2023年11月22日 (水)

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その2

タイガースは,38年前に日本一になってから,今回の優勝までに2度のリーグ優勝をしてるんですが,2度ともパ・リーグに敗れ日本一を逃しております。2003年のダイエー戦,この時は阪神が3勝2敗で王手をかけた第6戦,私,意を決して阪神ファンの友人と博多まで行ったですよ。しかしながら,その夜,早々に先発の伊良部は打たれ,逆王手をかけられてガックリ。モツ鍋を食べていたら,まわりのダイエーファンの人たちに、博多弁で慰められたりしまして,翌日は東京におりましたが,ダイエーの勢いそのままに敗れてしまいました。2005年は,このブログにも書きましたが,悪夢のロッテ戦は1勝もできずに散りました。
この2005年から18年経ち,巡ってきたチャンスではありますが,なんせパ・リーグの壁は厚く,まあ祈るような気持ちだったですよ。しかしながら,勝負事は蓋を開けてみなきゃわからないし,ともかく先に4つ勝てば良いという短期決戦なんで,選手も監督も悔いのない戦いをして欲しいっと。
戦前の予想,多くの野球評論家たち曰く,タイガースもオリックスも投手力の高い守りのチームであり,最後まで低い得点での接戦となるであろうとのことで,たしかに両チームの強力な投手陣はなかなか打ち崩せそうにありません。
ところが,始まってみると第1戦,今や球界のエースと云われ,間違いなく来季は大リーグで活躍しているであろうオリックスのエース,山本由伸が5回までに7点取られてしまうんですね。この阪神5回の攻撃で4点を挙げるきっかけになったのが,先頭打者佐藤のセンター前ヒットではあるんですが,この佐藤が次の打者の1球目に盗塁を決めるんです。岡田監督は盗塁のサインは出したけど,初球から行くとは思ってなかったと云ってますが、このプレイでピッチャーはちょっとリズムを狂わせ始めるんです。守っては村上投手絶好調で8−0のワンサイドで阪神が勝利します。
なんだか思いもかけぬ展開で先勝,でも,翌日はオリックスの二人目のエース宮城が立ちはだかり,後半も自慢の中継ぎ投手陣にかわされ,第2戦は0−8で阪神完敗です。
戦前の予想とは大違いの大差の1勝1敗から,舞台は京セラドームから目と鼻の先の甲子園へと移ります。
第3戦は,阪神伊藤とオリックス東の投げ合いで接戦,7回に5−1から5−4に追い上げた阪神は,オリックスの抑えの切り札,宇田川と平野に逃げ切られ惜敗。
第4戦は,先発オリックス山﨑福と阪神才木の投げ合いの接戦,その後両チームが繰り出す自慢の投手陣の守り合いで同点のまま9回へ,1アウトから近本が四球で歩きピッチャーのワゲスパックがバッター中野の時にワイルドピッチでランナー3塁となり、中野と森下は敬遠して満塁策,ここで4番大山がレフトへサヨナラヒット打つんですね,いや,家で見てたけど球場が揺れていました。この試合,実は阪神中継ぎ陣は7回8回にオリックスの猛攻を受け同点に追いつかれ,尚も逆転のピンチを迎えますが,ここで岡田監督は,なんと春先から不調でここまで一軍を外れていた湯浅投手をいきなり投入します。このアナウンスに球場はどよめきますが,湯浅はたった一球でセカンドフライに打ち取ってピンチを脱するんです。
これでシリーズは2勝2敗の対になりました。
第5戦は,甲子園での最終戦となります。この試合も阪神は押されます。というか,オリックス先発の田嶋を7回まで全く打てないんですね。田嶋は見ていて絶好調でした。阪神先発の大竹も好調で,ゴンザレスのソロホームランの1点だけに抑えていたんですが,7回に守備の痛いミスが出ます。セカンドに飛んだ打球を中野がエラーで逸らし,その球をライトの森下が後逸してしまい1塁ランナーがホームまで帰って1−0から2−0となってしまいます。このあとライトからベンチに帰ってくる時に森下は,観客席の方を見れなかったと後で語っています。
ところが,田嶋が7回でマウンドを降りて8回表を湯浅がビシッと三人で抑えると,流れは阪神にやってきます。オリックス自慢のセットアッパー山﨑颯一郎から、木浪,糸原連打,近本タイムリーヒットで1点返すと,さっきエラーした中野が送りバントを決め,ピッチャーは宇田川に変わります。ここで先程チョンボした森下がなんとタイムリースリーベースを放って逆点します。この時,多分、森下と岡田監督は泣いてました。この後も打線は止まらず打者一巡の6点,試合を決めます。
そして京セラドームに戻って第6戦,オリックスは2度目の大エース山本由伸を立ててきます。今度は,全く歯が立ちません。1−5,村上も悔し涙です。
さあ,泣いても笑っても第7戦,勝った方が日本一です。
オリックス先発は第2戦で手も足も出なかった宮城,阪神は青柳です。ここまでの流れを考えると,オリックスは前回宮城が万全の投球をしているし,青柳は本来のエースではあるけれど,今シーズンはもう一つ調子がよくありません。正直不安ではあり,多分、先取点を取られると苦しくなるだろうなと思いました。
そして,3回までどちらも引かない展開から,4回森下のヒットと大山の死球で1塁2塁,次のノイジーは宮城の速球に全くタイミングが合っていないように見えました。ところが,一球,裏をかくように投じられたチェンジアップを,見事レフトスタンドに放り込んだんですね,この人。3ランホームランです,宮城の落胆が手に取るようにわかりました。打線は次の5回にも追加点を奪い,青柳もよく頑張って5回の途中から伊藤が相手の反撃を断ち切ります。最後にマウンドにいたのはやはり岩崎,終わってみれば7−1,決着はついたのでした。
この9日間,連日,流れがどちらに転ぶかわからない好勝負でした。手に汗握り熱く応援してクタクタになりましたが,素直に両チームの選手たちに,ありがとうと言いたい気持ちです。
いい試合を見せてもらった。

