2012年5月 2日 (水)

ホシヤン

新緑のこの時期、世の中には新社会人が溢れ、あちこちで、ちょっと不慣れなリアクションなどで、爽やかな新米君たちに出会います。うちのような小さな会社にも、4月から4人の新人たちが名を連ねました。

その初日、何から始めるのかと見ていると、この日の夜は、新人歓迎会を会社の屋上でやるのだそうで、そこで出される食べ物の準備からやらされております。

うちの会社は、なにかというと、屋上とその横にある台所で、料理を作って食べたり飲んだりする習慣がありまして、その準備は全部自分達でやるんです。

とは言っても、今日入ってきたばかりの新人に料理ができるわけもなく、わが社の総料理長、私は花板と呼んでいますが、その花板のO桑君の指導のもと、まず炭を熾したり、野菜の皮むきをやらされたりしています。この会社の場合、こういった訓練がわりとバカにならなくて、こういうことさせられる頻度がわりかし多いんですね。普通の会社だとあんまりそういうこと無いんですけど、この屋上にお客様呼ぶことも多いし、まあ、社員旅行にキャンプに行っちゃったりする会社なもんで。

新人は炭ばかり熾してるわけじゃなくて、一応ちゃんとした仕事の教育も受けながら、4月の半ばには、代々木公園での夜桜見物にも参加して、忍者の恰好させられて、横走りとかしながら、だんだんに、この一団の一員になっていきます。

 

そんな風景を見ながら、自分にもそういう頃があったなと思ったわけです。

大学を出た私は、これといった指針もなく、就職活動もせず、ただブラブラしていたんですが、当面生活せねばならず、ひょんなことから、テレビCMを制作している会社で、アルバイトをすることになりました。1977年の桜の頃だったと思います。

会社は、新橋のちょっとはずれのモルタル2階建ての建物で、わかりにくいところにありました。アルバイトをするにあたって面接してくださったのは、制作部長をされてるO常務という方でした。なんて云うかあんまりしゃべらない人で、機嫌悪そうにハイライトを吸ってて、仕立てのいいスーツ着てて、たまにしゃべるとべらんめえで、強いて言うと天知茂に似てて、ちょっと何ていうか、インテリやくざな感じがしました。

とりあえず、明日から朝いちばんに来て、事務所の掃除からやるように云われたので、次の朝行ったんですね。

何故か入口の鍵は掛かってなくて、ビニールマットがめくれた階段を登ると、うなぎの寝床のような暗い廊下があって、突き当たりが事務所のドアになってました。

ここも鍵掛かってなくて、そおっと開けると、机があって、その横の床に裸足の足の裏が四つ見えました。毛布掛けておもいっきり深く眠ってらっしゃる男性二人。頭の方へ廻って顔みると、なんだか顔色がすごく悪くて、死んだように眠ってて、何かこの人達、注射とかされてんじゃないかと・・・

全く起きそうにないし、しかたなくドアの外に出て立ってたんですね。そして、しばらくすると、後ろの階段から誰か登ってくる靴音がしたんです。その人が、ホシヤンだったんですけど、どんなだったかと云うと、頭はカリカリに刈り込んだ坊主頭で、サングラスしてて、煙草くわえてチョビ髭です。ぱっとみ完全にそっち系の怖い人です。そういえば会社の名前も考えようによってはそんな感じもするし、昨日の人もなあ・・・

「君、なに?」

「あのお、今日からアルバイトで、朝、掃除するように云われてます。ハイ。」

「あ、そお、じゃ中はいって。」Hoshiyan3

で、事務所に入ると、寝ている二人を蹴りつつ、

「おりゃあ、いつまで寝とんじゃ。」

と、おっしゃいました。

いや、もう、ここまでの経緯で、私ここで完全に失礼しようと思ったわけです。昨日からなんとなく想像していたことが、朝からだんだん良くない方向で固まってきました。

ただ、逃げ出すわけにもいかず、様子見ながら掃除してると、普通の女子社員も来るし、総務のS田さんと云う人は、すごく親切で、とても怖い系の人とは思えませんでした。

私、しばらくこちらに置いていただくこととなりました。S田さんに渡されたタイムカードの通しナンバーが27番で、会社の人数がそれくらいなのだと云うこともわかりました。

結局、このあと、会社はものすごく忙しいことになっていき、だんだんに人も増え、私は11年とちょっと、この会社でお世話になることになります。

あの時、オシッコちびりそうに怖かったホシヤンに、その後いろいろと仕事を教えていただくことになりましたが、第一印象と違って、実は優しくて面倒見の良い人でした。

はじめの一年、ほとんど育てていただいたと思います。

サングラスの奥の目も、よく見るとつぶらでかわいかったし、

ホシヤン語録と云われるセリフは、ちょっとヤクザっぽく、

「この百姓があ~~!」とか、

「すべったころんだやってんじゃねえんだよお~」など、いろいろありますが、

たいていの場合は独り言のことが多いです。Hoshiyan2

東映の高倉健さんのことが大好きで、カラオケ行くと、必ず「唐獅子牡丹」と「網走番外地」を唄いました。完全になりきります。

仕事は細やかで、すごくよく気の付く人で、おまけに心配性です。私達後輩は、彼のことを、陰で“神経質やくざ”と呼んでいました。

この会社には、ホシヤンと同年代の当時30前の先輩が多くて、ほかに、ヤマチャン、スギチャン、ソガチャン、アリヤン、ヨウチャン、オキチャン、タッチャンなどがいて、(その頃なぜかこの業界、チャンとかヤンとかよく付くんですけども)

今考えると、この人たちが優秀で会社を支えてたように思います。会社のトップも迫力のある人たちで、前述のO常務にくわえ、A専務は幕末のいきさつから未だに長州藩のことを赦していない会津の人でしたし、かつて演出家であった、大阪弁のI社長と、強力なトロイカ経営陣でした。最年長のA専務が当時43歳ですから若くて元気のいい会社だったと思います。

あの頃、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、ここで救われたと思います。皆、作る事に対して厳しく、目指すところは高いけど、仕事にも仲間にも愛情を持っていて、会社は一枚岩でした。若い頃、この方たちから、よく本気で怒られましたが、今、ありがたいことだったと思います。

盤石の備えで社業は発展し、立派なビルが建ち、現在200名を超えて業界大手となったその会社で、ホシヤンは副社長をされており、たまに会うと、

「百姓があ、すべったころんだやってんじゃねえんだよお。」

などと、のたまわれております。

 

尊敬する先輩諸氏の敬称を略しましたことをお許しください。

 

 

2012年4月11日 (水)

