ともう一人くらいしかいなかったので、この会社の撮影現場のほとんどには私がいて、必ず松園さんもいたんですね。当時私が22歳で、松園さんが40過ぎだったと思いますが、この人、何でも知っていました、ホントに。それで教育係も兼ねてくださってたんだと思います。

何でも教えてくれるし、仕事も手伝ってくれるんですが、こっちが油断してると、よく罠にかけられました。気を抜いてるといたずらされるんです。他愛無いことですけど、ちょっと大事なもの隠したり、嘘を云ったり、こっちがはまるとほんとに嬉しそうな顔するんですね。まあ、それは、僕ら若いもんが通っていく関門のようなもんなんですが。

ただそれは、面白くなくちゃならないという、この人の不文律がありました。

いたずらは、ほんとにいろんなことを思いつく人なんですよ。

たとえば、松っつあんと私と私の助手が3人で冬の北海道をロケハンしてる時にですね、助手のO君が道を教えてもらうために、どこかのお店に入っていくわけですね。そのあと車に帰って来るんですけど、O君が車に近づいてくると、だんだん車がO君から離れていきますね、当然運転してるのはあの人ですけど。O君がちょっと走ると、そのスピードに合わせて車はまた離れていきます。外は吹雪です。O君がむきになって走るとまたスピードを上げます。そしていよいよ吹雪の中で点のように小さくなっていくO君を、私がロケハン用ハンディカメラで撮影するわけです。そして雪だるまのようになったO君がようやく車に入れた時には、もう息が上がって何もしゃべれません。

そういう時、この人ホントに嬉しそうなんですね。そのビデオをその夜、旅館でごはん食べながらみると可笑しくてですね、男三人の殺風景なロケハンが実になごむんです。

松園さんは、ずっと西荻窪に住んでたんですが、私はこの人のそばに住んでいれば、必ず車で拾ってもらえるから、撮影に遅れることがないと云う理由で、いつしか西荻に住むようになります。制作部と云うのは、いつも車輛部と一緒に一番に出て行って、一番最後に帰ってきます。そんなことなので、ある時期この人と一緒にいる時間がほんとに長かったんですけど、そのうちに、この人は本当にプロだなあと云うことがわかってきました。一つの事に対して、常に何通りもの方法を考えているし、いつも不測の事態に備えています。一緒に仕事してるうちに、それがだんだん理解できるようになりました。人のことを、はめてやろうとばかり、考えてるわけじゃなかったんです。

右も左もわからない若造が、自分のテリトリーにころがりこんできたから、仕方なく面倒見てやってるうちに情が移ったのか、いつしか身内のように扱ってくれるようになります。何年かして、それなりに仕事もわかってきて、どうにか一人前になったかなと思った頃、松園さんは私のことをさん付けで呼ぶようになりました。何だか照れ臭かったんですけど、そういうけじめの人でした。鶴田浩二のファンだったし。

その頃私が担当していた「小学一年生」という雑誌のCM「ピッカピカの一年生」という仕事は、松園さんがいなかったら絶対にできない仕事でした。

どういうことかと云うと、毎年、秋から春にかけて日本全国の今度小学校に上がる子供たちを撮影するんですが、だいたい半年で7カ所を回ることになってまして、収録はすべて松園ワゴン車に装着されたVTR機材で、2吋のテープで行ないます。私は飛行機や新幹線などを使って全国を飛び回っていて、ロケの日程が決まると、たとえば何月何日の何時に、石垣島の港に来て下さいとか連絡するわけです。撮影は昨日まで短パン穿いてた南の島から3日後には雪の北海道へ移動したりします。もちろん移動可能な日程を組みますが、台風もくれば、大雪も降るし、事故渋滞もあるし、フェリーが欠航することもあります。この人はいつも陸路と海路を駆使して、何通りものルートを考えていて、何手先も読んでいました。早く着きすぎたら、あっちこっちの馴染みの店で時間つぶしたりもしていましたが、12年間この仕事やって、約束の時間に彼の車が現れなかったことは、ただの一度もありませんでした。

車がパンクしたり故障したりした場合のシミュレーションも、いつも完璧にできてました。北国に行くと、よく夜中にものすごいドカ雪が積もる事がありますけど、朝起きると撮影車の周りだけは、雪掻きがしてあるんですね、誰にも気づかれず。そういうとこも鶴田浩二な感じでしたね。そういえば酔っ払うと、よく鶴田さんの「傷だらけの人生」と「街のサンドイッチマン」を唄ってましたね。深く酔うといろいろスタッフつかまえて説教してましたよね。そういう時クライアントの偉い人とかもおかまいなしですから、往生するんですけど、でも、みんなから愛されてましたから。この仕事は松園さんがいないと始まらないと誰もが思ってました。

それからもずっと、私たちの仕事に、いつもあの年代物のハイエースのロングボディを蹴って駈けつけてくだすったし、私達が小さい会社を作ったら、まだそんなに仕事のないその会社の専属車輛部を引き受けてくれて、よその仕事やらなくなって心配もしたけど、何だか意気に感じてくだすったみたいでありがたかったです。

でも、それから何年かして、松園さんは肺ガンで逝ってしまいました。還暦のお祝いしたばっかりだったから、思えば今の私と同じ歳でしたが、ビールとハイライトが大好きで、何より医者がほんとに嫌いだったから、いくらなんでも早すぎたんですけど。

 

そういえば、子供の頃、小学一年生の頃ですが、3年ほど西荻窪に住んでたことがあったんですけど、あとで聞いたら、松園さんもその頃に結婚して西荻窪に住み始めたそうです。それが、絶対遭遇してたであろう至近距離で目と鼻の先でした。不思議なご縁だったなと思います。

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この人が、この前に書いた平田さんとすごく仲良しで、絶妙なコンビで、何だか私の記憶の中では、いつも撮影現場で二人並んで座っていて、完全にセットなんですね。

よく二人していじられてたわけです。

 

 

 

 

2015年10月14日 (水)

成城のおじさん

大学時代の後輩で、今でもたまに会って飲むのは、一人だけなんですけど、この人は学生時代に私と同じ下宿の並びの部屋に住んでいた人で、F本君と云います。自慢にはならないんですが、私、大学にはあんまり行かなかったもので、大学関係の知り合いが少なくてですね。ただ、彼にはいろいろと世話になったんですね。

F本君は一学年下の別の学科の学生だったんですけど、私と違ってちゃんと大学に行って勉強するし、けっこう几帳面で綺麗好きでわりときちんとした人でした。

私はというと、部屋には酒瓶がゴロゴロしていて足の踏み場がなく、ただ寝るだけのことになっておりまして、在宅時には徐々に隣のF本君の部屋でくつろぐようになっておりました。自分で持っていたテレビもすっかり彼の部屋の棚に収まっていて、彼の方が遅く帰ってきたりすると、「おかえりー」とか云っておりました。まあそういう仕様がない先輩だったんですけど、仲良くしてくれて、よく一緒に酒を飲んだりしてたんです。

彼とはすごく縁があったんだと思います。多少迷惑だったかもしれませんが。

これからする話もそういうことの一つなんですけど、F本君には決まったアルバイトがあってですね、それは家庭教師なんですけど、世田谷の成城学園に親戚の家があって、そこにいとこの姉妹がいて、この二人に勉強教えてたんですね。当時たぶん中学生とか高校生くらいだったと思いますが、彼は勉強できる人でしたから教えられたと思うんですけど。

ま、それはいいんですけど、彼はそこのことを成城のおじさんの家と呼ぶんですが、家庭教師の日は必ずそこで晩御飯をいただいて帰ってくるわけです。それがいつもご馳走らしく、特にステーキを食べた日は帰ってくると、私にどんなステーキだったかを詳しく説明するんですね、頼んでもいないのに。

で、ちょっと頭に来てたもんで、今度、一度私を、その成城のおじさんの家に連れていくように言ったわけです。大変お世話になっている先輩ということでです。ステーキとか、しばらく食べてなかったし。

それで、次の家庭教師の日に、私、付いていったわけです、用もないのに。そして、計ったようにステーキを出していただきまして、いや、感動的に美味しかったのですが、ずうずうしくステーキをいただいているとですね、リビングの奥の方で、その成城のおじさんが電話で話をしてるんですけど、どうも仕事の打ち合わせらしくてですね、なんだか床がどうしたとか、壁がどうしたとか、建具のこととか、それで長さの単位は尺だとか寸だとか何間(けん)だとかで話してるんですね。こりゃ大工さんと話してるんだと思ってると、撮影日がいついつとか云うわけです。あ、そういえば成城のおじさんはテレビとか映画のセットを作るデザイナーという職業だって云ってたことを思い出したんですね。ステーキに気を取られてすっかり忘れてたんですけど。それで他にすることもないし、ずっとその電話聞いてたら、けっこう面白かったんです。何ミリのレンズだから、引きはこうで建端(たっぱ)はどうだとか、わりと聞いててところどころ意味わかって、たぶん自分の学科が土木建築だったり、友達と8mmとか16mmで映画作って遊んだりしてたせいだと思うんですけど。そこで、このおじさんはテレビや映画のセットを作る設計技師の親方のような人で、成城に家建てるくらいだから、きっと偉い人なんだなと思ったんですね。あとで聞いたら、今はテレビのCMの仕事がメインで、さっきの電話もCMのセットの打ち合わせだったと云うことでした。

その日はすっかりご馳走になって、お礼を申して、また来てくださいねと云われて真に受けたりしながら、帰りました。

 

そんなことがあってしばらくしてから、私は大学を卒業することになるんですけど、ちゃんとした就職活動もせずブラブラしているうちに、あるCMの制作会社でアルバイトすることになったんですね、ひょんなことでということなんですが。本当は、私、土木工学科と云うところにいたんで、建設会社とか、何とか組とか、市役所とか、そういうところに行かなきゃいけなかったんですけども。

そのアルバイト始めた時はそうでもなかったんですけど、30人くらいのその会社は、そのうちに猫の手も借りたいほど忙しくなってきました。

そんな時にわかったんですが、この会社が作っているCMのセットは、すべて、あの時お世話になった成城のおじさんが作っていることがわかったんです。平田さんと云いました。

ある時、会社の廊下で平田さんに会ってあいさつをした時に、

「なんでこんなとこでアルバイトしてるんだ、ちゃんと大学で勉強したことを生かして就職しなさい。」と、叱られました。

平田さんは一級建築士の資格を持っている美術デザイナーだったんです。

でも、私はその後ずっとこの会社で、制作部としてアルバイトを続けることになります。

それからは、撮影現場そのものが、私の職場となるのですが、その現場には、ことごとくこの平田さんがいらっしゃるわけです。こっちは駆け出しですから、現場でありとあらゆる失敗をするんですが、それらを全部、平田さんに見られてしまうことになります。なにかと助けていただくことも多くてですね、まあ頭が上がらなくなるんですね。こっちの弱点もようくご存知で、私が高い所が苦手だとわかってて、仕事でスタジオの天井に上がらなきゃいけなくなると、必ず私を行かせますね、嬉しそうにね。

いつかステーキご馳走になったお宅にも、打ち合わせとか、お願いした図面をもらいにとか、うかがうことも多々ありました。

撮影中はまず一緒にいますし、先述のF本君の結婚式にも並んで出席いたしました。

 

そうこうしているうちに、7年ほどして私も仕事覚えてプロデューサーという立場になりますが、やはり美術は平田さんにお願いすることが最も多かったです。一人前になったばかりで勝負かけなきゃいけない仕事があって、東京で一番大きなスタジオに、ものすごく大きな船のセットを組むことになったんですね。時間もなくて予算もきつい中、これがどんどんえらいことになってきて、スタジオにセット作ってるところを見に行ったら、あんまり見たこともないような太い鉄骨を溶接してて、スタジオが鉄工所みたくなってて、なんか立ち眩みしたの覚えてます。

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まあ、ちょっと語り草になるような船を作っちゃったんですね。でも、おかげさまでCMは狙い通りのものができて、山崎努さんが船で外国に旅する喉薬のCMだったんですけど、すごく評判にもなりました。当時、広告批評の島森さんが朝日新聞のCM評でほめてくださって嬉しかったのを、今でも覚えてます。

ただ、あとで聞いたんですけど、セット作ってる時に、あの温厚な平田さんが撮影所の大道具さん達を怒鳴りとばして大喧嘩になりそうなことがあったらしくて、ずいぶんと無理な仕事を頼んでしまったんだなと、申し訳なく思い、そっと手を合わせたことがあります。でも、そのことは最後まで私にはおっしゃいませんでした。

それから何年かして、仲間たちと小さな会社を作って独立した時も、いつも大変な仕事を楽しそうにやって下さり、何度も助けられました。そして、これもいろいろ大変だったんですけど、私達の会社で映画を作ることになった時も、当然のように引き受けてくださり、ほんとに心強かったです。考えてみるとこれほどお世話になった人も他にいません。

そのあと、病気になられて入院され、2003年にひっそりとお亡くなりになりました。73歳ですからまだまだ活躍できたのに、本当に残念でした。お別れの会は、平田さんとよく仕事をした日活のスタジオでしましたが、たくさんの人で広いスタジオが一杯になりました。

亡くなった時に思ったんですけど、ただただお世話になっただけだったです。子が親にされるようにです。考えてみると親と同じ年代なんですけど。

しばらくして、ステーキを作って下さったやさしい奥様もなくなりました。

たまたま、お宅におじゃまして、不思議なご縁で長いことお付き合いさせていただいたけど、なんであんなによくして下さったんだろうかと思います。

これもあとで聞いた話ですが、私がアルバイトから正社員にしてもらった時も、会社の偉い人に平田さんがずいぶん推して下さったそうなんです。そんなこと一言も聞いてないですし、いつも俺には正業に就けと云っていたのに。

何一つ恩返しもできてないままです。こういう人のことを恩人と云うんですね。

 

先日、久しぶりに某食品会社の立派な部長さんになっているF本君と飲んで、成城のおじさんの話をして、つくづくそういうことを思いました。

ただ、平田さんは口は悪かったなあ、思い出すと、そういうとこがまた懐かしいんですけど。

Hiratasan

2015年9月18日 (金)

寝る力

この頃少し涼しくなって思うのは、今年の夏の盛りの暑さは尋常でなかったなということと、あの頃から考えると最近はよく眠れるなということです。梅雨が明けてからしばらくは熱帯夜で、ずっと寝苦しかったですから。

