2007年7月11日 (水)

屋久島の思い出

Yakushima_2 

先日ある方が、屋久島に旅行をすることになり、ちょっとした情報提供を求められたので、久しぶりに屋久島の知人に電話をしました。4年前にロケに行ったときに、大変お世話になった方で、真津(まなつ)昭夫さんといいます。あいかわらず元気そうな明るい声が聞こえてきました。その日も、屋久島の山のてっぺんから帰ってきたばかりだったそうです。この人は、屋久島のネイチャーガイドの草分け的な人です。この島で行われるロケーションのほとんどのコーディネートをしていて、撮影の知識も豊富です。

4年前のその頃、私共は屋久島の3本の杉の巨木と、この島の自然を題材にして、30分のハイビジョン番組を3本作ることとなり、1週間のロケハンの後、10日間の撮影を敢行しました。真津さんには、その間、何から何まですっかりお世話になったわけです。何しろ本を何冊か読みかじっただけで現地入りし、90分の構成を考えながらのロケハンでしたから、この人なしにこの仕事は考えられませんでした。

真津さんは、本当に屋久島のすべてを知っている人でした。ちなみに、山頂近くの縄文杉までの道を1000往復以上歩いたとおっしゃっていました。縄文杉へ行くには、山道を片道6時間歩かねばなりません。私の場合,ロケハンの1往復で一生分の山歩きをした気持ちになりましたけど。

花崗岩が隆起してできたこの島は、周囲が130km程の面積にもかかわらず、標高1900mクラスの山が連なっています。屋久島の最高峰、宮浦岳は、九州で最も高い山でもあるのです。いかに急勾配な山に覆われた島であるかが、想像していただけると思います。この洋上アルプスと呼ばれる島に吹きあたる風は、海上の水蒸気を山に沿って吹き上げ、冷やされ、霧となり雲となり、大量の雨を降らせます。ひと月に35日雨が降るといわれるのはこうした理由です。

また、温帯と亜熱帯の境目に位置するこの島では、海岸にハイビスカスが咲き、ガジュマルが生い茂り、山の中腹までは、世界に誇る照葉樹林で覆われています。その上の層には、樹齢1000年クラスの屋久杉がいならび、山頂付近には、高山植物が生育しているのです。そんな植物の標本のようなところに、それだけの雨が降れば、どんな島ができるのか。世界でただ一箇所、何千年もかけて実験しているような場所なのです。

そんなことですから、ここの森は、ちょっとすごいですよ。

映画「もののけ姫」にでてくるシシ神の森のイメージは、まさに屋久島の森なのだそうです。この森には、何やら説明のつかぬ不思議な存在のようなものを、感じてしまうのです。

それまで、自然の森林や、山歩きなどとは、無縁のところで暮らしてきましたが、この島で見たものには、明らかに影響を受けました。うまく言えんのですが、自然のこととか、時間のこととか、日々の暮らしのこととか、何だかちょっと考えさせられたわけです。

ロケハンを終えた私たちは、一度東京に帰り、シナリオライター、ディレクター、カメラマンらと打ち合わせをしてから、再度、撮影のために屋久島に向かいました。

10日間の撮影も終盤にさしかかり、いよいよ片道6時間の縄文杉に出発する前日のこと。私は仕事の都合で先に帰京することになりました。あそこまでもう一度登ることに、ややひるんでいた私は、正直、ちょっとほっとしたのを覚えています。情けないことでした。

自然から何か教えを受けたようなつもりになっていても、いざとなると、やはり、大自然とは対極にいるちっぽけな奴でした。

2007/7

2007年7月 3日 (火)

小さな大投手、逝く

この夏、7月の終わりに、義父が急逝しました。 Pitcher2_6

昭和5年の生まれでしたから、76歳でした。寿命といえばそれまでなのかもしれませんが、まだまだ生きていてほしかったです。

この人は妻のお父さんですので、私としては、結婚してからの18年間、お世話になったことになります。

元プロ野球選手で、ピッチャーをしていました。その後、コーチをして、監督をして、解説者もして、ずっとプロ野球界にいた人でした。

昭和25年、創設されたばかりの地方の小さな球団の入団テストを受けて採用され、その年に新人投手として15勝を挙げてから、長いプロ野球人生が始まりました。   

身長が166cmで、野球選手としてはかなり小柄でしたが、それから8年間2桁勝利を続け、その間、球団の勝ち星の4割以上を挙げました。弱小ゆえに解散の危機に立たされた球団を救い、昭和30年には、年間30勝を達成して、リーグを代表する投手になりました。

