2021年2月24日 (水)

どこか遠くへ行きたい

世の中がこんなことになって、かれこれ一年が経とうとしてます。つい先日、実家がお世話になっている税理士さんに会わねばならなくなって、久しぶりに広島まで新幹線に乗りましたが、思えば、旅することがなくなって、ほぼ一年になります。
こうなると、なんだか無性に旅というものが恋しくなりますね。国内はともかく、今は国境を越えることすらできませんから。私のお友だちには、旅をこよなく愛する方が多くて、皆さんしばらく、鬱々とした日々を過ごしていらっしゃると思います。
私はもともとが出不精だし、自分から思いついて、どっかに出かけたりはしないんですけど、何かと旅をすることになりがちな人でして、旅慣れてはいるんですね。それは仕事と関係することが多かったりもするのですが、そうじゃなくても、何らかの用事ができたり、旅好きな方から一緒に行こうと誘ってもらったりと、わりと若い頃からずっとそうで、長いこと、旅する理由には事欠かない人だったんです。そんなことで、こんなに長いことどこにも旅しなかったのは、初めてじゃないですかね。
考えてみると、旅からは、いろんなことを教えてもらいましたね。旅せねば出会うことのなかった人や、街や、土地や、ものや、新しい価値観、いいことばかりじゃない違和感も含めて、他者から多くのことを受け取り、そこで自分と向き合うことも多かったと思います。
旅には、その風景や時間とともに、強い印象を残した記憶が刻み込まれているんですね。
これからは、自分が行きたいと思ったところへ、ふらっと旅してみたいなと、思っていたところだったんですけど、この状況下では、なかなか思うにまかせず、旅に焦がれ、空想の日々が続きます。

このまえ、伊丹十三さんの若い頃のエッセイを読んでいたら、沖永良部島(おきのえらぶじま)で食べた落花生がうまかったという話があって、久しぶりにこの地名に触れ、若い時にひょんなことで、この島を訪れたことを思い出しました。この島は鹿児島県ですが、東シナ海のかなり沖縄寄りに位置します。
私が学校出てすぐに働いていたCMの制作会社で、この島にロケに行く仕事が起こり、その仕事にお供させてもらうことになります。多分この時初めて飛行機というものに乗った気がしますが、1977年頃のことで、スタッフ全員の航空チケットを飯田橋の旅行代理店まで受け取りに行き、その時に持たされた現金90万円は、それまでの人生で見たことのない金額で、緊張したのを憶えています。
島は周囲50kmくらいで、車なら1時間で一周できるくらいの大きさです。九州本島からは550kmほどで、幕末に西郷隆盛が遠島にされていたというところです。我々がロケをするために向かったのは、沖永良部島にいくつかある小学校のひとつで、校庭にすごく大きなガジュマルの樹がある小学校で、大きな樹をビジュアルモチーフにしたある企業の広告を作るため、樹と学校の風景を撮影するのが目的でした。
見たこともない映画用のでかいカメラと共に、突然やってきた大勢の大人たちに、離島の子供たちは、初め戸惑いながら遠巻きにしていましたが、だんだん近付いてきました。
「おじさんたち、何しにきた?」と聞いた子がいて、多分、彼らと一番歳の近い私が、
「テレビのコマーシャルを撮りに来たんだよ。」と、答えたんですけど、
当時のこの島の多くの人たちは、コマーシャルというものを知らなかったんですね。要は、民放の放送がなくて、NHKしか放送されてないので、ここにはテレビコマーシャルというものはないわけです。
その時、仕事のために持っていたポラロイドカメラがあって、それ自体、当時珍しくて貴重なものだったんですが、フィルムが余っていたので、子供たちを撮って写真をあげたんですけど、その場でカラーの画が浮き出してくる写真に、みんな目が点になって、その後で歓声が上がりました。写真をちり紙に綺麗に包んで大事にランドセルにしまう女の子もいまして、コマーシャルってなんだかわからなかったけど、悪い人たちじゃなさそうだなみたいなことにはなりました。
仕事も終わり、帰りの飛行機を待っていたのは、空港ターミナルビルとは呼び難い、どこかのローカル線の小さな駅舎のような建物でして、鹿児島空港から飛んで来るYS-11が折り返し私たちを乗せて飛んで行くことになっていました。飛行機が着陸すると、空港にいた整備員がすぐに走って行って、やおらYS-11の屋根のランプのあたりに乗っかって、なんかやってるんですね。で、しばらくしてこっちの建物の方へ走って来て、何人かでなんか話してるんですけど、客の方へ向かって、
「皆さんの中で、どなたかガムテープをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と、おっしゃる。
ご存知じゃないかもしれませんが、撮影隊というのは、必ずガムテープを持っていて、当然、備品は一番下っ端の私が管理しているわけです。その整備の人にガムテープ2本くらいお渡ししたと思うんですけど、その人がYS-11の方へとって返したかと思うと、その機体に登ってまたがり、やおらガムテープを数カ所貼り始めたんですよ。
「えっ?」
それから、何事もなかったように搭乗手続きが始まるんですけど、それを知ってる人たちは結構不安なわけですよ。もともと飛行機のことをあんまり信用してなかったんですけど、初めて飛行機で旅した時のこの経験から、ますます飛行機嫌いになった気がします。