エアコン掛けたりもするんですけど、やっぱり若い頃に比べると、寝る力が衰えてるというか、寝るのも能力というか体力なんだなとつくづく思えますね。若い時は、暑かろうが寒かろうが、どんな場所であろうが、寝るとなったら、寝るのに1分とかかりませんでしたからね。あれ何だったんでしょうかね。

いまは、わりと寝る間際に目が冴えてしまったり、夜中に目が覚めて眠れなくなったりということがたまにあります。たぶん歳のせいなんでしょうね。昔どんな時でも手品のように寝てしまえた先輩が、いまは睡眠導入剤を持ち歩いてたりしますし、そういうものなのでしょうか。かつては、それに加えて深酒でもしようものなら、ものすごく深いところの眠りに落ちていったものですが、いまはあんまり深酒して寝るとうなされたりしますからね。若い時はあなた、酒飲まないで寝るとうなされてたんですから。

あの頃、逆に寝ないで起きてる能力もすご高くて、だいたい2日や3日寝なくても平気でしたし、わりといつも睡眠時間が少なかったから、いざ寝ると眠りが深かったこともあるかもしてません。

なんかかつては、私達の仕事してる人は、今もそういうとこありますけど、寝ないことが自慢なところがあって、徹夜すると誇らしいみたいなとこがありましたね。

だいたいこの仕事始めた時に面接で、

「徹夜とかしても平気?」と聞かれたので、

「学校の課題で設計図面を書いた時に、3日寝なかったことがあります。」と云ったら、

「君、図面書いてる時はただ座ってるんでしょ。俺たちの仕事は走り回って3日くらい寝ないでいることがよくあるから。」

などと自慢げにおっしゃってましたから、鼻広げて。確かにその通りでしたけど。

あと、業界の超売れっ子クリエーターで、寝ないことで有名なS木さんという方は、

「今、寝るのはもったいないです、死んだらずっと寝れますから。」

とおっしゃったです。まあここまで行くと本物ですけど。

油断して寝てしまった失敗は枚挙にいとまがありません。中央線の最終で八王子のあたりで起こされて茫然とするのも一度や二度ではありませんし、東横線で渋谷と桜木町をどう考えても2往復して目が覚めたり、いろいろあります。

ずいぶん前ですけど、先代の市川猿之助のファンだったもので、歌舞伎座に芝居見物に行った時に、ちょうどその日が徹夜明けで、昼の部を観に行ったんですけど、まったく寝てなかったんですね。何とか間に合ったし、仕事が終わった開放感で、桟敷席でウイスキー飲んだのがいけなかったんですけど、踊りの部が始まったとたんに、眠りに落ちたんです。言い訳になりますが、お芝居の部の時はストーリーとかあるし、全然眠くならないんですが、踊りの部は、普段からうとうとしがちなんですね、わりと。

ただこの時は、崩れ落ちるように寝てしまったみたいで、猿之助さんが花道を去っていく時に、桟敷で寝崩れている私の方を、思いっきり睨んで行かれたそうです。そうなのです、桟敷席は花道のすぐ横だし、普通の席より一段高いところにあるから、非常に目立つんですね、ヘタすると照明もあたっちゃったりしますから。大失敗でした。

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いわゆる慢性寝不足状態なので、いざ寝てしまうと、恐ろしく寝てしまうこともありました。やはりその頃に、ときどき仲間と京都に遊びに行くことがあったんですが、数日寝ないままで着いたことがありまして、泊り先は祇園のおばあさんがやっておられた小さな宿でしたけど、いわゆるチェックインとかチェックアウトとかもなく、好きなだけ寝て、起きたら湯豆腐にビールに熱燗という天国みたいなとこで、そこで17時間ほど寝続けました。宿の方もちょっと心配になって何度か覗いたと言うとられましたが、あられもない寝姿だったと思います。

今はとてもそんな芸当はできません。人間あきらかに、寝る力というのがありますですね。これは他の体力と同じで、年齢に関係があります。

この前、うちの息子が夜ふつうに寝て、次の日の夕方まで寝てましたが、いいかげんにせえとあきれつつ、ちょっと、うらやましくもありましたな、若さが。

 

 

2015年8月27日 (木)

貯金と私

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この前、お金のことを考えることがあって、ふと思ったんですけど、今まで60年も生きてきて、なんか計画的に、自分の了見で貯金というのをしたことがないなあと思ったんですね。

貯金というのは、字のとおりお金を貯めることで、何か欲しいものを手に入れるためとか、何か夢をかなえるためとか、生きていく上で、困ったことがあったりした時のためとかに、普段の暮らしの中で意図的にお金を残しておくことなんですけど、そういうふうに思ったこともないというか、18の時から自活始めて、学生の時は親に仕送りもしてもらってましたけど、そんなに裕福な収入があったわけでもなく、お金とは成り行きで付き合ってきたというか、持ってるお金は衣食住でだいたいなくなるし、何かそれ以上必要が生じたときには、何らかの手段で借りるんですけど、そんな大金が必要になることも、そんななかったんですね。別に強がるわけじゃなく、あんまり高価なものに興味がいって、どうしても欲しくなるということもなく。

この仕事始めてからは、公私の境目がない状態で働いてたし、自分のお金の使い道をじっくり考える暇もなく、でも、気が付くと月々のお給料はいつもなくなってはいるんですね。食べるものは、働いてる時間には付いてくるし、特に値の張る衣装を着るような仕事でもないし、部屋は帰って寝れるだけのスペースがあればいいわけです。時間のかかる趣味は持てないし、お金のかかる女の人と付き合う甲斐性もないし、ギャンブルはとっくに才能のなさに気付いてやめてるし。

強いて言うと、人よりも使ったとしたら飲み代ですけど、そんなナポレオンとか高い酒飲むわけでもなく、量だけは人の倍くらい飲んでるけど、分相応な値段ですよ。だいたいツケだし、手酌ですしね。 

まあ大した収入じゃないんだけど、なんとなくあるだけはきれいに使ってしまう生活が何年も続いたわけです。大きな借金をする理由もないし、それができる信用もないし、たまにツケが残ったまんま行かなくなった飲み屋を踏み倒すくらいで、これもたいした額でもありません。

その頃働いていた会社では、給料もボーナスも現金でいただいてたんですけど、それを持って銀行に預けに行ったことはなく、もらうと借金返したりツケ払ったりして、そのまま給料袋や賞与袋から直接お金払ってるうちに、自然と無くなるわけです。まあそのくらいしかいただいてなかったということでもありますが。

ただ、漠然と、ずいぶん働いてるわりには、お金が貯まらないなとは思ってはいたんですね。で、会社の偉い人にそのことを云ったら、まあ好きでやってる仕事なんだからと云われ、それはそうかもしれないけど、それはまた違う話なんじゃないかと思ったんですね。

そうこうしてるうちに、その会社から独立して、自分達で新しい会社を始めることになったんですが、そうなると現金なもので、会社の将来のために、お金を貯めねばと考えますし、いたってまじめにそのことを考えるようになります。

それと、個人的には、会社を作るのと時を同じくして結婚したんですね、34歳でしたが。

で、それまで一人で住んでた6畳間に奥さんと住み始めて、ひと月ほどしたときに、まあ引っ越しもしなきゃいけないし、だいたい私に貯金というものが、いくらくらいあるかという話になったんですね。この話題は避けて通りたかったのですが、そうもいかず、

実は私の預金通帳に入っていたお金の金額は、マイナス16万円だったんです。マイナスというのは、当時20万円までは銀行が自動的に貸してくれるシステムになってまして、ま、そういうことだったわけです。

このことを知ったあと、うちの奥さんは、多分5分くらい床を叩きながら笑っておりましたですね。

云うまでもなく、新婚の我が家で私が経済を預かっていたのは、この1ヶ月間だけで、それ以後はずっと奥さんが経済を握っております。ちなみに、この時、奥さんの個人的な預金高がいくらくらいあるのかと質問をしたのですが、それは全く教える必要はないと言われました。それは確かにそうですが。

それから収入の中から、貯金ということをする習慣が始まったのですが、相変らず私は具体的なことは、ほとんどわかってない状態なので、自分で貯金しているという実感はないままです。

かれこれ25年ほど経ちますが、いずれにしても、貯金とか貯蓄というものに関しての才能と云うものは、ずっとないままの人間であることは、云えそうであります。

2015年6月 5日 (金)

情報機器昨今

“スマフォ”というものが、ここまで世の中に浸透してしまうと、電車に乗ってる人がほぼ全員スマフォを覗き込んでる風景も、だんだんと慣れてくるようなもんですが、

でも、ちょっと冷静に考えてみると、相当異常な風景ではあります。

私も持っておりますが、あのちっちゃい中に、電話機能からメールから住所録にインターネット、地図にカメラにスケジュール表に、ゲームやら音楽まで入っており、それに私なんぞは、その機能の10分の1すら使ってない人ですから、スマフォ好きな人が四六時中離れられなくなる理屈も分からなくはないんですけど。

それだけの機能をポケットに携帯できていれば、便利といえば便利なんだろけど、それがイコール快適なのかというと、果たしてどうなんだろかと思うわけですね。

だいたいあのメールというのは、便利なもんで、いつでもどこでも世界中の相手に届くんですよね。LINEなんかは、先方が開けたら、そこで既読ということが分かるし、まあ多くの場合、送ったとたん伝えたいことが相手に届いたということになる訳です。でも受け取る方は、この話聞かなかったことにしたいなと思うこともある訳だし、うん聞かなかったことにしようみたいなこともある訳です。

電車の中でメール読んだり打ったりしてる人たちが皆、この情報が今受け取れて本当によかったと思っているのか、だいたい、まあいつでもいいような話がほとんどなんじゃないかと思っている私は、ひねくれ者なのでしょうか。

仕事の話であれば、職場に着いてから順番にお返事すればよいし、遊びの話ならもっとそうだし。だいたいいつでもどこでも伝わっちゃうから、歩きながらメールして、人にぶつかってる奴がいたりするんじゃないでしょうか。

 

昔の話になって恐縮なのですが、私達が世の中で働き始めた時には、携帯電話もなく、FAXすらなく、かろうじて電卓が普及したばかりの頃で、昭和ですけど。通信手段は、卓上電話と公衆電話と郵便でした。

電話で話したい相手が、その電話のそばにいるとも限らず、その場合は相手の居場所を突き止めて、そこに電話をするか、折り返しの電話を待つかなんですけど、こちらもあっちこっち飛び回ってることもあり、間が悪いとすれ違い続けたりしてました。

とにかく込み入った話のときには特に、会って話すのが基本でしたね。なかなかうまく会えない時は、あらかじめ手紙を書いて相手に届けておいてから、電話で話すこともよくありました。

夜になると事務所も閉まって、お互いの居場所もだんだんわからなくなってくるので、私が最後に立ち寄ることになっていた「バルコン」というバーでは、何件かの私への伝言と連絡先がコースターの裏側に書いてあったりしました。

ともかく、相手に情報を伝えるには、今よりある程度時間的な間があったわけですね。

そうこうしてるうちに、いつの頃だったか、FAXが登場します。

これはなかなか強力な新兵器でして、文字や画がそのまま、解像度はともかく、届くわけです。ただ、普及し始めの頃は、送り手が送ったつもりになっていても、きちんと受け取られてなかったり、よく読めなかったりと、完全なツールになっておらず、返ってコミュニケーションの齟齬をきたすこともありました。

これに関しては、送った側が送っただけで完全に意思が伝わったと思いこんでしまうところが問題なわけで、言いたいことはこれで全部送ったかんねみたいな。このあたりは今のメールにもそういうところがあります。

 

思えば、すぐに相手につながらなくてイライラしたこともあったけど、すぐにつながるということが当たり前のことではなかったから、どうせそんなもんだと思ってたところもあって、伝える中身をもう一度考えてみたり、整理してみたりして、少し余裕ができたり、悪いことばかりでもなかったかなと。

だいたい早く伝わってうれしいことはあると思うけど、情報というのは、知ってしまえば面倒なことも多いわけで、ほんとは少し間のようなものがあった方が楽なんじゃないかと思います。

それに本当のおおごとと云うのは、なんだかものすごいスピードで伝わるもんですよね。経験的に云うとです。まあこういうこと云うと身も蓋もないんですけど。

しかし、こういう高度な情報機能を持った世の中で、ビジネスマンやったり、恋人同士やったりするのも、考えようによっては大変なわけで、ハイ伝えましたよ。ハイすぐに対応してね。が、当たり前になってるわけですよね。なんか、昔は行方くらましたり、音信不通になったりするのも芸のうちみたいなとこもあって、まあ、ある意味問題を先送りするだけなんだけど、でも、先送りしながら、その問題とだんだんに向き合ってたとこがあります。今はそのあたりがなかなか難しいですよね。

ただ、色々見てると、それでも、なんだかんだ問題を先送りしたり、煙に巻いたりしながら、物事をすすめていく術を持ってる人は、やはりいるわけで、これはいつの時代も追っかけっこなのかなとも思いますが。

 

でも、初めて使った携帯電話って、1980年代の終わり頃だったけど、でかくて重くて、ホントつながらなかったなあ。街中を歩きながら話してて、角曲がると切れちゃったりしてましたね、いま思えば。

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2015年5月 1日 (金)

社員研修と、尊敬するディレクターのはなし

4月は新学期でもあり、会社にも少し新人が入ってきて、なんかあらたまった気持ちになるもんですね。それに、この会社は、けっこう若い人の割合が多いので、みんなして一学年ずつ進級するみたいなとこもあります。会社の仕事は主に、広告の映像を作ることなんですけど、今年は、新人の研修は例年通り山登りに行くとして、2年目3年目の若手社員にも社内で研修やりましょうということになったんですね。

で、その講師には、自ら名乗り出た社歴9年の新人プロデューサーのミナミという女子があたることになりまして、この人、わりとちっちゃくてパッと見、子供っぽく見えるんですけど、仕事はけっこう厳しい人で、後輩達からは一目置かれているみたいです。この人が5月に第一子出産予定で、しばらく出産育児休暇に入るので、その前にひとつ、会社の若手たちに、是非言っておきたいことがあるということで、まさに身重の体で、休日の丸一日、8時間の渾身の研修をおやりになったそうなんです。

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この講習で使うためのテキストを、前もって彼女が作ったんですけど、これがなかなか良くできてるんですね。ほんとに同業他社に売りたいくらいのもので、これも渾身のテキストになっております。

