2024年11月17日 (日)

1958 長編アニメ映画「白蛇伝」

Hakujaden


今年も、そろそろ来年の干支はなんだっけと思う時分になりまして、で、来年は巳年(へびどし)なのですね。
そんなことを考えてるうちに、「白蛇伝」というアニメ映画を思い出しました。
昭和33年の秋に公開されたようで、その時に観たことはよく覚えてるんですけど、どんな映画だったかは上手く説明できなくてですね、ところどころ印象には残ってるんですけど、私4歳児でしたもんで。
そこで、調べてみたんですが、1958年10月の公開、オールカラーの79分で、中国の民話の「白蛇伝」が題材になっています。
日本初の長編カラーアニメ映画、当然ながら、長編アニメ制作のシステムは確立されておらず、他国のアニメの研究から始まり、アニメーターの養成や撮影機材の開発にも着手し、2年がかりの仕事であったとあります。
ありがたいことに、今はこういう作品をネットとかで観ることができるので、あらためて鑑賞いたしましたが、なかなかによく出来ておりまして、この年、芸術祭参加作品で、海外で賞を獲ったりもしています。何より、今までに観たこともなかったアニメーションの魅力が満載で、その完成度も高くて、とても大きな反響があったんだろうなと思います。

そして、この作品の制作に携わったスタッフは、その後のアニメ界を牽引する役割を担っていったといわれています。公開時、高校3年生で受験生だった宮崎駿氏は、この映画に感動してアニメーションに関心を持つ大きなきっかけになったそうです。
そして、そこから長編のアニメ映画は定期的に制作されるようになりました。その映画が公開される度に映画館に駆けつける子供時代だったんですね、ぼくらは。
「白蛇伝」1958年に始まり、「少年猿飛佐助」1959年、「西遊記」1960年、「安寿と逗子王丸」1961年、「シンドバッドの冒険」1962年、「わんわん忠臣蔵」1963年、などなど、でも、どれも名作でした、よく覚えております。

我々の世代は、子供時代に漫画という文化が、勢いを持って広がり続けておりまして、その大きな流れを作ることになる、週刊少年漫画雑誌の「少年マガジン」「少年サンデー」は、1959年に創刊されて、子どもたちをすでに魅了しており、当時あまりに子供たちが漫画に夢中になるので、勉強もしないし本も読まないし、このままではろくな大人にならないと思われていたようで、大人たちはそれを禁止したりもしましたが、その流れはなかなか止まりませんでした。
やがて人気連載漫画は、テレビでアニメ化されるようになり、1963年、最初は「鉄腕アトム」でしたが、「鉄人28号」「エイトマン」「狼少年ケン」なども続きます。
考えてみれば、物心ついた時には、漫画雑誌とアニメ映画とテレビアニメは普通のことだったわけで、それ以外にも、王道としてのディズニーアニメもあったわけです。

個人的には、大人になって広告の映像を作る仕事をするようになってから、アニメーションという手法はずいぶんと使わせていただいているんですけど、今の最先端の技術は、コンピュータを含めてものすごいところまで進化しておりまして、これは本当に長い時間をかけて試行錯誤を重ねてたどり着いている技術ですけど、常に変化している領域でもあります。
そんなことで、アニメーションの世界は長く見てきたつもりですけど、1958年に初めてトライされた「白蛇伝」というアニメ映画は、たしかに昔の技術ではあるけれど、なんとも言えぬこの時にしか出せなかった手触りのようなものが感じられます。4才の時の記憶が妙に鮮明だったのはそのようなことがあったんでしょうか。
昔の映画や小説が今も色褪せない魅力があるのと同じことなんでしょうかね。
現代の子どもたちが、やはりアニメに夢中になっている風景を見るに付け、これはすでに我々の民族性と呼べるものなのかもしれんですな。

2024年10月28日 (月)

