2020年7月10日 (金)

松本清張 短篇考

コロナウイルスの災禍は、なかなかに収まらず、ただ自宅に籠る時間が積み重なってまいりました。こうなると当然ながら、家で映画を見たり、本を読んだりすることが多くなります。
それで、今何を読んでいるかというと、相変わらずなんでも読んではいるんですが、この騒ぎになる少し前に、偶然本棚にあった松本清張の短篇集をパラパラ見ていたら止まらなくなりまして、この人の本は、かつて随分読んだ記憶があるんだけれど、もう一回読み直す必要があるなと、ちょっと直感的に思ったんですね。
で、ちょうどその頃、別々に酒飲んで話した人がいて、なにかと尊敬してるA先輩と、物書きで友人のFさんなんですが、それぞれ二人とも松本清張はやっぱりちょっとすごいねと云いましたよ、これが。どうも二人とも偶然読み直してたみたいです。

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そんなことで読み直しに入ったんですけど、無くしてしまった本も多くて、Amazonとかで短編集をいくつか注文したんです。この作家は、言わずと知れた推理作家の巨匠であり、有名な長編の名作が数々あるんですが、実はこの短篇というのが、かなりの名作の宝庫なんですね。
文春文庫から、宮部みゆきさんが編集した「松本清張傑作短篇コレクション上・中・下」というのが出てまして、彼女も同じ作家として、清張さんの短編のファンでこの仕事を受けられたようですが、その数の多さにまず驚いたそうです。その数、260篇。なんだかたくさん読んでいたような気でいましたが、ほんの一部だったようです。
そこで、過去に読んだものもそうでないものも、読んでみると、短いページのうちに、またたく間にそのストーリーに引っ張り込まれてしまいますね。主な作品は昭和30年代あたりのものが多くて、私の子供の頃の話なんですが、その時代とのギャップというのはほとんど感じないで読むことができます。そしてだいたいが40、50ページから100ページくらいですが、深く記憶に残る作品が多くて、長編を読み終えたような読後感があります。
これらの短編小説は、主に週刊や月刊の雑誌に載っていたんですが、通勤などの合間の時間に読んだ多くの読者は、この短篇のうまさに唸り、松本清張というこの作家の名を刻み込んだはずです。
そこに描かれているのは、当時の社会背景に起こる事件や犯罪を扱った推理ものですから、暗い気持ちにならざるを得ない話ばかりです。殺人、恐喝、詐欺事件など、おそらく実際に起きたことを題材にしていてリアリティもあり、ストーリーの多くには気が滅入る結末が用意されているんです。
ただ、その社会や人物の背景は、実に細やかに描かれており、その事件が起こる人間の動機の部分が非常に丁寧に説明されているんですね。読む者は全く無駄のないスピードで、その小説の中心部まで連れていかれ、一番深いところを一瞬見せられて、ストンと終わらせてしまう。
なんと云うか、ちょっと他にない短篇小説の手練れなんであります。
松本清張さんが小説を書かれていた時代は、戦争が終わり、高度経済成長に向かう頃です。世の中に活気はあったけど、弱い人たちが生きてゆくのにはなかなか大変な時代であり、眼を凝らすと、社会には様々な歪みが現れ、憤懣やる方ない犯罪や事件が溢れていました。
清張さんは、当時の世の中の影の部分を読み解き、小説という手法で同時代の読者に、あるメッセージを送り続けた作家であったんじゃないでしょうか。
その長きにわたる作家活動は、結果的に多くのファンの支持を集めました。氏が捉えた小説世界を映画やテレビドラマに映像化した作品も、知ってるだけでも相当数あるのですが、ちゃんと調べてみますと、ちょっとここに書ききれぬほどあります。当時の映画界やテレビ業界には、かなりの清張ファンがいたことは確かでしょうね。
今、ネットやDVDなどで観れるものを何本か観ましたが、いろいろ名作もあります。40、50ページの短篇小説が、2時間ほどの大作映像にもなっていて、これらの短篇の懐の深さが感じられます。
これほどの数の氏の小説が映像化されているのは、この時代、映画やテレビドラマの製作そのものが活況だったことや、そもそも推理サスペンスものだからと云うこともあるんでしょうけど、基本的に人間のことがきちんと描かれているからなのではないでしょうか。
テレビドラマに様々な変革をもたらせた、NHKのガハハの名ディレクター和田勉さんも、松本清張作品を色々と名ドラマにされていまして、たまに清張さんご本人がドラマに出られたりして楽しめますが、たくさんドラマを作られた和田さんが、ご自身の最高作と言われる「ザ・商社」も松本清張原作です。この方はテレビドラマに新しい表現を持ち込んだ演出家でして、クローズアップを多用することや、ドラマは見るものではなく聞くものだと云う考え方で、新感覚のテレビドラマをたくさん作られました。この時代、テレビのディレクターはたくさんいましたが、その仕事で名を残した数少ない演出家でしたね。
考えてみると、清張さんも勉さんも、私が若い時にずいぶん刺激を受けた方でありました。
自宅にいることの多い昨今、たまたま家に転がっていた文庫本から、自分の記憶に埋れていたいろんな物を掘り起こした気がします。まだ見直しは続いてますけど。
因みに、

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松本清張原作の和田勉演出ドラマ一覧

1975「遠い接近」「中央流沙」
1977「棲息分布」「最後の自画像」
1978「天城越え」「火の記憶」
1980「ザ・商社」
1982「けものみち」
1983「波の塔」
1985「脱兎のごとく・岡倉天心」

2020年5月28日 (木)

ワイルダー先生

いつも年が明けてバタバタしているうちに、1月は行ってしまい、2月は逃げてしまいまして、気がつけば桜が咲いているんだよね、などと云ってたんですが、例年どおり、きれいに桜は咲いたものの、お花見は出来ず、それどころか新緑のゴールデンウイークになっても、外にも出られないことになりました。

