2019年5月20日 (月)

前略ショーケン様

この3月に、ショーケンこと萩原健一さんが亡くなりました。厳密には4歳上ですが、自分と同世代の有名芸能人で、こっちが物心ついたころから有名な方でしたから、なんだかちょっとしんみりしたとこがありまして、特にお会いしたこととかはなかったんですが、不思議な喪失感がありました。このごろでは68才って、まだ若いですしね。

1967年といいますと、私は中学1年生でしたが、彼は、ザ・テンプターズのヴォーカリストとして、デビューしたんですね。

このころ日本中で、グループサウンズブームというのがありまして、たくさんいろんなグループがあったんですけど、テンプターズは、その中でもかなり人気上位にいて、若い女の子たちがキャーキャー云ってました。このブームは明らかに若い女子をターゲットにしたものでして、バンドのメンバーはみんな長髪で、衣装もどっちかといえば、可愛らしい系でして、今で云えばジャニーズのアイドルたちがバンドやってるようなもんでしたね。ショーケンとか、ザ・タイガースのジュリーこと沢田研二さんとかは、その中でも、1、2を争うアイドルだったわけです。

萩原さんは、その頃アイドルとして騒がれたり、追っかけられたりすることは、ほんとは、いやだったと、のちに話しています。そんなことで、当時男子中学生だった私も、あんまり関心はなかったんですけど。

それから1970年頃には、早くもグループサウンズブームは去り、テンプターズも解散します。すごい人気だったけど、わりと短かったんですね。その後ショーケンは音楽も続けますが、仕事を俳優の方にシフトしていきます。1972年に岸惠子さんと共演した映画が高評価を得て、TVドラマの「太陽にほえろ」や「傷だらけの天使」で、その人気を確立するんですね。

 

4月に、脚本家の倉本聰さんが、新聞に「萩原健一さんを悼む」という文を書いておられました。

倉本さんがショーケンと初めて仕事したのが、1974年の大河ドラマ「勝海舟」だったそうですが、その時、岡田以蔵役をやった彼が、

「坂本龍馬に惚れてるゲイの感じでやってみたい。」と提案してきて、

以蔵が龍馬の着物を繕うシーンで、縫い針を髪の毛の中にちょいちょい入れて髪の脂をつけるしぐさをして見せた。龍馬への愛をこんなアクションで表現するのかと、驚いたそうです。

それから、1975年のTVドラマ「前略おふくろ様」は、ショーケンからの指名で脚本を担当することになったそうです。ショーケンが演じる若い板前が、調理場の後片付けでふきんを絞ってパーンと広げて干すといった何げない一連の所作が実にうまく、普通の人にはない観察眼を持っていて、生活感をつかむのがとても巧みだと感じたそうです。それを直感的に演じるひらめきは天才的で、勝新太郎によく似ていたと。

本読みでも、彼はいろいろアイデアを出してくるけど、それが大体正しい。人の意見も素直に受け止めるし、本当に面白かったと印象を語っています。

ただ一方で、彼には飽きっぽいというか、欲望に忠実に行動してしまう一面があり、現場で様々なトラブルもあったようです。

彼が亡くなって、桃井かおりさんがショーケンを

「可愛くて、いけない魅力的生き者」だと追悼するコメントを出しましたが、まさにその通りで、役者としては天才的だけど、人としてはいろいろよくないと。

そして、70年代に出てきた、ショーケン、かおり、優作ら同世代のギラギラした若い役者たちには、明らかに上の世代とは違った「はみ出し者」の輝きがあり、役者としての力がある彼らを、受け止める力量を持った制作側の人間もだんだんいなくなった。芝居がわかっている者は一握り、タレントばかりになってしまった。ショーケンの死は、そんな時代を象徴しているように感じます。と、結んでおられます。

 

そういえば、この人は出演した作品で、いつも独特な存在感を示し、話題を提供し常に注目されていました。でも、薬物の不祥事などで問題を起こす人でもあり、時々トラブルがあって、世の中から姿を消してしまうこともありました。結婚も何度かされています。倉本さんの新聞記事を読んで、そういえば何年か前に、この人自身が出した自伝があったなと思い、本棚を探したら、2008年に、まさに「ショーケン」という自伝が出ていました。10年ぶりに読んでみましたが、あらためて激しい人生だなと。

いつも表現者としての居場所を求め、成功があり、トラブルがあり、世間の目に晒され、ずっとその存在を感じさせ続けた同世代のスターだったんですね。思えば50年余り、彼はものすごい数の作品を残しているわけです。そのうちのどれくらいの本数を見たのか、すでによくわからないですけど、多くの人の記憶にいろいろな形でその姿を刻みつけていることは確かです。

その中で、個人的にもっとも強く残っているのは、倉本さんの話にあったTVドラマの「前略おふくろ様」です。私はちょうど大学生でしたが、毎週できるだけ欠かさずに見ておりました。主人公のサブちゃんは、自分と同年代の設定でもあり、やけに感情移入していたし、共演のキャストも実にみな魅力的でした。田舎から出てきた若い板前の成長物語が丹念に描かれており、そのドラマの背景に故郷で働くおふくろ様がいて、そのおふくろ様には認知症が始まっているという、忘れることのない名作でした。そして、主人公の片島三郎の役は、ショーケン以外は考えられません。

表現者として多くの作品に関わり、観る者に何かを残し、いろいろ問題もあった人だったけど、やはり、失ってみると惜しい人だったなと、思ったんですね。

Shoken2

2019年4月18日 (木)

僕が働き始めた頃

桜の花が散って、新緑の木の芽が出始めるゴールデンウイーク前のこの頃、社会に出て来たばかりの新人君たちは、どんな気持ちでいるんだろうか。うちの会社にも4人ほどいるんですが、みんな元気そうにしてるけど、でもやっぱり基本的に緊張してはいるんでしょうね。

昔のこと過ぎて、自分のことはよく覚えてないんですが、だいたいにおいて硬くなってたように思います。

もっとも、私の場合、働き始めたと云ってもアルバイトで、ただ云われたことを云われたようにやる仕事で、主に届け物に行く事だった気がします。いろんなところの、いろんな人へ、いろんなモノを届けますが、そうやって、この仕事に関わるいろんな場所を覚えたり、空気を感じたりする意味もあったかと思いますね。

