2007年7月 3日 (火)

1978年のスター・ウォーズ

Robot 「エピソード3 / シスの復讐」見てきましたよ。なんだかこれでシリーズも終わりだと思うと、すぐ見てしまうのももったいなく、でも早く見たいよな、やっぱり、などと躊躇しているうちに忙しくなってきたりして、気がつくと夏の終わり。映画館もわりとすいていて、いい席でじっくりと鑑賞して来ました。なるほど、相変わらずよくできております。おまけに今回は、この壮大なエンタテイメントの締めくくりで、第一作とつながる最も盛り上がる部分でもあります。なるほど、なるほど、そういうことだったわけね、ふむふむなどと言いつつ、そのディテールを堪能してきたのでした。

思えば最初の「スター・ウォーズ」が制作されたのが1977年、次の「帝国の逆襲」が1980年、「ジェダイの復讐」が1983年、しばらく間があって新シリーズが始まり、「エピソード1 ファントム・メナス」が1999年、「エピソード2 クローンの攻撃」が2002年、そして今回の「エピソード3」となります。かれこれ28年の月日が流れました。レイア姫のキャリー・フィッシャーも今年49歳ですもん。感慨深いものがありますよね。

第一作を見たときのことは、ものすごくよく覚えています。日本の公開は1978年だったと思います。私は当時、新橋のCMプロダクションに就職して2年目でした。世界中で大評判のこの映画の公開を、それはそれは楽しみに待っていました。封切後まもなく、職場の同年代の45人で会社を抜け出して見に行きました。映画館は銀座の「テアトル東京」、今はなくなってしまいましたが、いつも洋画の大作がかかっていた有名な映画館でした。この日は、平日の昼間だというのに満員、ギリギリに滑り込んだ私たちは、最前列に座ることになりました。実は、この「テアトル東京」という映画館のスクリーンは、当時多分東京で1,2を争うスケールで、おまけにスクリーンが平面でなく、大きく湾曲していて、最前列に座ると、スクリーンの左右の端が真横にある感じです。満員なのにこの席が空いていたのはそのせいで、まいったなと思いました。でも、その場所でこの映画を体験したことは、忘れられない思い出になりました。すごかった。ハン・ソロの操縦する宇宙船はぶつかるんじゃないかと思うほど目の前を横切ります。視界のすべてがスクリーンで、左右の端は首を振らねば見渡せません。戦闘機の主観は自分が乗っているようで、気持ち悪くなりそうだし、ルーク・スカイウォーカーが敵の戦闘機を打ち落とす有名なシーンは、彼が移動式の銃座ごと画面の端から端までものすごいスピードで移動するたびに、こっちは首が痛くなるわけです。今までに見たことのないまったく新しい映画でした。撮影も編集も本当に斬新で面白かった。後にレンタルビデオでこの映画と再会したときには、すべてのシーンをコマ送りで確認したほどです。私たち当時の若者は、興奮し完全に虜になり、帰りの地下鉄では、ずっとダースベーダーの息や、C-3POの声などの物真似をしていたと思います。映像制作のプロを目指していた私たちは、もろに影響を受けました。

後日談です。

それから7年ほど経った夏、私は新米のプロデューサーになっており、ロサンゼルスでCM撮影のためのロケハンとキャスティングをしておりました。CMの設定は、ハリウッドのSFXスタジオでの特撮スタッフたちのコーヒータイムというものでした。いくつかのロケ場所の候補の中に、あのスターウォーズの特撮監督のジョン・ダイクストラの所有するスタジオがありました。彼と会って握手をしただけで、もう充分に夢見心地になっていた私ですが、あろうことか、ジョンがこう云いました。

「僕でよかったらCMに出演してもいいよ。でも、僕がCMに出ていることは、発表しないでほしいんだけど。」

私の瞳は完全に星の形になってました。うれしかったなあ。

その秋からそのCMはオンエアされました。その画面の中心にいる結構かっこいいおじさんが、あのジョン・ダイクストラだということは、誰も知りません。云いたくて仕方なかったけど、男の約束です。ずっと我慢しました。私のひそかな自慢話です。