それでも、14年間の現役時代、チームがAクラスになることは一度もありませんでした。

昭和38年シーズン終了後、引退。621試合に投げ、通算197勝208敗、1564奪三振、通算防御率2.65という数字は、やっぱりちょっと、ものすごい数字ではあります。

私も現役時代をほとんど知らないほど、昔の話です。当時は、今のような投手の分業制も無く、エースは完投が当たり前、勝てそうな試合がピンチになると、リリーフにも行ったそうです。

「もっと強いチームにいたら、もっと勝てたでしょうね。」

と、よく言われましたが、その度に、本人は真顔で否定していました。

「小身・弱小・貧乏を、逃げ場にしたくなかった。」

というのが、当時からの口癖で、本当に負けることの大嫌いな人でした。そのエネルギーで戦い続けた結果が、自分の記録だと言っていました。

あらためてこの数字を眺めてみると、ずいぶんしんどい試合が多かったことが想像できます。ピッチャーという役割からくる性格もあり、かなりワンマンで、わがままなエースでもあったようです。勝ちにこだわり続け、投げて、投げて、また投げて、それでも、負け数のほうが勝ち数を11個上回りました。

いつだったか二人で話していたときに、もう一度生まれ変わっても、やっぱりピッチャーを仕事にしたいと言ったことがありました。数字的には、負け数のほうが多かったけど、しんどくて悔しいこともあったけど、この仕事が本当に好きだったんだなと思いました。

よく、夜遅くまで野球の話を聞かせてもらいました。聞き手としては物足りなかったろうと思いますが、野球ファンとしては、本当に面白くてためになる話でありました。

かつて、勝負の鬼といわれた人も、晩年は穏やかな人でした。

義父が亡くなったちょうどその時、うちの息子は、小学生最後の少年野球大会に出場しており、ベスト8をかけ、三塁手として戦っていました。義父にとっては唯一の男子の孫が、野球をやっていることは、やはりうれしいことのようでした。もう少し先まで見せてあげたかったなと思うと切なかったです。

それからしばらくしてから、夏の甲子園が始まりました。

駒大苫小牧の田中君や、八重山商工の大嶺君や、早実の斉藤君を見てどう思ったか、ゆっくり話を聞いてみたかったです。

2006/9

続・自転車の話

私の場合、自転車で走るときに、たとえば甲州街道とか明治通りとか環状6号線とか、いわゆる大きな道路の車道を走るのは、なるべく避けるようにしてます。そこは交通量も多く、トラックや乗用車やオートバイなどが大きな顔して走っていて、自転車はどうしても「スイマセン・・・おじゃましてまーす」みたいになります。歩道はというと、そこはやっぱり歩行者のものだし、段差も多いです。そんな訳で、わりと裏道ばかりを走ることになります。道幅の狭い道路を走ることもあり、そんな時、気をつけねばならないのは、路地からの飛び出しです。

わりと用心深く走っているので、今まで事故には会ってませんが、原付バイクと歩行者の飛び出しにより、2度ほど顔から落ちたことがあります。相手とは接触してません。いわゆる自爆転倒です。Bureki_3

何故、顔から落ちるのかというと、人は咄嗟の時、つい利き腕のほうのブレーキレバーをおもいっきり握ってしまうからなのです。私の場合、利き腕は右です。右のブレーキは前輪用です。わりとスピードが出ているときに、前輪がロックされると、つんのめって前から落ちます。手はハンドルを強く握ったままなので顔から落ちるわけです。

確かに、自転車屋のオヤジから、急ブレーキをかけるときには、一瞬左をかけてから右をかけないと、顔から落ちますよと注意されましたが、そんなこと急にできませんよ。だって急なブレーキなのですから。

幸い外傷はなかったんですが、しばらく顔が痛かったです。笑うと歪んだりして。だいたい顔から着地するってみじめです。マンガじゃないんですから。しかも2回も。そういうことなので、それ以来、より用心深く走っております。皆さんも気をつけてください。ホント、あっけなく顔から落ちますから。

今の話とは全然関係ないんですが、もう一つ自転車の話です。

この間、スポーツ雑誌を読んでいたら、プロ野球開幕前の清原の記事がありました。去年ひざの手術を受けた清原は、突然読売ジャイアンツから戦力外通告され、そうとう落ち込んでいたんだそうです。そんなとき、亡くなった仰木監督からオリックスに誘われました。何とかもう一度やってみようかと思ったものの、やけになって暴飲暴食した身体が120kgにもなっていて、とにかくまず、身体作りから着手したんだそうです。鶏のささみと豆腐と卵の白身を少しずつ摂りながら、走りこんで筋トレを繰り返しました。その時、体重を絞るため自転車にも乗ったんだそうです。

