2021年7月16日 (金)

寺内貫太郎一家と猫のカンタロウ

5月30日に、作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられていたという訃報を知りました。昭和7年生まれということで、ちょうど私の親たちと同年代の方でした。いつ頃からこの方のお名前を存じ上げていたのか、覚えてないんですが、自分が子供から成長していくにつれて、亜星さんという個性的な名前は、どんどんその存在感を増していったと思います。
最初は、小学生の頃のアニメソング、大好きだった「狼少年ケン」は、完璧にフルコーラス唄えました。ガッチャマンも、怪物くんも、ピンポンパン体操も、男子だけど、サリーちゃんも、アッコちゃんも、唄えたし、子供たちがすぐに覚えられて大好きになってしまう唄ばかりでした。
それと、CMソングです。当然、亜星さんが作られたことは、あとで知るんですが、レナウンの「ワンサカ娘」も「イエイエ」も、新しくって刺激的で、子供なりに大好きでカッコいいなと思ってました。エメロンシャンプー「ふりむかないで」、日立「この木なんの木」、日本生命「ニッセイのおばちゃん」、ブリヂストン「どこまでもゆこう」、サントリーオールド「夜がくる」等、今でもみんなが忘れられないCMソングは、枚挙にいとまがありません。
歌謡曲もたくさんあって、1976年のレコード大賞・都はるみさんの「北の宿から」は代表作です。
ただ、この方の仕事で特筆されるのは、私が子供の頃に放送が始まったテレビというメディアの、新しいジャンル、アニメソングやCMにものすごくたくさんの名作があることです。
私は1977年から、CMの制作現場で働き始めたので、その頃、CM音楽界で最も有名な作曲家であった彼の存在を知り、どんだけ多くの名曲を作った人であるかが、だんだんわかってきます。自分が付いてる仕事の音楽を亜星さんが作られることも希にありましたが、こちらは制作部の末席の助手の助手みたいな立場ですから、「おはようございます。」と挨拶したら、邪魔にならないスタジオの隅から、音楽が出来上がるのを、ただ見学してるようなものでした。
そのようなことが何度かありましたが、亜星さんはいつも、最初の打ち合わせをすると、後はディレクターに任せて、スタジオの隅の小さな椅子に大きな身体を乗せて、鼾を立てて寝てしまわれました。時々、スタッフから報告や相談があると、みなさん慣れていて平気で起こすんですが、終わるとまたすぐに寝てしまいます。当時、相当に忙しい方だったことは想像できましたけど、見事でしたね。

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それより、私がこの方にお会いできて、何に感激してたかと云えば、
「あ、やっぱり寺内貫太郎だ。」ということで、
ご存知の通り、1974年と1975年にTBSで放送された有名なテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主役の貫太郎は、小林亜星さんが演じておられたんですね。私は20歳前後の頃でして、毎週テレビで観ておりました。
今思えば、かなりよくできたホームドラマで、笑いあり涙ありだけど、それなりに毒や刺激もあって、テレビが持っているオーソドックスな面白さの上に、アバンギャルドな新しい試みを加えた、妙に完成度の高い番組でした。
これは、向田邦子さんが脚本を書かれ、久世光彦さんが演出をされている独特な世界観のドラマで、1970年に始まったドラマ「時間ですよ」から繋がっている流れでして、私は高校生から大学生の頃でしたから、かなり影響受けてたと思うんですね。
当時、TV界のヒットメーカーの向田・久世コンビが、満を持して作った「寺内貫太郎一家」でありましたから、その主役は誰なんだろうかと思っていたところ、小林亜星さんという巨体の作曲家だったわけです。
ドラマが始まったときには、やはりプロの役者さんじゃないし、なんとなく違和感もありましたし、そもそもこのキャスティングには、向田さんは反対されたと聞きましたが、この辺りがテレビというものをわかってる久世光彦ディレクターの天才たる所以なんでしょうか、続けて観てるうちにだんだん慣れてきて、それどころか気が付くと、貫太郎に感情移入できたりするようになってきました。そして続編も作られ、間違いなく名作ドラマとして後世に残ったわけです。
余談ですが、ちょうどその頃、大学の帰り道に、多摩川の河原を歩いていたら、トラネコの子猫が後をついてきたんで、アパートに連れて帰って一緒に暮らし始めたことがありまして、その猫に「カンタロウ」という名前を付けたんですね。そのカンタロウが半年くらいで、みるみるデカくなってきて、名前負けしなかったなあ、という思い出もあります。
ここに書き切れませんが、その前も後も小林亜星さんは素敵な音楽を作り続けられ、私の人生の要所要所で音楽というものが持っている可能性を教えてくださったなあと思います。
というような、ごく個人的な一方的な不思議なご縁なのですが、子供の頃から、知らず知らずずっとファンだった気がしました。
猫のカンタロウは、その後長生きできずに早世してしまったのですが、亡くなってしまった冬が明けた翌春に、近所を歩いていたら、一匹の母猫の後を子猫が5匹ほど歩いていて、陽春らしい良い風景だったんですけど、その中の一匹が、うちのカンタロウに生写しでして、これは間違いなくあいつの子だなと確信したことがあったんですね。そう云えば、お互いによく夜に出歩いてましたから、たまに数日帰ってこないこともあり、そういう時に子作りもしてたんだろうかなと思ったようなことでして、全くの余談の余談でした。

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2021年6月16日 (水)

