2026年3月19日 (木)

だるまのはなし

昨年の12月から今年の2月まで約3ヶ月間、横浜の放送ライブラリーというところで、「山田太一上映展示会」というのをやっているよ、と教えてくれた人が二人おりまして、私を含めてこの人たちは、この脚本家の大ファンで、以前からたまに何人かで「山田太一を語る会」という飲み会をやったり、先生がご存命の頃は講演会や座談会を聴きに行ったりしてたんですが、さすがのアンテナというべきか、今回の催しのことを察知して教えてくださったんです。
展示会の期間も終わりかけた頃に急いで行ったんですが、たくさん名作を残された方でしたから、かなりきちんと整理された大量の展示物があって、あらためてこの方が積み重ねられた足跡に、ため息の出る思いがしました。
よく知ってる作品も、あまりなじみのなかった作品も、どれもこの作家の背骨が一本通っている気がします。どの資料も時間を忘れて読んでおりましたが、山田さんがいろんな方とやり取りをした手紙のコーナーがあって、それは特に興味深いものでした。
大学時代からの親友であった寺山修司さんの存在であったり、八千草薫さんの手紙は、文面もインクの色までも可愛らしさが溢れていたり、大原麗子さんは見事な達筆で、ものすごくきちんとした文章を書かれておられたり、、いろいろに発見がありました。
その中に山田さんのお父さんからの手紙もありました。エッセイなどを読んでいると、このお父さんは、戦中戦後の大変な時代を、苦労を重ねて家族を養ってきた人で、息子の山田さんに対しても、語る機会あれば、人が生きていくことの厳しさを教えるような父として描かれていたんですが、多分この手紙が書かれたのは1966年頃で、ご自身が老齢にさしかかった時分に、成長した息子を嬉しく見つめる視線を感じます。山田さんがテレビドラマの脚本を書いた初期の頃の作品を、テレビで観て褒めていまして、その最後の方に、「ところで、だるまを送ってくれてありがとう」という一文があります。
「だるま」というのは、僕らが子供のころに大人たちが、サントリーオールドのことをそう呼んでいたんですね。ウイスキーなんですが、あの丸っこくてずんぐりしたボトルのフォルムからきてるニックネームだと思います。私が物心ついた頃にはすでにそうでして、そして、今よりもずっと格が上のウイスキーだった気がします。山田さんは頑張ってお父さんにちょっと高級なウイスキーをプレゼントしたんですね。
あの頃、流れていたサントリーオールドのCMで、覚えているのは、セピア調のナイトシーンで世界中の大人の男たちがオールドを飲んでいて、不思議な歌が流れてました。これは名曲でしたが、調べてみると、1968年に最初に放送されたバージョンは、かつて壽屋宣伝部の開高健が考えたキャッチコピー「人間みな兄弟」からのインスピレーションで小林亜星が作曲したもので、ギターの伴奏による男性のスキャットでした。
まだウイスキーを飲む大人の世界はよくわからなかったけど、なんだか早く酒を飲む世界に入ってみたい気分があって、たぶんあのCMのせいじゃないかと思うのですね。
それから、だんだんに大人に近づいていくんですけど、その頃も、サントリーのウイスキーのCMというのは、お酒というものの世界を魅力的に描いていました。未成年でしたけど、東京に出てきてウイスキーを飲む仲間入りを始めるんですが、オールドは高価だし、とても手が出なかったです。
成人して社会に出てからも、酒は飲んでましたが、安酒ばかり飲んでいました。大人の男たちは、会社帰りに最寄りのBARで飲んで行くんだけど、そういう時、ボトルキープされているのは、この「だるま」であることが多かったと思いますね。たまにご馳走になると、うまかったなこれが。
「だるま」は大人の男の酒で、格のある最もポピュラーなウイスキーだったですね。

今オールドは、あの頃よりもずっと気楽なランクのウイスキーになっていますから、たまに買ってきて飲んでますが、そばに置いてその変わらないボトルの形状を眺めていると、あの不思議な旋律のスキャットが聞こえる気がします。

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「夜が来る」
🎵

Lon Bon Di-Don 

Shu Bi Da Den Ba
O-de e e eoh
Hi Za
Dan Zan Di-Don
Shu Bi Da Den Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Bon
Shu-Bi Da Dou Ba
La-Li Ho Ra Re
Hey Za
Don Zan Dig Zag
Shu-Bi Da Don Ba
A Don Zon Ju-Bi Da Don

Don Don Di-Don
Shu-Bi Da Den Ba
Li-ro I-ro Re
Hey A
Don Zon Zi Da Ba
Shu-Bi Da Ban A
A Dan Zan Ju-Bi Da Den Ba

A Zan Dan Ju-Bi Da Ze

2026年2月 6日 (金)

