2011年5月20日 (金)

映画「チコと鮫」 再会

Tiko and the shark

「チコと鮫」という映画があるんですけど、1962年の制作となってるので、日本で公開されたのがその翌年くらいで、私は9歳の時に見たことになります。少年だった私はこれ見てえらく感動してるんですね。せがんで2回見たような気がします。

何故そんなに感動したのか。なんとなくのストーリーといくつかの印象に残ったシーンは覚えているのですが、だんだんと記憶は遠ざかっていきます。大人になってからも、ほぼリバイバル上映はされてないし、ビデオとかDVDを探しても、これだけは見つかりません。インターネットの時代になって、何度も検索してみましたがやっぱりダメです。

いつしか飲み屋とかで、も一度見たい映画の話になるたびに、「チコと鮫」が、みたい みたい みたい、というのが癖になっておりました。まして、人間、見れないとわかったとたんに、どうしても見たくなるということもあり。

そして、去年、またある飲み屋で、その話になったと思います。その時いっしょに飲んでいたのは、Nヤマサチコさんという私の長い友達で、同世代でもあり、「チコと鮫」のこともよく知っていました。というか、この人は本当にいろんなことを、正しくよく知っている人でして、この人のブログを読んでるだけで、かなりためになったりするのです。

その翌日だったと思いますが、サチコさんからメールがきまして、「チコと鮫」の1シーンが、YouTubeで見れることと、そのアドレスを知らせてくださいました。

約50年ぶりのチコとの再会です。そのシーンは、主人公のチコと鮫が初めて出会うシーンでした。

この映画の舞台は、自然豊かなタヒチです。少年チコは、海岸に迷いこんできた人食い鮫の子供を助けてやり、育てます。やがて成長した鮫はチコの前から姿を消し、それから10年後、たくましい若者となったチコは、海底で5メートルにもなったその鮫と再会します。

しかし、チコと鮫の暮らすタヒチには、だんだんと文明の波が押しよせ、かつての暮らしが失われていく中、いろいろなことが起き、チコは美しく成長した幼なじみのディアーラと鮫を連れ、平和に暮らせる島を求めてタヒチの波間に消えていくのでした。

だいたいこんなお話だったなと、少しずつ思い出すにつれ、ますますその映画を見たくなりました。

それから約1ヶ月後のある日、Nヤマサチコさんより小包が届きます。開けてびっくり、なんとそれは、“Tiko and the SHARK”と書かれたDVDでした。やったあああ・・・・

急ぎサチコさんに感謝のメールを送り、ワクワクしながらDVDプレーヤーにDVDをセットしました。

でも、ところが、うんともすんとも云わんのですこれが。そうかあ、この映画はイタリアとアメリカの合作ということだから、イタリア製DVDだとPAL方式かもなと思いいたり、そのあたりに詳しそうなわが社の社員に相談しました。(わが社は一応映像関係の会社なので) そこで、しばらくいろいろやってみてくれたんですが、わが社の機材では全く太刀打ちできぬことが判明し、専門の業者さんに判定していただくことにしました。そうこうしておるうちに、あの大地震に見舞われ、みんなそれどころではなくなってしまいました。

それから2ヶ月ほどたった数日前、このことをちゃんと覚えていて下さったポスプロの方から、きちんと日本の方式に変換された「チコと鮫」が届きました。

ああ、やっと会うことができました。みなさんほんとにありがとう。

一人でじっくり見ました。子供のころの記憶というのはたいしたもので、シーンによってはかなり正しく覚えていたりしますが、まったく違っていることもあります。だいたい、思い出していた時の映像というのは、眩いばかりのタヒチの光がキラキラした総天然色でしたが、映画にその色はありませんでした。モノクロの画全体に、セピアのフィルターを掛けているようで、人の肌はカラーに見えますが、よく見ると海も空もセピア色でした。多分、私がそのあとに見たいろいろな映画や風景の色が、私の記憶の「チコと鮫」に着色したのでしょう。

音声の言葉はすべて英語でした。アフレコだと思います。9歳の私が見たときには、字幕が入ってたと思いますが、小さい時から字幕の映画には慣れていたので、当時でもかなりの部分は理解できたはずです。それに、すごく簡単なお話ですし。

このDVDを見ながら、9歳の私がこの映画の何に感動していたか、少しずつ分かってきました。この映画、水中撮影がすごく上手なんですね。当時まだろくに泳げなかった自分にとって、水中を鮫と一緒に飛ぶように泳ぐ同年代のチコに憧れたのと、そして見たこともなかった南の島の風景に触れたこと。そして、成長したチコのガールフレンドのディアーラが美人でタイプだったことなどです。

いやはや、約50年の時を経て、得難い体験をしました。

 

実は、もう一本どうしてもビデオやDVDで見ることのできぬ映画がありまして、それは、1968年に公開された「黒部の太陽」という映画です。

14歳の私がめちゃめちゃ感動した映画でして、これを見たばかりに土木工学科に進学してしまったという曰くまでついております。

「黒部の太陽」に主演し、制作も手掛けた石原裕次郎さんは、ことのほかこの映画に思い入れが強く、この映画を映画館以外でかけることを許しませんでした。つまりビデオ化はありえません。1987年に52歳の若さで亡くなった後も、その遺志は石原プロモーションの社員たちに継がれ、未だ、ビデオDVD化はされておりません。

