2023年6月23日 (金)

日本全国に新一年生は200万人いたのだ

この前、書いたテレビの番組のことなんですが、その番組を見ていて、なんとなく自分も昔これと似たような仕事をしていたなと思ったのですね。それはテレビのCMの仕事だったんですが、「小学一年生」という学習雑誌のコマーシャルで、“ピッカピカの一年生”と云えば、覚えてる方もいるかもしれません。
1978年に始まって、ずいぶん続いた広告キャンペーンでして、私はかけだしのADの時から約10年、途中からディレクターもやって、プロデューサーもやって、その仕事に長く関わりました。
今もそうですけど、毎年4月には日本中の6歳児が一斉に小学校に入学するわけで、それはそれは世の中じゅう祝福ムードになるんですけど、その春に向けて、その子たちにテレビでメッセージを言ってもらいましょう、という企画です。
その頃、今度小学校に入学する子供達は、全国に200万人もいたんですが、私たちは北は北海道から南は沖縄まで、毎年、秋から春にかけて日本中走り回って、本物の新一年生を取材しておりました。
当時テレビのCMというのは、商品や出演者などをいかに美しくクオリティーの高い映像で撮るかということが最重要であり、必ず35m/mの映画用のフィルムで撮影しておりまして、1カット1カット、用意、スタート、アクション、はいカット、はいもう一回、みたいな撮り方をしてたんですね。でも、この一年生の仕事は、えんえんとビデオ回して収録するやり方で、画もテレビのニュースのような画質だし、多分にドキュメント的なタッチで、明らかに他のCMとは違ったCMになってました。
というようなことで、このコマーシャルで最も大事なことは、登場する子供達の嘘臭くない本物のリアルな存在感ということでした。ただ、云うのは簡単だけど、実際にどうやって撮影したら良いのだろうか、というところからこの仕事はスタートするんですね。このキャンペーンを企画したのは、この出版社の宣伝部の若い人、広告会社の若い人たちで、あんまり6歳児をわかってる人がいなかったんです。もちろん、私もそうでしたし。
あの時代、いろいろなモノの作り方も、今と違ってかなりアナログではありまして、このコマーシャルも、まずどのあたりに暮らしてる子供を撮りたいかを決めたら、まずそこに行ってみてウロウロしてみる。全国の小学校の名前と所在地と児童数が載っているリストがあって、それを見ながら、どの町や村にどんな学校があるか探ってみる。たとえばこの小学校に来年入学する子どもたちはどこにいるか。たいてい、そのあたりの保育園か幼稚園にいるはずだから、そこを訪ねて行ってみる。そこで今度一年生になる子に会わせてもらって、いろいろ接してみる。それを何ヶ所も繰り返して1週間くらい、場合によっってはもうちょいとかかることもあるけど、そうやって集めた小学校と子供達の写真を見ながら、今回の収録をどちらの学校と、そこに行くどの子供達でさせていただくかを決めて、お願いに上がり、それから何日か後に、実際にVTRとカメラとスタッフを連れて行って撮影をするわけです。
たいていの場合、今度入学する小学校の前で、カメラに向かって一人一人コメントを言ってもらうのだけれど、6歳の子供が入学に向けて自分で考えた気の利いた一言とか言えるわけもなく、そもそも、15秒のコマーシャルで4秒の商品カットがあり、3.5秒のサウンドロゴもあって、約7秒で収まるちょうど良いコメントとか、なかなか難しいんです。
そこで、前もってたくさんの言葉を考えておきます。
「こんど〇〇小学校に行く、〇〇〇〇です。よろしく!」
「学校行ったら、給食いっぱい食べるぞお。」
「一年生になっても、〇〇ちゃん仲良くしてね。」     
「おばあちゃん、ランドセルありがとう。」
「体育がんばるぞお、鉄棒がんばるぞお!」
「〇〇小学校の校長先生、よろしくお願いします。」
とかとかいろいろですけど、そこでテレビに向かって何を言うのかを一人一人と相談して決めていきます。できるだけその子の喋り方で、方言とかもあらかじめ調べておいたりして、その子が言いたいことを、できるだけ自然に収録できるようにトライするんです。
ただ、相手は役者さんやタレントさんとかじゃなくて、普通にどこにでもいる子供達なんで、やってるうちに飽きちゃったり、忘れちゃったり、眠くなったり、妙に興奮しちゃったり、いわゆるアクシデントもあって、どうにかこうにかいろんなタイプのテイクを拾っていくわけです。
そうやって回し続けたVTRを東京に持ち帰り、15秒サイズのCMに編集したものを何タイプか作って、試写をやって放送するタイプを決めていきます。
このコマーシャルは、この学習雑誌の発売日の告知CMでしたから、それほど出稿量が多いわけではなかったのですが、入学の時期が近づくとテレビで流れることになる、ある意味お馴染みのCMで、何かと話題になることが多いコマーシャルでしたので、子供達からすれば自分たちが関わったものが、ある時期テレビから流れるというのも、なんとも不思議な体験だったでしょうし、少なからず彼らの暮らしにも何らかの影響を与えたと思います。良い影響であればよかったですが。
なんだか、ある日突然、自分たちのエリアに、普段見かけないオジサンたちが、遠くの街からカメラかなんか持ってやって来て、一日付き合ってあげて面白かったけど、なんか人騒がせな人たちだったな、みたいなこと思ってるんじゃないだろうか。
当時、自分にとってあの子供たちというのは、まさに宇宙人みたいな存在で、すごくいろんなことを感じさせてくれ、想像してなかった多くのこと、教えてもらいました。今となっては、あの10年、ほんとにいろんな場所に行って、そこでたくさんの人たちに出会った、とても懐かしい仕事です。
ただ、今の時代、あんな風に思いついた時に、突然訪ねて行ったところで、急に取材させてもらって、撮影に来るような仕事のやり方は、今は絶対に無理だと思いますけど。

