2011年1月20日 (木)

「大人は、かく戦えり」という芝居

今、新国立劇場の小劇場でやっている「大人は、かく戦えり」という芝居のことです。

おもしろいです。よくできてます。それに、役者がいい。

観客は、爆笑の連続、息をのんだり、ハラハラしたり、ライブの芝居の醍醐味がたっぷりと味わえます。若い人向けというよりは、ちょっと大人向けですけど。

この戯曲は、ヤスミナ・レザというフランスの女性作家によって2006年に書かれ、すぐに評判を呼び、世界各国で次々に上演された話題作です。日本では、これが待望の初演ということになります。

登場人物は、二組の夫婦。

ウリエ夫妻とレイユ夫妻が、ウリエ家の居間で話し合いをしています。

レイユ家の息子がウリエ家の息子に怪我を負わせてしまったのです。

二組とも、地位も教養もあるブルジョアジー夫婦だけに、冷静で友好的にみえる態度で、子供の喧嘩の後始末に折り合いをつけようとしているのですが、ぎこちない会話にホンネが見えかくれし始め、徐々に互いの本性があらわになってきます。やがて壮絶な罵倒合戦になり、さらには、日頃それぞれの夫婦間に鬱積していた不満も爆発してしまいます。そして、舞台は収拾のつかない混乱へと向かうのです。

この芝居の成否は、キャスティングにかかっていたと思います。

というか、それぞれの役者の力量にかかっていたと云うべきでしょうか。

ともかく、ウリエ夫妻、大竹しのぶ、段田安則と、

レイユ夫妻、秋山菜津子、高橋克実の配役は最強でした。

一人一人の登場人物が、各俳優によって相当細かく造形されています。それによってその人格が伝わり、笑いにもつながります。客席が引っ張り込まれていくのは、そうしたリアリティの上に構築されたお話です。

観客は、休む間もなく、どこに行きつくともわからぬ4人を追いかけながら、この芝居の持っているひとつのテーマが、夫婦というものであるということに気付かされます。

先にこの芝居を観た、会社のFさんは私に、

「とても面白い芝居でしたが、ご夫婦では観られないほうがよいと思います。」

と言いました。ちなみに彼女は独身ですけど。

確かに、夫婦で気持ちよく笑って終わる芝居ではありませんね。後味がほろ苦いというかなんというか。もともとは他人の一組の男女(まれに男女じゃない場合もあるが)で構成された夫婦という形は、暮らしていくうちに、様々なズレやシコリがたまり、ある局面で、それが一気に表面化したりしますよね。

そのあたり、舞台ということもあって、誇張して描かれていたりしますが、本当にセリフも演技プランもよく練れていて、実感を込めてお見事と云わざるをえません。

ちょっと子供にはわからない、おとなの芝居とでも云うのでしょうが、昔、向田邦子さんが書いたTVドラマにも、こういう世界がよくあったように思います。

一緒に暮らす夫婦や家族が、あることをきっかけに、相手がかくしていた感情を知ることになり、ちょっと大きめの波風が起きるような話です。若かったころ、まだガキだった自分は、向田さんのドラマを観て、大人の世界を垣間見ていた気がします。

そのころ、一度も結婚をしたことのない向田さんが、何故あんなに見事に夫婦というものが描けるのか不思議だという話が、よく聞かれましたけど。その後、向田さんはエッセイや小説をお書きになり、そのあたりにどんどん磨きがかかり、多くの名作が生まれました。

そう考えてみると、かつてテレビには、もっと大人の鑑賞に耐えうるものが沢山あった気がしますね。

ちょっと話がそれちゃいましたけど・・・

 Otonahakakutatakaeri

 

2010年12月15日 (水)

窖(あなぐら)の、はなし

今年、深く記憶に残った出来事のひとつに、チリの鉱山落盤事故がありました。

地下700mに閉じ込められた33名の作業員が、全員無事に生還したあの事件です。

生存が確認されてから、救出されるまで、全世界が注目しました。私たちは徐々に中の状況を知ることになり、彼らの帰りを待つ、妻や愛人のことまでも知ることになりました。

彼らがわずかな食料と水で、69日間生き伸びたことも、その彼らを運び出したのがカプセルであったことも、驚きであったけれども、

全員で生還することを信じていた、その強靭な精神力と、それを支えていた彼らのチームワークと、そのリーダーの存在は、世界中の人々を感動させたのでした。

 