ついに、黒部の太陽 完全版 上映

Mifune-yujiro山この人が、この映画をほんとに愛していたことは、上映に先立って登壇した渡哲也さんの話によくあらわれていました。

「石原さんは、よく会社の試写室で一人でこの映画を見ていました。」と、

石原裕次郎が残した遺言、

「この作品は、映画館の大画面と音声で観てほしい。」

という願いは、その後、頑なに守られ、映画の版権を持つ石原プロモーションは、ソフト化をしませんでした。

一方、大スクリーンでの上映の機会もなかなか無いまま、今日に至っており、3時間16分の完全版は、今回、44年ぶりの上映と言って過言ではありません。

3月23日と24日、「黒部の太陽 完全版」は、東京国際フォーラムの大画面で、ついに上映されました。それは、東日本大震災支援のための全国縦断チャリティ上映会のプレミア上映です。石原プロモーション会長であり、裕次郎氏の未亡人である石原まき子さんは、石原プロ設立50年の節目に、このプロジェクト発足を決断されたのだそうです。

日本映画史上、燦然と輝く大スター、石原裕次郎という人にとって、この映画が特別な意味を持つ映画なのは、映画俳優として映画製作者として、どうしても映画化したい原作であったこともそうですが、制作の過程で様々な形で降りかかった障害に対し、それらを一つ一つ乗り越えていったことに、特別な思いがあったからではないでしょうか。

原作は、1964年の毎日新聞の連載小説です。戦後の日本の産業を支える上で不可欠であった電力を確保するため、関西電力が行った世紀の難工事、黒部ダム建設の苦闘を、そのトンネル工事に焦点を当てて描いています。ダムの建設資材を運ぶために、北アルプスの横っ腹にトンネルをくりぬくという大工事、その技術者たちの前に立ちはだかる破砕帯という地層との闘いが物語の核になっているのですが、基本的には映画が始まって終わるまで、ずっと穴倉を掘り進む、実に地味な話なのです。でも、石原裕次郎さんも三船敏郎さんも、どうしても映画にしたかったのです。

この話には、この時代を生きた日本人が共通して持っている、胸が痛くなるような何かがあります。

裕次郎さんと三船さんにとって、映画制作上、最も大きな障害だったのは、当時の映画業界の大手五社が結んだ、いわゆる五社協定でした。これらの会社から独立し、それに属さぬ石原プロ、三船プロが共同制作するこの映画に、業界の協力体制は得られず、監督である熊井啓氏は、所属会社の日活から解雇通告を受け、キャストに必要な映画俳優を集めることもできません。また、映画制作に対して前向きであった関西電力にまで、映画会社から圧力がかかったと云います。

製作費の問題も、配給の問題も暗礁に乗り上げたかにみえた時、彼らに味方する力が少しずつ動き始めます。

劇団民藝の主催者であり、俳優界の大御所である宇野重吉氏は、石原裕次郎の協力依頼に全面協力することを約束し、所属俳優やスタッフを優先的に提供しました。

関西電力も、石原氏らの映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、実現に向け全面協力を申し出てくれました。これにより、関西電力はじめダム建設に関わった多くの建設関連会社が、映画業界始まって以来の相当数の前売りチケットを受けいれてくれました。このことで、映画会社には配給によって確実な利益が約束され、結局、日活は配給を引き受けることになります。

1966年7月23日クランクイン。

撮影は、四季の大自然を舞台に、また、トンネル工事のシーンは、熊谷組の工場内に広大な工事現場が再現され、多くのスタッフ、俳優によって、一年以上にわたって行われました。

そして、1968年2月17日、映画が公開されます。1964年に「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共作で映画化すると発表してから、長い時間が経っていました。

多くの関係者の熱い想いのこもった映画「黒部の太陽」は、トンネルをただ掘る地味な話ではありますが、多くの観客を感動させ、大ヒットします。

この時、私は中学一年生、男は土木だと心に誓い、5年後、土木工学科に進学してしまいます。これに関しては失敗でしたが…

 

44年前、そんなこともあって、この映画のことは忘れませんでしたが、それ以降見る機会が一度もありません。再上映もなく、これだけ映画ソフトが氾濫する時代になっても、見ることはできず、ここ数年私達の中では、幻の映画と、化しておりました。

その間、映画に関して書かれているものや、黒部ダムに関して書かれているものを探して読んでみたり、ウェブサイトの動画で予告編をみつけて見てみたり、同世代の関心のある者同士、飲み屋で語り合ったりしていました。石原プロと懇意な人をたどって、どうにか見せてもらえぬものだろうかと話したことも、一度や二度ではありません。ある時、黒部ダムに興味を持った友人のNヤマサチコさんは、自身のブログに黒部ダムに関する18編に及ぶ大作を書きあげ、すでに黒部ダム専門家になっております。

そのような中で、今年になって、3月23日の「黒部の太陽 完全版」プレミア上映会の知らせを聞いたのです。この日は槍が降っても(実際は大雨でしたが)行くことに決め、4枚のチケットを購入しました。

参加者は、私と、当然ながらNヤマサチコさん、それと、いつも私達の黒部話をさんざん聞かされていた役者のO川君、それと、うちの会社のO野さん、彼女は父上が土木技師をされてて、子供の頃、黒部ダムのふもとの大町で一度だけ再上映された「黒部の太陽」を見た人でした。

国際フォーラムの大会場は、満席です。途中15分の休憩が入る長編でしたが、最後まで退席する人もなく、終幕には拍手が起きました。

大自然の風景は、威厳と美しさにあふれ、映画に対する熱意は、空回りせずしっかりと着地しています。やはり名作でした。主役の石原さんにも、三船さんにも、かつてのファンをうならせる見せ場が用意されており、それを支えている脇役も見事です。当時の演劇界の重鎮たち、滝沢修(民藝)さん、宇野重吉(民藝)さん、柳永二郎(新派)さん他、特に石原さんの父親役の辰巳柳太郎(新国劇)さんは、自身の出演しているシーンは、見事に根こそぎ持って行ってしまっています。

興奮さめやらぬ私達が、その日、夜中まで飲んで語り明かしたことは言うまでもありません。中でも、映画の最大の見せ場となる破砕帯からの大出水シーンの話は盛り上がります。このシーンは、420トンの水タンクを使った一発撮りのシーンでしたが、予想をはるかに超えた水量で、本当の事故になってしまい、裕次郎さんは指を骨折し、ほかにも多くの負傷者を出したことが、何かに書いてあったと思います。ただ、結果的には大変迫力のある映像が撮れて、スタッフは大満足だったようです。ようく見てると、撮影のための機材も流れてくるのが映っていると、これも何かに書いてありました。

Nヤマサチコが語った、

「このシーンよく見ると、やっぱ、三船は運動神経いいから、素早く逃げてたわ。」

というコメントは、ちょっとマニア過ぎますけど。

2012年3月26日 (月)

かつて、CMにチャンネルをあわせた日

Toshisugiyama1「CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代」という本があります。1978年の12月に第1刷が発行されています。私は1977年からCMの制作会社で働いており、この本は出てすぐに買った気がします。当時CMの業界で、杉山登志という名を知らない人は、誰一人いなかったと思いますし、彼のことをCM界の黒澤明と言う方もいました。

