2009年12月11日 (金)

社員旅行キャンプ

Camp

私の勤めてる会社の話なんですが、ちょっと変わっていて、社員旅行に全員でキャンプをするんですね。昔はもうちょっと普通の社員旅行をやってたんですけど、海岸のロッジ風ホテルに泊まって、夜じゅう砂浜でキャンプやったりしたころから、だんだんその傾向が強くなってきたようで、最近では、去年も、この前も、約40名、南アルプスの渓谷で、まる2泊3日キャンプやって帰ってくるんですね。

何故そんなことになっているかというと、皆、存外これが好きだということもあるのですが、主にけん引している人が二人おります。うちの会社のリーダーというか、現場を束ねている中間管理職というか、普段からペースメーカー的存在である、仮にO君とW君とします。(別に匿名にすることもないんですけど、すぐわかるし)

O君は、少年時代から、バリバリのボーイスカウト出身で、いまでも世界中でキャンプをしていて、こういうことに関して大抵のことでは驚かない人で、アウトドアライフを本当に分かり、愛している人です。W君は、知る人ぞ知る転覆隊の隊員で・・・

転覆隊、若干の説明が必要ですが、サラリーマンたち(主に広告業界)で構成されたカヌーのクラブで、クラブという呼び方が適しているかどうかわからんのですが、普通のカヌー乗りが避けて通る激流ばかりにトライして、年中転覆ばかりを繰り返している隊なのです。ここの隊長という人が、私もよく知っている人なんですけど、転覆隊のことを本に書いたりしているのでご存知の方もあると思いますが、とてもかたぎとは思えないむちゃくちゃ向こう見ずな人なんです。この隊長に鍛えられているW君は、何というかけっこう野蛮なアウトドア派の人なのです。

この二人がリードするキャンプというのは、ある意味本格的でして、ある意味すごく面白いのですが、けっこうハードルが高いのです。

たとえば、2年続けて訪れている南アルプスのそのキャンプ場は、自然のままのとてもきれいなところですけど、私たち社員以外、誰もいません。洗い場と、トイレと、形ばかりのバンガローがあるのですが、それはそれは、何から何まで自分たちでやらねばなりません。キャンプなんだからそれはそうだろうと思うかもしれませんけど、キャンプにもいろいろなレベルがあって、あまり体験したことのない者にとっては、ものすごく新鮮な驚きがあります。いわゆる世間でいうところの社員旅行の、慰安とか、慰労とかいった意味あいは皆無です。全員、ひたすら、ただ働きます。楽しくはありますが。

現地に到着すると、テントを張り、椅子やテーブルを組み立て、屋根も付け、石で釜戸を作って、薪を運び、ある者は猪肉や鹿肉やキノコなど現地調達の食材を集めに走り、ある者は野菜の皮をむき刻み、食材の下ごしらえをし、ある者は火を起こして湯を沸かし見張り、やることは山のようにあります。準備ができたところでメインイベントのメシ作りです。何班にも分かれいろんなものを作りますが、40人分は結構時間がかかります。晩メシが出来上がったころには、心地よい疲労感漂う身体に酒が沁み渡ります。そしてこのメシが、異常にうまい。わけもなく楽しい。

さて、大宴会が始まりました。そこらへんで、すでに力尽きて倒れてしまった奴もいますが、気づくとまた蘇って飲んでおります。他に誰もいない谷あいに持ち込んだフル装備のオーディオ機器の大音響は、真夜中まで響き渡り、焚火の炎はえんえんと燃えさかって、いつまでも宴会は続きます。

やがて、つかの間の朝の静寂が訪れたかと思えば、どこからともなく朝飯の支度の火が起き始めます。皆、若く元気です。彼らの大半は、このあと弁当を持って、けっこうきつい山登りに出かけました。私はというと、何人かで、山をおりたところにあるサントリーのウイスキー蒸留所に出かけ、半日シングルモルトを飲んでおりました。

夕方、山登り組と近くの温泉で合流し、またキャンプ場に戻って、火をおこし、メシを作って、二晩目の大宴会が始まりました。その夜は、ぐっと冷え込み、火を大きくして、しこたま酒を飲みます。労働の後の酒は、またしても心地よくしみ渡っていきます。2日目は、その辺りで倒れている人数も増えております。昼間の激しい山登りを終えた社長は、早々にテントに沈みましたが、なおも大宴会は続くのです・・・朝まで。

しっかし、このエネルギーは何なんだろう。

私は、翌日早々に、この日東京で用事のある人たち数人を乗せて帰京しました。そして帰宅したあと、うちの犬たちと一緒に昼寝しました。爆睡でした。

一方、会社の若者たちは、あとかたずけをした後で、帰り道に富士急ハイランドによって、絶叫マシンに乗り倒し、絶叫しつくして帰ってきたそうです。

次の日が月曜日だというのに…

恐るべきエネルギー・・・・世の中の役に立てたいものです。

 

2009年10月 6日 (火)

舞阪の「シンコ」と気仙沼の「サンマ」

この夏に行った二つの小旅行の話です。一つは夏の初めにシンコを食べに静岡へ、一つは夏の終わりにサンマを食べに気仙沼へ。

メンバーは、私と、仕事の先輩であるKさんとYさんの3人。

ことの始まりは、いつだったかこの3人で飲んでいた時のことです。

私たちは、仕事柄、けっこういろいろなところを旅しているのですが、この国の中でも、まだまだ知らないところがあります。そこで、前々から気になっていて、まだ行ったことのない場所の話になりました。

