2022年4月21日 (木)

SIXTH SENSEという映画を思い出した

この前、ハリウッドスターのブルース・ウィリスが失語症になって、映画の出演ができなくなリ、俳優を引退したというニュースに驚いたんですが、調べたら、この人が私と同い年だったもんで、わりとショックを受けたんですね。
ブルース・ウィリスをスターダムに押し上げたのは、1989年に公開された「ダイハード」でしたが、これが娯楽アクション映画として、非常によくできていて、世界的に大ヒットしました。「ダイハード」はシリーズ化もされ、その後コンスタントに彼の主演映画はたくさん作られ、とても全部は観れてませんが、個人的には「パルプ・フィクション」とか、好きな映画もいろいろあったんです。アクション映画のタフガイのイメージで、日本でもずっと人気のある人で、思えば色々なCMにも出演していて、それはごく最近まで続いていました。
そんな中で、1999年の映画「シックス・センス」は、彼の映画にしては、あんまりアクションのないシーンとした作品だったんですが、これはなかなかの名作でして、ずいぶん話題にもなりヒットしました。「シックス・センス」とは、直訳すると第六感ということになるのですが、人間の五感に次ぐ感覚で、映画の中では霊感を指しています。

Sixthsense



ブルース・ウィリス演じる、小児精神科医のマルコムの前に現れた少年コールは(これを演じている天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントがまた上手いんですけど)、死者が見えてしまう自身の第六感のことで悩んでいます。当初は幽霊の存在に懐疑的だったマルコムも、やがてコールの言葉を受け入れるようになり、死者がコールの前に現れる理由を共に探り始めます。この物語にはいくつかの展開の後、観客の予想しない意外な結末が待っているんですが、映画として実によくできていて最後まで引き込まれます。
監督のM・ナイト・シャマランの脚本も演出も見事で、この手の映画にありがちな観客を派手に怖がらせたり驚かせたりといった技法はほとんど使っていないんですけど、なんだかジワーっと静かに恐怖が忍び寄る映画になっているわけです。
この映画は、会社帰りに渋谷の映画館で、その日の最終回を観たんですが、自転車通勤で出社してた日で、映画が終わった後の寒い夜に、誰もいない真っ暗な世田谷・杉並あたりの裏道を自転車で走って帰るのが、えらく怖かったのを覚えています。
この映画は、たくさんあるブルース・ウィリスの仕事の中でも、記憶に残る名演だと思います。

シックス・センス(第六感)とは、ヒトに備わる、視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚という五感の次の感覚で、異様な直感力の意味で使われます。人にはそれぞれ、その人にしか感じられないこのような感覚があるのかもしれません。これらの感覚にはすごく個人差もあるし、時と場合によっても敏感だったり鈍感だったりしますが、いずれにしても生まれつき与えられた機能なんですね。
最近ではコロナウイルスの後遺症で味覚や臭覚に異常をきたす現象も起きましたが、感覚やその機能は、何らかの要因で強くなったり弱くなったり、また、失ったり再生したりします。ある感覚が弱まると、別の感覚が補うように鋭くなることもありますね。
そんなこと思いながら、ブルース・ウィリスという役者が、言葉を発するという能力を無くしてしまったということには、不思議な哀しさがありますが、なにか新しい感覚が目覚めるように、その機能が再生することに、期待しないわけにはいきません。

2022年3月29日 (火)

21世紀の悪魔

このスペースに、あんまり難しいことも書きたくないし、あんまり難しいことを書く能力もないのですけど、このところ東ヨーロッパで起きている事件と、その報道に対しては、本当に毎日憂鬱で、その首謀者の顔が浮かぶたびに、怒りが込み上げます。いずれにしても、極東のアジアに暮らす一老人としては、なんのなす術もなく、その無力さに打ちのめされています。

Putin



そもそも、ここに至っている国家間の国際的歴史的背景も、よくわかっていないのですが、一人の独裁者の独断で全てのことが起こっているであろうことは想像できます。
動機はともかく、あくまで一方的に始まった侵攻は、完全な破壊行為であり殺戮行為であります。であるのに、なぜ国内世論も含めた国際社会は、それをやめさせることができないのでしょうか。
国連の安全保障理事会で、さんざん顰蹙を買って世界から制裁を加えられても、NATOから総スカンを食らっても、自国でデモ隊が猛抗議しても、この独裁者はむしろ意固地になっているのか、眉ひとつ動かしません。あれほどの人の命を奪い、街を破壊し、この上、この人のこの頑なな態度は、果たしてなんなのでしょうか。
大国の最高権力者の間違った判断から、引くに引けなくなったプライドなんでしょうか。であれば、実に迷惑千万です。すでにミスが重なり、身動きが難しくなったことで、化学兵器や核兵器のことをちらつかせているそうですが、言語道断です。一刻も早くこの犯罪者の身柄を拘束して欲しいです。
ソ連崩壊の後、長きに渡り、この難しい大国の舵取りを無難にこなしてきたかどうか知りませんが、これまでの功績は、自らぶち壊したようなもんです。
第二次世界大戦中、レニングラード包囲戦でのドイツ軍による900日に及ぶ包囲によって、多くの市民が犠牲になり、自身の身内も失った恨みが根底にあって、それがトラウマになっていると何かで読みましたが、それであれば、今まさにキエフに対して、全く同じことをしようとしているわけで、完全に狂っているとしか思えません。
そして、他国への侵略を正当化するために、誰にでもわかる嘘の上に嘘を重ねています。世界中にネットが張り巡らされ、ここまで成熟した情報化社会に子供だましのようなフェイクニュースを通用させようとしているなら、ちょっと信じられません。
よく云われることですが、残念ながら歴史は繰り返されるようです。
大国のエゴイズムに端を発する侵略は、我々の歴史上、何度となく起こっています。
20世紀の初頭に起こった大戦は、領土問題や植民地の利権を巡り、世界中を巻き込んで第一次世界大戦になりました。その火種の消えぬ間に、ヨーロッパにはナチスドイツが出現し、戦火は拡大して第二次世界大戦が始まります。
そして、私たちの国も大きな過ちを犯します。中国大陸の東北地区に軍隊を派遣して戦争を起こし、満洲国を建国して傀儡政権を樹立させます。この建国に対して、当時の国際世論は真っ向から反対を唱えました。今まさに東ヨーロッパで、あの権力者が仕掛けていることに酷似していますね。
その後、遠いベトナムで起こった政変にも、大国は軍隊を投入しました。ベトナム戦争はやがて泥沼化し、現地にも遠い大国にも大きな犠牲を強いることになります。
どの場合も、それは、大国の指導者の決断で、軍事は導入されましたが、結果、多くの尊い人命を失い、国家財産を奪われます。歴史的に、決断を下した指導者が英雄になることはありません。むしろ、苦い不快な汚点になって人々の記憶に残るだけです。