その会社はテレビコマーシャルを作っていたので、毎日午前中には、作ったCMを納品する仕事がありました。その当時の完成品は、16mmフィルムの15秒とか30秒のリールになっていて、それをいろんな会社に納めに行くんです。

それほど重くもないし、数と中身を確認して納品書といっしょに置いてくるんですけど、ある時、大手広告会社のある部署に届けに行ったら、他の会社の納品に来ていた人が、その部署のおじさんに思い切り怒られていて、どうも納品書に不備があるようなことを云ってるんですけど、全然たいしたことじゃないんですね。

「君の会社は、うちの会社をバカにしてるのかあ!」とか云っちゃって、

そもそも、その納品に来た人も、私と大して変わらないペーペーだし、そのオッサンだって、どう見ても年の割にはペーペーなわけですよ。

なんか世の中には、そうやって大きい会社を笠に着て、ただ威張りたい奴とかもいるんだなと思い、まあたしかにいろんなとこ行ってると、いろんな人がいるもんだなと思ったりしたわけです。これも社会勉強かなと。

あんまりこういう人とかかわり合いになりたくなかったんで、自分の番が来た時に、そのオッサンの前を通り過ぎて奥の方にいたもう少し偉そうな人に納品しました。背中の方でギャアギャア云っていたけど、しかとして、ガン飛ばして帰って来ましたよ。

Pmgenba_2

そんなこともありながら、会社はどんどん忙しくなってきて、仕事もいろんな雑用が増えていって、そのうち撮影現場へも行かされることになってきます。

撮影という仕事は、当然いろんなシミュレーションをやっておくんですが、予想してないことが次々に起こるもんで、2手3手、先を読んで、そうとう臨機応変に機敏に動かなくちゃならなくて、昨日今日入ってきた奴は、簡単に置いて行かれちゃうんですね。

なんとか一人前になって、親方や先輩たちから認めてもらいたくて頑張るんだけど、なかなかうまくいかないわけですよ。そうやって、むきになってやってるうちに、一年近く経っちゃいましてね。

もともと大学でやってたのは土木建築でしたから、そういう方面に就職しなきゃいけなかったんだけど、どうもその気になれず、卒業はしたものの、たいしたビジョンもなくて、しばらく社会観察でもするかといういい加減な考えでいたんですね。

ちょうど大学卒業する頃、テレビで「俺たちの旅」っていうドラマをやっていて、鎌田敏夫さん脚本ですが、同年代の人は知ってると思うんですけど、どういう話かというと、俺たちくらいの年代の男が3人いて、社会に出て自立しなきゃいけない時期なんだけど、なんだかフラフラと自由に暮らしながら、少しずつ社会とかかわっていくみたいな話で、それ見ながら、ま、こういうのもしばらくありかなと、自己弁護してたようなとこがあったんですね。まあそういう意味では鎌田さんに感謝はしてるんですけど。

そんな時に、ひょんなことで始めたバイトでして、いま思えば、仕事は大変だけど面白くて、わりと皆いい人たちでした。あのころ、何事にも自信がなく及び腰で、そのわりに妙に頑固な若造だった私は、まあ云ってみれば面倒臭いやつだったんですけど、この職場にどうにか居場所を見つけて、社員になることになります。

1970年代のこの業界は、けっこう若くて、まだ先の見えない未来がありました。テレビも元気で、TV-CMはトイレタイムとか云われてもいたけど、新しくて面白くて勢いのあるモノもでき始めていました。どなたか忘れたんですけど、広告会社の方だったか、演出家の方だったかが、

「ムカイ君、俺たちは無駄なもん作ってんだから、無駄ということを知らなきゃいかんよ」なんてことをおっしゃっていました。

まだ先のわからない、いい時代だったとも言えますかね。

この前、うちの新人君たちと話す機会があったんですが、一応先輩として話したのは、

仕事は、まず最初からうまくはできないということ。

世の中は観察しているといろいろ面白いことがわかって来るから、よく観察してみるとよいということ。

などを、伝えました。

俺たちは、無駄なもん作ってるとは、さすがに云えませんでしたけど。

2019年4月 3日 (水)

「グリーンブック」と「運び屋」

ひところからすれば、明らかに映画館で映画を観る本数は減っているんですけど、このところ続けて観た2本の映画では、どちらも泣いてしまったんですね。

映画で泣くということはわりとない人だったんですけど、このところ歳のせいか涙もろくなっておりまして、けっこう他愛無いことでも、簡単に落涙します。

でも、2本ともなかなか名作だったんです。

「グリーンブック」は、やはり、アカデミー作品賞だって云うし、「運び屋」の方は、やはり、クリント・イーストウッドだし、「グラン・トリノ」から10年ぶりの、監督・主演だし、まあ普通に映画館に足を運んだんですね。

どっちも、ある意味ロードムービーで、背景にあるのが家族ということで、そう書けばベタなんですが、油断してたわけじゃなく、まあ映画の狙いどおりに、想定されたところで涙しとるわけです。それは、多少こちらが老いぼれていることを差っ引いても、やはり見事といえば見事なもんでした。

 

「グリーンブック」の方は実話でして、ある黒人天才ピアニストが、1960年代のアメリカ南部で演奏ツアーをするにあたり、白人の運転手を雇うところから、話が始まります。ピアニストのシャーリーは、3つの博士号を持つインテリ、一方、運転手のトニーは、ナイトクラブの用心棒で、粗野で無教養なイタリア系アメリカ人で、当初は人種差別的な思想を持っています。

映画は、旅を続けるシャーリーとトニーを追いつつ、ニューヨークで帰りを待つトニーの家族を織り交ぜながら、ツアー旅行の中でのいろいろな出来事を通して、少しずつ変わっていく二人の関係を描いています。そしてそのテーマのベースには、家族ということがあります。物語は、普通に終わったかなと思ったところで、胸の熱くなるラストが用意されてるんですね。

 

88才のクリントおじいさんが作った「運び屋」という映画は、まさに家族ということがテーマになっています。どうもこの人自身の家族に対する思いみたいなものが根底にある気がするんですが、ある90歳の男が麻薬の運び屋をしていたという実話に着想を得て作った映画だそうです。