以下、清原談。関西弁で読んでね。

「わざわざ自転車買うてな。夜は家からジムまで漕いでいった。もう何年も乗ってなかったから、コケそうになるし()。でもな、それがすごくよかった。東京にいて車ばかり乗っていたら、季節感なんて感じることもないやろ。自転車に乗ってると、『ああ、もう秋口の涼しい風やなあ』とか、風の匂いも感じるし、街の匂いも感じる。プロになって、いつのまにかいい車で練習場にいくようになったけど、子どもの頃はこうやって自転車に乗って練習に通ってたなあなんて、昔のこと思い出したりな」

どこへ行くのも外車乗ってブリブリ走ってたこの人が、そうやってペタルを漕ぎながら、何か基本にもどってもう一度がんばろうと思ったそうです。何かちょっとわかる気がしましたんですけど。

2006/6

私の自転車通勤

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7年位前に、ふと思いついてから、時々自転車で通勤するようになりました。杉並の自宅から神 宮前の職場まで、片道10kmちょっとで、約40分。毎日往復すれば良い運動になるのですが、そうもゆきません。雨も降るし、出張もあるし、だいたい、夜、酔っ払ってることが多いのが良くありません。自転車の酔っ払い運転は本当に命にかかわります。そんなわけで、自転車通勤ができるのは、1週間のうち1日か2日がよいところです。1年のうちでは、1月、2月、7月、8月は、ほぼお休みします。真冬は半端じゃなく寒く、いくら必死で自転車漕いでも、体が暖まる頃には家に着いてしまいますし、真夏はとにかく暑く、着てるものすべて汗びっしょりになるからです。

そんなことなので、えらそうに自転車通勤やってますと言っても、たいしたことはないんです。

でもね、わりと楽しいもんではあります。自転車で走ってると、けっこういろんな発見があるんです。温度や湿度や木々草花の変化、季節の変わり目。へえ、こんな所にこんな店があるんだあ、とか。この路地入ってみたら、こんな所に出てくるんだあ、とか。自転車は道さえあればどこでも走れますから、狭かろうが、一方通行だろうが、階段だろうが、平気です。それに、停めとく場所にも苦労しません。本屋でも、映画館でも、仕事先でも、わりと気楽においとけます。ただ、あっちこっちに自転車を停める人には、何十万円もする高価な自転車はお薦めしません。わりと簡単に盗まれちゃいますから。私も1台やられました。高級車じゃなかったですけど。

もともと仕事でロケハンとかさんざんやってることもあり、地図を読むのは、得意だし好きです。地図上でシミュレーションしたコースを走ってみると、また新たな発見があったりします。これもまた面白いんです。

こうやって、あるエリアに関して、妙に道事情に精通したおじさんになっていきます。

地形の事も詳しくなりますよ。特にきつい坂道に、自転車乗りは敏感です。芋洗坂、鳥居坂、仙台坂、暗闇坂、道玄坂、宮益坂、三分坂、乃木坂、霊南坂・・・・・・東京には、けっこう坂が多いんです。地名に谷のつくところも必ず坂道です。四谷、千駄ヶ谷、渋谷、富ヶ谷、幡ヶ谷、市ヶ谷とかとか、自転車で走ってみるとわかります。西麻布の交差点あたりから墓地下のあたりが、かつて霞町という地名だったのは、低地なのでよく霞が溜まっていたからだそうで、このあたりも確かに坂道だらけです。こうやって、普段あんまり気にすることのない地面の高低差に、やたらと詳しくなります。いずれにしても、東京を自転車で走る場合、アップダウンは避けられません。

こういう状況下で、私が乗っているのは、クロスバイクというジャンルの自転車です。マウンテンバイクの部品で構成されていますが、マウンテンバイクのようにハードなオフロードを走る太くてタフなタイヤではなく、ロードレーサーのようにスピードに特化した軽くて細いタイヤでもない、二者の中間のタイヤを履いた、とんがった部分は少ないが、現実的で幅広い使用目的にあったスポーツバイクです。