以前引用しましたが、司馬遼太郎さんの講演録にあった文章を再記します。
軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。国家とは何か、そして軍事とは国家にとってなんなのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

20世紀に、人類は多くの失敗を重ね、多くを学習したはずですが、21世紀に、またしてもわけのわからん国家元首が現れて、同じことを繰り返しているわけです。間違いなく云えることですが、今毎日ニュースに出ているこの不快な独裁者は、世界中の人々の忘れてしまいたい記憶として、歴史上の汚点として、名前を残すことになるでしょう。

2022年3月13日 (日)

手書きの手紙

この前、年賀状のことを書いていて、ふと思ったんですけど、そういえば今は、昔に比べて手紙という手段をわりと使うようになっているわけで、まあ多くは、メールとかLINEとかのことなんですけど。
私たちが若かった頃はそういうものはなくてですね、何かを伝えたい時には、ともかく電話の時代でした。そんですべてが固定電話ですから、お互いが居る場所にかける、居なければ伝言を残してかけ直してもらったり、留守番電話に吹き込んだりしてましたが、それでも、いつ手元に届くかわからない葉書や手紙よりは、確実に用件が伝わっていたわけです。途中でFAXというものが登場して、これがなかなか便利だったんですけど、これに関しては、用件が相手に届いたかどうかが確認できないという弱点がありまして、まあ、電話の場合も、言った言わないということもあるんですけどね。
私、若い時にやっていた仕事が、テレビコマーシャルの制作進行でしたから、毎回かなりの数のスタッフに、たくさんのことを相談したり、連絡をしたりしなければならなくて、基本的には大人数のスタッフを一箇所に集めて打ち合わせするんですけど、そこでこぼれる話は、個々に会ったり、電話してフォローするんですね。そういうことを繰り返してますから、スキルとしては、ともかく相手を捕まえる能力と、話をする能力が鍛えられます。先方にこちらの意図を、ある精度でいかに短時間で伝えられるかを、いつも試されているわけです。
そういうことなんで、キャラとしては、なんだか妙にしゃべくり上手な芸風になっていくんですね。
ただ、この業界は、忙しい人はメチャクチャ忙しくて、そういう方とは、なかなかゆっくり打ち合わせもできないみたいな側面もありまして、お会いしたり電話する前に、あらかじめ伝えたいことを手紙にして届けておくということをするようになります。この手紙は、文面のわかりやすさと文字の読みやすさも大事な要素になり、これの良し悪しが、その後の打合せの精度に影響したりします。これは、こちらの頭をあらかじめ整理しておく意味でも有効なわけです。
手紙というのは、こちらが伝えたいことを、ある程度落ち着いて受け取ってもらえるツールだし、いろいろなニュアンスを織り込むこともできます。面と向かって熱く語りながら、早急にものごとを前に進めてゆくのも良いのですが、手紙を託したり、受け取ったりしながら意図を伝え合うのも、悪くないコミニュケーションではあります。
もっとも、ご存知のように今の時代、伝達のとっかかりはメールとかLINEとかですよね。まず話すんじゃなく、何らかの文を読んでもらうことからやりとりが始まる。全員スマホを持っていて、いつでも直接本人に電話はつながるんだけど、相手がすぐに話せる状況かどうかもわからないから、まずメールして要件を伝えることが多いですよね。急いでる時は、いきなり電話することもありだけど、まあいろいろコミュニケーションの選択肢も増えているわけです。隣の席なのにメールしてる人もいますよね。


それはそれとして、仕事に限らずですけど、たまに手書きの手紙をいただくと、なんだか嬉しい心持ちになりますね。例えば、尊敬する目上の方などから、達筆のていねいなお手紙いただいたりすると、ほんとに感激します。その方の筆跡に、それを書いておられる時の、空気感すら読み取れる気がするのですね。
そんなふうに感じているものですから、自分でも、何か気持ちを伝えたい時とかには、なるべく手書きの手紙を書くようにしておりまして、しかしながら、昔から字を書くのは下手くそで、なかなかの悪筆なものですから、多分、パソコンで打って印刷した方が、よほど体裁も良いのですけどね。

まあ、この歳になれば、これから鍛錬しても急に上手になる気もしませんし、字面というのはある意味個性だという話もあるし、これも味ということで、、、などと自己弁護しております、はい。

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2022年2月18日 (金)

年賀状という習慣

2022年という年も明けましたが、すでに2年にも及ぶ厄災は未だ収まらず、ウイルスはさらなる進化を続けているようです。我々としては、ともかく、感染のリスクを避け、あまり出歩かず、うちに籠る暮らしですね。
一月になって、年賀のご挨拶に出かけるでもなく、いただいた年賀状を見返したりして過ごしておりましたが、このところ長くお会いしていない方も多く、なんとなく年賀状で安否を確かめてるようなところもあります。
そういえば、年賀状の習慣ていつごろからなんでしょうか。自分が子供の頃から、大人たちは年の瀬になるとせっせと書いていましたし、正月の郵便受けには、束で届いているのが風物詩でした。個人的には、自分から進んで書くような若者でもなかったですが、社会に出て、お世話になっている目上の方や、しばらく会えていない友達などに、書くようになってくるんですね。その頃、年始の挨拶や年賀状の習慣は、今よりもずっと一般的でしたし。
そうこうしているうちに、人の付き合いは増えていきますので、気がつくとかなりの枚数を出してた時期もありましたが、だんだん疎遠になって途切れる方もいらっしゃいます。そもそもこの慣習にあまり積極的じゃなくなってきた世の中の風潮もあります。新年という節目にあんまり特別感を抱かなくなっていたり、わざわざ年賀ハガキを買って、宛名を書いて送らなくても、メールでもLINEでも、お年賀の挨拶できますもんね。
ただ、お正月の郵便受けに年賀状が束で入っていると、なんだかやっぱり嬉しいのは、長年の習性からでしょうか。その束を抱えて炬燵に座って(今はわりと炬燵はないですけど)一枚ずつながめて、いただいた方の顔を浮かべると、なんともいえない安らぎがやってきます。
そういうこともあって、長年、賀状のやりとりさせて頂いてる方にも、近年にお付き合いの始まった方にも、基本的には賀状をお出ししております。毎年、先方に元日に届くよう年末のうちにきちんと発送しておく性格でもなく、いつもちょっと遅れめではあるのですが。
枚数は徐々に減少傾向にありますが、やはりどうも、これをキッパリやめにしてしまうのもためらわれます。私どもの年代では、本年をもちまして年賀状のご挨拶は終了させていただきますと、記載される方もあり、それもすごく納得できますし、できればそうしたいくらいでもありますが。
そもそも若い人にはその習慣はあんまりないようですし、ゆくゆくは世の中からなくなってしまうのかもしれませんね。この先のスマホの普及率を考えれば、新年の挨拶はそれで十分で、手間もかかりません、絵文字でアケオメとか云って。お正月のお年賀の意味もちょっと変わってくるんでしょうか。
ただ初詣には、みんなわりとちゃんと行くんだけどね。雑煮も食べるし。