というような事情で、これもかれこれ40数年間見れておりません。YouTubeで予告編だけは見れますが。

 

ところが先日、石原プロモーション社長の渡哲也氏退任のニュースの時、2年後の会社創立50周年に合わせて「黒部の太陽」のDVD化の検討が始まったという情報が得られました。

これは朗報でした。DVDを鑑賞してまた熱く語り合いたいものです。Nヤマサチコさんは、黒部ダムのこともめっぽうお詳しいのですよ。

 

 

 

2011年4月27日 (水)

今 考えるべきこと やるべきこと

3月11日、14:45頃。未曽有の大災害。

一生忘れることのできぬ出来事。

会社の建物は全員が避難せねばならぬほど揺れ、一切の通信機能は麻痺し、呆然とするうちテレビに映し出されたのは、見たこともない津波の映像でした。誰も声を発することもできません。すべての電車は不通となり、東北地方の状況もつかめぬまま、翌日には福島第一原発爆発の一報。日本に人員を派遣している海外の法人からは、一斉に帰国命令が出されました。国内の報道では、ずいぶんと後になってから爆発後の原発の映像が流されましたが、外国ではとっくにみんな見ていたようでした。

福島第一原発は、いまだ危機を脱してはおらず、深刻な状況が続いています。おそらく解決には何10年もかかると言われ…

そして、現在も犠牲者の数は増え続け、13万の人々が避難生活を強いられています。

まさに国難。普段、国ということを特別に意識することはあまりないけれど、こんな時、やはり同じ国の人としてどうすべきか、深く考えてしまいます。今、国民一人一人が自分に何ができるかを、自らに問わねばならぬ時です。

四季の美しいこの国に、自然は大変な試練を与えました。しかしながら、この大きな天災の後に起きた原発の事故は、本当に防ぐことが出来なかったのだろうか、と思います。

あれから毎日報道される現場からの情報や、あまりに心配になって調べた参考資料に触れるにつけ、気がつけばこの地震大国には、55基もの原発が稼働しており、これからも建設中、計画中のものが、10基以上あるということ。そして今回のような事故が起きてしまうと、世界中の専門家がよってたかって命がけで取り組んでも、解決に要する時間は何10年、その間、はかりしれぬ放射能汚染にさらされるということ。どう考えても、今も刻々と汚染は進行しています。

こうなってくると、福島と同じように早い時期に建てられた、浜岡原子力発電所などは、多くの人口を抱える大都市、東京や名古屋などの喉元に突き付けられた匕首のようにさえ感じられます。

いつの間にこんなことになっていたのか。でもそれは私たち大人一人一人の責任なのですよ。より多くの電気を求める生活。一世帯当たりの電力消費量は、1970年の3倍近くになってるそうです。思えば子供の頃、一般家庭に電化の波が広がり、洗濯機でも冷蔵庫でも昔は頭に「電気」と付いていました。いつしかそれが消えたのは、電気が空気のような存在になってからでしょう。冬は寒く、夏は暑いもの、その道理にあらがう利器エアコンは、家庭電力消費の25%に、暗い夜を明るくする照明には16%が費やされています。何の気兼ねなく電気が使える暮らしが手に入っていました。でもそれは、ものすごく大きなリスクとの引き換えだったのです。

いっせいに節電を始めた暗い東京で思ったのは、なんだか懐かしい暗さというか、子供の頃、夜の街の風景ってこんな感じだったな、ヨーロッパの街もけっこうこんな風だったなとか。無意識のうちに私達は、むしろ電気を過剰摂取していたんじゃなかろか、と。

現在、私達が使う電力の約30%は原子力発電によるものだそうです。1970年代に、2度の石油ショックを経験し、石油への依存を減らすうえで、原子力発電が大きく浮上しました。ダムによる環境破壊も、世界的なCO2の問題も、それを後押ししました。日本は原子力発電に積極的に取り組み、原子力発電先進国と云われたりしておりました。でもその陰で、原子力というものの危うさを訴え続けていた技術者の方たちがいたことも事実です。先の大戦で唯一の被曝国となったつらい体験が、残念ながら原子力発電の推進に生かされていなかったかもしれません。悔しいです。

誰かに責任を取れと言っても始まりません。というか、責任を取れる人はいないんです。悲しいかな。テレビを見ていても判ります。なさけないですが。

それより、将来これ以上ひどいことが起きないように、いま、何をしておくべきかを真剣に考えることが大事です。またきっと地震は起きます、この国は。それを止めることができないとしたら、大きな犠牲を伴ったこの経験を教訓として、未来に備えるしかありません。そのことを今始めなければ、我々は後世の人たちにも犠牲となった方々にも顔向けできません。

人間は、電気を得るために、結果的にはさまざまの自然破壊を繰り返し、そして自らも傷つきました。ただ、文明の象徴である電気を、もう捨てることはできません。これから我々は、電気をどうコントロールして、どう折り合いを付けていくのか。

 