しかし、700メートル地下のあなぐらの中というのは、やはり怖いですよ。

私は、狭い、暗い、高いは、全部ダメな人なのですが、昔のある体験が忘れられません。

それは、大学4年生の時に所属していたゼミの、卒業研修旅行の時のことです。行き先は、その当時、まさに建設真っ最中であった、青函トンネルの工事現場の最先端部分、つまり津軽海峡の真下のあなぐらです。何故そんなところへ行くのかというと、このゼミは、工学部、土木工学科のゼミだったからです。

今となっては、不思議この上ないのですが、閉所、暗所、高所の三重苦恐怖症の私が、よりによって土木技術者を目指し、卒業旅行と称して、地底のトンネル工事現場に向かっていたのです。そういうことになった理由は単純で、中学生の時に見た映画「黒部の太陽」に、めちゃめちゃ感動したからでした。

この映画は、戦後の経済成長を支える上で、どうしても必要だった黒部第4ダム建設にあたり、その建設資材を運搬するための、北アルプス大町トンネル掘削工事を描いたものでした。

工事は、何度も何度もフォッサ・マグナ(大断層地帯)に沿った破砕帯に阻まれ、多くの犠牲者を出し、それでも技術者たちはくじけず、ついにトンネルを貫通させます。実話に基づいたこの映画を見た中学生の私は、男は土木だと静かに決意したのです。

その映画を見てから8年ほど経っていましたが、実は、そのころにはすでに熱は冷めていました。うすうすというか、はっきりと適性がないことに気付いていたのです。

全員参加のゼミ旅行に、私は仕方なく参加しましたが、他の10数名のゼミ仲間たちは皆はりきっていましたし、私と違って土木技師になることに燃えていました。

鉄道を乗り継いで、前夜に入った竜飛崎の近くの民宿の酒盛りも盛り上がっており、そこまでは私もよかったのですが、翌朝工事現場に入ったあたりからは、私だけすっかり無口になっていました。

まず、ものすごくでかいエレベーターに、ものすごく長く乗せられたと思います。ひたすら下へ下へ、ここが今、地下何メートルであるかとか何とか、建設会社の担当の方が教えて下さるのですが、聞きたくもありません。だんだん顔色が悪くなっていることが、自分でわかります。

エレベーターの扉が開くと、そこは地底基地の活気があり、仲間たちは歓声をあげました。ここからは延々とトロッコに乗ります。「黒部の太陽」で見た光景でした。走るトロッコの横に水柱が落ちてきていました。嫌な予感がして、ちょっと舐めてみると、これがしょっぱい・・・・・海水です。建設会社の人に、

「これって海水ですか。」と聞きました。黙っていると怖かったし、

「そりゃあ君、ここは海底の下だからさあ。カッカッカッカッ。」

みたいなリアクションでした。少し頭が痛くなりました。

それからしばらくして事件は起きました。トロッコが急に、ガッタアアンと停まってしまったかと思ったら、すべての灯が消えました。全部。正真正銘の真っ暗です。今まで経験したことのない闇です。視界はすべて黒に塗りつぶされました。

Kie--- わたしの緊張はピークを振りきり、絶叫していました。夜道で、若い女性が痴漢にあった時のような悲鳴だったと、あとで云われました。聞いたことあんのかと思いましたけど。

誰かがライターで火をつけます。完全に歯の根が合わなくなった私の顔が浮かび上がったようです。皆が励ましてくれました。

そのあとすぐに、電灯がつき、トロッコも動き出しました。聞けば、この現場では、ある意味ブレーカーが落ちるようにこういうことがよく起こるそうで、いってみればこれは日常茶飯事なのだとのことでした。どうしてそういう大事なことを先に言っといてくれないんだろうかと、現場の人を恨みましたが、ダメージを受けているのは私だけでした。でも、死ぬかと思ったわけで。

その夜は、どうしても元気になれない一人の仲間を、皆が元気づけてくれました。友達っていいもんだなあ、でも、この人たちとは、ここで袂を分つのかなと思っていました。

そんなことを想い出しながら、チリの人たちの69日間は、想像を絶することだったんだなと、あらためて考えたのでした。

 

 

 

2010年11月 5日 (金)

「ノルウェイの森」見ました

きれいな映画でした。

ただ画がきれいだということじゃなく、いろいろな意味できれいだったなと。

見おわった後に感想を求められたら、そのように云うのでしょうか。

原作は、1987年に刊行された、あの村上春樹氏の不朽の名作。

当時、瞬く間に多くの読者の心をつかみ、その累計発行部数は1044万部を超え、現在も読み続けられています。また、その物語は、36言語に翻訳され、村上氏は、世界で最も知られた日本の作家になっています。

