2026年6月22日 (月)

昭和の唄 みんな去ってしまった

えーと、数え間違えてなければ、このブログが今回ちょうど200本目になるはずでして、だからどうということでもないのですが、思いのほかに続いたもんです。
この前、わりと長くこれを読んでくれてる人に、
「このブログは、人が亡くなる話が多いですね」
と云われたんですが、考えてみると、そういうとこあるかなと思いますね。私が50になった時に始めて、50代と60代に書いたものですから、振り返ってみると、ご恩のある身近な人も、多くの影響を受けた著名な方も、大切な友も、本当に多くの方々が向こうの世界に旅立たれてしまいました。そのことだけ書いてるわけじゃないんですけど、年齢的にも、若い時よりもいろんな意味でお別れの話は増えます。
それで、たまたま持っていた「みんな去ってしまった(みんないってしまった)」という題名の、古いレコードアルバムを思い出したんですね。これは1976年に中島みゆきさんが出した二枚目のアルバムです。
この年齢になると、いろんな人たちが、まさに、みんな去ってしまうわけでして、多くの別れや、その人にまつわる記憶が去来します。
このアルバムを聴いた時、それにしても若いのに随分すごい詩を書く女の人が現れたもんだなあ、と思ったもんでした。さわりですが、たとえばこんな唄がありまして、

彼女の生き方

 酒とくすりで 体はズタズタ
 忘れたいことが多すぎる
 別れを 告げて来た中にゃ
 いい奴だって 居たからね
 死んでいった男たち
 呼んでるような 気がする
 生きている奴らの
 言うことなんか 聞かないが 

 彼女の人生 いつでも晴れ

 そうさあたしは タンポポの花
 風に吹かれて 飛んでゆく
 行きあたい町へ 行きたい空へ
 落ちると思えば 飛びあがる
 
のような唄なんですが、当時ある意味とんがっていたのでよく覚えてまして、それから50年経ちましたが、ご存知のように、彼女は今アーティストとしての牙城を築いておられます。
想えばあの頃、いろんな唄がありました。個人的には1977年頃から10年くらい、毎年、秋から冬の終わりにかけて、地方ロケに行く仕事をしておりまして、日本全国、北海道から沖縄まで、多分、もう二度と来ることなさそうな辺境ばかりに行っておりましたが、その都度わりと長く滞在するもので、退屈して他にやることがなくなると、当時、地方で流行り始めていたカラオケをやったんですね。思い出してみると、初めの頃は駅裏の盛り場のスナックや居酒屋とかで、そもそも8トラックのおもちゃみたいな機材でした。そのうちだんだんにPAも進化してくるんですけど、なんかすごいスピードで広がっていった気がします。始まった頃は演歌ばっかしでしたが、ジャンルも曲数もどんどん増えていきましたね。いずれにしても、カラオケって娯楽は、地方から始まったもんでした。
そんなことで、あの10年間はよく唄ったものなんですが、時代としては昭和の最後の10年でして、当時のなつメロも含めて、別れをモチーフにしたいい曲はたくさんあったんです。と言うかあの時代の流行り唄の大半は別れを描いてたと言うと言い過ぎでしょうか。

ということで、思いつくままに、昭和の唄をいくつか。

戦争は知らない (1968)
詩 寺山修司 唄 ザ・フォーク・クルセダーズ

 野に咲く花の 名前は知らない
 だけど 野に咲く花が好き
 帽子にいっぱい 摘みゆけば
 なぜか涙が 涙が出るの

 戦争の日を 何も知らない
 だけど私に 父はいない
 父を想えば あゝ荒野に
 赤い夕日が 夕陽が沈む

冬のリヴィエラ (1982)
詩 松本隆 曲 大瀧詠一 唄 森進一

 彼女(あいつ)によろしく 伝えてくれよ
 今ならホテルで 寝ているはずさ
 泣いたら 窓辺のラジオをかけて
 陽気な唄でも 聞かせてやれよ

 アメリカの貨物船が
 桟橋で待ってるよ

 冬のリヴィエラ 男って奴は
 港を出てゆく 船のようだね
 哀しければ 哀しいほど
 黙りこむもんだね

大阪で生まれた女 (1979)
曲唄 BORO

 踊り疲れた ディスコの帰り
 これで青春も 終わりかなとつぶやいて
 あなたの肩をながめながら
 やせたなと思ったら 泣けてきた

 大阪で生まれた女やさかい 大阪の街よう捨てん
 大阪で生まれた女やさかい 東京へはようついていかん

 踊り疲れた ディスコの帰り
 電信柱に しみついた夜

星屑の町 (1962)
詩 東条寿三郎 曲 安部芳明 唄 三橋美智也

 両手を回して 帰ろ 揺れながら
 涙の中を たったひとりで
 やさしかった 夢にはぐれず
 瞼を閉じて 帰ろ
 まだ遠い 赤いともしび

 指笛吹いて 帰ろ 揺れながら
 星屑わけて 町を離れて
 忘れない 花のかずかず
 瞼を閉じて 帰ろ
 思い出の 道をひとすじ

 両手を回して 帰ろ 揺れながら 

 涙の中を たったひとりで

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落陽 (1973)
詩 岡本おさみ 曲唄 吉田拓郎

 しぼったばかりの夕日の赤が 
 水平線からもれている
 苫小牧発・仙台行きフェリー
 あのじいさんときたら 
 わざわざ見送ってくれたよ
 おまけにテープをひろってね 
 女の子みたいにさ

