2026年1月16日 (金)

母を失くすこと

前回の、うんと、えんと、おんの話を少し続けますが、
人の運を左右する縁というものの中には、親子の縁や夫婦の縁というのもあり、夫婦の縁はやがて新たな親子の縁も生みます。
かって私に、奥さんとの夫婦の縁ができ、私が家族というものを持てたきっかけは、うちの母の情熱と暴走ともいえるその行動が大きな要因になっておりまして、それに関して母には、恩があります。

その母が、昨年末の12月29日に亡くなりました。
クリスマスイブの日に会いに行った時にだいぶ弱っていたので、覚悟せざるを得ない状況ではありましたが、やはり年を越すことはできませんでした。夏に父が逝き、その4ヶ月後に、二人とも96歳で生涯を閉じたのですが、仲が良かったせいか揃って旅立ちまして、大往生とは云え、こちらとしてはポカンと大きな穴が空いたような心地であります。
12/29というタイミングで、こういうことになりますと、大急ぎで家族4人が東京から広島に向かう交通手段を、すぐに確保せねばならぬのですが、なかなか苦戦しまして、多少時刻はバラけましたが、どうにか30日には母に対面することはできました。最期には間に合いませんでしたけれど、眠ったような安らかなお顔でありました。

そしてお葬式です。1月の1日2日は、世の中の葬送の仕組みは止まっており、どうにか2日の夜のお通夜と、3日の11時の葬儀をお寺さんにお願いできて、4日の初七日まで含めて、どうにか一通りの流れにはなったわけです。
ただ、世間では普段通りの年末年始が続いており、テレビでは紅白歌合戦もやっているし、元旦の朝は初日の出の中継もやっております。年が明けたら世の中おめでとう一色で、なんとも不思議なお見送りとなりましたが、母は孫たちに会えるにぎやかなお正月が好きだったなと、思い返しました。
そして正月三ヶ日にもかかわらず、母が生前親しくしていただいた皆さまがたくさん来てくださり、決して寂しいお葬式にはなりませんでした。
母は本当に朗らかな人で、社交的で人気者でしたから、慕ってくださる方も多かったと思います。わりと長いことお茶の先生をしておりまして、お茶席を通じてお弟子さんも含め、たくさんの方々との交流が続いておったと思います。この数年、少し認知症が進みましたので、あまりお茶席はできませんでしたが、いろいろな方達がお見舞いに来てくださってたんですね。
母と父は1歳ちがいで二人とも戦時中に広島で育ちました。子供の時分も青春時代も、最後に原爆が投下されるまで、暗い時代と思います。ただ、二人は同じ町内に住んでいて、父は一中に、母は県立女学校に汽車通学で通っており、どうもその車中で父は母を見初めたようで、ちょっと素敵な恋をしたようです。
二人とも私にその話をしたことはないんですが、親戚のおばちゃんに教えてもらいました。父が学校を出たらすぐに結婚したようですから、幸福な結婚だったんだと思います。
でもそこからは、「禍福は糾える縄の如し」であります。
父が胸を病んで療養所に入院したり、母が流産をしたり、そのうちに私と弟が生まれたり、それからもいろんなことがあったんですけど、弟が8歳の時に病気で突然亡くなってしまったことは、何もかも無くしてしまったような、時が止まってしまったような出来事でした。
母は物干し場でしゃがみ込んで動かなくなるまでずっと泣いていたし、中1だった私は、母がこのまま後を追っていってしまうんじゃないかと、それが怖かったし、父はそんな母の状態を気にかけて、とにかく平静を保って普通にしていましたが、夜中に遺影の前で一人嗚咽していました。
その夏の終わりに、父と母の故郷である広島に3人で帰って暮らすことになります。父は新しい就職先を見つけて、私も何度目かの転校をしました。母は何かのきっかけを探すように、熱心にお茶の勉強を始めました。それからしばらくして、裏千家のお免状をいただいたんだと思います。
この時ほど、親の子供に対する愛情というものを強く感じたことはありませんでした。親とはありがたいものだと。
ただ、その思いを、そののち、母に伝えることはありませんでした。なんとなく母の気持ちを分かっていながら、態度はそこから離れてしまい、憎まれ口をたたき、おまけに高校を出てからは東京に出ていってしまって、好き勝手にフラフラ暮らして音信も途絶えがちになります。親孝行というものからますます離れていってしまった。

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遠くにいて、いつも気にかけてくれ、私と家族の幸福を祈り続けてくれていた母に、感謝を伝えることがずっとできませんでした。私の場合、これが一種のマザコンの現象かもしれませんが、いつかあやまりたいと思っていました。でも結局、今頃になって手を合わせとるようなことで、情けないです。

何十年も、仲の良かったお母さんとお父さんが、この数年はそれぞれに身体の不調で、なかなか会えなくなっていたから、これで、久しぶりにゆっくり会えたのかもしれません。
こっちは、しばらく喪失感ですけど。

2025年12月30日 (火)

うんと、えんと、おんと、、

なんだか、語呂合わせみたいなお題なんですけど、この前ふと思ったことでして、
運と、縁と、恩と、ということなんですが、
70年も生きてしまうと、多少いろんなことを振り返ってみることもあって、まあ、人生っていうのは、自分の居場所や、その周りの人たちとのかかわりの上に、成り立っておるんですが、そのあたりいろいろに思うところがあります。