けれど、私は一度もお会いしたこともなく、お見かけしたこともありません。この本は、1973年の12月に37歳で自死された杉山登志さんを追悼する意味で、その5年後に出版された本だったんです。1973年に私は上京して大学生になっていましたが、この年の暮れに広告業界を震撼させた杉山さんの事件のことは、曖昧な記憶しかありませんでした。

そしてこの世界で働き始めて、杉山登志という人が、CMとその業界の人々に、どれだけ影響を与えた人であったかということを、おもいきり知らされることになります。彼が、1961年~1973年の短い期間に作ったCMが、CMというものの価値すら変えてしまったことが、当時、限りなく素人に近かった私にもよくわかりました。

この本は、PARCO出版から刊行され、アートディレクターの石岡瑛子さんが編集にかかわっておられます。本の中には、彼の数々のヒットCMのカットが、カラー写真でちりばめられ、それは私が子供のころからテレビでみていた印象深いCMたちでした。その写真を見ているだけで、この人がどれほどの達人であったかがわかります。そして、その仕事を一緒にしていたスタッフの方や、彼とかかわりのあった同業者の方たちが、たくさん追悼の文を載せておられます。あらためてその方たちの名前を見渡しますと、本当にこの道の一流の方たちです。

私がこの方たちと、同じ業界で働いているのだと云う認識が宿るのは、ずいぶんと後になってからのことで、その頃は制作現場の末端をただ駆けずり回っているだけでした。でも、少しだけ仕事というものが面白くなり始めた頃でもあり、この本は熟読しました。

若造の理解力には限界がありましたが、読み返すほどに、この人が、いかに凄まじいエネルギーを発した天才であったかと云うことが感じられました。

その後、かつて杉山登志さんとかかわりのあった方々と、次々に知り合うことになり、いろいろなことを教えていただきました。残念ながら、直接存知あげなかったけれど、僕らはずっと、間接的に影響を受けていたと思います。

ついこの間、「伝説のCM作家 杉山登志」と云う標題の本が出版されました。彼の残した仕事や、その時代、その死の謎などが、すでに半世紀前のこととしてあつかわれている興味深い本です。この本を読みながら、かつての「CMにチャンネルをあわせた日」をもう一度読み直したいと思ったんです。

ただちょっと問題があって、本は私の手元にあるんですけど、かなり破損してしまって、読めない箇所がかなりあるんです。

どうしてそういうことになったか、若干説明がいるんですけど。

あの本を買った頃、私の部屋は本が増え続けており、ほんとに本の置き場所に困ってたんです。その後、六畳一間のわりには眺めのいい広いベランダがついた部屋に越した時、ダンボールに詰めた本をベランダに山積みにして、撮影用のビニールシートでグルグル巻きにして置いといたんです。それからしばらくして、仕事で2週間くらい海外に行ってたときに、留守中に台風が来たらしく、帰ってみたら、グルグル巻きのビニールの下の部分が完全に水に浸かり、でかい金魚鉢のようになっていました。運悪く一番下の箱が写真集関係になっており、私の大切な「CMにチャンネルをあわせた日」は水中に没してしまったんです。本の中の、写真の印画紙の部分は紙が張りついてしまって剥がれず、無理に剥がすと破れてしまいました。完全にアウトです。

最近になって、Amazonで古い本が探せるようになって、何度か検索したんですが、見つからずそれも諦めていました。ところがこの前、会社のO君と話していたら、「日本の古本屋」というサイトがあって、これがかなりすぐれものだと云うんです。O君は、なんだかこの前から自分のルーツを探っていて、それに関して相当重要な古文書を見つけたと言ってます。不思議な人なんですよね。

で、すぐに見つかったんです、「CMにチャンネルをあわせた日」。大泉の方にある古本屋さんだったんですけど、丁寧に梱包して送ってくださいました。いや、嬉しかったですね。

いま読み返してますが、この本は私にとって、この仕事とは、みたいなことを、はじめて語りかけてくれた本だったと思います。御存命であれば、長嶋茂雄さんと同年になられた杉山登志さん、緊張するけど、お会いしてみたかった方です。

でも、お会いできてたら、この本とは会えていなかったということなんでしょうか。

 

 

 

2012年2月15日 (水)

台湾・満腹紀行

台湾へ行こうということになったのは、去年の11月のこと。

仕事仲間と、志の輔さん聴きに行って、帰りに中華屋でメシを食っていた時でした。

さっきの落語の話で盛り上がりつつ、腹も減っていて、次々に中華料理の皿を平らげ、紹興酒のボトルを次々になぎ倒しておりました。この時のメンバーが、まさにこういう表現が似会う食いっぷり飲みっぷりの人達でして、私と転覆隊のW君と、豪快プランナーのMさんとその上司のKさんの4人でした。その時の話題は当然のように中華料理のディープな方向へ行き、またこの時にいた店が結構ディープな店でもあったんですけど、いつしか、アジア圏への出張経験の豊富なKさんの話を、皆で聞くことになっていました。

その話の中で、Kさんは特に台湾のことが好きなのだといいます。というのも、この人は何度も一人で台湾に出張し、現地の人達とたくさん仕事をしていて、この国の歴史や文化、そしてその人々に深く触れ、その人達が食べている食べ物にも深く触れ、すっかりこの国のファンになってしまったんだそうです。

そして、この人の話には、不思議な味わいとリアリティがあって、彼が歩く背景には、かつて見た侯孝賢(ホウシャオシェン)監督の映画の風景が浮かび、また、食べ物の描写となると、アーーそれ食いたい、という気持ちになってしまうのです。何というか、話に臨場感があるということなんでしょうか。

気分は盛り上がり、そうやってガンガン紹興酒、飲みながら、皆、圧倒的に台湾に行きたくなったんですね。確かに酔ってもいましたけど。

で、男の約束したわけです。

「来年の一月の、どこそこの週末で、台湾行こう!」

「うん、行こう!」

「そうだ、行こう!」

「そうだ、台湾行こう!」

 

それから、バタバタとあわただしい年末年始が過ぎ、フトその約束を思い出したのですが、冷静になってみると、この人たち、けっこう忙しい人たちなんですよね。

それで、もう一度確認してみたら、これがみんな本気で、それこそ万障繰り合わせて、全員スケジュール空けてきたわけです。いや、そういうことなら行くしかないでしょ。行きましたよ、羽田に集合して。嬉しかったなあ。

前にも書きましたけど、私の場合、というか私の仲間全般に云えるんですが、旅の動機って、食べ物なんですね、いつも。

今回も、侯孝賢的風景がどうしたこうしたとか、台湾の鉄道には是非乗りたいよね、などといろいろ云ってはいるのですが、基本は食なわけです。もちろん食以外の文化に触れることも大事です。でも、それは、限られた3日間の3食に何を食べるかを考えて、余った時間でどうやって腹を減らせるかという考えにのっとています。