 みやげにもらったサイコロふたつ 
 手の中でふれば
 また振り出しに戻る旅に 
 陽が沈んでゆく

2026年6月 9日 (火)

極私的挿画集を作ってみようかと

だいたい20年ほど前、個人的には50才になったあたりに、このブログのようなものを書き始めたんですが、のようなものと云うのは、ほとんど月に1本書くか書かないかくらいのペースなもので、ブログと云って良いのかどうかみたいなことでしたが。
ただ、何本か書いてるうちにちょっと面白くなったところもあって、途中でやめることなく続けてたんですね。なにしろ根が飽きっぽいものですから、継続するということが苦手で、ともかく何年もやめないで続いているのは、これくらいのものです。気が付いてみると、かれこれ20年、本数にすると200本くらいになっておりました。
まあキリも良いところだし、そろそろやめるかなとも思ったんですが、こうなってくると日々の生活のリズムに組み込まれて習慣になってもいて、どうしたもんかなと思ってます。
そういえば 8年くらい前に、このブログを面白がって読んでてくれた、会社の後輩のミナミさんが30本ほどを選んで、文庫サイズの本にしてくれたことがあったんですが、それが意外と面白い紙の本になったんですね。考えてみると、それ大変な手間だったわけで、えらく感謝しているんですが。
そんなこともあって、それからまた溜まってもきたし、また何か紙の本を作ってみたいかなと、思ったわけなんです。ただ、200本は結構な量だし、何本か選ぶにしても迷うし、で、ちょっと思いついたのが、毎回いたずら書きで書いてる挿絵だけ集めて、文庫本サイズで1冊の本にしてみたらどうかなということなんですね。言ってみれば、この膨大な200本のデータの目次本のようなもんですが、この本からブログに飛べるようにもしようかと。
そもそもこのブログも、どなたかに読んでいただくためというよりは、自分自身の記録のようなもんで、これからやろうとしてることも、あくまで個人的にやってることで溜まったものがなんか別の形になったら面白いんじゃないかと思ったわけです。
そこで、昔一緒に仕事してたアートディレクターのコマツザキさんに相談して、なんとなくのブックデザインは始めていただいておりまして、「極私的挿画集」が出来ていくのをワクワクして待つところであります。昔なじみということで、なんだか巻き込まれることになるコマツザキさんにとっては、迷惑なことですが、ご勘弁を願います。
 
遡りますと、このブログを最初に書いたのは、2004年の3月でして、そのころ長いこと仲間で根城にしてた六本木のBar「バルコン」が突然閉店してしまった事件があって、それがネタでしたが、その時の挿絵はそのBarで死ぬほど飲んだバーボンのI.W.ハーパーの絵でした。
今回、何の絵を書こうかと思ったんですけど、ついこの前、呼んでもらって行ったキャンプのことを思い出したもんで、スプーン山荘の絵です。

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この山荘は10年近く前に、私たちの会社で南アルプスに建てた森の中の山小屋なんですけど、会社の施設として、みんなで遊んだり、集ったりして活用してまして、最高に気分の良い場所なんですね。

何んでこんなところに会社の山荘があるのかとか、そこで何をしてるのかとか、いろいろあるんですが、今ここに至る経緯というのがあります。
もともと会社を創業して間もない頃に、この南アルプスのあたりで必ずロケをする仕事がありまして、その仕事は何年も続き、この辺りのことに妙に詳しくもなり、そのうちにこのロケ場所の近くで社員旅行キャンプもやるようになったんですね。キャンプ好きな主要メンバーがいたのも確かなんですが、もともと集まって飲んだり食ったり作ったりするのが好きな連中ではあり、何度かキャンプをするうちに、ここに自分たちの山荘とかあれば良いねという話があり、普通は話だけで終わるんだけれど、真顔で建ててしまったというお話なんです。
でも、こういう基地ができると、いつでも大人数でも少人数でも行けるようになったし、
やはり、森はいいなあ、焚き火はいいなあ、という幸せが身近ではありますな。

2026年4月16日 (木)

あっしには関わりのないことでござんす

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「木枯し紋次郎、上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれたと言う。