その小説が映画化されていると聞いた時、どんな話だったか思い出そうとしたんですが、どうしてもはっきり思い出せません。ぼんやりとした印象はあるものの、考えれば考えるほど、ほかの村上作品と混ざり合った記憶になってしまうのです。

村上さんの作品にはそういうところがあって、どの小説も、いってみれば彼の世界にスーッと引き込まれてしまうのですが、お話として覚えているというよりは、何か感覚的なひとつの印象として残っているようなところがあります。

そんなことで、持っていたはずの本もどこへ行ったか見つからず、やはり気になるので、文庫本を買ってもう一度読みました。

おもしろいです。また、スーッと引き込まれるように読んでしまいます。そうか、こういう話だったんだと。でも自分も歳をとったし、また新しい小説体験でもあります。

1969年にもうすぐ20歳になろうとする人たちが主人公のこの物語は、私には近い世代でもあり、二十歳になるということを想い出しながら、その時代に旅するようでもあります。

小説は、村上さんと同い年の主人公が、18年前を想い出すところから始まりますが、映画は、主人公が高校生のところから始まります。

大ベストセラーとなったこの小説の読者には、それぞれの頭の中に登場人物たちのイメージがあるわけですから、映画のキャスティングが相当重要だったことは云うまでもありません。そんな中で、松山ケンイチのワタナベは、多くの読者を納得させたのではないでしょうか。この人は、俳優が技術的に演技をしているというよりは、その役が彼に乗り移ったようになってしまうところがあります。

菊地凛子の直子は、女子高生こそ少し無理があるものの、その後壊れてゆく直子の演技には、本領を発揮します。新人の水原希子の緑は、トラン・アン・ユン監督によって、完全に造形されたと思われますが、いい仕上がりになっています。これが舞台とは違う映画のマジックというべきものでしょうか。

「ノルウェイの森」を映画化するにあたり、トラン・アン・ユン監督に依頼をしたということは、非常に興味深い選択だったと思います。以前からこの小説を映画化するのであれば、日本には適任の監督が思い浮かばず、外国の監督の方がよいのではないかとぼんやり思ってはいたのですが、外国の設定になってしまうと違うような気がしていました。実際にこの小説を日本人の出演者で、外国の監督が撮れるのかどうか。

トラン・アン・ユン監督は、そのハードルをかなりのレベルで、踏み越えたのではないでしょうか。

そして、この映画がどういう映画かというと、原作である小説のストーリーを追いかけると言うよりも、登場人物たちのさまざまな経験と心象を、理屈ではなく感覚として映像に残していこうとしている映画であり、監督はその作業を繰り返し、積み重ねながらこの映画を作っていったのではないでしょうか。

彼の画に対するこだわりは、長編第1作の「青いパパイヤの香り」などにもよくあらわれていて、その手腕は高く評価されています。そして、その監督のこの映画に対する姿勢を、最も支え実現しているのが、撮影のマーク・リー・ピンビンです。

この映画がきれいであるということ、その人達の心象が、その感情とともに、ある時は哀しく、ある時は切なく、映像として語りかけてくるのは、キャメラマンの仕事によるところと深く関係しています。

ちょうど東京国際映画祭で、彼を追ったドキュメンタリー作品「風に吹かれてーキャメラマン李屏賓の肖像」を六本木で上映していたので、見に行きました。台湾出身の撮影監督で、さまざまな優れた監督と名作を撮った人です。現在、世界中からオファーがあり、再来年までスケジュールが決まっているそうです。アジアが世界に誇れるキャメラマンです。ドキュメントを見て、宮川一夫さんを想い出しました。

彼は、撮影中、常に映像に想像の余白を残すことを意識していたと云い、文学のような想像性を持った空間作りを目指したと云っています。深い言葉だと思います。でも、映像を見ると少しそのことを感じるのではないでしょうか。

もうひとつ、映画に「ノルウェイの森」の音楽原版を使えることになったのは、快挙だし大変意味のあることでした。僕らの年代にとっては、この音を聞くだけで、瞬時にこの時代に旅立てるわけですから。Norwegian wood

2010年8月27日 (金)

しっかし、暑い

あと何日かこの状態が続くと、連続なんとかの暑い新記録になるのだと、昨夜のニュースで云ってましたけど、そりゃそうでしょうね、こういうのはちょっと記憶にないですもの。

