2008年8月20日 (水)

王府の醋滷麺(スールーメン・ツールーメンともいうらしい)

世の中には、いつでも食べられると思っているものが、ある日突然食べられなくなってしまうということがあります。そして、それは、そういうものに限って、大好物だったりします。

私にとって、その一つに、醋滷麺(スールーメン)という料理があります。醋滷麺に出会ったのは、およそ30年前のこと。私が学校を出て働き始めた会社のすぐそばにあった中華レストランの定番メニューでした。そのお店は、王府(ワンフ)といいます。勤めていた会社から50メートルと離れていなかった王府の料理はほんとにおいしくて、昼も夜もよく食べました。その会社と王府はほとんど親戚づきあいをしておりました。

そういうことなので、このお店には、忘れられないメニューがいろいろあるのですが、一つ選ぶならやはり醋滷麺なのです。一言で言うと冷たいスープ麺です。お酢が効いていてすごくすっぱいのだけど、スープのだしと絶妙のバランスがとれていて、すごくおいしいのです。具は、茹でた蝦とひき肉と、ドッサリのニラだけです。シンプルだけど、これがなかなか癖になるのであります。

私がこの醋滷麺と、はなれられなかった理由がもう一つあります。それは、その頃、私がほぼ毎日、二日酔いだったことです。冷たくて絶妙にすっぱくて、他のものは食べられなくても、これだけは、残さずいただけて、不思議と二日酔いが醒めていきました。この会社に在籍した約12年間、ほんとによく二日酔いで食べた醋滷麺でした。会社を替わってからは、遠くなってしまったので、めったに王府にはいけなくなりましたが、たまに近くに行くことがあると、醋滷麺をいただきました。お店の人たちも懐かしがってくださり、デザートをサービスしてくれたりしました。家族ができると、子供を連れて行ったりもしました。そしたら、家族全員にデザートをサービスしてくれました。

二日酔いのたびに、醋滷麺食べたいなあと思いましたが、昔のようなわけにもいかず、でも、王府にいけば食べられるのだと思うと、それをまた楽しみにしていました。

ところが、何年か前のある日突然、王府は、なくなってしまいました。

相変わらず、いつもお客さんはいっぱいだったのですが、オーナーの方の都合で、お店を閉めることになったのだそうです。お店の人達もみんな、ばらばらになってしまうとのことでした。

醋滷麺も含め、食べられなくなってしまう料理たちが、頭をかけめぐりました。でも、お店がなくなってしまっては、手も足もでません。食べられないことが現実になると、ただただ思いがつのります。ちょっとした恋愛感情です。思い出すたびに、

「いま、醋滷麺、食わしてくれたら、5万円払ってもいい。」

などと、わけのわからぬことを言ったりします。

それから何年たったでしょうか。今年になって、ある朗報がもたらされました。前の会社の私の後輩が、偶然、御茶ノ水のホテルの中華レストランで、かつて王府のメニューにあった懐かしい料理をいくつか見つけたんだそうです。そこで、いろいろ調べてみると、あの時、王府を辞めたコックさんが一人、そのレストランで料理を作っていることがわかりました。そして、そのメニューにあったんです。醋滷麺が。

夏の初めに、なつかしい人たち何人かで、そのレストランに行ってみました。昔別れた恋人にでも会いに行くような、そんな気持ちだったと思います。おおげさに言うと。

器とか、雰囲気はちょっと違うのですが、細かいこと言うとちょっと違うのですが、間違いなくあの醋滷麺でした。お店の人は、スールーメンじゃなく、ツールーメンといいましたけど。いや、うれしかったなあ。

またしばらくして、大きくなったうちの子供たちをつれていきました。彼らも、大好物だった海老の料理を食べて、これだこれだと大喜びしておりました。そして、仕上げは、やっぱり醋滷麺です。Wanfu5

気も済んだし、しばらくお会いすることもなさそうですが、あそこに行けば食べられると思うだけで、心安らかです。ほんとに。

2008年6月18日 (水)

オーケストラは人をつくる ベネズエラのユース・オーケストラ

このあいだ、一緒に仕事をしているクリエイティブディレクターのAZさんと話していたら、「去年、BSですごくいい番組を観たのだけど、ぜひもういっぺん観たいのだけど、どうしたらよいだろか。」と相談されました。

そんなに良い番組なら、私も観て見たいし、調べてみましたところ、意外に簡単に手に入れることができました。さっそく皆で、観はじめたのですが、ほんとに良いのです、このドキュメントが。

どういうお話かというと、南米ベネズエラのオーケストラの話なんですね。

ベネズエラでは、1975年頃から、全国に青少年のオーケストラをつくり始めたんだそうです。現在全国に90の開発センターがあって、それぞれに3~4のオーケストラと合唱団があるそうです。こういってはなんですが、ベネズエラという国は、けっして豊かな国ではありません。むしろ、貧困と麻薬と犯罪のイメージが強くあります。果たしてクラシックのオーケストラを聴く習慣があるのだろうか?