こういうふうに書くと、どんな自転車じゃろかと思いますが、まあ言ってみれば、ふつうの自転車に変速機つけたようなものです。

ロードレーサーのように、大きな街道で乗用車やトラックの合間を、男らしくすっ飛ばしてゆくわけでもなく、マウンテンバイクのように、週末の林道を、男らしくかっ飛ばすわけでもなく、東京の裏道を思いつきでチョロチョロ走る私には、ちょうどよい自転車なのです。

そんなことで、体を鍛えているというほどのことではないのですが、飽きずに続いている私のバイクライフなわけです。

2006/5

方言あれこれ

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年末に、リリー・フランキーさんの「東京タワー」を読みました。いい本でした。この人と、この人のお母さんの話です。彼が子供の頃から、最近お母さんが亡くなるまでの二人のことがつづられています。

男にとって母親というものは、何ともいえない大きな存在です。自分も含めて、男はみんなマザコンなのだなと思いました。母親と息子の会話がいいです。気にかけながら、面と向かうとぶっきらぼうになってしまう感じとか、二人の関係がわかります。

九州で暮らしていた母子が、息子の上京を機に離れて暮らし、やがて年老いた母が東京にやって来て、また二人で暮らし始めます。二人の会話が博多弁なのが、またいいです。何ともいえない体温を感じます。

地方出身者にとって、方言というのはなつかしいもんです。石川啄木の上野駅の歌じゃないですけど、ふるさとや身内を思うとき、お国訛りは胸にしみます。私の場合、広島の高校を卒業して上京したころ、当時東映で封切られたばかりの映画「仁義なき戦い」をよく見に行きました。広島弁満載ですから。

方言がコンプレックスになることもありました。子供の頃、父親の仕事の都合で、何度か転校しましたが、東京から神戸の小学校に変わったときは、神戸のガキどもに東京のしゃべり方を徹底的にからかわれました。昔から、関西には東京の言葉を嫌う風土がありますよね。このときは、前に神戸に住んでいたこともあり、約一週間で完全に関西イントネーションに戻したと思います。やればできるもんです。

何度か引越すうちに子供は切り替えが早くなります。その後、広島の中学に転校したときも、ほぼ一週間で広島弁になっていました。そんなわけで、方言に関してのヒアリングはちょっと自信があります。英語はまったくダメですけどね。

大人になって、CMの仕事について、「ピッカピカの一年生」という小学館のTVCMシリーズを11年間担当することになります。もうすぐ小学一年生になる日本中の子供たちが、テレビに出てきてご挨拶するあのCMです。これは、まさに日本中の方言を発掘する仕事でした。いろんなところへ行きました。夜、はじめて降りるローカル線の駅を降りると、まず、駅前のラーメン屋のおじちゃんや、スナック「さゆり」のママさんから、方言の指導を受けました。子供たちからもいろいろ教えてもらいました。ちょっとしたプチ方言評論家になってましたかねえ。

瀬戸内海の小島で、幼稚園の園長さんに取材したときの会話。

「この地方の方言を教えていただきたいんですけど、お時間いただけますか。」

「いやあ、ここらにゃ、いまごら、方言はありませんけん。」

「あ・・・・・、そんな感じで十分です。」

当時もテレビなどの影響で年々方言は減りつつありましたが、どこに行ってもこれくらいは十分残ってました。ていうか、お年寄りが本気で方言でしゃべるとまったくわからないことがよくあった気がします。

あの頃に比べると、日本中ずいぶんと標準語化しちゃった気がするけど、やっぱ方言は地方の個性だし、なくならないといいなと思いますね。

2006/1

プロ野球日本シリーズ・2005

Baseball1_5かれこれ40年も、タイガースファンをやっていると、たいがいの事ではめげないのですが、今回の日本シリーズは、ちょっとへこみましたね。

私が阪神のファンになってからのペナントレースでの優勝は、今年で3度目です。1度目が、1985年。21年ぶりの優勝。バース・掛布・岡田・真弓たちが、1シーズンに200ホーマーを放ち、その勢いのまま日本一になったあの年です。2度目が2003年。星野監督の大改革が功を奏して、18年ぶりに歓喜に沸いたあの優勝。セ・リーグには球団は6球団しかないのに、どうして我がチームは21年ぶりとか、18年ぶりにしか優勝できないんじゃろかと、いつもぼやいていたのですが、今年は2年ぶりにやってくれたのです。