地球的規模で何かが変わって来ているのは確かなようですし、もうすでに東京のあたりは、亜熱帯と呼んでも差し支えないと思われます。

一年中で一番暑かろう7月の終わりごろに生まれた私としては、夏の暑さに対してわりと自信がありましたけど、今年はすっかり参ってしまいました。なるべく街を歩くのを避け、すぐに建物の中に入ろうとし、駅のエレベーターなどにもすぐ乗ってしまいます。歳のせいもありますが、やっぱりばてているのだと思います。

大好きなゴルフも、ちょっと勝手が違い、いつも大騒ぎでやかましいゴルフ仲間たちが、なんとなく日陰を探して、そこにたたずんでおとなしくしていたりします。基本的にあまり喋りたくないのです。この夏、最も元気良くゴルフしたのは、台風4号が日本海を通過した時でした。曇ってましたから。

暑いと何か考え事をするのも面倒になりますよね。途中で、まっいいか、みたいになりやすいです。私は普段からこの傾向が強く、個人差もあると思いますけど。でもわりと、暑いところからドストエフスキーみたいな人は出にくいですよね。

犬も弱ってます。いつも2匹して玄関の石の上でぐったりしていて、この前、名医の赤ひげ先生に診せたら、一目で、

「こりゃ熱が出た顔だなあ。」と言われました。

とにかくこの暑いのに毛皮着てるわけですから、可哀そうです。犬の散歩は夜なら10時以降だと言われました。夜でもアスファルト触ると熱いですから、確かに。

わたし的には、最近体重が増えていることも、絶対に良くないことです。去年からだんだんにですが、自分が大きくなってきていることが自覚できます。デブに暑さはこたえますし、周りの人をより暑くもしてしまいます。妻からは、

「あなたがいるだけで、部屋の温度が1度か2度上がる。」と云われています。

ひどくありません?

そして、なぜか暑くても食欲は落ちないんですね。昔からどんな時でも、食欲は落ちないです。あんまり病気とかになったこともないし、多分、胃腸が相当に丈夫なんだと思うんです。ストレス感じると腹減ったりしますから。個人的には、身体がちょっと弱くて痩せて知的な人に憧れてるんですけど・・

そんなことで、冷たいビールはおいしいし、たくさん飲んで食べ、でも暑いのでほとんど動かず、そうするとまた大きくなってしまい、また暑い。と、負の連鎖になっております。

朝早起きして犬の散歩とかすればよいのですが、夜になると元気が出て夜更かしして、翌日は寝坊してしまい、これもうまくゆきません。

どこかで断ち切らねば、そのうち馬肥ゆる秋になってしまいます。何とかせねば・・・

しかし、暑い。Puha-

2010年8月 4日 (水)

小説「告白」、映画「告白」

2年ほど前に、湊かなえさんの「告白」を読んだとき、その読後感が本当に不愉快で、こういうのもめずらしいなあと思い、昔ヒットした デヴィッド・フィンチャーの映画「セブン」をみた後にこういう気持ちになったなと思いだしたりしておりました。

と、同時に、この悪意の塊のような不快さを除けば、この小説には、読者を一気に引きこんでしまう力強さと、うまさが備わっていて、その後、本屋大賞を獲ったことを知った時も、ある意味なるほどなと納得するところがありました。

そのベストセラーが映画化されるとわかったのが去年。これはなかなかハードルが高そうだなあ、誰がやるんだろうか、と思っていたら、監督は何とあの中島哲也氏、おまけに彼は、「できるだけ原作に忠実に映画化します。」と言い放ちます。そして、すぐに、主演の森口先生役として、松たか子さんにオファーを出したのです。

Takako matsu2 悪意が悪意を呼ぶ徹底した救いのない世界。登場人物の心理も感情も常に変化し、小説はほぼすべて登場人物の主観で書かれています。

さて、このお話が、どんな映画になるのだろうか。否応なく期待は膨らみました。

6月の初めに封切られた映画「告白」の興行成績は、かなり好調のようでした。一度飛び込みで観ようとしたら、満席で入れないことがありました。

そうこうしているうちに、うちの大学生の娘が、観てきたというので、感想を聞いてみたところ、一言。

「不快だった。」と、

でも、そのわりにはインターネットの「告白」公式サイトを開けて熱心に読んでおります。

「何だよ、つまんなかったんじゃないの。」というと、

「そういうことでもない。」といいます。

けっこう後を引いているようでもあり、その娘の反応も面白く、数日後、映画館に行ってみました。

劇場は、若い人たちであふれていました。女の子も多かったです。

映画はどうだったか。

面白い。

観客は、この悪意に彩られたジェットコースターに乗せられ、疾走します。目を覆い、息をのみ、でもその映像は、きちんと観客を捉まえて放さず、感情移入させていきます。何故こんな世界を見せられているんだろうかという疑問などは、湧いてきません。