でも、これは、ある団体が意図的に始めたことでした。

この番組の中で、「かつてこの国において、芸術は、ある限られた階級の少数の人々にのみ、与えられていた。少人数から少人数へのコミュニケートだった。」と語られます。

子供たちは、演奏するための椅子にすわっても、足が床に届かぬ頃からオーケストラの一員になります。子供たちが、はじめて生の音楽に接する場面は感動的です。まるで乾いた砂漠に、水がしみこんでゆくようです。そして、彼らは夢中になって音を出しはじめます。楽器は宝物となり、かたときも離せません。そうやって音楽と出会った彼らは、めきめき上達します。もちろん個人差はありますが、そうやってオーケストラの一画を担うようになっていくのです。もはや、ベネズエラのオーケストラ音楽は、少数から少数へ伝わる芸術ではありません。現在24万人が参加しています。

子供たちは、自分の技術を磨くことによって得られる感動を知り、オーケストラという大きなチームの中における自分の存在の意味を学びます。このことにより、努力によって得られる達成感と、社会の中で自分が果たせる責任を知ることになるといいます。オーケストラが人をつくり社会を作るという意味がわかってきます。貧困と麻薬に犯されていた社会は、少しずつ変化し始めました。

このシステムが育てた人材は、確実に成果を上げはじめています。すばらしい才能が育ち、彼らが作り上げたオーケストラは、世界の観客たちから、音楽の専門家たちから、絶賛されています。ある著名な指揮者は、「クラシック音楽の未来にとって、最も重要な活動が、今どこで行われているかとたずねられたら、私はベネズエラと答えるでしょう。」と語っています。

貧しい子供たちに楽器を提供し、組織をつくり、オーケストラを育てることは、簡単なことではなかったでしょう。世界中からの支援を取り付けたそうです。日本からも音楽教育の専門家たちがたくさん参加し、感謝されたそうです。このシステムを南米諸国に拡げていく試みも、すでに始まっているようです。Cello_5

しかしながら、この番組を観て最も感動したところは、子供たちとクラシック音楽との出会いでした。音楽は理屈ではなく、彼らの魂に直接働きかけ、あっという間に取り込んでしまいました。

この出会いを演出した人たちこそが、このお話の主人公なのです。

2008年1月25日 (金)

小学生のときに観た黒澤映画

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このところ、黒澤明監督の作品のリメイクが相次いでいます。現在上映中の「椿三十郎」、また今年の公開が決まっている「隠し砦の三悪人」。映画ではなくテレビでも、昨年「天国と地獄」と「生きる」が制作されました。「七人の侍」と「用心棒」は、とっくの昔に海外でリメイクされていますが、国内では、ここにきて一気にという感じがします。なにか連鎖反応のような気もします。かつて大ヒットした作品の魅力的なシナリオですし、いつかやりたいと思っていた関係者も多かったのでしょうか。

しかしながら、なんといっても、あの世界のクロサワが渾身をこめた、ものすごく完成度の高い映画をリメイクするのは、やはり勇気のいることだし、軽く決断できることでもなく、「赤信号、皆で渡ればこわくない。」みたいなところもあるのかもしれません。

映画のほうは、まだ観ておりませんが、テレビの方は、録画して観ました。やはり、本が良いので、しっかりしたドラマになっていました。公開された当時との時代のギャップは、うまく工夫されていたし、現代を代表する力のある役者さんたちがキャスティングされていて、なかなかに見ごたえがありました。そして、オリジナル作品に敬意を払った丁寧なつくりになっていると思いました。

ちなみに、オリジナル版の「天国と地獄」は、1963年の3月の公開です。私は小学2年生でした。ほんの子供でしたがものすごく興奮したのを覚えています。その後、何度もその映画を見ました。何回見ても、本当に面白くてよくできた映画です。

ここで、オリジナル版とリメイク版を比べてみても、意味のない事はよくわかります。でも、たとえ小学2年生であったとしても、その当時観客としてあの映画を観た者としては、どうしても比べてしまいます。そして、当時の黒澤映画にかけられたエネルギーが、いかに半端でなかったかを思い知るのです。