でも、そう考えて十分なくらい、この国の食文化は深かったです。

豊かな食材、肉、魚、野菜、粉類、バラエティーに富んだ調理法。

朝早くから、街のあちこちで食堂が開き、豆乳スープに揚げパンに点心をいただき、昼も夜も次々新しい料理と出会い、深夜は深夜で、街中に夜市がたっていて、あらゆるフィニッシュをかざることができます。

それと、特筆すべきは、これほど幸せな気持ちになれて、値段が驚くほど安いことです。この国の人達は、何も特別なことでなく、毎日こうやって普通に3食おいしくいただける。ほんとの意味での豊かさとは、こういうことだと思いました。

そして、また、この4人組の食べることに対する飽くなき探究心は、ちょっとすごいのです。Kさんは唯一の台湾経験者として、数多くの食の記憶の中からよりすぐりのデータを復習して、この旅に乗り込んでらっしゃいました。そのデータを、M氏とW君はきちんと調べ上げて完ぺきに予習をしております。そして、それだけでは飽き足らず、昨年、台湾を旅した、やはり食通のS子さんに徹底取材を試みております。出発の2日前にです。

その充実したデータをもとに、街に繰り出します。しかし、その店の位置はどこら辺なのか、その移動手段と所要時間は、また、メニューの内容はどうなの。現地で検討することは山ほどあります。

ここで登場するのが、Mさんのipadです。話題にのぼった店が次々画面に現れ、料理の写真も確認でき、次の瞬間には地図画面で位置が示され、交通手段が選べます。

それに、Mさんのその操作の速いこと、手品を見てるみたいです。

私以外の、この3人のリレーションは本当に素晴らしかったです。私は、それにただついて行くだけなのですよ。申し訳ないくらい。

 

もうひとつ重要なことは、その食事時にきちんと空腹になっているかどうかなんですが、これもなかなかうまくいったんです。

街の探索、台北近郊への小旅行等、徒歩、地下鉄、タクシー、特急券を買って鉄道でちょっと遠出して、また歩き、いろんな所へ出掛けました。これもKさんの豊富な経験と、Mさんのipadの活躍に支えられてるんですけど。

Rantan十分という街は、台北からかなり離れた山の中にあって、侯孝賢の映画に出てきそうな街並みと鉄道の入り組んだ風景があります。ここで私達は、願い事をたくさん書いた天燈(ランタン)を空に上げました。天燈というのは、1メートルくらいあるデカイ紙袋で、その中に火炎燃料を仕込んで、熱気球の要領で空高く飛ばすもので、古くからこの地域に残る名物です。その紙袋に墨で好きなだけ願い事書いて飛ばすんです。この日は近隣の人達もたくさんやって来ていました。これは、いつでもやっているわけではないそうで、Kさんは今回初めて体験できたと云って喜んでいました。

そっからまた鉄道に乗って、九份の街へ、ここはかつての鉱山で、急斜面に街ができています。昔の料理店などの建物が多数残されており、映画「悲情城市」のロケ地となったり、映画「千と千尋の神隠し」のモデルとなった街としても、すでに有名です。

ここの急斜面は、足腰になかなかこたえ、こうやってあちこちうろうろしておると、腹が減ってきます。ふむふむ、よしよしと、またおいしくいただけると云うことになるのです。

そんな旅の途中で、台湾にまつわるKさんの思い出話がいろいろ聞けます。

たとえば、昔彼が台湾南部の田舎町を一人で歩いていた時、ある民家で小母さんに道を聞いたそうです。どうにか教えてもらうことが出来てしばらく歩いたら、さっきの小母さんが、息せき切って走って追いかけてきました。実は、小母さんの家におじいさんがいて、そのおじいさんは、かつて日本語で教育を受けた人で、日本人が来たのなら、是非日本語で話がしたいと云っているので、家まで戻ってほしいと云ったそうです。でも、おじいさんの日本語は全く通じなかったそうです。長い時間の中で、おじいさんの日本語は風化してしまったのでしょうか。なんだか、台湾という場所をしみじみ感じる話です。

むしゃむしゃ食べながら、こういう話なんかも聞けて、ちょっとしんみりして、またむしゃむしゃ食べて。

心に残る旅でした。主役はやっぱり食なんですけど。

 

 

2012年1月13日 (金)

走るということ

最近、「走る」ということに興味を持っている人が、私の会社のまわりにもいて、たとえば、転覆隊のW君や、キャンプ好きのO君だったりするんですが、今度の社員旅行は地方のマラソン大会に皆で行って出場しようなどと言っているわけです。そのO君が丸い目をまた丸くして、この本 面白いですと紹介してくれたのが、「BORN to RUN」という本で、これ、たしかに本としては面白そうで、これから読み始めるんですけど、でも少なくとも、わたし自ら、走るという行為に興味を持つことは、多分ないだろうと思うんですよ。今までの人生で、人から強制されることなく自分から走ったということはないわけで…

そんな話していたら、ふと、はるか昔、10代の頃、走ることを面白がっていた時期がちょっとあったことを思い出したんです。

高校生の時、私は何の部活にも入らず、やたら映画ばかり見ている奴だったんですけど、やっぱなんか身体がなまってるなあと感じていた時、友達がプールの下の体育会の余った部室にバーベルが積んであるのを見つけて、ちょっと仲間集めて、皆で筋肉モリモリになろうと云い始めたんです。でもまあ、筋肉モリモリっていうのも、あんまり興味ないし、バーベル上げながら、放課後の運動場で体育会の練習見てたら、みんなよく走ってるんですね。それで仕上げは、学校から少し離れた小高い山まで往復5km位のコースを走るんです。その中で、最も速く、最もきれいな形で走るのが、サッカー部のエースストライカーのI 田君でした。

彼とは同じ路線の汽車通学だったので、毎朝一緒に通学する仲の良い友達でした。いつもしょうもないいたずらばかり考えてる、ちょい悪系で、そのあたりが私と気が合ったのか、まあそうやってるぶんには、何の変哲もないそこらへんの高校生なんですが、サッカーやってるときと、走ってるときは、超カッコイイのですよ。

なんだか、I 田君の走る姿みて、俺も走ろうっ!と思ったわけです、急に。

そして、これが意外と楽しかったんですね。テニス部女子なんかも一緒に走ってるし、自分なりに、だんだん速くなっていくのも自覚できるんです。私、短距離はまるで駄目なんですが、そういえば中学の時、1500mとかってわりと速かったよな、などと、自信も出てきたりして、もっと速く走るにはどうしたらいいんだろうなどと、考えたりもしました。でも、通学中I 田君と、走ることに関して話をしたことは一度もありませんでした。

ていうか、彼はそのことに関して全く別次元の奴でしたから。校内マラソン大会は、いつもぶっちぎりの1位でしたし、サッカーでは校内でただ一人、国体に出場してたと思うし、彼と走ることを語るなんて、恐れ多かったんです。

それでも、最後の校内マラソン大会では、何百人かで60番に入って大満足。I 田君は、相変わらず、はるか前方を駆け抜けて行きました。もちろん1位で。いいフォームだったなあ。