オリックスも阪神も,それぞれのリーグで他チームを圧倒して来ただけの事はある,完成度の高いチームでした。オリックスは先発の一角にいた山下投手をケガで欠いたり,首位打者の頓宮が骨折して足に鉄板が入っていたり,杉本が足を痛めていたりで,ベストコンディションじゃないところもあったけど,やはり恐ろしく強いチームで,なんせリーグ3連覇ですから。あのちょっとひねくれたこと云う監督は,ちゃんと仕事してるよな。
阪神タイガースもここに至るまでは,なんせ長い道のりでした。金本監督も矢野監督も含めチーム作りに苦労はつきものでしたが,だんだんにチームは強くなって来ました。ともかく,38年前にセカンドを守り5番を打って日本一となリ、今年,全球団の最年長監督として悲願達成した岡田さんには,ちょっとお礼を云わんとね。

Neuse

2023 プロ野球日本シリーズ観戦記 その1

はてさて,大接戦・大熱戦となりました,今年の日本シリーズもようやくその雌雄を決しましたが、甲子園と京セラドームというごく狭い地域での対決にもかかわらず,内容的には昨今稀に見る面白さで相当に盛り上がったわけです。
この阪神タイガース日本一という,今年の一連の顛末には極めて個人的な思いがございまして,ここにこれを書かぬわけにはまいりませず,多分,長々と語ることとなりますが,どうかご容赦いただきたく存じます。
そもそも,この日本シリーズとは,プロ野球の2リーグ制の始まった1950年から今日まで73回続いておるわけですが,その中で阪神が日本一を成し遂げたのは,1985年のたったの一度だけなのです。そういうことだから,これほどの騒ぎになっているとも云えますけれど,これだけ人気のあるチームの割には,セ・リーグ優勝もたった6度でして,たとえば,私が小学生の頃に応援し始めてから初めてリーグ優勝した時には私は31歳になっておりまして,その次がそこから18年ぶりの2003年でして,私ほぼ50男となっておりました。その2年後に岡田カントクとなって優勝するのですが,また,そこから18年間,優勝フラッグは遠ざかり今年に至るわけです。
考えてみると,何が悲しくてそんな弱いチームを何十年も贔屓にしているのだろうかとも思います。まあ,私の場合,なんか長年にわたる気長な趣味のようなところもあり,このところあんまり熱くもならず,付かず離れず見守ってるようなもんであります,盆栽かよ。テレビ中継などを見ておりますと,勝っていても負けていても,ものすごいテンションで応援されているトラキチの方々には,頭が下がることではありますが。
終わってみれば日本プロ野球界を制覇した今年は,桜咲く春先から秋の紅葉の頃まで,一年中目が離せず,実に嬉し楽しかったのですが,不慣れなもので,しばらくこうであって欲しいけど,そんなことは多分ないでしょうが,これが毎年続くとなるとちょっと大変なのかな,などと思います。
こちらも歳をとってきてますから,最近はそういった大人しめの落ち着いた感じのファンになってるところもありますが,前回の日本一の時は38年も前で,阪神ファンとしては31歳で初めての優勝でしたから,それは激しく応援していました。リーグ優勝は神宮のヤクルト戦で,しっかり球場で観戦しておりまして、確かゲームはもつれて,3−5で2点負けてたんだけど,9回に掛布がソロホームラン,岡田が2塁打打って佐野の犠牲フライで同点,そのまま中西がヤクルトの反撃を抑えて引き分けに持ち込みます。スタンドのファンは引き分けで優勝が決まるのかどうかよく分かってなかったんだけど、ラジオ聴いてる人とかがいて,だんだん引き分けでも胴上げだということが分ってきて、最後は大騒ぎみたいなことだったと思います,いやすごい騒ぎでしたね。
そして日本シリーズ,第1戦の西武球場にも行きましたね。敵は広岡西武,当時徹底した管理野球で築かれたライオンズ野球の評価は高く常勝球団となっており,戦前の予想は阪神不利とも囁かれておりました。しかし,このゲーム始まってみれば,先発池田のこれまでに見たこともないような好投でなんと完封,打っては8回,バースが工藤から3ランを放ち完勝でした。帰りの西武電車は阪神ファンで満員,全員が応援用のメガフォンで電車の天井叩きながら池袋に着くまで六甲おろしの大合唱,本当にどうかしてましたね。
その次の日から私は仕事で網走にロケに行かねばならず,その頃の日本シリーズの試合はすべてデーゲームでしたので,TV観戦も断念してたんですね。ところが,北海道網走地区は,連日雨で撮影はできずお休みとなります。そしてその間,甲子園球場も西武球場も日本晴れで毎日大熱戦。
私たちロケスタッフは,旅館のテレビやロケ車のテレビで大声援を送っていたようなことでした。
シリーズは阪神が2戦を先勝し,甲子園に移ってからは西武が巻き返して2勝,第5戦は掛布の3ランなどで阪神が勝って王手をかけます。第6戦は西武球場に戻っての決戦となりましたが,網走はこの日も雨で撮影は中止となります。そして晴天の所沢では,長崎の満塁,真弓のソロ,掛布2ランホームランと,ゲイルの完投勝利で,阪神タイガースは悲願の初日本一を達成しました。
いまだ網走で1カットも撮影ができていない私どもスタッフですが,その夜は,祝タイガース優勝の大宴会となりまして,私はオールスタッフに胴上げをして頂き,何度も旅館の天井に頭をぶつけて泣いておりました。不思議なことに,その翌日からオホーツク海に停滞していた前線と雨雲は消えてなくなりまして,撮影はつつがなく終了します。だいたいそんな無駄な仕事してスポンサーに叱られそうですが,でも胴上げの渦の中にスポンサーもおられましたので,はい。

それから38年の歳月は流れ,果たして2度目の日本一は達成できるのだろうか。リーグ優勝だって18年ぶりなわけで,けっこう苦労したのだけど,このところプロ野球はパ・リーグが圧倒的に強いじゃないですか。日本シリーズも,セ・リーグはこの10年だと一昨年ヤクルトが一回勝っただけだし,その前の10年だってセ・リーグは3回しか勝ってないわけです。そもそも今回の相手のオリックスは強いです。あの強豪パ・リーグ軍団で3連覇してるんですよ。  
つづく

Bass

2023年10月18日 (水)