一人遊び力

なるべく人に会わずにいること、と云うことは、基本的に一人でいて、間(ま)が持つ能力が問われているということです。
一昨年、こいう事態になった時に、わりと近くに住んでおられる、敬愛するAZ先輩と話していて、
「こうなって来ると、しばらくお会いできないということですかね。」と申した時、先輩は、
「僕はもともと一人っ子だし、昔から一人遊びは得意だから、特に問題ないけど」
と言われました。
そういえば、この方は、いつまで飲んでいてもずっと味わい深く、飽きることのない方ではありますが、逆に一人にしておいても、いつまでも一人で遊んでることができる人でもあります。
精巧なオモチャの銃を組み立てたり、分解したり、ニボシの内臓を取り出したり、自分で作った燃料コンロの炎をじっと見てたり、何か焼いたり、一人用キャンピング軽自動車で地の果てまで出かけたり、ま、いろいろですが、全く一人で飽きるということがありません。
確かにこれは才能ですね。
それでふと思ったのは、自分も一人っ子だし、中学の時に広島に転校してからは、高校まで部活もやらなかったし、あの頃、わりと一人遊びは得意だったなと。何してたわけじゃないけど、放課後は、街をブラついて映画見てることが多かったし、でなければ、自分の原付船で海に出てるか、五右衛門風呂沸かすのが役目だったから、薪割りと火付け番やったり、ラジオ聴いたり本読んだり、タバコ吸ったり、わりと毎日飽きないでいたかなと。
世の中がこういうふうになる前は、なんだかんだ毎日のように、いろんな人と会って飲んだりするのが生業(なりはひ)でもありましたが、今みたいなことになると、そうも云ってられないわけでして、その一人遊びが得意な性分が生かせないかと思ったんですね。で、やってみると、コロナに感染しないように一人でいる時間を組み立てることは、わりとできるもので、そんなに退屈もしないです。
前はやってなくて、最近やるようになったのは、朝起きてからの簡易ヨガと、週に2回くらいの10キロランニング。これは年齢のせいでもあるけど、動かないことで身体が硬くなってることへの対策と、ただ飲んで食ってることで無法状態になっている体重の調整の意味がありますが、これやってみると奥は深いんですね。
それと、このところトライしてるのが、毎晩飲んでいた酒を二日に一回にすることで、これは個人的には画期的なことなんですけど、やってみると意外にできてまして、ほら、酒って誰かと盛り上がるんでつい飲んじゃうんで、一人ではそんなに飲まないでも済むもんだということが最近わかったんですね。うちは奥さんも娘も飲まない人だし。ただ、まる一日飲まない日ができると、その翌日の酒が妙においしいわけで、ついつい二日分飲んじゃったりして、量的にはあんまり意味ない気もします。
そういうこと以外は、まあ、思いついたことをやってるわけでして、何かに追い立てられてるんじゃないんですけど、やることはいろいろあります。このブログに書いてるようなことも多いんですが、基本的に物事をじっくり観察してると、いろんなことを思いついたり、気になったりすることも多くて、そういうことを順番に確認したり、調べたりすることになるんですね。考えてみると、この性分は昔から変わってないところもありますけど。
ただ、会いたい人はいろいろいて、やはり会いたいものでして、そこがしんどいところであります。たまに人に会えることがあると、この上なく嬉しいものです。

いつになったら元の暮らし方に戻れるのかはわかりませんが、それと、全く元通りというのも無理かもしれないけど、なんか時間も気にせず、気心の知れた人と、取り止めのない話を、酒飲みながらできるようになりたいもんです。
ま、それまで、一人遊びが上手になるぶんにはいいんですけど。

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2021年5月21日 (金)

オーベルジュ・トシオ

こうなってくると、日々の暮らし方としては、ともかく用もないのに出かけないこと、できるだけ家にじっとしていること、なるべく人に会わずにですね、会食をしたり、酒盛りをしたりは、もってのほか、この厄災が去って行くのをひたすらに待つことなんですね。
要は、余計なことは思いつかないようにして、家でおとなしくしてろと。
ただ、こう長くなってくると、たとえば感染リスクを避けながら、違う環境に自分の身を置けないものかと、多少ジタバタしてまいります。
そんな時、ときたまお世話になって、気分転換ができてありがたいのが、私が秘かに「オーベルジュ・トシオ」と呼んでる信州の山小屋なんですが、これ、ある友達の別荘なんですね。
この人は、基本的に東京で生活してるんですけど、この山小屋の季節季節の管理は自分でやっていて、ちょくちょく山にこもっていろいろ仕事してるんですが、今回のコロナ禍が始まった頃、東京から避難する意味もあって、ひとり山小屋に籠ったんです。普段から全くそんなふうには見えないんですけど、どうも体質的に疾患があって身体が弱いということで、やはり避難なんだそうです。そういうことならば、退屈しのぎにでもなればと、たまにごく少人数で寄せていただいておるわけです。
場所は八ヶ岳の麓の原村、信州の四季を満喫できる素晴らしいところでして、この友人は、さしずめこの山小屋のオヤジといった役回りなんです。それで、このオヤジが出してくれる食べ物が、街で人気の居酒屋のレベルでして、仕入れも作る手際も、ちょっと驚きの研究開発がされております。彼そのものが、昔から酒飲みで、うまいものが大好きでしたし、食材や調理法にも、好奇心が強くて勉強熱心でしたから、我々はオヤジが長年試行錯誤して完成させた成功作を振る舞ってもらってるわけです。

この、Kネコ トシオさんという人がどういう友人かというと、お互い20代の前半には出会っておりまして、私がTVCM制作会社の駆け出しの制作部だった頃、よく現像済みのフィルムを現像所に取りに行っていたんですけど、その現像所のカウンターで上がったフィルムを渡してくれるのが、短パンにランニング姿のトシオさんだったわけです。現像が込み入ってる時には、いつまで経ってもフィルムが上がってこなくて、ずいぶん待たされるんですが、カウンター越しにこの人に、
「まだですかー!」と怒鳴れば、
「まだだよおー。」みたいなことで、
顔はよく知っていて、年齢も近かったけども、特に仲が良いということでもなかったですね。
その頃、テレビのコマーシャルは、いわゆるテレビカメラで撮影するんじゃなくて、全部35mmのフィルムで映画用のカメラで撮って、最後の納品もフィルムでしたから、当然フィルムの現像も、スーパーを入れたりする加工も、全部現像所でやっており、それを制作している私たちもテレビのコマーシャルを作っているテレビ屋さんというよりは、フィルム屋さんと云った風情だったわけです。
そのうちトシオさんも、その会社でCM業務の営業担当になって、こちらも制作部として多少仕事がわかるようになってきて、いろんな局面で仕事の協力をしていただく用になりまして、時々酒飲んだりして、仲良くなってくるんですね。
この人はもともと職人気質な人で、実に現像に関するケミカルな知識や情報も豊富だし、いろいろ仕事が難しいことになっても、決して諦めずにしぶとくやってくれる人で頼りになりました。
そんなこんだで、私達が立ち上げた映像制作の会社も、彼の会社と強い信頼関係ができて、その後、CM映像の世界はケミカルからデジタルハイビジョンになってもいきますが、気がつくと、ずいぶん長い仕事のお付き合いになってたんです。

