2022年12月18日 (日)

2022 今年の漢字は“戦“だそうで

毎年この時期になると、今年の漢字というのが発表され、京都の清水寺で偉いお坊さまが書き出されるところが放送されます。一年を振り返るひとつの行事ですが、令和4年の漢字は「戦」なのだそうでして、そういえば今年の春に始まったロシアのウクライナ侵攻は収束の気配もみせず、世界中に暗い影を落としたままです。
改めて地球上を見渡すと、戦(いくさ)の火種はあちらこちらにあり、台湾海峡をはじめ、アジアから中東、アフリカ、ヨーロッパと、ニュース映像は最新兵器のオンパレードで、よくぞこれほど揃えたものだと、ただ呆れるばかりです。
それらの破壊兵器を得るために、支払われた対価の虚しさと、それらによって奪われた貴重な生命と財産を思うに、人間が歴史の中で繰り返し重ねた甚大な負の遺産に愕然とするのみです。
この行為がいかに愚かで無意味なことか、人は歴史から学ぶことさえできていないということなのです。
今年のもう一つの「戦」は、カタール・サッカーワールドカップなのですが、こちらの方 は4年に一度開かれるサッカーの世界大戦でありまして、サッカーファンのみならず、世界中の人々が熱狂しています。
私も典型的な、俄ファンでして、普段それほどサッカー中継とか観てないんですけど、ワールドカップが近づくにつれ、試合を観たり記事読んだりしています。。そういうレベルですので、テレビ観戦しても、ボールを追っかけるのが精一杯で、あんまりサッカーの深いところはわかってないのですけど、素人なりにいろいろ観ておれば、世界的にトップレベルの強豪国チームの選手たちのプレーは、スピードも正確性の精度も格段に違うなということくらいはわかってきます。
そんな中、今年、我が国の SAMURAI BLUEが、グループE予選で、FIFAランキング11位のドイツと、7位のスペインから勝ち星を奪い、予選を1位通過したのは特筆ものの活躍でありまして、夜中にあちこちで、歓喜の絶叫をする人たちが溢れたんですね。
そこからベスト16に進み、前回準優勝チームのクロアチアと対戦します。ここも善戦し同点延長で引き分けになりますが、PKで敗れ初の8強には手が届きませんでした。ただ、4年後の次の大会には、大きな期待を抱かせる結末と言えます。
サッカー日本代表が、W杯予選に初めて参加したのは、1954年のスイス大会の時とあります。これ私が生まれた年ですが、そこから予選突破の長い挑戦が始まったわけです。そして、日本が初めて本大会に出場できたのが、1998年のフランス大会でした。その間、1960年代、70年代、私が子供から大人になっていく頃、サッカーは決してマイナーなスポーツではなくて、中学高校には強豪チームがひしめき、実業団のリーグ戦は人気もあって、よい選手も育ち着実に地力がついていたんだと思います。1980年代の後半からプロ化への動きが始まり、1991年にはついにJリーグが創立しました。そして1993年にあの有名なドーハの悲劇があって、いや、あの記憶は鮮烈ですけど、1998年、ようやく初出場を果たすんです。
それから、外国人の監督の時代もいろいろあって今に至るんですが、今回のSAMURAI BLUEのメンバーのうち、海外クラブでプレーする選手は20人、初出場の時は1人もいなかったこ とを思えば、隔世の感があります。勝負は時の運というけれど、それだけじゃドイツやスペインに逆転勝利する快挙は生まれないわけですよね。
いずれにしても、4年に一度、たった一つの国のチームだけが勝ち残るために、すべてのチームが全身全霊を賭けて戦うこの大会には、たくさんの可能性があり、未来を思うことができます。
それに引き換え、本気で現代科学の粋を集めて、国家の威信をかけて行う戦争という行為の果てには、絶望の悲しみと怒りしかなく、人として最も恥ずべき選択であります。
人間には、多分戦うという本能が備わっているし、それは避けて通れないこととしても、どんなことがあっても戦争という手は封印して、許してはならないんです。もしも、争いが生じたら必ず他の方法を選択して、解決に向かっててゆくことを肝に銘じねばなりません。
サッカーには、そもそも手を使えないという、あらかじめのシバリがありますが、そのことは何かを暗示している気もします。

Soccer

2022年11月28日 (月)

神戸っ子

神戸という街には、昔住んでいたことがありまして、いつ頃かというと、生まれてから物心のつく5歳までと、8歳から12歳までの小学生時代で、ここには遠い記憶がたくさん詰まっております。なので、どこの育ちかと問われれば“神戸っ子です“と言えるくらいではあるんですね。
ウチの先祖は広島の海沿いの町の出で、牡蠣と船の仕事をしておりまして、どうも明治期に神戸で牡蠣を食べさせる店を始めたようで、そのせいか、祖父と叔父が神戸の中山手通というところで、かき料理店をやってたんです。父は神戸にある造船会社のサラリーマンをしており、途中東京に転勤したりしましたが、私は中学に入るくらいまでは、この街で育ったんですね。
住んでいたのは、異人館通りで有名な北野町をちょっと下った山本通というところで、一軒家を親戚の一家とうちの家族で借りておりました。そういう土地柄なので、まわりには結構外国の人たちが住んでいて、ヨーロッパの人、アメリカの人、インド、チャイナ、コーリアと、いろんな国の人が暮らしているところでした。うちの家の前は、かつて台湾人の成功者が建てた豪邸でしたが、何故かラブホテルになってしまいました。
神戸は東西に細長い街で、南北の道は海から山に向かってる坂道が何本もあって、坂を登って振り返るといろんなふうに港や船が見えます。この街で暮らしていると、いつも坂道と港があって、それは、なかなかに魅力的な風景でした。
遠い記憶を辿ると、そういった景色がいくつも浮かびます。住んでいた家も学校も、祖父の店も、みんな坂道の途中にありました。祖父のやっていた料理屋というのが、牡蠣の専門店で、あの当時、冷蔵技術も低くて、夏には牡蠣を食べませんでしたから、この店は夏は閉めてしまいまして、毎年10月から翌年の3月までだけ開店します。そのかわり、その間は正月三ヶ日以外は一切休まないんですね。いつも大忙しで、結構たくさんの板前さんや中居さんがフルに働いていました。もともと広島から出てきた店なので、広島から季節労働で泊まり込みで来ている人たちも多くて、うちの母も含めて親戚の人たちもたくさん働いていて、店は広島の言葉と神戸の言葉が入り乱れて、不思議な活気に溢れていました。身内ですから、その頃さんざん牡蠣を食べさせられまして、特にカキフライですが、まあそれは1番の人気メニューでもあり、おいしいんですけど、食べ過ぎてその後あんまり好きじゃなくなった時期がありました。今はまた大好きなんですけどね。
そういうことで、神戸のことを思い出すと、子供の頃、可愛がってくれた祖父や祖母やオジサンやオバサン、お店の人たちと、冬中忙しかったあの店と、坂道の景色が浮かびます。
そのあと、中学からは広島に引っ越してしまったんですが、神戸の街は変わらずでした。
そして、長い時間のうちに、祖父母も亡くなり、1995年にあの阪神大震災が起きます。街は傷みつけられ、あの懐かしい風景は一度壊れてしまいました。あのお店は、震災の前年に長く続けた商いを終えて、店を畳んでいたので関係者に怪我などはなかったんですが、神戸でお世話になった人たちは、色々とダメージを受けました。とても大きな災害でしたから。
それからまた随分と時間が経ちました。あの頃、私と同じように子供だった身内が同じような年齢になって暮らしていますが、新神戸の駅は何度も通過しましたが、なかなか降りることはありません。
街の形は変わっても、坂道と港の風景は、今もあるんでしょうね。
今度、行ってみようかと、思っています。