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2021年12月 6日 (月)

続・7歳のボクを揺さぶった映画の話

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はじめて、山﨑努さんにお会いすることになったのは、「天国と地獄」公開から22年後の1985年でした。この年に黒澤明監督の期待の大作「乱」が公開されるのですが、それに先立って「これが黒澤明の『乱』だ」という、テレビの1時間特別番組を作ることになりました。この番組は、普段広告を作っているコピーライター、アートディレクター、CMプランナーたちによって制作されることになり、私はそのスタッフの中に入って、プロデューサー補という役割をいただき、番組に使われる全ての編集素材を管理する係になります。素材のほとんどは、映画が制作されている間に、ただただ記録され続けたドキュメントのVTRです。その目も眩む膨大な素材と何日も寝ずに格闘した末に、ようやくほぼ編集を終え、あとはナレーションを入れて完成させることになるんですが、そのナレーターを山﨑努さんにお願いできると良いねということになりまして、お願いしたんですね。そのナレーションは惚れ惚れするほど素晴らしく、本当に山﨑さんにやっていただいてよかったというものになり、完成します。先日、30数年ぶりに改めて見直したんですけど、なかなか良い番組の出来でした。

その頃、その仕事と前後して、私が関わっている別のコマーシャルの企画が進んでいて、その広告のメインキャラクターの人選も始まっていたんですね。その仕事の企画をされていたのは、業界でちょっと有名な面白い方だったんですけど、ある時キャスティングの話になって、「好きな俳優さんいますか。」と聞いて下さったので、迷わず「山﨑努さんです。」と答えたんですね。そのせいでもないんでしょうが、その後、わりと長いこと別の仕事で海外に行って帰ってきたら、企画も決まって、出演者も山﨑さんになっていました。ある製薬会社ののど飴タイプの薬品の広告で、とても面白い企画で斬新なCMができそうでワクワクしたのを覚えています。

子供の時からファンだった山﨑努さんと仕事をできることは嬉しかったけど、そもそも最初は黒澤映画の凶悪犯役としてインプットされているし、私の周りには面白がっていろんなことを云う人たちがいまして、
「見た目といっしょで、かなり怖い人らしいぞ。」とか、
「けっこう難しい人らしいぞ。」とか、とか、有る事無い事云うわけです。
考えてみると、確かに見た目は怖いし、屈託なく爽やかに、ただ単純明快にいい人なわけないですよね。そういう、ちょっと複雑で屈折したとこのある、いわゆる大人の男を表現できるのが魅力な俳優さんなわけですから。
その頃、30歳を過ぎたばかりの社会人としても男としても、まだ駆け出しのペーペーの私が憧れていて、大人の男として一番かっこいい役者といえば、山﨑さんだろなと思ってましたから。
多分、この方は、自身が演じると決めた役は、徹底的に読み解いて、突き詰めて、時間をかけて肉体化するという、独自の哲学のようなものを持たれてるんだろうなとも感じていました。
黒澤監督の「赤ひげ」も「影武者」も、伊丹十三さんの「お葬式」も「タンポポ」も「マルサの女」も、山田太一さんの「早春スケッチブック」も、向田邦子さんの「幸福」も、和田勉さんの「ザ・商社」も「けものみち」も、滝田洋二郎さんの「おくりびと」も、「必殺仕置人」の念仏の鉄も、そうやってひとつひとつ役が作り込まれています。多くの優れた作家や演出家からオファーが絶えないのはそういうことがあるんだと思います。
CMの仕事も含め、なかなか簡単にオファーを受けていただけないことは、以前からよく聞いておったことでしたので 、まず出演をOKしていただいたことへのお礼の挨拶を兼ねて、企画の説明にうかがうことになりました。
広告会社の担当部長とプランナーと数人で、その夜、山﨑さんのパルコ劇場での舞台出演の後に、近くのレストランの個室でお会いしたんですが、その日の舞台でキャストの1人が、つまらないアドリブで観客の笑いを取りにいった行為に、かなりお怒りになってまして、終始ご機嫌斜めで、はなっから結構おっかなかったんですけども、ともかく、このあと3年に及ぶこの仕事がスタートいたしました。
それまでは、映画やテレビの俳優・山﨑努さんの、単なる一ファンだったのですが、仕事をご一緒することになって、いろんなことがわかりました。ご自身が出演を決められた仕事は、その役をどう造形するか、どう命を吹き込むか、その作品がどうやって観客に届くかということなど、本当に真剣に考えておられ、それはたとえCMであっても同じ姿勢で、出演をお願いする立場としては、ありがたいことでありました。
このコマーシャルフィルムの舞台設定を、大雑把に説明しますとですね、時代は戦前の昭和初期あたりか、主人公は、なんだか国費留学することになった学者か研究者で、ヨーロッパ航路の大型客船に一人乗り込み異国を目指します。船の長旅には、喉の痛みや咳はつきものでして、そこで旅のお供に商品ののど飴が登場するわけです。
古い大型客船のセットを作って、3タイプほどのCMを撮影しましたが、山﨑さんはそれぞれのシチュエーションに、綿密な演技のプランを考えてきてくださいました。そのことでこのCM作品は、厚みを増していくことになるんですが、撮影の当日には、結構細やかなスタッフとのやりとりが行われます。
演技のこともそうですけども、CMに使われる言葉に関しても、山﨑さんは繰り返し確認検討されます。それはCMですから、商品に関する広告コピーだったりもするんですが、徹底的にチェックされるんですね。
俳優の仕事として、常に言葉というものを大切にされていて、台本を読む姿勢にもそれが現れています。かなりの読書家で、いつも身の回りに何冊も本があり、ご自身で本を執筆されることもあります。「俳優ノート」「柔らかな犀の角」という本が出版されていますが、どちらも名著です。
その山﨑さんが船旅をするのど飴のCMは、大変好評のうちに放送されまして、そのうち映画館の大画面にもかかったりして、感動的だったんですが、その翌年に、コマーシャルの続編制作の話が起きます。前出のプランニングチームは、張り切ってその後のストーリーを考え、やはり船旅の後には、目的地につかなきゃいけないねということになり、なんだかヨーロッパロケの相談が始まったんですね。
やっぱり、ヨーロッパだと撮影しやすいのはパリかなとなって、企画チームと演出家と制作部で準備も始まりました。当然、山﨑さんにもロケのスケジュールを打診して承諾していただき、ロケ隊は、5月のパリを目指すことになるんです。
しかし、この年、1986年の4月に、あのチェルノブイリの事故が起こります。ニュースは連日、事故のその後を報道していましたが、ヨーロッパ全土にどんな影響があるのか、ようとしてわかりません。CM制作に関しては、完成までのスケジュールは決まっていますし、中止するというのもいかがなものかという状況の中、重々検討相談の結果、予定通りロケを決行することになりました。
私は現地のコーディンネーターとスタンバイを始めるため先乗りして、パリの様子を確かめ、監督はじめ日本からのスタッフは、順番にフランス入りすることになりました。
全体にスケジュールが詰まっていたのと、カット数の多いコンテでしたから、連日、ロケハン、交渉、オーディション等で、てんてこ舞いで、最後に山﨑さんがマネージャーとパリに到着された時には、空港に出迎えにもうかがえず、その日の夜にホテルの部屋にご挨拶に行きましたが、そこで、かなりしっかりと叱られることになりました。
そのお怒りの中身というのは、
そもそも、君たちはロケハンやオーディションなどの準備が大変であると云うが、俳優である私との詰めが全くされていないではないか。企画コンテは見たが、具体的にこの主人公にどのようにしてほしいのか、その狙いは何か、そのあたりのことがまず固められてから、背景や共演者のことを考えるべきなんじゃないか、君がやっていることはあべこべじゃないか。のようなことを、こんこんと言われました。おそらく、仕事の進行を見ながら、自身に対する相談もオーダーもないままここに至っていることに、考えれば考えるほど怒りが込み上げてこられたんだと思いました。
いや、全くその通りでして、物事を前に進める制作部の役割がきちんとされてなかった事、反省させられました。
不手際をお詫びして、軌道修正のお約束をして、最後に、
「この部屋のコンディションはいかがでしょうか。」とお尋ねしたところ、
「この部屋か、、、暗い、狭い、寒い。」と云われ、
「申し訳ありませんでした。すぐにチェンジします。」と申しましたところ、
「もう、、慣れた。」と云われました。

