2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2012年1月13日 (金)

走るということ

最近、「走る」ということに興味を持っている人が、私の会社のまわりにもいて、たとえば、転覆隊のW君や、キャンプ好きのO君だったりするんですが、今度の社員旅行は地方のマラソン大会に皆で行って出場しようなどと言っているわけです。そのO君が丸い目をまた丸くして、この本 面白いですと紹介してくれたのが、「BORN to RUN」という本で、これ、たしかに本としては面白そうで、これから読み始めるんですけど、でも少なくとも、わたし自ら、走るという行為に興味を持つことは、多分ないだろうと思うんですよ。今までの人生で、人から強制されることなく自分から走ったということはないわけで…

そんな話していたら、ふと、はるか昔、10代の頃、走ることを面白がっていた時期がちょっとあったことを思い出したんです。

高校生の時、私は何の部活にも入らず、やたら映画ばかり見ている奴だったんですけど、やっぱなんか身体がなまってるなあと感じていた時、友達がプールの下の体育会の余った部室にバーベルが積んであるのを見つけて、ちょっと仲間集めて、皆で筋肉モリモリになろうと云い始めたんです。でもまあ、筋肉モリモリっていうのも、あんまり興味ないし、バーベル上げながら、放課後の運動場で体育会の練習見てたら、みんなよく走ってるんですね。それで仕上げは、学校から少し離れた小高い山まで往復5km位のコースを走るんです。その中で、最も速く、最もきれいな形で走るのが、サッカー部のエースストライカーのI 田君でした。

彼とは同じ路線の汽車通学だったので、毎朝一緒に通学する仲の良い友達でした。いつもしょうもないいたずらばかり考えてる、ちょい悪系で、そのあたりが私と気が合ったのか、まあそうやってるぶんには、何の変哲もないそこらへんの高校生なんですが、サッカーやってるときと、走ってるときは、超カッコイイのですよ。

なんだか、I 田君の走る姿みて、俺も走ろうっ!と思ったわけです、急に。

そして、これが意外と楽しかったんですね。テニス部女子なんかも一緒に走ってるし、自分なりに、だんだん速くなっていくのも自覚できるんです。私、短距離はまるで駄目なんですが、そういえば中学の時、1500mとかってわりと速かったよな、などと、自信も出てきたりして、もっと速く走るにはどうしたらいいんだろうなどと、考えたりもしました。でも、通学中I 田君と、走ることに関して話をしたことは一度もありませんでした。

ていうか、彼はそのことに関して全く別次元の奴でしたから。校内マラソン大会は、いつもぶっちぎりの1位でしたし、サッカーでは校内でただ一人、国体に出場してたと思うし、彼と走ることを語るなんて、恐れ多かったんです。

それでも、最後の校内マラソン大会では、何百人かで60番に入って大満足。I 田君は、相変わらず、はるか前方を駆け抜けて行きました。もちろん1位で。いいフォームだったなあ。

そして、そのうち受験になって、それぞれ進学して、そんなこともあったよなという程度の記憶になってしまいましたが、

その後もI 田君は走り続けてました。地元のサッカーの大学リーグで得点王になり、全日本大学選抜に選ばれて、東京の合宿に来た時は、私は車を借りて、合宿所まで彼を送って行きました。大学を卒業した後は、サンフレッチェの前身である自動車会社のサッカー部に入り、FWで活躍しました。彼は、母校の誇りでしたし、あの力強い走りは、いまもはっきり覚えています。

その後、お互いに忙しく、時間が経って疎遠になり、年賀状を交わすくらいのことになっていましたが、昨年の秋に用事があって、故郷の高校時代の友達に電話したとき、I 田君が春に病気で亡くなったことを知らされました。あの強靭な人が・・・信じられませんでした。

いろいろ思い出します。私が小さな会社を始めた時、わざわざ訪ねてくれたことや、私が結婚して初めて帰郷した時、自分の奥さんと子供を連れて、会わせに来てくれたことやら。

書いてたら涙が出ます。

インターネットで、彼の名前を検索したら、もう何年も前から、自身の母校の大学のサッカー部の監督になっていたこと、2007年にはそのチームを率いて、初の天皇杯出場を決めたことなどがわかりました。それに、その記事には、その時彼が悪性のリンパ腫を患っていたことも書いてありました。

何にも知りませんでした。自分に腹が立ちました。

もっと歳とって、君の若い時の自慢話を聞きながら、酒を飲みたかった。どうやってあんなに速く走れたのか、もっと前に聞いとくんだった。

 

そんなこと思いながら、自分がいま走ったらどうなるんだろうかと考えました。

デブった体を支え切れず、ひざが壊れるな、たぶん。

Hashiru 

 

 

 

 

 

 

 

2011年12月12日 (月)

優勝請負監督と優勝請負ストッパー

Enatsutonishimoto
秋深いこの季節が好きな理由には、プロ野球日本シリーズの記憶があります。いつの頃までか、かつて日本シリーズは、必ずデーゲームでした。もちろんドーム球場など一つもないころのことです。少し肌寒くなり、太陽の位置が明らかに低くなった美しい斜光の中、日本一をかけて、セ・リーグとパ・リーグの優勝チームが雌雄を決します。そして数々の名勝負が、この季節の記憶として刻まれています。

