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2010年6月15日 (火)

街道をゆくのだ

このところ、まだ読んでない本が溜ってきています。今読んでる本は、560P、うちのリビングに転がっている本が、710P、600P、470Pと、どれも大作で、会社の棚にも4冊、他にちょっと前にいただいたのと、面白いのでぜひにと薦められてお借りしているのが、各1冊ずつあります。

たまに本屋に寄ると、ついまとめ買いしてしまう癖が直らず、おまけに最近では、インターネットで本を買うことも増え、これはほっとくと1週間以内に家に届いてしまいます。インターネットで見つけた本は、買っとかないと忘れてしまいそうで、ついついカゴに入れてしまうわけで、これも一種の老化現象かもしれんのですが。

本屋でまとめ買いしてしまうのも、読みたいと思ったら、ここで買っとかないと、このまま会えなくなるような気がするからで、今時そんなことは絶対にないのだけれど、何か本というものには一期一会の気分があるんでしょうか。

そんなわけで、書籍デジタル化の波とは全く関係なく、私のまわりでは、今も不気味に本が増え続けているのです。

ま、どっちにしてもちょっとペースを上げて読まねばなと思っているのですが、そんな時に限って、本屋の棚にズラッと並んだ、司馬遼太郎さんの文庫版「街道をゆく」シリーズと目が合ってしまったりするわけです。ご存知の通り、これは司馬さんの有名な紀行文のシリーズで、私もいつか読もうと楽しみにしておりました。執筆は1971年に始まり、1996年に絶筆となるまで続き、その間ずっと街道をゆかれ、43巻の大作となったわけです。

そんなことで、いきなり全部を購入することは避けましたが、とりあえず第1巻を購入して、ぼつぼつと読み始めることにしました。

1巻の第1話の旅は、「湖西のみち」です。琵琶湖の西、近江路、司馬さんの小説に近江の国はよく出てきます。この冬、有志で発酵食品の研究と称して、たまたま旅したところでもあり、小さく盛り上がりつつ読み進みましたが、やっぱり思ってたとおり良い本でした。

この人がこの地を歩いたのは、すでに40年も前のことなのですが、当時の風景から彼が見ているのは、古代や何百年も昔の空気だったりするので、古い本を読んでいる気はしません。

かつてこの地に、どんな人たちがどこからやって来て、どんな暮らしをしていたか。それからどんなことが起こり、そしてどこへ行ったか。土地に残された記憶や風景をたどり、空想は様々な時代へと飛び、旅が続きます。

たとえば、何百年も前に作られた湖西の街の、溝の石組みの見事さから、この地の土木技術のレベルの高さに話は及び、戦国時代に、この地から諸国の城の土台作りに、多くの技術者が借り出されていった史実が語られます。

そして、先祖代々技術を受け継いだ湖西の人々が、当時次々に始まった城塞の工事のために、旅立っていった姿を見守っているような司馬さんの視線があります。

他に、織田信長が朝倉攻めのとき、その生涯で唯一敗走した朽木(くつき)という渓谷の道のこと、第十二代の足利将軍義晴が、京を逃げ出し、身を潜めた興聖寺(こうしょうじ)という寺のことなど、その地にまつわる様々な話があふれます。

まさに、知るを楽しみ、空想を楽しむ、高尚な旅ですな。

この年齢になるまで、いろいろ旅をしてまいりましたが、なかなかこのような高尚な旅とはならず、ついついおいしいものや、酒場のお姉さんに気を取られたりしながら、ここにいたっており、お恥ずかしい限りです。Awajishima

そこで、いい歳なんだし、これからはちょっと心を入れ替えて、先生の足元には及ばずとも、もう少し高尚な旅というものをしようと、ひそかに決意しました。

できるかどうかはともかく、そう思った矢先、この夏の旅の計画を練り始めております。

淡路島方面、どうも今回も食いしん坊旅行になってしまいそうな気配ではあります。

動機が動機だしな、などと思いつつ、「街道をゆく」の目次一覧をみておりましたら、

お、ありましたよ。第7巻に「明石海峡と淡路のみち」という章がありました。

せめて、これ、行く前に読ませていただきます。

こういうのを、付焼刃(つけやきば)というのですけど。

  

  

 

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