2012年12月19日 (水)

ハトヤホテル社員旅行

3年ほど前に、社員旅行キャンプというのをやって、それ以来、社員旅行というものをしてなかったんですが、そろそろやろうかという話になり。

行ってきました3年ぶりの社員旅行。キャンプが2回続いていたので、ふつうに旅館に泊まる社員旅行は、実に6年ぶりで、今回が初めてという若い社員もけっこうおります。どうしてこんなに長く社員旅行ができなかったかというと、忙しかったこともあるんですが、だんだんに社員の数が増えたことによって、全員のスケジュール調整が難しくなり、何とか全員参加でやろうとするたびに、延期を繰り返してきたからでした。

そこで、今回は全員参加できなくても決行すること。遅れても後から参加できる関東近郊で、2泊の温泉旅行とすることにしました。

で、どうせならみんなで浴衣着て、昭和の典型的な、お座敷宴会社員旅行にしようということになったのです。

そこで幹事団が選んだ場所が、伊東温泉ハトヤホテルでした。うーん確かにコンセプトには、合っています。そして宴会の企画は、紅白歌合戦です。うーん確かにこれ以上ないベタな企画です。

でもこれが、盛り上がったんですねえ。長く行われなかった社員旅行というものに、皆飢えていたのでしょうか。仕事が忙しい中、歌の練習も振り付けも完璧です。こういうことになると、絶対手を抜かないんですね、この会社の人たち。

唄以外にも様々な芸が繰り出され、旅館の仲居さんたちにも大うけで、その勢いのままハトヤカラオケバーに移動して、歌と踊りが続きました。そのお店が閉店になった後は、部屋に戻って飲み、ギターで唄い、そこが落ち着くと、タクシーで夜の街のラーメン屋に向かう一団となり、少しずつ人数は減りますが、主力は朝までコースです。

Hatoyaなんというか、あきれるばかりのエネルギー。翌朝早めに出発したので、朝の各部屋をのぞきましたが、大半が死んだように寝ております。おおよそ慰労とか慰安とは、ほど遠い社員旅行と相成りました。

考えてみれば、自分が若かったころの昭和の社員旅行というのは、だいたいこういうパターンでしたが、最近こういった風景は、あまり見かけなくなりました。多分若い人にとってはけっこう新鮮で、たいていの人は初体験だったんではないでしょうか。

それに、このハトヤホテルというところが、昭和という時代のテーマパークのようなところなんですね。とにかく何でもサイズがデカくて、ロビーも宴会場も食堂も風呂場も脱衣場も卓球場もカラオケバーも廊下も客室も、子供が全力で走れる広さです。

おそらく昭和の高度成長のころ作られ、たくさんの社員旅行がここで行われ、そしてたくさんの家族がここを訪れたんだと思いました。そういえば、あの頃テレビでは、ふつうにハトヤホテルのTVCMが流れていて、コマソン今でも覚えてますものね。

♪伊東に行くならハトヤ 電話は4126(よい風呂)♪

(野坂昭如 作詞 いずみたく作曲)

いや、今もご健在で何よりでした。

チェックアウトしてホテルを出ようとしたら、担当ホテルマンの方と、女性の事務員の方が駆け寄ってこられまして、この女性社員の方は、昨夜の宴会で仲居さんをしてくださり、うちの社員のしょうもない芸を見て転がって笑ってくださってたのですが、

「この度は、誠にありがとうございました。来年も是非皆様でお越しください。」

と、これ以上なくご丁寧なあいさつをいただき、ややたじろぎましたが、

みんなで、浴衣着て、温泉入って、宴会やって、こういうコミュニケーションもたまにはいいもんでありました。エネルギー使い切りますけど。

 

 

 

2012年11月29日 (木)

心が残るということ

人の縁とは不思議なもので、ある時深くかかわると思えば、疎遠になったり、また近づいたり、好きになったり嫌いになったり。そして、突然の別れがやってきたり。

先日、大切な友を失くしました。54歳でした。

知り合ったのは、30年も前、彼は四つ年下で、新入社員として私の働いていた会社に入ってきました。ちょっと面白い奴でしたが、数年して彼は会社を辞め、その後、私も会社を辞め、しばらく会っていなかったのですが、ひょんなことから、この数年付き合いが再開し、今度はすごい勢いで接近し、しょっちゅう一緒にいるようになりました。

彼も私も年相応に変わったかもしれないけど、昔とは関係がまた違って、なんだか気が合って、4歳違いの兄弟ができたようでした。

でもこの秋、思いもかけぬ別れがやってきました。急病で入院して、何をする間もなく、逝ってしまいました。まだ実感がありません。

こたえました。

運命とでもいうのか、何かの力が人を近づけたり離したり、突然連れ去ったりしているのでしょうか。悲しくていろいろなことを考えさせられて、まだどうやって気持ちの折り合いをつけていいのかわからぬままです。

昨夜、彼を偲ぶ会が行われて、私は司会をすることになり、彼に何かを語らねばと思い手紙を書きましたが、でも、その場で手紙を読むことはできませんでした。彼の二人の息子が、お父さんを語ったところから、私は涙で何もしゃべれなくなったんですね。弟分のヒロシは、清書した手紙を9分もかけてきちんと読んだのに…立派でした。