2005/9

この夏のいろいろ

今年の夏は、久しぶりのカンヌ行きに始まり、久しぶりの家族旅行にも行き、その間、久しぶりにタイガースが好調で、オールスター戦も見に行ったりして、いろいろと盛りだくさんです。そうこうしているうちに8月になりました。8月というのは、お盆ということもあり、終戦記念日があったり、原爆記念日があったりして、鎮魂の気持ちの深まる時期です。今年は、終戦60年の節目であり、また御巣鷹山の飛行機事故から20年というタイミングで、世間全般、例年に増してその気持ちが深いように感じられます。

50年も生きていると、自分のまわりの沢山の人達を亡くしていることがわかります。

今年初めてのお盆を迎えた御霊もあります。この世に生かされている私たちは、こうやって時々、亡くなった人達のことを偲び、なんとか気持ちの折り合いをつけながら生きてくんだなと思います。

8月11日の新聞に、御巣鷹山日航機墜落事故の、ある遺族の記事がありました。読んで泣きました。要約して紹介します。

以下記事より。

1985年の早春。1組の夫婦が埼玉の2DKのアパートで新婚生活を始めた。半年後、初めての里帰り。だが、妻は羽田をたったまま、神戸の実家に帰らなかった。妻の母は事故後、うつ病と診断される。そんな義母の姿を知り、夫の康治さんは一周忌後、骨つぼを抱き新幹線にとび乗った。「遺骨は返そう。お母さんが由美を守らなくちゃと思って生きてくれれば・・・」 納骨のあとの別れ際、儀父母は繰り返した。「まだ、康治君は若いんだから」 しばらくして、康治さんが手紙を書いても、神戸から返事が来なくなった。「家族だと思っているのに」切なかった。

会社では立ち直ったかのように、月230時間の残業をしたが、1人家に戻るとむなしくなる。時に、繁華街をさまよった。6年で4度引越した。事故から8年後、一つ年下の女性と再婚した。一緒に登った御巣鷹山の尾根を号泣しながら歩く姿に、新たな人生を歩もうと決意した。

今年、康治さんは部長に昇進した。ガリガリだった青年は、おなかの出っ張りを気にするようになった。「君は、若いんだから」あの時、由美さんの両親が繰り返した言葉をかみしめる。感謝と今の暮らしを伝えたくて、今年、遺族の文集「茜雲」に文章を寄せた。

『あの日命を落とした先妻の両親は、25歳という若かった私を再起させるために、自ら縁を絶つように音信を潜めました。時がたつにつれ、私はそれが究極的な愛情であることを、思い知るようになりました。前向きに生きて幸せになろうと決意を深めていきました』

思いは届いていた。「康治くん、再婚したって。よかったなあ。会社も勤続20年やって。」

御両親は、7月上旬「茜雲」を手にした。康治君と会うことはないだろう。それでも、心穏やかに、それぞれの生活を送ればいい。

1995年の阪神大震災。家がつぶれたが、朝食を作っていた義母は、テーブルの下に逃げて一命をとりとめた。墜落事故後に結婚した由美さんの兄夫婦の長女(19)に亡き娘の面影を見る。残された自分たち家族の幸せを、由美さんが支えてくれたように思う。20年前に帰ってくるはずだったふるさと神戸。夫婦は近く、市内の高台にお墓をつくろうかと考えている。

Sunflower_5

2005/8  

ツバイヘルツェンという店

Tsubai_2初台の新国立劇場の近くに、“ツバイヘルツェン”という小さな洋食屋さんがあります。ドイツ語で、二つの心とでもいう意味のようです。この店に初めて行ったのは、もう20年位前になります。もちろん国立劇場もない頃、路地裏のほんとに小さな一軒家で、看板もドイツ語で読めないし、店なのか民家なのかわからない、不思議なたたずまいの店でした。当時私はたまたま初台に住んでいたのですが、偶然ともだちに連れて行かれたこの店は、ちょっとびっくりするほど、おいしかった。そして、ちょっとびっくりするほど、ユニークなマスターがいたのです。