Kobe

2022年11月 1日 (火)

ラーメンといえば最寄りのたんたん亭

前回に続いて食べもの屋さんの話です。これも、どの街にもと云うか、人の住んでるところには、探せば必ずあるのが、ラーメン屋さんでして、この国の人たちはほんとにラーメン好きです。
子供の頃から、この食べ物はいつも身の回りにあったし、東京でも、覚えてる限り何度もラーメンブームというのがあって、その都度、店の数も増えていったと思います。
昔は、よく夜中まで飲んだくれていて、最後にラーメンで腹ごしらえして仕上げというパターンで、毎晩どっかの飲み屋街の片隅や、屋台で、ズルズルワシワシいただいておりました。これは昼に食べることもあって、いったい今まで何杯のラーメン食べたんだろうかと思います。
僕らの若い頃は、九州に行けばあたり前だった豚骨味が一気に全国区になって、トンコツコッテリラーメンはかなり主流になりましたが、札幌を基点にした北海道系、みそ味、塩味、しょうゆ味も、全国にファンを増やしております。まあ、いずれにしても、そのお店によっていろんなタイプの味があって、それを支持するファたちが、そのラーメン屋をささえていると云う構造になってるんですね。
そんな中、若い時は、こってりスタミナ系を深夜に食していたんですけど、年齢を重ねて来ますと、あんまりくどいのは敬遠しがちになりまして、コロナ禍以降、夜中の繁華街にもあまり行かないこともあり、最近は、もっぱら最寄りの駅前にある「支那そばたんたん亭」と云う、ジャンルで云えば東京風ラーメンなんでしょうか、ともかくラーメンといえば、ここさえあれば満足という状態です。
ラーメンを語りますと、もちろん十人十色ですし、人によって好みも背景も違うんですけど、私、こちらのラーメンは個人的に東京一押しであります。付き合いも長くてですね、この街に越してきた1989年からですから、30年以上になります。当時、この街に住み始めたという話を、仕事の先輩のAZさんにしていたら、彼が急に座り直して、
「その駅を降りて右に行くとすぐに、たんたん亭という名の店がありますが、これは至極正しいラーメン店です。」と言われたんですね。
AZさんのおっしゃることは、日頃から食べ物に限らず何かにつけて信頼しておりますので、わりとすぐに行ってみたわけです。
いわゆる奇をてらったところのないオーソドックスなラーメンで、軽くちぢれた真っ直ぐ麺に、なんとも云えぬ深みのある醤油出汁スープに、シナチクと叉焼ときざみネギとのり一枚というシンプルさなんだが、それが非常にバランスのとれた一品となっておるのですね。この基本型にワンタンを載せたワンタンメンは人気のメニューのようで、それを頼んでる人がわりといます。ワンタンは、肉ワンタンとエビワンタンがあり、その両方が入っているミックスワンタンメンというのが、この店のちょっとした贅沢な喜びのようです。
チャーシューメンにそのミックスワンタンを載せた、チャーシューミックスワンタンメンというのが、このお店でできる最も豪華なメニューで、私はまだやってませんが、いつだったか隣の席で近くに住む編集者の石川次郎さんが食べておられるのを横から見たことがあります。
メニューといえば、それ以外は煮たまごと餃子とビールくらいなものです。席はカウンターだけで10席くらいのものですから、店の前によく人が並んでいますが、ここも長居する人はいませんから、ちょっと待ってればすぐにありつけます。
そういえば、初めてこの店に来た時に、ラーメン作ってる職人さんから、来月でこの店は閉めるんだと言われて、すごくうまかった分、かなり残念がってたんですけど、その2人の職人さんは、1人は目黒で、1人は調布で、ほぼ同じメニューの店を始められて、そのどちらの店にも後になって行ってますが、結局原点である浜田山「たんたん亭」は、閉店することなくクオリティを保ちながら、今も存在してまして、ほんとに助かっております。
ともかく、このラーメンという食べ物は、長い歴史の中で多くの人たちの手で多くの人たちに食べる楽しみを送り続けて、どの土地にも街にも根付いていまして、若い頃は旅の途中に全国の港、港でいろんな出会いがありましたが、今、自分にとっての故郷みたいなラーメンというのは、たんたん亭のこの味なんだなと思う、今日この頃なんです。

Tantan_2

2022年10月 7日 (金)

