2010年4月20日 (火)

息もできないのだ Breathless

2月に、また先輩のKさんとYさんと、小さな旅に出かけました。旅の目的は、発酵食品の研究ということだったのですけど、そのこととは別に、目的地に向かう車中で、Kさんが最近、試写で見たある韓国映画の話をしてくれました。

その映画は凄まじく暴力を描いており、ある意味すごく重い映画だけど、とても心に残る映画だったと、また、監督は新鋭の若い人のようだけど、今迄にない新しい才能を感じたそうです。

そのストーリーの背景にあるのは、ここ数十年の韓国の社会環境であり、そのことを知ることにより、さまざまに考えさせられる映画でもあったそうです。

話は、そこから隣国である我が国のことへと及び、内田樹さんの書いた「日本辺境論」が、いかに的確で面白い本であったかという話で盛り上がったりしながら、新幹線の旅は続いたのでした。

その映画のことは気になっていましたが、題名も知らず、いつ頃公開されるかも知りませんでした。

それからしばらくして、桜も咲いた春のある日、すでに公開されたその映画を観たという会社のMさんに話を聞くこととなりました。

「凄まじいです。すごいです。でも、いい映画です。」

このあたり、Kさんと言うことが似てます。

「それで、その話には、救いはあるわけ?」と聞いてみますと、

「そういう意味で、救いはないです。」とおっしゃる。

「ふーん・・・そおか」

「でも、観た方がいいです。」

Mさんは、昨夜、会社の先輩のFさんと一緒に観たのだそうです。

Fさんは以前、私に「泣きながら生きて」を観るよう真剣に薦めた人です。

またしても真剣な眼差しでFさんが言いました。

「絶対、観てください。急いで観てください。」

 

 

『息もできない』という映画でした。

始まりから不思議な顔つきをしたその映画には、たしかに随所に暴力シーンが入ってきます。

ただ、それは観客を怖がらせたり、驚かせたりするだけの、それとは違うことがだんだんわかってきます。それは内側にくる痛みとでも言うのか、心の深いところにズシンとくるものです。

さまざまな社会環境から圧迫を受け、逃げ場を失い、追い詰められて、壊れていく人たちが、自身のすみかを自ら壊していく暴力です。その多くは家族に向かいます。

主人公は、父親の暴力から、母と妹を失ったことで、少年期にすでに壊れており、暴力を生業とした借金の取り立て屋になっています。粗暴で、その口からはスラングばかりを発するようなその男は、サンフンと言い、刑務所から帰ってきた父にも暴力を振い続けています。

やはり、暴力によって母を亡くし、壊れてしまった父と暮らす女子高生のヨニと偶然出会ったことから、サンフンに少しずつ変化がおき、物語は動きはじめます。

製作・脚本・監督・主演は、ヤン・イクチュン。1975年生まれの彼が、32歳の時に作った映画です。この映画は数々の賞を受賞し、インタビューに答えた彼は、

「自分は家族との間に問題を抱えてきた。このもどかしさを抱いたままでは、この先、生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった。」と言っています。

きわめて個人的な切実な思いから脚本を書きはじめ、自分で資金を集めて製作にこぎつけたといいます。

自らが体験したこと、知人が、家族が体験したこと、彼自身が見つめてきた韓国の風景が映画になっていったということでしょうか。監督自身が演じるサンフンはじめ、それぞれの俳優が演じる登場人物たちが持つリアリティは、ただテクニックが優れているということとは違うことのように思われます。彼は、別に社会を描こうとしたわけではなく、自分が見てきたもの、知っているものを映画に投影させたら、そこから社会が見えてきたということなのでしょう。

映画は、本来の人間らしさを失ってしまったかにみえるサンフンが、やがて小さな希望を見つけかけ、ひょっとして、何かを取り戻せるのではないかというところで結末に向かいます。

この作家のきわめて個人的な叫びは、映画という言語を通して、強烈に私をとらえました。映画を見終わったあとで、何日もその残像が後を引いたのは久しぶりの体験でした。

隣国のある青年から発せられたメッセージは、確実に海峡を越えて響いている気がした桜の夜でした。

ヤン・イクチュンという人は、次に何を伝えてくれるのでしょうか。たのしみな映像作家が現れました。

まだ後を引いてます。

Sang-hoon  

 

 

2010年3月 8日 (月)

真夜中の「秋日和」

冬の真夜中、BSで小津安二郎監督の特集をやっていたようで、ある夜、遅く帰った時に、「秋日和」を見てしまいました。平日の夜中の2時でしたし、こんなもの見てしまったら大変だなと思い、適当に切り上げるつもりでしたが、見始めたら、つい最後まで見てしまいました。というか途中でやめられなくなりまして・・・そして、良かった、すごく。 

かなり前に、多分20年くらい前ですが、当時ビデオ化されてレンタルビデオ屋に並んでいた小津作品を端から一気に見てしまったことがあります。戦後の作品ばかりだったと思います。どの映画も、お話の設定も、出演者も、テンポも、世界観がよく似ており、記憶の中でどれがどの映画かわからなくなっておりました。そんなことで、この夜この映画を見ながら、ああ、あんな見方をするんじゃなかったと、後悔いたしました。それぞれの映画は、実際は何年もかかって少しずつ公開されたわけで、あんな見方をするべきではありませんでした。 

「秋日和」は1960年に公開された小津監督の最後から3番目の作品です。原節子さん演じるある未亡人を中心に、その一人娘の縁談を通して、周りの人々との触れ合いが描かれ、最後は、娘の結婚式を終え一人になった主人公が、アパートに戻って床に着いたところでラストシーンとなります。小津監督の数々の映画に出演した原節子さんは、「秋日和」の10年前には、「晩春」で老父を一人残して嫁いでゆく娘を演じてもいます。そして、なぜか小津監督が亡くなった1963年以降、映画界から身をひいてしまいました。 

初めて小津監督の映画を見たのは、「東京物語」でした。この映画は、私の生まれる前年1953年に公開されており、私は学生の頃TVで見たと思います。その時、ほかの映画では感じたことのない、静かな強い意志で何かを伝えられたような、強烈な印象が残りました。そのあとも、何度かビデオを見たり脚本を読んだりしてみましたが、何度見ても、胸の奥の深いところに何かが残ります。 