そこから約1週間、パリ市内のあちこちでロケが行われまして、CM3タイプの素材を撮りためてまいりますが、商品カット以外は、山﨑さんは出ずっぱりで、なかなかタフな仕事になりました。
いよいよ明日の早朝に行われる某有名レストランでの撮影が最後のシーンとなり、それ以外のすべてのロケを終えたその夜、スタッフ全員で日本料理屋で食事をしたんですね。
その時、居酒屋風の小さなテーブルで、山﨑さんの正面に私が座ってたんですけど、これだけは是非、山﨑さんに伝えておきたかったことがあって言いました。
「ボク、『天国と地獄』を、小学2年生の時に映画館で観ました。」
「へえ、で、どうだった」
「そん時から、ずうっと忘れられない映画です。ラストシーンで犯人の山﨑さんが刑務所の面会室の金網に、突然つかみかかるじゃないですか、その時、私、恐怖で映画館の椅子の背もたれに、めり込みましたから。」と。
このシーンは、映画「天国と地獄」のラストシーンなんですね。この映画で描かれている誘拐事件で、多額の身代金を支払った被害者である三船敏郎さんが、犯人である山﨑さんから呼ばれて、刑務所で面会するところなんですが、そのシーンの最後に、犯人が二人を隔てる金網につかみかかるんです。
山﨑さんが、ちょっと遠くを見る顔になって云われたのは、
「あの時、つかみかかったら、金網がものすごく熱くなっていて、ジューって指を火傷したんだよ。あのつかみかかる芝居は、監督の指示じゃなくって、自分の考えでやった芝居だったんだ。」
黒澤さんの映画ではありがちですが、画面の手前の三船さんにも奥にいる山﨑さんにもカメラのピントが合っていまして、いわゆるパンフォーカスなんですが、それに、おまけにレンズは望遠レンズなんですね。これどういうことかといえば、ものすごい光量が必要になり、尋常じゃない数のライトがセットに当てられてるわけですよ。それでセットの金網は、焼肉屋の網のようになってたんですね。
ふと、私は、今すげえ話を聞かせていただいてるんだなと、気付き緊張しました。そしたら、山﨑さんの話は続き、
「元々のシナリオでは、ラストシーンはあのシーンじゃなかったんだ。事件が解決した後に、三船さんと仲代さんが並んで、犯人が住んでたあたりのドブ川の横を歩く後ろ姿のシーンだったんだけど、黒沢さんはそのシーンをボツにしたんだそうだ。」
確かに、刑務所のシーンで終わった方が、観終わった印象は強く斬新ですね。山﨑さんの芝居を見て切り替えた黒澤さんは見事です。
またしても、すごい話を聞いてしまったわけですよ。