ここの料理は別段かわったこともない洋食です。たとえば、オムライス、コーンコロッケ、ソーセージ、ビーフシチュー、マカロニグラタン、ネギピザ、カレーライス、ハヤシライスとかとか。でも、どの料理も普段食べているものと明らかにちがう完成度がありました。そして本当においしい。感動をあらわにしていると、カウンター越しにマスターが、どうだ、このやろう、まいったか、みたいな顔してこっちを見ているのに気付きます。やがて少し親しくなると、今度は、こっちが食べてる横から、どうだ、このやろう、うまいだろ、と話しかけてきます。そして、何故うまいかの解説が始まります。さんざん通った私は、それぞれの料理の解説をほぼ覚えてしまいました。要するに、どの料理も、この店では、出来合いの材料は使わず、素材からしかつくらないということ。そして、その作り方は、マスターが13年間ヨーロッパの一流ホテルで働いて身につけた技術であるということ。そして、このマスターにものすごく料理の才能があったこと。常々彼は料理は芸術であるといっております。まあいってみれば自画自賛なのですが、うまいのは確かなわけで、ごもっともなわけです。

このマスター、松永穂さんといいます。この人、何ていったらいいか、頑固で短気、酒飲みで生一本、融通ならきかない。知る人ぞ知る名物マスターなのです。この人は、初めての客にとにかく厳しい。(美人だと優しいんですけど。)うまいものを、ちゃんとうまいとわかる客かどうか、まずじっと見ております。少しでも気に入らないと、明らかに不機嫌になり、あげくに、出て行けこのやろうということになります。そういう時は、人間のできた奥さんがとりなして、何とかおさめるのが常ですが、せまい店内は、一瞬すごく気まずくなります。それに、この店は完全予約制です。どんなに暇でたとえ客が誰もいなくても、予約してない客は入れません。こういっちゃ何ですけど、完全予約制の店には見えません。偶然入ってきておもいっきり怒鳴られた客のほうがいい迷惑です。驚いて帰ろうとする客に、来るときは電話してから来いよとかいって、無愛想に店のカードを渡したりします。いつだったか、店閉めたあと酒飲んでいて、何故にここは完全予約制なのかを聞いてみたことがあります。酔っ払ったマスターがいうには、うちは、今日来る客のために、何時間も何日もかけて材料を用意する店なんだよ。ソースだってなんだって全部素材から作ってんだから。急にきて、ハイヨってわけにゃあいかねえんだよ。たとえばピザの生地だってうんぬんかんぬんと、いつもの長い話になってしまい、質問したことを後悔したものでした。でも、この人は、自分が好きな人に本当にうまいものを食わしてやりたいという愛情にあふれた人であることも確かです。ちょっとわかりにくいのですが、しばらく付き合うとよくわかります。

実は、マスターが昨年の春に病気で亡くなっていたことを、最近になって知りました。64歳だったそうです。ここ数年ご無沙汰していて何も知りませんでした。店のほうは、奥さんと息子さんで続けてらっしゃるとのことでした。電話をして奥さんに、遅ればせながらお悔やみを申し上げて、久しぶりに予約をしました。店の奥に小さな仏壇があって、機嫌のよさそうなマスターの小さな写真がおいてありました。その横に大学ノートが4冊あります。この店の客たちが1ページずつマスターに手紙を書いてました。みんな、怒られもしたけど、こうやっていなくなってみると、なつかしい人だよなあと、思っているみたいでした。私も書きました。料理のレシピは完璧に奥さんと息子さんに伝わっていました。本当によくできた奥さんです。マスターの作品ともいえる料理はちゃんと残り、家族が引き継ぎ、客たちにこんなに惜しまれて。悲しかったけど、ちょっとうらやましい人だよなと思いました。ホントにわがままだったんだから。