焼き鳥といえば渋谷森本

物心が付いてからというもの、ずっと呑兵衛(のんべえ)でありまして、閑さえあればどっかで飲んでるような人で、どなたかから「ちょっと行く?」などと誘われてお断りしたこともなく、そりゃあこちらからお誘いすることも多々ありまして、また、お相手がいなきゃ、一人は一人でもいいもんで、その都度、酒を飲ませてくれる店を探して入っていくわけです。
そういう時、どの街でもすぐに見つかるのが焼き鳥屋です。縄暖簾かなんかをくぐって入ると、たいていカウンター席とちょっとしたテーブル席があって、カウンターの向こう側では、炭火かガス台でもうもうと煙を上げて焼き鳥が焼かれているわけです。その臭いは換気扇で店の外にあふれ、また新たな客を呼び込んでいるんですね。
それと、若い頃はなおさらなんですが、あんまり懐中(ふところ)の心配をしなくて良く、たまに高級店なんかもあるんですが、鮨屋ほどじゃないし、串1本いくらって書いてありますから、飲みながらでもだいたい勘定の見当もつくわけですよ。
そうしてみると、今までどんくらいの数の焼き鳥屋に行ったんだろうか、串は何本食べたんだろうか、その時に飲んだビールや日本酒やチューハイやなんやかや、どんくらい飲んだんだろうかなどと思うんですが、あんまり考えてもしょうがないことではあります。
ここ何年かコロナのこともあり、あんまり街をぶらぶら歩いて飲み歩くことがなくなりましたが、時々、無性にその店の焼き鳥が食べたくなるのが「渋谷森本」なんですね。
ここに行き始めたのがいつだったか、昔すぎて忘れましたが、20代の頃、誰かに連れて行かれたか、偶然入ったか、とにかくうまい焼き鳥だなと思ったのは確かで、そのうち私が働いていた新橋の会社の近くに森本の支店ができた時期があって、そこにもよく行ったんですね。
つくね、ひな皮、ゴンボ、砂きも、血きも、はつ、若鶏ねぎま、相鴨、うずら、笹身、なんこつ、しそ巻、東京軍鶏、手羽先、どれも一級品でその味は全く変わっていません。新橋店は、そのうちになくなったんですけど、渋谷はずっと健在でいつも満席です。井の頭線の渋谷駅のホームからもすぐ下に見えるわかりやすい場所にあって、ここは昭和47年からだそうですが、渋谷での創業は昭和23年と云います。
営業時間は日曜祭日を除く、16:00〜22:00で、昔17:00からのこともありましたが、ともかく開店すれば、夕方早くから、森本ファンたちで店はすぐにいっぱいになります。たいして広くないし、そういう店なんで、まず大勢で行くことはしませんで、せいぜい2人か3人、むしろ1人で行くことが多いですね。たいてい渋谷で映画や芝居を観る前とかに立ち寄ることも多かったです。それと、たとえ満席でも、座ってる客の後ろの壁に張り付いて待っていると、そのうちに空いた席に入れてもらえます。だいたいこの店には長居する客がいませんね。焼き鳥とか、そう何十本も食べられるもんでもないし、注文した分を食べ終わって追加注文がなければ、すぐに店員が勘定しにやって来ます。
酒だけダラダラ飲んで用も無いのに長っ尻で居座るような奴は、この店の客にはおりません。食って飲んだら、とっとと去って行くのが客の流儀なんですね。そういうスピードで店が用意したネタはどんどん売れて行くので、ちょっと遅い時間になれば、売り切れるネタもあり、だから、この店に夜遅くに寄るなどということはしないのですね。
こういう世の中になってから、呑兵衛オヤジのヤキトリナイトもままならないですけど、渋谷で芝居を観たり、夕方その辺りにいることがあると、ついついお邪魔します。そこでおとなしく串の5〜6本も頂戴して、レモンサワーの2杯もいただけば、とっとと失礼いたしておるわけです。
いずれにしても、私が若い頃からずっと、そのハイクオリティな味を保ちつづけている驚くべき焼き鳥屋さんなんですね。
やはり、個人的ランキングでは東京一なわけですが、やがて世の中が落ち着いて元の状態に戻っていけば、またインバウンドでたくさんの外国の方が訪れるようになりますね。外国の方達はことのほか焼き鳥が好きですから。それはいいんですけど、まあ、これからも、時々、オジサンが機嫌よく至福の小一時間を過ごさせていただくことができれば、それで十分であります。

Morimoto

2022年9月 4日 (日)

