2025年3月17日 (月)

河豚の旅

去年の終わり頃、11月だったか、仲間と4人で飲んでいた時に、私の故郷の広島の話になって、そしたら、その仲間の一人のトシオさんが、広島とか山口とか今まで行ったことがないので、是非一度行きたいと云い始めました。
そしたら一緒にいたフジヤンという人が、それだったら広島でカキ、下関でフグがいいかなと、一番うまいのは真冬だから、2月頃に行ってみようかと言い始めました。
そしたら一緒にいた兄貴分のヤマちゃん先輩が、下関にたしか良い居酒屋があったのを、何かで読んだことがあると言い始めて、いつものことだが、なんだか妙に盛り上がってしまいまして、2月に広島下関に旅することになってしまったんですね。
そこで、山陽路は私の地元だし、なんとなく2泊3日の日程で計画立ててみたんです。
2月には、ちょうど私は広島にいろいろと用事があって、それは義母の17回忌の法要であったり、実家の確定申告の打ち合わせとか、父母の介護のことだったり、さまざまなんですけど、数日広島にいなければならないので、その用事が終わった頃に、友達が3人やってくれば良いかなと思いまして、そのように計画したんですね。
まず、2月の後半に天皇誕生日の3連休があって、その初日にうちの家族4人で早朝に東京を出発して、広島のお寺に向かいました。お昼過ぎに法要があって、そのあと、身内の少人数で義母も義父も馴染みだった近くの料理屋さんで懐石料理をいただきましたが、これが大変に立派なコースで、河豚のお刺身などたくさんに出てきまして、なんだかこの旅は、河豚にご縁がありそうだなと思ったんですね。
ただ、その日の夜に、私、鬼の霍乱というやつで、なんだか8度ほど熱が出まして、それから下痢嘔吐、そういえば広島に来る前の週に、わりと毎日飲み歩いてたこともあってそのせいか、せっかく頂いたご馳走は、みな体外に出てしまいました。
家族は仕事もあるので次の日に東京に戻りましたが、私はホテルでじっとして、きつねうどんだけで大人しく過ごしましたんです。
その次の日は、いろいろやんなきゃいけないことがあったんですけど、根が丈夫なのか、そのあたりで体調も戻り始め平熱になっておりました。
それから、その翌日が最も忙しい日でして、たくさん人にも会い、あちこち走り回りましたが、夕方には、あらかた要件も済み、ひとり生ビールでお疲れさんができておったわけです。
でもって、その次の日、いよいよ東京からの三人衆が広島にやって来ます。この人たちは、このブログにもよく登場するんですが、私のずいぶん若い頃からの、仕事でのお仲間でして、役回りはみな違うんですけど、なんせ長いお付き合いなんですね。そいで、みんなして呑兵衛なわけです。
私が広島に住んでいたのは、中学の途中から高校出るまでだったんですけど、この街の出身者として、ここを訪れた人を必ず案内するのは、広島平和記念公園と資料館、と厳島神社です。そこには訪れる意味があります。
そして食べるべきは、牡蠣、穴子、お好み焼きとなってまして、その夜、三人衆がまず食したのは牡蠣です。お連れしたのは、公園の川面を眺めながらの地元でも有名な専門店で、牡蠣のコースに生牡蠣も好きなだけ食べられます。
ただ、私、先だっての発熱でお腹を壊したので、うちの奥さんから、
「絶対に、カキだけは食べないように!」と、固く云われておりまして、
皆さん大喜びでしたが、私は一人瀬戸内の魚の煮付けなどを食しておりました。
「明日は下関で河豚刺し食うぞお!」などと吠えながらです。

その次の日は、朝から厳島神社参りをいたしまして、ここは朝から名物「あなご丼」ということになります。宮島口という駅でフェリーに乗り換えるのですが、その港の近くに有名なあなご料理屋があることを、うちのカミさんが教えてくれてたので、そこにちょっと並んでから頂いたのですが、いや、絶品でしたね。白焼も追加して朝からぬる燗もいってしまいましたから。
その後、船で島に渡りまして、長い参道を抜け、長い神社の回廊を巡り、その景観に感動し、見物を終え、そしてまた長い参道を戻り、帰りの船に乗る手前で、お好み焼き屋を見つけ、皆で生ビールもいただき、やがて、山陽新幹線「こだま」で広島から山口へと向かいます。さあ、河豚だ。

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下関というところには降り立ったことがなく、なんだかこの辺り来れば、フグなんだよなということだけインプットされていて、いい歳して教養が浅くて恥ずかしい話なんですが、ともかく、さあ河豚だということで、皆で近くの銭湯行ってきれいになって、さあ河豚だあ、と。
東京で暮らしているとですね、フグでも食おうということになると、銀座赤坂あたりの小洒落た専門店で、紅白粉つけたちょいと綺麗な中居さんあたりにお給仕されたりしていただくと、ちょっと目玉が飛び出るようなお値段になるんですね。よく分かってはいないんですが、昔からトラフグと云えば、豊後水道とか下関のイメージありますよね。
そのヤマちゃん先輩が知っていた駅の近くの居酒屋は、なんだか、ただただ下関のうまいもの食わせて飲ませることに特化した、全く気取りのない良い店でして、何食べてもうまくて、そして、その河豚は質も量も絶品なわけでした。シアワセ。
次の朝、フジヤンが提案した過ごし方は、地元の唐戸市場の食堂で朝メシ食おうということで、窓越しに市場の全景とピンピンの魚の泳ぐ水槽の見える席で、またしてもフグ刺・フグ唐揚げ・フグあら炊きのフグ定食。またしても生ビールに地酒。朝からシアワセ。
君たちいい加減にしなさいと云われそうな、なんだか書いていてもちょっと恥ずかしいような旅ではありましたが、河豚に導かれて本州の西端まで行ってしまいました。