アベさんへ、かつてお世話になった若造より

私が22歳の時に初めて勤めた会社の上司で、その会社の創業者でもあり、TVCMプロデューサーとしての大先輩でもあった、アベさんが、この夏に亡くなっておられたということを、このまえ、知りました。
アベさんは昭和8年の生まれで高齢で、どこかの施設に入っておられるようだという噂は聞いていたのですが、詳しく知っている人がおらず、この数年は連絡もつかず、ご無沙汰しておったようなことです。
その会社は、CMなどの広告映像を制作するプロダクションで、私が入った頃はできて10年目くらいで、社員が30人ちょっとだったと思いますが、アベさんはその中で最年長で、専務取締役で43歳で、少し年下の井堀社長と並んで、ここの親分的な存在でした。
当然ながら私は一番下っ端で、見習いのADみたいな仕事をしていて、21才年上のアベさんとはあんまり接点もなかったのですが、それから一年くらいして、アベさんが始めた「小学一年生」という雑誌のTV-CMで、“ピッカピカの一年生”という仕事に制作部としてつくことになりまして、ロケハンとかロケとかご一緒することもあるようになります。
この仕事は日本全国の小学一年生を紹介する企画なので、スタッフは全国津々浦々を訪ねて歩くわけで、地方の旅館や民宿によく泊まるのですが、そういう時にアベさんは夜になると、いつも座敷の真ん中であぐらかいて一升瓶抱えて飲んどられて、お相手するようにもなり、モノづくりとはみたいな話で、お説教くらったり、そのうちこっちも言いたいこと言ったりして、だんだんに距離も縮まっていきました。
その後、このキャンペーンはずいぶん長く続きまして、私もディレクターやプロデューサーをやるようにもなり、それこそ日本中いろいろなところへ行ったもんです。アベさんの出身地である福島の猪苗代にも一緒に行きましたが、その時は毎晩どこかで同窓会やっておられました。
とってもこの猪苗代に対する郷土愛の強い人でして、方言も抜けないで、いつも会津弁でしたから、みんながアベさんのモノマネする時は、おかしな東北弁になっていました。
毎年、今年はどこにロケにいくか、場所を決めるための会議があったんですけど、アベさんは絶対に山口県は選ばないと言い張っていて、よく聞いたら、会津人は幕末の長州をまだ許していないということだったようでした。明治はそんなに遠くないわけです。こういう話をしていると、さすがに20年の差があると、ジェネレーションギャップというのはあるんだなと思うんですね。
この人は、昭和の1桁に雪深い福島猪苗代に生まれ、阿部正吉(マサキチ)と名付けられました。それからのことは、一升瓶抱えながらいろいろうかがったんですけど、飲みながらだったもので記憶は曖昧なんですが、小中学校の頃は秀才と言われてたそうで、役場にはいるんですけど、その後、地元にやってきた映画のロケ隊の手伝いをしたのがきっかけで、上京して、その後、映画やテレビの脚本を書いたり、いろいろあってテレビコマーシャルの演出やプロデュースをやるようになって会社作ったみたいなことで、戦後復興期の 映像産業界を駆け抜けたような話でした。
いつだったか、尊敬してた映画監督の鈴木清順さんと仕事をした時に、アベさんとはお友達ですと言われて、すごいなあと思ったりしたんですね。
そんなふうないろんな経験から、この人がよく言ってたのが、
「オレたちの仕事は、映像をつくる最先端の技術も、古典的な表現の技術も、両方のことをきちんと勉強しとかないといけない」という話で、これは今も肝に銘じております。

そんなことで個人的には、22才から34才までその会社にお世話になり、その間ほんとによく働いたし、いい仕事もさせていただいたとも思います。だんだん生意気なことを言うようにもなりましたが、アベさんには、長い時間の中でいろいろに気にかけていただきました。
そして、それから同じ会社にいた先輩や仲間たちと自分たちの会社を作って独立をして、アベさんとは、袂を分つことになります。

Abasan_2


その時、私が34才でアベさんは55才でしたが、それからも、また、ものすごい時間が流れてしまいました。でも、その間、アベさんとはわりとよくお会いしてたと思います。そんなに広くない業界だし、アベさんはその中で有名な人だったし、いろんな集まりでよく会いました。それと、私や私の会社の活動を、わりと遠くからよく見てくださって、褒めていただいたりもしました。電話もメールもよくもらって、相談したいことも気兼ねなく話しましたし、その度にまた飲みました。一升瓶抱えてじゃないですけど。
なんてことない用事で、またどっかで気軽にお会いして、昔話でもして一杯やりたかったです。
でも、元の会社も、新たに作った会社も、後輩たちが活躍していて、元気に存在していることは嬉しいことですよね、アベさん。

お墓の場所が分かりましたので、アベさんの会社での後輩のみなさん、コバちゃん、クマちゃん、シナちゃん、ホシヤン、ソガちゃん、スギヤン、ヤマちゃん、ナベちゃん、カミちゃんたちと来月お参りさせて頂きますね。全員、結構いい歳ですが。

2024年10月18日 (金)