運ということから云えば、ずいぶん前に会社の後輩くんたちに、ちょっと長めの手紙を書いたことがあって、それは、これまでの自分の仕事の経験談みたいなことだったんですけど、ウダウダ語ったのちに、最後にこんなこと書いたんです。
まあいろんなことがあるんですけど、自分がここまでやってこれたのは、運が良かったからかなと思います。何故そう思うかと云えば、つくづく自分一人の力なんて知れたもので、自分の足らないところは、他者に救われたり、もっと大きな力が働いたりするもんだなあと感じるからです。
長い話に付き合って、最後はそれかよと思うかもしれませんが、これってわりと大事なことなんですね。
じゃあ、どうすれば運が良くなるのかと聞かれても、わからないんですけど、たぶんどういう佇まい(たたずまい)でいるといいのかみたいなことはある気がします。

このことは理屈じゃなくていろんな場面で感じることなんです。自身の力でどうにかできることではないのだけど、たまに神社で柏手を打って、何かを祈ったりするのも運にかかわることだし、日々の暮らしの中で、身の回りを何事か大ごとが通り過ぎていって、なんとなく無事だった時なども、そういう力を感じます。
「運」にまつわる言葉としては、運が向く、強運、悪運、運の尽き、運に見放される等、いろいろありますが、いずれにしてもこいつとは付き合っていくしかないんですね。

そして「縁」というのも、生きてく局面で、時に強く感じることです。これは、人と人や、物事の、めぐりあわせやつながりを意味します。長い時間の中で振り返った時、その縁のチカラを思うことがあリます。縁に触れてそれが良縁であれば大切に育み、悪縁であれば断ち切るというのが教訓なのでしょうか。ただ、その判断はそう単純なものではないかもしれません。

この何とも捉えどころのない運とか縁とかの中にいて、時折、他者からの恩ということを不思議に感じることがあります。
あることのために、あるいは私ごときのために、どうしてあれほど深い気遣いをしてくださったのであろうか、あれほど骨を折ってくださったのであろうか、そして、たいていの場合、こちらはその事で、ものすごく救われていたりするのですね。
そしてこの歳になっても、その多くの恩には、ほとんどが恩返しをできてない状態であります。

日々の暮らしの中で、人は運に左右されて、何かの縁に救われたりして、忘れてはならぬ恩を刻むことになります。
こんなことを書いているのは、ついこの前、高校時代の親友が亡くなりまして、この人のことを思っていたんですね。
15歳の時に知り合い、なんだかすぐに仲良くなり、その後、高校の時も卒業してからもずっと長く付き合ってくれた数少ない友だちでした。
彼は地方の国立の大学へ行って、郷里の市役所に就職して働き、最近勤め上げました。こっちは東京へ行ったきりになってたんですが、たまに帰郷した時にはいつも会ってくれたんですね。なんだか、ほんとに優しくていい奴でした。私は居場所も定まらずいつもフラフラしていて、長く会えないことも多くて、友だちも少ない奴だから、彼がいつも気にかけてくれたことは嬉しかったんです。たまに会った時に近況を報告し合うだけでしたが、お互いのことはよく理解しあっていました。今回、彼を奪って行った病魔に侵されるまでは、彼らしい幸せな時間を過ごせていたと思うんですね。
本当に切なくて悔しい別れでした。

Sasie

ただ、ここに至るまで、さまざまな運や縁や恩に出逢いながら、お互い、いろんな分かれ道を選択しながら、生きて来たんだと思いました。
人は目に見えぬ何かの力によって、導かれることがあります。
うれしいこともあれば、やなこともあって、お互いジジイになったとこで、柄じゃないけど、彼とちょっとだけ人生の話でもしてみたかったんです。

2025年10月27日 (月)

70年も前の映画なんだが

Seven_samurai_2 「七人の侍」新4Kリマスター版 3週間限定上映というのがありましてですね。そりゃこうしちゃあいられねえってわけで、朝の9時から新宿の東宝まで行ってきました。

皆さんよくご存知の黒澤明監督の大作で、世界中が絶賛した名作なんですけど、私が生まれた年の公開ですから、もう70年も前の映画なんです。
そういうことなんで、もう何遍も観ていて、シーンによってはセリフも覚えてるくらいなんですが、そういえば、大きなスクリーンで3時間半、通しで観たのは遥か昔のことで、もう一回ちゃんと観ておきたいとは思っていたんですね。

最初に観たのはよく覚えてないんですけど、たぶん中学か高校の頃、映画館でリバイバルの上映だったか、もしかしたらテレビだったか忘れてますが、とにかくものすごく心を揺さぶられて、茫然自失になったことを覚えています。
なんだかよくわからないけど、観ているうちにあの世界に入っていって、侍と農民たちと一緒に、野武士軍団と闘っている自分がいるんですよね。そういう感覚になる映画ってそうはなくてですね、ずいぶん久しぶりに見ても、やっぱりそういうふうになるから不思議です。
監督もスタッフも俳優さん達も、もうあらかたいらっしゃらないんですけどね。
時代劇ではあるんですけど、出てくる人たちや風景に、妙にリアリティがあって、前からなんでだろうとは思っていたのですけど、それはもちろん技術的にすごく上手に作られてるんだろうが、ひょっとして、それってこの映画が封切られた時代にも関係あるのかなとも、思ったんですよ。
この物語はシナリオ上、どうしても生きるか死ぬかの戦いを描いており、一般人を巻き込んだ小さな戦争の中で、次々に人が死んでいくことになります。主人公の七人の侍も、残ったのは3人だし、野武士は全滅だし、村人達もずいぶん亡くなります。
この映画の持っているリアル感は、制作側の意図とかというより、あの敗戦からまだ9年しか経っていない、あの時代の空気が映っているような気がしたんですね。私が生まれたばかりのあの頃、世相は色濃く戦争を記憶してたと思うんです。