2025年2月11日 (火)

今年は 放送100年だそうですが

ここんところ、お台場のテレビ局がたいそうな騒ぎになっており、みなさんよくご存知のお話なんですが、何だか触れてはいけないことが、いろいろあるようで、どうも回りくどいことこの上ないです。
度重なる報道によれば、ある有名なタレントさんが一年半ほど前に、一人の女性と問題を起こしてしまい、その後、示談は成立しているらしいですが、このテレビ局は、そのことを分かっていたのに、このタレントさんと一緒に番組を作り続けて放送し続けたそうです。その一連の出来事を報告する記者会見というのが、テレビカメラも入れないかなりクローズなものだったことが、スポンサーや株主や視聴者の怒りを買ってしまい、先日の10時間に及ぶ取締役5人のドロ沼会見になっちゃったみたいです。つまりは、示談かどうかはともかく、そのタレントさんが芸能界を引退せねばならぬことをしてしまったことは確かなようで、テレビ局は何をボォーとしてたんだかってことのようです。
この先は誰がどうやって責任取るかということなのでしょう。そのための調査が始まるようですが、なるたけ被害者の方のプライバシー 人権に留意して、守秘義務を守ってということなんでしょうか。これから関係各位がケジメをつけて、組織の改革が行われて、あるおさまり方をして、時が経てば、そんなことがあったなというくらいに人々の記憶に残るようなことなのでしょうか。いずれにしても、これらの出来事の背景にあるのは、放送という事業で、舞台はテレビ局なのであります。

Hoso



このところ、いわゆる放送というものが開始されてから今年で100年ということをよく聞きます。大正14年に初のラジオ放送があったそうでちょうど100年、テレビの放送が始まったのが70年前、最初のテレビ受信契約者数は900件足らずだったそうですが、今は誰もが見ています。
今回、社会に対して大きな影響を与える、テレビ放送を司るテレビ局の責任ということが、大きな声で叫ばれ続けています。たしかに、その責任の大きさは今や計り知れません。事業主は不祥事に対してはきちんと向き合い、襟を正してほしいものです。
今、そう云った論調が世の中を支配しておりまして、ついにそのテレビ局の放送からはテレビCMが消えてしまいました。
それと、この騒ぎが大きくなっていく背景にはSNSという通信装置も関わっています。これは、この問題に限らず今の世の中のいろいろな場面で無視できない情報源となっておりますが、こちらの方は、放送とは違って、いつでも誰でも発信できまして、ありとあらゆる情報を自由に上げられるわけです。
そう云った進化で、世の中は便利になる一方ですが、そこから上がってくる情報の裏付けはよくわからないし、その意見に賛同している人の数なども不明ではあります。場合によっては誹謗中傷の火種でもあり、極めて不確かな情報源でもあるんですね。
では、許認可制の放送というものがいつも間違っていないかと云えば、そうとも限りません。先の戦争で国が捏造したニュースを、ずいぶんラジオ放送してしまった過去の過ちがあります。これは、新聞などの活字メディアもそうでしたが。
どうも、放送もSNSも含めた昨今の通信システムの進化で、人々はいろんな恩恵を受けるけれど、使い方によっては余計ないざこざも生んでいる気もします。何事もいつもそういうことになりますけど、結局それを使う人間次第ということですか。なんだか一連の騒ぎを見てると、長年かけて自分たちが作った仕組みや道具に、がんじがらめにされて振り回されているように見えなくもないですね。
10時間の会見で、あれだけ多くの人達が集まって、ああだこうだ言って、ネット上に次々にニュースが流れても、結局物事の本質は見えず、どこに向かってるのかもよくわからない。
100年前の放送開始後、テレビ局もラジオ局もずいぶんたくさん出来て、放送枠、放送時間は増え続け、インターネットの荒野は無限に広がり、受け取るこちら側が触れることのできる情報量は昔の比ではありませんが、それだけに、なんだか全体に中身が薄くなってるように感じるのは気のせいでしょうか。

2025年1月22日 (水)