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2023年4月25日 (火)

ちょっと気になったテレビの番組のこと

この数年というもの、いろんな理由で家にいる時間が増えておりまして、ほとんど家にいなかった昔のことを思えば、格段の在宅時間になっております。
そんなことで、ただ意味もなくついているテレビを見てる時間もあって、初めて見る番組とかCMなんかも、よく見かけるんですが、つくづくテレビというものは、つまらなくなったなと思うんですね。ただこれは総論というよりは、極めて個人的な感想でして、日々一所懸命にテレビの仕事をされてる方に、とやかく云うつもりもなく、テレビが始まった頃の、あの何やっても面白かった時代とはもちろん違いますし、あくまで私自身の尺度でしかありませんが。
たいていのテレビのコンテンツに既視感があるというか、何見ても、これ見たことあるなという感覚ですね。考えてみると、この国でテレビの放送が始まった頃に生まれて、何10年もテレビ観てきましたから、当然といえば当然なんですけどね。
そんな中で、たまたま偶然見ていて、見始めるとついつい最後まで見入ってしまう番組があったんですね。正確な放送時間なんかも、よく知らなかったりするんですけど、わりとこの時期、偶然何本かを見たんです。
番組名は、NHKの「ドキュメント72時間」と云います。
たぶん何年も前から続いている番組なんでしょうけど、日本中のいろんな場所にカメラを置いて、72時間。そこに現れる人々や風景を撮り続けて、30分に繋いだドキュメントです。そう言ってしまえば、それだけなんだけど、その30分についつい引き込まれてしまう力があるんです。
場所は、その都度さまざまで、たとえば、どこかのラーメンの屋台とか、街道の24時間営業のドライブイン、北海道のはずれの雪に埋もれたコンビニ、高速バスターミナル、資格試験の予備校、真冬の山小屋、奄美のFMラジオ局、この前は国内だけじゃなく、アフガニスタンのとある食堂、等々なんですけど、そこに現れる人たちを実にていねいに撮ってるんです。

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そういった場所の3日間なんですが、そこにいる人にとっては日常なんだけど、それぞれ聞いてみると、一人一人、全く別々の背景や事情があって、ついつい聞き入ってしまうようにできてるんですね。
テレビ見てる方としては、通りすがりのいろんな人の話をふんふんと聞いてる感じなんだけど、元気のいい人もいれば、静かな人もいるし、面白い話もあれば、けっこう切ない話もあって、なるほどなということも、しみじみしたり、しんみりしたりすることもあって、ついつい30分がすぐに過ぎてしまうのですね。
考えてみると、こういう番組作るのって、NHKさんは昔から得意なんですよね。全国各地に支局があるし、各地方に向けた地元のドキュメント番組とか、よく制作されていますから。見てるとディレクターの取材の仕方とかも上手だし、技術スタッフも手際がよくて、うまいなと思います。
それに、民放の番組みたいに、視聴率がどうしたこうしたみたいな、面倒くさいこともあんまりなさそうな番組のようにも思います。
大体それほど肩に力入ってなくて、たんたんとしたタッチだけど、話されてるどうってことない一言一言には、妙にリアリティがあって、なんだか人生って、こういう小さなかけらの積み重ねかなって思ったりするんですね。こっちも年取ったせいかもしれんけど。
いずれにしても、WBCやワールドカップ以外で、あんまりちゃんと見ることのなくなっていたテレビで、ちょっと気に掛かった番組ではありました。
ちゃんとオンエア時間をチェックして、次も観なくちゃ。

2023年3月27日 (月)