「PERFECT DAYS」という映画

まあ、昔から映画が好きで、常になんやかやといろんな映画を観てるんですが、コロナもあってこのところ本数は減っております。ただ根が好きなもんでわりと観てはいるんですけど、見渡してると、映画界には国内も国外も新しい才能が次々出てくるし、技術の進歩も目覚ましく、映画館へ行けば常に新しい何かを見せてくれます。
ただ、古今東西の多くの映画を観てきて、その表現のさまざまな手の内も知っていたり、そもそもこっちも歳をとってきて、感受性が鈍くなってきていることもあり、最近、その作品そのものが、深くこちらの内側に入ってくることがあんまりなくてですね。ただ読後感として、面白かったとか、いい映画だったとかいうことはあるんだけど、なんだか若い時の、観た後に忘れられない映画みたいな経験は、このところなかったんですね。

それで、この春に観た映画の話なんですけど、「PERFECT DAYS」という映画でありまして、なんだか久しぶりに響いたんですね。
東京で公共トイレの清掃員をしている、ある物静かな男の日常を、カメラはただ見ているのですが、映画はその仕事ぶり、暮らしぶりをドキュメントのように淡々と描きます。ただ、観客としての自分は、なぜかそこから目を離すことができません。気がつくと自分は、主人公の平山という男のすぐ隣にずっといて、ゆっくりその世界に引き込まれて行きます。
男は下町の安アパートに一人で暮らし、暗いうちに起きて、清掃の仕事の装備をした自分の車で都心へと向かいます。トイレ掃除が終わると、下町に戻り、銭湯に入って、立ち飲みで一杯、アパートに帰って静かに本を読む暮らしです。一人の部屋には、大量の本とカセットテープが整然と並んでいるのです。
そこからはラストに向かって少しずつ、まわりの人とのかかわりの中、映画としての様相を呈していきます。そして、この映画全体に、木漏れ日の映像が大切な役割を果たしており、音的には、車の中にカセットテープで流れる60年代〜70年代のロックが重要な脇役になっています。ある意味、音楽映画とも言えるくらいに。
この映画は12月に公開される予定で、東京国際映画祭のオープニングを飾ることになっていて、すでに世界中から高い評価を受けています。

Wim_2

どうして、こんなに魅力的な映画が出来上がったのか。それはいろいろあるんですが、やはり、監督・脚本のヴィム・ヴェンダース氏によるところ大ではあります。
1984年「パリ、テキサス」
1987年「ベルリン・天使の詩」
1999年「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」
2011年「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」等
現代映画における最も重要な一人とされるドイツの名匠。
これらの作品は映画ファンであれば誰もが観ていると思います。
ヴェンダース氏は、この物語の中に住む平山という清掃員を紡ぎ出しました。この映画にとって最も重要な存在。そのキャストは彼がずっとリスペクトしてやまない俳優、役所広司です。
映画を観て、このキャスティングなしに、この作品はあり得ないと思えます。カンヌ国際映画祭で、最優秀主演男優賞を受賞したのも、納得できます。まったく、この国が世界に誇れる俳優といえます。
それと、ヴィム・ヴェンダースという映像作家が、長い歴史の中で、ずっと日本を、東京を注視し続けていることは、この映画が生まれる背景として非常に重要なことであります。よく知られていることですが、彼は映画監督の小津安二郎を大変敬愛していて、1985年に小津映画の中にある失われたユートピアを求めて東京を彷徨い、「東京画」というドキュメント映画の名作を作っていますが、これも今回の映画につながる何かを感じずにはおれません。
映画を観終わった時に、すごく揺さぶられたのだけど、今までに観た映画には全く感じなかった、何か別な新しいものに出会った気がしたのは確かで、この作家にはいつもそういうところがあるのですが。今回、共同脚本とプロデュースを担当したクリエーターの高崎さんが云われてたんですけど、シナリオ作りの途中で、この映画のテーマは何かとヴェンダースさんに聞いたとき、監督は、それが言えるなら映画をつくる必要はないよと、微笑んだそうです。
なんだかモノをつくる時の姿勢というのでしょうか、深い仕事ですよね。
 
この度ちょっと自慢したかったことが、この素晴らしい映画の製作プロダクションを私共の _spoon.inc が担当したことでして、いえ、私は全く何もしていないのですが、うちの会社の頼りになる後継者たちが、プロデューサーとして、若いスタッフとして、みっちりお手伝いさせていただいたんですね。映画界の世界的な巨匠、スタッフ、キャストたちと、この仕事を達成させることは、これから大変な勲章となると思います。
しかしながら、実際の制作・撮影の現場は、無茶苦茶えらいことだったと聞きました。監督は、ドイツが誇るインテリでアーティストで優れた教養の持ち主なのに、常に謙虚で誰からも尊敬される本物の紳士なのですが、撮影が始まると、ただの我儘なじいさんだと、皆が親しみを込めて言っています。そうじゃなきゃあんな映画は撮れないとも思いますが。

これは映画とは関係のない話ですが、ヴェンダースさんのチャーミングなエピソードをひとつ。
そもそも、ヴィム・ヴェンダースさんとは、カメラマンでもある彼と彼の奥様が日本で写真展をおやりになった時に、その写真展のセッティングを弊社でやらせていただいたことがあったんですが、2006年に表参道ヒルズの開業にあわせてのイベントでしたから随分前ではあります。それから何年かして、夏にご夫妻が来日されたことがあって、ちょうど神宮の花火大会の頃で、うちの会社からよく見えるもんで、是非どうぞとご招待したんです。この時200人くらいはお客さんが来ていたと思いますが、私、屋台じゃないですけど、鉄板で広島風お好み焼きを焼いておりまして、多分70枚くらいは焼いたと思うんですけど、そしたら、そこに長蛇の列ができちゃって人が溢れてたんですよ。そうすると、列の一番後ろに、背の高い長髪の紳士が、ちゃんと紙皿と割り箸持って並んでるんですね、世界のヴィム・ヴェンダースが。で、まわりの奴らもまさかそんな大変な人がいるとは思ってないから、まあ、ほったらかしにされてるんですね。本人もなんだかニコニコして機嫌良さそうなんですけど。で、私あわてまして、
「ヴェンダースさーん、あなたはスペシャルゲストだから、一番前に、ここにきてくださーい。」
て、よくわからない英語で叫んだんですね。
そしたら、ニコニコしながら、まわりの人にスイマセン、スイマセンと言いながらやって来まして、私が焼いたお好み焼きをオイシイ、オイシイと言って食べてくださいまして、、
昔から憧れて大ファンだった映画監督に、私の焼いたお好み焼きを食べてもらったという、ただの自慢話ですけど。