阿修羅再来

正月休みの終わり頃に、家でゴロゴロしてたんですけど、ほんとに今どきのテレビ番組はつまらなくてですね、ついついNetflixの新作「阿修羅のごとく」を見始めたら、たまたま家でゴロゴロしていた妻と娘も一緒になって、全7話一気に観てしまいまして、これが、実に見応えのある7時間だったんですね。
向田邦子さんの昭和の名作ドラマのリバイバルですが、是枝監督の丁寧な仕事のもと、改めて十分に堪能できる完成度でありました。
この作品は、もちろん向田さんの代表作でもありますが、いつ頃の放送かと云えば、パートⅠの3話が1979年1月、パートⅡの4話が1980年の1月でして、NHKの和田勉さんが見事な演出をしておられました。配役されている俳優陣も素晴らしく、そう云えば音楽も強烈で、当時大変話題になったドラマでした。
その頃、私は働き始めて2〜3年目の頃で、テレビCM制作現場で、1番下っ端でかなり過酷な職場でしたから、普通の時間にテレビドラマを観たりできなかったんですが、その後、わりとすぐにシナリオが出版されて読んだのと、何度か再放送もあって、ずいぶん経ってから、とりあえず全部観たんだと思います。
いずれにしても、いまだに何かといえば、語り継がれているテレビドラマの名作であり、問題作でもありました。1981年の夏、向田さんは台湾旅行中に飛行機が墜落して亡くなってしまわれたので、その印象は尚更のことであります。
この作品の後に、名作「あ・うん」や「幸福」なども書いておられますし、この頃には有名なエッセイや小説も集中して発表されており、1980年上半期の直木賞も受賞されました。まるで追い立てられ、生き急ぐように仕事をされていた感があります。その突然のご逝去は、本当に惜しまれており、個人的にもかなりショックを受けたと記憶しています。
この“阿修羅のごとく”と云うドラマは、昭和54年頃の、60代後半の老夫婦とその4人の娘たち、だいたい40代から20代の設定だけど、その4姉妹の夫や交際相手を含めたそれぞれの家族の、男と女の物語なのですが、いわゆる昭和のその頃のごく普通の家庭の風景の中で起こる、いろんな人間模様が描かれていて、そこが向田さんのドラマのすごいとこで、またたく間の7時間になっております。
まだご覧でない方は、観ていただくしかないのですが、そこには大人の女と男の話、その時代の女の居場所、男の立ち位置、当時のそれぞれの価値観において、生きていく姿などが垣間見えます。そこには、意外性も驚きもスリルもいろいろあって、それは楽しいということとは違い、つきあってると、むしろ気が滅入ることの方が多い話ですね。でもその先が気になって引っ張り込まれる。最近では、こういうドラマにあんまりお目にかかれません。
それぞれみんな、辛かったり悩んだり諦めたりもしながら、誰かをののしったりもして、励ましたり誤魔化したりして、時にお互いを笑い合ったり、たまにホッとしたりして、なんだか人って愚かで切ないもんだけど、ちょっと愛しいとこもあんな、みたいな気持ちになるんですね。
このドラマを観ながら、昔のシナリオを読んでみると、向田さんの脚本はかなり忠実に生かされていて、それは是枝さんの考えと思いますが、そうであれば、この本を令和の現代に持ってくるのはちょっと難しくて、やはり昭和54年の設定で作られたんだと思いました。
やはり、何より40何年も経てば、この社会における女の人の考え方も存在感も、男の人の佇まいも、ずいぶんに変わったんだと感じました。
ただ、パートⅠのラストのシーンでのセリフ
「女は阿修羅だよ」
「勝目はないよ。男は」
この科白に、この長いドラマのテーマは集約されていまして、普遍的なテーマではあります。

長くなって恐縮ですが、もうちょっと書きます。
このドラマのシナリオを探したら、1985年に発行された文庫版しか出てこなかったんですが、それのあとがきに、演出の和田勉さんの文章があって、それが面白かったんです。
向田さんと和田さんがこの仕事を始めた時、向田さんがテレビのホームドラマから、いまぬけおちているのは何だろうと言い、ホームドラマも小津さんのところまでいきたいと言ったら、小津さんは冠婚葬祭ね、それはセックスねという話になったそうです。冠婚葬祭のようにとりつくろいつつも心の中身は、それにまつわるセックスは、荒れ狂う人間喜劇、、、シュラバ
向田さんは白紙の原稿用紙に、この文字を書いてみてくれと言いました。
阿修羅のごとく。と
もうひとつ興味深い話があって、このドラマのパートⅠと1年後のパートⅡは、家族の顔ぶれは誰ひとり変わってないのに、次女の夫役の緒形拳さんだけキャスティングが変わっています。
スケジュールのこともあったようですが、和田さん云く、向田さんの脚本というのは、男が「男として」在るためには、ちょっと耐えがたいホンであるのだ、ということで、父親役の硬骨の役者・佐分利信が、その役のあまりの「硬骨からのはずれっぷり」に立腹して、リハーサル中に台本を捨てて帰ろうとした話もあります。
男は、みなだらしなく、女たちの前でこそこそと生きているようにしか、書かれていない。その分、女たちの側に扮した役者は、阿修羅のごとく男を血祭りにあげて、快哉を叫ぶことができる。視聴者も、男は見るのがたまらなくて、女は「わが身のように」見てしまう。
ドラマの中で、「女から見た男」というのはあっても、「男から見た女」というのは、本当の意味では、向田ドラマには皆無なのだ。と。

にしても、
この果てしなく深いドラマを支え、そして向田さんに踊らされる、俳優陣のキャスティングは見事と云えます。
それは、1979・1980年版も2025年版もしかりで、
主なキャスト

Ashura



竹沢恒太郎(68)佐分利信   國村隼
竹沢ふじ(65)大路三千緒   松坂慶子
三田村綱子(45)加藤治子   宮沢りえ
里見巻子(41)八千草薫    尾野真千子
里見鷹男(43)緒方健・露口茂 本木雅弘
竹沢滝子(30)いしだあゆみ  蒼井優
勝又静雄(32)宇崎竜童    松田龍平
竹沢咲子(25)風吹ジュン   広瀬ずず
陣内英光(26)深水三章    藤原季節
枡川貞治(55)菅原謙次    内野聖陽
枡川豊子(53)三條美紀    夏川結衣
土屋友子(40)八木昌子    戸田菜穂

2025年1月10日 (金)