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仕事としてはそういうことなんですけど、この人はおいしいものを食べて、おいしい酒を飲むということには、まあ実に貪欲で、手加減しない人なんですね。それでもって、根が職人肌だから、なんか美味いもんを食べると、自分で作ってみるわけでして、そういうデータが積りに積もってますから、原村高級居酒屋「オーベルジュ・トシオ」となってるわけです。
正直、この人が会社を退職したら、居酒屋とか開いちゃうかもとか思ってたんですけど、それに関しては、彼の賢い妻が、それだけは絶対にうまくいかないと予言したそうで、確かにこの人が店やると、仕入れとか段取りとか、えらくこだわって頑固そうだし、客の好き嫌いもはっきりしてそうだし、料理は美味しそうだけど商売はなかなか大変だから、確かに奥さん正しいかもね。
山小屋の方は、この調子でこの人が細かくコツコツとメンテナンスしてるので、実に快適な状態で、行く度ごとに季節の違う風景を見ることのできる、得難い場所が出来上がっています。
多分、性格的にも私にはこういうことはできないだろうけど、気がつくとなにかと自分の家のように寄せていただいてまして、昨今の世の中で、大変助けられてる次第です。
この建物は、彼と彼のお兄さんが若かった時に、この土地にやってきて一から作ったんだそうです。実は、そのお兄さんは、私にとって同業他社の先輩でありまして、ご縁があって昔よくお世話になっていましたから、この山小屋の話はよくお兄さんから聞いていたという経緯もありました。そのお兄さんは、残念ながらしばらく前に亡くなってしまいましたが、不思議なご縁も感じます。
そう云ったことのおかげで、今、きれいな空気の自然の中で、おいしいものを食べて飲んで、よく寝て、、、ありがたいことです。

持つべきものは、職人肌の料理好きな飲んべえの、山小屋持ってる友達だね。

という話なんですけど、

ま、探して見つかるもんじゃないということは、わかります。

2021年4月30日 (金)

配送業してた頃

コロナ禍によって、息苦しく暮らしにくい世の中になって、すでに2年目になり、終わりの見えない日々が続いています。自由に外出することもままならず、生活するための買い物も制限される中、助けられているのは、今の時代に細やかに張り巡らされている配送のシステムです。
大抵の物は、電話やネットでリクエストすれば、素早く届けていただけるわけでして、この状況下、全くもってありがたいですよね。
この時代が育てた現システムは、その精度をますます上げてきておりますが、この仕組みを支えているのは、間違いなく実際に物を届けてくださる配送員の方々でして、ウイルス感染のリスクの中、まさに家籠りの生活を助けていただいているわけです。
昔、配送の仕事をやったことがあるんですけど、これなかなか大変な仕事なんです。大学時代のアルバイトでしたが、お中元とお歳暮を配る真夏と真冬の約1ヶ月ずつ、デパートの配送センターから呼ばれて、毎日、荷物を配り歩いておりました。私が働いていたのは、港区・千代田区配送センターというところで、渋谷の東横線のガードの下にあって、結構大きな配送所でした。
だんだん思い出してきたけど、港区と千代田区の町名ごとに仕分けされた荷物が山積みになっていて、まずその日に担当する荷物を、自分に割り当てられたホロ付き軽トラックに積み込むんですが、この時、あらかじめ配る順番を決めて積みこんどかないと、後で配る時にわけわからなくなります。伝票も配送順に束ねて、軽トラに乗り込み、港区と千代田区の各地区に散っていくんですが、基本的にトラック1台につき1名で、雨の日も風の日も朝から日没まで配り歩きます。思えば、あの頃のお中元お歳暮の季節、荷物の量はかなりのもんでした。
行き先は地図が頼りです。この地図を読み込んで頭に叩き込んでおくこと、またその地図上の場所が実際の街のどこなのか、その辺りがあらかた描けてないと仕事になりません。ともかく必死で地図を読み込んで、あと、一方通行や目印なんかも赤ペンで地図に書き込むんですけど、そうやってあとは走りながら、風景ごと頭にインプットしていくわけです。
こうやっていろんな地区を担当しながら経験値を上げていきます。東京の街には実に様々な顔つきがあって、官庁から大中小企業やら町工場、各種宿舎、商店街、学校も病院もあるし、宗教関係、住居、集合住宅、等等。届け物がわりと集中する議員会館みたいなところもあれば、滅多に来ないところもあり、届け先は本当に多種多様です。若い時にあれだけの東京の風景を見て、中に入っていって、いろんな人に会ったことは、ずいぶん面白い経験をした気がします。
どんな仕事もそうですけど、始めのうちはなかなか苦戦するんですが、これらの体験を重ねていくことで、だんだん要領がわかってきます。仕事の勘みたいなものが良くなってくるんでしょうか。やり始めた頃は、1日頑張って100個とかがいいところでしたが、1年2年とやっていくうちに、200個とかは朝飯前になります。アルバイトとしては年に2回の大型収入となりまして、自分でも、はなから当てにするようになり、配送所の所長さんからも、シーズン前に必ず私のことを確保するための連絡が来ることになりました。

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そんな中で、私は丸の内・大手町地区の担当からは外されてまして、それは当時、大企業のビルの集まるこの地区の警備が大変厳しくなっていたことがあります。ちょうど1974年に丸の内で三菱重工爆破事件というのがありましたから。私に思想的な問題があったわけじゃないんですが、見た目が問題ありでして、米軍払い下げのジャンパーに、Gパン・ボサボサの長髪・無精髭にサングラスでしたもんで、いく先々で職質受けて仕事にならんわけです。
まあ、そういったお兄ちゃんたちが、その頃のお中元お歳暮ビジネスのある部分を、支えておったんですね。
御中元の時期は、6月後半からピークが7月中旬で月末まで、ちょうど梅雨の頃で雨にもよくやられます。お歳暮の方は、まさに師走でして、めったに雪はないけど木枯らしの季節、それと道が死ぬほど混む時期です。幹道を避け、すいてる道を選びまして、基本急いでますので、コーナーはタイヤ鳴らしたりしてましたね。自分なりの順路を組み立ててシミュレーションして、その完成度が成否を分けます。
書きながらいろんなこと思い出して、まだ書ききれないことも多かったですが、なかなかに骨の折れる仕事でした。
ひとつ、この仕事やって良かったのは、荷物を届けた先方の人が、基本的に歓んでくれることでした。不機嫌になる人はまずいませんからね。
今は荷物を受け取る立場ですけど、届けていただいても、コロナだから玄関先に置いといてもらうので、ろくにお礼も言えず心苦しいんですが、道でお会いした時は、最敬礼するようにしております。