新型コロナウイルスの猛威は、地球規模の厄災になって人類に大きな試練を与えております。そのような状況下、医療にかかわるプロの方々は、それこそ命がけの仕事に追われていますが、それ以外の我々一般の人間ができることと云えば、ただ感染せぬよう、なるべく出歩かず自宅におることのようで、何の役にも立たず申し訳ないのですが、今までに経験したことのない在宅時間を過ごしております。そんなことで私の勤める会社も、ごく数名が番をしているだけで、他は全員在宅、家で出来る仕事を、いわゆるリモートで働いているわけです。

本来なら4月の初めから出社するはずの新入社員たちは、一度も出社することなく、おうちで社員研修を受けてますが、弊社は映像を作るのが仕事なので、新人たちに先輩社員からオススメ映像を選んでプレゼントしようという企画が起こりまして、連日いろんな人たちから上がってきた映像をみんなでネットで観ることになったんです。

みんな家にいて時間もあるし、映像好きたちの渾身のチョイスなので、これが面白くて個人的にも楽しんでいたんですが、そのうち自分の順番が回ってきて、さて何にしようかなとなった時に、ふと思ったのが、ビリー・ワイルダーだったんですね。

この人は、1906年生まれで2002年に亡くなってます。

若い人はあんまり知らないでしょうし、私にしたところで、今回オススメした「アパートの鍵貸します」は1960年の公開ですから私6才の時でして同時代感はありません。たとえば、ワイルダーさんの同時代の日本の映画監督は、小津安二郎さんとか、黒澤明さんでして、ちょうど私の祖父の世代です。

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ただいつだったか忘れたけど、どっちにしてもずいぶん若い頃に、この映画を観て、なんかすごく心に残ったんですね。考えてみると1960年頃のニューヨークなんて、何の接点もないし、その街に住むうだつの上がらないサラリーマンにも、そのビルで働くちょっと可愛いエレベーターガールにも、普通だと興味わかないと思うんだが、映画観てるうちに、なんだかジャック・レモンにも、シャーリー・マクレーンにも、すっかり感情移入してしまって、忘れ難い出会いになってるわけです。その時は、1960年にこの映画がアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚本賞を取っていることも知りませんでしたが、

考えてみると、歴史的な名画だったわけです。

その後、知らず知らずにワイルダー作品を観ることになり、なんとなくハリウッドの大監督という認識だったんですけど、作品を観るごとにビリー・ワイルダーという映画作家の名が、ちょっと特別になっていきました。

自分はいわゆる映画全盛期に生まれた世代でもあり、いろんな映画観ながら育ちましたけど、この映像業界に就職してみると、ワイルダー先生を熱く語る先輩たちがたくさんおられまして、やはり大変な方なんだなと認識を新たにするわけです。

1906年、オーストリア生まれ、若くして新聞記者の仕事を始めドイツに移り、21歳で映画の脚本を書き始めます。どうにか評価され始めた頃、1933年、ナチスの台頭で、ユダヤ系のワイルダーはフランスに亡命、その後監督デビューして、1934年コロンビア映画の招きでアメリカに渡るが、英語は喋れなかったそうです。それから苦労するも少しずつ脚本の仕事ができ、1942年にハリウッドでの監督デビュー、1944年「深夜の告白」は最初の大ヒット映画となり、1945年失敗作と思われた「失われた週末」は、アカデミー賞を受賞する。

その後「サンセット大通り」「第十七捕虜収容所」「麗しのサブリナ」「七年目の浮気」「情婦」「昼下がりの情事」「翼よ!あれが巴里の灯だ」「お熱いのがお好き」「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」等々、ヒット作が続くわけです。

有り難いことに、これらの名作は、現在のネット環境でかなりたくさん観ることができ、今回、あらかた観直してみましたが、やはり並外れた脚本力と演出力もさることながら、他の作家にはないこの人独特の個性と癖が滲みでていて、作品に深みを与えていることが良くわかります。

それと、この人のすごさは、このたくさんの名作の脚本の全部を自分で書いていて、1951年以降は、すべての製作にもかかわっていることです。まさに全盛期のハリウッドの映画作家なのですね。

もう一つ言えば、ワイルダー先生は「アパートの鍵貸します」に代表される、いわゆるコメディの名手として知られています。これは一般に云えることですが、コメディって難しいんですよね。人を泣かせるよりも、笑わせるのはハードルが高いですね。明らかに笑わせようとする芝居に人はのって来ません、ただまじめにやってることがおかしいかどうかなんで、これは深いです。ワイルダーさんが、ジャック・レモンに会ってからコンビを組み続けたのは、自分の笑いの表現に絶対必要だったからなんでしょうね。

 

自分にとっては、おじいさんの世代の作品だけど、今観てもその瑞々しい表現が伝わるのが、映画というメディアの魅力なんでしょう、不思議だけど。

それからまた2世代ほど離れたうちの新人君たちが、どう感じたのかは、ちょっと聞いてみたいけどね。

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2020年3月10日 (火)

ヤスヒコさんへ

たぶん、神様が会わせて下さったんだろなと、思えるような人が、たまにいらっしゃるものですが、そういう人に限って、ある日、急にいなくなってしまいます。

私にとっては、実に絶妙なタイミングで登場されて、それからずいぶんと長い間、ただこっちがお世話になっただけで、先週、ふっと旅立たれてしまいました。

なんて云うか、とてもチャーミングな、頼りになる兄さんみたいな人でした。

その人は、ヤマモトヤスヒコさんという、映像の演出家で、私はテレビコマーシャルのディレクションをお願いすることが多かったのですが、仕事の時は、尊敬を込めて監督と呼んだり、ヤマモトさんと呼んだり、時に親しみを込めてヤスヒコさんと呼んだりしました。我々の業界では、とても有名なディレクターで、この人を知らない人はいません。

いつ頃、この人に出会ったのだろうかと考えてみると、ずいぶん前になります。ちょっと正確に思い出そうと思って、古い仕事の手帳を探してみました。前の会社の1984年の手帳です。ずいぶんと物持ちが良いでしょ。