90才になるまで、自分勝手に生きて来て、家族のことをほったらかしにしてきた男が、仕事にも失敗して無一文になって、どうしようもなくなった時に、ひょんなことから危ない運び屋の仕事をするようになります。金にもなってなんとかうまくこなしているうちに、だんだん深みにはまっていくんですが、そんな最中に、この男にただ呆れ果てている老妻の死に、向き合うことになり、このあたりで、組織や捜査官も大きく動き出すんですね。

ただ、今までのクリントさんの映画に比べると、全体にやさしい作りになってる気がしたんですね。やっぱり歳もとって、集大成の映画みたいなところがあるんでしょうか。

でも、やっぱり泣けるんですけどね。

Hakobiya

映画の終盤に、この主人公のアールという男が吐く、

「いままでの人生、まちがいだらけだった。」みたいな科白があるんですけど、

なんかこのセリフは、自分の人生とかぶってるところがあるような気がしたんですね。

 

ひとつこんな話があるんですが、

アカデミー賞の作品賞にもノミネートされた、「アリー/スター誕生」の製作は、最初はイーストウッドに持ち込まれたのだそうです。ビヨンセを起用しようとしたものの、スケジュールが合わずに断念するんですが、その企画を引き継ぎ、監督と出演をしたのが、「運び屋」で、麻薬捜査官を演じたブラッドリー・クーパーだったんですね。この人が「運び屋」という映画をとてもやさしい映画にしてるんですけど。

クーパーに「レディー・ガガを起用するつもりだ。」と相談されたイーストウッドは、ひどい考えだと思い、「本気か?」と問いただしたのだといいます。

「でも映画を見たら、彼女は素晴らしかったよ。彼女は本当によかった。」と、イーストウッドはとてもうれしそうに笑ったそうです。

 

間違っていたと感じれば、すぐに考えを改めて認めることができる。

年を取ったら、そんなじいさんになりたいなあと、思ったんですね。すごく。

 

2019年2月20日 (水)

働き方改革のことを考えた

今回はちょっと真面目な話なんです。

このところ世の中では、「働き方改革」ということが云われて久しいですが、当然ながらうちの会社でも、なにかとその話が出ます。

私のいる業界は、広告映像の制作が主な仕事であり、そもそも世間が働き方改革を叫び始めるきっかけになった、労働時間に問題のある業界でして、かなり真剣に取り組む必要があるんです。

まあ昔から、徹夜は当たり前、納得いくまではやめるな、とことんやれみたいなところがありまして、長いこといると、わりとそういうのが普通になってるんですね。

確かにそれは、習慣的なことでもあり、無駄に時間使ってることもなくはなく、だいたい長い時間仕事を続けてると、集中力も低下してきて、返って効率悪くなるってこともありますよね。

自身の経験から言えば、この労働時間の短縮というのは、その仕事にとって、無意味な時間というのを極力削ってほしいということに尽きます。それには、仕組みを見直したり、新たにルールを作ったりして、改善の道を探ることが必要になってきます。

モノを作る仕事というのは、どこまでやっても終わりが来ないようなとこがあります。やればやっただけのことはあるということも云えますが、時間を長くかければ良いモノができるというものでもありません。そのあたりが仕事というものの面白いところなんですけど。

キャリアの少ない人の方が、どうしても仕事に時間がかかってしまう傾向もあります。それに要する時間は、ある意味訓練の時間として考えねばなりません。

要は、それらの時間を、ルールに則って、どう工夫していくかということです。

労働時間を、やみくもに区切って、ただ短縮してもあんまり意味はありません。チャップリンのモダンタイムスみたいに、コンベアで目の前に流れてくる作業を単純にこなしていくだけの仕事であればいいんですけど、そういうタイプの仕事ではないのでね。

かなり考えなきゃいけないのは確かです。

 

それと、働き方の問題なのかどうかは、よくわからないけれど、昨今よく世の中で話題になっていることに、パワハラ、セクハラというのがありますよね。

ちょっと話が長くなるんですけど、このまえ犬の散歩をしていたら、近所の児童公園でリニューアル工事をやってまして、なんか若い作業員がトラック運転してバックで公園に入ってきて、まあちょっと不慣れだったんでしょうけど、置いてあった工事用運搬一輪車(通称ネコ)に、おもいっきりぶつけたんですね。けっこう大きな音したんですけど、運転してたお兄ちゃんもちょっとびっくりしたみたいで、そばで仕事してた先輩と思われる作業員に、

「すいません、大丈夫ですか。」って聞いたんですね、そしたらその先輩が、

「大丈夫じゃねえよ。ふざけんな、もしもそこに人いたらどうすんだ、バカ野郎。」と、けっこうな勢いで、怒鳴ったんです。

それを、犬と見てて、「そうだよなあ、それぐらいの失敗だよなあ。」と呟いたんですが、

何を思ったかというと、自分が若い時、仕事でよくこんなふうに怒られたなあということなんです。私の新入り時代ですから、ずいぶん前の話なんですけど、そのころ現場に入ってきた新米は、いつ先輩や親方からどやされるか、ドキドキと緊張してたんですね。まあ、先輩たちも結構こわい人たちだったんですけど、ただ、そのどやされることの多くには、こいつをどうにか使えるようにしてやろうというような、愛情とまでは云わないけど、そういう気分が含まれてて、おっかなかったけど、いやじゃなかったかなというのがあります。

要は、現場っていうのは職人の世界だから、新米は先輩を見ながら仕事覚えていくわけで、先輩たちにも弟子を育てる仕組みが出来てたと思うんです。そりゃ、いろんな人がいましたけど、そういう仕組みの中で、育ててもらったり、勝手に育ったりしてたわけです。思い出してみると、先輩も後輩も相手のことよく観察してましたね。表現はぶっきらぼうだったりするんだけど、よく見てた気がします。ちょっと生意気になってくると、この先輩の仕事はいいな、かっこいいなとか、この先輩の仕事の仕方はよくわからないなとか、先輩の方もちょっと育ったなと思えば、褒めてやったり、これがまた褒められるとつけあがったり、まあそういうことで、3歩進んで2歩下がったりしてたわけです。

その頃、パワハラっていう言葉もなかったし、パワハラまがいのこともなかったとは云えないけど、なんかお互いのことに、もっと関心持っていて、思ったこと云い合って、その上で、どやしたり、叱ったり、諭したり、ちょっと褒めたりしてたんじゃないでしょうか。いつしか自分にも後輩が出来るようになっても、そういうことは続いてたように思います。