もちろん、今年の胴上げも、やっぱりうれしかったです。ただ、1度目と2度目に比べると、やや冷静に受け止めることができました。そして、私たち多くの阪神ファンの関心は、すでに日本シリーズに向かっておりました。2年前の日本シリーズは、第7戦までもつれた末にダイエーホークスに敗れました。今年は、そのホークスがパ・リーグの代表権を、ほぼ手中にしていましたし、私たち阪神ファンは、雪辱を果たして、20年ぶりに日本一になるんだと、意気込んでおりました。その後、予想に反して、ロッテマリーンズがプレーオフを勝ち上がってきて、対戦相手に決まったのですが、私たちは、それはそれで、何するものぞという感じでした。確かにパ・リーグのプレーオフは壮絶で、ロッテの底力には脅威を覚えましたが、うーん、これはひょっとすると第7戦くらいまではもつれるかもな、くらいの受け止め方でしかありませんでした。何を根拠にかはわかりませんが、私たちには、不思議と妙な自信があったのです。私の友人のトラキチの万ちゃんは、

「向井、オレ、どうイメージしても岡田監督の胴上げのシーンは甲子園の風景しか浮かんでこないんだよ。つまり、第5戦までにタイガースの日本一は決まるな、これは。」

などと申しておりました。

ところがどっこい、確かに万ちゃんの云ったとおり、甲子園で胴上げは行われましたが、宙に舞っていたのは敵将でした。あろうことか、一回も勝てなかったうえに、長い日本シリーズの歴史上、記録に残る最悪のワンサイドシリーズとなってしまったのです。全4試合のマリーンズの挙げた総得点33点に対して、タイガースの挙げた得点は4点。得点差は29点です。チーム打率.190、チーム防御率8.63、いいとこなしです。5日間ただ茫然としているうちにシリーズは終わってしまいました。

そんなことはないと思うのですが、私たちファン同様に、監督やベンチ、選手たちに、何の根拠もない日本一のイメージがあったということは考えられないでしょうか。いや、どうもそんな気がしてきたなあ。岡田の顔みてると、どうもそんな気がするなあ。

冷静になって考えると、敵将バレンタインは、大リーグのワールドシリーズを戦ったこともある短期決戦のプロです。先日発売された”Number”によると、彼は、9月からロッテのスコアラーを総動員して、阪神の戦力分析を始めていたようです。それも全員が毎晩徹夜になるような激しさで。

こんなエピソードも載っていました。ロッテには、里崎と橋本というレギュラークラスの捕手が二人います。バレンタインは二人を競わせながら起用しているのですが、ある時、遠征先で2人で飲みに行って帰ってくると、バレンタインがこう云ったそうです。

「ライバルが仲良くしててどうするんですか。」

何だかいつもニコニコしていて陽気そうで、何だかわけのわからない日本語でリップサービスしているあのおっさんに、だまされた感もあります。敵は、思っていたよりずっとシビアだったようです。Baseball2_2

昔からタイガースというチームには、こうゆうところがあります。伝統的とでも云うのでしょうが、期待させておいて、思いっきり裏切ったり、どう考えても有利な試合なのに、なんとなく負けてしまったり。らしいといえばらしいのですが、久しぶりにやってくれました。油断してたわけじゃないんでしょうけどね。

こうして、今年の日本プロ野球のカードは、すべて終了しました。最後の最後まで贔屓のチームの応援ができたんだから、まあよしとしましょうか。

がっかりするのもこれ位にしとかないと、阪神ファンはやってられませんよ。

2005/11

1978年のスター・ウォーズ

Robot 「エピソード3 / シスの復讐」見てきましたよ。なんだかこれでシリーズも終わりだと思うと、すぐ見てしまうのももったいなく、でも早く見たいよな、やっぱり、などと躊躇しているうちに忙しくなってきたりして、気がつくと夏の終わり。映画館もわりとすいていて、いい席でじっくりと鑑賞して来ました。なるほど、相変わらずよくできております。おまけに今回は、この壮大なエンタテイメントの締めくくりで、第一作とつながる最も盛り上がる部分でもあります。なるほど、なるほど、そういうことだったわけね、ふむふむなどと言いつつ、そのディテールを堪能してきたのでした。

思えば最初の「スター・ウォーズ」が制作されたのが1977年、次の「帝国の逆襲」が1980年、「ジェダイの復讐」が1983年、しばらく間があって新シリーズが始まり、「エピソード1 ファントム・メナス」が1999年、「エピソード2 クローンの攻撃」が2002年、そして今回の「エピソード3」となります。かれこれ28年の月日が流れました。レイア姫のキャリー・フィッシャーも今年49歳ですもん。感慨深いものがありますよね。