はい。

2021年2月24日 (水)

どこか遠くへ行きたい

世の中がこんなことになって、かれこれ一年が経とうとしてます。つい先日、実家がお世話になっている税理士さんに会わねばならなくなって、久しぶりに広島まで新幹線に乗りましたが、思えば、旅することがなくなって、ほぼ一年になります。
こうなると、なんだか無性に旅というものが恋しくなりますね。国内はともかく、今は国境を越えることすらできませんから。私のお友だちには、旅をこよなく愛する方が多くて、皆さんしばらく、鬱々とした日々を過ごしていらっしゃると思います。
私はもともとが出不精だし、自分から思いついて、どっかに出かけたりはしないんですけど、何かと旅をすることになりがちな人でして、旅慣れてはいるんですね。それは仕事と関係することが多かったりもするのですが、そうじゃなくても、何らかの用事ができたり、旅好きな方から一緒に行こうと誘ってもらったりと、わりと若い頃からずっとそうで、長いこと、旅する理由には事欠かない人だったんです。そんなことで、こんなに長いことどこにも旅しなかったのは、初めてじゃないですかね。
考えてみると、旅からは、いろんなことを教えてもらいましたね。旅せねば出会うことのなかった人や、街や、土地や、ものや、新しい価値観、いいことばかりじゃない違和感も含めて、他者から多くのことを受け取り、そこで自分と向き合うことも多かったと思います。
旅には、その風景や時間とともに、強い印象を残した記憶が刻み込まれているんですね。
これからは、自分が行きたいと思ったところへ、ふらっと旅してみたいなと、思っていたところだったんですけど、この状況下では、なかなか思うにまかせず、旅に焦がれ、空想の日々が続きます。

このまえ、伊丹十三さんの若い頃のエッセイを読んでいたら、沖永良部島(おきのえらぶじま)で食べた落花生がうまかったという話があって、久しぶりにこの地名に触れ、若い時にひょんなことで、この島を訪れたことを思い出しました。この島は鹿児島県ですが、東シナ海のかなり沖縄寄りに位置します。
私が学校出てすぐに働いていたCMの制作会社で、この島にロケに行く仕事が起こり、その仕事にお供させてもらうことになります。多分この時初めて飛行機というものに乗った気がしますが、1977年頃のことで、スタッフ全員の航空チケットを飯田橋の旅行代理店まで受け取りに行き、その時に持たされた現金90万円は、それまでの人生で見たことのない金額で、緊張したのを憶えています。
島は周囲50kmくらいで、車なら1時間で一周できるくらいの大きさです。九州本島からは550kmほどで、幕末に西郷隆盛が遠島にされていたというところです。我々がロケをするために向かったのは、沖永良部島にいくつかある小学校のひとつで、校庭にすごく大きなガジュマルの樹がある小学校で、大きな樹をビジュアルモチーフにしたある企業の広告を作るため、樹と学校の風景を撮影するのが目的でした。
見たこともない映画用のでかいカメラと共に、突然やってきた大勢の大人たちに、離島の子供たちは、初め戸惑いながら遠巻きにしていましたが、だんだん近付いてきました。
「おじさんたち、何しにきた?」と聞いた子がいて、多分、彼らと一番歳の近い私が、
「テレビのコマーシャルを撮りに来たんだよ。」と、答えたんですけど、
当時のこの島の多くの人たちは、コマーシャルというものを知らなかったんですね。要は、民放の放送がなくて、NHKしか放送されてないので、ここにはテレビコマーシャルというものはないわけです。
その時、仕事のために持っていたポラロイドカメラがあって、それ自体、当時珍しくて貴重なものだったんですが、フィルムが余っていたので、子供たちを撮って写真をあげたんですけど、その場でカラーの画が浮き出してくる写真に、みんな目が点になって、その後で歓声が上がりました。写真をちり紙に綺麗に包んで大事にランドセルにしまう女の子もいまして、コマーシャルってなんだかわからなかったけど、悪い人たちじゃなさそうだなみたいなことにはなりました。
仕事も終わり、帰りの飛行機を待っていたのは、空港ターミナルビルとは呼び難い、どこかのローカル線の小さな駅舎のような建物でして、鹿児島空港から飛んで来るYS-11が折り返し私たちを乗せて飛んで行くことになっていました。飛行機が着陸すると、空港にいた整備員がすぐに走って行って、やおらYS-11の屋根のランプのあたりに乗っかって、なんかやってるんですね。で、しばらくしてこっちの建物の方へ走って来て、何人かでなんか話してるんですけど、客の方へ向かって、
「皆さんの中で、どなたかガムテープをお持ちの方はいらっしゃいませんか?」と、おっしゃる。
ご存知じゃないかもしれませんが、撮影隊というのは、必ずガムテープを持っていて、当然、備品は一番下っ端の私が管理しているわけです。その整備の人にガムテープ2本くらいお渡ししたと思うんですけど、その人がYS-11の方へとって返したかと思うと、その機体に登ってまたがり、やおらガムテープを数カ所貼り始めたんですよ。
「えっ?」
それから、何事もなかったように搭乗手続きが始まるんですけど、それを知ってる人たちは結構不安なわけですよ。もともと飛行機のことをあんまり信用してなかったんですけど、初めて飛行機で旅した時のこの経験から、ますます飛行機嫌いになった気がします。