その時、Kさんが熱く語ったのが、気仙沼でした。たしかに何かで読んだり、誰かから話を聞いたりしたことがありますが、3人とも行ったことがありません。いろいろ話していくうちに、だんだん盛り上がって、なんだか圧倒的に行ってみたくなりました。

よしっ、いつ行くか決めようということになり、話は一気にまとまり、夏の終わりに行くことになりました。こういうことをたくらんでいる時は、みな子供の顔になります。

Kさんは、ごきげんで演歌を口ずさんでいました。

♪港――ぉ、宮古、釜石―――ぃ、気仙沼――――っと。♪

森進一の港町ブルースでした。

後日、Kさんから気仙沼の資料を渡されました。この人はもともとが企画マンのせいか、いろんな資料がでてきます。いつからためていたのか雑誌などの記事がたくさんあります。三陸のリアス式海岸に位置する漁港の風景、海沿いの単線を走るディーゼル列車、そして、港に上がる海の幸の様々、ホヤ、緋衣エビ、カキ、フカヒレ、カツオ、キンキ、サンマ等々、ナマものあり、焼き物あり、なかでも「福よし」という老舗の居酒屋で、秘伝の炭火遠赤外線焼きのサンマの写真は絶品でありました。なるほど、よい資料です。

この資料のなかに、紛れ込むように入っていたのが、静岡の舞阪の「シンコ」の資料でした。Kさんに聞くと、

「これは別企画なんだよ。初夏の企画ね。」

などとニコニコおっしゃる。

これも、読むと面白いんですね。シンコとは、コハダの稚魚で、築地に来る寿司屋さんたちが、初夏に初物を心待ちにしているのが、浜名湖「舞浜のシンコ」なのだそうです。そんな中、地元でただ一人、舞阪のシンコにこだわっている寿司職人がいるというのです。シンコのにぎり寿司は、初水揚げのときは、まだ本当に小さくて、12枚から10枚づけでにぎるそうです。だんだん大きくなるにつれ、8枚、6枚、4枚となっていきます。何枚づけが食べられるのか、急いで電話をしてみました。6月のはじめでした。

「今年はまだ上がってませんね。漁師さんの話では、去年より少し遅くなりそうで、7月のはじめからですかね。」

と御主人。

かくして夏の小旅行企画は、いつの間にか夏の初めと終わりの2企画となりました。

ここから、地元と連絡を取りながら、スケジュールを立て、移動手段を決め、宿泊場所を選んで、どこで何を食べるかをセッティングするのは、私の仕事です。昔、3人で仕事をして、ロケハンやロケに行った時も、それは私の仕事でした。みんなしておっさんになっても、その役割は変わらないのです。相変わらず、私は最年少です。

やはり、たしかな企画をもとに、リサーチを徹底すると、すばらしい出会いが訪れます。

それぞれ、一泊と二泊の幸せな小旅行となりました。

晩夏の気仙沼を満喫した夜のスナック、3人で、あの「港町ブルース」を唄いました。一番から六番までを唄いながら、Kさんのこの企画は、まだまだ続くのだなと思いました。

一、背のびして見る海峡を

今日も汽笛が遠ざかる

あなたにあげた夜をかえして

港 港函館 通り雨

二、流す涙で割る酒は

だました男の味がする

あなたの影をひきずりながら

港 宮古 釜石 気仙沼

三、出船 入船 別れ船

あなた乗せない帰り船

うしろ姿も他人のそら似

港 三崎 焼津に 御前崎

四、別れりゃ三月待ちわびる

女心のやるせなさ

明日はいらない今夜がほしい

港 高知 高松 八幡浜 3nintabi_6

五、呼んでとどかぬ人の名を

こぼれた酒と指で書く

海に涙のああ愚痴ばかり

港 別府 長崎 枕崎

六、女心の残り火は

燃えて身をやく桜島

ここは鹿児島 旅路の果てか

港 港町ブルースよ

2009年8月19日 (水)

クリントと鶴田さん

ことしの春先のある夜、友人から留守番電話が入っておりました。

けっこう酔っ払った声で、

『君は「グラン・トリノ」をみたか? まだならば、是非みるべきである。』

というようなメッセージでした。

クリント・イーストウッド監督のその映画の上映が始まって間もない頃だったと思います。

クリント・イーストウッド監督の映画は、たしか全部みています。何故かいつも引き込まれるようにみてしまいます。どの映画も、ただ面白い楽しい映画ではありません。むしろどちらかといえば、つらい映画です。でも、このクリントというおじいさんに、映画という手法で語られてしまうと、たしかにつらい話だけど、ただそれだけじゃない人生の深さみたいなものを感じてしまいます。なんだか、この人生の達人のようなおじいさんの話は、やっぱ聞いとかなきゃみたいに思ってしまうのです。