ある日の映画館で沁みた荒木一郎

昨年の12月に、映画を一本観に行ったんですね。それは、うちの会社で制作しているTVCMに出てくださり、お世話になっている女優さんが出演されてる作品だったからでして、何となく渋谷に出かけて、なんの予備知識も無く観たんですが、これがすごくいい映画で、気が付けば、終盤のあたりで泣けたりしたんです。
どんな風によかったのかと云えば、説明するのがむつかしいのですけれど、普通の日本の現代劇でして、その女優さんのまわりにいろんな人が出てきて、ひとつの悲しい事故が起きるところから、いくつもいろんなエピソードがあるんですが、ここに出てくる人たちが、どの人もほんとにいい人ばっかりなんですね。
そういうような設定って、最近の映画とかドラマとかにあんまり無くて、普段あんまり見かけないタイプの映画なんですが、なんだか終わりが近づくほどにハラハラと涙が出てきたのですよ。
それで、エンドロールの時に流れてる歌を、この女優さんが唄ってらっしゃるんですが、これが実にじんわりと胸に沁みたんですね。この方は、普段あんまり歌とかを唄われている印象がなかったのですが、この歌は詞がこの映画の文脈にも沿っており、彼女の歌声もこの曲にすごくマッチしていてとても素敵な歌でした。
そしてクレジットタイトル読みながらその歌を聴いていたら、ふと
「この歌、知ってるな、オレ」と思ったんですね。
そしたら、エンドロールに曲名と作詞作曲が誰かが、記されていました。

「夜明けのマイウェイ」作詞作曲・荒木一郎

まったく個人的な話ですが、この人が作って唄う曲が昔から好きだったんですね。たぶん私が中学生くらいの頃にけっこう売れた人で、その頃、自分で作った歌を自分で唄う、いわゆるシンガーソングライターという人はまだあまりいなくて、今はそういうのが当たり前ですが、当時は、他には、加山雄三さんがそうだったくらいだったと思います。
加山さんは荒木さんより少し年上でしたが、歌手デビューは同じ頃だったと思います。もともとは映画俳優で、作曲も演奏もできてスポーツ万能で絵も上手で、慶應ボーイで、すごく人気者でした。たくさん名曲があります。同じ茅ヶ崎出身の桑田佳祐さんは、加山さんのことを、ほんとにリスペクトして育ったそうです。世代としては私も桑田さんと同じあたりです。
荒木さんも音楽活動のかたわら、俳優として映画やテレビに出演なさったり、小説を書かれたり、多岐にわたって活躍します。
同時期に音楽活動をして、たくさんのヒット曲を作った二人ですが、加山さんが太陽なら、荒木さんは夜空に浮かぶ儚い月のような印象がありますね。どうも荒木さんは基本的に不良っぽくて、そこが魅力でもありました。
何と云っても、荒木さんのデビュー曲の「空に星があるように」は、詩もメロディも声も忘れられぬ名曲です。この歌に代表されるような、この人の繊細でナイーブなトーンは、そのあと、数々の荒木一郎節を生んで行きます。私は多感な時期に、折に触れてそれらを聴いてたように思います。
ともかくその女優さんのおかげで、年末の渋谷で、ちょっといい映画に出会えて、そして沁みて、奇しくも久しぶりの荒木一郎さんにも会えて、なんだか懐かしい心持ちになったのでした。

Arakiichiro1_2


(歌詞)
悲しみをいくつかのりこえてみました
ふり返るわたしの背中に
まだ雨が光ってます
走っている途中でときおりつらくなって
ふりかえりあなたの姿を
追いかけてみもしました
でも夜はもうじき明けてゆきます
今迄と違う朝が ガラスのような
まぶしい朝が 芽生え始めています

悲しみをいくつかのりこえてきました
ふり返るわたしの後ろに
ほら虹がゆれてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

もう昨日は昨日 明日は明日
今迄のことは忘れ
花びら色のさわやかな日を
迎え始めています

悲しみをいくつかのりこえて来ました
ふり返る 私の向こうに
青空が見えてるでしょう

だからもうわたしは大丈夫です
今までと違う夢が 次第次第に
心の中にあふれ始めています

2024年12月18日 (水)

年末に、祈るということ

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月に一度くらいのペースで、広島を往復するようになって、もう何年も経ちます。
昭和3年生まれの父と、昭和4年生まれの母に会いに行くためでして、そして95才と96才と云えば、二人とも身体の方が、かなり機能不全を起こしております。治療と介助なくしては生活できず、その方面の専門の方々には、大変お世話になっておりまして、ご挨拶を兼ね、目下の状況の聞き取りもして、今後の介護に関して、家族として出来ることをその都度考えねばなりません。そのようなことで、このところ故郷との行ったり来たりも、頻度を増しているようなことです。
先日、12月に入って帰郷しました時に、午前中が半日空いた日があったので、本当に久しぶりに広島平和公園に行ってみたんですね。ここはご存知の通り有名な公園ですが、私は中学高校時代の5年間、学校も近かったので、何かとよく行く場所でした。でも、今回この場所で手を合わせたのは、何十年ぶりのことです。
ここは本当に街の中心地でして、まさにこの街のど真ん中に、爆弾が投下されたことがよくわかります。父は17才、母は16才の時に被爆しました。昭和20年の8月6日午前8時15分、その時どこでどうしていたのかは何度か聞きましたが、二人はそれぞれに生と死の紙一重にいたわけで、今も生きていられることは、ある驚きでもあります。というか、自分もここに立って手を合わせていることに、不思議を感じるのですね。
“安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから“ という文字の書かれた、
原爆死没者慰霊碑の前に立つと、その先に平和の灯の炎が見え、その先の奥に原爆ドームが見えます。この公園を一巡りすると、本当に丁寧に設計されており、いつもきちんと手入れされていることが、よくわかります。この公園を造った、この街の人たちの祈りのようなものが強く感じられるんですね。
時間的にそれほど混み合ってはおりませんでしたが、結構外国の方たちがたくさんいて、ボランティアの方が一生懸命に英語で解説をしておられました。頭が下がります。
毎年8月6日にここには来れませんが、テレビの中継で8時15分に合図の鐘が鳴ると、必ず黙祷をします。そして私も、初めて広島を訪れる人を同行する時には、必ず出来るだけこの公園と資料館を案内することにしています。
ちょうど先日、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞しました。日本人である我々が被曝の体験をどう残し伝えるか、その意味を考えさせられます。
その場所に立つと、そのことを考えざるを得ない場所というのは必要なのだと思うわけです。出来るだけ多くの人がここを訪れてほしいです。