第一作を見たときのことは、ものすごくよく覚えています。日本の公開は1978年だったと思います。私は当時、新橋のCMプロダクションに就職して2年目でした。世界中で大評判のこの映画の公開を、それはそれは楽しみに待っていました。封切後まもなく、職場の同年代の45人で会社を抜け出して見に行きました。映画館は銀座の「テアトル東京」、今はなくなってしまいましたが、いつも洋画の大作がかかっていた有名な映画館でした。この日は、平日の昼間だというのに満員、ギリギリに滑り込んだ私たちは、最前列に座ることになりました。実は、この「テアトル東京」という映画館のスクリーンは、当時多分東京で1,2を争うスケールで、おまけにスクリーンが平面でなく、大きく湾曲していて、最前列に座ると、スクリーンの左右の端が真横にある感じです。満員なのにこの席が空いていたのはそのせいで、まいったなと思いました。でも、その場所でこの映画を体験したことは、忘れられない思い出になりました。すごかった。ハン・ソロの操縦する宇宙船はぶつかるんじゃないかと思うほど目の前を横切ります。視界のすべてがスクリーンで、左右の端は首を振らねば見渡せません。戦闘機の主観は自分が乗っているようで、気持ち悪くなりそうだし、ルーク・スカイウォーカーが敵の戦闘機を打ち落とす有名なシーンは、彼が移動式の銃座ごと画面の端から端までものすごいスピードで移動するたびに、こっちは首が痛くなるわけです。今までに見たことのないまったく新しい映画でした。撮影も編集も本当に斬新で面白かった。後にレンタルビデオでこの映画と再会したときには、すべてのシーンをコマ送りで確認したほどです。私たち当時の若者は、興奮し完全に虜になり、帰りの地下鉄では、ずっとダースベーダーの息や、C-3POの声などの物真似をしていたと思います。映像制作のプロを目指していた私たちは、もろに影響を受けました。

後日談です。

それから7年ほど経った夏、私は新米のプロデューサーになっており、ロサンゼルスでCM撮影のためのロケハンとキャスティングをしておりました。CMの設定は、ハリウッドのSFXスタジオでの特撮スタッフたちのコーヒータイムというものでした。いくつかのロケ場所の候補の中に、あのスターウォーズの特撮監督のジョン・ダイクストラの所有するスタジオがありました。彼と会って握手をしただけで、もう充分に夢見心地になっていた私ですが、あろうことか、ジョンがこう云いました。

「僕でよかったらCMに出演してもいいよ。でも、僕がCMに出ていることは、発表しないでほしいんだけど。」

私の瞳は完全に星の形になってました。うれしかったなあ。

その秋からそのCMはオンエアされました。その画面の中心にいる結構かっこいいおじさんが、あのジョン・ダイクストラだということは、誰も知りません。云いたくて仕方なかったけど、男の約束です。ずっと我慢しました。私のひそかな自慢話です。

2005/9

この夏のいろいろ

今年の夏は、久しぶりのカンヌ行きに始まり、久しぶりの家族旅行にも行き、その間、久しぶりにタイガースが好調で、オールスター戦も見に行ったりして、いろいろと盛りだくさんです。そうこうしているうちに8月になりました。8月というのは、お盆ということもあり、終戦記念日があったり、原爆記念日があったりして、鎮魂の気持ちの深まる時期です。今年は、終戦60年の節目であり、また御巣鷹山の飛行機事故から20年というタイミングで、世間全般、例年に増してその気持ちが深いように感じられます。

50年も生きていると、自分のまわりの沢山の人達を亡くしていることがわかります。

今年初めてのお盆を迎えた御霊もあります。この世に生かされている私たちは、こうやって時々、亡くなった人達のことを偲び、なんとか気持ちの折り合いをつけながら生きてくんだなと思います。

8月11日の新聞に、御巣鷹山日航機墜落事故の、ある遺族の記事がありました。読んで泣きました。要約して紹介します。

以下記事より。

1985年の早春。1組の夫婦が埼玉の2DKのアパートで新婚生活を始めた。半年後、初めての里帰り。だが、妻は羽田をたったまま、神戸の実家に帰らなかった。妻の母は事故後、うつ病と診断される。そんな義母の姿を知り、夫の康治さんは一周忌後、骨つぼを抱き新幹線にとび乗った。「遺骨は返そう。お母さんが由美を守らなくちゃと思って生きてくれれば・・・」 納骨のあとの別れ際、儀父母は繰り返した。「まだ、康治君は若いんだから」 しばらくして、康治さんが手紙を書いても、神戸から返事が来なくなった。「家族だと思っているのに」切なかった。