Clint_7 この人のことを、少し身近に感じていることもあると思います。べつに知り合いではないのですが、僕が子供のころに「ローハイド」というTVドラマにずっと出ていて、その後、イタリアに行って、「荒野の用心棒」とかで、マカロニウエスタンのスターになって、ハリウッドに戻って、「ダーティーハリー」で成功して、ほんとの大スターになってからも、監督としてよい仕事をし続けている人です。青年時代からおじいさんになるまで、ずっと知っているせいかもしれません。

「グラン・トリノ」は、久しぶりに監督兼、主演でした。友人が云ったように、是非みるべき映画でした。映画が終わっても、ほとんどの人が席を立ちませんでした。クレジットが流れる中、すすり泣きも聞こえました。またしても、悲しくて深い映画だったのです。

しばらくして、この友人と他何人かで、「グラン・トリノ」を語る飲み会をやりました。良い映画を題材にするだけで、飲み会は、ちょっといい飲み会になります。

この席で、私はひとつこの友人に確認したいことがありました。

「クリント・イーストウッドが演ってたコワルスキーって人、吉岡司令補とダブらなかった?」

彼も思いあたっていたようで、「そうなんだよ、そうだよな。」と言いました。

この吉岡司令補というのは、昔、NHKの「男たちの旅路」というドラマで鶴田浩二さんが演じていた役名です。私もこの友人も、このドラマのファンだったし、何度となくそのことを語ってきたので、吉岡司令補といっただけで、お互いわかってしまうのです。

吉岡さんという人は、警備会社でガードマンをしていて司令補という役職なのですが、実は、特攻隊の生き残りで、過去の戦争体験を忘れることができず、死んでいった戦友のことを想い、戦後30年経った現代の若者のことが大嫌いな、すごく偏屈な中年として描かれています。

コワルスキーさんも、朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、ジェネレーションのちがう人のことを全く受け入れようとしない偏屈なジジイとして描かれています。

二人とも、あるきっかけで若い人とふれあい、お互い相容れないけれど、少しずつ理解し、一緒に現実の社会にかかわっていくあたりが、どちらの話も構造的に似ています。

クリント・イーストウッドは、監督としてはじめてこの脚本を読んだときに、瞬間的に自分がコワルスキーを演じることを決めたそうです。

30年前に放送された「男たちの旅路」は、山田太一さんのオリジナル脚本ですが、そもそも鶴田浩二さん主演のドラマをというNHKからの依頼がはじまりでした。

二人が始めて会った時に、鶴田さんが語った戦争体験や、戦後30年経った当時の世の中に対する彼のおもいなどをもとに、山田さんが書いたのがこの脚本だったのだそうです。

そして、クリントは、朝鮮戦争では、軍用機の事故で戦地には行かなかったものの、20歳で陸軍に召集されており、鶴田さんは、21歳のときに特攻隊で太平洋戦争の終結を迎えています。

Turutasan_2  30年の時差はありますが、何か成り立ちが似ている2本の作品です。

「男たちの旅路」が放送されたころ、私たちはまさに吉岡司令補が大嫌いな戦後の若者でした。その若者がおっさんになったころに、われらのクリントがこんな映画をみせてくれました。この飲み会で私の横にすわって語っていた若者は、30年前、ただの幼児でした。

この若者が、いま私の「男たちの旅路」DVD5巻をみているところです。

またいい飲み会ができそうです。

終戦記念日のニュースを見ながら、この二つの作品のことをおもいました。

直接戦争を描いているわけではありませんが、かつて戦争を体験した二人の男の物語です。

2009年5月 1日 (金)

「ありふれた奇跡」と「早春スケッチブック」

3月に、「ありふれた奇跡」というテレビドラマが終わりました。毎週1時間、11話完結でした。全部録画して、先日まとめてみたのですが、期待したとおり、いいドラマでした。

これといって派手なことは何も起こらないのに、常に次の回が気になってしまう展開で、完全にはまってしまいました。気がつくと最終回には泣いておりました。

なぜ、全部を録画したかというと、それが山田太一さんの脚本であったことと、山田さんが、これを最後にもう連続ドラマは書かないと宣言したと聞いたからです。山田さんは、僕らが高校生のころ、いわゆる70年代から、今まで、本当に数々のテレビドラマの名作を書いてこられた脚本家なのです。

「ありふれた奇跡」には、ある男女が出会ってから結ばれるまでのお話と、並行してそれぞれの家族が描かれています。淡々と日常を追いかけているのですが、登場人物たちの設定のリアリティと、彼らが交わす台詞の力にぐいぐい引っ張りこまれてしまいます。

山田さんが最もシナリオを書いたであろう70年代から90年代にかけては、たくさんの名作が残されています。「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、テレビドラマの歴史を変えたといわれるようなものも、このころ書かれています。

そのころ、私はというと、若くて忙しいころでもあり、これらの作品が放送されたときに、テレビの前に座っていることは、ほとんどありませんでした。当時は、ビデオ機器も持っておらず、たいてい見過ごしておりました。

ただそのころ、テレビドラマの名作の脚本は、わりと本として出版されていたので、本屋さんに並んだものは、はしから買って読んでいました。山田さんだけでなく、向田さんや、倉本さんや、早坂さんの脚本もずいぶん出版されました。脚本には配役も全部載っていましたから、いろいろなシーンを映像として想像しながら読むのは、なかなか面白かったです。