  十歳のときに故郷(くに)を捨て、その後一家は離散したと伝えられる。

   天涯孤独の紋次郎が、なぜ無宿渡世の世界に入ったかは定かでない。」

うろ覚えですが、高校生の頃に放送されていた「木枯し紋次郎」のラストシーンで、必ず語られたナレーションで、芥川隆行さんの名調子でした。
当時この番組のことはちょっと好きで、私は子供の頃から言わずと知れたテレビっ子でしたが、この時代劇は今までのモノと明らかに違う、新しい何かを感じたからだと思うんです。10代の思春期に差し掛かったちょっと斜に構えた生意気な小僧でしたから、お決まりの正義の味方問題解決型時代劇は、面白くなくて見てなかったんですね。
このお話は股旅物だから、紋次郎はいつも旅をしてるんですが、この人は旅の先々で極力人と関わることを避けていて、ニヒリズムを通しています。なんだか影のある今までにないキャラで新鮮でした。そもそもこの番組を作ってるのが映画監督のあの市川崑さんであったことは大きかったです。普通に映画少年でしたから、多少映画監督には詳しくて、10才の時に観た「東京オリンピック」の監督だと言うこともわかってました。まずこの番組のオープニングテーマ曲の「だれかが風の中で」が流れて、クレジットタイトルのユニークな映像を見たときに、こりゃいいわと思ったんですね。
実は市川監督は最初の3話しか演出してないんですけど、このドラマの全体的な世界観を設計していて、そのあとに受け継いだ監督たちもそれを踏襲しており、なんだか今までにない時代劇を作ろうと言う情熱に溢れていて、土曜日の夜遅くにやっていたこの番組は大ヒットします。決して私みたいな少数派にだけ受けてたんじゃなかったわけです。
あらためて今見ると、あんまり制作費は豊かにはなさそうで、ロケが多かったり、出演者の数も多くなく、ある意味リアリズムを追求していて、殺陣も派手さはないのだけど、本物のドスを振り回してるような演出になっていたり、新しい試みや工夫がたくさんありました。
主役の紋次郎役の中村敦夫さんも、当時あまり知られていなかった役者さんでした。でもこの紋次郎という新しいキャラクターに、中村さんは嵌まってゆきました。世間と関わらず孤高でいる雰囲気がちょっと知的なところもあり、それは東京外国語大学出身のインテリだからか、ま、関係ないか。いずれにしてもこの俳優さんの将来を決めた配役であったことは確かでした。
そこで紋次郎さんなんですけど、自身の過酷な生まれ育ちから、無宿渡世の世界にいて、常に旅の途中にいるんですが、行く先々でさまざまなトラブルに出くわしたり、難儀してる人に遭遇したり、怪しい謎の女に惚れられたり、毎回いろんな目に遭うのです。でもいつも、
「あっしには関わり合いのないこってござんす」とか云って、
関わり合いにならないようにしているんですが、脚本的には、結局関わることになってしまい、そのあとチャンバラやって、ことを治めることになるんです。
それで最後に、いつもくわえている長楊枝をプイと飛ばすと、何か筋書きに意味のある物に楊枝が突き刺さって紋次郎は去っていくんですね。その楊枝を飛ばす時に息を吸い込む音が木枯らしのようだと、そういうことなんです。
そんなようなことで、私が10代の時にファンだった紋次郎さんですが、私が50を過ぎた頃でしたか、ひょんなことで中村敦夫さんと同じ組で、ゴルフをワンラウンドご一緒することがありまして、とても嬉しい出来事だったのですが、中村さんは思ってた通りの素敵な紳士で、とても知的なインテリであられました。あまりたくさん紋次郎のことは聞けませんでしたが、なんだか風の中を紋次郎さんと歩いてるような、幸せな時間でありました。
「あっしには関わりのないことでござんす」という科白を思い出したのは、
最近、長く関わった自分が勤めた会社の役割を解いていただいたもので、
それは、この何年もこの会社の何の役にも立っておらず、歳も歳なんで当たり前のことなんですね。
組織はどんどん若返って、生まれ変わらねばなりません。
「あっしには関わりのないことでござんす」
というのが、自然な関係になっていくわけですよ。
でも、そう云いながら、紋次郎のように、結局最後には、ちょっとだけ関わり合いになってしまうのかもしれませんけど。

2026年3月19日 (木)

だるまのはなし

昨年の12月から今年の2月まで約3ヶ月間、横浜の放送ライブラリーというところで、「山田太一上映展示会」というのをやっているよ、と教えてくれた人が二人おりまして、私を含めてこの人たちは、この脚本家の大ファンで、以前からたまに何人かで「山田太一を語る会」という飲み会をやったり、先生がご存命の頃は講演会や座談会を聴きに行ったりしてたんですが、さすがのアンテナというべきか、今回の催しのことを察知して教えてくださったんです。
展示会の期間も終わりかけた頃に急いで行ったんですが、たくさん名作を残された方でしたから、かなりきちんと整理された大量の展示物があって、あらためてこの方が積み重ねられた足跡に、ため息の出る思いがしました。
よく知ってる作品も、あまりなじみのなかった作品も、どれもこの作家の背骨が一本通っている気がします。どの資料も時間を忘れて読んでおりましたが、山田さんがいろんな方とやり取りをした手紙のコーナーがあって、それは特に興味深いものでした。
大学時代からの親友であった寺山修司さんの存在であったり、八千草薫さんの手紙は、文面もインクの色までも可愛らしさが溢れていたり、大原麗子さんは見事な達筆で、ものすごくきちんとした文章を書かれておられたり、、いろいろに発見がありました。
その中に山田さんのお父さんからの手紙もありました。エッセイなどを読んでいると、このお父さんは、戦中戦後の大変な時代を、苦労を重ねて家族を養ってきた人で、息子の山田さんに対しても、語る機会あれば、人が生きていくことの厳しさを教えるような父として描かれていたんですが、多分この手紙が書かれたのは1966年頃で、ご自身が老齢にさしかかった時分に、成長した息子を嬉しく見つめる視線を感じます。山田さんがテレビドラマの脚本を書いた初期の頃の作品を、テレビで観て褒めていまして、その最後の方に、「ところで、だるまを送ってくれてありがとう」という一文があります。
「だるま」というのは、僕らが子供のころに大人たちが、サントリーオールドのことをそう呼んでいたんですね。ウイスキーなんですが、あの丸っこくてずんぐりしたボトルのフォルムからきてるニックネームだと思います。私が物心ついた頃にはすでにそうでして、そして、今よりもずっと格が上のウイスキーだった気がします。山田さんは頑張ってお父さんにちょっと高級なウイスキーをプレゼントしたんですね。
あの頃、流れていたサントリーオールドのCMで、覚えているのは、セピア調のナイトシーンで世界中の大人の男たちがオールドを飲んでいて、不思議な歌が流れてました。これは名曲でしたが、調べてみると、1968年に最初に放送されたバージョンは、かつて壽屋宣伝部の開高健が考えたキャッチコピー「人間みな兄弟」からのインスピレーションで小林亜星が作曲したもので、ギターの伴奏による男性のスキャットでした。
まだウイスキーを飲む大人の世界はよくわからなかったけど、なんだか早く酒を飲む世界に入ってみたい気分があって、たぶんあのCMのせいじゃないかと思うのですね。
それから、だんだんに大人に近づいていくんですけど、その頃も、サントリーのウイスキーのCMというのは、お酒というものの世界を魅力的に描いていました。未成年でしたけど、東京に出てきてウイスキーを飲む仲間入りを始めるんですが、オールドは高価だし、とても手が出なかったです。
成人して社会に出てからも、酒は飲んでましたが、安酒ばかり飲んでいました。大人の男たちは、会社帰りに最寄りのBARで飲んで行くんだけど、そういう時、ボトルキープされているのは、この「だるま」であることが多かったと思いますね。たまにご馳走になると、うまかったなこれが。
「だるま」は大人の男の酒で、格のある最もポピュラーなウイスキーだったですね。