これが私の、沖永良部島・旅の思い出ということなのですが、どうもこの島にはご縁があったようで、それから2年くらいして、もう一度、また別の仕事で撮影に行くことになりまして、これがまた思い出深い旅になります。というか思い起こせば、その後の長きに渡る私のロケのキャリアにおいて、唯一最後まで晴れなかったロケだったんですね。
毎年、2月、3月あたり、鹿児島の南から沖縄の各島に渡って、いわゆる台湾坊主(東シナ海に発生する温帯低気圧)が停滞して、ずっと天気が悪いことは知られていますが、そうは言っても1日や2日晴れる日もあるし、だいたい俺たち晴れ男だしみたいな気合で挑んだロケでしたが。
この仕事がまた “ピッカピカの一年生”という児童雑誌の広告キャンペーンでして、文字通り晴れないわけにはいかないのであります。ところが、来る日も来る日も、雨、雨、良くて曇りなわけです。東京のこの仕事のクライアントからは、撮れるまで帰ってこなくてよいとのお達しがありましたので、ただ雲の切れ間を待っております。
ロケ隊は男10人ほどの所帯で、泊まってるのは、さほど大きくない観光ホテルなんですけど、シーズンオフで他に客もなくて、毎朝、海に面したレストランに集まるんですが、空にはびっしり鉛色の雲が幾重にもかかっておるわけでございます。
こうなれば粘るしかないんですが、この小さな島には娯楽もなく、毎晩、黒糖焼酎や泡盛飲むにしても昼間は天気が悪ければ行くところもないし、そこら辺にある雑誌は全部読んでしまって、ついには連絡船で届いた新刊本を港に買いに行く始末です。日々の会話も無くなり、朝ご飯済んだらそれぞれベッドに戻り、サナトリウムってこういう感じかなと云ったりしておりました。
そんな長期滞在の末、どうにか薄日で撮影を終え、ついに島を離れる時に、一年半の遠島から帰国できることになった西郷さんの心持ちにちょっとなったといえば大袈裟なんですが。

それからも、東シナ海をめぐる島々には、よく仕事で出かけましたが、その中で最初に行ったこの島のことは特に印象深いです。でも、あれ以来行ってないですから、今はどんなふうになっているのだろうか。ちょっと行ってみたい気もするけど、、

多分、なんもかんも違う景色で、完全に浦島太郎状態なんでしょうね。

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2021年2月 1日 (月)

100年という時間

緊急事態宣言下、人に会えない日々が続いております。こういう時は、体を動かすのも、考え事をするのも、なにかと自己に向き合うことになります。
それはそれで悪いことじゃないんですけど、
「久しぶりに、一杯やりますか。」というフレーズが封印されて、長くお会いできてない方の数が、どんどん増えております。
そんな中、長いこと仲良くしていただいているヤマちゃん先輩から、本を一冊いただきまして、先輩は昔から、急に何かをくださることがあって、それは本だったりいろいろなんですけど、ネットで買ったゴルフシューズがちょっときつかったからと、3足いっぺんにいただいたこともあり、そんなことはいいんですけど、この度いただいたのは、
「日本を決定した百年・吉田茂著」という文庫本でして、同じのをもう一冊持ってるからあげるということで、ありがたく頂戴いたしました。
他にたまってた本もあって、しばらく置いといたんですが、先日読み始めてみると、興味深い本でして、いろいろ考えさせられることがあり、なかなかに知的なプレゼントでありました。

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これ、どういう本かというと、戦後の名宰相といわれた吉田茂が、1966年にブリタニカ百科事典の巻頭掲載用として書いた論文でありまして、それまでの日本の100年の歴史を分析解説し、この国の将来に向けた考察を加えています。吉田さんは、この本が出版された1967年の10月に亡くなっていますので、奇しくも遺言のような意味合いもありますね。
この方は、1878年のお生まれですから、明治からの100年をほぼ一緒に生きた人で、政治家としてその歴史の意味を論じておられるわけです。この本を読んで、あらためて思ったことは、この国は、このたった100年の間に、あまりにも多くのことを経験しているのだなということです。
幕末の開国を機に倒幕運動に火がつき、江戸幕藩体制が瓦解し終焉します。1868年の明治維新からは、欧米の制度、文明を取り入れ、国を挙げての富国強兵が進み、明治の半ばには大陸における国際的な摩擦から、日清戦争・日露戦争が起こり、それには勝利しますが、大正期昭和期には、世界的な帝国主義、領土拡大の流れの中で、アジアにおける派遣を賭け、太平洋戦争、第二次世界大戦へと参戦、多くの人的、経済的犠牲の上に敗戦。そして、GHQによる占領、戦後社会への改革、新憲法の公布、サンフランシスコ平和条約締結、占領からの独立、経済復興、東京オリンピック。
これだけのことが、このおよそ100年の間に起きておるわけです。
その上で、百年の歴史から学ぶべきことを学び、この国が向かうべき方向を語った本と云えます。
明治11年に生まれた吉田は、外交官になり、駐英大使などを務めます。太平洋戦争前には開戦阻止を目指し、開戦後は和平工作に従事しますが、その活動が露見し、憲兵隊から拘束後、投獄。その後釈放され終戦を迎えます。
終戦直後の内閣で外務大臣、1946年5月、総理大臣となりますが、この時すでに67歳。1951年のサンフランシスコ平和条約締結の署名をした時は、72歳でした。