大学生の頃を思い出したテレビドラマのこと

映画が封切られた時に、観に行こうかどうしようか迷っていたのですが、ちょうどその日に用事があって、日比谷まで出かけたもんで行ってみたんですね。そうすると映画館は私くらいの年齢の方々が、びっしり座っておられました。
約50年前に「俺たちの旅」というテレビドラマがあったんですが、その半世紀後の現在を描く映画です。
テレビ放送は、1975年の10月から約1年間、日曜の夜8時からでしたが、その時、私、大学生で、3年生から4年生にかけての頃で、落第しそうだったもので、仕方なくですが、珍しく冬にはわりと勉強してまして、ま、他にもいろいろあって下宿にいることが多くてですね、このテレビドラマは時々見てたんです。自分と同年代の大学生たちが主人公で、感情移入しやすかったこともありますけど。
鎌田敏夫さんという脚本家が、描こうとしていることが、時々こちらにフィットしたのかもしれません。連続ドラマなのだけど、これといってつながってるストーリーがあるわけではなく、たまに見るといつも同じようで、自分と同年代の若者が、これといったビジョンもなく、フラフラとその場しのぎに生きていて、その時その時に出会う人や出来事で、いさかいが起きたり、仲良くなったり、失恋したりと、毎回いろんなことになるわけですよ。

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この時期は、もうすぐ4年生に進級するんで、私の周りでは就活が始まっており、えらい就職難の年でしたし、なんだか重苦しい空気でした。勉強は苦手だったし、卒業して世の中に出たら、どんなふうに生きていくんだろうか、全くよく見えてなかったし、中には見えてる人もいたけど、個人的には、ただ漠然と日々を送っておりました。そうすると、このドラマの主人公たちも、日々そんなふうで、ああ、こういうのもありかなと思ったら、ちょっと楽な気分になったんですね。
ただ、そんなふうに無気力で刹那的なドラマかといえば、そういうことでもなく、ちゃんと元気が出る青春ドラマみたいなとこもあって、なんとなく自身と比べながら、中村雅俊さんをはじめとしたキャストたちを応援してるところもあったかもしれんです。そういうことで、その間、毎週真剣に観てたわけじゃないんだけど、なんかちょっと身近な存在にはなってたんですね。
映画になったからかもしれませんが、1975年に放送されていたこのドラマが、最近またBS日テレで再放送されていて、10年後の1985年と、20年後の1995年にスペシャルドラマも作られていたことも知りました。根強い支持のあるシリーズだったんですね。 
今回の映画は、50年後の現代に、彼らがどうなってるかみたいなお話です。
もう、そうなると映画の出来がどうこうということじゃなくて、あの若者たちが50年の時を経て、ここにどんなふうにいるのかということを確かめたくて、みんな映画館に集まって来てるようなところがありました。いずれにしてもなかなかないことではありますね、半世紀だし。

このドラマの記憶を探る時、まず浮かぶのはテーマ曲でして、オープニング曲もエンディング曲も、このドラマの気分に寄り添っていて名曲なんです。主演の中村さんが唄っていますが、作詞作曲は小椋佳さんです。
ますます古い話になって恐縮ですけど、高校生の時、音楽聴くのは、家にプレーヤーもアンプもがなかったから、ラジオとカセットテープでしたが、その頃、小椋佳という歌手は、地味に現れてきたんですね。自分で曲を書いてるみたいで、なんかいいなと思ってたんですけど、「彷徨」というアルバムがけっこう評判になって、少しずつ話題になっていきました。歌詞も曲も静かなんだけど、なんかはっきり作家性を感じる強さがあると思いました。そして、1975年に「シクラメンのかほり」という曲が大ヒットします。1976年には、資生堂のCMキャンペーンソングとして「揺れるまなざし」が、街中で流れていました。
だんだん頭角を現してくるこの人は、けっこう謎の人で、そのうち、実は銀行マンで、それも東大出のエリート行員だということがわかってきます。少し遡りますが、高校の時にラジオにこの方が出演されたことがあって、そのことを知ったんですけど、その時、とても感じのいい青年で、でもとてもかしこそうで、あの歌たちを書きそうな人で、声がめちゃ二枚目で、いっぺんに好きになりましたが、はたしてどんな顔した人だろうかと想像してたんですね。そして何年かしてテレビに出られた時に、勝手に思ってたのととてもギャップがあったのを覚えてます。
それからも、次々に曲を生み出し、ヒットも飛ばし、アルバムも売れ、着実な音楽活動をしながら、49歳までエリート行員の仕事も両立されたそうです。シンガーソングライターだけど、楽譜を書き起こせなくて、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にして、カセットに録音するという手法で、あれだけ名曲作っているのは驚きでしたが。

「俺たちの旅」

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夢の坂道は 木の葉模様の石畳
まばゆく白い 長い壁
足跡も影も 残さないで
たどりつけない山の中へ
続いているものなのです

夢の夕陽は コバルト色の空と海
交わってただ 遠い果て
輝いたという 記憶だけで
ほんの小さな 一番星に
追われて消える ものなのです

背中の夢に 浮かぶ小舟に
あなたが今でも 手を振るようだ
  ・
  ・
  ・

「ただお前がいい」

ただお前がいい
わずらわしさに なげた小石の
放物線の軌跡の上で
通り過ぎてきた
青春のかけらが 飛び跳ねて見えた

そのくり返しを
そのほほに写してた おまえ
また会う約束などすることもなく
それじゃまたなと別れるときの
お前がいい
  ・
  ・
  ・

 

2026年1月16日 (金)

母を失くすこと

前回の、うんと、えんと、おんの話を少し続けますが、
人の運を左右する縁というものの中には、親子の縁や夫婦の縁というのもあり、夫婦の縁はやがて新たな親子の縁も生みます。
かって私に、奥さんとの夫婦の縁ができ、私が家族というものを持てたきっかけは、うちの母の情熱と暴走ともいえるその行動が大きな要因になっておりまして、それに関して母には、恩があります。