多くの犠牲ののちに、人の営みは続いて、ここに至っていると思えば、今年もどうにか無事におれたことを、ありがたく感じたようなことです。
柄にもなく、神妙ですが、、、

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2024年11月17日 (日)

1958 長編アニメ映画「白蛇伝」

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今年も、そろそろ来年の干支はなんだっけと思う時分になりまして、で、来年は巳年(へびどし)なのですね。
そんなことを考えてるうちに、「白蛇伝」というアニメ映画を思い出しました。
昭和33年の秋に公開されたようで、その時に観たことはよく覚えてるんですけど、どんな映画だったかは上手く説明できなくてですね、ところどころ印象には残ってるんですけど、私4歳児でしたもんで。
そこで、調べてみたんですが、1958年10月の公開、オールカラーの79分で、中国の民話の「白蛇伝」が題材になっています。
日本初の長編カラーアニメ映画、当然ながら、長編アニメ制作のシステムは確立されておらず、他国のアニメの研究から始まり、アニメーターの養成や撮影機材の開発にも着手し、2年がかりの仕事であったとあります。
ありがたいことに、今はこういう作品をネットとかで観ることができるので、あらためて鑑賞いたしましたが、なかなかによく出来ておりまして、この年、芸術祭参加作品で、海外で賞を獲ったりもしています。何より、今までに観たこともなかったアニメーションの魅力が満載で、その完成度も高くて、とても大きな反響があったんだろうなと思います。

そして、この作品の制作に携わったスタッフは、その後のアニメ界を牽引する役割を担っていったといわれています。公開時、高校3年生で受験生だった宮崎駿氏は、この映画に感動してアニメーションに関心を持つ大きなきっかけになったそうです。
そして、そこから長編のアニメ映画は定期的に制作されるようになりました。その映画が公開される度に映画館に駆けつける子供時代だったんですね、ぼくらは。
「白蛇伝」1958年に始まり、「少年猿飛佐助」1959年、「西遊記」1960年、「安寿と逗子王丸」1961年、「シンドバッドの冒険」1962年、「わんわん忠臣蔵」1963年、などなど、でも、どれも名作でした、よく覚えております。

我々の世代は、子供時代に漫画という文化が、勢いを持って広がり続けておりまして、その大きな流れを作ることになる、週刊少年漫画雑誌の「少年マガジン」「少年サンデー」は、1959年に創刊されて、子どもたちをすでに魅了しており、当時あまりに子供たちが漫画に夢中になるので、勉強もしないし本も読まないし、このままではろくな大人にならないと思われていたようで、大人たちはそれを禁止したりもしましたが、その流れはなかなか止まりませんでした。
やがて人気連載漫画は、テレビでアニメ化されるようになり、1963年、最初は「鉄腕アトム」でしたが、「鉄人28号」「エイトマン」「狼少年ケン」なども続きます。
考えてみれば、物心ついた時には、漫画雑誌とアニメ映画とテレビアニメは普通のことだったわけで、それ以外にも、王道としてのディズニーアニメもあったわけです。

個人的には、大人になって広告の映像を作る仕事をするようになってから、アニメーションという手法はずいぶんと使わせていただいているんですけど、今の最先端の技術は、コンピュータを含めてものすごいところまで進化しておりまして、これは本当に長い時間をかけて試行錯誤を重ねてたどり着いている技術ですけど、常に変化している領域でもあります。
そんなことで、アニメーションの世界は長く見てきたつもりですけど、1958年に初めてトライされた「白蛇伝」というアニメ映画は、たしかに昔の技術ではあるけれど、なんとも言えぬこの時にしか出せなかった手触りのようなものが感じられます。4才の時の記憶が妙に鮮明だったのはそのようなことがあったんでしょうか。
昔の映画や小説が今も色褪せない魅力があるのと同じことなんでしょうかね。
現代の子どもたちが、やはりアニメに夢中になっている風景を見るに付け、これはすでに我々の民族性と呼べるものなのかもしれんですな。

2024年10月28日 (月)