アナログとデジタルと照明の佐野さん

この前、Facebookを見ていたら、知り合いの音楽プロデューサーが、昔のアナログの音楽録音のことを書いていて、実は音質的にはかなりアナログの音が良かったという話で、読んでいて、たしかにそうだったなあと思ったんですね。この人は私よりちょっと年下なんですけど、同じ時代にTV-CMを作る仕事をしてきて、ずっと尊敬してるワタナベさんというプロデューサーです。
我々が仕事を始めた頃、1970年代の終わりから80年代にかけては、まさに音も映像もアナログからデジタルへ移行し始めた時期でした。大雑把にいうとレコードはCDに、ビデオテープはハードディスクにみたいな事でして、結果的に今は完全にデジタルの時代になっており、その事で、かつてアナログではできなかったたくさんの事が実現でき、聞けなかった音や見れなかった映像を体験できることになりました。たとえばコンピュータが作った音があったり、CGで作られたキャラクターが、私たちが暮らす実景の中に存在できたり、いろいろなんです。その延長線上に、ネット上のさまざまのコンテンツを選び出して体感できる現在の視聴環境があるんですね。
かなり大雑把な説明になってますが、すいません。
ともかく、デジタルという技術革新がなければ、現在の便利さも感動も享受できてないんだけど、アナログの時代に仕事を覚え始めた人としては、その方式で作られた音や画の、何とも云えぬ質感や味は、忘れ難いものがあるんですね。
あの頃、楽器も肉声も含め、すべての音素材は6m/mの磁気テープに記録され、そのそれぞれの音質やバランスを整音しながら最終のダビングという作業を経て、やはり1本の6m/mテープに完成されました。レコード録音から始まったこのアナログ方式は、長い時間の中で様々な機材を進化させながら、試行錯誤を繰り返し、歴史を作ってきたんです。
私がこの業界に入った頃には、どこの録音スタジオにもそういった筋金入りのミキサーの方たちがたくさんいらしたんです。それは今だってデジタル機材を使いこなす優れた技術者の方がたくさんいらっしゃいますが、このアナログで作った頃の音を、時々思い起こして欲しいなと、そのワタナベプロデューサーは云っておられたんでして、私もそう思ったんですね。
映像の方はと云えば、その頃そもそもフィルムで撮影して現像液につけてたわけですからアナログ中のアナログです。CMは、35m/mのFilmで撮影して、それにスーパーインポーズで文字や画を合成して、最終的には16m/mのFilmでテレビ局に納品して放送されてたので、デジタルのかけらもなかったわけです。
今では撮影された映像はデジタルの信号としてハードディスクに収録され、編集室でコンピュータに取込まれて加工されて完成しますから、初めから終わりまで、全て映像記録はデジタルなのですね。ただ、Filmからデジタル映像へ移行する過程では、なかなかFilmの質感や色や奥行きが出ないと言われていたんです。その後デジタルも4K、8Kと容量も上がって行く中で技術も進化して、Filmが長い時間をかけて築いた領域に近づいて来たとも云えます。
しかし、思えばFilm撮影の現場というのは、本当にアナログな職場でして、35m/mのバカ重いキャメラをかついで設置し、移動車に載せクレーンに載せ、美術の大道具、小道具に、衣装に、メイクと、世界を作って、そこに光をあててキャメラのモーターを回すのですが、そこには、それこそ筋金入りのアナログ職人の親方たちがたくさんいらっしゃったわけです。思い起こせば、皆さん本当にハイレベルな技術をお持ちの、実に個性的な方々でしたが、その中でも、長きにわたり大変お世話になった恩人に、照明の佐野さんがいらっしゃいます。
佐野さんは、「影武者」以後の黒澤作品のすべての照明を担当されるなど、60年の照明歴を持ち、照明の神様などとも云われてますけど、そういった偉ぶったところの全くない人です。現場ではいつも普通にさばけた感じでいらして、付かず離れずいる数名の佐野組の助手さんたちに指示を出し、彼らは実にキビキビと無駄なく動いて、光を作っていきます。この助手さんたちの中から、のちに立派な照明技師になられた方が何人もおられます。そして翌日その撮影したラッシュを映写すると、それはいつも見事な仕上がりで、その画には、ある意味何らかの感動があるんですね。
佐野さんは前に、キャメラマンが画角を決めたら、その真っ黒なキャンバスに色をつけていくのが自分の仕事なんだと云われてましたけど、まさにそういう絵描きのような仕事をいつも見せていただいてました。
この方の仕事がどういう具合に素晴らしいのか、説明しても分かりにくいですが、分かりやすい話がひとつありまして、それは、黒澤明監督が映画「影武者」の照明技師を佐野さんに決めた経緯なんですね。その少し前に黒澤さんがあるウイスキーのCMに出演なさったんですが、その時の照明が佐野さんで、その仕事ぶりを高く評価したのがきっかけだったようです。その頃、佐野さんはCMを中心に仕事をされていて、たくさんの名作がありました。世界のクロサワさんがそこを決め手にしたことは、かけだしのCM制作進行だった私にも、えらく誇りに思えました。
1930年京都市生まれ、18才の時、松竹京都撮影所に入って、1957年には照明技師になられ、1964年に松竹京都が閉所になった後も、フリーランスとしてたくさんの映画とCMの照明を手掛けられました。
私が初めてお会いした70年代の終わり頃には、照明技師として既に有名な存在でしたが、いつもラジオの競馬中継を聞きながら仕事してる、そこら辺のおじさんの風情で、僕ら現場の若造は死ぬほど尊敬してましたけど、なんでも相談できる親方でもありました。「影武者」のクランクインが決まって、世間を騒がせていたのもその頃です。
それから長きにわたって、たくさん仕事をさせていただきました。佐野さんにお願いするのは、いつもいろんな意味で高難度の仕事が多く、無理をお願いすることもありましたが、いつも「ええよ」と言って、淡々とやってくださいました。そして、その度に、その仕事ぶりと出来上がった作品の完成度に感動していました。
照明という仕事は光をあてたり、光を切って影を作ったり、フィルターで色をつけたりしながら、人の眼をたよりに絵を描いていくような、極めてアナログな作業ですよね。
いつだったか、佐野さんがまだ若かった時に京都で時代劇を撮っていた時の話をしてくださいました。照明のセッティングができて、セットに、大スターの長谷川一夫さんが入ってこられ、その渡り廊下を移動しながらの殺陣のリハーサルが始まり、動きが決まったら手鏡を持ってご自分の顔を見ながら再度テストをされたそうです。
それで、本番と同じ動きをしながら鏡に映った顔を見ては、たまに立ち止まり、
「照明さん、ここんとこ、ライト足りまへんな。」と、、また歩きながら、
「あ、照明さん、ここも足しといて。」などと、照明チェックをされて、
照明部は、その都度ライトを直したそうです。すげえアナログな話ですよね。
佐野さんは、そんなにおしゃべりな方ではないのですけど、この手の貴重な話を、時々面白おかしくしてくださいました。味のあるいい話でしたね。
残念なことに、10年ほど前にお亡くなりになりましたが、長きにわたっていろんなことを教えていただきました。撮影の仕事における、あるべき姿勢であるとか、大切なことを、さりげなくご自分の背中で教えてくださっていたように思えます。
音とか映像とかのコンテンツを作る仕事には、手仕事のようなアナログの技術も、最先端デジタル技術も混在していて、それは両方とも使いこなさなきゃなりませんが、そんなことを考えていたら、ふと照明の神様を思い出したんですね。
佐野さんの中には、間違いなく経験で蓄積された照明技術のデータがデジタル化されて内蔵されていたと思われますが、
それを使いこなす時のアナログ的な勘はかなり鋭かったんじゃないかとお見受け致しましたが、、

素人が恐縮です。

Sanosan

2022年7月26日 (火)