それと同時に、何と言ったらよいか、この完成度の高い、ものすごい精度で書かれた設計図のようなシナリオを渡された、役者もスタッフも相当なプレッシャーを感じただろうなと思いました。

昨年、会社の後輩のプロデューサーが私に、

『山田太一さんの「早春スケッチブック」は、みましたか。』と聞くので、

『みてないけど、読んでる。あれは名作や。』と答えましたところ、彼女が、

DVD化されたので、全巻買ってみましたが、すばらしかったです。ご覧になりますか。』

といいました。

『君は、すばらしい人です。是非、貸してください、全部。』

みせていただきました、全部。

『早春スケッチブック』は、1983年に、フジテレビで放送されています。

登場人物は、郊外に住む4人家族、夫婦と高校生の息子と中学生の娘、それと、妻の昔の恋人と、彼を慕う女性が一人。ほとんどこの人たちだけで、13話も持ってしまうお話になっています。当時脚本を読んで、本当に強く印象に残っていて、機会があれば是非ドラマをみたいと思ってましたが、二十数年経ってみたドラマは、いろんな意味でほんとによくできていました。

配役も、それぞれ良いのです。

昔ちょっとわけありだけど、今は平凡な主婦に岩下志麻さん、信用金庫に勤める夫に河原崎長一郎さん、大学受験生の息子に鶴見辰吾さん、問題の、妻の元恋人に山崎努さん、山田さんは、この役は完全に山崎さんを想定して脚本を書いたといわれていたと思いますが、確かに、ほかに誰がこの役をできるのだろうかとも思います。その山崎さんを慕う若い女性に、新人時代の樋口可南子さん、これもいいです。

ただ、脚本が面白くなければ、いい役者も生きないし、ドラマも面白くなりようがないのは確かです。

うちの高校生の娘が、DVDを横でみていて、

『岩下志麻さんて、こういう主婦の役とかもやってたんだ。それにしてもうまいね。』

などと感心しておりました。極道の妻しか知らないのかもしれません。なさけない。

山田さんが、もう連続ドラマを描かないといった心情を語っておられます。

『もう連続ドラマは描かないと決めたのは、時代の変化を感じたからです。やはり連続ドラマにも時代の流れがあり、ある時ふと「自分は違うかな」と思った。1人の作家が、どの時代にも適応していくのは、むしろみっともないことのようにも思えたんです。流れから外れるからこそ作家であるという気持ちもありました。』

そうかもしれません。おっしゃっていることは本当に深いと思います。

でも、久しぶりに見せていただいた連続ドラマは、「早春スケッチブック」のころと変わらぬ作家としての姿勢を感じました。その姿勢に私たちは打たれていたと思います。その姿勢を感じる脚本家を他に知りません。どうかまた近いうちに、次の連続テレビドラマをみせていただきたいとつくづく思ったのでした。

Nakamakase_2

2009年2月19日 (木)

市川さんへ

Ichikawasan_4    市川さん、何と云ったらよいのか・・・

私は、市川さんが昨年9月に、すでにこの世からおさらばされたことが、

未だに信じられずにいます。

このところ、ご無沙汰していたこともありますが、

テレビには、相変わらず市川さんが作ったCMがたくさん流れていますし、

お見かけしないときは、また映画の撮影をしたり、編集をしたり、企画をしたり、

脚本を書いたりされているのだろうなと思っておりましたから、

なかなか実感がわかないのであります。

12月には、ものすごくたくさんの方がお集まりになって、

椿山荘で「お別れの会」が開かれましたが、

映画市川組のメインスタッフの方々が、ズラッと並んであいさつをされている風景は、

何か大きな映画の賞を受賞されたお祝いのパーティーと、錯覚してしまいそうでした。

市川さんの大好きなスイトピーに包まれた遺影は、良い顔をされてましたね。

盟友のカメラマン、広川さんが撮られた写真でした。さすがです。

そういえば、昔、市川さんの映画に、ある役の遺影で出演させていただいたことを思い出しました。今となっては、ただ懐かしい思い出です。

年末に、遺作となった「buy a suit スーツを買う」を観せていただく機会を得ました。

市川さんが逝ってしまわれたあと、仕上げの途中だった映画を完成させた助監督の方と、

主演女優さんと、市川さんの事務所の方と一緒に観ることができました。

そのあと、みんなで晩御飯を食べながら、ずっと市川さんの話をしていたら、

市川さんはほんとに、もういらっしゃらないんだなという気がしてきて、哀しかったです。

buy a suit スーツを買う」は、とてもよい映画でした。

映像表現に、今までにない新しい試みがあふれていました。

きわめて実験的だけど、それでいて市川さんの映画のトーンが、守られています。

心に残る映画でした。

新しい手法を発明して、それに手ごたえを感じながら、映画監督としてワクワクしながらこの映画を作ってたんだろうな。

皆さんの話を聞いていて、そのことがとてもよくわかりました。

新しい仕事に、CMでも映画でも、いつも貪欲で、寝る時間がなくなっても、

何より楽しそうにものを作る人でした。

勇気づけられました。たくさん助けてもらいました。教えてもらいました。

同じ時代に、同じ業界に、いられたこと、、

CMも映画も、市川さんの仕事に少しかかわれたこと、うれしかったです。

いつか、そちらでお会いできたら、また付き合ってくださいね。

市川準監督 追悼上映 3/21(土)~27(金) 渋谷ユーロスペース

http://d.hatena.ne.jp/ijoffice/

2008年12月19日 (金)