今オールドは、あの頃よりもずっと気楽なランクのウイスキーになっていますから、たまに買ってきて飲んでますが、そばに置いてその変わらないボトルの形状を眺めていると、あの不思議な旋律のスキャットが聞こえる気がします。

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「夜が来る」
🎵

Lon Bon Di-Don 

Shu Bi Da Den Ba
O-de e e eoh
Hi Za
Dan Zan Di-Don
Shu Bi Da Den Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Bon
Shu-Bi Da Dou Ba
La-Li Ho Ra Re
Hey Za
Don Zan Dig Zag
Shu-Bi Da Don Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Don
Shu-Bi Da Den Ba
Li-ro I-ro Re
Hey A
Don Zon Zi Da Ba
Shu-Bi Da Ban A
A Dan Zan Ju-Bi Da Den Ba

A Zan Dan Ju-Bi Da Ze

2026年2月 6日 (金)

大学生の頃を思い出したテレビドラマのこと

映画が封切られた時に、観に行こうかどうしようか迷っていたのですが、ちょうどその日に用事があって、日比谷まで出かけたもんで行ってみたんですね。そうすると映画館は私くらいの年齢の方々が、びっしり座っておられました。
約50年前に「俺たちの旅」というテレビドラマがあったんですが、その半世紀後の現在を描く映画です。
テレビ放送は、1975年の10月から約1年間、日曜の夜8時からでしたが、その時、私、大学生で、3年生から4年生にかけての頃で、落第しそうだったもので、仕方なくですが、珍しく冬にはわりと勉強してまして、ま、他にもいろいろあって下宿にいることが多くてですね、このテレビドラマは時々見てたんです。自分と同年代の大学生たちが主人公で、感情移入しやすかったこともありますけど。
鎌田敏夫さんという脚本家が、描こうとしていることが、時々こちらにフィットしたのかもしれません。連続ドラマなのだけど、これといってつながってるストーリーがあるわけではなく、たまに見るといつも同じようで、自分と同年代の若者が、これといったビジョンもなく、フラフラとその場しのぎに生きていて、その時その時に出会う人や出来事で、いさかいが起きたり、仲良くなったり、失恋したりと、毎回いろんなことになるわけですよ。

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この時期は、もうすぐ4年生に進級するんで、私の周りでは就活が始まっており、えらい就職難の年でしたし、なんだか重苦しい空気でした。勉強は苦手だったし、卒業して世の中に出たら、どんなふうに生きていくんだろうか、全くよく見えてなかったし、中には見えてる人もいたけど、個人的には、ただ漠然と日々を送っておりました。そうすると、このドラマの主人公たちも、日々そんなふうで、ああ、こういうのもありかなと思ったら、ちょっと楽な気分になったんですね。
ただ、そんなふうに無気力で刹那的なドラマかといえば、そういうことでもなく、ちゃんと元気が出る青春ドラマみたいなとこもあって、なんとなく自身と比べながら、中村雅俊さんをはじめとしたキャストたちを応援してるところもあったかもしれんです。そういうことで、その間、毎週真剣に観てたわけじゃないんだけど、なんかちょっと身近な存在にはなってたんですね。
映画になったからかもしれませんが、1975年に放送されていたこのドラマが、最近またBS日テレで再放送されていて、10年後の1985年と、20年後の1995年にスペシャルドラマも作られていたことも知りました。根強い支持のあるシリーズだったんですね。 
今回の映画は、50年後の現代に、彼らがどうなってるかみたいなお話です。
もう、そうなると映画の出来がどうこうということじゃなくて、あの若者たちが50年の時を経て、ここにどんなふうにいるのかということを確かめたくて、みんな映画館に集まって来てるようなところがありました。いずれにしてもなかなかないことではありますね、半世紀だし。