今年もその季節が終わり、もうすぐに冬が訪れるころに、かつて日本シリーズを8回戦った名監督がこの世を去りました。

西本幸雄さん。1943年に大学野球から学徒出陣し、中国で終戦を迎え復員ののち、社会人野球での優勝を経て、1950年に毎日オリオンズに入団します。この時すでに30歳で、選手としてのピークは過ぎていましたが、その後優勝に貢献し、コーチ、二軍監督を経て、1960年に監督に就任、一年目にしてチームをリーグ優勝に導きますが、日本シリーズには勝てず、オーナーと対立して辞任します。

このあたりまでのことは、私もまったく知らないことですが、1963年から弱少だった阪急ブレーブスの監督に就任し、チームを鍛えに鍛え上げて、1967年にリーグ優勝し、常勝阪急の監督となった西本さんのことは、よく覚えています。

チームは、1967年、1968年、1969年、1971年、1972年とパ・リーグを制覇しています。しかしながら、1965年~1973年は、巨人が9連覇をした、いわゆる巨人黄金時代で、西本さんが阪急ブレーブスを率いて戦った日本シリーズは、巨人を苦しめたものの、すべてV9巨人に敗れております。

1973年に、阪急の監督を勇退した翌年には、やはりお荷物球団と云われていた近鉄バッファローズの監督に就任します。ここでもまた、チームを、選手を、鍛えに鍛えます。チームの強化と、見込んだ選手の育成のためには、あえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さず、選手からは恐れられたが、本当の意味で信頼され、愛されていたそうです。

近鉄バッファローズを強力チームに育て上げ、初めてリーグ制覇した1979年は、西本さんが悲願の日本一に最も近づいた年だったかもしれません。

ここで西本監督の日本シリーズ初優勝を阻んだのが、広島東洋カープ、そして、当時広島の抑えの切り札と云われていた、江夏豊でした。

近鉄2連勝のあと、広島3連勝、ここで大阪球場に戻り、近鉄が逆王手をかけ3勝3敗の五分に。

そして第7戦、4-3と広島がリードした7回、広島はリリーフエースの江夏を投入します。1点差のまま9回、ここで江夏が先頭打者にヒットを許し、代走の藤瀬は盗塁を試みます。捕手水沼の送球は大きく逸れ、無死3塁、バッテリーは、同点を覚悟せざるを得ません。警戒するバッテリーを徐々に攻めて、近鉄は無死満塁のチャンスを得ます。一球一球息づまる展開、一打出れば、逆転サヨナラゲーム、近鉄の優勝となります。

のちに山際淳司が、9回の江夏のすべての投球を分析した「江夏の21球」という有名なスポーツノンフィクションのクライマックスです。

バッターは代打・佐々木恭介、ベンチの指示は「強攻」でしたが、江夏はこれを三振に抑えます。次の石渡茂の打席で、初球のストライクを見逃したのを見て、西本監督は作戦をスクイズに切り換えます。江夏の19球目、3塁走者藤瀬がスタート、石渡がスクイズの構えに入る瞬間、後に語りぐさとなりますが、江夏はカーブの握りのまま、立ち上がった水沼にスクイズを外した球を投げます。 石渡のバットは空を切り、ランナータッチアウトで2アウト。20球目ファール。21球目、空振り三振3アウト。西本近鉄は、日本一を逃しました。

私は、この江夏豊というピッチャーがデビューした年からこの人のファンになり、真剣にプロ野球中継を見るようになり、阪神ファンになり、この人がトレードに出されたときは晩飯が食えず、その後、血行障害と闘いながら、リリーフ投手としてよみがえってからもずっと応援していました。

江夏が阪神に入団した時に小学生だった私も、この試合が行われたときは、すでに働いておりました。日本シリーズ第7戦はTV観戦したかったですが、この時私は瀬戸内海の小島にロケハンに行くために、新幹線に乗っていました。関西は曇りでやや小雨模様、今頃やってるなあなどと思っておりましたところ、岡山も近づいたところで急に車内放送がありました。

以下記憶をたどりつつ、

ピンポンポンポーーーン

「車掌の○○と申します。おくつろぎのところ恐縮ですが、ただいま大阪球場で行われておりますプロ野球日本シリーズの情報が入りましたのでお知らせします。4-3と広島リードで迎えました9回裏、近鉄がノーアウト満塁と攻めたてましたが、ここからピッチャー江夏がふんばり、三振の後、スクイズを見破るなどしてこれを抑え、広島が4勝3敗で日本シリーズを制しました。以上です。」

そして車内は、歓声に包まれました。

セパ2リーグ分立初年の1950年には、ダントツの最下位だったこの両チームの日本シリーズは、好ゲームの連続、接戦でものすごく盛り上がり、その翌年もたしか広島-近鉄の顔合わせで第7戦までもつれ、やはり最後は江夏に締められて、西本近鉄は敗れます。

 

西本さんの訃報に触れ、江夏談。

「勝利に対する執念をすごく感じた。会うたびにあの時(江夏の21球)のことで、『この野郎』と言われ、『執念深いおじいちゃんやね』と返していた。同じチームで選手、監督としてやったことはないけど、一度は一緒にやりたいと感じさせる人で、個人的にも大好きな方だった。寂しいよな、やっぱり。」

 

 

2011年11月 7日 (月)