ほんとの意味で 「足るを知る」 とはどういうことなのか、課題は山積しています。

 Urakasumi

2011年3月10日 (木)

僕の尊敬する植木さん

会社で席替えがあって、荷物を整理していたら、そん中に何年か前に取ってあった新聞の記事が出てきました。なんだっけと思って読んでいたら、だんだん思い出しました。これ、読んで泣いたやつだ。ついつい手を休めてまた読んでしまいました。なかなか片付けがはかどらないのはこういうことしてるからなんですが。

それは、コメディアンの小松政夫さんが、師匠である植木等さんの思い出を語った記事でした。

植木等さんといえば、私が小学校3年生の時に、授業で『私が尊敬する人』という作文を書いた時に、迷うことなく選んだ人でした。

思い出すだに、当時のクレージーキャッツの人気はものすごくて、それこそ、TVに映画にCMにレコードに大活躍。コメディアンとして相当に面白かったんだけど、ちゃんとしたジャズバンドとしても成立しているというところもなんとなくかっこよくて、大人にも子供にも人気があって、日曜日の夕方6:30から始まる「シャボン玉ホリデー」は、どんなことがあっても必ず見る番組でした。

そのクレージーキャッツのメンバーは7人いて、みんなそれぞれに個性があって面白かったんですが、グループを代表するスターは、やはり植木等さんでした。

この人が繰り出す数々のギャグも、映画の中の無責任男のキャラクターも、

そして、彼が歌う唄の歌詞も、大好きでした。

こんな感じです。

 

♪ ぜにのない奴ぁ 俺んとこへこい

  俺もないけど 心配すんなUeki-san2

  みろよ青い空 白い雲

  そのうちなんとかなるだろう ♪ とか

 

♪ 人生で大事なことは

  タイミングに C調に 無責任

  とかくこの世は 無責任

  コツコツやる奴ぁ

  ごくろうさん  ♪  など

 

当時、まじめにこつこつ働いてた日本人も、高度経済成長に振り回されて少し参っていた日本人も、ほんとに励まされていたと思います。

 

植木さんが亡くなった2007年に、『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』という本が出ました。すぐに買って読みました。あんな大スターだったのに、評伝として出版された本はこれだけです。それまでに来た出版の企画は、すべて断っていたそうです。

これを読むと、ほんとに尊敬すべき素敵な人だったことがわかります。

演じるキャラクターとは違い、堅実な人であったこと。グループの中でみんなから愛され、まとめ役だったこと。売れに売れた頃、進むべき進路に悩んでいたこと。お酒は1滴も飲めず、質素な暮らしぶりだったこと。破天荒な生き方をしたお父さんを愛していたことなどが書かれています。

この本の中にも、当然 小松政夫さんが出てきます。弟子と師匠として関わった小松さんの話に、植木さんの人柄がにじみ出ています。

 

役者を志望して、19歳の時に福岡から上京した小松さんは、様々な仕事を経て車のセールスマンをしていました。ある時、植木等さんの運転手募集の記事を見つけ、600人の応募者の中から勝ちのこり、付き人兼運転手になりました。そして、小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが過労のためダウンして入院していた病室でした。

 

小松談

ものすごく二枚目でした。いつもテレビで見ていた時の声じゃなく、もっと低いキーで、

「植木です」 って言って、

「この世界に入るのに、何の抵抗もないの?」 というようなことを訊かれました。

しゃっちょこばっている僕を見て、

「俺のこと、何と呼ぶようにしようか」 って言った後、

「先生なんて呼んだら張り倒すよ」 って。

その時、「ああ、植木等なんだ」 って、やっと思ったんです。

緊張をほぐしてくれたんです。それから真面目な顔になって、

「君はお父さんを早く亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」 と言ったんです。

その時に思ったんです。ああ、この人についていこう、生涯ついていこうって。

 

それから半年ぐらいで、小松さんは小さな役をいろいろ貰うようになり、ハナ肇さんからも、チャンスをもらい始めました。

その頃に、植木さんの有名なギャグ「お呼びでない、こりゃ、また失礼いたしました」は、小松さんが植木さんの出番を間違えて生まれたというエピソードがありました。

 

小松談

うそなんですよ。植木の思いやりですよ。私がセールスマンだった時に、あのギャグはすでにやってました。

「出番じゃないとリラックスしていたら、小松がねえ、何やってんですか、とせっついた。飛び出したら、ハテナという顔をみんなしてるから、できたギャグ」と、どこでも言うんです。

「こいつは面白いよ、使ってやって」とも。

あの聡明な植木が、間違えるはずがない。私の手柄にしてやろうと思いついたに違いない。

後に、奥さんには、

「小松が育ったのが、誇りだったのよ」と言われました。

 

3年10カ月経って、植木さんの付き人を卒業した時の話が、またいいです。

 

小松談

そうです。車を運転していて、突然後ろから言われたんです。

「明日から、来なくていい」 って。

青天の霹靂でした。私の独立にむけて、給料もマネージャーも決めてあった。

「社長も大賛成だと言ってる。だから、明日からは俺の所に来なくていいんだ」 って。

涙で前が見えなくなり、車を止めさせてもらって、声を出して泣きました。

・・・・・

何分くらい泣いてたのかな。その間、ずっと黙って待っていてくれて、

しばらくして、

「別に急がないけど、そろそろ行くか」 って。

僕は我に返って、「はい」 って言って車を出したんです。

粋だったですね、やることが。

 