このドラマの記憶を探る時、まず浮かぶのはテーマ曲でして、オープニング曲もエンディング曲も、このドラマの気分に寄り添っていて名曲なんです。主演の中村さんが唄っていますが、作詞作曲は小椋佳さんです。
ますます古い話になって恐縮ですけど、高校生の時、音楽聴くのは、家にプレーヤーもアンプもがなかったから、ラジオとカセットテープでしたが、その頃、小椋佳という歌手は、地味に現れてきたんですね。自分で曲を書いてるみたいで、なんかいいなと思ってたんですけど、「彷徨」というアルバムがけっこう評判になって、少しずつ話題になっていきました。歌詞も曲も静かなんだけど、なんかはっきり作家性を感じる強さがあると思いました。そして、1975年に「シクラメンのかほり」という曲が大ヒットします。1976年には、資生堂のCMキャンペーンソングとして「揺れるまなざし」が、街中で流れていました。
だんだん頭角を現してくるこの人は、けっこう謎の人で、そのうち、実は銀行マンで、それも東大出のエリート行員だということがわかってきます。少し遡りますが、高校の時にラジオにこの方が出演されたことがあって、そのことを知ったんですけど、その時、とても感じのいい青年で、でもとてもかしこそうで、あの歌たちを書きそうな人で、声がめちゃ二枚目で、いっぺんに好きになりましたが、はたしてどんな顔した人だろうかと想像してたんですね。そして何年かしてテレビに出られた時に、勝手に思ってたのととてもギャップがあったのを覚えてます。
それからも、次々に曲を生み出し、ヒットも飛ばし、アルバムも売れ、着実な音楽活動をしながら、49歳までエリート行員の仕事も両立されたそうです。シンガーソングライターだけど、楽譜を書き起こせなくて、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にして、カセットに録音するという手法で、あれだけ名曲作っているのは驚きでしたが。

「俺たちの旅」

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夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく白い 長い壁
足跡も影も 残さないで
たどりつけない山の中へ
続いているものなのです

夢の夕陽は コバルト色の空と海
交わってただ 遠い果て
輝いたという 記憶だけで
ほんの小さな 一番星に
追われて消える ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
  ・
  ・
  ・

「ただお前がいい」

ただお前がいい
わずらわしさに なげた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎてきた
青春のかけらが 飛び跳ねて見えた

そのくり返しを
そのほほに写してた おまえ
また会う約束などすることもなく
それじゃまたなと別れるときの
お前がいい
  ・
  ・
  ・

 

2026年1月16日 (金)

母を失くすこと

前回の、うんと、えんと、おんの話を少し続けますが、
人の運を左右する縁というものの中には、親子の縁や夫婦の縁というのもあり、夫婦の縁はやがて新たな親子の縁も生みます。
かって私に、奥さんとの夫婦の縁ができ、私が家族というものを持てたきっかけは、うちの母の情熱と暴走ともいえるその行動が大きな要因になっておりまして、それに関して母には、恩があります。

その母が、昨年末の12月29日に亡くなりました。
クリスマスイブの日に会いに行った時にだいぶ弱っていたので、覚悟せざるを得ない状況ではありましたが、やはり年を越すことはできませんでした。夏に父が逝き、その4ヶ月後に、二人とも96歳で生涯を閉じたのですが、仲が良かったせいか揃って旅立ちまして、大往生とは云え、こちらとしてはポカンと大きな穴が空いたような心地であります。
12/29というタイミングで、こういうことになりますと、大急ぎで家族4人が東京から広島に向かう交通手段を、すぐに確保せねばならぬのですが、なかなか苦戦しまして、多少時刻はバラけましたが、どうにか30日には母に対面することはできました。最期には間に合いませんでしたけれど、眠ったような安らかなお顔でありました。

そしてお葬式です。1月の1日2日は、世の中の葬送の仕組みは止まっており、どうにか2日の夜のお通夜と、3日の11時の葬儀をお寺さんにお願いできて、4日の初七日まで含めて、どうにか一通りの流れにはなったわけです。
ただ、世間では普段通りの年末年始が続いており、テレビでは紅白歌合戦もやっているし、元旦の朝は初日の出の中継もやっております。年が明けたら世の中おめでとう一色で、なんとも不思議なお見送りとなりましたが、母は孫たちに会えるにぎやかなお正月が好きだったなと、思い返しました。
そして正月三ヶ日にもかかわらず、母が生前親しくしていただいた皆さまがたくさん来てくださり、決して寂しいお葬式にはなりませんでした。
母は本当に朗らかな人で、社交的で人気者でしたから、慕ってくださる方も多かったと思います。わりと長いことお茶の先生をしておりまして、お茶席を通じてお弟子さんも含め、たくさんの方々との交流が続いておったと思います。この数年、少し認知症が進みましたので、あまりお茶席はできませんでしたが、いろいろな方達がお見舞いに来てくださってたんですね。
母と父は1歳ちがいで二人とも戦時中に広島で育ちました。子供の時分も青春時代も、最後に原爆が投下されるまで、暗い時代と思います。ただ、二人は同じ町内に住んでいて、父は一中に、母は県立女学校に汽車通学で通っており、どうもその車中で父は母を見初めたようで、ちょっと素敵な恋をしたようです。
二人とも私にその話をしたことはないんですが、親戚のおばちゃんに教えてもらいました。父が学校を出たらすぐに結婚したようですから、幸福な結婚だったんだと思います。
でもそこからは、「禍福は糾える縄の如し」であります。
父が胸を病んで療養所に入院したり、母が流産をしたり、そのうちに私と弟が生まれたり、それからもいろんなことがあったんですけど、弟が8歳の時に病気で突然亡くなってしまったことは、何もかも無くしてしまったような、時が止まってしまったような出来事でした。
母は物干し場でしゃがみ込んで動かなくなるまでずっと泣いていたし、中1だった私は、母がこのまま後を追っていってしまうんじゃないかと、それが怖かったし、父はそんな母の状態を気にかけて、とにかく平静を保って普通にしていましたが、夜中に遺影の前で一人嗚咽していました。
その夏の終わりに、父と母の故郷である広島に3人で帰って暮らすことになります。父は新しい就職先を見つけて、私も何度目かの転校をしました。母は何かのきっかけを探すように、熱心にお茶の勉強を始めました。それからしばらくして、裏千家のお免状をいただいたんだと思います。
この時ほど、親の子供に対する愛情というものを強く感じたことはありませんでした。親とはありがたいものだと。
ただ、その思いを、そののち、母に伝えることはありませんでした。なんとなく母の気持ちを分かっていながら、態度はそこから離れてしまい、憎まれ口をたたき、おまけに高校を出てからは東京に出ていってしまって、好き勝手にフラフラ暮らして音信も途絶えがちになります。親孝行というものからますます離れていってしまった。