東京オリンピックとクラス対抗リレー

人にはそれぞれ好きな季節というのがあると思いますが、私の場合、10月から11月にかけてって、好きなんですね。夏暑いのも、冬寒いのも、それぞれ良いのですけど、続くとやっぱりめげてしまいますし、春は世間の人が云うほど浮かれた気分になれないんです。昔から、木の芽どきっていうじゃないですか。あれあんまり得意じゃないんですね。

10月に入ってだんだん空気が乾いてきて、朝晩が過ごしやすくなって、たまにグッと冷え込んだりすると、なんだか気合も入るし、欧米のように秋が新学期だった方が、学校の成績もよかったんじゃないかと思ったりしてたわけです。

夏が去って行った寂しさはあるけど、その寂しさがちょっと良くて、春と夏にためられたエネルギーが、スッと拡散して、次のフェーズに移っていく感覚があります。

いろいろあったけど、まっ、新しい気持ちで出直そうかみたいなところがいいんでしょうか。

あと、気持ちがいいのは、空が高いこと。なんだかせいせいしませんか。

体育の日って10月10日じゃないですか。これって1964年に東京オリンピックの開会式が開かれた日なんですけど、時の政府は、過去の気象庁の記録の中から、もっとも快晴の多かった10月10日を開会式の日に選んだという話を聞いたことがあります。

当時の日本人はみんな、この日を待ちわびていました。1945年の敗戦から、約20年。

この日のために東海道新幹線の開通を間に合わせ、首都高速道路を完成させ、世界中にこの国の再建を知らせる日でもありました。やはり、どんなことがあっても絶対に晴れてほしい日だったと思います。

快晴の国立競技場に、古関裕而作曲のオリンピックマーチが響き渡り、355名の日本人選手団が登場した時の感動は、あの時を共有した人々にのみ分かることかもしれません。

みんな本当に感無量だったわけです。その後、市川昆監督によってつくられたドキュメント映画「東京オリンピック」を観ても、そのシーンで必ず涙が出ます。当時10歳でしたが、今までで唯一、自分が日本国民なのだと自覚した出来事でした。この話を感動とともに伝えようとすると、ちょっと気味悪そうにする若い人もいますが。

その日は国民の祭日となり、毎年この日がやってくると、東京オリンピックを想い出し、全国的に運動会の季節となります。

個人的ですけど、その運動会で、一つ忘れられない思い出があります。

小さいころから運動会ってあんまり好きじゃなかったんですね。なぜかというと、ともかくスポーツというものが苦手なわけです。幼稚園のころから、徒競争という競技でテープを切ったことがなく、油断すると自分の後ろに誰もいないということが、ままありました。それが憂鬱な理由だったんです。

ところが、東京オリンピックの数年後、小学校の運動会で妙なことになります。私は高学年になっており、恒例のクラス対抗リレーの選手の選抜が進んでおりましたが、なぜか私がその中の1名に選ばれてしまったのです。

古い話で、うろ覚えですが、クラスの数は5クラス、各クラス5名の選手を選ぶことになっていました。私のクラスには、学年で一番速いカガワ君がいたのはおぼえています。そして彼以外にもかなり足の速い奴らがそろっていて、上から4人はすぐに決まりました。多分、あとの20名ほどは大差なかったんだと思いますが、私が選ばれる理由はなに一つありません。あとの一人は誰でもよかったから、誰になってもほかの4人で勝てそうだからだったのでしょうか。たしかクラス皆で投票したのですが、5人目に私が選ばれてしまいました。スポーツとは全く別のことで目立つ奴であったことは確かですが、面白がられたふしはあります。

なにせ初めてのことなので、母親にも話しました。母親はよろこぶ前に絶句しました。そうなんです、よろこんでる場合じゃないんです。次の日から真剣に練習しました。バトンの受け渡しとか。でも練習しても急に走る速さが変わるもんではありません。思えば仲間の4人はいい奴らでした。よく練習に付き合ってくれました。そして作戦会議、です。主に走る順番を決めますが、カガワくんが何番目を走るかが最も大事なことです。私はともかく決まったところを死ぬ気で走るしかありません。4人は考えに考え、あろうことか私をアンカーにする作戦を立てます。私にバトンが渡される前に、完全にぶっちぎろうという作戦なのですが、各クラスのアンカーにはチーム最速の奴がきます、ふつうはそういうものでしょ、あーあ、どうにでもなれです。

このクラス対抗リレーは、クラス対抗リレー史上、最も盛り上がったクラス対抗リレーになりました。私にバトンが渡された時、すでに他のクラスは、半周以上離されておりましたが、ここからの1周が恐ろしく盛り上がったわけです。競馬で云えば、私の好きな展開、逃げ馬が直線で差し馬に差されそうになりながら、逃げ切れるかどうかという展開です。Relay

私はただ無我夢中でしたが、だんだんに周囲の歓声が、異常な音量になってきました。後ろを見る余裕はないです。必死でした。テープを切った時、私のまわりには、団子状になった他の4人のアンカーたちがいました。いわゆる鼻差、写真判定か。しかし、かろうじてテープを切ったのは私でした。4人の仲間が駆け寄ってきます、スローモーションでした。あとにも先にも運動会でテープを切ったのは、この時だけです。しばらく夢でうなされたりしました。