大谷という奇跡

Otani
この前、散髪に行った時に雑談していて思ったんですけど、このところ誰かと話していると必ず出る話は、この夏がいかに暑かったかと、大谷がいかにすごいかという話です。
大谷翔平選手のことは、彼が高校生の頃から日本中が知ってたわけで、常に話題になる人でしたし、その都度、こちらの期待を遥かに超えてくれる人ですから、そのことには変な意味で我々も慣れてしまってるんですけど、ちょっと冷静に考えてみると、この人、えらいところまで行ってしまってるわけですよ。
はじめ、岩手のほうの高校野球の投手で150km/h 投げる選手がいて、「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれているらしいということで、甲子園にも行ってちょっと注目されるんです。高3の時には甲子園には出れなかったけど、160km/hを出して騒ぎになりまして、この選手は投げるのもすごいけど打つのもすごいという話で、ドラフトではプロ球団から指名されそうだということになりました。そしたら本人は、高校出たらメジャーリーグでプレーがしたいという希望で、
「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と語りました。
多くの球団が彼の周辺と接触を図り、ほとんどの球団がドラフトでの指名を回避しますが、北海道日本ハムファイターズは、大谷を一巡目で単独指名し、交渉権を獲得します。ただ、大谷は
「アメリカでやりたいという気持ちは変わらない」と語り、
日本ハムから訪問を受けた際にも面会しませんでした。そこから、栗山監督はじめ日本ハム球団は、粘り強く交渉と説得を続け、投手と打者の「二刀流」育成プランなども提示され、この年の年末に仮契約が結ばれ、入団会見をします。
と、これが2012年、ここからの活躍はご存じのとおりですが、
2013年の入団以降「二刀流」で、試合に出場、
2014年、11勝10本塁打で、日本プロ野球史上初となる「2桁勝利、2桁本塁打」達成
2016年、投手と指名打者の両部門でベストナインのダブル受賞に加え、リーグMVP
この年、日本ハムファイターズは日本一達成
2017年オフ、メジャーリーグ ロサンゼルス・エンゼルスに移籍
2018年、投打にわたり活躍し、新人王受賞
2021年、2001年のイチロー以来、アジア人史上二人目のシーズンMVP受賞
2022年、MLBでベーブ・ルース以来104年ぶりとなる「2桁勝利、2桁本塁打」達成
そして、近代MLBで投手打者の両方で規定回に達した初めての選手となる。
2023年のWBCでは、エース兼打者として日本代表に貢献、MVP受賞。これは泣いた。
このシーズン、アジア人初の最多本塁打と2回目のMVP受賞、アジア人史上初のハンク・アーロン賞受賞
それから、ロサンゼルス・ドジャースに移籍した今年、故障もありピッチャーとしてのパフォーマンスは諦めて打者に専念するのですが、専念したらしたでホームランも安打も量産し、出塁したらしたで、盗塁もすごい数になり、シーズン後半には、40盗塁40本塁打達成かという騒ぎになりまして、そしたら、そんなものはとっとと通過してしまいまして、シーズン終盤には、50盗塁50本塁打を成し遂げます、50本決めた日には一気に3本も打ちましたよ、まったく。
結果、59盗塁54本塁打ですから、ともかく破格のスケールなんですね。

メジャーリーグというところは、それこそ世界中の野球的身体能力の突出した人たちが、その技と力を競っているところでして、その中で次から次へとそのハードルを超えてゆく彼の姿は、今や大リーグでプレーする一流の選手たちからも、憧れをもってリスペクトされており、オールスター戦のベンチでは、大谷選手のサインを求めて一流プレーヤーたちが列を作り、ニコニコ記念写真を撮っておりました。
この人が積み重ねた成果や到達した場所とかは、とんでもないことなんだけど、彼自身は自分が決めた目標に向かって、ただ淡々と鍛錬を重ねて何気に結果を出しているだけのように見えるところがすごいんですね。
そこには何かを手に入れるための悲壮感とか、煩悩と闘う修行僧みたいなところがなくてですね、やってることはすごいんだけど、そんなこともないんだろうけど、なんだか普通の人に見えるところは、今どきなんでしょうか。
特別なスペシャルな生き方をしているような印象も与えず、タイプの女の子を見つけたらアプローチして普通に結婚もしてるし、まあ、すごいことお金もあるんだろうけど、そういうこともあんまり感じさせずに、インタビューされてる時も、その辺りの30歳の青年で、ただ奥さんと犬と幸せに暮らしていて、でも、ベースボールプレーのものすごいハイレベルの領域にいて、世界中を魅了してるわけです。
大谷くんは、生まれついてのベースボールの天才なのだろうし、その才能を惜しみない努力で磨き続けていることもよくわかるのですが、この人は少年の頃から自分の行先やなるべき姿を、かなりはっきりイメージできていて、それを自ら信じる能力も並外れて高いんだと思うんですね。彼がプロの世界に入った時に、栗山さんはそのことを誰より強く感じたんじゃないでしょうか。
ともかく、僕らと同じ国から現れた、この奇跡のような人の、ワールドシリーズも含めた今後を、楽しみに見守ってまいりましょう。

2024年8月28日 (水)

炎熱・甲子園

言わずと知れたこの夏は、例年にもまして凄まじい酷暑なんですが、そんな7月の30日に、甲子園の阪神✖️巨人戦をアルプススタンドのほぼ最上段の59段から見物してきたんです。