そして、そのうち受験になって、それぞれ進学して、そんなこともあったよなという程度の記憶になってしまいましたが、

その後もI 田君は走り続けてました。地元のサッカーの大学リーグで得点王になり、全日本大学選抜に選ばれて、東京の合宿に来た時は、私は車を借りて、合宿所まで彼を送って行きました。大学を卒業した後は、サンフレッチェの前身である自動車会社のサッカー部に入り、FWで活躍しました。彼は、母校の誇りでしたし、あの力強い走りは、いまもはっきり覚えています。

その後、お互いに忙しく、時間が経って疎遠になり、年賀状を交わすくらいのことになっていましたが、昨年の秋に用事があって、故郷の高校時代の友達に電話したとき、I 田君が春に病気で亡くなったことを知らされました。あの強靭な人が・・・信じられませんでした。

いろいろ思い出します。私が小さな会社を始めた時、わざわざ訪ねてくれたことや、私が結婚して初めて帰郷した時、自分の奥さんと子供を連れて、会わせに来てくれたことやら。

書いてたら涙が出ます。

インターネットで、彼の名前を検索したら、もう何年も前から、自身の母校の大学のサッカー部の監督になっていたこと、2007年にはそのチームを率いて、初の天皇杯出場を決めたことなどがわかりました。それに、その記事には、その時彼が悪性のリンパ腫を患っていたことも書いてありました。

何にも知りませんでした。自分に腹が立ちました。

もっと歳とって、君の若い時の自慢話を聞きながら、酒を飲みたかった。どうやってあんなに速く走れたのか、もっと前に聞いとくんだった。

 

そんなこと思いながら、自分がいま走ったらどうなるんだろうかと考えました。

デブった体を支え切れず、ひざが壊れるな、たぶん。

Hashiru 

 

 

 

 

 

 

 

2011年12月12日 (月)

優勝請負監督と優勝請負ストッパー

Enatsutonishimoto
秋深いこの季節が好きな理由には、プロ野球日本シリーズの記憶があります。いつの頃までか、かつて日本シリーズは、必ずデーゲームでした。もちろんドーム球場など一つもないころのことです。少し肌寒くなり、太陽の位置が明らかに低くなった美しい斜光の中、日本一をかけて、セ・リーグとパ・リーグの優勝チームが雌雄を決します。そして数々の名勝負が、この季節の記憶として刻まれています。

今年もその季節が終わり、もうすぐに冬が訪れるころに、かつて日本シリーズを8回戦った名監督がこの世を去りました。

西本幸雄さん。1943年に大学野球から学徒出陣し、中国で終戦を迎え復員ののち、社会人野球での優勝を経て、1950年に毎日オリオンズに入団します。この時すでに30歳で、選手としてのピークは過ぎていましたが、その後優勝に貢献し、コーチ、二軍監督を経て、1960年に監督に就任、一年目にしてチームをリーグ優勝に導きますが、日本シリーズには勝てず、オーナーと対立して辞任します。

このあたりまでのことは、私もまったく知らないことですが、1963年から弱少だった阪急ブレーブスの監督に就任し、チームを鍛えに鍛え上げて、1967年にリーグ優勝し、常勝阪急の監督となった西本さんのことは、よく覚えています。

チームは、1967年、1968年、1969年、1971年、1972年とパ・リーグを制覇しています。しかしながら、1965年~1973年は、巨人が9連覇をした、いわゆる巨人黄金時代で、西本さんが阪急ブレーブスを率いて戦った日本シリーズは、巨人を苦しめたものの、すべてV9巨人に敗れております。

1973年に、阪急の監督を勇退した翌年には、やはりお荷物球団と云われていた近鉄バッファローズの監督に就任します。ここでもまた、チームを、選手を、鍛えに鍛えます。チームの強化と、見込んだ選手の育成のためには、あえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さず、選手からは恐れられたが、本当の意味で信頼され、愛されていたそうです。

近鉄バッファローズを強力チームに育て上げ、初めてリーグ制覇した1979年は、西本さんが悲願の日本一に最も近づいた年だったかもしれません。

ここで西本監督の日本シリーズ初優勝を阻んだのが、広島東洋カープ、そして、当時広島の抑えの切り札と云われていた、江夏豊でした。

近鉄2連勝のあと、広島3連勝、ここで大阪球場に戻り、近鉄が逆王手をかけ3勝3敗の五分に。

そして第7戦、4-3と広島がリードした7回、広島はリリーフエースの江夏を投入します。1点差のまま9回、ここで江夏が先頭打者にヒットを許し、代走の藤瀬は盗塁を試みます。捕手水沼の送球は大きく逸れ、無死3塁、バッテリーは、同点を覚悟せざるを得ません。警戒するバッテリーを徐々に攻めて、近鉄は無死満塁のチャンスを得ます。一球一球息づまる展開、一打出れば、逆転サヨナラゲーム、近鉄の優勝となります。

のちに山際淳司が、9回の江夏のすべての投球を分析した「江夏の21球」という有名なスポーツノンフィクションのクライマックスです。

バッターは代打・佐々木恭介、ベンチの指示は「強攻」でしたが、江夏はこれを三振に抑えます。次の石渡茂の打席で、初球のストライクを見逃したのを見て、西本監督は作戦をスクイズに切り換えます。江夏の19球目、3塁走者藤瀬がスタート、石渡がスクイズの構えに入る瞬間、後に語りぐさとなりますが、江夏はカーブの握りのまま、立ち上がった水沼にスクイズを外した球を投げます。 石渡のバットは空を切り、ランナータッチアウトで2アウト。20球目ファール。21球目、空振り三振3アウト。西本近鉄は、日本一を逃しました。

私は、この江夏豊というピッチャーがデビューした年からこの人のファンになり、真剣にプロ野球中継を見るようになり、阪神ファンになり、この人がトレードに出されたときは晩飯が食えず、その後、血行障害と闘いながら、リリーフ投手としてよみがえってからもずっと応援していました。

江夏が阪神に入団した時に小学生だった私も、この試合が行われたときは、すでに働いておりました。日本シリーズ第7戦はTV観戦したかったですが、この時私は瀬戸内海の小島にロケハンに行くために、新幹線に乗っていました。関西は曇りでやや小雨模様、今頃やってるなあなどと思っておりましたところ、岡山も近づいたところで急に車内放送がありました。

以下記憶をたどりつつ、

ピンポンポンポーーーン

「車掌の○○と申します。おくつろぎのところ恐縮ですが、ただいま大阪球場で行われておりますプロ野球日本シリーズの情報が入りましたのでお知らせします。4-3と広島リードで迎えました9回裏、近鉄がノーアウト満塁と攻めたてましたが、ここからピッチャー江夏がふんばり、三振の後、スクイズを見破るなどしてこれを抑え、広島が4勝3敗で日本シリーズを制しました。以上です。」

そして車内は、歓声に包まれました。

セパ2リーグ分立初年の1950年には、ダントツの最下位だったこの両チームの日本シリーズは、好ゲームの連続、接戦でものすごく盛り上がり、その翌年もたしか広島-近鉄の顔合わせで第7戦までもつれ、やはり最後は江夏に締められて、西本近鉄は敗れます。