その母が、昨年末の12月29日に亡くなりました。
クリスマスイブの日に会いに行った時にだいぶ弱っていたので、覚悟せざるを得ない状況ではありましたが、やはり年を越すことはできませんでした。夏に父が逝き、その4ヶ月後に、二人とも96歳で生涯を閉じたのですが、仲が良かったせいか揃って旅立ちまして、大往生とは云え、こちらとしてはポカンと大きな穴が空いたような心地であります。
12/29というタイミングで、こういうことになりますと、大急ぎで家族4人が東京から広島に向かう交通手段を、すぐに確保せねばならぬのですが、なかなか苦戦しまして、多少時刻はバラけましたが、どうにか30日には母に対面することはできました。最期には間に合いませんでしたけれど、眠ったような安らかなお顔でありました。

そしてお葬式です。1月の1日2日は、世の中の葬送の仕組みは止まっており、どうにか2日の夜のお通夜と、3日の11時の葬儀をお寺さんにお願いできて、4日の初七日まで含めて、どうにか一通りの流れにはなったわけです。
ただ、世間では普段通りの年末年始が続いており、テレビでは紅白歌合戦もやっているし、元旦の朝は初日の出の中継もやっております。年が明けたら世の中おめでとう一色で、なんとも不思議なお見送りとなりましたが、母は孫たちに会えるにぎやかなお正月が好きだったなと、思い返しました。
そして正月三ヶ日にもかかわらず、母が生前親しくしていただいた皆さまがたくさん来てくださり、決して寂しいお葬式にはなりませんでした。
母は本当に朗らかな人で、社交的で人気者でしたから、慕ってくださる方も多かったと思います。わりと長いことお茶の先生をしておりまして、お茶席を通じてお弟子さんも含め、たくさんの方々との交流が続いておったと思います。この数年、少し認知症が進みましたので、あまりお茶席はできませんでしたが、いろいろな方達がお見舞いに来てくださってたんですね。
母と父は1歳ちがいで二人とも戦時中に広島で育ちました。子供の時分も青春時代も、最後に原爆が投下されるまで、暗い時代と思います。ただ、二人は同じ町内に住んでいて、父は一中に、母は県立女学校に汽車通学で通っており、どうもその車中で父は母を見初めたようで、ちょっと素敵な恋をしたようです。
二人とも私にその話をしたことはないんですが、親戚のおばちゃんに教えてもらいました。父が学校を出たらすぐに結婚したようですから、幸福な結婚だったんだと思います。
でもそこからは、「禍福は糾える縄の如し」であります。
父が胸を病んで療養所に入院したり、母が流産をしたり、そのうちに私と弟が生まれたり、それからもいろんなことがあったんですけど、弟が8歳の時に病気で突然亡くなってしまったことは、何もかも無くしてしまったような、時が止まってしまったような出来事でした。
母は物干し場でしゃがみ込んで動かなくなるまでずっと泣いていたし、中1だった私は、母がこのまま後を追っていってしまうんじゃないかと、それが怖かったし、父はそんな母の状態を気にかけて、とにかく平静を保って普通にしていましたが、夜中に遺影の前で一人嗚咽していました。
その夏の終わりに、父と母の故郷である広島に3人で帰って暮らすことになります。父は新しい就職先を見つけて、私も何度目かの転校をしました。母は何かのきっかけを探すように、熱心にお茶の勉強を始めました。それからしばらくして、裏千家のお免状をいただいたんだと思います。
この時ほど、親の子供に対する愛情というものを強く感じたことはありませんでした。親とはありがたいものだと。
ただ、その思いを、そののち、母に伝えることはありませんでした。なんとなく母の気持ちを分かっていながら、態度はそこから離れてしまい、憎まれ口をたたき、おまけに高校を出てからは東京に出ていってしまって、好き勝手にフラフラ暮らして音信も途絶えがちになります。親孝行というものからますます離れていってしまった。

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遠くにいて、いつも気にかけてくれ、私と家族の幸福を祈り続けてくれていた母に、感謝を伝えることがずっとできませんでした。私の場合、これが一種のマザコンの現象かもしれませんが、いつかあやまりたいと思っていました。でも結局、今頃になって手を合わせとるようなことで、情けないです。

何十年も、仲の良かったお母さんとお父さんが、この数年はそれぞれに身体の不調で、なかなか会えなくなっていたから、これで、久しぶりにゆっくり会えたのかもしれません。
こっちは、しばらく喪失感ですけど。

2025年12月30日 (火)

うんと、えんと、おんと、、

なんだか、語呂合わせみたいなお題なんですけど、この前ふと思ったことでして、
運と、縁と、恩と、ということなんですが、
70年も生きてしまうと、多少いろんなことを振り返ってみることもあって、まあ、人生っていうのは、自分の居場所や、その周りの人たちとのかかわりの上に、成り立っておるんですが、そのあたりいろいろに思うところがあります。

