2020年3月10日 (火)

ヤスヒコさんへ

たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。

私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。

なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。

その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。

いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。

それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。

この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。

私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。

それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。

その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。

その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。

そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。

その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、

「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、

「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。

企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。

山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。

なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。

監督という仕事に向いている人だった。

告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。

ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、

「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。

夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。

Yasuhikosan_2


 

2020年1月28日 (火)

ただならぬ韓国映画

スターウォーズも完結するし、寅さんも帰って来るし、年末年始の映画街もいろいろとにぎやかですが、

韓国映画界の鬼才、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が、カンヌでパルム・ドールを獲り、アカデミー賞の呼び声も高く、もしアカデミー賞獲ったらアジア初だそうで、ともかく大評判です。

いや、よくできてました。たしかに唸ってしまう完成度の映画であり、連日映画館は満員だし、その勢いはしばらくおさまりそうもなく、間違いなく大ヒットになりそうです。

社会の底辺からどうやっても這い上がることのできない家族と、かたや成功者を絵に描いたようなIT会社の社長の一家という対比があり、その両者が接点を持つところからお話は始まるんですが、そもそも脚本としてこの状況を思いついたことは勝利なんでしょうが、物語の設定は、実に厳密に仕組まれており、それに加えて、登場してくるこの二家族の人物像は、かなりこと細かく造形してあって、その辺りはちょっとため息が出るくらいうまいわけです。

Parasite

この出演者たちが、監督が仕組んだ動線に沿って動き始め、徐徐に物語は進行します。もう観ている方としては、ただただ映画の中に引っ張り込まれてしまうわけですが、これはよくできた映画が必ず持っている観客を巻き込んでゆく力なんですね。

ストーリーはあるテンポで、たんたんと進んで行きますが、そこには絶妙の緩急のリズムがあって、それは心地よくさえあり目が離せません。

映画が始まってしばらくすると、この映画が持っている、ただならぬ顔つきに気付かされ、間違いなく掘り出し物に当たった確信が生まれます。それは、次々と現れる人物の登場の仕方だったり、その場に流れている空気感であったりするんですが、それを支えているのは、撮影という手続きにおけるすべての技術です。

そんなにたくさんの韓国映画や、韓国ドラマを観ているわけではなく、あんまり詳しくもないんですが、韓国には本当に良い俳優が多い気がします。もちろんうまいということなんですが、それだけじゃなく、その映画を作品として観客に届けるために、その役の人物になりきる力というか、出演者としてその映画をより深いモノにするための力量とでもいうのでしょうか。

そして、そういった人材というのは、当然、映画を作る現場のレベルが高くないと育たないわけです。脚本や監督であったり、撮影であったり、照明であったり、美術も録音もそうです、ちょっとそういうバックグラウンドを強く感じるんですね。

前にどなたかから聞いた話ですが、かつて日韓共同FIFAワールドカップを成功させた時に、かの国は、その時出た利益をすべてエンターテインメント産業に投資したんだといううんですね。その中には当然映画産業も入っているわけです。それだけのことが理由じゃないだろうけど、韓国という国の映画に対する情熱のようなものは、いつも感じているわけなんです。

アジアの一角の、映画が大好きなこの国から、まさに世に問う問題作が、世界に向けて発信されたということでしょうか。

 

そして、映画の後半は、ジェットコースターに乗せられたような激しさでラストに向かって行きます。

個人的には、終盤、ちょっと惜しいなと感じることがないではないんですけど、

映画の終息のさせ方というのは、ある意味、監督からのメッセージなので、観客の一人一人が受け取って感じるべきことですし、ネタばれにもなるので触れられないですが、

なんせ一見の価値のある、まだ観てない方には是非観てほしい、映画というものの面白さを満載した映画ではあります。

観た人と話をしたくなる映画というのは、まあ名作なんでしょうね。

2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

Kanjincho


今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年10月18日 (金)