このテキストを作る少し前から、彼女は社内でいろんな取材を始めまして、先輩から若い人たちに伝えたいことなんかをインタビューしたり、いろいろな形でテキストのネタを集めたんです。

私んとこにも、質問状が来て、これには真剣に答えなきゃと思い、まじめに考えました。項目は4つあって、1つ目は、2,3年の若者へというテーマでメッセージをということで、自分の若かった頃を、はるか昔ですが、思い出しながら書きました。2つ目は、自分の仕事のベスト3をということで、これも膨大な記憶の中からなんとか選んでみましたが、なかなか難しかったですね。3つ目は、絶対観ておいてほしい映画ベスト3ということで、これも大変でしたが、古典からがいいかと思いまして、1.東京物語2.七人の侍3.アパートの鍵貸します などと書きましたね。

それで、4つ目がまた難問だったんですけど、今まで仕事したディレクターの中で、1番好きな、もしくは尊敬している方、という質問でして、これはほんとに多くの方がいらっしゃるわけです。ちょっと思い出しても、どの方も表現に関して、それぞれにユニークな面白い考えを持ってらして、本当に優秀な人たちで、私なんかはものすごく影響受けてるわけです。なかなか1番は選べないんですね。

それでいろいろ考えてたんですけど、ある人を思い出しました。

駆け出しの頃、前にいた会社で、私が一番若い制作部だったんですけど、そこにCMディレクターになったばかりの6歳年上の先輩がいました。その会社で最も制作費の安い仕事をよく二人で作ってたんです。

この人からは、いろんなことを教えていただきましたし、

「おまえ、若いのにほんとにいろんな目に会ってて面白いな。」

などと云って、よく人の失敗話を聞いて笑ってくれました。

私は、彼のことをすごく尊敬していましたし、彼が優秀な演出家であることもわかっていました。三浦英一さんと云います。

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6年ほどして、私がプロデューサーの仕事を始めた時には、彼はすでに会社で最も忙しいディレクターになっていました。その後も、実にいろいろな仕事を一緒にしましたが、そのたびにレベルを上げていたと思います。それからしばらくして私はその会社を辞めましたが、いずれまた仕事をしましょうと云って別れました。

それが1988年の終わり頃でしたが、1992年に彼は突然亡くなりました。いい仕事をたくさんしていて、次々に依頼が殺到していて、どんな仕事も手を抜かない人でしたから、過労だったと思います。その時44歳でした。

20何年も前のことですが、あの事を思い出すと、何ともいえぬ悲しさと悔しさがにじみます。

その翌年だったと思うんですけど、私は初めて市川準さんと仕事をしました。その時はすでに超売れっ子ディレクターで、映画も何本か撮っていらっしゃいました。私は最初少し緊張しましたが、やがてすぐに打ち解けることができ、そして、だんだん仕事をしていくうちに、なんだか懐かしい感じがしたんですね。

市川さんは三浦さんに似てたんです。顔が似てるんじゃないんですけど、二人は同じ年に生まれていますし、異常に映画が好きですし、二人ともコンテを描くのがめちゃくちゃうまいです。ディレクターとしての成り立ち方が近いんだと思うんですね。市川さんとお酒を飲んだりしていると、私の一方的な感覚ですが、なんか不思議な気持ちがしておりました。それからはご縁があって、いろいろな形で長くお世話になりましたが、結局そのことをお話しすることもなく、市川さんも、2008年に59歳で突然亡くなってしまわれました。

いつだったか、市川さんがとても好きな映画だからと云われて、1970年のサム・ペキンパーの「砂漠の流れ者」のビデオを下さったことがあったんですが、三浦さんも1969年のサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」が大好きで、この映画の出演者たちを暇さえあれば絵に描いてたのを思い出しました。

二人とも、驚くべき本当に寝ない人で、亡くなる直前まで仕事をしていたことも、共通することでした。

 

CMディレクターの質問をされたことで、想いだしたことでしたけど、この話を若い人にしてみたいと思ったんですね、ちょっと。

 

2015年2月26日 (木)

高校3年の時につくった8mm映画

ちょっと前のことなんですけど、正月の3日に高校3年生の時の同窓会があったんですね。私、考えてみるとこれまで同窓会というものに出たことがなくてですね、中学までは転校が多かったもので、幼馴染とはだいたい音信が途絶えてるし、高校だけは消息のわかっている友達が何人かいるんですが、卒業してからずっと故郷を離れていて、同窓会の知らせを受けても、出席できたためしがありませんでした。今年はみんなして60歳になることだし、都合を合わせるから帰って来いと友達が云ってくれたので、そこに合わせて帰郷しました。地元にいる同級生は、たまに集まってるようなんですけど、私はほぼ40年ぶりで、いささか緊張しました。

この日集まったクラスメイトは、10名ちょっとで、ほとんどの人が卒業以来の再会です。一人一人じっと顔見て名前を名乗ってもらって、すぐに思い出す場合もあるし、なんかじわーっと思いだしてくる場合もあって、でも、最終的には全員思い出すことができました。まあみんな年取ってますし、60歳ですから、何だか不思議な体験です。

私以外のみなさんは、お互いたまに会っているようなので、自然と私が卒業してどうしていたかみたいな話をすることになるんですけど、そうはいっても40年間の話を一気にするわけにもいかず、ところどころということになります。

あとは、みんな高校生に戻って、あの頃どうしたこうしたという思い出話に花が咲くんですが、これも人によって、よく覚えている話とそうでもない話があったりして、なかなかかみ合わなかったりもします。40年経ってますから。

そもそも高校の3年生という時期は、受験があったりして忙しいのと、授業のカリキュラムも、理系と文系とかに分かれていたりで、なんかまとまりのいい時期じゃないんですよね。

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でも、なんだか色々に話してるうちに、共通に盛り上がる話題が出てきたんですね。それは、高3の夏前だったか秋口だったかに学園祭があったんですけど、うちのクラスは8mm映画作ったんです。けっこう大変だったし、全員参加で作ったんで、みんなそれぞれに思い出があるわけです。

誰かが、私が監督をやったんじゃないかと云ったんですけど、どうもそうではなくて、だんだんと思い出してみると、なんかオムニバスのような作りになっていて、いくつかの話をみんなで手分けして撮影したように思います。自分達で、出演して、撮影して、編集して、一本につないで、音つけて、たぶん音は音で、オープンリールのテープに入れて、上映は画と音をよーいドンでまわしたんだと思います。

撮影機材は、クラスメイトの誰かのお父さんが、8mmのカメラと映写機を持っていて、それを借りたらしく、音の方は、皆のオーディオ機材やレコードをかき集めてやったんだっけか。

だんだん思い出してきました。

そういう素人映画なんだけど、いざ一本の映画を完成させることになると、大変は大変なわけです。連日学校で夜中まで作業していて、進路指導の先生から、受験の大事な時に何考えてるんだと、説教されたこともあったようでした。わりと受験校だったし、なんとなく思い出してきましたが。

そんなことをワイワイ話してるうちに、少しずつ自分がやったことも蘇ってきました。私が映画を作ろうって言い始めたのかどうかは、わかんないんですが、どうも企画書のようなシノプシスのようなものを書いた記憶があるんですね。

で、テーマは「自殺」だったんです。

だけど、繊細でナイーブな思春期の高校生が、何か思いつめてこの題材をとらえたということではなく、茶化してるわけじゃないけど、相当そのことを軽くとらえていて、どっちかっていうとモンティ・パイソンみたいなことがしたかったように思います。

この年、1972年でしたが、

1970年11月には、有名な三島由紀夫氏割腹自殺があり、1972年4月には、川端康成氏のガス自殺もありました。はやりと云うには不謹慎ですが、そういった大事件に影響されたことはあったかもしれませんね。私、映画のなかで割腹シーンを演じたと思いますし、ナレーションもやった気がします。アサハカ。

 あの映画、その後どうなったんだろうねと云う話になりました。映写機とカメラを提供してくれた級友がまだ持ってるんじゃないかという話も出ましたが、正確には、42年と数カ月経ってますから、フィルムは酸化して風化してるんでしょうね。

もし残っていたら皆で見たいねと云う仲間たちですが、60歳のおじさんやおばさん達が集まって、時をかける少年少女になって、高校時代の8mm映画を見つめている姿は、ちょっと不気味ではあります。

でも、怖いもの見たさでちょっと観たい気もするかなあ。

 

2015年1月22日 (木)

お酒は20歳を過ぎてから

私事ですが、この前、倅が成人の日を迎えまして、親として何をするわけでもないのですが。その日、彼はネクタイを締めて、出かけて行きまして、仲間と騒いで、夜中に帰ってまいりました。

娘の方は、4年前に、振袖着たところを、写真に撮った記憶がありまして、うちの子は二人とも成人になりました。歳月を思えば、20年ですから、かなりの時間を要しているのですが、男親というのは、肝腎な時にはおらなかったりもして、何だかあっという間な気もします。

この国は少子化が進んでおり、この先、18歳で選挙権を、ということにもなってきそうですが、その場合、18歳で成人ということになるのでしょうか。武士の時代の元服を思えば、昔はもっと早かったわけで、それはそれでありかと思うんですが、何をもって大人とするかというのは、多分にそれぞれの気分的なものではあります。

自分が20歳の頃には、大人になんかなりたくないぞ、とうそぶいており、その割には、10代の頃から酒もたばこもバリバリにやって、粋がっておりましたから、世間から見ると、めんどくさい若造だったように思います。

今の若者も、20歳前から酒を飲んだりしていますが、倅や娘を見ている限り、多少失敗はしていますが、たいしたことはないですよね。

自分達の頃は、男子、大人になったら、酒、煙草という時代でしたし、他に娯楽もあまりありませんでしたから、何かっていうと酒飲んでましたね。筋金入りに酒飲む大人も、まわりにいっぱいいましたし。

でも、なんであんなに飲んでたんでしょうか。若い頃の飲み方は、本当にどうかしていましたですね、我ながら。

学生の頃はだいたい貧乏してますから、そんなには飲めないんですけど、仕送りが来たり、友達に仕送りが来たり、バイトのお金が入ったり、博打に勝ったりすると、ドカンと飲むんです、まあその程度です。

働き始めると、多少お金の融通は利くようになるんですけど、自由になる時間がなくなって、短時間でのストレス解消としては、なにかと飲むことだったりして、寝る間を惜しんで飲んでましたね。

夜中に飲める場所を探しては、明け方まで飲むわけです。仕事場のあった新橋は、だいたい終電には店が閉まってしまうので、原宿や六本木や青山や新宿あたりで、引っ掛かっていることが多かったです。仕事の流れで、一緒に仕事をしている人たちと、飲んで語ったり騒いだりなのですが、誰もいない日は一人でもどっかに引っ掛かってました。まあこうなると、一種の習慣ということになります。

それに、自分は若い時から、なぜか酒と船酔いにはやたら強くて、飲んでもなかなか酔わないんですね。そこで、けっこうなピッチで飲むわけです。 空腹で酒飲んだ方が効くんで、食べ物は食べません。私の席だけ割り箸が割られていないということがよくありました。このあたりから、ある種、悪循環になって、ますます酒が強くなるわけです。

そんなことで、やたらと強い酒を飲むようになりまして、バーボンなら、ワイルドターキーやI.W.ハーパーをロックで、ラムならロンリコ、ジンならボンベイ・サファイア、ウォッカは、スミノフやストリチナヤなんかで、唐辛子入りウオッカというのもあったなあ。ともかく、度数の高いのをガンガンいくようになります。

基本的に昼間は働いていて、だいたい夜遅くまで働いてるし、出張もよくあって、休みの日も働いてることが多かったし、仕事が終わると、たいてい酒場にいましたね。寝不足が続くと、そのままどこかのバーで眠ってしまうことがよくありました。あちこちのバーにツケがたまります。

そういう暮らしで、タバコは日に40~50本吸ってましたから、ほんとに不健康でした。若かったとはいえ、それで風邪ひとつ引きませんでしたから、よっぽど身体が丈夫だったんだと思います。一日メシ食べそこねて、そのまま夜バーで飲んでたりすることもあって、その頃、ビタミンとかも酒から摂ってるんだという冗談も笑えませんでした。病気はしませんでしたけど、痩せてましたね、顔色も悪かったですし。

そんな1990年頃でしたか、中島らもさんという作家が、「今夜、すべてのバーで」という本を出したんですけど、これがアルコール中毒を題材にした物語で、らもさんが実際にアル中になった体験が元になっているので、すごく描写がリアルな小説で、本としてはよく書けてるんですけど、これ読んだ時すごく怖かったんですね。

で、気が付くと、私も30代半ば過ぎてきてるし、ちょっと反省したんですね。調子の悪い時は手が震えることもあったし。思えば、酒のことではそれまでにいろいろ失敗もしてるし、ここには書きませんけど。酒飲むのは飲むとしても、もうちょっと何とかしなきゃと思ったわけです。

もっとも、もうすでに人の一生分の酒は飲んでしまった気もしますし、もう飲まなくてもいいようなもんですが、煙草もやめたし。ただ、10代から飲み続けてここまで来ると、酒やめた人生ってどんなもんなんだろうか、ちょっと想像つかないところがあるんですね。昔みたいに、酒飲まないで寝ると、すごく恐い夢見たりすることはないですけど。

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まあこれからは、美味しくお酒をいただくということをテーマにして付き合っていこうかと思っております。お料理に合わせたりとか。

もういい歳ですから、ほんとに。

お酒は20歳を過ぎてからって言いますけど、20歳過ぎたからといって、お酒の飲み方は気をつけましょうよね。

2014年8月13日 (水)

やはり暑い 広島篇

えー、毎年この時期になりますと、毎度同じ話で恐縮でございますが、いや、暑いですな。

今年は私、還暦ということもあり、いろいろな方からお誕生日のお祝いをしていただきました。この場を借りましてお礼申し上げます。

しかしながら、7月28日とは、ずいぶんと暑い日に生まれたものだと思います。60回もやってきましたこの誕生日、はじめのころはよく覚えちゃいませんが、覚えてる限り、たいていの場合、酷暑です。まず、梅雨は明けてますし、だいたい晴れ渡った青い空に入道雲なぞありまして、蝉しぐれですな。思えばうちの母親も、ずいぶんと暑い日の出産で大変だったと思います。この場を借りてお礼を申します。昭和29年といえば、エアコンはないですし、一人流産した後の初産ということで、広島の実家に帰ってのお産だったそうで、この実家の縁側の横の畳の部屋で生まれたんですが、この部屋がまだ残ってるんです。考えてみるとすごいことですが。