“ツバイヘルツェン”の意味する二つの心とは、料理をつくる人と食べる人の二つの心のことだと、いつか聞いたことを思い出しました。

2005/6

司馬遼太郎さんのこと

司馬遼太郎さんが亡くなってから、早9年経ちます。この人の書いた小説や紀行文やノンフィクシ ョンやエッセイなど、私はずいぶん読んでいるのですが、この人が存命中に書いた分量は計り知れず、読みきるということがないので、今でも時々文庫本などを買って読んでいます。

先日たまたま買ったのは、昭和48年(1973年)に司馬さんが自宅で語り下ろしたという本でした。その中にベトナムのことが語られていました。今年、ベトナム戦争終結30周年ですから、この取材がされたのは、まだベトナム戦争がおこなわれていた頃のことです。私事ですが、昭和48年は進学のため上京した年でした。その少し前、私は広島の高校生で、その頃、広島の街で知り合った岩国基地のアメリカ兵数人と友達になり、その後、その中の一人がベトナムで戦死したことがありました。そんな事があり、当時のベトナム戦争に関する報道記事には、比較的強い関心を持っておりました。その頃の記憶をたどりながら読んでいると、この人は、この時期、ベトナムに対してきわめて先見性のある見方をしていたことがわかりました。南ベトナムという国は、アメリカの資本が途絶えれば、直ちに国家として成り立たなくなることや、アメリカの関心が、その後中近東に向くであろう事なども予測しています。また、アジアの国々が国家を成立させるためには、資本主義というか消費文明を遮断して貧乏なら貧乏なりにやっていくしかないとも言っています。またしても、なかなかに、ふーむとうなってしまう本でした。

この人の本を、確か最初に読んだのは、土方歳三の話だったと思います。20代の後半だったでしょうか。本当に面白く、次々に、この人の世界にはまりました。物事に対する洞察力の深さとか、真実を知ろうとする執着心の強さとか、感心してしまうことは多いのですが、何故か不思議に元気が出るんです。この人の書いたものを読んでいると。

司馬さんは、兵隊として終戦を迎えました。そこから帰ってきたとき、どうしてこの国があんなわけのわからない戦争を起こしてしまったのか、どんなに考えてもまったくわからなかったそうです。日本中の人がそういう気持ちでがっくりしていたとき、それ以前のこの国の歴史と、そこにいたこの国の人々のことを調べていくうちに、司馬さんは日本人として、だんだん自信を取り戻してきたそうです。そんな気分が読者にも伝わっていったのかもしれません。Ryoma_4

あらためて思いました。惜しい人を亡くしたんだなと。

2005/5

減量大作戦

昨年、年に一度の人間ドックの検査結果が出たとき、担当医から

『心配ないと思いますけど、念のため肺の再検査してください。』

といわれました。

念のため、近所の総合病院に行ったですよ。ずいぶんしっかりした女医さんでした。

『肺はまったく問題ないです。それよりあなたの場合、問題は体重ですね。体重を落とさないと。』

「ええと、てことは、肥満てことですか。」

『はい。』

「問題ありですか。」

『6kgは落とさないとね、だってほら数値にいろいろ表れてるでしょ。』

といいながら女医さんは血液検査のチェックの入っている箇所をボールペンでパンパン叩きましBeer_yakitori_4 た。

『食事は規則的にとってますか。』

「いいえ、不規則です。」

『なるべく規則的にとってください。』

「・・・・ハイ。」

『お酒は毎日飲みますか。』

「はい。」

『毎日はやめましょう。一回にどれくらい飲んでますか。』

とても本当のことはいえず、

「うーん、2合くらいですかね。」

『これからは1合にしましょう。』

「エッ!」

『先にご飯食べちゃえばそんなにお酒飲めないモンですよ。』

そりゃそうでしょうよ、だってそんなことしたらお酒おいしくないもん。

『来週、栄養士さん予約しときますから、指導受けてください。3ヶ月で6kg落とす目標にしましょう。それと、奥さん一緒に来てもらってください。食事作る方に理解してもらわないといけませんからね。』