ずいぶん長尺の映画なんで、多少忘れてる場面があったり、シーンの順番が思ってたのと逆だったりすることはあるものの、その世界感がしっかりと記憶と結びついている映画であることは間違いないですね。
先日亡くなったうちの父は、映画好きで、私がずいぶん小さな時から、自分が見たい映画には、かまわず連れて行く人でして、私も機嫌よく黙ってずっと観てる子だったようで、洋画も邦画もたくさん見せてもらったんですけど、子供心にクロサワカントクという人のことはおのずとインプットされたようでして、やがて少し大きくなって、この名作に出会ったと記憶しています。
すごく個人的なことなんですが、何年も前に自分たちで作った小さな会社の代表を務めることになった時に、あんまり覚悟ができてなくて、どんなリーダーを目指すのが良いのだろうかと思って、いろんな人のことを巡り浮かべた時に、この「七人の侍」で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のことを思い出したんです。実際にそこから何かを参考にしたわけじゃ無いんですけど、気持ちのどこかに島田官兵衛という人を覚えているようにはしようと思ったんですね。

自分が生まれた年に封切られた映画なのに、何度観ても、同じ読後感だなあと思いながら映画館の出口の方へ歩いていたら、後ろからポンと肩を叩いた満面笑顔の人がいて、よく見たら何十年もお世話になっている、新宿の老舗居酒屋「池林房」の店主のトクちゃんでした。
やっぱ、この年代の人は、この映画を何遍でも観に来るんだなと思ったんですね。

2025年9月29日 (月)

父との別れ

8月の26日に、父が身罷りました。
当日の朝早くに、お世話になっている施設の看護師さんから電話があって、呼吸が浅くなっているとの知らせをいただき、急いで広島に向かいましたが、その臨終には間に合いませんでした。
主治医から、すでに老衰の状態であるということを聞いてはおりましたが、最後は眠るように安らかであったとのことで、その表情はしごく穏やかでありました。
ここしばらくは、会っていても、話をするのも難しくなっており、本人も自分の身体のあちこちがなるようにならず、何かとしんどかったと思います。この何年かは本当によく頑張ったんだなと、思い返しました。目を閉じたその表情は、少しホッとしたようにも見えたんですね。

そこからは、急に忙しく葬儀を執り行うことになります。感慨に浸ってる暇はありません。
父は広島のこの地が生まれ故郷であり、長く暮らしましたので、地元の親戚や友人も多かったのですが、96歳となりますと、その多くの方々もほとんどいらっしゃらなくなっておりまして、家族葬という形になりました。長い時間の中で、何度か覚悟したことでしたが、やはり切ないものではありました。
父は昭和3年の生まれですので、その成長期はまさに戦時中です。昭和6年の満州事変から、日本は大陸で常に戦争状態で、昭和16年には太平洋戦争が始まり、4年後の敗戦までこの国の戦時体制は終わることなく、その最後に、父は広島で被爆することにもなります。
子供の頃から、いつも国が戦争をしていたという大変な時代を生きた世代でして、戦後に生まれた我々からはちょっと想像がつかない時代です。
世の中がガラリと変わって戦後が始まった頃に、父は大人になるのですが、子供の頃から勉強ができる人だったようで、京都大学の法学部に進みます。そこから大手造船会社に就職して、わりとすぐに母と結婚し、もう戦後は終わったと云われるようになった頃、私が生まれます。やがて弟も生まれ、転勤があったり、入院があったり、いろいろあったんですが、何ごとにも一生懸命な頼りになる父でした。
サラリーマンで、ずっと勤め人として働いた人で、おそらくいいことばかりじゃなかったことも、息子なりに多少感じたりもしましたが、仕事のことで愚痴をこぼしたのを聞いた覚えはありませんでした。
それからしばらくして、私が中学に入ってから、うちの家族にはショックな出来事がありまして、弟を病気で亡くしたんですね。その直後に父は会社を辞め、故郷に帰って再就職をします。一人減って三人になったうちの家族は、広島に転居することになりました。
そのような事で、私は中学の途中から高校までを広島で過ごし、のちのち父と母の期待に応えて生きようと思っておりましたが、なんとなく東京の方へ出て行って、その後、将来へ向けてのきちんとしたビジョンもないまま、フラフラしており、心配ばかりをかけて申し訳なく思っておった次第です。
ただ、父は、私のちょっといい加減な進路の選択には、必ず理解を示してくれ応援してくれました。そのことは励みになりましたし、感謝をしています。それから私は結局ずっと東京で暮らしておりましたので、実家には戻らぬままでしたが、父も母もいつも気にかけてくれていたことは、よくわかっておりました。ちゃんとした礼も言わぬままでしたが。
親孝行などということは、何もできておりませんが、二人の孫が生まれたことはひどく喜んでくれました。
そういえばずいぶん前、まだ元気な頃に一度、うちの会社で作ったビールのテレビCMに父と母が出たことがあって、二人ともビールが好きでしたから、それはうまそうに飲んでいて、地元の人たちの間でずいぶんと話題になったんですけど、その時は、照れながらも少し嬉しそうにはしておりましたね。