阪神は去年珍しく優勝したし、この夏には是非、甲子園で阪神戦を観戦しましょうという事で、今回一緒に行ったオジサンたち4人で、早くから決めて計画し、シーズンが始まる前から楽しみにしておったようなことです。
今回、引率してくれたのは、長い友人で大阪で生まれたフジヤンという人で、物書きの仕事をしていて関西文化には造詣の深い人なんですね。もちろん阪神タイガースファンという事でも筋金入りでして、そこんところは痛く気が合っております。
この日は、甲子園ができてちょうど100年というスペシャルな記念日のカードで、一番人気の巨人3連戦でもあり、スタジアムはとっくに完売の超満員、ただでさえ暑いところに大熱戦で、球場はヒートアップ、汗は吹き出し、ビールは売れます。
あの地鳴りのような大歓声も味わいながら、ゲームも5−1で快勝、エース才木の9勝に、大山と森下のホームランも出て、この夏1番のナイター見物になったわけです。まあ、その日は半日、甲子園の異様な熱気に包まれた疲れで、ホテルの近くのバーで一杯ひっかけたら、即バタンキューでしたが。
せっかくの関西旅行でもあるし、次の日は有馬温泉でも行こうかということになっていて、フジヤンお薦めの老舗旅館に投宿しました。かつて谷崎潤一郎さんが執筆もされたという宿の湯につかりますと、なんだかこちらまで文学的な人になったかのような気になりましたが、それはそれとして、夜は夜で、甲子園の阪神・巨人戦をテレビ観戦しまして、またしても盛り上がってしまったというわけです。
次の日は、昼前まで旅館でゴロゴロして、バスで神戸の街に出て、これもフジヤンお薦めの元町駅近くの美味しい老舗中華屋さんで、紹興酒で乾杯でもして解散しようかという事でした。
ただ、昼食前に小一時間程、時間が余ることもあり、私が子供の頃住んでいた神戸の街へ4人で行ってみようかということになりまして、暑いし、駅でタクシーに乗り込んで行ってみたんですね。
これは他の3人にとっては単なる神戸の坂道なんだけど、私にとっては小学校から中学にかけての、生活路、通学路でして、そこに立ってみると、ブワーっといろんなことが蘇るんです。周りの風景は全く私の知らないことになっているんですけど、ただ目の前のその道だけは、自分が立ったことのある実感がしっかりあるんですね。
なにせ1960年代の大昔に住んでいた街で、それから1995年の阪神大震災で、一度、街ごと壊れてしまいましたから、景色が変わっているのは当たり前ではあるんですけども、ただ、歩いてると、ここには何があったかとか、ここはこんなだったなとか、ぶつぶつと記憶が蘇ってきたりします。
通ってた小学校にも行ってみて、もう学校名も変わって、校舎も建て替わってるんですけど、昔、玄関横の池に立っていた二宮金次郎の像が、校門脇に移設されていたりして。ちょうど夏休み中に登校してきた先生が、学校の中に入れてくれて、いろいろ最近の学校の様子などを教えてくださったりしました、一応卒業生だし。この先生、どう考えても私の息子の年齢くらいでしたけど。
ちょっと急にあまりにも多くのことを思い出して、混乱もしたので、皆んなと昼食を食べた後も、暑い中一人で少し歩いてみたんですね。姿は変わってしまったけど、この街に暮らしていたことは、はっきりと思い出せました。なつかしいこの地に、ずいぶん長い間訪ねてこなかったのは、この地を思い出すときに、どうしても避けられないつらい記憶があるからだったと思います。
私が中学生になった年に、私たちの家族は8才になった弟を病気で亡くしたのですね。今思い出しても、そのことはあまりにも大きなダメージで、深い傷を残しました。その時の記憶は今でも空洞のままになっています。
結局、彼を失ったその夏、4人から3人になったうちの家族は、この街を離れました。
子供から少年期にさしかかる頃に過ごしたこの街のことは大好きだったんだけど、なつかしさと背中合わせに、その記憶に向き合うことがちょっとしんどくて、あまりここに来なかったかもしれません、古い話なんですけど。
さて、夏の盛りに巨人に3連勝した絶好調の我がタイガースは、その後、好調を維持しているとは云い難いのですが、今も優勝連覇を目指して戦い続けております。
そして一夏、高校球児たちに明け渡した甲子園にいよいよ帰ってくるのです。
佳境を迎えるプロ野球ペナントレースに、どんなドラマを観せてくれるのでしょうか。
悲喜交交(ひきこもごも)の夏の仕上げであります。

Koushien_2

2024年7月19日 (金)

古希の夏

そろそろ梅雨も明けまして、今年も半端ない暑さとのことですが、一年中で最も暑いこの時期になりますと、決まって私の誕生日が来ます。毎年のことだし、取り立てて何をするということでもないのですが、よりによってずいぶん暑い時に生まれたもんだなと思います。
それに、今回は、70回目ということで、どうも自身のこととも思えない年齢になってまいりました。
若い頃には、自分がその歳まで存在しているのかもわからないわけでして、ともかくこうして、どうにか元気でおることには、感謝するしかありません。
昔、70才という歳を見上げていた時のイメージは、いろいろなことをやり終えた人生の達人という風情で、モノの道理を知り、何に対してもジタバタしないで、常に頼りになるような、なんとなくリスペクトされるような存在になればよいのだろうか、などとと思っておりました。
が、今、自分の中にそういう自覚は生まれてきません。なんだかずっと、あるところからの延長線上におるようでして、成長もせず煩悩も消えず、いまだに意味もなくジタバタしているようなことです。
ただ、体力というのは確実に落ちてまいりますので、気持ちはあっても電池切れみたいなことで、行動力というのは衰退してまいります。
この歳になったら、多少なりとも、人に安心感を与えるような、かっこいい大人の人格になれるとよいのにとは思うのですが、相変わらず、落ち着きより面白味を求めてしまうもので、これは、ずっとそうなんだから仕様がないんですが。
ということなので、70にはなりますが、あまり変わり映えのしないいつもの夏です。

そういえば70歳のお祝いは、古希の祝いと云われておりまして、調べてみると、お祝いは数えの70歳、満69歳の時にするのが正式らしいです。ということは私の場合は去年だったようですが、まあどちらでもよいようなことが書いてあります。
それと、70歳は厄年なので、周囲からお祝いをされても厄払いにならないため、古希祝いはしないほうがいいとも言われているそうです。むしろ厄年には厄払いとして本人が周囲にご馳走を振る舞う習慣があるので、これまでよくしていただいたお礼に、今年は私の方から、お世話になった皆さんにご馳走しようかとも思います。

だいぶ前になりますが、昔私が所属しておった会社でえらく世話になった先輩から、年賀状をいただきまして、
「私、今年、古希になってしまいます。もうすっかり身体が硬くなって、コキッ!」
と書いておられて、爆笑したんですけど、上手いこと言うなと思ったんですね。
確かに、最近、身体がめちゃ硬いのは、実感しておりまして、コキッ!