何でうちでご飯食べない人の、食事の指導を受けねばならんのかと、ブーブー文句いう妻と、次の週にその病院の栄養士さんのところへ行きました。栄養士さんは先週の女医さんよりもやさしい感じの人でしたが、話の中身はなかなか厳しいものでした。11800kカロリーという量はなかなかシビアです。だいたい規則正しい食事ができるわきゃないし、適度な運動っていったって、自転車で通勤した日はいつもより腹が減って、いっぱい食べてしまうし、鳥皮とか豚バラとかやめろといわれたって、今まで生きてきて一番好きなものなんだから、やめられるわけないでしょ。

そんなことも思いながら、でもなかなか説得力のある栄養士さんの話を深くうなずきながら聞き終えました。たしかに最近身体重いし、シャツの首まわりとか合わなくなってるし、検査の数値は良くないし、やっぱ減量やってみることにしました。

現在それから5ヶ月過ぎたところです。 体重は3kgだけ減りましたがどうしてもその先にはいけません。やっぱ不規則だし、酒も1合のわけないし、昨日も焼き鳥屋で鳥皮食べたし、豚バラのお好み焼きも毎週食べてます。目標の半分くらいのところで、ま、いいかと、自分をあまやかせてしまうあたりが、私らしいといえば私らしいのですが。昨日一年ぶりに会った人に、

『元気そうだね、ちょっと太った?』

といわれてしまいました。あーあ、ともかく、志半ばで私の減量作戦は挫折しています。 

2005/3 

教育とは 学校とはなんだ

固い話で恐縮です。

年が明けてまもなくのこと、大学の建築学科の先生から「変わりゆく教育と学校環境」というちょっとむつかしい講義を受けました。何故そういうことになったかという話からいたします。私の席の隣に学校教育を題材にしたTV番組を作ろうとしているプロデューサーがおります。この人がなかなか熱血パワフルな人で、重松清さんの『教育とはなんだ』という面白い本があるのですが、この本の中の学校建築の話にすばやく反応して、大学の建築の先生に会いに行ってしまいました。そこですっかり意気投合したらしく、またこの先生もけっこう熱血の人で、平日の昼間にもかかわらず弊社まで来てくださり、映像資料まで持参して私どもに対して2時間半に渡る熱い講義をしてくだすったのです。でも、なんだか新年からいろいろ考えさせられるいい話だったのですよ。なかなか手短にはお伝えできないんですが、どうも日頃私たちが常識だと思っている学校の建物の形というのは、この国の長い歴史の中で決まりごとになってしまったもののようです。現在の教育、これからの教育を考えるに、学校建築は今のままでよいのだろうか。世界に目を転じてみると、実にいろんな考え方の、いろんな形の学校があるのです。今さまざまな問題に直面している学校という現場には、新しい価値観が必要なんじゃないか。この先生はモデルスクールを立ち上げたりして、各所で改革を呼びかけられておりますが、新しい試みに対して世間はなかなか積極的ではないようです。この話はさまざまな教育制度の問題にもかかわっています。一筋縄ではいかない大変な話なのです。

20年も前に“ピッカピカの一年生”というTVCM の仕事をしていて、毎年冬から春にかけて日本中の小学校を訪ね歩いていた時期があります。その頃はまだ明治に建てられた小学校がたまに残っておりました。建物としては、すでにけっこうな年代物でしたが、なんだか建てた人たちのこころざしのようなものが伝わってきたのを覚えています。明治といえば、小学校を作ることじたい新しい試みだったはずですよね。学校という教育の現場には、常に新しい風が吹いていていいんじゃないか。なんかそんなこと思ったりしました。じゃあ新しい形ってたとえばどんな形なんじゃと問われてもここでは書ききれんので、そのあたりはうちの熱血プロデューサーが作る番組にゆずります。

2005/1Gakkou_2

海ちゃんの思い出

先日、我が家の新たな一員となるべく一匹の子犬がやってきました。のちのちは毛がグレイになるというのですが、今のところ、まっ黒な毛糸のかたまりが移動しているようにしか見えない生後2ケ月のトイプードルです。この春まで住んでいたところは、ペットが禁止だったし、子供たちが小さいときは、彼らそのものが動物のようなものだったので、犬を飼うなどということは考えもつきませんでした。いつだったか、私のある友達が犬を飼い始め、「夜、うちに帰ったときに迎えてくれるのは、アイツだけだ。」といっていたのを思い出しました。そんなこともあって、引越しを機会にそういうのもいいかなと思い、子供たちと盛り上がり、いくぶん慎重な妻を説得し、ここにいたったわけです。 