これが私の、沖永良部島・旅の思い出ということなのですが、どうもこの島にはご縁があったようで、それから2年くらいして、もう一度、また別の仕事で撮影に行くことになりまして、これがまた思い出深い旅になります。というか思い起こせば、その後の長きに渡る私のロケのキャリアにおいて、唯一最後まで晴れなかったロケだったんですね。
毎年、2月、3月あたり、鹿児島の南から沖縄の各島に渡って、いわゆる台湾坊主(東シナ海に発生する温帯低気圧)が停滞して、ずっと天気が悪いことは知られていますが、そうは言っても1日や2日晴れる日もあるし、だいたい俺たち晴れ男だしみたいな気合で挑んだロケでしたが。
この仕事がまた “ピッカピカの一年生”という児童雑誌の広告キャンペーンでして、文字通り晴れないわけにはいかないのであります。ところが、来る日も来る日も、雨、雨、良くて曇りなわけです。東京のこの仕事のクライアントからは、撮れるまで帰ってこなくてよいとのお達しがありましたので、ただ雲の切れ間を待っております。
ロケ隊は男10人ほどの所帯で、泊まってるのは、さほど大きくない観光ホテルなんですけど、シーズンオフで他に客もなくて、毎朝、海に面したレストランに集まるんですが、空にはびっしり鉛色の雲が幾重にもかかっておるわけでございます。
こうなれば粘るしかないんですが、この小さな島には娯楽もなく、毎晩、黒糖焼酎や泡盛飲むにしても昼間は天気が悪ければ行くところもないし、そこら辺にある雑誌は全部読んでしまって、ついには連絡船で届いた新刊本を港に買いに行く始末です。日々の会話も無くなり、朝ご飯済んだらそれぞれベッドに戻り、サナトリウムってこういう感じかなと云ったりしておりました。
そんな長期滞在の末、どうにか薄日で撮影を終え、ついに島を離れる時に、一年半の遠島から帰国できることになった西郷さんの心持ちにちょっとなったといえば大袈裟なんですが。

それからも、東シナ海をめぐる島々には、よく仕事で出かけましたが、その中で最初に行ったこの島のことは特に印象深いです。でも、あれ以来行ってないですから、今はどんなふうになっているのだろうか。ちょっと行ってみたい気もするけど、、

多分、なんもかんも違う景色で、完全に浦島太郎状態なんでしょうね。

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2021年2月 1日 (月)

100年という時間

緊急事態宣言下、人に会えない日々が続いております。こういう時は、体を動かすのも、考え事をするのも、なにかと自己に向き合うことになります。
それはそれで悪いことじゃないんですけど、
「久しぶりに、一杯やりますか。」というフレーズが封印されて、長くお会いできてない方の数が、どんどん増えております。
そんな中、長いこと仲良くしていただいているヤマちゃん先輩から、本を一冊いただきまして、先輩は昔から、急に何かをくださることがあって、それは本だったりいろいろなんですけど、ネットで買ったゴルフシューズがちょっときつかったからと、3足いっぺんにいただいたこともあり、そんなことはいいんですけど、この度いただいたのは、
「日本を決定した百年・吉田茂著」という文庫本でして、同じのをもう一冊持ってるからあげるということで、ありがたく頂戴いたしました。
他にたまってた本もあって、しばらく置いといたんですが、先日読み始めてみると、興味深い本でして、いろいろ考えさせられることがあり、なかなかに知的なプレゼントでありました。

Syoshida
これ、どういう本かというと、戦後の名宰相といわれた吉田茂が、1966年にブリタニカ百科事典の巻頭掲載用として書いた論文でありまして、それまでの日本の100年の歴史を分析解説し、この国の将来に向けた考察を加えています。吉田さんは、この本が出版された1967年の10月に亡くなっていますので、奇しくも遺言のような意味合いもありますね。
この方は、1878年のお生まれですから、明治からの100年をほぼ一緒に生きた人で、政治家としてその歴史の意味を論じておられるわけです。この本を読んで、あらためて思ったことは、この国は、このたった100年の間に、あまりにも多くのことを経験しているのだなということです。
幕末の開国を機に倒幕運動に火がつき、江戸幕藩体制が瓦解し終焉します。1868年の明治維新からは、欧米の制度、文明を取り入れ、国を挙げての富国強兵が進み、明治の半ばには大陸における国際的な摩擦から、日清戦争・日露戦争が起こり、それには勝利しますが、大正期昭和期には、世界的な帝国主義、領土拡大の流れの中で、アジアにおける派遣を賭け、太平洋戦争、第二次世界大戦へと参戦、多くの人的、経済的犠牲の上に敗戦。そして、GHQによる占領、戦後社会への改革、新憲法の公布、サンフランシスコ平和条約締結、占領からの独立、経済復興、東京オリンピック。
これだけのことが、このおよそ100年の間に起きておるわけです。
その上で、百年の歴史から学ぶべきことを学び、この国が向かうべき方向を語った本と云えます。
明治11年に生まれた吉田は、外交官になり、駐英大使などを務めます。太平洋戦争前には開戦阻止を目指し、開戦後は和平工作に従事しますが、その活動が露見し、憲兵隊から拘束後、投獄。その後釈放され終戦を迎えます。
終戦直後の内閣で外務大臣、1946年5月、総理大臣となりますが、この時すでに67歳。1951年のサンフランシスコ平和条約締結の署名をした時は、72歳でした。

読後、考えさせられたことは多々ありますが、正直、最も強く感じたのは、100年という時間のなせるわざについてです。この時間が、果たして長いのか短いのか。100年という時間は、いずれにしても世の中を全く変えてしまいます。
ちなみに、私が生まれたのが昭和29年、戦後10年くらいですが、その100年前ということになると、1854年でして、この年はアメリカからやってきたペリーが幕府に開国を迫った年なのですね。これは教科書にも書いてある歴史の話なわけです。
最近、人生100年時代なんて云われていて、現に100年を生きる人は増えつつありますけど、もしも私が100まで生きたとして、生まれた時から見れば、それはそれで異次元の世界ですね。
どうも私たちが暮らすこの星は、この200〜300年の間に急激に変化しており、それがますます加速しているような気がします。何かで読みましたけど、地球規模で歴史が大きく変化し始めるのは、18世紀から19世紀にかけての産業革命以後で、この辺りから社会の形が急速に変わってきたようですね。例えば、地球の人口でいえば、1802年に10億人だった人口は、現在80億人に近づいており、私が生まれた頃の世界人口の倍を超えております。
今、地球上で、人類がえらいことになっているコロナ禍も、その急激な変化のひとつなのかもしれません。そして、今からちょうど100年前に、やはり世界規模でスペイン風邪が蔓延しており、この時も人類は大きなダメージを受けました。これもまた100年という時間の不思議でしょうか。