運ということから云えば、ずいぶん前に会社の後輩くんたちに、ちょっと長めの手紙を書いたことがあって、それは、これまでの自分の仕事の経験談みたいなことだったんですけど、ウダウダ語ったのちに、最後にこんなこと書いたんです。
まあいろんなことがあるんですけど、自分がここまでやってこれたのは、運が良かったからかなと思います。何故そう思うかと云えば、つくづく自分一人の力なんて知れたもので、自分の足らないところは、他者に救われたり、もっと大きな力が働いたりするもんだなあと感じるからです。
長い話に付き合って、最後はそれかよと思うかもしれませんが、これってわりと大事なことなんですね。
じゃあ、どうすれば運が良くなるのかと聞かれても、わからないんですけど、たぶんどういう佇まい(たたずまい)でいるといいのかみたいなことはある気がします。

このことは理屈じゃなくていろんな場面で感じることなんです。自身の力でどうにかできることではないのだけど、たまに神社で柏手を打って、何かを祈ったりするのも運にかかわることだし、日々の暮らしの中で、身の回りを何事か大ごとが通り過ぎていって、なんとなく無事だった時なども、そういう力を感じます。
「運」にまつわる言葉としては、運が向く、強運、悪運、運の尽き、運に見放される等、いろいろありますが、いずれにしてもこいつとは付き合っていくしかないんですね。

そして「縁」というのも、生きてく局面で、時に強く感じることです。これは、人と人や、物事の、めぐりあわせやつながりを意味します。長い時間の中で振り返った時、その縁のチカラを思うことがあリます。縁に触れてそれが良縁であれば大切に育み、悪縁であれば断ち切るというのが教訓なのでしょうか。ただ、その判断はそう単純なものではないかもしれません。

この何とも捉えどころのない運とか縁とかの中にいて、時折、他者からの恩ということを不思議に感じることがあります。
あることのために、あるいは私ごときのために、どうしてあれほど深い気遣いをしてくださったのであろうか、あれほど骨を折ってくださったのであろうか、そして、たいていの場合、こちらはその事で、ものすごく救われていたりするのですね。
そしてこの歳になっても、その多くの恩には、ほとんどが恩返しをできてない状態であります。

日々の暮らしの中で、人は運に左右されて、何かの縁に救われたりして、忘れてはならぬ恩を刻むことになります。
こんなことを書いているのは、ついこの前、高校時代の親友が亡くなりまして、この人のことを思っていたんですね。
15歳の時に知り合い、なんだかすぐに仲良くなり、その後、高校の時も卒業してからもずっと長く付き合ってくれた数少ない友だちでした。
彼は地方の国立の大学へ行って、郷里の市役所に就職して働き、最近勤め上げました。こっちは東京へ行ったきりになってたんですが、たまに帰郷した時にはいつも会ってくれたんですね。なんだか、ほんとに優しくていい奴でした。私は居場所も定まらずいつもフラフラしていて、長く会えないことも多くて、友だちも少ない奴だから、彼がいつも気にかけてくれたことは嬉しかったんです。たまに会った時に近況を報告し合うだけでしたが、お互いのことはよく理解しあっていました。今回、彼を奪って行った病魔に侵されるまでは、彼らしい幸せな時間を過ごせていたと思うんですね。
本当に切なくて悔しい別れでした。

Sasie

ただ、ここに至るまで、さまざまな運や縁や恩に出逢いながら、お互い、いろんな分かれ道を選択しながら、生きて来たんだと思いました。
人は目に見えぬ何かの力によって、導かれることがあります。
うれしいこともあれば、やなこともあって、お互いジジイになったとこで、柄じゃないけど、彼とちょっとだけ人生の話でもしてみたかったんです。

2025年10月27日 (月)

70年も前の映画なんだが

Seven_samurai_2 「七人の侍」新4Kリマスター版 3週間限定上映というのがありましてですね。そりゃこうしちゃあいられねえってわけで、朝の9時から新宿の東宝まで行ってきました。

皆さんよくご存知の黒澤明監督の大作で、世界中が絶賛した名作なんですけど、私が生まれた年の公開ですから、もう70年も前の映画なんです。
そういうことなんで、もう何遍も観ていて、シーンによってはセリフも覚えてるくらいなんですが、そういえば、大きなスクリーンで3時間半、通しで観たのは遥か昔のことで、もう一回ちゃんと観ておきたいとは思っていたんですね。

最初に観たのはよく覚えてないんですけど、たぶん中学か高校の頃、映画館でリバイバルの上映だったか、もしかしたらテレビだったか忘れてますが、とにかくものすごく心を揺さぶられて、茫然自失になったことを覚えています。
なんだかよくわからないけど、観ているうちにあの世界に入っていって、侍と農民たちと一緒に、野武士軍団と闘っている自分がいるんですよね。そういう感覚になる映画ってそうはなくてですね、ずいぶん久しぶりに見ても、やっぱりそういうふうになるから不思議です。
監督もスタッフも俳優さん達も、もうあらかたいらっしゃらないんですけどね。
時代劇ではあるんですけど、出てくる人たちや風景に、妙にリアリティがあって、前からなんでだろうとは思っていたのですけど、それはもちろん技術的にすごく上手に作られてるんだろうが、ひょっとして、それってこの映画が封切られた時代にも関係あるのかなとも、思ったんですよ。
この物語はシナリオ上、どうしても生きるか死ぬかの戦いを描いており、一般人を巻き込んだ小さな戦争の中で、次々に人が死んでいくことになります。主人公の七人の侍も、残ったのは3人だし、野武士は全滅だし、村人達もずいぶん亡くなります。
この映画の持っているリアル感は、制作側の意図とかというより、あの敗戦からまだ9年しか経っていない、あの時代の空気が映っているような気がしたんですね。私が生まれたばかりのあの頃、世相は色濃く戦争を記憶してたと思うんです。