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葬儀が終わり、父がお世話になっていた施設にご挨拶に行った時に、担当してくださった若い介護士の方々から、生前の父のことを聞かせていただきました。シャイなところはあったけれど、とても気持ちの伝わる人で、笑い顔がチャーミングだったと。何かしてあげると、必ず「ありがとう」を云ってくれていたと聞き、ちょっと身内としては嬉しかったんですね。
やがて訪れることになる別れでしたが、96歳まで長生きしてくれて、この何年かはしんどい事も多かったけど、70年も親子でいれて、感謝です。
生きてるうちに、ちゃんと言っとけばよかったです、ありがとうございました、と。

2025年7月25日 (金)

壊す力

わりと長く生きておりますと、いろんなことを思うんですが、
人は自分なりに何かを作り上げるために、生きて暮らして、それを人生の目的としたりしております、多くの場合。
それはひとつの家のことだったり、家族であったり、仕事であったり、あるいはその成果物であったり、また、そういった様々の人たちが、ある目標のために集まることによって起こる組織であったり、会社であったり、そのために必要となる建物があったり、そして色んななりわいが共存する街ができ、都市ができ、そしてその自治体を、それを取りまとめた国を運営していくために行政があり、そのおおもとに政治があるんですね。
何を長々と書いているかといえば、最近選挙があったりしたもので、あー、こういったことを、ずいぶんと長い間繰り返して、今に至っているのだなと思ったんです。私が見てるだけでも半世紀になるんですけど、政治というものもいったい進歩しているのか、前よりも良くなったりしているのか。なんだかよくわからないもんではあります。
それと同じようにということでもないんですけど、世の中のいろいろな団体や会社組織というのも、それと似たようなところがあって、これまで長い時間をかけて、手間をかけて、積み上げてきた実績やノウハウが、今に生かされているのかどうか、ということがあります。
仕事でも仕組みでも、長い間同じことを繰り返しておりますと、マンネリに陥るということがあり、新鮮味を失ったり、過去の失敗からリスクを恐れて自分たちで新たなルールを作ってがんじがらめにしてしまうこともあります。
人がやることなんでいろいろだけど、語弊を恐れずに云うとですね、ひとつのことを続けていると、なんとなく、それそのものは後退はしないまでも、新しい変化が起きにくくなることはよくあるんですね。
私のいる業界も、モノを作ったり、何らかのサービスを提供したりする仕事なんですが、この問題は何かと見え隠れしております。そう言う空気を感じた時、「少しずつ改善しましょう」とか、「徐々に変えて行きましょう」みたいな話になりがちですが、ひとつの形を守りながら、うまいこと変えてみようと云うのはだいたい解決策になりにくいです。
そこで、そういう時に大事なのは、スクラップアンドビルドじゃないですけど、今までに積み重ねてきたものを、一回全部ぶっ壊してチャラにすることだったりするんですね。ゴジラが通ったあとのように何もない状態にするということですが、そこで必要になるのは、それを断行できる胆力だけです。
でも、これがなかなか難しいことではあります。それを決断すればその結果に責任を持たねばならないし、当然ギャンブル性も高くなります。いずれにしても乱暴な選択ではあるんです。
古来、その手の話の例は、大なり小なりいろいろありますが、それで何もかもうまく行くわけでもなく、失敗もあれば、成功もあり、そのどちらでもない場合もあるようです。

それと、何かをぶち壊す役目というのは、だいたいにおいて、昔から男の仕事だったように思います。まあ普通に考えてみれば、何かをぶち壊すという行為は、女性には向かない、むしろ女性はモノを壊すより作る方に適性があるという固定観念もあります。ただよく考えてみると、昨今ではわりと壊すことに適性のある女子もいらっしゃる気もするんですけどね。

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だいたいゴジラって男なんでしょうか、女なんでしょうか。

2025年7月 5日 (土)