WBC春の快挙と遠い日の草野球

今年の春はなんてったってWBCで、ちょっとものすごい盛り上がりを見せております。昨年のサッカーワールドカップは、SAMURAI BLUEが、世界の強豪チームと互角に闘う大活躍で、世の中サッカー一色になり、野球への関心はかなりかすみ、WBCってなんだっけみたくなってたんですが、今年の春の開催に向けて、大谷とダルビッシュの出場が決まったあたりから、俄然注目度が増します。
いざ試合が始まってみると、これが強いこと強いこと、侍ジャパンの中心にいるのは大谷翔平くん、164km/hのストレートを投げたかと思えば、打てば150m級のホームラン。まあ大リーグでもベーブ・ルース以来の大スターですから、この人を主役に日本中を、いや世界中を巻き込んだ歴史的な大会にしていると言っても過言ではないわけであります。
そしてつい先日、軒並みメジャーリーガーを揃えたチームメキシコを逆転サヨナラで破り、その勢いのまま、メジャー最強軍団アメリカチームを撃破して世界一になってしまいまして、こいつあ春から縁起がいいやと、日本中大騒ぎ、久しぶりに野球見て泣いた。そうこうしているうちに選抜高校野球も始まりまして、そのうちプロ野球も開幕しますから、今まさに球春まっさかりとなっております。
私たちの世代は、子供の頃から、ちゃんとしたグローブもバットもなくても、集まって野球をして遊んだ人たちでして、このゲームを知らない奴はいません。だからみんな何らかの形で野球をやった経験があります。今の子供達にはいろんな選択肢があるんでしょうが、我々はなんだかまず野球でしたね。その中には、当然上手い奴もいれば下手な奴もいるんですが、ともかくみんなでやるわけで、その頃テレビで観れるスポーツ中継は、野球と相撲くらいでしたし、人気のスポーツといえば野球という時代です。
そんな時代だったもんで、働き始めた会社にも、草野球だけど野球部というのがあって、時々早朝の神宮外苑絵画館前の草野球場で試合があったりしたんですね。まあなんだか忙しくて小さい会社だし、試合だと頭数を揃えなくちゃいけないわけで、若いというだけで、朝から呼び出されたりしていました。中学以来キャッチボールくらいしかやってないのと、基本ヘタクソな上に、いつも二日酔いでしたから、ただ立ってるだけみたいなもんでしたが。
この会社はテレビのCMを制作してましたが、皆さんけっこう激しく働き、また、けっこう激しく酒を飲む人たちでもありました。仕事にもそうですが、野球にも妙に情熱的なとこがあって、チームを強くしようと、たまに合宿なんかもやっていましたね。
働き始めて何ヶ月かした頃、制作部長で野球部の監督でもあったオカダさんが、若者を一人スカウトして連れてきまして、このマンちゃんという若者は元高校球児ということで、野球部的には期待の新人だったんですね。彼の仕事は制作部の一番下っぱで、すでにいた私と一緒に働き始めまして、こっちの方が何ヶ月か先に入ってましたから、仕事を教えてあげたりして、多少先輩風も吹かしてました。
それからしばらくして、早朝野球に彼がやってきたんですけど、その日は試合じゃなくて練習で、シートバッティングをやってました。順番に打席に入って球打って、打ち終えたら自分の守備位置に行って守るみたいな流れでやる練習でして、そのとき期待のマンちゃんがマウンドに上がってピッチングを開始したんですが、明らかにレベルが違ってるのがわかりました。私の順番が来て打席に立ったんですけど、球が見えなくてミットに入った音だけ聞こえました、マジ、速えわ。

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それもそのはず、マンちゃんは本物の野球小僧で、高校3年の時には、夏の甲子園大会の富山地区予選決勝戦を戦い、最後に敗れたんだそうです。彼は外野手で控えの投手でもあり、5番打者だったそうで、試合の最後に相手チームが放ったサヨナラヒットが、頭上を超えていった時に、マンちゃんの夏は終わったそうで、その時の夏の入道雲をバックに消えていった白球の映像を忘れていないと、まるで沢木耕太郎のスポーツドキュメントのようなコメントを、後々どこかの居酒屋で聞くことになります。
いろいろな補強が功を奏し、野球部は強くなってきて、CM制作会社連盟の大会でも優勝を争うようなチームになります。だんだん野球経験の豊富な新人社員も入ってきて、その中でもマンちゃんは中心選手でチームの強化には欠かせない存在であり、野球の応援に来ていたマンちゃんの彼女は、やがて奥さんになり、その結婚披露宴の司会をやらせていただいたりしましたが、野球の方では私は必要とされなくなり、ま、立ってるだけですから、自然と戦力外になっていきました。
しかしマンちゃんとは、よくよく縁が深かったと言わざるを得ません。この人と私は会社でも数少ない同じ年の生まれですが、彼は早生まれなんで一学年上です。なんで会った時に私よりちょっと後輩になったかと云えば、大学に2年多めに行ったせいで、余分の大学生活送ってる時にバーテンやっていて、そこのバーで岡田さんにスカウトされておんなじ職場になったようなことです。
それ以来ずっと今まで同じ職場にいるもんで、前に演出のセキヤさんから、
「君たちは、どっちが先輩なの?」と聞かれたことがあって、
「僕の方が数ヶ月だけ先です。」と云ったら、
「ああ、この業界は15分でも先の方が先輩だからね。」と云われましたが。
ただ、早い時期から、どう見ても私より兄貴キャラのマンちゃんが、私をさん付けで呼ぶのは、どうも居住いが悪かったんですね。同じ一番下っぱで苦労してて仲良くなった頃に、彼が高い洋酒を奢ってくれたことがあって、二人で意気投合してボトル空けて、けっこうベロベロに酔って別れた次の日の朝、会社で会ったら私はちゃん付けで呼ばれてて、ちょっと楽になって、そのまま今に至ってるわけです。
それから10年くらいして、30代になって、一緒に新しい会社作って独立したんですけど、これはこれで大冒険でいろいろありましたが、この時もマンちゃんは大活躍で、新会社もどうにか軌道に乗りました。
なんだか、WBCの世界最高峰の野球に感動しながら、いつかの神宮外苑の二日酔いの早朝草野球を想い出してたんですね。

2023年3月12日 (日)