Koki

2024年6月29日 (土)

歳月ということ

6月の中頃に、偶然3日続けてちょっとしたパーティーがありました。
1日目の会は、長いこと公私共にお付き合いいただいてる4人の先輩たちが、不定期に集まるrednoseの会というワインを飲む会でして、その都度テーマを決めてワインを飲んでいます。たぶん始まってから40年くらいは続いているのですが、「君も来なさい」と言われて私が加わってからも、もう10年以上経っております。今回は焼肉とワインというテーマでしたが、この先輩方の探究心には驚くばかりで、この日のお店も、持ち込んだワインもカンペキでありました。なんと云っても、一緒にいるだけで楽しい方たちでして、この日もすっかり酔っ払ってしまったようなことです。
2日目の会は、これも40年はお世話になりました、私たちの業界の大先輩のKさんの80歳のお祝いで、傘寿のお祝いとも言いますが、後輩たちが10名程集まって、サプライズのお誕生会をやったんですね。とある有名なフレンチレストランの個室でのランチだったのですが、ずいぶん前から計画しておられた幹事さんの手腕で素晴らしいお誕生日になったんです。
Kさんにお会いしたのは、私が業界の右も左も分からなかった頃でして、すでにアートディレクターとしてたくさんの有名な仕事をされていたこの方は、雲の上の存在でした。その後もその広告会社の要職を歴任され、私も含めこの会のメンバーは長いこと大変お世話になりました。退職されてからも、いつも気軽にお付き合いくださり、よくお会いして遊んでもいただきまして、皆から慕われている方ですから、80歳をお祝いしましょうということで集ったわけです。何だかふわっと幸せな会でしたね。
そして、3日目は、新宿デラシネ45周年パーティーという会でして、私が20代の頃から散々お世話になった新宿三丁目のスナックが45周年を迎えたという祝宴です。
しかし、45年の歴史というのは大変なもので、ずいぶん広い会場にギッシリと、このお店に関わった人たちが集まっておりまして、当然ながらたいていは、おじいさんやおばあさん達なのですが、よおく顔を見ていると、わかる人はわかるわけで、あっという間に何10年も前に連れ戻されます。ほんとに、お元気で何よりとはこの事なのです。
そんなことをしていると、急にママのフミエさんから、何かしゃべれと云われて、マイク持ってしゃべったのですが、要は、私はこのお店が45年前に開店パーティーをやった時に、20代の末席の若造でしたが、すでにそこにおりまして、先輩達がカウンターにこぼした酒を拭いたり灰皿交換したりしてました、その頃は金もないのにずいぶん飲ましていただきありがとうございました、45年経ってこうやっていいジジイになりましたが、みたいな話で間をつなぎました。
いずれにしても、新宿の片隅の地下にある小さな飲み屋に、いろんな人が出たり入ったりしながら、45年もの月日が流れ、その人たちが、またこうして逢えたというのも、めでたいことだなとつくづく思ったんですね。
宴も酣(たけなわ)となったころ、お店の常連でジャズサクソフォーン奏者の坂田明さんが、見事な演奏をしてくださいました。「見上げてごらん夜の星を」と「太陽がいっぱい」は、胸に沁みわたり、そして、たっぷりと聴かせていただきながら、過ぎていってしまった時間を反芻したのでした。

Sakatasan

にしても、偶然3日間続いた3つの集いは、歳月というものをつくづく考える時間になりました。それも半世紀近いものすごく長い時間です。今回お会いしたみなさんの初めて会った頃の顔が浮かんだりしました。若いです。
そして、どの会も、元気であればたぶん顔を出されたであろう、今はもう会うことのできない顔が、いくつか浮かびました。歳月というのは、そう云った意味では切ない側面もあります。
次またいつお会い出来るのか、やや心細くもなってくる年齢ではありますが、またどこかでお会いしたいものです。

2024年5月29日 (水)