小津さんの映画には、ごく普通の人々のごくありふれた日常が描かれており、その人生の節目節目に訪れる、出会いや別れがたんたんと表現されております。そして、いつも同じある読後感に包まれます。このゆっくりとした独特のテンポの、起伏の少ないお話に、どうしてこんなに引き込まれるのか。そんなことを思いながら、今回もすっかり朝まで、お付き合いさせていただきました。 

もう一本、この数日後に朝までお付き合いしてしまった映画が、CSで夜中に放送されていたヴィム・ヴェンダース監督の「東京画」でした。「秋日和」で深く唸ってしまった直後ということもありましたが、あのたんたんとした映画を、またしても朝まで見てしまいました。

この映画は、1983年に小津安二郎を敬愛するヴィム・ヴェンダース監督が「東京物語」の舞台となった東京を訪れ、映画が製作された1953年の30年後のすっかり変わってしまった東京の日常を撮影したもので、その間、鎌倉の小津監督の墓を訪ねたり、主演の笠智衆や撮影の厚田雄春にインタビューをしたりしています。そして、この映画のトップには、「東京物語」のトップシーンが、ラストには、ラストシーンが盛り込まれています。

ヴィム・ヴェンダースがとらえる1983年の東京の風景も面白いのですが、興味深かったのはインタビューでした。笠智衆と厚田雄春。この二人が語る内容は非常に似通っています。そして、二人とも小津監督のことを先生と言います。

笠智衆さんは、1920年代の小津さんの映画にすでに出ている常連の役者さんですが、彼は、芝居はすべて先生の指示通りにやった、自分は無器用でなかなか先生の意図通りにできず、何度もテストをして指示通りにやったと繰り返し語ります。そして、先生は、映画の中の、すべてのことを小津安二郎にしてしまわれます。役者として先生から学んだことは、自分を忘れ白紙になるすべでした。役者としてまっ白になり、あとは先生の考えられた通りにするだけです。なにものでもなかった自分は、先生によって笠智衆になりました。先生が私を作った。先生と私の関係は、ただ教えられるだけの関係でしたと・・・

カメラマンの厚田雄春さんは、1929年から撮影助手としてかかわり、1937年以降の松竹の小津作品すべての撮影を担当した方ですが、撮影はすべて先生の指示通りにしました、撮影位置もアングルもそうです、私はカメラマンではなくカメラ番でしたといわれました。照明のアイデアなど懐かしく語りましたが、途中で泣き崩れてしまいインタビューは終わります。

小津組と言われる常連のスタッフ・俳優に、彼が尊敬され愛されていたこと、映画の撮影となると、完璧主義といっていいほど徹底的に細部まで演出する気難しい一面があったことが伝わってきます。

でも、その細部に対する監督の意図は、こうやって50年たった今でも、観客に届いていることがわかった真夜中でした。

もう一度、いま見ることのできる小津作品をあらためて見たいと思いました。しかし、今度はゆっくりと。

真夜中というのは、落ち着いてゆっくり映画を見ることがでる時間帯だということが、あらためてわかります。

特にじっくり効いてくる小津映画にはピッタリです。

Tokyo-monogatari  
   

2010年2月26日 (金)

反骨のサイドスロー、逝く

Kobayashi
1
月に小林繁さんが亡くなりました。その現役時代を40より若い人はすでに知らないかもしれません。178cm,68kg、痩せっぽちの投手でしたが、その身体を鞭のようにしならせたサイドスローからの豪球は、数々の名勝負を生み、野球ファンをうならせました。

今年から日本ハムの一軍ピッチングコーチを引き受けることになっていた矢先、この訃報がどれほど思いもかけないことであったかは、梨田監督のリアクションを見てもよくわかりました。それに加え、改めて驚いたのは、その年齢です。享年57歳、1952年生まれといえば、私より2歳年長なだけです。

1期の長嶋ジャイアンツが2度の優勝をしたとき、1976年も1977年も、彼は18勝を挙げたチームのエースでした。無名の高校を出て大丸の呉服売り場にいた痩せっぽちの投手を見出した巨人のスカウトも立派でしたが、このピッチャーなしに長嶋ジャイアンツの優勝はあり得ませんでした。比べるのもなんですが、1977年に社会に出たばかりの私は、その頃、毎日撮影スタジオの床を掃除していました。入ったばかりで当たり前なのですが、スタッフの中の一番下っ端です。どう考えても、自分と同年代とは思えぬ貫録を彼は備えていました。

江川卓という人は、私より1歳年下です。あの1978年のシーズンオフ、日本中が大騒ぎになった「空白の一日事件」の二人の主人公が、3歳しか年齢が違わなかったのは、やはり意外な気がします。

高校野球史上、最高の投手といわれた怪物江川は、ドラフトで意中の球団から指名されぬ運命にありました。阪急ブレーブスの指名を断って、六大学の法政に進み大学野球の数々の記録を作り、大学卒業時には、クラウンライターライオンズの誘いを退け、アメリカに野球留学してしまい、ついに、1978年のドラフトの前日、意中の球団読売ジャイアンツと、電撃的に契約してしまいます。

ただし、この契約を社会は認めませんでした。ドラフトの前日だけは、前年度の指名権は消滅するのでどの球団からも拘束を受けないという不思議な理屈を、あの巨人軍が主張したのですが、そんなことが認められたら、誰でもその日に契約してしまい、ドラフト制度も蜂の頭もなくなってしまうわけです。誰が見ても、プロ野球界をリードする紳士の球団といわれる巨人軍が、子供のように駄々をこねているようにしか見えませんでした。結局ドラフト会議で江川投手の交渉権は、宿敵阪神が獲得することになります。

しかしながら、これでも騒ぎは収まりません。巨人も他球団も後にはひかず、当時のプロ野球コミッショナーは、江川を阪神に入団させた後で、巨人と阪神とのトレードを要望し、事態を終息させようと試みます。

そうなったら、そうなったで、今度は阪神が、

「あっ、そういうことなら小林君ください。」

と言っちゃうわけなんです。

かつて大人たちが決めた球界のルールっていうのは、どうなっちゃたんだろうって感じですけど。

たしか、1979年の春のキャンプに向かう羽田空港から呼び戻された小林投手は、ものすごい記者団に取り囲まれて、トレード移籍の発表をしたと思います。その時の映像が、先日小林さんが亡くなった時に、何回もテレビで流されていました。その席で彼は、

「このことで同情はされたくない。野球が好きだから阪神のお世話になります。」

と語りました。

何とも釈然としない結末でありながら、一応の決着がつき、シーズンが始まりました。江川投手は、2ヶ月くらい公式戦に出れなかったように記憶してます。

当時阪神ファンだった私としては、(今も阪神ファンですけど、なんだか)