あれから、大好きなこの季節になると、よくあの事を思い出します。でも、勝って良かったです。負けてたらきっと嫌いな季節になってたような気がしますもんね。

2011年10月 7日 (金)

ipadでみる「仁義なき戦い」

夏にあったゴルフコンペで、珍しいことに準優勝して、賞品でipad2が当たりまして、どうしたものかと思いながら、どうにか使い始めてみたんですね。いまだにこのipadの機能の100分の1も使ってないと思いますけど。

そして、ある時これで映画が観れることがわかったんですね。iTunes Storeにラインナップされてる映画なら、1回レンタル200円くらいで1本48時間は見放題ということで、

ipad持ち歩きながら、好きな時に好きなだけ観れるというのも魅力で、何か観てみようと思い、前から観なおそうと思っていた「仁義なき戦いシリーズ」を観はじめてみたんです。

これがなかなか新しい映画体験で、画はけっこうきれいだし、自分の顔の前に置いたり、持ったりしながら観れるので、けっこう迫力あるし、音はイヤホンだから、飛行機で映画観ているような状態で、ほんとに観たい時に観たいだけ堪能できるのです。そして、この「仁義なき戦いシリーズ」がまた、よくできています。

封切りは確か1973年。大ヒットしてすぐにシリーズ化され、その年のうちに、「広島死闘篇」「代理戦争」が続いて作られ、翌年に「頂上作戦」と「完結篇」まで作られ、短期間に5本全シリーズが上映されました。考えてみると、この頃はものすごいスピードで映画って作られてたんですね。

ただ、この頃、すでに映画産業の斜陽化は進んでいて、1971年には、日活はロマンポルノに切り替えたりと、各社苦戦を強いられていたと思います。東映もかつて人気だった任侠路線がかげりをみせ、新しい企画に悩んでいた時、このシリーズは観客を劇場に呼び戻しました。これをきっかけに、東映はいわゆる実録路線をスタートさせ、実際の暴力団の抗争事件を台本化していきます。仁義なき戦いシリーズは、ある広島やくざの親分が、刑務所の中で書いた手記がきっかけになっており、それを基に脚本家が実際に起きた事件を調べ上げて、相当しっかりとしたシナリオに仕上げているので、広島抗争史として誠にリアルな映画となっております。

実際、「完結篇」で描かれた第三次広島抗争の頃、私は広島市内の中学生でしたが、通学路が繁華街だったため、広島県警が、前夜に起きた抗争事件の現場検証をしているのを何度も見ました。パチンコ屋のガラス扉が粉々になっていたり、壁に弾がめり込んでたりいろいろですが、一般市民に流れ弾が当たったこともあり、絶対に夜の繁華街を歩かぬように云われていたと思います。

ある日うちに帰ったら、叔父さんが来ていて、喪服を着ていたので、

「お葬式?」と聞くと、Odoryaa

「おお、いま帰りじゃ。」

「誰が亡くなったん?」

「友達じゃ。」

「へえ、病気ねえ?」

「いいやあ、撃たれたんじゃあ、組のもんじゃったけえ。」

「えっ・・・・」

みたいな会話が、一般市民の普通の会話としてあったりします。

私の高校時代の友達で、街の中心部の酒屋の息子のK村君には、小さい時からいつもキャッチボールをしてくれた、隣の家のオジサンが、入浴中に拳銃で撃たれて亡くなった悲しい思い出があったり。

私が広島の中学に転校してきたその日に、私にけんかを売ってきたK君のお兄さんは、3学期になったころに、抗争で亡くなりました。

そんな背景もあり、普通の人より私の場合、臨場感強いかもしれませんけど、ともかく、映画はよくできております。

当時、40歳過ぎだった深作欣二監督は、まだヒット作はなかったけど、才能にあふれ、絶対にこの映画を当ててやろうとギラギラしていたし、シナリオも斬新、カメラワークも実験的でした。そして何より、当時は映画俳優という職業の人達が、大部屋も含めて非常に層が厚かったです。みなさん、スクリーンの中で、実在した人物を喜々として演じています。

主役の菅原文太さんはもとより、千葉真一さん、北大路欣也さん、松方弘樹さん、山城新伍さん、田中邦衛さん、梅宮辰夫さん、室田日出男さん、川谷拓三さん、成田三樹夫さん、渡瀬恒彦さん、加藤武さん、小林旭さん、そしてこの人も全シリーズに登場する重要な悪役・金子信雄さん等々。本当にいきいきと実録の人物が描かれております。また、広島弁がよく調べて研究されており、セリフに独特な世界観があります。 

金子さんの役を、一時、三国連太郎さんで考えられていたり、主役の菅原さんの役は、当初東映初主演の、渡哲也さんで進んでいたこともあり。また、あまりに題材が危ないので、1作で打ち切ろうという話になったり、いろいろな試行錯誤がありながら、公開された映画は空前のヒットとなり、全5篇のシリーズは完成します。

「仁義なき戦い」は、クエンティン・タランティーノや、ジョン・ウーはじめ、日本の多くの映画監督にも大きな影響を与えました。2009年に実施した「キネマ旬報」の日本映画史上ベストテンという企画では、、歴代第5位に選ばれています。

私が広島から上京した1973年から始まったこのシリーズは、5本とも宮益坂の下の渋谷東映で観たと思います。それ以来、今回ipadの画面で一気に鑑賞しましたけど、十分に当時の興奮をよみがえらせることができました。