「JOKER」は満席なわけで

前回に続いて、また映画の話になるのですが、「JOKER」が封切られて、ずいぶん世の中を騒がせているようです。私も観に行こうとは思ってたんですが、すでに大ヒットの呼び声も高く、SNSもリアクションが大きくて、すごく話題になっています。

そんならともかく行ってみようかと、先日劇場に足を運んだんですが、けっこう大きなスクリーンが、いやはや満席状態なんですね。客層はわりと若い人が多かったかなあ。

で、どうだったかと云うと、これはものすごい精度の、非常によくできた映画で、すばらしかったんですけど、話はとっても暗いんです。有名なアメコミの悪役が生まれるまでのストーリーを追ったピカレスクロマンなどというものではとてもなくて、社会の底辺の恵まれない孤独な青年が、救われることもなく、次々に周りから人格を壊される不幸に見舞われ、その結果、悪の権化と化して行くお話でして、いやその辺りが、すごくよくできている分、とても重たくて、気は滅入ります。

正直、観た後でこんなに落ち込む映画が、本当に大ヒットするんだろうか。しかし、すでに劇場は満員です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリという情報が後押ししていることもありますが、かつてそれだけではヒットしなかった映画もたくさんありましたし、だいたい暗い話には、客足が鈍るんですけどね。

もともとアメコミのキャラクターの話なのに、こんなにもリアルに身につまされるのも不思議と云えば不思議です。

いままでにも、ジョーカーはスクリーンに何度も登場しているし、かつていろんな名作があるし、今回も映画館に来てみたけど、なんだかこんなにつらい映画だったのかと思う人もいるかもしれないけど、この映画は、口コミで観客数は伸びる気がするんですね。

それは、この映画が持っている表現そのものの力とでもいうんでしょうか。

脚本の深さもそうですし、演出の斬新さだったり、音の使い方も素晴らしいし、ロケーションもカメラも、いろいろあるのですが。

Joker3_2

なんと云っても、主役を演じる ホアキン・フェニックスという役者がすごいんですね。

彼が造形するアーサー・フレックからジョーカーへと変貌していく主人公には、計り知れない奥行きがあり、この映画をただならぬものにしています。映画が始まってから終わるまで、観客は常にこの役者から漂う、弱者に無関心な社会に見捨てられた男の内面を見つめ続けることになります。

初めて語られることになったジョーカーというキャラクターの成り立ちを、この役者と監督はどうやって作っていったのか。ちょっと想像を超えるエネルギーが使われたと思われます。

この映画のベースに、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」を感じることも確かですが、そこで主役を演じたロバート・デ・ニーロが、ここで重要な役柄を演じていることも大きな意味を持っておりますね。

とりあえずこの作品、いろんな意味で救われない話ではあるし、キャラクターに共感のしようもないと云えばないし、ただアメコミの有名な悪漢をネタにした映画ではあるんですが、そういうことを超越した、何かを、観た者に残す気がします。

多分、のちのち名作と呼ばれるのは間違いなさそうではあります。

 

2019年9月12日 (木)

「存在のない子供たち」という映画の力

映像の監督で、脚本家でもある友人がおりまして、その人からこのレバノン映画を薦められたので、すぐに観てきました。私にしては珍しいことなんですが、いま周りの人に、この映画をぜひ観るように薦めております。

「存在のない子供たち」というこの映画には、それこそ子供たちがたくさん出てきますが、ちょっと何とも言えないリアリティがありまして、これはドキュメント映画じゃないかと錯覚させるような世界観があります。

ベイルートの貧民街で暮らす人々、学校に行けず路上で日銭を稼ぐ子供、移民難民の不法労働者、児童婚、人身売買など、目を覆いたくなるような貧困と不幸が、次々に描かれます。主人公の子供たちの多くは、両親が出生届を出していないため、証明書を持たない。また親が不法移民であれば、法的に存在しない。