パワハラということが起こる背景には、基本的に相手の性格や力量がわかっていないということがあります。人と人が関係を作って行く上で、相手に対する興味や想像力が欠如していませんかね。いわゆるお互いの踏み込みが足りないということのような気がするんですね。その責任の多くは、先輩の方にありますが。

そうやって、世の中全体がパワハラという現象に妙に過敏になってきてますと、相手に云いにくいことはもっと云わなくなりますし、ますます踏み込みが浅くなるわけです。

セクハラに関しても、多分そういった傾向はあって、異性に対してのマナーというのは当然必要だけど、お互いにある程度遠慮しないで踏み込まないと、本当の仕事のパートナーにはなれないわけですよ。

かつて、職場に新人が入ってくると、みんなしていじって、ちょっと手荒い歓迎みたいなことしてましたが、それはそれで、関係作っていく上では、役に立ってたとこもあったんですね。

労働時間の短縮に関しても、仕事というのはしょせん人間がやることなんだから、同じ仕事をする者同士が、いかに人間関係を構築しておくかにかかってるんじゃないでしょうか。ひとつの仕事をやり終えるための時間を、そのチームでどうやって共有して、役割と作業を手分けするのか。メンバーそれぞれが、特にリーダーがどれほど的確にそのことをつかんでいるかにかかっています。そのことなしに、名案というのはなかなかないと思いますね。

働き方改革は、しなきゃならない局面に来ているのは確かだけど、昔から積み上げてきたことを全否定することではないですよね。なんとなく感じるのは、このところ世の中は、社会のルールやシステムの整備のことばかりになっていて、なんか一見スマートではあるんだけど、わりと泥臭く一人一人と向き合うことも大事なんじゃないかとも思うんですよ。

 

そういえば何年か前に読んで、深く頷いた山田太一さんの言葉です。

 

「いまはみんな訳知りになって、人生を生きはじめる前に、

絶望もあきらめもインプットされてしまうところがあるから、

人間のいい部分を信じることが

非常に難しくなってきている気がします。

実際に誰かとの距離を詰めようとすると、

みっともない自分も見せることになる。

そういうのを避けようと思う。

それで孤独になっているところがある。

友達になろうと思って踏み出せば、

そして歳月を重ねれば、

ちょっと無視できないような関係ができていくんです。」

Randoseru_4

 


働き方改革するうえで、大事な判断基準は、その職場に入ってきた新人がちゃんと一人前になっていける環境があるかどうかじゃないかと思います。

 

そうこうしてるうちに、桜の花の蕾も付き始め、

桜が咲く頃には、また新しい仲間が入って来る季節になります。

春を待つのはなんだかいいもんですよね。

 

 

 

2019年1月22日 (火)

初台の太郎ちゃんのこと

昨年の大晦日は、お葬式で暮れました。

亡くなったのはしばらく会ってなかったけれど、古い友達でした。クリスマスの25日に亡くなり、告別式が12月31日だったんですが、彼が病院で意識を失くしたという連絡が、23日にありまして、それは、一人暮らしのその友人がお世話になっていた大家さんからの電話でした。友人の携帯電話の連絡先や通信記録などから、私の電話番号を知り、その電話機から連絡を下さったようです。

そうやっていろいろな知り合いに連絡を取って、お葬式の段取りも、みなやって下さったようで、一人で暮らしていたけど、このように親切にしてくださる方が傍にいて良かったと思いました。

この大家さんが、お葬式の時に、

「これ、太郎ちゃんが好きだったお菓子ですから」と云って、みなさんに菓子袋を配っておられまして、そんなふうに親しくお付き合い下さった方なんだなと、少しホッとしたんですね。

 

そうなんです。その友達はみんなに太郎ちゃんと呼ばれていました。

Taro

私が20代の頃、同じ会社に勤めていた友人夫婦が初台に住んでいて、その家の近くに太郎が一人でやってる飲み屋があったんですね。店の名前も太郎だったかなあ。10人かそこら入ったら一杯になるようなカウンターだけの店で、ツマミもあんまりなくて、安い酒ばっかり置いてあったから、貧しい私たちが夜中に飲みに行くぶんには、ちょうど良い店でした。よく仲間と行ってたんです。

この太郎ちゃんという人は、飲み屋の店主以外に一つ仕事があって、それは売れない役者だったんですけど、言われるまで知らないくらい、ほとんど役者として認識したことはなかったんです。ただキャリアだけはあったみたいで、役者の仲間や友達が客としてよく飲みに来てたんですね。

それで、どんな仕事してるのかを聞くと、あんまり知ってるものはなくて、どっちかというと、ピンク系とか日活ロマンポルノ系のちょっとした役で、そういうことで、日活の女優さんとか、ピンクでちょっと有名な男優さんなんかも飲んでたこともありましたし、たまに普通に有名な俳優さんもいらしたりしたんですね。ただ、この太郎ちゃんが役者として優れていたのかどうかは、よくわからなかったんですけど。

まあ映画って云っても、出てきてすぐにいなくなるような役が多かったんじゃないかと思いますよ。そういう人でして、人気者でしたけど、わかりやすく云うといじられキャラですから、みんなにいじられてて、僕らもそこで飲んでる間じゅう太郎を肴にして、好き放題を言って、飽きると歌を唄わせたりして、思えば傍若無人な振る舞いをしておりました。

そんな関係が出来あがった頃に、

「ところで、太郎って、歳いくつなのよ」って聞いたんですが、なんと私たちより六つも年上だったのですね。ただ、そのことがわかったからといって、今さらこちらの態度を変えるわけにはもう行かず、それ以後も、

「この野郎、太郎!」という関係は続いたのでした。そもそも、その店に最初に行き始めたそのサトルという友達は、やたらとでかくて威圧的な奴だったし、私も口だけは達者な奴でしたから、まあ、そこでは威張っていたわけです。

そんなある夏の日に、なぜか太郎ちゃんと私と仲間たちで、伊豆に旅行に行ったことがあったんですが、ちっちゃい車に5人でぎゅうぎゅう詰めで、エアコンは壊れてて効かなくて、おまけに夏休みで道は大渋滞、真鶴道路のトンネルの中に3時間もいたんですね。