早春の宮島へ

ちょうど3年前の春から始まったコロナ禍も、やや収束の気配を見せ始め、油断はできないのですが、数字的にも収まっていく方向のようです。今年は、桜の開花宣言が出れば、各地で以前のようなお花見ができそうであります。
思えば、3年前の春、中学や高校に入学した生徒たちは、ずっとマスクをした友達の顔しか知らなかったわけで、これはほんとにえらいことでしたね。
厳しい真冬の寒気が少し緩むにつれ、だんだんとマスクを外す機会が増えてくれば、長く会えなかった人たちとも、徐々に再会できてくるわけで、それはほんとに待ち遠しかったことであります。このところ、そろりそろりと少人数で酒飲んだりもし始めたのですが、まだまだほんの一部で、長きに渡ってご無沙汰している方がたくさんいらっしゃいます。
そんなことで、春の匂いがかすかにし始める2月の終わりに、家族4人で、私の父と母に会いに、広島まで行ってきました。父も母も90代半ばの高齢なので、いろいろと身体の機能を損なっておりまして、それぞれにケアしてくださる施設に入っています。ずいぶん長く直接会えていなかったんですが、二人とも私たち家族の顔を見れて喜んでくれまして、会いに行けてよかったです。
今回の旅のもっとも大きな目的は、この訪問だったのですが、他に、名古屋と広島で墓参りをしたり、実家のご近所に挨拶をしたり、税金の手続きをお願いしている税理士さんに会ったりと、細かい用事もいろいろある2泊3日の旅程でした。

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その時間割の中で、半日だけ余裕ができて、ちょうど良いから宮島にでも行ってみようかということになりました。この厳島神社というのは、平清盛さんが今の社殿の形に整えたと云いますから、長い歴史があり、世界遺産にも登録されてます。
言ってみれば有名な観光地なんですけど、広島の地元の人には馴染みの深い場所で、子供の頃から何かというとここには来てるんですね。広島の街中からも意外に近くて、電車に30分も乗れば宮島口、そこから宮島港までは渡し船に15分くらい乗ってれば到着します。ですから、遠くから広島を訪れる人は、平和公園と宮島は、がんばれば1日で見て回ることができますし、広島はこの2か所さえ見ておけば良いんじゃないかというとこもあります。
その日は、2月の最後の天気のいい日曜日で、まだ海の風は冷たかったですが、明らかに春はそこまできている気配がしました。同じように感じた人が多かったのか、かなりな人出で、外国からの観光客もたくさんきている光景は、コロナは去って春が来た、という感じがしました。
考えてみると、ここに来たのもずいぶん久しぶりで、なつかしくもあり、長かったコロナの冬が終わり、戦争も終わり、健やかな春が来ることを、神社にお祈りし、拍手を打って、参道でかきフライともみじ饅頭食べて帰りました。
なんだか、東京に戻ったら、長らくご無沙汰している方たちに、お会いするための準備でも始めようかなと、思いましたです。

2023年1月30日 (月)

わが街映画館との長い付き合い

この何年か、コロナの影響で、映画館で映画を観るということが極端に減っていますが、先日その合間に、必ず観ようと決めていた「スラムダンク」を、大きなスクリーンで鑑賞することができたんです。で、家に帰って家族に話していたら、なんかもう一回観たくなって、数日後、私としては珍しく、奥さんと娘と三人で、休日のドルビーステレオ大画面のプレミアムシートで観てしまいまして、原作・脚本・監督の井上雄彦さんの全く妥協のない姿勢に改めて感動しつつ、我が家は3人とも大満足して帰ってきたんですね。
そこで、昔の映画館とは勝手が違ってきてはいるけど、やっぱり映画館で映画見るのは良いもんだなと、つくづく思ったんです。考えてみると、この場所は大げさに言えば、私の人生の節目節目にいろんな指針を与えてくれた場所でもあります。
ワクワクしたり、ドキドキしたり、ハラハラしたり、セイセイしたり、ポロポロ涙したり、ムラムラと怒りを覚えたり、誰かに憧れたり、誰かを思ったり、過去を振り返ったり、未来を空想したり、異国の風景や文化に触れたり、この闇の中で実にさまざまなことを教えてもらってきました。
この空間が、この先どのように進化して行くのかわからないですが、個人的には物心ついてからここまでは、長い付き合いになります。
子供の頃、街を歩いていれば、あちこちに映画のポスターが貼ってあり、どの街にもいろんな映画館があって、遠くからでもわかるような大きな看板が掲げてありました。その場所に一人で入るようになったのは、15歳くらいからでしょうか、その頃は広島に住んでいましたが、邦画も洋画も、実にたくさんの映画館が、まだありましたね。