でまた、広島の夏というのがスペシャルに暑いんです。瀬戸内の夕凪というのがありまして、海風から陸風に代わる無風状態を云うのですが、夏はこれがかなり長時間に及ぶんです。いわゆる夕涼みというのができない。私が広島に住んだのは、中学1年の2学期から高校卒業までなので、6年の経験でしかないですが、どの年も暑かったです。

もっとも暑い、夏のピークは、夏休みが始まる頃の7月の20日くらいからお盆過ぎの約一カ月です。私が生まれた年の9年前の昭和20年の夏のさなか、8月6日に広島には原爆が投下され、そして15日に終戦を迎えます。私の生まれた夏にはまだまだその記憶が濃く残っていたと思います。

最近、爆弾を投下したB-29の最後の乗組員が亡くなったと聞きました。その人のインタビューもありましたが、アメリカの記憶はあくまでも飛行機から見た空からの風景でしかありません。このことを語るとき、やはり地上の生き物として体験したことを記憶としてきちんと残さねばとおもいます。

そんな事をかんがえながら、しばらく前に読んだ重松清さんの「赤ヘル1975」という小説を思い出しました。いい本だったんです。

1975年、広島カープが1949年の球団創設以来の初優勝をする年、原爆投下からちょうど30年後という年の、ひと夏のお話です。この年の春、東京から広島に 転校してきた中学一年の少年が主人公で、広島市内のカープファンの同級生たちとの間に芽生える友情や、原爆とのかかわりの中で暮らす街の人々の悲しみなどを知ることで、広島というある意味特殊な街を、少しずつ理解し、溶け込んでゆく様子が描かれています。

私は、1975年ではありませんが、1967年に中学一年生で、広島に転校してきた少年でして、その前にさんざん転校もしていて、この小説に描かれている少年、マナブ君の気分がとてもよくわかりました。

個人的には、まさにあの頃を思い出す気持ちでした。

私は、広島に5年半ほどおりましたが、この13歳の主人公は半年ほどで広島を去っていきます。広島でいろいろな体験をし、原爆のことも知り、成長をし、せっかくなじんできた頃、カープがついに優勝を達成したところで、また転校してゆきます。この街に来ることになったのも、去っていくことになったのも、お母さんと離れて暮らすことになったのも、父一人子一人で暮らしているマナブ君の父親が原因でして、悪い奴じゃないんだけど、なんていうか調子がよくていい加減な人で、マナブ君は振り回されています。この勝征さんという父親の人物の描き方とかが、重松さんは相変らずうまいです。

私が転校した時もそうでしたが、この街の同級生は全員がカープファンで、まあ街中の人がほとんどそうなんですが。この球団は、この街の復興の象徴でした。1975年、私はすでにこの街を離れていましたが、カープの初優勝がこの街にとってどれほど嬉しいことだったかは、知っていました。

多感な十代を過ごした、広島のべた凪の夏を思い出しました。

作者のプロフィールを読んでたら、マナブ君の設定は重松さんと同級生ですね。

1975年に中学一年生、重松さんはどう考えても、カープファンですね。

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2014年4月 4日 (金)

走るということ 2

Sakura


今年の桜は、本当にパッと咲いたというか、あんまり一分咲きとか二分咲きとかがなくて、蕾から突然花になったような印象でした。なんだか大雪が降ったりして、けっこう寒い冬だったけど、桜には、一日で冬から春にしてしまう力がありますね。すでに冬の記憶は遠ざかっていきます。

でも、今年も、年が明けてから桜が咲くまで、早かったです。そして、去年の桜から今年の桜までも、なんたる早さか。

去年の今頃は、桜並木をもくもくと歩いていました。きっかけは色々あったのですが、やってみるとこれが意外と続いたんですね。だいたい週に3日くらい、歩く距離も少しずつ増えていきました。初めは、4~5kmのコースからでしたが、だいたい1時間で6kmを歩くようになり、だんだん調子が出てきて、7~8kmになってきました。去年も夏は暑かったので、なるべく朝早く歩きました。そのうち秋のよい季節になり、歩きやすくもなってきて、これはひょっとすると一年続くかもしれないなと思えてきました。少し体重も減ったりして、たいしたことないですけど。

そして冬が来ました。しかし、どうもそのあたりから、ちょっと飽きてきたんですね。性格的なことですが、やはり仕様のないことなのでしょうか。一年続いたら、自分を褒めてやろうと思ってたんですが、ちょっと嫌な予感もしてたので、家族や周りの人たちにも、あんまり言ってなかったんですね、大げさには。もうすぐ一年とか。

うーん、これはいかんなとなった時、考えられないことですが、ふとあることを思いついたのですね。ちょっと前の自分には信じられないことですが、

「歩くのに飽きたら、走ってみたらどうだろう?」

ということなんですけど、何かそれくらいのことしないと、多分やめちゃうなと思ったんですね。ただ、走ったとたんに、すべてやめてしまうことも充分に考えられるのですが。

毎年、東京マラソンを完走して、走るごとにタイムを上げている会社のO桑君に、是非走ってみるように煽られていたこともありまして。

ともかくやってみたわけです。これがつらいんですね、ホントに。いや、本当にゆっくり、歩くように走ってるんですけど、歩くのと走るのは全く違うんです。最初に歩いてた5kmくらいの長さをゆっくり走ってみたのですが、だめだ、もうやめようと、何度も思います。この賭けはやはり間違いだったかなと思いました。ただ、目標のコースをどうにかこうにか完走するとですね、何というか不思議な達成感が芽生えるのですよ、これが。一年ちかく歩くのを続けたことで、多少体力もついたのかもしれません。我ながら、驚いたことに、それからちょっとずつ距離を伸ばし始めたんですね。

いまだにつらいです。特に、走り始めてしばらくの間が、一番しんどいです。だけど、後半はちょっとだけ楽になるんですね。今、1時間で8km位はいけるようになりました。調子こいちゃうと、1.5時間で12kmいっちゃうこともあります。

昨日、朝の6時から善福寺川の桜並木をぬけて8kmも走ってしまいました。ジョギング花見ですよ。早起きも、歩くことさえ大嫌いだったこの私がです。若いころはたいてい毎晩どこかの街のバーのカウンターに突っ伏して寝ておりましたのに。

季節は流れ人は変わりました。

でも、どう考えても12kmが、いっぱいいっぱいです。42.195kmという距離がどういう距離か、初めてわかりました。あれを走る・・・・ありえません。

煎餅かじりながら、マラソン中継見て、

「よし、そこで加速するんだ、ほれ。」

などといった態度で、観戦するのはもうやめます。選手の皆さんをもっと尊敬します、今後。

東京マラソンで、毎年タイムを上げているO桑君は、

「今度ハーフマラソンに出てみるといいですよ。」

などと、ニコニコして云いますが、ハーフって20kmですよねえ・・・ありえません。

ホントに今の状態で、いっぱいいっぱいです。ただ、走ったあとは、走ってよかったと思えるんですよ。これ、私にとっては、かつて想像もつかなかったことなわけです。

 

来年の桜のころは、20kmくらい走れるようになってるかな。

いや、やめよう、バカな想像するのは。ああ、やめよう。

 

2014年3月13日 (木)

「角川映画」の時代

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日本の映画の歴史の中で、「角川映画」というジャンルのあった時代があります。このあいだ「角川映画」をドキュメントとしてまとめた本があって、読んで思い出しながら、なるほどなあと感心したんです。自分の印象よりもずっと長い期間、ずっとたくさんの作品数がありました。

いつ頃かというと、1976年の「犬神家の一族」から始まり、1993年の「REX恐竜物語」までの間なのですが、世の中に大きな影響を与え、個人的にも記憶の中でわりとはっきり残っているのは、初めの10年間くらいかと思います。日本映画界が斜陽化して久しい1975年頃、大映はすでに倒産し、日活はロマンポルノにシフトし、東映は実録路線も息切れして「トラック野郎」とかをシリーズにし、松竹は寅さんで、東宝は百恵ちゃんで、どうにかこうにかという状態でした。洋画はその頃「タワーリングインフェルノ」や「大地震」や「エマニエル夫人」「007黄金銃を持つ男」「ゴッドファーザーPARTⅡ」など、わりと元気いい頃です。

そんな時、出版界から颯爽と現われ、映画業界に次々と新風を吹き込み、日本映画の観客を劇場に呼び戻したのが、角川書店の若社長、角川春樹氏だったのです。角川書店は終戦の1945年に、28歳の角川源義氏によって創業され、1975年に58歳で早世された後を継いで、長男の春樹氏が33歳で社長に就任します。

この人は、すでにアメリカ映画の「卒業」などで起こっていたメディアミックスの現象に目をつけていて、「ある愛の詩」の原作の日本語版権を取得して100万部を売り、映画と主題歌と小説が三位一体となった大ブームの一翼を担ったりしていました。

そして彼は、ついに日本映画の製作に踏み込みますが、そこは出版社の経営者であるわけで、狙いは映画でムーブメントを起こした上での、読者数の拡大です。まず、当時少しずつブームになりかけていた横溝正史フェアを成功させるため「犬神家の一族」を製作します。

ただ、この方、型破りなスケールの方で、仕掛けが大きいです。

映画製作費2億2000万、プラス角川文庫の横溝正史フェアの宣伝も含めた総宣伝費が3億。つまり、宣伝費のほうが製作費より多いという、日本映画の常識を破る映画製作となります。映画公開前、ものすごい数のTVCMが投下されました。これも日本映画界の常識を破るものでした。配収は15億5900万、本も売れて大成功です。

この方式で、翌年からの森村誠一フェアは1977年の映画「人間の証明」1978年の映画「野生の証明」と続きます。「人間の証明」では、日本映画が初めて本格的なニューヨークロケを1カ月敢行し、その製作費6億とも云われ、「野生の証明」では、高倉健を起用し、自衛隊との戦闘シーンをすべてアメリカロケで行ないう超大作で、それぞれ22億5100万と21億8000万の配収を上げて成功しています。

それに加えて、広告に絡めて主題歌をヒットさせることもよく計算されていて、このあと角川映画は、作家の角川文庫フェアと映画と主題歌のメディアミックスのスタイルで、次々とヒットを続けていくのです。

そこには、さまざまな副産物も生まれます。代表的なものとして、「野生の証明」の大オーディションで高倉健の相手役を射止めた薬師丸ひろ子や、「時をかける少女」の原田知世などの、角川映画専属女優の誕生と成長。また、松田優作に代表される才能のあるすぐれた俳優や、映画の制作現場を失いつつあった、多くのベテランや若手の監督たちに場を与えたことなど、出版界に限らず映画業界に残した功績は大きいです。

1976年~1986年の約10年間に、40数本の映画が作られていますが、そのキャンペーンのスタイルとして、TVCMをはじめとして大量の広告が出稿されました。これも明らかに新手法です。

そしてその広告の作りも結構うまいんですね。必ずキービジュアルとキャッチコピーがあって、音楽もあります。CMを見て、映画館に足を運んだり、文庫本やCDを買った人、多かったと思います。

ただ、思うに、私個人としては、あんまり角川映画を観てないんですね。自他共に認める映画好きなんですけど、何故ですかね。角川映画が始まったころ、私はちょうど社会に出たばかりで、やたら忙しい会社だったし、最も貧乏なころだったこともあるかもしれません。結果的に後から観てるものもあるんですけど、封切りを待って映画館に行ったことは少ないかもしれません。もともとひねくれた性格でもあるのですが、やたらと仕掛けっぽいというか、大げさな広告が鼻につくというか、ちょっとそういうことに懐疑的だったような気もします。あまりたいして観ていないのに、いろいろ言うのもどうかと思いますが、どの映画を観てそう思ったのかも覚えてませんし、なんとなく遠ざかったような気がします。

そういえば、ずいぶんしてから友達に誘われて二人で封切りの角川映画を観たことがありました。たしか、薬師丸ひろ子主演と、原田知世主演の2本立てで、そんなに悪い映画じゃなくて、ちょっと偏見もあったかなと思いました。彼は同世代で、出版社の宣伝部にいて、当時私と仕事をしていた人で、いつも二人で飲んでは、映画や広告の話をしていました。彼も若く、出版界で何かをしたいという野心にあふれてましたから、当時の角川映画のことは、いろんな意味で無視できなかったんだと思います。

彼はその何年か後に、事故にあって突然亡くなりました。今でも、いろんな本や映画や広告に触れると、彼だったらなんというかなと思うことがあります。面白い人でしたから、今いれば、出版界で大活躍してたんじゃないかと。

あの映画のことを何と言っていたか思い出せませんが、角川映画のことを考えていたら、彼のことを思い出しました。

 

ありました。「角川映画」で大好きな映画。「蒲田行進曲」と「麻雀放浪記」です。

個人ランキングではかなり上位に来ます。名作です。

 

 

2013年12月17日 (火)

さて、還暦の年が明けます

この文章は、この前、会社の忘年パーティーにお呼びする皆さんへ書いたものなのですが、まさに私の実感なのですね。

 

みなさま

毎年、似たようなことを申しておりますが、

早いもので、今年も大詰めとなりました。

ついこの前、桜が咲いて、そのあと、今年の夏はスペシャルに暑いねえ、

などと云ってた気がしますが、もう、年末です。

歳を増すごとの、この加速度的な記憶の不確かさです。

最近では、開き直っておりますが…

さて、12月18日 うんぬんかんぬん・・・

 

そおなんですよね。時の流れに身をまかせているうちに、今年もあとわずか。近年そのスピードはますます上がっており、来年は、いよいよ私、還暦という年になってしまいました。

実は、何年か前、たぶん2007年の10月頃に、2014年のサッカーワールドカップがブラジルに決定した時、ドイツ大会の翌年、南アフリカ大会の3年前ですけど、

2014年って、もしかして俺60歳になるんじゃないかと気付いたわけです。私1954年生まれですから、これ当たり前なんですけど。そのあと、油断したわけじゃないんですけど、あれよあれよという間に、今日にいたるんですね。はじめのころは、

「ブラジルワールドカップの年には還暦ですから。」などというと、

へえとか言ってみんな感心してたんですけど、最近は、

「あ、そお。」みたいな、何の意外性もない反応です。年相応ということでしょうか。

このまえ、新聞を読んでたら、今年の12月12日が、小津安二郎監督の50回忌なのですが、この日が生誕110周年にもあたるのだそうです。つまり、小津監督は、お生まれになって、きっちり60年で生涯を終えられたわけです。あれだけの世界的偉業を成されたことを思うに、60年という歳月の重みを感じます。ちょうど自分が来年60歳を迎えるにあたり、比ぶるべきもないことですが、感慨深い記事でありました。