ふと、前に犬と暮らしたのは、いつだったかなと記憶をたどったところ、海ちゃんという犬がいたことを思い出しました。学生の頃、多摩川の河原で出会い、後を付いて来たので学生の共同アパートで飼いはじめました。はじめ誰かがオスだと云い、カズマと命名され、しばらくしてメスであることがわかり、海ちゃんと名付けられました。

何せ貧乏な学生たちのこと、首輪も犬小屋もなく、放し飼い状態。ゴハンも1日2食が、なかなかもらえず、腹をすかしていると、親切なご近所のおばさんに残り物をいただいたりしておりました。そんな日がどれくらい続いたでしょうか、子犬から少女犬くらいになった頃、海ちゃんは家出を決行しました。こんなところにいたら先の望みはない、こいつらはダメだと思ったのでしょうか。向上心を持ち合わせていた彼女は、アパートを去りました。

Umi_3 さて、それからまた数ヵ月後、隣町の商店街で、私はりっぱに成長した海ちゃんと出会ったのです。ちゃんと首輪をつけて、優しそうなご婦人に連れられていました。ご婦人は八百屋で買い物をしていました。「おい、海じゃねえか。」5メートルくらい離れていましたが、まちがいなく海ちゃんでした。海ちゃんは私を見たあと、ちょっと困った顔をして、スッとご婦人の足元に隠れました。無理もなかったと思います。

うちの子犬は、マリンちゃんと名付けられ、一日2食モリモリ食べて走りまわっています。今度はちゃんと育てねば。

2004/12

友達の死

なんだかどうにかなっちゃうんじゃないかっていうぐらい暑かった今年の夏も、いくつか台風が通り過ぎて行くうちにいつのまにか終わってしまいました。自分の周りでは時間の経つスピードがどんどん加速しています。どうして子供のころは今よりゆっくり時間が過ぎていたのでしょうか。それは、大人になるにしたがって記憶力が弱くなるので、ただ単に日々の出来事を忘れてしまい、時間が速く過ぎた気がするんだといった人がいました。

そうかもしれません。子供のころはほんの些細なこともいつまでもしつこく覚えていた気がします。夏も長かったもんなあ。私達は、どんどん増えて行く記憶を、仕舞い込んだり引っ張り出したり、失くしてしまったりしながら日々暮らしています。たくさんの記憶が溜まって溜まっていくうちに、大人は記憶力が弱くなってしまうのでしょうか。

Camp_5 この夏、学生時代の友達が一人亡くなりました。大人になる前の記憶をたくさん共有していました。でもそれを確認しあうこともありません。亡くなったことすら知りませんでした。最後に会ったのは彼の結婚式だったでしょうか。どこかでいつでも会えると思っているうちに、とんでもなく時間が経っていました。

亡くなってしばらく経った8月のある日に彼の自宅を訪ねました。道路公団の橋の設計の仕事をしていたこと、つくった橋が彼の誇りだったこと、その仕事のストレスから胃をやられてしまい仕事を失ったこと、そのことが最後の病気の遠因になってしまったこと。私の知らない彼の時間がそこにありました。こんなときに何の役にも立たなかった無力感と、記憶の一部をなくしてしまったような喪失感。こたえました。