読後、考えさせられたことは多々ありますが、正直、最も強く感じたのは、100年という時間のなせるわざについてです。この時間が、果たして長いのか短いのか。100年という時間は、いずれにしても世の中を全く変えてしまいます。
ちなみに、私が生まれたのが昭和29年、戦後10年くらいですが、その100年前ということになると、1854年でして、この年はアメリカからやってきたペリーが幕府に開国を迫った年なのですね。これは教科書にも書いてある歴史の話なわけです。
最近、人生100年時代なんて云われていて、現に100年を生きる人は増えつつありますけど、もしも私が100まで生きたとして、生まれた時から見れば、それはそれで異次元の世界ですね。
どうも私たちが暮らすこの星は、この200〜300年の間に急激に変化しており、それがますます加速しているような気がします。何かで読みましたけど、地球規模で歴史が大きく変化し始めるのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命以後で、この辺りから社会の形が急速に変わってきたようですね。例えば、地球の人口でいえば、1802年に10億人だった人口は、現在80億人に近づいており、私が生まれた頃の世界人口の倍を超えております。
今、地球上で、人類がえらいことになっているコロナ禍も、その急激な変化のひとつなのかもしれません。そして、今からちょうど100年前に、やはり世界規模でスペイン風邪が蔓延しており、この時も人類は大きなダメージを受けました。これもまた100年という時間の不思議でしょうか。

生命体としての地球の時間で言えば、100年て、まばたきくらいの長さだといいますけど。

2021年1月12日 (火)

2021年の新年は明けましたが

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さて、令和三年丑年となりました。

あけましておめでとうございます。
と、挨拶を交わす例年通りの年明けなのですが、世の中は今までに経験したことのない、不穏な空気で幕を開けることとなりました。
ついに昨年の大晦日には、コロナウイルスによる東京の感染者数は1300を超え、首相官邸は緊急事態宣言の発令を迫られました。いずれにしてもしばらくは、先の見えない不安な世相が続くことになりそうです。
この状況を食い止めて、今、世の中を支えているのは、間違いなく医療関係者の方々でして、命を落としかねない最前線で、日夜献身的な働きをしてくださっています。全くもって頭が下がるだけであります。
崩壊寸前のこの前線を守るために、自分が役に立つことは何ひとつなく、できるのはおのれが感染者にならぬことのみです。そのために、日々肝に命じるべきは、マスク手洗いは当たり前ですが、それに加え、いわゆる三密を避けるために、人と会って長い時間話をしないこと、それに付随して会食をしないこと、というのがあります。
実は、私、これが辛いんですね。
気心の知れた仲の良い人たち、久しぶりに会いたい人たちと、ちょいと気の利いた肴で一杯やる会が、わたし大好きなもので、そういう機会を作ることは熱心で、呼んでいただく場合も、よほどの事がなければ、まず断ることはありませんでした。そしてかれこれ一年程、その楽しみを封印されているようなものであります。

換気の良いところで、少人数で小時間で会食したことがなかったわけじゃありませんが、俺的に云えば、それもかなり手加減してますし、そもそも去年から、会いたい人を気軽に誘って良いもんだか、悪いもんだか悩むし、声かけるのも躊躇して、結局やめとこうかということになり、こちらもそうだけど、あちらもそうみたいなんですね。
ただ酒飲むのが好きなだけだったら、一人でしんみり飲んでりゃいいんでしょうけど、私の場合、全くそういうタイプじゃなくて、ほっとくといつまでだって飲んで喋ってる人ですから、このご時世には、最も向いていないタイプなわけです。
ただ、この難局を乗り切るためには、全員、耐えるべきは耐えねばなりません。そして、ともかく医療がきちんと機能できるように、考えられる対策は全てやらねばならないんだと思いますよ。命あっての物種ですから。

こういうことになってから、ネット時代ならではのリモートという仕組みができて、これは同じ空間にいる必要がなく、コロナ禍においては大変便利な文明の利器でした。多くの仕事におけるコミニュケーションが、これによってどうにか繋がり、前に進めることができたと思います。今回の災難が収束しても、このシステムは仕事をする上で有用になるでしょうし、多分仕事の仕方そのものが少し変わるかもしれませんね。
まあリモート以前の時代にも、どうしても会えない相手と、電話とFAXを駆使してどうにか打ち合わせしたりはしてましたから、追い詰められれば、どうにかなるんでしょうけど。
そんなことで、このリモートで飲み会をやろうかという話も時々出るんですが、とりあえず自分で酒持ってモニターの前に座れば、複数の人たちと確かに盛り上がることもできそうなんですけど、どうもそこまでしてという気にもならないんですね。要はどうもまだ慣れてないっていうことなんでしょうか。会議にしても、もうひとつ苦手なんですよね、あえて相手と距離を取るメリットを利用する手もあるかもしれんけど、なんかライブの芝居を中継映像で観てるような、物足りなさがあるかなあ。結局、前時代のアナログ人間ということなんでしょうか。

おそらく、この先々にも、忘れることのないこの灰色の時代が、早く通り過ぎることを祈りながら、ウイルスをやり過ごし、日々戦い、工夫をして生産活動を続けて、どうにか生き残ることが、この時代を共に生きる人たちの宿命ということかもしれません。
きっとこの厄災が収束した頃には、生きていく上での新しい選択肢も増え、今までとは違う仕事の仕方や楽しみも生まれるのかもしれんです。
それまで、ともかく助け合って頑張りましょう。
助け合うにしても、なかなか会えんのだけどね。
そういう時こそ、リモートでしょうか、やっぱり。

2020年12月21日 (月)