 

そういえば、今書いているこのブログのようなものも、(月に1本位のペースなのでブログと呼んでいいのかということもありますが)書き始めて10年近くになります。

最初は2004年の春に20年以上通ったなじみのBARが閉めることになって、そのことを書いたのがきっかけだったと思います。

ブログというのは、2003年のイラク戦争の時に、バグダット在住のイラク女性が発するブログが有名となり大きく広がりました。まだ、フェースブックもツイッターもない頃でしたね。

自分のを見返してみると、はじめは月に一回も書いてないですね。いまだにいたずら書きのようなもんですが、一応やめないで思いついた時に書くだけで、10年するとけっこうな量になってますね。積極的に人様にお見せするようなものでもなく、多分に自分に向けてですけど、何かいろんなこと思い出すきっかけにはなりますね。付けたことないんですけど、日記の作用ってこういうことと似てるんでしょうか。ただ、ブログは基本的に誰でも見ようと思えば見れる仕組みになってるんで、書いちゃだめなことはありますよね、秘密のこととか。日々暮らしてると、いろいろ面白い事っておきるんですけど、なかなか書いちゃだめなことの方が多いこともわかりますよね。

10年暮らせば10年分の出来事があるわけで、これが記憶となってたまっていくんですが、量が増えれば薄まっても行くわけです。特にこれからは思い出す力が落ちてくるようではありますが。

まあ、そうこうしているうちに、生まれて60年の年が明けようとしています。これといった偉業もなく、ただどうにかこうにかしているうちの60年ですが、無事にここに至ったことに感謝です。

この年が皆にとって良い年でありますよう、お祈りしております。

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2013年6月18日 (火)

わたしの自動車のこと

この前、何かの本読んでたら、自動車の歴史のことが書かれてたんですけど、いわゆるガソリン車は明治維新のころにはすでに、ヨーロッパで発明されており、その後着々と進化を続け、ご存知のように20世紀から今日に至るまで、人類の歴史に多大な影響を与えてきました。

というようなことはともかく、そこで自分と車のことを考えてみたわけです、ふと。

私が運転免許を取ったのは、大学生の時で1974年頃だったと思います。その10年前、1964年の東京オリンピックの前から日本はものすごい勢いで道路を整備し始め、自動車先進国の仲間入りを目指します。そして自動車産業は国の根幹をなす産業となり、車の保有台数も年々増え続けました。

私が小学生のころには、一般の家庭に自動車などなく、運転免許を持ったお父さんも、あんまりいませんでした。たまに親戚のおじさんが仕事で使ってるオート三輪車の荷台に乗せて走ってくれたりすると、ほんとに嬉しかったもんです。多分その頃から10年ほどで自家用車というジャンルの車がすごく増えたんじゃないかと思います。なんか18歳になったら運転免許は取っとかなきゃみたいな世の中になって、男は大人になったら酒と煙草と運転免許証がセットということになってた時代です。

でも、運転免許取ったからすぐに乗る車があるわけでもなく、友達が自宅から乗ってきた車に乗ったりしてたんですね。そのうち車好きな仲間が増えてきて、やたら改造した車を自慢する奴とかがいて、そんなに云うんなら運転させてみろよみたいなことで、首都高速一周タイムトライみたいなこと始めるわけです。それからちょっと調子に乗って、「首都高の銀狐と呼んで。」などとバカなことを云ってる時期があって、そのうち、第三京浜の入り口のカーブでスピンして、1回転半して反対向きになって止まっちゃったことがあって、そのあとちょっと大人しくなったような気がしますね、わかりやすいです。

で、ちょっと熱も冷めた頃、大学の友達が自宅で乗ってた車を廃車にするんだけど、まだ走るし、車検も1年残ってるから買わない?って云うから、いくら?って聞いたら、「5万円で」という話があって。

当時4万円の仕送りで、家賃1万円で暮らしてたから、けっこう無理なんだけど、彼も金にしたかったみたいで、分割でいいってことになって、バイトで何とかするかって、軽はずみな決断をしてしまうわけです。

そして私のアパートの脇の路地に停められることになった車が、スズキフロンテ360という軽自動車でした。排気量360ccのかなりの年代物でしたから、高速なんて乗れませんし、なんだかトコトコ走る感じでしたが、はじめてのマイカーでもあり、可愛い奴でしたね。Suzukifronte360_2

でも、それから3カ月くらいした頃、代官山のわりときつい坂道登ってたら、突然バキッと音がして動かなくなり、いわゆる車軸が折れて、オシャカになりました。

それが、はじめてのマイカーとの出会いと別れでありました。

それからしばらくして、まだ学生だったんですけど、ある自主上映の映画団体で、16mmの映画を一本撮ることになり、そこで助監督兼、撮影計測兼、スチール担当をやることになったんですね、いろいろあって。撮影の準備しながら、軽トラでもいいから荷物運ぶ車がいるなと思いつつ、多摩川淵を歩いてた時に、小さな中古車屋に置いてあった小さなジープと目が合っちゃたんです。ちゃんと4輪駆動にも切り替えられるし、屋根はホロだから、はずせばフルオープンにもなります。カメラ載せれば移動も撮れるなと思った瞬間、店のオヤジに交渉を始めてました。値切りに値切って、粘りに粘って、30万位にしたかな、それから、考えられる最も長いローンを組んでもらったんですね。映画の事務所には相談できません。監督以下スタッフはみんな社会人だけど、持ち出しで映画作ってるんです。ガソリン代払ってもらうのがやっとです。でも、思った通りこの車は大活躍し、映画が終わっても長いこと私のアパートの脇の路地におりました。この車がスズキジムニー360。またしてもスズキさんの軽自動車なんですけど、360ccでジープっていうのがすごいですよね。スピードならでません。ジムニー君には私が社会に出て働きだしても乗っていて、仕事でもよく使いました。でも、就職して1年くらいの時、五反田の東洋現像所から現像したフィルムを受け取って、品川の御殿山を越える坂を登っていたら、車軸が折れたんですね。車軸が折れるってあんまり聞かないですけどね、このごろ。

その次は、いすゞの117クーペというのを買いました、これは知る人ぞ知る名車なんですね、はじめて軽じゃない車だし。ただ恐ろしく年代物で、カーステレオのカセットが8トラックでしたね。こんなこと云っても今の若い人知らないと思いますけど。値段は20万でしたか。

そういうことだから、この車の寿命も長くはなく、その次に乗ったのが、先輩のCMディレクターの方から譲り受けたAudi、すでに10kmは走ってましたけど、外車です一応。この車はよく煙が出た記憶があり、時々突然止まってしまうことがありました。首都高速のトンネルの中で急にエンジンがとまってかからなくなった時には、後ろから来たタンクローリーに思いっきりクラクションを鳴らされて死ぬかと思いました。

ここまで書いてみて思いましたけど、東京に出てきて30過ぎまでに4台の車に乗って、

その値段の合計が100万円に届いてないのもすごいなと。

でまあ30代も半ばになって、5台目にして中古車ですけど世間でいうところの人並な、値段もそれなりにまともな車を買うことにしました。

ボルボ240エステートGLというワゴンタイプの、当時いいなと思ってた車で、シルバーグレーメタリックっちゅう色も、気に入りました。あのころ、ボルボは世界のボルボだったし、頑丈で重厚で足回りも良く、いい走りするんですけど、電気系統に当たり外れがあったんですね。私のは外れでした。毎年夏にエアコンつける頃になるとエアコンが壊れるわけです。スエーデン製の車だから日本の夏の暑さに合わせたエアコンになっていないという中古車屋のオヤジの苦し紛れの言い訳も、聞くたびに腹立たしかったなあ。

そういえば、ちょうどその頃、「危険な情事」という映画があたっていて、主人公のマイケル・ダグラスが、偶然関係を持ったちょっと異常な女グレン・クローズから、超おっかない目に会う話で、その中で女に燃やされちゃうマイケル・ダグラスの車が、型も色も全く私の車と一緒だということを、ある知り合いのディレクターが教えてくれてました。映画観にいったら僕の車がほんとに燃やされてて、悲しかったですね。

そんなことで、ふた夏ほどでこの車とも別れ、その後4台乗り継いで今の車に至るのですが、一台一台それぞれに思い出とかエピソードがあります。そのほかにも、知人の車のことや、長年かかわった車のCMのことなど、いくらでも話のネタはあるんですけど、きりがないのでこれくらいにしときます。

それにしても、最近の車って、あんまり壊れませんよね。やっぱり着実に進化してるんですかね。私の場合、車の思い出って、まず故障の思い出なんですけど。

 

2013年4月30日 (火)

歩くということ 登山編

新入社員研修キャンプというのをやったんですね、うちの会社らしいんですけど。たしかに山の中に行って、いろんな共同作業とかやると、キャラクターもわかるし、仲良くもなるし、お互いゆっくり観察したり、話をしたりするには、いい機会になるんですね。

新入社員は6名、新入社員以外は、仕事もあるし行ける人だけでやりましたが、キャプテンは、O桑君とW辺君です。この二人は山の中に行ったりキャンプするには不可欠な人なんですね、経験上。

今回は金曜日の朝に出発して、昼過ぎにはいつもの山梨のキャンプ場に到着しました。ここは、ほんとに何もないところなので、これからすべての設営が始まります。テント張って、火熾して、机や椅子出して、買い出しして、晩飯の下ごしらえして、いろいろやってるうちに日は暮れていきます。4月とはいえ、南アルプスの山の中は寒く、焚火と酒であったまります。他にやることもなく、ただ深酒するんですね。はじめ緊張気味だった新人君たちも、そこそこにほどけてきますね。初日は10名そこそこなので、いつもの社員旅行キャンプの騒々しさはなく、なかなか風情のあるキャンプらしい夜となります。

次の朝、ちょっと宿酔の頭で歯を磨いていると、だんだん後発のメンバー達が到着してきます。昨日は仕事していて、今朝東京を発った人たちです。

人数も増えて、盛り上がってきたところで、今回の企画の目玉でもある登山となります。日向山という標高1650mの山で、恒例の登山なんです。前回の社員旅行キャンプの時には、私、登山コースを選ばず、麓のサントリー白州蒸留所で一日中ウイスキーの試飲をするコースにいて、この登山が意外とハードだったという話は後で聞いてはいたのですが、実際のとこよくわかってなかったんですね。

ただ、キャプテンのW辺君いわく、                            

「今回はハイキングコースの入り口まで車で行きますから、そんなにきつくないですよ。前回は下から行きましたから。」みたいな話で、

確かに看板にはハイキングコースって書いてあるしで、油断してたんですが、これが登り始めると相当こたえたわけです。なんせ、ひたすらきっつい登りっぱなしで、ハイキングってこういうことだっけと。そう思ってるのはどうも私だけで、若い人たちは冗談言いながら和気あいあいと笑いながら登ってますし、二人のキャプテンは、もともとこういううことが大好きな人達ですから、私とは違います。

O桑君はニコニコしながら、

「まだ700mしか歩いてないですよ。」などと励ましてくれますが、

私からすると、7kmは歩いたんではないかと思えるのです。

「いや、自分にはかまわず、みんな先に行ってください、マイペースで追いかけるから、頂上で弁当食べてるとこに追いつくから。」

などと申して、最後尾を歩いてたんですが、相変わらず道はきつい登りっぱなしで、まだ行程の半分にも至っておりません。

ふと、回れ右したら楽になるなという誘惑と向き合い始めた時、気になって引き返してきたO桑君が呼びとめました、さわやかな笑顔で。・・行くしかないです。

なさけないですが、あごが上がるというのはこういうことだとわかりました。おかしいなあ、これでもかつては、仕事で屋久島の急勾配を縄文杉まで6時間かけて登ったのになあなどと思いましたが、考えてみれば、あれはもう10年前です。それから10年間自分を甘やかせ続けたむくいです。老化もありますが、ひどいもんです。

なんとか頂上に着きました。晴れわたった日向山山頂は、死ぬおもいして登った甲斐のある(おおげさですが)素晴らしい景観でした。でしたが私は、しばらくただ仰向けになって天を仰いでいました。涙目でした。塩のきいたお弁当、美味しかったです。Sanchou

みんなで記念撮影して、自分もここで一緒に写れてよかったなあと思っていた頃、

W辺キャプテンから下山の合図がありました。

「帰りは今来た道じゃなく、別の、もう少し険しい道をおります。ときどき鎖にぶら下がったりしながら下ります。頑張ろう。」

えっ、今来た道、じゅうぶん険しくないですか? しかし、こうなったら自棄です。

新人たちに背中を見せるわけにはいきません。さっき見せかけたけど。

帰り道は、私に言わせれば、道とは呼べませんでした。わかりやすくいえば、崖です。そこにもハイキングコースという表示が出てました。この辺、どうかしてます。

崖を転がるように降りた私たちは、キャンプ場近くの温泉につかりました。浸みました、生きててよかった(おおげさですが)。露天風呂に入っていたら、ポツポツと顔に雨があたり始めました。今夜のキャンプは雨です。

ただ、二人のキャプテンは全く動じません。まあ、あらゆるケースを経験してる人達です。むしろ新人たちにとっては、予期せぬこの状況は、よい研修になるとおっしゃってます。そうですね。そうかもしれませんね。

せまいけど屋根の付いた洗い場を利用して、その周りに何枚もターフを張って作られた会場で、雨の夜の大宴会が始まりました。参加の人数もうんと増え、キャンプファイアーは燃え盛り、いよいよ盛り上がってまいります。昼間の疲れから先に寝てしまうかと思いましたが、山登りとは違って酒宴には強いようなんですね、私。

しょうがないなあ。

 

 

 

2013年4月 2日 (火)

春、家族、旅

この春、久しぶりに家族で旅行したんですが、4人そろって旅したのって、いつ以来だったか、すぐに思い出せないくらいなんですね。子供も大きくなると、それなりに自分の都合で忙しくしてるし、親と一緒に行動しなくなりますから。

ただ、この春に上の娘は就職して社会人になることになり、下の息子も高校卒業して大学行くことになって、そういえば、しばらく広島の祖父母にも顔見せていないなということがあり、そろって帰郷したわけです。