手紙は彼の奥さんにお渡ししました。

 

 

以下、ちょっと長い手紙です。

 

いまだに君の不在に、何の実感ももてず、受けいれることできずにいます。

いい年をして、いつまでもこんなことを言っている自分をどうしようもなく、そのような気持ちのまま、今夜は、君を偲ぶ会の司会をさせていただくことになりました。

君が大好きだったゴルフを、この数年間は、たぶん最も一緒にプレイしたと思われるので、・・・・・・・、私がやらせていただきます。

君のゴルフは筋金入りでしたね。時間をかけて、それこそきちんと鍛錬し研究して身につけたもので、本当にゴルフというものに対しての造詣が深かったし、全くほれぼれする球筋でした。

プレイのスタイルもファッションもかっこよかった。

何に対しても、興味があることにはきちんと向き合う人でしたよね。

何年か前に、ひょんなことから君とゴルフをやるようになった私はといえば、ゴルフというものに対していい加減で、どうやって取り組んだらよいのかも、分かってない人でした。

でも、君を通して知るゴルフは本当に面白くて、いつの間にか本気でやるようになり、君と君の先生でもあるヒロシプロの特訓を受けて、毎回、目からうろこが落ちる気がしたものです。

結局のところ、100のあたりを行ったり来たりで、君の大のゴルフ友達というにはちょっと恥ずかしくて、君にも悪い気がするのですが、ほんとによく一緒にゴルフをしました。

ただ、よく考えてみると、ゴルフは口実でもあり、私は君に会いたかったんだと思います。

君とゴルフをしながら、つまらない冗談を言って笑ったり、仕事や家族や友達の話をしたり、また次のゴルフの相談をしたりする時間が、私は大好きでした。

きっと君の人柄なんだと思います。

ゴルフの連絡は、いつもメールできましたが、そのたびに顔がゆるみました。君は酒が飲めないのに、一緒に飯食ってるとほんとに楽しかったし、いろいろ旅行にも行きました。君の仲間ともたくさん友達になれました。

本当に世話になりました。

 

ところで、君と初めて出会ったのは、間違ってなければ、1981年の春でした。君が初めて就職した会社に、すでに先輩として私がいたわけで、ずいぶん昔の話ですね。一緒に仕事もしたけれど、君は湘南のサーファーで、波のいい日には波に乗ってから出社するような奴で、私は、毎晩どこかのバーで突っ伏して寝てるような奴だったから、あんまり接点なかったし、そのうちに君は会社辞めて、湘南に帰って事業を始めたから、しばらくご無沙汰していました。

でも、縁というものはつながってて、私にとって、6歳年上の兄のような先輩が二人いるのですが、この二人が昔から仲良くて、15年ほど前に、湘南の君の家のすぐ近くに住み始めたんですね。コーちゃんと、ヤマちゃんですが。

そしてこの二人が、まさに君の10歳年上の双子の兄のような存在になりました。

ほんとに仲良しで、笑いが絶えなくて、わたしはたまに3人を見かけると、

「よっ、湘南三バカトリオ!」などと言っておりましたよ。

君も、「ほんとにしょうがない人たちですよね。」などとぼやきながら、

ほんとに兄さんのように思ってたと思います。

私も君のゴルフの弟子みたいになってからは、よく湘南にも行くようになって、四バカカルテットみたいになって、私、一人っ子だから男兄弟ができたみたいで嬉しかったんですね。

君は、仕事でも地元でもほんとに頼もしいリーダーだったから、気持ちのいい後輩たちがたくさん集まっていて、いつもにぎやかでした。

こんな時間がずっと続くことに、何の疑いもなかったですね。

 

急いで逝ってしまったから、心残りのことも多かったと思うけど、私でよかったらいつでも話しかけてほしい。

君からもらったものは、ずっと大切にしていきます。

ほんとに、いろいろありがとう。 Kazumi

 

 

 

 

 

2012年10月17日 (水)

最強のふたりが、Like someone in loveで、北のカナリアたちだった

このところ、なかなか映画を観る時間がなくって、しばらく映画館に行かなかったと思ったら、ここにきて3本続けて観ることになり、これがまた、それぞれに種類は違うのだけれど、すごくよく出来た映画だったんです。

「最強のふたり」は、私のまわりで実によく映画を観ている友人がそろって、すでに今年のベストワンだと言うだけあって、久しぶりにとても良いフランス映画をみせていただきました。

この最強のふたりの人生には、それぞれすごく重いものを抱えているのだけど、最強のエスプリとユーモアでそれを乗り越えてしまう爽快感と、ただ気持ちがいいだけではない深さがあります。ふたりのキャスティングは実にすばらしく、これからもとても気になる俳優たちで、また、この話が実話であるということも、読後感をより深いものにしました。

当初それほど多くなかった上映館も、途中からどんどん増えていったようで、観客というものは正直で、いい映画がかかれば、口コミでどんどん映画館にやってくるものなんだなあと思いました。

私が観たのは、新宿の武蔵野館だったんですけど、そこで同時にかかっていたのが、

「Like someone in love」で、これは会社のF井さんに、絶対に観るべきだと強く薦められたので観たんですが、(この人に薦められるとわりと観てしまうんですけど)これはこれでとても面白かったのです。