映画は、そういった背景の中で、ゼインという12歳の少年を追います。

朝から晩まで、両親に劣悪な労働を強いられ、唯一の支えだった妹のサハルは、形式的な結婚という形を取り、中年男性に売られてしまいます。怒りと悲しみから、家出したゼインは、エチオピアからの不法移民労働者の女性ラヒルと知り合うが、ラヒルは逮捕され、彼女が残した赤ん坊の面倒をみることになります。子供だけでの生活が続く中、ゼインは、妹が妊娠し死んだことを知ります・・・

この映画の監督は、レバノンのナディーン・ラバキー、40代の女性で、俳優でもあり、この映画に弁護士役で少し出ています。美人ですよ。

彼女は、脚本に3年をかけ、長いリサーチの中で実際に出会った人々や、体験を観察し、ディティールを大事にしたそうです。ゼインをはじめとするキャストのほとんどは、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々です。

撮影は、脚本があるからと決め込まず、彼ら自身の経験を物語に寄せていったと云います。主人公のゼインを演じた、同名のゼイン・アル=ラフィーアは、シリア難民として家族でレバノンへ逃れたものの、貧しい生活を送り、学校になじめず、10歳からアルバイトで家計を助けていた少年なのですね。

このような映画製作に対する姿勢が、この作品のリアリティにつながっていると考えられます。そして、表現物から伝わってくるのは、本当につらい現実です。出口の見えないこの街の状況に息が詰まる思いですが、この映像がこちらに語りかけてくるのは、そんな中でも人が生きて行くエネルギーであったり、大変な確率で生を受けた命であれば、いつか祝福されることを祈らずにはいられない気持ちなど、ただネガティブな世界を見たということではなく、かすかな希望を感じずにはいられない読後感がありました。

この映画の持っている子供たちのリアリティの賜物かもしれません。

帰り道に、この映画で知った様々な現実に打ちのめされながら、希望を込めて、多くの人に、この映画を見てほしいものだと思ったんですね。

本来、映画というものが持っている力とでも云うのでしょうか。そういう体験でした。

後日、ネットでこの映画に関する解説を読んでいたら、「存在のない子供たち」が国際的な映画祭で注目を集め、様々な国で劇場公開が決まり、映画が世に出たことで、出演者たちに良い変化がもたらされたことが書いてありました。

監督談

「例えば、ゼインは国連難民高等弁務官の助けによって、いまは家族でノルウエ―で暮らし、これまでとは違う人生を送っています。ケニアの女の子ヨナスは、幼稚園に通うようになり、路上でガムを売っていたシドラは、いまは学校に通い、この作品に参加した影響か、映画作家になりたいと云っています。私たちも基金を立ち上げ、彼らを助けたいと思っているし、少しずつ彼らが独立して生活できるように、そんな未来になるように力添えをしたいと思います。道は長いですが。」

Zain

 

2019年8月 9日 (金)

二十歳の女の子がえらいことやってくれまして

Shibuno


この前、なんとなくゴルフのこと書いて間もない先週のこと、私とは何の関係もありませんが、ゴルフ界には42年ぶりというビッグニュースがありました。

このことは、多少ゴルフのことがわかる者にとっては、わりと大変なことで、かなり感動的な出来事だったんです。

先週行われた「全英女子オープン」は、世界中の女子プロゴルファーにとって、年間5試合しかないメジャー選手権であり、権威も賞金額も超一級で、各国のトップレベルのプロが集まる試合なのですが、その大会に勝ったのが日本の渋野日向子(しぶのひなこ)プロ(20才)であったわけであります。

日本勢のメジャー優勝は、男女を通じ1977年の「全米女子プロゴルフ選手権」を制した樋口久子プロ以来、42年ぶり2人目の快挙、またLPGAメジャー大会初出場初優勝は、史上2人目の、これも快挙でありました。

そして、何より驚くべきことは、彼女は1998年11月15日に岡山に生まれ、2018年にプロテストに合格しますが、それは去年のことです。それまでの中国地方での輝かしい戦歴は、中学生高校生であり、云ってみれば子供だったわけです。