1963年からちょっとさかのぼりますと、195210月「生きる」、19544月「七人の侍」、195511月「生きものの記録」、19571月「蜘蛛巣城」、19579月「どん底」、195812月「隠し砦の三悪人」、19609月「悪い奴ほどよく眠る」、19614月「用心棒」、19621月「椿三十郎」となっています。ほぼ1年に1本のすごいラインナップです。

ともかく、黒澤さんは、脚本作りも、キャスティングも、ロケハンも、撮影も、映画に関するすべての仕事に対して、考えられるベストを尽くす監督です。いろんな逸話が残ってます。

「天国と地獄」では、物語の発端に重要な意味を持つ主人公の豪邸を、美術セットとしてつくっているのですが、同じ建物を、オープンに2箇所、スタジオに1箇所、合計3つ建てています。このことを知った上で映画を見ると、3つのセットが映画の中で完璧に機能していることがわかります。ほんの一例ですが、一事が万事こういう姿勢なのです。

「椿三十郎」のとき、私は小学1年生の観客でした。その時1回観たきりなのに、ずいぶん後に大人になってあらためて観た時、かなりの部分を正確に覚えていたことに驚きました。

40数年前、映画館は超満員。要所要所で、どよめきや爆笑が起こり、物語を、固唾を呑んで見守る観客たちがいました。そんな当時の空気も思い出しました。

リメイク版を御覧になった方も、御覧になってない方も、もしもオリジナル版を未だ観ていらっしゃらない方がございましたら、是非御覧いただきたい。

私がつべこべと申し上げていることが、わかっていただけるかと思います。

2007年8月29日 (水)

ホールインワンという事故

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降ってわいた事故。まさにそういう出来事なんです。

ホールインワン保険というのもあるくらいですから。

ゴルフをやらない人でもホールインワンという言葉は知ってると思うのですが、いわゆる第1打を打ったらそのままカップに入っちゃうあれです。

その日、午後からの2ホール目、177ヤードのショートホール。最近中古クラブ屋で買った9番ウッドで打ったボールは、珍しくピンに向かってまっすぐ飛んで行きました。正しくは、少し左方向に打ち出したのですが、その時、左からのアゲンストの風がけっこう強く吹いていて、結果的にピンのすぐ横に落ちたのです。2バウンドほどしたでしょうか、次の瞬間、そこにいた5人は全員飛び跳ねていました。

Swing_9 何が起こったのか。そうなんです。ボールが162m先の直径10.8cmの穴に入ってしまったのです。テレビでは見たことがあります。でもナマで見たのは初めてでした。

本当に珍しいことが起きたのですが、その事が私に起きてしまったということは、大変な確率の出来事といわざるを得ません。

私が、技術的にどの程度のゴルファーかという話からせねばなりません。

たとえば、昨年の一年間で、私は14ラウンドゴルフをプレーしておりますが、平均ストロークは106.9打、平均パット数は37.1打、ショートホールは平均4.48打たたいています。

数えてみましたら、56回ショートホールに挑んだうち、1オンしたのは10回だけでした。

つまり、この人の場合、1ラウンドするうちに、ショートホールで1オンする確率は、せいぜい1回にも満たないということです。この人が今年6度目のラウンドでやってしまったわけです。

数字的な確率に、技術的な可能性を加味すると、けっこう大変なことだとよくわかります。

たとえて言うと、街を歩いていて、たまたま気が向いて、サマージャンボを1組買ったら、当たってしまったみたいな。

お話はこれで終わりではありません。しばらくの大騒ぎのあと、グリーンに行ってカップに入ったボールを確認すると、私の尊敬する大先輩でシングルプレイヤーの亀田さんが、

「キャディさんに御礼をして、ゴルフ場から証明書をもらわなきゃね。」

と、静かにおっしゃいました。

「あっ、そうなんですか。」

また、

「それと、向井君はホールインワン保険には入ってるの?」

と、にこやかにお尋ねになりました。

「あっ、どうだっけ。あれ、どうだっけ。」

完全に舞い上がっております。

この日のゴルフは、20人のコンペでした。プレイ終了後、居酒屋での大宴会。優勝したわけでもないのに、主役は私でした。夜に入っていた仕事もお願いしてキャンセルしてしまいまして、遅くまで飲み明かしました。しょうがない奴ですよね。