私的 東京・多摩川論

最終電車で 君にさよなら
いつまた会えると きいた君の言葉が
走馬燈のように めぐりながら
僕の心に 火をともす

何も思わずに 電車に飛び乗り
君の東京へと東京へと 出かけました
いつもいつでも 夢と希望をもって
君は東京で 生きていました

東京へはもう何度も 行きましたね
君の住む 美し都
東京へはもう何度も 行きましたね
君が咲く 花の都・・・・

「東京」という唄の一節なんですが、あんまり覚えてないんですけど、私が高校出て東京に出てきた時分に流行っていた曲で、その頃の、いわゆる地方から東京を見ている気分がわりと出てる曲と思います。調べてみると1974年のリリースで累計100万枚というから、けっこうヒットしたんですね。
この唄の記憶が色濃くあるのは、むしろそれから何年かあとに、仕事で知り合って仲良くなって深く付き合った友達が、カラオケでよく歌っていたからで、彼も私と同じ頃に東京に出てきた人で、札幌から上京した地方人でした。大学を出て、劇団の演出部に行ったけど、少しあとに出版社の宣伝部に入って、その時に知り合いました。大切な得難い友でしたが、それからしばらくして30代の半ばに不慮の事故で他界してしまいました。この唄を聴くと、なんだか彼のことを思い出すんですね。
今もそういうところがありますが、日本中の若者が、いろんな意味で東京を目指すという構図があった頃で、東京は当時の若者にとってかなり特別な場所でした。
個人的なことを云えば、広島の高校生だった自分は、地元の国立の大学を受験したんですが落ちて、たまたま国立大の合否発表の後に受験できる私立の大学が東京にあって、そこに受かったわけです。東京には子供の時に3年くらい住んでたことがあったけど、なんだかあんまりいい思い出がなくて、東京に行くことにはあんまり乗り気じゃなかったんだけど、他に行く学校もなく、これも何かの縁だと思って出てきたんですね。地元の大学に行っていれば、学費も下宿代も余分にかからなかったから、親には迷惑をかけたんだけど、そういうことになったわけです。
しかし、考えてみると、それから今までの約50年間、ずっと東京で暮らすことになってしまって、子供時代の3年間を加えても、人生の8割方、東京の住人であることになります。
でも、あなたの出身地はどこですかと問われると、東京ですとは答えられないんですね。子供の頃住んでた神戸や広島がそうかもしれないけど、わりと定期的に転校していたし、一番長く住んでるのは東京ではあるんだけど、東京という地名に対しては、郷愁とかなくて、なんだかよくわからないけど一種の緊張感があります。
けっこう長い間、そういう感覚があったんですけど、たとえば西の方から新幹線に乗って帰ってくる時、多摩川を渡る時、さあここから東京だという時、心なしか緊張している自分がいます。この街に帰ってくるというより、入って行くということなのかも知れないけど、この街の風景が持っているスケールとか、底の見えない奥深さとか、いわゆる大都会の顔つきのせいでしょうか。
さすがにこれだけ長くここに住んでいれば、少し慣れたところもあって親しみもありますが、たぶん東京出身の友人とは、ちょっと違うところがあって、それは10代の終わり頃に、どこかの川を渡ってこの街にやってきたことじゃないかと思うんです。私の場合、多摩川なんですけど。
それで最初に住んだのが、多摩川の土手が見える場所でしたからよけいそうだと思うんです。そこから一番近い多摩川にかかってる橋は、丸子橋という橋で、近くに巨人軍のグランドがあったりしました。その橋と並んで東海道新幹線が走ってましたから、新幹線からも丸子橋はよく見えるんです。
そこで暮らし始めた年の秋から、「それぞれの秋」というテレビドラマの放送が始まったんですけど、そのタイトルバックの風景がまさにその丸子橋だったりして、個人的には馴染みの深い橋だったり川だったりしたんですね。
このドラマの脚本は山田太一さんでしたが、非常に新しくて面白いドラマでした。山田さんのドラマはこの界隈を舞台にされてることが多くて、そののち、1977年には「岸辺のアルバム」が放送されますが、多摩川が決壊して、主人公一家のマイホームが川に流されてしまうシーンは、ドラマ史に残る有名なシーンです。
それから、1983年に放送された「ふぞろいの林檎たち」は、多摩川堤の私が通っていた名も無い私立工業大学がドラマの舞台になっておりまして、テレビを見ると母校でロケがされていたので、間違いなくそうなんですが、脚本を買って読むとまさに私の大学がモデルになってることがよくわかりました。その学校に通う若者たちが主人公の群像劇で、彼らの挫折や鬱屈や友情や成長が描かれています。このドラマはその後シリーズ化もされた名作ですが、個人的には、不思議と自分の多摩川の青春とダブるのですね。

さて、今はどんなことなんでしょうか。
東京はいっときとして同じ姿をしていませんが、この街の大都会ならではの魅力は変わらず、その豊かさも華やかさも、片やその胡散臭さも含めて人を惹きつけますよね。
今もまた、多くの若者が、どこかの川を渡ってやって来てるのでしょうかね。

Shinkansen_2

2022年6月 2日 (木)