 

私が小学校3年生の時の作文で、、尊敬する人に、植木等さんを選んだことは、本当に間違ってなかったと思ったのでした。つくづく。

 

何でもいいから一度お会いしたかったです。

 

谷啓さんとは、一度仕事でお会いしました。音楽を作ってくださったんです。

これはホントに嬉しかったです。

録音中、得意の「おや?」というギャグをやってくださいました。しびれたなあ。

 

 

2011年1月28日 (金)

○○語録

最近ツイッターに少し参加し始めて、それはそれで面白いのですけど、ツラツラ読んでいると、時々いろんな名言とか語録が出てきて楽しめます。

確かに、これらは、文章の長さも内容も、けっこうツイッター向きで、つい読んでしまいます。

たまたま読んだ名言集は、古今東西の作家や学者から、松下幸之助・本田宗一郎はもとより、孟子・法然上人・マザーテレサから、大山倍達・ボビージョーンズ・千代の富士まで、ありとあらゆるジャンルから集められています。語録で出ていたのは、寅さん語録に長嶋語録、これもなかなかです。ついでに、語録といわれるものには、どのようなものがあるのかを、インターネットで調べてみますと。

あります、あります。ご存知、毛沢東語録から、坂本龍馬語録、山本五十六語録。イチロー語録に、アントニオ猪木語録、キングカズ語録、オシム語録、はたまた、松岡修造語録に、桃井かおり語録と・・・

ためになるもの、おもしろいもの、笑えるものと、いろいろですが、その中で最高に嬉しいのは、やはり長嶋茂雄語録でしょう。Nagashima2

 

この方は、プロ野球史上、もっとも有名な人です。選手時代はスーパースターで、日本中の誰もが彼を知っていました。そして、何よりも彼はファンから本当に愛されていました。彼の発言は、メディアを通していつも注目されていて、そのコメントはある意味、必ずファンの期待にこたえてくれました。それは、この人独特のサービス精神でもあったと思いますが。

そのコメントのひとつひとつを集めた人がいて、それを公開しているインターネット上のサイトがいくつもありました。名言の数々をご紹介します。

まず、いわゆるひとつの、英語ものというジャンルがあります。

「メイクドラマ」 「失敗は成功のマザー」 「ワーストはネクストのマザー」

肉離れを「ミートグッバイ」と表現したり、

不甲斐ないジョンソンに、「ユーは、マンだろ」と叱責し、

「アイム、失礼」など、

2000年の正月に、「んーーミレニアム、千年に一度あるかないかのビッグイヤー」

「松井君には、もっとオーロラを出してほしい」

「桑田君をスライディング登板させるつもりです」

「勝負はネバーギブアップしてはいけないということですね」

記者から、恋愛中の夫人のことを聞かれ、「僕にもデモクラシーってもんがあるんです」

さすがに、これほんとだろうかというのもあって、

立教大学時代の英語の追試で、

I live in Tokyo. を過去形にせよという問題に、I live in Edo. と答えたとか、

ドジャーズに視察に行った時、帰りのタクシーを呼んでほしくて、関係者に、

Please call me Taxi. と云って、翌日からドジャーズの選手たちから、

Hey Mr.Taxi. と呼ばれたという話もありました。

英語に限らず、

巨人の監督を辞めて、12年ぶりに再び監督に就任した時、

「僕は12年間、漏電してましたから」

また

「昨夜も午前2時に寝て、午前5時に起きましたから、5時間も寝れば十分です」

「今日、はじめての還暦を迎えまして、しかも年男ということで…」

他にも、これはある意味ていねいでもありますが、

「一年目のルーキー」 「今年初めての開幕戦」 「体験を経験」 「疲労からくる疲れ」

「バースデー誕生日」 「秋の秋季キャンプ」などというのもあります。

名前の呼び間違いシリーズもあって、

鈴木康友に、「ノブヨシ、調子はどうなんだ」

「ピッチャー阿波口」そのときブルペンには、阿波野と川口がいてあわててたそうです。

広澤代打時に、「代打、広岡」

娘の三奈さんに、「おい、三奈子」

最もすごかったのは、昔ご自身が担当した商品のラジオCMの録音で、

「こんにちは、長嶋茂雄です」というコメントを、何度も、

「こんにちは、長嶋シゲルです」と、読んで、スタッフが絶句したというのがありました。

 

この話を、長嶋さんの大ファンの友人に話したら、

「いや、長嶋さんは昔シゲルだったことがあるのだよ」

と云っていましたが。

 

なんだか嬉しくなる話ばかりですよね。

さらに、すでに有名ですけど、私が大好きなエピソードです。

巨人軍、ノーアウト1塁のチャンス、長嶋監督が代打を告げに出てきます。

「バッター、淡口!」甲高い声とともに、長嶋さんはバントのゼスチャーをしています。

 