2023年9月19日 (火)

マイ・ラスト・ソング

この夏、「いや、暑いですねえ」と言うセリフは、聞きあきたし、言いあきたところですが、たしかに最強の猛暑ではありました。9月になっても、まだ続いてるんですけどね。
ただ、コロナが落ち着いてからの、久しぶりの夏でもあったし、今年は家族で、祇園祭を見物したり、大曲の花火を見物したりと、ちょっと夏らしい行事をやってみたんですね。まあ思ったとおり、どちらも物凄い人出でしたけど、まさに日本の夏を満喫しました。
そして、お盆にはお墓参りにも行きました。私が参るべきお墓は、郷里の広島にありまして、だいたい実家の周辺の何ヶ所かで、毎年行っております。今年は8月の12日と13日でしたが、この日はともかく暑い日で、山の墓地ではちょっと立ちくらみがしました。自分の年齢のせいでも有りますが、やはり今年の猛暑はスペシャルではありました。
お盆には、先に死んでいった人たちの御霊が戻ってくると云われていて、夏にお盆が来てお墓に参るのは、長い間の習慣になっていますが、気が付けば自分も70近くになっており、遠い世界でもなくなってきております。
思えば自分にとって本当に大切な人たちが、たくさん先に逝ってしまいました。ただわけも無くよくしてくださった恩人たち、いろんなことを1から教えてくれた先輩たち、悪友、私より若いのに先に旅立ってしまった後輩たち、いろいろな大切な人たちの姿が浮かびます。
話はちょっと飛ぶんですけど、演出家の久世光彦さんが、飛行機事故で亡くなった向田邦子さんのことを書かれたエッセイが2冊あって、この前それを読み直してたんです。久世さんも2006年に亡くなっていますから、かなり前の本なんですけど、なんだか急に思い出したようなことでした。向田さんの脚本で久世さんが演出したTVドラマというのを、たくさん観て育ったもんで、おまけにお二人が書かれた本を随分に読んでもおり、なんだかこっちの勝手ですが身近に思っておるんですね。
いつも思うのは、このお二人の関係性と言うのが、なんとも言えず不思議で、向田さんの方が6才年上のお姉さんのようでもあるけど、ずっと仕事でコンビを組んでいたパートナーでもあり、ある意味完全な身内のような関係だけど、一定の距離も保たれていて、でも、実際に居なくなってしまってみると、この人のことを誰よりもわかっているように思ってたけど、本当にわかっていたんだろうかどうだろうか、みたいなことを書かれています。
私も、いろいろに亡くしてしまった人たちのことを思う時、たまらなく懐かしいのだけど、本当にその人のことをどこまで知っていたんだろうと思うことがあります。
ついでに本棚から、久世さんの本を何冊か引っ張り出してみた中に「マイ・ラスト・ソング」と言う本があって、これは、この人が昔からよく云っていたことが書いてあるんですけど、もしも自分がこの世からいなくなる時に、最後に何か1曲聴かせてくれるとしたら、どんな歌を選ぶだろうという話なんですね。
最後に何を食べたいかという話はよくでるんですけど、どの曲を聴きたいかというのも、なかなか深いものがあります。
そんなこと思いながら、先に逝ってしまった人たちのことを考えていたら、その人にまつわる記憶の中に、なんらかの曲が強力に浮かぶことがあるんですね。誠に極私的な記憶ではありますが、たとえば試しにツラツラあげてみると、、、
「君は天然色」「埠頭を渡る風」「東京」「北国の春」「The Entertainer」「あの頃のまま」「My Way」「うわさの男」「弟よ」「赤いスイートピー」「春だったね」「翼をください」「ホテル・パシフィック」「しあわせって何だっけ」「奥さまお手をどうぞ」「Route66」「Unplugged」「Happy talk」「結詩」「港町十三番地」「東京キッド」「上海バンスキング」
「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」・・・・
とかとか、その人の面影と一緒に、いろいろな曲が記憶の回路に織り込まれていて、想い浮かべるとちょっと切ないとこがあります。
なんかお盆の話から、湿っぽい話になってしまいましたので、またしても話が変わってしまいますが、そう言えば今年は、六甲おろしをよく聴く年でした。野球の話ですけど、だいたいこの阪神というチームはほんとに滅多に優勝しませんので、たまにするのが18年ぶりみたいなことでして、ただ今年は六甲おろしと共に久しぶりに記憶に残る年になりそうではあります。

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2023年8月 9日 (水)

薄情のすすめ その2

この前の続きです。「薄情」と云いますと、やはり相手への愛情が浅く、自己中心の考えで、協調性に欠けた自分勝手の性格ということになりますね。薄情者と云うと冷たくてやな奴ということです。ただ、難問を解決するために、障害を突破したり、摩擦を覚悟で目的を果たすような時、誰かがこのやな奴にならざるを得ない局面というのはあります。その狭間で何をどう選択するのか、ことは単純ではないのですね。
龍馬が書いた“薄情の道忘るる勿れ“という文言の、意味の深さです。
司馬さんが「竜馬が行く」の連載を産経新聞で始めた時、同時期に連載を開始したのが「新選組血風録」と「燃えよ剣」でして、このお話の中心にいるのが、新選組鬼の副長・土方歳三なんですが、この人は薄情というか冷酷無比な人でして、司馬さんは、
「新選組のことを調べていたころ、血のにおいが鼻の奥に溜まって、やりきれなかった。ただ、この組織の維持を担当した者に興味があった」と言ってます。
この時代の多くの青年たちは、尊皇攘夷思想にかぶれていたんですが、土方にはそう言った形跡は感じられません。かれの情熱の対象は新選組という組織だけだったかもしれず、そういうように考えたとき、この男はかれの仲間たちとはちがい、とびはなれて奇妙な男だという感じがしたそうです。そもそも、司馬さんは奇妙な男が好きで、彼が書いた、石田三成、黒田官兵衛、大村益次郎、河井継之助、江藤新平、秋山真之といった面々は、周囲とはどこか噛み合わないタイプが多いんですけどね。
そして、この新撰組という組織は、はげしく時流に抵抗し続けます。
昭和37年に司馬さんが執筆を開始した二つの小説の主人公は、竜馬も土方も1835年(天保6年)生まれの同い年です。全く違うポジションで、全く違う方向性で、同じ幕末を生きて、坂本は1867年享年32歳で、土方は1869年享年34歳で、世を去るんですが、その二つの話を同時期に一人の作家が書いていることには、ちょっと不思議な気持ちになるのですね。