監督脚本がイランの名監督アッバス・キアロスタミなんですけど、この人が日本で日本の俳優とスタッフを使って撮ったもので、ともかく驚くのが、本当に現代の日本をよく捉えていて、おまけにこれ、3人の日本人の会話劇でもあって、イランの人がよく脚本書いて演出してるなっていうところなんです。

観客は日本の日常の中をゆっくりとすすんでいくお話に、なんとなく付き合っているうちに、気がつくとこの監督が作りあげた世界にすっかり連れて行かれた感じがするんですね。この3人の出演者、おじいさんと、若い男と女なんですが、実に造形が見事でリアルなんです。ほんとにこの監督、外国人なんだろうか。だいたい加瀬亮とかにどうやって演出してるんだろうか。でも、俳優はものすごく理解してやってるように見えるし、映画という共通言語は、天才にかかると簡単に国境を越えてしまうのですね。びっくりしました。

それともう一本、これは邦画なんですが、11月に公開予定の「北のカナリアたち」の完成試写会で、できたての初号を見せていただきました。あまり予備知識もなく、油断してたわけではないのですが、ともかく号泣してしまった。後半からラストに向かって、もうどうしようもなく涙が止まりません。最近、歳とって涙もろくはなっているのですが、そういうことではなく、いや、泣きましたよ。ひさしぶりに。

スタッフもキャストも本当によい仕事をされてるんですが、順番に行きますね。

侮ってたわけじゃないんですけど、阪本順治監督はやはりいい監督さんです。この方にはたくさん名作があって、個人的には「どついたるねん」「顔」、昨年の原田芳雄さんの遺作となった「大鹿村騒動記」など好きなんですが、この「北のカナリアたち」も、きっと代表作になると思います。

映画の中で6人の若者たちと、彼らの子供時代の話が行ったり来たりするので、子供のシーンがたくさんあるんですけど、子役の使い方がうまい監督さんなんですね。自論ですけど、名監督って昔から子供のシーンがうまいんですね。





Moriyamamiraiそして、この6人の若者を演じた役者さんたちが皆よかったです。現代日本を代表する頼もしい俳優さんたちです。TVドラマもよいけど、これからは映画にたくさん出てほしいなと思ったのです、おじさんは。

登場順、森山未来、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平、以上。

そして忘れてはならないのが、主演女優のわれらがこの方、この方がいらしたからこの映画はつくられたわけですから。映画の中では、この6人の子供時代の小学校の先生の役で、40歳と20年後の60歳を演じておられます。かつてこの国を代表するアイドルであったこの方の実年齢を、私達観客は知っているだけに、その姿と演技には心打たれます。氷点下-30℃のロケ地での撮影。海を泳いだり、煙突のはしごを駈けのぼったり、本当にこの方はおいくつだったんだっけかと思いました、ほんとに。

キャメラマンの木村大作さんが初めて阪本監督と組んだことも、映画の完成度を上げました。木村さんの大自然の映像には定評があり、今回の雪・海・島の風景も見事です。余談ですけど、あの高倉健さんが雪の中で立っている風景はほとんど木村大作さんがお撮りになってます。それと、ご自身で監督をおやりになるほど映画を知り尽くした方なので、時間軸と人間関係が入り乱れたこの複雑なお話を、非常に分かりやすくしているのは、木村さんと阪本さんによるところが大きいと思われます。

いろんな意味で超大作ですし、情報過多の傾向はあり、つっこみ所がないわけじゃないんですけど、そんなことはどうでもよいほど、観てる方は引っ張り込まれ最後は鼻をすすることになります。お見事なんじゃないでしょうか。はい。

 

久しぶりに続けて映画館で観た3本は、つまり、あたりでした。

こういうことがあると、また映画館に足が向きますね。そういうもんです。

 


2012年9月 5日 (水)

オモダカヤッ!

市川亀治郎という歌舞伎役者を、はじめて見たのは、いつ頃だったか。まだ声変りもしていない子供だったし、この人は生まれが1975年なので、1980年代の前半だった気がします。

そのころ、マイブームというか、仕事仲間のNヤマユキオ、Nヤマサチコ夫妻や、先輩のY田さんたちといっしょに、市川猿之助の大ファンとなり、たしかNヤマサチコさんは「澤瀉会」(おもだかかい)にはいって、皆のチケットを取ってくれてた気がしますが、ともかく市川猿之助の歌舞伎公演は全部観ておりました。

いや、本当に面白かったのですよ。猿之助という人は、役者として、比べようもなくすばらしいのだけど、演出家としてもすぐれた人で、明治以後、疎まれた外連(けれん)を復活させたり、外連とは早替わりや宙乗りのことを云うのですが、他に古典劇を復活したり再創造したり、いわゆる当時の由緒正しい歌舞伎の世界では、ニューウェーブというか、アバンギャルドで、私達は大いに支持してたわけです。

昔ながらの歌舞伎という文化に触れながら、この経験は、相当に楽しかったんですね。

その猿之助さんの弟が市川段四郎さんで、いつも重要な脇役をおやりになっていて、その息子さんが市川亀治郎なんです。子役の時からとても上手で、人気者でしたが、成長するに従ってどんどんうまくなるんですね。私達はそれが嬉しくて、彼のことを親しみをこめて、カメ、カメと呼び、当時30代だった私達は、