そんな過酷な状況下で、何かのはずみだったと思うんですけど、なぜか太郎ちゃんの身の上話をみんなで聞くことになったんです。それは、太郎が育った岩手の猛吹雪の風景と、それにまつわる苦労話でして、うだるような暑さの中で、極寒の話を聞くわけです。そして、太郎が東京に出てきてからのあれこれ、これまた苦労話の超大作が続きました。この長い道中で、私たちは太郎のこれまでの人生を味わい尽くし、やっと海が見えて、太郎がヨットを見つけた時に、

「あっ、帆掛け船だ」と叫んで、オチがついたという旅でした。まあ、そんなようなことだったけど、みんな若かったし、楽しかったんです。

ちょっと変わった青春話もやがて終り、太郎の店は立ち退きになって、それからしばらくして、太郎は新宿三丁目のあたりで別の飲み屋を始めました。その店もやがてやめちゃうんですが、私たちも20代から30代になって、私もサトルも勤めてたその会社をそれぞれに辞めて、なんとなく、みんな疎遠になっていきました。

 

その後、太郎ちゃんとは忘れた頃に年賀状のやり取りをするくらいでした。相変らず、テレビや映画に出ていてもほんの一瞬だし、そういえばあの有名な「あまちゃん」にも役名付きで1回出たことあったけど、友達でさえわからないくらいの瞬間でしたもん。ほんのたまにそういうことあって、まあ元気なんだろうなというくらいのことでした。

人生長くなってくると、こっちもいろんなことがありまして、もうずいぶん前に友達のサトルは病気で他界してしまい、そのことを太郎に知らせようとしても、その時は連絡が取れませんでした。

それから、もう一つ、何年か前に判明したことがありまして、私が全く別のラインで長く仲良くしていただいてる友達の夫婦がいるんですが、同年代のこの二人がなんと初台の太郎の店の常連だったことがわかったんですね。あんな小さな店でそんなことがあるんだ、世の中は狭いなあということでびっくりして、ともかく是非みんなで会おうということになり、太郎に電話したんです。4人で新宿に集合して、飲みに行ったんですが、本当に久しぶりの再会でみんな嬉しくて、ずいぶん遅くまでハシゴしました。

ただ、その時に太郎ちゃんの身体の調子が万全ではなくて、定期的に人工透析の治療を続けていることを聞きました。でも、その日はずいぶん飲んで、今日は嬉しかったからいいんだと云っていたんですね。

それから、たまに連絡取ったり、私の会社に遊びに来りもしてたんですけど、このところちょっと音信がなかったんです。

去年の正月に、年賀状やり取りしたけど、そのままになっていて、そういえば秋口に、一度電話くれて、また近いうちにみんなで飲もうと云ったんだけど、なんか話があったんじゃないかな、あの時、こっちもちょっとバタバタしててそのままになっちゃったけど、そん時、会っとけばよかったんじゃないかと、つくづく思いました。

 

若い時にすれ違うように出会ったけど、長い間に要所要所で、なんだかすごく縁のあった人でした。

ともかく悪く云う人はひとりもいない、みんなから愛されてましたね。

今頃、あっちでサトルにも会ったでしょうか。

 

2018年12月11日 (火)

この年末に思うこと

Inoshishi


そろそろ2019年の年賀状をどうしようかなと考え始めて、猪の絵でも探そうかと思いまして、「もののけ姫」の老猪のことが浮かんだりしながら、はて、2018年はどんな年だったかなと思うとですね。

いろんな事があったけど、まさに今年は、私の父と母の介護が始まった年でした。

父が昭和3年、母が昭和4年の生まれですから、二人とも、かれこれほぼ90歳ということで、いろんなことになるのは当たり前なんですが。

まず、この春に、父の心臓のペースメーカーに不具合が生じまして、専門的なことはわからないのですが、それを取り外すのが意外に大変な手術になって、長期の入院になりました。それと、そのことだけでなく、ほかにもいくつかの病気が併発しておりまして、一度退院したんですが、すぐにまた別の近くの病院に再入院しました。

そのことがあって、たびたび帰郷を繰り返しておるうちに、このところ物忘れの症状がひどくなってきた母が、やはり認知症であると診断されまして、母一人を自宅で生活させることは、かなり心配な状況であるという判断がありました。

そのあたりで、あの暑い夏がやってきたんですが、いろんな意味で、身体の弱った年寄りには、今年の暑さはこたえるし、そうこうしてるうちに豪雨からの水害もあって、住んでる地域の交通などのインフラが一時麻痺することにもなりました。

いろいろ悩むうちに、父が入院している病院の担当医師のご厚意で、父の病室を二人部屋にして、母も一緒に入院させていただくことが出来て、とりあえず一安心ということにはなったんです。

その後、父は入院したままですが、長期入院で弱った足がますます使えなくなっており、母の方は自宅に戻りましたが、今は泊まり込みのヘルパーさんと、私たち夫婦と、近所の親戚にお願いしたりしながら、誰かが必ず家にいるような状態を保っております。

そんな年だったので、東京と広島の新幹線の往復は、春から10数回を数え、カミさんの回数を加えるとその倍くらいになります。学生のころからずっと東京に根を張った暮らしでしたから、ある意味予測できたことでもありますが、いつの間にか東京-広島間が4時間を切るスピードで移動できるようになっていて、考えてみると助かっています。

この歳になると、世の中の事情もありますが、介護の話というのは、すごく身近なことになります。みんな順番に年を取って行くのですから、これは自然なこととも言えますけど。

人は、老いてくれば、若い時に持っていた生きるための機能を、だんだんに失っていくということがよくわかります。それを補い、生きて行くことを手助けするのが介護という行為なんだと思います。これは、自分一人では生きていけない小さな子供を手助けする育児という行為と共通したところがあります。

かつて自分を育ててくれた親が、いろんな生きていく機能を失いつつある時に、今度はこちらが少しでも手助けを出来ることは、このところ少しずつ長くなってきた人生の時間に感謝するべきことかもしれません。ただ、育児というのは、その対象が日々いろいろな能力を獲得していくのに対し、介護というのは、それを失うことを少しでもくい止めるというようなことですから、未来感は弱いわけです。

人生を1日の時間に例えると、誕生が日の出であれば、今は日没に向かっていく黄昏時の中で、いろいろなことを感じる時間を過ごしているということなんでしょうか、切なくもありますけれど。