先生の画集

5月の20日頃に、いくつかの用事があって故郷へ向かったのですが、そのうちの一つに、高校時代の何人かの友人たちと3年生のときの担任の先生にお会いする集まりというのがありました。
倉岡先生と云います。私にとっての学校の先生の中で、唯一今でも年賀状を出している恩師ですが、今年の1月に、その倉岡先生が地元の新聞社から取材を受けて、その記事が掲載されたんですね。
どういうことかというとですね。先生は60歳で退職されたあと、奥さんと一緒に世界遺産を巡る旅を始めました。それで、35カ国の訪問先でスケッチを重ね、水彩画の作品200点を仕上げられたそうなんですね。その画を基に世界遺産105ヶ所を紹介するDVD(1時間36分)が完成して、そのニュースが新聞に載ったということで、現在おん年84歳ですが、とてもお元気でして、みんなでビールで乾杯してお祝いしようということになったんです。
そういえば、もう何年も先生からいただく年賀状には、いつも世界中の色々な風景が描かれていて、それがとてもいい絵でした。その集大成が完成したのだなということは、察しがついたのですが、DVDを見せていただくと、その積み重ねられた時間と気力と好奇心に感動を覚えます。
こんなふうに紹介しますと、この先生は美術の先生かなと思われるかもしれませんが、実は体育の先生でして、母校でもいくつかの高校でもサッカー部の監督を務められ、ご自身も大学時代は教育大のゴールキーパーとして活躍されていました。
当時の記憶で強く残っているのは、なわとび運動を深く研究されていたことで、全生徒、かなりきちんと指導を受けました。今回、その「なわとび運動」を解説した本を全員にくださいましたが、その中にあるイラストは全部先生が自分で描かれていて、さすがでした。
あの頃、僕らは16歳か17歳で、先生は14歳年上でしたから、すごく大人に見えましたが、思えば30歳過ぎの厳しさの中に優しさのあるとてもいい先生でした。
高校3年生というのは、始まるとすぐに受験の話になるし、進路も分かれてくるのでなんだかまとまりにくい学年なんですけど、倉岡先生とこのクラスは結構仲が良かった気がしますね。学園祭で8m/m映画を作ったりして、盛り上がったりしたし、50年も経つのにその話でまた盛り上がってましたからね。なんか受験の季節にしては笑いも多かった気もします。
ただ、結局思ったとおり、あんまり勉強もしないで、それは自分のせいだけど行く大学がなくて、ああ浪人かと思っていた時に、先生に勧めてもらった東京の学校に合格できて同じクラスの仲良しのキムラくんと一緒に上京することになります。

考えてみると、あのときの先生の一言から、いろいろあったけど、今の自分につながっているわけですよ。不思議ですね。
それはともかく、あのまだ10代の後半だった少年少女たちが、70歳となり先生は84歳で、でもこうやってお会いできたことに、驚きつつも感謝です。
あの頃年齢的には、先生は僕らの倍くらいだったけど、こちらももう古希になれば、14歳の差は追いつけそうな勢いです。それくらい先生は若いです。多分そういう生き方をされてきたからだと思います。僕らも老け込んでる場合ではありませんよお。

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2025年5月13日 (火)

誰かに手紙を書くということ

このブログのようなものを書き始めたのは、ちょうど50歳になった頃でしたので、約20年前ですけど、世の中にブログと云うものが多少浸透し始めておりまして、試しに何か書いてみようかと思ったのがきっかけでしたが、その時なんていうか、どういうつもりで書くのがいいのかな、と考えたんですね。
特に誰かに向けて書くわけでもなく、自分ごとを日記的に書くのだけど、ブログは仕組み上、誰でも読めるものでもあります。そこで、相手は特定できないけれど、そこにいる誰かとちょっと酒でも飲みながら話すような気持ちで、自分に向けた独り言のような手紙を書いてみようかと思ったんです。
そういう気分なんで、パソコンのキーボードにいきなり打ち込むんじゃなく、一度、万年筆で紙に書いてみることにしてみました。私の尊敬している高名な俳優の方が葉書をくださる際、万年筆のとても個性的で素敵な筆跡でして、それがカッコ良くてですね、そういうところがミーハーなんですけど。
これは固有名詞と漢字の復活学習にもなるし、そうやってみると意外にスラスラ書けたんですね。それに、手紙を書く技量みたいなものが、少し訓練されると良いかなとも思ったんです。

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世の中には、いい手紙というものを書く方がいらっしゃいます。それはこの仕事をしていると、時々、出会うことがあるんですね。ラブレターみたいな個人的なものではなくて、どちらかといえば仕事上の手紙だったりするのですが。僕らの業界には、いわゆる言葉とか文章とかを書くことを生業(なりわい)としている達人がいらして、そういう方から手紙をいただいたりすると、わりと痺れることがあるんですね。
テレビのCMのような、広告の映像ツールを作る仕事を長くやってますと、この仕事は、それを見てくれる誰かに向けて、個人的に手紙を書いているようなところがあると思うんです。
どういうことかと云うと、広告と云うのは、その中身がただ正しく間違いなく伝えられたとしても、受け取った人がそれに関心を持ったり、気にかかったりしなければ、あんまり効力がなくてですね、受け手が興味とか感動のようなものを覚えるような文脈や仕掛けを潜ませられるかを考えるわけですが、そのあたりが、相手のことを想いうかべながら書く手紙と似通っているような気がします。
このところ、仕事上の伝達ツールの主役は、電話からメールへと移行する傾向にあって、このメールというのもある意味 手紙でありまして、いかに相手に的確にこちらの意図や気持ちが伝わるかというのは、その書き方によって大きく違ってきたりします。
まあ、昨今のみなさんはスマホも含め十分にメールとかLINE等を使いこなしてる世代ですから、用件をいかに速やかに正確に伝えるかという技術は、私の世代の比ではないかもしれませんが。
考えてみれば、私などが仕事を始めた頃は、メールというものは全く存在すらしてなかったわけで、faxもなくて、石器時代のようなもんですが、逆にその頃誰かに書いた手紙は、数少ないですけど、渾身の筆圧で書いたもんでした。 
仕事上、書く手紙もいろんな手紙があって、それは、ご挨拶、お礼、お詫び、頼み事、報告、相談、等々、様々です。基本的に対面すべきところを、都合がつかずに取り急ぎ、というケースが多いですが、逆に敢えて手紙を書くという選択をすることもあります。
たとえば、かなりハードルの高い難問を抱えた時とか、わりとそういうことの多い仕事ではあるんですが、自分なりに考えたことを手紙にして、肝心な人に読んでもらって、予めキャッチボールをしておいたりします。その課題を、ちょっと角度を変えてみて、間を作ってみたり。時間をかけて何かを練り込んでゆく時には、手紙のやり取りが功を奏することがあります。
それに面と向かっては言いにくいことも、手紙だと言えたりというのもありますしね。
 