もひとつ、

阪神タイガースの掛布雅之は、自分と同じ千葉出身の長嶋さんの大ファンで、大変尊敬していました。そのことは長嶋さんもよくご存知で、ある時、掛布が大スランプに陥った時のことです。

長嶋さんは東京から大阪にいる掛布に電話をかけました。たとえライバルチームの4番打者であっても、何とかスランプから救ってやろうという広い心の持ち主なのです長嶋さんは。

二人のバッティング談議は、熱く続きました。話しつくして、ある間ができた時、長嶋さんが云ったそうです。

「掛布君、ちょっと構えてみてくれる?」

掛布は、少し考えてから、バットを持って構えたそうです。

 

いい話ですよねえ。

たぶん、こういう話が沢山あって、ファンたちがそれに尾ひれを付けたり、集めたりしているのは、この方の作為のないまっすぐなところが愛されてるからなんだと思います。

んーーん、いわゆるひとつの人徳なんでしょうか。 

私事ですが、数年前に亡くなった義父は元プロ野球のピッチャーで、現役時代、長嶋さんとよく対戦したそうです。長嶋さんがどんなバッターだったかを聞いたとき、

「まったくどの球を待っているのか、わからない人だった。」と云っていました。

その義父が年を取って、ある賞をいただいた時に、長嶋さんが色紙を送ってくださいました。今も大事に飾ってあります。

「野球とは、人生そのものだ。長嶋茂雄」

けだし名言です。

 

 

2011年1月20日 (木)

「大人は、かく戦えり」という芝居

今、新国立劇場の小劇場でやっている「大人は、かく戦えり」という芝居のことです。

おもしろいです。よくできてます。それに、役者がいい。

観客は、爆笑の連続、息をのんだり、ハラハラしたり、ライブの芝居の醍醐味がたっぷりと味わえます。若い人向けというよりは、ちょっと大人向けですけど。

この戯曲は、ヤスミナ・レザというフランスの女性作家によって2006年に書かれ、すぐに評判を呼び、世界各国で次々に上演された話題作です。日本では、これが待望の初演ということになります。

登場人物は、二組の夫婦。

ウリエ夫妻とレイユ夫妻が、ウリエ家の居間で話し合いをしています。

レイユ家の息子がウリエ家の息子に怪我を負わせてしまったのです。

二組とも、地位も教養もあるブルジョアジー夫婦だけに、冷静で友好的にみえる態度で、子供の喧嘩の後始末に折り合いをつけようとしているのですが、ぎこちない会話にホンネが見えかくれし始め、徐々に互いの本性があらわになってきます。やがて壮絶な罵倒合戦になり、さらには、日頃それぞれの夫婦間に鬱積していた不満も爆発してしまいます。そして、舞台は収拾のつかない混乱へと向かうのです。

この芝居の成否は、キャスティングにかかっていたと思います。

というか、それぞれの役者の力量にかかっていたと云うべきでしょうか。

ともかく、ウリエ夫妻、大竹しのぶ、段田安則と、

レイユ夫妻、秋山菜津子、高橋克実の配役は最強でした。

一人一人の登場人物が、各俳優によって相当細かく造形されています。それによってその人格が伝わり、笑いにもつながります。客席が引っ張り込まれていくのは、そうしたリアリティの上に構築されたお話です。

観客は、休む間もなく、どこに行きつくともわからぬ4人を追いかけながら、この芝居の持っているひとつのテーマが、夫婦というものであるということに気付かされます。

先にこの芝居を観た、会社のFさんは私に、

「とても面白い芝居でしたが、ご夫婦では観られないほうがよいと思います。」

と言いました。ちなみに彼女は独身ですけど。

確かに、夫婦で気持ちよく笑って終わる芝居ではありませんね。後味がほろ苦いというかなんというか。もともとは他人の一組の男女(まれに男女じゃない場合もあるが)で構成された夫婦という形は、暮らしていくうちに、様々なズレやシコリがたまり、ある局面で、それが一気に表面化したりしますよね。

そのあたり、舞台ということもあって、誇張して描かれていたりしますが、本当にセリフも演技プランもよく練れていて、実感を込めてお見事と云わざるをえません。

ちょっと子供にはわからない、おとなの芝居とでも云うのでしょうが、昔、向田邦子さんが書いたTVドラマにも、こういう世界がよくあったように思います。

一緒に暮らす夫婦や家族が、あることをきっかけに、相手がかくしていた感情を知ることになり、ちょっと大きめの波風が起きるような話です。若かったころ、まだガキだった自分は、向田さんのドラマを観て、大人の世界を垣間見ていた気がします。

そのころ、一度も結婚をしたことのない向田さんが、何故あんなに見事に夫婦というものが描けるのか不思議だという話が、よく聞かれましたけど。その後、向田さんはエッセイや小説をお書きになり、そのあたりにどんどん磨きがかかり、多くの名作が生まれました。

そう考えてみると、かつてテレビには、もっと大人の鑑賞に耐えうるものが沢山あった気がしますね。

ちょっと話がそれちゃいましたけど・・・

 Otonahakakutatakaeri

 

2010年12月15日 (水)