そんな気持ちになりがちなんですが、ただ、介護にかかわっておられるその仕事のプロの方たちは、どの方も、ものすごく前向きで元気でいらっしゃいまして、まったく頭が下がります。当人も家族も、明らかにその方たちに、支えていただいてることがよくわかりますね。

 

そうこうするうち、今年も暮れていき、また新しい年がやってきます。

過ぎていく時間の中で、それこそ時間ということを考えてしまう、今日この頃なのです。

2018年11月 7日 (水)

創立30周年記念作品集

私事でなんなんですが、と云っても、ブログなんだからもともと私事なんですが、私の勤める会社が、今年の10月で創立30周年を迎えまして、私も最初からいたんで、会社が出来てから、30年経ったてことなんですけど、ちょっとあらためて、その膨大な時間に唖然としたわけです。そりゃ無事に存在できたことは、目出度いし、祝うべきことなんでしょうが、なんだかその実感というのが伴わないんですね。

ちょうど30年前というのは、1988年、思えば昭和の最後の年でしたが、仲間6人で、六本木の小さな一軒家で仕事を始めました。仕事はTVCMなどの映像制作で、会社の名前は、なんだか偉そうじゃないのがいいねということで、「spoon」としました。

そこからここまで、、まあ冷静に考えてみれば、たしかにいろいろあったわけで、創立当時40才だった社長は、今や名誉会長になり、今年古稀を迎えておられます。私だって34才でしたから、今は足す30ですからね。

ともかく、年月というのは、容赦なく分け隔てなく、流れていくもんです。

 

現在、社員は50人ほどおりまして、1年くらい前から、30周年には何か記念になることをしようという話になり、その一つとして、創立30周年記念作品集をつくることにしたんですね。まあこれは作品集なんで、毎年一冊作ってるんですけど、今年は一昨年から作品集の題名にしている「たべること、つくること」をテーマにして、ちょっと豪華版をつくることになったんです。

うちの会社は、映像など、モノをつくることが仕事で、そのあたりのことはプロとして当然詳しいわけですけど、なんだか、たべることにもすごく関心が高いんですね。

こっちの方は仕事ではないので、わりと趣味的に楽しんでるところはあるんですけど、なんかすごいプロ仕様のキッチンがあったりするわけです。

そういう流れの中で、この5年くらい、ある食の達人に加わっていただいて、週に一回「水曜食堂」という名のランチタイムを開いており、今回の記念作品集は、これを特集して取り上げようということになりました。最強のクリエイティブディレクターと、一流の編集者やデザイナーやイラストレーターやカメラマンに手伝っていただいて、一冊の作品集という名の冊子をつくることになったんです。

自画自賛となりますが、みんなの熱意で、これがなかなか良い本が出来上がりまして、創立記念日の10月4日には、お世話になった皆様に約800冊を発送いたしました。

その本の中に、私なりに30年を振り返って、文を載せました。

以下

 “私たちの流儀”

30周年というのは、なんだか他人事のような気もするんですけど、よく考えてみますと、ここまで歩いてきたspoonの時間というのは、たしかに存在するわけであります。

なにか環境を変えて、新しいことにトライしたいという思いで、小さな船を漕ぎだしたのが、30年前でした。現実はなかなか厳しかったですが、本当に多くの方々に支えていただきながら、少しずつ自分たちなりの存在感を作れてきたかとも思います。

たくさんの得難い仲間もできました。いろいろな理由で、袂を分かっていった人達もいます。会社というものは、一時として同じ形をしていることは無いのだな、ということもよくわかりました。ただ、しだいに、spoonの個性のようなものは少しずつ定着してきたと思います。

そんな中で、いつの頃からか「たべること」というのは、私たちにとって大切なことになってきたんです。厳密には、食べること、飲むこと、食べものを自分たちで作ること、そして、それを通じて人と触れ合うことなんですが。

誰かに何かを食べてもらうプロセスは、日頃私たちが仕事としている、映像を作って誰かに届けるプロセスと、非常に似通っています。まあ、言ってみれば、本業も趣味も同じようなことをしている人たちということなのです。

食べもののことも、映像のことも、ここの人たちは本当に好きで、そのことであれば、いつまででも話をしています。この環境は、意図してそうしたというより、いつのまにか自然とそうなっていました。気がつくと、ちょっとびっくりするような燻製窯や焜炉台が屋上にできていたりするんですね。

つくづくそういう人たちが集まってるんだなと思いながら、spoonにも、同じ釜の飯を食いながら、人が育ってゆくフィールドのようなものが少しずつできてきたのかなという気がします。

モノを作る場所には、人が集まってきて、そこで人が育ってゆくのですが、spoonにとって「たべること」という要素は、そこに大きく関係しているのかもしれません。

何年か前に見つけた「たべること、つくること」というフレーズには、実に我々らしい深みのある意味合いが込められています。

それは、ひょっとして、大げさに云うと、僕らの“流儀”のようなものかもしれません。

長くこの仕事をやってきて思うのは、この仕事は面白いけど決して簡単な仕事ではないということです。いつも難問が待ち構えているし、ハードルは毎回高くなっていきます。それだけに乗り越えた時の喜びも大きいのだけれど、悩みも深く孤独な局面に出くわすことも多々あります。そんな時、僕らのモノを作る時の“流儀”に返ってみることは、解決のきっかけになるかもしれません。

さて、考えてみると、30年という時間は、大変な時間ですね。赤ちゃんが生まれて30才になってるわけですから。

それに、世の中的には、30年続いた会社は、けっこう珍しいのだそうです。

じゃあ、30年で会社は何を残すのか。僕らの会社の場合、映像の原版というのがあります。ものすごい数ですが、これは歳月でいずれ破棄され風化します。お金が貯まったか。それほどでもないし、なんかあればなくなります。所詮天下の回りものですし。

人材はいます。でも、これも時間とともに、入れ換わります。

そう考えてみると、さっきの“流儀”みたいなものは残るかもしれませんね。

これはある意味“イズム”みたいなもんですからね。

30年目、私たちが掲げているのは、「たべること、つくること」

これ、意外に持つかもしれません。大事にしましょ。

Tatsujin

 

 

2018年10月 6日 (土)