会社では立ち直ったかのように、月230時間の残業をしたが、1人家に戻るとむなしくなる。時に、繁華街をさまよった。6年で4度引越した。事故から8年後、一つ年下の女性と再婚した。一緒に登った御巣鷹山の尾根を号泣しながら歩く姿に、新たな人生を歩もうと決意した。

今年、康治さんは部長に昇進した。ガリガリだった青年は、おなかの出っ張りを気にするようになった。「君は、若いんだから」あの時、由美さんの両親が繰り返した言葉をかみしめる。感謝と今の暮らしを伝えたくて、今年、遺族の文集「茜雲」に文章を寄せた。

『あの日命を落とした先妻の両親は、25歳という若かった私を再起させるために、自ら縁を絶つように音信を潜めました。時がたつにつれ、私はそれが究極的な愛情であることを、思い知るようになりました。前向きに生きて幸せになろうと決意を深めていきました』

思いは届いていた。「康治くん、再婚したって。よかったなあ。会社も勤続20年やって。」

御両親は、7月上旬「茜雲」を手にした。康治君と会うことはないだろう。それでも、心穏やかに、それぞれの生活を送ればいい。

1995年の阪神大震災。家がつぶれたが、朝食を作っていた義母は、テーブルの下に逃げて一命をとりとめた。墜落事故後に結婚した由美さんの兄夫婦の長女(19)に亡き娘の面影を見る。残された自分たち家族の幸せを、由美さんが支えてくれたように思う。20年前に帰ってくるはずだったふるさと神戸。夫婦は近く、市内の高台にお墓をつくろうかと考えている。

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2005/8  

ツバイヘルツェンという店

Tsubai_2初台の新国立劇場の近くに、“ツバイヘルツェン”という小さな洋食屋さんがあります。ドイツ語で、二つの心とでもいう意味のようです。この店に初めて行ったのは、もう20年位前になります。もちろん国立劇場もない頃、路地裏のほんとに小さな一軒家で、看板もドイツ語で読めないし、店なのか民家なのかわからない、不思議なたたずまいの店でした。当時私はたまたま初台に住んでいたのですが、偶然ともだちに連れて行かれたこの店は、ちょっとびっくりするほど、おいしかった。そして、ちょっとびっくりするほど、ユニークなマスターがいたのです。

ここの料理は別段かわったこともない洋食です。たとえば、オムライス、コーンコロッケ、ソーセージ、ビーフシチュー、マカロニグラタン、ネギピザ、カレーライス、ハヤシライスとかとか。でも、どの料理も普段食べているものと明らかにちがう完成度がありました。そして本当においしい。感動をあらわにしていると、カウンター越しにマスターが、どうだ、このやろう、まいったか、みたいな顔してこっちを見ているのに気付きます。やがて少し親しくなると、今度は、こっちが食べてる横から、どうだ、このやろう、うまいだろ、と話しかけてきます。そして、何故うまいかの解説が始まります。さんざん通った私は、それぞれの料理の解説をほぼ覚えてしまいました。要するに、どの料理も、この店では、出来合いの材料は使わず、素材からしかつくらないということ。そして、その作り方は、マスターが13年間ヨーロッパの一流ホテルで働いて身につけた技術であるということ。そして、このマスターにものすごく料理の才能があったこと。常々彼は料理は芸術であるといっております。まあいってみれば自画自賛なのですが、うまいのは確かなわけで、ごもっともなわけです。