ついに黒部に立ったのだ

5月の中頃に家族で旅行したんですけど、これが一泊二日の黒部渓谷、黒部ダムを巡る旅でして、なかなか盛り沢山で、そしてなかなか感動だったのです。少し前に奥さんが申し込んだツアーで娘と私も参加して3人の予定だったのですが、最近急に大阪から東京に転勤になった息子も来ることになり、久しぶりに家族4人で旅することになりました。それはそれで良かったんですけど、朝7時に八重洲口集合みたいな弾丸ツアーの趣もあり、初日はトロッコ列車で新緑の黒部渓谷を満喫し、宇奈月温泉一泊、翌日立山アルペンルートを一気に縦走し、黒四ダムへという一連の流れなのですが、このスケジューリングが実によく出来ており、さすが手馴れたプロの仕事で、元制作部をやっておった私から見ても、よく出来た香盤表でありました。
というような2日間のコンパクトな体験でしたが、この黒部という場所には個人的にちょっと特別な感慨があったのですね。昔も書いたことあるんですけど、私が中学一年生の時に「黒部の太陽」という映画が公開されて、大ヒットしたんですが、これが難攻不落の黒部渓谷に巨大ダムを建設するための、世紀の難工事を描いた人間ドラマでして、背景には戦後復興をかけたこの国の電力問題を解決するという悲願がありました。
当時13歳の少年であった私は、最もわかりやすく感動し、影響を受けてしまい、将来は土木技師になることを胸に誓ってしまったわけです。一応高校を出ると上京して大学の工学部の土木工学科というところに入るのではありますが、ま、いろいろありまして卒業してから土木技師になる事もなく、今の仕事についてしまうわけです。
土木の仕事に就くことは、自身の適性も含め無理だったということはわかっているので、諦めはついているのですが、ことあるごとに、いろんな人に、いかに私がこの映画に影響を受け、黒部という場所にいかにこだわりを抱いているかということを、ある時は酔っぱらったりしてくどくどと語るわけですよ。なので親しい人たちは、そのことはよくご存知ではあるんですね。
そこで、先日、結婚して30年以上経つうちの奥さんから、
「ところで、今までいろんなところに行ってるみたいだけど、黒部には、行ったことあるの?」
と聞かれまして、
「いえ、一度も行ったことないです。近くまで行ったことはありますが」
と申しましたら、心底あきれておりました。少年期のいきさつからも、とっくに訪ねておかねばならぬところでしたのに、、、ということで、家族のおかげで想いを果たせたわけです。
黒三ダムに向かうトロッコ列車は、能登震災の影響で最後まで行けませんでしたが、十分に黒部渓谷の新緑の木漏れ日を浴びることができて素晴らしかった、そして、翌日標高475mの立山駅からケーブルカーと高原バスで急峻な斜面を登り続け、標高2450mの雪の大谷で雪原を堪能し、ここからはトンネルトロリーバスと急降下のロープーウェイとケーブルカーで、標高差約1000mを下って黒四ダムに着きます。
見事なダムです。ああ、これが、黒部ダムなのですね。小雨混じりの曇天に現れた大土木建造物、しばらく眺めておりました。なんていうか、この大自然の中に、人間が叡智を尽くし、7年の歳月と1000万人の手によって造られた創作物なんですよね。
さすがに、奥さんも娘も息子も、えらく感動しておりました。
それにしても、ダムの上から真下の谷底を見ましたら、完全に足がすくみ上がりまして、ああ、この場所を職場にすることは絶対に無理であったなと、あらためて確認したようなことでした。

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2024年5月 9日 (木)

不思議の露天風呂

私が時たま寄せて頂き、お世話になっている信州のトシオさんの山小屋の近くには、温泉がたくさんあって、それも楽しませていただいております。その中でも比較的よく行くところに、「尖石温泉 縄文の湯」(とがりいしおんせん じょうもんのゆ)と云うのがありまして、近くに縄文遺跡があるのでこういう呼び名なのですが、湯量も多くてとても快適で、露天風呂も設けてあります。これがどの季節もなかなかに気持ち良くてですね、行けば露天で長湯いたしております。
先月のある日も、トシオさんとヤマちゃん先輩と3人で機嫌良く浸かっておったのですが、人気のお風呂だし、夕方でまあまあ混んではいたものの、それほどツメツメでもなく、まあゆったりと露天風呂にいたのは7〜8人ほどでした。
すると、その中の一人の知らないおじさんが、と云っても、こちらもよくわからないおじさんではあるのですが、こちらの方をじっと見ておられまして、ついに視線が合います。
「うん?」と思っていると、「ムカイさん?」と、私の名をお呼びになる。
「あっ、イマムラさん?」と、申しましたらば、両方で、
「ハイッ、ハイッ、ハイッ!」となりまして、
そうなんです、この方 イマムラさんという有名な映像ディレクターでして、私とは同年代で、かつて何度か仕事でお世話になっておりました。このところ何年もお会いしてなかったけれど、年賀状などのご挨拶は続いていた方です。そう言えば、この近くのリゾート地の森の中に居場所を移してみますというお知らせはちょっと前にいただいていたんですが、まさか、よりによってこの露天風呂に一緒に浸かっていたとは。いや、お互い驚いて、しばらく風呂の中で4人で盛り上がったようなことです。今回は無理だったのですが、必ずや近いうちにこの森で再会して呑みましょうと約束を交わして別れましたが、それにしても、この時にこの場所で出会う確率というのは、どれくらいのもんだろうかと思ったのですね。
この温泉にはよく来ると言っても、たぶん年に2、3回だし、露天に浸かっている時間は、せいぜい30分40分くらいのものです。そもそもその人がこんなところにいるとは、夢にも思ってないわけですから。
それで、この露天風呂には別の話があって、また思い出したんですが、私3年前の秋に、全く同じ場所、縄文の湯・露天風呂の中で、高校時代の友人に会ってるんです。この人とは、さすがに高校時代以来とかではなく、その少し前に東京で10人くらいの同窓会をやった時に再会はしてたんですが、まさか温泉風呂で会うとは夢にも思っちゃないわけです。
その時も、この人がじっと私を見ているのに気付きます。あちらは4、5人でこちらは3人でしたが、なぜかこの人が私をじっと見ている。で、
「ムカイ?」「コガ?」と、お互い確認し合うまでは、まさかの半信半疑なわけです。見たことある顔だけど、そんなこたあないという気持ちの方が勝つんでしょうか。
私は例によってトシオさんの家に世話になってたんですが、この友人は結構大きな会社の社長をやっていて、部下たちと信州の休日を楽しんでいたようでした。
しかし、びっくりしました。これも確率ということで云えば、ほぼ起こり得ない話ですものね。
こんなことってあるんですねと云うことが、同じ露天風呂で3年間に2回起きたわけで、帰り道にトシオさんが、
「これもう一回あるかもよ。二度あることは三度あるっていうからね」と云いましたけど、
まさかね。でもちょっと、今度は誰かなと期待したりして。