さて、ホールインワン保険のことです。

この国には、ホールインワンをすると、そのプレーの同伴者、コンペの場合は、コンペ参加者、他、ゴルフに関して日頃お世話になっている人達へ、御礼をする習慣があるのです。欧米ではどうなのでしょうか。聞いたことないのですが。

つまりそのための保険です。

私の場合なんですが、保険にはいってたんですね、これが。本人がよく覚えてないくらいだったのですが、ゴルフ中のケガなどの事故に備えて入っていた保険に、たまたま、ほんの少しだけホールインワンの補償がついていたのです。たぶんホールインワン保険と呼ばれるものの中では、最も低い補償額と思われるのですが。

本当にゴルフが上手で、いつこの事故にあっても不思議のない方は、もっと大きな額の保険に入っているそうです。その保険で、ホールインワン記念コンペというのを自ら主催する方もいらっしゃるそうです。当然すべて奢りです。すごいのになると、それをハワイでやってしまった人がいるそうです。いったい、いくらの保険なんだろうか。掛金も高いんだろうな。でも、そういう人の場合、やってしまったときは本当にうれしいのだろうな。こうなるとギャンブルですねこれは。

私の保険の額では、コンペに参加した皆さんの住所を調べて、つまらぬ記念品を贈らせていただき、仲の良い人に記念ボールを配ったところで終わってしまいました。

意外と大変なんですね、ホールインワンて。

何故私なのかなと、今でも思いますけど。

でも、なんとなくうれしい災難ではありましたね、ちょっと。

2007年7月11日 (水)

屋久島の思い出

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先日ある方が、屋久島に旅行をすることになり、ちょっとした情報提供を求められたので、久しぶりに屋久島の知人に電話をしました。4年前にロケに行ったときに、大変お世話になった方で、真津(まなつ)昭夫さんといいます。あいかわらず元気そうな明るい声が聞こえてきました。その日も、屋久島の山のてっぺんから帰ってきたばかりだったそうです。この人は、屋久島のネイチャーガイドの草分け的な人です。この島で行われるロケーションのほとんどのコーディネートをしていて、撮影の知識も豊富です。

4年前のその頃、私共は屋久島の3本の杉の巨木と、この島の自然を題材にして、30分のハイビジョン番組を3本作ることとなり、1週間のロケハンの後、10日間の撮影を敢行しました。真津さんには、その間、何から何まですっかりお世話になったわけです。何しろ本を何冊か読みかじっただけで現地入りし、90分の構成を考えながらのロケハンでしたから、この人なしにこの仕事は考えられませんでした。

真津さんは、本当に屋久島のすべてを知っている人でした。ちなみに、山頂近くの縄文杉までの道を1000往復以上歩いたとおっしゃっていました。縄文杉へ行くには、山道を片道6時間歩かねばなりません。私の場合,ロケハンの1往復で一生分の山歩きをした気持ちになりましたけど。

花崗岩が隆起してできたこの島は、周囲が130km程の面積にもかかわらず、標高1900mクラスの山が連なっています。屋久島の最高峰、宮浦岳は、九州で最も高い山でもあるのです。いかに急勾配な山に覆われた島であるかが、想像していただけると思います。この洋上アルプスと呼ばれる島に吹きあたる風は、海上の水蒸気を山に沿って吹き上げ、冷やされ、霧となり雲となり、大量の雨を降らせます。ひと月に35日雨が降るといわれるのはこうした理由です。

また、温帯と亜熱帯の境目に位置するこの島では、海岸にハイビスカスが咲き、ガジュマルが生い茂り、山の中腹までは、世界に誇る照葉樹林で覆われています。その上の層には、樹齢1000年クラスの屋久杉がいならび、山頂付近には、高山植物が生育しているのです。そんな植物の標本のようなところに、それだけの雨が降れば、どんな島ができるのか。世界でただ一箇所、何千年もかけて実験しているような場所なのです。

そんなことですから、ここの森は、ちょっとすごいですよ。

映画「もののけ姫」にでてくるシシ神の森のイメージは、まさに屋久島の森なのだそうです。この森には、何やら説明のつかぬ不思議な存在のようなものを、感じてしまうのです。

それまで、自然の森林や、山歩きなどとは、無縁のところで暮らしてきましたが、この島で見たものには、明らかに影響を受けました。うまく言えんのですが、自然のこととか、時間のこととか、日々の暮らしのこととか、何だかちょっと考えさせられたわけです。