それを見ると、その年、私は実に滅茶苦茶に働いてまして、すごい本数だし、役割も、本来のプロダクションマネージャーに加え、仕事によってはプロデューサーやったり、ディレクターやったりしてます。そんな1984年の3月頃のページを見ると、ヤスヒコさんと出会った仕事が始まっていました。車のTVCMですが、いつものことながら、車の仕事は、なにかと大ごとでしたね。たしか広告会社から企画が上がってきていて、当時、漫才から離れて売り出し中だった北野武さんと車を1対1で撮ろうというもので、これから演出家を決めようという段階でした。たしかベテランカメラマンのミスミさんが先に決まっていて、彼の推薦でヤスヒコさんに決まったと思います。仕事はいろいろ普通に大変だったんですが、4月の中頃に撮影して、ラフ編集が終わった頃に、ヤスヒコさんが倒れて入院してしまうんですね。

この頃のヤスヒコさんは、フリーのディレクターとして世間から評価され始めていたところで、大きい仕事を続けていたから、忙しさに本人が慣れてなくて、ひどく疲れがたまってしまったようでした。

私はプロダクションマネージャーでしたが、このフィルムの完成までの残りの作業は、ヤスヒコさんの代わりに全部やりました。誰か他のディレクターにお願いする手もありましたが、自分はヤスヒコさんの助監督みたいな気持でいましたから、そうしました。

それから2カ月くらい静養された気がしますが、彼の復帰を待っている業界の人達はたくさんいて、私と同じ会社にいた山ちゃん先輩Pもその一人で、その年、ヤスヒコさんといいフィルムを仕上げていました。それも車でしたね。

その頃のTVCMのメディアは、他のメディアに比べて、ハッキリとハイクオリティー、ハイセンスだったと思います。ヤスヒコさんの作るフィルムもまさにそうでしたが、その中に彼の個性がある意外性として加わり、いろんな名作が生まれていたと思います。当時、業界も元気で、優秀で面白いCMディレクターがたくさんいましたが、その一角に確実に存在した強い個性でした。

その表現の上で、他者と違う強さを出すために、ディレクターというのは、時に、強引さや我儘を発揮することもあるんですけど、ヤスヒコさんのことを悪く云う人には、会ったことがないのは、お葬式に来ていたみんなが言っていることでした。怒ったりもするけど、必ずフォローもするのだよね。

そうこうしているうちに、私にはちょっとした転機がやって来るんですが、いろいろハチャメチャにやってきたけど、次の仕事で、きちんとプロデューサーとしてデビューすることになったんですね。とても斬新で面白い企画の仕事でした。例の手帳を見ると、8月の10日と11日に撮影してるんですけど、この時、この仕事を、是非ヤスヒコさんにやってほしいと思いました。元気になったヤスヒコさんが快諾してくれて、ほんと嬉しかった。

その時、今思えば若かった。29歳と35歳です。この作品に主演して下さる、当時の若手人気女優さんと、そのマネージャーに、企画コンテを説明するために、ヤスヒコさんと二人で、赤坂ヒルトンホテルティールームに会いに行ったんですけど、二人ともアロハ着てたのもいけなかったんだが、しばらく雑談してなごんだ時にマネージャーから、

「プロデューサーとディレクターは、まだ見えないんですか?」と聞かれ、

「それが私たちなんです。」と答えて、女優さんに爆笑されましたっけ。

企画が良くて、ヤスヒコさんが良かったから、仕事は成功しまして、自慢のデビュー作になりました。ともかく成功することが大事な業界だから、私のデビューもうまくいって、どうにか居場所が見つかり、その後、たくさんの仕事をご一緒していただきました。

山ちゃん先輩も大事なレギュラーの仕事をお願いしてたし、同期のマンちゃんも色々お世話になり、それから4年ほどして、山ちゃんマンちゃんと私とで会社を作ることになった時も、すごく応援していただいたんですね。その応援がなかったら、たぶん僕らの独立も難しかったと思います。

なにか、誰かが物事を後ろ向きに考え始めたりする時、ポジティブに空気を変える力を持っている人でしたね。元気ない人を、どうにか元気にさせようとするとこがあって、だから、みんなヤスヒコさんが好きだったし、あの笑顔を忘れないんじゃないかな。

監督という仕事に向いている人だった。

告別式が終わって、お寺の境内に出たら、それまで覆っていた雲がどんどん切れ始めて、突風が吹いて、その辺りの物をなぎ倒しました。それはヤスヒコさんの悪戯か。いつも穏やかで、にこやかだったけど、それとは裏腹な彼の烈しさも、ふと思い出しました。

ヤスヒコさん、ずいぶん褒めた手紙になりましたが、息子さんも挨拶で言われてたように、いつも、

「もっと、褒めて。もっと、褒めて。」って、おっしゃってたから、つい。

夢に出てきてくれたら、もっと褒めますよ。

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2020年1月28日 (火)

ただならぬ韓国映画

スターウォーズも完結するし、寅さんも帰って来るし、年末年始の映画街もいろいろとにぎやかですが、

韓国映画界の鬼才、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」が、カンヌでパルム・ドールを獲り、アカデミー賞の呼び声も高く、もしアカデミー賞獲ったらアジア初だそうで、ともかく大評判です。

いや、よくできてました。たしかに唸ってしまう完成度の映画であり、連日映画館は満員だし、その勢いはしばらくおさまりそうもなく、間違いなく大ヒットになりそうです。

社会の底辺からどうやっても這い上がることのできない家族と、かたや成功者を絵に描いたようなIT会社の社長の一家という対比があり、その両者が接点を持つところからお話は始まるんですが、そもそも脚本としてこの状況を思いついたことは勝利なんでしょうが、物語の設定は、実に厳密に仕組まれており、それに加えて、登場してくるこの二家族の人物像は、かなりこと細かく造形してあって、その辺りはちょっとため息が出るくらいうまいわけです。

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この出演者たちが、監督が仕組んだ動線に沿って動き始め、徐徐に物語は進行します。もう観ている方としては、ただただ映画の中に引っ張り込まれてしまうわけですが、これはよくできた映画が必ず持っている観客を巻き込んでゆく力なんですね。