窖(あなぐら)の、はなし

今年、深く記憶に残った出来事のひとつに、チリの鉱山落盤事故がありました。

地下700mに閉じ込められた33名の作業員が、全員無事に生還したあの事件です。

生存が確認されてから、救出されるまで、全世界が注目しました。私たちは徐々に中の状況を知ることになり、彼らの帰りを待つ、妻や愛人のことまでも知ることになりました。

彼らがわずかな食料と水で、69日間生き伸びたことも、その彼らを運び出したのがカプセルであったことも、驚きであったけれども、

全員で生還することを信じていた、その強靭な精神力と、それを支えていた彼らのチームワークと、そのリーダーの存在は、世界中の人々を感動させたのでした。

 

しかし、700メートル地下のあなぐらの中というのは、やはり怖いですよ。

私は、狭い、暗い、高いは、全部ダメな人なのですが、昔のある体験が忘れられません。

それは、大学4年生の時に所属していたゼミの、卒業研修旅行の時のことです。行き先は、その当時、まさに建設真っ最中であった、青函トンネルの工事現場の最先端部分、つまり津軽海峡の真下のあなぐらです。何故そんなところへ行くのかというと、このゼミは、工学部、土木工学科のゼミだったからです。

今となっては、不思議この上ないのですが、閉所、暗所、高所の三重苦恐怖症の私が、よりによって土木技術者を目指し、卒業旅行と称して、地底のトンネル工事現場に向かっていたのです。そういうことになった理由は単純で、中学生の時に見た映画「黒部の太陽」に、めちゃめちゃ感動したからでした。

この映画は、戦後の経済成長を支える上で、どうしても必要だった黒部第4ダム建設にあたり、その建設資材を運搬するための、北アルプス大町トンネル掘削工事を描いたものでした。

工事は、何度も何度もフォッサ・マグナ(大断層地帯)に沿った破砕帯に阻まれ、多くの犠牲者を出し、それでも技術者たちはくじけず、ついにトンネルを貫通させます。実話に基づいたこの映画を見た中学生の私は、男は土木だと静かに決意したのです。

その映画を見てから8年ほど経っていましたが、実は、そのころにはすでに熱は冷めていました。うすうすというか、はっきりと適性がないことに気付いていたのです。

全員参加のゼミ旅行に、私は仕方なく参加しましたが、他の10数名のゼミ仲間たちは皆はりきっていましたし、私と違って土木技師になることに燃えていました。

鉄道を乗り継いで、前夜に入った竜飛崎の近くの民宿の酒盛りも盛り上がっており、そこまでは私もよかったのですが、翌朝工事現場に入ったあたりからは、私だけすっかり無口になっていました。

まず、ものすごくでかいエレベーターに、ものすごく長く乗せられたと思います。ひたすら下へ下へ、ここが今、地下何メートルであるかとか何とか、建設会社の担当の方が教えて下さるのですが、聞きたくもありません。だんだん顔色が悪くなっていることが、自分でわかります。

エレベーターの扉が開くと、そこは地底基地の活気があり、仲間たちは歓声をあげました。ここからは延々とトロッコに乗ります。「黒部の太陽」で見た光景でした。走るトロッコの横に水柱が落ちてきていました。嫌な予感がして、ちょっと舐めてみると、これがしょっぱい・・・・・海水です。建設会社の人に、

「これって海水ですか。」と聞きました。黙っていると怖かったし、

「そりゃあ君、ここは海底の下だからさあ。カッカッカッカッ。」

みたいなリアクションでした。少し頭が痛くなりました。

それからしばらくして事件は起きました。トロッコが急に、ガッタアアンと停まってしまったかと思ったら、すべての灯が消えました。全部。正真正銘の真っ暗です。今まで経験したことのない闇です。視界はすべて黒に塗りつぶされました。

Kie--- わたしの緊張はピークを振りきり、絶叫していました。夜道で、若い女性が痴漢にあった時のような悲鳴だったと、あとで云われました。聞いたことあんのかと思いましたけど。

誰かがライターで火をつけます。完全に歯の根が合わなくなった私の顔が浮かび上がったようです。皆が励ましてくれました。

そのあとすぐに、電灯がつき、トロッコも動き出しました。聞けば、この現場では、ある意味ブレーカーが落ちるようにこういうことがよく起こるそうで、いってみればこれは日常茶飯事なのだとのことでした。どうしてそういう大事なことを先に言っといてくれないんだろうかと、現場の人を恨みましたが、ダメージを受けているのは私だけでした。でも、死ぬかと思ったわけで。

その夜は、どうしても元気になれない一人の仲間を、皆が元気づけてくれました。友達っていいもんだなあ、でも、この人たちとは、ここで袂を分つのかなと思っていました。

そんなことを想い出しながら、チリの人たちの69日間は、想像を絶することだったんだなと、あらためて考えたのでした。

 

 

 

2010年11月 5日 (金)

「ノルウェイの森」見ました

きれいな映画でした。

ただ画がきれいだということじゃなく、いろいろな意味できれいだったなと。

見おわった後に感想を求められたら、そのように云うのでしょうか。

原作は、1987年に刊行された、あの村上春樹氏の不朽の名作。

当時、瞬く間に多くの読者の心をつかみ、その累計発行部数は1044万部を超え、現在も読み続けられています。また、その物語は、36言語に翻訳され、村上氏は、世界で最も知られた日本の作家になっています。