さよならAzzurra 、お世話になりました

私たちの会社が、六本木から、ここ神宮前3丁目に越して来たのは、かれこれ17年ほど前なのですが、新参者の我々が、ご近所ですぐに仲良くしてもらったのが、3軒隣のビルの地下にある「アズーラ」というイタリアンレストランです。おいしいのはもちろんで、青い壁のお洒落なレストラン(Azzurraはイタリア語で青い)なんだけど、当時流行り始めていた、わりと気取ったイタリアンじゃなくて、すごくさばけた感じで、云ってみればちょっとイタリアの裏町の居酒屋っぽくて、私たちと合いそうな気がして、勝手に、ここを社員食堂と呼ぼうなどと、言いたいことを言っておりました。
お店は、サイトウさんご夫婦と、アシスタントスタッフ二人で切りまわしておられ、厨房はご主人が、フロアは美人の奥さんが担当で、いつも気持ちの良い仕切りで料理が出てきます。僕らが越してくるだいぶ前から、ここにお店があったみたいで、すでにファンの沢山いる評判の良いレストランでした。
ご夫婦は、とても気さくで面白い人たちで、すぐに友達のように親しくさせていただき、ご主人は僕より少し年上で、マスターとかシェフと呼び、奥さんは同年代なのでキョウコちゃんなどと呼んでおります。

すぐ近くにみんなのお気に入りのレストランが出来たので、仕事の仲間たちとも、お客さんとも、いろんなメンバーでなにかと盛り上がる場所になります。前菜からパスタからピザから、肉や魚料理など、レストランのメニューはかなり豊富なんですけど、私はほぼ全部食べてると思います。そして、どれもみな美味しいです。私の肝心な友達や身内は、全員来たことがあるんじゃなかろうか。
だいたいいつも閉店まで飲んでるんですけど、お店のスタッフが片付けを始める頃には、マスターがワインボトルを片手にやって来ます。そこから結構盛り上がることも多々あり、それもパターンとなっております。カラオケ行ったこともあったな。
お二人ともゴルフ大好きなんで、定休日の火曜日にご一緒することもあります。それで、うちの会社のゴルフコンペを火曜日にした時期もありましたね。
我が社の忘年会は、毎年全員参加でAzzurraでやることに決まっていて、年末のかき入れ期に申し訳ないんだけど、一晩貸し切りにさせていただいてもおります。
というようなことで、うちの会社がすぐ近所に越してきたことが、良かったのか悪かったのか、ともかくすっかりご縁ができて、会社丸ごとお世話になってるこの17年なのであります。

それから、この春からのコロナ騒ぎになるんですけど、このことが各飲食業に与えたダメージは計り知れません。こちらも自宅待機の日々が続き、Azzurraのことが気にかかっていたのですが、なかなか様子もわからず気を揉んでおりました。しばらくして、昼間にお店を覗いたらスタッフの方が仕込みをされてて、聞けばなかなか厳しい状況とのことでしたが、ただ、店はしぶとく開け続けておられるようで、もともと地力も歴史もある御贔屓の多いレストランでありますから、なんとか健闘を祈っておりました。
そんな中で、うちの会社の人たちから、どうもAzzurraが、今年いっぱいで店を閉めるようだという情報が入りました。でもそれは、コロナ禍が直接の原因ではなくて、ビルの取り壊しが決まったからだそうです。そういえば、このビルに入っている他のお店からも、その知らせが入ってきました。この数年、その噂は時々耳にしてたんですけど、ついに現実になったということです。
考えてみると、このビルって神宮前3丁目にずうっと昔からあって、多分私が東京に出てきた頃にはあった気がしますもんね。それ45年前くらいのことですが。そう思えば立て直すのも道理かもしれません。
12月になってすぐ、Azzurraに顔を出しました。去年の年末以来ですから、こんなに長いことご無沙汰したのは初めてです。サイトウさんご夫婦に今後のAzzurraのことなど、聞いてみたんですけど、これを機会に、長くやってきたこのお店を閉めることにしたそうです。多くのお客さんが閉店の話を知ったせいもあるのでしょうが、レストランは満席状態で、Azzurraという店を閉めるのはもったいないなと思いました。しかし、考えてみるとマスターも70歳を超えて、会社であれば定年してる歳だし、ここからまたどこかで新しく店を開けるのも大変でしょうか。
もう、ここで飲み食いができないとなると、なんとも云えず未練がつのります。
イタリアンビールから始め、フリットに好物のトリッパ、マッシュルームのカルパッチョ、ほうれん草のソテーに、ムール貝に牡蠣に、まあ色々つついて、ワインは白から赤にいって、鰯のピザほおばったら、蟹のパスタにリゾット、仕上げは肉料理各種、魚もイキのいいのが揃っていて、最後はグラッパまでいただいて、余力があったらデザートも。Azzurraのこれができなくなるわけであります、ざ、残念。

でも、ご夫婦は変わらず千駄ヶ谷の鳩森神社の近くに住んでらっしゃいますし、お友達の末席にも置いていただけたので、これからもどこかで、料理を作っていただくこともできるんじゃないかと思って期待してます。

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年内はなかなか予約が取れないくらい忙しい状態みたいですから、年始はゆっくり休んでください。
当分大好きなイタリアへ旅行へ行くのも無理みたいだし、陽気がよくなったら、とりあえずゴルフにでも行きたいですね。

絵が下手で、似てなくてごめん。ほんとはもっと男前と美人です。

2020年12月10日 (木)