怪物江川の将来性は、たしかに測り知れないけれど、すでに巨人のエースとしてあれだけの実績のある小林投手を放出してまで、ほしい選手なのだろうか。ともかく、小林投手には、頑張ってほしい。江川なんかに負けるな。という気持ちでした。

かたや、プロ6年で沢村賞まで獲ったピッチャー。かたや、高校・大学で活躍したとはいえ、全くの新人。ぜんぜん格も違うし、年齢ももっと離れてると思ってました。

1979年、阪神のエースとなった小林は、ものすごい活躍をします。怒りから来るエネルギーだったのでしょう。

2291S 完投17 完封5 奪三振200 防御率2.89

シーズンを通して全力投球、特に巨人戦は鬼気迫るピッチングで8戦全勝でした。

彼の好調時の特徴とされる、マウンドで投げた瞬間に帽子が飛んでしまう映像を何度も目にしました。当時若手芸人だった明石家さんまは、小林投手の形態模写で人気を博し、投球フォームに入る前に、きちんと脱げないように帽子をかぶるポーズが受けていました。

いずれにしても、彼の気合は、そのまんま成績となって現れました。

ただ、事件の起きたこの年に、気持ちが集中しすぎてしまった感もあり、少し身体的にも無理をしてしまったようで、翌年以降も、エースとしての成績は残しつつも、その後、対巨人戦は515敗と大きく負け越しています。

一方、江川投手は、デビュー戦の阪神戦こそ3本のホームランを打たれ負け投手になり、阪神ファンを沸かせましたが、その後は阪神戦を得意とし、通算成績は3618敗でした。

小林投手は1979年のシーズンで、ある意味燃え尽きたかもしれません。1982年のオフに

「来年15勝できなかったら野球をやめる。」

と宣言し、翌年1314敗と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、31歳の若さで現役を引退してしまいます。当時同僚だった川藤幸三さんは、右手の指先に血が通わなくなり、勝負どころで皆に迷惑をかけるからと告げられたそうです。通算11年の惜しまれる引退でした。

江川投手も、198732歳の若さで引退しました。デビューが遅くなったので、通算9年、13572敗、目標にした小林投手の139勝には届きませんでした。ただ、初めて両者の直接対決が実現した1980年の阪神×巨人戦は、江川投手が自らタイムリーを放ち、勝利投手となりました。彼はのちに、一生のうちに絶対負けられない試合があるとすると、この試合だったと語っています。

無名の高校時代に、巨人に見出され、巨人でも阪神でもエースとして活躍し、両方で沢村賞を獲った投手。

高校時代から怪物と呼ばれ、常に注目され続け、そして走り続けた投手。

ともに8年連続2桁勝利をして球界を去った二人の天才は、様々な風景の中にいましたが、

プロ野球ファンが、小林繁を、江川卓を思い出すとき、真っ先にあの出来事が浮かびます。

あれ以来二人はずっとそのことに縛られていたかもしれません。

そう考えると、小林さんが亡くなる前に二人が会えたことは、よいことだったと思います。

二人が会えたのは、CMの撮影でしたね。いい企画でもありましたし、二人のとらえ方も、撮影の仕方も、編集の仕方も、素晴らしかったです。

小林談「ある意味では君のおかげだよ。江川卓がいなければ、あんなに熱くなれなかった。」

2007年の秋、謝ることができてよかったと今は思います。」

訃報を聞いた江川はしみじみと言ったそうです。

 

 

2010年1月15日 (金)

泣きながら生きていくのだ

昨年の暮れも押し迫ったある日、会社に行くと、いつか「早春スケッチブック」のDVDを貸してくれたFさんと、転覆隊のW君が、熱く語り合っていました。どうも仕事の話ではないようで、朝のお茶を淹れながら、なんとなく聞いていると、ある映画の話らしく、二人がいかにその映画で泣いたかという話であります。Fさんは、顔の形が変わってしまうくらい泣いたそうで、人に会う前には観ないほうがよいと言っております。

そんなだかよお、ほんとかよおとか、思っていると、二人が私を発見し、

「まだ、観てませんよね。」「絶対、観るべきです。」「泣きます。絶対」

などなど、何がなんでもあなたは絶対に観るべきだとおっしゃる、二人して。

新宿のなんたらいうシネコンで1日1回しか上映してなくて、多分もうすぐ終わってしまうといいます。ちなみに上映は昼の1230から2時間だそうで。そう言われると気になりますよ、やっぱり。1230かあ、年内だと今日しかなさそうだなあ、などと思いつつ、その日の昼過ぎに会うことになってた方に、2時間ほど予定をずらせていただくことをお願いしたら、OKしてくださり、行きました、新宿。

いや、泣けた。目からも、鼻からも、水分は出つくしました。

それは、厳密に言うと映画ではなく、3年前にフジテレビで放送されたドキュメント番組でした。「泣きながら生きて」 その題名を覚えていました。たしか録画したけど、観るのを忘れていたのです。放送から3年後、何らかの理由があってこの映画館で上映されているようです。

中国のある家族、お父さんと、お母さんと、娘と、3人の家族を10年間追い続けたドキュメントでした。つきなみですが、感動しました。

以下、お話に触れます。

 

1989年に、丁 尚彪(てい しょうひょう)さんという中国人男性が、上海から日本にやって来ます。35歳、多分私と同じ年の生まれです。

この人の青春時代、中国は、まさに文化大革命(19661976)の時期です。彼は、作物もろくにできない痩せた僻地に隔離され、強制労働を強いられます。苦境のなかで結ばれた奥さんと、その後、上海に帰ってきて、1980年頃、娘さんが生まれます。

若いころ、全く教育を受けることができなかった丁さんは、日本語学校のパンフレットを手にしたことから、日本に行って日本語を学び、日本の大学に進学して、新しい人生を手にしようと決意しました。ただ、入学金と授業料は、合わせて42万円。それは、中国で夫婦が15年間働き続けなくては得ることができないお金でした。夫婦は親戚や知りあいを訪ね歩いて借金をして費用を工面します。

でも、それは悲劇の始まりでした。丁さんが入学した日本語学校は、北海道の阿寒町にありました。過疎化を打開したい町と、町から施設などを借り受けることで、経費を安くすることのできる学校経営者との思惑が一致して設立された学校だったのですが、ここには仕事がありません。おまけに冬は氷に閉ざされてしまいます。中国から来た生徒たちは、働いて借金を返しながら勉強するつもりでいたのです。つまり、ここでは生きていくことができません。