「カメの成長を、老後の楽しみにしよう。」などと話し合っておりました。

それから何年もの間、私達の猿之助熱は冷めず、追っかけは続くのですが、1986年には、彼の大事業となるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が発表され、この人のスケールの大きさにまた驚かされます。このあと結婚したばかりの私の妻も猿之助ツアーに加わり、古典もスーパー歌舞伎も逃さず観劇する勢いで、1993年の「八犬伝」くらいまでは観たと思いますが、その後少しずつ縁遠くなってゆきます。

ある意味、猿之助の役者としてのピークを見届け、少年から大人になってゆく亀治郎を見届け、私達の澤瀉屋歌舞伎三昧は、一段落します。

そのあと、2000年頃ご縁があって、猿之助さんと幼いころに離別された息子の香川照之さんと仕事をご一緒したことがあって、頭のいい人だなあと思って感慨深かったり、最近になって、大人になった亀治郎さんをテレビで見たりして、やっぱり澤瀉屋の顔だなあと感心したりしていました。

そして今年、あの亀治郎が、四代目市川猿之助を襲名するというニュース。そして、香川照之さんが、九代目市川中車を、香川さんの息子さんが五代目市川團子を襲名、6月7月に披露公演があるということ。

そうかあ、そういうことになったら、久しぶりに猿之助歌舞伎観たいなあ、と思っておりましたところ、うちの奥さんがインターネットで、7月の「ヤマトタケル」の桟敷席をゲットしてくれました。桟敷席かあ、懐かしいなあ、昔よく分不相応な桟敷席で酔っぱらいながら観劇したなあ、などと感激しておりました。

さて、四代目市川猿之助と九代目市川中車の口上にはじまり、私としては26年ぶりの「ヤマトタケル」のはじまり、はじまり。

Ennosuke
いや、驚きました。

舞台に現れたヤマトタケルの姿は、先代の市川猿之助がよみがえったかのごとくでした。

そうなんです、身体つき、身のこなし、声、顔形、完全に私の記憶の中にいるあの26年前の、市川猿之助です。ちょっと怖いほどなんです。

澤瀉屋という血のなせることなのでしょうが、一つの名跡を一族で守る梨園という社会だから起こることです。亀治郎という役者は、少年の時からずっと、この猿之助という役者を凝視して育ったんですね。そう思いました。

「ヤマトタケル」の原作者である梅原猛さんは、1986年の初演の時、一人の少年が楽屋の廊下で竹刀を振ってヤマトタケルの真似をしていたのを覚えています。少年が誰だったかは云うまでもありません。

今更ながら気づいたんですが、歌舞伎のファンには、こういったDNA的とでも云う楽しみ方があるんですね。歌舞伎の世界がどうして世襲制なのかよくわかりました。

「いやあ、先代と生き写し。」などと云って、しびれるわけです。

そこには、一方で、その名跡に足りているかどうかの、厳しい客の評価もあるのでしょうけど。

そういう意味では、四代目市川猿之助襲名は、多くの猿之助ファンをしびれさせました。私もなんだかとても嬉しかった。

そしてもう一つ、澤瀉屋ファンを絶叫させたのが、第三幕、子役の團子がワカタケルに扮して登場するシーンです。もちろん市川團子は、香川照之さんのご子息で、先代猿之助さんの直系のお孫さん、まあ一族のプリンスなのですが、この時の客席からの掛け声がすごかった。

「よお、オモダカヤ!」「オモダカヤ!!」「オモダカヤ!!!」

これはもう、一夜の夢などではなく、はっきりと見え始めた澤瀉屋の未来なのです。

 昔、「成長した亀次郎を、老後の楽しみにしようね。」と語ったことが、

正直、その通りになってきました。そして、その先の未来もたのしみです。

長生きしなくちゃだわ。

 

 

 

2012年8月15日 (水)

真夏のスポーツ観戦記

この夏は、ロンドンオリンピックの年でもあり、例年にも増してスポーツ満載。

ヨーロッパ圏のオリンピックは、寝不足覚悟とはいえ、連日の熱戦にややばて気味ではあります。最近歳のせいか涙もろくもあり、日本選手の活躍に、真夜中に一人涙ぐんでいるのもどうかと思っておるうちに、はやくも閉会式。習慣で朝早くに起きてみると、この日は、全米プロゴルフ選手権の最終日でもあり、復活をかけたタイガー・ウッズが、新鋭のロリー・マキロイを追い、そこに石川遼も参戦の様子が伝えられています。

かと思えば、同じ時間大リーグでは、テキサス・レンジャーズのダルビッシュ有が、デトロイト・タイガースのスラッガー、カブレラやフィルダ-を相手に、12勝目をかけて渾身の投球をしておりました。

そしてふと時計を見れば午前6時半、あと2時間もすれば、今度は夏の甲子園高校野球選手権大会の中継が始まります。こちらは大会6日目、今日も熱戦に次ぐ熱戦です。

思えば、この夏の私のスポーツ漬けは、この高校野球の東東京地区予選から始まりました。7月7日に開幕したこの大会に、うちの息子も出場しており、7月17日に優勝候補の強豪国士舘高校に6-0で敗れるまで、3試合を戦い、高校の野球生活を終了しました。この大会で敗れると3年生の部員は、そこで引退ということになるのが、夏のならわしのようです。全国3985校の球児たちは、たったの一校を除き、3984の敗戦を積み重ねてこの大会を終えることになります。トーナメント戦てそういうことなのだけれど。