ずいぶん長尺の映画なんで、多少忘れてる場面があったり、シーンの順番が思ってたのと逆だったりすることはあるものの、その世界感がしっかりと記憶と結びついている映画であることは間違いないですね。
先日亡くなったうちの父は、映画好きで、私がずいぶん小さな時から、自分が見たい映画には、かまわず連れて行く人でして、私も機嫌よく黙ってずっと観てる子だったようで、洋画も邦画もたくさん見せてもらったんですけど、子供心にクロサワカントクという人のことはおのずとインプットされたようでして、やがて少し大きくなって、この名作に出会ったと記憶しています。
すごく個人的なことなんですが、何年も前に自分たちで作った小さな会社の代表を務めることになった時に、あんまり覚悟ができてなくて、どんなリーダーを目指すのが良いのだろうかと思って、いろんな人のことを巡り浮かべた時に、この「七人の侍」で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のことを思い出したんです。実際にそこから何かを参考にしたわけじゃ無いんですけど、気持ちのどこかに島田官兵衛という人を覚えているようにはしようと思ったんですね。

自分が生まれた年に封切られた映画なのに、何度観ても、同じ読後感だなあと思いながら映画館の出口の方へ歩いていたら、後ろからポンと肩を叩いた満面笑顔の人がいて、よく見たら何十年もお世話になっている、新宿の老舗居酒屋「池林房」の店主のトクちゃんでした。
やっぱ、この年代の人は、この映画を何遍でも観に来るんだなと思ったんですね。

2025年9月29日 (月)

父との別れ

8月の26日に、父が身罷りました。
当日の朝早くに、お世話になっている施設の看護師さんから電話があって、呼吸が浅くなっているとの知らせをいただき、急いで広島に向かいましたが、その臨終には間に合いませんでした。
主治医から、すでに老衰の状態であるということを聞いてはおりましたが、最後は眠るように安らかであったとのことで、その表情はしごく穏やかでありました。
ここしばらくは、会っていても、話をするのも難しくなっており、本人も自分の身体のあちこちがなるようにならず、何かとしんどかったと思います。この何年かは本当によく頑張ったんだなと、思い返しました。目を閉じたその表情は、少しホッとしたようにも見えたんですね。

そこからは、急に忙しく葬儀を執り行うことになります。感慨に浸ってる暇はありません。
父は広島のこの地が生まれ故郷であり、長く暮らしましたので、地元の親戚や友人も多かったのですが、96歳となりますと、その多くの方々もほとんどいらっしゃらなくなっておりまして、家族葬という形になりました。長い時間の中で、何度か覚悟したことでしたが、やはり切ないものではありました。
父は昭和3年の生まれですので、その成長期はまさに戦時中です。昭和6年の満州事変から、日本は大陸で常に戦争状態で、昭和16年には太平洋戦争が始まり、4年後の敗戦までこの国の戦時体制は終わることなく、その最後に、父は広島で被爆することにもなります。
子供の頃から、いつも国が戦争をしていたという大変な時代を生きた世代でして、戦後に生まれた我々からはちょっと想像がつかない時代です。
世の中がガラリと変わって戦後が始まった頃に、父は大人になるのですが、子供の頃から勉強ができる人だったようで、京都大学の法学部に進みます。そこから大手造船会社に就職して、わりとすぐに母と結婚し、もう戦後は終わったと云われるようになった頃、私が生まれます。やがて弟も生まれ、転勤があったり、入院があったり、いろいろあったんですが、何ごとにも一生懸命な頼りになる父でした。
サラリーマンで、ずっと勤め人として働いた人で、おそらくいいことばかりじゃなかったことも、息子なりに多少感じたりもしましたが、仕事のことで愚痴をこぼしたのを聞いた覚えはありませんでした。
それからしばらくして、私が中学に入ってから、うちの家族にはショックな出来事がありまして、弟を病気で亡くしたんですね。その直後に父は会社を辞め、故郷に帰って再就職をします。一人減って三人になったうちの家族は、広島に転居することになりました。
そのような事で、私は中学の途中から高校までを広島で過ごし、のちのち父と母の期待に応えて生きようと思っておりましたが、なんとなく東京の方へ出て行って、その後、将来へ向けてのきちんとしたビジョンもないまま、フラフラしており、心配ばかりをかけて申し訳なく思っておった次第です。
ただ、父は、私のちょっといい加減な進路の選択には、必ず理解を示してくれ応援してくれました。そのことは励みになりましたし、感謝をしています。それから私は結局ずっと東京で暮らしておりましたので、実家には戻らぬままでしたが、父も母もいつも気にかけてくれていたことは、よくわかっておりました。ちゃんとした礼も言わぬままでしたが。
親孝行などということは、何もできておりませんが、二人の孫が生まれたことはひどく喜んでくれました。
そういえばずいぶん前、まだ元気な頃に一度、うちの会社で作ったビールのテレビCMに父と母が出たことがあって、二人ともビールが好きでしたから、それはうまそうに飲んでいて、地元の人たちの間でずいぶんと話題になったんですけど、その時は、照れながらも少し嬉しそうにはしておりましたね。