私と妻は同郷でして、妻の父は7年前に、母は4年前に他界いたしましたので、こちらの祖父母へは、お墓参りをして、就職と進学の報告をし、伯父伯母にも久しぶりに顔を見せることができました。また、私の方の父母は、おかげさまで、まずまず元気にしておりまして、しばらくぶりに孫に会えるのを楽しみにしておりました。

広島に着いて1日目はお墓参りをして、2日目は九州の太宰府へ向かいます。孫が受験するときには、祖父母が学問の神様である太宰府天満宮へお参りに行ってくれており、まあ今回はそれのお礼参りということになります。

広島から博多は新幹線でほぼ1時間、そこから太宰府までが20分くらいなので、ちょっとした小旅行です。その日はお参りをすませた後、父母がこちらに来た時に何度か泊まったことのある温泉宿にお世話になることにしました。古いけどなかなか良い宿で、みんなで温泉に浸かってゆっくりすることができました。

夕食の前に、私の父母が子供たちにお祝いを渡してくれたんですけど、そのときにある話をしてくれたんですね。

父は昭和3年生まれの84歳、母は昭和4年生まれの83歳です。

二人ともさすがに高齢で、足腰も弱くなっており、ペースメーカーが入っていたりもして、かなりゆっくりしか歩くことができないんですが、でも、なんとかこうやって孫たちと旅ができたことは、本当に嬉しいことだと云いました。そして、80歳を越えて生きていられることはありがたいことですが、これもいろいろな偶然の積み重ねなんだと云いました。

それから、昭和20年の8月6日の話をしてくれました。

Genbakudomu_3 その時、父は17歳、母は16歳です。二人とも広島に住んでいました。この日は、月曜日だったそうです。父は広島の旧制高等学校の学生で、学校の寮にいて、その朝早く広島市内に用事があってバス停に並んでいたら、バスが満員で乗り切れなくて、仕方なく反対方向のバスに乗って実家に向かったそうです。実家に着いて少ししてから、原爆が炸裂しました。実家の窓ガラスは全部割れたそうですが、爆心地から10km離れていたので、命は助かりました。後から、父が乗れなくてあきらめたバスに乗った方たちは全員亡くなったことがわかったそうです。

母は女学校の生徒でしたが、広島市のはずれの工場に動員されて、そこで武器や軍服などを作っていたそうです。でも爆弾がピカッと光った時は熱かったと云っていました。当時、学校の授業はほとんどなく、みんな工場にいたらしいですが、月曜日の午前中だけは、勉強をしたい生徒が希望すれば授業を受けることができ、その日市内の校舎で授業を受けた女学生はやはり全員被曝して亡くなってしまったそうです。母は勉強が苦手で、その授業を希望しなかったことが運命の分かれ目になりました。

80歳代の祖父母と、大人になるかならないかの孫たちとは、普段なかなか接点がありませんが、祖父母が青春時代に体験した戦争の話には、痛く感じるところがあったようでした。86日、歴史に残ったこの日に、ひとつ間違っていれば、自分の存在すら無くなってたかもしれないわけですから。

そのあと食事して、その夜に感謝して、みんなでカラオケをやりました。

娘はなぜか中島みゆきを何曲か熱唱してました。息子はミスチルを唄い、じいさんは、小林旭の「昔の名前で出ています」を唄っていました。

選曲にはまったく接点ありませんでしたが、やはり。

2012年11月29日 (木)

心が残るということ

人の縁とは不思議なもので、ある時深くかかわると思えば、疎遠になったり、また近づいたり、好きになったり嫌いになったり。そして、突然の別れがやってきたり。

先日、大切な友を失くしました。54歳でした。

知り合ったのは、30年も前、彼は四つ年下で、新入社員として私の働いていた会社に入ってきました。ちょっと面白い奴でしたが、数年して彼は会社を辞め、その後、私も会社を辞め、しばらく会っていなかったのですが、ひょんなことから、この数年付き合いが再開し、今度はすごい勢いで接近し、しょっちゅう一緒にいるようになりました。

彼も私も年相応に変わったかもしれないけど、昔とは関係がまた違って、なんだか気が合って、4歳違いの兄弟ができたようでした。

でもこの秋、思いもかけぬ別れがやってきました。急病で入院して、何をする間もなく、逝ってしまいました。まだ実感がありません。

こたえました。

運命とでもいうのか、何かの力が人を近づけたり離したり、突然連れ去ったりしているのでしょうか。悲しくていろいろなことを考えさせられて、まだどうやって気持ちの折り合いをつけていいのかわからぬままです。

昨夜、彼を偲ぶ会が行われて、私は司会をすることになり、彼に何かを語らねばと思い手紙を書きましたが、でも、その場で手紙を読むことはできませんでした。彼の二人の息子が、お父さんを語ったところから、私は涙で何もしゃべれなくなったんですね。弟分のヒロシは、清書した手紙を9分もかけてきちんと読んだのに…立派でした。

手紙は彼の奥さんにお渡ししました。

 

 

以下、ちょっと長い手紙です。

 

いまだに君の不在に、何の実感ももてず、受けいれることできずにいます。

いい年をして、いつまでもこんなことを言っている自分をどうしようもなく、そのような気持ちのまま、今夜は、君を偲ぶ会の司会をさせていただくことになりました。

君が大好きだったゴルフを、この数年間は、たぶん最も一緒にプレイしたと思われるので、・・・・・・・、私がやらせていただきます。

君のゴルフは筋金入りでしたね。時間をかけて、それこそきちんと鍛錬し研究して身につけたもので、本当にゴルフというものに対しての造詣が深かったし、全くほれぼれする球筋でした。

プレイのスタイルもファッションもかっこよかった。

何に対しても、興味があることにはきちんと向き合う人でしたよね。

何年か前に、ひょんなことから君とゴルフをやるようになった私はといえば、ゴルフというものに対していい加減で、どうやって取り組んだらよいのかも、分かってない人でした。

でも、君を通して知るゴルフは本当に面白くて、いつの間にか本気でやるようになり、君と君の先生でもあるヒロシプロの特訓を受けて、毎回、目からうろこが落ちる気がしたものです。

結局のところ、100のあたりを行ったり来たりで、君の大のゴルフ友達というにはちょっと恥ずかしくて、君にも悪い気がするのですが、ほんとによく一緒にゴルフをしました。

ただ、よく考えてみると、ゴルフは口実でもあり、私は君に会いたかったんだと思います。

君とゴルフをしながら、つまらない冗談を言って笑ったり、仕事や家族や友達の話をしたり、また次のゴルフの相談をしたりする時間が、私は大好きでした。

きっと君の人柄なんだと思います。

ゴルフの連絡は、いつもメールできましたが、そのたびに顔がゆるみました。君は酒が飲めないのに、一緒に飯食ってるとほんとに楽しかったし、いろいろ旅行にも行きました。君の仲間ともたくさん友達になれました。

本当に世話になりました。

 

ところで、君と初めて出会ったのは、間違ってなければ、1981年の春でした。君が初めて就職した会社に、すでに先輩として私がいたわけで、ずいぶん昔の話ですね。一緒に仕事もしたけれど、君は湘南のサーファーで、波のいい日には波に乗ってから出社するような奴で、私は、毎晩どこかのバーで突っ伏して寝てるような奴だったから、あんまり接点なかったし、そのうちに君は会社辞めて、湘南に帰って事業を始めたから、しばらくご無沙汰していました。

でも、縁というものはつながってて、私にとって、6歳年上の兄のような先輩が二人いるのですが、この二人が昔から仲良くて、15年ほど前に、湘南の君の家のすぐ近くに住み始めたんですね。コーちゃんと、ヤマちゃんですが。

そしてこの二人が、まさに君の10歳年上の双子の兄のような存在になりました。

ほんとに仲良しで、笑いが絶えなくて、わたしはたまに3人を見かけると、

「よっ、湘南三バカトリオ!」などと言っておりましたよ。

君も、「ほんとにしょうがない人たちですよね。」などとぼやきながら、

ほんとに兄さんのように思ってたと思います。

私も君のゴルフの弟子みたいになってからは、よく湘南にも行くようになって、四バカカルテットみたいになって、私、一人っ子だから男兄弟ができたみたいで嬉しかったんですね。

君は、仕事でも地元でもほんとに頼もしいリーダーだったから、気持ちのいい後輩たちがたくさん集まっていて、いつもにぎやかでした。

こんな時間がずっと続くことに、何の疑いもなかったですね。

 

急いで逝ってしまったから、心残りのことも多かったと思うけど、私でよかったらいつでも話しかけてほしい。

君からもらったものは、ずっと大切にしていきます。

ほんとに、いろいろありがとう。 Kazumi

 

 

 

 

 

2012年10月17日 (水)

最強のふたりが、Like someone in loveで、北のカナリアたちだった

このところ、なかなか映画を観る時間がなくって、しばらく映画館に行かなかったと思ったら、ここにきて3本続けて観ることになり、これがまた、それぞれに種類は違うのだけれど、すごくよく出来た映画だったんです。

「最強のふたり」は、私のまわりで実によく映画を観ている友人がそろって、すでに今年のベストワンだと言うだけあって、久しぶりにとても良いフランス映画をみせていただきました。

この最強のふたりの人生には、それぞれすごく重いものを抱えているのだけど、最強のエスプリとユーモアでそれを乗り越えてしまう爽快感と、ただ気持ちがいいだけではない深さがあります。ふたりのキャスティングは実にすばらしく、これからもとても気になる俳優たちで、また、この話が実話であるということも、読後感をより深いものにしました。

当初それほど多くなかった上映館も、途中からどんどん増えていったようで、観客というものは正直で、いい映画がかかれば、口コミでどんどん映画館にやってくるものなんだなあと思いました。

私が観たのは、新宿の武蔵野館だったんですけど、そこで同時にかかっていたのが、

「Like someone in love」で、これは会社のF井さんに、絶対に観るべきだと強く薦められたので観たんですが、(この人に薦められるとわりと観てしまうんですけど)これはこれでとても面白かったのです。

監督脚本がイランの名監督アッバス・キアロスタミなんですけど、この人が日本で日本の俳優とスタッフを使って撮ったもので、ともかく驚くのが、本当に現代の日本をよく捉えていて、おまけにこれ、3人の日本人の会話劇でもあって、イランの人がよく脚本書いて演出してるなっていうところなんです。

観客は日本の日常の中をゆっくりとすすんでいくお話に、なんとなく付き合っているうちに、気がつくとこの監督が作りあげた世界にすっかり連れて行かれた感じがするんですね。この3人の出演者、おじいさんと、若い男と女なんですが、実に造形が見事でリアルなんです。ほんとにこの監督、外国人なんだろうか。だいたい加瀬亮とかにどうやって演出してるんだろうか。でも、俳優はものすごく理解してやってるように見えるし、映画という共通言語は、天才にかかると簡単に国境を越えてしまうのですね。びっくりしました。

それともう一本、これは邦画なんですが、11月に公開予定の「北のカナリアたち」の完成試写会で、できたての初号を見せていただきました。あまり予備知識もなく、油断してたわけではないのですが、ともかく号泣してしまった。後半からラストに向かって、もうどうしようもなく涙が止まりません。最近、歳とって涙もろくはなっているのですが、そういうことではなく、いや、泣きましたよ。ひさしぶりに。

スタッフもキャストも本当によい仕事をされてるんですが、順番に行きますね。

侮ってたわけじゃないんですけど、阪本順治監督はやはりいい監督さんです。この方にはたくさん名作があって、個人的には「どついたるねん」「顔」、昨年の原田芳雄さんの遺作となった「大鹿村騒動記」など好きなんですが、この「北のカナリアたち」も、きっと代表作になると思います。

映画の中で6人の若者たちと、彼らの子供時代の話が行ったり来たりするので、子供のシーンがたくさんあるんですけど、子役の使い方がうまい監督さんなんですね。自論ですけど、名監督って昔から子供のシーンがうまいんですね。





Moriyamamiraiそして、この6人の若者を演じた役者さんたちが皆よかったです。現代日本を代表する頼もしい俳優さんたちです。TVドラマもよいけど、これからは映画にたくさん出てほしいなと思ったのです、おじさんは。

登場順、森山未来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、以上。

そして忘れてはならないのが、主演女優のわれらがこの方、この方がいらしたからこの映画はつくられたわけですから。映画の中では、この6人の子供時代の小学校の先生の役で、40歳と20年後の60歳を演じておられます。かつてこの国を代表するアイドルであったこの方の実年齢を、私達観客は知っているだけに、その姿と演技には心打たれます。氷点下-30℃のロケ地での撮影。海を泳いだり、煙突のはしごを駈けのぼったり、本当にこの方はおいくつだったんだっけかと思いました、ほんとに。

キャメラマンの木村大作さんが初めて阪本監督と組んだことも、映画の完成度を上げました。木村さんの大自然の映像には定評があり、今回の雪・海・島の風景も見事です。余談ですけど、あの高倉健さんが雪の中で立っている風景はほとんど木村大作さんがお撮りになってます。それと、ご自身で監督をおやりになるほど映画を知り尽くした方なので、時間軸と人間関係が入り乱れたこの複雑なお話を、非常に分かりやすくしているのは、木村さんと阪本さんによるところが大きいと思われます。

いろんな意味で超大作ですし、情報過多の傾向はあり、つっこみ所がないわけじゃないんですけど、そんなことはどうでもよいほど、観てる方は引っ張り込まれ最後は鼻をすすることになります。お見事なんじゃないでしょうか。はい。

 

久しぶりに続けて映画館で観た3本は、つまり、あたりでした。

こういうことがあると、また映画館に足が向きますね。そういうもんです。

 


2012年6月22日 (金)

飛行機、こわい

Jetplane
元来、飛行機というものが苦手で、学歴を理系と文系というものに分けると、理系に属する私がこういうこと云うと恥ずかしいのですが、いまだに理解できないんですよね、何であの重ったいものが空飛ぶのか。

いや、何度も乗ってますよ、飛行機。つい先日もチューリッヒまで12時間、その後、国内便で1時間。

そこに行くべき用件があり、それに乗らねば、そこに行けなければ、それは覚悟決めるんですけど、どうしても納得してないんですよ、それに乗って空飛んでることに。

だから、今まで何べん乗っていても、それは仕事だったり、どうしてもそうしなければならない状況かどうかで、しかたなく乗ったというか、いつも、今回は仕方ないよなと、心の中でつぶやいているんですね。今まであれだけ飛行機乗ってて、自分のお金を払って乗ったこと2回しかないんです。なんていうか、自らのせいでそうなったんではなく、誰かのせいでそうなったんだということで、止むを得ずと思うことにしてるわけです。