丁さんには多額の借金があり、賃金の安い中国に帰ることはもうできません。何とか東京にたどり着くも、学生でなくなった彼にビザは認められず、不法滞在者になってしまいました。摘発されれば強制送還です。

丁さんは、身分を隠し、身を粉にして働きました。1日に3つの肉体労働をこなし、眠る時間以外はすべて働きました。銭湯の空いてる時間にうちに帰れず、流しで体を洗い、昼飯代を惜しんで晩飯の残りで弁当を作り、そして、借金を返し、自身が生きていく最低限の費用以外は、すべて上海の妻子に送金し続けました。

 

 日本に来て7年目の春、1996年、番組の制作チームが彼と出会います。ディレクターは張麗玲さんと云います。丁さんの暮らす小さな木造アパートの壁には、7年前に別れた当時小学4年生の娘の写真が貼ってありました。

1997年の2月、制作チームは、丁さんの東京で働く様子を撮影したVTRを持って、上海の奥さんと娘さんを訪ねました。8年ぶりに目にする父であり夫の姿、そして、彼がその間どれほど苦労したか。妻と娘は涙するほかありません。でも、奥さんは、丁さんから送られたお金には、一切手をつけていませんでした。自分は、縫製工場で働いて生計を立てて、送金されたお金はすべて娘の教育費に充てるつもりなのです。娘の琳(リン)ちゃん、この子がまたほんとに優秀で、この時、中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生です。そして、アメリカで勉強して医者になりたいという夢を持っています。父と母は、この娘の夢に自身の希望を重ね合わせているのです。

努力の末、彼女はニューヨーク州立大学の医学部に見事合格します。アメリカに旅立つ娘、上海空港での母娘の別れ、母はただ号泣します。

ニューヨークへ向かう途中、東京での24時間のトランジットで、父と娘は8年ぶりの再会を果たします。

「少し太ったな、ダイエットしたほうがいいな。」

父は、何の意味もない、つまらぬことしか言えません。

あっという間の24時間、不法滞在者の父は空港まで送りに行くことができません。空港では身分の照会を求められることがあるからです。父は一つ手前の成田駅で電車を降ります。

一人電車に残る娘は号泣します。父もホームで泣いています。彼女は泣きながらスタッフに言いました。

「私、知ってるの。お父さんが心の底から私を愛してくれていることを。」

 

Tei-family4

 

それは、東京、上海、ニューヨーク、3人の離れ離れの生活の始まりでもありました。家族が信じる希望のために、父も母も働き続け、娘は勉学に励みます。その後、母は、異国で暮らす娘に会うために、アメリカに行こうとしますが、当時の国際環境の中で、これがなかなか実現できません。ビザが下りないのです。日本人からみるとピンとこないことですが、何年も何年も許可が下りないのです。

数年後ビザがとれて、母はアメリカに旅立ちます。東京でのトランジットは3日間です。10数年ぶりの夫婦の再会です。嬉しい時が流れますが、二人にとっては、わずかな時間に過ぎません。また、成田駅での別れが訪れることを、観ている私たちも知ってしまっています。切ない・・・・・

この別れのシーンで私の涙は、完全に尽きてしまいました。もう目からも鼻からも何も出ません。

 

  

それから数年後、娘は立派な医師になりました。丁さんは、東京での役割を終えます。妻の待つ上海へ帰る前に、丁さんは、あの北海道の阿寒町を訪れます。無事に家族の夢を果たせた後で、恨みごとの一つも言いたいだろうかと思いましたが、彼はこう言いました。

15年前日本に来た時、人生は哀しいものだと思った。人間は弱いものだと思った。でも、人生は捨てたものじゃない。」

日本という国に対しても、

「戦争に負けたあと、ここまで再生した日本の国の人たちに、私は学ぶべきことをたくさん教えられました。感謝しています。」

みたいなことを言われました。

中国には、こんなに優しくて、強くて、素晴らしい人が暮らしてるのだな。いままで少し違ったイメージを持ったこともありますが、ずいぶんと改まった気がしました。

 

そのことで思い出したことが一つ。

子どもの頃、神戸に住んでたんですけど、隣に大邸宅があって、李さんという中国の大家族が住んでたんです。僕と同年代の23女の兄弟姉妹がいて、よく遊びに行きました。ここのご主人は若い時に苦労して、日本で中華料理店を成功させた人だったんですが、ちょうど文化大革命のころ、中国に里帰りしたときに、行方不明になり、それから何年もたってから疲れ果てて戻ってこられました。そんなこともとっくに忘れていたころ、あの阪神淡路大震災が起きました。僕がかつて住んでいた町内は、古い町でほとんど倒壊してしまったんですが、この李さんの邸宅は鉄筋コンクリートで、壊れなかったんです。李さん一家は、周りの被災した人たちをみんな家に入れてくれて、ごはんを食べさせてくれたそうです。何日も何日も。その中にはうちの親戚の者もおりまして、大変助けられました。

この時も、中国の人のことを尊敬したのでした。

 

  

しかし、泣いた。

  

2009年12月11日 (金)

社員旅行キャンプ

Camp

私の勤めてる会社の話なんですが、ちょっと変わっていて、社員旅行に全員でキャンプをするんですね。昔はもうちょっと普通の社員旅行をやってたんですけど、海岸のロッジ風ホテルに泊まって、夜じゅう砂浜でキャンプやったりしたころから、だんだんその傾向が強くなってきたようで、最近では、去年も、この前も、約40名、南アルプスの渓谷で、まる2泊3日キャンプやって帰ってくるんですね。

何故そんなことになっているかというと、皆、存外これが好きだということもあるのですが、主にけん引している人が二人おります。うちの会社のリーダーというか、現場を束ねている中間管理職というか、普段からペースメーカー的存在である、仮にO君とW君とします。(別に匿名にすることもないんですけど、すぐわかるし)

O君は、少年時代から、バリバリのボーイスカウト出身で、いまでも世界中でキャンプをしていて、こういうことに関して大抵のことでは驚かない人で、アウトドアライフを本当に分かり、愛している人です。W君は、知る人ぞ知る転覆隊の隊員で・・・