ストーリーはあるテンポで、たんたんと進んで行きますが、そこには絶妙の緩急のリズムがあって、それは心地よくさえあり目が離せません。

映画が始まってしばらくすると、この映画が持っている、ただならぬ顔つきに気付かされ、間違いなく掘り出し物に当たった確信が生まれます。それは、次々と現れる人物の登場の仕方だったり、その場に流れている空気感であったりするんですが、それを支えているのは、撮影という手続きにおけるすべての技術です。

そんなにたくさんの韓国映画や、韓国ドラマを観ているわけではなく、あんまり詳しくもないんですが、韓国には本当に良い俳優が多い気がします。もちろんうまいということなんですが、それだけじゃなく、その映画を作品として観客に届けるために、その役の人物になりきる力というか、出演者としてその映画をより深いモノにするための力量とでもいうのでしょうか。

そして、そういった人材というのは、当然、映画を作る現場のレベルが高くないと育たないわけです。脚本や監督であったり、撮影であったり、照明であったり、美術も録音もそうです、ちょっとそういうバックグラウンドを強く感じるんですね。

前にどなたかから聞いた話ですが、かつて日韓共同FIFAワールドカップを成功させた時に、かの国は、その時出た利益をすべてエンターテインメント産業に投資したんだといううんですね。その中には当然映画産業も入っているわけです。それだけのことが理由じゃないだろうけど、韓国という国の映画に対する情熱のようなものは、いつも感じているわけなんです。

アジアの一角の、映画が大好きなこの国から、まさに世に問う問題作が、世界に向けて発信されたということでしょうか。

 

そして、映画の後半は、ジェットコースターに乗せられたような激しさでラストに向かって行きます。

個人的には、終盤、ちょっと惜しいなと感じることがないではないんですけど、

映画の終息のさせ方というのは、ある意味、監督からのメッセージなので、観客の一人一人が受け取って感じるべきことですし、ネタばれにもなるので触れられないですが、

なんせ一見の価値のある、まだ観てない方には是非観てほしい、映画というものの面白さを満載した映画ではあります。

観た人と話をしたくなる映画というのは、まあ名作なんでしょうね。

2019年12月26日 (木)

オジサンたちの歌舞伎見物

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今年から、わりと頻繁に歌舞伎を観に行くようになりまして、きっかけは私の古い友人のF田さんという人なんですが、このブログにもたまに出てくる人で、詳しく説明するといろいろなんですが、手短に云うと物書きをしている人です。ある時飲んでいましたら、勉強の意味もあるが、基本的に月に一回くらいは、歌舞伎を観ているんだという云う話を聞いたんですね。ただ、歌舞伎はチケットが高いんで、いつも3階席から観ているそうなんです。なんか面白そうだなと思って、もともと歌舞伎は嫌いじゃないし、そのうちいろいろ観てみようと思ってもいたので、ご一緒させてもらうことにしたんですね。

それから月に一回くらいのペースで、基本的に3階席から観始めたんですが、これがなかなか面白いんです。以前、歌舞伎に嵌まった時は、これも友人のNヤマサチコ夫妻の影響で、先代の猿之助さんの追っかけだったもんで、澤瀉屋(おもだかや)さん以外の屋号の役者さんは、あんまり詳しくなかったんですけど、これがまた、いろんな役者さん見るのも新鮮ですし、それに演目もいろいろあるわけですよ。3階席というのも、なんちゅうか上から全体を見渡せる感じで、これもなかなか新鮮なんですね。

あの染五郎君だった幸四郎が勧進帳の弁慶をやってるのも嬉しいし、菊之助の娘道成寺はきれいで可憐で色っぽい、そりゃ玉三郎さんも相変らず美しくていらっしゃいまして、吉右衛門さんや菊五郎さんの、ベテランの余裕の重厚な芝居には唸りますし、やっぱり仁左衛門さんの由良之助は、それはそれは絶品なんですね。他にも言ってりゃきりがなくて、ま、こうやって書いていても、こんだけ楽しいわけです。

そんでもって、私たちは二人とも呑んべえですから、芝居が終われば一杯やりながら、ああだこうだ云って深酒なんですね。これがいやはや楽しいんだと、いろんな人に話してたら、そりゃあ楽しそうだといううんで、やはり古い友達のトシオと山ちゃん先輩が加わりまして、最近は4人で3階から覗いておるわけです。

ついこの前は、京都南座まで遠征しまして、終われば先斗町でまた一杯やって、宿にも泊まりますから、何のこたあない高い遊びになっておるのですが、ちょっと4人でくせになっております。

 

思えば、初めて歌舞伎というものを観ましたのは、私が小学一年生くらいの時で、そのころ父の赴任で3年間くらいですが、我が家は東京に住んでまして、1回だけ父が奮発して家族を歌舞伎座に連れてったことがありました。父は歌舞伎好きだったようで、東京勤務のあいだに一度行こうと思ってたんでしょうか。

後々わかったんですけど、その日の演目は、

「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)と云いまして、通称「切られ与三」「お富与三郎」などと云われています。一般的にもわりとよく知られた人気演目ですね。これも後でわかるんですが、与三郎を演じていたのは、のちに十一代目市川團十郎になる市川海老蔵、今の海老蔵のおじいさまですね。成田屋さんです。この当代人気の歌舞伎役者のことを、父は酔っ払ってよく褒めてた気がします。

どうしてこの演目のことだけよく覚えているのかというとですね。

この三幕目・源氏店妾宅の場でのクライマックス、見せ場なんですが、

台詞としては、

与三郎:御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、いやさ、これ、お富、

    久しぶりだなあ。

お富:そういうお前は。

与三郎:与三郎だ。

お富:えぇっ。

与三郎:おぬしゃぁ、おれを見忘れたか。

お富:えええーー。

このあたりだったんですけど、あろうことか小学一年生の私が大声で「待ってましたあ。」と云っちゃったんです。その席のあたりは大受けだったんですけど、父と母は顔から火が出るくらい恥ずかしかったと思うんですね。