「屋根の上のおばあちゃん」という本

本日は、最近出版された新刊本を一冊、ご紹介いたします。
河出書房新社より10月29日に発売になりました「屋根の上のおばあちゃん」という本です。
これは、この春に第一回京都文学賞の優秀賞を受賞した小説でして、京都の太秦(うずまさ)を舞台にした、あるおばあちゃんの半生が描かれております。そのストーリーには、活動写真や弁士やフィルムやその現像の話などが、大事な要素として関わりあっておりまして、涙あり笑いありちょっと考えさせられるところありの、ハートウォーミングな物語となっております。

そこで、この本がどのような経緯で世に出たかについて、ちょっと解説しますね。
まず、小説の著者の藤田芳康さんという方は、長年にわたり私たちの仕事におけるパートナーであり、友人でありまして、かれこれ30年にも及ぶお付き合いになります。
私たちが映像制作会社を立ち上げたその頃、彼は30歳くらいで、ある食品企業の宣伝部員でコピーライターでCMプランナーでありました。ひょんな事から私たちと出会い、そこからいきなり飲料のCMをたくさん制作することになります。我が社の担当プロデューサーは万ちゃんPです。それからしばらくして、藤田さんは企画だけでなく演出も手がけるようになり、いろいろな傑作CMを演出家として一緒に作ることになっていきます。
この人が突然に演出という仕事ができたのには、それなりの理由があるんですが、まず広告の仕事をしながら、実に多くの映像作品を研究していたことがあります。映画も、ものすごい本数を観ているし、鈴木尚之さんという有名な映画脚本家のお弟子でもあり、シナリオを書く勉強を長く続けていました。
そんな中、1998年、彼が執筆した「ピーピー兄弟」という脚本がサンダンス国際映像作家賞を受賞するんですね。やがて2001年、機会を得て藤田芳康監督・脚本の映画「ピーピー兄弟」は制作公開されました。当然の如く、私たちもお手伝いすることになります。
それから後も、彼は広告の仕事をしながら、脚本を書き続けていました。時々読ませてもらってましたが、そのシナリオには独特な世界観があり、ものによっては小説にしてみたらどうかと話したりもしてたんですね。そんな中に「太秦ー恋がたき」という話がありました。
彼はCMディレクターとして、長くその企業の日本茶の商品を担当していて、その企画の舞台はすべて京都だったんですね。彼は大阪の出身ですが、そんなことで京都のことはかなり研究していました。そこに、大好きな映画の話を絡め、自身のおばあちゃんのエピソードを交えて、「太秦ー恋がたき」というお話ができていったようです。
昨年の秋頃に、この小説の原型を読ませてもらい、最近新設された京都文学賞という賞に、この小説を応募したいと聞いた時に、これはひょっとすると獲れるんじゃないかと思ったんですね。実際にはずいぶんたくさんの作品が応募されたようですが、今年の1月に最終候補の5作品に残ったというニュースは快挙でした。
それから今年のコロナ禍の中、小説「太秦ー恋がたき」は京都文学賞・優秀賞に正式に受賞が決まり、4月に授賞式がありまして、河出書房新社が出版に手を挙げます。編集者との打ち合わせが続き、半年ほどして題名は「屋根の上のおばあちゃん」になりました。「太秦」では、読者が、地名とわからなかったり、読めなかったりすることも考えられるからだそうです。そんな流れで本として完成し、10月の末に書店に並んだわけです。そして、11月の28日に、この本が京都の丸善で1位になったとの朗報が入りました。
小説が一冊の本になるには、実に時間もかかり、いろんなプロセスがあるもんだなということがよくわかりました。

ともかく、なかなか良書なんで、是非読んでもらえたらと思います。

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2020年11月30日 (月)