息子たちのチームのこの3試合は全部観戦しました。平日には会社も休み、ものすごい猛暑の中、最後まで見届け、どうしちゃったんだというぐらい日焼けもしました。まさに夏の高校野球を満喫したんですね。

なんかこいつらの野球がこれで観戦できなくなると思うと、どうしても観ておきたかったんです。もちろん甲子園に行くずっと手前で負けてしまうだろうということも判ってるんですが。

彼らの学校は中高一貫校で、珍しく中学から硬式野球部があったので、彼らの学年の野球は、6年間見てきたことになります。まだ小学生に近い体型だった頃から見ていると、ずいぶんと身体も技術も成長したように思うのですが、勝負は相手あってのこと、突然見違えるように強いチームになることはありません。でも6年間、暇さえあれば、公式戦も練習試合も観に行きました。負けることの方が多いけど、皆少しずつうまくなってきます。今まで絶対に捕れなかった球が捕れたり、打てなかった球が打てたり、アウトにできたり、セーフにできたり、そういうのを見ているだけで飽きなくて。前より下手になることはあんまりないんです。硬式野球部ってどこもけっこう練習するもんなんですね。練習もきついし、監督もきついです、ものすごい勢いで身も蓋もなく怒られています、いつも。



Kokoyakyu何度も見に行くことで、一人一人の選手たちのキャラクターがわかってくるのも面白いことで、身体の成長も個々に違うし、それぞれ得手不得手があるし、性格も少しずつわかってきます。そういう中で、みんな泣いたり笑ったり、悩んだり調子乗ったりしながらやってきたわけです。残念ながら途中で退部してしまった仲間もいました。うちの息子も、何度かやめることになりそうなことがあったようだし、最後までやり通した連中というのは、それだけでほめてあげたいところがあります。

そして最後の夏、なかなかいい試合を観せてもらいました。だいたい得点力は低いのですが、いい守備をして、エースも踏ん張り、先手を打って逃げ切るパターンを彼らなりに作って頑張りました。最後に戦った国士舘高校は、さすがに優勝候補、格が上で手も足も出なかったけど、8回まで3-0で踏ん張り、エースも8回力尽きて6-0になって敗れたけど、コールドになってもおかしくない相手でしたから、よくやったと思います。

ただ、息子たちのチームがどれほど練習したと言ったところで、あの試合で初回にホームランを打った国士舘の3番バッターは、毎日の練習の後、10km走ることと1000回の素振りを欠かさないと、新聞に書いてありましたから、上には上がいるんです、果てしなく。

その国士舘高校は、東東京代表をかけた決勝戦に進み、大接戦の好ゲームの末、惜しくもサヨナラ負けを喫しました。もうこのあたりになると、どこが甲子園に行ってもおかしくないレベルなんでしょうが、勝負は時の運です。そして甲子園ではもうすぐ、この夏一度も敗れることのなかった一校が決まります。

 

息子の高校野球から、世界でたった一つの金メダルまで、ものすごくたくさんの勝ち負けを見届けては、そのたびに深いため息をつく夏なのです。

 

 

2012年6月22日 (金)

飛行機、こわい

Jetplane
元来、飛行機というものが苦手で、学歴を理系と文系というものに分けると、理系に属する私がこういうこと云うと恥ずかしいのですが、いまだに理解できないんですよね、何であの重ったいものが空飛ぶのか。

いや、何度も乗ってますよ、飛行機。つい先日もチューリッヒまで12時間、その後、国内便で1時間。

そこに行くべき用件があり、それに乗らねば、そこに行けなければ、それは覚悟決めるんですけど、どうしても納得してないんですよ、それに乗って空飛んでることに。

だから、今まで何べん乗っていても、それは仕事だったり、どうしてもそうしなければならない状況かどうかで、しかたなく乗ったというか、いつも、今回は仕方ないよなと、心の中でつぶやいているんですね。今まであれだけ飛行機乗ってて、自分のお金を払って乗ったこと2回しかないんです。なんていうか、自らのせいでそうなったんではなく、誰かのせいでそうなったんだということで、止むを得ずと思うことにしてるわけです。

何か、飛行機のこと好きな人がこういう文読んでると、イライラするというか、じゃ乗るなよお前とか、思うと思うんですけど、すいません。

国内の場合、どこかに行くことになった時に、すぐにどこに飛行場があるか調べる人いますけど、いや、そこに行くのはJRの方が便利なんじゃないかとか、飛行場までの時間や、飛行機飛ぶまで待ってる時間入れると、電車の方が早くない? などと、すぐにJRのまわし者のようになります。駅弁買ってビール飲みながら行こうよなどと言うのも、自分がリラックスできるからそう言ってるだけなんですね。

飛行機好きな人って、すごくいろんな航空会社のことよく知ってて、機内食なんかのいろんなサービスにも詳しくて感心します。自分が好きな会社や便があって、マイルがたまったら、それを利用してまた飛行機乗ったりしますよね。