小説を読んだ時に、よくできた小説だと感じたように、よくできた映画だと思いました。

この映画は、監督が云うように原作に忠実に作られています。構成もセリフも極力生かされています。ただ、小説には小説の、映画には映画の、違った魅力がありました。

小説を読んでいるとき、読者の頭の中で、悪意の連鎖の中で、形を変えながら飛び跳ねるキャラクターたちは、映画になると、生身の俳優という具体的な形になり、映像を通してイメージが定着してきます。いってみれば、本の中では読者の想像力に任せとけばよいものがスクリーンの中で固まっていきます。

たとえば、松たか子という女優を、森口先生役に据えた監督の直感は見事だったと思います。もちろん演技も素晴らしいのだけれど、彼女自身が持っているキャラクター性は、演技とはまた別の部分で、この映画全体を支えていると感じました。

話題作と言われる原作を、忠実にきちんと映像化してなお成功している数少ない例かもしれません。

基本的にどっちも、読後感が、不快は不快ですけど。

 

2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

2010年4月20日 (火)

息もできないのだ Breathless

2月に、また先輩のKさんとYさんと、小さな旅に出かけました。旅の目的は、発酵食品の研究ということだったのですけど、そのこととは別に、目的地に向かう車中で、Kさんが最近、試写で見たある韓国映画の話をしてくれました。

その映画は凄まじく暴力を描いており、ある意味すごく重い映画だけど、とても心に残る映画だったと、また、監督は新鋭の若い人のようだけど、今迄にない新しい才能を感じたそうです。

そのストーリーの背景にあるのは、ここ数十年の韓国の社会環境であり、そのことを知ることにより、さまざまに考えさせられる映画でもあったそうです。

話は、そこから隣国である我が国のことへと及び、内田樹さんの書いた「日本辺境論」が、いかに的確で面白い本であったかという話で盛り上がったりしながら、新幹線の旅は続いたのでした。

その映画のことは気になっていましたが、題名も知らず、いつ頃公開されるかも知りませんでした。

それからしばらくして、桜も咲いた春のある日、すでに公開されたその映画を観たという会社のMさんに話を聞くこととなりました。

「凄まじいです。すごいです。でも、いい映画です。」

このあたり、Kさんと言うことが似てます。

「それで、その話には、救いはあるわけ?」と聞いてみますと、

「そういう意味で、救いはないです。」とおっしゃる。

「ふーん・・・そおか」

「でも、観た方がいいです。」

Mさんは、昨夜、会社の先輩のFさんと一緒に観たのだそうです。

Fさんは以前、私に「泣きながら生きて」を観るよう真剣に薦めた人です。

またしても真剣な眼差しでFさんが言いました。

「絶対、観てください。急いで観てください。」

 

 

『息もできない』という映画でした。

始まりから不思議な顔つきをしたその映画には、たしかに随所に暴力シーンが入ってきます。

ただ、それは観客を怖がらせたり、驚かせたりするだけの、それとは違うことがだんだんわかってきます。それは内側にくる痛みとでも言うのか、心の深いところにズシンとくるものです。

さまざまな社会環境から圧迫を受け、逃げ場を失い、追い詰められて、壊れていく人たちが、自身のすみかを自ら壊していく暴力です。その多くは家族に向かいます。

主人公は、父親の暴力から、母と妹を失ったことで、少年期にすでに壊れており、暴力を生業とした借金の取り立て屋になっています。粗暴で、その口からはスラングばかりを発するようなその男は、サンフンと言い、刑務所から帰ってきた父にも暴力を振い続けています。

やはり、暴力によって母を亡くし、壊れてしまった父と暮らす女子高生のヨニと偶然出会ったことから、サンフンに少しずつ変化がおき、物語は動きはじめます。

製作・脚本・監督・主演は、ヤン・イクチュン。1975年生まれの彼が、32歳の時に作った映画です。この映画は数々の賞を受賞し、インタビューに答えた彼は、

「自分は家族との間に問題を抱えてきた。このもどかしさを抱いたままでは、この先、生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった。」と言っています。

きわめて個人的な切実な思いから脚本を書きはじめ、自分で資金を集めて製作にこぎつけたといいます。

自らが体験したこと、知人が、家族が体験したこと、彼自身が見つめてきた韓国の風景が映画になっていったということでしょうか。監督自身が演じるサンフンはじめ、それぞれの俳優が演じる登場人物たちが持つリアリティは、ただテクニックが優れているということとは違うことのように思われます。彼は、別に社会を描こうとしたわけではなく、自分が見てきたもの、知っているものを映画に投影させたら、そこから社会が見えてきたということなのでしょう。