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高校の時は、あんまり勉強もしないで部活もしないで、放課後はわりと1人で映画館にいることが多かった気がします。ロードショウは料金も高くてしょっちゅうはいけないんですが、いわゆる封切館じゃなくて二番館もあって、いつだったかちょっと前にアメリカで大ヒットした「卒業」が掛かっていて、その併映が、「ウエストサイドストーリー」だったりして、地方ならではの不思議な贅沢を味わえたりしてました。片や低予算の佳作でニューシネマと云われた新感覚の話題作、ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスとアン・バンクロフトの三人で持たせてる映画、片や1961年に公開され、語り継がれたミュージカルの超大作は、この時点でも全く古びていない名作でした。いやこの二本立てには痺れましたね。
それからしばらくして、東京に出てくるんですけど、驚いたのは映画館がやっぱりデカくて立派なことで、どの繁華街にもそれなりの規模の映写環境が充実しておりました。それに加えて、いわゆる名画座が実にたくさんあって、これは嬉しかったです。ちょうどその頃、雑誌「ぴあ」が創刊されたんで、東京中の映画館に掛かっている映画は、これ見れば全てわかったんですね。レンタルビデオ屋も何もない頃、たくさんの映画を観れることに関して、やはりこの街は1番でした。
久しぶりに大きなスクリーンで映画鑑賞して思いましたが、やっぱり良い映画は映画館でみなきゃダメですよね。うっかりつまらないのを観てしまって失敗することもあるけど、すんばらしい映画をビデオや配信で観ちゃった時には、あーこれは映画館で観りゃよかったなあー、などと嘆くこともあります。
ともかく「スラムダンク」には、私、すっかり参ってしまったわけでして、これは必ず映画館で見るべき映画です。
井上雄彦さんが原作者として素晴らしい作家であることは、よおくわかっていることではあるのですが、今回、映画監督としての井上さんは、歴代の名監督たちに比べても全く引けを取らぬ、黒澤さんやスピルバークさんに匹敵する仕事されたと思いました。
映画監督としてやるべき仕事は本当に山のようにありますが、脚本の構成からカット割り、キャスティング、演技指導、撮影のアングル設定、キャメラオペレーション、照明、編集、効果音、音楽制作、録音、膨大なスタッフへの仕事の割り振りと指示、そういう何もかもをディレクションと云いますが、そのどれをとっても、ものすごい集中力を感じる映画でした。
今回、プレミアムシートは初めての経験でして、確かにプレミアムで快適だったんですが、「スラムダンク」はしっかり泣ける映画でもありまして、泣けた時には隣と仕切りがあるので、しみじみ泣けるのもありがたかったですわ。

2023年1月12日 (木)

2023年のお正月

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2023年も、明けましておめでとうございます。
今年は、なんだかゆっくりと年が明けたような気がしましたが、それは多分、個人的な印象と思いますけど。
コロナのせいでもありますが、年末年始も、ほとんどどこにも出かけず、ずっとうちでゴロゴロしてましたし、主婦である妻は忙しくしておりましたが、私に手伝えることは限られており、まあ、窓ガラスを拭くことと、うちのおせちの定番の牛肉焼きと卵だし巻きを、焼くくらいでして、大阪で暮らしている息子も帰ってきて、久しぶりに家族4人で寝正月を決め込んでおりましたもんですから、暮れから正月にかけては、ずいぶんのんびりと過ごせたんです。
かつて年末といえば、実家に帰省するのが常でしたから、混み混みの新幹線に家族でのりこんで慌ただしく移動していたもので、それも今や懐かしい思い出です。
それに、12月といえば忘年会、1月といえば新年会と、何かと人が集まったもんですが、コロナ以降、それもずいぶんなくなりました。なんとなく、そういうことも含めて、世の中が少し静かになっているわけで、それもただ悪いことじゃないけど、そもそも機会を見つけて、久方ぶりにお会いしたい人もいますよね。
そんな三ヶ日も過ぎた頃に、広尾に住んでらっしゃる先輩のお宅に、大好きな先輩たちが集まって鰤しゃぶするから来ないかと誘っていただき、そりゃ大喜びで向かったわけです。ご時世でもあり多少人数は抑えめでしたが、それはやはり心躍る集いではあります。
そこで、ルンルンと広尾のお宅に向かったんですが、その日は、例の渋谷の山手線ホームが大工事の日でして、電車が止まっていたんですね。まあそれはわかってたんですが、うちの娘が渋谷から恵比寿くらいなら歩けばいいじゃんと云いましたし、確かにそうだなと思って、ついでに渋谷駅と駅の周りを少し歩いて眺めてみるとですね、ちょっと見ぬ間に、いやずいぶんと変わってしまったなあ渋谷駅と、つくづく思ったんですわ。まあ今さらなんですが、ここしばらく通勤でもあんまり通ってなかったこともあったんですけど、毎日刻々と変化している街なのですね、ここは。
考えてみると、初めてこの街にやってきたのは、私が18歳でしたから、50年前ということになりまして、、えっ! 50年。
確かに思い起こしてみると、今とはずいぶん違った風景です。当時、東京で暮らし始めた頃、一番近くにあった大きな繁華街はこの街でしたから、映画見るのも、何か買い物するのも、安酒飲むのも、パチンコ屋も場外馬券売り場もあったし、何かと言えばウロウロしてたわけで、そもそもほとんどお金も持ってなかったから、ただの暇つぶしも含めて何かといえばここにいることは多かったんですね。どっか遠くの町に行くときにも、この駅が乗り換え基地でしたし、あの頃の渋谷駅の風景は、私の記憶に染み込んでいます。
そこから現在までの50年間、渋谷駅は、刻々と風景も機能も変化してきたわけです。
ただ、最も最近の大きな変貌には、あんまりついていけてなかった気がしたのですね、駅の周辺をひと回りしてみて。
恵比寿まで歩きながら、軽い浦島太郎状態になり、ちょっと眩暈してショック受けましたが、日比谷線に一駅乗って広尾について、この街はあんまり変わってなくて、その後のブリシャブに救われたお正月の一日だったのです。

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2022年12月18日 (日)