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遠くにいて、いつも気にかけてくれ、私と家族の幸福を祈り続けてくれていた母に、感謝を伝えることがずっとできませんでした。私の場合、これが一種のマザコンの現象かもしれませんが、いつかあやまりたいと思っていました。でも結局、今頃になって手を合わせとるようなことで、情けないです。

何十年も、仲の良かったお母さんとお父さんが、この数年はそれぞれに身体の不調で、なかなか会えなくなっていたから、これで、久しぶりにゆっくり会えたのかもしれません。
こっちは、しばらく喪失感ですけど。

2025年12月30日 (火)

うんと、えんと、おんと、、

なんだか、語呂合わせみたいなお題なんですけど、この前ふと思ったことでして、
運と、縁と、恩と、ということなんですが、
70年も生きてしまうと、多少いろんなことを振り返ってみることもあって、まあ、人生っていうのは、自分の居場所や、その周りの人たちとのかかわりの上に、成り立っておるんですが、そのあたりいろいろに思うところがあります。

運ということから云えば、ずいぶん前に会社の後輩くんたちに、ちょっと長めの手紙を書いたことがあって、それは、これまでの自分の仕事の経験談みたいなことだったんですけど、ウダウダ語ったのちに、最後にこんなこと書いたんです。
まあいろんなことがあるんですけど、自分がここまでやってこれたのは、運が良かったからかなと思います。何故そう思うかと云えば、つくづく自分一人の力なんて知れたもので、自分の足らないところは、他者に救われたり、もっと大きな力が働いたりするもんだなあと感じるからです。
長い話に付き合って、最後はそれかよと思うかもしれませんが、これってわりと大事なことなんですね。
じゃあ、どうすれば運が良くなるのかと聞かれても、わからないんですけど、たぶんどういう佇まい(たたずまい)でいるといいのかみたいなことはある気がします。

このことは理屈じゃなくていろんな場面で感じることなんです。自身の力でどうにかできることではないのだけど、たまに神社で柏手を打って、何かを祈ったりするのも運にかかわることだし、日々の暮らしの中で、身の回りを何事か大ごとが通り過ぎていって、なんとなく無事だった時なども、そういう力を感じます。
「運」にまつわる言葉としては、運が向く、強運、悪運、運の尽き、運に見放される等、いろいろありますが、いずれにしてもこいつとは付き合っていくしかないんですね。

そして「縁」というのも、生きてく局面で、時に強く感じることです。これは、人と人や、物事の、めぐりあわせやつながりを意味します。長い時間の中で振り返った時、その縁のチカラを思うことがあリます。縁に触れてそれが良縁であれば大切に育み、悪縁であれば断ち切るというのが教訓なのでしょうか。ただ、その判断はそう単純なものではないかもしれません。

この何とも捉えどころのない運とか縁とかの中にいて、時折、他者からの恩ということを不思議に感じることがあります。
あることのために、あるいは私ごときのために、どうしてあれほど深い気遣いをしてくださったのであろうか、あれほど骨を折ってくださったのであろうか、そして、たいていの場合、こちらはその事で、ものすごく救われていたりするのですね。
そしてこの歳になっても、その多くの恩には、ほとんどが恩返しをできてない状態であります。

日々の暮らしの中で、人は運に左右されて、何かの縁に救われたりして、忘れてはならぬ恩を刻むことになります。
こんなことを書いているのは、ついこの前、高校時代の親友が亡くなりまして、この人のことを思っていたんですね。
15歳の時に知り合い、なんだかすぐに仲良くなり、その後、高校の時も卒業してからもずっと長く付き合ってくれた数少ない友だちでした。
彼は地方の国立の大学へ行って、郷里の市役所に就職して働き、最近勤め上げました。こっちは東京へ行ったきりになってたんですが、たまに帰郷した時にはいつも会ってくれたんですね。なんだか、ほんとに優しくていい奴でした。私は居場所も定まらずいつもフラフラしていて、長く会えないことも多くて、友だちも少ない奴だから、彼がいつも気にかけてくれたことは嬉しかったんです。たまに会った時に近況を報告し合うだけでしたが、お互いのことはよく理解しあっていました。今回、彼を奪って行った病魔に侵されるまでは、彼らしい幸せな時間を過ごせていたと思うんですね。
本当に切なくて悔しい別れでした。

Sasie

ただ、ここに至るまで、さまざまな運や縁や恩に出逢いながら、お互い、いろんな分かれ道を選択しながら、生きて来たんだと思いました。
人は目に見えぬ何かの力によって、導かれることがあります。
うれしいこともあれば、やなこともあって、お互いジジイになったとこで、柄じゃないけど、彼とちょっとだけ人生の話でもしてみたかったんです。

2025年10月27日 (月)