アベさんへ、かつてお世話になった若造より

私が22歳の時に初めて勤めた会社の上司で、その会社の創業者でもあり、TVCMプロデューサーとしての大先輩でもあった、アベさんが、この夏に亡くなっておられたということを、このまえ、知りました。
アベさんは昭和8年の生まれで高齢で、どこかの施設に入っておられるようだという噂は聞いていたのですが、詳しく知っている人がおらず、この数年は連絡もつかず、ご無沙汰しておったようなことです。
その会社は、CMなどの広告映像を制作するプロダクションで、私が入った頃はできて10年目くらいで、社員が30人ちょっとだったと思いますが、アベさんはその中で最年長で、専務取締役で43歳で、少し年下の井堀社長と並んで、ここの親分的な存在でした。
当然ながら私は一番下っ端で、見習いのADみたいな仕事をしていて、21才年上のアベさんとはあんまり接点もなかったのですが、それから一年くらいして、アベさんが始めた「小学一年生」という雑誌のTV-CMで、“ピッカピカの一年生”という仕事に制作部としてつくことになりまして、ロケハンとかロケとかご一緒することもあるようになります。
この仕事は日本全国の小学一年生を紹介する企画なので、スタッフは全国津々浦々を訪ねて歩くわけで、地方の旅館や民宿によく泊まるのですが、そういう時にアベさんは夜になると、いつも座敷の真ん中であぐらかいて一升瓶抱えて飲んどられて、お相手するようにもなり、モノづくりとはみたいな話で、お説教くらったり、そのうちこっちも言いたいこと言ったりして、だんだんに距離も縮まっていきました。
その後、このキャンペーンはずいぶん長く続きまして、私もディレクターやプロデューサーをやるようにもなり、それこそ日本中いろいろなところへ行ったもんです。アベさんの出身地である福島の猪苗代にも一緒に行きましたが、その時は毎晩どこかで同窓会やっておられました。
とってもこの猪苗代に対する郷土愛の強い人でして、方言も抜けないで、いつも会津弁でしたから、みんながアベさんのモノマネする時は、おかしな東北弁になっていました。
毎年、今年はどこにロケにいくか、場所を決めるための会議があったんですけど、アベさんは絶対に山口県は選ばないと言い張っていて、よく聞いたら、会津人は幕末の長州をまだ許していないということだったようでした。明治はそんなに遠くないわけです。こういう話をしていると、さすがに20年の差があると、ジェネレーションギャップというのはあるんだなと思うんですね。
この人は、昭和の1桁に雪深い福島猪苗代に生まれ、阿部正吉(マサキチ)と名付けられました。それからのことは、一升瓶抱えながらいろいろうかがったんですけど、飲みながらだったもので記憶は曖昧なんですが、小中学校の頃は秀才と言われてたそうで、役場にはいるんですけど、その後、地元にやってきた映画のロケ隊の手伝いをしたのがきっかけで、上京して、その後、映画やテレビの脚本を書いたり、いろいろあってテレビコマーシャルの演出やプロデュースをやるようになって会社作ったみたいなことで、戦後復興期の 映像産業界を駆け抜けたような話でした。
いつだったか、尊敬してた映画監督の鈴木清順さんと仕事をした時に、アベさんとはお友達ですと言われて、すごいなあと思ったりしたんですね。
そんなふうないろんな経験から、この人がよく言ってたのが、
「オレたちの仕事は、映像をつくる最先端の技術も、古典的な表現の技術も、両方のことをきちんと勉強しとかないといけない」という話で、これは今も肝に銘じております。

そんなことで個人的には、22才から34才までその会社にお世話になり、その間ほんとによく働いたし、いい仕事もさせていただいたとも思います。だんだん生意気なことを言うようにもなりましたが、アベさんには、長い時間の中でいろいろに気にかけていただきました。
そして、それから同じ会社にいた先輩や仲間たちと自分たちの会社を作って独立をして、アベさんとは、袂を分つことになります。

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その時、私が34才でアベさんは55才でしたが、それからも、また、ものすごい時間が流れてしまいました。でも、その間、アベさんとはわりとよくお会いしてたと思います。そんなに広くない業界だし、アベさんはその中で有名な人だったし、いろんな集まりでよく会いました。それと、私や私の会社の活動を、わりと遠くからよく見てくださって、褒めていただいたりもしました。電話もメールもよくもらって、相談したいことも気兼ねなく話しましたし、その度にまた飲みました。一升瓶抱えてじゃないですけど。
なんてことない用事で、またどっかで気軽にお会いして、昔話でもして一杯やりたかったです。
でも、元の会社も、新たに作った会社も、後輩たちが活躍していて、元気に存在していることは嬉しいことですよね、アベさん。

お墓の場所が分かりましたので、アベさんの会社での後輩のみなさん、コバちゃん、クマちゃん、シナちゃん、ホシヤン、ソガちゃん、スギヤン、ヤマちゃん、ナベちゃん、カミちゃんたちと来月お参りさせて頂きますね。全員、結構いい歳ですが。

2024年10月18日 (金)