その小説が映画化されていると聞いた時、どんな話だったか思い出そうとしたんですが、どうしてもはっきり思い出せません。ぼんやりとした印象はあるものの、考えれば考えるほど、ほかの村上作品と混ざり合った記憶になってしまうのです。

村上さんの作品にはそういうところがあって、どの小説も、いってみれば彼の世界にスーッと引き込まれてしまうのですが、お話として覚えているというよりは、何か感覚的なひとつの印象として残っているようなところがあります。

そんなことで、持っていたはずの本もどこへ行ったか見つからず、やはり気になるので、文庫本を買ってもう一度読みました。

おもしろいです。また、スーッと引き込まれるように読んでしまいます。そうか、こういう話だったんだと。でも自分も歳をとったし、また新しい小説体験でもあります。

1969年にもうすぐ20歳になろうとする人たちが主人公のこの物語は、私には近い世代でもあり、二十歳になるということを想い出しながら、その時代に旅するようでもあります。

小説は、村上さんと同い年の主人公が、18年前を想い出すところから始まりますが、映画は、主人公が高校生のところから始まります。

大ベストセラーとなったこの小説の読者には、それぞれの頭の中に登場人物たちのイメージがあるわけですから、映画のキャスティングが相当重要だったことは云うまでもありません。そんな中で、松山ケンイチのワタナベは、多くの読者を納得させたのではないでしょうか。この人は、俳優が技術的に演技をしているというよりは、その役が彼に乗り移ったようになってしまうところがあります。

菊地凛子の直子は、女子高生こそ少し無理があるものの、その後壊れてゆく直子の演技には、本領を発揮します。新人の水原希子の緑は、トラン・アン・ユン監督によって、完全に造形されたと思われますが、いい仕上がりになっています。これが舞台とは違う映画のマジックというべきものでしょうか。

「ノルウェイの森」を映画化するにあたり、トラン・アン・ユン監督に依頼をしたということは、非常に興味深い選択だったと思います。以前からこの小説を映画化するのであれば、日本には適任の監督が思い浮かばず、外国の監督の方がよいのではないかとぼんやり思ってはいたのですが、外国の設定になってしまうと違うような気がしていました。実際にこの小説を日本人の出演者で、外国の監督が撮れるのかどうか。

トラン・アン・ユン監督は、そのハードルをかなりのレベルで、踏み越えたのではないでしょうか。

そして、この映画がどういう映画かというと、原作である小説のストーリーを追いかけると言うよりも、登場人物たちのさまざまな経験と心象を、理屈ではなく感覚として映像に残していこうとしている映画であり、監督はその作業を繰り返し、積み重ねながらこの映画を作っていったのではないでしょうか。

彼の画に対するこだわりは、長編第1作の「青いパパイヤの香り」などにもよくあらわれていて、その手腕は高く評価されています。そして、その監督のこの映画に対する姿勢を、最も支え実現しているのが、撮影のマーク・リー・ピンビンです。

この映画がきれいであるということ、その人達の心象が、その感情とともに、ある時は哀しく、ある時は切なく、映像として語りかけてくるのは、キャメラマンの仕事によるところと深く関係しています。

ちょうど東京国際映画祭で、彼を追ったドキュメンタリー作品「風に吹かれてーキャメラマン李屏賓の肖像」を六本木で上映していたので、見に行きました。台湾出身の撮影監督で、さまざまな優れた監督と名作を撮った人です。現在、世界中からオファーがあり、再来年までスケジュールが決まっているそうです。アジアが世界に誇れるキャメラマンです。ドキュメントを見て、宮川一夫さんを想い出しました。

彼は、撮影中、常に映像に想像の余白を残すことを意識していたと云い、文学のような想像性を持った空間作りを目指したと云っています。深い言葉だと思います。でも、映像を見ると少しそのことを感じるのではないでしょうか。

もうひとつ、映画に「ノルウェイの森」の音楽原版を使えることになったのは、快挙だし大変意味のあることでした。僕らの年代にとっては、この音を聞くだけで、瞬時にこの時代に旅立てるわけですから。Norwegian wood

2010年8月27日 (金)

しっかし、暑い

あと何日かこの状態が続くと、連続なんとかの暑い新記録になるのだと、昨夜のニュースで云ってましたけど、そりゃそうでしょうね、こういうのはちょっと記憶にないですもの。

地球的規模で何かが変わって来ているのは確かなようですし、もうすでに東京のあたりは、亜熱帯と呼んでも差し支えないと思われます。

一年中で一番暑かろう7月の終わりごろに生まれた私としては、夏の暑さに対してわりと自信がありましたけど、今年はすっかり参ってしまいました。なるべく街を歩くのを避け、すぐに建物の中に入ろうとし、駅のエレベーターなどにもすぐ乗ってしまいます。歳のせいもありますが、やっぱりばてているのだと思います。

大好きなゴルフも、ちょっと勝手が違い、いつも大騒ぎでやかましいゴルフ仲間たちが、なんとなく日陰を探して、そこにたたずんでおとなしくしていたりします。基本的にあまり喋りたくないのです。この夏、最も元気良くゴルフしたのは、台風4号が日本海を通過した時でした。曇ってましたから。