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2024年4月14日 (日)

「リア王」観劇

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このまえ、なんで演劇というものを観始めたかみたいな話をしましたよね。たしかに東京というところには、実に大小のいろんな劇場がありまして、常に魅力的な芝居の演目がかかっているんですけど、生のお芝居というのは、なかなかそんなにたくさん観れるもんではないんですね。そもそも基本的に高額だし、せっかくチケットを取っても、急に行けなくることもあるし、映画みたいには、そう何度もかけられないわけです。
そんな中で、どうしても観たいものは頑張って観るみたいなこともあるんですけど、あとは、こういう広告映像みたいな仕事をしていると、知ってるスタッフとかキャストとかが、舞台にかかわっていたりして、観せていただくこともわりとあります。
いつも思うのは、本物のライブのパフォーマンスには特別な緊張感があって、二度と同じものは観れないという高揚感もあるんですね。
先月、東京芸術劇場のプレイハウスで上演されていた「リア王」を観てきたんですけど、これは、なかなかに重厚で興味深い演劇体験でした。シェイクスピアの古典をイギリスの演劇監督のショーン・ホームズという方が演出をなさっていまして、科白はかなり難解ではあるのだけど、日本の俳優陣は達者で、十分にその期待に応えております。
現代社会を思わせる美術に衣装、そこに斬新な舞台装置も相まって、一つの世界が作り出され、観客は大きな舞台の中に、じわりじわりと引き込まれる感覚です。気がつくと、厄介に思われた難解な科白にも、やがて慣れております。
言ってみれば、これぞこの舞台でしか味わえぬシェイクスピア体験というもので、たぶん、のちのち語り草になる「リア王」ではないかとも思ったわけです。まだ全国公演中ではあるのですが。

何故この芝居を観に行ったかというと、このリア王を演じる段田安則という役者の舞台は、欠かさず観に行ってるからでして、今回もそうですが、つくづく上手い役者だと思います。
この人とは不思議なご縁があって、わりと長いことお付き合いしておりますが、知り合ったのは、おそらくお互い20代の頃で、私の方がちょいと2学年ほど上なのですが、その頃、段田さんが入ったばかりの劇団・夢の遊眠社は、世の中で評判になり始めていて、私がかかわっていたCMに、ちょっと遊眠社の役者さんたちに出演していただいたのが最初でした。それから劇団の方達とは年齢も近くて仲良くしていただき、時々出演をお願いしたり、ナレーターをやってもらったりしておりましたが、そんなきっかけで私「夢の遊眠社」の公演はたぶんほぼ全部観ておりました。
戯曲の中における段田さんの配役はいつも重要な役で、野田秀樹さんの書く台本というのは、だいたいものすごい量の台詞なんだけど、ある時は美しく、ある時はコミカルに、ある時は刺さるように、そしてその詩のような言葉群は、彼らの肉声で的確に観客に届けられておりました。
「夢の遊眠社」は、1992年に惜しまれながら解散したんですけど、その後も段田さんは舞台を中心に役者の仕事を続け、今に至ります。もちろんテレビでも映画でも、強く印象に残る仕事をしておられますし、声も良いのでナレーションの仕事のオファーも多いのですが、やはりこの人は舞台の仕事が好きみたいです。私は彼のたいていの芝居を観ておる一人のファンですが、その芝居は深いなあと思います。これは同業の役者さんからして、よくそうおっしゃってます。
彼の芝居が始まって科白を云い始めると、その周りの空気をそこに集めてしまうような時がありますね。ただ、舞台を降りると普段は全くそういうオーラのない人でして、家も近所なんでたまに会うこともあるんですけど、ほんとにただの一般の人にしか見えないです。
そんなことで、今まで数々の名芝居がありますが、ライブの舞台というのは、その時間のその風景として記憶に留めておくしかありませんね。今回の「リア王」もいろいろ余韻があって、さぞ記憶に刻まれることでしょうが、実は2年前にどうしても観れなかった舞台があってですね。それは今回のショーン・ホームズさん演出、段田安則主演の「セールスマンの死」だったんですが、その時私コロナに感染してついに観にいけなかったんですね。思っていた通り非常に評判になりましたから、ほんとに悔しかったんですけど、こればっかりはどうやっても観れませんから、そうゆうもんなんですね、芝居って。