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葬儀が終わり、父がお世話になっていた施設にご挨拶に行った時に、担当してくださった若い介護士の方々から、生前の父のことを聞かせていただきました。シャイなところはあったけれど、とても気持ちの伝わる人で、笑い顔がチャーミングだったと。何かしてあげると、必ず「ありがとう」を云ってくれていたと聞き、ちょっと身内としては嬉しかったんですね。
やがて訪れることになる別れでしたが、96歳まで長生きしてくれて、この何年かはしんどい事も多かったけど、70年も親子でいれて、感謝です。
生きてるうちに、ちゃんと言っとけばよかったです、ありがとうございました、と。

2025年7月25日 (金)

壊す力

わりと長く生きておりますと、いろんなことを思うんですが、
人は自分なりに何かを作り上げるために、生きて暮らして、それを人生の目的としたりしております、多くの場合。
それはひとつの家のことだったり、家族であったり、仕事であったり、あるいはその成果物であったり、また、そういった様々の人たちが、ある目標のために集まることによって起こる組織であったり、会社であったり、そのために必要となる建物があったり、そして色んななりわいが共存する街ができ、都市ができ、そしてその自治体を、それを取りまとめた国を運営していくために行政があり、そのおおもとに政治があるんですね。
何を長々と書いているかといえば、最近選挙があったりしたもので、あー、こういったことを、ずいぶんと長い間繰り返して、今に至っているのだなと思ったんです。私が見てるだけでも半世紀になるんですけど、政治というものもいったい進歩しているのか、前よりも良くなったりしているのか。なんだかよくわからないもんではあります。
それと同じようにということでもないんですけど、世の中のいろいろな団体や会社組織というのも、それと似たようなところがあって、これまで長い時間をかけて、手間をかけて、積み上げてきた実績やノウハウが、今に生かされているのかどうか、ということがあります。
仕事でも仕組みでも、長い間同じことを繰り返しておりますと、マンネリに陥るということがあり、新鮮味を失ったり、過去の失敗からリスクを恐れて自分たちで新たなルールを作ってがんじがらめにしてしまうこともあります。
人がやることなんでいろいろだけど、語弊を恐れずに云うとですね、ひとつのことを続けていると、なんとなく、それそのものは後退はしないまでも、新しい変化が起きにくくなることはよくあるんですね。
私のいる業界も、モノを作ったり、何らかのサービスを提供したりする仕事なんですが、この問題は何かと見え隠れしております。そう言う空気を感じた時、「少しずつ改善しましょう」とか、「徐々に変えて行きましょう」みたいな話になりがちですが、ひとつの形を守りながら、うまいこと変えてみようと云うのはだいたい解決策になりにくいです。
そこで、そういう時に大事なのは、スクラップアンドビルドじゃないですけど、今までに積み重ねてきたものを、一回全部ぶっ壊してチャラにすることだったりするんですね。ゴジラが通ったあとのように何もない状態にするということですが、そこで必要になるのは、それを断行できる胆力だけです。
でも、これがなかなか難しいことではあります。それを決断すればその結果に責任を持たねばならないし、当然ギャンブル性も高くなります。いずれにしても乱暴な選択ではあるんです。
古来、その手の話の例は、大なり小なりいろいろありますが、それで何もかもうまく行くわけでもなく、失敗もあれば、成功もあり、そのどちらでもない場合もあるようです。

それと、何かをぶち壊す役目というのは、だいたいにおいて、昔から男の仕事だったように思います。まあ普通に考えてみれば、何かをぶち壊すという行為は、女性には向かない、むしろ女性はモノを壊すより作る方に適性があるという固定観念もあります。ただよく考えてみると、昨今ではわりと壊すことに適性のある女子もいらっしゃる気もするんですけどね。

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だいたいゴジラって男なんでしょうか、女なんでしょうか。

2025年7月 5日 (土)

先生の画集

5月の20日頃に、いくつかの用事があって故郷へ向かったのですが、そのうちの一つに、高校時代の何人かの友人たちと3年生のときの担任の先生にお会いする集まりというのがありました。
倉岡先生と云います。私にとっての学校の先生の中で、唯一今でも年賀状を出している恩師ですが、今年の1月に、その倉岡先生が地元の新聞社から取材を受けて、その記事が掲載されたんですね。
どういうことかというとですね。先生は60歳で退職されたあと、奥さんと一緒に世界遺産を巡る旅を始めました。それで、35カ国の訪問先でスケッチを重ね、水彩画の作品200点を仕上げられたそうなんですね。その画を基に世界遺産105ヶ所を紹介するDVD(1時間36分)が完成して、そのニュースが新聞に載ったということで、現在おん年84歳ですが、とてもお元気でして、みんなでビールで乾杯してお祝いしようということになったんです。
そういえば、もう何年も先生からいただく年賀状には、いつも世界中の色々な風景が描かれていて、それがとてもいい絵でした。その集大成が完成したのだなということは、察しがついたのですが、DVDを見せていただくと、その積み重ねられた時間と気力と好奇心に感動を覚えます。
こんなふうに紹介しますと、この先生は美術の先生かなと思われるかもしれませんが、実は体育の先生でして、母校でもいくつかの高校でもサッカー部の監督を務められ、ご自身も大学時代は教育大のゴールキーパーとして活躍されていました。
当時の記憶で強く残っているのは、なわとび運動を深く研究されていたことで、全生徒、かなりきちんと指導を受けました。今回、その「なわとび運動」を解説した本を全員にくださいましたが、その中にあるイラストは全部先生が自分で描かれていて、さすがでした。
あの頃、僕らは16歳か17歳で、先生は14歳年上でしたから、すごく大人に見えましたが、思えば30歳過ぎの厳しさの中に優しさのあるとてもいい先生でした。
高校3年生というのは、始まるとすぐに受験の話になるし、進路も分かれてくるのでなんだかまとまりにくい学年なんですけど、倉岡先生とこのクラスは結構仲が良かった気がしますね。学園祭で8m/m映画を作ったりして、盛り上がったりしたし、50年も経つのにその話でまた盛り上がってましたからね。なんか受験の季節にしては笑いも多かった気もします。
ただ、結局思ったとおり、あんまり勉強もしないで、それは自分のせいだけど行く大学がなくて、ああ浪人かと思っていた時に、先生に勧めてもらった東京の学校に合格できて同じクラスの仲良しのキムラくんと一緒に上京することになります。