ロケハンを終えた私たちは、一度東京に帰り、シナリオライター、ディレクター、カメラマンらと打ち合わせをしてから、再度、撮影のために屋久島に向かいました。

10日間の撮影も終盤にさしかかり、いよいよ片道6時間の縄文杉に出発する前日のこと。私は仕事の都合で先に帰京することになりました。あそこまでもう一度登ることに、ややひるんでいた私は、正直、ちょっとほっとしたのを覚えています。情けないことでした。

自然から何か教えを受けたようなつもりになっていても、いざとなると、やはり、大自然とは対極にいるちっぽけな奴でした。

2007/7

2007年7月 3日 (火)

小さな大投手、逝く

この夏、7月の終わりに、義父が急逝しました。 Pitcher2_6

昭和5年の生まれでしたから、76歳でした。寿命といえばそれまでなのかもしれませんが、まだまだ生きていてほしかったです。

この人は妻のお父さんですので、私としては、結婚してからの18年間、お世話になったことになります。

元プロ野球選手で、ピッチャーをしていました。その後、コーチをして、監督をして、解説者もして、ずっとプロ野球界にいた人でした。

昭和25年、創設されたばかりの地方の小さな球団の入団テストを受けて採用され、その年に新人投手として15勝を挙げてから、長いプロ野球人生が始まりました。   

身長が166cmで、野球選手としてはかなり小柄でしたが、それから8年間2桁勝利を続け、その間、球団の勝ち星の4割以上を挙げました。弱小ゆえに解散の危機に立たされた球団を救い、昭和30年には、年間30勝を達成して、リーグを代表する投手になりました。

それでも、14年間の現役時代、チームがAクラスになることは一度もありませんでした。

昭和38年シーズン終了後、引退。621試合に投げ、通算197勝208敗、1564奪三振、通算防御率2.65という数字は、やっぱりちょっと、ものすごい数字ではあります。

私も現役時代をほとんど知らないほど、昔の話です。当時は、今のような投手の分業制も無く、エースは完投が当たり前、勝てそうな試合がピンチになると、リリーフにも行ったそうです。

「もっと強いチームにいたら、もっと勝てたでしょうね。」

と、よく言われましたが、その度に、本人は真顔で否定していました。

「小身・弱小・貧乏を、逃げ場にしたくなかった。」

というのが、当時からの口癖で、本当に負けることの大嫌いな人でした。そのエネルギーで戦い続けた結果が、自分の記録だと言っていました。

あらためてこの数字を眺めてみると、ずいぶんしんどい試合が多かったことが想像できます。ピッチャーという役割からくる性格もあり、かなりワンマンで、わがままなエースでもあったようです。勝ちにこだわり続け、投げて、投げて、また投げて、それでも、負け数のほうが勝ち数を11個上回りました。

いつだったか二人で話していたときに、もう一度生まれ変わっても、やっぱりピッチャーを仕事にしたいと言ったことがありました。数字的には、負け数のほうが多かったけど、しんどくて悔しいこともあったけど、この仕事が本当に好きだったんだなと思いました。

よく、夜遅くまで野球の話を聞かせてもらいました。聞き手としては物足りなかったろうと思いますが、野球ファンとしては、本当に面白くてためになる話でありました。

かつて、勝負の鬼といわれた人も、晩年は穏やかな人でした。

義父が亡くなったちょうどその時、うちの息子は、小学生最後の少年野球大会に出場しており、ベスト8をかけ、三塁手として戦っていました。義父にとっては唯一の男子の孫が、野球をやっていることは、やはりうれしいことのようでした。もう少し先まで見せてあげたかったなと思うと切なかったです。

それからしばらくしてから、夏の甲子園が始まりました。

駒大苫小牧の田中君や、八重山商工の大嶺君や、早実の斉藤君を見てどう思ったか、ゆっくり話を聞いてみたかったです。

2006/9

続・自転車の話

私の場合、自転車で走るときに、たとえば甲州街道とか明治通りとか環状6号線とか、いわゆる大きな道路の車道を走るのは、なるべく避けるようにしてます。そこは交通量も多く、トラックや乗用車やオートバイなどが大きな顔して走っていて、自転車はどうしても「スイマセン・・・おじゃましてまーす」みたいになります。歩道はというと、そこはやっぱり歩行者のものだし、段差も多いです。そんな訳で、わりと裏道ばかりを走ることになります。道幅の狭い道路を走ることもあり、そんな時、気をつけねばならないのは、路地からの飛び出しです。

わりと用心深く走っているので、今まで事故には会ってませんが、原付バイクと歩行者の飛び出しにより、2度ほど顔から落ちたことがあります。相手とは接触してません。いわゆる自爆転倒です。Bureki_3