私も最近になって、周りの人から勧められて、マイルためるようになりましたが、何かこれがたまることによって、また別の飛行機に乗るようなはめになったらどうしようかと、なかばひやひやしていたりします。

見渡してみると身の回りには、私のように飛行機が苦手な人というのもわりといて、私の奥さんもそういう人です。たいていの趣味も性格もほぼ合わない夫婦なのですが、飛行機に関しては同じ気持ちになれます。したがって、うちは家族で飛行機に乗ったことは一度しかありません。たった一度家族でハワイに行ったときに乗りました、その時だけです。家族旅行は、圧倒的に新幹線か車です。

仕事仲間にも、すごく飛行機がダメな人がいます。

いつだったか金沢で撮影の仕事が終わって、3人でタクシー乗って小松空港に向かっていた時、誰からともなく、実は飛行機って苦手なんだよねっていう話になって、聞いてみると全員そうで、3人とも我が意を得たりになって、またこういう人たちに限って、飛行機事故の話にやたら詳しいんですね。そんなこと散々話してるうちに、誰かが運転手さんに言ったんです。

「JRの小松駅って、ここから遠いですか?」

結局、飛行機キャンセルして、電車で東京まで帰ったんですね。ビール飲んで駅弁食べながら、皆ご機嫌でしたね。4倍ほど時間かかりましたけど。

また、私の知ってる人の中でも相当飛行機に弱いカメラマンの方がいらっしゃいまして、二人でロケ地に向かう機内で打ち合わせをすることになった時、

「じゃ、打ち合わせしましょうか。」って声かけたら、

その時、その人が読んでた雑誌は上下逆でしたし、その時打ち合わせしたことは、現地についいたら全部忘れてました。

でもこの人、空撮になるとヘリコプターから身を乗り出して撮影したりするんですよね。

そういうのはいいらしくて、よくわかんないんですけど。

 

そんなことで、きれいで感じのよいキャビンアテンダントさんから、

「どうぞおくつろぎになって、快適な空の旅をお楽しみください。」

とか言われても、基本的に空飛んでるあいだは、緊張しているわけで、あまりよく眠れなかったりします。ただ、海外からの帰りの便では、仕事が済んでちょっとホッとしてたり、疲れてもいるので、寝ちゃうこともあり、むしろそういうときは積極的に寝てしまおうとするんですね。

でも、思い通りにならないこともたまにあり、これも旅の面白さですけど。

ロスから東京に帰る便で、私の席のまわりが、観光とかじゃなくてはじめて日本に行くことになった中国人の団体だったことがあって、たぶん20人くらいいたと思うけど、皆 興奮しててうるさいのと、何かと私に東京のことを聞いてくるわけです。私、あんまり英語できないからわかんないって云ってるのに、なるべく簡単な単語使って、身振り手振りで話しかけてくるんですね。でもまあいろいろ不安なんだろうし、極力役に立ってあげられればと、話してるうちに、何か仲良くなって着くまでしゃべりっぱなしで、

寝るどころかくたくたでした。

こういう人って、基本的に良い人で、初めて日本に行く人のことが多いです。

これもいつだったか、サンフランシスコから帰ってくるときに、やはり隣の席のご婦人が、生まれて初めてアメリカから海外に出る人で、その時、私、飛行機に乗る直前まで、仕事で三日三晩徹夜していて、完璧に成田まで寝て帰ろうと思ってたんですね。

このミセスが、すごくフレンドリーに話しかけてくださるんです。私、英語があんまり話せないんですいませんねって云うと、なんか中学生レベルの英語で私がわかるまで話しかけてくださるわけです。どうも娘さんが北京に留学しているとかで、はじめて母親である私が会いに行くんだと、興奮気味です。あーー北京は行ったことないんでよくわかんないです、すみませんって云うと、じゃ、アジアの話にしましょうって云うんですね。なんかすごくためになる英会話の家庭教師にレッスン受けてるようで、勉強にはなるんですけど、とにかく眠いわけです、こっちは。で、実は、アメリカでの仕事でずっと寝ていないということをやっと分っていただき、寝かせていただいたわけですけど、

彼女、全く悪気なく親切な人で、食事の時間になると、たたき起して下さるわけです。

すごくおいしそうよなどと、ニコニコされております。結局、成田に着くまで国際交流は続きました。眠かったけど。

 

こうやって、何かの縁で袖触れ合った人と、一期一会の時を楽しむのも、旅の醍醐味だし、飛行機ならではってとこもあるんだけど、やっぱなんかくつろげないんだよな。

 

 

2012年5月 2日 (水)

ホシヤン

新緑のこの時期、世の中には新社会人が溢れ、あちこちで、ちょっと不慣れなリアクションなどで、爽やかな新米君たちに出会います。うちのような小さな会社にも、4月から4人の新人たちが名を連ねました。