この映画のスタッフや俳優さんたちが、短期間にものすごい集中力と情熱で作った作品だということも改めてよく伝わってきました。

いまは、おじいさんになられたり、すでに鬼籍に入られた映画俳優の方々、とにかく皆、脂が乗り切ってメチャメチャかっこえかったです。広島弁、あんまり上手じゃない方もおられましたけど、ご愛嬌ですかね。

 

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2011年8月 3日 (水)

Facebookのお誕生日

7月28日が、私誕生日なんですね。でも年齢も年齢だし、この何年も、特にこれといった何事もなく、近所に住んでる3歳違いの従妹の誕生日が1日違いなので、久しぶりにメールのやり取りするくらいで、ただ淡々と過ぎて行くんです。たいてい。

ちなみに、7月27日は、この従妹の旦那とその友達とでゴルフに行ったので、会社休んだんです。

で、その旦那と別れ際に、

「あ、奥さんに、誕生日おめでとうと言っといてね。」

とかいって、うちに帰って早くに寝ました。

次の朝、会社に来てみると、休み明けはいつものことなのだけど、メールがたくさん来ていて、この日はやけにfacebookからのメッセージが多く、これがみんな、お誕生日おめでとうという趣旨のものなんですね。

そおか、facebookの時代ってこういうことなのか。「ソーシャル・ネットワーク」っていう映画も観て面白かったし、いろんなところで、facebook話もいろいろ聞いたけど、実際どういうことになるのかは、あんまりわかってなかったんです。

 

2月頃だったか、一人の友達からfacebookへの招待が来たんですね。

「下河原さんからFacebookへの招待が届きました。Facebookに登録して、友達の近況や写真をチェックしたり、自分の最新ニュースを友達に知らせましょう。」

という文面でした。下河原さんも私も、その後それほど積極的に参加しているとは言い難いんですけど。

それから、徐々にさまざまな友人や知りあいから、

「○○さんから、Facebookの友達リクエストが届いています。」

というお知らせが来るようになりました。当然よく存じ上げている方が多く、中には存じ上げない方もいますが、たいていの場合は、友達リクエストやぶさかではないので、承認するわけです。そうこうしているうちに、私のfacebook友達は、現在72人ということになっております。

 

そんなことで、お祝いのメッセージをたくさんの方から頂戴し、ほうっておくのは失礼かとも思い、少しあわてもしたので、お昼前にお礼のメッセージを、私の方から出したんです、facebookに。そしたら午後からもいろんな方から、おめでとうメッセージが届き始めたんです。迂闊でした。私が大々的にお礼を云ったばかりに、それが催促になってしまったんだと思います。

要するに、私、この機能をよくわかってないし、使いこなせてないんですね。だいたい個人データの生年月日のところだって、月日だけ書いとけばよかったのに年まで入れるから、みんなに実年齢バレバレになっちゃってるし、男だからいいようなものの。

結局、7月28日が終わりに近づいた23:33までメッセージいただきました。スミマセン。

 

でも何だか、嬉しかったですね。

結果的には、何十人もの人からお祝いされたわけです。

子供のころから、7月28日って夏休みが始まったあたりで、学校の友達には会えないし、暑いし、あんまり誕生日ってやったことがなかったんです。1回だけ近所の子供集めてやったことがあったんですけど、誰かが持ってきてくれたおもちゃのボクシンググローブで、本気の殴り合いになって、友達が鼻血出して倒れちゃった記憶が強烈で、誕生日っていうとそのことばかり思い出したりしてましたから。だから、こんなにたくさんの人からいっせいにおめでとうと言われたのは初めての経験だと思うんですね。Facebookが知らせてくれたおかげであります。

今年、6月に誕生日を迎える友達のリストがfacebookから届いた時に、長く会ってない元仕事仲間の女性がいたので、懐かしい人集めて飲み会やったんですね。思ったとおり盛り上がりました。その時に、7月には私とそこにいたもう一人の友達が該当することがわかり、来月もやろうということになります。7月も7,8人集まって飲みました。また盛り上がります。そうすると不思議なもので、8月生まれの人がそこにいるのですね。そこで、そういえばあの人も8月だよね、そうだそうだということになります。これは確実に来月もやりますよ。

なんだかこの勢いでしばらく続きそうです、お誕生会。

 

友達の近況を知るのも、自分の最新ニュースを友達に知らせるのも、確かに楽しいです。誕生日を知らせるのはその最たる機能でしょう。何十年も音信が途絶えていた友人から、突然連絡があったのも嬉しかったです。これも、この仕組ならではのことです。

でも、先程も申しましたように、私的にはあんまり積極的に参加しているとはいえない状況です。Facebookを覗くと、実にいろいろな方からの、楽しい経験談や、新しいニュース、おもしろい写真などが溢れているのですが、どうも私には、こういう気のきいた情報を、サッサッと手早く送る才能がなさそうですし、だいたい身の回りのそういう出来事に気付く能力も低そうです。当分は、みなさんが発信した情報を受け手として楽しませていただくことになりそうです。

ただ、この機能のおかげで始まった「お誕生会」で、先頭きってはしゃいでいるのは私なんですけど。

やっぱり、人間がアナログなんでしょうか。

Happy birthday   

2011年5月20日 (金)

映画「チコと鮫」 再会

Tiko and the shark

「チコと鮫」という映画があるんですけど、1962年の制作となってるので、日本で公開されたのがその翌年くらいで、私は9歳の時に見たことになります。少年だった私はこれ見てえらく感動してるんですね。せがんで2回見たような気がします。