マリンの出産

暮れも押し迫って、何かとあわただしい12月のとある日、愛犬マリンに子が生まれました。

マリンは4歳のトイプードルです。男の子一匹を出産したのですが、これが大変でした。大変だったのはマリンなのですが、私たち人間も、家族全員で徹夜になりました。

というのも、思いの外の難産だったからです。犬印の腹帯は、安産の印で、犬はいつでも安産などという例え話は、大きな間違いだということがわかりました。犬を飼っている知り合い何人かにも聞きましたが、わりとみんな安産ではなかったといっていました。やはり、野山を走り回ってた頃の犬とは違い、都会のマンション暮らしのワンちゃんたちは、事情が違ってきてるのだろうと思います。運動不足なんですね、きっと。

数日前から、インターネットで、犬のお産の記事を読み、ブリーダーさんにも獣医さんにも相談して準備を始めました。家族の中でもっとも熱心なのは妻です。やはり唯一の出産経験者だからでしょうか。私などはつい数日前まで、「えっ、うちで産むんだ。」「産婦人科じゃないんだ。」とか言って、ひんしゅくを買っておりました。

その日はいわゆる予定日で、早めに帰宅しました。晩御飯を食べたあとあたりから、陣痛が始まりました。昼間より夜間出産することのほうが、圧倒的に多いそうです。はじめは、落ち着きがなくなって、家の中を歩き回りながら鳴くようになり、お産用のダンボール箱に入っている時間がだんだん長くなってきます。それからは、時々苦しそうにするので、さすってやります。そうこうしているうちに、夜中になったのですが、まだ産まれる気配はありません。予習した知識では、とっくに深めの陣痛がはじまってるころなのですが・・・・

夜中も3時を過ぎ、家族全員で不安になったので、担当獣医さんに電話をしました。留守番電話です。この獣医さん、この界隈ではちょっと有名な獣医さんで、なんて言ったらいいか、サービス業的なところがまったくないというか、診療所もきれいじゃないし、連絡もなかなかつかないし、基本的に愛想がないし、しゃべると横柄な感じだし、近所では「赤ひげ」とあだ名をつけられたりしてるんです。ただ、腕はいいんですね、これが。

まあ、案の定連絡が取れないんです、やっぱり。

相当不安になっていた午前4時頃、何の前触れもなく突然ピンポンがなって、赤ひげがあらわれました。陣痛が深くなって産まれやすくする処置をテキパキやってくれました。

「これで明け方までに産まれるといいがなあ、ガハハハハッ」とかいいながら赤ひげは去っていったのですが、確かにその後からマリンは深く苦しみ始めます。

でも、産まれないんです夜が明けても。

家族全員で励ましながら、かなり衰弱しているのがわかります。相当心配になって7時半頃また赤ひげに電話をしました。やっぱり留守番電話のままで連絡が取れません。しばらくいらいらした頃、突然、赤ひげから電話がかかりました。いつも突然なんだよなあと思いつつ、声を聞いたときは、地獄に仏でした。

「そうかあ、産まれないかあ。すぐ連れに行くから家の前で待っとくように。」

電話を切って、マリンを抱いて家の前に出たら、もう赤ひげの車は停まっていました。

まったくこの人、遅いんだか早いんだか。

私たち家族は、ただ、ただ、マリンの安否が心配でした。

徹夜明けのまま出社した私に、夕方妻から連絡があり、帝王切開で手術をおこなったこと、胎児が産道に引っかかってかなり危険だったこと、でも、母子ともに助かり、さっき赤ひげと帰ってきたこと、赤ひげが一部始終を、鼻の穴を膨らまして語ったことなどを、おしえてくれました。

帰宅すると、麻酔でぐったりしたマリンと、ティッシュの箱にホカロンといっしょに入れられた120gの息子がいました。

ここで聞いた話が、かなり心配な話でした。

つまり、帝王切開を受けた母犬は、自然分娩した犬に比べて、子供を産んだ実感をもてないことがあり、まして大手術で消耗しきっている上に、麻酔も残っているので、子供を近づけたときに、噛み付いたりすることがあるというのです。げんに病院で近づけたときには、払いのけたそうで、もしも噛み付いたりしたら、120gの命はひとたまりもありません。

それじゃ近づけなきゃいいのかというと、それもだめで、離したままにしとくと育児放棄につながるというのです。

この親子対面の儀式は、私がやることになりました。妻はいろいろあって疲れきっているし、子供はマリンを抑える自信がないし、だいたい子供二人とも期末テストの真っ最中で、昨日のお産の徹夜で、今日受けた教科は完全玉砕したとか言ってるので、はやく勉強しろっちゅう感じなのです。