何か、飛行機のこと好きな人がこういう文読んでると、イライラするというか、じゃ乗るなよお前とか、思うと思うんですけど、すいません。

国内の場合、どこかに行くことになった時に、すぐにどこに飛行場があるか調べる人いますけど、いや、そこに行くのはJRの方が便利なんじゃないかとか、飛行場までの時間や、飛行機飛ぶまで待ってる時間入れると、電車の方が早くない? などと、すぐにJRのまわし者のようになります。駅弁買ってビール飲みながら行こうよなどと言うのも、自分がリラックスできるからそう言ってるだけなんですね。

飛行機好きな人って、すごくいろんな航空会社のことよく知ってて、機内食なんかのいろんなサービスにも詳しくて感心します。自分が好きな会社や便があって、マイルがたまったら、それを利用してまた飛行機乗ったりしますよね。

私も最近になって、周りの人から勧められて、マイルためるようになりましたが、何かこれがたまることによって、また別の飛行機に乗るようなはめになったらどうしようかと、なかばひやひやしていたりします。

見渡してみると身の回りには、私のように飛行機が苦手な人というのもわりといて、私の奥さんもそういう人です。たいていの趣味も性格もほぼ合わない夫婦なのですが、飛行機に関しては同じ気持ちになれます。したがって、うちは家族で飛行機に乗ったことは一度しかありません。たった一度家族でハワイに行ったときに乗りました、その時だけです。家族旅行は、圧倒的に新幹線か車です。

仕事仲間にも、すごく飛行機がダメな人がいます。

いつだったか金沢で撮影の仕事が終わって、3人でタクシー乗って小松空港に向かっていた時、誰からともなく、実は飛行機って苦手なんだよねっていう話になって、聞いてみると全員そうで、3人とも我が意を得たりになって、またこういう人たちに限って、飛行機事故の話にやたら詳しいんですね。そんなこと散々話してるうちに、誰かが運転手さんに言ったんです。

「JRの小松駅って、ここから遠いですか?」

結局、飛行機キャンセルして、電車で東京まで帰ったんですね。ビール飲んで駅弁食べながら、皆ご機嫌でしたね。4倍ほど時間かかりましたけど。

また、私の知ってる人の中でも相当飛行機に弱いカメラマンの方がいらっしゃいまして、二人でロケ地に向かう機内で打ち合わせをすることになった時、

「じゃ、打ち合わせしましょうか。」って声かけたら、

その時、その人が読んでた雑誌は上下逆でしたし、その時打ち合わせしたことは、現地についいたら全部忘れてました。

でもこの人、空撮になるとヘリコプターから身を乗り出して撮影したりするんですよね。

そういうのはいいらしくて、よくわかんないんですけど。

 

そんなことで、きれいで感じのよいキャビンアテンダントさんから、

「どうぞおくつろぎになって、快適な空の旅をお楽しみください。」

とか言われても、基本的に空飛んでるあいだは、緊張しているわけで、あまりよく眠れなかったりします。ただ、海外からの帰りの便では、仕事が済んでちょっとホッとしてたり、疲れてもいるので、寝ちゃうこともあり、むしろそういうときは積極的に寝てしまおうとするんですね。

でも、思い通りにならないこともたまにあり、これも旅の面白さですけど。

ロスから東京に帰る便で、私の席のまわりが、観光とかじゃなくてはじめて日本に行くことになった中国人の団体だったことがあって、たぶん20人くらいいたと思うけど、皆 興奮しててうるさいのと、何かと私に東京のことを聞いてくるわけです。私、あんまり英語できないからわかんないって云ってるのに、なるべく簡単な単語使って、身振り手振りで話しかけてくるんですね。でもまあいろいろ不安なんだろうし、極力役に立ってあげられればと、話してるうちに、何か仲良くなって着くまでしゃべりっぱなしで、

寝るどころかくたくたでした。

こういう人って、基本的に良い人で、初めて日本に行く人のことが多いです。

これもいつだったか、サンフランシスコから帰ってくるときに、やはり隣の席のご婦人が、生まれて初めてアメリカから海外に出る人で、その時、私、飛行機に乗る直前まで、仕事で三日三晩徹夜していて、完璧に成田まで寝て帰ろうと思ってたんですね。

このミセスが、すごくフレンドリーに話しかけてくださるんです。私、英語があんまり話せないんですいませんねって云うと、なんか中学生レベルの英語で私がわかるまで話しかけてくださるわけです。どうも娘さんが北京に留学しているとかで、はじめて母親である私が会いに行くんだと、興奮気味です。あーー北京は行ったことないんでよくわかんないです、すみませんって云うと、じゃ、アジアの話にしましょうって云うんですね。なんかすごくためになる英会話の家庭教師にレッスン受けてるようで、勉強にはなるんですけど、とにかく眠いわけです、こっちは。で、実は、アメリカでの仕事でずっと寝ていないということをやっと分っていただき、寝かせていただいたわけですけど、

彼女、全く悪気なく親切な人で、食事の時間になると、たたき起して下さるわけです。

すごくおいしそうよなどと、ニコニコされております。結局、成田に着くまで国際交流は続きました。眠かったけど。

 

こうやって、何かの縁で袖触れ合った人と、一期一会の時を楽しむのも、旅の醍醐味だし、飛行機ならではってとこもあるんだけど、やっぱなんかくつろげないんだよな。

 

 

2012年5月 2日 (水)

ホシヤン

新緑のこの時期、世の中には新社会人が溢れ、あちこちで、ちょっと不慣れなリアクションなどで、爽やかな新米君たちに出会います。うちのような小さな会社にも、4月から4人の新人たちが名を連ねました。

その初日、何から始めるのかと見ていると、この日の夜は、新人歓迎会を会社の屋上でやるのだそうで、そこで出される食べ物の準備からやらされております。

うちの会社は、なにかというと、屋上とその横にある台所で、料理を作って食べたり飲んだりする習慣がありまして、その準備は全部自分達でやるんです。

とは言っても、今日入ってきたばかりの新人に料理ができるわけもなく、わが社の総料理長、私は花板と呼んでいますが、その花板のO桑君の指導のもと、まず炭を熾したり、野菜の皮むきをやらされたりしています。この会社の場合、こういった訓練がわりとバカにならなくて、こういうことさせられる頻度がわりかし多いんですね。普通の会社だとあんまりそういうこと無いんですけど、この屋上にお客様呼ぶことも多いし、まあ、社員旅行にキャンプに行っちゃったりする会社なもんで。

新人は炭ばかり熾してるわけじゃなくて、一応ちゃんとした仕事の教育も受けながら、4月の半ばには、代々木公園での夜桜見物にも参加して、忍者の恰好させられて、横走りとかしながら、だんだんに、この一団の一員になっていきます。

 

そんな風景を見ながら、自分にもそういう頃があったなと思ったわけです。

大学を出た私は、これといった指針もなく、就職活動もせず、ただブラブラしていたんですが、当面生活せねばならず、ひょんなことから、テレビCMを制作している会社で、アルバイトをすることになりました。1977年の桜の頃だったと思います。

会社は、新橋のちょっとはずれのモルタル2階建ての建物で、わかりにくいところにありました。アルバイトをするにあたって面接してくださったのは、制作部長をされてるO常務という方でした。なんて云うかあんまりしゃべらない人で、機嫌悪そうにハイライトを吸ってて、仕立てのいいスーツ着てて、たまにしゃべるとべらんめえで、強いて言うと天知茂に似てて、ちょっと何ていうか、インテリやくざな感じがしました。

とりあえず、明日から朝いちばんに来て、事務所の掃除からやるように云われたので、次の朝行ったんですね。

何故か入口の鍵は掛かってなくて、ビニールマットがめくれた階段を登ると、うなぎの寝床のような暗い廊下があって、突き当たりが事務所のドアになってました。

ここも鍵掛かってなくて、そおっと開けると、机があって、その横の床に裸足の足の裏が四つ見えました。毛布掛けておもいっきり深く眠ってらっしゃる男性二人。頭の方へ廻って顔みると、なんだか顔色がすごく悪くて、死んだように眠ってて、何かこの人達、注射とかされてんじゃないかと・・・

全く起きそうにないし、しかたなくドアの外に出て立ってたんですね。そして、しばらくすると、後ろの階段から誰か登ってくる靴音がしたんです。その人が、ホシヤンだったんですけど、どんなだったかと云うと、頭はカリカリに刈り込んだ坊主頭で、サングラスしてて、煙草くわえてチョビ髭です。ぱっとみ完全にそっち系の怖い人です。そういえば会社の名前も考えようによってはそんな感じもするし、昨日の人もなあ・・・

「君、なに?」

「あのお、今日からアルバイトで、朝、掃除するように云われてます。ハイ。」

「あ、そお、じゃ中はいって。」Hoshiyan3

で、事務所に入ると、寝ている二人を蹴りつつ、

「おりゃあ、いつまで寝とんじゃ。」

と、おっしゃいました。

いや、もう、ここまでの経緯で、私ここで完全に失礼しようと思ったわけです。昨日からなんとなく想像していたことが、朝からだんだん良くない方向で固まってきました。

ただ、逃げ出すわけにもいかず、様子見ながら掃除してると、普通の女子社員も来るし、総務のS田さんと云う人は、すごく親切で、とても怖い系の人とは思えませんでした。

私、しばらくこちらに置いていただくこととなりました。S田さんに渡されたタイムカードの通しナンバーが27番で、会社の人数がそれくらいなのだと云うこともわかりました。

結局、このあと、会社はものすごく忙しいことになっていき、だんだんに人も増え、私は11年とちょっと、この会社でお世話になることになります。

あの時、オシッコちびりそうに怖かったホシヤンに、その後いろいろと仕事を教えていただくことになりましたが、第一印象と違って、実は優しくて面倒見の良い人でした。

はじめの一年、ほとんど育てていただいたと思います。

サングラスの奥の目も、よく見るとつぶらでかわいかったし、

ホシヤン語録と云われるセリフは、ちょっとヤクザっぽく、

「この百姓があ~~!」とか、

「すべったころんだやってんじゃねえんだよお~」など、いろいろありますが、

たいていの場合は独り言のことが多いです。Hoshiyan2

東映の高倉健さんのことが大好きで、カラオケ行くと、必ず「唐獅子牡丹」と「網走番外地」を唄いました。完全になりきります。

仕事は細やかで、すごくよく気の付く人で、おまけに心配性です。私達後輩は、彼のことを、陰で“神経質やくざ”と呼んでいました。

この会社には、ホシヤンと同年代の当時30前の先輩が多くて、ほかに、ヤマチャン、スギチャン、ソガチャン、アリヤン、ヨウチャン、オキチャン、タッチャンなどがいて、(その頃なぜかこの業界、チャンとかヤンとかよく付くんですけども)

今考えると、この人たちが優秀で会社を支えてたように思います。会社のトップも迫力のある人たちで、前述のO常務にくわえ、A専務は幕末のいきさつから未だに長州藩のことを赦していない会津の人でしたし、かつて演出家であった、大阪弁のI社長と、強力なトロイカ経営陣でした。最年長のA専務が当時43歳ですから若くて元気のいい会社だったと思います。

あの頃、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、ここで救われたと思います。皆、作る事に対して厳しく、目指すところは高いけど、仕事にも仲間にも愛情を持っていて、会社は一枚岩でした。若い頃、この方たちから、よく本気で怒られましたが、今、ありがたいことだったと思います。

盤石の備えで社業は発展し、立派なビルが建ち、現在200名を超えて業界大手となったその会社で、ホシヤンは副社長をされており、たまに会うと、

「百姓があ、すべったころんだやってんじゃねえんだよお。」

などと、のたまわれております。

 

尊敬する先輩諸氏の敬称を略しましたことをお許しください。

 

 

2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2012年1月13日 (金)

走るということ

最近、「走る」ということに興味を持っている人が、私の会社のまわりにもいて、たとえば、転覆隊のW君や、キャンプ好きのO君だったりするんですが、今度の社員旅行は地方のマラソン大会に皆で行って出場しようなどと言っているわけです。そのO君が丸い目をまた丸くして、この本 面白いですと紹介してくれたのが、「BORN to RUN」という本で、これ、たしかに本としては面白そうで、これから読み始めるんですけど、でも少なくとも、わたし自ら、走るという行為に興味を持つことは、多分ないだろうと思うんですよ。今までの人生で、人から強制されることなく自分から走ったということはないわけで…

そんな話していたら、ふと、はるか昔、10代の頃、走ることを面白がっていた時期がちょっとあったことを思い出したんです。

高校生の時、私は何の部活にも入らず、やたら映画ばかり見ている奴だったんですけど、やっぱなんか身体がなまってるなあと感じていた時、友達がプールの下の体育会の余った部室にバーベルが積んであるのを見つけて、ちょっと仲間集めて、皆で筋肉モリモリになろうと云い始めたんです。でもまあ、筋肉モリモリっていうのも、あんまり興味ないし、バーベル上げながら、放課後の運動場で体育会の練習見てたら、みんなよく走ってるんですね。それで仕上げは、学校から少し離れた小高い山まで往復5km位のコースを走るんです。その中で、最も速く、最もきれいな形で走るのが、サッカー部のエースストライカーのI 田君でした。

彼とは同じ路線の汽車通学だったので、毎朝一緒に通学する仲の良い友達でした。いつもしょうもないいたずらばかり考えてる、ちょい悪系で、そのあたりが私と気が合ったのか、まあそうやってるぶんには、何の変哲もないそこらへんの高校生なんですが、サッカーやってるときと、走ってるときは、超カッコイイのですよ。

なんだか、I 田君の走る姿みて、俺も走ろうっ!と思ったわけです、急に。

そして、これが意外と楽しかったんですね。テニス部女子なんかも一緒に走ってるし、自分なりに、だんだん速くなっていくのも自覚できるんです。私、短距離はまるで駄目なんですが、そういえば中学の時、1500mとかってわりと速かったよな、などと、自信も出てきたりして、もっと速く走るにはどうしたらいいんだろうなどと、考えたりもしました。でも、通学中I 田君と、走ることに関して話をしたことは一度もありませんでした。

ていうか、彼はそのことに関して全く別次元の奴でしたから。校内マラソン大会は、いつもぶっちぎりの1位でしたし、サッカーでは校内でただ一人、国体に出場してたと思うし、彼と走ることを語るなんて、恐れ多かったんです。