2019年 今年になって、山陽放送と所属契約を結び、5月にJLPGAツアー公式戦の「サロンパスカップ」で、いきなり優勝し、6月の時点で、年間獲得賞金ランキングが3位に浮上して、8月の「全英女子オープン」への出場権を得ます。

デビューしてここまで、目を瞠る活躍ではありますが、強力な運の強さもあって、イギリスに行くことになるんですね。なんせ海外初試合が、「全英オープン」ということになり、当然ながら大会前の目標は、予選突破だったわけです。なんかくじに当たったような気持ちだったでしょうか。

しかし、初日、2日目は、なんと2位。まったく見たこともない、この前まで少女だったような日本の女の子は、完全にノーマークだったと思われます。ただ、やたらに明るい娘で、どんな時も常にニコニコ顔の彼女は、現地で「スマイリング・シンデレラ」とニックネームがつきます。

こうゆうことは、たまにあるよね、みたいな空気だったかもしれませんが、あろうことか、3日目は14アンダーで、単独首位で終えることになります。もともとメジャー大会でもあり、TV地上波では、夜中に生中継がされており、私としては、なんとか見届けようと、寝床の横のテレビをつけますが、途中から全く意識がなくなり、3日目首位の快挙は、翌朝知ることになります。

そして、さあ最終日。それはそれは、もし全英に勝つことがあればさぞ嬉しかろうと思いながら、反面、いや、渋野、ここまでよくやった、去年プロになったばかりの君が、最終日に、名だたる世界中の超一流のプロたちに、ここで捕まっても、むしろその方が普通のことかもしれんよ。などという気もしました。

そして、この日の夜中も、私は熟睡してしまったんですね。

ただ、何故か午前2時頃ふと眼を覚まして、胸騒ぎがしたんですね。祈りながらTVをつけました。すると、なんと1位に渋野とリゼット・サラス(アメリカ・30才)の表示、ともに17アンダー。マジか、首位だ。完全に眼が覚めます。

2組先でプレーするサラス、18番ミドルホールの第2打は見事ベタピン、このパットが入れば1打リードを許すことになります。しかし、サラスはこのパットをわずかに外しました。まだ運はあるか。

渋野は17番パー。最終ホールに向かいます。まったくプレッシャーを感じさせないニコニコドライバーショットは、見事フェアウエイをとらえました。そう、次の一打が勝負です。

バーディーなら勝ち、パーならプレイオフ、ボギーなら負け。行け、渾身の第二打。

ボールはピンから5メートルの位置に止まりました。微妙な距離ですが、当然、入れにいきます。

打った。ちょっと強いか、行け、入れえー。入ったあ。

カップをもし越えたなら、かなり遠くまで行ってしまったかもしれません、下りだし。そういう強さでした。

渋野は、試合後のインタビューで、その最終パットのことを聞かれ、

「入れるか。入らなければ、3パットと思って打ちました。ショートだけはしたくなかった。」みたいなことを云ってましたが、たいしたもんです。後半は全く緊張してなかったとも云ってましたが、たしかにそのように見えました。

この日、首位でスタートするも、3番ホールで4パットして3位に後退したところから巻き返したわけで、よく、開き直ると云いますが、なかなかベテランでもできることではないですよね。

二十歳恐るべし、知らない者の強みということではかたずけられないものがあります。技術も気力も素晴らしいんですけど、この勝負の流れを自らに引き寄せる運気をを持っていたということも云えるでしょう。

プロゴルファーという仕事を始めたと思ったら、いきなり頂点を極めてしまったわけで、これからも大変だと思いますけど、ま、ほとんどの人が見れない景色を見れちゃったんですから、ともかく祝福されることではあります。

以前、これと同じようなことがあったなと思ってみると、それは、

2011年の「なでしこジャパン・ワールドカップ優勝」でした。

この時も夜中にものすごい感動したんでした。

21世紀は、女の世紀であると、誰か云ってましたけど。

まったく、何かと女の人がやってくれますよね。

2019年7月25日 (木)