考えてみると、あのときの先生の一言から、いろいろあったけど、今の自分につながっているわけですよ。不思議ですね。
それはともかく、あのまだ10代の後半だった少年少女たちが、70歳となり先生は84歳で、でもこうやってお会いできたことに、驚きつつも感謝です。
あの頃年齢的には、先生は僕らの倍くらいだったけど、こちらももう古希になれば、14歳の差は追いつけそうな勢いです。それくらい先生は若いです。多分そういう生き方をされてきたからだと思います。僕らも老け込んでる場合ではありませんよお。

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2025年5月13日 (火)

誰かに手紙を書くということ

このブログのようなものを書き始めたのは、ちょうど50歳になった頃でしたので、約20年前ですけど、世の中にブログと云うものが多少浸透し始めておりまして、試しに何か書いてみようかと思ったのがきっかけでしたが、その時なんていうか、どういうつもりで書くのがいいのかな、と考えたんですね。
特に誰かに向けて書くわけでもなく、自分ごとを日記的に書くのだけど、ブログは仕組み上、誰でも読めるものでもあります。そこで、相手は特定できないけれど、そこにいる誰かとちょっと酒でも飲みながら話すような気持ちで、自分に向けた独り言のような手紙を書いてみようかと思ったんです。
そういう気分なんで、パソコンのキーボードにいきなり打ち込むんじゃなく、一度、万年筆で紙に書いてみることにしてみました。私の尊敬している高名な俳優の方が葉書をくださる際、万年筆のとても個性的で素敵な筆跡でして、それがカッコ良くてですね、そういうところがミーハーなんですけど。
これは固有名詞と漢字の復活学習にもなるし、そうやってみると意外にスラスラ書けたんですね。それに、手紙を書く技量みたいなものが、少し訓練されると良いかなとも思ったんです。

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世の中には、いい手紙というものを書く方がいらっしゃいます。それはこの仕事をしていると、時々、出会うことがあるんですね。ラブレターみたいな個人的なものではなくて、どちらかといえば仕事上の手紙だったりするのですが。僕らの業界には、いわゆる言葉とか文章とかを書くことを生業(なりわい)としている達人がいらして、そういう方から手紙をいただいたりすると、わりと痺れることがあるんですね。
テレビのCMのような、広告の映像ツールを作る仕事を長くやってますと、この仕事は、それを見てくれる誰かに向けて、個人的に手紙を書いているようなところがあると思うんです。
どういうことかと云うと、広告と云うのは、その中身がただ正しく間違いなく伝えられたとしても、受け取った人がそれに関心を持ったり、気にかかったりしなければ、あんまり効力がなくてですね、受け手が興味とか感動のようなものを覚えるような文脈や仕掛けを潜ませられるかを考えるわけですが、そのあたりが、相手のことを想いうかべながら書く手紙と似通っているような気がします。
このところ、仕事上の伝達ツールの主役は、電話からメールへと移行する傾向にあって、このメールというのもある意味 手紙でありまして、いかに相手に的確にこちらの意図や気持ちが伝わるかというのは、その書き方によって大きく違ってきたりします。
まあ、昨今のみなさんはスマホも含め十分にメールとかLINE等を使いこなしてる世代ですから、用件をいかに速やかに正確に伝えるかという技術は、私の世代の比ではないかもしれませんが。
考えてみれば、私などが仕事を始めた頃は、メールというものは全く存在すらしてなかったわけで、faxもなくて、石器時代のようなもんですが、逆にその頃誰かに書いた手紙は、数少ないですけど、渾身の筆圧で書いたもんでした。 
仕事上、書く手紙もいろんな手紙があって、それは、ご挨拶、お礼、お詫び、頼み事、報告、相談、等々、様々です。基本的に対面すべきところを、都合がつかずに取り急ぎ、というケースが多いですが、逆に敢えて手紙を書くという選択をすることもあります。
たとえば、かなりハードルの高い難問を抱えた時とか、わりとそういうことの多い仕事ではあるんですが、自分なりに考えたことを手紙にして、肝心な人に読んでもらって、予めキャッチボールをしておいたりします。その課題を、ちょっと角度を変えてみて、間を作ってみたり。時間をかけて何かを練り込んでゆく時には、手紙のやり取りが功を奏することがあります。
それに面と向かっては言いにくいことも、手紙だと言えたりというのもありますしね。
 