もう、オカダさんには叱ってもらえないんだ

世の中には、もしもこの人に会ってなかったら、自分は今この場所にいないだろうなと思う人がいまして、22才の時に、世の中へ出て働き始めたその会社で、最初にお会いしたのが、その岡田高治さんでありました。
このところ体調を崩されてもおり、もう2年ほどお会いしておりませんでしたが、残念なことに、先日訃報が届きまして、お通夜に参りました。享年81歳とのことでした。
えらく世話になりましたが、なんの恩返しもしておらず、ちょっと、こたえております。
そもそもなんでその会社に行ったか、話せば長いんですが、私、大学4年の時に一切の就活をせずに、卒業が決まってしまい、春になって、さてどうしようかと思っていた時に、一緒に卒論をやってた仲間から、だいぶ上の大学の先輩でCMの音楽を作っている会社をやっている人がいるから会ってみろと云われて、わらにもすがる気で会いに行ったんですけど、その頃、なんのビジョンもないヒドイ若造でしたから、その先輩からこっぴどく叱られて、みっちり説教されて帰されたんですね。そんなことも忘れかけてた矢先、思えばその先輩は厳しいけどいい方でして、ちょっと会わせたい人がいるので、いついつ西新橋の「ガーコ」という喫茶店まで来い、という連絡をくださったのです。
新橋のビルの裏手のすごくゴチャゴチャした通りの、ものすごく小さな店でしたが、そこでハイライト吸いながら一言もしゃべらずに、その先輩の話を聞いていたのが、オカダさんでした。その先輩とオカダさんとは仕事仲間みたいでしたが、とにかく、ここにすわっている若造が、いかにダメな奴かという話を、ずっと先輩がしていたのを覚えてまして、最後に、
「で、コーちゃん、こいつに使い走りでも何でもいいから仕事させてみてくれる? ま、役に立たないと思うけど、ダメならすぐクビにしてもらっていいから」という話でした。
オカダさんが、おもむろに、天知茂みたいにハイライト消しながら、
「おまえ、徹夜したことはあるか?」と、聞かれたんで、
「大学の課題で、設計図面を書くのに3日3晩、寝なかったことがあります」
と、ちょっと自慢げに答えましたところ、初めてオカダさんは、かすかに笑って、
「3日か、図面を書くのはずっとすわってるだろ、俺たちの仕事は、ずっと走り回って3日くらい寝ないことは、しょっちゅうなんだよお。」と、一喝されました。
この会社は、社員30人弱の小さなCM制作会社でしたが、オカダさんは、上から3番目にえらい人で、常務取締役プロデューサーで制作部長でした。
考えてみると、当時私が22才だとすると、オカダさんは36才ということになるんですが、いや、もっと大人に見えましたね。ビシッとスーツ着てたし、ほぼ笑わなかったし、静かに話します。ちょっと怒った時は、少し声がデカくなりますが、その時は江戸っ子べらんめえになるんですね。
この高治さんという名はタカハルと読むんですけど、通り名はコージさんで、親しい人はコーちゃんと呼びました。もちろん、私は一度もそう呼んだことはないですが。
渾名(あだな)で「マムシのコージ」と、陰口をたたく人もいて、そこはかとなく毒があるという意味だったのでしょうか
この会社の人たちは、今思えば、皆さん優秀でしたし、新しく来た奴に対しては、こいつをどうにか使えるようにしてやろうという厳しさと優しさがあって、私はあまり役に立たないまま、どうにかここに居場所を見つけて働き始めました。3日3晩、寝ないで走り回る仕事というのも何回か経験しまして、いろいろ教えてもらいながら、徐々に仕事も覚えましたが、オカダさんはいつも厳しくて、時々小さな喫茶店に呼び出されて、シボられておりまして、今思えば教育的指導だったのでしょうが、これはなかなか苦手で、しばらく私にとって、天敵ではあったのですね。
そのうち、クビになりそうな失敗もしましたが、なんとなくずっとやってるうちに、仕事も面白くなってきて、気がつくと会社はものすごく忙しくなっていました。4年もすると後輩もできておりまして、ようやく周囲からもあてにされるようになってくるんですが、こうなってくると、人間が浅はかですから、生意気にもなってきて、またオカダさんを怒らせたりもするんですね。
ずっとそういう関係でしたけど、さすがに10年もすると慣れてきて、オカダさんがなんだか、ただ機嫌よかったりすると、調子出なかったりしていました。
ちょうどその頃、33才くらいの時ですが、個人的には大きな人生の転機がやってくるんですね。数人の仲間と小さな会社を作って独立することになったんですが、新しく会社を作るといっても、もといた会社とは同業の他社ですから、後々はライバル会社になるべく頑張るわけでして、いわゆる一緒にやってきた仲間とは袂を分つということなんです。
すでに30年も前のことになりますが、その会社は、おかげさまでどうにかここまで自分達のスタイルでやることができています。もといた会社は、その後、業界大手の大会社に成長して、オカダさんは社長になられ、やがて会長になられ引退されます。
やってみるとわかるのですが、会社をやるというのは、結構面倒くさいことも多くて、いろんな難問にぶち当たることがあって、中には経験者に相談したいこともあります。そういう時、つくづく図々しい奴と思うのですが、同業他社の大先輩のオカダさんに相談したりしちゃうのですね。
連絡して相談しますと、オカダさんはすぐに会ってくださいます。嫌味の一つも言わず、言ってみれば、昔、後ろ足で砂かけて出てった奴に、的確なアドバイスをしてくださるわけです。ちょっと驚いたんですが、私が用意した席に来ていただく時に、今日は奢ってもらうからと言って、手土産まで準備しておられ、その手土産が、かなり苦労しないと手に入らないような有名な菓子折りだったりするんですね。なんか、自分が大事にしている人に会う時には、こういう気遣いをするんだぞと、私に教えてくれてるなと感じるんですわ、どうしても。

Okadasan_2



若い時、本当によく怒られたけど、こっちが年食ってからは、優しい人でした。どうして、あんなに気にかけてくれたのだろうと、今も思います。
初めて会った時は、おっかなくて、インテリヤクザみたいな、ものすごい大人に見えたけど、実は14才しか違わなかったオカダさんとは、ちょっと不思議な得難い出会いでした。
晩年に、もうちょっとお会いしておきたかったけど、そういうもんでしょうか。恩というのは返せないものです。悔しいですが。
年取ると、叱ってくれる人は、確実に減るものですね。

2022年5月24日 (火)