生命体としての地球の時間で言えば、100年て、まばたきくらいの長さだといいますけど。

2021年1月12日 (火)

2021年の新年は明けましたが

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さて、令和三年丑年となりました。

あけましておめでとうございます。
と、挨拶を交わす例年通りの年明けなのですが、世の中は今までに経験したことのない、不穏な空気で幕を開けることとなりました。
ついに昨年の大晦日には、コロナウイルスによる東京の感染者数は1300を超え、首相官邸は緊急事態宣言の発令を迫られました。いずれにしてもしばらくは、先の見えない不安な世相が続くことになりそうです。
この状況を食い止めて、今、世の中を支えているのは、間違いなく医療関係者の方々でして、命を落としかねない最前線で、日夜献身的な働きをしてくださっています。全くもって頭が下がるだけであります。
崩壊寸前のこの前線を守るために、自分が役に立つことは何ひとつなく、できるのはおのれが感染者にならぬことのみです。そのために、日々肝に命じるべきは、マスク手洗いは当たり前ですが、それに加え、いわゆる三密を避けるために、人と会って長い時間話をしないこと、それに付随して会食をしないこと、というのがあります。
実は、私、これが辛いんですね。
気心の知れた仲の良い人たち、久しぶりに会いたい人たちと、ちょいと気の利いた肴で一杯やる会が、わたし大好きなもので、そういう機会を作ることは熱心で、呼んでいただく場合も、よほどの事がなければ、まず断ることはありませんでした。そしてかれこれ一年程、その楽しみを封印されているようなものであります。

換気の良いところで、少人数で小時間で会食したことがなかったわけじゃありませんが、俺的に云えば、それもかなり手加減してますし、そもそも去年から、会いたい人を気軽に誘って良いもんだか、悪いもんだか悩むし、声かけるのも躊躇して、結局やめとこうかということになり、こちらもそうだけど、あちらもそうみたいなんですね。
ただ酒飲むのが好きなだけだったら、一人でしんみり飲んでりゃいいんでしょうけど、私の場合、全くそういうタイプじゃなくて、ほっとくといつまでだって飲んで喋ってる人ですから、このご時世には、最も向いていないタイプなわけです。
ただ、この難局を乗り切るためには、全員、耐えるべきは耐えねばなりません。そして、ともかく医療がきちんと機能できるように、考えられる対策は全てやらねばならないんだと思いますよ。命あっての物種ですから。

こういうことになってから、ネット時代ならではのリモートという仕組みができて、これは同じ空間にいる必要がなく、コロナ禍においては大変便利な文明の利器でした。多くの仕事におけるコミニュケーションが、これによってどうにか繋がり、前に進めることができたと思います。今回の災難が収束しても、このシステムは仕事をする上で有用になるでしょうし、多分仕事の仕方そのものが少し変わるかもしれませんね。
まあリモート以前の時代にも、どうしても会えない相手と、電話とFAXを駆使してどうにか打ち合わせしたりはしてましたから、追い詰められれば、どうにかなるんでしょうけど。
そんなことで、このリモートで飲み会をやろうかという話も時々出るんですが、とりあえず自分で酒持ってモニターの前に座れば、複数の人たちと確かに盛り上がることもできそうなんですけど、どうもそこまでしてという気にもならないんですね。要はどうもまだ慣れてないっていうことなんでしょうか。会議にしても、もうひとつ苦手なんですよね、あえて相手と距離を取るメリットを利用する手もあるかもしれんけど、なんかライブの芝居を中継映像で観てるような、物足りなさがあるかなあ。結局、前時代のアナログ人間ということなんでしょうか。

おそらく、この先々にも、忘れることのないこの灰色の時代が、早く通り過ぎることを祈りながら、ウイルスをやり過ごし、日々戦い、工夫をして生産活動を続けて、どうにか生き残ることが、この時代を共に生きる人たちの宿命ということかもしれません。
きっとこの厄災が収束した頃には、生きていく上での新しい選択肢も増え、今までとは違う仕事の仕方や楽しみも生まれるのかもしれんです。
それまで、ともかく助け合って頑張りましょう。
助け合うにしても、なかなか会えんのだけどね。
そういう時こそ、リモートでしょうか、やっぱり。

2020年12月21日 (月)

さよならAzzurra 、お世話になりました

私たちの会社が、六本木から、ここ神宮前3丁目に越して来たのは、かれこれ17年ほど前なのですが、新参者の我々が、ご近所ですぐに仲良くしてもらったのが、3軒隣のビルの地下にある「アズーラ」というイタリアンレストランです。おいしいのはもちろんで、青い壁のお洒落なレストラン(Azzurraはイタリア語で青い)なんだけど、当時流行り始めていた、わりと気取ったイタリアンじゃなくて、すごくさばけた感じで、云ってみればちょっとイタリアの裏町の居酒屋っぽくて、私たちと合いそうな気がして、勝手に、ここを社員食堂と呼ぼうなどと、言いたいことを言っておりました。
お店は、サイトウさんご夫婦と、アシスタントスタッフ二人で切りまわしておられ、厨房はご主人が、フロアは美人の奥さんが担当で、いつも気持ちの良い仕切りで料理が出てきます。僕らが越してくるだいぶ前から、ここにお店があったみたいで、すでにファンの沢山いる評判の良いレストランでした。
ご夫婦は、とても気さくで面白い人たちで、すぐに友達のように親しくさせていただき、ご主人は僕より少し年上で、マスターとかシェフと呼び、奥さんは同年代なのでキョウコちゃんなどと呼んでおります。