2022 今年の漢字は“戦“だそうで

毎年この時期になると、今年の漢字というのが発表され、京都の清水寺で偉いお坊さまが書き出されるところが放送されます。一年を振り返るひとつの行事ですが、令和4年の漢字は「戦」なのだそうでして、そういえば今年の春に始まったロシアのウクライナ侵攻は収束の気配もみせず、世界中に暗い影を落としたままです。
改めて地球上を見渡すと、戦(いくさ)の火種はあちらこちらにあり、台湾海峡をはじめ、アジアから中東、アフリカ、ヨーロッパと、ニュース映像は最新兵器のオンパレードで、よくぞこれほど揃えたものだと、ただ呆れるばかりです。
それらの破壊兵器を得るために、支払われた対価の虚しさと、それらによって奪われた貴重な生命と財産を思うに、人間が歴史の中で繰り返し重ねた甚大な負の遺産に愕然とするのみです。
この行為がいかに愚かで無意味なことか、人は歴史から学ぶことさえできていないということなのです。
今年のもう一つの「戦」は、カタール・サッカーワールドカップなのですが、こちらの方 は4年に一度開かれるサッカーの世界大戦でありまして、サッカーファンのみならず、世界中の人々が熱狂しています。
私も典型的な、俄ファンでして、普段それほどサッカー中継とか観てないんですけど、ワールドカップが近づくにつれ、試合を観たり記事読んだりしています。。そういうレベルですので、テレビ観戦しても、ボールを追っかけるのが精一杯で、あんまりサッカーの深いところはわかってないのですけど、素人なりにいろいろ観ておれば、世界的にトップレベルの強豪国チームの選手たちのプレーは、スピードも正確性の精度も格段に違うなということくらいはわかってきます。
そんな中、今年、我が国の SAMURAI BLUEが、グループE予選で、FIFAランキング11位のドイツと、7位のスペインから勝ち星を奪い、予選を1位通過したのは特筆ものの活躍でありまして、夜中にあちこちで、歓喜の絶叫をする人たちが溢れたんですね。
そこからベスト16に進み、前回準優勝チームのクロアチアと対戦します。ここも善戦し同点延長で引き分けになりますが、PKで敗れ初の8強には手が届きませんでした。ただ、4年後の次の大会には、大きな期待を抱かせる結末と言えます。
サッカー日本代表が、W杯予選に初めて参加したのは、1954年のスイス大会の時とあります。これ私が生まれた年ですが、そこから予選突破の長い挑戦が始まったわけです。そして、日本が初めて本大会に出場できたのが、1998年のフランス大会でした。その間、1960年代、70年代、私が子供から大人になっていく頃、サッカーは決してマイナーなスポーツではなくて、中学高校には強豪チームがひしめき、実業団のリーグ戦は人気もあって、よい選手も育ち着実に地力がついていたんだと思います。1980年代の後半からプロ化への動きが始まり、1991年にはついにJリーグが創立しました。そして1993年にあの有名なドーハの悲劇があって、いや、あの記憶は鮮烈ですけど、1998年、ようやく初出場を果たすんです。
それから、外国人の監督の時代もいろいろあって今に至るんですが、今回のSAMURAI BLUEのメンバーのうち、海外クラブでプレーする選手は20人、初出場の時は1人もいなかったこ とを思えば、隔世の感があります。勝負は時の運というけれど、それだけじゃドイツやスペインに逆転勝利する快挙は生まれないわけですよね。
いずれにしても、4年に一度、たった一つの国のチームだけが勝ち残るために、すべてのチームが全身全霊を賭けて戦うこの大会には、たくさんの可能性があり、未来を思うことができます。
それに引き換え、本気で現代科学の粋を集めて、国家の威信をかけて行う戦争という行為の果てには、絶望の悲しみと怒りしかなく、人として最も恥ずべき選択であります。
人間には、多分戦うという本能が備わっているし、それは避けて通れないこととしても、どんなことがあっても戦争という手は封印して、許してはならないんです。もしも、争いが生じたら必ず他の方法を選択して、解決に向かっててゆくことを肝に銘じねばなりません。
サッカーには、そもそも手を使えないという、あらかじめのシバリがありますが、そのことは何かを暗示している気もします。

Soccer

2022年11月28日 (月)