緊張しました。4年間いっしょに暮らしたマリンは、疲れ切っていて今まで見たことのない顔つきになっており、全然別の人格(犬格)になってしまってます。

まず右手でマリンの口を押さえて、左手に120gをのせて近づけます。まったく母親のリアクションはありません。だんだん臭いを嗅ぐ仕草をしますが、すぐ関心を失ったかのようになります。ころあいを見計らって、口を押さえている右手をそっとはずしてみますが、なめようとはしません。だんだん顎の下に置く時間を長くします。1時間ほどしたときに、ちょっとなめました。ちょっとしてもう一度なめました。そして、ついに、自分の前足で抱いてペロペロペロペロ、なめたんです。なんだか昨夜からのことが走馬灯のようにめぐりました。涙がポロポロでました。おっさん久しぶりに泣いた。

「えらかったなあ、マリン。」  何度も言ってました。

それから母犬は、自分の体力の回復もそこそこに、かいがいしく子の世話を続けました。

その後、少し落ち着いたときに妻が言いました。

「マリンも、一人で産んで、一人で育ててるんだね。」

確かに、そこに父犬はいません。自らの子育てを思い出しているようでした。Marin_2

2008年8月20日 (水)

王府の醋滷麺(スールーメン・ツールーメンともいうらしい)

世の中には、いつでも食べられると思っているものが、ある日突然食べられなくなってしまうということがあります。そして、それは、そういうものに限って、大好物だったりします。

私にとって、その一つに、醋滷麺(スールーメン)という料理があります。醋滷麺に出会ったのは、およそ30年前のこと。私が学校を出て働き始めた会社のすぐそばにあった中華レストランの定番メニューでした。そのお店は、王府(ワンフ)といいます。勤めていた会社から50メートルと離れていなかった王府の料理はほんとにおいしくて、昼も夜もよく食べました。その会社と王府はほとんど親戚づきあいをしておりました。

そういうことなので、このお店には、忘れられないメニューがいろいろあるのですが、一つ選ぶならやはり醋滷麺なのです。一言で言うと冷たいスープ麺です。お酢が効いていてすごくすっぱいのだけど、スープのだしと絶妙のバランスがとれていて、すごくおいしいのです。具は、茹でた蝦とひき肉と、ドッサリのニラだけです。シンプルだけど、これがなかなか癖になるのであります。

私がこの醋滷麺と、はなれられなかった理由がもう一つあります。それは、その頃、私がほぼ毎日、二日酔いだったことです。冷たくて絶妙にすっぱくて、他のものは食べられなくても、これだけは、残さずいただけて、不思議と二日酔いが醒めていきました。この会社に在籍した約12年間、ほんとによく二日酔いで食べた醋滷麺でした。会社を替わってからは、遠くなってしまったので、めったに王府にはいけなくなりましたが、たまに近くに行くことがあると、醋滷麺をいただきました。お店の人たちも懐かしがってくださり、デザートをサービスしてくれたりしました。家族ができると、子供を連れて行ったりもしました。そしたら、家族全員にデザートをサービスしてくれました。

二日酔いのたびに、醋滷麺食べたいなあと思いましたが、昔のようなわけにもいかず、でも、王府にいけば食べられるのだと思うと、それをまた楽しみにしていました。

ところが、何年か前のある日突然、王府は、なくなってしまいました。

相変わらず、いつもお客さんはいっぱいだったのですが、オーナーの方の都合で、お店を閉めることになったのだそうです。お店の人達もみんな、ばらばらになってしまうとのことでした。

醋滷麺も含め、食べられなくなってしまう料理たちが、頭をかけめぐりました。でも、お店がなくなってしまっては、手も足もでません。食べられないことが現実になると、ただただ思いがつのります。ちょっとした恋愛感情です。思い出すたびに、

「いま、醋滷麺、食わしてくれたら、5万円払ってもいい。」

などと、わけのわからぬことを言ったりします。

それから何年たったでしょうか。今年になって、ある朗報がもたらされました。前の会社の私の後輩が、偶然、御茶ノ水のホテルの中華レストランで、かつて王府のメニューにあった懐かしい料理をいくつか見つけたんだそうです。そこで、いろいろ調べてみると、あの時、王府を辞めたコックさんが一人、そのレストランで料理を作っていることがわかりました。そして、そのメニューにあったんです。醋滷麺が。

夏の初めに、なつかしい人たち何人かで、そのレストランに行ってみました。昔別れた恋人にでも会いに行くような、そんな気持ちだったと思います。おおげさに言うと。

器とか、雰囲気はちょっと違うのですが、細かいこと言うとちょっと違うのですが、間違いなくあの醋滷麺でした。お店の人は、スールーメンじゃなく、ツールーメンといいましたけど。いや、うれしかったなあ。

またしばらくして、大きくなったうちの子供たちをつれていきました。彼らも、大好物だった海老の料理を食べて、これだこれだと大喜びしておりました。そして、仕上げは、やっぱり醋滷麺です。Wanfu5

気も済んだし、しばらくお会いすることもなさそうですが、あそこに行けば食べられると思うだけで、心安らかです。ほんとに。

2008年6月18日 (水)

オーケストラは人をつくる ベネズエラのユース・オーケストラ

このあいだ、一緒に仕事をしているクリエイティブディレクターのAZさんと話していたら、「去年、BSですごくいい番組を観たのだけど、ぜひもういっぺん観たいのだけど、どうしたらよいだろか。」と相談されました。

そんなに良い番組なら、私も観て見たいし、調べてみましたところ、意外に簡単に手に入れることができました。さっそく皆で、観はじめたのですが、ほんとに良いのです、このドキュメントが。

どういうお話かというと、南米ベネズエラのオーケストラの話なんですね。

ベネズエラでは、1975年頃から、全国に青少年のオーケストラをつくり始めたんだそうです。現在全国に90の開発センターがあって、それぞれに3~4のオーケストラと合唱団があるそうです。こういってはなんですが、ベネズエラという国は、けっして豊かな国ではありません。むしろ、貧困と麻薬と犯罪のイメージが強くあります。果たしてクラシックのオーケストラを聴く習慣があるのだろうか?