手紙を書くのって、やはり一度立ち止まって、じっくり相手のことを考えるし、また自分が送るメッセージをきちんと整理できるメリットもあります。
face to face で人が接すれば、その場でいろんな化学反応も起きて面白いし、瞬時の判断で何かが生まれたり、物事を前に進めていくときの基本スタイルなんですけど、そこにいい手紙という要素が加わると、その強度が増します。
手紙には、全く別の時間軸で何かを醸成していく力があるかもしれません。

2025年4月12日 (土)

クレイメーションの達人が、、

この前、アニメーションのことを少し書いたんですけど、このアニメーションという技術は、ある部分において私どもの仕事のかなり近いところにありまして、いろんな機会に接することも多いんですね。若い頃にアニメーションのCMの仕事で、すごく世話になって、いろんな事を教えてもらったアニメーターで、森まさあきさんと云う方が、急に先月、病気でお亡くなりになりました。享年69歳という事でして、ずいぶん驚いて、お別れの会に行ったんですけれども、本当にもっと話を聞いておけばよかった人でした。
そもそも彼と出会ったのは、お互い30歳くらいの頃でしたが、私はその頃、売れっ子CMディレクターの岩下俊夫さんと一緒に、PARCOのバザールのCMをいろいろ作ってまして、今度は立体アニメーションの映像でやりましょうか、などという話をしておりました。
時代的には、海外のミュージックアーチストのプロモーションビデオが、たくさん出て来た頃で、かなり斬新で刺激的で、ずいぶん影響を受けておりました。当時、私はイギリスのアーチストのピーター・ガブリエルの”Sledgehummer”という曲のPVをビデオに録画して、よく持ち歩いたりしておったんですね。
その映像は、このアーチストが唄っている顔の周りに、いろんな素材の立体アニメーションが動き続けており、それは硬質の素材だったり、野菜だったり、フルーツだったり、魚だったりして、彼の顔も、やがて立体アニメーション化して行き、それはクレイアニメーションになったりして、そのすべての動きが音楽とシンクロして、かなり独創的な仕上がりになっていました。
ともかく楽しくて、こんな気分の15秒CMが作れないかなあと思っていたんですけど、そんな時にディレクターの岩下さんから、クレイアニメーションで次々に姿を変えてゆくオブジェが主役の企画コンテが上がって来たんですね。
やりたいイメージはいろいろに浮かんでくるんですけど、さて、実際にどうやってクレイを動かして撮影するのか、クレイを変形させながらコマ撮り撮影するとして、粘土の選択から造形と動かしまで、そういったプロはどこにいるのか、実はあんまり時間もない。その時、アニメーション会社のプロデューサーが連れて来てくれたのが森さんだったんですね。この時、初対面のこの人の印象は、なんだか近所にいる明るいおばさんていう感じの人でして、おまけに、仕事上必要なのか、いつもエプロンをかけてらっしゃいました。
彼は同世代ですけど、本当によくアニメーションのことを知っていて、同じくらい特撮技術のこともよくわかっていて、そのころ毎日クレイでいろんな造形物を作っていたので、同時にクレイ作家でもありました。やりたかったことに、この人が来てくれたら、まさに鬼に金棒です。
当時としてはかなりユニークなCMの映像ができ、それに音楽は鈴木慶一さんが作ってくださって、バザールの告知なんでオンエア期間は短いんですけど、なかなかに目立ったキャンペーンになりました。
そこで、これは続けて作りましょうということにもなり、今度は粘土じゃなくて、例えば電子機器の部品とか、様々な物質でオブジェを作って、それがなおかつ変身していくみたいなシリーズになって、何本か作った時に、広告の賞を頂いたりもしました。当然ながら、そのコマ撮り撮影のアニメーターは、全部、森さんがやってくれたんですね。
その後、彼はアニメーターとしてどんどん忙しい人になって行き、クレイキャラクターの作家としても、有名な人になって行きました。特に、フジテレビの「とんねるずのみなさんのおかげです」の番組オープニング「ガラガラヘビがやってくる」は、企画演出、キャラクターデザイン、アニメーションまでやって、代表作になりました。

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彼はキャラクター造形やア二メーションをやりながら、東京造形大学の専任教授となって、学生へのアニメーションの教育指導にも励みました。昔のようによく会うことは無くなったんですけど、うちの会社でやるパーティーなどにはよく来てくれて、いろんな話を聞かせてくれました。この人はアニメだけじゃなく、映画とか映像全般にわたって博学でして、会うと私の知らない事を教えてくれました。