その初日、何から始めるのかと見ていると、この日の夜は、新人歓迎会を会社の屋上でやるのだそうで、そこで出される食べ物の準備からやらされております。

うちの会社は、なにかというと、屋上とその横にある台所で、料理を作って食べたり飲んだりする習慣がありまして、その準備は全部自分達でやるんです。

とは言っても、今日入ってきたばかりの新人に料理ができるわけもなく、わが社の総料理長、私は花板と呼んでいますが、その花板のO桑君の指導のもと、まず炭を熾したり、野菜の皮むきをやらされたりしています。この会社の場合、こういった訓練がわりとバカにならなくて、こういうことさせられる頻度がわりかし多いんですね。普通の会社だとあんまりそういうこと無いんですけど、この屋上にお客様呼ぶことも多いし、まあ、社員旅行にキャンプに行っちゃったりする会社なもんで。

新人は炭ばかり熾してるわけじゃなくて、一応ちゃんとした仕事の教育も受けながら、4月の半ばには、代々木公園での夜桜見物にも参加して、忍者の恰好させられて、横走りとかしながら、だんだんに、この一団の一員になっていきます。

 

そんな風景を見ながら、自分にもそういう頃があったなと思ったわけです。

大学を出た私は、これといった指針もなく、就職活動もせず、ただブラブラしていたんですが、当面生活せねばならず、ひょんなことから、テレビCMを制作している会社で、アルバイトをすることになりました。1977年の桜の頃だったと思います。

会社は、新橋のちょっとはずれのモルタル2階建ての建物で、わかりにくいところにありました。アルバイトをするにあたって面接してくださったのは、制作部長をされてるO常務という方でした。なんて云うかあんまりしゃべらない人で、機嫌悪そうにハイライトを吸ってて、仕立てのいいスーツ着てて、たまにしゃべるとべらんめえで、強いて言うと天知茂に似てて、ちょっと何ていうか、インテリやくざな感じがしました。

とりあえず、明日から朝いちばんに来て、事務所の掃除からやるように云われたので、次の朝行ったんですね。

何故か入口の鍵は掛かってなくて、ビニールマットがめくれた階段を登ると、うなぎの寝床のような暗い廊下があって、突き当たりが事務所のドアになってました。

ここも鍵掛かってなくて、そおっと開けると、机があって、その横の床に裸足の足の裏が四つ見えました。毛布掛けておもいっきり深く眠ってらっしゃる男性二人。頭の方へ廻って顔みると、なんだか顔色がすごく悪くて、死んだように眠ってて、何かこの人達、注射とかされてんじゃないかと・・・

全く起きそうにないし、しかたなくドアの外に出て立ってたんですね。そして、しばらくすると、後ろの階段から誰か登ってくる靴音がしたんです。その人が、ホシヤンだったんですけど、どんなだったかと云うと、頭はカリカリに刈り込んだ坊主頭で、サングラスしてて、煙草くわえてチョビ髭です。ぱっとみ完全にそっち系の怖い人です。そういえば会社の名前も考えようによってはそんな感じもするし、昨日の人もなあ・・・

「君、なに?」

「あのお、今日からアルバイトで、朝、掃除するように云われてます。ハイ。」

「あ、そお、じゃ中はいって。」Hoshiyan3

で、事務所に入ると、寝ている二人を蹴りつつ、

「おりゃあ、いつまで寝とんじゃ。」

と、おっしゃいました。

いや、もう、ここまでの経緯で、私ここで完全に失礼しようと思ったわけです。昨日からなんとなく想像していたことが、朝からだんだん良くない方向で固まってきました。

ただ、逃げ出すわけにもいかず、様子見ながら掃除してると、普通の女子社員も来るし、総務のS田さんと云う人は、すごく親切で、とても怖い系の人とは思えませんでした。

私、しばらくこちらに置いていただくこととなりました。S田さんに渡されたタイムカードの通しナンバーが27番で、会社の人数がそれくらいなのだと云うこともわかりました。

結局、このあと、会社はものすごく忙しいことになっていき、だんだんに人も増え、私は11年とちょっと、この会社でお世話になることになります。

あの時、オシッコちびりそうに怖かったホシヤンに、その後いろいろと仕事を教えていただくことになりましたが、第一印象と違って、実は優しくて面倒見の良い人でした。

はじめの一年、ほとんど育てていただいたと思います。

サングラスの奥の目も、よく見るとつぶらでかわいかったし、

ホシヤン語録と云われるセリフは、ちょっとヤクザっぽく、

「この百姓があ~~!」とか、

「すべったころんだやってんじゃねえんだよお~」など、いろいろありますが、

たいていの場合は独り言のことが多いです。Hoshiyan2

東映の高倉健さんのことが大好きで、カラオケ行くと、必ず「唐獅子牡丹」と「網走番外地」を唄いました。完全になりきります。

仕事は細やかで、すごくよく気の付く人で、おまけに心配性です。私達後輩は、彼のことを、陰で“神経質やくざ”と呼んでいました。

この会社には、ホシヤンと同年代の当時30前の先輩が多くて、ほかに、ヤマチャン、スギチャン、ソガチャン、アリヤン、ヨウチャン、オキチャン、タッチャンなどがいて、(その頃なぜかこの業界、チャンとかヤンとかよく付くんですけども)

今考えると、この人たちが優秀で会社を支えてたように思います。会社のトップも迫力のある人たちで、前述のO常務にくわえ、A専務は幕末のいきさつから未だに長州藩のことを赦していない会津の人でしたし、かつて演出家であった、大阪弁のI社長と、強力なトロイカ経営陣でした。最年長のA専務が当時43歳ですから若くて元気のいい会社だったと思います。