何故そんなに感動したのか。なんとなくのストーリーといくつかの印象に残ったシーンは覚えているのですが、だんだんと記憶は遠ざかっていきます。大人になってからも、ほぼリバイバル上映はされてないし、ビデオとかDVDを探しても、これだけは見つかりません。インターネットの時代になって、何度も検索してみましたがやっぱりダメです。

いつしか飲み屋とかで、も一度見たい映画の話になるたびに、「チコと鮫」が、みたい みたい みたい、というのが癖になっておりました。まして、人間、見れないとわかったとたんに、どうしても見たくなるということもあり。

そして、去年、またある飲み屋で、その話になったと思います。その時いっしょに飲んでいたのは、Nヤマサチコさんという私の長い友達で、同世代でもあり、「チコと鮫」のこともよく知っていました。というか、この人は本当にいろんなことを、正しくよく知っている人でして、この人のブログを読んでるだけで、かなりためになったりするのです。

その翌日だったと思いますが、サチコさんからメールがきまして、「チコと鮫」の1シーンが、YouTubeで見れることと、そのアドレスを知らせてくださいました。

約50年ぶりのチコとの再会です。そのシーンは、主人公のチコと鮫が初めて出会うシーンでした。

この映画の舞台は、自然豊かなタヒチです。少年チコは、海岸に迷いこんできた人食い鮫の子供を助けてやり、育てます。やがて成長した鮫はチコの前から姿を消し、それから10年後、たくましい若者となったチコは、海底で5メートルにもなったその鮫と再会します。

しかし、チコと鮫の暮らすタヒチには、だんだんと文明の波が押しよせ、かつての暮らしが失われていく中、いろいろなことが起き、チコは美しく成長した幼なじみのディアーラと鮫を連れ、平和に暮らせる島を求めてタヒチの波間に消えていくのでした。

だいたいこんなお話だったなと、少しずつ思い出すにつれ、ますますその映画を見たくなりました。

それから約1ヶ月後のある日、Nヤマサチコさんより小包が届きます。開けてびっくり、なんとそれは、“Tiko and the SHARK”と書かれたDVDでした。やったあああ・・・・

急ぎサチコさんに感謝のメールを送り、ワクワクしながらDVDプレーヤーにDVDをセットしました。

でも、ところが、うんともすんとも云わんのですこれが。そうかあ、この映画はイタリアとアメリカの合作ということだから、イタリア製DVDだとPAL方式かもなと思いいたり、そのあたりに詳しそうなわが社の社員に相談しました。(わが社は一応映像関係の会社なので) そこで、しばらくいろいろやってみてくれたんですが、わが社の機材では全く太刀打ちできぬことが判明し、専門の業者さんに判定していただくことにしました。そうこうしておるうちに、あの大地震に見舞われ、みんなそれどころではなくなってしまいました。

それから2ヶ月ほどたった数日前、このことをちゃんと覚えていて下さったポスプロの方から、きちんと日本の方式に変換された「チコと鮫」が届きました。

ああ、やっと会うことができました。みなさんほんとにありがとう。

一人でじっくり見ました。子供のころの記憶というのはたいしたもので、シーンによってはかなり正しく覚えていたりしますが、まったく違っていることもあります。だいたい、思い出していた時の映像というのは、眩いばかりのタヒチの光がキラキラした総天然色でしたが、映画にその色はありませんでした。モノクロの画全体に、セピアのフィルターを掛けているようで、人の肌はカラーに見えますが、よく見ると海も空もセピア色でした。多分、私がそのあとに見たいろいろな映画や風景の色が、私の記憶の「チコと鮫」に着色したのでしょう。

音声の言葉はすべて英語でした。アフレコだと思います。9歳の私が見たときには、字幕が入ってたと思いますが、小さい時から字幕の映画には慣れていたので、当時でもかなりの部分は理解できたはずです。それに、すごく簡単なお話ですし。

このDVDを見ながら、9歳の私がこの映画の何に感動していたか、少しずつ分かってきました。この映画、水中撮影がすごく上手なんですね。当時まだろくに泳げなかった自分にとって、水中を鮫と一緒に飛ぶように泳ぐ同年代のチコに憧れたのと、そして見たこともなかった南の島の風景に触れたこと。そして、成長したチコのガールフレンドのディアーラが美人でタイプだったことなどです。

いやはや、約50年の時を経て、得難い体験をしました。

 

実は、もう一本どうしてもビデオやDVDで見ることのできぬ映画がありまして、それは、1968年に公開された「黒部の太陽」という映画です。

14歳の私がめちゃめちゃ感動した映画でして、これを見たばかりに土木工学科に進学してしまったという曰くまでついております。

「黒部の太陽」に主演し、制作も手掛けた石原裕次郎さんは、ことのほかこの映画に思い入れが強く、この映画を映画館以外でかけることを許しませんでした。つまりビデオ化はありえません。1987年に52歳の若さで亡くなった後も、その遺志は石原プロモーションの社員たちに継がれ、未だ、ビデオDVD化はされておりません。

というような事情で、これもかれこれ40数年間見れておりません。YouTubeで予告編だけは見れますが。

 

ところが先日、石原プロモーション社長の渡哲也氏退任のニュースの時、2年後の会社創立50周年に合わせて「黒部の太陽」のDVD化の検討が始まったという情報が得られました。