食事会の後、ほろ酔いでホテルに向かって歩いてたら、コーディネーターのコバヤシヨシオの車が横に止まったんですね。そしたら助手席の窓が開いて山﨑さんが顔出して、「もうちょっと飲もうか。」と云われたんです。
そのあと、山﨑さんとコバヤシさんと、なんだか気持ちよく盛り上がってしまいまして、明日の朝ロケだというのに、夜遅くまで宴は続きました。コバヤシヨシオさんという人はフランスという国を実に深く知っている人でして、この仕事で本当に頼りになって助けられました。もともとはフランスの海洋学者のクストーに惹かれてパリに来たと云われてたと思います。
ロケの日程を終え、現像も済ませて、オフの日にヨシオさんがフォンテンブローにピクニックに連れて行ってくれました。フランス人の奥さんも子供たちも一緒で、すごい楽しかったんですが、張り合ったわけじゃないんですけど、その時、私が伊豆の下田に仲間で借りているあばら家がある話をしたら、山﨑さんがその家に行ってみたいと云われて慌てたんですね。ところが、その数ヶ月後に、ヨシオさんがたまたま東京に来た時に、ホントにそのあばら家にご一緒することになりまして、それはそれで楽しくて素敵な伊豆一泊旅行で、良い思い出になっております。
この仕事のおかげさまで、当時31歳そこそこの若輩者の私が、本物のアーチストの姿勢を見せていただきました。おまけに本当に得難い話をたくさん聞かせていただき、ただただ一方的に教えていただくことだけでありました。
という、ちょっと長い話になりましたが、子供の時に観て、揺さぶられた映画の忘れられないキャラクターに、ずっと念じていたらば、ほんとに会えたという話でした

2021年10月29日 (金)

7歳の僕を揺さぶった映画のはなし

私たちの世代は、日本の映画産業最盛期の頃に生まれておりまして、昭和30年前後ですが。
昭和33年(1958年)に、年間映画動員人数はピークを迎え、11億人を突破しております。
映画館数も7000館を超えたようでして、そんなことなので、小さい子供の頃から映画館は身近だったんですが、当然一人で入っていけるもんでもなく、当時観た映画というのは、大抵オヤジに連れていかれてました。それ以外の当時の名作は、ずっと後になって、リバイバルや名画座やビデオなんかで見たものです。ただ、うちのオヤジはかなり映画が好きだったようで、他に娯楽もなかったんだろうけど、私はけっこう映画館にお供してます。たくさん見た映画の中には、洋画で字幕の読めないものや、子供には難解なものも含まれてたんですが、映画に行くのはとにかく好きで、おとなしくしてたから、よく連れてってくれたんだと思います。
その中で、とにかく一番強烈に記憶に残っているのが、小学一年の時に観た「用心棒」と「椿三十郎」、小学二年の時に観た「天国と地獄」。いずれも絶頂期の黒澤明監督の映画でして、何度見直しても、その完成度の高さと、作品にに込められたスタッフキャストの熱量、そして、監督の表現における斬新な試みに、目を見張ります。

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大人でも、固唾を飲んだり、息止まったりしそうなシーンが満載で、最初から最後まで一気にたたみかけられますから、子供はなおさらです。多分、この3本は大袈裟に言うと、私のその後の人生に大きく影響したんじゃないかと思うんですね。ビデオもDVDもなかったころ、これらの映画は、その後ある程度大人になるまで、ずっと覚えてましたから。
いつだったか父に、
「親父が一年生の子供に、あんな映画を見せたのがもとで、こんな仕事することになったんで、そうじゃなきゃもうちょっと堅い仕事して生きてたと思うよ。」と、妙な言い訳したことありましたが。
ちょうどこの頃の黒澤さんは、すでに常に注目される大監督として油が乗り切っていて、これらの作品は黒澤プロダクションの制作ということで勝負かけてましたし、結果興業的にも大ヒットしています。これらの映画は、人間の諍いや確執や裏切りや策略、殺人や犯罪に麻薬など描かれており、大人向けの映画なんですが、観客が小さな子供でも、いきなり巻き込んでしまうパワーがあったんだと思います。

これらの映画がどう面白いのか、それは見ればすぐにわかることだから、語っても仕方ないんですが、ちょっとだけ語りますね。
ストーリーは、いろんな小説等に着想は得ているようですが、意外性に溢れたドラマに、展開を読めぬテンポの速い物語は、精度の高い脚本が練りに練られています。黒澤さんは脚本を完成させる過程で、信頼できる優秀な脚本家とチームを構成して、徹底的に本を仕上げます。
そして、様々な役が作られ、キャスティングがなされ、登場人物が造形されて行きます。このキャラクターは実に深くて魅力的です。
「用心棒」で登場する三十郎という素浪人を演じる三船敏郎は、1948年の「酔いどれ天使」から続く、黒澤組のメインキャラクターで、この役を水を得た魚のように生き生きと演じております。
そして観客の期待通りに続編も制作され、その「椿三十郎」は翌年公開されました。ここで一言申しますと、同じ主人公の続編と云えど全くタッチの違う映画になっており、この2作目もかなりの名作です。いずれにしてもこの主人公は三船さんを想定して書かれていますよね。
そして、満を持して黒澤映画に登場するのが、仲代達矢でして、「用心棒」の卯之助も「椿三十郎」の室戸半兵衛も、お話の中では完全なヒールなんですけど、その造形は実に見事です。このキャスティングも絶妙なんですね。
そして、その脇を固める役者さんたちの見事さです。この頃の日本の俳優陣と言うのは、相当に層が厚かったと思いますね。色々と絶賛したい配役があって説明したいのですが、これ書き出すとキリがないのでやめます。
そのキャストの渾身の芝居を受け止めているのが、有名な黒澤組の技術スタッフ達でして、どのパートもちょっとどうかしてるプロフェッショナルなわけです。見直してると、ところどころでついついため息が出るほどです。
そして「椿三十郎」の翌年、小学二年生の私は、「天国と地獄」で、また息を呑むことになります。こちらはまた打って変わって現代劇、子供の誘拐事件を描く超力作で、これも大ヒットしました。主人公はこの事件を通しての被害者で製靴会社の重役、権藤氏で三船さんが演じてます。事件解決に奔走する捜査本部の中心、戸倉警部役に仲代さん。仲代さんは時代劇の悪役から反転します。このお話の背景には格差社会の構造的な問題があり、その辺り鋭ク描かれていて、ポン・ジュノの「パラサイト 半地下の家族」は、多分この映画が参考になってるんだろうと思いますね。ポン・ジュノさんは、黒澤さんの映画全部見てそうですし。
この事件の憎むべき犯罪者・竹内銀次郎にキャスティングされたのが、当時新人で、この役を演じて一躍注目を浴びた山﨑努さんです。子供心に、この犯人は怖くて、その存在も映像も相当にインパクトがありまして、かなりしっかりと記憶に刻み込まれました。
その後、年を重ね、TVや映画に山崎さんが出演されてるといつも見ていて、気がつけばファンになってました。それからしばらくして、私も大人になり、30歳になった時に、なんと、ある仕事でその山崎さんとお会いすることになります。
ここまで長くなりましたので、この後の話は、また次の機会とします。
ちなみに、1963年の「天国と地獄」公開時、
黒澤さん53歳、三船さん42歳、仲代さん30歳、山崎さん26歳、、、、、私8歳です。