このマスター、松永穂さんといいます。この人、何ていったらいいか、頑固で短気、酒飲みで生一本、融通ならきかない。知る人ぞ知る名物マスターなのです。この人は、初めての客にとにかく厳しい。(美人だと優しいんですけど。)うまいものを、ちゃんとうまいとわかる客かどうか、まずじっと見ております。少しでも気に入らないと、明らかに不機嫌になり、あげくに、出て行けこのやろうということになります。そういう時は、人間のできた奥さんがとりなして、何とかおさめるのが常ですが、せまい店内は、一瞬すごく気まずくなります。それに、この店は完全予約制です。どんなに暇でたとえ客が誰もいなくても、予約してない客は入れません。こういっちゃ何ですけど、完全予約制の店には見えません。偶然入ってきておもいっきり怒鳴られた客のほうがいい迷惑です。驚いて帰ろうとする客に、来るときは電話してから来いよとかいって、無愛想に店のカードを渡したりします。いつだったか、店閉めたあと酒飲んでいて、何故にここは完全予約制なのかを聞いてみたことがあります。酔っ払ったマスターがいうには、うちは、今日来る客のために、何時間も何日もかけて材料を用意する店なんだよ。ソースだってなんだって全部素材から作ってんだから。急にきて、ハイヨってわけにゃあいかねえんだよ。たとえばピザの生地だってうんぬんかんぬんと、いつもの長い話になってしまい、質問したことを後悔したものでした。でも、この人は、自分が好きな人に本当にうまいものを食わしてやりたいという愛情にあふれた人であることも確かです。ちょっとわかりにくいのですが、しばらく付き合うとよくわかります。

実は、マスターが昨年の春に病気で亡くなっていたことを、最近になって知りました。64歳だったそうです。ここ数年ご無沙汰していて何も知りませんでした。店のほうは、奥さんと息子さんで続けてらっしゃるとのことでした。電話をして奥さんに、遅ればせながらお悔やみを申し上げて、久しぶりに予約をしました。店の奥に小さな仏壇があって、機嫌のよさそうなマスターの小さな写真がおいてありました。その横に大学ノートが4冊あります。この店の客たちが1ページずつマスターに手紙を書いてました。みんな、怒られもしたけど、こうやっていなくなってみると、なつかしい人だよなあと、思っているみたいでした。私も書きました。料理のレシピは完璧に奥さんと息子さんに伝わっていました。本当によくできた奥さんです。マスターの作品ともいえる料理はちゃんと残り、家族が引き継ぎ、客たちにこんなに惜しまれて。悲しかったけど、ちょっとうらやましい人だよなと思いました。ホントにわがままだったんだから。

“ツバイヘルツェン”の意味する二つの心とは、料理をつくる人と食べる人の二つの心のことだと、いつか聞いたことを思い出しました。

2005/6

司馬遼太郎さんのこと

司馬遼太郎さんが亡くなってから、早9年経ちます。この人の書いた小説や紀行文やノンフィクシ ョンやエッセイなど、私はずいぶん読んでいるのですが、この人が存命中に書いた分量は計り知れず、読みきるということがないので、今でも時々文庫本などを買って読んでいます。

先日たまたま買ったのは、昭和48年(1973年)に司馬さんが自宅で語り下ろしたという本でした。その中にベトナムのことが語られていました。今年、ベトナム戦争終結30周年ですから、この取材がされたのは、まだベトナム戦争がおこなわれていた頃のことです。私事ですが、昭和48年は進学のため上京した年でした。その少し前、私は広島の高校生で、その頃、広島の街で知り合った岩国基地のアメリカ兵数人と友達になり、その後、その中の一人がベトナムで戦死したことがありました。そんな事があり、当時のベトナム戦争に関する報道記事には、比較的強い関心を持っておりました。その頃の記憶をたどりながら読んでいると、この人は、この時期、ベトナムに対してきわめて先見性のある見方をしていたことがわかりました。南ベトナムという国は、アメリカの資本が途絶えれば、直ちに国家として成り立たなくなることや、アメリカの関心が、その後中近東に向くであろう事なども予測しています。また、アジアの国々が国家を成立させるためには、資本主義というか消費文明を遮断して貧乏なら貧乏なりにやっていくしかないとも言っています。またしても、なかなかに、ふーむとうなってしまう本でした。

この人の本を、確か最初に読んだのは、土方歳三の話だったと思います。20代の後半だったでしょうか。本当に面白く、次々に、この人の世界にはまりました。物事に対する洞察力の深さとか、真実を知ろうとする執着心の強さとか、感心してしまうことは多いのですが、何故か不思議に元気が出るんです。この人の書いたものを読んでいると。

司馬さんは、兵隊として終戦を迎えました。そこから帰ってきたとき、どうしてこの国があんなわけのわからない戦争を起こしてしまったのか、どんなに考えてもまったくわからなかったそうです。日本中の人がそういう気持ちでがっくりしていたとき、それ以前のこの国の歴史と、そこにいたこの国の人々のことを調べていくうちに、司馬さんは日本人として、だんだん自信を取り戻してきたそうです。そんな気分が読者にも伝わっていったのかもしれません。Ryoma_4

あらためて思いました。惜しい人を亡くしたんだなと。

2005/5

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