ホークス強かった

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コロナ禍の中、春からいろんなことになってしまった今年のプロ野球も、先日の日本シリーズをもってシーズンを終了しました。無観客試合も含めかなり特別な年になりましたが、6月19日には開幕し、各リーグ120試合のペナントレースを戦い、11月21日に始まった選手権で日本一を決したわけです。結果はパ・リーグのソフトバンクホークスが、セ・リーグの読売ジャイアンツを敗りまして、今年の日本プロ野球の覇者となったのは、ご存知の通りです。
私、このところコロナ騒ぎで在宅時間が長いからというわけでもなく、今回の日本シリーズでのテレビ観戦は、結構楽しみにしておりまして、なぜなら、この2チームはペナントレースで圧倒的な強さを見せており、野球チームとしての完成度が高いので、個々の選手の活躍も含め接戦の好ゲームになるのではないかと、阪神ファンの私ではありますがそれは置いといて、この一週間はレベルの高い、手に汗握る日本シリーズを堪能できるのではないかと、期待しておったわけです。
それと、昨年の日本シリーズは、同じこの2チームの顔合わせでありましたが、あろうことかジャイアンツが4連敗で1勝もできずに終わったので、今年は、さぞやリベンジに燃え上がっておると思われ、ホークスもそうはさせじと立ち向かうはずですから、どう考えても歴史的死闘が繰り広げられるのではないかと、想像しておったです。
ところが、蓋を開けてみるとですね、今年もソフトバンクの4連勝で決してしまったんですね。セ・リーグ最強のジャイアンツのピッチャーがバッターが、しきりと首を傾げる中、連日ワンサイドゲームが続き、ジャイアンツファンも呆然とするうちにシリーズは終わってしまいました。
日頃のアンチジャイアンツの立場としては、この結果は悪くないのですが、ここまで一方的なことになると、むしろ気の毒な気さえしますし、第4戦はちょっと最後まで見られませんでした。そして、これは1シーズンジャイアンツに負け続けた阪神はじめセ・リーグのチームからすると、ソフトバンクは実力的には雲の上ということになるわけです。ボクシングなら3階級くらいの差でしょうか、これはセ・リーグとしても大問題という事です。
4連敗が2年も続いたわけですから、これは単に短期決戦にはこういうこともあるよねとは言ってられないですよね。そう言えば、この10年でセ・リーグが日本シリーズに勝ったのは1回だけだし、交流戦も、今年はなかったけど、ことごとく負け越してますよね。そもそも第7戦までもつれるドラマチックなシリーズも昔はあったけど、最近はそういうこともない気がします。
本当にセ・リーグとパ・リーグの実力の差は顕著なのでしょうか。確かに、日本シリーズを見た印象では、素人目にもソフトバンクのピッチャーの球は明らかな球威を感じるし、バッターのスイングの振りがやたら鋭く感じられたのは気のせいだろうか。まあ勝負事として、ここまで結果が出てるのだから、多分なんらかの要因はあるのでしょうね。
分析する人はいろいろいるようですけど、お互い選ばれたプロが競う中で、個々の選手の鍛錬の仕方や、プレーに対する取り組み方考え方、指導者の執念や姿勢、球団の方針、まあ言い出せばいろいろありそうです。
ソフトバンクの選手のことで、これはすごいなと思ったのは、第1戦先発の千賀投手と、第2戦先発の石川投手が、球団の育成選手から1軍の先発ローテーション入りしたピッチャーで、この二人の先発の球のキレが素晴らしく、ジャイアンツがほとんど歯が立たなかったことです。これで巨人軍は流れを失います。ついでに云えば、この二人のキャッチングを含め全試合にキャッチャーとして出場し、2本のホームランを放った甲斐捕手も、育成選手だったんです。
なんというか、チームを強くするための体制がきちんとしていて、フロントの方針もかなりしっかりできてる気がしますね。
これでホークスはシリーズ4連覇、向かうところ敵無しの様相を呈しています。ちょっとしばらくソフトバンクホークスの時代になりそうです。
昔から球団のオーナーの情熱がチームを強くして黄金期を築くところがありまして、巨人の正力さん、西武の堤さん、ソフトバンクの孫さん、みんなそうです。この方達に共通してるのは、チームを強くしたいが、金は出すけど口は出さないところで、孫さんの場合は、オーナーの意向を、球団会長として、世界の王さんが、きちんと形にしてるとこが強いところじゃないでしょうか。

Gita


セ・リーグの各球団の方々、ボオーっとしてる場合じゃありませんぞ、ほんとに。
ストーブリーグは、毎年、FAや外人の話でで大騒ぎしてますけど、もっとちゃんとやることやって結果出してくださいな、ほんとに。

2020年9月29日 (火)

続・犬の賢愚の法則

この夏に起こったことでつらかったのは、愛犬マリンが身まかったことでした。あと1ヶ月程で16歳でしたから長生きではあり、ちょっと弱ってはいたものの、性格的にもきちんとしたキャラで、多少我儘にはなってましたが、相変わらず賢い子でしたので、家族は全く覚悟しておりませんでした。具合が悪くなってから間もなく、最期は心不全だったようで、あっけなくて、主治医のところへ運んだ時には間に合いませんでした。

そういった突然のことでしたから、私ら家族の喪失感は想像を大きく超えたものでして、考えてみれば、そもそも十分に老犬でしたから、そういった可能性を理解してはいましたが、こればかりは応えたんですね。

私もカミさんも娘も、その晩はしみじみ泣きました。大阪に単身赴任している息子にも電話して伝えましたが、無口な人なもんで、普段はラインするくらいで電話で話すこともないんですけど、ずいぶん長い時間、そのことを話しました。

出来るだけ手厚く見送りたいねということで、調布に深大寺動物霊苑というところがあって、きちんとお葬式をしてくれるということを主治医から聞きまして、そちらに運んで荼毘に伏しましたが、ずいぶん丁寧にやっていただきました。

それが8月の初めのことでしたが、いまだにぽっかり穴があいたようなところがあり、考えてみると長いこと一緒に暮らした家族でしたもんでね。いや、ほんとに賢くてよいこでした。

さて、うちにはもう一名、愛犬がおり、マリンが4才の時に産んだ息子なんですが、この息子のことも心配だったんですね。まあなんて云ったらいいか、親一人子一人でしたから。といっても生まれて10年以上経ってるし、人間とは違うので、それほど親子のふれあい関係があったわけじゃないんですけど。

ただ、どこまで理解してるかどうかはわからないんですけど、やはり、しょげてるようで、元気ないんですね。母の死後は、しばらくソファの下に入り込んだまま、水を飲むくらいしか出てこなくなってしまい、ほとんど吠えなくなって、ごはんも食べなくなり、見たところやつれたようにも見えて、しばらくして、本気で心配になってきたんです。

ともかくなんか食べさせなきゃということで、食べ物も手を変え品を変え、いろいろ試すんですが、相変らず食欲がなく、元気ないわけです。

そんなことがどのくらい続いたでしょうか、そのうちどうにか人の手からだけは物を食べるようになり、それから好き嫌いはありながら、食欲も戻ってきて、ソファの下からも出てこれるようになりましたが、この人なりのダメージがあったのかなと思います。