スケートの世界決戦は、川中島なのだ

ちょっと前の話になりますが、今年北京で開かれた冬季オリンピックのフィギアスケートで、あの羽生結弦君が、オリンピック3連覇はできなかったんだけど、負傷しながら4回転アクセルにトライして4位となり、その高難度の技に挑戦する姿勢は、多くの観客を魅了しました。
この人は1994年の生まれですから、うちの息子と同い年なんですけど、中学生の時に世界ジュニアチャンピオンになって以来、ずっとトップのアスリートで居続けて、オリンピックも2連覇し、その年齢にしてその道を極めた人ですよね。ただ、常にその位置にいることが、どれくらい大変なことであるのかは、凡人は想像するしかないのですが、えらいことだと思います。
彼が今回のフリーの演技のために選んだ楽曲が、とても格調の高いドラマチックで重厚な曲だったんですけど、その題名が「天と地と」とクレジットされていて、作曲が冨田勲さんとなっていたんですね。それで思い出したんですけど、この曲、私が中学生の時にやっていたNHKの大河ドラマのテーマ曲だったんです。なんでそんな古い曲を羽生くんは知ってるんだろうと思いながら、そうか羽生くんは上杉謙信のことをリスペクトしてるんだ、そういえばこの人、謙信とイメージかぶるとこあるか、そういえば衣装もそんな感じするし、もっとも、そんなことは、羽生くんのファンであればとっくにご存知のことなんでしょうね、などと思いながら、その大河ドラマの記憶を辿ってみたんですね。
1969年でしたか、大阪万博の前年ですね。NHKで日曜日の夜8時から毎週放送されていた「天と地と」は、一年間続く大河ドラマで、上杉謙信の生涯を描き評判になっていました。その前作、前々作は、ちょうど明治維新から100年という節目だったので、「三姉妹」・「竜馬が行く」と、幕末ものが続いたのですが、視聴率がもうひとつだったので、NHKが満を持して戦国ものをということになり、海音寺潮五郎・原作の「天と地と」の制作に踏み切ったんだと、何かに書いてありました。
その頃の日曜日の夜8時、我が家のTVのチャンネルは、わりとNHKに合わされていたと思いますが、全部の回を見てたわけじゃなくて、1969年といえば、私が応援していた阪神タイガースの江夏豊はまだ20歳でしたが、15勝7完封とエース並みの活躍をしており、わりと自分の部屋でラジオの野球中継を聞いていることも多かった気もします。
ただこのドラマは、時々見てはいて、だんだん面白くなってきたんですね。上杉謙信を演じていたのは、まだ若い石坂浩二さんでしたが、当時の中学生から見ると、とてもストイックな天才軍略家と言ったイメージで、滅法いくさに強い智将といった印象でかっこよかったですね。
その強力なライバルとして武田信玄がいるんですが、その両雄が雌雄を決する物語でもあります。
ただ、覚えてはいても、かなり大雑把で曖昧な記憶でもあるので、今回、小説の原作を読んでみたわけですが、上・中・下巻とありまして、なるほど大河ドラマです。
主人公の上杉謙信の出自とその成長が描かれ、やがて宿命のライバルである武田信玄が現れ、そして、その長い対立から雌雄を決する川中島の戦いまで、さまざまな背景を含めて、その歴史が語られています。昭和35年から3年間、週刊朝日で連載されたこの原作は、かなり話題になったようであります。
海音寺潮五郎氏が、本のあとがきに書いておられますが、謙信と信玄は、同時代に存在した好敵手だが、天が作為したかの如く正反対のキャラクターだったようで、小説の題材としてうってつけだったようです。
二人とも、この時代に生まれた人としては、相当深い学問的教養があったようですが、その存在の仕方は、極めて対照的でありました。
信玄は戦術を決定するに、決して一人ではせず、部下たちと意見を戦わせて最後に決すると、それを演習させて、一糸乱れず闘ったと言われます。対して、謙信は一切自分で戦術を決めます。春日山城の毘沙門堂に何日もこもり、思念を凝らして工夫し、決定すると、部下を集めて発表したとあります。片や、よく努力し勉強する秀才的武将と、独断専横の天才的武将の姿が浮かびます。
信玄は、基本的に領土欲のために戦い、その都度、組織を強化して国を治めようとします。
謙信は、精神的理想を実現するために戦い、失われた秩序を回復するために、遠くまで従軍することの多かった武将です。
信玄には多くの側室がおり、従って子も多いですが、謙信は生涯独身だったと云われています。
武田軍は一つずつ確実に陣地を広げていくやりかたで、領地を増やしていきます。上杉軍はどちらかといえば風のように戦場を駆け抜けては勝ち戦を続けると言った形ですが、戦争が終われば去って行くわけです。
武田信玄は、欲望の強い有能な政治家でもあり、奪った領地はよく治めたと言われています。
上杉謙信は、軍人として戦勝にこだわり、常に自身の信念とスタイルを貫いた人かもしれません。領地を広げていく政治家としての執念は、そんなに強くなかったかもしれないですね。
この長編小説を読んでみて、あの羽生君の謙信に対するリスペクトを、確かに感じました。
彼にとっての競技は、謙信にとってのいくさのようなものなのでしょうかねえ。
じゃなきゃ、自分が生まれる前に放送されていたドラマのテーマ曲を知ってたりしないですよね。
なんかよくわかった気がしました。

Kenshin

2022年4月21日 (木)

SIXTH SENSEという映画を思い出した

この前、ハリウッドスターのブルース・ウィリスが失語症になって、映画の出演ができなくなリ、俳優を引退したというニュースに驚いたんですが、調べたら、この人が私と同い年だったもんで、わりとショックを受けたんですね。
ブルース・ウィリスをスターダムに押し上げたのは、1989年に公開された「ダイハード」でしたが、これが娯楽アクション映画として、非常によくできていて、世界的に大ヒットしました。「ダイハード」はシリーズ化もされ、その後コンスタントに彼の主演映画はたくさん作られ、とても全部は観れてませんが、個人的には「パルプ・フィクション」とか、好きな映画もいろいろあったんです。アクション映画のタフガイのイメージで、日本でもずっと人気のある人で、思えば色々なCMにも出演していて、それはごく最近まで続いていました。
そんな中で、1999年の映画「シックス・センス」は、彼の映画にしては、あんまりアクションのないシーンとした作品だったんですが、これはなかなかの名作でして、ずいぶん話題にもなりヒットしました。「シックス・センス」とは、直訳すると第六感ということになるのですが、人間の五感に次ぐ感覚で、映画の中では霊感を指しています。