 

西本さんの訃報に触れ、江夏談。

「勝利に対する執念をすごく感じた。会うたびにあの時(江夏の21球)のことで、『この野郎』と言われ、『執念深いおじいちゃんやね』と返していた。同じチームで選手、監督としてやったことはないけど、一度は一緒にやりたいと感じさせる人で、個人的にも大好きな方だった。寂しいよな、やっぱり。」

 

 

2011年11月 7日 (月)

東京オリンピックとクラス対抗リレー

人にはそれぞれ好きな季節というのがあると思いますが、私の場合、10月から11月にかけてって、好きなんですね。夏暑いのも、冬寒いのも、それぞれ良いのですけど、続くとやっぱりめげてしまいますし、春は世間の人が云うほど浮かれた気分になれないんです。昔から、木の芽どきっていうじゃないですか。あれあんまり得意じゃないんですね。

10月に入ってだんだん空気が乾いてきて、朝晩が過ごしやすくなって、たまにグッと冷え込んだりすると、なんだか気合も入るし、欧米のように秋が新学期だった方が、学校の成績もよかったんじゃないかと思ったりしてたわけです。

夏が去って行った寂しさはあるけど、その寂しさがちょっと良くて、春と夏にためられたエネルギーが、スッと拡散して、次のフェーズに移っていく感覚があります。

いろいろあったけど、まっ、新しい気持ちで出直そうかみたいなところがいいんでしょうか。

あと、気持ちがいいのは、空が高いこと。なんだかせいせいしませんか。

体育の日って10月10日じゃないですか。これって1964年に東京オリンピックの開会式が開かれた日なんですけど、時の政府は、過去の気象庁の記録の中から、もっとも快晴の多かった10月10日を開会式の日に選んだという話を聞いたことがあります。

当時の日本人はみんな、この日を待ちわびていました。1945年の敗戦から、約20年。

この日のために東海道新幹線の開通を間に合わせ、首都高速道路を完成させ、世界中にこの国の再建を知らせる日でもありました。やはり、どんなことがあっても絶対に晴れてほしい日だったと思います。

快晴の国立競技場に、古関裕而作曲のオリンピックマーチが響き渡り、355名の日本人選手団が登場した時の感動は、あの時を共有した人々にのみ分かることかもしれません。

みんな本当に感無量だったわけです。その後、市川昆監督によってつくられたドキュメント映画「東京オリンピック」を観ても、そのシーンで必ず涙が出ます。当時10歳でしたが、今までで唯一、自分が日本国民なのだと自覚した出来事でした。この話を感動とともに伝えようとすると、ちょっと気味悪そうにする若い人もいますが。

その日は国民の祭日となり、毎年この日がやってくると、東京オリンピックを想い出し、全国的に運動会の季節となります。

個人的ですけど、その運動会で、一つ忘れられない思い出があります。

小さいころから運動会ってあんまり好きじゃなかったんですね。なぜかというと、ともかくスポーツというものが苦手なわけです。幼稚園のころから、徒競争という競技でテープを切ったことがなく、油断すると自分の後ろに誰もいないということが、ままありました。それが憂鬱な理由だったんです。

ところが、東京オリンピックの数年後、小学校の運動会で妙なことになります。私は高学年になっており、恒例のクラス対抗リレーの選手の選抜が進んでおりましたが、なぜか私がその中の1名に選ばれてしまったのです。

古い話で、うろ覚えですが、クラスの数は5クラス、各クラス5名の選手を選ぶことになっていました。私のクラスには、学年で一番速いカガワ君がいたのはおぼえています。そして彼以外にもかなり足の速い奴らがそろっていて、上から4人はすぐに決まりました。多分、あとの20名ほどは大差なかったんだと思いますが、私が選ばれる理由はなに一つありません。あとの一人は誰でもよかったから、誰になってもほかの4人で勝てそうだからだったのでしょうか。たしかクラス皆で投票したのですが、5人目に私が選ばれてしまいました。スポーツとは全く別のことで目立つ奴であったことは確かですが、面白がられたふしはあります。

なにせ初めてのことなので、母親にも話しました。母親はよろこぶ前に絶句しました。そうなんです、よろこんでる場合じゃないんです。次の日から真剣に練習しました。バトンの受け渡しとか。でも練習しても急に走る速さが変わるもんではありません。思えば仲間の4人はいい奴らでした。よく練習に付き合ってくれました。そして作戦会議、です。主に走る順番を決めますが、カガワくんが何番目を走るかが最も大事なことです。私はともかく決まったところを死ぬ気で走るしかありません。4人は考えに考え、あろうことか私をアンカーにする作戦を立てます。私にバトンが渡される前に、完全にぶっちぎろうという作戦なのですが、各クラスのアンカーにはチーム最速の奴がきます、ふつうはそういうものでしょ、あーあ、どうにでもなれです。

このクラス対抗リレーは、クラス対抗リレー史上、最も盛り上がったクラス対抗リレーになりました。私にバトンが渡された時、すでに他のクラスは、半周以上離されておりましたが、ここからの1周が恐ろしく盛り上がったわけです。競馬で云えば、私の好きな展開、逃げ馬が直線で差し馬に差されそうになりながら、逃げ切れるかどうかという展開です。Relay

私はただ無我夢中でしたが、だんだんに周囲の歓声が、異常な音量になってきました。後ろを見る余裕はないです。必死でした。テープを切った時、私のまわりには、団子状になった他の4人のアンカーたちがいました。いわゆる鼻差、写真判定か。しかし、かろうじてテープを切ったのは私でした。4人の仲間が駆け寄ってきます、スローモーションでした。あとにも先にも運動会でテープを切ったのは、この時だけです。しばらく夢でうなされたりしました。

あれから、大好きなこの季節になると、よくあの事を思い出します。でも、勝って良かったです。負けてたらきっと嫌いな季節になってたような気がしますもんね。

2011年10月 7日 (金)

ipadでみる「仁義なき戦い」

夏にあったゴルフコンペで、珍しいことに準優勝して、賞品でipad2が当たりまして、どうしたものかと思いながら、どうにか使い始めてみたんですね。いまだにこのipadの機能の100分の1も使ってないと思いますけど。

そして、ある時これで映画が観れることがわかったんですね。iTunes Storeにラインナップされてる映画なら、1回レンタル200円くらいで1本48時間は見放題ということで、

ipad持ち歩きながら、好きな時に好きなだけ観れるというのも魅力で、何か観てみようと思い、前から観なおそうと思っていた「仁義なき戦いシリーズ」を観はじめてみたんです。

これがなかなか新しい映画体験で、画はけっこうきれいだし、自分の顔の前に置いたり、持ったりしながら観れるので、けっこう迫力あるし、音はイヤホンだから、飛行機で映画観ているような状態で、ほんとに観たい時に観たいだけ堪能できるのです。そして、この「仁義なき戦いシリーズ」がまた、よくできています。

