「ノルウェイの森」見ました
きれいな映画でした。
ただ画がきれいだということじゃなく、いろいろな意味できれいだったなと。
見おわった後に感想を求められたら、そのように云うのでしょうか。
原作は、1987年に刊行された、あの村上春樹氏の不朽の名作。
当時、瞬く間に多くの読者の心をつかみ、その累計発行部数は1044万部を超え、現在も読み続けられています。また、その物語は、36言語に翻訳され、村上氏は、世界で最も知られた日本の作家になっています。
その小説が映画化されていると聞いた時、どんな話だったか思い出そうとしたんですが、どうしてもはっきり思い出せません。ぼんやりとした印象はあるものの、考えれば考えるほど、ほかの村上作品と混ざり合った記憶になってしまうのです。
村上さんの作品にはそういうところがあって、どの小説も、いってみれば彼の世界にスーッと引き込まれてしまうのですが、お話として覚えているというよりは、何か感覚的なひとつの印象として残っているようなところがあります。
そんなことで、持っていたはずの本もどこへ行ったか見つからず、やはり気になるので、文庫本を買ってもう一度読みました。
おもしろいです。また、スーッと引き込まれるように読んでしまいます。そうか、こういう話だったんだと。でも自分も歳をとったし、また新しい小説体験でもあります。
1969年にもうすぐ20歳になろうとする人たちが主人公のこの物語は、私には近い世代でもあり、二十歳になるということを想い出しながら、その時代に旅するようでもあります。
小説は、村上さんと同い年の主人公が、18年前を想い出すところから始まりますが、映画は、主人公が高校生のところから始まります。
大ベストセラーとなったこの小説の読者には、それぞれの頭の中に登場人物たちのイメージがあるわけですから、映画のキャスティングが相当重要だったことは云うまでもありません。そんな中で、松山ケンイチのワタナベは、多くの読者を納得させたのではないでしょうか。この人は、俳優が技術的に演技をしているというよりは、その役が彼に乗り移ったようになってしまうところがあります。
菊地凛子の直子は、女子高生こそ少し無理があるものの、その後壊れてゆく直子の演技には、本領を発揮します。新人の水原希子の緑は、トラン・アン・ユン監督によって、完全に造形されたと思われますが、いい仕上がりになっています。これが舞台とは違う映画のマジックというべきものでしょうか。
「ノルウェイの森」を映画化するにあたり、トラン・アン・ユン監督に依頼をしたということは、非常に興味深い選択だったと思います。以前からこの小説を映画化するのであれば、日本には適任の監督が思い浮かばず、外国の監督の方がよいのではないかとぼんやり思ってはいたのですが、外国の設定になってしまうと違うような気がしていました。実際にこの小説を日本人の出演者で、外国の監督が撮れるのかどうか。
トラン・アン・ユン監督は、そのハードルをかなりのレベルで、踏み越えたのではないでしょうか。
そして、この映画がどういう映画かというと、原作である小説のストーリーを追いかけると言うよりも、登場人物たちのさまざまな経験と心象を、理屈ではなく感覚として映像に残していこうとしている映画であり、監督はその作業を繰り返し、積み重ねながらこの映画を作っていったのではないでしょうか。
彼の画に対するこだわりは、長編第1作の「青いパパイヤの香り」などにもよくあらわれていて、その手腕は高く評価されています。そして、その監督のこの映画に対する姿勢を、最も支え実現しているのが、撮影のマーク・リー・ピンビンです。
この映画がきれいであるということ、その人達の心象が、その感情とともに、ある時は哀しく、ある時は切なく、映像として語りかけてくるのは、キャメラマンの仕事によるところと深く関係しています。
ちょうど東京国際映画祭で、彼を追ったドキュメンタリー作品「風に吹かれてーキャメラマン李屏賓の肖像」を六本木で上映していたので、見に行きました。台湾出身の撮影監督で、さまざまな優れた監督と名作を撮った人です。現在、世界中からオファーがあり、再来年までスケジュールが決まっているそうです。アジアが世界に誇れるキャメラマンです。ドキュメントを見て、宮川一夫さんを想い出しました。
彼は、撮影中、常に映像に想像の余白を残すことを意識していたと云い、文学のような想像性を持った空間作りを目指したと云っています。深い言葉だと思います。でも、映像を見ると少しそのことを感じるのではないでしょうか。
もうひとつ、映画に「ノルウェイの森」の音楽原版を使えることになったのは、快挙だし大変意味のあることでした。僕らの年代にとっては、この音を聞くだけで、瞬時にこの時代に旅立てるわけですから。
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