大谷という奇跡

Otani
この前、散髪に行った時に雑談していて思ったんですけど、このところ誰かと話していると必ず出る話は、この夏がいかに暑かったかと、大谷がいかにすごいかという話です。
大谷翔平選手のことは、彼が高校生の頃から日本中が知ってたわけで、常に話題になる人でしたし、その都度、こちらの期待を遥かに超えてくれる人ですから、そのことには変な意味で我々も慣れてしまってるんですけど、ちょっと冷静に考えてみると、この人、えらいところまで行ってしまってるわけですよ。
はじめ、岩手のほうの高校野球の投手で150km/h 投げる選手がいて、「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれているらしいということで、甲子園にも行ってちょっと注目されるんです。高3の時には甲子園には出れなかったけど、160km/hを出して騒ぎになりまして、この選手は投げるのもすごいけど打つのもすごいという話で、ドラフトではプロ球団から指名されそうだということになりました。そしたら本人は、高校出たらメジャーリーグでプレーがしたいという希望で、
「日本のプロよりもメジャーリーグへの憧れが強く、マイナーからのスタートを覚悟の上でメジャーリーグに挑戦したい」と語りました。
多くの球団が彼の周辺と接触を図り、ほとんどの球団がドラフトでの指名を回避しますが、北海道日本ハムファイターズは、大谷を一巡目で単独指名し、交渉権を獲得します。ただ、大谷は
「アメリカでやりたいという気持ちは変わらない」と語り、
日本ハムから訪問を受けた際にも面会しませんでした。そこから、栗山監督はじめ日本ハム球団は、粘り強く交渉と説得を続け、投手と打者の「二刀流」育成プランなども提示され、この年の年末に仮契約が結ばれ、入団会見をします。
と、これが2012年、ここからの活躍はご存じのとおりですが、
2013年の入団以降「二刀流」で、試合に出場、
2014年、11勝10本塁打で、日本プロ野球史上初となる「2桁勝利、2桁本塁打」達成
2016年、投手と指名打者の両部門でベストナインのダブル受賞に加え、リーグMVP
この年、日本ハムファイターズは日本一達成
2017年オフ、メジャーリーグ ロサンゼルス・エンゼルスに移籍
2018年、投打にわたり活躍し、新人王受賞
2021年、2001年のイチロー以来、アジア人史上二人目のシーズンMVP受賞
2022年、MLBでベーブ・ルース以来104年ぶりとなる「2桁勝利、2桁本塁打」達成
そして、近代MLBで投手打者の両方で規定回に達した初めての選手となる。
2023年のWBCでは、エース兼打者として日本代表に貢献、MVP受賞。これは泣いた。
このシーズン、アジア人初の最多本塁打と2回目のMVP受賞、アジア人史上初のハンク・アーロン賞受賞
それから、ロサンゼルス・ドジャースに移籍した今年、故障もありピッチャーとしてのパフォーマンスは諦めて打者に専念するのですが、専念したらしたでホームランも安打も量産し、出塁したらしたで、盗塁もすごい数になり、シーズン後半には、40盗塁40本塁打達成かという騒ぎになりまして、そしたら、そんなものはとっとと通過してしまいまして、シーズン終盤には、50盗塁50本塁打を成し遂げます、50本決めた日には一気に3本も打ちましたよ、まったく。
結果、59盗塁54本塁打ですから、ともかく破格のスケールなんですね。

メジャーリーグというところは、それこそ世界中の野球的身体能力の突出した人たちが、その技と力を競っているところでして、その中で次から次へとそのハードルを超えてゆく彼の姿は、今や大リーグでプレーする一流の選手たちからも、憧れをもってリスペクトされており、オールスター戦のベンチでは、大谷選手のサインを求めて一流プレーヤーたちが列を作り、ニコニコ記念写真を撮っておりました。
この人が積み重ねた成果や到達した場所とかは、とんでもないことなんだけど、彼自身は自分が決めた目標に向かって、ただ淡々と鍛錬を重ねて何気に結果を出しているだけのように見えるところがすごいんですね。
そこには何かを手に入れるための悲壮感とか、煩悩と闘う修行僧みたいなところがなくてですね、やってることはすごいんだけど、そんなこともないんだろうけど、なんだか普通の人に見えるところは、今どきなんでしょうか。
特別なスペシャルな生き方をしているような印象も与えず、タイプの女の子を見つけたらアプローチして普通に結婚もしてるし、まあ、すごいことお金もあるんだろうけど、そういうこともあんまり感じさせずに、インタビューされてる時も、その辺りの30歳の青年で、ただ奥さんと犬と幸せに暮らしていて、でも、ベースボールプレーのものすごいハイレベルの領域にいて、世界中を魅了してるわけです。
大谷くんは、生まれついてのベースボールの天才なのだろうし、その才能を惜しみない努力で磨き続けていることもよくわかるのですが、この人は少年の頃から自分の行先やなるべき姿を、かなりはっきりイメージできていて、それを自ら信じる能力も並外れて高いんだと思うんですね。彼がプロの世界に入った時に、栗山さんはそのことを誰より強く感じたんじゃないでしょうか。
ともかく、僕らと同じ国から現れた、この奇跡のような人の、ワールドシリーズも含めた今後を、楽しみに見守ってまいりましょう。

2024年8月28日 (水)

炎熱・甲子園

言わずと知れたこの夏は、例年にもまして凄まじい酷暑なんですが、そんな7月の30日に、甲子園の阪神✖️巨人戦をアルプススタンドのほぼ最上段の59段から見物してきたんです。