封切りは確か1973年。大ヒットしてすぐにシリーズ化され、その年のうちに、「広島死闘篇」「代理戦争」が続いて作られ、翌年に「頂上作戦」と「完結篇」まで作られ、短期間に5本全シリーズが上映されました。考えてみると、この頃はものすごいスピードで映画って作られてたんですね。

ただ、この頃、すでに映画産業の斜陽化は進んでいて、1971年には、日活はロマンポルノに切り替えたりと、各社苦戦を強いられていたと思います。東映もかつて人気だった任侠路線がかげりをみせ、新しい企画に悩んでいた時、このシリーズは観客を劇場に呼び戻しました。これをきっかけに、東映はいわゆる実録路線をスタートさせ、実際の暴力団の抗争事件を台本化していきます。仁義なき戦いシリーズは、ある広島やくざの親分が、刑務所の中で書いた手記がきっかけになっており、それを基に脚本家が実際に起きた事件を調べ上げて、相当しっかりとしたシナリオに仕上げているので、広島抗争史として誠にリアルな映画となっております。

実際、「完結篇」で描かれた第三次広島抗争の頃、私は広島市内の中学生でしたが、通学路が繁華街だったため、広島県警が、前夜に起きた抗争事件の現場検証をしているのを何度も見ました。パチンコ屋のガラス扉が粉々になっていたり、壁に弾がめり込んでたりいろいろですが、一般市民に流れ弾が当たったこともあり、絶対に夜の繁華街を歩かぬように云われていたと思います。

ある日うちに帰ったら、叔父さんが来ていて、喪服を着ていたので、

「お葬式?」と聞くと、Odoryaa

「おお、いま帰りじゃ。」

「誰が亡くなったん?」

「友達じゃ。」

「へえ、病気ねえ?」

「いいやあ、撃たれたんじゃあ、組のもんじゃったけえ。」

「えっ・・・・」

みたいな会話が、一般市民の普通の会話としてあったりします。

私の高校時代の友達で、街の中心部の酒屋の息子のK村君には、小さい時からいつもキャッチボールをしてくれた、隣の家のオジサンが、入浴中に拳銃で撃たれて亡くなった悲しい思い出があったり。

私が広島の中学に転校してきたその日に、私にけんかを売ってきたK君のお兄さんは、3学期になったころに、抗争で亡くなりました。

そんな背景もあり、普通の人より私の場合、臨場感強いかもしれませんけど、ともかく、映画はよくできております。

当時、40歳過ぎだった深作欣二監督は、まだヒット作はなかったけど、才能にあふれ、絶対にこの映画を当ててやろうとギラギラしていたし、シナリオも斬新、カメラワークも実験的でした。そして何より、当時は映画俳優という職業の人達が、大部屋も含めて非常に層が厚かったです。みなさん、スクリーンの中で、実在した人物を喜々として演じています。

主役の菅原文太さんはもとより、千葉真一さん、北大路欣也さん、松方弘樹さん、山城新伍さん、田中邦衛さん、梅宮辰夫さん、室田日出男さん、川谷拓三さん、成田三樹夫さん、渡瀬恒彦さん、加藤武さん、小林旭さん、そしてこの人も全シリーズに登場する重要な悪役・金子信雄さん等々。本当にいきいきと実録の人物が描かれております。また、広島弁がよく調べて研究されており、セリフに独特な世界観があります。 

金子さんの役を、一時、三国連太郎さんで考えられていたり、主役の菅原さんの役は、当初東映初主演の、渡哲也さんで進んでいたこともあり。また、あまりに題材が危ないので、1作で打ち切ろうという話になったり、いろいろな試行錯誤がありながら、公開された映画は空前のヒットとなり、全5篇のシリーズは完成します。

「仁義なき戦い」は、クエンティン・タランティーノや、ジョン・ウーはじめ、日本の多くの映画監督にも大きな影響を与えました。2009年に実施した「キネマ旬報」の日本映画史上ベストテンという企画では、、歴代第5位に選ばれています。

私が広島から上京した1973年から始まったこのシリーズは、5本とも宮益坂の下の渋谷東映で観たと思います。それ以来、今回ipadの画面で一気に鑑賞しましたけど、十分に当時の興奮をよみがえらせることができました。

この映画のスタッフや俳優さんたちが、短期間にものすごい集中力と情熱で作った作品だということも改めてよく伝わってきました。

いまは、おじいさんになられたり、すでに鬼籍に入られた映画俳優の方々、とにかく皆、脂が乗り切ってメチャメチャかっこえかったです。広島弁、あんまり上手じゃない方もおられましたけど、ご愛嬌ですかね。

 

2011年8月15日 (月)

ギャンブルう

少し前に、「いねむり先生」という本を読んだのですが、なかなかよかったんです。

伊集院静さんが、生前の色川武大さんとの出会いと交流をベースにしたもので、主人公のこの先生に対する尊敬とか愛情とかが、独特な味わいで書かれています。

色川さんという人は、若かった私にとっても非常に興味深い存在でした。直木賞はじめ数々の文学賞を受賞する小説家であると同時に、博打打ちとしても本物の人で、その経験をもとにした麻雀小説は、阿佐田哲也というペンネームで書かれ、当時大人気でした。

そんなことで無頼派小説家などと呼ばれていたけど、たまにTVとかで見かけると、もの静かではにかみ屋のおじさんといった風情で、優しそうな人でした。そのギャップもちょっとミステリアスで、心惹かれたのかもしれませんが。

懐かしくなったので、昔読んだ「麻雀放浪記 青春篇」を、もう一度読んでみました。

自身の体験をもとにしている上に、文章力が見事で、リアリティが半端なく、やっぱり名作でした。この小説は、和田誠さんが1984年に映画化していて、これもかなりよくできていて話題になったものです。

私が阿佐田さんの麻雀小説をよく読んでいたのは、東京に出てきて大学生になり、うんざりするほど麻雀をやっていた頃でした。金がなく、勉学に熱心でなく、時間と体力だけがうんとある若者にとって、麻雀はこのうえない友達でした。自分の下宿でも、先輩のアパートでも、駅前の雀荘でも、やったやった。

下宿は雀荘と化し、麻雀の役の中でも非常に難易度の高い役満が出ると、その役の名称(例えば、大三元とか四暗刻とか大四喜とか)を、短冊に書いて署名をして壁に貼っていったのですが、しまいには六畳間を一回りしてしまいました。それにあきたらず、阿佐田さんの小説に出てくるような、積み込みの練習をして試してみたり、仲間と二人組んでサインを決めてから、とある街の雀荘に乗り込んでみたり、と。いま思えば、その世界にあこがれて、いっぱしのギャンブラーのつもりでいたのでしょうか。愚かな者でございました。

 