これは朗報でした。DVDを鑑賞してまた熱く語り合いたいものです。Nヤマサチコさんは、黒部ダムのこともめっぽうお詳しいのですよ。

 

 

 

2011年4月27日 (水)

今 考えるべきこと やるべきこと

3月11日、14:45頃。未曽有の大災害。

一生忘れることのできぬ出来事。

会社の建物は全員が避難せねばならぬほど揺れ、一切の通信機能は麻痺し、呆然とするうちテレビに映し出されたのは、見たこともない津波の映像でした。誰も声を発することもできません。すべての電車は不通となり、東北地方の状況もつかめぬまま、翌日には福島第一原発爆発の一報。日本に人員を派遣している海外の法人からは、一斉に帰国命令が出されました。国内の報道では、ずいぶんと後になってから爆発後の原発の映像が流されましたが、外国ではとっくにみんな見ていたようでした。

福島第一原発は、いまだ危機を脱してはおらず、深刻な状況が続いています。おそらく解決には何10年もかかると言われ…

そして、現在も犠牲者の数は増え続け、13万の人々が避難生活を強いられています。

まさに国難。普段、国ということを特別に意識することはあまりないけれど、こんな時、やはり同じ国の人としてどうすべきか、深く考えてしまいます。今、国民一人一人が自分に何ができるかを、自らに問わねばならぬ時です。

四季の美しいこの国に、自然は大変な試練を与えました。しかしながら、この大きな天災の後に起きた原発の事故は、本当に防ぐことが出来なかったのだろうか、と思います。

あれから毎日報道される現場からの情報や、あまりに心配になって調べた参考資料に触れるにつけ、気がつけばこの地震大国には、55基もの原発が稼働しており、これからも建設中、計画中のものが、10基以上あるということ。そして今回のような事故が起きてしまうと、世界中の専門家がよってたかって命がけで取り組んでも、解決に要する時間は何10年、その間、はかりしれぬ放射能汚染にさらされるということ。どう考えても、今も刻々と汚染は進行しています。

こうなってくると、福島と同じように早い時期に建てられた、浜岡原子力発電所などは、多くの人口を抱える大都市、東京や名古屋などの喉元に突き付けられた匕首のようにさえ感じられます。

いつの間にこんなことになっていたのか。でもそれは私たち大人一人一人の責任なのですよ。より多くの電気を求める生活。一世帯当たりの電力消費量は、1970年の3倍近くになってるそうです。思えば子供の頃、一般家庭に電化の波が広がり、洗濯機でも冷蔵庫でも昔は頭に「電気」と付いていました。いつしかそれが消えたのは、電気が空気のような存在になってからでしょう。冬は寒く、夏は暑いもの、その道理にあらがう利器エアコンは、家庭電力消費の25%に、暗い夜を明るくする照明には16%が費やされています。何の気兼ねなく電気が使える暮らしが手に入っていました。でもそれは、ものすごく大きなリスクとの引き換えだったのです。

いっせいに節電を始めた暗い東京で思ったのは、なんだか懐かしい暗さというか、子供の頃、夜の街の風景ってこんな感じだったな、ヨーロッパの街もけっこうこんな風だったなとか。無意識のうちに私達は、むしろ電気を過剰摂取していたんじゃなかろか、と。

現在、私達が使う電力の約30%は原子力発電によるものだそうです。1970年代に、2度の石油ショックを経験し、石油への依存を減らすうえで、原子力発電が大きく浮上しました。ダムによる環境破壊も、世界的なCO2の問題も、それを後押ししました。日本は原子力発電に積極的に取り組み、原子力発電先進国と云われたりしておりました。でもその陰で、原子力というものの危うさを訴え続けていた技術者の方たちがいたことも事実です。先の大戦で唯一の被曝国となったつらい体験が、残念ながら原子力発電の推進に生かされていなかったかもしれません。悔しいです。

誰かに責任を取れと言っても始まりません。というか、責任を取れる人はいないんです。悲しいかな。テレビを見ていても判ります。なさけないですが。

それより、将来これ以上ひどいことが起きないように、いま、何をしておくべきかを真剣に考えることが大事です。またきっと地震は起きます、この国は。それを止めることができないとしたら、大きな犠牲を伴ったこの経験を教訓として、未来に備えるしかありません。そのことを今始めなければ、我々は後世の人たちにも犠牲となった方々にも顔向けできません。

人間は、電気を得るために、結果的にはさまざまの自然破壊を繰り返し、そして自らも傷つきました。ただ、文明の象徴である電気を、もう捨てることはできません。これから我々は、電気をどうコントロールして、どう折り合いを付けていくのか。

 

ほんとの意味で 「足るを知る」 とはどういうことなのか、課題は山積しています。

 Urakasumi

2011年3月10日 (木)

僕の尊敬する植木さん

会社で席替えがあって、荷物を整理していたら、そん中に何年か前に取ってあった新聞の記事が出てきました。なんだっけと思って読んでいたら、だんだん思い出しました。これ、読んで泣いたやつだ。ついつい手を休めてまた読んでしまいました。なかなか片付けがはかどらないのはこういうことしてるからなんですが。