神戸っ子

神戸という街には、昔住んでいたことがありまして、いつ頃かというと、生まれてから物心のつく5歳までと、8歳から12歳までの小学生時代で、ここには遠い記憶がたくさん詰まっております。なので、どこの育ちかと問われれば“神戸っ子です“と言えるくらいではあるんですね。
ウチの先祖は広島の海沿いの町の出で、牡蠣と船の仕事をしておりまして、どうも明治期に神戸で牡蠣を食べさせる店を始めたようで、そのせいか、祖父と叔父が神戸の中山手通というところで、かき料理店をやってたんです。父は神戸にある造船会社のサラリーマンをしており、途中東京に転勤したりしましたが、私は中学に入るくらいまでは、この街で育ったんですね。
住んでいたのは、異人館通りで有名な北野町をちょっと下った山本通というところで、一軒家を親戚の一家とうちの家族で借りておりました。そういう土地柄なので、まわりには結構外国の人たちが住んでいて、ヨーロッパの人、アメリカの人、インド、チャイナ、コーリアと、いろんな国の人が暮らしているところでした。うちの家の前は、かつて台湾人の成功者が建てた豪邸でしたが、何故かラブホテルになってしまいました。
神戸は東西に細長い街で、南北の道は海から山に向かってる坂道が何本もあって、坂を登って振り返るといろんなふうに港や船が見えます。この街で暮らしていると、いつも坂道と港があって、それは、なかなかに魅力的な風景でした。
遠い記憶を辿ると、そういった景色がいくつも浮かびます。住んでいた家も学校も、祖父の店も、みんな坂道の途中にありました。祖父のやっていた料理屋というのが、牡蠣の専門店で、あの当時、冷蔵技術も低くて、夏には牡蠣を食べませんでしたから、この店は夏は閉めてしまいまして、毎年10月から翌年の3月までだけ開店します。そのかわり、その間は正月三ヶ日以外は一切休まないんですね。いつも大忙しで、結構たくさんの板前さんや中居さんがフルに働いていました。もともと広島から出てきた店なので、広島から季節労働で泊まり込みで来ている人たちも多くて、うちの母も含めて親戚の人たちもたくさん働いていて、店は広島の言葉と神戸の言葉が入り乱れて、不思議な活気に溢れていました。身内ですから、その頃さんざん牡蠣を食べさせられまして、特にカキフライですが、まあそれは1番の人気メニューでもあり、おいしいんですけど、食べ過ぎてその後あんまり好きじゃなくなった時期がありました。今はまた大好きなんですけどね。
そういうことで、神戸のことを思い出すと、子供の頃、可愛がってくれた祖父や祖母やオジサンやオバサン、お店の人たちと、冬中忙しかったあの店と、坂道の景色が浮かびます。
そのあと、中学からは広島に引っ越してしまったんですが、神戸の街は変わらずでした。
そして、長い時間のうちに、祖父母も亡くなり、1995年にあの阪神大震災が起きます。街は傷みつけられ、あの懐かしい風景は一度壊れてしまいました。あのお店は、震災の前年に長く続けた商いを終えて、店を畳んでいたので関係者に怪我などはなかったんですが、神戸でお世話になった人たちは、色々とダメージを受けました。とても大きな災害でしたから。
それからまた随分と時間が経ちました。あの頃、私と同じように子供だった身内が同じような年齢になって暮らしていますが、新神戸の駅は何度も通過しましたが、なかなか降りることはありません。
街の形は変わっても、坂道と港の風景は、今もあるんでしょうね。
今度、行ってみようかと、思っています。

Kobe

2022年11月 1日 (火)

ラーメンといえば最寄りのたんたん亭

前回に続いて食べもの屋さんの話です。これも、どの街にもと云うか、人の住んでるところには、探せば必ずあるのが、ラーメン屋さんでして、この国の人たちはほんとにラーメン好きです。
子供の頃から、この食べ物はいつも身の回りにあったし、東京でも、覚えてる限り何度もラーメンブームというのがあって、その都度、店の数も増えていったと思います。
昔は、よく夜中まで飲んだくれていて、最後にラーメンで腹ごしらえして仕上げというパターンで、毎晩どっかの飲み屋街の片隅や、屋台で、ズルズルワシワシいただいておりました。これは昼に食べることもあって、いったい今まで何杯のラーメン食べたんだろうかと思います。
僕らの若い頃は、九州に行けばあたり前だった豚骨味が一気に全国区になって、トンコツコッテリラーメンはかなり主流になりましたが、札幌を基点にした北海道系、みそ味、塩味、しょうゆ味も、全国にファンを増やしております。まあ、いずれにしても、そのお店によっていろんなタイプの味があって、それを支持するファたちが、そのラーメン屋をささえていると云う構造になってるんですね。
そんな中、若い時は、こってりスタミナ系を深夜に食していたんですけど、年齢を重ねて来ますと、あんまりくどいのは敬遠しがちになりまして、コロナ禍以降、夜中の繁華街にもあまり行かないこともあり、最近は、もっぱら最寄りの駅前にある「支那そばたんたん亭」と云う、ジャンルで云えば東京風ラーメンなんでしょうか、ともかくラーメンといえば、ここさえあれば満足という状態です。
ラーメンを語りますと、もちろん十人十色ですし、人によって好みも背景も違うんですけど、私、こちらのラーメンは個人的に東京一押しであります。付き合いも長くてですね、この街に越してきた1989年からですから、30年以上になります。当時、この街に住み始めたという話を、仕事の先輩のAZさんにしていたら、彼が急に座り直して、
「その駅を降りて右に行くとすぐに、たんたん亭という名の店がありますが、これは至極正しいラーメン店です。」と言われたんですね。
AZさんのおっしゃることは、日頃から食べ物に限らず何かにつけて信頼しておりますので、わりとすぐに行ってみたわけです。
いわゆる奇をてらったところのないオーソドックスなラーメンで、軽くちぢれた真っ直ぐ麺に、なんとも云えぬ深みのある醤油出汁スープに、シナチクと叉焼ときざみネギとのり一枚というシンプルさなんだが、それが非常にバランスのとれた一品となっておるのですね。この基本型にワンタンを載せたワンタンメンは人気のメニューのようで、それを頼んでる人がわりといます。ワンタンは、肉ワンタンとエビワンタンがあり、その両方が入っているミックスワンタンメンというのが、この店のちょっとした贅沢な喜びのようです。
チャーシューメンにそのミックスワンタンを載せた、チャーシューミックスワンタンメンというのが、このお店でできる最も豪華なメニューで、私はまだやってませんが、いつだったか隣の席で近くに住む編集者の石川次郎さんが食べておられるのを横から見たことがあります。
メニューといえば、それ以外は煮たまごと餃子とビールくらいなものです。席はカウンターだけで10席くらいのものですから、店の前によく人が並んでいますが、ここも長居する人はいませんから、ちょっと待ってればすぐにありつけます。
そういえば、初めてこの店に来た時に、ラーメン作ってる職人さんから、来月でこの店は閉めるんだと言われて、すごくうまかった分、かなり残念がってたんですけど、その2人の職人さんは、1人は目黒で、1人は調布で、ほぼ同じメニューの店を始められて、そのどちらの店にも後になって行ってますが、結局原点である浜田山「たんたん亭」は、閉店することなくクオリティを保ちながら、今も存在してまして、ほんとに助かっております。
ともかく、このラーメンという食べ物は、長い歴史の中で多くの人たちの手で多くの人たちに食べる楽しみを送り続けて、どの土地にも街にも根付いていまして、若い頃は旅の途中に全国の港、港でいろんな出会いがありましたが、今、自分にとっての故郷みたいなラーメンというのは、たんたん亭のこの味なんだなと思う、今日この頃なんです。