暑いと何か考え事をするのも面倒になりますよね。途中で、まっいいか、みたいになりやすいです。私は普段からこの傾向が強く、個人差もあると思いますけど。でもわりと、暑いところからドストエフスキーみたいな人は出にくいですよね。

犬も弱ってます。いつも2匹して玄関の石の上でぐったりしていて、この前、名医の赤ひげ先生に診せたら、一目で、

「こりゃ熱が出た顔だなあ。」と言われました。

とにかくこの暑いのに毛皮着てるわけですから、可哀そうです。犬の散歩は夜なら10時以降だと言われました。夜でもアスファルト触ると熱いですから、確かに。

わたし的には、最近体重が増えていることも、絶対に良くないことです。去年からだんだんにですが、自分が大きくなってきていることが自覚できます。デブに暑さはこたえますし、周りの人をより暑くもしてしまいます。妻からは、

「あなたがいるだけで、部屋の温度が1度か2度上がる。」と云われています。

ひどくありません?

そして、なぜか暑くても食欲は落ちないんですね。昔からどんな時でも、食欲は落ちないです。あんまり病気とかになったこともないし、多分、胃腸が相当に丈夫なんだと思うんです。ストレス感じると腹減ったりしますから。個人的には、身体がちょっと弱くて痩せて知的な人に憧れてるんですけど・・

そんなことで、冷たいビールはおいしいし、たくさん飲んで食べ、でも暑いのでほとんど動かず、そうするとまた大きくなってしまい、また暑い。と、負の連鎖になっております。

朝早起きして犬の散歩とかすればよいのですが、夜になると元気が出て夜更かしして、翌日は寝坊してしまい、これもうまくゆきません。

どこかで断ち切らねば、そのうち馬肥ゆる秋になってしまいます。何とかせねば・・・

しかし、暑い。Puha-

2010年8月 4日 (水)

小説「告白」、映画「告白」

2年ほど前に、湊かなえさんの「告白」を読んだとき、その読後感が本当に不愉快で、こういうのもめずらしいなあと思い、昔ヒットした デヴィッド・フィンチャーの映画「セブン」をみた後にこういう気持ちになったなと思いだしたりしておりました。

と、同時に、この悪意の塊のような不快さを除けば、この小説には、読者を一気に引きこんでしまう力強さと、うまさが備わっていて、その後、本屋大賞を獲ったことを知った時も、ある意味なるほどなと納得するところがありました。

そのベストセラーが映画化されるとわかったのが去年。これはなかなかハードルが高そうだなあ、誰がやるんだろうか、と思っていたら、監督は何とあの中島哲也氏、おまけに彼は、「できるだけ原作に忠実に映画化します。」と言い放ちます。そして、すぐに、主演の森口先生役として、松たか子さんにオファーを出したのです。

Takako matsu2 悪意が悪意を呼ぶ徹底した救いのない世界。登場人物の心理も感情も常に変化し、小説はほぼすべて登場人物の主観で書かれています。

さて、このお話が、どんな映画になるのだろうか。否応なく期待は膨らみました。

6月の初めに封切られた映画「告白」の興行成績は、かなり好調のようでした。一度飛び込みで観ようとしたら、満席で入れないことがありました。

そうこうしているうちに、うちの大学生の娘が、観てきたというので、感想を聞いてみたところ、一言。

「不快だった。」と、

でも、そのわりにはインターネットの「告白」公式サイトを開けて熱心に読んでおります。

「何だよ、つまんなかったんじゃないの。」というと、

「そういうことでもない。」といいます。

けっこう後を引いているようでもあり、その娘の反応も面白く、数日後、映画館に行ってみました。

劇場は、若い人たちであふれていました。女の子も多かったです。

映画はどうだったか。

面白い。

観客は、この悪意に彩られたジェットコースターに乗せられ、疾走します。目を覆い、息をのみ、でもその映像は、きちんと観客を捉まえて放さず、感情移入させていきます。何故こんな世界を見せられているんだろうかという疑問などは、湧いてきません。

小説を読んだ時に、よくできた小説だと感じたように、よくできた映画だと思いました。

この映画は、監督が云うように原作に忠実に作られています。構成もセリフも極力生かされています。ただ、小説には小説の、映画には映画の、違った魅力がありました。

小説を読んでいるとき、読者の頭の中で、悪意の連鎖の中で、形を変えながら飛び跳ねるキャラクターたちは、映画になると、生身の俳優という具体的な形になり、映像を通してイメージが定着してきます。いってみれば、本の中では読者の想像力に任せとけばよいものがスクリーンの中で固まっていきます。

たとえば、松たか子という女優を、森口先生役に据えた監督の直感は見事だったと思います。もちろん演技も素晴らしいのだけれど、彼女自身が持っているキャラクター性は、演技とはまた別の部分で、この映画全体を支えていると感じました。

話題作と言われる原作を、忠実にきちんと映像化してなお成功している数少ない例かもしれません。

基本的にどっちも、読後感が、不快は不快ですけど。

 

2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

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