映画は、本来の人間らしさを失ってしまったかにみえるサンフンが、やがて小さな希望を見つけかけ、ひょっとして、何かを取り戻せるのではないかというところで結末に向かいます。

この作家のきわめて個人的な叫びは、映画という言語を通して、強烈に私をとらえました。映画を見終わったあとで、何日もその残像が後を引いたのは久しぶりの体験でした。

隣国のある青年から発せられたメッセージは、確実に海峡を越えて響いている気がした桜の夜でした。

ヤン・イクチュンという人は、次に何を伝えてくれるのでしょうか。たのしみな映像作家が現れました。

まだ後を引いてます。

Sang-hoon  

 

 

2010年3月 8日 (月)

真夜中の「秋日和」

冬の真夜中、BSで小津安二郎監督の特集をやっていたようで、ある夜、遅く帰った時に、「秋日和」を見てしまいました。平日の夜中の2時でしたし、こんなもの見てしまったら大変だなと思い、適当に切り上げるつもりでしたが、見始めたら、つい最後まで見てしまいました。というか途中でやめられなくなりまして・・・そして、良かった、すごく。 

かなり前に、多分20年くらい前ですが、当時ビデオ化されてレンタルビデオ屋に並んでいた小津作品を端から一気に見てしまったことがあります。戦後の作品ばかりだったと思います。どの映画も、お話の設定も、出演者も、テンポも、世界観がよく似ており、記憶の中でどれがどの映画かわからなくなっておりました。そんなことで、この夜この映画を見ながら、ああ、あんな見方をするんじゃなかったと、後悔いたしました。それぞれの映画は、実際は何年もかかって少しずつ公開されたわけで、あんな見方をするべきではありませんでした。 

「秋日和」は1960年に公開された小津監督の最後から3番目の作品です。原節子さん演じるある未亡人を中心に、その一人娘の縁談を通して、周りの人々との触れ合いが描かれ、最後は、娘の結婚式を終え一人になった主人公が、アパートに戻って床に着いたところでラストシーンとなります。小津監督の数々の映画に出演した原節子さんは、「秋日和」の10年前には、「晩春」で老父を一人残して嫁いでゆく娘を演じてもいます。そして、なぜか小津監督が亡くなった1963年以降、映画界から身をひいてしまいました。 

初めて小津監督の映画を見たのは、「東京物語」でした。この映画は、私の生まれる前年1953年に公開されており、私は学生の頃TVで見たと思います。その時、ほかの映画では感じたことのない、静かな強い意志で何かを伝えられたような、強烈な印象が残りました。そのあとも、何度かビデオを見たり脚本を読んだりしてみましたが、何度見ても、胸の奥の深いところに何かが残ります。 

小津さんの映画には、ごく普通の人々のごくありふれた日常が描かれており、その人生の節目節目に訪れる、出会いや別れがたんたんと表現されております。そして、いつも同じある読後感に包まれます。このゆっくりとした独特のテンポの、起伏の少ないお話に、どうしてこんなに引き込まれるのか。そんなことを思いながら、今回もすっかり朝まで、お付き合いさせていただきました。 

もう一本、この数日後に朝までお付き合いしてしまった映画が、CSで夜中に放送されていたヴィム・ヴェンダース監督の「東京画」でした。「秋日和」で深く唸ってしまった直後ということもありましたが、あのたんたんとした映画を、またしても朝まで見てしまいました。

この映画は、1983年に小津安二郎を敬愛するヴィム・ヴェンダース監督が「東京物語」の舞台となった東京を訪れ、映画が製作された1953年の30年後のすっかり変わってしまった東京の日常を撮影したもので、その間、鎌倉の小津監督の墓を訪ねたり、主演の笠智衆や撮影の厚田雄春にインタビューをしたりしています。そして、この映画のトップには、「東京物語」のトップシーンが、ラストには、ラストシーンが盛り込まれています。

ヴィム・ヴェンダースがとらえる1983年の東京の風景も面白いのですが、興味深かったのはインタビューでした。笠智衆と厚田雄春。この二人が語る内容は非常に似通っています。そして、二人とも小津監督のことを先生と言います。