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2021年9月10日 (金)

オダギリさんの本

先日、本を一冊いただきまして、その本にすごく重要なことが書かれていて、個人的に実に響きましたもので、その話です。
『小田桐昭の「幸福なCM」。日本のテレビとCMは、なぜつまらなくなったのか』
という本です。
この本を書かれたオダギリさんは、言わばこの国の広告業界の巨人でして、私がこの仕事を始めた頃、1977年くらいですが、この世界では誰でもその名前を知っている人でした。
1938年のお生まれですから、今年83才。1961年にこの仕事を始められています。その頃、テレビの広告は生まれたばかりでして、それからオダギリさんは、今でも多くの人達が覚えている有名なキャンペーンを、たくさん手がけられました。それらの仕事の経緯も、この本にいろいろ紹介されています。
テレビというメディアが出現し、広告を含めた民放という仕組みが活況を呈していく中で、様々なテレビ広告が生まれて、その全盛期が描かれてますが、それと同時に、現在につながる長い時間の中で、その時代が失ったものや、変容してしまったものが語られてもおります。
「なぜつまらなくなったのか」というのは、その辺りのことです。
テレビCMができたあたりから今日までの間、常に第一線におられ、今も現役で仕事をされている方の、貴重な体験談でもあります。
本の中に、「日本のCMを育てたのは誰でしょう」という話が出てきます。
答えは、「お茶の間の人たち」なんですが、CMやテレビのエネルギーというのは、当時の新しい情報や表現を、何でも吸収してしまうお茶の間の人たちの欲望が生んだという話なんです。
この国の住居の真ん中にはお茶の間があって、ある時そこにテレビがやってきました。私もまさにそのお茶の間で育ちましたからよくわかりますが、お茶の間のテレビに対する好奇心は凄まじく、テレビ側もお茶の間が面白がって望むものは、なんでもやってみようという背景がありました。60年代に始まったこの現象はますます勢いを増して、この本に書かれている、70年代80年代の幸福なCMの仕事につながるのです。私も個人的にはなんとかギリギリその時代の後半に間に合ったCM人の一人ということになりますが。
それから様々に変化する世の中で、この業界にもいろんな時代がやってきます。そして今に至れば、その風景もずいぶん違ったものになりました。それが具体的にどんな風に変わっていったのか、この本を読むとよくわかります。
ただ、私がこの仕事を続けてこられたのは、ある意味あの幸福な時代に仕事に出会えたからじゃないかとも思っています。

考えてみると、オダギリさんは、この幸福なCM時代を象徴する方でして、世の中を動かすようなたくさんの良質な広告を発信し、またそのレベルをクリエーターとしても、マネージメントとしても、ここに至るまで守り続けてこられました。そのことは、本当に多くのこの業界の人達、後輩達が認めるところで、誰も異論を唱える人はいません。

思えば、広告業界のことなど何も知らず、全くひょんなことからこの世界の片隅で働くことになった私も、オダギリさんのお名前はよく聞きましたし、たくさんの名作のことも存じておりました。ある意味伝説になっている部分もあり、いろんなエピソードも一人歩きしています。一体どんな人なんだろうと想像を巡らせていたのですね。
北海道の利尻島の出身で、柔道の黒帯ですごい腕力で、蟹が大好物だからどんな蟹でも甲羅を手掴みで割って食べる人だとか、いつも穏やかな笑顔の人だけど、その眼だけは笑っていないとか、いろいろと尾ひれのついた話を聞くことになります。
そしてそれから何年かして、実物のご本人にお会いすることができたんです。オダギリさんの部下で私と同年代のN山さんが会わせてくださったんですが、確か酒席だったと思います。
これが尊敬するオダギリさんだと思うと、緊張したのを覚えておりますが、そのお話が深くて鋭くて痛快で、またすごく面白くて楽しい時間で酒も美味しくて、やはりただもんじゃない人なんだなと思ったんですね。
ご縁ができて、それから時々お会いする機会ができ、長きにわたって仲良くしていただいてるんですが、個人的には、そのことは、ほんとに嬉しいことなんです。

本の中でも触れられていますが、90年代に入って広告を取り巻く環境に、大きな変化が起こります。情報と技術の均一化が進み、商品の均一化も進んで、あんまり商品に差異がなくなったんですね。そうなると商品を選ぶ基準は、その会社が「良い会社」かどうかということが重要になります。いわゆる「ブランド」をどう作るかなんですね。この「良い会社」というのは人に例えるとわかりやすくて、いわゆる「いい人」なんです。
でも、一言で「いい人」と言っても難しいですね。正しくて真面目であることは当然大事なんですけど、ただ正しい話って退屈だし魅力ないですよね。 昔、大滝秀治さんが「お前の話はつまらん!」と怒鳴るキンチョーのCMがありましたけど、そういうことなんです。
ブランドを人格化したとき、求められるのはどんな人かなと考えると、困ったことを解決したい時に、相談したくなるような人かなと思うんですね。誠実で熱心で真剣で、懐が深くて、しぶとくて強くて、賢くて大人で、ユーモアのレベルの高い人、ただ真面目じゃなく遊びも知ってる人、、
いろいろ考えると、オダギリさんみたいな人になるんですが、
そんなオダギリさんから、夏にこの本をいただきました。


「立派な本ではありません。むしろ恥しい本です。
 若い人に向って書きました。お節介ですけど。
 読んでいただけると嬉しいです。」
という小さな手紙がついていました。

ほんとに若い人に読んでほしいです。

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読んでいて、たくさん心当たりがあって、反省もあって、
でもこうすべきだなということがあって、
幸福な仕事に出会うためのヒントに溢れています。
いや、響きましたもんで。

良書です。

 

 

2021年8月18日 (水)