子供の頃東京に住んでいたのは、東京オリンピックの前だから、昭和36年ころじゃないかな。この伝説の名歌舞伎役者は昭和37年4月に、團十郎を襲名するも、3年半後に胃がんで亡くなってしまいます。子供ながら、誠に貴重な舞台を体感したわけでありました。

まあ、それからこの歳になって、あらためて歌舞伎体験しておるわけですが、順調に歌舞伎見物は老後の楽しみになってきております。先代猿之助を追いかけてた頃、贔屓にしていた子役の市川亀治郎君も、立派に猿之助を襲名しているし、いろんなことは予定通りに楽しみ始めているんですけど、一つだけ残念なことは、60代になったら、自分と同年代の名役者・中村勘三郎さんを観ようと思ってたもんで、それが間に合わなかったことですかね。唯一。

 

ちなみに、

三幕目、源氏店妾宅の場 与三郎の台詞より

 

一分貰ってありがとうござんすと、

礼を言って帰(けぇ)るところもありゃあまた

百両百貫もらっても帰(けぇ)られねえ場所もあらあ

この家(うち)のあれえざれえ、

釜戸下の灰(へい)までも、俺がものだ

まあ 掛け合いは俺がするから、

手前(てめえ)は一服やって待っていてくんな

 

え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、

いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。

お 富:そういうお前は。

与三郎だ。

お 富:えぇっ。

おぬしぁ、おれを見忘れたか。

お 富:えええ。

 

しがねぇ恋の情けが仇(あだ)

命の綱の切れたのを

どう取り留めてか 木更津から

めぐる月日も三年(みとせ)越し

江戸の親にやぁ勘当うけ

拠所(よんどころ)なく鎌倉の

谷七郷(やつしちごう)は喰い詰めても

面(つら)に受けたる看板の

疵(きず)が勿怪(もっけ)の幸いに

切られ与三と異名を取り

押借(おしが)り強請(ゆす)りも習おうより

慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)

その白化(しらば)けか黒塀(くろべえ)に

格子造りの囲いもの

死んだと思ったお富たぁ

お釈迦さまでも気がつくめぇ

よくまぁお主(のし)ゃぁ 達者でいたなぁ

おう安、これじゃぁ一分(いちぶ)じゃぁ

帰(けぇ)られめぇ

 

2019年10月18日 (金)

「JOKER」は満席なわけで

前回に続いて、また映画の話になるのですが、「JOKER」が封切られて、ずいぶん世の中を騒がせているようです。私も観に行こうとは思ってたんですが、すでに大ヒットの呼び声も高く、SNSもリアクションが大きくて、すごく話題になっています。

そんならともかく行ってみようかと、先日劇場に足を運んだんですが、けっこう大きなスクリーンが、いやはや満席状態なんですね。客層はわりと若い人が多かったかなあ。

で、どうだったかと云うと、これはものすごい精度の、非常によくできた映画で、すばらしかったんですけど、話はとっても暗いんです。有名なアメコミの悪役が生まれるまでのストーリーを追ったピカレスクロマンなどというものではとてもなくて、社会の底辺の恵まれない孤独な青年が、救われることもなく、次々に周りから人格を壊される不幸に見舞われ、その結果、悪の権化と化して行くお話でして、いやその辺りが、すごくよくできている分、とても重たくて、気は滅入ります。

正直、観た後でこんなに落ち込む映画が、本当に大ヒットするんだろうか。しかし、すでに劇場は満員です。ヴェネツィア国際映画祭グランプリという情報が後押ししていることもありますが、かつてそれだけではヒットしなかった映画もたくさんありましたし、だいたい暗い話には、客足が鈍るんですけどね。

もともとアメコミのキャラクターの話なのに、こんなにもリアルに身につまされるのも不思議と云えば不思議です。

いままでにも、ジョーカーはスクリーンに何度も登場しているし、かつていろんな名作があるし、今回も映画館に来てみたけど、なんだかこんなにつらい映画だったのかと思う人もいるかもしれないけど、この映画は、口コミで観客数は伸びる気がするんですね。

それは、この映画が持っている表現そのものの力とでもいうんでしょうか。

脚本の深さもそうですし、演出の斬新さだったり、音の使い方も素晴らしいし、ロケーションもカメラも、いろいろあるのですが。

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なんと云っても、主役を演じる ホアキン・フェニックスという役者がすごいんですね。

彼が造形するアーサー・フレックからジョーカーへと変貌していく主人公には、計り知れない奥行きがあり、この映画をただならぬものにしています。映画が始まってから終わるまで、観客は常にこの役者から漂う、弱者に無関心な社会に見捨てられた男の内面を見つめ続けることになります。

初めて語られることになったジョーカーというキャラクターの成り立ちを、この役者と監督はどうやって作っていったのか。ちょっと想像を超えるエネルギーが使われたと思われます。

この映画のベースに、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」と「キング・オブ・コメディ」を感じることも確かですが、そこで主役を演じたロバート・デ・ニーロが、ここで重要な役柄を演じていることも大きな意味を持っておりますね。

とりあえずこの作品、いろんな意味で救われない話ではあるし、キャラクターに共感のしようもないと云えばないし、ただアメコミの有名な悪漢をネタにした映画ではあるんですが、そういうことを超越した、何かを、観た者に残す気がします。

多分、のちのち名作と呼ばれるのは間違いなさそうではあります。

 

2019年9月12日 (木)

「存在のない子供たち」という映画の力

映像の監督で、脚本家でもある友人がおりまして、その人からこのレバノン映画を薦められたので、すぐに観てきました。私にしては珍しいことなんですが、いま周りの人に、この映画をぜひ観るように薦めております。

「存在のない子供たち」というこの映画には、それこそ子供たちがたくさん出てきますが、ちょっと何とも言えないリアリティがありまして、これはドキュメント映画じゃないかと錯覚させるような世界観があります。

ベイルートの貧民街で暮らす人々、学校に行けず路上で日銭を稼ぐ子供、移民難民の不法労働者、児童婚、人身売買など、目を覆いたくなるような貧困と不幸が、次々に描かれます。主人公の子供たちの多くは、両親が出生届を出していないため、証明書を持たない。また親が不法移民であれば、法的に存在しない。