何故、顔から落ちるのかというと、人は咄嗟の時、つい利き腕のほうのブレーキレバーをおもいっきり握ってしまうからなのです。私の場合、利き腕は右です。右のブレーキは前輪用です。わりとスピードが出ているときに、前輪がロックされると、つんのめって前から落ちます。手はハンドルを強く握ったままなので顔から落ちるわけです。

確かに、自転車屋のオヤジから、急ブレーキをかけるときには、一瞬左をかけてから右をかけないと、顔から落ちますよと注意されましたが、そんなこと急にできませんよ。だって急なブレーキなのですから。

幸い外傷はなかったんですが、しばらく顔が痛かったです。笑うと歪んだりして。だいたい顔から着地するってみじめです。マンガじゃないんですから。しかも2回も。そういうことなので、それ以来、より用心深く走っております。皆さんも気をつけてください。ホント、あっけなく顔から落ちますから。

今の話とは全然関係ないんですが、もう一つ自転車の話です。

この間、スポーツ雑誌を読んでいたら、プロ野球開幕前の清原の記事がありました。去年ひざの手術を受けた清原は、突然読売ジャイアンツから戦力外通告され、そうとう落ち込んでいたんだそうです。そんなとき、亡くなった仰木監督からオリックスに誘われました。何とかもう一度やってみようかと思ったものの、やけになって暴飲暴食した身体が120kgにもなっていて、とにかくまず、身体作りから着手したんだそうです。鶏のささみと豆腐と卵の白身を少しずつ摂りながら、走りこんで筋トレを繰り返しました。その時、体重を絞るため自転車にも乗ったんだそうです。

以下、清原談。関西弁で読んでね。

「わざわざ自転車買うてな。夜は家からジムまで漕いでいった。もう何年も乗ってなかったから、コケそうになるし()。でもな、それがすごくよかった。東京にいて車ばかり乗っていたら、季節感なんて感じることもないやろ。自転車に乗ってると、『ああ、もう秋口の涼しい風やなあ』とか、風の匂いも感じるし、街の匂いも感じる。プロになって、いつのまにかいい車で練習場にいくようになったけど、子どもの頃はこうやって自転車に乗って練習に通ってたなあなんて、昔のこと思い出したりな」

どこへ行くのも外車乗ってブリブリ走ってたこの人が、そうやってペタルを漕ぎながら、何か基本にもどってもう一度がんばろうと思ったそうです。何かちょっとわかる気がしましたんですけど。

2006/6

私の自転車通勤

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7年位前に、ふと思いついてから、時々自転車で通勤するようになりました。杉並の自宅から神 宮前の職場まで、片道10kmちょっとで、約40分。毎日往復すれば良い運動になるのですが、そうもゆきません。雨も降るし、出張もあるし、だいたい、夜、酔っ払ってることが多いのが良くありません。自転車の酔っ払い運転は本当に命にかかわります。そんなわけで、自転車通勤ができるのは、1週間のうち1日か2日がよいところです。1年のうちでは、1月、2月、7月、8月は、ほぼお休みします。真冬は半端じゃなく寒く、いくら必死で自転車漕いでも、体が暖まる頃には家に着いてしまいますし、真夏はとにかく暑く、着てるものすべて汗びっしょりになるからです。

そんなことなので、えらそうに自転車通勤やってますと言っても、たいしたことはないんです。

でもね、わりと楽しいもんではあります。自転車で走ってると、けっこういろんな発見があるんです。温度や湿度や木々草花の変化、季節の変わり目。へえ、こんな所にこんな店があるんだあ、とか。この路地入ってみたら、こんな所に出てくるんだあ、とか。自転車は道さえあればどこでも走れますから、狭かろうが、一方通行だろうが、階段だろうが、平気です。それに、停めとく場所にも苦労しません。本屋でも、映画館でも、仕事先でも、わりと気楽においとけます。ただ、あっちこっちに自転車を停める人には、何十万円もする高価な自転車はお薦めしません。わりと簡単に盗まれちゃいますから。私も1台やられました。高級車じゃなかったですけど。

もともと仕事でロケハンとかさんざんやってることもあり、地図を読むのは、得意だし好きです。地図上でシミュレーションしたコースを走ってみると、また新たな発見があったりします。これもまた面白いんです。