すぐ近くにみんなのお気に入りのレストランが出来たので、仕事の仲間たちとも、お客さんとも、いろんなメンバーでなにかと盛り上がる場所になります。前菜からパスタからピザから、肉や魚料理など、レストランのメニューはかなり豊富なんですけど、私はほぼ全部食べてると思います。そして、どれもみな美味しいです。私の肝心な友達や身内は、全員来たことがあるんじゃなかろうか。
だいたいいつも閉店まで飲んでるんですけど、お店のスタッフが片付けを始める頃には、マスターがワインボトルを片手にやって来ます。そこから結構盛り上がることも多々あり、それもパターンとなっております。カラオケ行ったこともあったな。
お二人ともゴルフ大好きなんで、定休日の火曜日にご一緒することもあります。それで、うちの会社のゴルフコンペを火曜日にした時期もありましたね。
我が社の忘年会は、毎年全員参加でAzzurraでやることに決まっていて、年末のかき入れ期に申し訳ないんだけど、一晩貸し切りにさせていただいてもおります。
というようなことで、うちの会社がすぐ近所に越してきたことが、良かったのか悪かったのか、ともかくすっかりご縁ができて、会社丸ごとお世話になってるこの17年なのであります。

それから、この春からのコロナ騒ぎになるんですけど、このことが各飲食業に与えたダメージは計り知れません。こちらも自宅待機の日々が続き、Azzurraのことが気にかかっていたのですが、なかなか様子もわからず気を揉んでおりました。しばらくして、昼間にお店を覗いたらスタッフの方が仕込みをされてて、聞けばなかなか厳しい状況とのことでしたが、ただ、店はしぶとく開け続けておられるようで、もともと地力も歴史もある御贔屓の多いレストランでありますから、なんとか健闘を祈っておりました。
そんな中で、うちの会社の人たちから、どうもAzzurraが、今年いっぱいで店を閉めるようだという情報が入りました。でもそれは、コロナ禍が直接の原因ではなくて、ビルの取り壊しが決まったからだそうです。そういえば、このビルに入っている他のお店からも、その知らせが入ってきました。この数年、その噂は時々耳にしてたんですけど、ついに現実になったということです。
考えてみると、このビルって神宮前3丁目にずうっと昔からあって、多分私が東京に出てきた頃にはあった気がしますもんね。それ45年前くらいのことですが。そう思えば立て直すのも道理かもしれません。
12月になってすぐ、Azzurraに顔を出しました。去年の年末以来ですから、こんなに長いことご無沙汰したのは初めてです。サイトウさんご夫婦に今後のAzzurraのことなど、聞いてみたんですけど、これを機会に、長くやってきたこのお店を閉めることにしたそうです。多くのお客さんが閉店の話を知ったせいもあるのでしょうが、レストランは満席状態で、Azzurraという店を閉めるのはもったいないなと思いました。しかし、考えてみるとマスターも70歳を超えて、会社であれば定年してる歳だし、ここからまたどこかで新しく店を開けるのも大変でしょうか。
もう、ここで飲み食いができないとなると、なんとも云えず未練がつのります。
イタリアンビールから始め、フリットに好物のトリッパ、マッシュルームのカルパッチョ、ほうれん草のソテーに、ムール貝に牡蠣に、まあ色々つついて、ワインは白から赤にいって、鰯のピザほおばったら、蟹のパスタにリゾット、仕上げは肉料理各種、魚もイキのいいのが揃っていて、最後はグラッパまでいただいて、余力があったらデザートも。Azzurraのこれができなくなるわけであります、ざ、残念。

でも、ご夫婦は変わらず千駄ヶ谷の鳩森神社の近くに住んでらっしゃいますし、お友達の末席にも置いていただけたので、これからもどこかで、料理を作っていただくこともできるんじゃないかと思って期待してます。

Azzurra_4

年内はなかなか予約が取れないくらい忙しい状態みたいですから、年始はゆっくり休んでください。
当分大好きなイタリアへ旅行へ行くのも無理みたいだし、陽気がよくなったら、とりあえずゴルフにでも行きたいですね。

絵が下手で、似てなくてごめん。ほんとはもっと男前と美人です。

2020年12月10日 (木)

「屋根の上のおばあちゃん」という本

本日は、最近出版された新刊本を一冊、ご紹介いたします。
河出書房新社より10月29日に発売になりました「屋根の上のおばあちゃん」という本です。
これは、この春に第一回京都文学賞の優秀賞を受賞した小説でして、京都の太秦(うずまさ)を舞台にした、あるおばあちゃんの半生が描かれております。そのストーリーには、活動写真や弁士やフィルムやその現像の話などが、大事な要素として関わりあっておりまして、涙あり笑いありちょっと考えさせられるところありの、ハートウォーミングな物語となっております。

そこで、この本がどのような経緯で世に出たかについて、ちょっと解説しますね。
まず、小説の著者の藤田芳康さんという方は、長年にわたり私たちの仕事におけるパートナーであり、友人でありまして、かれこれ30年にも及ぶお付き合いになります。
私たちが映像制作会社を立ち上げたその頃、彼は30歳くらいで、ある食品企業の宣伝部員でコピーライターでCMプランナーでありました。ひょんな事から私たちと出会い、そこからいきなり飲料のCMをたくさん制作することになります。我が社の担当プロデューサーは万ちゃんPです。それからしばらくして、藤田さんは企画だけでなく演出も手がけるようになり、いろいろな傑作CMを演出家として一緒に作ることになっていきます。
この人が突然に演出という仕事ができたのには、それなりの理由があるんですが、まず広告の仕事をしながら、実に多くの映像作品を研究していたことがあります。映画も、ものすごい本数を観ているし、鈴木尚之さんという有名な映画脚本家のお弟子でもあり、シナリオを書く勉強を長く続けていました。
そんな中、1998年、彼が執筆した「ピーピー兄弟」という脚本がサンダンス国際映像作家賞を受賞するんですね。やがて2001年、機会を得て藤田芳康監督・脚本の映画「ピーピー兄弟」は制作公開されました。当然の如く、私たちもお手伝いすることになります。
それから後も、彼は広告の仕事をしながら、脚本を書き続けていました。時々読ませてもらってましたが、そのシナリオには独特な世界観があり、ものによっては小説にしてみたらどうかと話したりもしてたんですね。そんな中に「太秦ー恋がたき」という話がありました。
彼はCMディレクターとして、長くその企業の日本茶の商品を担当していて、その企画の舞台はすべて京都だったんですね。彼は大阪の出身ですが、そんなことで京都のことはかなり研究していました。そこに、大好きな映画の話を絡め、自身のおばあちゃんのエピソードを交えて、「太秦ー恋がたき」というお話ができていったようです。
昨年の秋頃に、この小説の原型を読ませてもらい、最近新設された京都文学賞という賞に、この小説を応募したいと聞いた時に、これはひょっとすると獲れるんじゃないかと思ったんですね。実際にはずいぶんたくさんの作品が応募されたようですが、今年の1月に最終候補の5作品に残ったというニュースは快挙でした。
それから今年のコロナ禍の中、小説「太秦ー恋がたき」は京都文学賞・優秀賞に正式に受賞が決まり、4月に授賞式がありまして、河出書房新社が出版に手を挙げます。編集者との打ち合わせが続き、半年ほどして題名は「屋根の上のおばあちゃん」になりました。「太秦」では、読者が、地名とわからなかったり、読めなかったりすることも考えられるからだそうです。そんな流れで本として完成し、10月の末に書店に並んだわけです。そして、11月の28日に、この本が京都の丸善で1位になったとの朗報が入りました。
小説が一冊の本になるには、実に時間もかかり、いろんなプロセスがあるもんだなということがよくわかりました。