コロナなんかもあって、なかなか会えなくなっていて、でも今年も彼の作ったキャラクターの年賀状もいただいていて、そういえば今年はヘビ年で、相変わらずお元気そうだなと思っていた矢先でした。
お別れの会には、そんな事で、あわてて集まって来た仕事仲間たちがたくさんいて、それもみんな懐かしい顔で、いろんなこと思い出しながら、いろんな話をしたんだけど、そこに主役はおらず、彼が作った作品がモニターから次々に流れていました。
なんだか久しぶりに、あの頃に森さんと作ったCMを、ただ眺めておったようなことでした。

だが、上手いんだな、これが。

2025年3月17日 (月)

河豚の旅

去年の終わり頃、11月だったか、仲間と4人で飲んでいた時に、私の故郷の広島の話になって、そしたら、その仲間の一人のトシオさんが、広島とか山口とか今まで行ったことがないので、是非一度行きたいと云い始めました。
そしたら一緒にいたフジヤンという人が、それだったら広島でカキ、下関でフグがいいかなと、一番うまいのは真冬だから、2月頃に行ってみようかと言い始めました。
そしたら一緒にいた兄貴分のヤマちゃん先輩が、下関にたしか良い居酒屋があったのを、何かで読んだことがあると言い始めて、いつものことだが、なんだか妙に盛り上がってしまいまして、2月に広島下関に旅することになってしまったんですね。
そこで、山陽路は私の地元だし、なんとなく2泊3日の日程で計画立ててみたんです。
2月には、ちょうど私は広島にいろいろと用事があって、それは義母の17回忌の法要であったり、実家の確定申告の打ち合わせとか、父母の介護のことだったり、さまざまなんですけど、数日広島にいなければならないので、その用事が終わった頃に、友達が3人やってくれば良いかなと思いまして、そのように計画したんですね。
まず、2月の後半に天皇誕生日の3連休があって、その初日にうちの家族4人で早朝に東京を出発して、広島のお寺に向かいました。お昼過ぎに法要があって、そのあと、身内の少人数で義母も義父も馴染みだった近くの料理屋さんで懐石料理をいただきましたが、これが大変に立派なコースで、河豚のお刺身などたくさんに出てきまして、なんだかこの旅は、河豚にご縁がありそうだなと思ったんですね。
ただ、その日の夜に、私、鬼の霍乱というやつで、なんだか8度ほど熱が出まして、それから下痢嘔吐、そういえば広島に来る前の週に、わりと毎日飲み歩いてたこともあってそのせいか、せっかく頂いたご馳走は、みな体外に出てしまいました。
家族は仕事もあるので次の日に東京に戻りましたが、私はホテルでじっとして、きつねうどんだけで大人しく過ごしましたんです。
その次の日は、いろいろやんなきゃいけないことがあったんですけど、根が丈夫なのか、そのあたりで体調も戻り始め平熱になっておりました。
それから、その翌日が最も忙しい日でして、たくさん人にも会い、あちこち走り回りましたが、夕方には、あらかた要件も済み、ひとり生ビールでお疲れさんができておったわけです。
でもって、その次の日、いよいよ東京からの三人衆が広島にやって来ます。この人たちは、このブログにもよく登場するんですが、私のずいぶん若い頃からの、仕事でのお仲間でして、役回りはみな違うんですけど、なんせ長いお付き合いなんですね。そいで、みんなして呑兵衛なわけです。
私が広島に住んでいたのは、中学の途中から高校出るまでだったんですけど、この街の出身者として、ここを訪れた人を必ず案内するのは、広島平和記念公園と資料館、と厳島神社です。そこには訪れる意味があります。
そして食べるべきは、牡蠣、穴子、お好み焼きとなってまして、その夜、三人衆がまず食したのは牡蠣です。お連れしたのは、公園の川面を眺めながらの地元でも有名な専門店で、牡蠣のコースに生牡蠣も好きなだけ食べられます。
ただ、私、先だっての発熱でお腹を壊したので、うちの奥さんから、
「絶対に、カキだけは食べないように!」と、固く云われておりまして、
皆さん大喜びでしたが、私は一人瀬戸内の魚の煮付けなどを食しておりました。
「明日は下関で河豚刺し食うぞお!」などと吠えながらです。

その次の日は、朝から厳島神社参りをいたしまして、ここは朝から名物「あなご丼」ということになります。宮島口という駅でフェリーに乗り換えるのですが、その港の近くに有名なあなご料理屋があることを、うちのカミさんが教えてくれてたので、そこにちょっと並んでから頂いたのですが、いや、絶品でしたね。白焼も追加して朝からぬる燗もいってしまいましたから。
その後、船で島に渡りまして、長い参道を抜け、長い神社の回廊を巡り、その景観に感動し、見物を終え、そしてまた長い参道を戻り、帰りの船に乗る手前で、お好み焼き屋を見つけ、皆で生ビールもいただき、やがて、山陽新幹線「こだま」で広島から山口へと向かいます。さあ、河豚だ。