その頃、パチンコもよくやりました。暮らしていた街のパチンコ屋から、その私鉄沿線の各駅のパチンコ屋まで、傾向と対策を駆使して挑んでいました。勝つと大きいこともありますが、負けることも多く、だいたいトータルすると負けてるんです。遠くの駅のパチンコ屋まで出かけて、帰りの電車賃まで使い切って歩いて帰ったこともよくありました。

 

土日は、競馬ですか。朝からなじみの喫茶店のカウンターで競馬新聞読みながらコーヒー飲んで、ある時は仲間たちの分も引き受けて並木橋まで馬券買いに行ったり、誰かが行ってくれる時は、そのまま雀荘に行って、ラジオの競馬中継聞きながら麻雀打ってたり、学生の分際でなめたまねしてましたね。

元手は乏しいわけで、競馬の予想や解説は、真剣に読んだり聞いたりしましたが、私は好んで寺山修司の解説を聞いていました。当時、表現者としての寺山にはかなり影響を受けた世代でしたし、彼の競馬解説には、独特な物語のような面白さがあったんですね。でも、あんまりあたらなかった気がしますけど。私は、その頃テレビで寺山の解説を聞きすぎて、完全にモノマネができるようになっていました。そしてそれがきっかけで、競馬解説だけでなく、芝居や映画や文学を語る寺山修司のマネもやるようになりました。

これは余談です。

 

20歳の頃の私は、こうやって大人の男の世界にあこがれて、いきがっていたんだと思います。背景に、男は博打打ちだ、男は江夏だ、みたいな空気ありましたから、あの頃。そして、深い深いギャンブルの世界の、ほんの入り口を垣間見てたのでしょう。可愛らしくも。

だいたい、元手もなく、たまに分不相応の実入りがあったかと思えば、すっからかんのピーになって息をひそめたり、かといって、大きく動いて破滅してしまう迫力もなく、トータルすれば負けているのが世の常で、いつの間にかその熱も冷めておりました。

ある時、憑きものが落ちたように。

それから、あまり自分からギャンブルをやることはなくなりました。若い時に食べすぎて食あたりをしたのかもしれませんが。この先も、博打の本当の魅力のようなものはわからぬままのような気がします。色川さんや、伊集院さんや、寺山さんや、友達のマンちゃんのようなギャンブラーには、私はなれないのだと思います。やはり。

Keiba 
 

2011年8月 3日 (水)

Facebookのお誕生日

7月28日が、私誕生日なんですね。でも年齢も年齢だし、この何年も、特にこれといった何事もなく、近所に住んでる3歳違いの従妹の誕生日が1日違いなので、久しぶりにメールのやり取りするくらいで、ただ淡々と過ぎて行くんです。たいてい。

ちなみに、7月27日は、この従妹の旦那とその友達とでゴルフに行ったので、会社休んだんです。

で、その旦那と別れ際に、

「あ、奥さんに、誕生日おめでとうと言っといてね。」

とかいって、うちに帰って早くに寝ました。

次の朝、会社に来てみると、休み明けはいつものことなのだけど、メールがたくさん来ていて、この日はやけにfacebookからのメッセージが多く、これがみんな、お誕生日おめでとうという趣旨のものなんですね。

そおか、facebookの時代ってこういうことなのか。「ソーシャル・ネットワーク」っていう映画も観て面白かったし、いろんなところで、facebook話もいろいろ聞いたけど、実際どういうことになるのかは、あんまりわかってなかったんです。

 

2月頃だったか、一人の友達からfacebookへの招待が来たんですね。

「下河原さんからFacebookへの招待が届きました。Facebookに登録して、友達の近況や写真をチェックしたり、自分の最新ニュースを友達に知らせましょう。」

という文面でした。下河原さんも私も、その後それほど積極的に参加しているとは言い難いんですけど。

それから、徐々にさまざまな友人や知りあいから、

「○○さんから、Facebookの友達リクエストが届いています。」

というお知らせが来るようになりました。当然よく存じ上げている方が多く、中には存じ上げない方もいますが、たいていの場合は、友達リクエストやぶさかではないので、承認するわけです。そうこうしているうちに、私のfacebook友達は、現在72人ということになっております。

 

そんなことで、お祝いのメッセージをたくさんの方から頂戴し、ほうっておくのは失礼かとも思い、少しあわてもしたので、お昼前にお礼のメッセージを、私の方から出したんです、facebookに。そしたら午後からもいろんな方から、おめでとうメッセージが届き始めたんです。迂闊でした。私が大々的にお礼を云ったばかりに、それが催促になってしまったんだと思います。

要するに、私、この機能をよくわかってないし、使いこなせてないんですね。だいたい個人データの生年月日のところだって、月日だけ書いとけばよかったのに年まで入れるから、みんなに実年齢バレバレになっちゃってるし、男だからいいようなものの。

結局、7月28日が終わりに近づいた23:33までメッセージいただきました。スミマセン。

 

でも何だか、嬉しかったですね。

結果的には、何十人もの人からお祝いされたわけです。

子供のころから、7月28日って夏休みが始まったあたりで、学校の友達には会えないし、暑いし、あんまり誕生日ってやったことがなかったんです。1回だけ近所の子供集めてやったことがあったんですけど、誰かが持ってきてくれたおもちゃのボクシンググローブで、本気の殴り合いになって、友達が鼻血出して倒れちゃった記憶が強烈で、誕生日っていうとそのことばかり思い出したりしてましたから。だから、こんなにたくさんの人からいっせいにおめでとうと言われたのは初めての経験だと思うんですね。Facebookが知らせてくれたおかげであります。

今年、6月に誕生日を迎える友達のリストがfacebookから届いた時に、長く会ってない元仕事仲間の女性がいたので、懐かしい人集めて飲み会やったんですね。思ったとおり盛り上がりました。その時に、7月には私とそこにいたもう一人の友達が該当することがわかり、来月もやろうということになります。7月も7,8人集まって飲みました。また盛り上がります。そうすると不思議なもので、8月生まれの人がそこにいるのですね。そこで、そういえばあの人も8月だよね、そうだそうだということになります。これは確実に来月もやりますよ。

なんだかこの勢いでしばらく続きそうです、お誕生会。

 

友達の近況を知るのも、自分の最新ニュースを友達に知らせるのも、確かに楽しいです。誕生日を知らせるのはその最たる機能でしょう。何十年も音信が途絶えていた友人から、突然連絡があったのも嬉しかったです。これも、この仕組ならではのことです。

でも、先程も申しましたように、私的にはあんまり積極的に参加しているとはいえない状況です。Facebookを覗くと、実にいろいろな方からの、楽しい経験談や、新しいニュース、おもしろい写真などが溢れているのですが、どうも私には、こういう気のきいた情報を、サッサッと手早く送る才能がなさそうですし、だいたい身の回りのそういう出来事に気付く能力も低そうです。当分は、みなさんが発信した情報を受け手として楽しませていただくことになりそうです。

ただ、この機能のおかげで始まった「お誕生会」で、先頭きってはしゃいでいるのは私なんですけど。

やっぱり、人間がアナログなんでしょうか。

Happy birthday   

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