ともかく、なかなか良書なんで、是非読んでもらえたらと思います。

Obachan_3

2020年11月30日 (月)

ホークス強かった

Senga


コロナ禍の中、春からいろんなことになってしまった今年のプロ野球も、先日の日本シリーズをもってシーズンを終了しました。無観客試合も含めかなり特別な年になりましたが、6月19日には開幕し、各リーグ120試合のペナントレースを戦い、11月21日に始まった選手権で日本一を決したわけです。結果はパ・リーグのソフトバンクホークスが、セ・リーグの読売ジャイアンツを敗りまして、今年の日本プロ野球の覇者となったのは、ご存知の通りです。
私、このところコロナ騒ぎで在宅時間が長いからというわけでもなく、今回の日本シリーズでのテレビ観戦は、結構楽しみにしておりまして、なぜなら、この2チームはペナントレースで圧倒的な強さを見せており、野球チームとしての完成度が高いので、個々の選手の活躍も含め接戦の好ゲームになるのではないかと、阪神ファンの私ではありますがそれは置いといて、この一週間はレベルの高い、手に汗握る日本シリーズを堪能できるのではないかと、期待しておったわけです。
それと、昨年の日本シリーズは、同じこの2チームの顔合わせでありましたが、あろうことかジャイアンツが4連敗で1勝もできずに終わったので、今年は、さぞやリベンジに燃え上がっておると思われ、ホークスもそうはさせじと立ち向かうはずですから、どう考えても歴史的死闘が繰り広げられるのではないかと、想像しておったです。
ところが、蓋を開けてみるとですね、今年もソフトバンクの4連勝で決してしまったんですね。セ・リーグ最強のジャイアンツのピッチャーがバッターが、しきりと首を傾げる中、連日ワンサイドゲームが続き、ジャイアンツファンも呆然とするうちにシリーズは終わってしまいました。
日頃のアンチジャイアンツの立場としては、この結果は悪くないのですが、ここまで一方的なことになると、むしろ気の毒な気さえしますし、第4戦はちょっと最後まで見られませんでした。そして、これは1シーズンジャイアンツに負け続けた阪神はじめセ・リーグのチームからすると、ソフトバンクは実力的には雲の上ということになるわけです。ボクシングなら3階級くらいの差でしょうか、これはセ・リーグとしても大問題という事です。
4連敗が2年も続いたわけですから、これは単に短期決戦にはこういうこともあるよねとは言ってられないですよね。そう言えば、この10年でセ・リーグが日本シリーズに勝ったのは1回だけだし、交流戦も、今年はなかったけど、ことごとく負け越してますよね。そもそも第7戦までもつれるドラマチックなシリーズも昔はあったけど、最近はそういうこともない気がします。
本当にセ・リーグとパ・リーグの実力の差は顕著なのでしょうか。確かに、日本シリーズを見た印象では、素人目にもソフトバンクのピッチャーの球は明らかな球威を感じるし、バッターのスイングの振りがやたら鋭く感じられたのは気のせいだろうか。まあ勝負事として、ここまで結果が出てるのだから、多分なんらかの要因はあるのでしょうね。
分析する人はいろいろいるようですけど、お互い選ばれたプロが競う中で、個々の選手の鍛錬の仕方や、プレーに対する取り組み方考え方、指導者の執念や姿勢、球団の方針、まあ言い出せばいろいろありそうです。
ソフトバンクの選手のことで、これはすごいなと思ったのは、第1戦先発の千賀投手と、第2戦先発の石川投手が、球団の育成選手から1軍の先発ローテーション入りしたピッチャーで、この二人の先発の球のキレが素晴らしく、ジャイアンツがほとんど歯が立たなかったことです。これで巨人軍は流れを失います。ついでに云えば、この二人のキャッチングを含め全試合にキャッチャーとして出場し、2本のホームランを放った甲斐捕手も、育成選手だったんです。
なんというか、チームを強くするための体制がきちんとしていて、フロントの方針もかなりしっかりできてる気がしますね。
これでホークスはシリーズ4連覇、向かうところ敵無しの様相を呈しています。ちょっとしばらくソフトバンクホークスの時代になりそうです。
昔から球団のオーナーの情熱がチームを強くして黄金期を築くところがありまして、巨人の正力さん、西武の堤さん、ソフトバンクの孫さん、みんなそうです。この方達に共通してるのは、チームを強くしたいが、金は出すけど口は出さないところで、孫さんの場合は、オーナーの意向を、球団会長として、世界の王さんが、きちんと形にしてるとこが強いところじゃないでしょうか。

Gita


セ・リーグの各球団の方々、ボオーっとしてる場合じゃありませんぞ、ほんとに。
ストーブリーグは、毎年、FAや外人の話でで大騒ぎしてますけど、もっとちゃんとやることやって結果出してくださいな、ほんとに。

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