立川流家元を偲ぶ

今年の春頃に、クリエイターのT崎さんから本をもらったんですけど、どういう本かというと、「落語とは、俺である。立川談志 唯一無二の講義録」という本で、2007年の夏に8回にわたって収録された、インターネット通信制大学の映像講義で、談志さんが語り下ろした「落語学」であり、2011年に鬼籍に入られたこの方が、おそらく最後に落語を語った本ではないかと思われるんですね。

この本は、ちょうど70歳を超えた談志さんが、落語家として歩んできた自身の足跡を振り返りながら、彼一流の独特な視点で、落語の世界を言いたい放題に語ったもんであり、いずれにしても、天才落語家が最後に語った講義録として実に貴重な記録です。

これまでに談志さんが出された本は結構あるんですけれども、個人的には何冊か持ってまして、実は私、いつのころからか談志ファンを自負しておったわけです。

今、私たちの業界の私の周りでも、落語はちょっとしたブームが来ておりまして、熱心に聴きに行く仲間が増えています。確かに、この芸術は完全な一人芸ですべてを表現し、その中には、笑いも涙も人生訓もなんでも内包されており、上手い話手にかかると、観客はその世界に一気に引っ張り込まれてしまう魅力があります。

私の世代も子供のころから、ラジオやテレビでなんとなく落語というものには触れて育ってきたわけですが、いつどうなってどうなったのか覚えちゃないのですが、大人になった頃、気がつくと、立川談志という噺家のファンになっていたんですね。

昔の記憶では、この人はなんだか騒々しく目立つ人で、国会議員に立候補して当選したと思ったら、政務次官をクビになったり、落語協会を脱会しちゃったり、なんだか型にはまらない、変な大人だったんですけど、これはみんなが言うことだけど、落語はうまかったんですね。それと、高座で本題に入る前の、いわゆる「まくら」が絶品でして、これは云ってみればフリートークなんですけど、この人の「枕」は、いろんな意味で評判だったんです。

その頃は、落語というものをテレビで中継することも多かったし、今より観る機会があったんですけど、

「落語家は、誰が好き?」などと聞かれますと、

「そうねえ、やっぱ談志かな。」などと、生意気を云うようになってましたね。

そんなにうんちくは語れないんだけど、この人の芸はうまいなというところがあって、セリフの間とか、歯切れがよくて心地いいというか、かと思うとグッと引き込まれてしまうところもあり。それと、これもエラそうには云えないんですけど、姿がいいというか、形とか仕草とかがきれいなんですよね。そういえばVHSで、「立川談志ひとり会・落語ライブ集全6巻」ていうのも買ったし、1回だけ頑張ってチケット取って、独演会も行きましたが、それはそれは、やっぱり名人芸だったなあ、と。

 

その頃、多分20代の後半とかと思いますけど、ノリちゃんという友達がいたんですが、この人が、

「ところで、談志さん、そのあたりどうなんですか。」とこっちが振ると、

「いやあ、そりゃあねえ。」などと、

あっという間に、顔もしゃべりも立川談志になってしまう奴でして、ほっとくと何時間でも談志のままなんです。

それじゃ、ということで、私は私で得意の寺山修司になりきり、朝まで対談したことがありましたけど。

まあ、そんなマニアがいるくらい、私たちの間では、立川談志師匠は人気があったんですね。

 

思えばこの方は、落語を通じてずーっと自身を表現し続けた人であって、この方の立ち上げた立川流という流派からは、多くの才能が育ち、今、私の周りで落語に凝っている人達の多くは、談志さんのお弟子さんたちの高座を聴きに行っているわけです。いつだったか、志の輔さんの高座に行きましたけど、それは見事なものでしたね。

そうやって考えると、ずいぶんと乱暴なとこはある人でしたが、立川談志という人は、

一時代を築いたクリエイターであったわけです。

この人が最後に語った講義録であるこの本を、今を代表するクリエイターのTさんが勧めて下さったことは、私的には、すごく腑に落ちることでありました。

Danshi2

 

2018年8月28日 (火)

祝・古稀

古来、「古稀」というお祝い事があります。

唐の詩人、杜甫の詩・曲江「酒債は尋常行く処に有り人生七十古来稀なり」に由来するそうで、70歳を祝うことなんです。

詩の意味は「酒代のつけは私が普通行くところにはどこにでもあるが、七十年生きる人は古くから稀である」ということらしいんですが、学がないんでなんだかよくわからないですけど、どっちにしろ酒飲みの詩人なんすかね。

それはともかく、私の周りには、このところ70歳になられる大先輩がわりとおられまして、こりゃ一回お祝いしようということになり、会が開かれることになったんです。

今年、御年70歳におなりになるのは、昭和23年頃のお生まれで、戦後ベビーブーマーと呼ばれる方々で、もともとこの国において人口比率の高いジェネレーション、いわゆる「団塊の世代」です。

昭和20年の終戦の直後に復員兵の帰還に伴って出生率が上昇した時期に生まれた世代と云われておりまして、昔から戦争の後には、たくさん子供が生まれて人口が増える傾向があるようなんですね。

ということなので、この年代の先輩たちはもともと人数が多いのと、大人数の中で生存競争をしてこられたので、皆さんシブトイ、じゃなく御丈夫でお強くあられます。

自分が社会に出ました時にも、業界のなかで上を見上げますと、6才程上のこの年齢の方々がびっしりと活躍されておりまして、しかも、皆さんほんとに優秀なもんで、なんだか当分は自分が上がってゆくのは難しいんじゃないかと思えました。このことは、たぶん私と同年代のどの業界の人達も感じたことだったんじゃないでしょうか。

ただ、仕事で云えば、彼らからすると、人数の少ない私たちの年代を育てないことにはどうしようもないわけで、わりと丁寧に親切に育てて下さったことも確かでして、実は大変お世話にもなってるわけであります。

 

たとえば、今回古稀の会に来ていただくのは、私が22才の時にこの仕事を始めて、わりと初めて仕事らしいことをやった時に、会社の上司でプロデューサーだったY田さんと、スポンサーの宣伝部の担当者だったN川さんと、担当コピーライター兼CMプランナーだったS山さんでして、思えば皆さんその時まだ20代でしたが、それからかれこれ40年くらいお付き合いをさせていただいてるわけであります。ただ当たり前ですが、40年間ずっと6才下の後輩という立場は変わっておりません。