でも、これは、ある団体が意図的に始めたことでした。

この番組の中で、「かつてこの国において、芸術は、ある限られた階級の少数の人々にのみ、与えられていた。少人数から少人数へのコミュニケートだった。」と語られます。

子供たちは、演奏するための椅子にすわっても、足が床に届かぬ頃からオーケストラの一員になります。子供たちが、はじめて生の音楽に接する場面は感動的です。まるで乾いた砂漠に、水がしみこんでゆくようです。そして、彼らは夢中になって音を出しはじめます。楽器は宝物となり、かたときも離せません。そうやって音楽と出会った彼らは、めきめき上達します。もちろん個人差はありますが、そうやってオーケストラの一画を担うようになっていくのです。もはや、ベネズエラのオーケストラ音楽は、少数から少数へ伝わる芸術ではありません。現在24万人が参加しています。

子供たちは、自分の技術を磨くことによって得られる感動を知り、オーケストラという大きなチームの中における自分の存在の意味を学びます。このことにより、努力によって得られる達成感と、社会の中で自分が果たせる責任を知ることになるといいます。オーケストラが人をつくり社会を作るという意味がわかってきます。貧困と麻薬に犯されていた社会は、少しずつ変化し始めました。

このシステムが育てた人材は、確実に成果を上げはじめています。すばらしい才能が育ち、彼らが作り上げたオーケストラは、世界の観客たちから、音楽の専門家たちから、絶賛されています。ある著名な指揮者は、「クラシック音楽の未来にとって、最も重要な活動が、今どこで行われているかとたずねられたら、私はベネズエラと答えるでしょう。」と語っています。

貧しい子供たちに楽器を提供し、組織をつくり、オーケストラを育てることは、簡単なことではなかったでしょう。世界中からの支援を取り付けたそうです。日本からも音楽教育の専門家たちがたくさん参加し、感謝されたそうです。このシステムを南米諸国に拡げていく試みも、すでに始まっているようです。Cello_5

しかしながら、この番組を観て最も感動したところは、子供たちとクラシック音楽との出会いでした。音楽は理屈ではなく、彼らの魂に直接働きかけ、あっという間に取り込んでしまいました。

この出会いを演出した人たちこそが、このお話の主人公なのです。

2008年1月25日 (金)

小学生のときに観た黒澤映画

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このところ、黒澤明監督の作品のリメイクが相次いでいます。現在上映中の「椿三十郎」、また今年の公開が決まっている「隠し砦の三悪人」。映画ではなくテレビでも、昨年「天国と地獄」と「生きる」が制作されました。「七人の侍」と「用心棒」は、とっくの昔に海外でリメイクされていますが、国内では、ここにきて一気にという感じがします。なにか連鎖反応のような気もします。かつて大ヒットした作品の魅力的なシナリオですし、いつかやりたいと思っていた関係者も多かったのでしょうか。

しかしながら、なんといっても、あの世界のクロサワが渾身をこめた、ものすごく完成度の高い映画をリメイクするのは、やはり勇気のいることだし、軽く決断できることでもなく、「赤信号、皆で渡ればこわくない。」みたいなところもあるのかもしれません。

映画のほうは、まだ観ておりませんが、テレビの方は、録画して観ました。やはり、本が良いので、しっかりしたドラマになっていました。公開された当時との時代のギャップは、うまく工夫されていたし、現代を代表する力のある役者さんたちがキャスティングされていて、なかなかに見ごたえがありました。そして、オリジナル作品に敬意を払った丁寧なつくりになっていると思いました。

ちなみに、オリジナル版の「天国と地獄」は、1963年の3月の公開です。私は小学2年生でした。ほんの子供でしたがものすごく興奮したのを覚えています。その後、何度もその映画を見ました。何回見ても、本当に面白くてよくできた映画です。

ここで、オリジナル版とリメイク版を比べてみても、意味のない事はよくわかります。でも、たとえ小学2年生であったとしても、その当時観客としてあの映画を観た者としては、どうしても比べてしまいます。そして、当時の黒澤映画にかけられたエネルギーが、いかに半端でなかったかを思い知るのです。

1963年からちょっとさかのぼりますと、195210月「生きる」、19544月「七人の侍」、195511月「生きものの記録」、19571月「蜘蛛巣城」、19579月「どん底」、195812月「隠し砦の三悪人」、19609月「悪い奴ほどよく眠る」、19614月「用心棒」、19621月「椿三十郎」となっています。ほぼ1年に1本のすごいラインナップです。

ともかく、黒澤さんは、脚本作りも、キャスティングも、ロケハンも、撮影も、映画に関するすべての仕事に対して、考えられるベストを尽くす監督です。いろんな逸話が残ってます。