手紙を書くのって、やはり一度立ち止まって、じっくり相手のことを考えるし、また自分が送るメッセージをきちんと整理できるメリットもあります。
face to face で人が接すれば、その場でいろんな化学反応も起きて面白いし、瞬時の判断で何かが生まれたり、物事を前に進めていくときの基本スタイルなんですけど、そこにいい手紙という要素が加わると、その強度が増します。
手紙には、全く別の時間軸で何かを醸成していく力があるかもしれません。

2025年4月12日 (土)

クレイメーションの達人が、、

この前、アニメーションのことを少し書いたんですけど、このアニメーションという技術は、ある部分において私どもの仕事のかなり近いところにありまして、いろんな機会に接することも多いんですね。若い頃にアニメーションのCMの仕事で、すごく世話になって、いろんな事を教えてもらったアニメーターで、森まさあきさんと云う方が、急に先月、病気でお亡くなりになりました。享年69歳という事でして、ずいぶん驚いて、お別れの会に行ったんですけれども、本当にもっと話を聞いておけばよかった人でした。
そもそも彼と出会ったのは、お互い30歳くらいの頃でしたが、私はその頃、売れっ子CMディレクターの岩下俊夫さんと一緒に、PARCOのバザールのCMをいろいろ作ってまして、今度は立体アニメーションの映像でやりましょうか、などという話をしておりました。
時代的には、海外のミュージックアーチストのプロモーションビデオが、たくさん出て来た頃で、かなり斬新で刺激的で、ずいぶん影響を受けておりました。当時、私はイギリスのアーチストのピーター・ガブリエルの”Sledgehummer”という曲のPVをビデオに録画して、よく持ち歩いたりしておったんですね。
その映像は、このアーチストが唄っている顔の周りに、いろんな素材の立体アニメーションが動き続けており、それは硬質の素材だったり、野菜だったり、フルーツだったり、魚だったりして、彼の顔も、やがて立体アニメーション化して行き、それはクレイアニメーションになったりして、そのすべての動きが音楽とシンクロして、かなり独創的な仕上がりになっていました。
ともかく楽しくて、こんな気分の15秒CMが作れないかなあと思っていたんですけど、そんな時にディレクターの岩下さんから、クレイアニメーションで次々に姿を変えてゆくオブジェが主役の企画コンテが上がって来たんですね。
やりたいイメージはいろいろに浮かんでくるんですけど、さて、実際にどうやってクレイを動かして撮影するのか、クレイを変形させながらコマ撮り撮影するとして、粘土の選択から造形と動かしまで、そういったプロはどこにいるのか、実はあんまり時間もない。その時、アニメーション会社のプロデューサーが連れて来てくれたのが森さんだったんですね。この時、初対面のこの人の印象は、なんだか近所にいる明るいおばさんていう感じの人でして、おまけに、仕事上必要なのか、いつもエプロンをかけてらっしゃいました。
彼は同世代ですけど、本当によくアニメーションのことを知っていて、同じくらい特撮技術のこともよくわかっていて、そのころ毎日クレイでいろんな造形物を作っていたので、同時にクレイ作家でもありました。やりたかったことに、この人が来てくれたら、まさに鬼に金棒です。
当時としてはかなりユニークなCMの映像ができ、それに音楽は鈴木慶一さんが作ってくださって、バザールの告知なんでオンエア期間は短いんですけど、なかなかに目立ったキャンペーンになりました。
そこで、これは続けて作りましょうということにもなり、今度は粘土じゃなくて、例えば電子機器の部品とか、様々な物質でオブジェを作って、それがなおかつ変身していくみたいなシリーズになって、何本か作った時に、広告の賞を頂いたりもしました。当然ながら、そのコマ撮り撮影のアニメーターは、全部、森さんがやってくれたんですね。
その後、彼はアニメーターとしてどんどん忙しい人になって行き、クレイキャラクターの作家としても、有名な人になって行きました。特に、フジテレビの「とんねるずのみなさんのおかげです」の番組オープニング「ガラガラヘビがやってくる」は、企画演出、キャラクターデザイン、アニメーションまでやって、代表作になりました。

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彼はキャラクター造形やア二メーションをやりながら、東京造形大学の専任教授となって、学生へのアニメーションの教育指導にも励みました。昔のようによく会うことは無くなったんですけど、うちの会社でやるパーティーなどにはよく来てくれて、いろんな話を聞かせてくれました。この人はアニメだけじゃなく、映画とか映像全般にわたって博学でして、会うと私の知らない事を教えてくれました。

コロナなんかもあって、なかなか会えなくなっていて、でも今年も彼の作ったキャラクターの年賀状もいただいていて、そういえば今年はヘビ年で、相変わらずお元気そうだなと思っていた矢先でした。
お別れの会には、そんな事で、あわてて集まって来た仕事仲間たちがたくさんいて、それもみんな懐かしい顔で、いろんなこと思い出しながら、いろんな話をしたんだけど、そこに主役はおらず、彼が作った作品がモニターから次々に流れていました。
なんだか久しぶりに、あの頃に森さんと作ったCMを、ただ眺めておったようなことでした。

だが、上手いんだな、これが。

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