こうやって、あるエリアに関して、妙に道事情に精通したおじさんになっていきます。

地形の事も詳しくなりますよ。特にきつい坂道に、自転車乗りは敏感です。芋洗坂、鳥居坂、仙台坂、暗闇坂、道玄坂、宮益坂、三分坂、乃木坂、霊南坂・・・・・・東京には、けっこう坂が多いんです。地名に谷のつくところも必ず坂道です。四谷、千駄ヶ谷、渋谷、富ヶ谷、幡ヶ谷、市ヶ谷とかとか、自転車で走ってみるとわかります。西麻布の交差点あたりから墓地下のあたりが、かつて霞町という地名だったのは、低地なのでよく霞が溜まっていたからだそうで、このあたりも確かに坂道だらけです。こうやって、普段あんまり気にすることのない地面の高低差に、やたらと詳しくなります。いずれにしても、東京を自転車で走る場合、アップダウンは避けられません。

こういう状況下で、私が乗っているのは、クロスバイクというジャンルの自転車です。マウンテンバイクの部品で構成されていますが、マウンテンバイクのようにハードなオフロードを走る太くてタフなタイヤではなく、ロードレーサーのようにスピードに特化した軽くて細いタイヤでもない、二者の中間のタイヤを履いた、とんがった部分は少ないが、現実的で幅広い使用目的にあったスポーツバイクです。

こういうふうに書くと、どんな自転車じゃろかと思いますが、まあ言ってみれば、ふつうの自転車に変速機つけたようなものです。

ロードレーサーのように、大きな街道で乗用車やトラックの合間を、男らしくすっ飛ばしてゆくわけでもなく、マウンテンバイクのように、週末の林道を、男らしくかっ飛ばすわけでもなく、東京の裏道を思いつきでチョロチョロ走る私には、ちょうどよい自転車なのです。

そんなことで、体を鍛えているというほどのことではないのですが、飽きずに続いている私のバイクライフなわけです。

2006/5

方言あれこれ

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年末に、リリー・フランキーさんの「東京タワー」を読みました。いい本でした。この人と、この人のお母さんの話です。彼が子供の頃から、最近お母さんが亡くなるまでの二人のことがつづられています。

男にとって母親というものは、何ともいえない大きな存在です。自分も含めて、男はみんなマザコンなのだなと思いました。母親と息子の会話がいいです。気にかけながら、面と向かうとぶっきらぼうになってしまう感じとか、二人の関係がわかります。

九州で暮らしていた母子が、息子の上京を機に離れて暮らし、やがて年老いた母が東京にやって来て、また二人で暮らし始めます。二人の会話が博多弁なのが、またいいです。何ともいえない体温を感じます。

地方出身者にとって、方言というのはなつかしいもんです。石川啄木の上野駅の歌じゃないですけど、ふるさとや身内を思うとき、お国訛りは胸にしみます。私の場合、広島の高校を卒業して上京したころ、当時東映で封切られたばかりの映画「仁義なき戦い」をよく見に行きました。広島弁満載ですから。

方言がコンプレックスになることもありました。子供の頃、父親の仕事の都合で、何度か転校しましたが、東京から神戸の小学校に変わったときは、神戸のガキどもに東京のしゃべり方を徹底的にからかわれました。昔から、関西には東京の言葉を嫌う風土がありますよね。このときは、前に神戸に住んでいたこともあり、約一週間で完全に関西イントネーションに戻したと思います。やればできるもんです。

何度か引越すうちに子供は切り替えが早くなります。その後、広島の中学に転校したときも、ほぼ一週間で広島弁になっていました。そんなわけで、方言に関してのヒアリングはちょっと自信があります。英語はまったくダメですけどね。

大人になって、CMの仕事について、「ピッカピカの一年生」という小学館のTVCMシリーズを11年間担当することになります。もうすぐ小学一年生になる日本中の子供たちが、テレビに出てきてご挨拶するあのCMです。これは、まさに日本中の方言を発掘する仕事でした。いろんなところへ行きました。夜、はじめて降りるローカル線の駅を降りると、まず、駅前のラーメン屋のおじちゃんや、スナック「さゆり」のママさんから、方言の指導を受けました。子供たちからもいろいろ教えてもらいました。ちょっとしたプチ方言評論家になってましたかねえ。

瀬戸内海の小島で、幼稚園の園長さんに取材したときの会話。

「この地方の方言を教えていただきたいんですけど、お時間いただけますか。」

「いやあ、ここらにゃ、いまごら、方言はありませんけん。」

「あ・・・・・、そんな感じで十分です。」

当時もテレビなどの影響で年々方言は減りつつありましたが、どこに行ってもこれくらいは十分残ってました。ていうか、お年寄りが本気で方言でしゃべるとまったくわからないことがよくあった気がします。