なんでゴルフをやっているのかという話

Fa


今年の梅雨は、いつになく梅雨らしい梅雨で、長期にわたって各地に雨を降らせてますが、このところ、わりと頻繁に予定されていた私のゴルフ行きは、ことごとく雨雲を避け、一度も雨合羽を着ることもなく、順調に進行しています。ゴルフというのは、その天候も含めた競技であると、硬派なゴルファーはおっしゃいますが、やっぱり、雨や風はなるべく穏やかな方がありがたいわけです、軟派ゴルファーとしては。

ただ、どうして梅雨の最中に、これだけ予定が入っているかというと、自分がなにかと積極的に人を誘っていることと、逆に誘われた時に、基本的によほどのことがなければ、けして断らないという姿勢にあります。

要は、下手だが好きだということなんです。

このゴルフという競技は、全部で何打、打ったかというスコアを競うんですけど、このスコアというのは、すべて自分のせいで出た結果であって、誰かのせいということは全くありません。うまく行かなかったことは、みな自己責任です。そして、だいたいにおいて色々なことは、うまく行かないんですね。ゴルフがかなり上手な人であっても、常にうまく行かないことは多くて、まして下手な人は、一日中そういうおもいをすることになります。

ということで、このゲームは終わったあとに爽やかな気持ちになるということは、あまりありません。だいたいにおいて、苦いおもいでゴルフ場を後にすることが多いのですが、翌週にまた誰かから誘いの連絡があると、1も2もなくスケジュールを開けようとしちゃうのですね、何故か。

この上手くならないゴルフというものと、どうして出会ったかという話なんですが、

たしか30歳くらいの頃、仕事でたまにアメリカに行くことがあって、その当時、わりと長い間行っていることが多くて、その時に、ゴルフの上手い現地のコーディネーターに誘われて、ろくに練習もしないで、いきなりグリフィス天文台の麓にあるパブリックのゴルフ場に行ったことがあったんですね。今考えると、よく行ったと思うんですが、第1打、いきなり続けて空振りしたら、後ろで待ってたアメリカ人に、

「ヘイ、ルック、アット、ボール!」と、野次られる始末で。

でも、考えてみると、相手は止まってるボールなんで、どうにかこうにか1ラウンドやったんですね。いったい何打打ったのかもわからん状態で、でも、ひどい目にあったんだけど、なんか楽しかったんですよ。

それから何度か、アメリカの辺鄙な場所に仕事に行ったんですが、そういうところにはたいてい近くにゴルフ場もあるんですね。いつだったか、カナダの国境あたりまでロケに行ったときに、その時のカメラマンが、今回の撮影は、早朝と夕方の射光でしか撮らないと云いまして、しばらく居たんですけど、昼間はやることがないわけです。ホテルの目の前は広大なゴルフ場なんですけど、シーズンオフなのかそこには鹿しかいないんですね。そうなるとゴルフしかやることないんです。そんなことどもがあって、なんだかゴルフって面白いじゃんみたいなことになっていったんです。

それまでの私はというと、大人がやってるゴルフという文化が大嫌いでして、あくまで印象の問題なんですけど。どっかのBARで酒飲みながら、あんなものは、いい大人も、いい若い者も、けしてやるもんじゃないと言い放っておったもんで、今さら、意外に面白いねとも言えなくなっておりました。

そうは云っても、ちょっと興味が出て来て、テレビで青木功やジャンボ尾崎なんかを見てると、それはそれでけっこう面白いし、それまで、駅のホームでゴルフスイングしてるオヤジとか、心の底からバカにしてたんだけど、なんか少しわかる気もしたりして、誰にも見つからないように、練習場にも行ってみたりしました。

そのことを、会社で仲良しだったヤマちゃん先輩と、同僚のマンちゃんにちょっと話したら、この人たちはすでにゴルフ好きでしたが、それは絶対にゴルフ始めるべきだと勧められまして、日本のゴルフ場にも連れてってもらうようになりました。