今では、体重も戻ってきて、ワンワンよく吠えるし、元気になって来ましたが、なんか食べ物の好き嫌いが多くなったり、人を呼び付けるようになったり、前よりわがままになった気がしますね。

この件で、みんなが何かといたわるもんだから、ちょっとその気になって、ボクなりに淋しい思いをしてるんだから、ちゃんとかまってくれよなと思ってるのか。

いずれにしても、このところちょっと調子に乗ってるような気がするんですね、

このチップ君。

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賢い母犬がいなくなって、愚かな息子犬だけになって、少し賢くなるといいんだけど、あんまり変わらないようです。まあ、この人にはこの人の、良いところはあるんですけどね。

 

2020年8月 6日 (木)

弔辞 吉江社長殿

この春からは、こんなことで、中々人に会うことが出来なくなっており、気が付くとずいぶんいろんな方とご無沙汰をしているんですが、そういえばしばらくお会いしてないなあと思っていた方の訃報が、突然届きました。
ちょっと体調を崩しておられるくらいのことを伺っていただけで、いつも元気で笑顔の人でしたから、にわかに信じられません。私が仕事を始めてすぐの頃には、すでに存じ上げてましたから、考えてみると長いお付き合いでした。
吉江一男さんは、よく知られたCM音楽プロデューサーで、ずいぶんたくさんの仕事をお願いしました。と云うか、この方はあの頃のCM音楽業界で、最も有名で忙しい人でありまして、数々の話題作を手掛け、中にはCMから楽曲としてヒットチャートを駆け上がった曲もいろいろありました。
結果的に、そのビジネスで会社を立ち上げて、青山に音楽スタジオのある自社ビルまでお建てになりましたから、言ってみれば大袈裟でなくCM音楽の一時代を作った方でした。
初めてお会いした頃、私は駆け出しのペーペーでしたが、彼は勤めていた音楽プロダクションから独立したばかりで、根津美術館の横の小さなアパートを事務所にしていました。その時に仕事で3.5秒のサウンドロゴをお願いしたんですが、吉江さんは自分でギターを弾いて自分で唄って、サンプル版を5タイプくらい作ってきたんですね。まあご自分で作曲もできる方だから、それはいいんですけど、ラジカセで録音されたそのカセットテープを聴いてみると、唄のバックに、バックコーラスのように、ミーンミーンと蝉の鳴き声がするんですね。
「吉江ちゃん、バックでセミが唄ってるね。」
と誰かが云って爆笑したんですけど、今思えばその時に採用になったサンプル版が、のちのち有名になった ♪ピッカピカの一年生♪ だったんです。

夏の根津美術館の森に、蝉はうなるほどおりましたのでね。
そんな吉江さんは、ともかくいつも明るくてカジュアルな人でした。その頃、私はアロハを着てることが多かったんですが、お得意さんのところへ行く時は、もうちょっとちゃんとした格好していけと、上司から言われておりましたが、その日もアロハだったわけでして、某築地の広告会社のエレベーターで、ばったり吉江さんに会うんですけど、
「よっ、暑いねえ、やっぱり、こういう日はアロハだよね。」
とおっしゃって、二人ともアロハなんですが、ただ、吉江さんはおまけに、短パンにビーチサンダルだったんですね。
そういう方でしたから、先輩なんですけど、仕事の相談などもしやすい方でした。ただ、いつも自分の直感で即決して、やりたい方向へ持ってっちゃって、わりと調子いいとこもあって、最後は自分のペースに巻き込むんですけど、音楽的なレベルは高くて、周りを満足させて、結果的には信頼されていました。
信頼といえば、彼が仕事を発注する、作家も演奏者も歌い手もエンジニアも、プロデューサーとして強い関係を築いていましたし、たまに自分で作曲することや演奏することもあって、ともかく音楽を作ることが大好きで、この仕事を愛している人でした。

彼が残した会社の名は、「ミスターミュージック」と云って、ミスター吉江の代名詞のようでもあります。
いつだったか、何故か二人で、ラッシュ時の満員の地下鉄で移動してたことがあって、なんでそんなことになったか忘れましたが、彼が急に、
「俺たちが作ってるCMのクライアントの会社の人たちは、いろいろ大変だよね、毎日。どんな業種でも楽な仕事はないよな。」みたいなこと云って、僕も何と無く頷いてたんですけど、
「そう考えると、俺たちが音楽作ったりしてる仕事は、遊んでるようなもんだよね。」
とおっしゃったことがあって、よく覚えてるんですね。
ただ、あれだけの仕事してビルまで建てた方で、業界の連盟の会長とかもされてたし、好きなことだけやってたとも思えないんですけどね。
たぶん、いろいろな権利を守ったり、スタッフを守ったり、いろんな揉め事を収めたり、時には似合わない凄みを利かせたりされたこともあったと思います。童顔で小柄な方ですから、そういう時はチビッコギャングだったかもしれません。
私に関して云えば、長い間いつも気にかけてもらって、仲良くしていただいて、難しい仕事の時も必ず全力で挑んでくださいました。息子さんの結婚式にも呼んでくださいましたね。

Mrmusic



今、世の中がこんな状態なので、お葬式は身内ですまされたそうです。本来なら、ずいぶんたくさんの方が集まったんだろうと思います。
いつの日か、出来るようになったら、息子さんは「偲ぶ会」をなさるつもりだそうです。
彼が残した名作を、うんと聴けるんだろうなと思うと、それはそれで楽しみではあるんですけど、そこにもう吉江さんがいないことが、なんだか信じられないですね。