あの頃に比べると、日本中ずいぶんと標準語化しちゃった気がするけど、やっぱ方言は地方の個性だし、なくならないといいなと思いますね。

2006/1

プロ野球日本シリーズ・2005

Baseball1_5かれこれ40年も、タイガースファンをやっていると、たいがいの事ではめげないのですが、今回の日本シリーズは、ちょっとへこみましたね。

私が阪神のファンになってからのペナントレースでの優勝は、今年で3度目です。1度目が、1985年。21年ぶりの優勝。バース・掛布・岡田・真弓たちが、1シーズンに200ホーマーを放ち、その勢いのまま日本一になったあの年です。2度目が2003年。星野監督の大改革が功を奏して、18年ぶりに歓喜に沸いたあの優勝。セ・リーグには球団は6球団しかないのに、どうして我がチームは21年ぶりとか、18年ぶりにしか優勝できないんじゃろかと、いつもぼやいていたのですが、今年は2年ぶりにやってくれたのです。

もちろん、今年の胴上げも、やっぱりうれしかったです。ただ、1度目と2度目に比べると、やや冷静に受け止めることができました。そして、私たち多くの阪神ファンの関心は、すでに日本シリーズに向かっておりました。2年前の日本シリーズは、第7戦までもつれた末にダイエーホークスに敗れました。今年は、そのホークスがパ・リーグの代表権を、ほぼ手中にしていましたし、私たち阪神ファンは、雪辱を果たして、20年ぶりに日本一になるんだと、意気込んでおりました。その後、予想に反して、ロッテマリーンズがプレーオフを勝ち上がってきて、対戦相手に決まったのですが、私たちは、それはそれで、何するものぞという感じでした。確かにパ・リーグのプレーオフは壮絶で、ロッテの底力には脅威を覚えましたが、うーん、これはひょっとすると第7戦くらいまではもつれるかもな、くらいの受け止め方でしかありませんでした。何を根拠にかはわかりませんが、私たちには、不思議と妙な自信があったのです。私の友人のトラキチの万ちゃんは、

「向井、オレ、どうイメージしても岡田監督の胴上げのシーンは甲子園の風景しか浮かんでこないんだよ。つまり、第5戦までにタイガースの日本一は決まるな、これは。」

などと申しておりました。

ところがどっこい、確かに万ちゃんの云ったとおり、甲子園で胴上げは行われましたが、宙に舞っていたのは敵将でした。あろうことか、一回も勝てなかったうえに、長い日本シリーズの歴史上、記録に残る最悪のワンサイドシリーズとなってしまったのです。全4試合のマリーンズの挙げた総得点33点に対して、タイガースの挙げた得点は4点。得点差は29点です。チーム打率.190、チーム防御率8.63、いいとこなしです。5日間ただ茫然としているうちにシリーズは終わってしまいました。

そんなことはないと思うのですが、私たちファン同様に、監督やベンチ、選手たちに、何の根拠もない日本一のイメージがあったということは考えられないでしょうか。いや、どうもそんな気がしてきたなあ。岡田の顔みてると、どうもそんな気がするなあ。

冷静になって考えると、敵将バレンタインは、大リーグのワールドシリーズを戦ったこともある短期決戦のプロです。先日発売された”Number”によると、彼は、9月からロッテのスコアラーを総動員して、阪神の戦力分析を始めていたようです。それも全員が毎晩徹夜になるような激しさで。

こんなエピソードも載っていました。ロッテには、里崎と橋本というレギュラークラスの捕手が二人います。バレンタインは二人を競わせながら起用しているのですが、ある時、遠征先で2人で飲みに行って帰ってくると、バレンタインがこう云ったそうです。

「ライバルが仲良くしててどうするんですか。」

何だかいつもニコニコしていて陽気そうで、何だかわけのわからない日本語でリップサービスしているあのおっさんに、だまされた感もあります。敵は、思っていたよりずっとシビアだったようです。Baseball2_2

昔からタイガースというチームには、こうゆうところがあります。伝統的とでも云うのでしょうが、期待させておいて、思いっきり裏切ったり、どう考えても有利な試合なのに、なんとなく負けてしまったり。らしいといえばらしいのですが、久しぶりにやってくれました。油断してたわけじゃないんでしょうけどね。

こうして、今年の日本プロ野球のカードは、すべて終了しました。最後の最後まで贔屓のチームの応援ができたんだから、まあよしとしましょうか。

がっかりするのもこれ位にしとかないと、阪神ファンはやってられませんよ。

2005/11

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