2020(2021)TOKYO

そもそもこの時期にオリンピックを開催すべきだったのかどうかということは、後々まで語り継がれると思うのですが、ともかく開催都市東京の都民として、観戦に出かけるどころか外出も控えねばならぬ状況の中、不思議なオリンピックを経験したわけです。自国開催ということで、時差のないテレビ観戦はほとんどの競技が網羅されており、これと言ってやることもない国民としては、初めて見るような競技も含め、終日なんらかのテレビスポーツ観戦をしておったわけです。
このコロナ禍での自国開催という、いたって稀なケースでなければ、こんなにテレビの前に座ってスポーツを見続けることもありません。おまけにこの時代ですから、見ていてわからないことや、選手やその背景の情報なども、大抵のことはネットで調べながら見ることもできます。後にも先にも、ここまでじっくりとオリンピック観戦をしたことはまずないと思われますね。
その結果、日本選手団は史上最高のメダル数を獲得するという好成績で、開催国としての面目躍如を果たしたわけです。そこには当然、世界ナンバーワン、ツー、スリー、上位入賞の感動がありまして、それは、スポーツだけが持っている圧倒的な共感シーンです。これを体感するためにオリンピックは開かれていると言っても過言ではないのですね。

私もこれに異議を唱えるつもりなどさらさらなく、年取って涙もろくなってるところもありますが、やはりその感動に浸っていた一人であります。コロナ禍が拡大してゆく不安なニュースと、スポーツの感動シーンとがかわるがわる届いた開催期間中でした。
では、なぜオリンピックのメダルをめぐる物語には、感動がついてまわるのでしょう。
それは、どの競技にもその選手の肉体的な限界に挑んだ超人的なパフォーマンスがあって、その背景には、選手一人一人、そのチーム一つ一つ、それぞれのドラマがあり、その一瞬のために長い時間があったからなんだと思います。それは、実に地味な時間の積み重ねで、数々の失敗や挫折もあり、阻み続ける壁があり、希望もあればほろ苦い思いも詰まっています。そんな様々な背景を噛み締めながら、その成功や勝利の一瞬に立ち会うわけですから、感動は沁み渡るのですね。
そして、それは、数々の敗北の上に成り立っていて、その敗者にもたくさんの物語があります。
積み上げたパワーや技術が、どうしても目標に届かなかったということもあります。4年に一度というこのタイミングに、結果的にピークを持ってこれなかったというケースもあります。不測の事態が起こった場合もあります。圧倒的な事前の好評価をクリアできなかったケースもあり、事前の不利の予測を覆したケースもありました。
結果的には勝負事ですから、勝ち負けの光と影は、起きている事実に深みを与えるんですね。
この2週間、ここに書ききれないほどのアスリートたちの物語がありました。

・大橋ドン底からの快挙、メドレー二つの金メダル
・一二三、詩、兄妹で金、最強柔道チーム、井上監督の人徳
・梨紗子、友香子、姉妹でレスリング金
・中国の壁に挑んだ日本卓球団
・体操個人総合と鉄棒、橋本二つの金
・20歳の女子、ボクシング金
・10代スケボー日本、無類の強さ
・サッカー久保の号泣
・水泳池江、復活、泣けた
・稲見、粘りのプレーオフ銀
・1500m田中、毎回日本新記録
・負け知らず、侍ジャパン
・期待の桃田、大坂の無念
・陸上リレーの無念
・女子バスケットは、世界の壁アメリカに挑んだ
 怒涛のスリーポイントと町田のアシスト新記録
・村上、女子体操57年ぶりメダル
・ソフトボール、執念の金 
・大迫 42,195kmのシミュレーション

ちょっと思い出すだけでも、これくらい出てきます。

余談ですが、なんか刺激を受けまして、このところ酷暑でやめていたランニングに挑みまして、大迫をイメージしてスタートしたものの、ずっとうちでゴロゴロテレビ見てましたから身体はなまりきってました。いろいろ感動いただきましたが、現実はこういうことです。
これも余談ですが、ソフトボールの上野投手を見ていると、その投手としての在り方が、昭和のプロ野球の大投手・村田兆治選手(平成2年、40歳まで投げた)とイメージがダブるのは、私だけでしょうか。

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2021年7月16日 (金)

寺内貫太郎一家と猫のカンタロウ

5月30日に、作曲家の小林亜星さんが88歳で亡くなられていたという訃報を知りました。昭和7年生まれということで、ちょうど私の親たちと同年代の方でした。いつ頃からこの方のお名前を存じ上げていたのか、覚えてないんですが、自分が子供から成長していくにつれて、亜星さんという個性的な名前は、どんどんその存在感を増していったと思います。
最初は、小学生の頃のアニメソング、大好きだった「狼少年ケン」は、完璧にフルコーラス唄えました。ガッチャマンも、怪物くんも、ピンポンパン体操も、男子だけど、サリーちゃんも、アッコちゃんも、唄えたし、子供たちがすぐに覚えられて大好きになってしまう唄ばかりでした。
それと、CMソングです。当然、亜星さんが作られたことは、あとで知るんですが、レナウンの「ワンサカ娘」も「イエイエ」も、新しくって刺激的で、子供なりに大好きでカッコいいなと思ってました。エメロンシャンプー「ふりむかないで」、日立「この木なんの木」、日本生命「ニッセイのおばちゃん」、ブリヂストン「どこまでもゆこう」、サントリーオールド「夜がくる」等、今でもみんなが忘れられないCMソングは、枚挙にいとまがありません。
歌謡曲もたくさんあって、1976年のレコード大賞・都はるみさんの「北の宿から」は代表作です。
ただ、この方の仕事で特筆されるのは、私が子供の頃に放送が始まったテレビというメディアの、新しいジャンル、アニメソングやCMにものすごくたくさんの名作があることです。
私は1977年から、CMの制作現場で働き始めたので、その頃、CM音楽界で最も有名な作曲家であった彼の存在を知り、どんだけ多くの名曲を作った人であるかが、だんだんわかってきます。自分が付いてる仕事の音楽を亜星さんが作られることも希にありましたが、こちらは制作部の末席の助手の助手みたいな立場ですから、「おはようございます。」と挨拶したら、邪魔にならないスタジオの隅から、音楽が出来上がるのを、ただ見学してるようなものでした。
そのようなことが何度かありましたが、亜星さんはいつも、最初の打ち合わせをすると、後はディレクターに任せて、スタジオの隅の小さな椅子に大きな身体を乗せて、鼾を立てて寝てしまわれました。時々、スタッフから報告や相談があると、みなさん慣れていて平気で起こすんですが、終わるとまたすぐに寝てしまいます。当時、相当に忙しい方だったことは想像できましたけど、見事でしたね。