転覆隊、若干の説明が必要ですが、サラリーマンたち(主に広告業界)で構成されたカヌーのクラブで、クラブという呼び方が適しているかどうかわからんのですが、普通のカヌー乗りが避けて通る激流ばかりにトライして、年中転覆ばかりを繰り返している隊なのです。ここの隊長という人が、私もよく知っている人なんですけど、転覆隊のことを本に書いたりしているのでご存知の方もあると思いますが、とてもかたぎとは思えないむちゃくちゃ向こう見ずな人なんです。この隊長に鍛えられているW君は、何というかけっこう野蛮なアウトドア派の人なのです。

この二人がリードするキャンプというのは、ある意味本格的でして、ある意味すごく面白いのですが、けっこうハードルが高いのです。

たとえば、2年続けて訪れている南アルプスのそのキャンプ場は、自然のままのとてもきれいなところですけど、私たち社員以外、誰もいません。洗い場と、トイレと、形ばかりのバンガローがあるのですが、それはそれは、何から何まで自分たちでやらねばなりません。キャンプなんだからそれはそうだろうと思うかもしれませんけど、キャンプにもいろいろなレベルがあって、あまり体験したことのない者にとっては、ものすごく新鮮な驚きがあります。いわゆる世間でいうところの社員旅行の、慰安とか、慰労とかいった意味あいは皆無です。全員、ひたすら、ただ働きます。楽しくはありますが。

現地に到着すると、テントを張り、椅子やテーブルを組み立て、屋根も付け、石で釜戸を作って、薪を運び、ある者は猪肉や鹿肉やキノコなど現地調達の食材を集めに走り、ある者は野菜の皮をむき刻み、食材の下ごしらえをし、ある者は火を起こして湯を沸かし見張り、やることは山のようにあります。準備ができたところでメインイベントのメシ作りです。何班にも分かれいろんなものを作りますが、40人分は結構時間がかかります。晩メシが出来上がったころには、心地よい疲労感漂う身体に酒が沁み渡ります。そしてこのメシが、異常にうまい。わけもなく楽しい。

さて、大宴会が始まりました。そこらへんで、すでに力尽きて倒れてしまった奴もいますが、気づくとまた蘇って飲んでおります。他に誰もいない谷あいに持ち込んだフル装備のオーディオ機器の大音響は、真夜中まで響き渡り、焚火の炎はえんえんと燃えさかって、いつまでも宴会は続きます。

やがて、つかの間の朝の静寂が訪れたかと思えば、どこからともなく朝飯の支度の火が起き始めます。皆、若く元気です。彼らの大半は、このあと弁当を持って、けっこうきつい山登りに出かけました。私はというと、何人かで、山をおりたところにあるサントリーのウイスキー蒸留所に出かけ、半日シングルモルトを飲んでおりました。

夕方、山登り組と近くの温泉で合流し、またキャンプ場に戻って、火をおこし、メシを作って、二晩目の大宴会が始まりました。その夜は、ぐっと冷え込み、火を大きくして、しこたま酒を飲みます。労働の後の酒は、またしても心地よくしみ渡っていきます。2日目は、その辺りで倒れている人数も増えております。昼間の激しい山登りを終えた社長は、早々にテントに沈みましたが、なおも大宴会は続くのです・・・朝まで。

しっかし、このエネルギーは何なんだろう。

私は、翌日早々に、この日東京で用事のある人たち数人を乗せて帰京しました。そして帰宅したあと、うちの犬たちと一緒に昼寝しました。爆睡でした。

一方、会社の若者たちは、あとかたずけをした後で、帰り道に富士急ハイランドによって、絶叫マシンに乗り倒し、絶叫しつくして帰ってきたそうです。

次の日が月曜日だというのに…

恐るべきエネルギー・・・・世の中の役に立てたいものです。

 

2009年10月 6日 (火)

舞阪の「シンコ」と気仙沼の「サンマ」

この夏に行った二つの小旅行の話です。一つは夏の初めにシンコを食べに静岡へ、一つは夏の終わりにサンマを食べに気仙沼へ。

メンバーは、私と、仕事の先輩であるKさんとYさんの3人。

ことの始まりは、いつだったかこの3人で飲んでいた時のことです。

私たちは、仕事柄、けっこういろいろなところを旅しているのですが、この国の中でも、まだまだ知らないところがあります。そこで、前々から気になっていて、まだ行ったことのない場所の話になりました。

その時、Kさんが熱く語ったのが、気仙沼でした。たしかに何かで読んだり、誰かから話を聞いたりしたことがありますが、3人とも行ったことがありません。いろいろ話していくうちに、だんだん盛り上がって、なんだか圧倒的に行ってみたくなりました。

よしっ、いつ行くか決めようということになり、話は一気にまとまり、夏の終わりに行くことになりました。こういうことをたくらんでいる時は、みな子供の顔になります。

Kさんは、ごきげんで演歌を口ずさんでいました。

♪港――ぉ、宮古、釜石―――ぃ、気仙沼――――っと。♪

森進一の港町ブルースでした。

後日、Kさんから気仙沼の資料を渡されました。この人はもともとが企画マンのせいか、いろんな資料がでてきます。いつからためていたのか雑誌などの記事がたくさんあります。三陸のリアス式海岸に位置する漁港の風景、海沿いの単線を走るディーゼル列車、そして、港に上がる海の幸の様々、ホヤ、緋衣エビ、カキ、フカヒレ、カツオ、キンキ、サンマ等々、ナマものあり、焼き物あり、なかでも「福よし」という老舗の居酒屋で、秘伝の炭火遠赤外線焼きのサンマの写真は絶品でありました。なるほど、よい資料です。

この資料のなかに、紛れ込むように入っていたのが、静岡の舞阪の「シンコ」の資料でした。Kさんに聞くと、

「これは別企画なんだよ。初夏の企画ね。」

などとニコニコおっしゃる。

これも、読むと面白いんですね。シンコとは、コハダの稚魚で、築地に来る寿司屋さんたちが、初夏に初物を心待ちにしているのが、浜名湖「舞浜のシンコ」なのだそうです。そんな中、地元でただ一人、舞阪のシンコにこだわっている寿司職人がいるというのです。シンコのにぎり寿司は、初水揚げのときは、まだ本当に小さくて、12枚から10枚づけでにぎるそうです。だんだん大きくなるにつれ、8枚、6枚、4枚となっていきます。何枚づけが食べられるのか、急いで電話をしてみました。6月のはじめでした。