70年も前の映画なんだが

Seven_samurai_2 「七人の侍」新4Kリマスター版 3週間限定上映というのがありましてですね。そりゃこうしちゃあいられねえってわけで、朝の9時から新宿の東宝まで行ってきました。

皆さんよくご存知の黒澤明監督の大作で、世界中が絶賛した名作なんですけど、私が生まれた年の公開ですから、もう70年も前の映画なんです。
そういうことなんで、もう何遍も観ていて、シーンによってはセリフも覚えてるくらいなんですが、そういえば、大きなスクリーンで3時間半、通しで観たのは遥か昔のことで、もう一回ちゃんと観ておきたいとは思っていたんですね。

最初に観たのはよく覚えてないんですけど、たぶん中学か高校の頃、映画館でリバイバルの上映だったか、もしかしたらテレビだったか忘れてますが、とにかくものすごく心を揺さぶられて、茫然自失になったことを覚えています。
なんだかよくわからないけど、観ているうちにあの世界に入っていって、侍と農民たちと一緒に、野武士軍団と闘っている自分がいるんですよね。そういう感覚になる映画ってそうはなくてですね、ずいぶん久しぶりに見ても、やっぱりそういうふうになるから不思議です。
監督もスタッフも俳優さん達も、もうあらかたいらっしゃらないんですけどね。
時代劇ではあるんですけど、出てくる人たちや風景に、妙にリアリティがあって、前からなんでだろうとは思っていたのですけど、それはもちろん技術的にすごく上手に作られてるんだろうが、ひょっとして、それってこの映画が封切られた時代にも関係あるのかなとも、思ったんですよ。
この物語はシナリオ上、どうしても生きるか死ぬかの戦いを描いており、一般人を巻き込んだ小さな戦争の中で、次々に人が死んでいくことになります。主人公の七人の侍も、残ったのは3人だし、野武士は全滅だし、村人達もずいぶん亡くなります。
この映画の持っているリアル感は、制作側の意図とかというより、あの敗戦からまだ9年しか経っていない、あの時代の空気が映っているような気がしたんですね。私が生まれたばかりのあの頃、世相は色濃く戦争を記憶してたと思うんです。

ずいぶん長尺の映画なんで、多少忘れてる場面があったり、シーンの順番が思ってたのと逆だったりすることはあるものの、その世界感がしっかりと記憶と結びついている映画であることは間違いないですね。
先日亡くなったうちの父は、映画好きで、私がずいぶん小さな時から、自分が見たい映画には、かまわず連れて行く人でして、私も機嫌よく黙ってずっと観てる子だったようで、洋画も邦画もたくさん見せてもらったんですけど、子供心にクロサワカントクという人のことはおのずとインプットされたようでして、やがて少し大きくなって、この名作に出会ったと記憶しています。
すごく個人的なことなんですが、何年も前に自分たちで作った小さな会社の代表を務めることになった時に、あんまり覚悟ができてなくて、どんなリーダーを目指すのが良いのだろうかと思って、いろんな人のことを巡り浮かべた時に、この「七人の侍」で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のことを思い出したんです。実際にそこから何かを参考にしたわけじゃ無いんですけど、気持ちのどこかに島田官兵衛という人を覚えているようにはしようと思ったんですね。

自分が生まれた年に封切られた映画なのに、何度観ても、同じ読後感だなあと思いながら映画館の出口の方へ歩いていたら、後ろからポンと肩を叩いた満面笑顔の人がいて、よく見たら何十年もお世話になっている、新宿の老舗居酒屋「池林房」の店主のトクちゃんでした。
やっぱ、この年代の人は、この映画を何遍でも観に来るんだなと思ったんですね。

2025年9月29日 (月)

父との別れ

8月の26日に、父が身罷りました。
当日の朝早くに、お世話になっている施設の看護師さんから電話があって、呼吸が浅くなっているとの知らせをいただき、急いで広島に向かいましたが、その臨終には間に合いませんでした。
主治医から、すでに老衰の状態であるということを聞いてはおりましたが、最後は眠るように安らかであったとのことで、その表情はしごく穏やかでありました。
ここしばらくは、会っていても、話をするのも難しくなっており、本人も自分の身体のあちこちがなるようにならず、何かとしんどかったと思います。この何年かは本当によく頑張ったんだなと、思い返しました。目を閉じたその表情は、少しホッとしたようにも見えたんですね。