Shinsengumi



思い返すに、私が「新選組血風録」と「燃えよ剣」を読んだのは「竜馬が行く」を読む少し前だったと思うんですね。何の気なしに読み始めたら、一気に土方歳三にハマったと思います。その勢いで竜馬に行って、吉田松陰、高杉晋作と続き、司馬遼太郎マイブームがやってくるんですが、考えてみると、この時すでに、本が出版されてから20年近く経ってたかもしれません。
この新選組の話というのは、ある意味時代に逆行した人たちの滅んで行くストーリーの側面があって、小説の後半、鳥羽伏見以降は、敗戦に次ぐ敗戦ということになって、仲間たちもだんだんにいなくなってゆきます。
そんな中、この土方という人は、なんだかぶれない人なんですよね。
武州多摩郡石田村(現在の日野市あたり)の農家の出で、剣術道場の仲間たちと、将軍警護のために集められた浪士組に応募するところから、舞台は幕末の京へと移り、文久3年(1863)から明治2年(1869)の新選組時代は、まさに激動期となります。そんな中で、この人は黙々と自身の意思に従って己の道をゆきます。
「燃えよ剣」の土方は後半になっても失速しない。新選組は崩壊したが、土方は旧幕軍の歴戦の勇士として最後まで抗戦を続ける、小説の下巻のほぼ半分が敗走する場面です。負けていく過程が丁寧に書かれている。最後まで一緒に戦った中島登(のぼり)は、晩年の土方について、だんだん温和となり、従う者たちは赤子が母親を慕うようだったと書き残しています。司馬さんは、負け戦を重ねていくにつれ、土方が精神的に成長し、人間的に豊かになっていくことを書きたかったのかなあ、と。
最後の場面、馬上の土方が部下たちに言う。
「おれは函館へゆく。おそらく再び五稜郭には帰るまい。世に生き倦きた者だけはついて来い」
単騎で、硝煙が立ち込める戦場へ土方の姿が消えていく。

やっぱ、かっこいいよな、薄情者だけど。

Toshizo

2023年7月14日 (金)

薄情のすすめ

“厚情必ずしも人情ニ非ズ
 薄情の道、忘るる勿れ    坂本龍馬手帳より“
 
かつて作家の司馬遼太郎さんが、ある編集者に贈った色紙に、この文言が書かれていたそうで、普通に考えると龍馬語録の中にこのフレーズがあるのは意外な気もしますが。
私が「竜馬がゆく」を読んだのは、20代の終わりか30代になった頃でして、だいぶ前のことで、ある意味危険を含んだこの文言のことは、あんまり覚えてないんですが、このことに関しては、司馬さん自身がこの小説のあとがきに書いておられまして、
「竜馬はふしぎな青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかったが、暮夜ひそかにその手帳におそるべきことを書いている」と。
「竜馬がゆく」は、1966年に刊行された、ご存知の不朽の名作でして、当時それほど知られていなかった坂本龍馬という歴史上の人物を、一気に超メジャーにしました。
司馬さんは、この幕末の風雲期に突如現れ、その役割を終えるとともに天に召されたこの人物にいたく興味を抱き、おそらくその周辺資料をものすごい勢いで読み尽くし、その魅力を小説にされたと思いますが、
「いずれにしても、坂本龍馬のおもしろさは、この語録をもちつつ、ああいう一種単純軽快な風姿をもって行動しきったところである。この複雑と単純のおもしろさが、私をしてかれの伝記風小説を書かしめるにいたったように思われる」と、おっしゃってます。
と、前置きが長くなりましたが、この「薄情の道、忘るる勿れ」という言葉は、ちょっと奥が深いなと思うのですね。
人は、公的にも私的にも何か目的を達成しようとする時、ある意味非情な判断をすることがあって、場合によってはそれも是であるということなのか、いやいや、ま、そんなにわかりやすい話でもないでしょうね。
人の世は、何かと情で繋がっていて、情に厚いということは大事であるけれど、情に流されるということもあり、その辺りの兼ね合いの難しさがあります。
これは人間社会で生きていく上で永遠のテーマかもしれません。

竜馬が生きた幕末は、欧米列強の外圧から、この国がイデオロギーの嵐の中で大混乱していた時代で、そんな時どこからともなく現れたこの男は、どの組織にも属さぬ素浪人の立場で、いくつかの時代のスイッチを押して、向かうべき方向性を示して、またたく間に一気に駆け抜けて行ったわけです。
司馬さんが描いた、この竜馬という主人公は、ただの好青年ということでもなく、自己実現のために我儘で頑固でもあり、人たらしで強引だったりもして、やたら女性にモテたりもするんですけど、ある爽やかな余韻を残して、歴史の舞台から忽然と姿を消してしまいます。
作者はこの人物に関する文献を読めば読むほどに、ある引力のようなものを感じたでしょうか。その中で、「薄情の道、忘るる勿れ」というフレーズは、ある大きな意味を持っているのかもしれません。
坂本龍馬が亡くなったのが31歳ですから、この小説は青春小説でもあります。だいぶ前ですけど、仕事で四万十川を辿って四国山地のてっぺんまで行って泊まったことがあったんですが、この山脈は千数百メートル級の山々が連なっておりまして、けっこう深いんです。山道を歩きながら、その時ふと、龍馬はこの急峻な山を越えて土佐藩を脱藩したのだな、その時26歳かあ、などと思ったんですね。まさに青春です。
それで思い出したわけでもないんですけど、個人的にも、
なんか、この青春小説を読んだ後、34の時、前の会社辞めて独立したんだったなあ。