笠智衆さんは、1920年代の小津さんの映画にすでに出ている常連の役者さんですが、彼は、芝居はすべて先生の指示通りにやった、自分は無器用でなかなか先生の意図通りにできず、何度もテストをして指示通りにやったと繰り返し語ります。そして、先生は、映画の中の、すべてのことを小津安二郎にしてしまわれます。役者として先生から学んだことは、自分を忘れ白紙になるすべでした。役者としてまっ白になり、あとは先生の考えられた通りにするだけです。なにものでもなかった自分は、先生によって笠智衆になりました。先生が私を作った。先生と私の関係は、ただ教えられるだけの関係でしたと・・・

カメラマンの厚田雄春さんは、1929年から撮影助手としてかかわり、1937年以降の松竹の小津作品すべての撮影を担当した方ですが、撮影はすべて先生の指示通りにしました、撮影位置もアングルもそうです、私はカメラマンではなくカメラ番でしたといわれました。照明のアイデアなど懐かしく語りましたが、途中で泣き崩れてしまいインタビューは終わります。

小津組と言われる常連のスタッフ・俳優に、彼が尊敬され愛されていたこと、映画の撮影となると、完璧主義といっていいほど徹底的に細部まで演出する気難しい一面があったことが伝わってきます。

でも、その細部に対する監督の意図は、こうやって50年たった今でも、観客に届いていることがわかった真夜中でした。

もう一度、いま見ることのできる小津作品をあらためて見たいと思いました。しかし、今度はゆっくりと。

真夜中というのは、落ち着いてゆっくり映画を見ることがでる時間帯だということが、あらためてわかります。

特にじっくり効いてくる小津映画にはピッタリです。

Tokyo-monogatari  
   

2010年2月26日 (金)

反骨のサイドスロー、逝く

Kobayashi
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月に小林繁さんが亡くなりました。その現役時代を40より若い人はすでに知らないかもしれません。178cm,68kg、痩せっぽちの投手でしたが、その身体を鞭のようにしならせたサイドスローからの豪球は、数々の名勝負を生み、野球ファンをうならせました。

今年から日本ハムの一軍ピッチングコーチを引き受けることになっていた矢先、この訃報がどれほど思いもかけないことであったかは、梨田監督のリアクションを見てもよくわかりました。それに加え、改めて驚いたのは、その年齢です。享年57歳、1952年生まれといえば、私より2歳年長なだけです。

1期の長嶋ジャイアンツが2度の優勝をしたとき、1976年も1977年も、彼は18勝を挙げたチームのエースでした。無名の高校を出て大丸の呉服売り場にいた痩せっぽちの投手を見出した巨人のスカウトも立派でしたが、このピッチャーなしに長嶋ジャイアンツの優勝はあり得ませんでした。比べるのもなんですが、1977年に社会に出たばかりの私は、その頃、毎日撮影スタジオの床を掃除していました。入ったばかりで当たり前なのですが、スタッフの中の一番下っ端です。どう考えても、自分と同年代とは思えぬ貫録を彼は備えていました。

江川卓という人は、私より1歳年下です。あの1978年のシーズンオフ、日本中が大騒ぎになった「空白の一日事件」の二人の主人公が、3歳しか年齢が違わなかったのは、やはり意外な気がします。

高校野球史上、最高の投手といわれた怪物江川は、ドラフトで意中の球団から指名されぬ運命にありました。阪急ブレーブスの指名を断って、六大学の法政に進み大学野球の数々の記録を作り、大学卒業時には、クラウンライターライオンズの誘いを退け、アメリカに野球留学してしまい、ついに、1978年のドラフトの前日、意中の球団読売ジャイアンツと、電撃的に契約してしまいます。

ただし、この契約を社会は認めませんでした。ドラフトの前日だけは、前年度の指名権は消滅するのでどの球団からも拘束を受けないという不思議な理屈を、あの巨人軍が主張したのですが、そんなことが認められたら、誰でもその日に契約してしまい、ドラフト制度も蜂の頭もなくなってしまうわけです。誰が見ても、プロ野球界をリードする紳士の球団といわれる巨人軍が、子供のように駄々をこねているようにしか見えませんでした。結局ドラフト会議で江川投手の交渉権は、宿敵阪神が獲得することになります。

しかしながら、これでも騒ぎは収まりません。巨人も他球団も後にはひかず、当時のプロ野球コミッショナーは、江川を阪神に入団させた後で、巨人と阪神とのトレードを要望し、事態を終息させようと試みます。

そうなったら、そうなったで、今度は阪神が、

「あっ、そういうことなら小林君ください。」

と言っちゃうわけなんです。

かつて大人たちが決めた球界のルールっていうのは、どうなっちゃたんだろうって感じですけど。

たしか、1979年の春のキャンプに向かう羽田空港から呼び戻された小林投手は、ものすごい記者団に取り囲まれて、トレード移籍の発表をしたと思います。その時の映像が、先日小林さんが亡くなった時に、何回もテレビで流されていました。その席で彼は、