2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

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そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2020年5月28日 (木)

ワイルダー先生

いつも年が明けてバタバタしているうちに、1月は行ってしまい、2月は逃げてしまいまして、気がつけば桜が咲いているんだよね、などと云ってたんですが、例年どおり、きれいに桜は咲いたものの、お花見は出来ず、それどころか新緑のゴールデンウイークになっても、外にも出られないことになりました。

新型コロナウイルスの猛威は、地球規模の厄災になって人類に大きな試練を与えております。そのような状況下、医療にかかわるプロの方々は、それこそ命がけの仕事に追われていますが、それ以外の我々一般の人間ができることと云えば、ただ感染せぬよう、なるべく出歩かず自宅におることのようで、何の役にも立たず申し訳ないのですが、今までに経験したことのない在宅時間を過ごしております。そんなことで私の勤める会社も、ごく数名が番をしているだけで、他は全員在宅、家で出来る仕事を、いわゆるリモートで働いているわけです。

本来なら4月の初めから出社するはずの新入社員たちは、一度も出社することなく、おうちで社員研修を受けてますが、弊社は映像を作るのが仕事なので、新人たちに先輩社員からオススメ映像を選んでプレゼントしようという企画が起こりまして、連日いろんな人たちから上がってきた映像をみんなでネットで観ることになったんです。

みんな家にいて時間もあるし、映像好きたちの渾身のチョイスなので、これが面白くて個人的にも楽しんでいたんですが、そのうち自分の順番が回ってきて、さて何にしようかなとなった時に、ふと思ったのが、ビリー・ワイルダーだったんですね。

この人は、1906年生まれで2002年に亡くなってます。

若い人はあんまり知らないでしょうし、私にしたところで、今回オススメした「アパートの鍵貸します」は1960年の公開ですから私6才の時でして同時代感はありません。たとえば、ワイルダーさんの同時代の日本の映画監督は、小津安二郎さんとか、黒澤明さんでして、ちょうど私の祖父の世代です。

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ただいつだったか忘れたけど、どっちにしてもずいぶん若い頃に、この映画を観て、なんかすごく心に残ったんですね。考えてみると1960年頃のニューヨークなんて、何の接点もないし、その街に住むうだつの上がらないサラリーマンにも、そのビルで働くちょっと可愛いエレベーターガールにも、普通だと興味わかないと思うんだが、映画観てるうちに、なんだかジャック・レモンにも、シャーリー・マクレーンにも、すっかり感情移入してしまって、忘れ難い出会いになってるわけです。その時は、1960年にこの映画がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を取っていることも知りませんでしたが、

考えてみると、歴史的な名画だったわけです。

その後、知らず知らずにワイルダー作品を観ることになり、なんとなくハリウッドの大監督という認識だったんですけど、作品を観るごとにビリー・ワイルダーという映画作家の名が、ちょっと特別になっていきました。

自分はいわゆる映画全盛期に生まれた世代でもあり、いろんな映画観ながら育ちましたけど、この映像業界に就職してみると、ワイルダー先生を熱く語る先輩たちがたくさんおられまして、やはり大変な方なんだなと認識を新たにするわけです。

1906年、オーストリア生まれ、若くして新聞記者の仕事を始めドイツに移り、21歳で映画の脚本を書き始めます。どうにか評価され始めた頃、1933年、ナチスの台頭で、ユダヤ系のワイルダーはフランスに亡命、その後監督デビューして、1934年コロンビア映画の招きでアメリカに渡るが、英語は喋れなかったそうです。それから苦労するも少しずつ脚本の仕事ができ、1942年にハリウッドでの監督デビュー、1944年「深夜の告白」は最初の大ヒット映画となり、1945年失敗作と思われた「失われた週末」は、アカデミー賞を受賞する。

その後「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」「麗しのサブリナ」「七年目の浮気」「情婦」「昼下がりの情事」「翼よ!あれが巴里の灯だ」「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」等々、ヒット作が続くわけです。

有り難いことに、これらの名作は、現在のネット環境でかなりたくさん観ることができ、今回、あらかた観直してみましたが、やはり並外れた脚本力と演出力もさることながら、他の作家にはないこの人独特の個性と癖が滲みでていて、作品に深みを与えていることが良くわかります。

それと、この人のすごさは、このたくさんの名作の脚本の全部を自分で書いていて、1951年以降は、すべての製作にもかかわっていることです。まさに全盛期のハリウッドの映画作家なのですね。

もう一つ言えば、ワイルダー先生は「アパートの鍵貸します」に代表される、いわゆるコメディの名手として知られています。これは一般に云えることですが、コメディって難しいんですよね。人を泣かせるよりも、笑わせるのはハードルが高いですね。明らかに笑わせようとする芝居に人はのって来ません、ただまじめにやってることがおかしいかどうかなんで、これは深いです。ワイルダーさんが、ジャック・レモンに会ってからコンビを組み続けたのは、自分の笑いの表現に絶対必要だったからなんでしょうね。

 

自分にとっては、おじいさんの世代の作品だけど、今観てもその瑞々しい表現が伝わるのが、映画というメディアの魅力なんでしょう、不思議だけど。

それからまた2世代ほど離れたうちの新人君たちが、どう感じたのかは、ちょっと聞いてみたいけどね。

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