「今年はまだ上がってませんね。漁師さんの話では、去年より少し遅くなりそうで、7月のはじめからですかね。」

と御主人。

かくして夏の小旅行企画は、いつの間にか夏の初めと終わりの2企画となりました。

ここから、地元と連絡を取りながら、スケジュールを立て、移動手段を決め、宿泊場所を選んで、どこで何を食べるかをセッティングするのは、私の仕事です。昔、3人で仕事をして、ロケハンやロケに行った時も、それは私の仕事でした。みんなしておっさんになっても、その役割は変わらないのです。相変わらず、私は最年少です。

やはり、たしかな企画をもとに、リサーチを徹底すると、すばらしい出会いが訪れます。

それぞれ、一泊と二泊の幸せな小旅行となりました。

晩夏の気仙沼を満喫した夜のスナック、3人で、あの「港町ブルース」を唄いました。一番から六番までを唄いながら、Kさんのこの企画は、まだまだ続くのだなと思いました。

一、背のびして見る海峡を

今日も汽笛が遠ざかる

あなたにあげた夜をかえして

港 港函館 通り雨

二、流す涙で割る酒は

だました男の味がする

あなたの影をひきずりながら

港 宮古 釜石 気仙沼

三、出船 入船 別れ船

あなた乗せない帰り船

うしろ姿も他人のそら似

港 三崎 焼津に 御前崎

四、別れりゃ三月待ちわびる

女心のやるせなさ

明日はいらない今夜がほしい

港 高知 高松 八幡浜 3nintabi_6

五、呼んでとどかぬ人の名を

こぼれた酒と指で書く

海に涙のああ愚痴ばかり

港 別府 長崎 枕崎

六、女心の残り火は

燃えて身をやく桜島

ここは鹿児島 旅路の果てか

港 港町ブルースよ

2009年8月19日 (水)

クリントと鶴田さん

ことしの春先のある夜、友人から留守番電話が入っておりました。

けっこう酔っ払った声で、

『君は「グラン・トリノ」をみたか? まだならば、是非みるべきである。』

というようなメッセージでした。

クリント・イーストウッド監督のその映画の上映が始まって間もない頃だったと思います。

クリント・イーストウッド監督の映画は、たしか全部みています。何故かいつも引き込まれるようにみてしまいます。どの映画も、ただ面白い楽しい映画ではありません。むしろどちらかといえば、つらい映画です。でも、このクリントというおじいさんに、映画という手法で語られてしまうと、たしかにつらい話だけど、ただそれだけじゃない人生の深さみたいなものを感じてしまいます。なんだか、この人生の達人のようなおじいさんの話は、やっぱ聞いとかなきゃみたいに思ってしまうのです。

Clint_7 この人のことを、少し身近に感じていることもあると思います。べつに知り合いではないのですが、僕が子供のころに「ローハイド」というTVドラマにずっと出ていて、その後、イタリアに行って、「荒野の用心棒」とかで、マカロニウエスタンのスターになって、ハリウッドに戻って、「ダーティーハリー」で成功して、ほんとの大スターになってからも、監督としてよい仕事をし続けている人です。青年時代からおじいさんになるまで、ずっと知っているせいかもしれません。

「グラン・トリノ」は、久しぶりに監督兼、主演でした。友人が云ったように、是非みるべき映画でした。映画が終わっても、ほとんどの人が席を立ちませんでした。クレジットが流れる中、すすり泣きも聞こえました。またしても、悲しくて深い映画だったのです。

しばらくして、この友人と他何人かで、「グラン・トリノ」を語る飲み会をやりました。良い映画を題材にするだけで、飲み会は、ちょっといい飲み会になります。

この席で、私はひとつこの友人に確認したいことがありました。

「クリント・イーストウッドが演ってたコワルスキーって人、吉岡司令補とダブらなかった?」

彼も思いあたっていたようで、「そうなんだよ、そうだよな。」と言いました。

この吉岡司令補というのは、昔、NHKの「男たちの旅路」というドラマで鶴田浩二さんが演じていた役名です。私もこの友人も、このドラマのファンだったし、何度となくそのことを語ってきたので、吉岡司令補といっただけで、お互いわかってしまうのです。

吉岡さんという人は、警備会社でガードマンをしていて司令補という役職なのですが、実は、特攻隊の生き残りで、過去の戦争体験を忘れることができず、死んでいった戦友のことを想い、戦後30年経った現代の若者のことが大嫌いな、すごく偏屈な中年として描かれています。

コワルスキーさんも、朝鮮戦争に従軍した経験を持ち、ジェネレーションのちがう人のことを全く受け入れようとしない偏屈なジジイとして描かれています。

二人とも、あるきっかけで若い人とふれあい、お互い相容れないけれど、少しずつ理解し、一緒に現実の社会にかかわっていくあたりが、どちらの話も構造的に似ています。

クリント・イーストウッドは、監督としてはじめてこの脚本を読んだときに、瞬間的に自分がコワルスキーを演じることを決めたそうです。

30年前に放送された「男たちの旅路」は、山田太一さんのオリジナル脚本ですが、そもそも鶴田浩二さん主演のドラマをというNHKからの依頼がはじまりでした。

二人が始めて会った時に、鶴田さんが語った戦争体験や、戦後30年経った当時の世の中に対する彼のおもいなどをもとに、山田さんが書いたのがこの脚本だったのだそうです。

そして、クリントは、朝鮮戦争では、軍用機の事故で戦地には行かなかったものの、20歳で陸軍に召集されており、鶴田さんは、21歳のときに特攻隊で太平洋戦争の終結を迎えています。

Turutasan_2  30年の時差はありますが、何か成り立ちが似ている2本の作品です。

「男たちの旅路」が放送されたころ、私たちはまさに吉岡司令補が大嫌いな戦後の若者でした。その若者がおっさんになったころに、われらのクリントがこんな映画をみせてくれました。この飲み会で私の横にすわって語っていた若者は、30年前、ただの幼児でした。

この若者が、いま私の「男たちの旅路」DVD5巻をみているところです。

またいい飲み会ができそうです。

終戦記念日のニュースを見ながら、この二つの作品のことをおもいました。

直接戦争を描いているわけではありませんが、かつて戦争を体験した二人の男の物語です。

2009年5月 1日 (金)

「ありふれた奇跡」と「早春スケッチブック」

3月に、「ありふれた奇跡」というテレビドラマが終わりました。毎週1時間、11話完結でした。全部録画して、先日まとめてみたのですが、期待したとおり、いいドラマでした。