Sixthsense



ブルース・ウィリス演じる、小児精神科医のマルコムの前に現れた少年コールは(これを演じている天才子役のハーレイ・ジョエル・オスメントがまた上手いんですけど)、死者が見えてしまう自身の第六感のことで悩んでいます。当初は幽霊の存在に懐疑的だったマルコムも、やがてコールの言葉を受け入れるようになり、死者がコールの前に現れる理由を共に探り始めます。この物語にはいくつかの展開の後、観客の予想しない意外な結末が待っているんですが、映画として実によくできていて最後まで引き込まれます。
監督のM・ナイト・シャマランの脚本も演出も見事で、この手の映画にありがちな観客を派手に怖がらせたり驚かせたりといった技法はほとんど使っていないんですけど、なんだかジワーっと静かに恐怖が忍び寄る映画になっているわけです。
この映画は、会社帰りに渋谷の映画館で、その日の最終回を観たんですが、自転車通勤で出社してた日で、映画が終わった後の寒い夜に、誰もいない真っ暗な世田谷・杉並あたりの裏道を自転車で走って帰るのが、えらく怖かったのを覚えています。
この映画は、たくさんあるブルース・ウィリスの仕事の中でも、記憶に残る名演だと思います。

シックス・センス(第六感)とは、ヒトに備わる、視覚・聴覚・臭覚・触覚・味覚という五感の次の感覚で、異様な直感力の意味で使われます。人にはそれぞれ、その人にしか感じられないこのような感覚があるのかもしれません。これらの感覚にはすごく個人差もあるし、時と場合によっても敏感だったり鈍感だったりしますが、いずれにしても生まれつき与えられた機能なんですね。
最近ではコロナウイルスの後遺症で味覚や臭覚に異常をきたす現象も起きましたが、感覚やその機能は、何らかの要因で強くなったり弱くなったり、また、失ったり再生したりします。ある感覚が弱まると、別の感覚が補うように鋭くなることもありますね。
そんなこと思いながら、ブルース・ウィリスという役者が、言葉を発するという能力を無くしてしまったということには、不思議な哀しさがありますが、なにか新しい感覚が目覚めるように、その機能が再生することに、期待しないわけにはいきません。

2022年3月29日 (火)

21世紀の悪魔

このスペースに、あんまり難しいことも書きたくないし、あんまり難しいことを書く能力もないのですけど、このところ東ヨーロッパで起きている事件と、その報道に対しては、本当に毎日憂鬱で、その首謀者の顔が浮かぶたびに、怒りが込み上げます。いずれにしても、極東のアジアに暮らす一老人としては、なんのなす術もなく、その無力さに打ちのめされています。

Putin



そもそも、ここに至っている国家間の国際的歴史的背景も、よくわかっていないのですが、一人の独裁者の独断で全てのことが起こっているであろうことは想像できます。
動機はともかく、あくまで一方的に始まった侵攻は、完全な破壊行為であり殺戮行為であります。であるのに、なぜ国内世論も含めた国際社会は、それをやめさせることができないのでしょうか。
国連の安全保障理事会で、さんざん顰蹙を買って世界から制裁を加えられても、NATOから総スカンを食らっても、自国でデモ隊が猛抗議しても、この独裁者はむしろ意固地になっているのか、眉ひとつ動かしません。あれほどの人の命を奪い、街を破壊し、この上、この人のこの頑なな態度は、果たしてなんなのでしょうか。
大国の最高権力者の間違った判断から、引くに引けなくなったプライドなんでしょうか。であれば、実に迷惑千万です。すでにミスが重なり、身動きが難しくなったことで、化学兵器や核兵器のことをちらつかせているそうですが、言語道断です。一刻も早くこの犯罪者の身柄を拘束して欲しいです。
ソ連崩壊の後、長きに渡り、この難しい大国の舵取りを無難にこなしてきたかどうか知りませんが、これまでの功績は、自らぶち壊したようなもんです。
第二次世界大戦中、レニングラード包囲戦でのドイツ軍による900日に及ぶ包囲によって、多くの市民が犠牲になり、自身の身内も失った恨みが根底にあって、それがトラウマになっていると何かで読みましたが、それであれば、今まさにキエフに対して、全く同じことをしようとしているわけで、完全に狂っているとしか思えません。
そして、他国への侵略を正当化するために、誰にでもわかる嘘の上に嘘を重ねています。世界中にネットが張り巡らされ、ここまで成熟した情報化社会に子供だましのようなフェイクニュースを通用させようとしているなら、ちょっと信じられません。
よく云われることですが、残念ながら歴史は繰り返されるようです。
大国のエゴイズムに端を発する侵略は、我々の歴史上、何度となく起こっています。
20世紀の初頭に起こった大戦は、領土問題や植民地の利権を巡り、世界中を巻き込んで第一次世界大戦になりました。その火種の消えぬ間に、ヨーロッパにはナチスドイツが出現し、戦火は拡大して第二次世界大戦が始まります。
そして、私たちの国も大きな過ちを犯します。中国大陸の東北地区に軍隊を派遣して戦争を起こし、満洲国を建国して傀儡政権を樹立させます。この建国に対して、当時の国際世論は真っ向から反対を唱えました。今まさに東ヨーロッパで、あの権力者が仕掛けていることに酷似していますね。
その後、遠いベトナムで起こった政変にも、大国は軍隊を投入しました。ベトナム戦争はやがて泥沼化し、現地にも遠い大国にも大きな犠牲を強いることになります。
どの場合も、それは、大国の指導者の決断で、軍事は導入されましたが、結果、多くの尊い人命を失い、国家財産を奪われます。歴史的に、決断を下した指導者が英雄になることはありません。むしろ、苦い不快な汚点になって人々の記憶に残るだけです。

以前引用しましたが、司馬遼太郎さんの講演録にあった文章を再記します。
軍事というものは容易ならざるものです。孫子が云うように、やむを得ざる時には発動しなければなりませんが、同時に身を切るもとでもある。国家とは何か、そして軍事とは国家にとってなんなのか。国家の中で鋭角的に、刃物のようになっているのが軍隊というものです。

20世紀に、人類は多くの失敗を重ね、多くを学習したはずですが、21世紀に、またしてもわけのわからん国家元首が現れて、同じことを繰り返しているわけです。間違いなく云えることですが、今毎日ニュースに出ているこの不快な独裁者は、世界中の人々の忘れてしまいたい記憶として、歴史上の汚点として、名前を残すことになるでしょう。

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