「天国と地獄」では、物語の発端に重要な意味を持つ主人公の豪邸を、美術セットとしてつくっているのですが、同じ建物を、オープンに2箇所、スタジオに1箇所、合計3つ建てています。このことを知った上で映画を見ると、3つのセットが映画の中で完璧に機能していることがわかります。ほんの一例ですが、一事が万事こういう姿勢なのです。

「椿三十郎」のとき、私は小学1年生の観客でした。その時1回観たきりなのに、ずいぶん後に大人になってあらためて観た時、かなりの部分を正確に覚えていたことに驚きました。

40数年前、映画館は超満員。要所要所で、どよめきや爆笑が起こり、物語を、固唾を呑んで見守る観客たちがいました。そんな当時の空気も思い出しました。

リメイク版を御覧になった方も、御覧になってない方も、もしもオリジナル版を未だ観ていらっしゃらない方がございましたら、是非御覧いただきたい。

私がつべこべと申し上げていることが、わかっていただけるかと思います。

2007年8月29日 (水)

ホールインワンという事故

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降ってわいた事故。まさにそういう出来事なんです。

ホールインワン保険というのもあるくらいですから。

ゴルフをやらない人でもホールインワンという言葉は知ってると思うのですが、いわゆる第1打を打ったらそのままカップに入っちゃうあれです。

その日、午後からの2ホール目、177ヤードのショートホール。最近中古クラブ屋で買った9番ウッドで打ったボールは、珍しくピンに向かってまっすぐ飛んで行きました。正しくは、少し左方向に打ち出したのですが、その時、左からのアゲンストの風がけっこう強く吹いていて、結果的にピンのすぐ横に落ちたのです。2バウンドほどしたでしょうか、次の瞬間、そこにいた5人は全員飛び跳ねていました。

Swing_9 何が起こったのか。そうなんです。ボールが162m先の直径10.8cmの穴に入ってしまったのです。テレビでは見たことがあります。でもナマで見たのは初めてでした。

本当に珍しいことが起きたのですが、その事が私に起きてしまったということは、大変な確率の出来事といわざるを得ません。

私が、技術的にどの程度のゴルファーかという話からせねばなりません。

たとえば、昨年の一年間で、私は14ラウンドゴルフをプレーしておりますが、平均ストロークは106.9打、平均パット数は37.1打、ショートホールは平均4.48打たたいています。

数えてみましたら、56回ショートホールに挑んだうち、1オンしたのは10回だけでした。

つまり、この人の場合、1ラウンドするうちに、ショートホールで1オンする確率は、せいぜい1回にも満たないということです。この人が今年6度目のラウンドでやってしまったわけです。

数字的な確率に、技術的な可能性を加味すると、けっこう大変なことだとよくわかります。

たとえて言うと、街を歩いていて、たまたま気が向いて、サマージャンボを1組買ったら、当たってしまったみたいな。

お話はこれで終わりではありません。しばらくの大騒ぎのあと、グリーンに行ってカップに入ったボールを確認すると、私の尊敬する大先輩でシングルプレイヤーの亀田さんが、

「キャディさんに御礼をして、ゴルフ場から証明書をもらわなきゃね。」

と、静かにおっしゃいました。

「あっ、そうなんですか。」

また、

「それと、向井君はホールインワン保険には入ってるの?」

と、にこやかにお尋ねになりました。

「あっ、どうだっけ。あれ、どうだっけ。」

完全に舞い上がっております。

この日のゴルフは、20人のコンペでした。プレイ終了後、居酒屋での大宴会。優勝したわけでもないのに、主役は私でした。夜に入っていた仕事もお願いしてキャンセルしてしまいまして、遅くまで飲み明かしました。しょうがない奴ですよね。

さて、ホールインワン保険のことです。

この国には、ホールインワンをすると、そのプレーの同伴者、コンペの場合は、コンペ参加者、他、ゴルフに関して日頃お世話になっている人達へ、御礼をする習慣があるのです。欧米ではどうなのでしょうか。聞いたことないのですが。

つまりそのための保険です。

私の場合なんですが、保険にはいってたんですね、これが。本人がよく覚えてないくらいだったのですが、ゴルフ中のケガなどの事故に備えて入っていた保険に、たまたま、ほんの少しだけホールインワンの補償がついていたのです。たぶんホールインワン保険と呼ばれるものの中では、最も低い補償額と思われるのですが。

本当にゴルフが上手で、いつこの事故にあっても不思議のない方は、もっと大きな額の保険に入っているそうです。その保険で、ホールインワン記念コンペというのを自ら主催する方もいらっしゃるそうです。当然すべて奢りです。すごいのになると、それをハワイでやってしまった人がいるそうです。いったい、いくらの保険なんだろうか。掛金も高いんだろうな。でも、そういう人の場合、やってしまったときは本当にうれしいのだろうな。こうなるとギャンブルですねこれは。

私の保険の額では、コンペに参加した皆さんの住所を調べて、つまらぬ記念品を贈らせていただき、仲の良い人に記念ボールを配ったところで終わってしまいました。

意外と大変なんですね、ホールインワンて。

何故私なのかなと、今でも思いますけど。

でも、なんとなくうれしい災難ではありましたね、ちょっと。

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