これといって派手なことは何も起こらないのに、常に次の回が気になってしまう展開で、完全にはまってしまいました。気がつくと最終回には泣いておりました。

なぜ、全部を録画したかというと、それが山田太一さんの脚本であったことと、山田さんが、これを最後にもう連続ドラマは書かないと宣言したと聞いたからです。山田さんは、僕らが高校生のころ、いわゆる70年代から、今まで、本当に数々のテレビドラマの名作を書いてこられた脚本家なのです。

「ありふれた奇跡」には、ある男女が出会ってから結ばれるまでのお話と、並行してそれぞれの家族が描かれています。淡々と日常を追いかけているのですが、登場人物たちの設定のリアリティと、彼らが交わす台詞の力にぐいぐい引っ張りこまれてしまいます。

山田さんが最もシナリオを書いたであろう70年代から90年代にかけては、たくさんの名作が残されています。「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、テレビドラマの歴史を変えたといわれるようなものも、このころ書かれています。

そのころ、私はというと、若くて忙しいころでもあり、これらの作品が放送されたときに、テレビの前に座っていることは、ほとんどありませんでした。当時は、ビデオ機器も持っておらず、たいてい見過ごしておりました。

ただそのころ、テレビドラマの名作の脚本は、わりと本として出版されていたので、本屋さんに並んだものは、はしから買って読んでいました。山田さんだけでなく、向田さんや、倉本さんや、早坂さんの脚本もずいぶん出版されました。脚本には配役も全部載っていましたから、いろいろなシーンを映像として想像しながら読むのは、なかなか面白かったです。

それと同時に、何と言ったらよいか、この完成度の高い、ものすごい精度で書かれた設計図のようなシナリオを渡された、役者もスタッフも相当なプレッシャーを感じただろうなと思いました。

昨年、会社の後輩のプロデューサーが私に、

『山田太一さんの「早春スケッチブック」は、みましたか。』と聞くので、

『みてないけど、読んでる。あれは名作や。』と答えましたところ、彼女が、

DVD化されたので、全巻買ってみましたが、すばらしかったです。ご覧になりますか。』

といいました。

『君は、すばらしい人です。是非、貸してください、全部。』

みせていただきました、全部。

『早春スケッチブック』は、1983年に、フジテレビで放送されています。

登場人物は、郊外に住む4人家族、夫婦と高校生の息子と中学生の娘、それと、妻の昔の恋人と、彼を慕う女性が一人。ほとんどこの人たちだけで、13話も持ってしまうお話になっています。当時脚本を読んで、本当に強く印象に残っていて、機会があれば是非ドラマをみたいと思ってましたが、二十数年経ってみたドラマは、いろんな意味でほんとによくできていました。

配役も、それぞれ良いのです。

昔ちょっとわけありだけど、今は平凡な主婦に岩下志麻さん、信用金庫に勤める夫に河原崎長一郎さん、大学受験生の息子に鶴見辰吾さん、問題の、妻の元恋人に山崎努さん、山田さんは、この役は完全に山崎さんを想定して脚本を書いたといわれていたと思いますが、確かに、ほかに誰がこの役をできるのだろうかとも思います。その山崎さんを慕う若い女性に、新人時代の樋口可南子さん、これもいいです。

ただ、脚本が面白くなければ、いい役者も生きないし、ドラマも面白くなりようがないのは確かです。

うちの高校生の娘が、DVDを横でみていて、

『岩下志麻さんて、こういう主婦の役とかもやってたんだ。それにしてもうまいね。』

などと感心しておりました。極道の妻しか知らないのかもしれません。なさけない。

山田さんが、もう連続ドラマを描かないといった心情を語っておられます。

『もう連続ドラマは描かないと決めたのは、時代の変化を感じたからです。やはり連続ドラマにも時代の流れがあり、ある時ふと「自分は違うかな」と思った。1人の作家が、どの時代にも適応していくのは、むしろみっともないことのようにも思えたんです。流れから外れるからこそ作家であるという気持ちもありました。』

そうかもしれません。おっしゃっていることは本当に深いと思います。

でも、久しぶりに見せていただいた連続ドラマは、「早春スケッチブック」のころと変わらぬ作家としての姿勢を感じました。その姿勢に私たちは打たれていたと思います。その姿勢を感じる脚本家を他に知りません。どうかまた近いうちに、次の連続テレビドラマをみせていただきたいとつくづく思ったのでした。

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2009年2月19日 (木)

市川さんへ

Ichikawasan_4    市川さん、何と云ったらよいのか・・・

私は、市川さんが昨年9月に、すでにこの世からおさらばされたことが、

未だに信じられずにいます。

このところ、ご無沙汰していたこともありますが、

テレビには、相変わらず市川さんが作ったCMがたくさん流れていますし、

お見かけしないときは、また映画の撮影をしたり、編集をしたり、企画をしたり、

脚本を書いたりされているのだろうなと思っておりましたから、

なかなか実感がわかないのであります。

12月には、ものすごくたくさんの方がお集まりになって、

椿山荘で「お別れの会」が開かれましたが、

映画市川組のメインスタッフの方々が、ズラッと並んであいさつをされている風景は、

何か大きな映画の賞を受賞されたお祝いのパーティーと、錯覚してしまいそうでした。

市川さんの大好きなスイトピーに包まれた遺影は、良い顔をされてましたね。

盟友のカメラマン、広川さんが撮られた写真でした。さすがです。

そういえば、昔、市川さんの映画に、ある役の遺影で出演させていただいたことを思い出しました。今となっては、ただ懐かしい思い出です。

年末に、遺作となった「buy a suit スーツを買う」を観せていただく機会を得ました。

市川さんが逝ってしまわれたあと、仕上げの途中だった映画を完成させた助監督の方と、

主演女優さんと、市川さんの事務所の方と一緒に観ることができました。

そのあと、みんなで晩御飯を食べながら、ずっと市川さんの話をしていたら、

市川さんはほんとに、もういらっしゃらないんだなという気がしてきて、哀しかったです。

buy a suit スーツを買う」は、とてもよい映画でした。

映像表現に、今までにない新しい試みがあふれていました。

きわめて実験的だけど、それでいて市川さんの映画のトーンが、守られています。

心に残る映画でした。

新しい手法を発明して、それに手ごたえを感じながら、映画監督としてワクワクしながらこの映画を作ってたんだろうな。

皆さんの話を聞いていて、そのことがとてもよくわかりました。

新しい仕事に、CMでも映画でも、いつも貪欲で、寝る時間がなくなっても、

何より楽しそうにものを作る人でした。

勇気づけられました。たくさん助けてもらいました。教えてもらいました。

同じ時代に、同じ業界に、いられたこと、、

CMも映画も、市川さんの仕事に少しかかわれたこと、うれしかったです。

いつか、そちらでお会いできたら、また付き合ってくださいね。

市川準監督 追悼上映 3/21(土)~27(金) 渋谷ユーロスペース

http://d.hatena.ne.jp/ijoffice/

2008年12月19日 (金)