Ryoma_4

2023年6月23日 (金)

日本全国に新一年生は200万人いたのだ

この前、書いたテレビの番組のことなんですが、その番組を見ていて、なんとなく自分も昔これと似たような仕事をしていたなと思ったのですね。それはテレビのCMの仕事だったんですが、「小学一年生」という学習雑誌のコマーシャルで、“ピッカピカの一年生”と云えば、覚えてる方もいるかもしれません。
1978年に始まって、ずいぶん続いた広告キャンペーンでして、私はかけだしのADの時から約10年、途中からディレクターもやって、プロデューサーもやって、その仕事に長く関わりました。
今もそうですけど、毎年4月には日本中の6歳児が一斉に小学校に入学するわけで、それはそれは世の中じゅう祝福ムードになるんですけど、その春に向けて、その子たちにテレビでメッセージを言ってもらいましょう、という企画です。
その頃、今度小学校に入学する子供達は、全国に200万人もいたんですが、私たちは北は北海道から南は沖縄まで、毎年、秋から春にかけて日本中走り回って、本物の新一年生を取材しておりました。
当時テレビのCMというのは、商品や出演者などをいかに美しくクオリティーの高い映像で撮るかということが最重要であり、必ず35m/mの映画用のフィルムで撮影しておりまして、1カット1カット、用意、スタート、アクション、はいカット、はいもう一回、みたいな撮り方をしてたんですね。でも、この一年生の仕事は、えんえんとビデオ回して収録するやり方で、画もテレビのニュースのような画質だし、多分にドキュメント的なタッチで、明らかに他のCMとは違ったCMになってました。
というようなことで、このコマーシャルで最も大事なことは、登場する子供達の嘘臭くない本物のリアルな存在感ということでした。ただ、云うのは簡単だけど、実際にどうやって撮影したら良いのだろうか、というところからこの仕事はスタートするんですね。このキャンペーンを企画したのは、この出版社の宣伝部の若い人、広告会社の若い人たちで、あんまり6歳児をわかってる人がいなかったんです。もちろん、私もそうでしたし。
あの時代、いろいろなモノの作り方も、今と違ってかなりアナログではありまして、このコマーシャルも、まずどのあたりに暮らしてる子供を撮りたいかを決めたら、まずそこに行ってみてウロウロしてみる。全国の小学校の名前と所在地と児童数が載っているリストがあって、それを見ながら、どの町や村にどんな学校があるか探ってみる。たとえばこの小学校に来年入学する子どもたちはどこにいるか。たいてい、そのあたりの保育園か幼稚園にいるはずだから、そこを訪ねて行ってみる。そこで今度一年生になる子に会わせてもらって、いろいろ接してみる。それを何ヶ所も繰り返して1週間くらい、場合によっってはもうちょいとかかることもあるけど、そうやって集めた小学校と子供達の写真を見ながら、今回の収録をどちらの学校と、そこに行くどの子供達でさせていただくかを決めて、お願いに上がり、それから何日か後に、実際にVTRとカメラとスタッフを連れて行って撮影をするわけです。
たいていの場合、今度入学する小学校の前で、カメラに向かって一人一人コメントを言ってもらうのだけれど、6歳の子供が入学に向けて自分で考えた気の利いた一言とか言えるわけもなく、そもそも、15秒のコマーシャルで4秒の商品カットがあり、3.5秒のサウンドロゴもあって、約7秒で収まるちょうど良いコメントとか、なかなか難しいんです。
そこで、前もってたくさんの言葉を考えておきます。
「こんど〇〇小学校に行く、〇〇〇〇です。よろしく!」
「学校行ったら、給食いっぱい食べるぞお。」
「一年生になっても、〇〇ちゃん仲良くしてね。」     
「おばあちゃん、ランドセルありがとう。」
「体育がんばるぞお、鉄棒がんばるぞお!」
「〇〇小学校の校長先生、よろしくお願いします。」
とかとかいろいろですけど、そこでテレビに向かって何を言うのかを一人一人と相談して決めていきます。できるだけその子の喋り方で、方言とかもあらかじめ調べておいたりして、その子が言いたいことを、できるだけ自然に収録できるようにトライするんです。
ただ、相手は役者さんやタレントさんとかじゃなくて、普通にどこにでもいる子供達なんで、やってるうちに飽きちゃったり、忘れちゃったり、眠くなったり、妙に興奮しちゃったり、いわゆるアクシデントもあって、どうにかこうにかいろんなタイプのテイクを拾っていくわけです。
そうやって回し続けたVTRを東京に持ち帰り、15秒サイズのCMに編集したものを何タイプか作って、試写をやって放送するタイプを決めていきます。
このコマーシャルは、この学習雑誌の発売日の告知CMでしたから、それほど出稿量が多いわけではなかったのですが、入学の時期が近づくとテレビで流れることになる、ある意味お馴染みのCMで、何かと話題になることが多いコマーシャルでしたので、子供達からすれば自分たちが関わったものが、ある時期テレビから流れるというのも、なんとも不思議な体験だったでしょうし、少なからず彼らの暮らしにも何らかの影響を与えたと思います。良い影響であればよかったですが。
なんだか、ある日突然、自分たちのエリアに、普段見かけないオジサンたちが、遠くの街からカメラかなんか持ってやって来て、一日付き合ってあげて面白かったけど、なんか人騒がせな人たちだったな、みたいなこと思ってるんじゃないだろうか。
当時、自分にとってあの子供たちというのは、まさに宇宙人みたいな存在で、すごくいろんなことを感じさせてくれ、想像してなかった多くのこと、教えてもらいました。今となっては、あの10年、ほんとにいろんな場所に行って、そこでたくさんの人たちに出会った、とても懐かしい仕事です。
ただ、今の時代、あんな風に思いついた時に、突然訪ねて行ったところで、急に取材させてもらって、撮影に来るような仕事のやり方は、今は絶対に無理だと思いますけど。

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2023年4月25日 (火)