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それより、私がこの方にお会いできて、何に感激してたかと云えば、
「あ、やっぱり寺内貫太郎だ。」ということで、
ご存知の通り、1974年と1975年にTBSで放送された有名なテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の主役の貫太郎は、小林亜星さんが演じておられたんですね。私は20歳前後の頃でして、毎週テレビで観ておりました。
今思えば、かなりよくできたホームドラマで、笑いあり涙ありだけど、それなりに毒や刺激もあって、テレビが持っているオーソドックスな面白さの上に、アバンギャルドな新しい試みを加えた、妙に完成度の高い番組でした。
これは、向田邦子さんが脚本を書かれ、久世光彦さんが演出をされている独特な世界観のドラマで、1970年に始まったドラマ「時間ですよ」から繋がっている流れでして、私は高校生から大学生の頃でしたから、かなり影響受けてたと思うんですね。
当時、TV界のヒットメーカーの向田・久世コンビが、満を持して作った「寺内貫太郎一家」でありましたから、その主役は誰なんだろうかと思っていたところ、小林亜星さんという巨体の作曲家だったわけです。
ドラマが始まったときには、やはりプロの役者さんじゃないし、なんとなく違和感もありましたし、そもそもこのキャスティングには、向田さんは反対されたと聞きましたが、この辺りがテレビというものをわかってる久世光彦ディレクターの天才たる所以なんでしょうか、続けて観てるうちにだんだん慣れてきて、それどころか気が付くと、貫太郎に感情移入できたりするようになってきました。そして続編も作られ、間違いなく名作ドラマとして後世に残ったわけです。
余談ですが、ちょうどその頃、大学の帰り道に、多摩川の河原を歩いていたら、トラネコの子猫が後をついてきたんで、アパートに連れて帰って一緒に暮らし始めたことがありまして、その猫に「カンタロウ」という名前を付けたんですね。そのカンタロウが半年くらいで、みるみるデカくなってきて、名前負けしなかったなあ、という思い出もあります。
ここに書き切れませんが、その前も後も小林亜星さんは素敵な音楽を作り続けられ、私の人生の要所要所で音楽というものが持っている可能性を教えてくださったなあと思います。
というような、ごく個人的な一方的な不思議なご縁なのですが、子供の頃から、知らず知らずずっとファンだった気がしました。
猫のカンタロウは、その後長生きできずに早世してしまったのですが、亡くなってしまった冬が明けた翌春に、近所を歩いていたら、一匹の母猫の後を子猫が5匹ほど歩いていて、陽春らしい良い風景だったんですけど、その中の一匹が、うちのカンタロウに生写しでして、これは間違いなくあいつの子だなと確信したことがあったんですね。そう云えば、お互いによく夜に出歩いてましたから、たまに数日帰ってこないこともあり、そういう時に子作りもしてたんだろうかなと思ったようなことでして、全くの余談の余談でした。

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2021年6月16日 (水)

一人遊び力

なるべく人に会わずにいること、と云うことは、基本的に一人でいて、間(ま)が持つ能力が問われているということです。
一昨年、こいう事態になった時に、わりと近くに住んでおられる、敬愛するAZ先輩と話していて、
「こうなって来ると、しばらくお会いできないということですかね。」と申した時、先輩は、
「僕はもともと一人っ子だし、昔から一人遊びは得意だから、特に問題ないけど」
と言われました。
そういえば、この方は、いつまで飲んでいてもずっと味わい深く、飽きることのない方ではありますが、逆に一人にしておいても、いつまでも一人で遊んでることができる人でもあります。
精巧なオモチャの銃を組み立てたり、分解したり、ニボシの内臓を取り出したり、自分で作った燃料コンロの炎をじっと見てたり、何か焼いたり、一人用キャンピング軽自動車で地の果てまで出かけたり、ま、いろいろですが、全く一人で飽きるということがありません。
確かにこれは才能ですね。
それでふと思ったのは、自分も一人っ子だし、中学の時に広島に転校してからは、高校まで部活もやらなかったし、あの頃、わりと一人遊びは得意だったなと。何してたわけじゃないけど、放課後は、街をブラついて映画見てることが多かったし、でなければ、自分の原付船で海に出てるか、五右衛門風呂沸かすのが役目だったから、薪割りと火付け番やったり、ラジオ聴いたり本読んだり、タバコ吸ったり、わりと毎日飽きないでいたかなと。
世の中がこういうふうになる前は、なんだかんだ毎日のように、いろんな人と会って飲んだりするのが生業(なりはひ)でもありましたが、今みたいなことになると、そうも云ってられないわけでして、その一人遊びが得意な性分が生かせないかと思ったんですね。で、やってみると、コロナに感染しないように一人でいる時間を組み立てることは、わりとできるもので、そんなに退屈もしないです。
前はやってなくて、最近やるようになったのは、朝起きてからの簡易ヨガと、週に2回くらいの10キロランニング。これは年齢のせいでもあるけど、動かないことで身体が硬くなってることへの対策と、ただ飲んで食ってることで無法状態になっている体重の調整の意味がありますが、これやってみると奥は深いんですね。
それと、このところトライしてるのが、毎晩飲んでいた酒を二日に一回にすることで、これは個人的には画期的なことなんですけど、やってみると意外にできてまして、ほら、酒って誰かと盛り上がるんでつい飲んじゃうんで、一人ではそんなに飲まないでも済むもんだということが最近わかったんですね。うちは奥さんも娘も飲まない人だし。ただ、まる一日飲まない日ができると、その翌日の酒が妙においしいわけで、ついつい二日分飲んじゃったりして、量的にはあんまり意味ない気もします。
そういうこと以外は、まあ、思いついたことをやってるわけでして、何かに追い立てられてるんじゃないんですけど、やることはいろいろあります。このブログに書いてるようなことも多いんですが、基本的に物事をじっくり観察してると、いろんなことを思いついたり、気になったりすることも多くて、そういうことを順番に確認したり、調べたりすることになるんですね。考えてみると、この性分は昔から変わってないところもありますけど。
ただ、会いたい人はいろいろいて、やはり会いたいものでして、そこがしんどいところであります。たまに人に会えることがあると、この上なく嬉しいものです。

いつになったら元の暮らし方に戻れるのかはわかりませんが、それと、全く元通りというのも無理かもしれないけど、なんか時間も気にせず、気心の知れた人と、取り止めのない話を、酒飲みながらできるようになりたいもんです。
ま、それまで、一人遊びが上手になるぶんにはいいんですけど。

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