映画は、そういった背景の中で、ゼインという12歳の少年を追います。

朝から晩まで、両親に劣悪な労働を強いられ、唯一の支えだった妹のサハルは、形式的な結婚という形を取り、中年男性に売られてしまいます。怒りと悲しみから、家出したゼインは、エチオピアからの不法移民労働者の女性ラヒルと知り合うが、ラヒルは逮捕され、彼女が残した赤ん坊の面倒をみることになります。子供だけでの生活が続く中、ゼインは、妹が妊娠し死んだことを知ります・・・

この映画の監督は、レバノンのナディーン・ラバキー、40代の女性で、俳優でもあり、この映画に弁護士役で少し出ています。美人ですよ。

彼女は、脚本に3年をかけ、長いリサーチの中で実際に出会った人々や、体験を観察し、ディティールを大事にしたそうです。ゼインをはじめとするキャストのほとんどは、プロの俳優ではなく、難民や元不法移民、そしてベイルートの貧民街で暮らす人々です。

撮影は、脚本があるからと決め込まず、彼ら自身の経験を物語に寄せていったと云います。主人公のゼインを演じた、同名のゼイン・アル=ラフィーアは、シリア難民として家族でレバノンへ逃れたものの、貧しい生活を送り、学校になじめず、10歳からアルバイトで家計を助けていた少年なのですね。

このような映画製作に対する姿勢が、この作品のリアリティにつながっていると考えられます。そして、表現物から伝わってくるのは、本当につらい現実です。出口の見えないこの街の状況に息が詰まる思いですが、この映像がこちらに語りかけてくるのは、そんな中でも人が生きて行くエネルギーであったり、大変な確率で生を受けた命であれば、いつか祝福されることを祈らずにはいられない気持ちなど、ただネガティブな世界を見たということではなく、かすかな希望を感じずにはいられない読後感がありました。

この映画の持っている子供たちのリアリティの賜物かもしれません。

帰り道に、この映画で知った様々な現実に打ちのめされながら、希望を込めて、多くの人に、この映画を見てほしいものだと思ったんですね。

本来、映画というものが持っている力とでも云うのでしょうか。そういう体験でした。

後日、ネットでこの映画に関する解説を読んでいたら、「存在のない子供たち」が国際的な映画祭で注目を集め、様々な国で劇場公開が決まり、映画が世に出たことで、出演者たちに良い変化がもたらされたことが書いてありました。

監督談

「例えば、ゼインは国連難民高等弁務官の助けによって、いまは家族でノルウエ―で暮らし、これまでとは違う人生を送っています。ケニアの女の子ヨナスは、幼稚園に通うようになり、路上でガムを売っていたシドラは、いまは学校に通い、この作品に参加した影響か、映画作家になりたいと云っています。私たちも基金を立ち上げ、彼らを助けたいと思っているし、少しずつ彼らが独立して生活できるように、そんな未来になるように力添えをしたいと思います。道は長いですが。」

Zain

 

2019年8月 9日 (金)

二十歳の女の子がえらいことやってくれまして

Shibuno


この前、なんとなくゴルフのこと書いて間もない先週のこと、私とは何の関係もありませんが、ゴルフ界には42年ぶりというビッグニュースがありました。

このことは、多少ゴルフのことがわかる者にとっては、わりと大変なことで、かなり感動的な出来事だったんです。

先週行われた「全英女子オープン」は、世界中の女子プロゴルファーにとって、年間5試合しかないメジャー選手権であり、権威も賞金額も超一級で、各国のトップレベルのプロが集まる試合なのですが、その大会に勝ったのが日本の渋野日向子(しぶのひなこ)プロ(20才)であったわけであります。

日本勢のメジャー優勝は、男女を通じ1977年の「全米女子プロゴルフ選手権」を制した樋口久子プロ以来、42年ぶり2人目の快挙、またLPGAメジャー大会初出場初優勝は、史上2人目の、これも快挙でありました。

そして、何より驚くべきことは、彼女は1998年11月15日に岡山に生まれ、2018年にプロテストに合格しますが、それは去年のことです。それまでの中国地方での輝かしい戦歴は、中学生高校生であり、云ってみれば子供だったわけです。

2019年 今年になって、山陽放送と所属契約を結び、5月にJLPGAツアー公式戦の「サロンパスカップ」で、いきなり優勝し、6月の時点で、年間獲得賞金ランキングが3位に浮上して、8月の「全英女子オープン」への出場権を得ます。

デビューしてここまで、目を瞠る活躍ではありますが、強力な運の強さもあって、イギリスに行くことになるんですね。なんせ海外初試合が、「全英オープン」ということになり、当然ながら大会前の目標は、予選突破だったわけです。なんかくじに当たったような気持ちだったでしょうか。

しかし、初日、2日目は、なんと2位。まったく見たこともない、この前まで少女だったような日本の女の子は、完全にノーマークだったと思われます。ただ、やたらに明るい娘で、どんな時も常にニコニコ顔の彼女は、現地で「スマイリング・シンデレラ」とニックネームがつきます。

こうゆうことは、たまにあるよね、みたいな空気だったかもしれませんが、あろうことか、3日目は14アンダーで、単独首位で終えることになります。もともとメジャー大会でもあり、TV地上波では、夜中に生中継がされており、私としては、なんとか見届けようと、寝床の横のテレビをつけますが、途中から全く意識がなくなり、3日目首位の快挙は、翌朝知ることになります。

そして、さあ最終日。それはそれは、もし全英に勝つことがあればさぞ嬉しかろうと思いながら、反面、いや、渋野、ここまでよくやった、去年プロになったばかりの君が、最終日に、名だたる世界中の超一流のプロたちに、ここで捕まっても、むしろその方が普通のことかもしれんよ。などという気もしました。

そして、この日の夜中も、私は熟睡してしまったんですね。

ただ、何故か午前2時頃ふと眼を覚まして、胸騒ぎがしたんですね。祈りながらTVをつけました。すると、なんと1位に渋野とリゼット・サラス(アメリカ・30才)の表示、ともに17アンダー。マジか、首位だ。完全に眼が覚めます。