あの頃、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、ここで救われたと思います。皆、作る事に対して厳しく、目指すところは高いけど、仕事にも仲間にも愛情を持っていて、会社は一枚岩でした。若い頃、この方たちから、よく本気で怒られましたが、今、ありがたいことだったと思います。

盤石の備えで社業は発展し、立派なビルが建ち、現在200名を超えて業界大手となったその会社で、ホシヤンは副社長をされており、たまに会うと、

「百姓があ、すべったころんだやってんじゃねえんだよお。」

などと、のたまわれております。

 

尊敬する先輩諸氏の敬称を略しましたことをお許しください。

 

 

2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

2012年3月26日 (月)

かつて、CMにチャンネルをあわせた日

Toshisugiyama1「CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代」という本があります。1978年の12月に第1刷が発行されています。私は1977年からCMの制作会社で働いており、この本は出てすぐに買った気がします。当時CMの業界で、杉山登志という名を知らない人は、誰一人いなかったと思いますし、彼のことをCM界の黒澤明と言う方もいました。

けれど、私は一度もお会いしたこともなく、お見かけしたこともありません。この本は、1973年の12月に37歳で自死された杉山登志さんを追悼する意味で、その5年後に出版された本だったんです。1973年に私は上京して大学生になっていましたが、この年の暮れに広告業界を震撼させた杉山さんの事件のことは、曖昧な記憶しかありませんでした。

そしてこの世界で働き始めて、杉山登志という人が、CMとその業界の人々に、どれだけ影響を与えた人であったかということを、おもいきり知らされることになります。彼が、1961年~1973年の短い期間に作ったCMが、CMというものの価値すら変えてしまったことが、当時、限りなく素人に近かった私にもよくわかりました。

この本は、PARCO出版から刊行され、アートディレクターの石岡瑛子さんが編集にかかわっておられます。本の中には、彼の数々のヒットCMのカットが、カラー写真でちりばめられ、それは私が子供のころからテレビでみていた印象深いCMたちでした。その写真を見ているだけで、この人がどれほどの達人であったかがわかります。そして、その仕事を一緒にしていたスタッフの方や、彼とかかわりのあった同業者の方たちが、たくさん追悼の文を載せておられます。あらためてその方たちの名前を見渡しますと、本当にこの道の一流の方たちです。

私がこの方たちと、同じ業界で働いているのだと云う認識が宿るのは、ずいぶんと後になってからのことで、その頃は制作現場の末端をただ駆けずり回っているだけでした。でも、少しだけ仕事というものが面白くなり始めた頃でもあり、この本は熟読しました。

若造の理解力には限界がありましたが、読み返すほどに、この人が、いかに凄まじいエネルギーを発した天才であったかと云うことが感じられました。

その後、かつて杉山登志さんとかかわりのあった方々と、次々に知り合うことになり、いろいろなことを教えていただきました。残念ながら、直接存知あげなかったけれど、僕らはずっと、間接的に影響を受けていたと思います。

ついこの間、「伝説のCM作家 杉山登志」と云う標題の本が出版されました。彼の残した仕事や、その時代、その死の謎などが、すでに半世紀前のこととしてあつかわれている興味深い本です。この本を読みながら、かつての「CMにチャンネルをあわせた日」をもう一度読み直したいと思ったんです。

ただちょっと問題があって、本は私の手元にあるんですけど、かなり破損してしまって、読めない箇所がかなりあるんです。

どうしてそういうことになったか、若干説明がいるんですけど。

あの本を買った頃、私の部屋は本が増え続けており、ほんとに本の置き場所に困ってたんです。その後、六畳一間のわりには眺めのいい広いベランダがついた部屋に越した時、ダンボールに詰めた本をベランダに山積みにして、撮影用のビニールシートでグルグル巻きにして置いといたんです。それからしばらくして、仕事で2週間くらい海外に行ってたときに、留守中に台風が来たらしく、帰ってみたら、グルグル巻きのビニールの下の部分が完全に水に浸かり、でかい金魚鉢のようになっていました。運悪く一番下の箱が写真集関係になっており、私の大切な「CMにチャンネルをあわせた日」は水中に没してしまったんです。本の中の、写真の印画紙の部分は紙が張りついてしまって剥がれず、無理に剥がすと破れてしまいました。完全にアウトです。

最近になって、Amazonで古い本が探せるようになって、何度か検索したんですが、見つからずそれも諦めていました。ところがこの前、会社のO君と話していたら、「日本の古本屋」というサイトがあって、これがかなりすぐれものだと云うんです。O君は、なんだかこの前から自分のルーツを探っていて、それに関して相当重要な古文書を見つけたと言ってます。不思議な人なんですよね。

で、すぐに見つかったんです、「CMにチャンネルをあわせた日」。大泉の方にある古本屋さんだったんですけど、丁寧に梱包して送ってくださいました。いや、嬉しかったですね。

いま読み返してますが、この本は私にとって、この仕事とは、みたいなことを、はじめて語りかけてくれた本だったと思います。御存命であれば、長嶋茂雄さんと同年になられた杉山登志さん、緊張するけど、お会いしてみたかった方です。

でも、お会いできてたら、この本とは会えていなかったということなんでしょうか。

 

 

 

2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

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