阪神は去年珍しく優勝したし、この夏には是非、甲子園で阪神戦を観戦しましょうという事で、今回一緒に行ったオジサンたち4人で、早くから決めて計画し、シーズンが始まる前から楽しみにしておったようなことです。
今回、引率してくれたのは、長い友人で大阪で生まれたフジヤンという人で、物書きの仕事をしていて関西文化には造詣の深い人なんですね。もちろん阪神タイガースファンという事でも筋金入りでして、そこんところは痛く気が合っております。
この日は、甲子園ができてちょうど100年というスペシャルな記念日のカードで、一番人気の巨人3連戦でもあり、スタジアムはとっくに完売の超満員、ただでさえ暑いところに大熱戦で、球場はヒートアップ、汗は吹き出し、ビールは売れます。
あの地鳴りのような大歓声も味わいながら、ゲームも5−1で快勝、エース才木の9勝に、大山と森下のホームランも出て、この夏1番のナイター見物になったわけです。まあ、その日は半日、甲子園の異様な熱気に包まれた疲れで、ホテルの近くのバーで一杯ひっかけたら、即バタンキューでしたが。
せっかくの関西旅行でもあるし、次の日は有馬温泉でも行こうかということになっていて、フジヤンお薦めの老舗旅館に投宿しました。かつて谷崎潤一郎さんが執筆もされたという宿の湯につかりますと、なんだかこちらまで文学的な人になったかのような気になりましたが、それはそれとして、夜は夜で、甲子園の阪神・巨人戦をテレビ観戦しまして、またしても盛り上がってしまったというわけです。
次の日は、昼前まで旅館でゴロゴロして、バスで神戸の街に出て、これもフジヤンお薦めの元町駅近くの美味しい老舗中華屋さんで、紹興酒で乾杯でもして解散しようかという事でした。
ただ、昼食前に小一時間程、時間が余ることもあり、私が子供の頃住んでいた神戸の街へ4人で行ってみようかということになりまして、暑いし、駅でタクシーに乗り込んで行ってみたんですね。
これは他の3人にとっては単なる神戸の坂道なんだけど、私にとっては小学校から中学にかけての、生活路、通学路でして、そこに立ってみると、ブワーっといろんなことが蘇るんです。周りの風景は全く私の知らないことになっているんですけど、ただ目の前のその道だけは、自分が立ったことのある実感がしっかりあるんですね。
なにせ1960年代の大昔に住んでいた街で、それから1995年の阪神大震災で、一度、街ごと壊れてしまいましたから、景色が変わっているのは当たり前ではあるんですけども、ただ、歩いてると、ここには何があったかとか、ここはこんなだったなとか、ぶつぶつと記憶が蘇ってきたりします。
通ってた小学校にも行ってみて、もう学校名も変わって、校舎も建て替わってるんですけど、昔、玄関横の池に立っていた二宮金次郎の像が、校門脇に移設されていたりして。ちょうど夏休み中に登校してきた先生が、学校の中に入れてくれて、いろいろ最近の学校の様子などを教えてくださったりしました、一応卒業生だし。この先生、どう考えても私の息子の年齢くらいでしたけど。
ちょっと急にあまりにも多くのことを思い出して、混乱もしたので、皆んなと昼食を食べた後も、暑い中一人で少し歩いてみたんですね。姿は変わってしまったけど、この街に暮らしていたことは、はっきりと思い出せました。なつかしいこの地に、ずいぶん長い間訪ねてこなかったのは、この地を思い出すときに、どうしても避けられないつらい記憶があるからだったと思います。
私が中学生になった年に、私たちの家族は8才になった弟を病気で亡くしたのですね。今思い出しても、そのことはあまりにも大きなダメージで、深い傷を残しました。その時の記憶は今でも空洞のままになっています。
結局、彼を失ったその夏、4人から3人になったうちの家族は、この街を離れました。
子供から少年期にさしかかる頃に過ごしたこの街のことは大好きだったんだけど、なつかしさと背中合わせに、その記憶に向き合うことがちょっとしんどくて、あまりここに来なかったかもしれません、古い話なんですけど。
さて、夏の盛りに巨人に3連勝した絶好調の我がタイガースは、その後、好調を維持しているとは云い難いのですが、今も優勝連覇を目指して戦い続けております。
そして一夏、高校球児たちに明け渡した甲子園にいよいよ帰ってくるのです。
佳境を迎えるプロ野球ペナントレースに、どんなドラマを観せてくれるのでしょうか。
悲喜交交(ひきこもごも)の夏の仕上げであります。

Koushien_2

2024年7月19日 (金)

古希の夏

そろそろ梅雨も明けまして、今年も半端ない暑さとのことですが、一年中で最も暑いこの時期になりますと、決まって私の誕生日が来ます。毎年のことだし、取り立てて何をするということでもないのですが、よりによってずいぶん暑い時に生まれたもんだなと思います。
それに、今回は、70回目ということで、どうも自身のこととも思えない年齢になってまいりました。
若い頃には、自分がその歳まで存在しているのかもわからないわけでして、ともかくこうして、どうにか元気でおることには、感謝するしかありません。
昔、70才という歳を見上げていた時のイメージは、いろいろなことをやり終えた人生の達人という風情で、モノの道理を知り、何に対してもジタバタしないで、常に頼りになるような、なんとなくリスペクトされるような存在になればよいのだろうか、などとと思っておりました。
が、今、自分の中にそういう自覚は生まれてきません。なんだかずっと、あるところからの延長線上におるようでして、成長もせず煩悩も消えず、いまだに意味もなくジタバタしているようなことです。
ただ、体力というのは確実に落ちてまいりますので、気持ちはあっても電池切れみたいなことで、行動力というのは衰退してまいります。
この歳になったら、多少なりとも、人に安心感を与えるような、かっこいい大人の人格になれるとよいのにとは思うのですが、相変わらず、落ち着きより面白味を求めてしまうもので、これは、ずっとそうなんだから仕様がないんですが。
ということなので、70にはなりますが、あまり変わり映えのしないいつもの夏です。

そういえば70歳のお祝いは、古希の祝いと云われておりまして、調べてみると、お祝いは数えの70歳、満69歳の時にするのが正式らしいです。ということは私の場合は去年だったようですが、まあどちらでもよいようなことが書いてあります。
それと、70歳は厄年なので、周囲からお祝いをされても厄払いにならないため、古希祝いはしないほうがいいとも言われているそうです。むしろ厄年には厄払いとして本人が周囲にご馳走を振る舞う習慣があるので、これまでよくしていただいたお礼に、今年は私の方から、お世話になった皆さんにご馳走しようかとも思います。

だいぶ前になりますが、昔私が所属しておった会社でえらく世話になった先輩から、年賀状をいただきまして、
「私、今年、古希になってしまいます。もうすっかり身体が硬くなって、コキッ!」
と書いておられて、爆笑したんですけど、上手いこと言うなと思ったんですね。
確かに、最近、身体がめちゃ硬いのは、実感しておりまして、コキッ!

Koki

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