マリンの出産

暮れも押し迫って、何かとあわただしい12月のとある日、愛犬マリンに子が生まれました。

マリンは4歳のトイプードルです。男の子一匹を出産したのですが、これが大変でした。大変だったのはマリンなのですが、私たち人間も、家族全員で徹夜になりました。

というのも、思いの外の難産だったからです。犬印の腹帯は、安産の印で、犬はいつでも安産などという例え話は、大きな間違いだということがわかりました。犬を飼っている知り合い何人かにも聞きましたが、わりとみんな安産ではなかったといっていました。やはり、野山を走り回ってた頃の犬とは違い、都会のマンション暮らしのワンちゃんたちは、事情が違ってきてるのだろうと思います。運動不足なんですね、きっと。

数日前から、インターネットで、犬のお産の記事を読み、ブリーダーさんにも獣医さんにも相談して準備を始めました。家族の中でもっとも熱心なのは妻です。やはり唯一の出産経験者だからでしょうか。私などはつい数日前まで、「えっ、うちで産むんだ。」「産婦人科じゃないんだ。」とか言って、ひんしゅくを買っておりました。

その日はいわゆる予定日で、早めに帰宅しました。晩御飯を食べたあとあたりから、陣痛が始まりました。昼間より夜間出産することのほうが、圧倒的に多いそうです。はじめは、落ち着きがなくなって、家の中を歩き回りながら鳴くようになり、お産用のダンボール箱に入っている時間がだんだん長くなってきます。それからは、時々苦しそうにするので、さすってやります。そうこうしているうちに、夜中になったのですが、まだ産まれる気配はありません。予習した知識では、とっくに深めの陣痛がはじまってるころなのですが・・・・

夜中も3時を過ぎ、家族全員で不安になったので、担当獣医さんに電話をしました。留守番電話です。この獣医さん、この界隈ではちょっと有名な獣医さんで、なんて言ったらいいか、サービス業的なところがまったくないというか、診療所もきれいじゃないし、連絡もなかなかつかないし、基本的に愛想がないし、しゃべると横柄な感じだし、近所では「赤ひげ」とあだ名をつけられたりしてるんです。ただ、腕はいいんですね、これが。

まあ、案の定連絡が取れないんです、やっぱり。

相当不安になっていた午前4時頃、何の前触れもなく突然ピンポンがなって、赤ひげがあらわれました。陣痛が深くなって産まれやすくする処置をテキパキやってくれました。

「これで明け方までに産まれるといいがなあ、ガハハハハッ」とかいいながら赤ひげは去っていったのですが、確かにその後からマリンは深く苦しみ始めます。

でも、産まれないんです夜が明けても。

家族全員で励ましながら、かなり衰弱しているのがわかります。相当心配になって7時半頃また赤ひげに電話をしました。やっぱり留守番電話のままで連絡が取れません。しばらくいらいらした頃、突然、赤ひげから電話がかかりました。いつも突然なんだよなあと思いつつ、声を聞いたときは、地獄に仏でした。

「そうかあ、産まれないかあ。すぐ連れに行くから家の前で待っとくように。」

電話を切って、マリンを抱いて家の前に出たら、もう赤ひげの車は停まっていました。

まったくこの人、遅いんだか早いんだか。

私たち家族は、ただ、ただ、マリンの安否が心配でした。

徹夜明けのまま出社した私に、夕方妻から連絡があり、帝王切開で手術をおこなったこと、胎児が産道に引っかかってかなり危険だったこと、でも、母子ともに助かり、さっき赤ひげと帰ってきたこと、赤ひげが一部始終を、鼻の穴を膨らまして語ったことなどを、おしえてくれました。

帰宅すると、麻酔でぐったりしたマリンと、ティッシュの箱にホカロンといっしょに入れられた120gの息子がいました。

ここで聞いた話が、かなり心配な話でした。

つまり、帝王切開を受けた母犬は、自然分娩した犬に比べて、子供を産んだ実感をもてないことがあり、まして大手術で消耗しきっている上に、麻酔も残っているので、子供を近づけたときに、噛み付いたりすることがあるというのです。げんに病院で近づけたときには、払いのけたそうで、もしも噛み付いたりしたら、120gの命はひとたまりもありません。

それじゃ近づけなきゃいいのかというと、それもだめで、離したままにしとくと育児放棄につながるというのです。

この親子対面の儀式は、私がやることになりました。妻はいろいろあって疲れきっているし、子供はマリンを抑える自信がないし、だいたい子供二人とも期末テストの真っ最中で、昨日のお産の徹夜で、今日受けた教科は完全玉砕したとか言ってるので、はやく勉強しろっちゅう感じなのです。

緊張しました。4年間いっしょに暮らしたマリンは、疲れ切っていて今まで見たことのない顔つきになっており、全然別の人格(犬格)になってしまってます。

まず右手でマリンの口を押さえて、左手に120gをのせて近づけます。まったく母親のリアクションはありません。だんだん臭いを嗅ぐ仕草をしますが、すぐ関心を失ったかのようになります。ころあいを見計らって、口を押さえている右手をそっとはずしてみますが、なめようとはしません。だんだん顎の下に置く時間を長くします。1時間ほどしたときに、ちょっとなめました。ちょっとしてもう一度なめました。そして、ついに、自分の前足で抱いてペロペロペロペロ、なめたんです。なんだか昨夜からのことが走馬灯のようにめぐりました。涙がポロポロでました。おっさん久しぶりに泣いた。

「えらかったなあ、マリン。」  何度も言ってました。

それから母犬は、自分の体力の回復もそこそこに、かいがいしく子の世話を続けました。

その後、少し落ち着いたときに妻が言いました。

「マリンも、一人で産んで、一人で育ててるんだね。」

確かに、そこに父犬はいません。自らの子育てを思い出しているようでした。Marin_2

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