ちょっと気になったテレビの番組のこと

この数年というもの、いろんな理由で家にいる時間が増えておりまして、ほとんど家にいなかった昔のことを思えば、格段の在宅時間になっております。
そんなことで、ただ意味もなくついているテレビを見てる時間もあって、初めて見る番組とかCMなんかも、よく見かけるんですが、つくづくテレビというものは、つまらなくなったなと思うんですね。ただこれは総論というよりは、極めて個人的な感想でして、日々一所懸命にテレビの仕事をされてる方に、とやかく云うつもりもなく、テレビが始まった頃の、あの何やっても面白かった時代とはもちろん違いますし、あくまで私自身の尺度でしかありませんが。
たいていのテレビのコンテンツに既視感があるというか、何見ても、これ見たことあるなという感覚ですね。考えてみると、この国でテレビの放送が始まった頃に生まれて、何10年もテレビ観てきましたから、当然といえば当然なんですけどね。
そんな中で、たまたま偶然見ていて、見始めるとついつい最後まで見入ってしまう番組があったんですね。正確な放送時間なんかも、よく知らなかったりするんですけど、わりとこの時期、偶然何本かを見たんです。
番組名は、NHKの「ドキュメント72時間」と云います。
たぶん何年も前から続いている番組なんでしょうけど、日本中のいろんな場所にカメラを置いて、72時間。そこに現れる人々や風景を撮り続けて、30分に繋いだドキュメントです。そう言ってしまえば、それだけなんだけど、その30分についつい引き込まれてしまう力があるんです。
場所は、その都度さまざまで、たとえば、どこかのラーメンの屋台とか、街道の24時間営業のドライブイン、北海道のはずれの雪に埋もれたコンビニ、高速バスターミナル、資格試験の予備校、真冬の山小屋、奄美のFMラジオ局、この前は国内だけじゃなく、アフガニスタンのとある食堂、等々なんですけど、そこに現れる人たちを実にていねいに撮ってるんです。

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そういった場所の3日間なんですが、そこにいる人にとっては日常なんだけど、それぞれ聞いてみると、一人一人、全く別々の背景や事情があって、ついつい聞き入ってしまうようにできてるんですね。
テレビ見てる方としては、通りすがりのいろんな人の話をふんふんと聞いてる感じなんだけど、元気のいい人もいれば、静かな人もいるし、面白い話もあれば、けっこう切ない話もあって、なるほどなということも、しみじみしたり、しんみりしたりすることもあって、ついつい30分がすぐに過ぎてしまうのですね。
考えてみると、こういう番組作るのって、NHKさんは昔から得意なんですよね。全国各地に支局があるし、各地方に向けた地元のドキュメント番組とか、よく制作されていますから。見てるとディレクターの取材の仕方とかも上手だし、技術スタッフも手際がよくて、うまいなと思います。
それに、民放の番組みたいに、視聴率がどうしたこうしたみたいな、面倒くさいこともあんまりなさそうな番組のようにも思います。
大体それほど肩に力入ってなくて、たんたんとしたタッチだけど、話されてるどうってことない一言一言には、妙にリアリティがあって、なんだか人生って、こういう小さなかけらの積み重ねかなって思ったりするんですね。こっちも年取ったせいかもしれんけど。
いずれにしても、WBCやワールドカップ以外で、あんまりちゃんと見ることのなくなっていたテレビで、ちょっと気に掛かった番組ではありました。
ちゃんとオンエア時間をチェックして、次も観なくちゃ。

2023年3月27日 (月)

WBC春の快挙と遠い日の草野球

今年の春はなんてったってWBCで、ちょっとものすごい盛り上がりを見せております。昨年のサッカーワールドカップは、SAMURAI BLUEが、世界の強豪チームと互角に闘う大活躍で、世の中サッカー一色になり、野球への関心はかなりかすみ、WBCってなんだっけみたくなってたんですが、今年の春の開催に向けて、大谷とダルビッシュの出場が決まったあたりから、俄然注目度が増します。
いざ試合が始まってみると、これが強いこと強いこと、侍ジャパンの中心にいるのは大谷翔平くん、164km/hのストレートを投げたかと思えば、打てば150m級のホームラン。まあ大リーグでもベーブ・ルース以来の大スターですから、この人を主役に日本中を、いや世界中を巻き込んだ歴史的な大会にしていると言っても過言ではないわけであります。
そしてつい先日、軒並みメジャーリーガーを揃えたチームメキシコを逆転サヨナラで破り、その勢いのまま、メジャー最強軍団アメリカチームを撃破して世界一になってしまいまして、こいつあ春から縁起がいいやと、日本中大騒ぎ、久しぶりに野球見て泣いた。そうこうしているうちに選抜高校野球も始まりまして、そのうちプロ野球も開幕しますから、今まさに球春まっさかりとなっております。
私たちの世代は、子供の頃から、ちゃんとしたグローブもバットもなくても、集まって野球をして遊んだ人たちでして、このゲームを知らない奴はいません。だからみんな何らかの形で野球をやった経験があります。今の子供達にはいろんな選択肢があるんでしょうが、我々はなんだかまず野球でしたね。その中には、当然上手い奴もいれば下手な奴もいるんですが、ともかくみんなでやるわけで、その頃テレビで観れるスポーツ中継は、野球と相撲くらいでしたし、人気のスポーツといえば野球という時代です。
そんな時代だったもんで、働き始めた会社にも、草野球だけど野球部というのがあって、時々早朝の神宮外苑絵画館前の草野球場で試合があったりしたんですね。まあなんだか忙しくて小さい会社だし、試合だと頭数を揃えなくちゃいけないわけで、若いというだけで、朝から呼び出されたりしていました。中学以来キャッチボールくらいしかやってないのと、基本ヘタクソな上に、いつも二日酔いでしたから、ただ立ってるだけみたいなもんでしたが。
この会社はテレビのCMを制作してましたが、皆さんけっこう激しく働き、また、けっこう激しく酒を飲む人たちでもありました。仕事にもそうですが、野球にも妙に情熱的なとこがあって、チームを強くしようと、たまに合宿なんかもやっていましたね。
働き始めて何ヶ月かした頃、制作部長で野球部の監督でもあったオカダさんが、若者を一人スカウトして連れてきまして、このマンちゃんという若者は元高校球児ということで、野球部的には期待の新人だったんですね。彼の仕事は制作部の一番下っぱで、すでにいた私と一緒に働き始めまして、こっちの方が何ヶ月か先に入ってましたから、仕事を教えてあげたりして、多少先輩風も吹かしてました。
それからしばらくして、早朝野球に彼がやってきたんですけど、その日は試合じゃなくて練習で、シートバッティングをやってました。順番に打席に入って球打って、打ち終えたら自分の守備位置に行って守るみたいな流れでやる練習でして、そのとき期待のマンちゃんがマウンドに上がってピッチングを開始したんですが、明らかにレベルが違ってるのがわかりました。私の順番が来て打席に立ったんですけど、球が見えなくてミットに入った音だけ聞こえました、マジ、速えわ。