それに加えて、皆さんとその頃からのお仲間で、今や世界的なアートディレクターのT田さんも来てくださり、又、同じくお友達のご夫婦で、湘南にお住まいでよくお世話になっているK村さんと奥さまのお二人にも来て頂き、皆さん丁度そのあたりのお生まれでありまして、なんと6名の古稀のお祝いとなったのであります。

お祝いをするのは、皆様のご家族と、私たち後輩有志です。

幸いなことに、本当に皆さんお元気でいらっしゃいまして、この日はおいしい肴を用意して、すっかり深酒でもいたしましょうかと思ってるわけです。

ただ深酒するというのも、いつもと変わらないので、何か記念になるものを作ろうかという話になりまして、皆さんに歌舞伎役者のような屋号を付けて、記念手拭いと、似顔絵イラスト付き幟(のぼり)を製作してプレゼントすることにしました。

デザインは、S山さんのお嬢さんが担当してくださいましたが、才能豊かなお嬢さんでして、相当良い出来になっております。そんなことで、当日はかなり盛り上がりそうで今から楽しみであります。

いずれにしましても、日頃よりお世話になっている先輩の節目のお祝いを、みんな元気にできることは、ありがたいことであります。

今年古希を迎える先輩は、特に元気なんじゃないかとも思えますが。

 

ちなみに、皆さんの屋号は、出身地、居住地、会社名、職種などより、いいかげんにつけております。

おめでとうございました。

Koki_2

2018年3月22日 (木)

二合句会

「二合会」という会があって、何年か前から参加しておりますが、要は5人ほどのオッサン達が集まって酒飲んでる会なんです。そもそもどうして始まったかと云えば、僕らの業界の、ある大先輩が広告の会社をリタイアされてしばらくした時に、同じようにリタイアした仕事仲間で、たまに集まって飲もうかと云うことが、きっかけだったようなんですね。

それを始めたお二人の大先輩が、これからはちゃんと健康にも留意して、しっかり歩いて集まって、酒量は二合と決めようというふうにおっしゃって、「二合会」というネーミングになったんです。そのお二人が自宅から歩いて丁度よい神楽坂の毘沙門天に夕方5時半に集合するのが慣わしとなり、まあ建前としては、二合飲んだらおしまいという会なわけなんですね。最近ではビールと焼酎は別だとかいう話になったりしてますが。

私は厳密に云えばまだリタイアしてないのですが、まあお前も仲間に入れたるから来いということで、酒好きの特権で参加させていただいとるんです。そんな私を含め、今のところ基本5人のメンバーなんですが、現役時代は、あまり気軽にご一緒するのも憚られる大先輩方でしたから、この会で少しは慣れ慣れしくお近づきになれ、それはそれで嬉しくはあるんですけれども。

集まるタイミングは、これも特に決まってはいないのですが、なんとなく季節の変わり目にやるのが習慣になっております。

この会にちょっとした変化があったのが、一昨年の夏だったんですけど、ある時いつものように飲んでいたら、なんか俳句の話になったんですね。それは、「二合会」の中心メンバーのT先輩が、いくつかの句会に入っておられて、俳句の活動をされており、その話をうかがっておったところ、同じく中心メンバーであられるK先輩が、

「次の会から、俺たちもやろう!」と鶴の一声が出まして。

ちなみに、T先輩は元コピーライターで、K先輩は元アートディレクターなんすけど。

まあ、このお二人が決められたことには、ほかの3人は逆らいませんので、とにかくやってみようということになったんです。

もちろん、日本人ですから今までに俳句というものを読んだことはあるんですけど、自分で詠んでみようという気はサラサラなかったのですね。

ただ、それ以降、「二合会」は「二合句会」と名を改めることになりました。まあそれほど大げさなことではなく、いつもの飲み会の初めの小一時間ほどが、句会になっただけなんですが。

どんなふうにやるか簡単に説明しますとですね。

まず、このT先輩に師匠になっていただき、師匠の俳号は「三味先生」といいますが、我々も皆、俳号を決め、句会ではその名で呼び合いますね。そして、春夏秋冬に一回ずつ会を開きまして、その会の約一月半くらい前に、三味先生から兼題という形で季語の提案があります。その兼題を詠みこんだ句も、自由に詠んだ句も含めて1人が3句、句会の一週間前に先生に提出します。これはメールで送ることになっておりますが、そこで5名で15句が揃うわけです。句会の当日には、誰が詠んだのかわからない状態で、先生が15句を書き出して下さっています。会が始まりますと、一人一人がよいと思った句を自選はせず4句選んで投票し、その句を選んだ理由を述べます。つまり、20の票が15の句に投票されるわけです。それから、票を多く集めた句から順に詠み人が知らされ、作者はその句を詠んだ背景や心情などを述べます。

そのような小さな句会なんですけど、いざ俳句を詠もうとして考え始めると、意外や結構悩むもんでして、たった17文字に、いかに言葉を託するかやってみると、深いんですわ、これが。

そんなことなので、いざ票が入って、どなたかがこちらの意図を判って下さったりすれば、やはりちと嬉しいし、全く票が入らなければ、伝わんなかったんだと、ちとがっかりしたりして、なんつうか小さな一喜一優があるわけなんです。

この句会が7回、7季節続いてるんですが、じゃ、どんなもんを詠んどるんじゃと云われればですね。たとえば、この前の、私の春の二合句会の3句とその評価なんですけど、、

 

・夜気温み寄り道照らす朧月

これ、めずらしく4票いただけ満票だったのですが、師匠からは、「温み」と「朧月」が、季重なりであるとの指摘を受けました。そうかあ、未熟でした。

・出遅れて土手の名所は花吹雪

これは、1票だけいただきました。それともう1句は票が入りませんでしたが、

・吹き上がるトリプルサルコウ春一番

これは、ちょうど先生からの兼題に「春一番」が出題された時に、オリンピックのフィギアスケートを見て興奮してたもので、ちょっといいかなと思ったんだけど、空振りでした。

Toripurusaruko

 

この程度で、俳句やっておりますなどとは、とても申せぬお恥ずかしい限りなんですが、季節毎に一度、「二合句会」の日程が決まると、ちょっとやる気になったりしておるわけであります。

ちなみに、私、俳号は、師匠の「三味」先生より一字もらいうけ、「無味」と称します。はい。

Powered by Six Apart