そこからは、急に忙しく葬儀を執り行うことになります。感慨に浸ってる暇はありません。
父は広島のこの地が生まれ故郷であり、長く暮らしましたので、地元の親戚や友人も多かったのですが、96歳となりますと、その多くの方々もほとんどいらっしゃらなくなっておりまして、家族葬という形になりました。長い時間の中で、何度か覚悟したことでしたが、やはり切ないものではありました。
父は昭和3年の生まれですので、その成長期はまさに戦時中です。昭和6年の満州事変から、日本は大陸で常に戦争状態で、昭和16年には太平洋戦争が始まり、4年後の敗戦までこの国の戦時体制は終わることなく、その最後に、父は広島で被爆することにもなります。
子供の頃から、いつも国が戦争をしていたという大変な時代を生きた世代でして、戦後に生まれた我々からはちょっと想像がつかない時代です。
世の中がガラリと変わって戦後が始まった頃に、父は大人になるのですが、子供の頃から勉強ができる人だったようで、京都大学の法学部に進みます。そこから大手造船会社に就職して、わりとすぐに母と結婚し、もう戦後は終わったと云われるようになった頃、私が生まれます。やがて弟も生まれ、転勤があったり、入院があったり、いろいろあったんですが、何ごとにも一生懸命な頼りになる父でした。
サラリーマンで、ずっと勤め人として働いた人で、おそらくいいことばかりじゃなかったことも、息子なりに多少感じたりもしましたが、仕事のことで愚痴をこぼしたのを聞いた覚えはありませんでした。
それからしばらくして、私が中学に入ってから、うちの家族にはショックな出来事がありまして、弟を病気で亡くしたんですね。その直後に父は会社を辞め、故郷に帰って再就職をします。一人減って三人になったうちの家族は、広島に転居することになりました。
そのような事で、私は中学の途中から高校までを広島で過ごし、のちのち父と母の期待に応えて生きようと思っておりましたが、なんとなく東京の方へ出て行って、その後、将来へ向けてのきちんとしたビジョンもないまま、フラフラしており、心配ばかりをかけて申し訳なく思っておった次第です。
ただ、父は、私のちょっといい加減な進路の選択には、必ず理解を示してくれ応援してくれました。そのことは励みになりましたし、感謝をしています。それから私は結局ずっと東京で暮らしておりましたので、実家には戻らぬままでしたが、父も母もいつも気にかけてくれていたことは、よくわかっておりました。ちゃんとした礼も言わぬままでしたが。
親孝行などということは、何もできておりませんが、二人の孫が生まれたことはひどく喜んでくれました。
そういえばずいぶん前、まだ元気な頃に一度、うちの会社で作ったビールのテレビCMに父と母が出たことがあって、二人ともビールが好きでしたから、それはうまそうに飲んでいて、地元の人たちの間でずいぶんと話題になったんですけど、その時は、照れながらも少し嬉しそうにはしておりましたね。

Tousan_2

葬儀が終わり、父がお世話になっていた施設にご挨拶に行った時に、担当してくださった若い介護士の方々から、生前の父のことを聞かせていただきました。シャイなところはあったけれど、とても気持ちの伝わる人で、笑い顔がチャーミングだったと。何かしてあげると、必ず「ありがとう」を云ってくれていたと聞き、ちょっと身内としては嬉しかったんですね。
やがて訪れることになる別れでしたが、96歳まで長生きしてくれて、この何年かはしんどい事も多かったけど、70年も親子でいれて、感謝です。
生きてるうちに、ちゃんと言っとけばよかったです、ありがとうございました、と。

2025年7月25日 (金)

壊す力

わりと長く生きておりますと、いろんなことを思うんですが、
人は自分なりに何かを作り上げるために、生きて暮らして、それを人生の目的としたりしております、多くの場合。
それはひとつの家のことだったり、家族であったり、仕事であったり、あるいはその成果物であったり、また、そういった様々の人たちが、ある目標のために集まることによって起こる組織であったり、会社であったり、そのために必要となる建物があったり、そして色んななりわいが共存する街ができ、都市ができ、そしてその自治体を、それを取りまとめた国を運営していくために行政があり、そのおおもとに政治があるんですね。
何を長々と書いているかといえば、最近選挙があったりしたもので、あー、こういったことを、ずいぶんと長い間繰り返して、今に至っているのだなと思ったんです。私が見てるだけでも半世紀になるんですけど、政治というものもいったい進歩しているのか、前よりも良くなったりしているのか。なんだかよくわからないもんではあります。
それと同じようにということでもないんですけど、世の中のいろいろな団体や会社組織というのも、それと似たようなところがあって、これまで長い時間をかけて、手間をかけて、積み上げてきた実績やノウハウが、今に生かされているのかどうか、ということがあります。
仕事でも仕組みでも、長い間同じことを繰り返しておりますと、マンネリに陥るということがあり、新鮮味を失ったり、過去の失敗からリスクを恐れて自分たちで新たなルールを作ってがんじがらめにしてしまうこともあります。
人がやることなんでいろいろだけど、語弊を恐れずに云うとですね、ひとつのことを続けていると、なんとなく、それそのものは後退はしないまでも、新しい変化が起きにくくなることはよくあるんですね。
私のいる業界も、モノを作ったり、何らかのサービスを提供したりする仕事なんですが、この問題は何かと見え隠れしております。そう言う空気を感じた時、「少しずつ改善しましょう」とか、「徐々に変えて行きましょう」みたいな話になりがちですが、ひとつの形を守りながら、うまいこと変えてみようと云うのはだいたい解決策になりにくいです。
そこで、そういう時に大事なのは、スクラップアンドビルドじゃないですけど、今までに積み重ねてきたものを、一回全部ぶっ壊してチャラにすることだったりするんですね。ゴジラが通ったあとのように何もない状態にするということですが、そこで必要になるのは、それを断行できる胆力だけです。
でも、これがなかなか難しいことではあります。それを決断すればその結果に責任を持たねばならないし、当然ギャンブル性も高くなります。いずれにしても乱暴な選択ではあるんです。
古来、その手の話の例は、大なり小なりいろいろありますが、それで何もかもうまく行くわけでもなく、失敗もあれば、成功もあり、そのどちらでもない場合もあるようです。

それと、何かをぶち壊す役目というのは、だいたいにおいて、昔から男の仕事だったように思います。まあ普通に考えてみれば、何かをぶち壊すという行為は、女性には向かない、むしろ女性はモノを壊すより作る方に適性があるという固定観念もあります。ただよく考えてみると、昨今ではわりと壊すことに適性のある女子もいらっしゃる気もするんですけどね。

Godzilla_5

だいたいゴジラって男なんでしょうか、女なんでしょうか。

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