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それもそのはず、マンちゃんは本物の野球小僧で、高校3年の時には、夏の甲子園大会の富山地区予選決勝戦を戦い、最後に敗れたんだそうです。彼は外野手で控えの投手でもあり、5番打者だったそうで、試合の最後に相手チームが放ったサヨナラヒットが、頭上を超えていった時に、マンちゃんの夏は終わったそうで、その時の夏の入道雲をバックに消えていった白球の映像を忘れていないと、まるで沢木耕太郎のスポーツドキュメントのようなコメントを、後々どこかの居酒屋で聞くことになります。
いろいろな補強が功を奏し、野球部は強くなってきて、CM制作会社連盟の大会でも優勝を争うようなチームになります。だんだん野球経験の豊富な新人社員も入ってきて、その中でもマンちゃんは中心選手でチームの強化には欠かせない存在であり、野球の応援に来ていたマンちゃんの彼女は、やがて奥さんになり、その結婚披露宴の司会をやらせていただいたりしましたが、野球の方では私は必要とされなくなり、ま、立ってるだけですから、自然と戦力外になっていきました。
しかしマンちゃんとは、よくよく縁が深かったと言わざるを得ません。この人と私は会社でも数少ない同じ年の生まれですが、彼は早生まれなんで一学年上です。なんで会った時に私よりちょっと後輩になったかと云えば、大学に2年多めに行ったせいで、余分の大学生活送ってる時にバーテンやっていて、そこのバーで岡田さんにスカウトされておんなじ職場になったようなことです。
それ以来ずっと今まで同じ職場にいるもんで、前に演出のセキヤさんから、
「君たちは、どっちが先輩なの?」と聞かれたことがあって、
「僕の方が数ヶ月だけ先です。」と云ったら、
「ああ、この業界は15分でも先の方が先輩だからね。」と云われましたが。
ただ、早い時期から、どう見ても私より兄貴キャラのマンちゃんが、私をさん付けで呼ぶのは、どうも居住いが悪かったんですね。同じ一番下っぱで苦労してて仲良くなった頃に、彼が高い洋酒を奢ってくれたことがあって、二人で意気投合してボトル空けて、けっこうベロベロに酔って別れた次の日の朝、会社で会ったら私はちゃん付けで呼ばれてて、ちょっと楽になって、そのまま今に至ってるわけです。
それから10年くらいして、30代になって、一緒に新しい会社作って独立したんですけど、これはこれで大冒険でいろいろありましたが、この時もマンちゃんは大活躍で、新会社もどうにか軌道に乗りました。
なんだか、WBCの世界最高峰の野球に感動しながら、いつかの神宮外苑の二日酔いの早朝草野球を想い出してたんですね。

2023年3月12日 (日)

早春の宮島へ

ちょうど3年前の春から始まったコロナ禍も、やや収束の気配を見せ始め、油断はできないのですが、数字的にも収まっていく方向のようです。今年は、桜の開花宣言が出れば、各地で以前のようなお花見ができそうであります。
思えば、3年前の春、中学や高校に入学した生徒たちは、ずっとマスクをした友達の顔しか知らなかったわけで、これはほんとにえらいことでしたね。
厳しい真冬の寒気が少し緩むにつれ、だんだんとマスクを外す機会が増えてくれば、長く会えなかった人たちとも、徐々に再会できてくるわけで、それはほんとに待ち遠しかったことであります。このところ、そろりそろりと少人数で酒飲んだりもし始めたのですが、まだまだほんの一部で、長きに渡ってご無沙汰している方がたくさんいらっしゃいます。
そんなことで、春の匂いがかすかにし始める2月の終わりに、家族4人で、私の父と母に会いに、広島まで行ってきました。父も母も90代半ばの高齢なので、いろいろと身体の機能を損なっておりまして、それぞれにケアしてくださる施設に入っています。ずいぶん長く直接会えていなかったんですが、二人とも私たち家族の顔を見れて喜んでくれまして、会いに行けてよかったです。
今回の旅のもっとも大きな目的は、この訪問だったのですが、他に、名古屋と広島で墓参りをしたり、実家のご近所に挨拶をしたり、税金の手続きをお願いしている税理士さんに会ったりと、細かい用事もいろいろある2泊3日の旅程でした。

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その時間割の中で、半日だけ余裕ができて、ちょうど良いから宮島にでも行ってみようかということになりました。この厳島神社というのは、平清盛さんが今の社殿の形に整えたと云いますから、長い歴史があり、世界遺産にも登録されてます。
言ってみれば有名な観光地なんですけど、広島の地元の人には馴染みの深い場所で、子供の頃から何かというとここには来てるんですね。広島の街中からも意外に近くて、電車に30分も乗れば宮島口、そこから宮島港までは渡し船に15分くらい乗ってれば到着します。ですから、遠くから広島を訪れる人は、平和公園と宮島は、がんばれば1日で見て回ることができますし、広島はこの2か所さえ見ておけば良いんじゃないかというとこもあります。
その日は、2月の最後の天気のいい日曜日で、まだ海の風は冷たかったですが、明らかに春はそこまできている気配がしました。同じように感じた人が多かったのか、かなりな人出で、外国からの観光客もたくさんきている光景は、コロナは去って春が来た、という感じがしました。
考えてみると、ここに来たのもずいぶん久しぶりで、なつかしくもあり、長かったコロナの冬が終わり、戦争も終わり、健やかな春が来ることを、神社にお祈りし、拍手を打って、参道でかきフライともみじ饅頭食べて帰りました。
なんだか、東京に戻ったら、長らくご無沙汰している方たちに、お会いするための準備でも始めようかなと、思いましたです。

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