2024年3月12日 (火)

適度な不適切

TBSの「不適切にもほどがある」というドラマが当たっているようで、最近テレビのドラマが当たったという話はあんまり聞かなかったし、このところ何かしらテレビドラマを観るということがなかったのですが、試しに観てみたら、これがなかなか面白いのですね。
クドカンさんは、オリジナルで脚本を書く人であり、独特の世界観があって、わりと観ることの多い作家さんですけど、今回のドラマは面白いとこに目をつけていて、その描き方ものびのびと自由で、作り手がすごく楽しんでるように見えます。まあ、作ってる方は大変なのかもしれませんが、観る側からそう見えるとしたら成功してることが多いです。
お話としては、パワハラ・セクハラが横行いていた1986年に生きる、云ってみれば昭和の不適切満載の男が、2024年にタイムスリップして現れる設定で、それぞれの時代に生きる人物たちの価値観のズレが物語を推し進めていきます。背景にある昭和の時代だったり令和の社会とかが、よく観察されていて笑えるのと、そこで起こる出来事に翻弄される人たちは、妙にリアルです。タイムスリップの仕掛けはかなりいい加減で、なぜか時空を超えてスマホが繋がっちゃったりするんですけど、それはそれで気にしなければ気になりません。基本、喜劇なんで。
ただ、この一連の仕組みを思いついた作家は、アイデアマンではありますね。なんだかコンプライアンスでがんじがらめになってしまった今の世の中を、自ら笑おうとしているかのようなところが根底にあって、そのあたり視聴者から支持されてるんでしょうか。
確かに、このドラマにある1980年代には、今から見れば、さまざまの偏見や差別や不適切が溢れていました。現代なら明らかにアウトな発言やルールが多々ありまして、その時代にいた私も例外ではありません。ひどかったです。
ただ、あの時代の全てがノーで、現在全てが改善された世界になっているかと云えば、それほど事は簡単とも思えません。何が正しくて何が正しくないのか、この先も考えられるすべての不適切を是正して、どんな未来になるのか、そもそも何もかも無菌状態になって何が面白いのか。などという発言そのものが、不適切ではありますけど。
身の回りの不適切はドシドシ是正されておりますが、たとえばクドカンさんの所属する劇団の芝居などを観ますと、セリフを含めいわゆる不適切な表現というのは、たくさんあります。時代をとらえた面白い演劇には、必ずそういった側面があるように思います。
さっきのタイムスリップじゃないですけど、1980年代よりもう10年ほど時間を逆に戻した1970年代には、アングラ演劇運動というのがあって、それは反体制や半商業主義が根底にある、いわゆるアンダーグランドの活動だったんですけど、当時いくつもの劇団が存在しました。その劇団の主催者には、唐十郎、蜷川幸雄、寺山修司、つかこうへい、別役実、串田和美、佐藤信などという猛者たちの名前が並んでいます。

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私が高校を出て18歳で東京に出て来たのが1970年代の前半で、それから何年後かに状況劇場の芝居、いわゆる赤テントを観にいくのですが、20歳そこそこの田舎もんの小僧には、なんかものすごい風圧にさらされたような体験でした。
なんせ舞台も客席もテントの中で、見世物小屋的要素が取り込まれ、近代演劇が排除した土俗的なものを復権させた芝居なわけで、唐十郎の演出も名だたる役者たちのテンションも、キレッキレッなんですね。なんかとても危ない、不適切どころじゃない世界なんだけど、えらくカッコいいのですよ。
そのちょいと後に、今度は、つかこうへい劇団を観に行くんですけど、これがまた全然別な意味でものすごい芝居でして、凄まじい会話劇です。シナリオそのものには、考えもつかないような仕掛けと驚きがあって、一言も聞き逃せない緊張があります。小さな劇場は全部この作家の世界に引き摺り込まれます。そして、もちろんお馴染みの俳優たちはキレッキレッなんですね。
そして、これら、赤テントの芝居も、つかこうへいの芝居も、ある意味不適切の嵐なのです、いい意味で。ってどういういい意味だろ。
この演劇体験が導火線になって、私はその後、芝居というものをずいぶん観るようになります。ライブの芝居はまさにその場限りの出会いで、映画のような形で残せないぶん、より一期一会の魅力があります。その後アングラという呼び名はなくなりましたが、小劇団の活躍は脈々と続くんですね。そして、野田秀樹さんの科白のスリルにも、松尾スズキさんの台詞の危なさにも、観客は、常にドキドキ痺れておるのであります。
いずれにしても、不適切や不謹慎という言葉を面白がれない時代というのも、どういうもんかなとも思うわけです。ここは適度な不適切で、ということでどうでしょう。