2組先でプレーするサラス、18番ミドルホールの第2打は見事ベタピン、このパットが入れば1打リードを許すことになります。しかし、サラスはこのパットをわずかに外しました。まだ運はあるか。

渋野は17番パー。最終ホールに向かいます。まったくプレッシャーを感じさせないニコニコドライバーショットは、見事フェアウエイをとらえました。そう、次の一打が勝負です。

バーディーなら勝ち、パーならプレイオフ、ボギーなら負け。行け、渾身の第二打。

ボールはピンから5メートルの位置に止まりました。微妙な距離ですが、当然、入れにいきます。

打った。ちょっと強いか、行け、入れえー。入ったあ。

カップをもし越えたなら、かなり遠くまで行ってしまったかもしれません、下りだし。そういう強さでした。

渋野は、試合後のインタビューで、その最終パットのことを聞かれ、

「入れるか。入らなければ、3パットと思って打ちました。ショートだけはしたくなかった。」みたいなことを云ってましたが、たいしたもんです。後半は全く緊張してなかったとも云ってましたが、たしかにそのように見えました。

この日、首位でスタートするも、3番ホールで4パットして3位に後退したところから巻き返したわけで、よく、開き直ると云いますが、なかなかベテランでもできることではないですよね。

二十歳恐るべし、知らない者の強みということではかたずけられないものがあります。技術も気力も素晴らしいんですけど、この勝負の流れを自らに引き寄せる運気をを持っていたということも云えるでしょう。

プロゴルファーという仕事を始めたと思ったら、いきなり頂点を極めてしまったわけで、これからも大変だと思いますけど、ま、ほとんどの人が見れない景色を見れちゃったんですから、ともかく祝福されることではあります。

以前、これと同じようなことがあったなと思ってみると、それは、

2011年の「なでしこジャパン・ワールドカップ優勝」でした。

この時も夜中にものすごい感動したんでした。

21世紀は、女の世紀であると、誰か云ってましたけど。

まったく、何かと女の人がやってくれますよね。

2019年7月25日 (木)

なんでゴルフをやっているのかという話

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今年の梅雨は、いつになく梅雨らしい梅雨で、長期にわたって各地に雨を降らせてますが、このところ、わりと頻繁に予定されていた私のゴルフ行きは、ことごとく雨雲を避け、一度も雨合羽を着ることもなく、順調に進行しています。ゴルフというのは、その天候も含めた競技であると、硬派なゴルファーはおっしゃいますが、やっぱり、雨や風はなるべく穏やかな方がありがたいわけです、軟派ゴルファーとしては。

ただ、どうして梅雨の最中に、これだけ予定が入っているかというと、自分がなにかと積極的に人を誘っていることと、逆に誘われた時に、基本的によほどのことがなければ、けして断らないという姿勢にあります。

要は、下手だが好きだということなんです。

このゴルフという競技は、全部で何打、打ったかというスコアを競うんですけど、このスコアというのは、すべて自分のせいで出た結果であって、誰かのせいということは全くありません。うまく行かなかったことは、みな自己責任です。そして、だいたいにおいて色々なことは、うまく行かないんですね。ゴルフがかなり上手な人であっても、常にうまく行かないことは多くて、まして下手な人は、一日中そういうおもいをすることになります。

ということで、このゲームは終わったあとに爽やかな気持ちになるということは、あまりありません。だいたいにおいて、苦いおもいでゴルフ場を後にすることが多いのですが、翌週にまた誰かから誘いの連絡があると、1も2もなくスケジュールを開けようとしちゃうのですね、何故か。

この上手くならないゴルフというものと、どうして出会ったかという話なんですが、

たしか30歳くらいの頃、仕事でたまにアメリカに行くことがあって、その当時、わりと長い間行っていることが多くて、その時に、ゴルフの上手い現地のコーディネーターに誘われて、ろくに練習もしないで、いきなりグリフィス天文台の麓にあるパブリックのゴルフ場に行ったことがあったんですね。今考えると、よく行ったと思うんですが、第1打、いきなり続けて空振りしたら、後ろで待ってたアメリカ人に、

「ヘイ、ルック、アット、ボール!」と、野次られる始末で。

でも、考えてみると、相手は止まってるボールなんで、どうにかこうにか1ラウンドやったんですね。いったい何打打ったのかもわからん状態で、でも、ひどい目にあったんだけど、なんか楽しかったんですよ。

それから何度か、アメリカの辺鄙な場所に仕事に行ったんですが、そういうところにはたいてい近くにゴルフ場もあるんですね。いつだったか、カナダの国境あたりまでロケに行ったときに、その時のカメラマンが、今回の撮影は、早朝と夕方の射光でしか撮らないと云いまして、しばらく居たんですけど、昼間はやることがないわけです。ホテルの目の前は広大なゴルフ場なんですけど、シーズンオフなのかそこには鹿しかいないんですね。そうなるとゴルフしかやることないんです。そんなことどもがあって、なんだかゴルフって面白いじゃんみたいなことになっていったんです。

それまでの私はというと、大人がやってるゴルフという文化が大嫌いでして、あくまで印象の問題なんですけど。どっかのBARで酒飲みながら、あんなものは、いい大人も、いい若い者も、けしてやるもんじゃないと言い放っておったもんで、今さら、意外に面白いねとも言えなくなっておりました。

そうは云っても、ちょっと興味が出て来て、テレビで青木功やジャンボ尾崎なんかを見てると、それはそれでけっこう面白いし、それまで、駅のホームでゴルフスイングしてるオヤジとか、心の底からバカにしてたんだけど、なんか少しわかる気もしたりして、誰にも見つからないように、練習場にも行ってみたりしました。

そのことを、会社で仲良しだったヤマちゃん先輩と、同僚のマンちゃんにちょっと話したら、この人たちはすでにゴルフ好きでしたが、それは絶対にゴルフ始めるべきだと勧められまして、日本のゴルフ場にも連れてってもらうようになりました。