このことで音信の途絶えている友達数人と電話で連絡をとりあいました。近いうちに会うことになるかもしれません。夏の終わりに時間ということを少し考えました。

2004/10

野球のこと

3年前の春、プロ野球が開幕して初めて行われる巨人×阪神戦のときのことです。

幸いにも東京ドームの観戦チケットを2枚頂いたので、当時小学一年生だった息子を連れていきました。

そのころ息子は、野球のルールも巨人も阪神も知りません。

私の場合、小学生のころ江夏豊というピッチャーを知ってからずっと阪神ファンです。

はい。

息子が野球に興味を持って、阪神ファンになるといいな。などと淡い期待を抱いて水道橋に向かったのでした。

3年前の阪神は弱かったです。

その試合で覚えているのは、

3塁側内野席から見て真正面に芥子粒のように消えていった松井秀喜のホームランだけでした。

すごかったです。ほんとに。息子はしばらく固まってました。

結構長時間の試合でしたが、息子はきっちりと最後まで見とどけ、翌日からは毎日、新聞のスポーツ欄を見る子供になりました。

そして、バリバリの巨人ファンになってしまったのです。

失敗でした。

それからまもなくして、どちらからともなく近所の公園でキャッチボールをするようになりました。

そのうち野球友達もでき、その友達に誘われて息子は近所の少年野球チームに入りました。

土日祭日に練習をしたり、試合をしたりします。私もいけるときには手伝いに行きます。

面白いです。

子供は成長する生き物です。日に日に背も伸びるし、力も強くなります。

出来なかったこともだんだん出来るようになり、練習しただけどんどんうまくなります。

強い相手にコテンパンにされて泣くこともありますが、帰り道にはみんなケロッとしてます。

気がつくと土日のスケジュールは最優先でそこにいる自分がいます。

相変わらず巨人×阪神戦の日には親子でいがみ合っていますが、

3年前に野球を見に行ったことは、私たちにとって少しいいことだったように思えます。

そんな自分の環境からして、野球人気が下降気味だとか、

プロ野球の球団が合併して1リーグになるんだとか言われても、どうも実感がわきません。

野球の魅力や面白さは、昔と何もかわっていません。

いつかの松井秀喜のような打球を飛ばせる選手がこれからもどんどん出てきてほしいし、

それに影響されてたくさんの子供がグランドを駆け回ってほしいなとただただ思ってます。

2004/7

Boys_baseball_6 

六本木のバー“BALCON”のこと 続報

Match_2 先日お伝えした六本木のバー“BALCON”の突然の閉店が、2月の18日のことでした。
それからほんの一ヶ月ほどたった3月の末に、マスターの良川さんより驚くべき知らせが入りました。
4月の1日から新しい店を開くというのです。
ほんとに次から次と驚かせてくださるのですが、今度のニュースはウェルカムです。

それにしたって急だし、案内状とかオープニングパーティーとかどうなってるんだろうか。
などと質問したところが、「まあ何気なく始めるんで何にもしてないんですよ。」と、
いかにもこの方らしいリアクションで、
電話番号は決まっているが電話機が開店に間に合わないとか、看板は当分出す気はないとか、
いったいどうやって行きゃいいんだっちゅう感じなのですよ。
あ、そうそう店の名前は?
「Salon de G です。じじいがやるんで、サロンド ジーですよ。へへへ。」
などとおっしゃってます。

それじゃあともかくということで、行ってみました。
これがなかなかいい店なんです。さすがですねえ。
場所は六本木から西麻布に向かう途中、
70年代から長きに渡り数々の名作を世に送り出したあの六本木自由劇場。
串田和美さんが、吉田日出子さんが、余貴美子さんが、
「上海バンスキング」や「もっと泣いてよ、フラッパー」などの話題作で狭い劇場をいつも満員にしていました。
この小劇場の老舗六本木自由劇場の跡が「Salon de G」なのです。
劇場には何度か行ったことがあります。地下に下りていく階段は昔と同じで狭くて急です。
店の中は大雑把に言うと、舞台と客席の境がカウンターに、舞台のあったところが厨房に、
客席の部分が平らになっていてソファーが並べてあります。
小劇場がほんとにうまいことバーになってしまってます。
インテリアもなかなかよくて、ソファーが増えた分バルコンより確かにじじいにやさしいかなという気もします。

“Salon de G” 電話番号 03-3408-1256  です。

こちらでお会いできる日を楽しみにいたしております。

2004/4

Powered by Six Apart