この人たちから、やたら筋がいい筋がいいと褒められまして、悪い気はしないからその気になってきたんですけど、まあ、あとで聞いたら、あいつは全くスポーツとは無縁で、やたら深酒するか、文庫本読むくらいしか趣味がないから、せめてゴルフくらいさせようと、二人して何かとおだてるようにしてたそうです。

そんなようなことで始まったゴルフなんですが、その後、あんまりやれなかった時期もあり、きちんと練習を積むということもなく、だらだらと下手なままなんですけど、いわゆるゴルフ歴だけは長く、かろうじて続いている趣味なわけであります。

ただ、時々、なんでゴルフやってるんだろうなとも思うんですね。

朝早く起きて、わりかし遠くまで行かなきゃいけないし、たまにわりとうまく行く日もあるけど、たいていがっかりするし、そうやって何年も同じレベルで、むしろ下手になってるんだけど、なんとか、一つ上のゴルファーになれないだろうかとは、いつも思っていて、わりといろんなこと試してみたり、例えば、誰かに聞いた練習をしてみたり、上手な人に教わったり、新しい道具とかボールを手に入れてみたり、なんかいろいろ本読んでみたりするわけですよ。

でも、見えてくる景色は、あんまり変わらないわけです。

200ヤードのドライバーショットも、数10センチのパッティングも、同じ1打で数えられ、その1打1打に一喜一憂し、出てくるスコアは、いつもほとんど似たようなものなわけです。そしてそのスコアは誰のせいでもなくすべて自分のせいであるところが、ゴルフのゴルフたるところです。

よく、ゴルフというゲームは、人生に似ているという人がいますが、たしかに、

「禍福(かふく)は、糾(あざな)える縄のごとし。」みたいなとこありますよね。

誰が思いついて始めたのか、なんだか無駄に深いところのあるゲームです。

イギリス人が作ったというのも、なんかわかる気がする。

 

2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

Deracine


お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

2019年5月20日 (月)

前略ショーケン様

この3月に、ショーケンこと萩原健一さんが亡くなりました。厳密には4歳上ですが、自分と同世代の有名芸能人で、こっちが物心ついたころから有名な方でしたから、なんだかちょっとしんみりしたとこがありまして、特にお会いしたこととかはなかったんですが、不思議な喪失感がありました。このごろでは68才って、まだ若いですしね。

1967年といいますと、私は中学1年生でしたが、彼は、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、デビューしたんですね。

このころ日本中で、グループサウンズブームというのがありまして、たくさんいろんなグループがあったんですけど、テンプターズは、その中でもかなり人気上位にいて、若い女の子たちがキャーキャー云ってました。このブームは明らかに若い女子をターゲットにしたものでして、バンドのメンバーはみんな長髪で、衣装もどっちかといえば、可愛らしい系でして、今で云えばジャニーズのアイドルたちがバンドやってるようなもんでしたね。ショーケンとか、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二さんとかは、その中でも、1、2を争うアイドルだったわけです。

萩原さんは、その頃アイドルとして騒がれたり、追っかけられたりすることは、ほんとは、いやだったと、のちに話しています。そんなことで、当時男子中学生だった私も、あんまり関心はなかったんですけど。

それから1970年頃には、早くもグループサウンズブームは去り、テンプターズも解散します。すごい人気だったけど、わりと短かったんですね。その後ショーケンは音楽も続けますが、仕事を俳優の方にシフトしていきます。1972年に岸惠子さんと共演した映画が高評価を得て、TVドラマの「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」で、その人気を確立するんですね。

 

4月に、脚本家の倉本聰さんが、新聞に「萩原健一さんを悼む」という文を書いておられました。

倉本さんがショーケンと初めて仕事したのが、1974年の大河ドラマ「勝海舟」だったそうですが、その時、岡田以蔵役をやった彼が、

「坂本龍馬に惚れてるゲイの感じでやってみたい。」と提案してきて、

以蔵が龍馬の着物を繕うシーンで、縫い針を髪の毛の中にちょいちょい入れて髪の脂をつけるしぐさをして見せた。龍馬への愛をこんなアクションで表現するのかと、驚いたそうです。