Tantan_2

2022年10月 7日 (金)

焼き鳥といえば渋谷森本

物心が付いてからというもの、ずっと呑兵衛(のんべえ)でありまして、閑さえあればどっかで飲んでるような人で、どなたかから「ちょっと行く?」などと誘われてお断りしたこともなく、そりゃあこちらからお誘いすることも多々ありまして、また、お相手がいなきゃ、一人は一人でもいいもんで、その都度、酒を飲ませてくれる店を探して入っていくわけです。
そういう時、どの街でもすぐに見つかるのが焼き鳥屋です。縄暖簾かなんかをくぐって入ると、たいていカウンター席とちょっとしたテーブル席があって、カウンターの向こう側では、炭火かガス台でもうもうと煙を上げて焼き鳥が焼かれているわけです。その臭いは換気扇で店の外にあふれ、また新たな客を呼び込んでいるんですね。
それと、若い頃はなおさらなんですが、あんまり懐中(ふところ)の心配をしなくて良く、たまに高級店なんかもあるんですが、鮨屋ほどじゃないし、串1本いくらって書いてありますから、飲みながらでもだいたい勘定の見当もつくわけですよ。
そうしてみると、今までどんくらいの数の焼き鳥屋に行ったんだろうか、串は何本食べたんだろうか、その時に飲んだビールや日本酒やチューハイやなんやかや、どんくらい飲んだんだろうかなどと思うんですが、あんまり考えてもしょうがないことではあります。
ここ何年かコロナのこともあり、あんまり街をぶらぶら歩いて飲み歩くことがなくなりましたが、時々、無性にその店の焼き鳥が食べたくなるのが「渋谷森本」なんですね。
ここに行き始めたのがいつだったか、昔すぎて忘れましたが、20代の頃、誰かに連れて行かれたか、偶然入ったか、とにかくうまい焼き鳥だなと思ったのは確かで、そのうち私が働いていた新橋の会社の近くに森本の支店ができた時期があって、そこにもよく行ったんですね。
つくね、ひな皮、ゴンボ、砂きも、血きも、はつ、若鶏ねぎま、相鴨、うずら、笹身、なんこつ、しそ巻、東京軍鶏、手羽先、どれも一級品でその味は全く変わっていません。新橋店は、そのうちになくなったんですけど、渋谷はずっと健在でいつも満席です。井の頭線の渋谷駅のホームからもすぐ下に見えるわかりやすい場所にあって、ここは昭和47年からだそうですが、渋谷での創業は昭和23年と云います。
営業時間は日曜祭日を除く、16:00〜22:00で、昔17:00からのこともありましたが、ともかく開店すれば、夕方早くから、森本ファンたちで店はすぐにいっぱいになります。たいして広くないし、そういう店なんで、まず大勢で行くことはしませんで、せいぜい2人か3人、むしろ1人で行くことが多いですね。たいてい渋谷で映画や芝居を観る前とかに立ち寄ることも多かったです。それと、たとえ満席でも、座ってる客の後ろの壁に張り付いて待っていると、そのうちに空いた席に入れてもらえます。だいたいこの店には長居する客がいませんね。焼き鳥とか、そう何十本も食べられるもんでもないし、注文した分を食べ終わって追加注文がなければ、すぐに店員が勘定しにやって来ます。
酒だけダラダラ飲んで用も無いのに長っ尻で居座るような奴は、この店の客にはおりません。食って飲んだら、とっとと去って行くのが客の流儀なんですね。そういうスピードで店が用意したネタはどんどん売れて行くので、ちょっと遅い時間になれば、売り切れるネタもあり、だから、この店に夜遅くに寄るなどということはしないのですね。
こういう世の中になってから、呑兵衛オヤジのヤキトリナイトもままならないですけど、渋谷で芝居を観たり、夕方その辺りにいることがあると、ついついお邪魔します。そこでおとなしく串の5〜6本も頂戴して、レモンサワーの2杯もいただけば、とっとと失礼いたしておるわけです。
いずれにしても、私が若い頃からずっと、そのハイクオリティな味を保ちつづけている驚くべき焼き鳥屋さんなんですね。
やはり、個人的ランキングでは東京一なわけですが、やがて世の中が落ち着いて元の状態に戻っていけば、またインバウンドでたくさんの外国の方が訪れるようになりますね。外国の方達はことのほか焼き鳥が好きですから。それはいいんですけど、まあ、これからも、時々、オジサンが機嫌よく至福の小一時間を過ごさせていただくことができれば、それで十分であります。

Morimoto

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