Fugu_2


下関というところには降り立ったことがなく、なんだかこの辺り来れば、フグなんだよなということだけインプットされていて、いい歳して教養が浅くて恥ずかしい話なんですが、ともかく、さあ河豚だということで、皆で近くの銭湯行ってきれいになって、さあ河豚だあ、と。
東京で暮らしているとですね、フグでも食おうということになると、銀座赤坂あたりの小洒落た専門店で、紅白粉つけたちょいと綺麗な中居さんあたりにお給仕されたりしていただくと、ちょっと目玉が飛び出るようなお値段になるんですね。よく分かってはいないんですが、昔からトラフグと云えば、豊後水道とか下関のイメージありますよね。
そのヤマちゃん先輩が知っていた駅の近くの居酒屋は、なんだか、ただただ下関のうまいもの食わせて飲ませることに特化した、全く気取りのない良い店でして、何食べてもうまくて、そして、その河豚は質も量も絶品なわけでした。シアワセ。
次の朝、フジヤンが提案した過ごし方は、地元の唐戸市場の食堂で朝メシ食おうということで、窓越しに市場の全景とピンピンの魚の泳ぐ水槽の見える席で、またしてもフグ刺・フグ唐揚げ・フグあら炊きのフグ定食。またしても生ビールに地酒。朝からシアワセ。
君たちいい加減にしなさいと云われそうな、なんだか書いていてもちょっと恥ずかしいような旅ではありましたが、河豚に導かれて本州の西端まで行ってしまいました。

2025年2月11日 (火)

今年は 放送100年だそうですが

ここんところ、お台場のテレビ局がたいそうな騒ぎになっており、みなさんよくご存知のお話なんですが、何だか触れてはいけないことが、いろいろあるようで、どうも回りくどいことこの上ないです。
度重なる報道によれば、ある有名なタレントさんが一年半ほど前に、一人の女性と問題を起こしてしまい、その後、示談は成立しているらしいですが、このテレビ局は、そのことを分かっていたのに、このタレントさんと一緒に番組を作り続けて放送し続けたそうです。その一連の出来事を報告する記者会見というのが、テレビカメラも入れないかなりクローズなものだったことが、スポンサーや株主や視聴者の怒りを買ってしまい、先日の10時間に及ぶ取締役5人のドロ沼会見になっちゃったみたいです。つまりは、示談かどうかはともかく、そのタレントさんが芸能界を引退せねばならぬことをしてしまったことは確かなようで、テレビ局は何をボォーとしてたんだかってことのようです。
この先は誰がどうやって責任取るかということなのでしょう。そのための調査が始まるようですが、なるたけ被害者の方のプライバシー 人権に留意して、守秘義務を守ってということなんでしょうか。これから関係各位がケジメをつけて、組織の改革が行われて、あるおさまり方をして、時が経てば、そんなことがあったなというくらいに人々の記憶に残るようなことなのでしょうか。いずれにしても、これらの出来事の背景にあるのは、放送という事業で、舞台はテレビ局なのであります。

Hoso



このところ、いわゆる放送というものが開始されてから今年で100年ということをよく聞きます。大正14年に初のラジオ放送があったそうでちょうど100年、テレビの放送が始まったのが70年前、最初のテレビ受信契約者数は900件足らずだったそうですが、今は誰もが見ています。
今回、社会に対して大きな影響を与える、テレビ放送を司るテレビ局の責任ということが、大きな声で叫ばれ続けています。たしかに、その責任の大きさは今や計り知れません。事業主は不祥事に対してはきちんと向き合い、襟を正してほしいものです。
今、そう云った論調が世の中を支配しておりまして、ついにそのテレビ局の放送からはテレビCMが消えてしまいました。
それと、この騒ぎが大きくなっていく背景にはSNSという通信装置も関わっています。これは、この問題に限らず今の世の中のいろいろな場面で無視できない情報源となっておりますが、こちらの方は、放送とは違って、いつでも誰でも発信できまして、ありとあらゆる情報を自由に上げられるわけです。
そう云った進化で、世の中は便利になる一方ですが、そこから上がってくる情報の裏付けはよくわからないし、その意見に賛同している人の数なども不明ではあります。場合によっては誹謗中傷の火種でもあり、極めて不確かな情報源でもあるんですね。
では、許認可制の放送というものがいつも間違っていないかと云えば、そうとも限りません。先の戦争で国が捏造したニュースを、ずいぶんラジオ放送してしまった過去の過ちがあります。これは、新聞などの活字メディアもそうでしたが。
どうも、放送もSNSも含めた昨今の通信システムの進化で、人々はいろんな恩恵を受けるけれど、使い方によっては余計ないざこざも生んでいる気もします。何事もいつもそういうことになりますけど、結局それを使う人間次第ということですか。なんだか一連の騒ぎを見てると、長年かけて自分たちが作った仕組みや道具に、がんじがらめにされて振り回されているように見えなくもないですね。
10時間の会見で、あれだけ多くの人達が集まって、ああだこうだ言って、ネット上に次々にニュースが流れても、結局物事の本質は見えず、どこに向かってるのかもよくわからない。
100年前の放送開始後、テレビ局もラジオ局もずいぶんたくさん出来て、放送枠、放送時間は増え続け、インターネットの荒野は無限に広がり、受け取るこちら側が触れることのできる情報量は昔の比ではありませんが、それだけに、なんだか全体に中身が薄くなってるように感じるのは気のせいでしょうか。

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