それでも、最後の校内マラソン大会では、何百人かで60番に入って大満足。I 田君は、相変わらず、はるか前方を駆け抜けて行きました。もちろん1位で。いいフォームだったなあ。

そして、そのうち受験になって、それぞれ進学して、そんなこともあったよなという程度の記憶になってしまいましたが、

その後もI 田君は走り続けてました。地元のサッカーの大学リーグで得点王になり、全日本大学選抜に選ばれて、東京の合宿に来た時は、私は車を借りて、合宿所まで彼を送って行きました。大学を卒業した後は、サンフレッチェの前身である自動車会社のサッカー部に入り、FWで活躍しました。彼は、母校の誇りでしたし、あの力強い走りは、いまもはっきり覚えています。

その後、お互いに忙しく、時間が経って疎遠になり、年賀状を交わすくらいのことになっていましたが、昨年の秋に用事があって、故郷の高校時代の友達に電話したとき、I 田君が春に病気で亡くなったことを知らされました。あの強靭な人が・・・信じられませんでした。

いろいろ思い出します。私が小さな会社を始めた時、わざわざ訪ねてくれたことや、私が結婚して初めて帰郷した時、自分の奥さんと子供を連れて、会わせに来てくれたことやら。

書いてたら涙が出ます。

インターネットで、彼の名前を検索したら、もう何年も前から、自身の母校の大学のサッカー部の監督になっていたこと、2007年にはそのチームを率いて、初の天皇杯出場を決めたことなどがわかりました。それに、その記事には、その時彼が悪性のリンパ腫を患っていたことも書いてありました。

何にも知りませんでした。自分に腹が立ちました。

もっと歳とって、君の若い時の自慢話を聞きながら、酒を飲みたかった。どうやってあんなに速く走れたのか、もっと前に聞いとくんだった。

 

そんなこと思いながら、自分がいま走ったらどうなるんだろうかと考えました。

デブった体を支え切れず、ひざが壊れるな、たぶん。

Hashiru 

 

 

 

 

 

 

 

2011年11月 7日 (月)

東京オリンピックとクラス対抗リレー

人にはそれぞれ好きな季節というのがあると思いますが、私の場合、10月から11月にかけてって、好きなんですね。夏暑いのも、冬寒いのも、それぞれ良いのですけど、続くとやっぱりめげてしまいますし、春は世間の人が云うほど浮かれた気分になれないんです。昔から、木の芽どきっていうじゃないですか。あれあんまり得意じゃないんですね。

10月に入ってだんだん空気が乾いてきて、朝晩が過ごしやすくなって、たまにグッと冷え込んだりすると、なんだか気合も入るし、欧米のように秋が新学期だった方が、学校の成績もよかったんじゃないかと思ったりしてたわけです。

夏が去って行った寂しさはあるけど、その寂しさがちょっと良くて、春と夏にためられたエネルギーが、スッと拡散して、次のフェーズに移っていく感覚があります。

いろいろあったけど、まっ、新しい気持ちで出直そうかみたいなところがいいんでしょうか。

あと、気持ちがいいのは、空が高いこと。なんだかせいせいしませんか。

体育の日って10月10日じゃないですか。これって1964年に東京オリンピックの開会式が開かれた日なんですけど、時の政府は、過去の気象庁の記録の中から、もっとも快晴の多かった10月10日を開会式の日に選んだという話を聞いたことがあります。

当時の日本人はみんな、この日を待ちわびていました。1945年の敗戦から、約20年。

この日のために東海道新幹線の開通を間に合わせ、首都高速道路を完成させ、世界中にこの国の再建を知らせる日でもありました。やはり、どんなことがあっても絶対に晴れてほしい日だったと思います。

快晴の国立競技場に、古関裕而作曲のオリンピックマーチが響き渡り、355名の日本人選手団が登場した時の感動は、あの時を共有した人々にのみ分かることかもしれません。

みんな本当に感無量だったわけです。その後、市川昆監督によってつくられたドキュメント映画「東京オリンピック」を観ても、そのシーンで必ず涙が出ます。当時10歳でしたが、今までで唯一、自分が日本国民なのだと自覚した出来事でした。この話を感動とともに伝えようとすると、ちょっと気味悪そうにする若い人もいますが。

その日は国民の祭日となり、毎年この日がやってくると、東京オリンピックを想い出し、全国的に運動会の季節となります。

個人的ですけど、その運動会で、一つ忘れられない思い出があります。

小さいころから運動会ってあんまり好きじゃなかったんですね。なぜかというと、ともかくスポーツというものが苦手なわけです。幼稚園のころから、徒競争という競技でテープを切ったことがなく、油断すると自分の後ろに誰もいないということが、ままありました。それが憂鬱な理由だったんです。

ところが、東京オリンピックの数年後、小学校の運動会で妙なことになります。私は高学年になっており、恒例のクラス対抗リレーの選手の選抜が進んでおりましたが、なぜか私がその中の1名に選ばれてしまったのです。

古い話で、うろ覚えですが、クラスの数は5クラス、各クラス5名の選手を選ぶことになっていました。私のクラスには、学年で一番速いカガワ君がいたのはおぼえています。そして彼以外にもかなり足の速い奴らがそろっていて、上から4人はすぐに決まりました。多分、あとの20名ほどは大差なかったんだと思いますが、私が選ばれる理由はなに一つありません。あとの一人は誰でもよかったから、誰になってもほかの4人で勝てそうだからだったのでしょうか。たしかクラス皆で投票したのですが、5人目に私が選ばれてしまいました。スポーツとは全く別のことで目立つ奴であったことは確かですが、面白がられたふしはあります。

なにせ初めてのことなので、母親にも話しました。母親はよろこぶ前に絶句しました。そうなんです、よろこんでる場合じゃないんです。次の日から真剣に練習しました。バトンの受け渡しとか。でも練習しても急に走る速さが変わるもんではありません。思えば仲間の4人はいい奴らでした。よく練習に付き合ってくれました。そして作戦会議、です。主に走る順番を決めますが、カガワくんが何番目を走るかが最も大事なことです。私はともかく決まったところを死ぬ気で走るしかありません。4人は考えに考え、あろうことか私をアンカーにする作戦を立てます。私にバトンが渡される前に、完全にぶっちぎろうという作戦なのですが、各クラスのアンカーにはチーム最速の奴がきます、ふつうはそういうものでしょ、あーあ、どうにでもなれです。

このクラス対抗リレーは、クラス対抗リレー史上、最も盛り上がったクラス対抗リレーになりました。私にバトンが渡された時、すでに他のクラスは、半周以上離されておりましたが、ここからの1周が恐ろしく盛り上がったわけです。競馬で云えば、私の好きな展開、逃げ馬が直線で差し馬に差されそうになりながら、逃げ切れるかどうかという展開です。Relay

私はただ無我夢中でしたが、だんだんに周囲の歓声が、異常な音量になってきました。後ろを見る余裕はないです。必死でした。テープを切った時、私のまわりには、団子状になった他の4人のアンカーたちがいました。いわゆる鼻差、写真判定か。しかし、かろうじてテープを切ったのは私でした。4人の仲間が駆け寄ってきます、スローモーションでした。あとにも先にも運動会でテープを切ったのは、この時だけです。しばらく夢でうなされたりしました。

あれから、大好きなこの季節になると、よくあの事を思い出します。でも、勝って良かったです。負けてたらきっと嫌いな季節になってたような気がしますもんね。

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2007年7月 3日 (火)

教育とは 学校とはなんだ

固い話で恐縮です。

年が明けてまもなくのこと、大学の建築学科の先生から「変わりゆく教育と学校環境」というちょっとむつかしい講義を受けました。何故そういうことになったかという話からいたします。私の席の隣に学校教育を題材にしたTV番組を作ろうとしているプロデューサーがおります。この人がなかなか熱血パワフルな人で、重松清さんの『教育とはなんだ』という面白い本があるのですが、この本の中の学校建築の話にすばやく反応して、大学の建築の先生に会いに行ってしまいました。そこですっかり意気投合したらしく、またこの先生もけっこう熱血の人で、平日の昼間にもかかわらず弊社まで来てくださり、映像資料まで持参して私どもに対して2時間半に渡る熱い講義をしてくだすったのです。でも、なんだか新年からいろいろ考えさせられるいい話だったのですよ。なかなか手短にはお伝えできないんですが、どうも日頃私たちが常識だと思っている学校の建物の形というのは、この国の長い歴史の中で決まりごとになってしまったもののようです。現在の教育、これからの教育を考えるに、学校建築は今のままでよいのだろうか。世界に目を転じてみると、実にいろんな考え方の、いろんな形の学校があるのです。今さまざまな問題に直面している学校という現場には、新しい価値観が必要なんじゃないか。この先生はモデルスクールを立ち上げたりして、各所で改革を呼びかけられておりますが、新しい試みに対して世間はなかなか積極的ではないようです。この話はさまざまな教育制度の問題にもかかわっています。一筋縄ではいかない大変な話なのです。

20年も前に“ピッカピカの一年生”というTVCM の仕事をしていて、毎年冬から春にかけて日本中の小学校を訪ね歩いていた時期があります。その頃はまだ明治に建てられた小学校がたまに残っておりました。建物としては、すでにけっこうな年代物でしたが、なんだか建てた人たちのこころざしのようなものが伝わってきたのを覚えています。明治といえば、小学校を作ることじたい新しい試みだったはずですよね。学校という教育の現場には、常に新しい風が吹いていていいんじゃないか。なんかそんなこと思ったりしました。じゃあ新しい形ってたとえばどんな形なんじゃと問われてもここでは書ききれんので、そのあたりはうちの熱血プロデューサーが作る番組にゆずります。

2005/1Gakkou_2

六本木のバー“BALCON”のこと 続報

Match_2 先日お伝えした六本木のバー“BALCON”の突然の閉店が、2月の18日のことでした。
それからほんの一ヶ月ほどたった3月の末に、マスターの良川さんより驚くべき知らせが入りました。
4月の1日から新しい店を開くというのです。
ほんとに次から次と驚かせてくださるのですが、今度のニュースはウェルカムです。

それにしたって急だし、案内状とかオープニングパーティーとかどうなってるんだろうか。
などと質問したところが、「まあ何気なく始めるんで何にもしてないんですよ。」と、
いかにもこの方らしいリアクションで、
電話番号は決まっているが電話機が開店に間に合わないとか、看板は当分出す気はないとか、
いったいどうやって行きゃいいんだっちゅう感じなのですよ。
あ、そうそう店の名前は?
「Salon de G です。じじいがやるんで、サロンド ジーですよ。へへへ。」
などとおっしゃってます。

それじゃあともかくということで、行ってみました。
これがなかなかいい店なんです。さすがですねえ。
場所は六本木から西麻布に向かう途中、
70年代から長きに渡り数々の名作を世に送り出したあの六本木自由劇場。
串田和美さんが、吉田日出子さんが、余貴美子さんが、
「上海バンスキング」や「もっと泣いてよ、フラッパー」などの話題作で狭い劇場をいつも満員にしていました。
この小劇場の老舗六本木自由劇場の跡が「Salon de G」なのです。
劇場には何度か行ったことがあります。地下に下りていく階段は昔と同じで狭くて急です。
店の中は大雑把に言うと、舞台と客席の境がカウンターに、舞台のあったところが厨房に、
客席の部分が平らになっていてソファーが並べてあります。
小劇場がほんとにうまいことバーになってしまってます。
インテリアもなかなかよくて、ソファーが増えた分バルコンより確かにじじいにやさしいかなという気もします。

“Salon de G” 電話番号 03-3408-1256  です。

こちらでお会いできる日を楽しみにいたしております。

2004/4

六本木のバー“BALCON”のこと

“バルコン”のマスターの良川さんから突然連絡があったのが2月の半ばでした。
電話があるのは特に珍しいことではないのですが、問題はその内容です。
「急ですが、明日で“バルコン”を閉めます。」というもので、これには些かあわてました。
急すぎますよほんとに。
なにせですね、六本木通りの明治屋の裏手にこのバーができて31年、
私が通い始めてからだって25年くらい・・・・多分。ていうくらい長い歴史のある店なのです。
聞けばほとんど誰にも知らせてないっていうし、だいたいどうして閉めちゃうのか。
でも良川さんてそういう人なんですよ、考えてみると。
そういうこと前もって誰かに話すような人じゃないんですよ。
ちょっと鶴田浩二とか高倉健みたいなとこあるから。

かくして、六本木の名物バー“BARCON”は最後の夜を迎えました。
ほとんど知らせていないわりには、ことがことだけに噂の伝達力はなかなかのもので、
かなりの常連客で店は埋まり、深夜まで客が絶えませんでした。
この夜現れたのはほとんどが私たちCM業界の人たちでした。
“BALCON”が長い間、いかに業界の皆さんに愛されたバーだったかがわかりました。

待ち合わせたり、偶然だったり、初対面だったり、ここで会った人々、スタッフ、同業者、
広告会社、クライアントのみなさん。
本当にいい意味でここは溜まり場でした。
理由はいろいろ考えられます。酒好きバー好きの人たちが満足するお酒の品揃え、
腹が減っていても大丈夫な気取らない中華のメニュウの数々、おちつけるインテリアと照明、
遅くまで飲み食いできること、安いこと、店が込んでいても立ち飲みで十分な店のつくり、
そしてなによりマスターの人柄。

携帯電話の無い頃、夜中に飲みにくると仕事の伝言が何件も入っていることがありました。
ストレス発散が昂じてお決まりのドンちゃん騒ぎになったり、熱く語りすぎて大喧嘩になったり、
ほんとにいろいろご迷惑もおかけしました。
いつ行ってもこの店は何も変わりませんでしたし、それが魅力でした。
大テーブルの中央にあったロウソクの塊は、少しずつ大きくなって最後はすごいことになってましたけど。Harper_5
思いついたときにぶらっといけて、短い時間でも長い時間でもいれて、思いがけない人に会えたりもして、
無くなることになってはじめてこのバーのありがたみがわかりました。
 
良川さんが言ってましたけど、若い人があんまりバーに来なくなってるのは確かなようです。
仕事大変だし、何かと忙しいし、お酒を飲む以外にもいろいろ楽しみもできているのでしょう。
僕らも昔ほどは飲んでいないですよね。
でもやっぱりバーのある文化って言うと大げさですけど、
こういう場所って必要なんじゃないかなって思うんですよ。いろんな意味で。

いずれにしても最近かなり残念な出来事でした。

2004/3

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