それから、1975年のTVドラマ「前略おふくろ様」は、ショーケンからの指名で脚本を担当することになったそうです。ショーケンが演じる若い板前が、調理場の後片付けでふきんを絞ってパーンと広げて干すといった何げない一連の所作が実にうまく、普通の人にはない観察眼を持っていて、生活感をつかむのがとても巧みだと感じたそうです。それを直感的に演じるひらめきは天才的で、勝新太郎によく似ていたと。

本読みでも、彼はいろいろアイデアを出してくるけど、それが大体正しい。人の意見も素直に受け止めるし、本当に面白かったと印象を語っています。

ただ一方で、彼には飽きっぽいというか、欲望に忠実に行動してしまう一面があり、現場で様々なトラブルもあったようです。

彼が亡くなって、桃井かおりさんがショーケンを

「可愛くて、いけない魅力的生き者」だと追悼するコメントを出しましたが、まさにその通りで、役者としては天才的だけど、人としてはいろいろよくないと。

そして、70年代に出てきた、ショーケン、かおり、優作ら同世代のギラギラした若い役者たちには、明らかに上の世代とは違った「はみ出し者」の輝きがあり、役者としての力がある彼らを、受け止める力量を持った制作側の人間もだんだんいなくなった。芝居がわかっている者は一握り、タレントばかりになってしまった。ショーケンの死は、そんな時代を象徴しているように感じます。と、結んでおられます。

 

そういえば、この人は出演した作品で、いつも独特な存在感を示し、話題を提供し常に注目されていました。でも、薬物の不祥事などで問題を起こす人でもあり、時々トラブルがあって、世の中から姿を消してしまうこともありました。結婚も何度かされています。倉本さんの新聞記事を読んで、そういえば何年か前に、この人自身が出した自伝があったなと思い、本棚を探したら、2008年に、まさに「ショーケン」という自伝が出ていました。10年ぶりに読んでみましたが、あらためて激しい人生だなと。

いつも表現者としての居場所を求め、成功があり、トラブルがあり、世間の目に晒され、ずっとその存在を感じさせ続けた同世代のスターだったんですね。思えば50年余り、彼はものすごい数の作品を残しているわけです。そのうちのどれくらいの本数を見たのか、すでによくわからないですけど、多くの人の記憶にいろいろな形でその姿を刻みつけていることは確かです。

その中で、個人的にもっとも強く残っているのは、倉本さんの話にあったTVドラマの「前略おふくろ様」です。私はちょうど大学生でしたが、毎週できるだけ欠かさずに見ておりました。主人公のサブちゃんは、自分と同年代の設定でもあり、やけに感情移入していたし、共演のキャストも実にみな魅力的でした。田舎から出てきた若い板前の成長物語が丹念に描かれており、そのドラマの背景に故郷で働くおふくろ様がいて、そのおふくろ様には認知症が始まっているという、忘れることのない名作でした。そして、主人公の片島三郎の役は、ショーケン以外は考えられません。

表現者として多くの作品に関わり、観る者に何かを残し、いろいろ問題もあった人だったけど、やはり、失ってみると惜しい人だったなと、思ったんですね。

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2019年4月18日 (木)

僕が働き始めた頃

桜の花が散って、新緑の木の芽が出始めるゴールデンウイーク前のこの頃、社会に出て来たばかりの新人君たちは、どんな気持ちでいるんだろうか。うちの会社にも4人ほどいるんですが、みんな元気そうにしてるけど、でもやっぱり基本的に緊張してはいるんでしょうね。

昔のこと過ぎて、自分のことはよく覚えてないんですが、だいたいにおいて硬くなってたように思います。

もっとも、私の場合、働き始めたと云ってもアルバイトで、ただ云われたことを云われたようにやる仕事で、主に届け物に行く事だった気がします。いろんなところの、いろんな人へ、いろんなモノを届けますが、そうやって、この仕事に関わるいろんな場所を覚えたり、空気を感じたりする意味もあったかと思いますね。