それは、コメディアンの小松政夫さんが、師匠である植木等さんの思い出を語った記事でした。

植木等さんといえば、私が小学校3年生の時に、授業で『私が尊敬する人』という作文を書いた時に、迷うことなく選んだ人でした。

思い出すだに、当時のクレージーキャッツの人気はものすごくて、それこそ、TVに映画にCMにレコードに大活躍。コメディアンとして相当に面白かったんだけど、ちゃんとしたジャズバンドとしても成立しているというところもなんとなくかっこよくて、大人にも子供にも人気があって、日曜日の夕方6:30から始まる「シャボン玉ホリデー」は、どんなことがあっても必ず見る番組でした。

そのクレージーキャッツのメンバーは7人いて、みんなそれぞれに個性があって面白かったんですが、グループを代表するスターは、やはり植木等さんでした。

この人が繰り出す数々のギャグも、映画の中の無責任男のキャラクターも、

そして、彼が歌う唄の歌詞も、大好きでした。

こんな感じです。

 

♪ ぜにのない奴ぁ 俺んとこへこい

  俺もないけど 心配すんなUeki-san2

  みろよ青い空 白い雲

  そのうちなんとかなるだろう ♪ とか

 

♪ 人生で大事なことは

  タイミングに C調に 無責任

  とかくこの世は 無責任

  コツコツやる奴ぁ

  ごくろうさん  ♪  など

 

当時、まじめにこつこつ働いてた日本人も、高度経済成長に振り回されて少し参っていた日本人も、ほんとに励まされていたと思います。

 

植木さんが亡くなった2007年に、『植木等伝「わかっちゃいるけどやめられない!」』という本が出ました。すぐに買って読みました。あんな大スターだったのに、評伝として出版された本はこれだけです。それまでに来た出版の企画は、すべて断っていたそうです。

これを読むと、ほんとに尊敬すべき素敵な人だったことがわかります。

演じるキャラクターとは違い、堅実な人であったこと。グループの中でみんなから愛され、まとめ役だったこと。売れに売れた頃、進むべき進路に悩んでいたこと。お酒は1滴も飲めず、質素な暮らしぶりだったこと。破天荒な生き方をしたお父さんを愛していたことなどが書かれています。

この本の中にも、当然 小松政夫さんが出てきます。弟子と師匠として関わった小松さんの話に、植木さんの人柄がにじみ出ています。

 

役者を志望して、19歳の時に福岡から上京した小松さんは、様々な仕事を経て車のセールスマンをしていました。ある時、植木等さんの運転手募集の記事を見つけ、600人の応募者の中から勝ちのこり、付き人兼運転手になりました。そして、小松さんが初めて植木さんに会ったのは、植木さんが過労のためダウンして入院していた病室でした。

 

小松談

ものすごく二枚目でした。いつもテレビで見ていた時の声じゃなく、もっと低いキーで、

「植木です」 って言って、

「この世界に入るのに、何の抵抗もないの?」 というようなことを訊かれました。

しゃっちょこばっている僕を見て、

「俺のこと、何と呼ぶようにしようか」 って言った後、

「先生なんて呼んだら張り倒すよ」 って。

その時、「ああ、植木等なんだ」 って、やっと思ったんです。

緊張をほぐしてくれたんです。それから真面目な顔になって、

「君はお父さんを早く亡くしたようだから、私を父親と思えばいい」 と言ったんです。

その時に思ったんです。ああ、この人についていこう、生涯ついていこうって。

 

それから半年ぐらいで、小松さんは小さな役をいろいろ貰うようになり、ハナ肇さんからも、チャンスをもらい始めました。

その頃に、植木さんの有名なギャグ「お呼びでない、こりゃ、また失礼いたしました」は、小松さんが植木さんの出番を間違えて生まれたというエピソードがありました。

 

小松談

うそなんですよ。植木の思いやりですよ。私がセールスマンだった時に、あのギャグはすでにやってました。

「出番じゃないとリラックスしていたら、小松がねえ、何やってんですか、とせっついた。飛び出したら、ハテナという顔をみんなしてるから、できたギャグ」と、どこでも言うんです。

「こいつは面白いよ、使ってやって」とも。

あの聡明な植木が、間違えるはずがない。私の手柄にしてやろうと思いついたに違いない。

後に、奥さんには、

「小松が育ったのが、誇りだったのよ」と言われました。

 

3年10カ月経って、植木さんの付き人を卒業した時の話が、またいいです。

 

小松談

そうです。車を運転していて、突然後ろから言われたんです。

「明日から、来なくていい」 って。

青天の霹靂でした。私の独立にむけて、給料もマネージャーも決めてあった。

「社長も大賛成だと言ってる。だから、明日からは俺の所に来なくていいんだ」 って。

涙で前が見えなくなり、車を止めさせてもらって、声を出して泣きました。

・・・・・

何分くらい泣いてたのかな。その間、ずっと黙って待っていてくれて、

しばらくして、

「別に急がないけど、そろそろ行くか」 って。

僕は我に返って、「はい」 って言って車を出したんです。

粋だったですね、やることが。

 

 

私が小学校3年生の時の作文で、、尊敬する人に、植木等さんを選んだことは、本当に間違ってなかったと思ったのでした。つくづく。

 

何でもいいから一度お会いしたかったです。

 

谷啓さんとは、一度仕事でお会いしました。音楽を作ってくださったんです。

これはホントに嬉しかったです。

録音中、得意の「おや?」というギャグをやってくださいました。しびれたなあ。

 

 

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