この人たちから、やたら筋がいい筋がいいと褒められまして、悪い気はしないからその気になってきたんですけど、まあ、あとで聞いたら、あいつは全くスポーツとは無縁で、やたら深酒するか、文庫本読むくらいしか趣味がないから、せめてゴルフくらいさせようと、二人して何かとおだてるようにしてたそうです。

そんなようなことで始まったゴルフなんですが、その後、あんまりやれなかった時期もあり、きちんと練習を積むということもなく、だらだらと下手なままなんですけど、いわゆるゴルフ歴だけは長く、かろうじて続いている趣味なわけであります。

ただ、時々、なんでゴルフやってるんだろうなとも思うんですね。

朝早く起きて、わりかし遠くまで行かなきゃいけないし、たまにわりとうまく行く日もあるけど、たいていがっかりするし、そうやって何年も同じレベルで、むしろ下手になってるんだけど、なんとか、一つ上のゴルファーになれないだろうかとは、いつも思っていて、わりといろんなこと試してみたり、例えば、誰かに聞いた練習をしてみたり、上手な人に教わったり、新しい道具とかボールを手に入れてみたり、なんかいろいろ本読んでみたりするわけですよ。

でも、見えてくる景色は、あんまり変わらないわけです。

200ヤードのドライバーショットも、数10センチのパッティングも、同じ1打で数えられ、その1打1打に一喜一憂し、出てくるスコアは、いつもほとんど似たようなものなわけです。そしてそのスコアは誰のせいでもなくすべて自分のせいであるところが、ゴルフのゴルフたるところです。

よく、ゴルフというゲームは、人生に似ているという人がいますが、たしかに、

「禍福(かふく)は、糾(あざな)える縄のごとし。」みたいなとこありますよね。

誰が思いついて始めたのか、なんだか無駄に深いところのあるゲームです。

イギリス人が作ったというのも、なんかわかる気がする。

 

2019年6月12日 (水)

新宿馬鹿物語

この前、新宿三丁目のあるお店が、開店40周年を迎えまして、新宿の大きなレストランで、記念のパーティーがあったんです。20席あるかどうかの小さな飲み屋さんが、40周年というのは、ちょっとすごいことだなあと、改めて思いました。

40年前の、この店の開店パーティーの時には、私は若造ではありましたが、客として末席に参加しておりまして、20周年の時も、30周年の時もパーティーに出席したんですけど、その度に、こうなったら是非40周年までやろうと、半分冗談ともつかぬ話で盛り上がっておったわけです。

一言で新宿三丁目と申しましても、いささか広うござんしてですね、このお店があるのは、伊勢丹から明治通りを渡った一廓で、昔から飲食店が集中しておるあたりでして、寄席の末廣亭などもありますね。昔はタクシーに乗って、新宿三光町(サンコーチョ―)行って下さいって云うと、だいたいこの界隈に連れて来てくれまして、その辺りの要(カナメ)通りっていう路地に面した雑居ビルの地下に降りていくと、この店の扉があるんですね。

この店を40年間仕切ってきたのが、この店のママさんで、フミエさんといいます。今でこそ、穏やかなおばあさまとなられてますが、開店当初の頃は、まだ若くて、美人で、さっぱりした人でしたから、すぐに人気店になりまして、いつも店は混み合ってました。私は、この人のことを、勝手に新宿の姉と紹介したりしておりますが、弟のくせに生意気に、フミちゃんと呼んでおります。

Deracine


お店の名前は、「デラシネ」といいます。フランス語で根なし草を意味していて、社会を漂う流れ者のことだったりするようです。フミエさんが、五木寛之の「デラシネの旗」という小説の題名から採ったそうです。それからずいぶん経ってから、五木寛之さんがお店に飲みに来られたそうで、この話は店の歴史を感じる話ではあります。

そういえば、その頃この店で飲んでいたのは、皆、根なし草みたいな風情の人達でした。私より年上の出版社とか広告会社なんかの人が多かったけど、それぞれに面白い人たちで、すごい量を飲んでいましたね。

このあたりは、ともかく腰据えて深く飲む街でしたね。はしご酒もするし、靖国通りの向こうの花園神社ゴールデン街も、まさにそういう場所でした。とにかく、誰も終電のことなんか気にしていない不思議な感じでした。

飲んで何してるかと云うと、いろいろなんですけど、基本的に皆そこらへんの人と話をしてまして、ある意味議論していて、これが面白くて、たまに結構ためになることもあります。ただ、たいてい酔っ払ってしまうので、寝て起きたら忘れてしまったりするんですけどね。仕事済んだら帰って寝りゃいいのに、こうやって夜中に無駄な時間過ごしてる大人たちなわけです。それで始めのうちは、わりとちゃんとしたことしゃべっているんだけど、だんだん酔っ払ってくると、やたら笑ったり、泣いたり、怒ったり、意気投合したり、喧嘩したり、騒いだり、いろんなことになって夜が明けたりします。そういえば、ただ横で寝てるだけの人も必ずいますが。

あの時代、その手の酔っ払いたちが、今よりずっと多くて、夜中のその界隈にあふれていたのは確かです。

作家の半村良さんが、その昔、要通りのあたりで、バーテンをされてたことがあって、それをもとに「新宿馬鹿物語」と云う小説を書いたという話を、その頃聞きましたが、妙にその題名と、この街のイメージが符合します。

私は働き始めたころから、「デラシネ」にお世話になっておりましたが、貧乏な若造だったので、いつも持ち合わせがなく、それなのに宵っ張りの呑んべえなもんで、

「ツケでお願いします。」ということになりまして、随分と長い間、生意気に付け飲みをさせてもらったわけです。このあたりにも、新宿の姉たる所以があるわけであります。

 

実は、デラシネ開店40周年記念パーティーなんですが、私、仕事とかち合って出れなかったんですね。

相当貴重なパーティーでしたから、残念だったんですけど、こうなったら、是非、50周年を目指していただきたい。

もう昔のようなパワフルな酔っ払いたちはいませんけど、また別の形で、新宿要通りのバーの文化が継承されると良いかなと、はい。

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