「このことで同情はされたくない。野球が好きだから阪神のお世話になります。」

と語りました。

何とも釈然としない結末でありながら、一応の決着がつき、シーズンが始まりました。江川投手は、2ヶ月くらい公式戦に出れなかったように記憶してます。

当時阪神ファンだった私としては、(今も阪神ファンですけど、なんだか)

怪物江川の将来性は、たしかに測り知れないけれど、すでに巨人のエースとしてあれだけの実績のある小林投手を放出してまで、ほしい選手なのだろうか。ともかく、小林投手には、頑張ってほしい。江川なんかに負けるな。という気持ちでした。

かたや、プロ6年で沢村賞まで獲ったピッチャー。かたや、高校・大学で活躍したとはいえ、全くの新人。ぜんぜん格も違うし、年齢ももっと離れてると思ってました。

1979年、阪神のエースとなった小林は、ものすごい活躍をします。怒りから来るエネルギーだったのでしょう。

2291S 完投17 完封5 奪三振200 防御率2.89

シーズンを通して全力投球、特に巨人戦は鬼気迫るピッチングで8戦全勝でした。

彼の好調時の特徴とされる、マウンドで投げた瞬間に帽子が飛んでしまう映像を何度も目にしました。当時若手芸人だった明石家さんまは、小林投手の形態模写で人気を博し、投球フォームに入る前に、きちんと脱げないように帽子をかぶるポーズが受けていました。

いずれにしても、彼の気合は、そのまんま成績となって現れました。

ただ、事件の起きたこの年に、気持ちが集中しすぎてしまった感もあり、少し身体的にも無理をしてしまったようで、翌年以降も、エースとしての成績は残しつつも、その後、対巨人戦は515敗と大きく負け越しています。

一方、江川投手は、デビュー戦の阪神戦こそ3本のホームランを打たれ負け投手になり、阪神ファンを沸かせましたが、その後は阪神戦を得意とし、通算成績は3618敗でした。

小林投手は1979年のシーズンで、ある意味燃え尽きたかもしれません。1982年のオフに

「来年15勝できなかったら野球をやめる。」

と宣言し、翌年1314敗と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、31歳の若さで現役を引退してしまいます。当時同僚だった川藤幸三さんは、右手の指先に血が通わなくなり、勝負どころで皆に迷惑をかけるからと告げられたそうです。通算11年の惜しまれる引退でした。

江川投手も、198732歳の若さで引退しました。デビューが遅くなったので、通算9年、13572敗、目標にした小林投手の139勝には届きませんでした。ただ、初めて両者の直接対決が実現した1980年の阪神×巨人戦は、江川投手が自らタイムリーを放ち、勝利投手となりました。彼はのちに、一生のうちに絶対負けられない試合があるとすると、この試合だったと語っています。

無名の高校時代に、巨人に見出され、巨人でも阪神でもエースとして活躍し、両方で沢村賞を獲った投手。

高校時代から怪物と呼ばれ、常に注目され続け、そして走り続けた投手。

ともに8年連続2桁勝利をして球界を去った二人の天才は、様々な風景の中にいましたが、

プロ野球ファンが、小林繁を、江川卓を思い出すとき、真っ先にあの出来事が浮かびます。

あれ以来二人はずっとそのことに縛られていたかもしれません。

そう考えると、小林さんが亡くなる前に二人が会えたことは、よいことだったと思います。

二人が会えたのは、CMの撮影でしたね。いい企画でもありましたし、二人のとらえ方も、撮影の仕方も、編集の仕方も、素晴らしかったです。

小林談「ある意味では君のおかげだよ。江川卓がいなければ、あんなに熱くなれなかった。」

2007年の秋、謝ることができてよかったと今は思います。」

訃報を聞いた江川はしみじみと言ったそうです。

 

 

2010年1月15日 (金)

泣きながら生きていくのだ

昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。

そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、

「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」

などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。

新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の1230から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。1230かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。

いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。

それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。

中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。

以下、お話に触れます。

 

1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。

この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(19661976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。

若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。

でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。

丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。

丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。

 

 日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。

1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。

努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。

ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。

「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」

父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。

あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。

一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。

「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」

 

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それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。

数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・

この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。

 

  

それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。

15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」

日本という国に対しても、

「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」

みたいなことを言われました。

中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。

 

そのことで思い出したことが一つ。

子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の23女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。

この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。

 

  

しかし、泣いた。

  

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