その会社はテレビコマーシャルを作っていたので、毎日午前中には、作ったCMを納品する仕事がありました。その当時の完成品は、16mmフィルムの15秒とか30秒のリールになっていて、それをいろんな会社に納めに行くんです。

それほど重くもないし、数と中身を確認して納品書といっしょに置いてくるんですけど、ある時、大手広告会社のある部署に届けに行ったら、他の会社の納品に来ていた人が、その部署のおじさんに思い切り怒られていて、どうも納品書に不備があるようなことを云ってるんですけど、全然たいしたことじゃないんですね。

「君の会社は、うちの会社をバカにしてるのかあ!」とか云っちゃって、

そもそも、その納品に来た人も、私と大して変わらないペーペーだし、そのオッサンだって、どう見ても年の割にはペーペーなわけですよ。

なんか世の中には、そうやって大きい会社を笠に着て、ただ威張りたい奴とかもいるんだなと思い、まあたしかにいろんなとこ行ってると、いろんな人がいるもんだなと思ったりしたわけです。これも社会勉強かなと。

あんまりこういう人とかかわり合いになりたくなかったんで、自分の番が来た時に、そのオッサンの前を通り過ぎて奥の方にいたもう少し偉そうな人に納品しました。背中の方でギャアギャア云っていたけど、しかとして、ガン飛ばして帰って来ましたよ。

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そんなこともありながら、会社はどんどん忙しくなってきて、仕事もいろんな雑用が増えていって、そのうち撮影現場へも行かされることになってきます。

撮影という仕事は、当然いろんなシミュレーションをやっておくんですが、予想してないことが次々に起こるもんで、2手3手、先を読んで、そうとう臨機応変に機敏に動かなくちゃならなくて、昨日今日入ってきた奴は、簡単に置いて行かれちゃうんですね。

なんとか一人前になって、親方や先輩たちから認めてもらいたくて頑張るんだけど、なかなかうまくいかないわけですよ。そうやって、むきになってやってるうちに、一年近く経っちゃいましてね。

もともと大学でやってたのは土木建築でしたから、そういう方面に就職しなきゃいけなかったんだけど、どうもその気になれず、卒業はしたものの、たいしたビジョンもなくて、しばらく社会観察でもするかといういい加減な考えでいたんですね。

ちょうど大学卒業する頃、テレビで「俺たちの旅」っていうドラマをやっていて、鎌田敏夫さん脚本ですが、同年代の人は知ってると思うんですけど、どういう話かというと、俺たちくらいの年代の男が3人いて、社会に出て自立しなきゃいけない時期なんだけど、なんだかフラフラと自由に暮らしながら、少しずつ社会とかかわっていくみたいな話で、それ見ながら、ま、こういうのもしばらくありかなと、自己弁護してたようなとこがあったんですね。まあそういう意味では鎌田さんに感謝はしてるんですけど。

そんな時に、ひょんなことで始めたバイトでして、いま思えば、仕事は大変だけど面白くて、わりと皆いい人たちでした。あのころ、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、まあ云ってみれば面倒臭いやつだったんですけど、この職場にどうにか居場所を見つけて、社員になることになります。

1970年代のこの業界は、けっこう若くて、まだ先の見えない未来がありました。テレビも元気で、TV-CMはトイレタイムとか云われてもいたけど、新しくて面白くて勢いのあるモノもでき始めていました。どなたか忘れたんですけど、広告会社の方だったか、演出家の方だったかが、

「ムカイ君、俺たちは無駄なもん作ってんだから、無駄ということを知らなきゃいかんよ」なんてことをおっしゃっていました。

まだ先のわからない、いい時代だったとも言えますかね。

この前、うちの新人君たちと話す機会があったんですが、一応先輩として話したのは、

仕事は、まず最初からうまくはできないということ。

世の中は観察しているといろいろ面白いことがわかって来るから、よく観察してみるとよいということ。

などを、伝えました。

俺たちは、無駄なもん作ってるとは、さすがに云えませんでしたけど。

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